ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第5回 桑名宿~石薬師宿(2日目)

2018年10月29日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年10月29日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」第Ⅲステージ第5回(2日目)は、四日市宿(近鉄四日市駅)~
石薬師宿(JR加佐登駅)を歩くことにする。

ホテルの食堂
7時頃だったがそれほど混んではいなかった。


朝食は無料である。
メニューは簡単なものだったが、この日の朝食は駅周辺のファミレスのモーニングあるいは
コンビニのおにぎりを想定していたので、助かった。


7時44分、三交インを出発!


近鉄四日市駅のガード下を抜けて国道1号方面へ。


スワマエ商店街に東海道の垂れ幕が下がっていた。


スワマエ商店街のアーケードを進むと、


中央緑地帯のある広い中央通りに突き当たった。


中央通りを横断して旧東海道へと進んだが、朝の時間帯で車も少なかったためか、
横断歩道を無視して渡る人も見かけた。


佛法山 宗顕精舎 左横面に丹羽文雄生誕之地と刻まれた石柱が建っていた。
”哭壁””蓮如”を残した作家丹羽文雄は、宗顕寺で生まれ少年期を過ごした、そうである。


街道沿いの旧い家
連子格子が美しい。


和菓子屋「東京堂」前を通過
主人と思しき人が店の前の道路を箒で掃いていた。


近鉄名古屋線の高架橋(諏訪赤堀線架道橋)下を進む。


街道沿いの旧い家
大きな家である。


旧東海道は狭いのだが、意外に車が多い。
車がすれ違う度にどちらかが道を譲るのがルールのようだ。


落合川を渡る。


東海道の標識
案内板によると現在、四日市宿と日永の中間地点を歩いていることになる。
もうすぐ鹿化(かばけ)橋だ。


鹿化橋


鹿化川


鹿化川を渡ると道路は大きく右に曲がって、一段と狭くなった。
それにしても車が多い。
歩き難いことこの上ない。


大宮神明社
永宮さんとも呼ばれ、主祭神として天照大御神を祀る。


大宮神明社拝殿
400年ほど前に炎上し、当時出来つつあった東海道に遷ってきたのがこの社である。


垂仁天皇の時代、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を伊勢の地にお遷しする際、
この社に一時お留まりになったという伝えもある。


境内に皇大神宮遙拝所の碑が建てられていた。


風格のある家である。
ほんの一瞬だが当時の街道を歩いている気分にさせてくれる。


天白川に架かる天白橋を渡る。


天白川


広い通りを横断して進むと、


8時53分、日永神社に到着した。
日永神社の創祀は鎌倉時代建仁年間とされる。


鳥居脇に石柱と追分道標の説明板が。
この石柱は昔、日永の追分の神宮遙拝鳥居の傍に立てられていた道標である。
この道標の正面に「大神宮 いせおいわけ」、右側面に「京」、左側面に「山田」
そして裏面には「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。


この道標が立てられた明暦二年(1656)といえば、神宮遙拝鳥居が建立された時よりも
約120年も前であり、東海道における最古の道標としても貴重なものである。


日永神社の参道を進む。


日永神社拝殿
昔、南神明社と言われており、主祭神として天照大御神を祀る。
日永神社という単称が許されたのは明治40年からである。


大宮神明社にあったものと同じような皇大神宮遙拝所の碑があった。


日永神社の直ぐ隣に建つ長命山薬師堂
鎌倉時代中期の制作と云われる檜材による寄せ木造りの薬師如来座像が安置されており、
市指定有形文化財(彫刻)となっている。
(四日市市教育委員会)
戸は閉じられており、内部は見えなかった。


街道沿いの旧い家


東海道総合案内図があった。
現在地は、四日市あすなろう鉄道内部線の南日永駅を少し過ぎた辺りだ。


日永一里塚跡
日本橋から100番目の一里塚である。
(四日市あすなろう鉄道内部線泊駅入口辺りで、この一里塚碑を見落としたことに気付き、
戻って来て撮ったという次第)


名残の松
富田の”かわらずの松”と並ぶ唯一残った松である。
こちらは、”東海道名残りの一本松”と呼ばれている。


9時22分、四日市あすなろう鉄道(近鉄)内部線泊駅入口を通過しようとした際、日永一里塚跡を
見落としていたことに気が付き、日永一里塚跡まで戻ることにした。
0.8Kmほど行き過ぎていたため、往復では約1.6Kmとなり、25分ほどタイムロスしてしまった。


東海道日永郷土資料館
何か街道歩きに参考になる資料でもと思って営業日に目をやると、


何と、土日と水曜日以外は休館日となっていた。
残念!


9時49分、国道1号に合流し、


9時52分、日永の追分に到着した。
「日永の追分」は東海道と伊勢街道の分かれ道である。


日永の追分説明板


追分道標
左いせ本宮道 右京大阪道と刻まれている。


神宮遙拝御鳥居(伊勢神宮の二の鳥居)は、安永三年(1774)久居出身で江戸にいた渡辺六兵衛
と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遙拝するようにと思って立てたものである。
道路が拡幅される前は街道を跨いで立っていた。
鳥居は皇大神宮の遷宮に合せて、二十年ごとに建て替えられることとなっていた。
今の鳥居は、昭和五十年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第九次の鳥居となる。


二の鳥居の傍に神宮遙拝御鳥居碑が建てられていた。


旧東海道を進む。


四日市あすなろう鉄道(近鉄)内部線追分駅を通過


追分駅前の旧東海道の道標


旧東海道を進む。
裏通りといった感じで、車は少なく歩きやすかった。


大蓮寺
当山の縁起は、当町南面に土岐代康氏が居城し、その跡に八幡宮を勧請した。
祈願所を米田山珠寳法鎮寺と号した、とのこと。


大蓮寺本堂


小許曽神社(おごそじんじゃ)入口


細い参道を進んで行くと鳥居があり、


その先に小許曽神社拝殿があった。
昔より産土神として地元民に崇拝されており、醍醐天皇の御代延喜五年(905)式内神社と、
神名帳に記載されているところから、伊勢の国の235の大・中・小社の一小社として1100年程の
歴史を有する神社である。


小許曽神社
厳かな感じがする。


旧街道は大きく右に曲がっていた。


願誓寺前を通過し、


道なりに進む。


山中胃腸科病院前の県道407号小古曽交差点に旧東海道道標があった。


県道407号を横断したところに東海道と刻まれた石柱があった。
こういう道標を見つけると安心する。


しばらく進み、見えて来たのは内部(うつべ)橋である。


内部川を渡る。


内部川を渡って石段を降り、今渡って来た内部橋を潜って道路反対側へ。


道路反対側の直ぐ先の石段を上がり、堀に架かる橋を渡ると、
MAX VALUの看板が見えた。


MAX VALUの前で道は二つに分かれている。
旧東海道は左側の道で、右は国道1号である。


ここで、休憩のためMAX VALUに立ち寄り、昼の弁当と果物などを買った。
この日は朝から腰の調子が思わしくない。
昨日歩き過ぎたせいかもしれない。
背中の腰の辺りにいつも持ち歩いているバンテリンを塗って、様子を見ることにした。


旧東海道を進む。


右に大きく曲がり、


道なりに進んで左に折れると、小さな金刀比羅宮が鎮座していた。


金刀比羅宮の前の急坂の道を上って行くと、


道の左側に何かの碑が。


史跡杖衝坂の碑である。
杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂な所。
日本武尊が東征の帰途、大変疲れ「基地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、
御杖を衝かして、稍に歩みましき、故基地を杖衝坂といふ」(『古事記』)とあり、
その名が称されるようになり、加えて、芭蕉の句「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」により、
その名が世に知られることになった。


井戸と説明板
杖衝坂にある二つの井戸は、坂の上手の井戸を「弘法の井戸」、下手のものを「大日の井戸」
といい、前者は弘法大師が水に困っている村人に杖で指し示され、そこを掘ったところ
清水が湧き出た井戸であると伝えられている。
後者は、坂の中腹にあった大日堂に供える閼伽水(仏に手向ける水)を汲み上げた井戸と伝承されている。
写真は「弘法の井戸」
(芭蕉の句碑の左側に「大日の井戸」があったようだが、見落としてしまった)


芭蕉の句碑
歩行ならば 杖つき坂を 落馬かな
貞享四年(1687)松尾芭蕉は紀行”笈の小文”の道中、伊賀へ向かう途次に
杖衝坂を馬で登っていたところ、落馬の憂き目にあってこの句を詠んだ。


さらに急坂を上る。
厳しい勾配の坂道のため、脚は疲れるし息も上がる。


黒塗りの土蔵の先に、


血塚社があった。


日本武尊御血塚社
日本武尊命が傷ついた足から流れる血を封じた場所と伝えられている。


采女(うねめ)の一里塚跡の説明板
日本橋から101番目の一里塚。
采女一里塚は、戦後しばらく土盛りした土に木柱が立っていたが、昭和30年から40年代にかけて行われた
国道1号線の拡幅工事で姿を消した。
その後昭和62年(1987)「郷土の文化遺産を後世に残そう」という地元采女町の取り組みに
地元の企業が協力して敷地と費用を提供し、国道1号線を挟んだ反対側、約100m西のガソリンスタンド脇に
石碑が建てられている。


少し進むと、旧東海道は国道1号と合流した。


旧東海道の道標


国道1号反対側のガソリンスタンド脇に采女一里塚跡の碑があった。


しばらく国道1号を進むと、


12時2分、鈴鹿市に入った。


国道1号から分かれて旧東海道を進むと、


延命地蔵尊(右)と単直庵(左)という小さなお堂が並んで建っていた。


旧東海道沿いにある旧い家


旧東海道を進む。


国道1号を横断し、旧東海道を進む。


また道路が二つに分かれていた。


12時21分、東海道の標識に従って右へ進むと、直ぐ左手に石薬師宿の碑が現れた。
石薬師宿は、江戸から数えて44番目の宿である。


石薬師宿入口に北町の地蔵堂がある。
延命地蔵尊で、家内安全・交通安全を祈願すると霊験あらたかといわれる。
江戸時代、東海道の宿場として賑わった石薬師宿の入口に旅の安全のために建てられ、
宿場を往来する人々の信仰を集めた。


地蔵堂の前に小公園と東屋があったので、


弁当タイムにした。
MAX VALUで買った弁当である。


これより南 石薬師宿 信綱かるた道
1.8Kmの間に信綱かるたの短歌50首を掲示している、とある。


歩き出すと直ぐに佐々木信綱の短歌が掲示されていた。
湯の宿の つんつるてんの 貸し浴衣 谷の夜風が 身にしみるなり


佐々木信綱の和歌
氷りたる 水田にうつる 枯木立 心の影と 寂しうぞ見る


旧い家があり、


その軒先にも佐々木信綱の和歌が掲示されていた。
一すぢの 煙をあとに のこしおきて 沖をはるかに 船はゆくなり 十歳作とある。


12時50分、大木神社鳥居前を通過
大木神社は石薬師の氏神様で、椎の森に囲まれた拝殿がある。


小沢本陣跡
歴史を感じさせる建物である。


小沢本陣跡の説明
東海道石薬師宿は元和二年(1616)、幕命によって設置された。
この時から、村名も宿の名も「石薬師」となった。
当時、石薬師寺が近郊近在に知れ渡っていたので、寺名をとって村名とした。
小澤家が本陣を勤めていた。
小澤本陣のまわりには高い松の木があったので、別名「松本陣」とも言われていたという。
小澤家には当時の文書が多く残されており、元禄時代の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の
名も見える。
(石薬師地区明るいまちづくり推進協議会)


小沢本陣跡に掲示されている佐々木信綱の和歌
障子から のぞいて見れば ちらちらと 雪のふる日に 鶯がなく 五歳作とある。


天野記念館
天野修一翁はタイムレコーダーで名高いアマノ(株)の創業者である。


12時55分、鈴鹿市立石薬師小学校を通過


石薬師文庫
石薬師小学校に隣接している。
佐佐木信綱が還暦にあたり旧石薬師村に寄贈したもので、現在も図書館として
ボランティアにより運営されている。


佐々木信綱資料館(記念館)
明治・大正・昭和にわたり、歌人・歌学者として万葉集研究の最高峰を究めた佐々木信綱博士
の業績を顕彰するとともに、市民の文化の向上と広く文学の研究に寄与するため、博士誕生の
地に建設された。
著作や遺品などが収蔵・展示されている。
♪卯の花の匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて♪ 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ♪
の作詞者として知られる。


資料館の隣に信綱の生家がある。


県道115号を横断したところに信綱の孫にあたる佐々木幸綱の歌碑と
しゃくなげを 愛し短歌を すずか嶺を愛し 石薬師を 愛したる人 幸綱


信綱の父佐々木弘綱翁の記念碑が建てられていた。


真宗高田派の浄福寺
開基(創建)は室町時代の永正年中(1504~1520)と伝えられている。
佐々木家累代の菩提寺である。


旧東海道沿いの旧い家


国道1号を跨ぐ瑠璃光橋を渡る。


瑠璃光橋の下を国道1号が走っている。
(写真は、加佐登方面)


瑠璃光橋を渡ると右手に石薬師寺の大きな看板があった。


石薬師寺の裏の山門を入る。


高富山石薬師寺の薬師如来と薬師堂
聖武天皇の時代の神亀三年(726)、泰澄(たいちょう)・空海(弘法大師)の開山。
弘仁年間(810~823)の開創と伝えられる。
東海道の名刹として知られ、参勤交代の大名が必ず参詣したという。
本尊の薬師如来像は、弘法大師が土中から現れた霊石に1日で薬師如来を刻み込んだと伝えられ、
厄除け信仰を集めている。


弘法大師像


中門を抜け


正門を出て石薬師寺を後にする。


旧東海道を進む。


旧東海道沿いの旧い家


緩やかな坂道を上って行くと、


鈴鹿川の支流蒲川に架かる蒲川橋があった。


蒲川を渡ると、


13時21分、左手に史跡 石薬師の一里塚碑に到着した。
江戸より102番目の一里塚である。
信長記には、天文九年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて四十町を一里として一里塚を築かせ、
その上に松と榎を植えさせたという。
くたびれた やつが見つける 一里塚」(江戸の川柳)


信綱かるた道はここで終わっていた。
生家にゆくと 弱かりし母が 我をせおひ 徒渉せしか 此の甲斐川を


次の宿場は庄野宿となる。


旧東海道は、JR関西本線の線路を潜って右に折れ、


JR関西本線に沿って続いている。


国道1号とJR関西本線が交差している。


今度は国道1号に沿って進むと、


旧東海道の道しるべがあり、


国道1号を潜る。


国道1号を潜って道なりに進み、小さな川を渡り、


県道27号の下を通り抜けると、


国道1号に合流した。


しばらく国道1号を進む。


国道1号から分れて右側の道路を進み、


JR関西本線の踏切を渡ると、


左手に加佐登駅が見えた。


加佐登駅へ。


13時49分、加佐登駅に到着した。


時刻表を見ると、次の四日市・名古屋方面行きは14時34分だ。
あと40分ほどここで待つしかない。


14時34分、JR関西本線名古屋行きに乗り、


名古屋駅には15時35分に到着した。
15時35分発のひかり号が出た直後だった。
次のひかり号は16時26分発である。
のぞみ号は本数は多いが、大人の休日倶楽部では、指定券を別に購入しなければ
のぞみ号には乗れない。
ひかり号を待つ間、数本ののぞみ号を見送った。


16時26分発のひかり526号で品川駅に向かった。

品川駅には18時3分に到着。
通勤時間帯だったが、18時24分発の常磐線には何とか座れて一安心。

第Ⅲステージ第5回目(桑名宿~石薬師宿)の2日目(四日市宿から石薬師宿)を歩き終わった。
次回(第Ⅲステージ第6回目)は、石薬師宿(JR加佐登駅)から関宿(JR関駅)を予定している。

この日の万歩計は、28,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く第Ⅲステージ第5回 桑名宿~石薬師宿(1日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第5回 桑名宿~石薬師宿(1日目)

2018年10月28日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年10月28日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第5回(1日目)は、桑名宿(JR桑名駅)~四日市宿(近鉄四日市駅)である。

東京駅の「膳まい」でいつもの「米八」の駅弁を買い、


東京駅7時3分発の岡山行「ひかり461号」に乗車。


この日は富士山がはっきりと見えた。
久しぶりに雲一つなく晴れあがった富士山を目にした。


9時7分、定刻通り名古屋駅に到着し、


駆け足で関西本線乗り場へ向かい、9時10分発の四日市行にぎりぎり間に合った。


10時5分、この日のスタート地点JR桑名駅に到着した。


国道1号を少し戻る形で七里の渡しへ。


諸戸氏庭園の裏を通り、七里の渡しへ向かう。


諸戸氏庭園のレンガ蔵
米蔵として使用されたもので、本来は5棟あったが、昭和20年(1945)に火災で2棟を失った。


七里の渡し公園
昨年の11月3日に一部がオープンしたばかり、とのこと。


「七里の渡し」を水と石で表現した歴史公園だそうである。


住吉神社
桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、
木材や米などの集散する自由活発な商業都市として発展してきた。


ここ住吉浦は、廻船の船溜まりで、全国から多数の廻船業者が集まっていた。
これらの人たちによって、航海の安全を祈り、正徳五年(1715)に摂津の国「住吉大社」より
勧請してこの住吉神社が建立された。
(現地説明板)


山口誓子の句碑
水神に 守られ冬も 大河なり 誓子


大塚本陣跡
桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で、裏庭から直接乗船できた。
皇族・文人・政府要人の滞在先になっていた他、“歌行燈”(泉鏡花)の舞台になっている、とのこと。
建物は変わっているが、明治時代から料理旅館「船津屋」として現在も営業している。


歌行燈(うたあんどん)句碑
「船津屋」の板塀をくり抜いた形で石碑が置かれている。
船津屋に宿泊しながら”歌行燈”の戯曲を書いた劇作家で俳人の久保田万太郎が、
船津屋の主人に求められて詠んだ句。
かわをそに 火をぬすまれて あけやすき 万
“歌行燈”には裏河岸から這い上がってきたカワウソが悪戯をするという噂話があり、
それを久保田万太郎が詠んだ、とのこと。


桑名宿脇本陣跡
脇本陣は桑名宿に4軒あった。そのうち最も格式の高いのが駿河屋だった。
現在は、料理旅館「山月」の一部となっている。


七里の渡し
桑名宿と宮宿の間は、江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里あることから、
”七里の渡し”と呼ばれた。


七里の渡しは、ちょうど伊勢国の東の入口に当るため、天明年間(1781~1789)に
伊勢神宮の「一の鳥居」が建てられた。


七里の渡し付近
右端に蟠龍櫓が見える。


蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)
かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルを、忠実に復元した蟠龍櫓。
かの有名な歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すために
この櫓を象徴的に描いている。
「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことである。
龍は水を司る聖獣として、中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられている。
蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられている。


蟠龍櫓から揖斐川を望む。


旧東海道の道標


旧東海道は、七里の渡しの伊勢神宮「一の鳥居」から西へと続いている。


料理屋
天丼・はまぐり・釜あげなどの”お品書き”の札が見える。
”その手はくわなの焼蛤”と云われるように、桑名といえば蛤が有名だ。
蛤の食べ方は、焼くのが最も良いとされている、そうだ。


春日神社の銅鳥居
寛文七年(1667)に七代桑名藩主松平定重が日本一の青銅鳥居の建立を願い完成した。
その後何度か倒壊したが再建され、今の鳥居は伊勢湾台風で倒壊したものを修復したもの。
(三重県指定有形文化財)
青銅製の鳥居は珍しい。


銅鳥居の左下に「しるべいし」と刻まれた石柱がある。
「しるべいし」は、「迷い児石」とも云われ、人の大勢集まる所に立てられた。
自分の子どもが迷子になると、左側面「たづぬるかた」にこどもの特徴や服装などを書いた紙を貼って、
心当たりのある人が右側面の「おしゆるかた」へ子どもが居た場所などを書いて貼る、というもの。
(桑名市教育委員会)


小さな公園があった。
”歴史を語る公園”は、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして
造られている。


正面に見える石垣は、桑名城城壁の一部である。


積み石の状態は、乱積で野面接・打込接の二つの方法で積まれている。
今は石垣の上は普通の民家だが、昔は城だった。


日本橋を渡って公園内を進むと、


富士山だ!


さらに公園内を進む。


公園の先は三条大橋(左側の橋)で終わっていた。
何とか三条大橋まで行きたいものであるが、今年中は無理かもしれない。


歴史を語る公園を後にして旧東海道へ。


桑名市博物館脇に建つ道標
江戸時代、旧東海道筋に建っていた道標(場所不詳)をこの地に移した、とのこと
右京いせ道、左江戸道 と彫られている。


旧東海道


吉津屋見附跡碑
江戸時代の始めは、この付近は吉津屋町に属しており、東海道上に吉津屋門と番所があって、
吉津屋見附と言った。
のち鍛治町として独立したので、鍛治町門(または小字名の七つ屋門)と言う。
ここの道路は四角形の三辺をまわる升形道路となっていた。
この升形道路は現在でも使われており、石取祭車が通る道である。


旧東海道
曲がり角にはこのような案内標柱があるので、心強い。


泡洲崎八満社
江戸時代以前、桑名の町中は町屋川の流れにより自凝洲崎、加良洲崎、泡洲崎の三洲に分かれており、
この付近一帯を泡洲崎と称し、當社は、往古より泡洲崎一洲の鎮守であった。


慶長年中(1596~1614年)町割の時、旧地今の一色町より光徳寺門内北側に鎮守され郷司出雲守が
神主として奉仕されていた。
(以下略)


光徳寺本堂
古くは泡洲崎念仏道場と称した。
明治七年(1874)進善学校が当寺で開かれた。


桑名船場町の商人で、万古焼の創始者沼波弄山(ぬなみろうざん 1718~1777)の顕彰碑がある。


十念寺
境内に七福神を祭り、11月23日に七福神祭りが行われる。


十念寺山門


十念寺本堂
浄土宗の寺院で仏光山九品院と号す。
元は朝明郡切畑(現三重郡菰野町)にあり。
室町時代に桑名(のちの桑名城本丸の地)に移り、慶長町割の際に現在地に移る。
建物は戦災で焼失したが、祭礼図屏風(江戸初期)・当麻曼荼羅図(室町初期)・
仏涅槃図(室町時代)などの寺宝は残る。(以下略)
(桑名市教育委員会)


七福神を祀る赤い御堂と


整然と並べられた無数の墓石が印象的である。


旧東海道は、一時的に県道613号に合流するが、このあと直ぐに右に折れる。


天武天皇社


天武天皇社拝殿
壬申の乱(672年)の際に大海人皇子(後の天武天皇)が桑名に駐泊されたことに因み、建立された神社。
天武天皇を祭祀する全国唯一の神社。


一目連神社
多度大社の別宮一目連神社は、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祀る。
多度大社の本宮には天津彦根命が祀られているが、一目連神社の祭神は天目一箇命、
別名を”一目連”という妖怪、だそうである。


一目連は暴風神・雷雨神としても知られ、一目龍神、多度権現とも呼ばれている。
凄まじい風を引き起こして、人を吹き飛ばし、民家をも壊す神として庶民の間では信じられ、
恐れられていた。
東海地方では突然暴風が吹くことを”一目連”と呼んでいたという。


国道1号を横断し、


旧東海道(新地)を進むと、


突当り右角に火の見櫓があり、


矢田立場跡の解説板があった。
江戸時代の矢田町は、東海道の立場であった。
久波奈名所図会には、”此立場は食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無き事なし”とある。
福江町へ曲がる角には火の見櫓(現在の火の見櫓は平成3年に再建したもの)もあった。
現在でも、馬を繋ぎとめた鉄環のある家や連子格子のある家も見られる。
福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿屋が多くあった。
福江町の南端は、桑名宿の入口に当たるので、旅人を引き止めるために、
宿屋の人たちが集まっている宿引小屋があった。
また西国からの大名などが通行の際には、桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内をした。
(桑名市・桑名市教育委員会 )


旧東海道


了順寺前を通過。
山門は桑名城のものを移築したと伝えられている。


江場松原跡
七里の渡し場から大福までの東海道は両側とも家が立ち並んでいたが、江場から安永にかけての
192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていた。
眺望がよく、西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られた。
昭和34年(1959)の伊勢湾台風ごろまでは松並木も残っていたが、現在は家が立ち並び、
一本の松も残っていない。


常南神社
神宮式年御遷宮ごとに、 皇大神宮一ノ鳥居、古殿舎の一部が御下賜になり、
改築の慣例になっている、とのこと。


国道258号線


地下道を通って反対側へ。


伊勢両宮常夜燈
この常夜燈は、文政元年(1818)に東海道の灯標として伊勢神宮への祈願を込め、
桑名・岐阜の材木商によって寄進された。


江戸時代はこの辺りに「町屋川橋」が架けられ、また舟遊びの船着き場もあったので、
大いに賑わったという。


伊勢両宮常夜燈の前に建っていた東海道の標識に従って真直ぐ進むと、


その先は安永第一公園という小さな公園があり、行き止りになっていた。


公園に町屋橋についての説明があった。
江戸時代、ここ安永は桑名入口の立場(旅人が休憩する茶店が集っている所)であり、
また町屋川の舟運の舟着場でもあったので、大いに賑い、茶店では街道名物の安永餅を売っていた。
この地点から対岸の縄生(三重郡朝日町)の間に町屋橋が架かっていた。
寛永十二年(1635)に初めて架橋され、川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、
一本の板橋であったり、しばしば変わっている。
下図の橋は江戸時代中頃のもので、中央は馬が退避できるように橋がやや広くなっていた。
昭和八年(1933)、国道1号線の橋が架けられ、旧東海道の町屋橋は廃止された。


伊勢両宮常夜燈まで戻って、現在の町屋橋へ。


町屋橋の袂の町屋橋広場の一角に猫の額ほどの小公園があった。


小公園で弁当タイムにした。
前回と同じ「米八弁当」である。


弁当タイムが終わり、町屋橋を渡る。


員弁(いなべ)川


員弁川を渡って右に折れると、旧東海道の標識が案内してくれた。
かつての町屋橋はこの辺りに架かっていたものと思われる。


旧東海道を進む。


家の角に一里塚跡の碑があった。


一里塚跡碑には何も説明がなかったが、「縄生一里塚跡」と思われる。
日本橋から97番目の一里塚である。


近鉄名古屋線伊勢朝日駅の踏切を渡り、


TOSHIBA三重工場前を通過


旧東海道標識


浄泉坊
浄土真宗本願寺派の寺院


浄泉坊本堂
慶長八年(1603)に伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したことに始まる。


西光寺
真宗大谷派、朝明山と号する。
当寺は確実な證跡はないが、現存する絵像御本尊の裏書に、「明應五年丙辰年六月二日 願主釈念正
本願寺釈実如(第九世)判」とあり、この時(1496)をもって開基とし、その後貞享二年(1685)
大谷派に転じ現在に至る、とある。


旧東海道は、大きく左に折れ、


右に曲がって進む。


伊勢湾岸自動車道と国道1号北勢BP下を通過


朝明川に架かる朝明橋を渡ると、


小さな広場があった。


力石
この力石は、江戸末期から明治初期にかけ東海道筋のこの地で営まれていた茶屋「橋南のつる」の主
大久保つるが後世に残したものである。
石には「二十七メ」と刻まれ、その目方が二十七貫目(約100Kg)と想像される。
北勢地方で見かける力石は、その多くが神社仏閣の境内にあるが、これは数少ない民家の軒先に
保存されているものである。
東海道を往来した旅人や篭かき衆等が休んだおりに余力を誇示するがごとく自慢げにこの石を
持ち上げたであろう往時の様子が偲ばれる。
又この辺りの地名を「茶屋の前」と称するのは、この茶店に由来するものと言い伝えられている。


松寺の立場跡
松寺の立場跡には昔は大きな榎の木があり、街道を往来する旅人や人足などが、籠や荷物を降ろして
杖を立て一休みした所を言う。
公の休憩所のことで茶屋などがあり、立場茶屋とよんでいた。
当時、桑名宿と四日市宿の間には五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、南は富田の立場があった。
(大矢知歴史研究会)


鏡ヶ池跡
聖武天皇が行幸の際に松原を通られると、一陣の風が吹き、天皇の笠が池の中に落ちた。
ちょうどその時、傍に洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって
天皇はこの田村家に宿をとられたという。
明くる朝、旅立ちの日は風もなし、空は真っ青に澄んで、馬上の天皇の姿と、見送る娘の姿とが、
鏡のような池の上にともに映えて、一幅の絵を見るような光景になった。
以来、この池を「鏡ヶ池」とも呼ぶようになった、と云われる。


線路が立体交差しているのは珍しい。
三岐鉄道とJR関西本線の立体交差である。
踏切の幅が狭くて歩行者は渡り難いので、注意が必要だ。


振り返ると、線路を跨ぐ鉄橋を貨物列車が通っていった。


道なりに進み、また線路を潜ると、


一里塚橋があり、


その右手に富田の一里塚跡の碑があった。
日本橋から98番目の一里塚である。


富田の一里塚跡碑の少し先に八幡神社址があった。


八幡神社址にも力石が。
「力石」は、鎌倉の頃より、江戸・明治・大正と時代を越えて若者たちに愛され継承されてきた。
「力石」は豊作の願いと村一番の力持ちの競い合いと仕事士の証としての踏ん張りの精神力
そこに集まった人々の笑いを意味していて「生きる喜びの証」であったろうと思われる。
「力石」の中には重軽石といって、願掛け、占いに使われたものもあるが、ここ八幡神社の「力石」は、
力比べ体力を養うことを対象にしたものであり、この石に触れることによって、健康長寿への信仰を
深めたのであろう。
しかし、この「力石」も労働の機械化、生活の変化に伴って次第に忘れられ、神社や広場の片隅に
放置される存在となってしまった。
昔日の人々のこの思いを引き継ぎ、ここ八幡神社の神前に捧げ末永く保存することにしたものである。
重量およそ百キログラム
「力石」は、ここ八幡神社のほか、北村若宮八幡神社、茂福にも存在する。
(冨田地区文化財保存会)


行啓記念道路碑
この碑は、大正天皇が皇太子時代に、この道路を通られたことを記念して建てられたもの。


14時25分、突当りになって、ここで道に迷ってしまった。
コンビニなどで道を尋ねたが、はっきりしない。
説明を受けてもさっぱり分からない。


感を頼りにいったん国道1号へ出て、常照寺を目指した。


14時59分、常照寺を見つけた。
道を間違って30分以上タイムロスしたが、常照寺を見つけることができて一安堵である。
常照寺は、天文七年(1538)釈法導によって開山された。


常照寺本堂
寛文年間(1661~1673)に天台宗から浄土真宗本願寺派に転派して以来、400余年今日に至っている。
本堂は明治42年(1909)に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられた。


本堂前に建つ親鸞上人像


常照寺の力石の由来
明治の中頃、この村にある二ヶ寺の御堂を再建するにあたり各所より土台石の奉納があった。
また、御堂の地築(地固め)に、近郷近在より奉仕の人々が集まった。
その節、土台石の中よりこの石を選び休憩時に体力を試さんと持ち上げ競い合ったと伝えられている。
その後、茂福地区の青年若衆が大正の終わり頃までこの石で力比べをして競い合ったと言う。
およそ三十二貫(約120Kg)を肩越しまで担ぎ揚げた人は幾人もいなかったといわれる。
茂福町においては、この由緒ある力石を健康長寿の石と名付けてここに保存することにした。
石に三十二メと刻まれている。
左下にある小さな石は重さ五貫(約19Kg)で子供用であろうか。


旧東海道の旧い家


茂福神社を通過し、県道64号の高架道下を通過すると、


八幡常夜灯があった。
米洗橋北に建っており、明治36年(1902)に建立されたものである。
この常夜灯は、堤防の改修や道路の拡幅の度に移設され、現在地に落ち着いたという。


八幡地蔵堂


地蔵堂内には八幡地蔵尊が安置されていた。


八幡神社跡
勧請年代は不詳であるが、江戸時代には一国一社の八幡神社として、皇国66拝の一つとして
名が聞こえていたといい、村名も神社に因んで八幡村となった。
明治の合祀令により、志氏神社に合祀され、旧社地には社名碑だけが残っている。


東海道と書かれた板の道標
このような道標がかなりの頻度で道の両側に現れるので、ありがたい。


しばらく進むと街道沿いに1本の松が。
江戸時代から唯一残った松で「かわらずの松」と呼ばれている。
昔は松並木が続いていたそうだが、道路の拡幅や松喰い虫に倒れ、今では日永にある1本と、
この1本だけになった、とのこと。
”かわらず”とは、その昔ここ羽津の地名が川原須と呼ばれており、その地名を取って命名した。


志氐(しで)神社前を通過し、


道なりに進むと、


国道1号に合流した。


海蔵川に架かる海蔵橋を渡る。


海蔵川


海蔵橋を渡った後、東海道の案内図を見ると、三ツ谷一里塚の碑を通り越していた。
ここは戻ることにして、


海蔵橋を戻る。


海蔵橋を渡り、堤防の桜並木を右に折れて20mほどの所に、


三ツ谷一里塚碑があった。
東海道の三ツ谷には、かつて一里塚があった。
しかし、その場所は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。


三ツ谷一里塚碑を確認して一安堵し、再度海蔵川を渡って旧東海道を進む。


三滝橋
四日市市街の中央部を流れる三滝川に架かる橋である。
江戸期は東海道を往還する人馬で賑う土橋だったが、明治10年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架け替えられ、
大正13年、鉄構橋(長さ約72m、幅6.3m)に改められた。


三滝川を渡ると、


和菓子の笹井屋本店があった。
「日永のなが餅」で知られる、創業が天文十九年(1550)という老舗である。


耳鼻咽喉科福生医院の前に説明板が。


東海道四日市宿
この場所には問屋場がありました。
四日市宿は東海道五十七次の43番目の宿場です。
幕府直轄の天領であり、代官所が置かれていました、とある。
(福生医院の看板かと思っていたので危うく見過ごすところだった)


道標
「すぐ江戸道」と書かれた道標。
往時は、この辺りが宿場の中心地だった、そうだ。


国道1号を横断すると、


諏訪神社があった。


諏訪神社拝殿
諏訪公園内にある神社で、地元の人々から「おすわさん」と呼ばれる。
四日市の産土神である。
何とか無事に四日市宿に到着できたことを報告した。


四日市駅の近鉄ビルに到着
この日宿泊するホテルは、このビルの反対側だ。


近鉄四日市駅を見ながら進む(振り返って見たところ)と、


この日宿泊する「三交イン四日市駅前」があった。
辺りは既に薄暗くなっていた。


夕食に出かけた。
駅周辺はけっこう賑やかで店も多い。


ある焼肉屋に入り、焼肉を注文した。


生ビールが美味かった。


第Ⅲステージ第5回目(桑名宿~石薬師宿)の1日目(桑名宿から四日市宿)を歩き終わった。

この日の万歩計は、34,000歩余を計測していた。
少々疲れた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第5回 桑名宿~石薬師宿(2日目)

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紅葉を満喫 白糸ハイランドウェイを歩く

2018年10月26日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年10月26日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第21回(2018年第31回)、「白糸ハイランドウェイ(軽井沢)を歩く」ウォーキングに参加した。

昨年、ある女性会員から、かなり昔(30年前?)白糸ハイランドウェイを歩いたことがあり、
もう一度歩きたいのでと、1枚の地図を渡されたことから、今回のハイキングを企画した次第。

この日の参加者24名を乗せて、7時ちょうどに土浦三中公民館を出発


7時10分、県央道つくば牛久ICを通過し、


バスは圏央道を走る。


窓の外を流れる景色を眺めながらいつものおにぎりご飯を頬張る。


利根川を渡り、


東北道への分岐点を通過し、


7時56分、菖蒲PAに到着
ここで最初の休憩を摂り、


鶴ヶ島JCTから関越道へ。
この頃からうとうととしてしまった。
(鶴ヶ島・坂戸出口付近)


9時6分、目を覚ますと、バスは上信越道を走っていた。


上信越道を走り、


碓氷・軽井沢IC出口へ。


9時42分、碓氷・軽井沢ICを通過


碓氷・軽井沢ICを出て、直ぐ左にある軽井沢インタープラザに立ち寄った。
ここで、昼の弁当を受け取る手はずになっているのだ。


軽井沢インタープラザの直ぐ近くに聳える高岩山
右が雄岩(1084m)、左が牝岩(1075m)
『いやぁ 険しい岩山だね~っ 登れんのかねぇ』


軽井沢町を走り、


国道146号(日本ロマンチック街道)を、峰の茶屋へ向かう。


10時46分、ようやくこの日の出発地峰の茶屋バス停に到着した。
三中公民館を出発して3時間40分が経過していた。
弁当を受け取り、


10時55分、先ずは”白糸の滝”を目指して出発だ!
準備体操は省略である。


白糸ハイランドウェイ方面へ。
ハイキング用遊歩道はどこかな??


10時58分、信濃路自然歩道の標識を見つけた。
『ここが”白糸の滝”への入口のようだねっ』


『熊との遭遇にご注意ください』の看板
この時期、熊が栗やドングリを探し求めて歩き回っています、とある。
『みんなで追い払らっちゃえば怖くないわよっ』
なかなか勇ましい。


自然歩道を進む。


『緩やかな下りになってるから楽だわねっ』


シラカンバの林
シラカンバは、カバノキ科シラカンバ属の落葉高木で、我が国では本州中部以北、
北海道の高原等温帯上部から亜寒帯にかけて二次林として群生し、樹皮が白く、
高原に来る人々に旅情の感じを与えている。
(軽井沢町)


シダの群生も見ることが出来る。


この辺りのカラマツの紅葉はほぼ終わった感じだ。
『落ち葉の上を歩くのは気持ちが良いわよねっ』


信濃路自然歩道の標識


今日も先導役を務めるTKさん


最年長のHA子さんは今日も元気である。


信濃路自然歩道を進む。


11時15分、峰の茶屋から1Km地点を通過


一休みしよう。


下りでも20分以上歩き続けると、汗をかくし喉も渇く。
『冷たいお茶が美味しいわっ』


これまでずっと緩い下りだったが、急なアップダウンの道になった。


最初に下り坂があり、


直ぐに上り坂になった。


11時34分、峰の茶屋から2Km地点を通過
『三笠まで8.7Kmだって』
三笠はこの日のゴールではないが、距離表示は参考になる。


『紅葉がきれいだねっ』
『水の音が聞こえるねっ』
白糸の滝は近い?


丸太の急勾配の階段を下る。


『怖いわねっ この階段』
『段差が大きいと大変なのよね~っ』


急勾配の階段を下ると、


11時52分、”白糸の滝”に到着した。


白糸の滝
湯川の水源にあるこの滝は、高さ3m、幅70mの岩肌より数百条の地下水が、
白糸の如くに落下し、実に美しい滝です。
冬も枯れることなく湧き出しており、浅間山に降った雨が地下に浸透し、
湧き出るまでに6年程度かかります。
(軽井沢町)


白糸の滝の真正面で、新婚さんが記念写真を撮影中だった。


我々も”白糸の滝”の標柱を囲んで記念撮影だ。


記念撮影が終わる頃には、”白糸の滝”の前は大勢の人でいっぱいになった。
『いやぁ ”白糸の滝”ってすごく人気があるんだねぇ』


下流の”ビューポイント”から見た滝の流れ。
『かなり水量があるんだねぇ』


”白糸の滝”を後にする。


休憩所にあった地図で信濃路自然歩道を確認する。
(ハイランドウェイ沿いの青い点線が信濃路自然歩道)


地図の直ぐ近くに案内標識があった。
『竜返しの滝はこっちって書いてるよっ』


急勾配の階段が待ち構えていた。
11月5日~12月16日まで修繕工事のため信濃路自然歩道は通行できません、とある。
『と言うことは、今はまだ通れるってことだよねっ』


12時11分、次の目的地”竜返しの滝”を目指して急階段の上りを開始。


急階段を上ると真っ赤に色づいた紅葉が迎えてくれた。
『いやぁ ほんとに真っ赤だねぇ』


『凄くきれいよね~っ』


信濃路自然歩道を進む。


”白糸の滝”を水源とする川が流れている。
『水もきれいだね~っ』


この標柱の所で、白糸ハイランドウェイと交差する。


信濃路自然歩道は、白糸ハイランドウェイを横断して続いている。


川を渡り、信濃路自然歩道を進む。


右手に川を見ながら進む。


『歩き易くて良いコースだねっ』


小さな沢を渡りながら続いている。


紅葉があちこちに見られるようになってきた。
『あら~っ ほんときれいだね~っ』


多少のアップダウンは苦にならない。
『平坦ばっかりじゃつまらないよねっ』


12時42分、小休止
『お腹空いちゃったよねっ』
『まだお弁当じゃないのぉ』


”竜返しの滝”までまだ1時間近くかかりそうだが、
『まだお弁当じゃないのぉ』の声に逆らうのは野暮というもの。
この辺りで弁当にしよう。
ということで、12時50分、弁当タイム(1)
我々以外は誰も通る人はいない。
信濃路自然歩道は、貸切同然である。


弁当タイム(2)
『これ以上の贅沢な時間はないよねっ』


弁当タイム(3)
『ここで釜飯弁当を食べられるとは思ってなかったわっ』
『美味しいわねっ』


弁当タイム(4)


この日の弁当「釜飯弁当」
なかなか美味しかった。
「碓氷峠アプトの道」(2017年9月22日)の”峠の釜めし”を思い出した。
皆さんからも高評価だった。


弁当が終り、次の目的地”竜返しの滝”を目指して、13時11分、出発!


紅葉の森が続く(1)


紅葉(2)


13時15分、白糸の滝1.8Km、小瀬2.6Kmの標識を通過
白糸の滝1.8Kmとあるが、弁当時間(約30分)を入れて1時間ほどかかっていることから、
小瀬(2.6Km)までは、1時間以上かかるかもしれない。


時間も気になるが、今は紅葉を楽しもう。
紅葉(3)


紅葉(4)


紅葉(5)


カラマツの林
カラマツは松科カラマツ属の針葉樹の中では数少ない落葉高木である。
とくに信州はカラマツの主産地として知られ、いたる所にこのような見事な造林地が見られ、
春の芽吹き秋の黄葉は美しい。
(軽井沢町)


紅葉のなか、”竜返しの滝”を目指す。


『一番良い時期に来たって感じだねっ』


紅葉(6)


再び白糸ハイランドウェイを横断し、


”竜返しの滝”へ


13時35分、峰の茶屋6Km、三笠4.7Kmの標識を通過


『落ち葉を踏みしめながら進むのは気持ちが良いわねっ』


紅葉が一段と鮮やかだ
『やっぱり紅が混じってると素敵だねっ』


『ちょうど紅葉の時期に来て良かった~っ』


13時45分、白糸の滝3.2Km、小瀬1.2Kmの標識を通過
30分で1.4Km進んだことになる。


紅葉(7)


黄葉も美しい(8)


シダの緑が紅葉を一段と際立たせる。


『ほんと 素晴らしいよねっ』


紅葉(9)


13時53分、右三笠方面4.3Kmの標識が見えたが、”竜返しの滝徒歩5分”に従って真っ直ぐに進む。


沢の流れに沿って進んで行くと・・・


13時57分、”竜返しの滝”に到着した。
標識よりちょっと早く、分岐点から4分かかったことになる。


”竜返しの滝”
滝を渡ろうとした大蛇が、渦巻く滝壺にのまれてしまったという伝説を残す。
元の名は数珠ヶ滝だが、竜ほどの大蛇も引き返してしまう滝としてこの名が付けられた。


分岐点まで戻り、沢を渡って、とりあえず小瀬を目指す。


白糸ハイランドウェイの脇に駐車スペースがあり、数台の車が停められていた。


14時20分、小瀬に到着した。
小瀬は、この日企画したコースの半分を少し過ぎたところである。
これでは、ゴールの軽井沢スケートセンターまで、まだ2時間以上はかかるだろう。
常南交通の運転手さんに電話して、小瀬まで迎えに来てもらうことにした。


白糸ハイランドウェイの小瀬料金所を過ぎた所に、


小瀬林道の入口があった。
本来は、この小瀬林道から軽井沢スケートセンターへ向かう筈だったのだが・・・
林道へ入ってしまえば、バスに迎えに来てもらうことは出来ないため、林道入口で待つことにした次第。


小瀬料金所を過ぎた林道入口向かい側のやや幅広の場所でバスを待つ。


『ここに揃っていればバスが見過ごすことはないでしょう』ということで、
道路脇でバスを待った。


『そろそろバスが来る頃じゃないっ?』


待つことしばし、14時49分、バスがやって来た。


バスは旧三笠ホテル前を過ぎ、軽井沢駅前を通り、碓氷・軽井沢ICへ。


15時23分、碓氷・軽井沢ICを通過


上信越道を走り、


横川SAで最初の休憩を摂り、上信越道を走る。


上信越道から関越道に乗る頃には、後部座席はかなり盛り上がっていた。
『いやぁ 今日のハイキングは良かったねぇ』


『ハイキングの後にいっぱい飲るのは最高だねっ』


2度目の休憩場所、関越道高坂SAに着く頃には外は真っ暗になっていた。


高坂SAで土産物を買う。


『今日は何にしようかしら~っ』


なぜか”水沢うどん”があったので、土産に買った。
最近の土産物は麺類が多い。


関越道で若干の渋滞があったものの、


バスは圏央道を快適に走った。


バスの窓から見た月は、少し欠けていたが、きれいだった。
(満月は昨日だった)
その後バスは順調に走り、三中公民館には19時13分に到着した。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


白糸ハイランドウェイ(軽井沢)を歩くウォーキングは、天気にも恵まれ、白糸の滝や、
紅葉を思う存分に満喫した。
当初予定していた軽井沢スケートセンターまで辿り着けなかったのは残念な気もするが、
時間的にはちょっと無理な距離だった、と思っている。
スタートが遅かったのも一因と思うが、軽井沢ということを考えれば、仕方がない。

この日の万歩計は、17,000歩を計測していた。

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深大寺そばに舌鼓 調布の歴史と武蔵野のみち

2018年10月19日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年10月19日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30度第20回(2018年第30回)、「調布の歴史と武蔵野のみちを歩く」ウォーキングに参加した。

この日のコース”調布の歴史と武蔵野のみちを歩く”は、参考にした「関東ウォーキングコースガイド」
によると、三鷹駅を出発して井の頭公園から深大寺を巡り、ゴールの西武国分寺線の新小金井駅を目指す
という約12Kmのやや長い距離のコースである。
最大の目的は、深大寺で名物の蕎麦を食べようというのが選定理由でもある。

荒川沖駅7時59分発の電車に乗り、


9時41分、東京駅で中央線に乗り換え、この日のスタート地点JR三鷹駅に向かう。
中央線快速は東京駅が始発で、通勤ラッシュも終っている時間帯なので、
まとまって楽に座って行けるところが嬉しい。


この日の参加者14名は、今年5月25日の「比企丘陵ウォーキング(吉見)」の13名に次ぐ
少ない人数となった。
一昨日頃からの”午前中は雨模様”とのNHKの天気予報により敬遠されたのかも。


10時4分、三鷹駅に到着


準備体操は省略して、10時7分、三鷹駅前を出発!
先ずは井の頭公園を目指す。
気になる雨だが、全く心配なさそうだ。
『傘持って来なくても良かったみたいねっ』


三鷹駅東口の正面を真直ぐ100mほど進んだところを左斜めに曲がり、


200m余り進んだ所で道を間違っているのに気が付いた。
すずかけ道路と呼ばれる道を玉川上水方面へ。


『少しくらい間違ったってどうってことないわよねっ』
気にするほどではないことが分かり一安堵。


すずかけ道路を4分ほど進むと、玉川上水に沿った本来のコースに戻ることが出来た。


そこは”風の散歩道”と呼ばれる道だった。
玉川上水の反対側の道は、御殿山通りと呼ばれている。


緑に覆われた玉川上水を左手に見ながら”風の散歩道”を進むと、


10時25分、山本有三記念館があった。
三鷹市山本有三記念館は、作家山本有三が昭和11年(1936)から昭和21年(1946)まで
家族とともに住んだ家です。
有三は、ここで代表作「路傍の石」や戯曲「米百俵」を執筆しました。
建物は大正末期に建てられた本格的な洋風建築で、石を自然に積み上げたような煙突や
個性的にデザインされた3つの暖炉が見所です。(以下略)
(参考:入館料300円 20名以上団体割引200円)


山本有三記念館入口
洋風建築の建物が見えるが、この日は時間がないため、中には入らず井の頭公園へ向かうことに。


路傍の石の前の説明板に見入る皆さん。
小説「路傍の石」執筆当時の昭和12年、有三は中野旧陸軍電信隊付近の道ばたで
この大きな石を見つけ、この家の裏庭に運び込んだと伝えられています。
この石は、作品の名に因み、いつしか”路傍の石”と呼ばれ親しまれるようになり、
その後、東京都に寄附された山本邸が昭和33年有三青少年文庫として開設される時に
現在の場所に移されました。(以下略)



山本有三記念館の玄関先には、山本有三が、『路傍の石』を執筆時、道端で見つけ、
裏庭まで運ばせたといういう石も残されている。
『いやぁ 随分大きな石なんだねぇ』


”風の散歩道”が終わった所の玉川上水に架かる万助橋を渡り、


都道114号(吉祥寺通り)を横断して、井の頭公園へ。


井の頭自然文化園(動物園)の前には行列が出来ていた。
『今は動物園が人気があるんだってねっ』


10時40分、井の頭公園(現在地)に到着


水生物園横を通って、弁天橋を渡る。


弁天橋から見た井の頭池
井の頭池は神田川の水源で、江戸時代は神田上水として江戸の人々の飲み水だった。
かつては湧水口がいくつもあったことから七井の池と呼ばれていた。
池中央の七井橋の名はこれに由来する。


反対側には弁財天が建つ。


弁天橋を渡った所で小休止だ。


次は狛江橋で再び池を渡る。


ボート場を右手に見ながら、


さらに七井橋で池を渡る。


七井橋から見た吉祥寺方面の池
森の後ろに高層マンションが聳えるというのがいかにも都会らしい景色である。


七井橋を渡る。


池の畔では、ベンチで静かに本を読む人や


犬との散歩を楽しむ人たちなど様々だ。


『けっこう広い池なのねっ』
『今度また来てゆっくり廻ってみたいわねっ』


あまり時間はないので、井の頭公園はこのくらいにして、深大寺へ向かうことにした。


来た時とは逆方向に玉川上水に架かる万助橋を渡り、


都道114号(吉祥寺通り)を仙川方面へ。


11時17分、三鷹の森ジブリ美術館前を通過し、


仙川方面へ。


左手に大きくて立派な建物が現れた。


建物は杏林大学だった。


『凄く立派な建物だね~っ』
『お医者さんの卵が通っているんでしょっ?』


杏林大学病院北交差点を横断し、


野川に架かる長久保三之橋を渡る。


野川は、草が刈られたばかりだった。
草を刈ったばかりというのは、風情が感じられないものである。


野川を渡って直ぐの所を左に折れ、野川に沿って進むと、


11時45分、仙川公園に到着した。


仙川公園には西村聖望氏作の「平和の像」があった。
みたか百周年記念事業の一環として、北村西望氏の代表作「平和祈念像」を、平成元年11月、
三鷹の平和のシンボル「平和の像」として、建立したもの。
作者の北村西望氏は、三鷹市に隣接する井の頭公園内にあったアトリエで、長年、創作活動を続け、
その間、市内の小学校と交流を深めるなど、三鷹市と深く関わりを持っていた。
(三鷹市)


仙川公園で小休止


『とんぼが止まってるよっ!!』の声に1枚パチリ。
秋を感じる光景だ。
(本人は気付いていない)


一息入れた後、次は深大寺を目指す。


消防大学通りを進む。


『変わった根っ子をしてる木だねぇ』
『どうしてこんな形になっちゃったのかしらっ?』


いつも仲良く二人で参加してくれるYMさん夫妻。
『深大寺はまだかしらっ?』
『深大寺の蕎麦が楽しみですねっ?』


12時10分、消防大学前を通過
『消防大学があるって知らなかったなぁ』
『警察学校みたいなもんじゃないっ?』


消防大学の敷地に沿って進む。


12時17分、深大寺白金亭前を通過


都道121号(三鷹通り)の五差路交差点を渡り、


三鷹通り沿いに進んで行くと、


青渭(あおい)神社があった。
青渭神社の創建年月は不詳であるが、住古先住民が水を求め居住した際、その生活に
欠く事のできない水を尊び祠を建て、水神様を祀ったと伝えられている。
明治六年(1873)12月郷社に列せられた。
旧深大寺町の総鎮守である。
(東京都神社庁)


拝殿の右前方、道路に近く鳥居の横にある、青渭神社の大ケヤキ
幹は目通り凡そ5.5m、樹高34m、樹齢数百年(600年とも)の老樹であるが、現在なお樹勢旺盛である。
『新編武蔵風土記稿』に「社ノ傍ニ囲一丈五尺アマリノ槻(ケヤキの古名)の老樹アリ」と、
また『江戸名所図会』にも「社前槻の老樹あり、数百余霜を経たるものなり」などと見えて、
文化文政時代(1804~1830)の頃からすでに目立つ巨木であった。
調布市天然記念物に指定されている。
(調布市教育委員会)


青渭神社に隣接する深大寺小学校の先に深大寺東参道があった。


東参道を深大寺へ。
『もう直ぐだよねっ』


深大寺にお参りする前に深大寺城跡に行ってみることにした。
神代植物公園水性植物園入口を入り、


園内にあった地図で深大寺城跡を確認


薄暗い急坂の道を進んで行くと・・・


視界が開けた所に深大寺城そば畑があった。


そば畑の先に芝生の広場があった。
深大寺城の第二廓(二の丸)跡だ。


第二廓跡には大きな木が生えていた。


空堀と土塁
第一廓と第二廓を結ぶ土橋跡付近から見た空堀と土塁


虎口跡に建つ”都旧跡 深大寺城跡”の碑
碑の後ろには一段高い櫓台跡がある。
深大寺城の築城年は不明だが、16世紀前半に南関東で繰り広げられた小田原北条氏と
扇谷上杉氏による覇権争いの攻防の中、扇谷上杉氏方が再興した城である。
戦国時代前期の空堀・土塁・腰郭などの遺構が良好な形で残されている。


第一廓跡
この第一廓は、江戸時代の城の「本丸」に当る廓で、その構造が良く残っており、
周りに見える土塁と右に見える空堀は、外敵の侵入を防ぐ施設でした。
深大寺城は半島状台地の先端に位置しており、当時は南方向が一望できる場所でした。
(現地説明板)


深大寺城の縄張り図


深大寺城跡を後にして、深大寺へ。


深大寺が近くなるにつれ、蕎麦屋が目立って来た。


土産物店にはたくさんの人が。


美味しそうなそば饅頭だ。


13時6分、深大寺山門に到着した。
深大寺蕎麦はお参りを済ませてからにしよう。


山門を潜って境内へ。


線香の煙で身体を清めて、


本堂にお参り
深大寺は、調布市の天台宗別格本山で、正式名称を浮岳山昌楽院 深大寺という。
武蔵野の面影を残す深大寺周辺は、昭和36年に開園した隣接の都立神代植物公園と合わせて
都人好個(みやこびとにちょうどよいの意)の散策地、憩の場所として有名。


時間があまりないので、お参りを済ませて直ぐに山門を出た。
目指すは深大寺蕎麦である。


山門前の通りを右に曲がり、


何軒かの蕎麦屋を見て回ったが、
「ウマさんの旧甲州街道を歩く」で2年前の2016年6月26日(日)に立ち寄った
「一休庵」はあいにく休みだった。


結局、山門前の元祖「嶋田屋」という蕎麦屋に入ることにした。


店の中の池には立派な錦鯉が飼われていた。


皆さんそれぞれ好みの蕎麦を注文
食事風景(1)


食事風景(2)


食事風景(3)


自分は、天ざる蕎麦(1,350円)を注文した。
時計は13時半になろうとしており、お腹も空いていたせいか、美味かった。


この日最大の目的である深大寺蕎麦も食べ終り、


近辺の土産物店を見て回る。


皆さん、何がしかの土産を買ったようである。


深大寺水車館(無料)前を通り過ぎ、京王線調布駅へ。
(中には石臼や昔の農機具などが陳列されている)


『念願の深大寺蕎麦が食べれて良かったわねっ』


関東ウォーキングコースガイドでは、この後は神代植物公園に立ち寄って、野川公園を経由して、
西武国分寺線の新小金井駅へ向かうことになっているが、時間的に遅くなっていることもあることから、
京王線調布駅から府中へ向かい、JR府中本町駅からJR武蔵野線で帰る方が早いと判断されるため、
京王線調布駅へ向かうことにした。


武蔵境通りを調布駅方面へ。


野川に架かる御塔坂橋(おとさかばし)を渡り、


12時5分、中央高速道下を通過


電気通信大学中門前を通過して、


京王線調布駅を目指す。


突き当たりの甲州街道(国道20号)を左に曲がり、調布駅方面へ。


電気通信大学正門前の交差点を右に曲がり、


電通大通りを京王線調布駅へ。
『電通大通りって言うんだぁ』


京王線調布駅前


14時39分、調布駅入口に到着。
『地下に乗り場があるんだ~っ』


地下道を京王線の乗り場へ。


調布駅から準急で1駅で府中駅である。
府中駅に到着し、JR府中本町駅を目指して駅前のけやき通りを大國魂神社方面へ。


けやき通りに建つ源義家像
「八幡太郎」の名で知られる源義家が、父頼義とともに奥州で起きた乱(前九年の役1051~1062)を鎮めた。
その帰途、康平五年(1062)戦勝祈願成就の報賽として、けやきの苗1000本を大國魂神社に奉納したことが、
けやき並木のはじまりと伝えられている、とのこと。


大國魂神社前を右に曲がり、JR府中本町駅を目指す。


甲州街道を進むと、


甲州街道と鎌倉街道が交わる界隈「札の辻」「鍵屋の辻」の右手に問屋場が、
左手に高札場があった。
2016年6月26日(日)に”旧甲州街道を歩く”で一度歩いており、見覚えのある景色だ。
その交差点を左に曲がり、


15時6分、府中市役所前を通過


大國魂神社の鳥居を左手に見ながら、


JR府中本町駅へ。


15時11分、JR府中本町駅に到着


あとは武蔵野線で常磐線の新松戸駅へ向かうだけ。
ここでお役御免である。
『かんぱ~いっ』 『お疲れさ~ん』
乾いた喉に冷たいビールが殊の外美味かった。

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

”調布の歴史と武蔵野のみちを歩く”ということで、当初は三鷹駅から新小金井駅を目指していたが、
時間的な関係で、深大寺から新小金井駅までの歩きは断念し、急遽調布駅へ向かった。
調布駅から府中駅まで京王線に乗り、京王線府中駅からJR府中本町駅までをまた歩いた。
万歩計は22,000歩を計測する結果となり、少々疲れた。
おかげで美味いビールを飲めたのは、少しだけ余計に歩いたご褒美、と思っている。

また、この日最大の目的としていた深大寺蕎麦だったが、美味しかった。
皆さんも満足していたように思う。

この日の万歩計は、22,000歩を計測していた。

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高井城址公園から間宮林蔵記念館・岡堰へ

2018年10月12日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年10月12日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第19回(2018年第29回)、「高井城址公園から間宮林蔵記念館・岡堰」を巡るウォーキングに参加した。

この日は、高井城址公園から小貝川の堤防を歩いて農業ふれあい公園へ立ち寄り、
稲豊橋を渡って専称寺の間宮林蔵の墓にお参りをして、間宮林蔵記念館へ向かう。
間宮林蔵記念館を見学した後は、岡堰を渡って、高井城址公園へ戻るという
約9Kmのコースである。

この日のスタート地点高井城址公園に集まったのは15名。
やや人数が少ないのは、朝方まで小降りの雨だったのが影響したのかもしれない。
しかし、スタートする頃には雨は完全に上がっていた。
『傘もレインコートも必要なさそうだねっ』


準備体操は省略して、10時7分、TKさんを先頭に出発!


当会最年長のHA子(88)さん、この日も元気だ。
会員の多くは、出来ればHA子さんのように米寿まで元気に歩きたいと目標としている。


後に続く皆さん。


小貝川の堤防へ向かう。


堤防へ上がってみると・・・


『あら~っ 広くて気持ちが良いわね~っ』


目の前にゆったりと流れる小貝川の景色が広がる。


先ずは農業ふれあい公園を目指す。
『雨が止んで良かったよねっ』


10時19分、農業ふれあい公園まで2Kmの標識を通過。
『土手の上がヘルスロードになってるんだぁ』


農業ふれあい公園を目指す。
『暑くないから歩き易いわよねっ』


しばらく小貝川の堤防を歩く。


10時23分、下高井排水桶管を通過


前方に橋桁が青色に塗られた稲豊橋が見えた。


農業ふれあい公園を目指す。


『稲豊橋までまだかなりあるわね~っ』


下塚排水桶管を通過


10時34分、農業ふれあい公園まで1Kmの標識を通過


稲豊橋の手前でヘルスロードは右に大きくカーブしている。


久しぶりの再会を果たし、話が盛り上がっている。


10時45分、稲豊橋下を通過し、


農業ふれあい公園へ。


農業ふれあい公園の駐車場を通過すると、


農業ふれあい公園の池があった。


木製の桟橋もあり、池の周りを散策することもできる、そうだ。


管理棟
管理棟には多目的室と調理室があり、多目的室は会議や勉強会などに利用できる。
調理室には調理器具も取り揃えてある、とのこと。


10時50分、農業ふれあい公園の東屋に到着
東屋は休憩所として使用できる。


農業ふれあい公園の市民農園
市民農園は、1区画あたり20㎡で、全76区画、とのこと。
農業ふれあい公園の総面積は4,852㎡(約1,470坪)あるそうだ。


東屋のテーブルの上に(夏・冬)野菜の作付表が貼り付けてあった。
作物毎の種蒔・植付時期、連作の良否、収穫の時期、作付ポイントなどが記されていた。
これを参考に作付けを行う人も多いのだろう。


東屋でしばし休憩


休憩の合間にも、この後のコースの確認に余念がないTKさん。


11時6分、間宮林蔵記念館を目指して農業ふれあい公園を出発。


小貝川を渡る。


歩道が広いので歩き易い。


話は延々と続いている。


小貝川


小貝川を渡り終えて右に曲がり、堤防上を進む。


200mほど先で土手を下る。


前方左手にお寺が見えて来た。
間宮林蔵の墓があるという専称寺か?


専称寺?に到着


門の前に六地蔵が並ぶ。


『浄円寺って書いてあるよっ』
なんと! この寺は専称寺ではなかったのだ。


早々に浄円寺を後にして専称寺へ向かう。


11時34分、正真正銘の専称寺に到着


専称寺本堂にお参りを済ませる。


境内の慈母観音像


銀杏の大木も
『相当な樹齢なんだろうねっ』


間宮林蔵ここに眠る
19世紀初頭の北方探検家・地理学者の間宮林蔵は、安永9年(1780)常陸国筑波郡
上平柳村に生まれ、天保15年(1844)波乱に満ちた65歳の生涯を終え、
ここに眠っています。
林蔵は、当専称寺の住職伯栄和尚に学び、その才能を発揮、小貝川の堰き止め工事で
認められたといわれ、江戸に出てゆきました。
ここは幼いころの林蔵の勉学の場であり、遊びの場でもありました。
昭和30年(1955)墓は茨城県の史跡に指定されました。
郷土の偉人「間宮林蔵」顕彰のため、子孫伊奈間宮家・専称寺の協力を得て、
この墓所を保存、公開しています。
(現地説明板)


間宮林蔵の墓石の前には明治43年(1910)に建立された「間宮先生埋骨之処」の顕彰碑が建つ。


顕彰碑の後ろに間宮林蔵の墓があった。
左が間宮林蔵の墓で、右は両親の墓である。


この墓は文化四年(1807)決死の覚悟で樺太探検に出発するにあたり、
林蔵自ら建立した生前の墓で、正面には「間宮林蔵墓」と刻んであるが、
法名も没年もない。。
偉大な事業を成し遂げる前の身分の低い武士に合った百姓並みの墓である。


間宮林蔵記念館へ。
『きれいなコスモスだねっ』


11時46分、間宮林蔵記念館に到着


入館料は、一人100円だが、15名以上の団体割引で50円となる。
また、75歳以上は無料となっている。
結局、7名が75歳以上ということで無料、8名が50円を払って館内へ。
ちょうど15名だったので50円で済んだ。15名が幸いした。


記念館前に建つ間宮林蔵の銅像


先ずは映像(約9分)で間宮林蔵のことを予習して、


展示場へ。
館内は、間宮林蔵に関係するもの及び彼の生きた時代背景などで構成され、
時代に沿った紹介がされている。


間宮林蔵の肖像
この肖像は、林蔵がカラフトを探検した三十歳頃の英姿を再現したもの。
身長は約157Cm、手には海上測量用の鎖、左脇には桐の浮木が配されている。
服装は袴と脚絆が一つになった裁着袴を着用し、定紋付の羽織は鉄色だったとも
伝えられている。
この肖像画は明治43年(1910)、志賀重昂の提案で、松岡映丘が子孫をモデルに描いた
苦心の作である。
実物は昭和20年(1945)の東京空襲の際に紛失(焼失)したが、幸い肖像写真の
乾板が残されていた。
(現地説明板)


出自と生立ち
林蔵は安永9年(1780)、月日不詳
常陸国筑波郡上平柳村(現つくばみらい市上平柳)に生まれる。
父庄兵衛は、親代々からの百姓だったが、生計を助けるために箍作りの職も兼ねていた。
母クマは、小貝川を隔てた隣村、下総国相馬郡高井村(現取手市高井)の森田家から
嫁いでいる。
林蔵は、両親が日頃から信心する河内郡樋ノ沢村(現つくば市樋ノ沢)の月読神社へ
願をかけてやっと授かった一人っ子だった。
(現地説明板)


間宮林蔵のはたらき
林蔵は寛永11年(1799)4月、蝦夷地総奉行松平忠明に随行した村上島之允の従者として
初めて蝦夷地に渡った。
翌年普請役雇となり、蝦夷地、クナシリ、エトロフ島の植林、沿岸測量、新道開発にあたった。
(現地説明板)


館内見学の様子(1)


館内見学の様子(2)


カラフト間宮海峡付近の地図
一回目は松田伝十郎と共にラッカまで進み引き返したため、海峡の有無を極めることができず、
願い出て再び北進し、ついにナニオーに達し、丘上から大海の開けていることを直接確かめ、
海峡の存在を証明した。
(現地説明板)


蝦夷布
林蔵が酷寒の地で毛布として使用していたもの。
布地はアツニという木の皮を剥ぎ、10日程水に浸して織ったアッシ織りで
林蔵が現地で調達したもの。
アイヌ人はこれを服として着用していたという。
(現地説明板)


探検用頭巾(左)
林蔵が北方の酷寒地で探検をするときに使用していたといわれている。
厚木綿を2枚合わせにして(裏は浅黄)作られている。
韃靼硯(右)
林蔵が東韃靼(現在のシベリア、東タタール地方)を調査したとき、最終目的地の
デレンの東方シャイ岬より岩石を探集して持ち帰り、後に硯に加工したもの。
材質はひん岩。
(現地説明板)


測量用鎖
林蔵が水深を測るときに使用したものといわれるのが手前の鎖。
鉄製で使用していたときは、約60Cmごとに目印が付けられていた。
奥にある木製の浮木の付いたものは、近年に子孫が作ったレプリカである。
(現地説明板)


間宮林蔵生家
木造藁葺平屋建て 76.34平方メートル(23.09坪)
この家は、文化6年(1809)、間宮海峡の発見という大偉業を成し遂げた探検家・地理学者
「間宮林蔵」の生家である。
林蔵は安永9年(1780)この家で生まれ、15・6歳ごろまでここで暮らしたといわれる。
幼いころから神童ぶりを発揮した林蔵は、この家で両親の愛情に包まれ、立身出世を願っていた。
この生家は、昭和46年に移築・復元されたもので、それまで現在地の南西50mの位置にあった。
創建の年は明らかではないが、細部の建築手法から見て、安永年間よりも大して遡り得ないと
考えられている。
(つくばみらい市教育委員会)


間宮林蔵生家


居間


土間と台所


記念館内で弁当をと思っていたが、記念館内での飲食はNGとのことなので、
弁当を食べれる場所を求めて記念館を後にした。


12時21分、水神宮を通過


小貝川の堤防を進む。


12時35分、堤防から河川敷へ下りた所で弁当タイム(1)に。


弁当タイム(2)
『やっぱり外で食べる弁当は美味しいよねっ』
『雨に降られなくて良かったね~っ』


弁当が終わり、13時1分、岡堰を目指す。


岡堰へ。


岡堰が見えて来た。
岡堰は、2年前の2016年12月2日(金)に逆方向に歩いているが、記憶に新しい。


岡堰を渡る。


『近くで見ると随分と大きいのね~っ』


岡堰は、関東3大堰(福岡堰・豊田堰)の一つである。
相馬2万石を潤す水がめとして1630年伊奈半十郎忠治によって設けられ、現在は三代目。
現在の堰は「(新)岡堰」で、平成8年(1996)に作られたもの。


岡堰を渡り、ゴールの高井城址公園へ。


岡堰中の島へ渡る橋を通過
『これを渡るとまた戻って来なくちゃいけないみたいだねっ』
ということで、橋は渡らなかった。


13時31分、岡堰公園に到着


茨城百景 岡堰の碑
『岡堰が茨城百景になってるんだぁ』


『これが茨城百景 岡堰なんだねっ』
(注:茨城百景は「(旧)岡堰」を対象にしている。
旧タイプはすでに破棄されているため、今はその面影はない)


13時36分、岡堰水神岬公園に到着


水神宮
岡堰用水組合では水神宮と共に、上州榛名神社(山岳信仰の神)も祀っている。


『疲れちゃった』


ゴールの高井城址公園を目指す。


筑波山
『あの形の筑波山が私は一番好きだわぁ』
(自分もそう思う)


ゴールの高井城址公園を目指す。


13位49分、高井城址公園まで0.5Kmの標識を通過
『あと500mだって 頑張ろうっ!!』


堤防を下りて、


高井城址公園へ


元気に到着だ。


駐車場へ向かう。


13時59分、全員元気にゴールの高井城址公園駐車場に到着した。

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

高井城址公園から農業ふれあい公園を経由して、間宮林蔵の墓にお参りをし、
間宮林蔵記念館を見学した。
岡堰と間宮林蔵記念館は、2年前の2016年12月2日(金)に一度訪れているが、お墓参りは初めてだ。

朝方まで小雨が降っていたので心配されたが、歩き始める時には雨は完全に上がったのは
幸いだった。
やはりウォーキングの弁当は空の下で食べるのが一番美味い。
今後の例会も雨に降られないことを願うばかりである。

この日の万歩計は、15,000歩を少し超えていた。

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