ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道を歩くⅠ 第九回 (青梅街道)新宿追分~荻窪宿

2016年01月24日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2016年1月24日(日)

昨年から、旧街道の中でも交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで、歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、街道の中から選んだ宿間を歩くものである。

「旧街道を歩く」第九回は、青梅街道の新宿追分~荻窪宿間約9Kmを歩いた。

この日のスタート地は、新宿追分なので、新宿駅南口から東口へ向かうことにした。
参加者は自分も入れて6名である。


9時11分、追分に向けて出発!


『久しぶりだねっ』
新宿南口は、昨年(2015年)3月22日に甲州街道(日本橋~新宿)を歩いて以来なので記憶に新しい。


高島屋の前を通り、新宿南口から東口へ。


新宿四丁目の明治通りを横断。
マルイの先を左折して、


新宿二丁目交差点に到着。
この日のスタート地点である。


9時22分、新宿通りを新宿駅東口に向けて、出発!


新宿追分にある団子の老舗「追分だんご本舗」
串1本から買える、そうだがまだ開店していない。


新宿通りと目地通りの交差点のシンボルと言えば、やはり「伊勢丹」だろう。


「伊勢丹」の斜め向かいに新宿元標があった。
ここが、甲州街道と青梅街道の追分(分岐点)だったところだ。


新宿通り(旧青梅街道)を新宿駅東口方面へ。


ところどころに2日ほど前に降った雪が残っていた。
この日も寒いのでこのまま融けないかもしれない。


新宿駅東口方面へ。


近くにあった地図で最初の目的地、馬水槽を探す。
地図によると、直ぐ近くである。


新宿駅東口周辺を手分けして探すこと数分・・・


ようやく馬水槽を見つけた。
赤大理石製、前面の上部が馬用、下部が犬猫用の水飲み場になっている。
東京上水道の育ての親と云われる中嶋鋭司博士が明治34年に欧米諸国を視察した際に、
ロンドン水槽協会から東京市に寄付されたもの、である。


裏側が人のための水飲み場になっている。


新宿駅西口へ抜ける地下通路の入口に青梅街道の道標がある。


東口と西口を結ぶ通路の入口に旧青梅街道の案内がある。
旧青梅街道の歴史
そのむかし、徳川家康が江戸城普請の際に多摩郡から石灰を運ぶ為に開かれた「成木街道」が
その後に「青梅街道」になった、と案内されている。


また、ここが旧青梅街道の起点となる場所にあたる、とのこと。
新宿追分(新宿三丁目交差点)で甲州街道と分岐し、再度合流する山梨県甲府市山崎交差点が終点となる。
全長およそ167Km、と案内されている。


東口から西口への通路


『青梅街道の宿場名が並んでるよっ』


トンネルを抜けて西口に出ると、


思い出横丁が・・・
かつてはションベン横丁と呼ばれていた飲み屋街だったところだ。
何度か同僚と飲みに行ったことがある。


旧青梅街道の道標に従って進むと・・・


新宿駅西口に出た。
左手には小田急デパート・京王デパートが並んでいる。


旧青梅街道は道路を渡って真っ直ぐだ。


道路を渡って旧青梅街道を進む。


高層ビル街の道路は横断陸橋で渡る。


横断陸橋から見た高層ビル群


次の目的地「策の井跡」(むちのいあと)が、新宿Lタワービルの植栽にあるとあったので
新宿Lタワービル駐車場入り口辺りを探してみる。


10時ちょうど、新宿Lタワービルの植栽の中に策の井跡を見つけた。
この地は、尾張摂津下屋敷があった所で、東照公(徳川家康)が鷹狩りの帰途、
汚れた策を洗ったという伝承による。
現在は枯れてしまったが、江戸時代より名井として知られた、とのこと。


高層ビル群の谷間を青梅街道へ。


新宿警察署前を通過すると、


青梅街道に出た。
次の目的地である常円寺(日蓮宗)を探して路地を進んで行くと・・・


古ぼけたアパートのような建物があった。
既に廃屋となっている。


「ときわ荘」とあるが・・・


『これがあの有名な「ときわ荘」なのかしらねぇ?』
(後で調べたら、有名漫画家が住んでいたという「トキワ荘」とは全く別物だった)


常円寺は、通り過ぎてしまったようなので、「ときわ荘」近くの路地を進んで行くと、
次の目的地成子天神社が目の前に現れた。
少し近道をした感じである。
『路地を歩いて正解だったねっ』


成子天神社山門を潜ると、


菅原道真公ゆかりの牛の像が。
『何となく可愛らしい顔をしてるわねっ』


境内の神輿庫には立派な神輿が保管されていた。


成子天神社拝殿にお参りを済ませる。
学問の神様菅原道真公が祀られている。


山門を潜って参道を進むと鳥居がある。


鳥居の横に鳴子ウリ(マクワウリ)の案内板が・・・
成子天神社周辺は、御用畑としてマクワウリを栽培していて、明治に至るまで特産地として栄えていた。
この地域が鳴子坂と呼ばれていたので、鳴子ウリと呼ばれた。(概略)


長い参道を通って成子天神社の門を出ると、


新宿の高層ビル群が目の前に聳える。


旧青梅街道を進む。


淀橋交差点付近を通過


10時42分、淀橋に到着した。
「淀橋」の名は三代将軍徳川家光が名付けたと云われている。
古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「暇乞いの橋」と云われていた、そうだ。
この辺りで中野長者と云われていた鈴木九郎が、自分の財産を地中に隠す際、
他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投げ込んだ。
九郎と橋を渡る時には見えた人が、帰る時には姿が見えなかったことから
その名が付いたと云われている。


江戸時代の初めに鷹狩りのためこの地を訪れた徳川家光は、この話を聞き、
『不吉な話でよくない。景色が淀川を想い出させるので、淀橋と改めるよう』に命じ、
これ以降、この名が定まったそうである。
流れているのは、神田川だ。


10時49分、東京メトロ丸の内線「中野坂上」駅を通過


続いて山手通り交差点を横断


11時4分、明王山宝仙寺に到着。
宝仙寺は、平安後期の寛治年間(1087~94)、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰郷の途中の源義家が、
陣中に護持していた不動明王像を安置するために創建した、と伝わる。


宝仙寺境内


三重塔
寛永十三年に建立された塔が塔の山公園にあったが、戦災で焼失した。
平成4年に再建された三重塔は高さ約20m、飛鳥様式の純木造建築で、心柱は基檀まで貫通している。
塔内には大日如来を中心とした胎蔵界五佛が安置されている。(案内板より)


石臼塚
中野区と新宿区の境を流れる神田川には、江戸時代から水車が設けられ、そば粉を挽くことに使われていた。
そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ、製粉の一大拠点となり、
中野から東京中のそば店に供給されたため、「中野そば」とまで言われるようになった。
その後、機械化により使われなくなった石臼は、道端に放置され見向かれなくなっていった。
それを見て、宝仙寺住職が人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、
境内に「石臼塚」を立てて供養した。(案内板より)


中野町役場跡碑
『中野区区役所の前身がここにあったんだねっ』


宝仙寺本堂


御影堂(みえどう)
弘法大師の御影、すなわちお姿を安置してある堂のこと。
安置されている弘法大師像は、座像で後背まで入れて高さ3mある、そうだ。


11時23分、中野消防署前を通過


11時25分、福王山慈眼寺(じげんじ)に到着
真言宗豊山派の寺院で、天文十三年(1544)の創建と伝えられる。
鐘楼がタイ風なのが印象的である。


鐘も小さい。


六地蔵
お地蔵さまは、私たちが六道輪廻の因縁によって地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道の
いずれの道にあっても、それぞれに姿を変えて現れ、苦を取り除き幸福へと導いてくれる、というもの。


仏舎利塔
タイ国王立一級寺院ワットスラケットより請来された仏舎利が納められており、
在京のタイ人には、”東京で最初のタイ風仏舎利塔”と呼ばれ信仰を集めているそうだ。
慈眼寺の修補住職は、タイ国バンコク市にある国王立一級寺院ワットスラケットに法縁を得て
上座部仏教の戒律を授かり修行を続けてきた。
やがてワットスラケット寺院より仏舎利を託され、この仏舎利塔を建立した、とのこと。
以来、慈眼寺の法燈を受け継ぐ僧侶は真言宗の受戒・修行はもちろんのこと、合わせて
上座部仏教の受戒・修行を行うことが特色となっている、とのこと。


氷川堂
昔、慈眼寺は旧中野村氷川神社の別当職を兼ねていたが、明治政府の神仏分離令により、神社を政府に返還。
この江戸幕府から明治政府に移る揺籃の時代に、慈眼寺第十五代住職覺順和尚は「氷川坊さん」と呼ばれ、
皆からの信望も厚く、慕われていた。


お堂には、「氷川坊さん」として知られる、慈眼寺第十五代住職覺順法師が奉られている。


時計は11時30分をちょっと回ったところ。
少しばかりお腹が空いたので、茶菓子で凌ごう。


青梅街道鍋屋横丁辺り


鍋屋横丁
人通りはまあまあだが・・・


シャッターが閉まったままの店も多い。
『どこもそんなに楽じゃないんだねっ』


11時45分、中野通りを横断。


『古い家だねぇ』


こちらも古そうな家だが・・・


自動販売機が目障りである。
もう少し離れた場所に設置する配慮が欲しかった。


11時52分、北野神社(西町天神)に到着


北野神社拝殿
祭神は、菅原道真公とのこと。


西町天神公孫樹(銀杏)の大木
この大公孫樹は、江戸時代より聳え立つ大木であり、その威容は、東は追分・鍋屋横丁、
西は高円寺押出・金灯篭周辺から天空高く望見出来た。
また、近在農家の江戸稼業往還の目安、一般休息の場ともなっていた。
しかし、昭和54年10月の台風20号の被害を受け、根株もろとも倒伏した。
蘇生策として躯幹の大部分を切断せざるを得なかったが、地域の人々の努力と熱心な手当てにより、
今では銀杏の実が付くようになった。。(案内板より)


”昭和七年”の和の字が逆に彫られている。
野木偏のノもおかしい。
これはわざと彫ったものだと思われるが、その意図は???


道路反対側に「蚕糸の森記念公園」があったので、立寄ってみることにした。


蚕糸の森公園周辺地図で確認し、


蚕糸の森公園内へ。
明治44年に設置された農林水産省の蚕糸試験場が、昭和54年筑波に移転した跡地に造られた。


滝も造られている。


スズカケ(プラタナス)の大木
『プラタナスもこんな大木になっちゃうんだねっ』


旧守衛所が今は事務所として修復・保存されている。


蚕糸の森公園の正門
青梅街道に面した旧正門の門柱は、歴史を感じさせる。


これは普通の公園総合案内図だが・・・


何やら覗き込んでいるのは・・・


目の不自由な人のための点字の案内図である。
このような案内図を見たのは初めてだ。
さすが杉並区だと感心した。


蚕糸の森公園外れに一対の大きな青銅製の燈籠(常夜灯)が建てられていた。
妙法寺参道入口に建てられたもので、ここを左に入っていくと(600mほど先)妙法寺がある、
そうだが、立寄る時間はない。


12時17分、高円寺陸橋(環状七号線)を通過。


お腹が空いてきた
食べ物屋の看板がやたら目に付きだした。


今は一番混む時間帯なので、ここは我慢してパスしよう。


ここもパスだ。


12時25分、地下鉄新高円寺駅手前にある五日市街道追分(分岐点)を通過。
五日市街道は、ここから玉川上水沿いに五日市に通じる青梅街道の脇街道で、
五日市(現あきる野市)や檜村から江戸に木材や炭などを運ぶために整備された。


12時30分、清見寺(せいけんじ)に到着。


清見寺入口の地蔵菩薩堂にはお地蔵さんが安置されている。
馬橋村・阿佐ヶ谷村の村民が奉納した地蔵石像とのこと。


清見寺本堂
中野区成願寺の末寺で、江戸時代初期に開かれた曹洞宗の寺。
清見寺は、寛永初年(1624)に成願寺6世鉄叟雄鷟和尚が創建したと云われる。
明治末期頃から住職が鍼灸治療としていたと云われ、地元では「馬橋の灸寺」として知られる。


本堂前の3体の大きな石像が印象的である。


12時をかなり過ぎて(12時36分)しまった。
予定では、ゴールの荻窪駅周辺で昼食をと考えていたのだが、
このペースでは、荻窪駅まではもう少し時間がかかりそうなので、
適当な店があれば入ることにした。
とたんに適当な店がなかなか見つからなくなった。


12時56分、杉並郵便局前を通過


12時59分、杉並区役所の向いにお馴染の「大勝軒」があった。
『ここにしようっ!』


野菜ラーメン(700円)を注文。
野菜と言ってももやしだけだが、ボリュームはたっぷりである。


13時37分、昼食も終わり、後はゴールの荻窪駅を目指すだけである。


13時39分、杉並消防署前を通過


道路脇にはあちこちに雪が残っている。
新宿で見たものよりも多い感じだ。


天沼陸橋交差点で青梅街道とも分れ、荻窪駅へ向かう。


荻窪駅を目ざす。


荻窪駅が見えて来た。


13時56分、この日のゴール荻窪駅に到着した。
『今日は大変お疲れさまでしたぁ』


青梅街道の新宿追分~荻窪宿間約9Kmを歩き終わった。
見どころもそこそこにあり、楽しめた。
「ときわ荘」を見つけた時は、大いに喜んだが、有名漫画家が住んでいたと云われる「トキワ荘」とは
全く別物と分かり、がっかりした。
よく考えれば、朽ちたとは言え、当時のアパートが今でも残っているはずがないのだ。

この日の万歩計は、19,000歩を越えていた。

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『可愛いっ』の連発 柏原池から「ダチョウ王国」

2016年01月22日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年1月22日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第28回(2016年第4回)、「柏原池から「ダチョウ王国」」ウォーキングに参加した。
「ダチョウ王国」は、2010年2月12日以来6年ぶり2回目である。

この日第一集合場所の土浦市民会館には11名が集まった。
車4台でスタート地点の柏原池(石岡市)に向かい、9時40分、柏原池に到着。


気温は1度ほどと低いが、日差しがあるのでそれほど寒さは感じない。


現地直行した人は13名である。


参加者はこの時点で24名と、寒さの割には多い。


早速、会長の号令でいつもの準備体操


準備体操


9時49分、Oさんを先頭に「ダチョウ王国」目指して出発!


Oさんの後に続く。


『風も殆どないからウォーキング日和だねっ』


柏原池を後にして、


国道355号を進む。


柏原工業団地内の球技公園前を通過


この辺りはかつては工場跡地で空地だったが、今はソーラーパネルが設置され、発電所になっていた。
2014年4月稼働予定で発電出力約5,600KW、年間発電量は約520万KWhの計画だったそうだが、
現在は、発電出力4,750KWとなっている。
年換算すると、1100~1200世帯くらいの電気を賄うことが出来る発電量と思われる。


ネジ製造の後関製作所工場前を通過
『いろんな工場があるんだねっ』


国道355号沿いの工業団地内を進む。


工業団地内
『いやぁ けっこう広い団地だよな~っ』


パナソニックエコソリューションズ社前を通過
『こんな所にもパナソニックの工場があるんだねぇ』


工業団地内


工業団地内を歩くこと25分、ようやく工業団地が終わり、普通の民家が見えて来た。


国道355号


左手に青空の下筑波連山(筑波山・足尾山・加波山)が映える。


この方角から見る筑波山もなかなか美しい。


国道355号を進む。


ダチョウ王国の案内板だ。
左折が案内されているが、こちらは帰りに利用することにして、
行きはもう少し真っ直ぐ進み、別の道を進むことにする。


国道355号をそのまま直進。
『こっちの道は初めてだなぁ』


梨畑が広がる。
今は、昨年伸びた枝の選定を行う時期のようだ。


10時32分、身体が温まってきたところで、一休みしよう。


水分補給は欠かせない。


一息入れて、再びダチョウ王国を目指す。


ここで、『車で追いかけて来た』という2名とばったり。
途中で、車をぶつけられて、後処理で遅れてしまったとのこと。
見ると車の後部に擦ったような跡があった。
この日の参加者は26名となった。

前方に葉彦稲荷神社(半ノ木稲荷神社)が見えてきた。


とりあえずお参りして行こう。


参道を進むと・・・


葉彦稲荷神社の本殿だ。
社歴は、承応二年(1653)創建、とのことなのでそれほど古くはない。
天保十二年(1841)氏子中組頭樫村治三郎が京都伏見本宮より御分霊を迎え祀った。
昭和60年に本拝殿を改築している。


稲荷神社は商売繁盛・五穀豊穣の神様として厚い信仰を集めるが・・・
『・・・・・』


お参りを済ませて、気持ちを落ち着かせてダチョウ王国へ。


ダチョウ王国の看板が見えてきた。
『何だかどきどきしちゃうわねっ』


ダチョウのお出迎えだ。
『やっぱり大きいわねっ』
成鳥は2m以上の大きさになり、現存鳥類の中で最大。
脚は強大で疾走に適し、時速50~60Kmで2時間以上走ることが出来る。
最高時速は80Km。


『目がぱっちりして想ってたより可愛いわねっ』


『まつ毛も長いじゃないっ』


あらためて「ダチョウ王国」へ


少し離れた「南のまきば」では、アルパカや


ヤギなど小動物に触れ合うことができるようだ。
ただし、「南のまきば」は有料となっている。


「ダチョウ王国」へ


バーベキューハウスの看板には、”ダチョウ肉より美味しい肉があればお知らせ下さい”とある。
『ダチョウの肉が一番美味しいってこと?』
気になる看板である。


11時4分、「ダチョウ王国」に到着。
正確には「ダチョウ王国土産物ショップ」に到着である。


ダチョウ王国土産物ショップ内


殻のたまご
『硬くて重いねっ』


こちらはダチョウの卵(食用)だ。
『これじゃぁ食べ切れないよな~っ』
『しかし、4,320円はいい値段だねっ』


気になる肉も売られていた。
もも肉とソーセージを買うことにした。


どんな味なのか楽しみではある。


ダチョウふれあいファーム(中のまきば)へ行ってみると・・・
たくさんのダチョウが集まって来た。
『あらぁ 可愛いわね~っ』


ここのダチョウはアフリカンブラック種と言い、200年ほど前から飼育改良された家畜種、とのこと。
野生種と違い、性質は極めて温和だそうだ。
気候順応性が高く、成鳥は-30℃~+40℃まで耐えることができるそうである。


羽の色が灰色をしているのはまだ若い鳥なのだろうか。


ダチョウ用餌(1袋200円)も売っている。


こちらは別の柵のダチョウ。


羽の色がやや黒っぽい。


羽の色が黒いのは背も高い。確実に2m以上はある。
身体も大きく先ほどのよりは年齢が上のように見える。


ダチョウの羽を見つけてご満悦のS子さん。
『ダチョウさんからのプレゼントだねっ』


ダチョウの鑑賞も充分に楽しんだことだし、そろそろ帰ることにしよう。
『食べられないように長生きしなよなっ』


11時26分、「ダチョウ王国」を後にする。


ダチョウに見送られて・・・


ダチョウ王国を後にする。
後を追いかけて来た2人(ピンクのリュック)とはここで、お別れだ。


『とっても可愛かったねっ』


葉彦稲荷神社(半ノ木稲荷神社)を通り、来た時とは逆の方向へ。


法政大学石岡総合合宿所裏の道を左折し、


県道140号へ向かう。


右手に法政大学石岡総合合宿所を見ながら進むと、


県道140号に出た。


県道140号を10分ほど進むと、国道355号へ合流だ。


県道140号と国道355号が合流する三角地を進む。


国道355号だ。
『あとは真っ直ぐ一本道だよねっ』


国道355号


再び柏原工業団地内
『今日は天気が良くてほんとに良かったよねっ』


12時5分、工業団地内の交差点手前で最後の休憩を摂る。


『ゴールまであとどのくらいかしら?』
柏原池までは、残り1Km余りだ。


ゴールの柏原池を目指す。


12時18分、メガソーラ発電所前を通過。
お腹も大分空いてきたが、ゴールの柏原池は間もなくである。


続いて、柏原球技公園前を通過。


12時24分、柏原池入口を右折。


柏原池駐車場入口を右に曲がって・・・


12時26分、柏原池駐車場に到着だ。


お腹も空いているので、整理体操は省略し、個人で行うことに。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


6年ぶり2回目の「ダチョウ王国」訪問だったが、当時とメンバーも大分変わり、初めてという人もかなりいた。
最初は『どきどきする』と不安がっていた皆さんだが、一様に『可愛いっ』との感想が聞かれた。

今回初めてダチョウの肉とソーセージを土産に買ったので、近日中に食してみたい。
食後の観想は、後日紹介することにしたい。

この日の万歩計は、13,000歩を少し超えていた。

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始めと終りは平沢官衙遺跡 つくば北条歴史探訪

2016年01月15日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年1月15日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第27回(2016年第2回)、「つくば北条歴史探訪」ウォーキングに参加した。
訪問地は、メイツ出版の「茨城 歴史探訪ウォーキング」を参考にした。

この日第一集合場所の乙戸沼公園には10名が集まった。
9時ちょうど、車4台でスタート地点の筑波総合体育館に向かい、


乙戸沼公園から35分ほどで筑波総合体育館に到着。
既に大勢の人が体育館脇に集まっていた。


直行したのは18名、第一集合場所の乙戸沼公園のほぼ倍の人数である。
この日の参加者は28名となった。
今年初めての参加の人も何名かいたが、前回の「東海七福神巡り」などの話に夢中である。


こちらは今日のコースに関しての話し?


会長の掛け声で準備体操開始
『膝の屈伸~っ』


『大きく深呼吸をして~っ』


10時2分、出発!


Oさんを先頭に、先ずは平沢官衙遺跡を目指す。


北条大池の周りを進む。


大池越しに筑波山が見えるが、山頂付近はあいにく雲がかかっている。


大池の周りにぐるりと植えられたソメイヨシノは約250本。
春は桜の名所としてたくさんの人が訪れる。
また、夏の終り頃から蓮の花が池いっぱいに咲き、目を楽しませてくれる。
『ここの桜はきれいなんだよね~っ』


北条大池を約半周し、


10時10分、平沢官衙遺跡に到着した。


平沢官衙遺跡
いまから1000年以上前の奈良・平安時代の筑波郡の役所跡。
昭和50年の調査で重要な史跡であることが判明し、昭和55年国指定史跡に指定された。
当時の税(稲や麻布など)を収蔵した高床倉庫を3棟復元し、古代空間を再現している。
3棟並んでいる倉の中心にあるのが特徴ある造りの「土壁双倉」(つちかべならびくら)である。


平沢官衙遺跡は、平成9年度(1997)から6年をかけ、往時の姿が復元された。
正倉(高床式倉庫)などが実物大で復元されている。


高床校倉(あぜくら)
郡衙正倉では中規模以下の倉に多い。
主に麻布などを保管した。
復元に際しては、東大寺や唐招提寺に現存する奈良時代の校倉を参考にしている。


校倉内部の説明


高床土壁双倉(つちかべならびくら)
史跡のほぼ中央にある最大級の建物の高床土壁双倉は、床面積125m²を超す大型倉庫である。


高床板倉
古代の文献では、郡衙正倉はこの板倉がもっとも多くなっている。
稲などを保管した。


板倉内部の説明


平沢官衙遺跡を観終わったところで、係の方が遺跡について説明してくれた。
平沢官衙は、奈良時代から平安時代にかけて造営された常陸国筑波郡の郡衙(役所)の一部で、
その重要性から国の史跡となっている。
”つくばの正倉院の復元”と謳われている、とのこと。


郡衙には、郡衙政庁(役人が執務する場所)、正倉(租税として集められた稲・麻布などの保管倉庫)、
館(宿泊・饗応の役割)、厨(食事を作る場所)などの建物があるが、平沢官衙跡はこの中の
正倉部分のみと云われている。
発掘調査では遺跡は全部で53棟発見されたそうで、全て正倉(倉庫)だったとのこと。
このため、平沢官衙は、”郡衙”とは云わず、”官衙”と呼ぶことにした、そうだ。


10時28分、係の方に礼を述べ、平沢官衙遺跡を後にした。


平沢官衙遺跡


宝篋山の電波塔が見える。


北条の町へ。
道は整備されているが、殆ど車は通らない。
住宅地用として整備されたが、平沢官衙遺跡が発見されたため、
宅地として使えなくなった、との噂も・・・


賑やかな3人娘?である。


筑波山の山頂は相変わらず雲に覆われている。


「つくばワイナリー」の看板の先に見えるのがワイナリーの建物だろうか?
「TWIN PEAKS」ワイン(赤・白・ロセ)を製造販売(ネット通販)している、とのこと。


ぶどう畑
作り始めてまだ3年なので、総生産数は年数百本だそうだ。
つくばにワイナリーがあるとは知らなかった。
「TWIN PEAKS」を一度味わってみたいものである。


北条の町へ
後方は「つくばワイナリー」と筑波山


10時43分、北条市街地を東西に抜ける県道138号に出た。


北条の市街地を西へ進む。


「市の神」が道端にひっそりと置かれていた。
市の取引の無事や幸福を与えると信じられている市の守護神。
祭神は、エビスガミ・オオクニヌシノミコト・ヒコホホデミノミコト・
コトシロヌシノカミ・イチキシマヒメノミコトなどとされる。
神体は円形の自然石が多く、その他、石製、木製の六角柱1本のものもある。
(コトバンクより)


県道138号を歩くこと約200m、八坂神社に到着した。


八坂神社


八坂神社に参拝を済ませる。


神社の脇に五輪塔があった。
この五輪塔には経筒が納められていて、天文六年(1537)の造立と判明。
県内で造立年時が知られる二番目に古いもの。
五輪塔は高さ約2m、上から空輪・風輪・火輪・水輪・地輪と呼ばれ、空輪・風輪が大きく、
火輪の軒の出が小さいのが特徴。
『随分丸くなってるねぇ それだけ古いってことなんだよねっ』


北条の町を進む。


国登録有形文化財の旧矢中邸(矢中の杜)を覗きこむが奥の方は樹木に遮られて見えない。
旧矢中邸は、建材研究者である矢中龍次郎氏によって、昭和13(1938)年から28(1953)年まで、
約15年をかけて建設された。
約770坪の広大な敷地内に本館(居住棟)・別館(迎賓棟)などの建造物が現存し、
その周囲には庭園が広がっている、とのこと。


蔵造りの宮本家
江戸時代末期に建てられたという敷地内の建物は、8棟全てが国の登録有形文化財になっている、という。
商家として栄えた宮本家住宅の「店蔵」と、米蔵だった「宮清大蔵コンサートホール」が見学できる、
とのことだったが、あいにく留守だったため、入るのは諦めた。


また、市の神があった。
北条市街地にいくつか点在するようだ。


10時53分、筑波山への参詣道の起点「つくば道道標」前を通過。
「つくば道道標」は、筑波山神社まで一里(約4Km)の北条仲町に建てられている。
『ここから筑波山神社にお参りに行くんだねっ』


田村家店蔵
大正時代に建てられた元呉服店の店蔵。
大正初期の建築で、二階が2棟に分かれているモダンな設計が特徴だ。


現在、地区の情報発信・交流拠点「北条ふれあい館」として、地元の商店などでつくる
北条街づくり振興会のメンバーが交代で店番をしており、見所などを案内する、とのこと。


店蔵内部には、手づくりブローチやコースター、まほうタワシなどの小物が売られていた。


北条市街地
この辺りが平成24年5月6日12時35分頃に発生した竜巻により、被害があったところだそうだ。
『今はまったく跡片も残ってないよね~っ』


宝安寺・鹿島神社への案内に従って県道138号を右折する。


道を突き当たった所が宝安寺だが、訪問する場所として紹介されていないので、ここはパス。


宝安寺の隣に鹿島神社への参道があったが、ここも通過である。


11時ちょうど、鹿島神社前を過ぎて直ぐの所の毘沙門天種子板碑に到着。
案内板には、
板碑は、毘沙門天のお姿そのものを彫ったものではなく、その種子(密教で仏や菩薩を標示する
古代インドの文字)を彫出し、上部に毘沙門天の持物の宝塔を刻するものである。
板状自然石の前面、下部に大きく毘沙門天の種子「ベイシラマンダヤ」を幅の広い字体で彫り、
形象化した文字は流麗で巧みで、上部には宝塔を薄肉彫りするという、板碑として類例のない傑作である。
高さ170Cm、幅82Cmで鎌倉時代製作と考えられている。(概略)


続いて11時3分、日向(ひゅうが)廃寺跡に到着。
平安時代末期から鎌倉時代にかけての寺院跡で、建物跡は中央堂を中心に東西に
回廊を持つ阿弥陀堂建築で全国的にも珍しい寺院跡である。
この地に常陸大掾氏(だいじょうし)が居住して、文化が栄えていたことを物語っている。
(常陸大掾氏:古代末期~中世の常陸国の豪族。桓武天皇の曾孫高望の子国香が常陸大掾に
任官して,土着したと伝わる。)


廃寺跡で休憩だ。


しばしのお茶タイムを楽しむ。
『日向ぼっこしておやつしてると気持ちが良いわよねっ』


廃寺跡を後にして次の目的地へ


細い道を進むと・・・


熊野神社への参道らしき道があった。
参道にしては細いが、正面には鳥居が見える。


鳥居を潜ると・・・


鳥居の先には、狭く急な石段があり・・・


石段を登り切ったところに小さな祠が見える。
これがあの天下に名だたる熊野神社なのか?


半信半疑でいったん元の道へ戻ったところ、10mほど先に熊野神社の案内があった。


こちらの参道も細いが、先ほどの参道よりはましである。
しかし、勾配は急で石段の数も多い。
『こっちが熊野神社の正式な参道みたいだねっ』


かなり急で段数も多いが、ここは石段を上るしかない。
この日一番の登りで、足に堪える。


ようやく熊野神社に到着した。
至徳元年(1381)、後小松天皇の勅願で創建された神社とのことだが、明らかではない、とのこと。


流造りの本殿は江戸後期の建築。
参道入口にある石鳥居は寛永十三年(1636)に建てられたもので、つくば市内で最も古い、そうだ。


社殿背後の宝塔は花崗岩の巨石から作り出されたもの、とのこと。


熊野神社からの眺望
『いやぁ これはなかなか素晴らしい眺めだねぇ』


熊野神社の別当寺であった全宗寺の墓地が広がる。


次の目的地無量院を目指す。


熊野神社のすぐ隣に熊野神社の別当寺であった熊野山阿弥陀院全宗寺がある。
応永二年(1385)の開創。
真言宗豊山派の寺院で本尊は波切不動尊。
最後の北条城主・北条治高の家臣、蜷川全宗が天正年間(1573~91年)に再興し全宗寺と改めた。


不動堂の前に半鐘があった。
不動堂前に半鐘とは珍しい。


不動堂前の六地蔵尊が印象的である。


全宗寺の仏堂


無量院入口近くの道端に蝋燭立てのようなものがあった。
蝋燭が3本立てられているが、火が付けられた形跡はない。
火を灯すと蝋燭立てそのものが燃えてしまうからか。
何時、どんな目的で使われるのだろうか?


無量院入口前に稲荷堂と、


天神堂(天満宮)が祀られている。
雨乞いの神として信仰厚く、昭和の初期まで雨乞いが行われていた、そうだ


11時40分、無量院に到着。
本尊阿弥陀如来立像の文字が印象深い。


無量院
時宗の寺院で梅松山光明寺と称する。
建久四年(1194)の開創で、開基は多気太郎義幹。
当時は天台宗だったが、呑海上人が布教の折、この寺を訪れ、多気太郎を供養するとともに寺を時宗に改めた。
嘉歴年間(1326~29年)現在地に移転。


現本堂は平成16年(2004)に完成した。


ご本尊の阿弥陀如来立像は、鎌倉時代の作。
金色に輝いている。


無量院の裏に多層塔がある。
多層塔記念誌には、
この塔の正面下段には、延文六年(1361)四月二十二日と刻まれている。
中久木家の家伝によれば、中久木家は小田筑前守を祖とし、興国二年(1341)七代治久は、
足利尊氏の家臣高師冬と戦い、二十年後小田一族の供養のため下大島の地にこの塔を建立。
下って十六代氏治の時世に中久木の姓を名乗ったが、天正初期小田落城に際し、中久木一族は、
小田氏と多賀氏に分れて抗争したと伝えられている。(以下略)


無量院からの景色を眺めながら小田・北条の歴史を偲んだ。


無量院を後にして、この日最後の訪問地、多気太郎義幹の墓へ。


用水路(裏堀?)に沿って進み、


多気太郎義幹の墓へ向かう。


鎌倉時代前期のこの地の豪族多気太郎義幹の墓の案内に見入る。
多気太郎義幹は、桓武平氏の流れを汲み、桓武天皇の子葛原親王より数えて十一代に当たる。
三代高望王より平氏を称し、四代良望は常陸大掾に任ぜられ、平国香と名乗る。
六代維幹は水守より多気城(現北条城山)に移り初代城主となるが、直系子孫は常陸平氏の本家とされる。
維幹より六代目の城主が多気太郎義幹である。
名君の誉れ高く、領民のため無量院裏池及び現在町内を流れる通称裏堀を開削し、
水利に多大な貢献を果している。(以下略)


多気太郎義幹の墓は、鎌倉時代初期に作られたと云われている。
大きい五輪塔が多気太郎義幹の墓で、周りの小さい塔は家臣たちのもの。


多気太郎義幹の墓でこの日の歴史探訪は全て終了。
後はりんりんロード経由で筑波総合体育館へ向かうだけだ。


『今日はけっこう見所があったねぇ』


山頂にかかっていた雲もなくなり、筑波山がはっきりと見える。


りんりんロードを逸れ、筑波東中学校方面へ。


筑波東中学校横を通り、


宝篋山を正面に見ながらの筑波総合体育館を目指す。
『のどかな景色だけど素敵だね~っ』


『今日は全然寒くなかったし、ほんと気持ちが良かった~っ』


田んぼに囲まれた道を筑波総合体育館を目指す。
『ゴールは近いねっ』


筑波総合体育館が見えて来た。


12時34分、ゴールの筑波総合体育館に到着


『今日は大変お疲れさまでしたぁ』
通常であればここで解散となるところだが、『記念撮影がまだ終ってないねっ』との声が・・・
この日のタイトルに相応しい場所としては、やはり平沢官衙遺跡をおいて他にない。
ということで、再び平沢官衙遺跡へ向かった。


平沢官衙遺跡をバックに記念撮影
記念撮影も終わり、ここで解散となった
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


今回は、「つくば北条の歴史探訪」ということで、平沢官衙遺跡を皮切りに北条市街地の歴史を観て回った。
「茨城 歴史探訪ウォーキング」を参考にして訪問したが、それ以外にも見所はたくさんあった。
機会があれば次は別の場所を訪問してみたい。

この日の万歩計は、10,000歩を少し超えていた。

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「東海七福神巡り」で今年も元気に

2016年01月08日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年1月8日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第26回(平成28年第1回)、「東海七福神めぐり」ウォーキングに参加した。

この日は、年初恒例となった「七福神巡り」ということで、旧東海道品川宿周辺の「東海七福神巡り」である。
上野駅で京浜東北線に乗り換え、出発地の大森駅を目指すことにした。
8時56分、この日の参加者26名が、上野駅に到着。
天気は快晴、上々のウォーキング日和である。


上野駅で京浜東北線に乗り換えて、


秋葉原駅では京浜東北線が遅れるというハプニングがあったが、
9時49分、無事出発地の大森駅に到着した。


この日のコースや点呼のためのグループ編成などを説明し、
9時52分、CグループからAグループ、Bグループの順に出発!
先導役はいつものOさんだ。


大森駅東口の階段を下り、


ビルの間を抜けて、


駅前の商店街を進む。
東海道線に沿っているように思われるが、位置と方角がはっきりしない。


大森北1丁目付近。


地元の人と思われる人に磐井神社の場所を教えてもらい、八幡通りを第一京浜(国道15号)方面へ向かう。
八幡通り入口交差点を過ぎ、うなぎの「今丁」前を通過。


前方に京浜急行線が見えて来た。


京浜急行線下を通過。


第一京浜(国道15号)大森北交差点に出た。
目指した場所とは少し離れた所だったが、大して離れていなかったので一安心。
第一京浜を左折して50mほど進むと、


東海七福神最初の目的地、磐井神社(弁財天)に到着した。
東京都の保護樹林として指定されている、銀杏の大木が印象的である。


磐井神社の鳥居を潜り、


手を洗い清めて、


先ずは本殿にお参りを済ませる。


『今年も良い年でありますように』


続いて、本殿左横に祀られている弁財天へ。


弁財天像
年期の入った光沢をしている。


第一京浜を東京方面へ向かい、京急大森海岸駅横の道路を横断するために高架橋へ。


左手に大森海岸駅舎を見ながら、道路を横断。
右側は第一京浜である。


道路を横断し、さらに第一京浜を進む。


『元気で歩けるって楽しいのよね~っ』
今年も元気なS子さんだ。
昨年10月に古希を迎えた自分よりも、一回り以上もお年を召しておられる。
健康で元気な秘訣を是非伺いたいものである。


今度は高架橋で第一京浜(国道15号)を横断だ。


第一京浜(東京方面)を渡ると、


鈴ヶ森刑場跡があった。
鈴ヶ森刑場は、慶安四年(1651)に設けられたお仕置き場である。
間口40間、奥行9間あったとされるが、東海道(現第一京浜)の拡幅工事などにより、旧態を留めていない。


鈴ヶ森刑場は、見せしめのために、あえて人通りの多い街道沿いに刑場が置かれたのだと云う。
丸橋忠弥・天一坊・八百屋お七・白井権八・白木屋お駒など演劇などで知られた者が処刑されたことで知られる。
受刑者を供養する碑がいくつも建てられている。


東海七福神巡りは、鈴ヶ森刑場跡で第一京浜と分れ、旧東海道を進むことになる。


”江東区”の名が入った旗を先頭に、先を行く20名ほどのグループが・・・
若い人も何人かいたようだが、大半は我々より少しだけお年を召された方のように見えた。
多分”東海七福神巡り”をしているのだろう。


10時52分、東海七福神巡り2番目の天祖・諏訪神社(福禄寿)に到着した。


近くの会社勤めと思われる人が大勢いて、お祓いの順番を待っていた。
黒い服がずらりと並ぶと、なんだか物々しい雰囲気ではある。


”江東区”の人たちと我々は、とりあえず本殿にお参りを済ませ、


本殿横の福禄寿にお参りした。
福禄寿の頭を撫でるとご利益があるらしい。


立会川を渡り、


鮫洲商店街手前で、先を行く”江東区”の人たちを追い越した。
お年を召した方が多いせいか、ペースはややゆっくりである。
このままずっと後を追いかける訳にもいかない。


「さめず商店街」を進む。


昨年12月18日の”忘年ウォーキング”以来という人も多いが、快調なペースだ。


青物横丁商店街(東海道品川宿)に入ってしばらく進むと、


11時23分、東海七福神巡り3番目の品川寺(ほんせんじ)(毘沙門天)に到着した。
品川寺は、大同年間(806~810年)弘法大師空海の開山と伝わる。
長禄年間(1457~1459年)に太田道灌が創建し、承応年間(1652~1654年)、
弘尊上人の中興によって「品川観音」として信仰を集めるようになった。


高さが2.75mある六地蔵。
江戸の入口6か所に設置された「江戸六地蔵」の1番で、
旧東海道に顔を向けた大きな地蔵菩薩像が安置されている。


品川寺の山門を潜ると、


山門脇に大銀杏が聳える。
幹回り5.35m、樹高25m、推定樹齢600年の古木で、品川区の天然記念物に指定されている。


品川寺本堂
真言宗醍醐派の寺院である。


水月観音と聖観音を本尊とし、「品川観音」の名で人々の信仰を集めてきた寺、とのこと。
七福神の毘沙門天も祀ってあるとのことだが、暗くて見えなかった。


品川寺のお参りを済ませた頃、”江東区”の一行がやって来た。


品川寺を後にして、品川宿場通り商会を進む。


小さな公園の入口に小さな松の木があった。


案内によると、
この松は、旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、
11番目の宿場があった静岡県三島市教育委員会より品川区に寄贈されたもの、とのこと。
平成5年3月吉日寄贈とあることからも樹齢は若いと思われる。


体調を整えている僅かな時間だが、ベンチで一休みする女性陣。
少し疲れた様子ではある。


「街道松」の公園から150mほどのところに、同じ趣旨で浜松市から寄贈された「品川宿の松」があった。
こちらは樹齢80年の黒松で、雪吊りが施されている。


東海道品川宿を進む。


北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架かる鎮守橋を渡ると・・・


11時51分、東海七福神巡り4番目の荏原神社(恵比寿天)に到着した。


鳥居を潜ると直ぐ脇に恵比寿天の像があった。
『本物の竿を担いでるわねっ』


荏原神社本殿にお参りを済ませて、


再び旧東海道に戻り、東海道品川宿を進む。


山手通り(国道357号)の手前に「品川宿交流館本宿お休処」があった。
”ウマさんの「旧東海道を歩く」”の第1日目(2014年1月19日)に立寄った所である。
駄菓子屋のような雰囲気の土産物店と”東海七福神”のPR誌やパンフなどが並べられている。


一昨年手に入れた「東海七福神」のパンフ(左)と今年の「東海七福神」のパンフ(右)
今回の「東海七福神巡り」は、”旧東海道歩き”で入手した資料を下に企画したものである。


山手通り(国道357号)を横断して、さらに品川宿を進むと、


12時2分、東海七福神巡り5番目の一心寺(寿老人)に到着した。


一心寺の境内


寿老人像は、本堂の一番前に祀られていた。


一心寺の真ん前の細い路地を進むと、


東海七福神巡り6番目の養願寺(布袋尊)である。


七福神巡りのために本殿脇の扉が半分ほど開いていて、布袋尊を拝めるようになっている。


布袋尊像


残るはあと一つ、品川神社(大黒天)だ。
養願寺の裏の路地を進んで行くと、


品川神社へ通じる”北馬場参道通り”へ出た。


『横浜中華街の門のようだねっ』


”北馬場参道通り”の門を潜ると、第一京浜(国道15号)を挟んで、品川神社が見えた。
『いよいよ最後の七福神だねっ』


大黒天像は、品川神社の鳥居の脇にあった。


品川神社の急な石段を上る。


神社にお参りする前に”品川富士”に登山して行くことにした。
神社への石段の途中から登山道が始まる。


先ずは1合目


数段上るごとに2合目、3合目となり、あっと言う間に4合目だ。
『随分短いわねっ』


5合目を過ぎて、6合目辺りから登山道は急な螺旋階段になっている。


7合目
『けっこう急だよねっ』


8合目、9合目と登り、
12時19分、”品川富士”山頂に到着した。
『あら~っ 凄く良い眺めだね~っ』


”品川富士”山頂からの眺望


カメラに納めたくなる景色である。


”品川富士”を下山し、


品川神社へ


品川神社


品川神社拝殿でこの日最後の参拝を済ませる。


拝殿の前で記念撮影だ。


時計は12時半を回っていた。
無事七福神巡りを終わったせいか、お腹が空いてきた。
Kさんの勧めで品川インターシティへ行くことにした。
『かなり急な石段だねぇ』


品川神社の石段を下る。


再び北馬場参道通りの門を通り、


聖蹟公園(本陣跡)を抜け、品川インターシティを目指す。


鯨塚のある公園を過ぎると、船溜まりがあった。
船溜まりには、いくつもの屋形船が浮かんでいるのが見える。
『一度屋形船に乗ってみたいねっ』の声も・・・


品川グランドコモンズ(品川Vタワー)だ。


品川インターシティに到着


Kさんによると、この両側のビルにレストランがあるとのこと。


12時59分、品川グランドセントラルタワーに到着。


全員同じ店に入るのは難しいと思われたので、ここで解散して、
めいめい好きな店へ向かうことにした。
『今日はお疲れさまでしたぁ』 『帰りは気を付けてね~っ』


男性陣一行10名は、品川インターシティB棟へ。


Kさんお薦めの天ぷら屋があるという。


13時8分、天ぷらの「つな八」に到着。


9名が天ぷら定食を注文。
えび・キス・イカ・穴子・ピーマン・えびのかき揚げ・(もう一品あったが何だったか思い出せない)と
しじみの味噌汁が付いて1,180円と値段も手頃だ。


ランチビールは、260円とお得である。


『かんぱ~いっ』 『今日は大変お疲れさまでしたぁ』
この日のランチビールは、本当に美味しかった。


今年初めての例会「東海七福神巡り」が無事終了した。
きっかけは、旧東海道歩きの際に立ち寄った「品川宿交流館本宿お休処」で見つけたパンフだったが、
役に立てて良かった、と思っている。
間もなく来年度のスケジュールを決めなければならない時期のため、来年の七福神巡りはどこにしようかと
あれこれ思案している状況である。

この日の万歩計は、14,000歩を少し超えていた。
意外に”歩いた”という印象である。

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