ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

江戸の昔に想いを馳せる 箱根旧街道を歩く

2018年04月27日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年4月27日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30度第4回(2018年第14回)、「箱根旧街道を歩く」ウォーキングに参加した。
旧東海道箱根関所をスタートし、約6Km先の畑宿に向けて歩くものである。
逆方向を歩くことも考えたが、上りは苦手という人もいることから、
箱根関所からということにした。

6時14分、予定より6分ほど早く三中公民館に城南交通のバスがやって来た。


23名の申込みがあったが、体調不良で2名が不参加。
結局この日の参加者は21名となった。


首都高は渋滞が予想され、通過するのにかなり時間がかかるため、
つくばJCTから直接圏央道へ。


いつもの朝食弁当でお腹を満たす。


圏央道の両側には、水が張られた田んぼが広がる。
田植えの時期である。


7時3分、利根川を渡る。


7時22分、休憩を摂るため菖蒲PAへ。


引き続き圏央道を走り、高尾山トンネルを通過し、


東名高速へ。


右手に昨年11月24日に登ったばかりで記憶に新しい大山(1,252m)が見える。


東名道が左右に分離する辺り、突然富士山が視界に飛び込んで来た。
やはり雪を被った富士山は美しい。


見え隠れする富士山に一喜一憂しながら東名道を走る。
箱根は近い。


9時13分、足柄SAで2度目の休憩を摂る。


9時32分、御殿場ICで東名高速を降りて、


国道138号から芦ノ湖スカイラインへ。


芦ノ湖スカイラインから国道1号で箱根町へ。


10時25分、箱根駅伝ミュージアムに到着した。
三中公民館を出発して約4時間が経過していた。
ここで昼食弁当を受け取り、


先ずは芦ノ湖をバックに記念撮影だ。
(後ろに富士山の姿があるのだが、写真では全く見えない)


箱根町港で準備体操
『膝を曲げま~すっ』


箱根町港で準備体操
(後ろに見えるのは海賊船ロワイヤルⅡ)


10時45分、TKさんを先頭に出発!


TKさんの後に続く。


芦ノ湖の後方に富士山が顔を覗かせる。


”関所への近道”とあったので標識に従って進むと・・・


そこは土産物店に通じていた。
『やっぱりなっ』
その中を(ちょっと後ろめたい気がするが)何も買わずに通り抜け・・・


反対側の”関所への近道”を出ると、


箱根関所の京口御門があった。
箱根関所は、主として諸大名の謀反防止のために開設されたと云われる。


江戸末期に行われた箱根関所の解体修理の詳細な報告書
「相州御関所御修復出来形帳」が発見され、当時の箱根関所の全貌が
明らかになった。
そこで、建物の復元や関所周辺の環境整備を行うことになり、
残っていた史料をもとに、足掛け9年の歳月をかけて、平成19年に、
当時の姿に忠実に復元された。


箱根関所江戸口御門を出て、


箱根関所を後にした。
『まぁ関所を通り抜けられただけで充分だねっ』
(通り抜けだけは無料)


国道1号を箱根元町方面へ少し進むと、


箱根杉並木が始まる。
慶長九年(1604)、江戸幕府は街道に並木を植えるように命じた。


箱根の杉並木は樹齢350年ほどで、現在約400本余の大木が並んでいるが、


100年後には1/3程度になると危惧されている、とのこと。


”旧東海道箱根杉並木”の碑


杉並木を出た辺りに箱根旧街道一里塚の碑が。
日本橋より24番目の葭原久保(よしわらくぼ)の一里塚跡だ。


元箱根の箱根神社一の鳥居
箱根神社は、関東総鎮守として、源頼朝をはじめ後北条氏など
代々の武将の信仰を集めた。


”箱根旧街道石畳”の道標に従って、右に折れる。


箱根七福神の布袋尊を祀っている興福院の前を通り、


箱根旧街道石畳へ。


箱根旧街道石畳へ。


ケンペル、バーニーの功績を称える石碑があった。
ドイツ人の博物学者エンゲルベルト・ケンペルは、オランダ通商使節の一員として
元禄四年(1691)と翌五年に箱根を超え、箱根の美しさを世界に紹介した。
C・M・バーニーは、この地に別荘を持っていた英国の貿易商で、
大正十一年(1922)にケンペルの著「日本誌」の序文を引用し、
「自然を大切にするように」と碑を建てた。
左の英文はその原文だそうだ。


地図で現在地とここからの距離などを確認して、石畳へ。
『甘酒茶屋まで35分くらいってあるねっ』


階段を上ると、


11時21分、旧東海道、箱根の石畳の始まりである。


緩やかでもなく、それほど急でもない旧街道石畳を上る。
しかし、石畳の上は歩き難い。
滑って転ぶと大けがをするだろう。


早くも会長の足取りが重そうだ。
かなりきつそうな様子である。


権現坂
小田原から箱根路を上る旅人が、いくつかの急所・難所を喘いで辿り着き、
一息つくのがこの場所だった。
坂の長さが八町(約870m)あるので八町坂とも云われている。


先頭グループは、後続の速度に合わせるため、一休み中だ。


後続との距離を考慮しながら、ゆっくりと石畳を上る。


関所破りをした玉という娘が処刑された場所が近くだったことから、
「お玉が池」と名付けられた、ゆかりのお玉観音堂への参拝道を過ぎると、


旧街道はやや平らになった。
ストックを借り、懸命に後を追う会長。


少し先へ行っては、心配そうに後ろを振り返るYMさん。


馬子唄の碑
「箱根八里は 馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と刻まれている。


二子山が見える。
二子山は二つあって、こちらは上二子山(1,091m)で、


こちらが下二子山(1,065m)である。
よく似ている。


12時7分、天ヶ石坂を通過


緩やかな下りの石畳が続く。


かなり急な所もある。
『いやぁ これは滑ると危険だねっ』


急勾配の石畳


白水坂の碑からこぼれ落ちた賽銭を拾い集めて元の場所に戻している。
『賽銭がこぼれ落ちてるのよね~っ』
『こんなのを見るとほっておけないのよっ』
「白水坂」と表記されている坂道を土地の古老は「城見ず坂」と呼ぶ、そうだ。
天正十八年(1590)豊臣秀吉が小田原攻略の時、小田原北条方の軍勢が、
尾根上から大量の石を落したため進軍を阻まれ、やむなく引き返した、
という云われがある。


間もなく県道732号(旧東海道)を交差する場所だ。
何とか会長もここまで自力で歩いて下って来たが、
石畳から既に1時間以上を経過している。


ここからゴールの畑宿バス停まではまだ3Kmほどはある。
途中の七曲り坂(樫木坂)は、下りでもかなりきつい。
ここは、申し訳ないが、会長にはバスで行ってもらうことにした。
TKさんが付き添いとして一緒に行ってくれることになった。


二人と別れて、旧街道を下り、


12時30分、甘酒茶屋に到着した。


ここで、昼食を摂ることにした。
甘酒茶屋の店員さんに訊くと、ベンチは自由に使っても良い、とのこと。
この日の弁当、なかなか洒落た入れ物である。


おにぎり2個と別の器におかずが入っている。
なかなか美味しかった。


弁当風景(1)


弁当の最中、2人を乗せた湯本行のバスが甘酒茶屋前を通過して行った。


弁当風景(2)


弁当風景(3)


「甘酒茶屋」
この茶屋は畑宿と箱根宿のちょうど中ほどにあり、旅人が一休みするには、
適当な場所だった。
当時この茶屋は、箱根八里間で13軒あり、甘酒を求める旅人で賑わった。


「甘酒茶屋」
参勤交代の諸大名もこの茶屋で休息したとある。


中へ入ると、女性たちが甘酒を飲んでいた。
『熱くてとっても美味しいよっ』


甘酒を注文した。
フキノトウの漬物が付いて400円だ。
熱かったが、正直今までで一番美味しい甘酒だった。


13時20分、畑宿目指して出発!


追込坂(おいこみざか)を下り、県道732号へ。
説明板には、
「甘酒茶屋」までのゆるい坂道の名称、だそうだ。
『新編相模国風土記稿』のふりがな(万葉がな)をみると、
フッコミ坂と言ったのかも知れない、とのこと。


県道732号に沿った坂を通り、


急階段の猿滑坂(さるすべりざか)を下りる。


途中、川崎市から来たと言う30人ほどのグループとすれ違った。
箱根旧街道は、今でも多くの人に人気があることを実感。


猿滑坂
『新編相模国風土記稿』には、
「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」と
難所らしい坂の名の由来が書かれている、とのこと。


13時38分、甘酒橋を渡る。
畑宿まで1.8Kmとある。
『畑宿に着くのは14時過ぎだねっ』


山根橋を渡ると、


左手に「見晴し茶屋」への急階段があった。
「ここが箱根の樫の木平、下に見ゆるは畑の茶屋」と馬子唄にも歌われた
「見晴し茶屋」は、猿滑坂とは別の道だったようで、既に通り過ぎて
しまったようだ。


石段を下ると七曲りの道(県道732号)に出た。


石段を下る旧東海道の道が続いている。
『これを上るのって大変だよねっ』


樫木坂の石段を下る。
橿木坂は、かつての急坂の殆どが崩れ落ち、今は石段の連続となっている。
『新編相模国風土記稿』には、
「峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得」とあり、
『東海道名所日記』には、
けわしきこと道中一番の難所なり、おとこ、かくぞよみける。
”橿の木の さかをこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの涙こぼるる”
と書かれている、そうだ。
『今日は下りで良かったよねっ』
『昔の人は本当に大変だったんだろうねっ』


再び七曲りの道(県道732号)だ。


七曲りの道に沿って下る。


13時55分、国道1号(箱根新道)下を通過


県道732号を道なりに進み、


「箱根旧街道」の標柱で右に折れて石段を下る。


石段の先に急坂の西海子坂の石畳が続いている。


箱根八里は東海道最大の難所である。
標高800mを越える山中であることに加え、ひとたび雨や雪が降ると
旅人はすねまで泥につかる有様で、 歩くことが大変困難なところだった。
そこで、旅人の便宜を図るために造られたのが石畳の道である。
当初は箱根山に群生している「箱根竹」を使ったが、腐ってしまうため
毎年敷き変えなければならず、多くの人手と費用がかかることから、
竹に代えて石畳にした、とのこと。


石畳の西海子坂を下って行くと・・・
こじんまりとした一里塚が現れた。
江戸日本橋から数えて23番目にあたる畑宿の一里塚だ。


畑宿一里塚を過ぎて畑宿へ。


14時8分、畑宿一里塚入口に到着した。
「甘酒茶屋」からおよそ50分かかった。
バスの運転手さんに電話して、畑宿寄木会館で合流することにした。


2人が待つ畑宿寄木会館へ行き、バスの到着を待つ。


14時22分、バスが到着した。


帰りのバス車内
『今日は大変お疲れさま~っ』


帰りは、小田原厚木道路から東名高速・圏央道を通ることにしている。


15時5分、大磯PAで最初の休憩を摂り、


厚木JCTから東名道に合流。
さらに海老名JCTから圏央道へ。
流れはいたってスムースで、渋滞などのストレスは全く感じない。
いつものように後部座席は、盛り上がっている様子だ。
後で移動して、ご相伴に預かることにしよう。


16時40分、圏央道菖蒲PAで最後の休憩を摂る。
後は1時間も走れば三中公民館に到着するだろう。


バスは、利根川を渡り、


快調に圏央道を走る。


筑波山が見えて来た。


17時50分、牛久・つくばICに到着


イオンモールつくばを過ぎ、


18時ちょうど、三中公民館に到着した。
想定していたより1時間ほど早く着き、皆さん大満足。
『やっぱり圏央道を使った方が早いし、正解だったねっ』

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

平成30年度第1回目のバスハイクが無事終了した。
当初は、畑宿から箱根関所を目指すコースを考えていたが、
上りは苦手という人もいたことから、箱根関所から畑宿へ向かう
逆のコースを企画した。

天気は申し分なく、箱根関所を始め、箱根杉並木や石畳の旧街道など、
旧東海道の面影が偲ばれる箱根の雰囲気を存分に味わった。
甘酒茶屋での甘酒は、今までで一番美味しかった、と思う。
東名高速から見えた雪を被った富士山も印象的だった。

この日の万歩計は、15,000歩を少し超えていた。

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好天に感謝の念 江戸時代の運河と見沼田んぼ

2018年04月20日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年4月20日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第3回(2018年第13回)、「江戸時代の運河と見沼田んぼ」を巡るウォーキングに参加した。

荒川沖駅7時59分発の電車を待つ。


柏駅で常磐線各駅停車に、


新松戸駅で、武蔵野線に乗り換え、


9時22分、この日のスタート&ゴール、東浦和駅に到着。


この日は20名ちょうどの参加者が集まった。
駅前でめいめい準備を整え、


9時34分、いつものようにTKさんを先頭に出発!


県道235号~県道103号を進む。


『今日は暑くなりそうだね~っ』


東浦和駅を出発して数分、県道103号に面した見沼通船堀公園入口に到着。
竹林の中へ続く遊歩道があった。


『筍がいっぱい生えてるよっ』
『ちょっと大きくなりすぎてるんじゃないっ』


竹林を通り抜けると、
見沼通船堀の碑前に出た。


見沼通船堀は、灌漑用水の見沼代用水(東縁・西縁)と
芝川を結ぶために開削された閘門式(こうもんしき)運河である。
芝川と見沼代用水には高さ3mほどの水位差(代用水の水位の方が高い)
があるため、水門を造り水位を調整して船を通した。
享保十六年(1731)に作られた。


通船堀に沿って進む。
『桜の木が日陰になってくれるから助かるわ~っ』


通船堀の桜並木に沿って進む。
この桜並木は、さいたま新都心の方まで、数キロに渡って続き、
大勢の花見客で賑わうそうである。


史跡 通船堀西縁(にしべり) 仮締め切り
通船堀を使った船の運行は、江戸期には10月末から翌年の彼岸頃まで、
明治期以降は12月から2月までの、冬の農閑期だけであった。
冬に通船堀を使用する期間は、代用水から通船堀側に水が流れるように、
代用水を仮仕切りで封鎖した。
逆に、通船堀を使用しない農繁期においては、通船堀に水が流れないように
通船堀を仮締め切りで封鎖した。
それぞれの仮締め切りは土俵を積み上げて作られた。


通船堀の対岸には竹林が続いていた。
対岸にも遊歩道があるようだ。


通船堀西縁に沿って進む。


史跡 通船堀西縁第一の関(閘門)
享保十六年(1731)に開通した閘門式運河の見沼通船堀のうち、
見沼代用水西縁と芝川を結ぶのが見沼通船堀西縁である。
芝川に近い一の関が復元されている。
見沼代用水西縁に近い二の関は、残っていない。


見沼通船堀は、東西二つに分かれており、東縁側が390m、
西縁側が約650mある。
見沼通船堀西縁は、2つの関(閘門)が設置され、
芝川に近い方を一の関、代用水側に近い関を二の関と称していた。
東西の堀全体で4つの関を持ち、閘門式運河では日本最古の部類に入る、
とのこと。


9時51分、通船堀公園橋を通過


通船堀の説明
東縁用水、西縁用水とその中央を流れる芝川を結んで作られたのが
見沼通船堀である。
芝川の東側を通船堀東縁、西側を通船堀西縁という。
通船の時は、堀の土手から船に付けた綱を引いて船を通した。
この時船頭はもちろんのこと、近所の人々の大きな助けが必要だった。
水位を調節する様子を再現する「閘門開閉実演」を
毎年8月に実施する、とある。


通船堀西縁に沿って進むと・・・


芝川に突き当たった。
見沼通船堀は見沼代用水西縁と東縁が最も距離が近づく、
八丁堤の北側に享保十六年(1731)に造られた。
通船堀の開通により、水運の範囲が広がり、芝川を経て荒川・隅田川を通り、
この周辺の村々と江戸が結ばれた。
江戸へは見沼周辺で採れた農作物や薪・渋柿・味噌・醤油などを運び、
江戸からは肥料や油・日用品などが村々にもたらされた。


八丁堤は、関東郡代の伊奈半十郎忠治が築いた人工の堤で、
長さが八町(約870m)ほどあるのでその名が付けられた。
寛永六年(1629)、伊奈忠治は、両岸の台地が最も接する
浦和市大間木の附島と川口市木曽呂の間に八丁堤を築き、
灌漑用水池「見沼溜井」を造った。
その面積は1,200㌶に及ぶ広大な溜井だった。
見沼通船堀が開通する100年ほど前のことである。


かつては広大な沼だった見沼。
芝川の上流で新田開発を行うために、見沼は八丁堤という堤防で堰止められ、
見沼溜井と呼ばれる大貯水池が造られた。
徳川家康の関東入国後、伊奈氏は累代治水事業に力を尽し、
利根川や荒川の流路を替えたり灌漑用水池を作るなど、
関東地方の治水事業を次々に完成させた。
見沼溜井もその一つである。


芝川に架かる八丁橋を渡った所に水神社がある。
通船掘を利用する舟は、代用水の河岸で荷物を積んで江戸へ運び、
帰りは肥料・塩・酒などを積んで来た。


荷物を積み下ろしする河岸場は、ここ八丁にもあり、八丁河岸周辺には
河川輸送に携わる人々が住んでいた。
水神社は、通船掘の完成翌年に、通船掘で働く船頭や船子・積荷人夫などが、
舟運の安全や水難防止などを祈願して作ったものである。


水神社を後にして、見沼通船堀東縁へ。


見沼通船堀東縁一の関


見沼通船堀東縁二の関


見沼通船堀東縁二の関


通船堀東縁
V字形になっているのは、少ない水で船が通れるためだとか。


通船堀東縁の先には運河(見沼代用水東縁)があり、
通船堀東縁とはここで繋がっている。


木曾呂の富士塚の案内標識


見沼新田橋を渡って木曾呂の富士塚を探したが、
富士塚への道がなかなか見つからない。


近くをうろうろと探し周り、何とか富士塚の登り口を見つけた。


富士塚の頂上を目指す。
かなりの急こう配である。


高さはおよそ5.4m、直径20mの富士塚は、
寛政十二年(1800)、盛土をして築いたそうだ。
富士山信仰の史跡である。


別の登山口から登頂して待っていると、皆さん一足遅れて登って来た。


10時18分、全員が富士塚の頂上に参集出来たことを称えあい、
ここでお茶タイム。


富士塚の麓に厳島社の鳥居があった。
厳島社には「弁天様と馬子」の伝説が伝わっている、とか。


富士塚は、かつては胎内潜りも出来たというが、
今は塞がれて中には入れない。


見沼代用水東縁を遡上。
見沼代用水東縁は、灌漑用水で、埼玉県行田市付近の利根川から
東京の足立区まで流れている。
利根川から引かれた水は、見沼に代わる用水なので、
「見沼代用水」と呼ばれた。


見沼代用水東縁に沿って進む。


小手鞠の花が見事である。
『いやぁ これはすごいねっ』


緑のヘルシーロード
利根大堰まで49Kmの標識


前方に武蔵野線の電車が見えた。


10時39分、頭上を気にしながら武蔵野線の下を潜り、


見沼代用水東縁に沿って進む。


右側に住宅街が見えて来た。
新しく個性的な家が多い。


10時49分、川口自然公園に到着


”まむしに注意”の注意書きが。
『こんな所にまむしが棲んでるんだぁ』


藤棚下のベンチは先客で占められていた。


ベンチは諦めて、木陰などで小休止。


先客にこの先の大崎公園への道順を訊ねているところ。


川口自然公園内を通り、大崎公園へ。


池の周りでは、大勢の釣り人が釣り糸を垂れていた。
無料の釣り堀である。


見沼代用水東縁に架かる橋を渡ると、


11時2分、東沼(とうしょう)神社の鳥居前に到着した。


悠仁(ひさひと)様御誕生記念 富士山復元 の説明板が。
「見沼の東に富士山あり」
いつ頃富士山が造営されたかは定かではないが、天保十一年の絵馬に
富士山が描かれている。
風雨により崩れた富士塚を五百分の一の富士の山に復元した。
(中略)
近隣川口市・さいたま市・越谷市・草加市で唯一の富士山であり、
頂上からは富士山、秩父連山を望み、日の出を拝むことができる。
(以下略)


鳥居を潜ると、正面に見沼富士の登山注意書きが。
五百年前からの信仰の山
何と、次の人は”登山禁止”と書いてある。
・参拝しない人 ・中学生以下の子供(親がいても)
・団体は登らないこと
『さっき木曾呂の富士塚に登ったからばかりだし、
ここは登らなくても良いんじゃないっ?』
ということで、東沼神社の富士塚は見送ることにした。


東沼神社本殿への途中、復元された富士塚と思しき土盛りが見えた。
『あれじゃ団体は登れそうにないよねっ』
個人的にまた来る機会でもあれば、その時は富士塚登山してみるか。


東沼神社に参拝し、旅の安全を祈願した。
(賽銭はしっかりと投げ入れておいた)


御祭神は、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、
素盞鳴命(すさのおのみこと)など4柱を祀る。
木花咲耶姫命は、『安産・子育て』の神様である。


東沼神社を後にする。
”参拝目的以外立入らないこと”の注意書きが。


”鎮守の森を守る為、又条例により、アイドリングしないこと”
やたら注意書きが目立つ神社ではある。


見沼代用水東縁に沿って進む。


代用水の水量は多く、水位も高い。
田植えに備えてのためなのだろう。


緑のヘルシーロード
利根大堰まで47Km付近を通過。


国道463号でいったん道が途切れるため、橋を渡る。


国道463号を過ぎると、
今度は右側に見沼代用水東縁を見ながら進む。


国道463号から100mほどで、再び橋を渡り、見沼代用水東縁の右側を進む。
右手には、のどかな畑や、


植木苗の栽培園などの風景が広がる。


大崎公園南東端の公園橋を左手に見ながら、緑のヘルシーロードを進む。


あまり見慣れない大きな木の下を過ぎると・・・


11時50分、大崎公園に到着した。


約38,000㎡の敷地に芝生の大広場などが広がる大崎公園。


こども動物園では、レッサーパンダ、アメリカアカリス、
チリーフラミンゴ、ガンカモ類などを展示しているほか、
ニホンジカ、マナヅル、ヒツジなど約45種類の動物を
見ることが出来る、とのこと。


今の時期は、メタセコイアの緑が殊の外美しい。
紅葉を凌ぐ美しさである。


弁当タイム(1)
新緑に包まれて食べる弁当は美味しい。


弁当タイム(2)
『今日は参加して本当に良かったですよっ』


弁当タイム(3)
『いやぁ 今日は最高の弁当日和だねっ』


弁当後に園内を見て回る。
園内には池もある。


2015年春に完成したという、新しい遊具「森の冒険砦」


花文字
OOSAKI KOENと描かれている。
(ドローンからじゃないと、分らない?)


花時計
7時5分で止まっている。


ベンチでゆっくりと寛ぐ女性陣


12時26分、ゴールの東浦和駅を目指して出発!


東浦和駅を目指す。


『今日のウォーキングは天気も良いし、最高だよねっ』
『他の皆さんも、来れば良かったのにねっ』


大崎橋を渡り、ここで見沼代用水東縁と分れ、


田園風景の中を進む。


右手は「ブルーベリープラザ浦和」のブルーベリー畑
6月中旬~9月中旬まで摘み取りが出来る、とあった。


左手に廃棄物処理施設「クリーンセンター大崎」が見える。
1日に150tのごみを燃やせる焼却炉が3基ある、そうだ。


各種苗木が植えられている畑の中を進む。


12時44分、浦和中央自動車教習所前を通過


国道463号を横断し、
12時48分、自動車教習所向かいにある「浦和くらしの博物館民家園」に
寄り道して行くことにした。
さいたま市内に伝わる伝統的な建造物を移築復原し、その保存をはかり、
あわせて過去の生産・生活用具を中心とした民俗資料を展示している。
江戸時代後期に建てられた旧高野家住宅。


旧高野家住宅内部の展示品(1)


旧高野家住宅内部の展示品(2)


旧高野家住宅内部の展示品(3)


旧高野家住宅内部の展示品(4)


こちらは蔵造りの旧綿貫家住宅
綿貫家は、主に肥料と荒物を扱う商家であった。


旧綿貫家住宅展示品(1)


旧綿貫家住宅展示品(2)


少し離れた所に別の古民家(農家)もあった。


旧中島家穀櫃(こくびつ)
穀類を保存する倉庫である。


旧蓮見家住宅
建築年代は、江戸時代中期と考えられ、市内最古の民家。


旧蓮見家住宅の向かいに建つ茅葺屋根造りの倉庫。


民家園の前を通り、


門を潜ると、


旧野口家住宅が。
野口家は、代々安楽寺の住職を務めた家で、この建物は、
庫裏として使われていたもの。
この地方の典型的民家の特徴である茅葺寄せ棟造りである。


古民家の近くには竹林があり、


どこか懐かしさを感じさせる。


庚申塔や


旧丸山稲荷社本殿などが。
『これも展示品なんでしょうねぇ』


「浦和くらしの博物館民家園」を駆け足で観て回り、
13時5分、芝川を渡って、


国道463号を進む。


国道463号沿いの両側には、田園風景が広がる。
『都心に近い割にはのんびりした景色だよねぇ』


国道463号と交差する見沼代用水西縁で左折し、


見沼代用水西縁を右手に見ながら進む。
見沼代用水西縁にも桜並木が続いている。


左手に「クリーンセンター大崎」が見える。


右手には高層住宅が立ち並ぶ。


見沼代用水西縁の流れが続く。
『桜の時期に歩いてみたい所だねっ』


流れに沿ってさらに進むと、


左手にAKENOHOSHI UNDOJYOと書かれたアーチ門が。
浦和明の星女子中学・高等学校のグラウンドだ。


子供たちの声が聞こえる。
右手の小高い所に浦和明の星幼稚園が見える。
浦和明の星女子中学・高等学校は、その裏手にあるようだ。


塀越しの小手鞠や、


ドウダンツツジの花などを愛でながら、東浦和駅を目指す。


武蔵野線が見えて来た。


武蔵野線の電車が通り過ぎ、停車のためスピードを緩めた。
ゴールの東浦和駅は間もなくだ。


最後の緩やかな坂道を上り切ると、


県道235号に出た。


正面は東浦和駅である。


13時49分、ゴールの東浦和駅に到着した。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

この後、武蔵野線・常磐線各停・常磐線快速を乗り継いで帰路に就いた。

この日は、東浦和駅を発着とする見沼通船堀西縁・東縁から芝川を渡り、
見沼代用水東縁・西縁を歩いた。
初めてのコースだったが、見沼通船堀の関(閘門)や木曾呂の富士塚、
東沼神社、浦和くらしの博物館民家園など見どころもあって楽しめた。

天気に恵まれたこともあるが、美しい緑に囲まれた大崎公園での弁当は、
いつもより美味しかった、と思う。

見沼通船堀西縁や見沼代用水西縁の桜並木は、見応えがありそうなので、
桜の時期に訪れても面白いのでは、と思った今回の例会であった。

この日の万歩計は、19,000歩を少し超えていた。

ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。

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旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第7回 浜松宿~新居宿

2018年04月18日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年4月16日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージの7回目は、浜松宿(JR浜松駅)~新居宿(JR新居町駅)を歩いた。

荒川沖駅5時28分発の電車に乗り、東京駅には余裕の6時35分に到着。
やはり品川行は便利で早い。
東京駅7時3分発岡山行の「ひかり461号」に乗車。
出発時、自由席はけっこう空いていたが、新横浜ではそこそこに埋ってきた。


出発地の浜松駅には、定刻通り8時30分に到着。


8時45分、浜松駅を後にして、新居宿(JR新居町駅)に向けて出発!


駅前の広小路通りを旧東海道(国道152号)へ。


板屋町交差点を左折し、


旧東海道(国道152号)を西へ進む。
前方に見える高架は、遠州鉄道(えんてつ)のようだ。


国道152号沿いの「ゆりの木通り」商店街を進み、


連尺交差点を左折し、豊橋・舞阪方面へ。
ここから国道278号になる。


連尺交差点を左折した処に浜松宿の標柱があった。
舞阪宿境まで3里(11.7Km)とある。


連尺交差点から100mほどの所に佐藤本陣の説明板が。
本陣は、大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館である。
浜松宿には本陣が6ヶ所あった。
佐藤本陣の建坪はおよそ225坪(745㎡)あった。


国道の反対側に杉浦本陣跡の説明板が。
杉浦本陣は、浜松宿の本陣6ヶ所のうちで最も古い。
建坪はおよそ272坪(900㎡)あった。


川口本陣跡の説明板は地下横断道入口にあった。
浜松宿の本陣6ヶ所のうちで最も新しいのが川口本陣だ。
建坪はおよそ163坪(540㎡)あった。
これらの本陣は、全て戦災で消失してしまった、とのこと。


地下横断道を通り抜けて旧街道を進む。
舞阪まで13Kmとある。
新居町駅まではさらに4-5Kmはあるだろう。


成子交差点手前に、浜松名物「浜納豆」の看板がある古い店があった。
「浜納豆」は乾燥している納豆で、ネバネバしておらず、塩味が効いて、
味噌に似た味でおつまみ、お茶漬けにすると美味いらしい。
家康公も滋養があり保存がきき携帯できると好んだという。
店は既に閉店している感じだ。


成子交差点を右折し、雄踏街道を進み、
9時23分、成子坂バス停前を通過。


浜松商工会議所会館の次の信号を左折し、


9時48分、えんてつストア前を通過。
道を間違ったため、ここまで来るのに少し時間を要した。


道なりに進んで東海道本線下の地下通路を通り抜け、


続いて東海道新幹線下を潜って直進すると、国道257号の森田交差点に出た。


森田交差点を右に曲がって旧東海道(国道257号)を進む。


10時3分、鎧橋(よろいばし)を通過。
平安時代末期、戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、
鴨江寺側の軍兵は、辺り一帯の水田に水を張り、鎧を着て、
この橋の守りを固めて戦ったことから、その後「鎧橋」と称したという。


その後、和食めん処「サガミ」や、


うなぎの「大嶋」といった看板を過ぎると、


10時8分、道を隔てて北と南に向かい合った二つのお堂があった。
二つ御堂である。
奥州平泉の藤原秀衡公(ひでひらこう)とその愛妾によって天治年間(1125年頃)に
創建されたと伝えられている。
京に出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、
ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提を弔うために
北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。


現在の北堂は、昭和三十年(1955)に改築され、阿弥陀如来の他に地蔵菩薩、


宝冠に馬頭をいただき、憤怒の顔をした三面八臂の観世音菩薩が祀られている。
交通運搬・農耕等のため極めて重要であった馬の供養と結合して江戸時代の
庶民の信仰を集めた。(可美地区自治会連合会)


一方、京の秀衡公は病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、
愛妾への感謝の気持ちを込めて、南のお堂(薬師如来)を建てたという。
道路反対側に二つ御堂の南堂がある。


南堂は昭和十二年(1937)改築され、薬師如来、不動明王、
大日如来が祀られている。


北堂の西隣に「秀衡の松」の標識が。


以下の説明が。
二つ御堂の西に周囲二丈余(約6m)の「秀衡の松」と呼ばれる古い松があり、
”秀衡の側室の亡骸を埋めた所に、秀衡が植えた松である”と伝えられている。
明治十五年(1882)頃までは老木となって残っていた、とのこと。
現在の松は何代目かになるのだろう。


北堂の裏手を見ると、木々が茂っている場所があった。
鎮守の森といった感じである。


村社八幡神社とあった。


八幡神社の祭神は、品陀和気命(ホンダワケノミコト)(応神天皇)
創建年代不詳、当社は山城國(京都府)石清水八幡宮より奉迎す、とある。


樟の由来
此の樟は元、東若林の西南に忠魂碑があり、其処に植えられてあったものです。
此の忠魂碑が時代の要請により大正七年当時の可美尋常高等小学校に移転されました。
敷地内にあった此の樟を東若林青年会が特に願って貰いうけ、
青年会の記念事業の一端として、同年十月八幡神社前の現在地に移植したものです。
移植当時の幹の太さは、43Cm程でしたが、65年の年月を経た現在(昭和58年10月)
2本共165Cmに立派に成長しました。(説明板より)


10時21分、旧街道に戻り、新居宿を目指す。


夫婦と思しき二人が追い越して行った。
『東海道ですか?』と問われ、『新居宿まで行くつもりです』と答えると、
『これから、豊橋まで行きます』とのこと。
古寺社などには特に立ち寄らず、ただひたすら豊橋を目指すそうだ。


道路標識には豊橋まで37Kmとある。
かつての旅人は、1日10里(約40Km)を歩くのが普通だったそうだが、
今の自分にとってはとても無理な距離である。
二人ともかなりの速足で、その差はどんどんと広がっていった。


ところどころに松並木跡らしい松の木が残っている。
東海道らしい景色ではある。
二人の姿は松並木に遮られて見えなくなった。


10時35分、コンビニ前を通過


道路右手にある村社諏訪神社前を通過


続けて村社熊野神社前を通過


先を行っているとばかり思っていた二人が、再び後ろから追い越して行った。
『???』
どうやら、先ほど通過したコンビニに立ち寄っていたらしい。


10時57分、郷社熊野神社の赤い鳥居を通過


道路が二手に分かれている。
二人は、左の豊橋方面(国道257号)の方へ歩いて行った。
二人とはそれきり会うことはなかった。


道路の分岐点に浜松市篠原と書かれた標柱が立っている。


自分は右側の旧東海道(県道316号)方面へと進んだ。


大きな家(立場本陣)の前に立て札があった。


立場跡
ここは立場本陣とも言われ、大名等身分の高い人達が多く休憩しました。
明治元年(1868)に明治天皇が御小休されたという記録「御東幸御小休帳」や
文化年間の「御大名様御小休帳」が残されています。(中略)
現在、この辺りの字名は「立場」といいます。
(篠原地区自治会連合会)


11時13分、神明宮に到着
建暦二年(1212)浜名湖中における小島神明島に鎮祀せられたるもので、
永徳年間当地に移転し、徳川幕府により御朱印五石を拝受する。


境内の末社には大黒主命・津島神社・榛名神社・若宮八幡宮・東照宮を奉斉する。
神明造り、棟の上の甲板の上に鰹木を並べ、社殿は昭和7年10月に再建された。


神明宮拝殿に参拝し、神明宮を後にした。


旧街道(県道316号)を進むと、一里塚の立て札が。
江戸日本橋より六十七里の一里塚である。
東海道宿村大概帳に、「壱里塚 木立左松右榎 左右の塚共篠原村地内」と記されている。
左側とは南、右側とは北を指す。
当時の旅人は、一日十里(約40Km)を歩くのが普通であったと云われていた。
(篠原地区自治会連合会)


高札場跡
藩は一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるため、村の中心または
目立つ場所に高札場を設けた。
高札には親孝行・忠孝の奨励や賭博の禁止など生活の規範のものと
キリシタンや徒党の禁止などがあった。
高札の文面は簡易な仮名交じり文が用いられていた。
明治政府も高札を使ったが、明治六年(1873)太政官布告をもって廃止された。
高札のあったこの辺りは、札木という地名になっている。
(篠原地区自治会連合会)


道路脇に小さな社が。
(この後も同じような社をいくつか見掛けた)


11時52分、篠原小学校前を通過


長里橋を渡り、


旧街道を進む。


道路脇に小さな祠が。
先ほど見かけたのと大きさや形がよく似ている。


11時57分、愛宕神社に到着
祭神は素戔嗚命(すさのおのみこと)
創立は文禄元壬辰年(1592)、坪井郷新田村開発当時に、
氏神として京都愛宕神社から御分霊を奉斎


愛宕神社拝殿
慶長六年(1601)二月、徳川家康公が鷹狩りの折、御祈願をしたとの
古老の言い伝えがあり、武将の崇敬が厚かった坪井郷の内、
新田の氏神として崇敬され、由緒不詳ながら、神社宝物として棟札八枚が現存する。
(愛宕神社説明板より)


愛宕神社から800mほどの所に稲荷神社があった。
由緒の概要には、
永享十二年(1440)伏見稲荷より勧請したと言われる。
天正十六年(1588)九月十八日拝殿再建の棟札が現存すると
言い伝えられている。


稲荷神社の石造りの鳥居には、
”文化十三年丙子年十一月吉日 遠州屋傳兵衛奉献 江戸小船町傳次郎”
と刻まれている。


稲荷神社拝殿
現在の拝殿は大正11年に建てられ、境内の森の木が建築材として利用された。
村内の大工数名が建築に携わり、


境内入口の門柱にその人達の名前が刻まれている。


境内には、立灯籠が左右にあり、文化年間と刻まれている。


狛犬は稲荷神社らしく、狐だ。


道路脇の小さな社の前に立て札が。


坪井村高札場跡とある。
(説明内容は前述と同じなのでその部分は省略)
近くの元庄屋にはキリシタン札などの高札が長年保存されていました。
(篠原地区自治会連合会)

(この頃からいつの間にかカメラの絞りが変わってしまっており、
画面が暗くなり過ぎていたので、東本徳寺・西本徳寺等の写真は割愛する)

12時49分、春日神社に到着。
(ここで、初めて絞りが変わっているのに気が付き、設定を元に戻した)


春日神社境内には普通の神社にあるような「狛犬」ではなく、
春日神の使いである、雌雄二頭の「白鹿」が立っている。
左は雌鹿で、


右は雄鹿である。


奈良の春日神社から勧請されたものらしく、真っ赤な社殿が印象的だ。


旧東海道を進む。
お腹が空いてきたが、旧街道筋には全く飲食店がない。
舞阪駅前へ行けば何かあるだろうと考え、舞阪駅方面へ。


しかし、舞阪駅前には飲食店の1軒も見当らなかった。
仕方がない、とりあえず舞阪本陣辺りまで行くしかなさそうだ。
一応リュックには、おにぎり1個と菓子パンが入っているが・・・


13時3分、旧東海道へ戻ると、松並木が続いていた。
「舞阪の松並木」と呼ばれている。
約700mの両側におよそ340本ほどの松が残っている、そうだ。
右手には干支で時刻を表す石像が続き、


左手には東海道五十三次の宿場の碑が続く。
平塚宿碑


掛川宿碑


松並木は続く。


舞阪宿碑


荒井宿碑
(今は新居宿と称しているが、かつては荒井宿だった?)


京都
このペースでは、いつになったら京都に辿り着けるのだろうか。
少々不安が募る。


今歩いてきた松並木を振り返る。


波小僧像
むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていた。
魚が取れない日が続いたある日真っ黒な小僧が網にかかった。
猟師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む波小僧です。
命だけはお助けください。
その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり風が強くなったりする時は、
海の底で太鼓をたたいてお知らせします。」と言うので、海にもどしてやった。
それ以来、天気の変わるとき、波の音がするようになったと伝えられている。


松並木の先に国道301号新町交差点がある。
右側が国道301号(現東海道)である。


旧東海道は、新町交差点を横断し、真っ直ぐに進む。


13時22分、見付石垣が現れた。
この石垣は、舞坂宿の東の外れに位置している。
石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永六年(1709)の古地図には
既に存在している、とのこと。


見付は見張所にあたり、大名が通行する際には、ここに六尺棒を持った番人が立ち、
人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持に当たったという。
(舞阪町教育委員会)


舞阪一里塚跡碑
江戸日本橋から68里目(約267Km)の一里塚
天保年間の宿村大概帳には、ここの一里塚は左右の木立共松と書かれているが、
古老の話では大正時代まで一抱え半もある榎が枝を四方に繁らせていたという。


舞阪一里塚跡碑の横に新町常夜灯が。
舞阪には往還道沿いに3基の常夜灯がある。
江戸時代の舞阪はよく火災に見舞われ、文化六年(1809)には
宿場の大半を焼く大火があり、復興に難儀をした。
当時火防の山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜燈が建立された。
その世話は現在も地域の人達に引き継がれている、という。


舞阪宿に入ると、のりやしらす、鰹節などを売っている店が多い。
近くに漁港があるのだろう。


由比宿で見掛けた”せがい造り”の家も見られた。
(軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし、
棰(たるき)を置いたもので、民家建築に美観を添えたもの)


宝珠院前に立つ仲町常夜灯
文化六年(1809)に舞阪宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をした。
火防の山、秋葉信仰の高まりとともに仲町の願いにより、4年後の文化十年五月吉日に
この常夜灯が建立された。


宝珠院の山門


工事中の宝珠院
明治六年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれた所である。


脇本陣まで200mの表示が。


13時40分、本陣跡の碑前に到着。
舞坂宿宮崎伝左衛門本陣跡で、公家・大名・幕府役人などが
旅の道中ここで宿泊・休憩した。


本陣跡碑のすぐ前に舞阪脇本陣跡の建物がある。
脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、
普段は一般の旅籠屋として使われた。
現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では、唯一の脇本陣遺構として
貴重な建物である。
(舞阪町教育委員会)


13時50分、脇本陣のすぐ近くにレストラン「晴美」があったので迷わずに入った。
ここで遅い昼食を摂ることにしよう。
腹が減っては戦はできない。


注文したのはエビフライ定食(1,080円)だ。
お腹が空いていたこともあり美味かった。


レストラン「晴美」のすぐ近くに舞阪宿の標柱が。


西町常夜灯
往還道沿いにある3基の常夜灯の一つで、文化十年に建立されたもの。


14時19分、本雁木跡に到着
舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり、舞阪側の渡船場を雁木(がんげ)と言った。
舞坂宿には3ヶ所の渡船場があった。
南側は主に荷物の積み降ろし、真中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で、
本雁木と呼ばれた。
雁木とは階段状になっている船着場のことを言う。
新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、
夕方の最終船は午後4時であった。


本雁木跡から舞阪魚港を望む。


本雁木跡から弁天橋方面を望む。


本雁木跡に戻り、旧東海道を進むと、


北雁木がある。


北雁木
舞坂宿の3ヶ所の渡船場の一番北にあるのが北雁木である。


北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用した。
大きく平たい石畳で造られている。


北雁木の先端は海に続いている。


旧東海道を進む。
弁天橋の袂に常夜灯が立っている。


14時26分、弁天橋を渡る。


国道1号浜名BPが走る浜名大橋が見える。


”表浜名湖”の「いかり瀬」に立つシンボルの赤い鳥居が印象的である。


弁天島を進んで行くと、


14時31分、弁天神社があった。


弁天神社
昔、弁天島のこの辺りは砂洲が新居の橋本まで続き、
白州青松「天の橋立」のような風景が広がっていた。
そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りた。
村人は大変喜び、社を建てるからここに留まって欲しいとお願いした。
ところが、天女は駿河の三保の松原に立ち去って行った。


それから長い年月がたち、この辺り一帯は大きな災害に見舞われ、
州崎の一部であった弁天は海にとり残されて島となった。
その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになったが、
江戸時代の宝永六年(1709)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられた。
人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきた。
御祭神は「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと」といい、
海上・交通・家内安全・商売繁盛など諸願成就の神として多くの人に信仰されている。


境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規の句碑
天の川 濱名の橋の 十文字
この句は、明治28年(1895)秋に上京した際、途中汽車の車窓から
浜名湖を眺めて詠んだ作品とされている。


松島十湖の文学碑などがある。
月や風や夏 しら波の海と湖
松島十湖は、浜松市出身の県西部地方の明治・大正期を代表する俳人の一人で、
報徳運動家・政治家でもあった。
この句は明治41年(1908)夏の作。


13時50分、弁天島駅を通過


駅前にはホテルやリゾートマンションが立ち並ぶ。


ホテル THE OCEAN


日商岩井浜名湖リゾートマンション


14時43分、中浜名橋を渡る。


広くて立派な歩道が整備されている。


中浜名橋を渡ると、


新弁天島神社がぽつんと建っていた。


14時57分、中浜名橋の次の西浜名橋を渡る。
1Km近くはありそうだ。


右手を東海道新幹線が猛スピードでひっきりなしに走る。


東海道線も走るが本数は新幹線に比べると圧倒的に少ない。


長い西浜名橋を渡り終えると、


釣り船・釣宿や


釣り餌・釣り具の看板が多くなった。


クロダイの魚拓
50Cm、1.75Kgという立派な魚体だ。
釣れたのは平成28年2月8日となっている。今から2年前だ。
浜名湖の入口である”表浜名湖”には浜名湖における好釣り場の多くが集中している、
とのこと。
一度訪れてみたい釣場ではある。


15時25分、湖西警察署前を通過し、


15時33分、この日のゴールJR新居町駅に到着した。
浜松駅を出発してから7時間近く歩いたことになる。
少々疲れた。


15時43分発の上り浜松行に乗車し、浜松駅へ。


浜松駅16時11分発の東海道新幹線「ひかり472号」に乗車
平日だったためか、浜松からは楽に座る(自由席)ことが出来た。


疲れた体に缶ビールが美味かった。


この日は、浜松宿から新居宿までの約16Kmを歩いた。
途中道を間違ったり、確認のため街道を逸れたりしたので、
実際にはそれ以上歩いたと思う。
これでようやく、旧東海道の第Ⅱステージを歩き終えたことになる。
前回見付宿から浜松宿を歩いたのが平成29年2月7日のことなので、
1年2か月ぶりの旧東海道第Ⅱステージである。
また、第Ⅱステージとして三島宿をスタートしたのは平成28年5月22日なので、
既に2年近く経過したことになる。

この後、第Ⅲステージとして新居宿から京都三条までが残っているが、
具体的なスケジュールはまだ立てていない。
他のスケジュールと調整を取りながら、気が向けば京都を目指すこにしたい。
という訳で、何時京都に辿り着けるのかは、全く不明である。

この日の万歩計は、35,000歩余を計測していた。

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枝垂れが終わっても八重がある 常陸風土記の丘

2018年04月13日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年4月13日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第2回(2018年第12回)、「柏原池公園~常陸風土記の丘」ウォーキングに参加した。

常陸風土記の丘の枝垂れ桜やユリは、県内でも有名で我々世代には人気がある。
そのため、これまで枝垂れ桜やユリが咲く時期に合わせて何度か訪れているが、
柏原池公園から歩いて行くのは初めてである。
今回も常陸風土記の丘の枝垂れ桜を愛でようと計画したのだが・・・
今年は異常とも思える高温が続いたため、枝垂れ桜は期待できそうもないが・・・

この日の集合場所は土浦ピアタウンだ。


土浦ピアタウンに集まったのは11名。
車3台に分乗し、第二集合場所の柏原池公園に向かった。


柏原池公園駐車場には、既に多くの人が集まっていた。
その数12名。
第一集合場所の土浦ピアタウンよりも多い人数だ。


結果、この日の参加者は、23名となった。


準備体操は省略し、9時48分、TKさんを先頭に出発!
約4Km先の常陸風土記の丘を目指す。


TKさんの後に続く皆さん。


柏原池を周回するランニングコースを進む。


柏原池の向こうに龍神山が見える。


鹿の子3丁目付近の道路を横断し、


常陸風土記の丘を目指す。


常陸風土記の丘へ。
『歩道がちゃんとしてあるから安心だねっ』


緩やかな坂道を下って行くと、


両側の視界が開けた場所に出た。


右手に谷津田ののどかな風景が広がる。
間もなく水が張られて田植えの準備が始まるのだろう。
後方に龍神山霊園らしき景色が見える。


常陸風土記の丘へ。


道端にぽつんと道祖神碑が建てられていた。
『こんな所に道祖神なんて珍しいんじゃないっ?』


横断歩道を渡って、50mほど進むと、
10時22分、常陸風土記の丘入口に到着した。
柏原池公園を出発して35分ほどしか経っていない。


『ここまで意外と近かったわねっ』
距離としては3Km未満といったところであろうか。


常陸風土記の丘駐車場で一休みして、


10時33分、龍神山霊園に向けて出発!


杉に囲まれた径を進む。


道路を横断して、龍神山霊園へ。


道端の八重桜が満開状態だ。
『今年の桜はどこもみんな半月ばかり早いよねっ』


龍神山が見えた。
(電柱が邪魔している)


道端にツツジが咲いていた。
『ツツジも咲いてるよっ』
(ミツバツツジ?)


こちらはヤマツツジか?


シャガが群生していた。
『いろんな花が一斉に咲く時期なんだね~っ』


染谷佐志能神社の鳥居の前を左に折れ、


緩やかな坂道を進むと、


10時46分、龍神山霊園に到着した。


霊園の最奥部にある急こう配の坂道を上る。


『ずいぶん急な坂道よね~っ』


急坂に続く急な石段を上る。


石段の途中で振り返ると、風土記の丘の野球場が見えた。
野球場の先に風土記の丘の獅子頭展望台が見える。


急こう配の石段を上り切ると、


目の前に雄大な景色が広がる。
『景色は素晴らしいけどお墓参りも大変だよね~っ』


風土記の丘の野球場方面を見る。
獅子頭展望台の前に濃いピンクの花が咲いているのは八重桜のようだ。


後続組が到着し、全員揃ったところで、
10自58分、風土記の丘を目指して出発!


辺り一面の緑が美しい。
『今が一番緑がきれいな時期だよね~っ』
『好きだわ~ こういう緑って』


風土記の丘を目指す。


前方に風土記の丘の野球場が見える。


緩やかな坂道を下り、風土記の丘へ。


右手に野球場入口が見えた。


染谷野球場入口


右手の野球場に沿って進むと・・・


ふれあい広場の満開の八重桜が迎えてくれた。
野球場前の駐車場にはたくさんの車が停められていた。
野球場で野球をやっている人はいないし、花見客の車なのだろうか?


せっかくだから、獅子頭展望台へ上ってみよう。


”高さ10mの日本一の獅子頭”ということだが・・・
残念ながら修理中のため、中の展望台に入ることは出来なかった。


八重桜と日本一の獅子頭


ふれあい広場を取り囲むように満開の八重桜が咲いていた。
『常陸風土記の丘にこれほど八重桜があるってのは知らなかったなぁ』
どうやら皆さんも八重桜のことは知らなかったようである。


濃いピンクが多いが、白っぽい花もところどころに見える。


『近くで見るときれいだよねっ』


今まさに満開状態である。


だんごやかき氷の露店も出ている。
『お酒は売ってないのかねぇ』


子供たちが駐車場に向かって行くところだった。
『可愛いわね~っ』
子供たちも花見に来ていたのかな?


ふれあい広場を通り抜け、金山池方面へ。


白い八重桜もきれいだ。


会津民家前を通り、


八重桜の並木を金山池方面へ。


金山池の少し手前に一段とたくさんの八重桜が咲き乱れていた。
『これは凄いねっ 見応えがあるよねっ』


石のモニュメントを通り抜け、それぞれの時代にタイムスリップして、
その時の人々の暮らしに思いを馳せる、という時の門
古代の門


中世の門


現代の門


最後に八重桜のトンネルを眺めながら、


金龍橋へ。


金龍橋から金山池を望む。
金山池の周りを彩っているはずの枝垂れ桜は見られない。


枝垂れ桜は予想通り完全に終わってしまっていた。


しかし、枝垂れ桜が終わってもそれに代わる八重桜が咲いていたのは予想外だった。
枝垂れ桜に代わる八重桜が楽しめたのは幸運と言える。


金龍橋袂で振り返り、八重桜に見送られながら、


風土記の丘の出口(長屋門)へ向かう。


女性たちが露店の前に並んで何かを買い求めていた。
焼き菓子やあんドーナツである。


隣はだんご屋さんだ。


美味しそうなだんごが並べられている。
思わず黄な粉だんご(2串220円)を買ってしまった。
1串食べた。黄な粉の香がして、軟らかくて美味かった。


11時34分、常陸風土記を丘を後にして、


柏原池公園を目指す。
石岡地方斎場と書かれた案内の方へ右折。
『この道で合ってると思うんだけどな~っ・・・』


道なりに進むと、前方に斎場が見えて来たが・・・
何と! 行き止まりになっていた。
地図を見間違えていたようだ。


急いで斎場から引き返し、


再び風土記の丘の前を通り過ぎ、


来た道を引き返すことにした。
帰りは別の道をと思っていたが、来た道を戻る方が距離が短いし、
午後から「総会」を予定しているので、少しでも早い方が良いと判断。


『満開の八重桜が観れて良かったわよね~っ』


道端の菜の花も美しい。


ゴールの柏原池を目指す。


昨年夏に腰を痛めてしばらく参加を見合わせていたSK子さんだったが、
今日は距離もさほどないことから、参加したと言う。
『とにかく歩くのが好きなのよっ』


鹿の子3丁目付近の信号が見えて来た。


道路を横断し、柏原池方面へ。


花ミズキの白い花が美しい。
『家の造りが花ミズキにとても似合ってるわよねっ』


12時21分、柏原池西端に到着。


池中央の小さな小島を見ながら池畔を進む。


マガモが近寄ってきた。
『まだ北に戻らないのかしらっ?』
よく見ると、胸のところに傷跡のようなものが見える。
元気になったら、北に戻るのだろう。


12時40分、柏原池駐車場に到着


説明書を片手に整理体操の号令を掛けるTKさん。


『腰を下ろして~っ』


『肩を回して~っ』


『最後に背伸びをしま~すっ』

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

この日は14時30分から総会を予定しているため、
土浦ピアタウン近くの「丸亀製麺」で昼食を摂り、
家には帰らずそのまま三中公民館へ向かった。


希望していた視聴覚室が確保出来なかったため、調理室での開催となった。


総会は、会長をはじめとする当会役員を含めて36名の参加で開始された。


平成29年度は、44回企画し雨等で中止は7回で、37回実施したことになる。
精勤賞
以下各自に賞状と副賞のクオカード、および手造りのバッグが授与された。
皆勤賞にわずか1回及ばなかったAK子さん。
『バイクの故障さえなければねぇ』と悔しがるAK子さん。


同じく36回参加のTKさん。


2度目の精勤賞である。
『皆勤賞ってのは、なかなか難しいねっ』


34回参加のYMさんは、初受賞だ。


35回の参加で3回目の精勤賞受賞となった。


80歳を迎えたKB子さんには、功労賞(副賞等は同じ)が授与された。


『おめでとうっ!』 盛大な拍手が送られ、本人も満足そう。


例年この時期に咲く満開の枝垂れ桜を愛でようと、常陸風土記の丘に出掛けたが、
今年は異常な高温が続いたことから、あいにく枝垂れ桜は見ることが出来なかった。
しかし、ちょうど満開を迎えた八重桜を見ることが出来たのは、幸運だった。
常陸風土記の丘と言えば枝垂れ桜と思っていたので、八重桜は意外だった。

先週の雨引観音楽法寺のソメイヨシノに代わる江戸彼岸桜に続き、
今回の常陸風土記の丘の枝垂れ桜に代わる八重桜を満喫出来たのは、
新年度としては最高の出だしになった、と思う。

近いうちに来年度(2019年度)のウォーキングスケジュールの検討を始めたいが、
桜の開花時期が例年通りになるのか、今年と同じような時期になるのか、
当分の間頭を悩ますことになりそうだ。

この日の万歩計は、意外にも15,000歩を少し超えていた。

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間に合って良かったぁ 雨引観音の桜を愛でる

2018年04月06日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年4月6日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第1回(2018年第11回)、「雨引観音の桜を愛でる」ウォーキングに参加した。
今年度(2018年度)最初の例会である。

この日の第一集合場所、乙戸沼公園には13名が集まった。
乙戸沼の周囲に植えられているソメイヨシノは既に散ってしまっていたが、


東大通りに面した駐車場付近に植えられている八重桜は、
間もなく満開を迎えようとしていた。


こうやって見ると八重桜の花もなかなか良いものだ。


車4台に分乗して、第二集合場所のりんりんロード雨引休憩所へ。
雨引休憩所の桜もほとんど散ってしまい、葉桜の状態である。


雨引休憩所に直行した人は、5名。
『雨引観音の桜も、もう散っちゃってるよねっ?』
『今年は異常気象だから、仕方がないんじゃないっ』


結局この日は、合計で18名の参加となった。
新年度の最初の例会としては、やや少ない人数である。


号令を掛ける人の逝去や退会が続いたため、しばらく準備体操が途絶えていたが、
『何とかしましょうよっ』という人たちの協働により、準備体操が復活することに。
『大きく背伸びをして~っ』


『肩を入れま~すっ』


『最後に深呼吸をしましょう』
やはり準備運動をすると気持ちが良いし、身体もしゃきっとする感じだ。


準備運動を終え、
10時37分、雨引山楽法寺(雨引観音)目指して出発!


先頭を務めるのは、TKさんである。


りんりんロード雨引休憩所近くの雨引小学校校門前を通過し、


小学校の塀に沿って県道41号へ。


雨引小学校南門前の県道41号を横断し、


細い路地を抜けると・・・


のどかな田園風景が広がった。


前方右手に筑波連山の加波山(709m)が見える。


田んぼのあぜ道を進む。
『舗装された道より歩き易いわよねっ』


前方に雨引山(409.3m)を見ながら進むと、


雨引休憩所を出発して20分弱で、千勝神社一之鳥居に到着した。


鳥居の傍にご神木の欅(ケヤキ)の大木が。
樹齢520年と推定されており、当時の藩主が植えたものと伝えられている。
『いやぁ 太くて立派な幹だよねっ』


参道を進み、千勝神社へ。


二之鳥居の先の石段を上ると、


御手洗の傍にご神木の椎(シイ)の大木があった。
樹齢は不明だが、数百年相当の樹齢と思われる。


10時59分、千勝神社拝殿に到着
千勝神社は、大同二年(807)の創建で、祭神は道案内の神様・産業の神様・
勝負に強い神様として知られる猿田彦命を祀り、千勝大明神と呼ばれていたが、
明治六年(1873)神社の名を雨引千勝神社と改められた。


この日の無事安全を祈念した。
神社の紋章(菊水)は、常陸の国に来た楠木氏が戦勝祈願のため、
菊水の紋を木に彫り、奉献したもの。


雨引千勝神社を後にして、雨引山楽法寺(雨引観音)への道(右)へ。
前方の一段高い山が雨引山(409.3m)だ。


雨引観音への道を進む。


芽吹いたばかりの新緑が美しい。


雨引観音への参道脇に、桜(江戸彼岸桜?)が咲いているのを見ることが出来た。
『まだ見れるねぇ 雨引観音の桜も期待したいけどねっ』


11時14分、後続との距離調整と水分補給のため、一休み。


『どうぞっ』 『ごちそうさま~っ』


一息入れた後、雨引観音を目指す。


雨引観音へ。


一般自動車道から逸れて、ゲンジボタルの生息地とされる水辺を抜けると、


旧参道の上り口に出た。


旧参道は、古い石段が続いている。


段差のある石段を上る。


緩やかな坂道の所もある。


旧参道の途中に1本の大きな杉があった。
龍が空に昇って行くような杉で、「龍杉」と呼ばれる。
別名「玉体杉」とも称される、推定樹齢400年の霊木である。
聖武天皇の天平年間、当山では光明皇后の安産祈願をした折り、
奈良の皇后を指向するこの杉を目標にして祈祷したと伝えられている。
(この杉は孫杉)


旧参道の最後の石段だ。
段差が高いので、足に負担が掛かる。


会長にとっては、かなりきつそうだ。
『頑張って あと一息ですよっ』


旧参道の石段を上りきると、その先に薬医門(俗称黒門)が続いている。
元は楽法寺の表門であり、麓の集落中央に位置していたものを移築したもの、だそうだ。


薬医門を潜り、仁王門への石段を上る。
先ほどの旧参道の石段に比べると、段差は半分程度と低いので楽に上れる。


会長は、少し遅れてゆっくりと石段を上る。


鐘楼堂
仁王門への石段を登りながら右手を望むと、鐘楼堂が見える。
この建物は、建長六年(1254)宗尊親王の御願によって建立し、
その後天和二年(1682)雨引山第14世堯長が再建したが、大破したため
文政十三年(1830)第24世元盛が再度建立したもの、とのこと。


仁王門
建長六年(1254)宗尊親王の建立した門で、
鎌倉時代の仏師康慶の彫刻した仁王尊を祠っている。
現在の建物は、天和二年(1682)十四世堯長が再建したものであり、
茨城県指定文化財になっている。


仁王尊像(阿像)


仁王門を潜ると、目の前に満開の枝垂れ桜が迎えてくれた。


『いやぁ これは実に見事な枝垂れ桜だね~っ』


宿椎
樹齢推定1000年の椎の霊木。
文明四年(1472)本堂・諸堂が炎上した際、御本尊がこの椎の大木にて
難を避けたところから「宿椎」と称されるようになった。


力を振り絞って最後の石段を上ると・・・


11時51分、本堂前の桜も満開状態で迎えてくれた。
今年の桜開花は例年より1週間以上も早いため、期待はしていなかったが、
このような満開の桜(江戸彼岸桜?)を見ることが出来るとは・・・


本堂
雨引山楽法師は、雨引観音とも呼ばれ、中国から帰化した法輪独守居士が、
飛鳥時代の用明天皇二年(587)に開山したと伝えられる古刹である。


聖武天皇、光明皇后の帰依が厚く、その後弘法大師によって真言宗の道場となった。
現在は安産子育ての霊場として広く知られる関東屈指のお寺である。
「一に安産、二に子育てよ、三に桜の楽法寺」と読まれている。
坂東33観音霊場の24番札所としても知られている。


境内には聖なる鳥・孔雀などが放たれている。


多宝塔
天平年中(730)聖武天皇の后、光明皇后の造建したものが嚆矢とされる。
嘉永六年(1853)元盛暢光両師協力して十万人講を勧進して、
三重塔を改め多宝塔としたのが現在の塔である。


東照山王権現社殿
社殿内からは、徳川家康神像(本像)一躯と徳川将軍歴代(十四代)の位牌や
東照大権現宮と山王大権現宮の棟札も発見された。
東照大権現と山王大権現は別々に祀られていたが、腐朽甚だしくなったので、
享保十二年(1727)一堂に合祀して新しく造営した。
このため、名称も東照山王権現宮と呼ぶようになった。
茨城県指定文化財


御供所の建物は安政年間(1854~1860)の建立であり、
江戸時代の楼閣として特色のある建造物である。


御供所の前のベンチで弁当にする人たち。


本堂前には無料休憩所もある。


少し風が出て来たので無料休憩所で弁当タイムにしよう。


12時57分、少し時間があったので、雉(キジ)の仲間を見に行った。
『珍しい雉を飼ってるんだね~っ 知らなかったぁ』


尾長雉(オナガキジ)
中国の中央部から北部の標高300~1800mの森林地帯に生息する。


ハッカン
中国南東部の原産で、ベトナム、タイ、ミャンマーインドなどの
海抜1500mぐらいの草地や開けた林などに生息している。


銀鶏(ギンケイ)
主に中国南西部からチベット、ミャンマー北部にかけて分布しており、
標高の高い山岳地帯の藪や竹林に生息している。


金鶏(キンケイ)
主に中国中央部の標高900~1300mの山地に生息している。
低木林や竹林、森林などに棲み、地上を歩きながら植物の種子や小動物を捕って食べている。


黄金金鶏(オウゴンキンケイ)
キンケイを品種改良して、1952年にイタリアのChigid氏により作り出された。
従って、自然には生息していない。


こちらは孔雀の仲間
境内で放し飼いにされているのとは種類が異なるようだ。


12時37分、雉の仲間の小屋を後にする。
『今日は良いものを見れたわね~っ』


再び本堂前に戻り、多宝塔の前で記念撮影をして・・・


12時47分、雨引観音の本堂を後にする。


石段の途中から満開の枝垂れ桜に包まれた仁王門を望む。


仁王門を潜り、


薬医門への石段を下る。


12時50分、薬医門を潜り、雨引山楽法寺を後にする。


帰りは車道を下ることにしよう。


車道を下り、


旧参道の上り口手前を旧道へ。


旧道を下る。


旧道を下り、本木の集落を目指す。


二丁と刻まれた石や、石像がひっそりと佇み、
かつての参道の面影が感じられる。


左前方に筑波山を望む。
『昔と景色は変わってないんでしょうねっ』


麓の本木集落に入ると、立派な長屋門が。
『凄く立派な門だね~っ』
ただ、扉は硬く閉じられており、中を見ることは出来ない。


ゴールの雨引休憩所を目指す。


雨引休憩所へ。


この頃になると、風が強くなって来た。


後方に雨引山、


前方に筑波山が見える。
『ほんとにのどかな風景だよねっ』
『癒される景色だねっ』


『芝桜がきれい~っ』
『今年は芝桜も今が見頃なんだねっ』


旧家の長屋門前を通過
『いやぁ この家の門も立派だよね~っ』
『大黒様が似合ってるよねっ』


旧家の長屋門の先を左に折れ、雨引休憩所へ。


間もなく雨引小学校の筈だが・・・


13時24分、雨引小学校南門前の県道41号に合流した。
『道は間違ってなかったんだぁ』


校舎の塀に沿ってゴールの雨引休憩所を目指す。


雨引小学校正面門を通過し、


13時29分、ゴールのりんりんロード雨引休憩所に到着した。


整理運動(1)


整理運動(2)


『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


平成30年度(2018年度)第1回目の例会「雨引観音の桜」が終わった。
1年前に企画していたのが、雨で中止になったため、今年にスライドしたものである。
中止になった1年前の4月7日に一応雨引観音を訪れてみたが、その時はソメイヨシノは、
7分咲で満開には少し早いという状態だった。
しかし、今年は異常気象とも言えるほどの天気が続いたため、1年前のスライド企画が
大きく外れる結果となった。
ただ、枝垂れ桜や江戸彼岸桜を観ることが出来たことにはホッとしている。
花の時期を予想して、1年以上前から企画することの難しさを改めて感じた。

この日の万歩計は、11,000歩を計測していた。

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