ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

一見の価値あり あじさいの杜(二本松寺)

2018年06月29日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年6月29日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第12回(2018年第22回)、「あじさいの杜(二本松寺)散策」ウォーキングに参加した。

第一集合場所の乙戸沼公園に集まったのは、13名。
車4台に分乗し、潮来の二本松寺に向かった。


10時7分、二本松寺駐車場に到着すると、ほぼ同時刻に土浦ピアタウン集合組5名と
直行者5名も到着した。
結局この日の参加者は、23名になった。


二本松寺参道


参道右手に書写仏をお祀りするための書写仏堂があった。
この書写仏は、寛文三年(1663)に姫路の書写山円教寺から分奉祠されたと云われ、
石造の阿弥陀如来立像(120Cm)で、おでき、吹出もの、皮膚病等を治す仏様として
霊験あらたかで、信仰が厚い、とのこと。
現在の堂宇は、昭和52年に改築したもの。
書写仏堂の右手があじさいの杜の入口になっている。


書写仏堂の前に一隅碑が建てられている。
天台宗祖伝教大師最澄上人は
「国宝とは何物ぞ 宝とは道心なり 道心あるの人を名づけて国宝となす
故に故人の言く 径寸十枚これ国宝にあらず 一隅を照らすこれ即ち国宝なり」
と示された。
この一隅碑は、天台宗開宗1,200年となる平成18年に建立された。


一隅碑の右手に、あじさいの杜の受付・入口がある。


入山参拝協力金は一人300円となっているが、回数券4枚で1,000円なので、
一人当り250円となる。


会計係が各自から250円を集めている間に、


あじさいの杜の順路案内図を受け取る。


料金徴収・支払いが終わり、10時26分、入口①を入り、
(注:丸に数字は、順路案内図の数字を表す)


順路に沿って進む。


順路には、紫陽花がまだ咲いていた。
今年は花の時期が早いので、紫陽花の花もあまり期待はしていなかったのだが、
何とか観ることが出来そうだ。


紫陽花


順路に沿って進む。


②のポイントで左に鋭角的に折り返し、


左に紫陽花、右には田んぼを見ながら進む。


目の前には田んぼの風景が広がる。
『うわぁ ほんと気持ちの良い景色だよね~っ』


『紫陽花がいっぱい咲いてるねぇ』


『もう遅いかと思ったけど、何とか間に合ったって感じだねっ』


紫陽花を見上げながら進む。


『いろんな種類があるんだねっ』


『いやぁ これはほんと凄いよねっ』
40,000㎡の境内に100種類10,000株の紫陽花が咲き誇る、
と謳われているだけのことはある。


紫陽花


『こんなにたくさんの種類の紫陽花は初めてじゃないっ?』


紫陽花


順路に従って進むと、左側に上り口③があった。


緩やかな坂道を上って行くと、


斜面一面に紫陽花が咲いている。
『見応えがあるわね~っ』


坂道の途中⑤で紫陽花をバックに最初の記念撮影


紫陽花(ダンスパーティか?)


丘の斜面を進む。


振り返ると、田んぼが見えた。
『きれいな景色だね~っ』


さらに急斜面を進む。


紫陽花(てまりてまり)


『こんな紫陽花見たことがないなぁ』


小さな広場⑦があり、ベンチで一休み


木々の隙間から田んぼを眺める。
青空の下、緑の田んぼが美しい。


お茶タイム


お茶タイム


お茶タイム


一息入れた後、本堂を目指す。


わらべ地蔵⑧の杜太郎が静かに佇んでいた。
杜太郎の右横に咲いているのは、柏葉あじさいのようだ。


『あらぁ 可愛いお地蔵さんだわね~っ』


紫陽花
花の名前は分らない。


紫陽花
花の名前は分らない。


出口を出る。
『いろんな紫陽花を観れて良かったよねっ』


本堂へ向かう途中、


水戸光圀公お手植えの槙の木⑩があった。


水戸光圀公が元禄四年(1691)に本堂を改築寄進したときに、お手植えされた
と云われている記念樹である。
樹齢約350年、目通り3.5m、樹高13m
平成元年、大阪市の「樹医」山野氏に依頼し、樹勢回復手術を行った。
天然記念物に指定されている。


本堂手前に土産物店のお品書きが
ドリンク(コーヒー・紅茶)をはじめ、かりんとうや手作りかきもちなど、
郷愁を誘われる品揃えである。


本堂横に土産物店があった。
手作りかきもち(とろ火焼・揚げもち・たがね揚げ)が売られていた。
『ひとつどうですかっ?』
『うんっ なかなか美味しいねぇ』


本堂・本尊⑪
天台宗羽黒山覚城院二本松寺と号し、水戸光圀公より寄進を受けた本尊は、
秘仏薬師如来で、県の文化財に指定されている。


秘仏本尊薬師如来は、鎌倉時代後期の作で、木造桧材寄木造り、座高66Cm、
総高135Cm、左手に薬臺を持ち、心身の病を治癒す仏様として、古来より
多くの人々の信仰を集め、現在に至っている、とのこと。


本堂前で2枚目の記念撮影だ。


菩提樹⑬
正保年間(1644-47)、二本松寺第10世天栄法印が比叡山より
移植したと伝えられる記念樹で、樹齢約400年、目通り2m、樹高12m。
仏教の三大聖木(菩提樹・無憂樹・沙羅双樹)のひとつで、ブッダは
菩提樹の木の根元で悟りを得た。


菩提樹の木陰⑮で一休み。


こちらも仲良く並んで一休み。


一休み後、参道の石段を下って駐車場へ。


駐車場へ向かう。


帰りは玉造方面を経由することにした。
12時5分、帰路の途中、玉造の「ばんどう太郎」へ立ち寄った。


食事風景


食事風景


自分は、ソースひれかつ丼ランチ(税込1,274円)を注文した。
まずまずの味だった。

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

昨年、二本松寺を訪れた会員の方から二本松寺の紫陽花のことを教わり、
早速今年度の企画として取り入れた次第。
殆どの人が初めてとのことで、花の種類の多さに驚嘆していたが、
自分もその一人である。
一見の価値ありだと思う。

6月中旬から7月上旬が見頃ということだったので、この日に設定したが、
今年は全ての花の時期が2週程度早くなっていることから、間に合わないのでは
と心配していたが、何とか花を観ることが出来て一安心である。
今年は明日6月30日にはあじさい祭りも終わるそうなので、
来年にでもかみさんを案内して訪れてみたい。

ニュースでこの日午前、関東地方の梅雨明けが発表されたことを知った。

この日の万歩計は、僅か3,500歩しか計測していなかった。
これはあまりにも少なすぎるが、今後はこういう日があっても良しとしよう。


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特選街道Ⅱ 第4回 甲州街道(教来石宿~金沢宿2日目)

2018年06月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年6月25日(月)

2015年(平成27年)1月から翌(2016年)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
仲間から『是非続けて欲しい』との声があり、今年(2018年)は「旧街道を歩くⅡ」
と称して、新たな”街道歩き”を始めた。

「旧街道を歩くⅡ」第四回(2日目)は、甲州街道蔦木宿(すずらんの里駅)~
金沢宿(JR茅野駅)間を歩いた。

2日目の朝
しっかりと朝食(830円)を摂って、


7時33分、ちのステーションホテルを出発!


茅野駅前ビルのベルビアを左に見て、


7時35分、茅野駅に到着
ホテルから僅か2分である。


駅弁は、9時半過ぎにならないと販売されない、とのことなので、
駅売店で昼の弁当(おにぎり)や飲み物を買い、


上りホームで電車を待つ。


下り松本方面のホームは、通勤・通学の人でいっぱいだ。
『けっこう通勤・通学の人が多いんだねっ』


7時59分発の上り電車に乗り、


8時9分、2つ先のすずらんの里駅に到着


すずらんの里駅から旧甲州街道(国道20号)方面を望む。
空には雲一つなく、今日も良い天気だ。
『かなり暑くなりそうだねっ』


8時11分、すずらんの里駅を出発し、この日のゴール金沢宿茅野駅を目指す。
『暑さに負けず頑張りましょうっ!』


国道20号神戸八幡交差点を右に曲り、


国道20号を進む。


国道20号が分岐する所を左に進む。
昨日一度歩いているので、迷うことはない。


分岐点を左に少し進むと、たくさんの馬頭観音碑が並んでいる。


緩やかな坂道を上って行くと、


御射山神戸一里塚に到着した。
こちらは東の榎の一里塚
御射山神戸一里塚は、集落の北外れにあって、日本橋から48里目(49里との説も)
の塚と云われ、明治中頃までその役割を果たしていた。
道路右側の東塚には榎が育っていたが、明治初期に枯れてしまったという。
現在の榎は2代目になるのだろうか?


西の欅の一里塚
残っている西塚の欅は、塚が造られた慶長年間に植えられたものと推定され、
樹齢は凡そ380年を数える。
現在では目通り高で幹の太さが周囲6.9m、樹高は約25mの巨木となり、
永い歳月と風雪に耐えて堂々たる風格を備え、樹勢もなお盛んである。
甲州街道でこのように塚・欅ともに往時のものが保存されている例は他になく、
実に貴重な存在である。
(平成10年3月 富士見町教育委員会)


標高917mの標柱が建てられている。
『標高1,000m近いんだねぇ』


旧街道を進んで行くと、


高層マンションのような建物が現れた。
SEIKO EPSON社の社員寮「金沢精和荘」と思われる。
『随分立派な建物だよねっ』
『福利厚生がしっかりしてるんでしょうねっ』


旧街道を進む。


旧街道を進む。


庚申塔や百番四国供養塔などの碑を眺めながら進むと、


8時53分、国道20号に出た。


国道20号を進むが、どの辺りを歩いているのか見当がつかない。


小さな神社が見えたので、立ち寄ってみることに。


石段を上って行くと、金毘羅様が祀られていた。
金毘羅様の元宮は、四国香川の琴平町の象頭山の中腹に祀られている。
祭神は、大国主命で海の守護神と商売繁盛の神様である。
江戸時代、宿場町であった金沢は、商業活動が盛んであったため、
商売繁盛の神様である金毘羅様への信仰が深まり、ここに金毘羅神社が
祀られた、とある。


再び旧街道に戻って国道20号を進む。
金沢上町バス停を通過


曹洞宗金鶏山泉長寺の入口と思われるが、本陣跡を探すのに夢中になってしまい、
門前で引き返してしまった。


金鶏山泉長寺は、諏訪三十三観音霊場の三番札所になっており、
本尊は、釈迦如来である。
(写真は聖観音菩薩像)


旧街道(国道20号)を進む。
本陣跡らしき碑あるいは建物を探すが見つからない。


9時18分、信濃金沢郵便局前を通過
その先に、


連子格子の古い家があった。旅籠松阪屋だった。
旅籠松阪屋は、宿場一番の旅籠として繁盛し、当時は博打も盛んに行われ、
博打場や逃げ道(地下通路)もあったと云われております。
先祖は、伊勢の松阪より金沢宿に来た人と伝えられ、江戸時代に出版された
旅行案内書に「松阪屋は女・子供でも安心してお泊りいただけます」と
宣伝文が載せられていました。
(金沢地区コミュニティ運営協議会他)


松阪屋は、明治20年に全焼したが、その後再建されたのが現在の建物である。
江戸時代後期の旅籠屋の様式を伝えている貴重な建造物であり、
昭和の初期まで営業を続けていた、とのこと。


横棟造りの古くて大きな家があった。
中馬宿(馬宿)である。
宿場の任務は3つあり、公用荷物優先運搬の人馬の継立て、旅人の休泊、
通信業務でした。
幕府は、この業務のために人足と馬と馬子を常備させ、問屋が取り仕切っていました。
江戸中期以降商業が盛んになり、荷物の動きが多くなると、問屋経由の運搬では
間に合わなくなり、私設の中馬荷物問屋(中馬宿)が発達しました。
(金沢地区コミュニティ運営協議会他)


この馬宿は、江戸時代から明治38年までの150年間、小林家が中馬宿を営業していた。
当時は24頭の馬と馬方を泊めることが出来た。
軒先には「馬繋ぎ石」を見ることができる、とのことだが、あいにく見落とした。


門前に秋葉常夜灯と刻まれた石柱が建てられていた。
灯籠ではなく、電燈で照らすようになっている。


宮川に架かる金沢橋の手前にフェンスを背にして、
仏像や石碑などが十数基が並んでいる。


道祖神やちょっと変わった表情のお地蔵さんもある。


宮川に架かる金沢橋を渡る。
往時の川幅は7間(約12.6m)あった、そうだ。


右手にこんもりした森があった。
承応三年(1654)建立の金山大権現を祀っている権現の森である。
江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは
慶長15年(1610)の頃である。
その頃ここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、
度重なる宮川の洪水や慶安三年(1650)の大火を機に南方の現在地へ移転し、
翌四年に金沢宿と宿名を改めた。
この宿場は山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、
交通上、物資の流通上重要な所であった。
(茅野市教育委員会)


権現の森の鳥居を潜って参道を進む。


参道の突き当りに金山大権現が祀られている。


権現の森のご本体である。
祭神は、金山彦命を祀る金山権現である。
金山彦命は、鍛冶屋・鉱山関係の金鶏金山に関係した神様と思われる。


金山権現の石祠の左右には、江戸中期ころより庶民の信仰として祀られた、
大六天・津島牛頭天王、


不動明王、


摩利支天・甲子・秩父坂東西国巡礼供養塔、


蚕玉大神など大正期までの石造物が祀られている。
権現の森境内には他にも、御嶽座王大権現・如意輪観音・庚申・道祖神石祠
などが祀られている。


御柱も立っている。


権現の森で一休みだ。


権現の森を後にして旧街道を進む。


旧甲州街道
権現の森の前から通るこの道は、旧甲州街道です。
この街道沿いに青柳宿(旧金沢宿)がありました。
五街道制定時、武田信玄によって造られた青柳宿は、幾度も宮川の氾濫に
悩まされていたところへ、更に大火で青柳宿が全焼したのを契機に、
慶安四年(1651)東南方向の現在の金沢区に宿場を移し、金沢宿と改称しました。
この地は、戦国時代は武田信玄によって営まれ、江戸時代になって徳川幕府は
それを継承して宿場として本陣や問屋が置かれていました。
(金沢地区コミュニティ運営協議会他)


国道20号を右手に見ながら旧甲州街道を進む。


枡形道の外れと思われる鉤の手を右に折れ、国道20号へ戻り、


国道20号を進む。


3人は旧甲州街道枡形道の先をそのまま進んでいる。
農道のような径が続いているのだろう。
国道20号を歩くより安全だとは思うが・・・


長野精工金沢工場入口に到着。
真っ直ぐ進んだ3人が合流して曰く、万年橋と書かれた橋があった、とのこと。
交通量の多い国道20号を横断して行くのも大変なので、万年橋は諦めることにした。


国道20号を進む。


個人宅の庭先に大黒様らしき大きな像があった。
『何か御利益があるのかしらっ?』


古そうな蔵(倉庫)である。


旧甲州街道は折り返して坂道を上るように案内されている。


標識に従って急坂を上って行くと、


坂道の途中に簡素な鳥居と大きな石碑があり、低い御柱が立っていた。
石碑の字は読めないし、説明など何もない。


坂道を上って行き、


中央本線(茅野方面)を跨ぐ。


線路を渡ると、旧街道は直ぐ左手の坂道を下っていく。


前方頭上に道路が走っている。
国道20号に繋がるのぞみ大橋か?


旧街道を進む。


小早川橋を渡ると左に南無阿弥陀仏と刻まれた碑が立っていた。
無縁仏を供養する碑なのだろうか?


小さな川(宮川)に沿って進むと、


電車が走って行くのが見えた。


中央線のガードを潜る。


旧街道を進むが、道が狭い割には交通量が多い。
大型車も通るので、最大限の注意が必要だ。


鮎釣り(友釣り)をしている人が。
釣果は定かではない。


11時6分、旧街道は国道20号に合流した。


合流点に立ち並ぶ石像群
常夜燈や二十三夜塔などの石像が多数集まっている。


一級河川の弓振川を渡り、


次の坂室交差点を右に曲がると、


11時10分、酒室神社があった。


酒室神社は、諏訪大社の祭礼のひとつである御射山祭りに濁酒(どぶろく)を作り、
山の神に供える前夜祭を執り行った神聖な地に祀った神で、
酒解子(さけとくね)之神を祭神とする。
神殿は文政八年(1825)大隈流の建築家矢崎玖右衛門の建築したもの。


酒室神社


お昼にはちょっと早いが、ここで弁当にしよう。


この日の弁当は、茅野駅で買った明太子と南高梅のおにぎりである。


酒室神社を後にして、旧街道を進む。


前方に見えるのは中央自動車道だ。


中央自動車道を過ぎ、旧街道らしい町並みを進むと、


三山神社入口の案内表示があった。


階段を上って行くと、


碑が並んでいただけだった。
神社らしき鳥居や社殿などは見当たらなかった。


旧街道に戻って進むと、


蔵造りの家が現れた。
「米膳かくい」とある。


お米屋さんが経営している和菓子屋である。
メニューは、おはぎ・だんご・くるみ大福・豆餅・あんころもち・赤飯など。


さらに進んで行くと、道路を横断して観光客がぞろぞろと
建物の中に入って行くのが見えた。


道路反対側には大型観光バスが止まっていた。


12時10分、宮川三輪神社に到着
三輪神社は、久寿年間(1154~56)の創建で、大和の国三輪村神社を
この地にお迎えしたものと伝えられ、宮川茅野・西茅野両区の産土神である。
祭神は大国主命・稲御魂命・櫛玉命である。


拝殿は、文政三年(1820)に建築されたが、明治41年に改築している。


本殿は、文化元年(1804)3月に矢崎玖右衛門により建築されたもの。


神社に隣接する古めかしい三階建ての土蔵は、寒天を保存するのに使われた
「かんてんぐら」で、以下の説明が。
この建物は、昭和の初期、岡谷に在った繭倉を移築し、寒天倉庫として
使ってきたものです。
明治から大正期、岡谷は製糸で栄えていました。
昭和に入り、製糸が下火になるのと入れ替わるように、ここ茅野では
寒天作りが盛んになっていました。


「かんてんぐら」は、そんな背景の中、岡谷から移築されてきたものです。
繭倉として建てられてから築百年以上と考えられています。
寒天倉庫としての役目を終えたこの「かんてんぐら」を、平成21年、
多目的ホールに改装して、現在は音楽をはじめとする様々なイベント等で
使用しています。(宮川くらの会)


道路の反対側を見ると、蔵造りの建物が並んでいる。


醸し丸と書かれた看板には、八ヶ岳 蔵元直営 麹カフェとある。


その隣は、丸井伊藤商店とあり、店先に大きな樽が置いてある。
味噌の漬物店のようだ。
先ほどバスから降りた観光客が入っていった建物である。
工場見学にでも入っていったのだろうか?


食事処「やまと」、


すっぽん料理屋「月とすっぽん」前を通り過ぎ、


12時22分、上川に架かる上川橋を渡る。
上川は往時、茅野川と呼ばれ、川幅60間(約108m)の大河であった。


上川の水源は八ヶ岳で、流末は諏訪湖に落ち合う。
遠くに八ヶ岳が見える。


『あの建物は、私たちが泊まった所だよねっ』
ちのステーションホテルである。


茅野駅に向かう。
その前に、茅野駅南に大鳥居があるというので、見てゆこう。


茅野駅前交差点に諏訪大社上社本宮参拝道の大鳥居があった。
諏訪大社上社本宮は、歩いて行ける距離ではない、そうなので、
この日はここまでとした。


駅前ビルのベルビア内を通って茅野駅へ。


12時35分、茅野駅に到着
5分ほど前(12寺30分)に特急あずさ16号が出たばっかりだった。
次の特急スーパーあずさ18号は、13時33分である。
約1時間ここで時間を潰すことになる。


茅野駅前に姥塚古墳があった。
かつてはこの地に古墳が存在した、そうだ。
明治37年(1904)茅野駅開設に先立ち取り壊され、その際に装身具・鏡・
土器等が出土している。
また、昭和61年(1986)駅舎改築及び西口整備の際には、
それまで残されていた石室の一部も撤去され、現在は標示が立つのみである。


30分ほど駅の周辺や待合室で過ごしていたが、駅ホームの方が涼しいのではないか、
ということで、駅ホームに移動して時間を潰す。


『やっぱりこっちの方が涼しいねっ』


13時33分、特急スーパーあずさ18号がやって来た。
特急スーパーあずさ18号の自由席はかなり空いていた。
新宿までに停車した駅は、甲府・八王子・立川の3つだけで、
新宿には15時33分に到着した。早い!

『皆さん 今日は大変お疲れさまでしたぁ』

「旧街道を歩くⅡ」第四回目甲州街道(教来石宿~金沢宿)(2日目)を歩き終えた。
御射山神戸一里塚は前日にも見たが、その素晴らしさには、やはり感動した。
今後何百年も残って欲しいものである。
金沢宿では本陣跡を探すのに夢中になって、金鶏山泉長寺山門前にあるとされる
「おてつき石」を見逃したのは、残念である。
また、本陣跡も見つけられなかったのは、残念至極という他ない。


次回(2018年9月)は、甲州街道の最終回として金沢宿~下諏訪宿を予定している。
2日目は、諏訪湖の残り半周を歩くことも予定している。
次回はどのような景色を観ることができるのか、今から楽しみである。

この日の万歩計は18,000歩を計測していた。

特選街道Ⅱ 第4回 甲州街道(教来石宿~金沢宿1日目)

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特選街道Ⅱ 第4回 甲州街道(教来石宿~金沢宿1日目)

2018年06月24日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年6月24日(日)

2015年(平成27年)1月から翌(2016年)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
仲間から『是非続けて欲しい』との声があり、今年(2018年)は「旧街道を歩くⅡ」
として、新たな”街道歩き”を始めた。

「旧街道を歩くⅡ」第四回(1日目)は、甲州街道教来石宿~金沢宿間を歩いた。

新宿7時ちょうど発の特急スーパーあずさ1号に乗車
前回、自由席も満席状態で、甲府駅まで座れないという苦い経験を味わったため、
今回は指定席を購入した。
この日は、座席にはかなり空席があり、自由席でも座れたと思う。


8時54分、小淵沢駅に到着
この日の参加者は6名である。


小淵沢駅の売店で駅弁を買い、


甲州街道(国道20号)まではタクシーを利用した。


9時12分、この日のスタート地点、国道20号の荒田交差点に到着。
料金は1720円だった。
3名づつ乗ったので、一人当たり570円余りということになる。


9時17分、JRすずらんの里駅に向けて、出発!


国道20号を進む。


9時27分、鳳来警察官駐在所前を通過
前回、ここからタクシーで小淵沢駅に向かった時の記憶が蘇る。


9時30分、上教来石山口諏訪神社に到着


諏訪神社の創建および沿革について詳しいことは明らかではない。
祭神は諏訪明神と通称される建御名方命で、古来より教来石村の産土神として
崇敬を受けてきた、そうだ。
教来石に建てられていた小祠が移設された神社、とのこと。
今回の旅の無事安全を祈願して、


旧甲州街道を進む。


教慶寺の石仏地蔵
地域内に火災・悪病・強盗などの凶事が相次いだことから、この災厄を除こうと
大きな石地蔵を鎮在して、地域に平和が訪れたと云われている、そうである。


教慶寺の石仏地蔵の先で、旧街道は国道20号から分岐している。
右側の旧街道を進む。


旧街道を進むと、


山口関所跡の説明が。
甲州24ヶ所口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。
ここが何時頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(1546)、
武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。
(中略)
この番所に残る大きな出来事に、天保七年(1836)郡内に端を発した
甲州騒動の暴徒が、この地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた
判断を咎められ、番士が”扶持召し上げられ”の処分を受けたことである。
番士のうち二宮氏は再び職に戻り、明治二年番所が廃せられるまで勤め、
明治六年に設けられた台ヶ原屯所の初代屯所長に起用されている。
(以下略)


鳳来山口関跡の碑


向いに西番所跡と刻まれた碑があり、次のように刻まれていた。
天保七年八月、百姓一揆時に開門 その責任を取り、
名取慶助は若尾に改姓、明治四年に廃藩により廃止
1992年 若尾法昭
(番所の門を開き、その責任を取って改姓したことを後世に残すために
名取慶助の子孫が石碑を建立?)


10時17分、国道20号に合流


釜無川に架かる国界橋を越えると、甲斐国から信濃国へと入ることになるが、


国道方向へは行かず、国道20号を横断して真っ直ぐ進む。


『この道って通れるのかしらねぇ?』


猟銃らしきものを背負っている人がいた。
犬が猪や鹿を追って来るのを待っている、とのこと。
道を尋ねると、この先の橋を渡れば国道に出られる、と聞いて一安心。


釜無川を渡る。


橋の出口には獣害を防ぐための金網が張られ、扉が閉まっていたが、
鍵はかかってなく、通り抜けることが出来て、一安堵。


国道20号を横断し、旧街道を進むと、


10時35分、日蓮上人の高座石の碑があった。


”この奥28m”の案内表示に従って進むと・・・


高座石らしき岩が祀られていた。
伝承によると、村に悪疫が流行し、村人が難渋していたので、
日蓮上人は三日三晩この岩に立って説法とともに加持祈祷を行い、
霊験をあらわにしたという。


旧街道に戻り、道なりに進む。
道端には道祖神や石仏などの碑が立ち並ぶ。
苔むして判読できないものが多い。
簡単な説明でもあればありがたいのだが・・・


標高731m
『東京スカイツリーより高いんだねっ』


旧街道を進む。


10時44分、真福寺に到着
元は真言宗であったが、日蓮上人に感応し、日蓮宗に改宗した、そうだ。
山門の二階部分は“鐘楼”になっており、


参道にはお釈迦様の弟子おびんずる様(浄行菩薩)が祀られている。


真福寺本堂にお参りして、


旧街道を進むと、


見晴しの良い場所に出た。


応安の古碑群
応安(1368年~1374年)とは南北朝の年号で、諏訪郡で最古の碑、と伝わる。


旧街道の左手には国道20号が走っている。
いつの間にか道の駅「葛木」は過ぎてしまったようだ。


10時59分、葛木宿に到着
江戸幕府の宿駅制度によって、慶長十六年(1611)頃、
甲州道中第43番目の宿駅として設置された蔦木宿は、
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠15軒であった。


蔦木宿の入口に常夜燈が建てられ、道祖神が祀られている。


六角灯籠
このような形の灯篭は初めてだ。
『珍しい形をしてるよねっ』


南の桝形道路
蔦木宿は、甲州街道の宿駅として、慶長十六年(1611)頃に設置された。
この宿駅は新しい土地に計画されたので、希に見る完備した形態となっている。
枡形路は、南北の入口に設けられ、以来、宿内への外からの見通しを遮り、
侵入者の直進を妨げて、安全防備の役割を果たしてきた。
(富士見町教育委員会)


枡形を左に直角に曲がると、国道20号に出た。


葛木宿の各家々には、甲州街道葛木宿 xx屋の屋号が掲げられていた。
かつてここにあったという屋号であり、現在の表札とは異なる。
べっこう屋


かなり年数が経っているようで、文字が薄くて読み難い。
油屋


本陣大阪屋の門
ここは弘化三年、最後の本陣を務めた大阪屋の跡地で、
明治13年の明治天皇御巡幸の際の小休所となった所である。
本陣の規模は広大で、多くの座敷や板敷、土間のほか、堂々とした門構えや
広い玄関、書院造りの上段の間などを具備していた、とのことだが、
現在は門のみが存在している。


門の直ぐ傍には、蔦木宿本陣跡碑(右)と明治大帝御駐輦跡碑(左)が建てられている。


葛木宿の家並みと屋号が書かれた宿の図
右側は南、左側は北と表示されている。


寿喜茂登屋


与謝野晶子の歌碑
白じらと 並木のもとの石の桶が 秋の水吐く 蔦木宿かな


北の桝形道路は、国道20号から左に折れて続いている。


角に桝形道址の石碑が建っている。


旧街道(国道20号)を進む。


旧街道(国道20号)を進む。


塩沢温泉
『温泉に入りたいねっ』


ラーメン、もつ煮込み、ギョーザ、ハンバーグ、
あらあげなどの幟が風にはためいている。
このような幟が気になるということは、お腹が空いてきた証拠か・・・
弁当を食べれる場所を探しながら歩くことにする。


12時3分、机地区への上り口を通過


左手に白州町大武川地区の景色を見ながら進む。


道路左側に「たけち温泉」の看板が。
『この辺りは温泉が多いんだねぇ』


緩やかな坂道の旧街道を進み、


12時26分、立場川に架かる瀬沢大橋を渡る。


立場川は釜無川の支流になっている。


緩やかな上り坂を進むと吉見屋と書かれた看板の家があった。
たばこ、塩などの文字が見えるが、今は営業していないようにみえる。


さらに坂道を進む。


手持ちの地図には左手辺りに神社のマークがあり、いかにも神社らしい雰囲気だったので、
急な石段上って行くと・・・


12時42分、果たして小さな神社があった。
『御柱があるんだから神社なんじゃないのっ』
古いが土俵も見える。


神社の名前は分らないが、大神と刻まれた碑が。


境内の神社の反対側には2つの小さなお堂があった。


左側のお堂には全身を白い涎掛けに包まれたお地蔵様が。
子安地蔵なのだろうか?


中尾山西照寺と書かれたお堂には2体の仏像が安置されていた。


この際、神社でもお寺でも構わない。
お昼時も過ぎているし、ここで弁当タイムにしよう、ということに。


弁当タイム


この日は、小淵沢駅で買った「鶏めし弁当」(980円)である。
なかなか美味しかった。


13時24分、昼食も終わり、旧街道を進む。


緩やかな坂道を上る。
旧街道の案内表示などは何も見当らない。
『この道で合ってるんだよねっ?』
手持ちの簡略地図では不安が募るが、


道端にこのような石碑(馬頭観世音?)があるのをみると、旧街道に違いない。


小さな峠を越えると見晴しの良い場所に出た。
前方左手に建物が見えるが、コンビニだろうか?


建物は、ジャンピンというバン工房だったが、日曜日のためか扉や窓は閉まっていた。


緩やかな上り坂の旧街道を進むと、右手に山が連なっているのが見えた。
『あの山って八ヶ岳じゃないっ?』


13時48分、尾片瀬神社に到着した。
由来等は不明だが、とちの木集落の外れにある神社である。


尾片瀬神社に参拝


尾片瀬神社からは八ヶ岳がよりはっきりと見えた。


旧街道沿いの道端に佇む石仏群を過ぎると、


芧木(とちのき)風除林があった。
寛政年間(1789~1800)に村では高島藩へ願い出て、
防風林として外風除けを村の上に仕立てた。


そのアカマツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして今日に至っている。
(富士見町教育委員会)


重修一里塚碑


重修一里塚は、日本橋から46番目の一里塚である。


重修一里塚碑の近くに950mと書かれた標高標柱が。
『筑波山より200mも高いんだよねっ』
近くにいた地元の人に聞いた話では、冬は−20度にもなるそうだ。
『冬はとてもじゃないけど住めないよねっ』


甲州街道の標識に従って枡形のような道を進む。
標識がないと、道に迷ってしまう。


『ちょっと疲れちゃったねっ』


木陰に腰を下して一休みして行こう。


農道のような道を進んで行くと、原の茶屋に出た。


富士見公園があった。
公園内には、有名人の歌碑や句碑があるようだが、
見て回るのは大変だ。
現在地から一番近い所に芭蕉の句碑があるようなので、見てみよう。


芭蕉句碑
これは明治14年鶴鳴舎中により建てられたもので、
元禄七年(1694)芭蕉が箱根を越えたときに読んだ句である。
眼にかゝる ときや殊更 五月不二 はせを


街道を進むと、明治天皇御膳水の碑があった。


明治天皇御膳水碑の先に常夜灯が建てられていた。


道祖神や庚申塔、供養塔などを右手に見て、


旧街道を進む。


左手に見えるのは、入笠山だ。
入笠山といえば”すずらんの群生地”として有名である。
今から6年前の2012年6月19日(火)に常南交通社のバスハイキングで来たことがあるが、
この辺りだったとは知らなかった。


『これってキャベツでしょっ?』
『きちんと植えてあるわね~っ』


旧街道を進む。


金山大権現の碑


『これは石仏のようだねぇ』


下り坂の旧街道を進んで行くと、


前方の山裾にJRすずらんの里駅が見えた。
『すずらんの里駅が今日のゴールなんだよねっ』


15時16分、国道20号に合流
富士見パノラマリゾート入口交差点とある。


700mほど国道20号を進むと、神戸八幡交差点があった。
この信号を右に曲がればすずらんの里駅だが・・・


時間も早いし、この日の最後を飾るには御射山神戸一里塚を見ておこうということに。
その前に先ず神戸八幡神社へ参拝を済ませておこう。


御射山神戸八幡神社(富士見町指定湯系文化財)
この八幡神社は、古くは鍬形八幡と称されていたようであり、
現在の建物は宝暦十二年(1762)の建立になり、
棟梁は伊奈郡沢底村(現辰野町)出身の加藤吉左衛門である。
(以下略)


八幡社本殿東側の欅(富士見町指定天然記念物)は、樹高30m、胸高幹囲7.7mで
町内で一番の大木であり、樹齢390年と推定される。
町内の寺院や神社の境内に植栽されている欅には大木が多く、
胸高幹囲3mを超えるものが14株あり、そのうち4株がこの境内のものである。
(平成15年3月 富士見町教育委員会)


国道20号を進むと、道が分岐していた。


分岐点に石碑が立っていたが、何と書いてあるのか全く読めない。


近くにいた人に一里塚の場所を訊ねるNKさん。
分岐点を左に進むように教えて貰った、とのこと。


分岐点を左に少し進むと、たくさんの馬頭観音碑が並んでいた。
『こんなに馬頭尊が集まっているのは見たことがないよねっ』


さらに坂道を進んで行くと、堂々とした塚が見えて来た。
『あれが一里塚みたいだねっ』


御射山神戸一里塚は、集落の北外れにあって、日本橋から48里目(49里との説も)
の塚と云われ、明治中頃までその役割を果たしていた。
道路西塚には欅が、東塚には榎が育っていたが、明治初期に枯れてしまったという。
こちら東側の榎は2代目になるのだろう。


残っている西塚の欅は、塚が造られた慶長年間に植えられたものと推定され、
樹齢は凡そ380年を数える。
現在では目通り高で幹の太さが周囲6.9m、樹高は約25mの巨木となり、
永い歳月と風雪に耐えて堂々たる風格を備え、樹勢もなお盛んである。
甲州街道でこのように塚・欅ともに往時のものが保存されている例は他になく、
実に貴重な存在である。
(平成10年3月 富士見町教育委員会)
『今じゃ樹齢400年ってことだよねっ』
『こんな立派な一里塚を見るのは初めてじゃないかなぁ』


御射山神戸一里塚を見たことで、一区切り付いたことから、
すずらんの里駅へ引き返すことにしよう。


神戸八幡交差点を左に曲りすずらんの里駅へ。
前方にすずらんの里駅舎が見えて来た。


駅舎近くにスズランが植えられていた。


16時3分、すずらんの里駅に到着。


16時34分、下り電車がやって来た。


『いやぁ 今日は良く歩いたよな~』
『ちょっと疲れちゃったねっ』


16時45分、茅野駅に到着


明日の上り電車の時刻を確認
『7時59分があるねっ 乗り遅れてもその次は8時22分だしねっ』


駅前の飲食店などを確認してホテルへ向かう。
『ここでいっぱい飲って、後で何か食事を注文すればいいんじゃないっ?』
の一言に全員納得、これで決まりである。


茅野ステーションホテルが見えた。


17時2分、茅野ステーションホテルに到着


ホテルでひと風呂浴びて汗を流した後、18時30分、食事に出掛けた。


「庄や」は、けっこう地元の人で混んでいた。


先ずは生ビールで乾杯をして、一日を振り返って話が盛り上がっていると、
隣席のお嬢さんが全員での写真を撮ってくれるという。
お言葉に甘えて撮って貰ったのがこの1枚。


皆で『ありがとうっ』と礼を言い、カメラを構えると、
にっこりと笑顔で応じて、Vサインを返してくれた。
なかなかチャーミングだ。
ブログに載せることを約束した。
(コメント期待してます)


この日は、仕事の打ち合わせで来ているとのこと。
二人とも独身とのことだが・・・
幸せになって欲しい。

『皆さん 今日は大変お疲れさまでしたぁ』

「旧街道を歩くⅡ」第四回目甲州街道(教来石宿~金沢宿)(1日目)を歩き終えた。
神戸八幡神社から先の馬頭尊像や御射山神戸一里塚は、翌日も歩くので、
余分ではあったが、この日の締めには最高の場所と思い、足を延ばした次第。
御射山神戸一里塚を目にした時には、その立派さに感動を覚えた。
ここまで歩いて来て良かった、とその時思った。

茅野駅に着いた頃には正直言って疲れたが、
駅前の「庄や」でのいっぱいは、疲れを吹き飛ばしてくれた。
また、チャーミングなお嬢さんの笑顔が新たな力を与えてくれたような気がする。

明日は、蔦木宿(すずらんの里駅)~金沢宿(茅野駅)を予定している。
どのような景色を観ることができるのか、楽しみである。

万歩計は31,000歩を越えていた。久しぶりの30,000歩超えである。

特選街道Ⅱ 第4回 甲州街道(教来石宿~金沢宿2日目)

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谷川岳も間近に 水上温泉から諏訪峡

2018年06月22日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年6月22日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第11回(2018年第21回)、「水上温泉から諏訪峡」ウォーキングに参加した。

前週の土曜日(6月16日)の予報では、曇り時々雨(降水確率60%)だったのが、
翌日曜日(6月17日)には降水確率は70%に上がった。
降水確率70%は月曜日になっても変わらず、雨の中を歩くのは大変だし、
滑って転倒でもしたら危険だということで、中止にしようということに。
月曜日の夕方には、常南交通社に中止の旨連絡し、朝昼の弁当キャンセルを
依頼するとともに、電話とメールで参加者全員に連絡した。
ところがである、
翌火曜日になると、予報は、曇り時々晴に変わり、降水確率は30%になった。
『えっ まさかっ』一日でこんなに変わるものなのだろうか?
この予報では、”中止”では後で悔いが残ると考え、再度実施することに変更した
という次第。
参加者には、再度実施の連絡をしたが、既に他の予定に切り替えてしまった
とのことで、数名の不参加者が出てしまったのは痛恨の極みである。

土浦三中地区公民館
『今日はちょっと少ない感じだねっ』


6時12分、常南交通のバスがやって来た。


この日の参加者は24名で、当初予定より3名減となった。
1名は体調不良ということなので、予定変更に伴う減員は2名という結果に。


6時32分、つくば・牛久ICから圏央道に乗り、


濃霧の中、圏央道を走る。


いつものおにぎり弁当で腹ごしらえ。


東北道との分岐点久喜白岡JCTを通過する頃には霧も晴れて来た。


7時21分、菖蒲PAに到着、三中公民館を出発してほぼ1時間だ。
ここで15分間の休憩を摂り、


圏央道から関越道へ


8時23分、藤岡JCTを通過


8時27分、続いて高崎JCTを通過


高崎JCTを過ぎた辺りから車窓に榛名山が見え隠れし出した。


8時51分、赤城高原SAに到着


ここまではすこぶる順調で、予定より早く着いたため、
昼食の弁当が届くまで少し長めの休憩を摂ることに。
群馬県の観光地図で水上温泉・諏訪峡などを確認したり、


土産物の品定めをして楽しんだり、すっかりリラックスした様子。
『いやぁ いろいろ売ってるね~っ』


『これって素敵じゃないっ?』
土産を買ったかどうかは定かではない。


下牧PAを過ぎる辺りから谷川岳がはっきりと見えた。
『まだ雪が残ってるんだぁ』


9時34分、水上ICで関越道を降り、


9時41分、この日のスタート地JR水上駅に到着した。
駅前には、数台のタクシーが停車していた。
駅前の土産物店はまだ開店前のようだ。


水上駅前の土産物店の前で


準備を整え、


9時51分、TKさんを先頭に諏訪峡目指して出発!


最初は上越線の線路に沿って進む。


『今日は良い天気になって良かったわよねっ』
『陽に焼けるのが心配だよねっ』


先頭Gはループ式の県道61号を右手に見上げながら進み、


階段を下って行く。


その先には吊り橋が見えるが・・・


よく見ると、橋はかなり壊れている。
とてもこの吊り橋を渡って向こう岸に行くことは出来そうにない。
この吊り橋は地図に載っている湯原橋(ゆばらばし)ではなさそう。


吊り橋を引き返し、町道をさらに進むと、目指していた湯原橋はあった。
湯原橋の向こうに水上温泉のホテルが立ち並んでいる。


湯原橋を渡る。


湯原橋から利根川上流を望む。
谷川岳が見える。


湯原橋を渡ると温泉街のふれあい通りが始まる。


温泉街を進むと、


10時12分、水上町山岳資料館があった。
谷川岳に関する資料を展示しているとのことだったので、
中を覗いて行こうと立ち寄ったが、扉は閉まっていた。
『もう10時すぎてるのにねぇ』
この時期、平日の午前中に立ち寄る人などいないからなのかも。


さらに水上温泉の温泉街を進み、


くるま坂通りを下って行くと、左手に高層マンションが現れた。
「サニックス水上壱番館」は、1LDKが中心のマンションだ。
『こんな温泉街にもマンションがあるんだぁ』
『どんな人が買うんだろうねっ』


温湯川に架かる温湯川橋を渡ると、


諏訪峡遊歩道の標柱があった。
遊歩道の入口である。


利根川に架かる紅葉橋を渡り対岸へ。


紅葉橋から見た利根川下流
リバーラフティング用のゴムボートが。
ここからスタートするのだろう。


紅葉橋を渡ると、諏訪峡へ続く階段があった。


利根川沿いの遊歩道を進む。
対岸は道の駅「水上水紀行館」である。


遊歩道を進む。


利根川に沿った緩やかな坂道は楽で、整備されているので歩き易い。
と思っていたら・・・


『この遊歩道には岩場もあるんだねぇ』


後ろを振り返ると、谷川岳がはっきりと見えた。
『いやぁ 素晴らしい景色だなぁ』


さらに遊歩道を進む。


利根川下流方面
瀬が浅く急流になっている。
前方に笹笛橋が見える。
この辺りから諏訪峡と呼ばれる場所のようだ。


利根川上流方面
関越自動車道方面を望む。


10時40分、笹笛童子公園に着いた。
笹笛を吹く童子像と


笹笛橋の歌詞の碑が建てられている。


笹笛橋の対岸は与謝野晶子歌碑公園になっている。
帰りは、この橋を渡って道の駅「水上水紀行館」に行くことにしている。


笹笛童子公園の一角で小休止。


恒例のお茶タイムでひと時を過ごす。


諏訪峡遊歩道は、落石の危険につき見晴から銚子橋間は通行出来ません、とある。
とりあえず”見晴”まで行ってみよう。


緑の中、”見晴”を目指す。


緑の隙間から諏訪峡の景色が見え隠れする。
諏訪峡は利根川の流れが狭まって急流の瀬となる所で、リバーラフティングでは
一番の難所だそうだ。


県道61号・諏訪峡大橋の下を通過
42mの高さからバンジージャンプができるそうだ。


上りの遊歩道を進む。
しっかり整備されているので歩き易い。


『いやぁ 水がきれいだね~っ』


『水と緑って、ほんと気持ちが良いよな~っ』


最近はリバーラフティングが人気だそうだ。
『気持ち良さそうだなぁ』
『一度やってみたいねっ』


『ほんと 素晴らしい眺めだねぇ』
何艘ものゴムボートが見える。


急な階段状の坂道があり、


上って行くと・・・


11時9分、”見晴”に到着した。
ここから先は進めないため、ここが折り返し点となる。


木々に邪魔されて”見晴”の名前とは裏腹に前方の眺めはあまり良くないが、
振り返った眺望は素晴らしい。


TKさんを先頭に笹笛橋を目指して引き返す。


『紅葉の時期に来てみたい所だよねっ』


笹笛橋に到着し、


長さ32mの笹笛橋を渡る。


利根川上流
『いやぁ 谷川岳は見えるし、絶景だね~っ』


利根川下流
『紅葉の時期の景色は最高だろうねっ』


笹笛橋を渡る。


『こんな素敵な場所 来て良かったわね~っ』


与謝野晶子歌碑公園
与謝野晶子は、水上町の温泉地をこよなく愛し、幾度となく訪れていた、とのこと。
与謝野晶子をイメージした丸い帽子のモニュメントには、
「君死にたまふことなかれ」の詩が刻まれている。


横には同じく帽子を模った石碑に「山の動く日」の詩が。


与謝野晶子と鉄幹の夫婦の歌碑もある。


道の駅「水紀行館」を目指す。


与謝野晶子の歌碑が並んでいる。


道の駅「水紀行館」へ。


11時47分、道の駅「水紀行館」に到着
利根川に棲む魚類などを展示する水産学習館や軽食コーナーや
地元の野菜や谷川岳の名水、銘菓を販売している。


温泉足湯もある。


バスは既に到着して待機していた。


うまい具合に空いているベンチがあった。
お昼には少し早いが、ここで弁当にしよう。


弁当タイム


突然汽笛の音が聞こえたので、対岸を見ると、SLが走っているのが見えた。
慌ててカメラを構えて撮った1枚である。
昭和63年に復活したという臨時列車のSLみなかみ号で、
D51や61を使用して、高崎~水上間で運転されているという。
『今日は金曜日なのにねぇ』


何事もなかったかのように弁当を食べる女性たち。
SLにはあまり興味はなさそうだ。


この日の弁当は、「上州御用鳥めし」である。


お世辞抜きで美味しかった。
会員の評価も高かった。


12時35分、入浴希望者を乗せて「鈴森の湯」へ。
今朝方は20名近い希望者がいたが、結局は13名となった。
気温は高かったが、湿度が低く、あまり汗をかかなかったのかもしれない。


12時45分、道の駅「水紀行館」から10分ほどで「鈴森の湯」に到着


「鈴森の湯」へ。


めいめい入浴料750円を払って「鈴森の湯」へ。
暖簾をくぐると・・・


男性用内湯


男性用露天風呂
『いやぁ やっぱり源泉掛け流しは気持ちが良いね~っ』


湯上りに生ビールで喉を潤す。
『湯上りの一杯は最高だよねっ』


『やっぱ 美味いなっ』


『いやぁ 堪らないね~ぇ』


『やめられないよねっ』


『ミルクもいけるよっ』


女性陣もお好みの飲み物を注文してしばし寛ぐ。


13時56分、道の駅「水上水紀行館」に戻り、
会費徴収を済ませて、帰路に就いた。


関越道伊香保ICの少し手前付近を通過


利根川を渡る。
『この辺りは水上とはかなり川幅の大きさが違うねっ』


14時44分、北関東道への分岐点高崎JCTを通過


嵐山PA付近を走行する頃には、


後部座席で盛り上がっていた皆さんは、気持ち良さそうにお休みタイムだ。
そのうちに後ろに移動しようと思っていたが、このままそっとしておこう。


圏央道菖蒲PAまで2Kmの表示


15時35分、菖蒲PAに到着


皆さんお土産選びには余念がない。


『何にしようかしら~っ』


『いろいろあって迷っちゃうわよねっ』
この日の土産は宇都宮の餃子(980円)を買った。


16時1分、東北道への分岐点白岡菖蒲JCTを通過


利根川を横断し、


16時42分、つくば・牛久ICを通過


つくばイオンを見るとなぜかほっとする。


16時55分、三中公民館に到着
『随分早く着いちゃったもんだね~っ』
まあ早いに越したことはない、と思う。

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

水上温泉から諏訪峡を巡るウォーキングが無事終了した。
諏訪峡のきれいな水の流れと、緑に包まれた景色は素晴らしかった。
利根川の流れの先に、山頂に雪を被った谷川岳の景色は、最高だった。

入浴は久しぶりだったが、「鈴森の湯」の源泉かけ流しを楽しんだ。
時間的に空いていたこともあったが、贅沢な時間を過ごすことが出来た。
満足のいく一日だった。

この日の万歩計は、12,000歩を少し超えていた。

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緑も豊か 歴史と近代文学のみち市川

2018年06月08日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年6月8日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第10回(2018年第20回)、「歴史と近代文学のみち(市川)」ウォーキングに参加した。

荒川沖駅7時59分の電車を待っているところ。
この時間帯は、通勤・通学の混雑も一段落し、
電車は空いているのでよく利用する。


柏(常磐線各停)、東松戸(武蔵野線)、西船橋(総武線)と3度乗り換え、
9時20分、この日のスタート地市川駅に到着した。


この日の参加者は19名。
市川駅改札口で点呼を取って迷子はいないことを確認。


9時30分、市川駅北口を出発!


ダイエー角を右折して駅前西通りを100mほど進み、


次の角を左折すると国道14号(千葉街道)に出た。


千葉街道を横断して正面の真間本通りを進むと、


京成線の踏切がある。


京成線市川真間駅を右に見て、


150m先の信号を右に折れて進む。


300mほど先の五差路を左に渡ったところが、


9時47分、市川「文学の道」の始まりである。
地図の確認と”市川と文学”について学んでおこう。


”市川と文学”には次のように記されている。
市川の文学は、万葉集に始まると言われますが、以来、多くの文人墨客が
この地を訪れ、市川を題材にした和歌や小説を残しています。
万葉集には高橋虫麻呂や山部赤人が手児奈の歌を残していますし、
江戸時代に入ると井原西鶴や上田秋茂などの作品に市川の描写が見られます。
また、明治になると、夏目漱石や正岡子規、高浜虚子の作品の中に市川の
様子が登場するようになります。
明治以降も北原白秋など多くの文人が移り住み、市川の姿を作品の中に
登場させてきました。
このように「市川と文学」は古代から密接な関係を築いてきました。
古代より育まれてきた市川の文学に思いを馳せてはいかがでしょう。


「文学の道」は、およそ800mに及ぶ細長い桜土手公園を歩くことになる。


歩道には「万葉の里 いちかわ」の表示もある。


散歩道には動物の置物が置かれているが、これは市川とは関係なさそう。
『可愛いのねっ』


「文学の道」には、市川ゆかりの歌人北原白秋や


昭和の俳人水原秋櫻子などの紹介板が並んでいる。


『市川にゆかりのある川柳作家もけっこういるんだぁ』


市川ゆかりの川柳作家の紹介板


小説家・随筆家でもある、父幸田露伴・娘幸田文親子は、
菅野の白幡天神社の近くに住んでいた、と記されている。


「文学の道」を進む。


9時52分、ベンチ代りの椅子があったので、ここで一休み。
『桜の木が木陰になってるので、そんなに暑く感じないよねっ』


軽いお茶タイム
『ごちそうさまっ』


冷たいゼリーに舌鼓
『冷たくて美味しいねっ』


『永井荷風も市川に住んでいたんだぁ』


桜土手公園を進む。
『一つ一つ全部読んで歩くのは大変だよねっ』


脚本家水木洋子の紹介板を過ぎ、


さらに桜土手公園を進むと、


突き当たりに真間(まま)川が流れているので、左に折れて川沿いに進む。


川向うに真間小学校が見える。


さらに真間川に沿って進むと、


桜土手の西詰に浮島弁財天があった。
浮島弁財天は、技芸の神様として知られ、多くの信仰を集めている、とのこと。


道端には市川を読んだ和歌などの作品が紹介されている。


手児奈(てこな)橋を渡る。


手児奈橋を渡って真間川に沿って進み、最初の角を右に曲がると、


10時9分、赤い欄干の「真間の継橋」に到着した。
万葉の時代、この地域にはたくさんの州があり、その州から州へのかけ橋が
継橋だったと考えられている。
「真間の継橋」は、万葉集をはじめ勅撰集など昔から多くの歌人に歌われ、
また、後世多くの歌人の題材になった。


日蓮上人の歌碑
ここに人を 渡しはてんと せしほどに 我が身はもとの ままの継橋


継橋のすぐ先に手児奈霊神堂があったので、お参りして行くことにした。


”南無手児奈霊神”と染め抜かれた赤い幟旗の間を進むと、


手児奈霊神堂があった。
万葉集に歌われた真間の手児奈をお祀りしているお堂である。
良縁成就・孝子受胎・無事安産・建児育成の御利益で知られる。


手児奈霊神堂の説明
その昔、真間の里に手児奈という、美しい娘がおりました。
その美貌に手児奈を娶りたいと、男たちは争ったといいます。
心優しい手児奈は、人々が争い傷つくのを厭って、
ついに真間の入り江に身を投げてしまいました。
里の人々は、手児奈の心情をあわれみ、御祠をつくって手厚く葬り、
手児奈の物語を語り継ぎました。
万葉歌人・山部赤人がこの地を訪ねた折、手児奈への思いを廻らせました。
われも見つ 人にも告げん 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処」     


「縁結び 桂の木」
桂の木は、縁結びの木として霊験が顕著といわれています。
この桂の木は、昭和56年7月26日、第三回市川ほうずき市に、
当時市川市に在住していた歌手さだまさしさんが奉納されたものです。


手児奈霊神堂を後にして、弘法寺(ぐほうじ)へ。


急な石段を上る


石段の両側には数種の紫陽花が咲いていて、目を楽しませてくれる。


10時23分、真間山弘法寺の仁王門に到着
奈良時代天平九年(737)、行基菩薩がこの地に立ち寄ったとき
里の娘手児奈の哀話を聞き、いたくその心情を哀れに思い、
一宇を建てて求法寺と名付け手厚くその霊を弔われた。
それから凡そ百年ほど経た平安時代弘仁十三年(822)に弘法大師(空海)が
布教に来られた時、求法寺を七堂伽藍に再建され、寺運を一新して
求法寺を弘法寺と改称した。 


仁王像は運慶作との伝えもある、そうだ。


弘法寺祖師堂
弘法寺は、行基菩薩または弘法大師空海による創建との伝えのある
1300年以上の長い歴史と由緒ある古刹である。


祖師堂は、宗祖日蓮上人をお祀りする御堂。
最初は鎌倉時代正中二年(1325)に建立された。
現在の祖師堂は江戸時代中期の延宝二年(1628)に上棟されたもの。


本堂奥に宗祖日蓮上人像が鎮座している。


弘法寺客殿前を通り過ぎると、


弘法寺朱雀門(通称赤門)がある。
弘法寺で最も古く500年の歴史ある建物とも云われている。


弘法寺朱雀門前を右に曲り、次の目的地下総国分寺を目指す。


千葉商科大学南門前を通り過ぎると、


見晴しの良い場所に出た。


手持ちの地図では小さな路は分らないので、勘を頼りに住宅街を進む。
『多分こっちの方角で合ってると思うんだけどなぁ』


下総国分寺の案内表示を見つけ、表示に従って進む。


急な曲がった坂道を上って行くと、


10時52分、下総国分寺仁王門に到着した。
下総国分寺は、真言宗豊山派の寺院。
山号は国分山で、本尊は薬師如来。


仁王像(吽像)


下総国分僧寺跡
下総国では、市川に国府があったので、ここに国分寺が建立された。
その建立年代ははっきりしないが、奈良時代であることは確実です。
国分僧寺は、過去数回の火災をうけて当時のおもかげはないが、
発掘調査の結果、法隆寺様式の伽藍配置をもつ、金堂・講堂・塔の遺構が
発見されている。(市川市教育委員会)


下総国分寺創建伽藍基坦配置図
創建当時の金堂基坦・講堂基坦・七重塔基坦が赤で示されている。


下総国分寺本堂
行基菩薩開山伝説もある国指定文化財下総国国分寺跡とあるが、
現在も国分寺は歴史を刻んでいるお寺である。


下総国分寺は、市川七福神(毘沙門天)の一つでもある。


本堂裏に回ってみると、下総国国分寺の金堂基坦・講堂基坦・七重塔基坦などは
ここから見る限りでは墓で埋め尽くされていた。


下総国分尼寺跡へ。


『この通りに行けば良いんだよねっ』


鳥居があったので、覗いてみると、


庚申塔らしく、青面金剛像が鎮座していた。


住宅街を通り抜けると、


11時13分、公園のような広場があった。
下総国分尼寺跡である。


史跡 国分尼寺跡の碑
国分尼寺は、国分寺と同様、天平十三年(741)に聖武天皇が発した
国分寺建立の詔勅により、全国に建立された。
正式名称は「法華滅罪之寺」という。
下総国分尼寺跡は、下総国分寺の北西側約500mの同一台地上に所在しており、
東側にある国分寺は「東寺」、西側にある国分尼寺は「西寺」とも呼ばれて
いたようである。


広場の草むらの中に金堂跡や


講堂跡を示す標識があった。


女性陣は古寺跡にはあまり興味はないようだ。
木陰で一休みして、


堀之内貝塚公園を目指した。
11時22分、時計台のある学校の傍を通り、


住宅街を進む。
(中国分二丁目付近)


中国分幼稚園前を通過し、


住宅街を進む。
(中国分五丁目付近)


特徴のある建物などもなく、どの辺りを進んでいるのか分らなくなってしまった。
通りかかった郵便配達の人に訊ねると、一筋異なる通りを歩いていることが分った。


郵便配達の人に教えて貰った道を堀之内貝塚公園を目指した。


坂道を下り、右に曲って進むと、


11時59分、真新しい広い道路があり、出来たばかりと思える歩道橋があった。
小塚山公園前交差点だった。


どうやら正面の森が目指す堀之内貝塚公園と思われる。
交差点を渡り、貝塚公園を目指す。


堀之内貝塚公園入口の表示があったが、金網の扉は閉まっていた。
『だけど鍵は掛かってないねっ』
ということで、ここから入ることにした。


森の中にはいくつもの細い径があった。


その中の一つを上って行くと・・・


金網の向こうに建物が現れた。
歴史博物館と思われる。


こちらは考古博物館のようだ。


ちょうどお昼を知らせるメロディが流れてきた。
この先の蓴菜(じゅんさい)池緑地まではかなり距離があるので、
ここで弁当タイムにするのが良いだろう。


弁当タイム
おにぎりが美味しい。


弁当を終え、12時44分、次の目的地蓴菜池緑地を目指して出発!


堀之内貝塚公園内には小さな社も祀られていた。
とりあえず参拝だけはしておくのが、我々年代の流儀である。


入って来た時とは別のルートで出口へ向かう。
『こんな所にベンチがあったんだぁ』
『ここで弁当にすれば良かったねっ』


貝塚公園の森を抜け、


入って来た扉から外に出た。


歩道橋を渡ってみることにしよう。


タカの森歩道橋を渡る。


道路は小塚山トンネルで小塚山公園の下を通る形になっている。
(この道路は6月2日に開通したばかりの東京外環道だった)


「水と緑の回廊」を蓴菜池緑地を目指す。


右手に「小塚山フィールドアスレチック」の公園を見ながら進むと、


蓴菜池緑地430mの標識が。


標識に従って、森の中を進む。


水辺に近い緑の中を進んで行くと、


池があった。
水生植物案内板によると、ここが蓴菜池ではないかと思われる。
戦前まで蓴菜が採れたことから、この名前が付けられた、そうだ。
6月から8月上旬頃までに生のものを味わえるとのことだが、
残念ながら池に蓴菜は見当らなかった。


さらに進むと、左手に水生植物池とは別の大きな池があった。


池のほとりを進む。


小さな島もある。


『素敵な公園だね~っ』


水辺の住宅に住んでる人が羨ましく見える環境だ。
『あんな家に住んでみたいわねっ』


13時18分、蓴菜池緑地の西端に到着
蓴菜池緑地の地図があった。
『乙戸沼よりも大きそうだねぇ』
『散歩にちょうど良い大きさじゃないっ?』


池端で軽い休憩を摂り、


13時25分、里見公園を目指し、蓴菜池緑地を後にした。


住宅地を通り、国府台病院前の桜並木を進むと、


13時38分、里見公園に到着


『なんだか疲れちゃったわよねっ』
かなりの距離を歩いたこともあるが、30度近い梅雨の暑さのせいかも。


しばらく休憩を摂り、


里見公園内を進むと、小さなバラ園があり、


噴水があった。
『水が恋しい季節だね~っ』


盛期は過ぎてはいたが、黄色いバラや、


赤いバラ、


ひときわ赤いバラなどが咲いていた。


13時58分、里見公園を後にして、


江戸川に向かって緩やかな坂道を下って行くと、


目の前に江戸川が現れた。


海から14.5Kmの地点を下流に向けて進む。


江戸川に沿って進む。


目の前の雑木がなくなり、視界が開けた。
東京と千葉の境を流れる江戸川は、江戸時代は水運の大動脈だった。


川向こうに東京スカイツリーが見える。
対岸は東京都江戸川区だ。


雑木が無くなったとたん強い風をまともに受けることに。
『風が強~い』 『帽子が飛ばされちゃう~』


西寄りの強い風を受けながらJR市川駅を目指す。


ゴールのJR市川駅へ。


14時15分、京成線国府台駅のガード下を潜り、


県道1号(松戸街道)を200mほど進むと、国道14号(千葉街道)の
市川広小路交差点に合流した。


広小路交差点の歩道橋を渡り、


千葉街道の反対側へ。


千葉街道をJR市川駅方面へ進み、


千葉街道を右に折れてJR市川駅へ。


14時32分、総武線市川駅直結のシャポー市川西側に到着した。
エスカレータは点検中で停止していた。
『ここは歩くしかないよねっ』


いろんな店が並ぶシャポー市川を通り抜け、


JR市川駅改札口へ向かう。


14時40分、市川駅総武線ホームに到着。
船橋方面への電車を待つ僅かな時間だが、普段あまり座らない人も、
この日ばかりは椅子に腰を下す。
さすがに今日は疲れた表情が見てとれた。
とは言うものの、自分もけっこう疲れた。
『皆さん、本当に今日はお疲れさまでしたぁ』

この後、船橋で東武線に乗り換え、柏から常磐線で帰路に就いた。

この日は、歴史と近代文学のみち(市川)を歩いた。
「文学の道」に紹介されていた市川ゆかりの歌人・俳人・小説家などの
多さに正直言って感心した。
川柳作家なども紹介されていたのには、びっくりした。

歌人・俳人・小説家などの歌碑や句碑なども多く、とても一日では
回り切れるものではない。
別の機会を探る必要があると思った次第。

手児奈霊神堂、弘法寺、下総国分僧寺跡、下総国分尼寺跡と云った
歴史的な建造物の他、掘之内貝塚公園、蓴菜池緑地、里見公園など
緑も豊かで、なかなか素晴らしいコースだと感じた。

この日の万歩計は、22,000歩を少し超えていた。
当会としては、久しぶりの20,000歩超えである。

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コメント
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