ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道を歩くⅠ 第七回 (中山道)馬籠宿~妻籠宿(2日目)

2015年09月28日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年9月28日(月)

昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも見所が多く、人気のある区間を選んで歩くことにした。
旧街道全てを歩くのは、時間的にも資金的にも大変なため、ある街道の中から
気に入った宿間を独断で選んで歩くものである。
日帰りを主としているが、コースによっては宿泊も有りとしている。

「旧街道(特選)」第七回は、中山道の落合川駅~落合宿~馬籠宿~妻籠宿~南木曽駅間(約25Km)を
2日間かけて歩くというものである。
2日目のこの日は、馬籠宿~妻籠宿~南木曽駅までを歩いた。

2日目の朝、「馬籠茶屋」の前から馬籠宿石屋坂を見る。
今日も良い天気、どんな景色に巡り会えるのか、楽しみである。


朝食は7時30分からとなっている。


『昨夜はお腹いっぱいだったけど、朝になるとまた食べれるもんだねぇ』


支払いを済ませ、8時18分、妻籠宿目指して出発だ。
ちなみに支払いは、夕食時のビールも入れて、平均9,000円ほどだった。
納得の料金である。


馬籠宿内を歩く。
店はまだ開いてない。人影は見えない。


展望台へ向かう。


展望台から馬籠宿方面を望む。


恵那山は雲に覆われていて山頂は見えない。
『昨日のうちに見ておいて良かったねっ』


”行き止り 回り道”の表示に従って妻籠宿へ向かう。
案内表示も英語併記、それだけ外国人が多いということだろう。


坂道を下ると、車道に合流した。
熊除けの鐘は、街道のあちこちに設けられている。


道路を横断し、10分ほど進むと、


また、道路に出た。
この辺りは、道路が街道を縫うように走っている。


古びた水車がゆっくりと回っていた。
ゆったりと時が流れるのを感じる。


中山道は、水車小屋を横に見ながら、梨子ノ木坂に続いていた。


梨子ノ木坂から7分ほど歩くと、「樹梨」という食事処があった。
”栗こわめし”が名物のようだが、まだ店は開いていないようだ。


さらに進むと、道端に蒸かしたさつま芋が1本100円で売られていた。
まだ腹は空いていなかったが、1本買ってみた。
Mさんと半分個して食べたが、甘くて美味かった、


9時17分、大きな木の下に木札が立っているのが目に入った。


十辺舎一九の狂歌碑だった。
木曽谷の名物、栗強飯を歌っている。
渋皮の むけし女は見えねども 栗のこわめし ここの名物


馬籠峠の近く、古い家が立ち並ぶ小さな集落を進む。


『けっこう古い家だよねぇ』
峠地区の集落のほぼ中央にある今井家住宅。
明治前期の建築というから、約130年~140年ほど前ということになる。
景観重要建造物に指定されている。


9時25分、熊野神社前を通過。
明治天皇が休憩された処でもある。


緩やかな坂道を上って行くと・・・


岐阜県と長野県との県境標識が見えてきた。
峠の先は、南木曽町である。


9時30分、馬籠峠に到着した。
この峠が馬籠宿と妻籠宿の境となる。
馬籠宿を出発して1時間10分が経過していた。
”栗おこわが有名”と紹介されていた「峠の茶屋」の戸は、固く閉まっていた。


馬籠峠頂上(801m)で一休み。


9時40分、妻籠宿目指して出発だ。
妻籠宿まで、5.5Kmと表示されている。


『やっぱ下りは楽で良いねぇ』
少し下ると石畳はなくなり、砂が敷き詰められた道になった。


『行き倒れの人の墓なのかねぇ』
左端の大きな石には「南無阿弥陀仏」の字が見える。


9時51分、一石栃立場茶屋に到着した。
この付近は、妻籠と馬籠の中間に位置し、往時は7軒ほどの家があって栄えていた。
今では牧野家住宅一軒のみが残っている。


中に入ると、牧野家の主人と思しき人がお茶を入れてくれた。
訊けばこここには住んではいないと言う。
麓の妻籠から通っているのだそうだ。


『お茶が美味しいねっ』
(寸志を忘れないところは、さすがKさん)


家の前の枝垂れ桜(撮影日:2013/5/1)


この日の枝垂れ桜
次に来る機会があれば、4月末から5月初旬が良さそうだ。


一石栃の白木改番所跡
木曽から移出される木材を取り締まるために設けられたもので、檜の小枝に至るまで、
許可を示す刻印を焼いてあるかどうかを調べるほど厳重だったと言われている。


4.7Km先の妻籠宿を目指す。


檜の並木の中を進んで行くと・・・


さわらの大樹があった。
推定樹齢300年、胴回り5.5m、樹高41m、材積34㎥。
この木一本で約300個の風呂桶を作ることが出来る、そうである。
このさわらの下枝が立ち上がって特異な枝ぶりとなっているが、このような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)という。
昔から山の神(天狗)が腰掛けて休む場所と信じられており、傷つけたり切ったりすると祟られると言われていた。


10時20分、一石栃口の道標を通過。
距離は短いが石畳が敷かれていた。


妻籠宿への街道は、沢を渡り、


男埵(おたる)の国有林を進む。
中山道男埵山一帯は風致保護林に指定され、檜(ひのき)・椹(さわら)・明檜(あすひ)・高野槙・鼠子(ねずこ)の
いわゆる木曽の五木が、鬱蒼と生い茂っている。
これらの大木は、江戸時代は停止木として、明治になってからは官林、
さらに明治22年以降は御料林として保護されてきた。


崩れ易い箇所には、木道が敷かれているので安心して通れる。


10時36分、街道から少し逸れるが、雄滝・雌滝の案内があった。
戻ってきた人に訊くと滝まで数分とのことなので、行ってみることに。


中山道から逸れること4分、雄滝に到着した。
滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が残り、吉川英治「宮本武蔵」にも登場する滝。
滝の前に立つと、冷たい風が吹き付け真に爽快な気分。


雄滝の右手数十mのところには雌滝が豪快に流れ落ちている。
『滝まで見られたとは、最高だねっ』


中山道まで戻り、10時48分、再び妻籠宿を目指す。
妻籠宿まで3.2Kmだ。


若い外国人カップルが身軽な恰好で瞬く間に追い抜いていった。
バッグなどの大きな荷物は、希望する場所まで運ぶサービス業があるらしい。


大妻籠に近い茶屋のような民家前を通過


下り坂を下りて行くと、牛頭観音の説明板があった。


説明には、
石の多い急な坂道を思い荷物を運ぶため黒牛が利用された。
その黒牛の供養塔で、中山道に祀られた唯一の石仏である。
山の斜面に小さな牛頭観音が安置されていた。


N.Yから来たという男性。
8週間の休暇をもらって日本を旅しているそうだ。
奥さん(山口県出身の日本人)は、N.Yで働いているとのこと。


漬け込んだクルミを取り出し、


水車でクルミを洗うのだそうだ。


大妻籠の民家が静かに佇んでいる。
以前見た妻籠宿によく似た風景である。


11時24分、大妻籠の看板に到着。
『立派な旅籠だよねっ』


大妻籠の家並みを抜け、妻籠宿へ向かう。


道標
”右志ん道”、”左旧道つまご”と刻まれている。


田んぼがあるのどかな旧街道


『美味そうな柿だなぁ』
実りの秋である。


広い駐車場に出た。
この日は月曜日、車は殆ど止まっていなかった。


11時44分、駐車場脇の「妻籠宿」のでっかい看板が迎えてくれた。


妻籠宿の街並み入口


妻籠宿入口を入ると、右手に古い旅籠「八起」があったが、戸は閉じたままだった。


11時50分、関西電力妻籠発電所を通過。
妻籠宿の景観に合わせた木製の黒い塀に囲まれ、建物や鉄塔類も茶系の景観色が施されている。


妻籠宿の街並みを歩く。


妻籠宿
江戸時代にタイムスリップしたような気分だ。


妻籠宿の中央付近で道が2手に分かれている。
左が旧道である。


2手に分かれた道の右側に延命地蔵がある。
享保十年(1725)の書上げには「地蔵堂」と記されている。
堂内には直径が2mほどもある自然石が安置されている。
この延命岩を別名汗かき地蔵という。


左側が順路と案内されている。
屋根の上に重石が載せられているのが印象的である。


道は大きく右に曲がっている。
江戸時代のはじめに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされ整備され、
宿場の出入り口には必ず桝形が設けられた。
宿場の桝形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が侵入し難いようにしたものである。


桝形のところで延命地蔵堂で2手に分かれた道に合流した。


天然記念物のギンモクセイがあるというので、坂道を上る。
キンモクセイの良い香りの先に、


「妻籠のギンモクセイ」の巨木があった。
案内によると、
栽培した巨木で知られているのは、広島県に2本、大阪府・愛媛県・石川県・和歌山県に各1本で、
ここのものは最も東寄りのものであり、太さからいっても和歌山県のものに比べて優劣がない。
地上30mで、周囲1m91Cm、高さ8m、とのこと。


妻籠のギンモクセイ
『いやぁ これは立派だわっ』


真っ白な花をつけるギンモクセイは、開花するとほのかな香りを放つ。
9月中旬から10月上旬が見頃と言うからまさに今である。


昼飯前に妻籠観光案内所へ。


9人分の「完歩証明書」に押印してもらい、皆さんに手渡した。
『やったねって感じよねっ』


12時26分、観光案内所からほど近い、「俵屋」で昼食にしよう。
「俵屋」の建物は、初代の妻籠郵便局として長年親しまれてきた、そうだ。
俵屋名物の五幣餅は、昭和52年9月12日、天皇・皇后両陛下が妻籠宿行啓の折に召し上がられたそうである。


『お疲れさまでしたっ』


全員、五幣餅と、


ざる蕎麦のセット(1,000円)を注文した。


『お腹が空いてたから美味しいっ』
『五幣餅も美味しかったぁ』


妻籠宿本陣
本陣は島崎藤村の母の生家、江戸時代後期の間取り図を基に建物が復元された。


脇本陣奥谷
屋号を奥谷という林家は、代々脇本陣を務めた家。
現在の建物は、明治時代に建て替えたもの。
江戸期には禁木であった木曽檜がふんだんに使われている。


道端に大釜が展示?されていた。
手作りの味噌作りで大豆を煮たもの、である。


妻籠宿内を進む。


月曜日だからか、観光客はそれほど多くない。


妻籠宿内を進む。


目指す南木曽駅は右側の道だ。


南木曽駅へ向かう。


12時55分、口留番所跡を通過
江戸時代初期、この辺りに口留番所があって、中山道を行く人々を監視していた。


妻籠宿の外れの旅籠「大吉」


南木曽駅まで3.2Kmとある。
今13時1分なので、14時過ぎには到着するだろう。


南木曽駅まで下りだけかと思ったら上り坂もあった。


県史跡妻籠城跡
妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかではないが、室町中期には築城されていたと推測される。
天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり、慶長五年(1600)の関が原の戦いの時も、
軍勢がここを固めたが、元和二年(1616)には廃城となった。
妻籠城は、典型的な山城で、空堀・帯回輪、さらには南木曽岳にのびる妻の神土塁という土塁も備えており、
規模の大きな構えであった。


13時16分、蛇石(へんびいし)脇を通過
中世の中山道は、ここから沢沿いに上っていたが、元禄十六年(1703)に道の付け替え工事が行われて、
妻籠城総堀を通る現在の道になった、とのこと。


蛇石の道標
”右つまご宿、左志ん道下り道”と読み取ることが出来る。


南木曽駅へ向かう。


砂防ダム工事が行われていた。
昨年(2014年7月9日)発生した台風8号による土石流災害の復旧工事と思われる。
一日も早い工事完成を祈りたい。


良寛碑
木曽路にて
この暮の もの悲しきにわかくさの 妻よびたてて 子壮鹿鳴くも
この歌は手まり上人と言われた良寛が、木曽路を通った折に詠まれた二首の内の一首、とあるが、
あいにく良寛の碑は、見つけられなかった。


上久保の一里塚
木曽町内には、十二兼・金知屋・上久保・下り谷の4ヵ所に一里塚があったが、
現在原形をとどめているのはここだけである。両塚とも現存する。
江戸から数えて78里目の塚である。(80里目という説もある)


せん澤道標
”左なきそ駅へ 下り国道へ 右妻籠宿へ”が刻まれている。


13時32分、南木曽駅へ1.3Km地点を通過


13時35分、かぶと観音に到着


木曽義仲が兜の中に納めていた、十一面観音を祀っている。


境内にはお堂の他に


義仲の「袖振り松の水舟」がある。
義仲が弓を射るのに邪魔となった松を巴御前が袖を振り、なぎ払ったと云われる「袖振りの松」は、
松喰虫の被害により平成21年に伐採された。
松は、長さ約7mという通常の倍以上の大きさがある水舟に生まれ変わった、とのこと。


観音様の前で、最後の休憩を摂り、


南木曽駅へ向かう。


南木曽の街並みが見えてきた。


小さな公園にSL-D51が展示されていた。
昭和15年12月23日に日立製作所笠戸工場で製造され、福井機関区を始め、金沢・富山・新庄・横手各機関区を経て、
昭和46年10月5日に木曽福島機関区に配置されたものである。
総走行距離は、2,141,417Kmとあるから地球45周にも及ぶ。


中央本線の線路を横に見ながら南木曽駅を目指す。


14時8分、ゴールの南木曽駅に到着。
思った以上に立派な駅舎である。


南木曽駅の真ん前に土産物店があった。
そこで、冷えた缶ビールを買い、


駅の待合室で祝杯を上げる。


14時41分、中津川行電車がやってきた。


『天気に恵まれて良かったわね~っ』
『「完歩証明書」もいただいて、ほんと最高だったねっ』

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

「旧街道を歩く(特選)」第七回目 中山道(落合宿~馬籠宿~妻籠宿~南木曽駅)を無事歩き終えた。
馬籠宿、妻籠宿という中山道のなかでも最も人気があると云われる両宿間を歩き、「完歩証明書」を
貰えたのは、良い思い出になる。

両宿間は外国人にも人気が高いそうだが、なるほどと頷ける。
案内標識が全て英語と韓国語で書かれている点と、トイレが充実している点である。
街道のあちこちにきれいな洋式水洗トイレが整備されているのには、感心した。
宿泊した宿(馬籠茶屋)も全て洋式トイレだった。
安心して歩けるし、泊まれるというものだろう。

次回(11月)は、藪原宿~奈良井宿~贄川宿を計画している。
天気に恵まれることを祈るばかりである。

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特選街道を歩くⅠ 第七回 (中山道)馬籠宿~妻籠宿(1日目)

2015年09月27日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年9月27日(日)

昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも見所が多く、人気のある区間を選んで歩くことにした。
旧街道全てを歩くのは、時間的にも資金的にも大変なため、ある街道の中から
気に入った宿間を独断で選んで歩くものである。
今回は、日帰りを主としているが、コースによっては宿泊も有りとしている。
なお、旧東海道の三島宿から京都三条までは、別の機会を見つけて歩くことにしたい。

「旧街道(特選)」第七回は、中山道の落合川駅~落合宿~馬籠宿~妻籠宿~南木曽駅間(約25Km)を2日間かけて歩いた。

東京駅でめいめい好みの駅弁を買い、7時3分発のひかり461号岡山行に乗車。
大人の休日倶楽部会員だが、のぞみ号では割引が効かないため、ひかり号とした。
参加者は、いつもの9名が集まった。


女性陣は、運よく3人掛けに座れて『幸先良いみたいっ』


名古屋駅には9時9分に到着し、中央本線中津川行快速電車に乗り換える。
中津川まで約1時間20分ほどである。


9時50分、中津川駅に到着。
中津川駅の次が落合川駅だが、11時ちょうど発のワンマン列車を待つことになる。


中津川駅には、中山道の「これより北 木曽路」の石碑(複製)が置かれていた。
”これから木曽路を歩くんだ”という気持ちが高まってきた。


11時0分発の坂下行に乗車。次の落合川駅までは3分である。


11時3分、旅のスタート地点、落合川駅に到着。
落合川駅で降りたのは我々だけだったのは少し拍子抜けである。


駅を降りると目の前に水を満々と湛えた関西電力の落合ダム湖が広がる。


中山道落合宿まで1.6Km、落合の石畳まで3.0Kmの表示


駅前で各々準備を整えて、


11時11分、先ずは落合宿目指して、出発だ!


落合川に架かる吊り橋を渡る。
中山道まで1.0Kmと案内されている。
『この橋歩くとかなり揺れるよね』


中央本線の鉄橋を潜り、600mほど進むと、


中山道(国道19号)に出たが、横断歩道がないので横断陸橋を渡る。


南木曽方面


曹洞宗の善昌寺は、慶長五年(1600)の創建といわれ、武儀郡関村(関市)にある龍泰寺の末寺である。
明治二十四年の道路改修工事で寺の一部が道路となり、寺は東側へ移設された。


境内にあった松はそのまま残され、現在「路上の松」と称されている。
また、創建当時の山門を覆っていたことから、「門冠の松」とも呼ばれている。


「門冠の松」の真前が中山道(中津川宿方面)となっている。


善昌寺前の公園で暑さ対策をしていこう。


落合宿を少し進むと、「落合宿助け合い大釜」が目に入る。
文久元年(1861)、皇女和宮の大通行時には、4日間で延べ約26,000人余が落合宿を通った。
当時、暖かいおもてなしをするため、各家のかまどは引きも切らず焚き続けられた、そうである。
展示してある大釜は、寒天の原料(天草)を煮る時に使用されたもので、
容量は1,000リットルを超え、口径約1.5mある、とのこと。


落合宿本陣跡
落合宿本陣井口家は、代々本陣を勤めると共に、問屋・庄屋をも兼務し、宿の業務の運営を行う指導的な家柄で、
苗字帯刀を許される礼遇を受けた。
明治十三年(1880)に大改修されているが、正門を始め、上段の間・小姓の間等が今もそのまま保存されている。


落合宿塚田脇本陣跡
かつては、庄屋と問屋を兼ねていた。


落合宿は、江戸へ82里12町(323Km)、京へ52里9町(205Km)の位置にある。
町の長さ3町35間(390m)、家数75軒を数えた。


上町の秋葉様の常夜灯
宿場通りには、秋葉様の常夜灯が4基あり、戸ごとを回る当番により灯をともし防火を祈ってきた。
寛政四年(1792)十二月に建てられたが、明治十三年(1880)の道路整備の際、3基は他所に移された。
この1基だけが道の片隅に寄せられ、往時の姿を留めている。


高札場跡
常夜灯の少し先に「落合宿高札場跡」と書かれた石碑があった。


落合宿の外れ辺りを進む。


十曲峠の手前で中山道は左側へ進む。
かつては、この先の下桁橋は、「大橋」とか「落合橋」と呼ばれていた。
この橋は洪水のため、たびたび流失していたり、医王寺までの登り道がつづら折りの難所だったことから、
道路を変更することとなり、寛保元年(1741)から神坂湯船沢経由の新道が中山道となった。
しかし、この道も悪路で、1.8Kmも遠回りになったことから、明和八年(1771)、
再び十曲峠を通る道筋に戻した、そうだ。


下桁橋(落合橋)


『凄いねっ 本物の滝みたいだねっ』


下桁橋を渡ると、”これより十曲峠”の表示が・・・


『けっこうきつい坂道だよねっ』
体中から汗が噴き出してきた。


『いやぁ しかし眺めは素晴らしいなぁ』


アケビだ。
ジャンプしても届く高さではないので、採るのは諦めた。


馬頭観音菩薩(イボ観音)
西向観音またはイボ観音とも呼ばれ、イボができると石を借りてさすり、
治ったら石を二つにして返す慣習がある、とのこと。


幾分、坂道が緩やかになってきた。


12時14分、医王寺に到着。
既にお昼を過ぎているが、もう少し頑張って昼食にふさわしい場所を探すことにした。


医王寺は、嘉永六年(1853)の建立。
薬師如来は行基の作と伝えられ、虫封じの薬師として、三河の鳳来寺・御嵩の蟹薬師とともに
日本三薬師の1つとして広く信仰を集めている。
境内には芭蕉句碑がある。
芭蕉45歳の時、木曽路を旅して「送られつ 送りつ果ては 木曽の秋」という句を残している。


医王寺の枝垂れ桜
俳諧の宗匠嵩左坊が「その日その日 風にふかせる 柳かな」と詠んだ県下随一と云われ名木であったが、
伊勢湾台風で倒れ、今は二代目。


12時24分、「落合の石畳」入口に到着。
これより840mの案内表示。


石畳の表面は、最近まで雨が降ったのか濡れており、滑り易いので注意が必要だ。
箱根の石畳よりは歩き易い。


落合の石畳の説明には、
落合の石畳は、中山道の落合宿と馬篭宿の間にある十曲峠の坂道を歩き易いように石を敷き並べたもの。
江戸時代の主な街道は、一里塚を造り、並木を多く植え、制度化し、その保護には絶えず注意が払われたが、
石畳については、何も考えた様子が見られない。
そのため、壊れたまま放置されることが多く、ここの石畳も荒れるにまかせていたが、
地元の人たちの勤労奉仕で原形に復元された、とのこと。
『ボランティアで復元したのかぁ 大変だっただろうねっ』


水はけ用排水溝も造られている。


なんじゃもんじゃの杜
本名を「ひとつばたご」といい、古世代の依存木である。
五月中旬頃の開花で、満開のときは樹上が真白になり、雪が積もったような景観を醸し出す。
昭和51年、落合老人クラブが植樹した、とある。


自動車道路に出た。
平成17年の周辺市区町村の合併により、新中津川市として誕生した記念として、
「落合石畳遊歩道」が、道路を横断して長野県境まで120mほど続く。


「落合石畳遊歩道」を120mほど進むと、


先ほどの道路に合流した。


美濃・信濃国境の碑が建てられていた。
『ここから長野県なんだねっ』


国境の碑の前に新茶屋一里塚があった。
新茶屋一里塚は、天保~安政(1830~1860)には、立木は右(江戸より京)に松、左はなしだったが、
整備にあたり、右に松、左に榎を復元した。(平成6年2月)
写真の一里塚には、榎が植えられていた。
日本橋から83番目の一里塚だ。


藤村が揮毫した、”是より北 木曽路”の石碑があった。
中津川駅で見たのと同じ形だが、”是”が漢字という点が異なる。


バス停?
時刻表を見ると、平日は馬籠方面が一日1本、中津川方面が一日2本。
土日はどちらも一日0本となっていた。
これほど少ない本数のバス路線は知らない。
『利用する人っているのかなぁ?』


この辺りの地名を「新茶屋」という。
江戸のころ宿場と宿場の間にある茶屋を「立場茶屋」と言った。
かつての茶屋は、ここから岐阜県側に数百mほど入った場所にあったが、江戸の終わり頃に現在に移った。
そのためここを「新茶屋」と呼ぶようになった、そうだ。
写真は、民宿「新茶屋」


時計は13時を少し回っており、お腹もかなり空いてきた。
民宿「新茶屋」の向い側に休憩所もあることだし、ここで弁当にしよう。


皆さん、東京駅で買った駅弁を広げる。


牛肉弁当(1,050円)
月並みだが、美味しかった。


弁当も食べ終わり、後は2Km先の馬籠宿を目指すだけである。
13時30分、馬籠宿へ向けて出発!
皆さん何かに見とれているようだが・・・


何とグリーンカーテンが、トマトで出来ている。
『たくさん生ってるねっ』
『今度、トマトを植えてみようかしらっ』


後方に見えるのは、民宿「新茶屋」だ。


新茶屋付近ののどかな景色を見ながら進む。


新茶屋から約10分行ったところに、正岡子規の句碑があった。
桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」と書かれている。


ここは、信州サンセットポイント百選に選ばれるほど、景色がきれいな場所らしい。


水もきれいだ。


道端に佇む道祖神


クルミが干してある。
ここに来る途中、いたる所でクルミの木を見掛けた。


馬籠宿を目指す。


”馬籠”のいわれ
昔の”まごめ”は生活物資は馬の背で何でも運んだ。馬は大切な動物だった。
馬方を本職にしていた人たちも何人か居た。
朝方中津や落合の町中に出かけ、帰りは馬の背に荷物を積んで持ち帰る人が馬方衆であった。
人が病気や怪我などで中津に行く時は、籠で地区の組内の人が担いで行った。
馬と籠、つまり”馬籠”ということ、と記されていた。


13時59分、諏訪神社を通過
参道が長そうなので、鳥居のところで一礼。


庚申塚


馬籠城址
この辺りの地名を「丸山」とも「城山」とも云う。
今から500年ほど前の室町時代から「馬籠城(砦)」があったことが記されている。


馬籠宿まで残り300m付近。
『もう直ぐ馬籠宿だよねっ』


石屋坂の急な坂道を上ると、


14時15分、馬籠宿の入口に到着した。
『やっと着いたねぇ』


とりあえずこの日の宿「馬籠茶屋」を目指す。
地図によると、「馬籠茶屋」は馬籠宿の中ほどである。
この日は日曜日のため、観光客が多い。


石屋坂を上る。
ゴール間近だが、最後にこの急坂は堪える。
体中汗だくである。早く風呂に入りたい。


ここから先は何年か前に来たことがあるので、見覚えがある。


清水屋資料館
島崎家と親交の深かった原家は、屋号を清水屋といい、代々馬籠宿役人を務めていた。
藤村直筆の書簡や宿場町馬籠の資料も展示されている。(200円)


但馬屋
約110年前の囲炉裏がある宿で、馬籠宿のほぼ中央に位置する。
懐かしい囲炉裏端の寛ぎが楽しめる。
2か月前に予約しようとしたが、満室だった。


「馬籠茶屋」の看板が見えた。


「馬籠茶屋」の手前に馬籠郵便局がある。


「馬籠茶屋」の向い側も「馬籠茶屋」の看板が。
街道を挟んで宿と食事処の両方を営んでいるのだ。
こちらは食事(夕食・朝食)の時に使うことになっている、そうだ。


14時20分、宿泊先の「馬籠茶屋」の玄関を入る。
旅館の雰囲気が漂う。


部屋に案内されて、しばし寛ぐ。
『いやぁ お疲れさんでしたぁ』


夕方まで少し時間があるので、宿場を一通り見ておこう。
30分ほどの小休止の後、馬籠茶屋を出て、宿場へ。
馬籠茶屋から石屋坂を見下ろしたところ。
まだ観光客はかなり多い。人の流れは続いている。


藤村記念館、馬籠宿本陣
処女作から絶筆までのすべての作品、直筆原稿、遺品などが所蔵・展示されている。
大火による焼失を免れた隠居所が残る。(550円)


馬籠観光案内所で情報を仕入れる。
馬籠宿~妻籠宿を歩くと「完歩証明書」がもらえるとのこと。
通常、両方の宿場で各100円の合計200円が必要だが、宿泊者は100円でOKとのこと。
早速、全員100円を払って、「馬籠宿」を押印した手形を受け取った。
明日、「妻籠宿」を押印して完了ということになる。


馬籠脇本陣資料館
馬籠宿脇本陣蜂谷家の跡地に建てられた資料館で、往時の脇本陣上段の間が復元されている。
家財や什器、古文書などの展示もある。(300円)


木曽五木(きそごぼく
宝永五年(1708)五月、尾張藩は、木曽の住民たちがひのき・さわら・こうやまき・あすなろ・ねずこ
五種類の木を伐採することを禁じ、掟を破る者は死罪にした。
「木一本首一つ、枝を落とせば腕を斬る」として恐れられると共に、山を失った村人の経済は
音を立てて崩れていった、とのこと。


馬籠宿を展望台へ向かう。


この時期、キンモクセイの何とも言えない甘い香りが漂う。
『良い匂いだよね~っ』


展望台へ向かう。


恵盛庵(手打ちそば屋)


高札場
このように高い札場は初めて見た。
これぞ高札場である。


展望台
この先の馬籠峠は標高801m、この峠が馬籠宿と妻籠宿の境となる。
白雲や 青葉若葉の 三十里」の正岡子規の句碑も立つ。


藤村の歌碑
心を起さうと思はば 先づ身を起こせ”と刻まれている。


先ほどまで山頂には雲がかかっていた恵那山(2,192m)だったが、急に雲が取れて山容がはっきり。
『良かったわねえ 私たちツイてるんじゃないっ?』


15時40分、馬籠茶屋へ戻る頃には観光客の数は大分少なくなっていた。


無料休憩所に立ち寄った。
馬籠宿の案内や写真などが展示してあり、Wi-Fiが無料とある。
外国人が多く立ち寄るのだろう。


『どうっ 似合うかしらっ?』


宿泊先の「馬籠茶屋」を過ぎて、もう少し石屋阪を下ってみることに。


水車がある。
馬籠宿ミニ発電所だ。


石屋阪を下ったこのアングルは、馬籠宿のパンフレットにも載っている。


馬籠茶屋へ引き返す頃には観光客も大分少なくなってきた。


16時20分、馬籠茶屋に戻り、夕食前にひと風呂浴びることにした。
夕食は18時からとなっている。


夕食タイム
『いただきま~すっ』
この日の馬籠茶屋のゲストは、我々一行以外(10人ほど)は全て外国人だったのにはちょっとビックリ。


『お疲れさまでしたぁ』


この日の料理
味もなかなかで、ボリューム満点である。
『全部食べ切れないねぇ』


部屋に戻って飲み直しだ。
『かんぱ~いっ』
『明日も頑張って歩きましょうっ』


”中山道(馬籠宿から妻籠宿)歩き”の1日目が無事終わった。
落合宿から馬籠宿までの中山道は、勤労奉仕で整備された石畳と破砕したタイルできれいに舗装されており、
とても歩き易く、道に迷うこともなかった。
十曲峠の一部を除けば高低差もさほどではなかった。
車がほとんど通らないので安心して歩けるのが良い。

途中の景色も素晴らしく、街道の雰囲気を存分に味わうことができた。
天気に恵まれたことが幸いしたと思う。
明日は、馬籠宿から妻籠宿・南木曽駅を目指すが、天気に恵まれることを祈りたい。

この日の万歩計は、15,000歩を少し回っていた。

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海鮮丼に舌鼓 平磯から那珂湊へ(ひたちなか)

2015年09月25日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年9月26日(土)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第14回(2015年第25回)、「平磯から那珂湊へ(ひたちなか)」ウォーキングに参加した。
先週(9月11日)、先々週(9月18日)は雨で中止となり、3週間ぶりの例会となった。

この日は、那珂湊ということもあって、ときわ路パス(2,150円)が利用できる土曜日実施である。
荒川沖駅8時1分発の電車を待っているところ。


『久しぶりだから楽しみにしてたのよねっ』


9時32分、勝田駅で「ひたちなか海浜鉄道-湊線」に乗り換える。


湊線は1両編成である。


『この電車に乗るのは初めてだわっ』という人も多い。


我々一行29名と他に数人が乗り込んだ。
貸し切りに近い状態である。


湊線に乗ること約20数分、


9時59分、出発地の平磯駅に到着。


列車が去った後の平磯駅ホーム


平磯駅には直行した2名が待っていた。
結局この日の参加者は31名となった。
駅にはトイレが1か所しかない、しかも男女共用である。


全員が終わるまでかなり時間がかかりそう。
待っている間に、準備体操は済ませちゃおう。


何人かの人には、トイレのある平磯漁港まで我慢してもらうことにした。
自分もそのうちの一人であるが。
10時17分、とりあえず出発だ!


この日も先頭を務めるのはOさんだ。


平磯の市街地を海岸へ向かう。


建物の間から水平線が見えてきた。
『もう直ぐ海だねっ』


県道6号線に出て、海岸沿いを平磯漁港へ。


10時26分、平磯漁港に到着。


『やっぱり、海は気持ちが良いよね~っ』


魚港の中には、港のアイドルの赤いクジラが浮かんでいる。
海水浴を楽しむ子供たちに人気があるそうだ。
『大ちゃんって言うんだぁ』


平磯駅から我慢を強いられた人も、すっきりとした顔で次の目的地「水門帰帆」へ向かう。


平磯漁港の浜辺には、クジラの他にカメもいた。
タロウとハナコの2匹のカメがいたそうだが、これは、ハナコと思われる。
(かすんでいるが、ナコの文字が読み取れる)
『カメがいたとは知らなかったなぁ』


海沿いの道路沿いに小さな店や家が立ち並ぶ。


Kさんの狙いのショットは何だろう?


姥の懐に打ち寄せる波しぶきだろうか?


心地よい潮風を受けながら那珂湊港方面へ。


丘の上には高層マンションが聳える。
『見晴らしは最高でしょうねっ』
『一度住んでみたいわねっ』


10時46分、「姥の懐マリンプール」を通過。
海が相当荒れていてもここなら安全だ。


「姥の懐マリンプール」からほど近くの崖下駐車場の傍に、国木田独歩静養地碑などがある。


明治40年9月3日から11月4日まで、国木田独歩は、病気療養のために那珂湊牛久保の杉田雨人の別荘を訪れた。
独歩はこの別荘を「青一盧」と名付け静養に努め、病状の小康を得ている。
静養中には島崎藤村、小杉放庵、田山花袋ら多くの文壇関係者が独歩を見舞いにこの地を訪れている。(以下略)


とりあげて見れば やさしき子安貝 乳房たつねよ姥の懐
この歌は、水戸光圀(義公)が詠んだ歌と云われている。
姥のふところは、古く洞穴のような岩があり、人々の集まる所として、また、小貝が打ち寄せて磯遊びの好適地、
眺望の景地として有名であった。
光圀の歌はこうした姥のふところの特徴の表れた秀歌である。(以下略)
姥の懐は、茨城県百景に選ばれている。


『みんなしっかりと描いてるよねっ』


壁面には、ひたちなか市誕生10周年記念の、地元の小学校が描いた海の絵が並んでいる。
(平成6年11月1日に旧勝田市と旧那珂湊市の合併により誕生。平成26年に20周年を迎えた)


「水門帰帆」(みなとのきはん)は、特に案内などはなく、地元の人に訊いて家屋の裏手の細い路地を進む。
『この道は、地元の人じゃないと分からないよねっ』


路地の突き当たりの狭い石段を上ると、


小高い丘の上に出た。
さらに保健相談センターの横を100mほど進んで行くと、


11時3分、「水門帰帆」碑前に到着。
「水門帰帆」は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公が選定した水戸八景の一つである。
太平洋や那珂湊漁港を眺望できる高台にあり、大理石に斉昭の揮毫を彫刻した碑が立っている。
また、湊八景「和田帰帆」(わだのきはん)の碑も並んで立っている。


「水門帰帆」から見た那珂湊漁港全景


『これはなかなか素晴らしい眺めだねぇ』


那珂湊漁港


那珂川に架かる海門橋も見える。


恒例のお茶タイム。
皆さんそれぞれ持参のお菓子が配られ、たちまち両手いっぱいに。


「水門帰帆」を後にして、那珂湊漁港へ向かう。


県道6号を那珂湊魚港へ。


11時22分、那珂湊魚港に到着。


『那珂湊港ってけっこう広いんだね~っ』


『何が釣れるのかしら?』


港のあちこちに釣り人の姿が見えるが、釣れている気配はあまり感じられない。


お昼も近いので、お魚センターへ向かう。


那珂湊海洋高校(旧水産高校)の漁業実習船として、近海・沿岸漁業に就航していた常陽丸が展示されている。
常陽丸は、漁業実習船で83トン、1972年(昭和47年)に建造され1986年(昭和61年)まで就航していた。
その間の乗船実習生は3,500名に上るとのこと。


左手にお魚センター(魚市場)が見えてきた。


この日は、集合時刻を決めて、めいめいお好みの場所で、昼食してもらうことにした。


魚市場を見物しながら、昼食場所を探す。


11時40分、魚市場の端にある港が見えるレストランへ。(毎年初詣には、必ず訪れる店である)
昼前ということもあって、それほど混んではいなかった。


『かんぱ~いっ お疲れさ~ん』


『いやぁ今日のビールは美味いねっ』


この店のお薦めと言えば、”海鮮丼”(1,500円)である。
全員”海鮮丼”を注文した。
『いやぁ凄くボリュームがあるなぁ』


大き目の刺身に覆われてしゃりが見えないうえに、大アサリの味噌汁付きというところが人気の秘密かも・・・


女性にも好評のようだ。


食後は集合時刻まで時間があるので、魚市場を覗いてみよう。


今の時期は、サンマが多い。
『これみんなサンマ?』


『買いたいけど、電車だから持って帰る訳にもいかないしなぁ』


ヒモノも美味しそうだ!!


『TVでおなじみのホンビノスハマグリ? 聞いたことないなぁ』


『この岩ガキ 随分でかいね~っ』
『美味そうだけど、お昼食べたばかりだから』
ということで、結局誰も何も買わずに集合場所へ向かったのであった。
(次回、車で来た時には鮮魚でも買うことにしよう)


12時48分、出発!
後半はTさんが先頭を務める。
次の目的地「湊公園」を目指す。


那珂湊市街地を進むこと10数分、


13時1分、湊公園に到着した。
湊公園には、水戸藩第2代藩主徳川光圀公の命により、元禄十一年(1698)に建てられた
水戸藩別邸夤賓閣(いひんかく)跡がある。
庭には徳川光圀公が須磨明石(兵庫県明石市)から取り寄せて植えた、
枝ぶりの見事な黒松(湊御殿の松)が12株残っている。
これはそのうちの1株。


黒松をバックに記念撮影


湊公園の日和山(御殿山)と呼ばれる丘陵から那珂川を見下ろす。
『ここからの眺めも素晴らしいわね~っ』
湊公園の「日和山秋月」は茨城県百景「姥の懐」の包含風景に指定されている。
また、湊八景の史跡にも指定されている。


那珂川に架かる朱い海門橋が印象的だ。


那珂川の対岸に水戸八景のひとつ、巌船夕照(いわふねゆうしょう)のある森が見える。


湊公園を散策


湊公園の景色
市民の憩いの広場になっている。


湊公園を後にして、華蔵院(けぞういん)に向かう。


お墓がびっしりと佇んでいる。
この先お墓は両側に並んでいた。


華蔵院の仁王門


仁王門を中から見たところ。
ひときわ鮮やかな朱色が映える。


華蔵院本堂
江戸時代から近隣の人々の信仰を集めている寺で、院内には仁王門の他、薬師堂、観音堂などが建ち、
庭園「龍華園」なども見られる。


華蔵院を後にし、次の目的地反射炉へ向かう。


『反射炉はこの近くにあるはずなんだけどなぁ・・・』


何と、反射炉への通路は工事中のため通行禁止、とのこと。がっくりである。
『まあ、仕方がないよねっ』
皆さん、反射炉は諦めてくれたようだが・・・


それでも反射炉の見える場所をあちこち探してくれている。
『ここからだったらちょっとだけだけど見えるよっ』


反射炉の先端が少しだけ見えた。
『少しだけでも見れて良かったんじゃないっ』
『また来れば良いよっ』
会員の皆さんの温かい励ましの言葉が嬉しい。
ここ那珂湊には、沖に出没する外国船に対抗できる西洋式大砲を鋳造するため、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公
の命で造られた「溶鉱炉(反射炉)」があった。
ここで鋳造した大砲は28門以上で、各地の台場へ据え付けられ、幕府(お台場)へも献上された。


12月26日、有志による一泊忘年会2日目に反射炉を見学し、リベンジを果たした。


ゴールの那珂湊駅へ向かう。


13時47分、那珂湊駅に到着。


14時08分の勝田行まで、しばしの間待合室で一休み。
ここで、反射炉を見るのに気を取られて、山上門を訪れなかったことに気が付いた。
山上門は、江戸時代後期に水戸藩の江戸小石川邸正門の右側に建立され、勅使奉迎のために用いられた、
と云われる門である。
またの機会に訪れることにしよう。


那珂湊駅内の車庫はいろんな車両が並んでいる。色も形もみな違う。
全国各地で使われていた中古の車両を購入して使用しているそうだ。


駅名の文字も特徴がある。
文字とその駅に因んだ絵(黒猫)を組み合わせていて、なかなか面白い。
平成21年(2009)7月より那珂湊駅にオスの黒猫が住み着き、「黒ネコのタンゴ」を歌った、
皆川おさむにちなんで「おさむ」と名付けられた、そうだ。


14時10分、勝田行列車がやってきた。
朝乗ったのと同じ模様をしている。
”中古の車両を購入して使用”と書いたが、キハ3710形およびキハ37100形は、新製車両である。


社内は朝同様空いていた。


14時28分、終点の勝田駅に到着。


勝田発14時43分の上野行には十分間に合う。


常磐線車内
水戸駅を通過する頃には、気持ち良さそうにひと眠りする人も。
『今日は大変お疲れさまでしたぁ』


今回は、湊線を利用しての平磯から那珂湊散策だった。
皆勤賞の最有力候補であるA子さんが、日にちを間違って参加できなかったのは、悔やまれる。
一番悔しがっているのは当の本人に違いない。

見所のひとつである反射炉を周辺工事中という理由により見ることができなかったのは、残念でならない。
煙突の先端を遠くから眺めただけでは満足できない。
那珂湊は、釣りでよく来る場所なので、近いうちに立ち寄ってみたい、と思っている。

この日の万歩計は、12,000歩を超えていた。

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関東ふれあいの道(埼玉) No.5「大霧山に登るみち」

2015年09月13日 | ウマさんの「関東ふれあいの道」を歩く
2015年9月13日(日)

”ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」”では、2011年までは主に茨城県の「関東ふれあいの道」(全18コース)を歩いてきた。
『たまには県外を』という声が上がり、2012年は東京都の「関東ふれあいの道」(全7コース)を踏破した。
続いて2013年1月から2014年4月にかけて神奈川県の「関東ふれあいの道」(全17コース)に挑み、これも無事踏破した。
次は埼玉県(全13コース)を目指すことになり、2014年9月から開始することになった。

埼玉県の第11回目となる今回は、コースNo.5「大霧山に登るみち」(約13.1Km)であるが、
夏休み明けでしばらく山は歩いてないため、定峰バス停~旧定峰峠~大霧山~高原牧場入口バス停
の短縮コース(約8.9Km)を歩くことにした。

日暮里駅で山手線を待っているところ。
この日の参加者は、いつもの8名である。


日暮里から池袋に向かおうとしたところ、新宿駅で人身事故が発生し、山手線は運転見合わせ中、とのアナウンス。
復旧までにはしばらく時間がかかりそうで、このままでは西武池袋7時5分発の三峰口行き快速急行に間に合わない。
となると西武秩父駅9時5分発の定峰行バスに乗れないことになる。
次のバスは12時7分のため、西武秩父駅から定峰峠登山口までタクシーを利用するしかない。
いろいろ思案していたところへ、6時32分、京浜東北線大宮行がやって来た。
赤羽で埼京線に乗り換え池袋へ向かえば、上手くいけば西武線に間に合うかもしれない。
ということで、急遽京浜東北線で赤羽に向かった。赤羽には6時46分頃に到着。

赤羽駅でグッドタイミングで来た埼京線に乗り込んだ。
この時、時計は6時51分を指していた。


池袋に到着したのは、6時56分を過ぎていたが、急げば西武線に間に合いそう。
全員駆け足で西武池袋線へ向かい、発車直前の7時3分、何とか7時5分発の三峰口行き快速急行に間に合った。


『いやぁ間に合って良かったよ』


『朝何も食べてなかったから、お腹が空いちゃった』
当初予定していた電車に間に合ったことで、食欲が湧いてきたのだ。


8時49分、予定どおり西武秩父駅に到着。


西武秩父駅


バス停で待つことしばし、9時5分発の定峰行バスに乗り込む。


定峰行バスに乗り込んだのは我々の他は1人しかいなかった。
この日予定しているコースは、人気がないのかもしれない。


9時35分、終点の定峰峠入口に到着。


バスの運転手に登山口を教えてもらい、バス停から少し戻ったところの石標に「左大河原道」を確認。
近くに手書きの道標、「定峰神社・大霧山方面」もあった。
『ここが登山口だねっ』


9時43分、旧定峰峠を目指して出発だ!


しばらく舗装された道を進む。


小さな集落を過ぎると、急坂になった。
『けっこうきつい坂道だよねっ』


舗装された坂道を上ること10分の9時53分、村社定峰神社に到着した。


先ずはこの日の無事安全を祈願しておこう。


定峰神社から8分ほど進んだところで、やや広い道に出た。
県道11号線へ通じる道である。


曲がりくねった坂道を進むと・・・


道端に「峠は秩父の心です」と刻まれた石碑や


石仏、


道祖神などが置かれていた。
のどかな秩父の山里と言った感じである。


10時9分、時計付き道標前を通過。
時計の針はほぼ合っている。


10時13分、岩尾山定岳寺前を通過。


旧定峰峠を目指して定峰集落を進む。


峰集落を抜け、県道11号の合流点を左折すると、直ぐ右手に可愛らしい神社があった。
若宮神社だろうか?


県道11号は車もそこそこ走っているが、
オートバイや


自転車もけっこう多い。


先頭Gが、道端に何か見つけたようだ。


旧定峰峠へ分岐点を示す道標である。
かすんではいるが、”大霧山”の文字が読み取れる。
『もうちょっとで見落とすところだったよ』


『ようやく登山道が始まった感じだねっ』
この時時刻は、10時25分を指していた。


倒木がそのままになっていたり、このコースはあまり人が歩いてないと思われる。


途中で道が二手に分かれていたが、大霧山を示す道しるべはない。
KさんのスマホGPSと感を頼りに右側の道を進むことにした。


あちこちにきのこが生えていた。
この時期、雨が多かったので、たくさんのきのこが生えているのだ。
これはタマゴタケだ。


これはなんというきのこだろう?


しばらくは道らしき径があったが、その径も次第に分からなくなった。
『さっきのところまで引き返した方が良いんじゃないっ?』


『道に迷ったら尾根を目指せば大丈夫だよっ』
ベテランのKさんの力強い言葉を信頼して後を追う。


杉林の中をお互いに声をかけながら尾根を目指す。


20分ほど雑木林や杉・檜の植林の中を歩き、何とか尾根に辿り着くことができた。
後は「関東ふれあいの道」への合流点を見つけるだけだ。
スマホGPSの情報から方角は合っているはずだ。


尾根道を進むこと約30分、


11時32分、「関東ふれあいの道」の道標のある場所に辿り着いた。
旧定峰峠と大霧山の中間点のようで、大霧山まで1.1Kmと表示されている。


『道に迷ったけど、近道出来て却って良かったんじゃないっ』


一息入れて大霧山を目指す。
「関東ふれあいの道」は、道標がしっかりとしているので、もう迷うことはない。


次第に霧が立ち込めて来た。
『大霧山の名の通りだねっ』


大霧山への道は少しばかりのアップやダウンがあったが、それほどきつくはない。


この日初めてハイカーと出逢った。
大霧山は近いとのことだったが、


大霧山山頂を目の前にして、急坂が待ち構えていた。


最後の急な坂道を上ると、


杉林の先に大霧山の山頂らしきシルエットが見えた。


12時2分、大霧山山頂(766.6m)に到着した。
弁当の前に、先ずは全員の照明写真を撮っておこう。


大霧山山頂で弁当を広げる。
他にも数組が弁当の最中だった。


『今日も弁当が美味しいねっ』


大霧山山頂は、秩父盆地や奥秩父・上信越・日光連山まで見える180℃の展望地と案内されていたが、
名前のとおり、霧に包まれて殆ど何も見えなかった。


12時38分、ゴールの高原牧場入口バス停を目指して下山開始!
先ずは粥任田峠を目指す。


このコースは、「関東ふれあいの道」だが、外秩父七峰縦走ハイキングコースにもなっている。
『お薦めって書いてある方へ行ってみようっ』
”お薦め”は、いわゆる巻道である。


『大霧山からは下りなので、楽で良いよねっ』


しばらくは下りの坂道が続く。


13時8分、高原牧場入口への分岐点に到着した。
ここを直ぐに左折しても良かったのだが、せっかくなので50m先の
粥仁田(かゆにた)峠まで行ってみることにした。
粥仁田峠は、2015年4月12日(日)に「高原牧場を通るみち」で歩いている。


13時12分、先ほどの分岐点からものの1分で粥仁田峠に到着した。
ここ粥仁田峠は、秩父盆地から小川・川越へ通じる江戸時代の交通の要所であった。
伝承として、日本武尊が粥を煮たのが粥新田峠であると言われている。
『そう言えば思い出したよっ』


「関東ふれあいの道」の案内図でコースを確認。
先ほどの分岐点へ戻り、


ゴールの高原牧場入口バス停を目指した。
『ここから約1時間ほどかな?』
時計の針は、13時16分を回ったところである。


木々の隙間から草原のような景色が現れた。
牧草を植えているのであろう。


高原牧場入口バス停を目指す。


前回(4月12日)は、沢の水はほとんど流れていなかったが、このところの雨で水嵩が増えていた。
『どっこらしょっと』


蛇紋岩採石場の近くに、蛇紋石の説明板があった。
”蛇の胴体に似た模様を持ち、濃緑色で、つやのある岩石です”と説明されている。
この付近で切り出される石は、「秩父蛇紋」と呼ばれ、研磨して室内装飾用として用いられている、とのこと。


説明板の傍に石があった。
これが「蛇紋石」なのだろうか?


山道を下ること約40分の13時56分、「資源応用現地事業所」秩父工場前を通過。
ここの工場がどういう事業をやっているかは分からない。


しばらく林道を下る。


民家がポツポツと見えてきた。


道端には、クルミや


ムベ(別名トキワアケビ)などの実が生っている。
実りの秋である。


そう言えばもう直ぐお彼岸だ。


『花や果物がいっぱいあるし、秋って良いわね~っ』


14時12分、前方に蓑山東面の山村風景が見えて来た。
見覚えのある三沢地区の集落だ。中腹に常楽寺が見える。


仲間の顔にも笑顔が戻ってきた。
『ゴールはもう直ぐだよねっ』


寺山子安観音の延命地蔵尊前を通過。
この日の無事に感謝し、ついでに延命を祈願しておこう。
『長生き出来ますように』


14時22分、高原牧場入口バス停に到着。
粥任田峠から1時間5分、ほぼ予定どおりだ。
14時42分発の西武秩父駅行バスには充分余裕のある時間である。


バス停で一息入れ、


バスを待つことしばし。


定刻どおり西武秩父行きバスがやって来た。


バスに乗り込む。


バスには誰も乗っていなかった。
この日、高原牧場入口から乗り込んだのは我々だけであった。


15時22分、終点の西武秩父駅に到着。


池袋行の「特急レッドアロー号」があったが、特急料金640円が必要なため、特急は諦めた。
まだ時間が早いのでゆっくり帰ればいいのだ。


ホームで一息入れる。


15時51分発の急行電車で池袋へ向かう。


『ひと眠りして行くわっ』
最後はややお疲れの様子。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「関東ふれあいの道」(埼玉県)第11回目、コースNo.5「大霧山に登るみち」(約8.9Km)を踏破した。
新宿駅での人身事故のため、危うく西武池袋線に乗り遅れるところであった。
急遽日暮里~赤羽~池袋を経由してギリギリ間に合ったが、冷や汗ものだった。

西武秩父駅からバスで定峰行に乗り、旧定峰峠を目指したところ、道に迷ってしまい、
杉の植林内を1時間以上さまようというハプニングもあったが、無事目的地の大霧山に
到達できたのは、ベテランKさんのリーダーシップのおかげだったと言える。

次回(10月)は、コースNO.1「水源のみち」を予定している。
埼玉県の「関東ふれあいの道」(全13コース)も残り2コースとなった。
出来れば、年内に踏破したいものである。

この日の万歩計は、20,000歩を越えていた。

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車塚古墳から大洗マリンタワーへ

2015年09月04日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年9月4日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第13回(2015年第24回)、「車塚古墳から大洗マリンタワー」散策ウォーキングに参加した。

第一集合場所の土浦市民会館には18名が集まり、車4台に分乗し、大洗サンビーチ前の大洗海浜公園に向かった。
10時05分、大洗海浜公園に到着。
現地直行した3人と併せ、この日の参加者は21名である。
1か月半に及んだ長い夏休み明けの最初の例会としては、まあまあこんなものか。


いつものように会長の掛け声に合わせて準備体操。
『大きく息を吸い込んで~っ』


『肩回し~っ』


10時22分、いざ出発!


先頭を務めるのは、OさんとNさんだ。


後ろに女性陣が続く。
女性陣のみならず、この日を待ち望んでいたという人は意外に多い。
夏休み前半は猛暑、後半は雨で満足に歩いていなかったという人がほとんどである。
歩くことを健康のバロメータの一つにしているようだ。


県道2号線の松並木を進む。
『こんな松並木があるなんて知らなかったねっ』
自分も初めてである。


大洗リゾートアウトレット前の交差点を左折し、


鹿島臨海鉄道大洗駅へ向かう。
この日の予想最高気温は30度だ。日差しが強く蒸し暑い。


大洗駅へ向かう。


10時48分、大洗駅に到着。


大洗駅前で5分ほど休憩して、


次の目的地、車塚古墳を目指す。


手作りの地図を頼りに大洗町の住宅街を進む。


T字路に突き当たってたところで、道に迷ってしまった。
車塚古墳への道標などはどこにも見当たらない。
地元のお年寄りに尋ね、何とか車塚古墳の位置を聞き出すことができた。
目の前の小高い丘が目指す車塚古墳とのことだが、回り道が必要だ。


いったん県道2号線へ出て、


焼肉屋看板の先を右折して、細い坂道を進むと、11時12分、車塚古墳に到着した。
説明版には「この塚は古くより車塚と称され、直径百米を算する大古墳である。
丘阜部には老樹鬱蒼として繁茂し、神秘荘厳な気を漂わせ、葺石の一部は流失したが、
原型を殆ど完全に保った関東屈指の大円墳である。(中略)
約五世紀頃の中央と関係の深い地方豪族の奥津城と推定されている」などと記されている。


早速一番高い(高さ約13m)ところへ上ってみよう。
特に道はないので、円墳の急斜面を上る。
夏休み明けで運動不足の身にはちょっと堪える。


『あら~っ 素敵な眺めだね~っ』


墳頂には、小さな富士神社が祀られていた。


墳頂からの眺望
臨海大洗鹿島線の大洗駅に停車中の車両が見える。


臨海大洗鹿島線の高架線路
常澄駅方面を望む。


古墳の回りは、鬱蒼としたスダジイの巨木で覆われており、視界はあまり良くないが、


僅かな隙間から明太子「かねふく」の看板が見えた。
『帰りにあそこに寄るんだよねっ』


次の目的地日下ヶ塚(ひさげづか)古墳へ向かう。


田舎道を進むと、


日下ヶ塚古墳の説明版が立っていた。
「四世紀代の姫塚古墳・坊主山古墳・車塚古墳と共に、磯浜古墳群を構成する。
別名は、常陸鏡塚とも言う(中略)
四世紀後半に築造された全長約103.5mの前方後円墳(以下略)」などと記されている。


生い茂った夏草の先に前方部分の小高い丘が見える。
左側が後円部分にあたるようだ。


せっかくだから、近くで見てみよう。
これは後円部分か?


前方部分


前方部分の墳頂には、碑が建てられていた。
「史跡 日下ヶ塚」と刻まれている。


墳頂から大洗鹿島線の常澄駅方面を望む。
東水戸道路の那珂川に架かる橋が見える。


日下ヶ塚古墳を後にして急坂道を下り、西福寺へ向かう。


11時42分、西福寺に到着。
創建については、寛弘年間(1004~1012年)の比叡山恵心院源信僧都であるという説と、
永享年中(1429~1440年)の栄俊であるという説などがあるそうだ。
本尊として、木造阿弥陀如来座像が安置されているとのこと。


境内には、北関東不動尊霊場36か所のうちの28番札所・不動明王を司った御堂がある。
「開運のお不動さん」と呼ばれているそうだ。


御堂の前に三十六童子(不動明王のお使い)の一人、水掛け童子の像がある。
名を虚空蔵童子と言い、
若し苦厄の難あらん 呪詛病患の者は 当に童子の号を呼ぶべし
たちまちに吉祥を得ん 恭敬礼拝する者の左右を離れず 
影の形に随うが如く 護り長寿の益を獲得せしむ
」(三十六童子のお経)とのこと。
3回水掛けをして合掌し、『南無虚空蔵童子』と唱えると霊験あらたか、だそうだ。


御堂で水分補給のため、一休みしていこう。


小さな東屋もある。


東屋の裏に溺死人招魂碑が建てられている。


西福寺を後にして、磯前神社へ向かう。
先ず大洗第一中学校、


続いて大洗小学校前を通過。


12時01分、東光台前交差点を通過


12時10分、護国寺前を通過


皆さん、大分お腹が空いてきた様子。


松林の中に山村暮鳥の碑がある。
昨年(2014年)10月10日に一度訪れているので記憶に新しい。
碑は昭和2年に建てられたもので,詩集「雲」の一節が書かれている。


松林を進み、磯前神社の鳥居を潜る?
笠木・島木・貫・扁額は東日本大震災で崩落してしまっているので潜るとは言わない?


松林の中を磯前神社へ向かう。


12時26分、大洗磯前神社に到着。


弁当の前に先ず参拝だ。
御社殿はかつて永禄年間の兵乱によって悉く消失してしまったが、水戸藩2代藩主徳川光圀公が、
由緒深い名社の荒廃を嘆き、元禄三年(1690)御造営の工を起し、3代綱篠公の享保十五年(1730)に
現在地に還座再興された。
社殿に施された彫刻とともに江戸初期の建築様式を今に伝えており、県指定の文化財となっている。


磯前神社の拝殿は神々しい。


拝殿の裏に回ってみると、茅葺の立派な本殿がある。


本殿の左右には末社が3社ずつ並んでいる。
左側は左から大杉神社・水神社・八幡宮(写真)
右側には大神宮・静神社・水天宮の3社が並んでいる。


休憩舎でお昼にしよう。


『弁当を美味しく食べられるってほんと幸せだよね~っ』


昼食が済んだら仁王門前で記念撮影だ。


帰りは三の鳥居を下って海岸を歩くことにした


『けっこう急な石段だよなぁ』


石段下の二の鳥居を潜って道路を渡り、旅館の建物の間を抜けると、海岸に出た。
左の岩の上に立っているのが神磯の鳥居だ。
徳川光圀公が磯前神社を参拝の折に、此の景観を称え、次のように詠んだ。
 あらいその岩にくだけて散る月を
            一つになしてかへる月かな

毎年元旦、宮司以下神職が神磯に降り立ち、太平洋に昇る初日の出を奉拝する、とのこと。


建物沿いの歩道を大洗港方面へ進む。


これまで何度かこの海岸を歩いているが、このような歩道を歩くのは初めてだ。


海岸に出てみよう!


『海岸歩くのって気持ち良いわね~っ』


『石ころはちょっと歩き難いなっ』


『海岸歩くのは楽しいねっ』


この灯台は今でも現役なのだろうか?


大洗ホテル
一度泊まってみたいホテルである。


平太郎浜の終点が近づいてきた。


平太郎浜からいったん県道2号線へ出て、コンビニの角を左折すると、


大洗漁港である。


大洗漁協
セリは一段落した様子だ。


大洗海鮮市場「かあちゃんの店別館」前を通過。


北海道苫小牧からフェリー「さんふらわあ」が到着して停泊していた。
神磯の沖合で見えていたので、5分ほど前に到着したばかりである。


13時42分、「めんたいパーク」に到着。
皆さん、「めんたいパーク」へ入るなり給茶器に一目散である。


よほど喉が渇いていたとみえる。


「めんたいパーク」とくれば、辛子明太子である。
早速試食してみることに。
『冷えてて美味いっ』
喉が渇くので2度のおかわりで止めておいた。


土産物コーナー


『どれにしようかしらっ』
皆さん、迷っている様子。


14時5分、「めんたいパーク」を後にして、ゴールの大洗海浜公園を目指す。


14時16分、大洗町のシンボル、高さ60mの大洗マリンタワー前を通過


大洗リゾートアウトレット
人影はまばらな感じである。


14時22分、大洗マリーナ前を通過。
ゴールの大洗海浜公園は近い。


大洗海浜公園の公園内を進む。


14時30分、ゴールの大洗海浜公園駐車場に到着。
『着いた~っ』


整理体操をして、
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


夏休み明けで最初の例会を無事終えることが出来た。
車塚古墳は初めてということで、道に迷ってしまった。
道標の整備が望まれるところだ。
大洗町の中心地にありながら、墳頂からの眺望は素晴らしかった。
次の機会があれば、道に迷うことなくしっかりと歩きたい。
この日は、歩くのはしばらくぶりだったのと、気温が高かったためか、少し疲れた。

この日の万歩計は、16,000歩を少し超えていた。

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コメント
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