ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(2日目:最終日)

2023年11月27日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年11月27日(月)

旧東海道第Ⅲステージの前回の第7回(関宿から草津宿)は、2023年5月13日から5月16に歩いた。
残すは草津宿から京都三条大橋までの2宿となっていたが、今回、旧東海道第Ⅲステージ第8回
(草津宿から京都三条大橋)として、2023年11月26日から11月27日にかけて歩いた。

第Ⅰステージ 日本橋から三島宿 2014年1月から2014年10月(凡そ10か月)
第Ⅱステージ 三島宿から新居宿 2016年5月から2018年4月(凡そ1年11か月)
第Ⅲステージ 新居宿から京都三条大橋 2018年5月から2023年11月(凡そ5年6か月)

日本橋をスタートしたのが2014年1月19日(日)だったことから、旧東海道終点の
京都三条大橋までを歩き終えるのに8年10か月かかったということになる。

旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(2日目:最終日)

前日は京阪石山坂本線の中ノ庄まで歩いたので、この日は中ノ庄から歩くことになる。
ホテルを出て中ノ庄駅には7時51分に到着した。
草津宿~京都三条(2日目:最終日)のスタートである。


子供たちが京阪電車の踏切を渡っている。
大人も足早に踏切を渡っており、いままさに通勤・通学の時間帯である。


旧東海道を進む。(中ノ庄駅近く)


少し進むと、膳所城址公園前の看板があった。
近くなので、膳所城址公園へ行ってみよう。


8時3分、膳所城跡公園の入口に到着。
入口には城門が復元されている。
慶長六年(1601年)、徳川家康の命によって築かれ、戸田一西の居城となった。
日本では珍しい湖城だった。


関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、関ケ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)、東海道を制し、
湖上の船運を抑える目的で、現在の膳所城跡公園(膳所崎)に膳所城を築城させました。
築城計画は藤堂高虎が担当し、それまで膳所崎に流れていた相模川を北方に付け替えたといいます。
(以下略)


城門を入ると、正面に膳所城址と刻まれた大きな石の碑があった。


公園内には野外音楽堂などもある。


膳所崎から近江大橋を望む。


旧東海道へ戻り、大津宿方面へ。


8時20分、和田神社に到着
膳所城址公園前の看板があった所から数100mほど進んだ所に、和田神社があった。


鎌倉時代に建築された本殿は、国の重要文化財に指定されている。


境内の公孫樹(いちょう)は、樹齢約600年・樹高約24m・周囲約4.4mの巨木。
関が原の合戦に敗れ捕らえられた石田三成を京へ護送する途中、休止の際に一時繫いだと云われている。


旧東海道を進む。


手製の地図を参考に歩いているのだが、時々現れる東海道の標識などが道案内になるので助かる。


滋賀朝鮮初中級学校を過ぎた辺りから手製の地図と道が合わなくなり、いくばくかの不安を覚えながら進んだ。
旧東海道(?)を進む。


旧山城屋の銀杏の木があった。
かなりな古木で道の真ん中なのだが、事前の情報としては持ち得ていなかった。


道に不安を覚えながら進むと、踏切があった。
京阪石山坂本線の踏切である。
この時点で完全に道を間違っていることに気が付いた。


京阪錦駅の所にあった案内表示板で現在地と旧東海道の位置を確認し、


先ほど渡った踏切ではなく、京阪錦駅のもう一つの踏切を逆方向に渡り、住宅街の狭くて曲がりくねった道を
数100m進むと・・・


県道18号(湖岸道路)に出た。
ここで、地元の人と思しき方に旧東海道を教えていただき、何とか旧東海道に戻ることが出来た。
このミスにより、石坐神社と北惣門跡を見過ごすこととなった。


教えていただいた旧東海道を進むと、


番場一丁目の案内図があった。
よく見ると旧東海道が青色で示されている。


ほどなく史跡 義仲公・芭蕉翁墓所の義仲寺に到着した。
時計は9時8分を差していた。


義仲寺境内
義仲寺の名は源義仲を葬った塚があるところから来ていますが、室町時代末に佐々木六角氏が建立した
との伝えがあります。
門を入ると左奥に俳聖・松尾芭蕉の墓と並んで木曽義仲の供養塔が立っています。
木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄の作です。
境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。
また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
昭和四十二年(1967年)十一月に国指定の史跡となりました。
大津市教育委員会


何と!! ”月曜日は閉門”とさせていただきます、とのこと。 残念!!


旧東海道を進む。
また京阪線の踏切があった。
右手に石場という駅が見えた。


またしばらく進むと、平野神社横と書かれた案内図があった。


緩やかな坂道を上って行くと・・・


9時21分、平野神社に到着した。


祭神は精大明神で蹴鞠の祖神と云われ、古くから芸能の神として信仰を集めてきた。
江戸時代には、蹴鞠を家職とする公家の飛鳥井・難波両家も当社を信仰し、その神事に奉仕していた。
毎年8月に境内で蹴鞠祭が催されている。


旧東海道を進む。


お城のような建物が・・・
後で調べたが、琵琶湖文化会館と思われる。


可愛らしい生水地蔵尊前を通過


滋賀県庁舎らしき建物が見えた。


旧東海道を進む。


古い宿場町の家並みが続く。


かつての大津宿の面影を今に伝える景色だ。


9時53分、京町一丁目交差点に到着した。
京阪電車が目の前を走っていくのが見えたが、交差点に踏切は見当たらない。


京町一丁目交差点は、札の辻であった。
札の辻の名は、江戸時代、幕府の法令を記した高札が建てられた四つ辻であったことに由来しており、
旅人たちに、馬や人足を提供する大津宿の人場会所もこの角にあった。
ここは、東海道と北国海道(西近江路)の分岐点でもあり、京都から来た東海道は東へ向かい、
西へ行くと北国海道であった。


現在、京町一丁目交差点(札の辻)には、大津市道路元標の石碑が建てられている。


京阪電車の踏切を横断して京都方面へ。


八町通の碑
上関寺町からから札の辻までの距離が八町(約872m)あったからとも、その間に八か町あったことによる
ともいわれています。
江戸時代の東海道にあたり、道の両側には多くの旅籠屋がありました。
なお、碑の立つ場所は、大名などの宿泊する本陣跡です。


近くに明治天皇聖跡の碑が建てられていた。
大津宿には二軒の本陣があり、この地はそのうちの大塚嘉右衛門宅である。


大津市御幸町辺りを通過


10時10分、JR東海道本線の上を通過


京阪京津線の踏切を横断してしばらく進むと・・・


10時13分、関蝉丸神社下社に到着した。
琵琶の名手蝉丸を祭る蝉丸神社は、逢坂山の麓の旧東海道沿いに三ケ所ある。
関蝉丸神社下社はそのうちの一つなのだろう。


京阪電車の蝉丸神社の踏切の先が蝉丸神社下社になる。


蝉丸神社下社本殿


本殿近くに 謡曲「蝉丸」と関蝉丸神社の説明板があった。
幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。
此の世で前世の罪業の償いをする事が未来への扶けになるとあきらめた宮も孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
一方延喜帝第三皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果まで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。
美しい琵琶の音に引かれて偶然にも弟の宮の蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆きあい、
姉宮は心を残しながら別れて行く、という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。
蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の
免許を受けることとされていたと伝えられる。


境内には蝉丸が詠んだ百人一首でも有名な句碑が建てられていた。
これやこの 行くも帰るも 別れつつ 知るも知らぬも 逢坂の関


旧東海道を進む。
この辺りは国道1号線と同じ道を歩くことになる。


また、直ぐ左側を京阪電車が走っている。


名神高速道路の下を進むと・・・


右手に関蝉丸神社上社が見えた。
道路を横断するのも大変だし、ここはパスすることにしよう。


そに少し先の弘法大師堂の隣に、逢坂常夜燈があった。


さらに進むと・・・


逢󠄀坂山関址の碑と逢坂常夜燈があった。
逢坂の関は、伊勢の鈴鹿・美濃の不破と並ぶ天下の三関のひとつと云われる。
隣の逢坂常夜燈は、寛政6年(1794年)建立、とのこと。


逢坂山を越えた辺りに来ると、「かねよ」の大きな看板が・・・
”日本一のうなぎ” と謳っている。
明治5年(1872)創業の老舗「かねよ」は、浜名湖産の国産うなぎを使用したうなぎ料理店、とのこと。


旧東海道(国道1号)を進む。


大津算盤の始祖・片岡庄兵衛の碑
江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長十年(1612年)、片岡庄兵衛が
明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝える。
同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。
なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家の御子孫が住まわれていた。


少し進むと、右一里町と彫られた道標があった。


さらに進むと、今一里塚町の表示が・・・
この辺りが日本橋から百二十三里目の走井一里塚ではないかと思われる。


国道1号を進むと、旧東海道(国道1号)は、名神高速道路の下を潜って進むことになる。


旧東海道を進む。


上横木を過ぎた辺りで、


”この先歩道行き止まり”の表示版が・・・


その先の土産物店(走り井餅本家?)の警備員と思われる方に『この先は行き止まりだから手前の地下道を
通れば反対側に渡れますよ』とのアドバイスをいただき、地下道を潜って反対側へ。


この場所は、国道1号と国道161号(西大津BP)の交わる箇所で、かなり複雑だったが、苦労の末、
何とか反対側へ抜けることが出来た。


旧東海道の案内マップを見つけた時には、ホッとした。


旧東海道を進む。


車石の説明板があった。


大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの荷物を運ぶ道として利用されてきました。
江戸時代中期の安永8年(1778年)には牛車だけでも年間15,894輌の通行がありました。
この区間は、大津側に逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり、通行の難所でありました。
京都の心学者脇坂義堂は、文化2年(1805年)に1万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋
にかけて約12Kmの間に牛車専用道路として車の轍を刻んだ花崗岩の岩を敷き並べ、牛車の通行に
役立てました。
これを車石と呼んでいます。


車石


旧東海道(三井寺観音堂辺り)を進んで行くと・・・


11時56分、京都市の案内標識があった。
ついに京都に入ったか、という気持ちになった。
あともう一息、頑張ろう!!


11時59分、旧三条四ノ宮を通過。


徳林庵という臨済宗南禅寺派の山号を柳谷山という寺の六角堂があったので、ここで少し休憩して行くことにした。


山科廻地蔵(めぐりじぞう)六角堂
現在の六角堂は江戸時代の作で山科廻地蔵を安置しています。
はじめ伏見六地蔵にあった六地蔵尊像は、後白河天皇の信仰を受け、平清盛・西光法師らの手により、厄病退散、
都往来の路上安全、庶民の福楽利益結縁を祈願し、それぞれの街道の入口六ヵ所に六角堂をつくり一体ずつ
分置されました(1157年)とあった。


旧東海道を進むと、12時18分、山科駅前交差点に到着した。


既に12時半近くになっていたので、山科駅でお昼にしていくこにしよう。


JR山科駅前にうどん・そば店があった。


肉うどんを注文(チケット購入)した。


昼食後、再び旧東海道を進み、京都三条大橋を目指した。


明治天皇御遣跡の碑前を通過


”おいしい焼肉屋さん”の看板
黄金色をした牛(近江牛?)の看板は目立つ。


旧東海道を進む。


史跡 五条別れ道標
この史跡道標は宝永4年(1707年)の建立。
道標には、「右ハ三条通」「左ハ五条橋・ひがしにし六条大佛」などと彫られている。


JR東海道本線の下を潜り、


電柱にあった急東海道の案内標識に従って・・・


府道143号を横断して、旧東海道へ。
随分と狭い径である。
とても旧東海道とは思えないような径である。


旧東海道の案内標識が頼りである。


車がやっと通れる狭い道路は続く。


今度はやや急な坂道になった。
坂道を上って行くと・・・


旧東海道(日ノ岡の峠径)の説明板があった。


(一部割愛)
東海道では幕末まで車の往来が禁止されていたが、都に近い大津・京都間だけは例外であった。
人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道(くるまみち)を分けて、車道には舗石が並べられ
車石と呼ばれていた。
当初、この辺りの日ノ岡の峠道は、大津から京都への難所の一つで、牛車の通る車道は深くえぐられて、
人馬が通る道との段差が生じ、雨が降るとぬかるんで牛車を立ち往生させていた。
そこで木食正禅上人が享保19年(1734年)頃から道路の改修に取り組み、車道に土砂を入れ人馬が通る道との
段差を無くしたり、峠の頂上を掘り下げ、その土砂を坂道に敷いてゆるやかな勾配にするなど工夫し、
元文3年(1738年)に改修を完成させた。こうして峠道は大きく改善されたのである。(以下略)
京都市


13時50分、国道1号線と合流した。


国道1号との合流点は小さな広場となっている。


平成九年十月の京都市営地下鉄東西線の開業に伴い、廃線となった京阪電鉄京津線軌道敷を利用し、
三条通の四車線化及び歩道の整備事業を実施した。
本事業の完成を記念して、三条通の舗石として敷設されていた車石を利用し、往年の牛車道を模した
広場を設置する。
平成十六年一月  京都市


旧東海道(国道1号)を進む。
この辺りは、かつて栗田口刑場があったといわれている所だ。


左側は京都市蹴上浄水場になる。


14時8分、京都市地下鉄東西線の蹴上駅を通過


ウエスティン都ホテル京都前を通過
大きなホテルだ。


14時15分、佛光寺本廟前を通過


粟田神社前を通過
粟田神社は、京都の東の出入口(粟田口)に鎮座し、道中の安全を願って、東海道を行き来する旅人の
信仰も厚かった。


京都三条通り


右手を見ると、平安神宮の大きな鳥居が目に入った。


京都三条大橋を目指す。


白川橋の袂に史跡 三条白川橋道標があった。
京都における現存最古の道標である。
(是より)ひだり ちおんゐんぎおんきよ水みち と彫られている。


ふと見ると、明智光秀の塚(約2分)の案内板があった。
最後の訪問地となるであろう、明智光秀の塚へ行ってみよう。


白川沿いに進み、


さらに案内に従って小さな路地を入って行くと・・・


明智光秀公の塚があった。


明智光秀の塚
天正十年(1582年)六月二日、明智光秀は本能寺(下京区)に宿泊していた主君・織田信長を急襲し、
自害させました。
しかし光秀は、備中高松城(岡山市)から引き揚げて来た羽柴秀吉(豊臣秀吉)と、十三日に山崎(天王山)で
戦って敗れ、わずかな家臣とともに近江の坂本城を目指して逃れます。
そしてその途中、小栗栖(伏見区)の竹藪で地元の農民に襲われて重傷を負い、自害して家臣に首を討たせた
と云われています。(以下略)


白川沿いに三条通りに戻り、


三条大橋を目指す。


古川町商店街を通過し、


三条大橋へ


京阪三条の信号を渡った所に、


高山彦九郎正之 皇居望拝之像があった。
高山彦九郎は、群馬県の出身である。
十八歳の時以来、前後五回上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように、
京都御所に向かって拝礼した。その姿は、
大御門(おおみかど) その方向きて橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 真心たふと 橘曙覧
と和歌に詠まれた。


14時48分、京都三条大橋に到着した!!


鴨川を渡る。
三条大橋から下流方面を望む。


京阪三条の対岸河原町方面へ。


三条大橋の京阪三条の反対側には”東海道中膝栗毛”で有名な「弥次さん」「喜多さん」の像があった。
この日東海道を歩き終えたという方がいたので、記念にシャッターを押してもらった。


もう一度京阪三条へ渡ることにしよう。
橋の袂に旧三条大橋の石柱があった。


今度は地下鉄東西線のある京阪三条方面へ


三条大橋から鴨川の上流を望む。


京阪三条の三条大橋の袂には、駅伝発祥の地の碑が建てられていた。
駅伝の歴史、ここに始まる
我国、最初の駅伝は、首都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」が、大正六年(1917年)
四月二十七日、二十八日、二十九日の三日間に渡り開催された。
スタートは、ここ京都・三条大橋、ゴールは東京・上野不忍の池の博覧会正面玄関であった。
自身の旧東海道歩きは、ここをゴールとしたい。


旧東海道歩きは、長い間の懸案事項だったが、何とか無事に歩き終わった。
この後京都市営地下鉄を利用して四条のホテルへ向かい、16時15分、ホテルに到着した。



この日の万歩計は、35,000歩を計測していた。
『いやぁ 今日は疲れた~』正直な感想である。


旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(1日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(1日目)

2023年11月26日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年11月26日(日)

旧東海道第Ⅲステージの前回の第7回(関宿から草津宿)は、2023年5月13日から5月16に歩いた。
残すは草津宿から京都三条大橋までの2宿となっていたが、今回、旧東海道第Ⅲステージ第8回
(草津宿から京都三条大橋)として、2023年11月26日から11月27日にかけて歩いた。

第Ⅰステージ 日本橋から三島宿 2014年1月から2014年10月(凡そ10か月)
第Ⅱステージ 三島宿から新居宿 2016年5月から2018年4月(凡そ1年11か月)
第Ⅲステージ 新居宿から京都三条大橋 2018年5月から2023年11月(凡そ5年6か月)

日本橋をスタートしたのが2014年1月19日(日)だったことから、旧東海道終点の
京都三条大橋までを歩き終えるのに8年10か月かかったということになる。

旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(1日目)

この日は荒川沖駅6時19分発の電車に乗り、東京駅7時57分発の「こだま707号」で米原へ。
JR東日本の大人の休日俱楽部会員は、「のぞみ」「ひかり」の指定席は利用出来ない。
東海道新幹線で乗ることが出来るのは、「こだま」のみである。
米原駅から東海道線に乗り換えて草津駅へ。
草津駅には12時14分に到着した。


草津駅前には、旧東海道と旧中山道の道標のモニュメントが建てられている。
右東海道いせち(伊勢路)と刻まれている。


草津駅前の道路を旧中山道方面へ。


旧中山道には、”草津歴史街道”の説明板(内容は省略)があった。
ここを右に曲がって行けば、旧東海道との分岐点(追分)になる筈だ。


旧中山道を少し進むと、トンネル(草津川隧道)があった。


草津川隧道の由来に関する説明板はトンネルを抜けた所にあったが、このような内容となっている。


トンネル(草津川隧道)の中は、両側に街道の景色を描いた絵があった。


こちらは宿場の風景だ


トンネル(草津川隧道)を抜けると、右側に高札場が。


反対側には東海道と中山道の追分道標が建てられている。
ここはかつての日本五街道の最幹線で、東海道と中山道との分岐点である。
トンネルができるまでは、この上の川を越せば中山道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へと行けた。
ここは草津宿のほぼ中心部で高札場もあり、この付近は追分といわれ、銅製の立派な大燈籠は、
旅人にとっては大切な目安であった。
常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残を留めている。


また、ここには東海道に関する草津歴史街道の説明板(内容は省略)があった。


草津宿の看板


草津宿を進むと・・・


右側に本陣跡の建物があった。
史跡草津本陣跡(田中七左衛門本陣)は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、


延4726㎡の敷地内には、かつての本陣の姿を髣髴とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品他、
貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、きわめて重要な文化遺産である。
入館料は史跡草津宿本陣のみの場合は240円、草津宿街道交流館との2館共通の場合は350円となっている。


田中本陣跡の少し先に脇本陣跡の建物が。
草津宿には、本陣が2軒、脇本陣が時代によって2~4軒あった。
この家は脇本陣藤屋与左衛門家にあたる。
今はお茶屋(吉川芳樹園店舗兼主屋)になっている。


草津宿街道交流館


交流館の少し先に草津宿の宿場町の地図があった。
宿場町を歩く際にはこのような地図があるのはありがたい。


石造道標
正面「右東海道」、右面「天明七年五月吉日」と彫られている。
以下の説明が・・・
江戸時代後期の作とある。
もともと建てられていた場所は分かりませんが、曲がり角や分岐点で東海道の道筋を示していたと思われます。
右側面に天明7年(1787)の年号が刻まれていることから、現存する道標のなかでは比較的古いものといえます。


「道灌蔵」前を通過


呉服商 万屋善助前を通過


12時42分、立木神社に到着した。


以下は、立木神社HPより
立木神社の創建は古く、縁起によると今から約千二百数十年前の神護景雲元年(767年)のこと、
御祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸国(茨城県)の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ
(古来初めて旅立つ事を鹿島立ちと云うのはこの縁による)、諸国を経てこの地に到着されました。
そして、手に持たれた柿の鞭を社殿近くに刺されこう言われたそうです。
「この木が生え付くならば吾永く大和国(奈良県)三笠の山(春日大社)に鎮まらん」
すると、その後不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出しました。
里人は御神徳を畏み、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています。


延暦二十年(801年)、征夷大将軍坂上田村麿将軍が、東北鎮圧に際して、当社にて道中安全と厄除開運を
祈願され大般若経一部を寄進しました。
この霊験に由来し、現在では厄除開運・交通安全の守護神として崇敬を広く集めています。
また、当社は古来より朝野の崇敬厚く五穀豊穣・家内安全・安産・商売繁盛・火災鎮護並びに
勧学の大神としてご神徳高く広く信仰されております。


立木神社を後にして、旧東海道へ。


12時53分、草津川に架かる矢倉橋を渡り、


旧東海道を西へ。


小さな地蔵尊に心の中で手を合わせる。


矢倉道標(市指定有形民俗文化財)
東海道と矢橋街道の分岐点に、かつて「姥ケ餅屋」があった場所の北の軒先に一基の石造道標があった。
これは、東海道を道ゆく旅人を矢橋の渡し場へと道案内するものであった。
この道標は、歌川広重の浮世絵をはじめ、「東海道名所図会」や「伊勢参宮名所図会」などに紹介された
「姥ケ餅屋」の軒先にも描かれている、とのこと。


南草津駅近くの旧東海道と東海道(国道1号)の合流点


国道1号を渡った先に、野路一里塚跡の碑があった。
野路一里塚は、日本橋から119番目の一里塚である。
現在は、上北池公園になっている。


関ケ原の合戦で、天下を手中にした徳川家康は、慶長6年に東海道、慶長7年には中山道に対する伝馬徴発令を
発布するなどいち早く江戸を中心とする交通、運輸網の整備を進めた。
慶長9年(1604)には引き続き東海道、中山道、北陸道の街道沿いに一里塚を築造した。
(以下略)


この先の旧東海道は複雑と聞いていたが、赤字で示された道標があったので、これを参考にして進んだ。


東海道と書かれた表示板に従って進む。
こういう案内標識はありがたい。


旧東海道を進んで行くと・・・


弁天池を示す地図があった。
赤く表示された道が旧東海道である。


少し進むと、”古き宿駅 野路駅の名残り”の説明板が。
野路の地名は平安時代末期にあり、「平家物語」や多くの紀行文にもその名がある。
ここ野路の十禅寺川と東海道が交わる辺りには、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。
「千載和歌集」の源俊頼の歌に
あすもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やどりけり
と詠まれた野路の玉川である。
萩の名勝として近世には、「近江名所図会」や歌川広重の浮世絵にも紹介されている。 
付近には重要文化財の本殿がある新宮神社をはじめ、野路小野山製鉄遺跡など多くの歴史遺産が所在する。


旧東海道を少し進むと・・・
弁天池があった。


弁財天参道橋を渡って弁天様に行けるようになっている。


弁天池を後にして旧東海道を進む。


月輪という地名の由来が刻まれた碑が建てられていた。
月輪池に由来する地名で、この池に映った美しい月の姿から名付けられたとも、
月輪殿九条兼実の荘園内にあったからともいわれます。
元来は原野でしたが、江戸時代に入って開墾がすすめられ、延宝四年(1676)大萱新田となり、
明治七年(1874)月輪村と改称されました。


曹洞宗普門山月輪寺行者堂


月輪寺行者堂には、新田開発発祥の地碑と


明治天皇御東遷御輦之所(めいじてんのうごとうせんごちゅうれんのところ)の碑が建てられていた。


さらに進んで道路を横断した所に東海道立場跡の碑があった。


立場跡の碑の後ろ側は枯れた状態であるが、月輪池と思われる・・・


旧東海道を進む。


一里山橋を渡り、


道路名は不明だが、そこを横断して緩やかな坂道を下って進む。


大江の千里(ちりんさん)
大江の地を荘園として持っていた伝えられる「大江の千里」は平安時代前期の歌人で、三十六歌仙のひとりとして
また、百人一首の第二十三首の歌人として著名な人である。
その奥方がこの地に住まいしていた。
村人はその跡地に野上神社(現在は、御霊神社のお旅所)を建て、その遺徳を偲んだといわれている。
第二十三首「月見れば 千々にものこそ 悲しけれ 我が身ひとつの 秋にあらねど
瀬田学区自治連・瀬田歩こう会


旧東海道と思しき地図があった。


旧東海道を進む。


大場の桜
この山桜は樹齢約200年の古木です。
旧東海道筋にあり、毎年美しい花を咲かせています。
旧東海道と芦浦街道との分岐点にあるこの木は、昔から現在まで人々の様子を見てきた古木です。
この桜は、江戸時代には参勤交代ででみやびやかな列をなして、毛槍を振り振り供奴を連れた大名行列が、
物々しく西に東に行き交っていたのを見つめていたことでしょう。
瀬田学区自治連合会  瀬田歩こう会  瀬田文化振興会


赤い欄干の高橋川を渡り、


桧山神社を左手に見ながら進むと・・・


15時19分、瀬田の唐橋の袂に到着した。


瀬田の唐橋を渡る。


瀬田川に沿って大きなホテルや旅館が立ち並んでいる。


遠くに琵琶湖が見える。
日本三名橋・日本三古橋の一つで歌川広重の『近江八景』のうち『瀬田夕照』はこの橋の風景を描いたもの。
東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしか方法はなく、瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は
京都防衛上の重要地であった。
そのため「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。


瀬田の唐橋の中州辺り


こちらは京都方面


京阪石山坂本線の線路を越えたところの鳥居川交差点を右に曲がる。


旧東海道を進む。
草津駅をスタートしたのが、12時30分頃だったので、この日は出来るだけ距離を稼いでおきたい。
JR瀬田駅前にホテルを予約しているので、暗くなる直前の16時30分頃まで歩くつもりである。


国道1号下を潜り、


京阪石山坂本線を渡る。


さらにJR東海道本線の下を潜って進む。


工場群が目立つ旧東海道を進む。


農業試験研究発祥の地付近の碑
明治28年4月1日、この旧東海道の向いに広がっていた、粟津が原(旧膳所村別保)に滋賀県農事試験場が
開設以来百年を迎えるにあたり、これを記念して建立(平成7年3月)


大津市立粟津中学校前を通過


膳所城勢多口(南惣門)跡の碑
膳所城下町の南の出入口になる。


旧東海道を進む。


京阪石山坂本線の踏切を横断して右に曲がると・・・


16時7分、若宮八幡神社に到着した。
若宮八幡神社は、壬申の乱(672年)があって3年後の白鳳四年(675年)、天武天皇が宇佐八幡の神託により造営した。


神社の社殿等が完成したのは白鳳八年(679年)で、九州宇佐八幡宮の次に古い八幡宮であり、当初は
粟津の森八幡宮、のちに若宮八幡宮となり、明治から若宮八幡神社となった。
表門は膳所城の犬走り門を移築したもの。


旧東海道を進む。


また、京阪石山坂本線の踏切があった。


旧東海道を進む。


篠津神社
祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)。創始年代や社歴については不詳。
古くから産土神(うぶすながみ)として庶民の信仰を集めていた。
重要文化財に指定されている表門は、膳所城北大手門を移築したもの。


道なりに200mほど進むと、中ノ庄駅があった。
時計は16時20分を少し過ぎようとしていた。
この日はこの辺りでホテルに引き返した方が良さそうだ。
ということで、この日は京阪石山坂本線の中ノ庄駅をゴールとしよう。


この後、京阪石山坂本線で石山まで行き、JR東海道線に乗り換えJR瀬田駅へ行くことになる。
16時40分、JR瀬田駅前のAPA HOTELに到着した。


この日の万歩計は23,500歩を計測していた。


旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(2日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(4日目)

2023年05月16日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年5月16日(火)

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(4日目)

この日は今回(旧東海道第Ⅲステージ第7回)の最終日ということで、昨日の続きとして
三雲駅をスタートして、石部宿、ゴールの草津宿を目指すことになる。
昨日三雲駅までしか進めなかったためその分距離は長くなることから、少々早めに
ホテルを出て三雲駅まで送ってもらった。
この日の天気は晴れ、最高気温は27℃という予報である。
熱中症で途中でストップなんてことにならないよう水分補給は怠らないようにしたい。
かみさん達は近江八幡や多賀大社などを観光するという。

7時44分、かみさん達と分かれて三雲駅を出発!


しばらく旧東海道を歩く。


昨日までの3日間見て来た同じような街道の景色が続く。


JR草津線の踏切があった。


踏切を越えた所に旧東海道の道標と観光地図があった。


きずな街道(旧東海道)の歴史探訪・史跡めぐりマップで現在地と周辺の史跡などを確認する。


JR草津線を電車が走っているのが見えた。


しばらく進むと”きずな街道休憩所”があった。


歴史探訪・史跡めぐりマップを確認すると、大沙川隧道・弘法杉は直ぐ先である。


対向車が来ないことを確認して大沙川(おおすなかわ)隧道を通り抜ける。


大沙川隧道の説明板
大沙川は、旧東海道の上を流れる天井川です。
奈良時代に奈良の仏教寺院や石山寺の造営時、この辺りの木々が切り倒されて禿山となり、
大雨の毎に土砂が流れ、川底が上がり天井川になったと伝えられています。
当時三雲地区には天井川が多く、大沙川・由良谷川・家棟川も旧東海道と交差していた。
人々は天井川に出会えば土手を登り、小橋か浅瀬を渡って川越するという
「人馬通行ノ難所タルハ衆人ノ熟知スルところ」であった。
明治になると東海道を整備することになり、その一環として天井川に隧道を掘って人馬の
通行の便宜を図ることになり、明治17年3月に県下最初の道路トンネルとして築造された。
全長16.4m、高さ4.6m、幅4.4m、半円アーチ形天井、壁は花崗岩の切石積みという立派で
頑丈な構造で造られており、地元では「吉永のマンボ」と呼ばれ親しまれている。
また、このトンネルの上には弘法大師の伝説で伝えられている樹齢750年の「弘法杉」が
聳えている。
平成29年(2017)3月  三雲学区まちづくり協議会


隧道を通り抜け、隧道の上に上って振り返ってみると・・・そこには杉の大木が!


旧東海道を横切る大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹齢約750年の杉がある。
この大杉を古来より弘法杉、または二本杉と人々はよんでいる。
伝説によれば、もとは2本あって並立していたが、洪水のために堤防が崩壊して一樹は倒れた
といわれている。
昔からこの地方の子どもが左手で箸をもって食事をするものは、この木の枝で箸を作って
使用させると自然と右手で食事をするようになるといわれている。
そのために、下の方の枝はたいてい切り取られていたと伝えられている。
一説によれば弘法大師(空海)がこの地方を通過した時、二本の木を植えたとも、
また弘法大師が食事をしたあと杉箸を差しておいたのが芽をだしたとの説がある。
その後、大風のために折れて朽ちたので里人が再び植えたが、安永2年(1773年)の台風で
そのうち1本が倒れたともいわれている。
平成6年3月 甲西町教育委員会


大杉の裾に弘法大師を祀った大杉弘法堂があった。


旧東海道を進む。


浄土宗了安寺入口前を過ぎ、


続いて三雲小学校を過ぎると・・・


夏見一里塚跡を示す説明板があった。
この夏見の一里塚は江戸日本橋から115里の地点にあり、東の先は水口(泉)に、西の先は
石部にそれぞれ一里塚があります。
しかし、多くあった一里塚も明治以降は保護されず、道路の拡張や開発によってなくなり、
そのまま残っているのはごく僅かで、この一里塚のように跡地を示すだけになっています。
この写真は数少ない愛知県名古屋市にある笠寺一里塚で、このような塚がここにもあったと
想像されます。
平成27年1月(2015) 三雲学区まちづくり協議会


夏見一里塚跡を過ぎて少し進むとまた隧道があった。由良谷川(ゆらたにがわ)隧道だ。
大沙川隧道の2年後の明治19年竣工、花崗岩で出来た切石を追石に使用してどっしりとした
重厚な造り。
由良谷川は野洲川に合流する河川で東海道の上を流れる天井川である。
毎年辺りは紅を差した様な明るくなる見事な桜並木である。
きずな街道の歴史探訪・史跡めぐりマップより


由良谷川隧道を通り過ぎて振り返って見たところ。


由良谷川隧道を過ぎると新由良谷川があった。
小さな川である。


旧東海道を進む。


おやすみ処の看板が目に入った。


針公民館にあるきずな街道休憩所だ。
ここで一息入れて、


また旧東海道を進むと・・・北島酒造があった。


北島酒造は米どころ近江平野にあり、最高の酒米と鈴鹿山系の伏流水を使用し、丁寧な
手造り行程で醸造している「御代栄」は全国でも数少ない本当の技と愛情で少量しか造らず、
全量低温発酵、低温貯蔵で造られているお酒である。
「気に入らないものは一本も出荷しない」と社長自らが全ての製品を厳しくチェックする。
そんな手造り手の思いがこもったお酒である。
きずな街道の歴史探訪・史跡めぐりマップより


北島酒造を過ぎて少し進むと、
国指定天然記念物 うつくし松 の案内板があった。
次のようにと紹介されている。
平松に自生する赤松の変種。
根から放射状に出て傘を開いたような美形の松で、その名も「うつくし松」。
大小二百本が群生し、日本でこだけしかなく、国の天然記念物に指定されています。
湖南観光協会


家棟川橋を渡り、


旧東海道を進んで行くと・・・


天然記念物うつくし松自生地0.9Km の案内標識が。
時間があれば是非とも立ち寄って行きたいところだが・・・


石部宿高木陣屋跡の説明板
元禄11年(1698)道中奉行に任命された高木伊勢守が、元禄12年に平松を領するようになった。
その後、文化年間(804-1817)に広壮な二階建ての陣屋を建てたが、明治維新後、個人の所有
となり、建物は取り払われた。
しかし、陣屋の門はその後所有者が転々とするが、現在は、三雲の郷内にあるレストラン入口の
門として再移築されて、当時の面影を残している。
湖南市観光協会


浄土真宗本願寺派 紫雲山光林寺前を通過


バス停のような小さな”きずな街道お休み所”を通過


9時34分、石部宿に入った。


東の見附跡
東の見附は目川屋より約30m東に行ったあたりで、道路の中央付近まではみ出していた
巾3m、高さ2mほどの台場であり、石部宿場の両入口にあった。
桝形城門の俗称で、番兵が通行人を見張るところから、「見附」といった。
石部宿には東西二ヶ所に設けられた。
湖南市観光協会


吉姫神社
御旅所のある上田の地に斎き祀られていたが、明応年度の兵火によりこれを焼失し、
天文三年に現在の地に祭祀された。
境内には南北朝時代作の木造狛犬や万病に効能あらたかな宮前の湧き水がある。


9時46分、石部宿に到着


西福寺前を通過して少し進むと・・・


石部宿駅(休憩所)があった。
厠(トイレ)なども整備されている。


東海道五十三次宿場地図
三条大橋まで残す宿場は3つである。


旧東海道を進むと、東海道五十三次 目川ノ里 の浮世絵があった。
五十一番目の宿場として、二軒の本陣、六十二軒の旅籠、二百余軒の商家で栄えた所です。
と説明されている。


10時5分、石部宿本陣跡に到着した。
ここにも明治天皇聖蹟碑がしっかりと建立されていた。


石部宿 小島本陣跡説明板
石部宿には、幕府直轄と膳所藩直轄の二つの本陣が置かれ、全盛期には216軒の商家や
62軒の旅籠が並び、東海道51番目の宿場町として栄えました。
数多くの大名や明治天皇なども宿泊した小島本陣は、慶安3年(1650)に創建されましたが、
膳所藩主本多俊次、康将二代に対する小島氏の顕著な奉公により承応元年(1652)に本陣職を
許されました。
湖南市観光協会


小島本陣跡を過ぎて少し進むと、道は大きく右に曲がっていた。
その角に田楽茶屋があった。


田楽茶屋の説明板には、
歌川(安藤)広重が天保3年~4年(1832-1833)の時、東海道を55枚の風景道中画で表し、
田楽茶屋は石部宿の象徴として紹介されました。
栗東の岡に、「京いせや」、「こじまや」、「元いせや」の3軒の代表的な田楽茶屋があり、
ここは平成14年町政百周年記念事業として再現されました。
湖南市観光協会


田楽茶屋を過ぎて進むと、


100mほど先が直角に左に曲がっていた。


鉤の手道の説明板
京都方面から来て、見附を過ぎると街道が鉤の手に二か所設置されていて、敵がむやみに
侵入しにくい構造になっていた。
石部宿には街道に8か所の交差点があったが、宿内を見渡せない遠見遮断で防御の役割を
果たしていた。
湖南市観光協会


旧東海道を進む。
前方にこんもりとした山が見える。近江富士(三上山)らしい。
後で調べてみると、次のような説明があった。
高さ432mで、なだらかな稜線を描くその美しい姿から、「近江富士」と呼ばれています。
また、この山を7巻半した「大ムカデ」を武将「俵藤太」が弓矢で退治したという伝説が
残っており「ムカデ山」の別名もあります、とのこと。


石部宿の西のは外れと思しき所に小さな公園があった。
西縄手である。


西縄手
縄手とは立場から立場の道のことを言い、石部宿の西にあたることから西縄手と呼ばれていました。
江戸時代、ここは宿内に入る前に参勤交代の為の大名行列を整理した場所で、長い松並木がありました。
湖南市観光協会


宮川を渡って旧東海道を進むと、国道1号石部ランプが見えた。


国道1号石部ランプ下を通り抜けてJR草津線を右に見ながら進むと、踏切があった。


踏切は渡らず、JR草津線に沿って真っ直ぐ進む。


名神高速道のトンネル下を潜って、


田舎道を進む。


右手にはっきりと近江富士(432m)が見えた。
きれいに富士山の形をしている。


10時59分、浄土真宗本願寺派 弁天山徳生寺前を通過


旧東海道を進む。


この地区の各家にはかつての屋号(職業)が付けられている。
この家は東海道 林村 刀鍛冶「刀屋」とある。


ほかにも東海道 林村「甘酒屋」や


東海道 林村 人力車「人力屋」などがあった。


長徳寺 薬師如来堂前を通過


六地蔵地蔵尊へ立ち寄ることにした。
この辺りは六地蔵という村だったと後で分かったが、ありがたい村名だと思った。
たまたま立ち寄ったのだが、立派なトイレがあったので使わせて戴きました。
(少しだけですが寸志は納めておきました)


本堂にお参りをすると・・・


ご本尊の地蔵尊(国宝)を拝むことが出来た。


六地蔵地蔵尊を少し進むと・・・和中散本舗の建物があった。
家康が腹痛を起こした時、この薬を服用し快復したところから「和中散」と名付けた。
道中薬として広く普及した。


建物は小休本陣、シーボルトも立ち寄った、とのこと。


国の指定重要文化財となっている。


和中散本舗を過ぎて道なりに進むと、六地蔵の小公園があった。


11時48分、直ぐ近くに一里塚碑があった。
六地蔵一里塚跡で、江戸日本橋より117番目の一里塚となる。


東海道名所図会(梅の木)
江戸時代の東海道沿線のガイドブックに記載されていた六地蔵村の様子。
宿場と宿場の間の休憩所である立場(たてば)が置かれ、梅木(うめのき)立場と称された。
「ぜさい」を名のる道中薬、腹薬の「和中散」を商う店があることで、京・大坂・江戸にまで
知れ渡っていた。


旧東海道(六地蔵村)を進む。


景観重要樹木指定標識には以下のように案内されている。
肩かえの松(クロマツ)
指定の理由となった樹容の特徴
東海道沿いにあり、歴史街道景観のシンボルの1つとして、往時を彷彿とさせる景観形成に
重要な役割を果たしており、地域住民や東海道を訪れる方々にも親しまれている。


実際の肩かえの松


旧東海道を進む。


12時11分、名神高速道栗東IC付近の道路下を通過


東海道手原村 手原醤油
塩屋藤五郎と書かれた看板がかかっていた。


里中大明神


12時25分、東経136度子午線の標識を通過
北緯35度01分22秒とある。


旧東海道を進む。


旧東海道を進む。


旧東海道は大きく左に曲がっていた。


道なりに進むと・・・


道路脇に 九代将軍足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地 文明十九年(一四八七年)
と刻まれた石碑があった。
室町幕府は応仁の乱後、勢力が衰え社会は乱れた。
近江守護職位高頼は、社寺領等を領地とした。
幕府の返還勧告に応じない佐々木氏を討伐のため、時の将軍足利義尚は長享元年10月
近江へ出陣、鈎に滞陣した。
滞陣2年目に病で延徳元年3月に、25歳の若さで当地で没した。
本陣跡は西に約200mの永正寺の一帯である。


鈎の陣所ゆかりの地碑の後ろは大きな池になっている。


旧東海道を進む。


真宗大谷派 養煙山善性寺を通過すると、


道が二手に分かれていた。


左は中郡街道となっているので、右に曲がって東海道の方へ。


目川 ひょうたん展示・販売 の店があった。


店の塀には目川の歴史が。
栗東市の目川は、東海道五十三次草津の宿に接する立場(旅人の休憩所)として栄えた所で、
旅人の必需品を売るいろんな店や茶店がありました。
その中でも瓢箪(ひょうたん)は旅人がお茶やお酒などを入れる容器として売られていたものと
思われ、江戸時代中期以降明治の頃まで当地方の農家の副業的地場産業でした。


12時59分、目川一里塚跡に到着
江戸日本橋より118番目の一里塚となる。
一つ前の六地蔵一里塚から1時間10分ほどかかっていた。


田楽発祥の地 元伊勢屋の碑
東海道を往来する旅人の休憩所として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し、東海道の名物となった。
(以下略)


目川田楽古志ま屋跡碑


目川田楽 京伊勢屋跡


13時15分、東海道新幹線下に到着、新幹線下で一休みしよう。
休んでいる間にかなりの数の新幹線が通過していった。


13時26分、草津市に入った。


国道1号を横断し、


少し進むと・・・


小汐井神社(地蔵尊)前を通過


いつの間にか草津駅の繁華街に迷い込んでしまった。
歩いているのとは逆の方を示す草津本陣跡の標識があった。
どこかで道を間違ったようだ。
この日は時間がないことから、最終回に本陣跡へ行くことにして草津駅へ向かった。


13時54分、草津駅前の道標に到着した。
最後は慌ただしかったが、何とか無事に草津宿(JR草津駅)に到着した。


かみさん達とは彦根駅で待ち合わせすることになっているため、とりあえず駅前で軽い食事を
摂ることにしよう。
近くにコメダコーヒー店があったので、サンドイッチとコーヒーを注文。
急いで食べ終わり、真っ直ぐ草津駅へ。

13時55分、草津駅に到着。
かみさん達が観光している多賀大社に近く、名神高速道彦根ICからも近い彦根駅へ向かった。

彦根駅でかみさん達と合流し、帰路に就いた。


この日万歩計は32,000歩を計測していた。
前日に続いての30,000歩越えである。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(1日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(3日目)

2023年05月15日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年5月15日(月)

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(3日目)

昨日までの雨も上がり、朝から時々晴れ間も見えるという良好なコンディション。
この日は土山宿の西の外れを出発し、水口宿を過ぎて、出来れば石部宿を目指したい。

9時19分、土山宿西の国道1号との合流地点を出発


国道1号は大型トラックなどが頻繁に走るのでちょっと怖さを感じながら進む。


道が二手に分かれていた。
右手は国道1号なので、左側の旧東海道と思われる方へ。


しばらく進むと、 
先へ足進めれば歌声橋 のんびり歩こう旧東海道 これより3Km先に松並木
何だか街道歩きが楽しくなる案内表示板である。


少し進むとモダンでおしゃれなドームに包まれた橋があった。
これが歌声橋なのだろうか。


下には野洲川が流れる。


右手に国道1号が直ぐ近くを走っている。
ここも左側の旧東海道を進む。
旧東海道は舗装の色が普通のアスファルトとは違う色が付いているので分かり易い。
この色の道がずっと続いているのだろうか?


旧東海道に沿って家並みが続く。


街道沿いの家はかなり間取りが大きいと推察される。


瀧樹(たぎ)神社の案内板
この神社には次の二つの宮が祭祀されている。
一、瀧樹大明神宮
この宮の主祭神は、速秋津比古之命と速秋津比賣之命という神で、この神は水門の神と
云われている神様で水害を守る神である。
近くに二つの川が合流している落合があり、大昔から洪水が多く、その度ごとにこの近辺は
大被害にあい困ったのでおまつりされた神様である。
一、天満宮
この宮の主祭神は、学問の神と云われている菅原道真をおまつりしている宮である。
この神は、室町時代の領主が信仰された神様で氏子が学問に励み立派な村にすることを
願ってまつられたものである。
この神社の祭礼日は、毎年五月三日で当日は、国の選択文化財に指定されているケントケ踊りを
はじめ、花奪(はなばい)神事や神輿の渡御が行われる盛大な祭りである。
平成十七年に本殿、拝殿が新築され、同時に境内の全面的な整備がなされ神域の荘厳さを増している。


100mほど先に瀧樹神社の参道入口の鳥居と2度目の案内板があり、ここより200m先という
案内表示を信じて、行ってみることにした。


最初の参道を過ぎると青々とした茶畑の景色が広がっていた。


茶畑の先に瀧樹神社の大きな鳥居があった。
本殿はもう少し先のようだ。


さらに進むと今度は杉並木の参道が続いていた。
本殿は近そうだ。
右手の方から川が流れる音が聞こえる、かなり大きな音である。


音のする方へ行ってみると・・・轟音とともに野洲川が流れていた。


神社の方へ戻って、石段を上ると・・・拝殿が現れた。
旧東海道から200mとあったが、実際には倍の400mはあったと思われる。


本殿のさらに奥に天満宮の本殿(左)と


瀧樹神社の本殿(右)が並んでいた。


旧東海道へ戻って旧東海道を進む。
瀧樹神社への往復に20分以上要してしまった。


10時16分、福彗山地安禅寺前を通過


前野の地安禅寺には、御水尾法皇の御影御位牌が安置されている。
御水尾法皇は慶長元年(1596年)後陽天皇の第三皇子として生まれ、慶長16年に16才の若さで
即位された。
徳川幕府が成立していく中で、天皇になられたが、寛永6年(1629年)明正天皇に皇位を譲られ、
34才で上皇になられた。
元禄11年(1698年)、善明院(法皇の第一皇女)の意向により、法皇の像、位牌を下附され、
その安置所として宝永5年(1708年)地安寺境内に建立された。
平成二十八年一月
土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会


旧東海道を進んで行くと、


垂水頓宮御殿跡の碑が。


伊勢神宮に伝わる「倭姫命世紀」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神の
ご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。
土山町頓宮には巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎が
この付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。
また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。
平成十六年三月
土山の町並みを愛する会


浄土宗長泉寺前を通過


10時39分、大野市場一里塚跡碑前を通過


大日川に架かる大日川橋を通過


大日川(堀切川)掘割
往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れが広がり、このため一度
大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚だしかった。
大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、
間に挟まった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。
元禄十二年(1699年)、市場村は排水路を掘割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に
願い出て許可を受け、頓宮村境より延長504間(約904m)、川幅4間(約7.2m)の排水路工事に
着工し、河敷地の提供から市場村民の総腑役により、元禄十六年(1703年)に完成した。
平成七年三月
土山町教育委員会


野洲川に流れ込む掘割


1本の松の木があった。
かつてはこのような松の並木が続いていたのだろうか。
他には松の木は見当たらない。


11時ちょうど、花枝神社の一の鳥居を通過


甲賀市立大野小学校前を通過し、


さらに旧東海道を進む。


11時20分、明治天皇聖蹟碑前を通過


間の宿大野の説明板
江戸時代の東海道の江戸大坂間には幕府の指定した正式な宿場が五十七あったが、その宿場間
にあった休憩等がとれる集落のことを間の宿(あいのしゅく)とよんだ。
この大野の辺りは東の土山宿と西の水口宿のちょうど中間点になり、旅人の休憩や買い物
などのために茶店や商店などがあった。
間の宿は公認の宿ではないため宿泊は許されていなかったが、それは名目上のことで、実際には
宿泊のための旅籠もあり数軒の屋号が今も伝えられている。
1868年の明治天皇東幸の折には、ここにあった小幡屋という旅籠が小休憩の御用を務め、
それなりに設備が整っていた旅籠であったということが推察できる。
こうした施設は立場(たてば)とよび、この近辺にもいくつかの立場があったと伝えられている。
令和三年一月三十一日
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


魚屋の屋号を付けた大きな家


会席料理みよし 赤帆亭(せきほてい)の看板があった。


三好赤帆旧跡
三好赤帆(1798-1873)は、待花園月坡(じかえんげっぱ)と号し、通称才市と呼ばれた。
生家は代々の魚商であったが、少壮より俳諧に親しみ、嵯峨上田村の宍戸霞州に就いて教えを請うた。
その後家業を子に譲って京都に上り、東福寺法主虚伯(きょはく)に就いて十年余り研鑽を深めた。
その間、京・大阪の斯道の諸大家と広く交わった。
その後、郷里に帰って後進を指導し、この地方の俳諧の基礎を築いた。
俳著に『窓あかり』がある。
明治5年75歳で没した。
碑名 「ほととぎす 早苗に影を のこしゆく
平成二十四年二月八日
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


国道1号を横断するため螺旋状の階段を利用することにした。
大津43Km、甲賀市街7Kmの標識が見える。


螺旋階段の上から水口方面を望む。


旧東海道の大野集落を進む。


さらに大野集落を進むと・・・


直ぐ左手を国道1号が走っている。


国道1号を横断すると、


11時54分、甲賀市水口に入った。


旧東海道を案内に従って右側の緩やかな坂道の方へ。


旧東海道を進むと・・・


古民家カフェ「一里塚」という店があった。
12時を少し回ったが、お昼はもう少し我慢しよう。


先ほど通った古民家カフェ「一里塚」から数百mの所に、今在家一里塚があった。
江戸日本橋から112番目の一里塚で、本町域では、泉・林口・今在家の3か所に存在した。
江戸時代の一里塚は明治の初年に撤去され、現在の一里塚はその後復元されたもの。
今は塚の上に榎が植えられているが、かつては桜が植えられていたと伝わる、とのこと。


バス停の待合室のような小さな休憩処のような建物があった。


中を覗いてみると、郷ノ里と書かれており、椅子やテーブルが置かれていた。
自動販売機も設置されていた。
休憩していきたいが、あまり時間もないのでそのまま進む。


さらに旧東海道を進むと少し広い道路に出たが、また直ぐ二手に分かれた。
右手の道(旧東海道)を進む。


旧東海道を進む。


12時23分、龍王山宝善寺前を通過して少し進むと・・・


岩神社・岩上神社参道の入口に到着した。


鳥居を潜って石段を上って行くと・・・


5分ほど石段を上ると岩神社に到着した。


岩神社の説明板


旧東海道に戻り、水口宿を目指す。


永福寺、八幡神社を過ぎて進むと、道が二手に分かれていた。
右旧東海道の案内表示に従って進む。


旧東海道の松並木についての碑があった。


前方に見える小高い山が古城山だろうか。


山川橋を渡ると・・・


旧東海道水口宿 田町に入った。


少し進むと、東見附跡があった。


東見附(江戸口)跡
この地が水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿って通じていた
東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長十年(1605)以降のことである。
特に天和二年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は
警備の施設も整えられた模様である。
(以下略)


さらに旧東海道を進むと、旧水口宿脇本陣の建物があった。
この建物は、水口宿の脇本陣の一部とされ、文久三年(1863年)の「水口宿内軒別書上帳」
の中に記述がみられることから、十九世紀前半の建築と推定されています。
現在残る建物は当時の一部のみとなっていますが、脇本陣の特徴である大きな間口・奥行
が見られ、もとの家屋規模は水口随一の大型町家であったと想像できます。
その構造や蟇股(かえるまた)などの装飾は石部宿や土山宿の本陣にも類似性が見られます。
甲賀市観光協会


さらに進むと、13時20分、水口宿本陣跡に到着した。


石畳を進むと・・・
水口宿本陣跡の石碑があった。
(前略)
本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門、玄関、書院などがあって格式を示し、
その経営には宿の有力者があたりました。
この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、
明治二年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去されました。


奥には明治天皇聖蹟の碑が建てられていた。


また少し進むと高札場跡があった。


高札場跡の説明板には次のように説明されている。
「お達し」を公示する掲示板で、まちの中心のひとめにつきやすい辻、橋詰、出入口等に
設置されました。
水口宿では作坂町と旅籠町の境、三筋町の北筋と真ん中の筋の合流するところに設置されていました。
江戸時代には立札とも言われ、犯罪事実の公示・通報や、逮捕の協力を求めていました。
特に寛永十七年(1622)の宗門改役が設置されてからは「隠れキリシタン」取り締まりのため、
密告への賞金制度等が掲示されました。(甲賀市観光協会)


水口宿のこの辺りから町が三筋に分かれているため、三筋の町と呼ばれている。


「ふみや」という食事処があった。
時計は14時20分を過ぎており、お腹が空いていたので、この店で食事をしていくことにした。


旧東海道水口宿の街道沿いの古民家で、旧旅籠だったという雰囲気が落ち着く。


この店の売りは、目の前で炊く”釜土御膳”だ。
ご飯が炊ける間に注文したおかずを用意する、というシステムである。
メニューは、焼き魚・天ぷら・から揚げ・豚カツ・ハンバーグから選ぶことになる。
天ぷらを注文し、ご飯が炊きあがるのを待つこと凡そ20分、


炊き上げのご飯と出来立ての天ぷらは、まだ熱かったが、とても美味しかった。


旧東海道を進む。


14時35分、銭湯「清水湯」前を通過
街道沿いの銭湯は初めて見た(ような気がする)


真宗高田派 水口山蓮華寺前を通過すると、


14時41分、三筋の道の西端に到着した。


宿場町の水口が次のように紹介されていた。
天下を握った家康は、慶長6年(1601)東海道を整備し、五十三の宿駅を置いて公用輸送を
確立、この時水口も宿駅となりました。
宿場は、町数27、家数718と発展、俳聖芭蕉も逗留し「命二つのなかに生たる桜かな」の句を
残しています。
庶民の旅が盛んとなった江戸後期には40余の旅籠と本陣・脇本陣があって客引で賑わいました。
宿場の名物には干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等があり、夏の風物詩「かんぴょう干し風景」は
歌川広重の浮世絵によって広く世間に知られました。


近江鉄道水口・蒲生野線の踏切を横断すると、河内町に入った。


東海道案内図があり、
ここを右に直角に曲がり、少し先を今度は左に直角に曲がるように案内されていた。
水口城天王口跡
江戸時代この場所は水口城の東端にあたることから木戸が置かれ、「天王口御門」と呼ばれました。
もともと直進していた東海道も、ここで右に直角に曲がり、北町・天神町・小坂町と
城の北側を迂回し、林口五十鈴神社の南で再び当初の道に戻りました。
「天王口」の名の起源でもある八坂神社(八坂)がもと牛頭天王社と呼ばれたためです。
これより木戸内には「広小路」「南小路」などの武家屋敷が広がり、普段は藩士以外の
一般の通行は制限されていましたが、四月の水口祭には藩主や藩士に見せるため曳山が
曳き入れられました。


案内図に従って、北へ直進し、


突き当りを左に曲がって進む。


北町


天神町曳山蔵


天神町を通過し、


小坂町のところを左に曲がり、小坂の水口石のところを右に曲がって進む。


北邸(きたやしき)町の稲荷大明神を通過した先に、


真徳寺という寺があり、真徳寺の表門の説明があった。
当時の表門は、もと水口城内の郭内に所在した家臣(蜷川氏)屋敷の長屋門を近代に移築した
ものである。
寺院の表門に改めた際、かなり手が加えられたが、旧城下に残る数少ない武家屋敷遺構の
一つとして貴重である。
なお境内墓地には、明治の代表的書家として知られる巖谷一六の先祖の墓碑が伝えられる。
水口町教育委員会


真徳寺の表門


真徳寺


真徳寺を過ぎて少し進むと・・・
15時8分、五十鈴神社に到着した。


境内に入ると推定樹齢300年と云われるヒノキの大木があった。
水口町の古木・銘木に選定されている。
他にもイヌマキの大木があった。


五十鈴神社の本殿


五十鈴神社境内の片隅に林口一里塚碑があった。
林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが、水口城の郭内の整備にともない、東海道が
北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。
本塚は、往時を偲んで修景整備されたものです。


15時15分、水口宿西見附跡
水口宿の西の端に設けられたもので、「京口」と呼ばれています。
木戸や番所が置かれ、宿場の防犯施設となっていました。
東端の田町と片町の境界には東見附があり「江戸口」と呼ばれ、同じ機能を果たしていました。
東海道は最初はここから東へ真っ直ぐ延びていましたが、水口城築城と水口藩成立の二回の
機会に北へ迂回させられました。
またここを流れる川は見附川と呼ばれています。
甲賀市観光協会


すぐ横を流れる見附川


15時18分、美富久(MIFUKU)酒造会社前を通過


15時19分、柏木神社前を通過


北脇縄手と松並木
東海道が一直線に伸びるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。
縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない曲がりくねっていた旧伊勢大路を
廃し、見通しの良い道路としたことにちなむと考えられる。
江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があった。
街道は近隣の村々に掃除場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。
旅人は松の木陰で涼を取り、旅の疲れを休めたと云われている。


旧東海道が一直線だ。


道端にお地蔵さんらしき石像が祀られていた。


回りは一面麦畑である。


こちら側は田んぼに水が張られ田植えは既に終わっていた。


旧東海道を進む。


割烹「米新楼」前を通過


15時35分、甲賀市立柏木小学校前を通過


柏木公民館の所に半鐘を鳴らすために梯子を上る人の姿が。


街道脇に水路があり、緩やかに水が流れていた。


16時9分、国宝延命地蔵尊泉福寺前を通過


道が二つに分かれていた。


道標に従って横田渡し方面へ。


泉川に架かる舞込橋を渡ると、


泉一里塚があった。
水口宿では泉、林口、今在家の三箇所に一里塚があった。


(前略)
当時のものは現在地よりやや野洲川よりにあったが、これはそのモニュメントとして整備されたものである。
水口町教育委員会


さらに進むと冠木門があり、


16時22分、横田渡跡常夜灯に到着した。
「横田の渡し」は「東海道十三渡し」の一つで、常夜燈は文政五年(1822)に建立されている。
常夜燈は万人講中のもので、普段は土橋、水かさが増した場合は舟渡しを行っていた。
現在は公園となり川が一望できる。


横田橋渡し跡から見た野洲川


当初この日は石部宿を目指そうと考えていたが、まだここから10Km以上はあると思われることから、
この日は三雲駅までとすることにし、かみさん達に連絡した。
横田渡跡常夜灯で一休みした後、三雲駅を目指した。


コンビニ(セブンイレブン)を横目で見ながら三雲駅を目指す。


コンビニの先で国道1号に合流し、


野洲川を渡るために人と自転車は陸橋へ。


陸橋の上から野洲川に架かる横田橋を望む。


横田橋を渡る。


横田橋から見た野洲川


16時52分、三雲駅に到着した。


この後、かみさん達と宿泊先の「水口センチュリーホテル」に向かった。
ホテルのシャワーで汗を流した後、近くの飲食店へ。


いくつか探したが、ちょうど良い店がみつからず、結局昨日と同じ店に入ることにした。


この日も生ビールが美味かった。


この日万歩計は33,000歩を計測していた。
街道歩きで30,000歩を超えるのは久しぶりのことである。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(4日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(2日目)

2023年05月14日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年5月14日(日)

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(2日目)

この日は昨日の続き、鈴鹿峠を越えた万人講常夜灯からのスタートとなる。
APA HOTEL亀山を出発し、かみさんには国道1号の鈴鹿峠トンネルを出て直ぐの万人講常夜灯
近くで降ろしてもらった。

10時01分、2日目のスタート地点は、万人講常夜灯を少し過ぎた国道1号からである。
道路反対側へ渡ろうと地下通路へ向かったところ、かみさん達が車のクラクションを鳴らして
『そこは通れないわよっ』と教えてくれた。
昨日自分を迎えるために万人講常夜灯へ向かう時に確認したのだと言う。


対抗車線の車がないことを確認して道路反対側へ移動。
この日も朝から強めの雨、しかも風がかなり強い、街道歩きには最悪のコンディションだ。
昨日の鈴鹿峠越えは折畳み傘を差していたが、今日は少しでも濡れるのを和らげるために
大きなコウモリ傘に変えた。


10時10分、滋賀県土山町山中付近を通過


雨は正面からではなく背中から降って来る感じなので、まだ少しは我慢できる。


道路反対側に十楽寺という寺が見えた。
十楽寺は甲賀市土山町にある浄土宗の寺院で、山号は清浄山。
本尊は阿弥陀如来、本尊は甲賀三大仏の一つ、とのこと。


前方に新名神高速道路の橋脚が見えて来た。


東海道を示す標識を見ると何故か気持ちが落ち着くから不思議である。


街道沿いに民家が立ち並ぶが、いずれも間取りが大きそうな家ばかり。
雨は相変わらず強く降っているため、ズボンの裾がかなり濡れて来た。


道路脇に建つ地蔵菩薩堂
歴史を感じさせる建物である。


新名神高速道路の橋脚が次第に大きくなって来た。


10時34分、新名神高速道路の橋脚下を通過


新名神高速走路を通過した所に”「第二名神」滋賀県起工の地”のモニュメントと碑があった。


「第二名神」滋賀県起工の地 碑
平成7年12月18日に当地滋賀県土山町山中地先の土山橋下り線の下部工工事が第二名神の
滋賀県での最初の工事として着工されました。
当地が第二名神の起工の地であることを記念し、また、古より東海道の宿場町として道と共に
栄えてきた”あいの土山”の未来永劫の発展を願い、ここに記念碑を建立します。
滋賀県土山町


10時37分、山中一里塚公園に到着した。


櫟野観音道(いちのかんのんみち・大原道)道標


山中地区の旧東海道沿いから南西に伸びる道は、古くから東海道と神村(甲賀町大字神)
・櫟野村(甲賀町大字櫟野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道とも呼ばれていた。
当時、道標は東海道との分岐点に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ
一里塚緑地に移転されている。
この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には櫟野寺(らくやじ)本尊の十一面観音の
慈悲を詠んだ、虚白の「盡十方(つくすとも) 世にはえぬきや 大悲心(だいひしん)」
という句が刻まれており、櫟野の櫟野寺への参詣道でもあったことを伝えている。
平成十五年三月 土山町教育委員会


山中一里塚公園には鈴鹿馬子唄の碑と、


馬子が馬を曳く像が建立されている。


旧東海道(国道1号)を土山宿を目指す。


道の駅「あいの土山」まで2Kmの標識が。


東京から437Kmの標識を通過


国道1号沿いの民家の前を通過して、


さらに国道1号を進むと・・・


道が2手に分かれていた。


右側の道が土山町蟹坂(かにがさか)から道の駅「あいの土山」への道が赤く表示されている。
また、東海道土山宿はここから800mと案内されている。


右側の道に入って直ぐ右側に榎島神社(白川神社の末社)があった。
この神社の椎の木は御神木で樹齢は約400年とのこと。


蟹坂地区の案内図
左側は蟹坂古戦場跡、田村神社を経て土山宿へ800m、右側は現在地から鈴鹿峠4.5Kmとある。


蟹坂の集落を進む。


両側に工場のある場所を通り抜けると・・・


11時12分、蟹坂古戦場跡の碑があった。


蟹坂古戦場跡の説明
天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将
神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。
当時の山中城主は山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。
こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛り返し、さらに北伊勢の軍勢を加えて
再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、
軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。
一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国と合戦した。
この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。
平成七年三月 土山町教育委員会


蟹坂古戦場跡を後にして田村神社方面へ向かった。


真っ直ぐ進むと、高札があった。


高札の解説(太字の部分)
「この橋を渡ることのできるのは、安永四年(1775)の閏月12月23日からである。
(旧暦には閏月があり、この年は12月が2回続く)
この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。
また、近村に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない
人達の渡り賃も無料である。
しかし、それ以外の住民および一般の旅人については一人につき三文、また荷物を馬に乗せて
渡る荷主についても馬一頭につき三文、渡り賃を取ることになっている。
この規則は一時的なものではなく、橋がある限り永遠に続くものである」


高札の先に木製の橋があった。街道橋である。
江戸時代の安永4年(1775年)に架けられた田村永代板橋を復元した橋。
往時の橋は、巾二間一尺五寸(約4.1m)、長さ二十間三尺(約37.3m)。
高さ0.3mの低い欄干が付いた、当時としては画期的な橋であった。


街道橋の上から下流(土山宿方面)を臨む。


街道橋を渡り切ると・・・
歌川広重の「東海道五十三次」の「春の雨」が紹介されていた。
天保四年に刊行された「東海道五十三次」には、土山を描いた「春の雨」が描かれている。
雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り田村神社の杜のなかを
宿場に向かっている風景であると云われている。


田村神社の杜のなかを進むと・・・


右側に田村神社の鳥居があった。


参道を進んで行くと・・・田村神社があった。
祭神は坂上田村麻呂で、平安時代初期の建立と云われている。
社殿は鈴鹿峠から移されたものであるらしい。
明治時代の初め、付近の氏神を廃してここに合祀して以来、現在の壮大な姿となった。
田村麻呂の、鈴鹿峠の鬼退治の伝説にまつわる「厄よけの神」としても有名。
この鬼退治が2月18日だったことに因み、毎年2月17日、18日、19日に厄除祭が催されている。


11時34分、田村神社を挟んだ国道1号の反対側にある道の駅「あいの土山」に到着した。


道の駅「あいの土山」で一休みすることにしよう。
かみさん達は先に到着して、車の中で休憩していた。
この頃から雨が一段と強くなったため、弱くなるまで待つことにした。


車の中で待つこと約1時間、雨が少し弱くなって来たので、とりあえず土山宿の西の外れまで
進むことにした。
その後、近くで一緒に昼食を摂ることにして、12時40分に道の駅「あいの土山」を出発した。
道の駅「あいの土山」の少し先に土山宿の絵地図があった。


土山宿は、上方へ向かう旅人が、鈴鹿峠を越えて最初に入る宿場である。
当時は、小田原宿や三島宿と同様に賑わっていた、とのこと。
土山宿の説明板
(前略)
宿場の主体をなしたのは宿中央にあたる現在の仲町・吉川町あたりで、そこには人馬継立を
差配する問屋場や公用者の休泊のための本陣などがあり、徳川幕府は役負担を義務付けられた
宿の保護のために地子(じし:租税)の免除などの特権を与えていた。
また宿の中心には旅籠や商店、茶屋なども多く、街道に沿って細長く宿場町を形成していた。
1843年の記録では本陣2軒、旅籠44軒、家数351軒で人口は1,505人だった。
令和2年1月31日  土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


東海道 土山宿の碑


土山宿の街並みを進む。


重厚な家が多い。


お六櫛
江戸元禄の頃、信濃の国の櫛職人が伊勢参りを終えて京都見物に行く途中、ここ土山宿の
生里野で重い病気になり、生里野の民家で養生させてもらって一命をとりとめ、京都へと
旅立つことが出来ました。
その旅人は信濃へ帰国した後、土山で受けた恩恵に報いようと、櫛の製法を伝授すべく
再度土山を訪れました。
この櫛は「みねばり」などの木を材料にして作られ、土産物として大変人気がありました。
最盛期には十軒余りの業者が櫛に関わっていましたが、今は姿を消してしまいました。
(甲賀市観光協会)


土山宿を進んで行くと、お六櫛の本家櫛所と書かれた看板の家があった。
前述の説明と関係があるのかも・・・


土山宿の街並みを進み、


来見橋を通過。


続いて白川神社前を通過。


大原製茶場前を通過。


森鴎外の泊まった平野屋
平野屋は、鴎外が祖父白仙の墓参のために土山を訪れ、明治33年3月2日に一泊した旅籠である。
土山の町並みを愛する会


蕎麦処 うかい屋前を通過
土山宿で食べ物屋を営んでいる店があるとは知らなかった。


二階家本陣跡


堤家(二階家)本陣跡
(前略)
土山宿には吉川町の北土山村側にあった土山家本陣と、中町の南土山村側にあった堤家本陣の二軒があった。
堤家本陣はその屋号から「二階家本陣」とも呼ばれ、代々忠左衛門を名乗った。
(中略)
堤家本陣は幕末には衰微し、これより250m西、吉川町の北土山村側にあった大旅籠の大黒屋が
その代替として利用された。
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


土山宿伝馬館


東海道伝馬館に入ると・・・


伝馬館内部(1)


伝馬館内部(2)


伝馬館内部(3)


伝馬館を出て直ぐ右側に土山宿問屋場跡があった。


土山宿の問屋場は、中町と吉川町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、
時代と共にその場所は移り変わってきた。
明治時代の宿駅制度の廃止に伴い問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。


土山宿問屋宅跡


土山宿本陣跡
土山宿本陣は、寛永11年(1634年)、三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。
土山氏文書の「本陣職之事」によって分かるように、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門
を初代として之を勤めた。
本陣は当時の大名、旗本、公家、勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されて
いたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


本陣跡には必ずと言っていいほど明治天皇聖蹟の碑が建てられている。
ここ土山宿本陣も例外ではない。


土山宿は続く。


一の松通りを横断した所に小さな大黒屋公園があり、形の良い松の木が1本植えられていた。


また、『高桑闌更(たかくわらんこう)句碑』があった。
土山や 唄にもうたふ はつしぐれ  闌更


作者 高桑闌更 俳人 享保十一年(一七二六)~寛政十年(一七九八)
加賀国金沢(石川県金沢市)に生まれる。 生家は屋号釣瓶屋という商家。
本名忠保(または正保)、通称は長次郎。
俳諧を和田希因に学び、蕉風の復興に努め、与謝蕪村らとともに、俳諧中興に貢献。
後年、医を業としながら京都東山双林寺内に芭蕉像を安置する芭蕉堂を営む。
芭蕉関係の俳書を翻刻、注釈するなど功績をあげた。 俳風は温和高雅。
門下から桜井梅室や土山に縁のある虚白禅師等を輩出する。
代表的な句集や編書に「半化坊発句集」「落葉考」「芭蕉翁消息集」「花の故事」「深川集」などがある。
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


その隣に大黒屋本陣跡と土山宿問屋場跡の碑が並んで建てられていた。


土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣宿の事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と
土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。
大黒屋本陣の設立年代については、はっきりと判らないが、旅籠屋として繁盛した大黒屋が
土山本陣の補佐宿となっている。
古地図によると、当本陣の規模は、土山宿本陣のように、門玄関、大広間、上段間をはじめ
多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であることが想像できる。
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


大黒屋本陣跡と土山宿問屋場跡の碑の奥に明治天皇聖蹟の碑が建てられていた。


大黒屋本陣跡と土山宿問屋場跡の碑を過ぎて東海道を進む。


土山宿 旅籠 古め屋跡


吉川に架かる大黒橋を渡って進むと、


国道1号が見えて来た。


国道1号との合流地点に土山宿の案内板があった。


土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになって以来、難所を
控える宿駅として発達してきた。
源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路線が
一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。
とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国規模で設け、土山宿は東海道五十三次の
第四十九番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しはじめた。
宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立てなどを司る問屋場、公用者の
宿泊などのための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、幕府は御役町の保護の
ために地子の免除その他の特権を与えていた。
この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道の脇に
細長く宿場町を形成していた。
平成七年三月  土山町教育委員会


13時30分、この日の東海道歩きはここまでとし、かみさん達の待つ蕎麦処「うかい屋」へ。
10分で蕎麦処「うかい屋」に到着、この時雨はかなり小降りになっていた。


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(1)


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(2)


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(3)


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(4)


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(5)


注文したのは鴨蕎麦だったが、なかなか美味しかった。
お腹が空いていたので、安倍川餅も注文してしまった。
餅2個は自分にとっては、ちょっと多過ぎた。


食事の後、かみさん達の観光に付き合う形で、甲賀流忍術屋敷(甲賀望月氏本家旧邸)へ。
40分ほど甲賀流忍術屋敷の巧妙なからくりを見学したり体験したりして過ごし、


この日予約していた「水口センチュリーホテル」へ向かった。


ホテルによれば、近くにはレストランはなく、普通の料理屋があるというので、行くことにした。
「酔虎伝」という店で、メニューは豊富で美味しかった。


この日万歩計は14,000歩を計測していた。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(3日目)

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