ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道を歩くⅠ 第十回 (中山道)板橋宿~蕨宿

2016年02月28日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2016年2月28日(日)

ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、
昨年から、旧街道の中でも交通の便が良く、見所が比較的多いとされる宿場間を選んで歩いている。
ある街道の中から気に入った宿場間を選んで歩くというものである。

「旧街道を歩く」第十回目は、中山道の板橋宿~蕨宿間(約9.6Km)を歩いた。
日本橋~板橋宿間は、第一回目の2015年1月25日に歩いているので、その続きとなる。

この日のスタートは、板橋宿のため、日暮里から山手線に乗り換え、
さらに巣鴨から都営三田線に乗り換え、板橋区役所前で下車。
この日の参加者は5名とやや寂しい人数だ。


都営三田線板橋区役所前駅


首都高中央環状線に沿って少し戻り、板橋宿入口(江戸寄り)へ向かう。


9時10分、見覚えのある板橋宿平尾宿入口に到着。
板橋宿は江戸寄りから平尾宿・仲宿、「板橋」から京寄りを上宿と云う。
ここがこの日のスタート地だ。


不動通り商店街を進む。


9時13分、如意山観明寺に到着
観明寺は、真言宗豊山派の寺院で室町時代の創建と伝わる。


寺の境内に入って直ぐ左手に寛文元年(1661)の庚申塔がある。
青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古だそうで、
昭和58年度に板橋区の指定有形文化財となっている。


観明寺の赤門
加賀藩下屋敷から遷されたと云われる。
もと加賀屋敷の通用門だった。


この稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、
明治になって陸軍造幣廠が建設された際、観明寺に遷座された。


観明寺の本尊は正観世音菩薩
脇本尊は不動明王で、通称「出世不動」と呼ばれ親しまれている。


本堂前に聳える桜の大木は、板橋区の保存樹木である。
『桜が咲くと見事だろうなぁ』
あと1か月もすれば見頃になるだろう。


まん丸い顔をした六地蔵が目を引く。
『可愛らしいけど何だかお地蔵さまのありがたみが感じられないよねっ』


平尾町脇本陣の入口表示


細い路地を50mほど入って行くと、


「板橋宿平尾町脇本陣」の碑があった。
板橋平尾宿の脇本陣豊田家の屋敷跡で、豊田家は代々市右衛門を世襲し、名主も兼ねていた。
近藤勇が処刑されるまでの間ここに幽閉され、また、江戸時代に見世物となったペルシャ産のラクダが
逗留したこともある、とのこと。


「板橋三丁目の縁宿広場」の中山道の宿場情報に見入る。
『中山道を全部歩くのは大変だよねっ』


「いたばし観光センター」で何か情報が得られるかも・・・


係の方が親切・丁寧に教えてくれた。
また、板橋のパンフをたくさんいただいた。


江戸時代から板橋宿の名所として名高かった初代の「縁切り榎」
榎は本来、縁結びの木として知られていたものが、板橋の榎は縁を切る木として、
特に離縁を願う女性たちの信仰対象となったのだと云う。


縁切り榎の図
『随分でかい木だったんだぁ』


前田家下屋敷の図
江戸時代に成立した参勤交代制度により、各大名に対しては、将軍より屋敷地が下賜された。
加賀藩前田家は本郷邸を上屋敷、駒込邸を中屋敷、板橋宿に面する平尾邸を下屋敷に定めている。
上屋敷は藩主と家族が住む公邸に、中屋敷は隠居した藩主などの住居に利用された。
下屋敷の平尾邸は、約21万8千坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を含めて、
江戸に所在する大名屋敷では最大の広さを持つ屋敷だった。
邸内には石神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が設けられ、
築山や立石、滝などが各所に配された池泉回遊式庭園が展開していた。
その規模は本国金沢にある有名な大名庭園兼六園の約7倍の広さがある。
現在、平尾邸の面影は、わずかに加賀公園に残る築山の一部だけとなっている、とのこと。


王子新道で平尾宿が終わるが、その先には仲宿が続いている。


案内には、
これより仲宿商店街、日本橋より二里二十九町九間(十粁五十二米)と書かれていた。


仲宿商店街には、古い家も残っており、昔を偲ぶことが出来る。


日本橋からの距離を尺貫法で表示している和菓子屋。
なかなか粋で趣がある。


板橋宿本陣跡
旧中山道の板橋宿本陣跡の碑が、スーパー「ライフストア」手前の民家脇に立てられていた。
代々新左衛門を世襲した本陣飯田家の屋敷跡である。
(うっかり見落としてしまい、「板橋」から引き返して撮った)


その向かいには、幕末の異国船打ち払い令を批判し、弾圧を受けた幕末の蘭学者、
高野長英をかくまったという彼の門人水村玄洞宅(現在は石神医院)がある。


10時13分、「板橋」に到着
「板橋」という地名の由来となった旧石神井川に架かる橋。
江戸時代の板橋は木造の太鼓橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)だった。


鎌倉から室町時代の古文書にすでにこの名が見え、江戸時代になると宿場の名となった。
板橋宿は江戸寄りから平尾宿・仲宿、そしてこの橋から京寄りを上宿と云い、
地誌「江戸名所図絵」ではこの橋の周辺が最も賑っていたらしい。


かつての石神井川は、南側に大きくV字状に回り込んでいたため、
昭和47年(1972)の河川改修で直線化し、新しい石神井川に造り替えられ、
現在は遊歩公園になっている。


新石神井川に架かる新しい「板橋」


現在の石神井川


交番の脇の角地に上宿の碑が建てられている。


板橋宿上宿の碑


旧中山道上宿を進む。


縁切り榎
嫁入りの際には縁が短くなることを恐れて、この木の下を通らなかったとか。
幕末、皇女和宮が中山道を下って将軍家茂に降嫁する折もこの榎を避けるように迂回路が造られた。
近代以降は難病との縁切という信仰も広がり、板橋宿の名所となっている。
現在の榎は三代目


榎の一部がコンクリで固められて保存されている。


縁切り榎の神様も祀られている。


10時24分、環七通りを通過。


環七通りを過ぎると商店街も終わり、高層マンションが目立つようになってきた。


首都高5号池袋線と合流し、


しばらく中山道(国道17号)を進むと、


10時44分、南蔵院に到着した。
南蔵院は、江戸時代初期に創建されたと伝わる真言宗智山派の寺院で、
八代将軍徳川吉宗の鷹狩りの際の御膳所(休憩所)だった。


境内には、六地蔵の他に、地蔵菩薩や、


地蔵堂がある。


境内の地蔵には、承応二年(1653)に旧蓮沼村の庚申講中の十人によって建立された、
板橋区内で確認されている203基の庚申塔の中でも二番目に古いとされる、
丸彫り地蔵の庚申地蔵(庚申塔)がある。
江戸時代に地蔵が庚申信仰の礼拝対象であったことを示す代表的な例としても貴重、
ということで、板橋区登録有形民俗文化財(信仰)に指定されている。


南蔵院は、真言宗智山派で、寶勝山蓮光寺と号する。(本尊は十一面観音)
たび重なる荒川の洪水のために、江戸期に坂下二丁目より現在地に移ったと伝えられている。


10時55分、中山道(国道17号)小豆沢バス停を通過。


11時3分、志村一里塚に到着
徳川家康は慶長九年(1604)に諸国の街道に一里塚の設置を命じた。
志村一里塚は、日本橋から数えて3番目の一里塚で、5間(約9m)四方、
高さ1丈(約4m)の塚が道を挟んで2基ずつ築かれた。


志村一里塚は、新中山道整備の際、周囲に石組がなされて保全され、今日に至っている。
都内で現存する一里塚は日光御成道にある西ヶ原一里塚とここだけ、だそうだ。
道路反対側の一里塚


志村一里塚を後にしてさらに進むと、清水坂の手前に富士大山道標と庚申塔がある。
中山道と富士大山道の分岐点に立ち、道標は寛政四年(1792)、庚申塔は安政七年(1860)に
それぞれ志村講中によって建立されたもの。


富士大山道標と庚申塔の先から中山道で最初の難所とされた急勾配である清水坂に入る。


日本橋を発って最初の難関がこの清水坂と云われた。
中山道で唯一富士山の姿を右手に一望できる名所でもあった。


今でもきれいに舗装されたこの板を上るのは息が切れるが、
荷駄を引く牛馬は大変な思いをしたと思われる。


坂の下には板橋と蕨を繫ぐ合の宿があり、茶屋などがあって、この先、
荒川を渡る戸田の渡しが増水で利用できない場合の溜まりの場所としていた。


埼京線線路を潜った先辺りが、合の宿があった所だ。
合の宿は、宿場と宿場のほぼ真ん中に位置する休憩を目的とする施設で、旅籠などの宿泊施設はなかった。、


埼京線線路の先で再び中山道(国道17号)へ合流。


中山道(国道17号)を横断し、反対側へ。


11時46分、三軒屋バス停を通過


11時51分、新河岸川を通過


荒川手前の船渡交差点を右折し、


埼京線・東北上越新幹線の下を通り抜け、150mほど先を左折すると、荒川土手が見える。


荒川土手に上がると・・・


12時6分、荒川だ。
戸田橋を渡ると埼玉県(戸田市)である。


右手の高層ビル群は川口市か?


土手に腰を下して一休み。
『いやぁ 天気が良くて気持ちが良いねぇ』


荒川土手に「戸田の渡し場」の碑が立っている。
荒川には、明治八年(1875)まで橋が無く、舟によって人や物資の運搬を行っていた。
洪水で利用できない時には、合の宿で待機したり、下流の奥州道中の千住大橋へ迂回することもあった。


「戸田の渡し場」は、戸田河岸と呼ばれ、荒川下流から塩・砂糖・雑貨がここで降ろされ、
大根や漬物などこの地の特産物などがここから積み込まれて下っていった物流の基地だった。
対岸の戸田村の名前をとって「戸田の渡し場」と呼ばれた。


12時27分、戸田橋を渡る。


新幹線・埼京線が頻繁に走り抜ける。


橋を渡り切った橋の袂に「歴史のみち 中山道」の案内があった。


案内に従って「歴史のみち」へ行ってみると、


案内されていた地蔵堂があった。
創立は不明だが、戸田市内最古の木造建造物とのこと。


地蔵堂の前に享保十六年(1731)銘が入った青面金剛像の庚申塔がある。
板橋宿の観明寺にあった庚申塔とよく似ている。


「歴史のみち」を進むと、


菖蒲川に突き当たった。
『うわっ 随分濁ってるねぇ』
『気分が悪くなりそうっ』
上流側は戸田競艇場に繋がっていると思われるが・・・


菖蒲川に架かる川岸橋を渡る。


中山道(国道17号)を一つ入った裏通りを歩いていたが、食べ物屋が見つからないので、


中山道(国道17号)に出てみると、幸楽苑があった。
時刻は間もなく13時になろうとしている。
『ラーメンでも食べて行こうっ!』で意見が一致。


この店のラーメンは早くて安いし、こういう時にはうってつけだ。


食事も終わり、再び蕨宿を目指す。


14時8分、蕨市に入った。


14時12分、木戸風の蕨宿標柱が現れた。
戸田の渡しで荒川を渡ってからの旧道は、大半が失われてしまっているが、
ここから先の蕨宿本陣までは、旧街道の面影が残されている。


日本橋から中山道全69宿場の浮世絵図が道の両側に描かれていた。


蕨市立歴史民俗資料館分館
かつて蕨市長だった金子吉衛夫妻没後、蕨市が譲り受け、2003年より一般公開された家屋敷。
(入館無料)


金子家は、明治時代に織物の買継商をしていた。
旧中山道と国道17号の間にあり、敷地面積は516坪と広い。


国道側は庭園になっている。


蕨市立歴史民俗資料館
蕨市の歴史と文化の特色である宿場および織物に関する情報を中心に展示している。
常設コーナー「街道と宿場」は見ておきたい。
(入館無料)


この庚申塔は、寛政四年(1792)に建てられたもので、
正面には青面金剛像・邪鬼・三猿が浮き彫りにされている。
板橋宿の観明寺と戸田の渡しの地蔵堂で見たものと同じだ。


旅籠の様子


江戸時代後期の蕨宿中心部の町並みを再現した模型。
本陣2軒と脇本陣1軒からなる宿場の様子が手に取るように分かる。
(手前が板橋宿方面)


本陣(岡田加兵衛家)の模型
蕨宿本陣は、岡田加兵衛家と岡田五郎兵衛家の2家が代々勤め、
宿場の中央に中山道を挟むように向かい合わせで建っていた。
両家とも門構え・玄関付の屋敷で、加兵衛家跡に蕨宿本陣跡の碑が立っている。


織物
江戸時代末期から、蕨では綿織物業が盛んになり、文政年間(1818~1830)塚越村の5代目高橋新五郎は、
青縞を織って江戸に売り出した。(以下略)


蕨市立歴史民俗資料館の隣に蕨宿本陣跡があった。


蕨宿本陣は、公家・大名などが休泊し、文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折には、御休息の場となり、
ついで、明治元年(1868)同三年には、明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。


蕨宿を利用した藩と禄高が展示されていた。
102万石の加賀金沢藩を筆頭に、尾張名古屋藩61万石、紀伊和歌山藩59万石と続き、
下野足利藩1万石まで、20の藩が利用したことになっている。


この日のゴールは、蕨宿本陣までのため、この後京浜東北線の蕨駅へ向かうことにした。
14時56分、蕨市役所前を通過。


JR蕨駅を目指す。


和楽備神社があったので、立寄ってみることに。


和楽備神社本殿
社伝によると、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、
渋川氏が蕨城築城の折、八幡神を祀ったのが最初とされる。


江戸時代には蕨八幡と呼ばれ、明治44年に町内18社を合祀して和楽備神社と改称した。
合祀後の神社名に、祭神名(八幡神)を取ることは、各集落とも承服しない状況であり、
蕨一字では尊厳味がないので、岡田健次郎元町長の知人本居豊穎に依頼し、
万葉仮名から取って、和樂備神社と命名した、とのこと。
本殿にお参りし、この日の無事を報告した。


JR京浜東北線蕨駅


15時23分、蕨駅改札口に到着
『今日は大変お疲れさまでしたぁ』


中山道の板橋宿~蕨宿間約9.6Kmを歩き終わった。
道中見どころもたくさんあり、良い天気に恵まれて一日楽しく歩くことが出来た。
今回でいったん中山道は終わるが、今後も面白そうな宿場を見つけて歩いてみたい。

この日の万歩計は、23,000歩を越えていた。

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ひな人形に満足 真壁の町散策

2016年02月26日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年2月26日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第31回(2016年第7回)、「真壁の町散策」ウォーキングに参加した。

この日第一集合場所の乙戸沼公園には23名が集まった。
車6台に分乗して、第二集合場所の真壁城址へ行ってみると、


真壁城址本丸跡には14名が直行していた。
合計37名という今年最高の参加者(女性23名、男性14名)となった。
真壁の街並散策は初めてだが、「ひな祭り」期間ということで女性の参加が多かったのだと思う。


準備体操
会長が『体調が思わしくない』との理由で辞退されたため、この日もKさんにお願いした。


『身体を横に曲げま~す』


『アキレス腱を伸ばしま~す』


37名は多すぎるため、3グループに分け、10時25分、Oさんを先頭に出発!
真壁城址本丸跡を後にして、先ずは、筑波連山山裾の伝正寺を目指す。


後ろは、真壁第一体育館


真壁城本丸と二の丸との境にある土塁を越える。
前方に見えるのはきのこ山か?


真壁城は、平安時代の末から戦国時代にかけて、真壁郡周辺を領有していた真壁氏の居城である。
平成6年に国史跡の指定を受け、平成9年から発掘調査を行い、その結果に基づいて、土塁や園路などの
整備工事が行われている。
手前の堀の先は中城(Ⅲの郭)跡と思われる。


二の丸(Ⅱの郭)と中城(Ⅲの郭)の間にある堀跡
堀には草が生い茂り、空堀状態になっている。


青いビニールシートで覆われている所が、発掘調査箇所(Ⅱの郭)と思われる。
真壁城は、南北400m、東西850mで、国史跡の指定面積は約12.5haとのこと。


上空にはパラグライダーが舞っていた。
『気持ち良さそうだねっ』
『こんな天気の日に自由に空を飛べるなんて羨ましいなぁ』


真壁城址外曲輪(Ⅳの郭)の土塁
かつての原型をかなり留めている。
いつの日か堀と土塁が当時の状態に復元されることを望みたい。


『真壁城址の中を通るのは初めてだよっ』


真壁城址を後にして、


山麓の伝正寺を目指す。
かつては天目山照明寺と称しているので、正面の山は天目山か?


筑波連山
右から足尾山(627.5m)・丸山(576m)・加波山(709m)・燕山(701m)・雨引山(409.3m)と連なっている。


右手に目を移すと、筑波山女体山(左877m)と男体山(右871m)が聳える。


田んぼに囲まれた農道を伝正寺へ向かう。


伝正寺が近くなってきた。
正面突き当たりが伝正寺山門になる。


何と! 伝正寺の山門は”全面通行止”になっていた。
東日本大震災の復興が進んでいないようだ。
『随分荒れ果ててる感じだねぇ 草ぼうぼうだよっ』
『伝正寺は大丈夫なのかしら?』


一抹の不安を抱えながら、坂道を上って行くと、


右手に伝正寺温泉「桜井館」があった。
芥川龍之介をはじめとする文人が泊ったこともあるという山裾の旅館で、
宿泊・個室休憩の他、日帰り入浴(800円)も出来る、とある。
迎賓館や国会議事堂に使われた日本三大銘石である、真壁の御影石を贅沢に使った風呂とのこと。
一度訪れてみたい気もする。


お~っと! 伝正寺への入口には、工事中のため”見物お断り”の看板が・・・
不安が的中した感じである。


皆さんにはこの場所で待ってもらい、Oさんと一緒に寺に直接確認することに。


伝正寺本堂
文永五年(1268)、真壁城主真壁安芸守時幹が法身国師のために創建した。
はじめは臨済宗で天目山照明寺と称したが、曹洞宗に改宗された。
忠臣蔵で知られる浅野家の菩提寺である。
本堂裏の元禄年間に造園されたという 小堀遠州の流れをくむ庭園は見応えがある、そうだ。


境内はまさに工事の真っ最中といった感じだが、時間が早いのか人影は見えない。
奥の事務所に行くと、おかみさんらしき人が出て来た。
「本堂を見るだけでも何とか」とお願いするが、
『今は檀家以外は境内には入れないことにしている』の一点張り。


残念ながら本堂を前にして無念の引き返しである。
『しかし、目の前まで来たのに残念だよなぁ』


伝正寺は諦めて真壁町の「ひな祭り」会場へ。


真壁町を目指す。
『まぁ 工事中じゃしょうがないねっ』
ようやく諦めがついたようだ。


左手に真壁城跡の発掘調査現場を眺めながら、


真壁町へ
『のどかな風景が良いねぇ』


県道41号線を横断し、


りんりんロードを跨ぎ、


11時19分、真壁町の得生寺裏に到着。


「ひな祭り」会場を一度に大勢でぞろぞろ歩くのは大変だし、相応しくないので、
個人あるいはグループで時間が許す限り自由行動とすることにした。
従って例会としては、ここで一応解散することにした。
なお、午後から役員会を予定しているため、役員とその車同乗者は、
12時30分頃を目安に、真壁城址に戻るようお願いした。
『それでは皆さん、ゆっくり楽しんで下さいねっ』


詳細地図を片手に「ひな祭り」会場へ向かう。


先ずは新宿通りを進む。
この通りは古い家が多い。ひな人形を飾ってある家は少ない。
『この塀は随分年期が入ってるなぁ』


最初に訪れたのは「橋本屋旅館」
主屋と土蔵が登録有形文化財に指定されている。


立派な構えの玄関を入るとひな人形が迎えてくれた。。
2階にも江戸時代の享保雛が飾ってあるそうだが、人形にはあまり興味がないので、「橋本屋旅館」を後にした。
享保雛は、江戸時代の享保年間(1716~1736)に流行した雛人形だそうである。


この蔵もかなり古そうだ。


「橋本屋旅館」の通りの反対側には、古い薬医門なども見られる。
これも登録有形文化財に指定されている。


真壁の登録有形文化財
真壁は、約400年前(江戸時代初期)に区画された町割がそのまま受け継がれている。
この地域は、国の重要伝統的建造物群保存地区になっており、現在なんと104棟の
登録有形文化財に指定された建造物がある、とのこと。
その数、全国3位になるそうだ。
『真壁にこんなに古い建物があるとは知らなかったなぁ』


少し引き返し、得生寺前の通りを上宿町方面へ。


仲町通りを仲町台宿鍵の辻方面へ進む。
この辺りはまだあまり人影は見られない。


「黄金屋」には昭和58年に寄贈されたひな人形が、


「江戸初」には大正から平成にかけてのひな人形が飾られていた。
昭和19年のひな人形


平成2年のひな人形
お孫さん(多分)の写真も一緒に展示してあった。
そのお孫さんも今では30歳は越えているものと推察される。


ひな人形を飾ってある店の中は、どこも大勢の観光客で賑っていた。
(写真は松野屋菓子店)


明治初期のひな人形
内裏様以外の人形は立っているものが多いし、人形の数も多い。
(写真は松野屋菓子店)


仲町通の中心地(仲町鍵の辻)が近づくにつれ、観光客の姿が増えてきた。


「根本米店」の大正・昭和のひな人形
今風のデザイン・形に近くなってきている。


御陣屋前通りに入ると、ぞろぞろと人が歩いていた。
『いやぁ 平日なのに人がいっぱい来てるよね~っ』


どの店にも人がいっぱいである。
「真壁のひな祭り」の人気の高さが伺える。


見世蔵飾りのひな人形
江戸時代後期のひな人形だそうだ。


山岡鉄舟の書も見られた。
歴史を感じる。


見世蔵飾りの斜め向いには、2階の出窓に人形が飾ってある。


赤い頭巾にちゃんちゃんこを着た髭の老人が、2階から手を振って愛嬌を振りまいている。
この家の主人だろうか?


御陣屋前通りは、益々人が増えてきた。
ちらほらと当会会員の見慣れた顔も確認できる。


時計は11時50分を少し回った頃でまだ昼前だが、お腹が空いてきた。
食べ物を売っている出店を覗き込む。


パン(トースト)が売られていた。
『美味しそうなパンだなぁ』
『今日は弁当無しだし、これでお昼代りとするかっ』
ということで、バタートースト(100円)を買った。


『けっこうボリュームがあって美味いねっ』
揃ってパンを頬張りながら街中を歩くのも乙なものである。


「関東の三越」と呼ばれた潮田(うしおだ)家
潮田家は真壁町のほぼ中心にあり,かつては呉服・荒物・雑貨商を営んでいた。


明治時代には業績を拡大し、土浦の豪商と親戚関係を持ち、その商圏は
八郷・筑波・大穂・岩瀬に及び、いつしか「関東の三越」と呼ばれるようになった。
見世蔵は明治43年の建築で,1階は通り側に広く帳場を構え,奥に座敷を配する。
高い棟積をもつ重厚な黒漆喰塗の町家で,御陣屋前通りの角地に際だった姿をみせている。


潮田家の内部


潮田家のひな人形
江戸時代から明治・大正・昭和にかけてのひな人形が並ぶと壮観だ。


江戸時代と明治のひな人形


昭和31年当時の豪華な嫁入衣裳も展示されている。


下宿通りでお目にかかったど派手なサイドカー。
黄金色の丸い鈴でデコレーションしている。
運転席の後ろには、鈴を付けた太鼓も見える。
かなりの高齢な方のように見えた。


パンだけでは腹が満たされないので、下宿通りから左折してコロッケ店へ行ってみると・・・
店には大勢の人が列をなしていた。
よく見ると、何と殆どが当会の会員ではないか。
『いやぁ 皆さんお揃いでっ』


狭い店の中にも人の列ができていた。
昔のコロッケが1個50円という安さが人気の秘密らしい。


『コロッケが美味いねっ』
アツアツのコロッケに皆さん満足そう。


真壁伝承館に立ち寄ってみることに。
真壁町には古い町並みの中に歴史的な建造物が多数残っており、歴史民俗資料館では
歴史ある建造物について調査を継続中とのこと。
現在までに把握した建造物は約100棟以上あり、所有者の同意が得られ次第順次登録を進め、
町並み保存と地域の活性化に繫げたいとしている、とのこと。


真壁城址の駐車場へ向かう途中、「村井酒造」前を通過。
ここでも会員の何名かにお目にかかった。
町中いたるところで散策を楽しんでいるようだ。


店の中を覗き込んでいる・・・


「高浜商店」の内裏様は、江戸時代「古今雛」とある。
江戸時代の明和年間(1764~72)頃に「古今集」などの王朝への憧れから名づけたとされ、
「古今雛」の名称で呼ばれている、とのこと。


現代の雛人形も「古今雛」の系統を継いでいる、そうである。


上宿通りを真壁城址へ向かう。
写真は塚本家の土蔵(登録有形文化財)


猪瀬家の薬医門(登録有形文化財)


『ここでもコロッケを売ってるよっ』
ひな人形よりコロッケの方が気になるらしい。


「桜井精肉店」では、享保びなの他に


和紙ひな人形も飾られていた。
『和紙びなって珍しいわねっ』


りんりんロードを過ぎて、


県道41号沿いのコンビニを過ぎると、その裏が、


ゴールの真壁城址だ。
時計は12時43分を回っていた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


初めての真壁の「ひな祭り」会場を巡るウォーキングを実施した。
37名もの参加人数には正直驚いた。
女性のひな人形への憧れは、いくつになっても変わらないのだとつくづく思った。

伝正寺を見学させて貰えなかったのは真に残念という外ない。
工事中だったので、やむを得なかったとは言え、本堂だけでも見せて欲しかった。

真壁の「ひな祭り」会場に協賛・参加している家は214軒にも上る。
時間の都合上「ひな祭り」会場のほんの一部しか回れなかった。
登録有形文化財に指定された古い建物も町のあちこちにあるようなので、
また時期をみてかみさんと訪れてみたいものである。

この日の万歩計は、9,000歩を計測していた。

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富士登山トレーニング 初回は筑波山梅林へ

2016年02月21日 | ウマさんの気ままなウォーキング
2016年2月21日(日)

2日前の19日(金)、久しぶりに知人のYさんからメールが届いた。
Yさんには、2009年11月から2012年1月にかけて茨城県の「関東ふれあいの道」を一緒に歩き、
実にさまざまなことを教えていただいた。
その後の私のウォーキングに大きな影響を与えた、私の師匠とも言うべき存在である。

そのYさんが、「現在活動中のグループの中から『一度でいいから富士山に登ってみたい』という声が上がり、
この夏”富士登山”を計画したので、参加しませんか?」というものだった。
また、それに備えてトレーニングをするので、そちらにも参加してみませんか?」とのお誘いだった。

トレーニング初日のこの日は、筑波山口から筑波梅林までを歩く、とのこと。
急な話ではあったが、自分も富士山は未だ登ったことがなく、一度は登ってみたい、
と思っていたので、二つ返事で参加させてもらうことにした。
ちなみにYさんは、過去7度富士山に登った、そうである。

13時の集合にはちょっと早めの12時15分、旧筑波鉄道の筑波山口駅に到着。


それらしき人は未だ誰も来ていなかった。


日曜日の午後ともなれば、駐車場は既に満車状態。
「りんりんロード」を走るサイクリング愛好家もいるし、20日から「筑波山梅まつり」が
始まっていたので尚更である。


何とか空いていた場所を見つけて、筑波山を背に車の中で待ことしばし。
三々五々、参加者と思しき人達が到着。


この日集まったのは自分も入れて10名だった。
この日は参加していなかったが、他にも2名ほどいるらしい。
自己紹介の後、Yさんから富士登山とトレーニング計画についての概略説明があり、
13時22分、この日の目的地筑波山梅林を目指して出発!


道標に従って筑波山神社方面を目指す。


いきなり”太陽光発電反対”の看板が目に入った。
何か揉めていることがあるのだろうか?


「観光協力の家」の看板が・・・
”トイレ休憩が出来る”とある。
『これは良いアイデアだねぇ』


雑木林に囲まれた緩やかな坂道を上る。


筑波山道路(県道42号)との合流点に出た。


筑波山道路とは反対側の坂道を進む。


視界が開けたので、振り返ってみると、かなり上って来たことが分かる。


藁葺の古民家風の前を通過。
”売出中”の貼り紙がしてあった。
『こんな場所、買い手がいるのかなぁ』


上りが次第にきつくなった。


筑波山口を出発して約35分経った13時58分、目の前に「つくばグランドホテル」が現れた。


左側を見ると、筑波山神社の大鳥居が・・・
『ここに出たのかぁ』
ようやく今いる場所が分かった。


筑波山市営駐車場へ向かう。


「つくばグランドホテル」を右手に見ながら駐車場へ。


急な石段を上ると、


14時5分、筑波山市営第3駐車場に到着。


駐車場の一番奥に筑波山梅林への近道がある。


筑波山梅林まで約500m、徒歩10分とある。
既に14時を過ぎているので、戻って来る人もいる。


緩やかな山道を進むことおよそ10分、


14時16分、筑波山梅林に到着。


駐車場へ戻る人に訊ねると、『今は5分咲きくらいかな』


園内には、白梅


紅梅、合計30種1,000本ほどが植えられているそうだ。


展望四阿から梅林を観てみよう。


四阿の中は大勢の人が観梅中だった。


『少し霞んでるけど良い眺めだねぇ』
眼下に梅林全体が見渡せる。
ほのかに梅の香りが漂ってくる。


標高約250mの展望四阿から筑波平野を見下ろす。
好天の日には、東京の高層ビル群や富士山も見渡すこともでき、
「関東富士見百景」のひとつとなっている、そうだ。


左側には宝篋山(461m)の電波塔も見える。


白梅も良いが、やはり紅梅が華やかで美しい。


展望四阿を後にして、木製の通路を下る。


『梅の香りが素敵だわねぇ』


筑波山の山体の大部分は硬い「斑れい岩」と呼ばれる深成岩(地下深くでマグマが冷え固まってできた岩石)
によって作られている、とのこと。
Yさん(中央)の説明に耳を傾ける皆さん。


筑波山の斑れい岩は、巨大な一かたまりの岩体をなしているが、女体山山頂付近では白く、
山麓では黒っぽい色をしている、そうだ。
一つの岩体で色が違うのは、マグマが冷え固まる際に比重が大きく黒っぽい鉱物が、
マグマだまりの下部に濃集して、残りの白く比重の軽い部分がマグマの上の方に
残ったためと考えられる、とのこと。


ここで引き返す筈だったが、少し山登りを体験してみようということで、筑紫湖方面へ。


少し行くと、砂防ダムがあり、その脇に上りの道がある、とのこと。
『上りは前傾姿勢で、頭の真下に足を出す感じで』とYさんのアドバイス。


よく見ると山道のような跡がある。


Yさんの後に続く。


小さな沢を渡り、


急坂の山道を上る。


上り始めて5-6分、今日のトレーニングはここまで・・・
Yさんによると、この道は山頂まで5時間近くもかかるそうだ。
ということで、ここで引き返すことに。
『下りで足を傷めることが多いので歩幅を小さくして下るように』とのアドバイス。


来た道を下る。
滑り易いので、注意が必要だ。


先ほど渡った沢を渡る。


『これで富士山登れるかなぁ』と不安そうな女性陣。
まだトレーニング初日、これからである。


梅林の中を通って下ることに。


満開の白梅が美しい。


園内のいたるところに筑波石が散在しており、野趣が感じられる。


野立をやっていた。
昨日から「筑波山梅まつり」が開催されているのだ。


「梅林お休み処」があった。


中へ入ってみると、”梅茶”のサービスが。
ほんのりと梅の香りがして、美味しかった。
”梅茶”の入ったカップを持って土産物の品定めをする皆さん。


知り合いという梅林ボランティア仲間の方に富士登山のことを話すYさん。
『筑波山に登れれば富士山にも登れるよっ』の力強い言葉に、
『何だか富士山に登れそうな気がしてきたわっ』と女性陣。
『だけど一番気を付けなきゃいけないのは、高山病だなっ』
Yさんも同じことを言っていたが、やっぱりそうなんだ。
あとはトレーニングで慣らしていくしかなさそうである。


特設ステージでは、筑波山名物の「ガマの油売り」の口上の真っ最中。


口上にも年期が入っている感じだ。


梅林入口駐車場前で一休みし、体調を整える。


15時23分、下山開始だ。
しばらく筑波山道路(県道42号)を下る。


梅林駐車場前の雑木林が切り開かれていた。


『ここにソーラパネルを作ろうってんじゃないのっ?』
『こんなところじゃ反対されるわよねっ』
上る時に見かけた”太陽光発電反対”看板の理由はどうやらこれらしい。
正直、ここに太陽光パネルが設置されたら景観を損なうだろうな、と思った。


自動車道路(県道42号)をさらに下る。


途中から歩道がなくなった。
この道路は車が多く、道幅も狭いので、歩いていて危険を感じる。
『歩行者のことを考えたら歩道を作るべきだよねっ』 ごもっとも。


歩道のない区間を200mほど下ると、上って来た時に通った合流点に。
この先は車は殆ど通らない小路なので、安心して歩ける。


筑波平野が見えてきた。


眩しいほどの日差しを全身に浴びながら下る。
『今日のトレーニングはこんなもんかな』とYさん。
これから半年かけて続けるそうなので、今後が楽しみである。


ゴールの筑波山口へ足取りは軽い。


すっきりと晴れた青空に筑波山が輝いているようだ。


最後は「りんりんロード」を歩き、15時53分、筑波山口(旧筑波駅)に到着。


Yさんから次回の日程の説明があり、この日はここで解散となった。
『次回またよろしくお願いしま~すっ』
『今日は大変お疲れさまでしたぁ』


突然の富士登山トレーニングの誘いだったが、参加して良かったと思っている。
初日のこの日は、筑波山梅林までだったが、今後徐々に高度を上げて筑波山の他、
日光男体山への挑戦も考えている、とのこと。
念願の富士登山に向けて、可能な限りトレーニングに参加して、富士山登頂を果たしたい。


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花室川は橋だらけ 乙戸沼公園からつくばセンターへ

2016年02月19日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年2月19日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第30回(2016年第6回)、「乙戸沼公園からつくばセンター」ウォーキングに参加した。

この日の集合場所乙戸沼公園
穏やかな水面に渡り鳥がのんびりと羽を休めている。
この時間、風はやや冷たいものの空はよく晴れている。


この日は、21名が集まった。
地元の乙戸沼公園をスタートするにしては、やや少ない印象である。


定刻を少し過ぎた9時5分、つくばセンター目指して出発!
いつものように先頭はOさん、この日のために下見をしておいたとのこと。


今日は、晴れで最高気温は16℃の予報、絶好のウォーキング日和になりそうだ。


学園東大通りの公設市場前交差点を横断


イラン料理店「Ali's Kebab Cafe」前を通過
一度イラン料理を味わってみたいと思っているのだが・・・


土浦産業技術専門学校手前を右折。


土浦産業技術専門学校横を直進し、左折すると、


常磐高速道だ。


常磐高速道を潜り、


「こっそり堂」前を通過


産直いちご売り場前を通過。
『美味しそうないちごっ』
『お米も売ってるんだねっ』


タイ国タンマガーイ寺院茨城別院前を通過
『こんな所にタイのお寺があるなんて知らなかったぁ』


国道354号下広岡交差点付近
この辺りは、土浦市とつくば市の境である。


下広岡交差点を渡る手前は、もうつくば市だ。


リカーショップ学園
1年ほど前に閉店してしまったそうである。
最近アルコールの量が減ったため、しばらく来なかったが、
よく利用していただけにやはり寂しい。


気温が上がってきたため、既に上着を脱いでいる人も。


桜南小学校手前を右折。


校庭には子供の姿が見えない、教室で授業中なのだろう。


桜南小学校を過ぎると、田んぼが広がる。


日当たりの良い道を進むと、


9時46分、これから歩く花室川の最初の橋「松下橋」に到着。
乙戸沼公園を出発して約40分、ここで小休止しよう。


9時51分、「松下橋」を後にして、上流へ向かう。


太陽をいっぱいに浴びて気持ちが良い。
『風が冷たいけどやっぱり春だわねぇ』


200mほどで2つ目の橋が現れる。


2つ目の橋。
残念ながら橋の名前を見つけきれなかった。
対岸に渡れば見れるのかも・・・


2つ目の橋から150mほどで、3つ目の橋「上広岡橋」に到着。
わずか400m足らずで橋が3つである。


「上広岡橋」を渡って反対側を歩いてみよう。


花室川の上流に向かって右側を進む。
景色はさほど変わらない。


花室川の水はかなり濁っている。
『あんまりきれいじゃないねっ正直言って』
さらに浄化されることを望みたい。


花室川の土手を進む。
『花室川を歩くのは初めてだけど、とっても気持ちが良いわねっ』


「上広岡橋」から約7分(600m)で4つ目の「大角豆橋」(ささぎばし)に到着。


「大角豆橋」は通り過ぎてそのまま真っ直ぐ進む。


満開の梅に春を感じることができる。


「大角豆橋」から400mほど先、5つ目の「柏橋」を渡って花室川の左岸へ。


「柏橋」から上流の筑波学園方面を望む。
つくば市で一番高いつくば三井ビルが見える。


再び花室川の左岸を進む。


筑波病院
糖尿病の血糖検査で毎月1回通っている病院である。


「柏橋」から約300mで6つ目の「渡戸橋」(わたりどばし)だ。


「渡戸橋」を渡り再び右岸へ。


「渡戸橋」を渡った正面は「あおば台第二幼稚園」だ。
子供たちの甲高い声が響く。


花室川の右岸を進むと、


1匹の山羊がいた。
1年半ほど前に下見で歩いた時には2匹いたはずだが・・・
土手の雑草を除草するために飼われているのだろう。


『いやぁ 立派な角だなぁ』


「渡戸橋」から750mほどで、7つ目の「上の室橋」が見えてきた。


「上の室橋」を渡り、左岸へ。


三度左岸を進む。


花室川の上流つくばセンターを目指す。


『ここにも橋があったのかしら?』
小さいながらも橋脚の跡である。


「上の室橋」から200mほど進むと、8つ目の橋「九重橋」である。


「九重橋」は通過し、そのまま上流へ。


「九重橋」から150mで9つ目の「倉掛橋」に到着。
『これって いくつ目の橋だったっけっ?』
まあ、きちんと数えている人は少ないようだ。


10時32分、「倉掛橋」を通過したところで一休み。


『ごちそうさまぁ』


5分ほどの休憩の後、10時37分、つくばセンターを目指す。


次第に気温も上がり、風も弱くなってきた。
『歩くのには最高の季節になって来たよねっ』


「倉掛橋」から500mほどで、10個目は「中神橋」だ。


「中神橋」を渡って右岸へ。


これで、右岸を歩くのも三度目である。


右岸を進む。
前方に見える白い建物は、「ホテルルートつくば」である。


10時49分、「中神橋」から約450m、11個目の橋に到着。
これが最後の橋となる「一つ橋」だ。
前方に見えるのは、土浦学園線に架かる「花室橋」である。


「一つ橋」を左岸へ渡り、


花室川を後にする。
『けっこう橋の数多かったよねっ』
『全部でいくつあったのかなぁ』
橋の数は11を数えたことになる。


10時54分、学園土浦線に出た。
白い建物は「ホテルルートつくば」だ。


ゴールのつくばセンターを目指す。


つくばセンターへ向かう途中、


偶然コゲラを見つけた。
『コゲラがこんなところにいるなんて珍しいよねっ』


道路の反対側の交通公園にシンボルのSL-D5170が見える。
『あれって本物のデゴイチ?』


時間もあるので、横断歩道を渡り交通公園へ。


11時3分、交通公園に到着。


『本物のデゴイチだねっ』
『いやぁ 懐かしいなぁ』
案内板には次のように紹介されていた。
「D5170」号は、日立製作所で製造され、昭和12年9月に完成。
はじめ岡山機関区に置かれ山陽本線の姫路と広島の間を走っていたが、昭和25年8月北海道に移され、
五稜郭、小樽築港、追分等の機関区で昭和50年12月まで活躍していた。
その間に走った距離は、287万8164Kmにもなり、月まで(38万Km)3往復してまた月まで行くことが出来る距離
を走ったことになる。
「D5170」のDは、動輪の数(ABCDのDで動輪が4つ)、51は型式、70はこの型式の機関車の番号を表している。
D51(デゴイチ)型の機関車は、速さよりもひく力が強いので主に貨物列車に使われ、
旅客列車にはC(動輪が3)の記号が付く機関車が使われていた。


旧国鉄バス「ドリーム号」も展示されている。
案内板には次のように紹介されていた。
このバスは国鉄が東名高速道路用として設計し、第1号車として日野自動車工業で製造したもので、
昭和44年2月に完成した。
昭和52年6月まで東名高速道路と名神高速道路を走っていた。
その間に走った距離は、137万4021Kmになる。地球を34周(1周40,000Km)回ったことになる。


公園の休憩所にしては、立派な建物である。


ベンチで最後の休憩を摂り、


11時18分、交通公園を後にする。
『あとはつくばセンターを目指すだけだねっ』


竹園三丁目付近を通過し、


つくばセンターへ。


東大通り交差点


東大通りを渡ると間もなくつくばセンターだ。


皆さん元気につくばセンターを目指す。


大清水公園前交差点に新築中のマンション。
上層階は、中国人が買い占めているとか・・・


つくばセンターで一番高い「つくば三井ビル」


階段を上ったところがつくばセンタービルである。


11時34分、つくばセンタービルのノバホール前に到着。
この日はここがゴール。ここで解散することに。
『皆さ~ん、今日はお疲れさま~っ』


女性陣はつくばセンタービルのレストラン街へ。


我々男性6名は、つくばクレオスクエアQtのレストランへ向かった。


豚丼のメニューに惹かれて「寿々」というレストランに入ることにした。


生ビールを美味そうに飲む会長
『歩いたあとは生ビールにかぎるねっ』
自分も飲みたかったが、車の運転があるのでここはぐっと我慢。


十勝豚定食(950円)は、けっこうなボリュームだった。


食後、つくばセンターへ。


バス停でバスを待つ。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

この後、12時50分発の荒川沖駅行で帰路についた。

早春の花室川を歩いた。
春を感じさせるくれるものにはあまりお目にかかれなかったが、
そよ吹く風には春を感じることができた。

「松下橋」から「一の橋」まで全部で11の橋を数えた。
花室川を歩いたのは4Km余だったが、その間に11もの橋は、
少し多すぎるのでは、と思わなくもないが、
どの橋も古くから花室川の両岸をつなぐ重要な橋だったのだろう。
中にはかつて橋があったと思われる跡も見られたが、残りの橋は、
これからも出来るだけ存在し続けて欲しいと願うものである。

この日の万歩計は、14,000歩に達していた。

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東城寺から朝日峠展望公園ハイキング

2016年02月12日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年2月12日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第29回(2016年第5回)、「東城寺から朝日峠展望公園」ハイキングに参加した。

この日の第一集合場所「ピアタウン」に集まったのは13名、車3台に乗り合わせて
第二集合場所の「小町の里」に到着してみると、既に大勢の人が集まっていた。


数えると、なんと19名もが小町の里に直行していたことに正直驚いた。
合計32名という今年最高の参加人数だ。
30名超えは、昨年の忘年会以来である。


駐車場で準備体操


この日は、会長が風邪気味で休みのため、号令は、Kさんにお願いした。


入念に身体をほぐして、


10時ちょうど、先ずは東城寺目指して出発!


先頭を務めるのは、今日も元気なOさんだ。


皆さんもOさんの後に続く。


小野小町の墓を過ぎ、出発して約10分、正面に日枝神社の杜が見えてきた。
時間に余裕があれば、立寄りたかったが、この日はあまり時間がない。


日枝神社前を通過して、東城寺へ向かう。


車もほとんど通らないのんびりとした田園風景の中、東城寺へ。


『今日は天気も良いし、本当に気持ちが良いよねっ』


道端に板碑などがほぼ昔の状態のまま置かれている。
周りの景色に溶け込んで、全く違和感を感じない。
この区域は、自然の風景を保護するために「水郷筑波国定公園特別地域」に指定されている。
刻まれている文字は風化して読めないが、せめて簡単な案内でもあればと思うのだが・・・


墓地には、新しい墓に混じって、昔の墓などを数多く見ることができる。
この集落の長い歴史が感じられる。


10時19分、東城寺仁王門に到着。


右側の阿仁王像
当然ながら左側には吽仁王像がある。(写真は省略)


仁王門を潜ると、最初は緩やかな上りの参道が続く。


次第に勾配がきつくなってきた。
『長いしけっこう急坂だよなぁ』


参道の先には急な石段が控えていた。
『久しぶりの石段だから脚にくるよねっ』


『以前来たことあるけどこんなに急な石段だったかなぁ?』
自分も5年前の2011年1月13日に「関東ふれあいの道」で、一度訪れているが、
その時の景色はすっかり忘れてしまっていた。
記憶が曖昧になってくる歳なのかと思う。


10時30分、東城寺に到着。
慈母観音像が迎えてくれる。


到着するや否や、ベンチに腰を下す女性たち。
『石段がきつくて疲れちゃった』
皆さん、かなり堪えたみたいだ。


先ずは境内入口に建てられてある、地蔵堂にお参り。


地蔵堂前に結界石がある。
案内板には、
結界石は一定の地域を区切る境界石である。


仏教で受戒や布薩等の儀式を行うために定めた大界・戒場・小界等の限られた地域を摂僧界というが、
東城寺の結界石は、これを示す標石に大界外相と彫ったものである、と紹介されている。
県指定文化財となっている。


境内には、鐘楼や、


薬師堂、祖師堂などが造立されている。


薬師堂横の石碑には、東城寺を讃える詩が刻まれていた。
関東平野の生門の 聖なる霧の湧くところ 石段三百六十五 遂に来ました東城寺(以下略)
『あの石段365段もあったんだぁ 疲れるわけだぁ』


東城寺本堂
真言宗系の単立寺院で、山号は朝望山。
延暦十五年(796)最仙の開山により創建された寺で、当初は常陸国における天台宗の拠点のひとつであった。
鎌倉時代初期小田氏の尊崇を受け真言宗に改められた。
江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられていた。


東城寺本堂にお参り。本尊は薬師如来
平成9年に焼失したが、平成16年に再建された。


本堂裏の洞窟には、焼け残った昔の書物が 大事に保管されている、そうだ。


東城寺を後にして上ってきた石段を下る。


『いやぁ 久しぶりの石段は疲れるねぇ』


『今日は これからが本番なんでしょっ?』
いったん小町の里に戻って、朝日峠展望台を目指すことにしているのだ。


仁王門を潜り、


ひと先ず小町の里へ。


前方のこんもりした森は日枝神社だ。


小町の里へ。


日枝神社前を通過。


まもなく小町の里だ。
『これで終らないんだよねっ?』


小町の里が見えて来た。


11時8分、小町の里に到着
『ここからスタートし直しなんだよなぁ』
そう、ここで終りという訳にはいかない、この日のメインは、朝日峠展望台なのである。
『行くっきゃないよなっ』


体調を整えて、11時16分、朝日峠展望台目指して、あらためて出発である。


麓の家々を眺めながら、


朝日峠展望台を目指す。


小野小町の腰掛石へ立寄ってみよう。


小野小町の腰掛石
この石は、平安時代の歌人として有名な小野小町が、北向観音に参詣のため、
山越えの途中休息したところと伝えられている。
小町はここで一息入れて近くの沢で喉を潤し(水飲み沢と呼ぶ)元気を取り戻して、
峠を目指し(小野超峠と名付く)無事に北向観音に詣でることができた。
しかし、帰路病を得て、小町の里でその生涯を終えたという。
この里に「小町の墓」がある。(案内板)


小野小町の腰掛石を後にして、朝日峠展望台を目指す。


小野小町が越えたとされる小野越峠へ。


ハイキングコース入口を過ぎると、直ぐに山道が始まった。


『ストック持って来て良かったよっ』


落ちていた棒切れだそうだが役に立っているようだ。


つづら折りの山道が続く。


道端の石像にみかんが供えられていた。
お賽銭もある。


小野小町が喉を潤して、元気を取り戻したと云われる「水飲み沢」だ。
しかし今は、”この水は飲めません”と書かれている。


小野小町の時代と同じ水は流れていないのだろうか?
見た目はきれいで飲めそうな感じだが・・・


岩がごろごろした沢が現れた。


足場の悪い瓦礫の坂道を上る。
小野小町もこの道を歩いて峠を越えたのだ。


瓦礫の道を過ぎた所で休憩しよう。
時計は、11時38分を過ぎていた。


美味そうにお茶を飲むMさん。


『まだ大分あるのかしら?』
『もうそんなにきつくはないと思うけどね』の声も。
是非そう願いたい。


11時41分、朝日峠展望台目指して、再出発。


少し緩やかにはなってきたが、坂道は続く。


”展望台まで1,000m”地点を通過。
『あと1,000mだねっ』


残り1,000m地点から木製の階段になる。


階段を上り、


板張りの道を進む。
かなり傷んでいる。あと数年で朽ち果てる感じだ。


板張りの道を150mほど進むと、


舗装された道路に出た。


”もみじの森”の橋を渡り、


朝日峠展望台へ。


つづら折りの坂道を進む。


東屋があったが、ここは休憩せずに通過しよう。


東屋の先に鐘が。
『鐘を見るとつい撞きたくなるんだよなっ』


可愛らしい道祖神が置かれていた。
お賽銭の小銭も。


緩やかな山道が続く。


朝日展望公園を目指す。


これが最後と思しきつづら折りの山道を上ると


ウッドセンターの休憩所が見えた。
朝日峠展望台は近い。


再び舗装された道路に出た。


朝日峠展望台へ。


12時4分、朝日峠展望公園の芝生の広場に到着した。


最後の力を振り絞って展望台へ。


12時7分、展望台に到着。
『いやぁ ちょっと霞んでるけどなかなか良い眺めだねぇ』


目の前に霞ヶ浦に面した土浦市街地の景色が広がる。
写真では、ややぼんやりしているが、実際にはもう少しはっきり見える。


右を見ると宝篋山(461m)の電波塔が見える。


展望台の東屋で一息入れよう。


最後の芝生の勾配でかなりバテた様子。
『しばらくここを動きたくないわっ』
ごもっとも、お疲れさんです。


久しぶりに全員揃って記念撮影だ。


12時20分、お腹も空いてきたのでゆっくりもしていられない。ということで下山開始。
『朝日峠は初めて来たけど良かったぁ』


下山は途中まで別ルートだ。


皆さん足取りは軽い。


ウッドセンター脇を通り、


舗装道路を下る。


もみじの森の板張り道入口。
『ここを上って来たんだよねっ』


木製の道を通り、


階段を下り、


上ってきた山道を今度は下る。


慎重に瓦礫の道を下る。


『気を付けないと滑って危険だねぇ』


ウッドセンターから下ること約20分、


”小野越し峠ハイキングコース入口”に到達した。


後は小町の里を目指すだけである。


ゴールの小町の館が見えてきた。


12時57分、ゴールの小町の里に到着。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


この日は弁当なしのため、帰りにJA新治の「まほら庵」に立寄ることにした。


13時15分、「まほら庵」に到着。


既に13時を過ぎていたので、いつもの混雑は一段落していた。
名前を記入して並んで待つことなく着席できた。
好みの品を注文して待つことしばし。


注文したのは「海老天ざる蕎麦」(850円)だ。
珍しく、いつもは直ぐに品切れとなる「まいたけごはん」が付いていた。
『いただきま~すっ』


『ここの蕎麦はけっこう好きなんだよねっ』

『ごちそうさまでした~っ』

この日は、小町の里をスタートして、東城寺まで往復した後、あらためて朝日峠展望公園までを往復した。
東城寺まで往復して、小町の里に戻った時点で既に11時を大きく回っており、朝日峠展望公園は、
ちょっと無理かな? と心配されたが、何とか予定していたコースを無事踏破できてホットしている。

この日のコースとしては、やはり弁当持参にした方が良かったかもしれない。
お腹が空いた分だけ、「まほら庵」の蕎麦が美味しかったことを付記しておきたい。

この日の万歩計は、15,000歩を少し超えていた。

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