ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

避暑ハイキング2012 滝川渓谷

2012年08月31日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2012年8月31日(金)

毎週金曜に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成24年度第15回(2012年第26回)「滝川渓谷」避暑ハイキングに参加した。


最初の集合場所は、荒川沖国道6号筑波銀行前。
予定は6時30分だが、我々が到着した6時15分には既に常南交通の大型バスは到着していた。いつもながら早い。
参加者も次々に到着し、バスに乗り込む。


バスはこの後、天川団地、土浦市民会館と回り、参加者29名が揃った。
バスの定員は44名なので、半数近い人が2人分を独占できる状態である。
夫婦で参加の人と、何人かの人にのみ隣合せで座ってもらった。


常磐道に乗る前に朝食弁当が配られた。いつものおにぎり弁当だ。
量もほどほどで、味も悪くない。やはり朝はおにぎりの方が好評である。
最近は、おにぎりファンが増えてきたように感じる。


友部SAで最初の休憩だ。
体調を整えて、常磐道を那珂ICへ向かう。


次に停まったのは、道の駅「奥久慈だいご


ここで、昼の弁当を受け取る予定だったが、到着が少し遅れるとのことで、待っているところ。
時計は9時前を示している。早く着きすぎたようだ。


9時ちょうど、弁当が届けられ、全員に配られた。
突然参加者が一人増えたにも関わらず、ちゃんと追加手配されていたのは嬉しい。
中身は”しゃも弁当”か? 期待が膨らむ。


「滝川渓谷」に近い矢祭町を走る。
青い空ときれいな川、心安らぐ風景である。
しかし、気温は今日も30度を超す予報。果たして”避暑”になるのか、気に掛かる。


9時35分、滝川渓谷駐車場に到着した。
荒川沖国道6号筑波銀行前を出発して約3時間。
4時間~5時間もバスに揺られるのに比べれば、ほど良い時間だろう。


早速準備運動だ。
『うう~ん、久しぶりの背伸びだねぇ』


しばらく歩いていないので、念入りに。
『足を精一杯伸ばして、腰を降ろして~ぇ』


9時42分、いざ出発!


入り口には管理人がいた。
「環境整備料」(大人200円、20人以上の団体の場合は150円)を払おうとすると、今は”無料開放”しているとのこと。
風評被害一掃に向けた取り組みとのことである。あれから1年半近いのに未だに風評被害があるとは・・・
そればかりか、滝川渓谷の立派で大きな(A3版)地図まで戴いた。もちろん全員にである。
その上竹の杖も貸してくれたのだ。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


心から礼を言い、滝川渓谷へ向かった。


”もみじの森”を抜けると杉木立の道に変わる。
杉の林が暑い日を遮ってくれる。


滝川渓谷を流れる最初の木橋を渡ると、


右手に滝川神社があった。
案内によると、祭神は、火産霊神ほむすびのかみ)、奥津彦神おきつひこかみ)、奥津姫神おきつひめかみ)で、
俗に「おかまさま」、「くどがみさま」と崇められている、そうだ。
兎に角この日の安全を祈願しておこう。


遊歩道の直ぐ脇が流れになっている。
ここのところあまり雨は降っていない筈だが、けっこうな水量である。


遊歩道は、滝に沿って整備されているので歩き易い。
滝川渓谷は、一丁目から八丁目まで適当な間隔に看板が建てられている。
これは目安になるので大変助かる。


滝川神社から少し歩いたところに小さな滝があった。
一丁目の「おぼろ滝」である。”一番瀧”とも言うらしい。
瀧に近寄ると、周りよりちょっとだけ涼しい風が吹くのが感じられる。


道は次第に険しくなってきた。
しかし、直射日光が遮られるので、まださほど暑さは感じない。


一丁目と二丁目の中間辺りに「鋸歯の滝」があった。


鋸歯の滝」を左手に観ながら進む。


三丁目
岩に跳ね返る滝の音を聴きながら歩くのは気持ちが良い。


二つ目の木橋の上から手を振って応える皆さん。


木橋を渡ると、道はさらに険しくなってきた。
竹の杖が役に立っているようだ。


四丁目の東屋で一休み。
ここまで約30分ちょっと、まずまずのペースである。


ベンチに腰を降ろして一息入れる。
気温は平地より少し低いが、風がないため、やはり暑い。
既に汗びっしょりの人も。


東屋の先に「見返りの滝」が見える。
”蛇渕瀧”(じゃぶちのたき)とも言うそうだ。


道の傍らに、ぽっかりと開いた穴があった。
平らな石を積み重ねて作った、炭焼き窯の跡だった。


四丁目を過ぎると、しばらくは沢の流れに沿った道になる。
流れを間近に観ながら歩くのは気持ちが良い。


五丁目「みすじの滝」だ。
三つに分かれて落ちているので、この名が付けられた。


五丁目を過ぎると道は険しくなり、安全のため鎖が取り付けられている。


鎖場が終わり、平坦になったかと思うと・・・


また階段になったり、


沢に沿った道を進んだりと変化に富んいて、退屈はしない。


せせらぎの滝
六丁目を過ぎた辺りだ。


大分上流に上って来ているのだろう、流れが緩やかになってきた。


奥入瀬渓流にも似ている景色である。


三つ目の木橋が見えてきた。七丁目である。
先頭は既に到着し、後続の到着を待ってくれている。


木橋を渡ったところで、二度目の休憩だ。


軽い休憩の後、四つ目の木橋を渡って次に進む。


道は沢沿いをいったん逸れて険しくなる。
七丁目も過ぎ、あと少しだと思うと力が入る。
道標の効果というものだろう。


流れが緩やかになってきた。


ついに八丁目だ。


銚子の口滝」が見えてきた。
別名を”臥竜渕瀧”(がろうふちたき)とも言う。


この辺りは岩が大きい。
大岩の間をすり抜けるのも変化があって面白い。


岩場を抜けると、とたんに道が平坦になった。
回りの木々も雑木林に変わり、緑が美しい。


流れも緩やかだ。


竹筒からは、たゆまなく水が流れ落ちている。「美泉水」と名付けられている。
早速一杯飲んだ感想は、『こんな美味い水は久しぶりだよっ!』


最後の平坦な道を進む。


折り返し点となる農産物直売所「滝川の里」が見えてきた。
11時32分、到着だ。
入口から約1時間50分かかったことになる。ほぼ予定どおりである。


めいめい木陰のベンチを見つけて、お昼の弁当にした。
久慈屋の”しゃも弁当”である。


昼食風景(1)
『あらぁ、素敵な弁当だわねっ』


昼食風景(2)
『美味しいっ』


昼食風景(3)
『味も良いし、ボリュームも満点だよっ』
評判は最高級である。


お腹も一杯になり、満足な表情を見せる皆さん。
12時13分、下りのスタートだ。


荷物も減って、足取りも軽い。


林の中は気持ちが爽快になる。
眩しいほどの緑が実に気持ちが良い。


銚子の口滝
上りの時とはまた違った角度からの展望だ。


杉の林もなかなか良いものである。


六丁目辺りの沢沿いの道。


下り始めて約40分、少しづつ列の間隔が開いてきたため、休憩を兼ねて隊列を整える。


鎖場に差し掛かった。
注意を払いながら進む。


沢の道


登りの時は気が付かなかった滝が現れる。
管理人の人が『滝川渓谷は48滝ある』と言っていたので、ちゃんとした名前がついているのだろう。
しかし、滝の名前は分からない。
見返りの滝」の一部かもしれない。


見返りの滝」に到着した。


ここで、最後の休憩だ。


岩場を下る。


鋸歯の滝


さらに下る。


おぼろの滝」が最後だ。


滝川神社へ到着した。
ここまで、無事に往復出来たことのお礼をして行こう。


最後の木橋を渡る。


地元の小学生が描いた絵が建てられていた。
100年後、200年後もこの美しい自然が残っていて欲しいものである。


13時36分、駐車場に到着した。
やはり下りは早い、1時間20分しかかかっていない。
上りより20分も早い。


整理運動をして、地元矢祭町の日帰り入浴施設「ユーパル矢祭」へ向かった。


20分ほどで「ユーパル矢祭」だ。


「滝川の里」で貰った割引券を利用させてもらうことにした。
500円のところが300円になるのだからこれはお得である。


風呂上がりの冷えたビールは、『いやぁ 本当に美味いっ』
この後、堰を切ったようにおつまみとお菓子が次から次へと回ってきた。
よくもまあ、これだけのものを持って来たものだ、といつも感心する。
毎度のことながら、ビールとお酒で大いに盛り上ったことは言うまでもない。


袋田の「こんにゃく関所」に立ち寄った。
バス会社の予定ではなく、我々の依頼によるものだ。


その理由は、出来たての”おから”がただで貰えるからという単純なものである。
早速列をなしている。


「ゆば壱」では大豆製品の試食が人気がある。
片っ端から味見してみる価値はあるが、勇気も必要だ。


こちらは本店の店内


何故か試食の味は格別に感じるから不思議だ。
土産はやはりこんにゃくにしよう。
試食した人がどっさりと土産を買い込んでいたところを観ると、試食の効果抜群である。
たっぷりと味見をした分、どっさりと買い物をしたという方程式になっているのだ。
自分もその一人なのだろう。


友部SAに着いても、まだご覧のような明るさである。
やはり地元や隣県(福島・栃木)に出掛けるのは時間に余裕があり、良いものだ、とつくづく思う。
バスハイクするなら、北関東に限る?


この日は残暑が厳しく、とても避暑とは言い難かったが、滝の効果で少しは涼しく感じることができた。
初めての参加者からも、好印象を持った、という感想が聞かれた。
片道全長約3km、標高572m(高低差300m)はそれほどきつくもなくちょうど良いコースだった、
という印象なのであろう。
今度は、季節を変更しての滝巡りもまた良いのではないかと思った次第である。


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醤油発祥の地 野田散策

2012年08月25日 | ウマさんの「KDD遊歩会」
2012年8月25日(土)


KDD遊歩会」の定例ウォーキングに参加した。
今回のウォーキングは、千葉県野田市の「 醤油発祥の地 野田 」散策である。

最近別のウォーキングが忙しく、KDD遊歩会の例会にはあまり参加していない。
年初めの”隅田川七福神巡り”以来なので半年ぶりとなる。

この日の集合場所は、東武野田線愛宕駅だ。


既に何人かが到着していて、ホームのベンチで腰を降ろしていた。
集合場所は駅前だが、日差しを避けるものがないため、ホームのべンチで時間を潰しているとのこと。


改札口を出て見ると、実際に日除けになるものは何も見当たらない。
強烈な日差しをまともに受ける。
ホーム内で時間調整するのは賢明な対処だったのだ。


集合時間少し前に皆さん、ようやくホームから出てきて全員が勢揃い。
この日の参加者は17名である。
歩道橋の影が日差しを遮ってくれるのがありがたい。


会長から挨拶に続いて『熱中症には十分に気を付けましょうっ!!』との注意喚起があり、


10時ちょうど、出発!


5分足らずで、愛宕山西光院を通過。
奥に見えるのは西光院本堂である。


西光院は新義真言宗豊山派の寺院である。
真言宗にもいろいろ宗派があるようだ。
西光院の本堂。 愛宕神社と同じ敷地内にあるように見える。


西光院のすぐ斜め前に愛宕神社があった。
愛宕神社では、古くから「野田のつく舞」が行われているそうである。
野田地方では、亨和二年(1802)の夏に大干魃があり、その際、当時の野田町や山崎村で行われた
雨乞いの行事が最初で、文政元年(1818)愛宕神社の祭礼において初めて「津久舞」として演じられたと云う。
現在では、14m~15mほどの柱の頂上に醤油樽が付けられ、雨蛙姿に扮装した「ジュウジロサン」と呼ばれる津久男が、
囃子につれて正体・横体・逆体と曲芸を演じながら登る。
頂上の樽の上に立って、破魔矢を四方に射つ神事を行い、その後綱渡りの放れ技で下降する。
千葉県の無形民俗文化財に指定されている。(案内板より)
茨城県龍ケ崎市に伝わる「撞舞」と実に良く似ている。


愛宕神社は、火伏の神・愛児の神である。
野田開墾の後、火の災難を防禦せんが為、延長元年(923)山城國愛宕郡愛宕(京都市右京区)の里から
この地に迦具土命(かぐつちのみこと)の御分霊を遷奉りて氏神とした。(案内板より抜粋)


愛宕神社
創建は、延長元年(923)で、祭神は、迦具土命(火伏の神)
社殿様式は権現造り、木造銅板葺。
社殿拝殿は、文政七年(1824)十月二十四日に再建したもの。


社殿拝殿には、沢山の見事な彫刻が施されている。
二代目石原常八の作とのこと。
県指定有形文化財となっている。


じっくり眺めている時間がないのが惜しい。


神社本殿の回りにはいろんな神様が合祀されている。


これは勝軍地蔵尊
本殿の裏にあり、西光院の隣に建てられていた。


雪見灯篭
文政十二年(1829)、江戸の商人衆43人の講中で寄進したもの。


石灯篭
享和二年(1802)「愛宕大権現氏子中」と刻まれており、かつて愛宕神社が愛宕大権現と
称されていたことが確認できるものとなっている。


野田に醤油が発祥した永禄時代から醤油圧搾に重石が使われていた。
宝暦六年(1756)、飯田氏奉納の石は千葉県で一番古いものだそうだ。
昔、力自慢の若衆が石を肩まで持ち上げて競い合い、誰が持ち上げたかを
石に名を刻んで奉納したものと云われている。


愛宕神社を後にして、次に「野田の醤油発祥地」碑に向かう。
焼けるような太陽が恨めしい。


愛宕神社から5分ほどで、「野田の醤油発祥地」碑に到着した。
碑の隣に小さな社が祀られていた。


野田の醤油発祥地」の碑には次のように刻まれている。
この地は室町時代永禄年間(1558-1570)に飯田市郎兵衛家が初めて野田で醤油を醸造した、
飯田家亀屋敷の遺跡である。
昭和四十六年一月二十七日、野田市文化財に指定されている。(碑説明文)
(因みに土浦の柴沼醤油(キッコーショウユ)の創業は元禄元年(1688)である)


近くに古そうな漬物屋があったので、寄ってみることにした。
漬物屋「坂倉」は享保二年(1717)の創業とあるから、300年にもなる老舗だ。


たちまち店の中は人でいっぱいになった。
『しょうがのおり漬け? 酒のつまみにぴったりみたいだなぁ』


『どれにしようか、迷っちゃうよねっ』


なす・大根・しょうが・きゅうりをそれぞれ1パック(各315円)を買うことにした。
漬物であれば、かみさんも喜ぶだろう。


土産を買ってしまったので、何となく気が楽になった。
漬物屋「坂倉」を後にして、野田市民会館を目指した。
普通、アーケードは雨の日は大助かりというものだが、この日ほど太陽が降り注ぐ日中に
アーケードが嬉しいと思ったことはない。


塀の向こうに古めかしい煙突のようなものが見える。
何かの醸造所であろうか?


古い薬医門には「市民会館」と書かれている。
『えっ、ここが市民会館っ?』
市民会館と聞けば、ホールなどを備えた洒落た鉄筋のビルを想いだすのが普通なのだが、
一瞬、目を疑うような建物である。


入口(正門)から入ることにしよう。
赤く塗られた塀が強く印象に残る。


「野田市民会館・野田市郷土博物館」の入口である。
大きく立派な四脚門だ。
醤油醸造家、茂木佐平次邸として大正末期に建てられたものが、
昭和三十一年(1956)に市に寄贈されたものとある。


「野田市郷土博物館」
昭和三十四年(1959)に造られた県内初の本格的な博物館とある。
主な展示は醤油関係資料、郷土に関する歴史民俗資料などである。


1階は、市民コレクション展などの企画展や特別展が行われる。
現在、陶芸の市民アート展が行われている。


郷土博物館の入口横に、蒸気式の空気圧縮機が展示してあった。
”もろみ”を搔き交ぜる時に動力となる圧縮空気を蒸気で作っていたものである。
今は、電気の力で圧縮した空気を使用している。


「市民会館」
醤油醸造家、茂木佐平治邸として大正末期に建てられたもので、
昭和三十一年(1956)に市に寄贈されたもの。
市民に部屋の貸出も行っている。市民ではない人への貸出も可能である。
この日は、昼食のために部屋を借りる(12:00~13:00)よう予約してあったそうだが、
早く着きすぎて時間を持て余していると・・・


幹事の方が再交渉して、11:00~12:00に変更可能となり、一同大いに喜んだ。
早速、奥の座敷に案内された。


何度か廊下を曲がって、部屋に辿り着いた。


時間はやや早かったが、ここで昼食タイムである。


冷房が効いているのが、何よりもありがたい。


昼食後に庭園を観て回った。


茂木佐平治邸の庭園(1)
大泉水には、残念ながら水は入れられていなかった。


茂木佐平治邸の庭園(2)
きれいに手入れされている。


茂木佐平治邸の庭園(3)


市民会館を後にする。
郷土博物館横辺りを通過して、


結城野田線を野田市駅方面へ進む。
昼食後は一段と暑さが増してきた感じである。


通りに面して、ところどころに古い建物が立っている。
旧野田商誘銀行」の名称は、創立委員の殆どが醤油醸造家であり、
醤油の語呂にちなんで「商誘」と名付けられたものである。
大正十五年(1926)に完成したもの。
経済産業省の「近代化産業遺産」に指定されている。


こちらは、「興風会館」
建築様式はロマネスクを加味した近世復興式で、昭和四年(1929)の竣工。
大・小講堂、地下ギャラリー、集会室などを備えている。
こちらも経済産業省の「近代化産業遺産」に指定されている。


適当なところにバス停があった。
少しばかりの日除けであるが、少し休んで行こう。


なんと、これから行こうとしている、キッコーマン㈱の真ん前だった。
しかし、我々が行こうとしているのは醤油工場であり、目の前の建物ではない。


さらに結城野田線を進む。
古着なのだろうか、少し古い型の作業着のようなものがびっしりと並べられていた。
値段が表示されていないのが、少し気になるところではある。


醤油工場へ行く前に近くのお寺に寄って行くことにしよう。
真宗大谷派の長命寺である。


手洗いの水を汲みあげているところ。
汲みあげているうちにだんだん冷たくなってきた。
『なかなか美味しい水だねぇ』


長命寺本堂にお参りして行こう。


境内には、大師堂もある。
愛宕神社の社殿でも見たような彫刻が彫られていた。
同じ頃の作りであろうか。詳細は分からない。


12時52分、キッコーマン醤油工場に到着した。
しかし、見学は14:00からのため、それまでは館内で時間を潰す必要がある。
冷房が効いた部屋がある、とのことなので、何とかなるだろう。


もろみ貯蔵タンクの亀甲マークが印象的である。


もの知りしょうゆ館」へ向かう。


もの知りしょうゆ館」の入口を入る。


中へ入って進むと土産物店のある場所に突き当る。
この辺りが見学のスタートとなるらしい。
さて、ここでどう時間を過ごそうか?


先ず、土産物店で土産物を買い、”まめカフェ”があったので、中を覗いてみた。


すっきりとした店内は我が会員が席を陣取り、休憩していた。
自分も”豆乳ソフトクリーム”を注文。
ゆっくりとソフトクリーム舐めながら一休みだ。


豆腐に3種類の醤油をかけて味比べができる。
生しょうゆをかけてみたが、なかなか美味しかった。


皆さん、それぞれお好みの醤油で豆腐を食べていた。
他にも煎餅に醤油をかけながら焼くことも体験できるようになっている。


館内にはいくつかの古い時代の醸造の道具などが展示されている。
これは、締木式圧搾装置(しめきしきあっさくそうち
仕込んだもろみを搾る装置である。もちろん人力で搾るのだ。


14時になり、工場見学が始まった。最初は映像鑑賞である。
ここからは、撮影禁止になっている。
約50分の見学が終わって、一段落しているところ。
皆さん、お土産はめいめい買ったようである。


帰りは、中庭を通り、工場を後にした。


宮内庁にお納めする醤油の貯蔵所である。
昭和十四年(1939)に江戸川沿いに建設されたが、老朽化のため移築され、
平成二十三年(2011)完成したもの。


まだまだ暑い日差しの中、工場の塀の横を野田市駅に向かう。


キッコーマンのマークが入ったもろみ貯蔵タンク
また来てください、と言っている? 
朝方電車から見えたのは、このタンクだったのだ。


数分で東武線野田市駅に到着。
会長挨拶後、解散となった。
『今日は、暑い中本当にお疲れ様でしたっ!』


工場見学の土産の醤油(150ml)である。
かみさんがカンパチの刺し身を買って来ていたので、この醤油で味わうことにしよう。


この日は東武野田線の愛宕駅から野田市駅までを歩いたが、
醤油醸造に関わるいくつかの建物などを見学できた。
実際に歩いてみて、野田市は、歴史のある町だと云う事を強く感じた。
また、別の視点から野田市の散策をしてみたいと思った次第ではある。
猛暑の中のウォーキングだったが、一人も熱中症などに見舞われなかったのは幸いだった。


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日本100名城巡り No.60 赤穂城

2012年08月10日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月10日(金)


この日も朝から暑かったが、今回最後の100名城巡りとなる赤穂城を訪問した。

赤穂城は、正保二年(1645)に常陸国笠間から石高53,000石で入封した浅野長直が、
近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)から寛文元年(1661)まで
13年を費やして完成させた甲州流軍学の海岸平城である。

縄張りは赤穂浅野氏初代長直の時代、浅野氏に仕えた甲州流兵学者の近藤正純によってなされた。
別名・加里屋城かりやじょう)、大鷹城おおたかじょう)と呼ばれる。

赤穂城は5万3千石の浅野氏には過度に広壮で、これがために財政難に陥った。
5層天守の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、
天守台のみが今日に残っている。
『忠臣蔵』の舞台の一つとして余りにも有名である。

赤穂城三之丸大手門辺りから大手墨櫓を見たところ。


赤穂城三之丸大手門と三之丸外堀
すっきりとした姿を見せるのは、大手隅櫓
大手隅櫓は、二重櫓で大手門を監視する到着櫓としての性格を持ち、大手門防備の要となる櫓である。
外堀は三之丸と城下の間に設けられた堀である。


大手門の前に老舗のお菓子屋(巴屋本店の字が見える)の蔵が建っていた。
最初は、城の櫓かと思っていたが、老舗御菓子司の蔵であった。
まるで本物の櫓のようだ。


赤穂城大手門
大手門の虎口は内枡形をなし、東面する高麗門(写真)と南面する櫓門から構成される雄大な城門であった。
明治初期に二つの門は失われたが、昭和三十年(1955)高麗門だけが大手隅櫓とともに再建された。


大手門の高麗門を入る。


大手門枡形から大手墨櫓(左)と高麗門(右)を見る。


大手門枡形を右に曲がると、番所跡休憩所がある。
赤穂城に関するさまざまな案内説明文が展示されていた。


大手門枡形


角が丸い石垣は初めて見た。


近藤源八宅跡長屋門
赤穂城の設計を担当した近藤三郎左衛門正純の子、近藤源八正憲の屋敷の長屋門である。
近藤源八は父の跡を継いで甲州流軍学を修め、浅野家の軍師として1000石番頭の重職にあった。
その屋敷は間口33間、奥行31間もの広大なものであった。
今は、当時の三分の一が残されており、赤穂市の指定文化財となっている。


大石良雄宅跡長屋門
大石家は代々浅野家に仕えた重臣で、赤穂入封から断絶まで家老として大手門西側の一画に屋敷地を構えていた。
屋敷地は間口28間、奥行45間余りの広さを誇り、庭には池泉を構えていた。
元禄十四年(1701)の刃傷事件を知らせる早籠が叩いたのがこの門である。


大石良雄宅跡長屋門を過ぎて右に大石神社の鳥居が見えた。


大石神社山門前の両側には四十七義士の像が並んでいる。
右側には四十七義士石像表門隊 大石内蔵助以下23名の像が、


左側には四十七義士石像裏門隊 大石主税以下24名の像が。
(大石主税像と大石内蔵助像は別に山門の前にある)


大石神社の山門


山門前の右側には、大石内蔵助像


左側には、大石主税像が建てられている。


山門を入って真直ぐ進むと本殿が見えてくる。


大石神社本殿
大石神社は三之丸の一部の大石内蔵助及び藤井又左衛門の屋敷跡に大正元年(1912)に建立された。


本殿
祭神は、赤穂義士47人及び萱野三平・浅野家3代、森家の先祖7代の武将である。


大石内蔵助の像


大石神社を出て、本丸へ向かう途中に『忠臣蔵』で有名な片岡源五右衛門宅跡があった。
源五右衛門は、浅野内匠頭長矩公とは同年齢で、幼い頃から君側に召出された寵臣であった。
元禄十四年(1701)3月14日内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は、下乗で供待中、
主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸士に大事を伝え、
事態の収拾にあたった。
主君が田村邸で切腹する直前に、許されて長矩に会い、万感の思いを込めて主君長矩に最後の決別をしたのは、
片岡源五右衛門である。
討ち入りの時は表門隊に属し、真っ先かけて屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字槍をふるって戦った。


二之丸門跡付近
門は桁間4間半、梁間2間、建坪9坪の規模を有していたというが、現在は門・石垣ともに失われ、
明治初期に撮影された古写真で往時の姿をうかがえるにすぎない。
虎口の設計にあたっては、山鹿素行が自ら手を加えて手直ししたと伝えられている。


山鹿素行の像
儒学者であり兵学者であった山鹿素行は、浅野長直に禄1,000石で招聘され、江戸において藩士に文武を講じた。


二之丸庭園表門
二之丸庭園の南東隅角にあたり、発掘調査から門が存在したことが判明した。
庭園への表門として平成二十年(2008)3月に脇戸付きの冠木門が整備された。


大石頼母助屋敷跡
大石頼母助良重は、大石内蔵助良雄の実の大叔父に当たる人物で、とくに藩主長直に重用され、
赤穂においては二之丸に屋敷を賜った。
平成二十一年(2009)3月に発掘調査に基づいて薬医門形式の屋敷門が復元された。


本丸の表玄関となる本丸門は高麗門となっている。
高麗門は二の門となる。


二之丸御門の前の堀(左側)
堀が赤く見えるのは水草のためで、たっぷりと水が溜まっているので注意が必要だ。


二之丸御門の前の堀(右側)


高麗門(二の門)を内側から見たところ。


左の高麗門(二の門)を入ると、本丸門は長方形の枡形の備えとなっている。


本丸への櫓門(一の門)
高麗門とともに、壮大な虎口を形成している。
櫓門の先が本丸である。


本丸御殿跡
広大な御殿だったことが伺える。


本丸内の大部分は藩邸である御殿が占めていた。
御殿は、表・中奥・奥から構成されていた。
表御殿は政務を行う公的な場、中奥は藩主の私的な場、奥は女中達の部屋として使用された。


大池泉
表御殿の南面にある池泉(ちせん)である。
池には中島・入江・岬をしつらえ、護岸汀線は直線・曲線を巧みに組み合わせ、
池の底には割石・砂利石・瓦を幾何学的に敷き詰めるなど趣のある造形をもっている。


復元された池は、
東西38m、南北26m、外周約150mの規模を持ち、藩邸の庭園にふさわしい力強い池泉となっている。


本丸天守台
四方石垣の独立したもので、当初から天守閣は造られなかった。
石垣は打ち込みハギを主としている。


天守台への階段


天守台からの眺め
表御門大池泉方面を見る。


天守台からの眺め
二之丸御門方面を見る。
コンクリートで覆われているところが、本丸表御殿跡である。


天守台からの眺め
厩口門方面を見る。


本丸から刎橋門(はねばしもん)跡への階段
刎橋門は、本丸の裏口非常門で、建坪5坪の小門であった。
この門より二之丸へ刎橋が架けられていた。


外堀からは刎橋で上ってくるようになっていた。
敵が攻めて来た時には落せるようになっていたと思われる。


厩口門(本丸側から)
浅野家時代には厩口門、森家時代には台所門と呼称されていた。


厩口門(本丸二之丸側から)
廃城後には失われ、後には県立赤穂高校の通用門として改変されていた。
平成十三年(2001)に門、橋、土塀及び周辺石垣が整備され、往時の姿を取り戻している。


二之丸内堀


二之丸外堀


武家屋敷公園
清水門の西側に位置し、浅野時代には坂田式右衛門の屋敷があった。
昭和五十八年(1983)に門と瓦葺土塀を復元。
屋敷地の植栽には当時の侍屋敷の生活を偲ばせる花木や薬草類なども植えられ、
往時の侍屋敷の景観を再現している。


武家屋敷公園の前に復元された、坂田式右衛門の屋敷門。


清水門跡
川口門とも呼ばれた清水門は、刃傷事件後の赤穂城明け渡しの際、
大石内蔵助が最後に城と惜別した舞台として知られる門である。


市立歴史博物館の入口


市立歴史博物館
赤穂城の清水門の外にあり、往時には米蔵があった。
外観は米蔵にちなんだ白壁の土蔵風の建物で、「塩と義士の館」として平成元年(1989)に建設された。


8月3日の小谷城に始まってこの日の赤穂城で今回の「日本100名城巡り」は終わった。
この間、10の城を巡ったことになるが、毎日猛暑日のような天気で正直言って疲れた。
これでようやく75の城を巡ったことになるが、まだ先は長い。
これからは、遠いところばかりが残っているので、全部の城を巡り終えるは何時になるのか。
しかし、何とか頑張って100城を目指したい、と思っている。


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日本100名城巡り No.71 福山城

2012年08月10日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月10日(金)


前夜は福山城から20Kmほど離れた道の駅「アリストぬまくま」で宿泊したことから、
この日は朝から福山城を訪問した。

福山城は、元和五年(1619)、福島正則に替わって徳川幕府の譜代大名水野勝成が備後10万石の領主となり、
新たに築城し城下町を福山城と名付けた。
その後水野氏5代、松平氏1代、阿部氏10代と明治四年(1871)の廃藩置県に至るまで福山城が藩治の中心となった。
明治六年(1873)廃城となり、天守閣、伏見櫓、筋金御門、御湯殿を除いて殆ど取り壊された。

昭和二十年(1945)の戦災により天守閣と御湯殿も焼失したが、昭和四十一年(1966)
福山市制50周年記念事業として天守閣、月見櫓、御湯殿が復元された。
焼失をまぬがれた伏見櫓、筋金御門は昔日の姿を留め国の重要文化財に指定され、
城地は国の史跡として保存されている。

福山城は、近世築城の最後のものとしてその完成された築城術の粋を誇るもので、
全国城郭中屈指の名城と讃えられていた。(福山城博物館パンフより)

福山城裏手の福山文学館付近に車を停め、本丸北西側の棗木御門なつめごもん)跡から入城した。
棗木御門は搦手にあたる渡櫓門である。
門の手前に建てられている冠木門は模擬的なもの。


棗木御門跡の枡型を通り抜けると本丸になる。


本丸内側の西側に残る石垣


本丸西側にある黄金水
本丸に現存する唯一の井戸で、その他本丸には4ヶ所、二の丸に3ヶ所、三の丸に2ヶ所あったと云われる。
この黄金水は渇水時にも水を湛える素晴らしい井戸であった、そうだ。


本丸の中央に小さな築山があり、庭木が植え込まれている。
伏見御殿跡から築山を通して天守閣を見る。


福山城天守閣
福山城の城郭は南面し、天守閣は本丸の北隅に位置している。
城号は敵追山(鉄覆山)朱雀院久松城と云い、別名を葦陽城(いようじょう)とも云う。
五重六階地下一階、別に二重三階の付櫓を持つ複合天守で、外見は六重のようにも見える。
一重目の南北面と二重目の東西面は比翼入母屋、その他の各層には千鳥破風や唐破風を設けている。


筋鉄御門すじがねごもん
本丸西南に位置する。
入母屋造り、本瓦葺、脇戸付、櫓門。
福山城本丸の正門にあたり、福山城築城に際して、京都伏見城から移築したものと云われている。


外側から見た筋鉄御門
柱の角に筋鉄を施し、扉に数十本の筋鉄を打ちつけているためその名が生まれたものである。
左に渡櫓、右に多聞櫓を連接させたもので、後代の枡型多聞の形式をとらない初期様式のもの、とのこと。
国指定重要文化財


伏見櫓
三重の隅櫓、本瓦葺。
京都伏見城「松の丸東櫓」にあったものを元和八年(1622)水野勝成の福山築城にあたって
将軍秀忠が移建させたものだそうである。


まるで小さい天守閣のような伏見櫓
伏見城の城郭建築の遺構としては希有のもので、白壁三重の豪華な姿に桃山時代の気風が伺われる。
国指定重要文化財


城内鐘櫓辺りから見た伏見櫓


伏見御殿跡
本丸の南、筋鉄御門のすぐ北に位置する。
本丸御殿に居住したのは、初代藩主水野勝成、二代勝俊のみで、三代藩主勝貞は
三の丸東側に新たな御殿(三の丸御屋形)を造営して移り住んだ。
今は、伏見御殿跡を示す碑と礎石だけが残されている。


御湯殿おゆどの
京都伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建築で、国宝に指定されていた。
建築の一部は石垣上に張り出し、内部は物見の段と風呂の間に分かれていた。
昭和二十年(1945)の戦災により焼失したが、同四十一年(1966)秋、天守閣とともに外装、内部
ともに復原されたものである。


鐘櫓かねやぐら
本丸西側に位置し、はじめは鐘を吊り、太鼓を懸け、時の鐘と半時(1時間)の太鼓を打っていたと云われる。
市指定重要文化財


月見櫓はもと京都伏見城内にあったものを移築したもので、本来は着見櫓のことである。
追手側(南)や入江方面が展望出来る南東隅に築かれ、藩主等の到着を見極める役割をなしていた。
明治初年に取り壊されたが、昭和四十一年(1966)秋、天守閣とともに外観復原されたものである。


鏡櫓かがみやぐら
本丸の東側に位置し、東南隅の月見櫓から北へのびる塀で繋がれ、6間と4間の広さをもっていた。
明治六年(1873)廃城の際に取り壊されたが、昭和四十八年(1973)に外観復原がなされ
その姿を見ることができるようになった。
この鏡櫓は、福山城博物館の文書館として昭和四十九年(1974)に開館し、福山を中心に
文書・記録類を収集整理する場として活用されている。


天守閣へ登ってみよう。


入口から天守閣を見上げる。
圧倒される構えだ。


天守閣最上階
全国の名城の写真が展示されている。


望楼からの眺望(1)
南側のJR福山駅方面を見たところ。
本丸の鏡櫓、御湯殿、筋鉄御門が見える。(左から)


望楼からの眺望(2)
南東方面を見たところ。
JR山陽本線、山陽新幹線(大坂方面)が見える。


望楼からの眺望(3)
南西方面を見たところ。
JR山陽本線、山陽新幹線(広島・山口方面)が見える。


望楼からの眺望(4)
北東方面を見たところ。
福寿会館(和館・洋館)と望城亭の屋根がちらりと見える。


望楼からの眺望(5)
東方面を見たところ。
手前の高いビル(左)はグランドメゾン丸の内、右は丸の内ホテルか?


天守閣を降り、ここでいったんかみさんと分かれ、城の外を一周してみることにした。
二の丸石垣の直ぐ前がJR福山駅なっている。山陽新幹線の停車駅でもある。
新幹線と向き合って石垣があるというのは、福山城だけではないだろうか。


二の丸南側の石垣。
どっしりとしていて風格があり、存在感がある。


駅前辺りから二の丸石垣を見る。月見櫓(着見櫓)が見える。
着見櫓からは、藩主の到着などそれはよく見えたことだろう。


東坂口御門跡を上ってみる。
東坂口御門は本丸東側の二の丸上段と二の丸下段を結ぶ渡櫓門であった。
石垣はよく残っている。


東坂口御門跡の途中を右に折れ、二の丸上段東側へ進むと、福山城を築城した水野勝成の銅像があった。


二の丸上段東側から天守閣を見上げる。
本丸正面からの天守閣も良いが、ここから見るのもなかなか見事なものだと思う。


福寿会館
本館、洋館、望城亭と呼ばれる南茶室の施設で構成され、洋館は平成九年(1997)に登録有形文化財に登録されている。
(中には入らず、ここからの写真撮影だけにした)


さらに進むと三蔵稲荷神社があった。
毎年ミス三蔵稲荷を選ぶコンテストが行われることでも有名、とのことだ。


初代福山藩主水野勝成が福山築城の時、祀った神社である。


三蔵稲荷神社の本殿
この神社の祭神は、宇賀魂大神・猿田彦大神・大宮女大神とされている。


三蔵稲荷神社を通り抜けて左側を見ると、天守閣がそびえていた。
本丸の反対側から見たところ。


この後、赤穂へ向かった。
赤穂城は、今回の100名城巡りの最後の城となる。
何とか無事に巡ることが出来れば、と思っている。


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日本100名城巡り No.73 広島城

2012年08月09日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月9日(木)


この日は朝から広島城を訪問した。
適当な駐車場を見つけられず、広島平和記念公園の近くの駐車場に停めたため、
思わぬ駐車料金にびっくり。高さ制限のない駐車場を探すのには毎回苦労する。

広島城は、最も広かった時代の曲輪のうち内堀に囲まれた本丸と二の丸と三の丸の一部が現存し、
広さ約12万平方mで大坂城や岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なものである。
名古屋城、岡山城と共に日本三大平城とも言われる。

毛利元就の孫、毛利輝元は天正十六年(1588)9月11日に豊臣秀吉自身の案内で
始めて大坂城の天守閣に登った。
この時の城下町の繁栄を目の当たりにし、吉田郡山城に代る新城建設の必要性を痛感したものと思われる。
吉田郡山城に帰った輝元は、広島に城を築くことを決め、天正十七年(1589)4月15日に着工し、2年後の
天正十九年(1591)に入城している。

三の丸跡から広島城の玄関である表御門と平櫓を見たところ。
表御門は毛利時代の創建。本丸へ至る広島城の正門で、木橋にしたので、橋御門とも呼ばれた。


太鼓櫓側の内堀から見た右から太鼓櫓、多聞櫓、平櫓


太鼓櫓と内堀
石垣が内堀に映えて美しい。


御門橋の正面が表御門、右に平櫓が構えている。
表御門は櫓門で、階下が城門で、階上は渡櫓になっている。
広島城の主要な城門はみなこの形式だった、とのこと。


表御門を入ると二の丸である。
二の丸側から見た表御門と平櫓


多聞櫓とその先に太鼓櫓がある。


広島城の初代城主は毛利輝元である。
平櫓内には毛利輝元の祖父である毛利元就の「三矢の訓」(みつやのおしえ)が展示されていた。


多聞櫓(長櫓)は平櫓と太鼓櫓を結ぶ全長35間の櫓であった。
多聞櫓の内部は梁を剥き出しにし、柱や長押も漆などを塗らずに、木の肌を出したままの質素な造りになっている。


太鼓櫓(時櫓)
江戸時代にはこの太鼓櫓の2階に時を告げる太鼓が置いてあり、朝夕太鼓を打ち鳴らして、
城門の開閉や藩士の登城の合図にしていた。


太鼓櫓辺りから二の丸全体を見る。
二の丸は毛利輝元が築城した当時の建築様式を基にして、忠実に復元されている。


二の丸から中御門跡を見る。


中御門跡の枡形を通り抜けると、いよいよ広島城の本丸である。


中御門跡を通り抜け、左手を見ると、広島護国神社がある。
今回は(次回があるかは不明だが)、時間がないので、一礼だけしておいた。


本丸天守閣方向へ進むと「広島大本営跡」があった。
広島大本営は明治二十七年(1894)に勃発した日清戦争の戦争指揮のために、広島城内に設置された、
大日本帝国軍の最高統帥機関の大本営である。
今は基礎の石と碑だけが残っている。


広島城天守閣は北西の角に建てられている。
広島城天守閣は、複合連結式望楼型5重5階の城郭で、高さは26.6mとある。
旧天守閣は東と南に三重の小天守を連結していたが、大天守のみが鉄筋コンクリートで復元されている。


天守閣最上階に登ってみた。


望楼の状態


望楼からの眺望(1)
広島駅方面


望楼からの眺望(2)
県立総合体育館、広島市民球場方面


望楼からの眺望(3)
市営基町高層アパート群が林立している。


ここで、内堀を一周するため、かみさんといったん分かれた。
本丸跡を通り、裏御門跡へ向かう。


裏御門跡の石垣


裏御門跡から南方面を見たところ。


裏御門跡から北方面を見たところ。


内堀を反時計回りで一周してみることにした。
天守閣と市営基町高層アパート群は、やや違和感を感じる。


北方面から見た天守閣
堂々とそびえる姿は美しい。


西方面から見た天守閣


南方面から見た天守閣
やはり堀と一緒の方が城としては似合っていると思う。


旧三の丸門辺りから見た天守閣遠望


内堀を一周したところで、広島城を後にして、広島平和記念公園へ向かった。
明日は、今回の城巡りの最終日となる。
福山城と赤穂城を巡ることにする。


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