ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

小町山 下見ハイキング

2018年07月27日 | ウマさんの気ままなウォーキング
2018年7月27日(金)

今年の春頃、「まゆみの会」の方から小町山の登山コース地図を戴いた。
最近になって、小町山の登山コースが整備されたので、「まゆみの会」の仲間で
登ってみたところ、「健康ウォーキング同好会」に『適しているんじゃないか?』
と思った、とのことであった。
標高もそれほど高くなく、距離も短いところが、「健康ウォーキング同好会」には、
適したコースではないかと言うことである。

それ以来ずっと気にはなっていたが、今日に至るまで登る機会が無かった。
「健康ウォーキング同好会」の例会が夏休みを迎えて一段落したこの日、
試しに小町山に登ってみることにしたという次第。


8時45分、小町の館に到着し、


同51分、小町の館を出発!
小町山ハイキングコース入口400mとある。


朝日峠の方に向かって200mほど進む。


朝日峠ハイキングコース入口の所で左に曲り、


農道を進む。
小町の大きな農家が並んでいる。


さらに緩やかな坂道を進む。


左手田んぼの向うに小町の館の建物が見える。


小町山登山口があった。
天の川源流 巨石群入口の案内標識が見える。


坂道を上ると、小町山登山口の看板が。
小町山 遊々山歩(ゆうゆうさんぽ)コースの看板も。


タヌキの看板に迎えられて上って行くと、登山口の所に簡易な椅子とテーブルがあり、


その右側の木の根元に山ノ神が祀られていた。
山ノ神に参拝して、


9時ちょうど、小町山山頂を目指して登山開始!


たくさんの木製の杖が置かれていた。
自由に使っても良さそうだ。
この日はストックを持参したが、杖が常備されていることが分ったので
次回からストックの持参は見送ることにしよう。


数分ほど歩くと、分岐点があった。
右尾根コース(小町の舞台巨石群)、左天の川沢コース(東城寺・天の川源流)とある。
右側の尾根コースを上ることにした。


落ち葉が積もった尾根コースの上りは、それほど急な勾配ではない。


雑木林を過ぎると、桧の大木が現れたり、


また雑木林が現れたりする。


しばらく雑木林を進むと、


大きな桜の木があった。
三本桜と書かれた標識があった。


三本桜を過ぎて杉木立を進むと、


道は下りになり、沢を渡るための丸太の橋が架けられていた。
沢には全く水は流れていなかったが、雨が降れば橋が必要になるのだろう。


尾根コースの平坦な道を進む。


杉木立の尾根コースを進むと・・・


9時28分、天の川沢コースとの合流点に到着した。
中央にあるのは、平岩なのだろうか?


標識にはこの先、ものぐさ岩・三段岩・展望岩を経て山頂へと案内されている。


ものぐさ岩
名前の由来は何なのだろう?


合流点を過ぎると、小町山山頂への道は急勾配になった。
ロープが張られている。
足元が滑り易いので、ロープを掴みながら上る。


三段岩
この辺りでは一番大きな岩と思われる。


三段岩の巨岩の下にテーブルとベンチが置いてあった。
何事も起こらないとは思うが、この岩の下で休憩するのは、
あまり気持ちの良いものではない。


巨岩群を過ぎ、急こう配が続く中、小町山山頂を目指す。


9時38分、展望岩に到着


展望岩とあるだけあって、眺望は素晴らしい。


土浦市方面ではないかと思うが、霞んでいてよく見えなかった。


展望岩のほぼ真上に椅子とテーブルを備えた展望台があった。


弁当でも食べながら眺望を楽しむのも良いかも・・・・


小町山山頂を目指す。


男坂(山頂への直登道)を息を切らしながら上ること10分、


9時50分、小町山山頂に到着した。
小町の館を出発してちょうど1時間が経過していた。
山頂はほぼ平らで数ヶ所にベンチやテーブルなどが配置されていた。


山頂の一番大きな木に小町山頂上(361m)の標識が。


方角と距離が書かれた丸いテーブルがあった。
東・南の方角には、茨城空港23Km、犬吠埼灯台83Km、土浦市役所11km、牛久大仏22km、
乙戸沼公園14m、東京スカイツリー60Kmなどとある。


西・北の方角には、富士山157Km、宝筐山2.2Km、日光男体山89Km、筑波女体山7.2km、
加波山14Km、鶏足山32Kmなどとある。
しかし、周りは雑木林や竹の藪などに囲まれており、殆ど視界が利かない。


山頂で一息入れた後、10時3分、下山することにした。
上りは男坂だったので、女坂を下ることにする。


七曲りの女坂を下る。


女坂の途中にも、テーブルや椅子が置かれている。
まとまった人数で山頂一帯で弁当などを食べるのにはもってこいである。


10時8分、女坂の展望台に到着


女坂展望台からの眺望
ぼんやりとだが霞ヶ浦や土浦市街地が見えた。


男坂との合流点を左に下る。


息を切らして上って来た数人組の女性たちとすれ違う。
『こんちはっ』 『もう一息ですよっ』


展望岩からの眺望を堪能し、


小町の舞台岩を目指す。


右手に三段岩、


続いてものぐさ岩を見ながら通過。


ものぐさ岩から下に続く舞台岩方面を見たところ。
巨岩がいくつも折り重なるように並んでいる。


舞台岩
岩の上は平らになっている。
踊りでも舞えそうなところが岩名の由来か?


尾根コースを上って来たので、天の川沢コースを下ることにしよう。
坂道を下って行くと、


三角岩があった。
三角形のような形をしているように見える。


三角岩を過ぎて急坂を下ると、沢沿いの道になる。


沢には丸太の橋が架けられている。
沢には、少量の水が流れていた。
天の川の源流である。


沢沿いの杉木立の道を下る。


沢の流れ。
水量はそれほど多くはないが、水の音が心地よい。


さらに沢沿いの道を下る。


丸太の椅子と丸太のテーブルがあった。
上りの時は、ちょっと一休みするのに良さそうだ。


岩の隙間に埋め込まれた管から水が流れていた。
飲めるのだろうか?


沢沿いの廻り道分岐
いったん沢を渡って、再び沢を渡る道である。


沢には丸太の橋が架けられている。
丸太の橋を渡って沢沿いに進み、


再び沢を渡って沢を縫うように下る。
これだけの丸太の橋を造るのは大変だったことだろう。


左手に沢の流れを見ながら下る。


下るに従って、沢の水量が増えて来た感じだ。


姫の滝があった。


姫の滝
高さ2mほどの可愛らしい滝だ。


さらに沢沿いを下ると、


丸太の椅子とテーブルがあった。
この1mほど下にもう1セット椅子とテーブルがあった。
「みちくさ処」と書かれた看板が。
ここもちょっとした休憩に良さそうである。


楽譜
♩♫♩♫♩♩♩(こまちやまのタンタンは)
♩♫♫♫ ♫♫♩(いつもニコニコおでむかえ)
♩♫♫♫ ♫♫♩(いつもニコニコおみおくり)


こまちやまのタンタン
小町山登山口で見掛けたタヌキの人形は、タンタンだったのだ。


10時48分、東城寺・宝筐山方面への分岐点に到着


分岐点に”100m先奇石 熊の石”の標識があった。
せっかくの下見なので”熊の石”を見て行くことにした。


東城寺・宝筐山方面へ


100mちょっと進むと、


”熊の石”があった。
覆い被さってくるような形をした巨岩だった。
丸太の階段を上って岩の下に立ってみると、東日本大地震のような地震が起きれば、
崩れ落ちるのではないか、とさえ思った。


天の川沢コースに戻って少し下ると、”小町山の神 50m”の標識が。
石割桜の表示も


案内に従って進むと、大きな木があり、その少し先に


”小町山之神”の表札があった。
岩から生えたような石割桜の大木が”小町山之神”ということのようだ。


天の川沢コースに戻って登山道を下ると、


小町への案内標識が現れた。


沢を渡って杉並木を抜けると、


周りは竹林に変わった。


竹林を抜けると、


11時11分、尾根コースへの分岐点に到着した。
朝方上るときに通った場所だ。


杖を借りていた人はここで杖を返し、


登山口に向かうことになる。


登山口から小町の館を見たところ。


上りはこちらから来たので、


帰りは反対側から戻ることにしよう。


緩やかな坂道下って行くと、小町の館から日枝神社へ通じる農道に出た。


ちょうどパラグライダーが着地したところだった。


11時22分、小町の館に到着した。
下り始めて1時間20分ほど経過していた。


一息入れて「まほろ庵」へ。


11時40分に到着したが、いつものように店内は混んでいた。
順番待ちに名前を書いて待っていると、10番目だったが、10分ほどで名前を呼ばれた。
客の回転が早いので、意外に早く着席することが出来た。


天ざる蕎麦(900円)を注文。
混ぜご飯が付いていたので、これで十分である。


初めて小町山に登ってみた。
上りが約1時間、下りは途中で熊の石や小町山之神などに立ち寄ったこともあり、
1時間20分ほどかかった。
標高が361mということもあり、それほどきついコースではなかった。
宝筐山(461m)よりも楽だったのは確かである。

身近なハイキングコースを探していた「健康ウォーキング同好会」としては、
必要な条件を備えたコースと言えるだろう。
来年度は、このコースを是非とも提案してみようと思う。

この日の万歩計は、9,500歩を計測していた。

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急遽現地直行に 暑気払いウォーキング

2018年07月20日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年7月20日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第14回(2018年第24回)、「暑気払いウォーキング(土浦~神立)」に参加した。

連日35度を超えるような猛暑日が続いている中、TVを付けるたびに全国各地で
熱中症で搬送されたとか、死亡したというニュースが流れるのを目にする。
猛暑がニュースにならない日はないほどになっている。

この日は、土浦駅から暑気払いの会場がある神立駅前の料理屋「喜作」までの
約9Kmを歩くことにしていたが、前日までに参加者の1/3を超える人から、
現地に直行したいと事前に連絡を受けている状況だった。
こうした状況を踏まえ、万が一のことを考え、ウォーキングは止めて、
現地または神立駅に集合することに急遽変更しようということに。

そこで役員で手分けして、朝7時過ぎから参加者に順次連絡を始めた。
中には既に家を出て土浦駅に向かった(携帯電話を持たない)という人もいたため、
変更になったことを伝えるためにわざわざ土浦駅まで出向いた役員も。

ということで、当初は荒川沖駅8時ちょうど発の電車に乗ることにしていたが、
10時55分発の電車で、土浦駅ではなく、神立駅に向かうことになった、という次第。
荒川沖駅下りホームに向かう皆さん。


いつものウォーキングスタイルとは異なり、皆さん身軽な恰好である。
荒川沖駅からは、12名が乗車することに。


電車を待つ間談笑する。
このうちの何人かは今朝になって直行しようと考えていた人もいたようだ。


11時12分、神立駅に到着


神立駅改札口には土浦駅から乗車した7名と、神立駅に直行した1名の計20名が集まった。
後続の電車で来る1名を除き、他の6人は「喜作」に直行しているようだ。


11時21分、暑気払い会場の「喜作」に向けて、出発!


神立駅西口階段を下りて会場に向かう。


神立駅は大改修が行われている最中だった。
『いやぁ 随分変わっちゃったね~っ』
この更地辺りには旧駅舎があったと記憶している。


暑気払い会場の「喜作」を目指し、


駅前通りを進む。


暑気払い会場へ。


神立駅前郵便局を過ぎ、


その50m先を右に曲がり、


路地を入って行くと・・・


11時26分、目指す「喜作」に到着した。


土浦駅から歩いてきたと言うNMさん(写真左)は既に到着していた。
『意外に早く着いちゃったよっ』とケロリとした表情で話す。
『そんな遠いとは感じなかったな~』とも。


皆さん好きな席に座って寛ぐ。
この間に、飲み物の注文を聞いて回る会計担当さん。


『歩かなかったけどやっぱり生ビールにしようかしらっ』


飲み物と料理を待つ間に、今後に予定されているコース地図や


これまでの参加結果などに見入る皆さん。


順次料理が運ばれて、


全員に飲み物が行きわたったところで、TKさんの音頭で、
『後半も頑張って歩きましょうっ! かんぱ~いっ』


この日の料理「喜作御膳風」だ。


「喜作御膳風」に舌鼓を打つ皆さん。


『美味しいわねっ』


遅れていたTBさんがようやく到着した。
『いゃいゃいゃ 遅れちゃって 申し訳ないっ』


TBさんが到着したことで、27名全員が揃ったことになる。


あらためて『かんぱ~いっ』


食事の様子


最後にNTさんから締めの挨拶があり、無事閉会となった。


『外では暑過ぎる』という声に配慮して、会場内で全員で記念撮影だ。


13時44分、「喜作」を後にして神立駅に向かう。
午前中より暑さが一段と厳しくなっていた。
この日の予想最高気温は34度だったが、もっと暑いように感じた。
『今日は歩かなくて良かったんじゃないっ?』に皆さん納得。


5分余で神立駅に到着


西口の階段を上り、


改札口に到着


上りの電車を待つ。
『また涼しい時期に歩けば良いよねっ』


上りの土浦行き電車に乗り、帰路に就いた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


暑気払いウォーキングと称して、久しぶりに土浦~神立間を歩く予定だったが、
連日35度近い猛暑日が続いており、熱中症がTVで話題にならない日はない、
という現実を踏まえ、急遽ウォーキングを中止して、現地集合に変更した。

皆さんも『よく決断してくれた』、と好意的に受け入れてくれたのと同時に
ホっとしたというのが正直なところだろう、と思った。

土浦~神立間は、何度か歩いたことはあるが、いずれも年末の寒い時期だった。
猛暑の時期というのは初めてで、暑さ対策が気になっていたが、こういう形で
終わろうとは、思ってもいなかった。
しかし、申込者全員が参加出来たこともあり、結果的にはこれで良かった、
と思っている。
土浦~神立間は、暑い時期は避けて、また別の機会に歩くことにしよう。

この日でH30年度の前半が終了した訳ではないが、一区切りついたことから、
しばらくの間夏休みに入ることになる。
次回は、8月31日から始まる予定になっている。
後半も頑張って歩きたい。

この日の万歩計は、2,000歩といったところだろうか。

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思い出に残る一日 三石森林公園から閑居山

2018年07月13日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年7月13日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第13回(2018年第23回)、「三石森林公園から閑居山」ハイキングに参加した。

閑居山は、2010年6月24日(木)に「関東ふれあいの道」で訪れたことがある。
その時は磨崖仏で引き返したため、閑居山の裏山を上って尾根(稜線)へ出るコースは、
今回が初めてとなる。

この日の集合場所は、当初は土浦ピアタウンのみとしていたが、
土浦ピアタウンまでの足が確保できない人は参加しづらいといった声が多数あり、
土浦ピアタウンと乙戸沼公園に別々に集まることにした、という次第。
乙戸沼公園には11名が集まった。


車2台に分乗して、9時40分、三石森林区公園に到着


土浦ピアタウン組は既に到着していた。
直行した人も次々に到着。
ただ、笠間から参加するDD子さんの到着が少し遅れているとのこと。
結局、この日の参加者は、DD子さんを入れて23名になった。


三石森林公園からの眺め。
予報によれば、今日は33度くらいになる、とのこと。


この日、雪入探検隊副隊長の宮田さんが道案内をしてくれるという。
閑居山から尾根に抜ける径は全く不案内なので、これ以上心強いことはない。
なお、IW子さんが、笠間から参加するDD子さんの到着後直ぐに後を追いかける、
と言うので、2人を残す形で出発することに。


宮田さんの案内で、車道とは異なる斜面の近道を下ると、
数分で三石森林公園の玄関口に出た。


2-300mほど舗装道を進むと、


円明院への近道があるので、そこを右に曲り、


薄暗い坂道を下ること7分、


円明院の裏に出た。
案内標識は、宮田さんたちが設置したそうだ。


10時26分、円明院に到着
円明院は、真言宗豊山派の寺院である。
何はともあれ、この日の無事安全を祈願した。


境内には慈母観音像が鎮座している。


円明院で一休み。


宮田さんも一息入れる。


円明院からの眺め。
『いやぁ きれいに手入れした庭の眺めが良いね~っ』
宮田さんによると、円明院の住職は、庭を手入れするのが好きなのだそうだ。


10時30分、閑居山を目指し、円明院を後にする。
参道には、観世音菩薩様や


六地蔵尊が見送ってくれる。
『気をつけて行っておいで』


2週間後には米寿を迎える当会最年長のHA子さん。
その元気さには、いつも驚かされる。


閑居山を目指す。


この日は日差しが強い。
男性にとっても日傘は必需品かも。


農道を進み、


10時41分、木陰があったので一休みしよう。


一休みしていると・・・


遅れていた二人が追い着いた。
『遅れちゃってごめんなさいっ』
『いやぁ 意外に早く追い着いたね~っ』


2人が追い着いた直後なので、少し長めに休憩を摂る。


宮田さんの”けものみち”の説明に耳を傾ける皆さん。


10時53分、新治地方広域事務組合/環境クリーンセンター前を通過
最新技術を導入したごみ焼却施設、粗大ごみ処理施設等があり、自己搬入出来る。
(ここはかすみがうら市だが、土浦市の新治地区も利用できるとのこと)


環境クリーンセンター前の道を進み、突き当りを左に曲る。


左手に環境クリーンセンターを見ながら、


閑居山へ向かう。


周りが山間の田んぼの中を進み、


杉に囲まれた路を進んで行くと、


「関東ふれあいの道」の休憩所があった。


閑居山は、古くは志筑山と称し、詩歌に歌われた景勝地で、弘法大師が東国遍歴の途中、
この地で霊感を覚え、庵を建てて布教に努めたという言い伝えから、閑居山と呼ばれる
ようになったと云われています。
(この山の洞穴に”閑居”したという言い伝えが山名の由来となっている)
山の中腹の金堀穴のまわりにある花崗岩には、鎌倉時代以前の作といわれる100体余りの
仏像が彫られており、俗に百体観音像と呼ばれ、県の文化財に指定されています。
環境庁・茨城県


「関東ふれあいの道」の休憩所前で、一休み。


暑い日はこまめに休憩し、水分を摂ることが重要だ。


閑居山を目指す。


”磨崖仏”の案内標識に従って細い径を進んで行くと、


径の脇に石碑が立っていた。


石碑


黄金の観音像も。
『これは、最近誰かが置いて行ったもの』と宮田さん。


石段を上る。


古い石灯籠が歴史を感じさせる。


孟宗竹の林を右手に見ながら進む。


この石仏もいつの時代かに誰かが置いていったものなのだろう。


薄暗い径を上って行くと、


助六地蔵と磨崖仏の分岐点に到着した。


風致保安林の説明板には、以下の説明が。
急峻な山岳地形の露出した岩肌には、百体磨崖仏(県指定文化財)が鎮座し、
その周辺をモミ、カシ、シイ等の老木が覆い、近郊の「閑居山志筑の森」として
親しまれている。(東京営林局・笠間営林署)


助六地蔵の案内標識に従って進む。


急坂の径を上ると、


目の前に助六地蔵が現れた。


宮田さんから次のような説明が。
志筑地区は、江戸時代には旗本本堂氏の領地となっていたが、
領民に過重な年貢を課しており、あまつさえ水戸街道の稲吉宿の助郷役の負担もあり、
安永七年(1778)、ついに耐えきれなくなった下佐谷村はじめ25か村の農民たちが
本堂氏の江戸屋敷に強訴を行った。
首謀者として下佐谷村の名主・福田助六が捕らえられ、通称「首切山」で処刑された後、
その首は街道筋に晒された。
その後、義民助六を弔うためとして、閑居山に助六地蔵が建立された。


助六地蔵の脇には六地蔵もある。


助六地蔵を後にして、磨崖仏へ。


『分岐点まで戻らなくても行けるんだねっ』


磨崖仏への途中、


金堀穴があった。奥行15mとある。
とても狭そうだったので、中には入らなかったが、
宮田さんによると、中は善光寺の戒壇巡りのように真っ暗闇だそうだ。


大きな岩の上に首のない石仏があり、磨崖仏の説明板があった。


この磨崖仏は、俗に百体観音と呼ばれ、その昔、山麓に弘法大師草創と伝えられる
志筑山惣持院願成寺があり、寺中興の僧乗海が手彫りした鎌倉時代の作と云われている。
山の中腹に突出した四メートル四方の花崗岩の表面に百個余りの仏像を線刻薄肉彫で
刻んでいる。
県下でも珍しいものとされており、昭和三十八年八月茨城県の文化財に指定されている。
またこの山は、古くは志筑山と称して古歌によく詠まれたところで、眺望もよいので、
茨城百景の一つに数えられている町の名所である。
(かすみがうら市教育委員会)


より近くから磨崖仏を見ようと岩場を上る。
岩場は狭くて数人しか上れない。


磨崖仏(1)
岩に彫られた仏像が並ぶ。


磨崖仏(2)


磨崖仏(3)


写真を撮っている間、下で待ってくれている。


磨崖仏(4)


磨崖仏(5)
梵字も見ることが出来る。


11時39分、磨崖仏を後に、閑居山コースを尾根へ向かう。
標識には”急坂”の文字が。


尾根を目指す。


『随分急な径なんだね~っ』


何かに掴まらないと滑って危険なほどの急坂である。
このコースを下りにしていたら、転倒者が続出していたかもしれない。
『上りにして良かったんじゃないっ?』


『くれぐれも気をつけるように』
岩の上に鎮座している石仏に励まされている感じだ。


途中に生えている木に掴まりながら登る。
『木が生えていて助かったよな~っ』


『閑居山てこんな急な所だったんだねっ』


一休みして呼吸を整え、


再び尾根を目指す。
『頑張ろ~っ!』


『もうこれ以上無理だわっ』に
『あと一息ですよ~っ!』を返すが、何の根拠もない。


その数分後の11時58分、ようやく尾根に到着することが出来た。


到着して直ぐにその場に座り込む皆さん。
かなり疲れた様子で、全員汗びっしょりだ。
数分のうちに全員無事に尾根に辿り着いて、一安堵。


皆さんが休んでいる間に、宮田さんの案内で希望者のみで弘法石へ行ってみることに。


弘法石を見届けて、


先ほどの分岐点に戻り、あらためて三石森林公園を目指した。


先頭を務める宮田さんは、我々のペースに合わせてくれるので、助かる。


後を追う皆さん。
径が平坦になったのも幸いし、大分楽になった。
最年長のHA子さん、少しも疲れた様子は見せない。
常に先頭Gから離れず、元気である。


12時14分、谷津コースへの分岐点を通過


他の標識は見当らないが、どうやらここが閑居山の山頂(227m)
ということが、後で分った。


三石森林公園への分岐点を目指す。


尾根の平坦な路を進む。


最後に緩やかな坂道を上って行くと、


12時30分、三石森林公園への分岐点に到着した。


ここで、最後の休憩を摂り、


12時34分、三石森林公園を目指した。


『いぇ~いっ』
下りになって、本来の元気が出て来たようだ。


三石森林公園を目指す。


宮田さんが刈ったという笹原は三石森林公園への近道とのこと。
(ここはまだ、三石森林公園の敷地外らしい)


三石森林公園の敷地内に入り、皆さんにも少し余裕が出て来た感じ。
『もう直ぐゴールだよねっ』


木製の階段を下り、


アスレチック広場を左手に見ながら進む。


『あと少しだねっ』
笑顔が戻って来た。


最後の坂道を下り、


12時52分、三石森林公園ログハウス「もりの小屋」に到着


『やっと着いた~っ』


「もりの小屋」に到着し、まず最初に冷たい水を一杯いただいた。
当会会員で雪入探検隊の隊員でもあるED子さんたちが、冷たい水と梅ジュースを
用意して待っていてくれたのだ。
冷たい水と梅ジュースが何よりのご馳走で実に美味しかった。


『いやぁ 本当に美味いねっ!』
水をお変わりする人が続出である。


喉を潤した後、ゆっくりと食事を摂った。


食後に「もりの小屋」をバックに全員で記念撮影
(残念ながら「もりの小屋」は写っていなかった)
『宮田さん、ED子さん、どうもありがとうございましたっ』

『皆さん、今日は本当にお疲れさまでしたぁ』

猛暑の中、三石森林公園から閑居山を巡るハイキングが無事終わって、
一安心と云ったところ。
閑居山の磨崖仏から閑居山コースを上り、三石森林公園へと歩くのは、
初めてのことであり、一抹の不安があったが、雪入探検隊副隊長の宮田さんが
道案内を買って出てくれたのは、ありがたかったし、本当に助かった。
この場を借りて厚く御礼を申し上げます。
この日は、思い出に残る一日となったことは言うまでもない。

この日の万歩計は、10,000歩を計測していた。
思ったより歩数は少なかった。

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旧東海道第Ⅲステージ第3回 藤川宿~池鯉鮒宿(2日目)

2018年07月10日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年7月10日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第3回(2日目)は、岡崎宿(名鉄中岡崎駅)~池鯉鮒宿(名鉄知立駅)である。

ホテルロビーの一角にある食事処


前日に注文しておいた和食
おかずのメニューは、鮭・納豆・生卵・海苔・お新香で、
それに味噌汁が付くだけの簡単なものである。
(これで800円は、安くはない)


8時35分、第一ホテルを出発!
先ずは岡崎城内を巡って旧街道へ抜けることにした。
乙川沿いの竹千代通りを昨日とは逆方向に進む。


竹千代通りから見た岡崎城天守閣


龍城堀に架かる神橋を渡り、岡崎公園内へ。
昨日巡った場所以外を見て回った。


岡崎城の天守閣裏手に”天下人家康公出世ベンチ”なるものがあった。
このベンチは、「石都岡崎」と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と、
地元産の良質な御影石を使い、造り上げられています。
家康公とこのベンチに座り、天下人を生んだ岡崎の魂を感じて下さい、とある。
左は幼少の頃の竹千代(家康)である。


”家康公出世ベンチ”から見た岡崎城天守閣


松平元康像
松平元康はのちの徳川家康だ。


徳川家康公銅像
天文十一年(1542)12月26日、岡崎城二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。
幼少の頃人質として苦難の道を歩き、自立した後は全国統一を目指し、転戦を続け、
慶長五年(1600)天下分目の関ケ原の合戦に大勝して、天下を収めるにいたった。
以後持前の才能を生かし、全国統一の念願を叶えるとともに、徳川幕政300年の
基盤をも作り、元和二年(1616)4月17日、75才でこの世を去った。


本田平八郎忠勝公像
徳川四天王の一人で、豊臣秀吉に「家康に過ぎたるもの」「天下無双の勇士」
と称賛された武将である。
この像は鹿角兜と甲冑で身を固め、名槍蜻蛉切を携えている。
上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主でもある。


8時52分、岡崎城の大手門を出てこの日の街道歩きのスタートである。


国道1号(龍城通り)の岡崎城の塀に沿って進む。
堀は空堀状態だ。


龍城橋を渡る。


龍城橋の下を流れるのは伊賀川である。


振り返ると木々の隙間に岡崎城が見えた。
次に訪れるのは何時になるのだろう。
歳のことを考えると、三度訪れることはなさそうである。


八帖歩道橋で国道248号を横断し、


左に曲がって国道248号沿いに進むと、


中岡崎町交差点に松葉惣門跡の碑と岡崎城下二十七曲り標柱(た)があった。
松葉惣門は、岡崎城下西の出入り口である。
天正十八年(1590)家康が江戸に移ると田中吉政が岡崎城主になり、
総堀を築き城下町を形成、東海道の城内出入口として篭田松葉の惣門を建てた。


松葉惣門跡の碑を右折して松葉通りを進む。


前方に愛知環状鉄道線が見える。


愛知環状鉄道線のガード下に岡崎城下二十七曲り標柱(れ)があった。
八帖村の碑も。


二十七曲り標柱(れ)の横に俳優八名信夫さんの手形が。
「純情きらり手形の道」とある。
岡崎市が舞台となった2006年NHK朝の連続テレビ小説「純情きらり」の撮影が、
岡崎市内で行われたことを記念して設置された出演者の手形モニュメントで、
それらを結んだ散策路が「純情きらり手形の道」だそうだ。
主役の桜子役の宮﨑あおいさんをはじめ三浦友和さん、竹下景子さんなど
主な出演者10人の手形が岡崎公園から八丁蔵通り界隈にかけて設置されている。


八丁蔵通りをさらに進むと、八丁味噌と表示された大きな建物があった。
ここは、カクキュー「八丁味噌の郷」の裏手になっていることが分った。
カクキュー「八丁味噌の郷」は、見学出来るようになっている、とのこと。


向いにも八丁味噌の建物が。
まるや八丁味噌の工場である。
創業延元二年(1337)、岡崎城から西へ八丁(約870m)の距離、
東海道街道筋に佇む、とある。
ここも工場見学ができるようだ。


まるや八丁味噌
”連続テレビ小説「純情きらり」ロケ地”の表示も。


少し進むと旧東海道の案内標識があった。
この標識を見ると道不案内な者にとっては非常に心強く感じる。


そのまま八丁蔵通りを進むと、突き当りになる。


突き当りに左江戸、右西京と刻まれた道標があった。


右に曲がると、八帖往還通りの石碑も建っている。


八帖往還通りを進むと、国道1号に突き当たった。
国道1号の新矢作橋を渡る。
新矢作橋は、16代目だそうだ。


矢作川
ちょうど名鉄本線の電車が走っているところだった。


矢作川を渡ると、国道1号を潜って道路右側に行くための階段があった。


階段を下りて国道1号下を潜って反対側へ。


国道1号を潜った矢作川堤防の上に「日吉丸と蜂須賀小六の出会いの像」が見えた。
この橋の袂で2人が出会ったと伝えられている、とのこと。
当時、橋は架かっていなかった、そうだが・・・


国道1号に並行して旧東海道を進むと、勝蓮寺(しょうれんじ)がある。


勝蓮寺本堂
柳堂勝蓮寺と云われ、所蔵する古書には、寺を訪れた親鸞聖人と柳堂、
布教の記事が見られる。
また、17代住職行誓の時には、家康の長男信康(織田信長から、
武田方と内通したとの疑いを受け自刃)
との関係も深く、信康の画像をはじめ多くの遺品が残されている、とのこと。


勝蓮寺を後にして旧東海道を進む。


弥五騰(やごとう)神社


元は彌五郎殿と言われ、堀田弥五郎正泰が正平元年(1346)に
武内大臣・平定経を祀ったのが始まり、だそうだ。


旧東海道を進む。


誓願寺
由来は、三河名所記によると、昔、この寺の境内に池があって、住僧の慶念が溺死した。
そして、長徳三年(993)3月、恵心僧都がその池を埋めて堂を建て、
千体地蔵菩薩を造って安置し、慶念の冥福を祈ったと云われる、とのこと。


誓願寺は、源義経の愛妾、浄瑠璃姫ゆかりの寺でもある。
建物の前には石碑に「浄瑠璃姫菩提所」と書かれている。
寿永三年(1138)3月、矢作の里の兼高長者の娘浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、
菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して
義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した。
(写真は子安地蔵尊で、浄瑠璃姫とは無関係)


十王堂堂内には、秦広王・初江王・宋帝王・伍官王・閻魔王・変成王・
太山王・平等王・都市王・五道転輪王の十王の極彩色の像が安置されてあり、
壁には地獄・極楽の有り様が描かれている。


旧東海道を進む。


竊樹神社
”ひそこじんじゃ”と読むそうである。
この字は初めて見る字で、書くのも難しい。


竊樹神社の鳥居


竊樹神社社殿
矢作祇園に鎮座する竊樹社の祭神御気津神を分祀して勧請し、矢作村盗人木の
竊樹社を合祀し竊樹神社とした。
「竊」の字は「盗む」という意味もあり竊樹は「ぬすとぎ」とも読め、「盗人木」の
地名通りである。
御祭神は京都の上賀茂神社と同じ、加茂別雷大神だそうである。
矢作町字末広に鎮座する竊樹神社は、矢作町五区氏子の氏神様(鎮守)とのこと。


護水山福萬寺前を通過すると、


10時6分、国道1号に合流した。


東海道標識


岡崎市の標識
岡崎市の西の端の宇頭町辺りと思われる。


鹿乗川を越える。
川名の由来は、足利尊氏が矢作川の増水で立ち往生していたところ、
そこに現れた3頭の鹿の導きによって渡河できたという故事によるのが
通説らしい。


国道1号沿いに和志王山薬王寺があった。
奈良時代の創建で由緒ある寺で、御本尊の薬師如来は、17年に一度御開帳の
秘仏だそうである。
本尊薬師如来は和銅年間に宇頭南町の池より、豊阿弥長者により引き上げられ、
行基菩薩により創建された薬王寺に納められた。
疱瘡を病んだ長者の子が、薬師の化身した僧の与えた薬を飲むと病が癒え、
子供の与えた銭を首にかけ姿は消えた、そうである。


時代は移り長者の墓より銭を掛けた尊像を掘り起こし、その縁を感じ、
お堂を建てた。
長者は気入彦命の子孫と伝えられ、古墳時代の皇孫の豪族子孫が、
この寺を建立されたと考えられる、とのこと。


国道1号を挟んで和志王山薬王寺の向いに建つ聖善寺
両手で柄香炉を持ち、岩座の上に立つ木造彫刻「16歳の孝養太子(聖徳太子)立像」
がお祀りされている、とのこと。
ちょっと変わった造りだが、印象に残る建物である。


10時49分、安城市に入った。


その先の尾崎東交差点手前で、旧東海道は分岐している。


分岐点の先には松並木が続いていた。


昔風の蔵がある立派な家があった。
旧街道の風情を感じさせるが、それほど古くはなさそう。


一里塚か? と思ったら記念碑だった。


11時4分、村社熊野神社に到着
和銅元年に豊阿弥長者により創建されたと伝えられる。
この神社の森は、往古「踏分の森」と呼ばれていた。
現在は尾崎町の鎮守杜となっている。
熊野神社前に尾崎一里塚跡碑があったようだが、見落としてしまった。


予科練之碑
此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり
自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願し選ばれた若人が
六ヶ月間の猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いた地なり
生涯を祖国に捧げんと此の地に集い実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく
大空をはばたく間もなく血涙をのんだ終戦爾来二十八年吾等相寄り相語り
茲に亡き戦友の慰霊を兼ね「予科練の碑」を建立するものである
昭和四十八年五月十五日 元第一岡崎海軍航空隊 若桜会


元第一岡崎海軍航空隊配置図
本航空隊は飛行予科練習生の即戦力養成が主任務とされ、全国各地より選抜された、
童顔なお消えやらぬ熱血の若人が、土浦海軍航空隊入隊、岡崎海軍航空隊派遣の命により、
昭和十九年五月入隊の一期生より毎月続々と入隊、十二月入隊の八期まで
その数およそ六千名と記録されている。
入隊後は日夜の別なく猛訓練を重ね、それに堪え抜き逞しい戦士となって、
全国各地の実戦航空隊へ実務練習生として巣立って行った。
しかしわが軍の劣勢は如何ともし難く、昭和二十年八月十五日ポツダム宣言を
無条件で受諾、戦争は終結し本航空隊も解隊されるところとなった。


旧東海道を進む。


法華宗陣門流法喜山妙教寺


明治天皇御駐蹕之所碑


11時39分、永安寺に到着
禅宗(曹洞宗)の寺院で山号は本然山
永安寺は、大浜茶屋(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の霊を祀る寺である。
助太夫は、延宝五年(1677)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て
刑死したと伝えられている。


山門のそばに地蔵堂があり、厄除地蔵・子安地蔵が鎮座している。


永安寺の雲竜の松
県指定天然記念物
この寺を覆い包むように横に枝を広げたこの黒松の巨木は、助太夫家の庭にあったものか、
寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢は350年くらいと推定されます。


この松の樹形は、中心の幹が上へ伸びず、分かれた幹が地を這うように伸びて、
その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と
俗に呼ばれています。


樹高4.8m 幹の囲4.4m 枝張り東西17.9m 南北24.7m
(安城市教育委員会)(注:数字は平成28年現在)
これほど見事な松は今まで見たことがない。
どの方角から見ても素晴らしい。一見の価値ありだと思う。


境内にはたくさんの


お地蔵様が並んでいる。


11時46分、明治川神社交差点に到着した。


明治川神社交差点に立つ明治川神社の鳥居。


参道を進んで行くと、厳かで立派な社殿があった。
この神社は明治時代にこの地区に大規模な灌漑用水を引いたことから、
この用水の守り神として神社を建立したようである。
明治十八年(1885)建立で、明治用水建設に尽力された都築厚弥・
伊豫田與八郎・岡本兵松らが祀られている、とのこと。


境内に明治用水から水を引く神池があり、ここに架かる石橋の明治川橋は、
昭和二年(1927)の改築、だそうだ。


松並木の旧東海道を進む。


さらに松並木の街道を進むと、


12時17分、青麻神社があった。
道路の反対側からだが、地蔵尊や石碑が見える。


神社鳥居の左隣に力士像が建っていた。
これは江戸末期から明治初期にかけて活躍した江戸力士、五代目・清見潟又市の石像。
天保九年(1838)三河国碧海郡前浜新田(現碧南市前浜町)に生まれ、
本名を榊原幸吉、20歳で江戸相撲に入門し、47歳まで現役を続けた。
最高位は前頭筆頭。
立ち合い時に相撲場外にまで届くほどの奇声を発する名物力士だった、とのこと。


旧東海道を進む。


12時38分、ここらで少し給水して行こう。
暑さで疲れが出てきたためか、腰が痛い。
そのため、歩くペースもかなり落ちて来た。


腰の痛さを我慢しながら歩いていると、途切れていた松並木が現れた。
松の木が日陰になってくれるのでありがたい。


しかし、この辺りの松並木はかなりまばらである。
かろうじて残っているという感じ。


猿渡川橋


12時59分、猿渡川を渡ったところで安城市から知立市に入った。


来迎寺公園
この辺りまで来ると、一段と疲れが出て来た。


御鍬(おくわ)神社鳥居


御鍬神社社殿
由緒 江戸時代に来迎寺村をはじめ、近村の牛田村、八橋村等の八ヶ村が連合して、
伊勢より御鍬神を勧請し、各村輪番にて御鍬祭を奉仕し、豊作を祈願してきたが、
明和年間(1764~71)この輪番が当村で終わることになったことから、社殿を造営し、
以後来迎寺村の氏神様として仰ぎ祀ったと云われている。(中略)
本殿は棟に千木、かつお木(五本)を置く神殿で、丁度伊勢神宮(外宮)の半分の
大きさに造営された。


元禄の道標


元禄(無量寿寺)の道標の説明
この道は、江戸時代の要街道であったことから、諸処にこの様な道標が建てられていた。
従是四丁半北 八橋 業平作観音有
元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白
と記されており、元禄九年(1696)に、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への
道標として建てられたものであることがわかる。
(知立市教育委員会)


道路の反対側にも無量寿寺への道標が建っている。


13時11分、来迎寺町公民館前を通過すると、


来迎寺一里塚があった。
日本橋から数えて84番目の一里塚である。
塚の上の樹木は主として榎が植えられたが、この塚は代々松といわれる。


直径約11m、高さ約3mに土を盛り、街道の両側に造られている。


道路反対側の来迎寺一里塚
この塚のように両塚とも完全に遺されているのは、たいへん珍しい。
(知立市教育委員会)


いったん松並木が現れたが、直ぐに家並みになった。
(来迎寺小町交差点辺り)


見返弘法大師従是四丁の碑
道標に刻まれた「見返弘法大師」は、弘法大師が彫った自身の座像三体の一つ
「見返弘法大師」を安置する弘法山遍照院(知立市弘法町)を指す、そうである。


衣浦豊田道路が見える。


衣浦豊田道路の先に松並木が見える。
知立の松並木ではないかと思われるが、腰も痛いし、疲れが厳しい。
名鉄の牛田駅も近くだし、この日はここまでにしておこう。
ここから先は、次回にしたい。


ということで、知立の松並木を前にして、名鉄牛田駅に向かうことにした。
衣浦豊田道路の牛田歩道橋で国道1号を跨ぐ。


衣浦豊田道路の牛田歩道橋から見た国道1号
(安城市方面)


13時40分、名鉄牛田駅に到着


名鉄で1駅先の知立駅へ行き、


知立駅で名鉄三河線に乗り換え、JR刈谷駅へ向かった。


JR刈谷駅からは、新幹線に乗るため普通電車で三河安城駅へ向かうことになるが、
何と! 帰りの切符(乗車切符と新幹線特急券)が見つからない!
リュックやポケットを何度も探したが見つからない。
どこかで落としてしまったようだ。
仕方がないので、帰りの切符(乗車切符と新幹線特急券)をもう一度買うはめに。
切符を新たに買い直し、三河安城駅の新幹線乗り場へ向かう。


三河安城駅から新幹線「こだま号」に乗り、東京へ向かった。


第Ⅲステージ第3回目(藤川宿から池鯉鮒宿)の2日目(岡崎宿から池鯉鮒宿)を
歩き終わった。
この日の目的地としていた池鯉鮒宿本陣跡まで辿り着けなかったのは残念
というしかない。
池鯉鮒宿本陣跡までは、あと2Km弱ではあったが、2日間とも33度という猛暑の中
これ以上無理をしていたら、熱中症になっていたかもしれない。
牛田駅で止めていて良かったと思っている。

家に帰ってから資料などを整理していたら、落としたとばかり思っていた
切符(乗車切符と新幹線特急券)が出て来た。
連日の暑さで、資料の中に切符をしまい込んだのをすっかり忘れてしまっていた
という次第。

翌日(7月11日)、切符を買った地元荒川沖駅に行き、事情を説明したところ、
乗車券は、13日まで利用出来るため、払戻し(手数料220円)に応じてくれたが、
新幹線特急券は期日を過ぎているので、払戻しには応じられないとのこと。
自分の凡ミスではあるが、この暑さでは、暫く歩くのを控えた方が良さそう・・・

この日の万歩計は、22,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第3回 藤川宿~池鯉鮒宿(1日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第3回 藤川宿~池鯉鮒宿(1日目)

2018年07月09日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年7月9日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第3回(1日目)は、藤川宿(名鉄藤川駅)~岡崎宿(名鉄岡崎駅)である。

荒川沖駅5時28分発の電車に乗り、東京駅には、6時36分に到着。
東京駅の「膳まい」で駅弁を買い、


東京駅6時56分発の新大阪行「こだま633号」に乗車。


この日の富士山は半分雲がかかっていて今一といったところ。


掛川城ははっきりと見えた。


豊橋駅には、定刻の9時8分に到着


豊橋駅から、名鉄本線に乗り換え、


9時58分、名鉄藤川駅に到着。


藤川宿西棒鼻跡がこの日の東海道歩きのスタートである。
現在の藤川宿西棒鼻跡は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の
浮世絵「棒鼻ノ図」を参考にして復元したもの。


岡崎宿へ一里半(約6Km)、京へ四十六里二十七丁(約187Km)とある。
まだ先は長い。


藤川宿西棒鼻跡の少し先に十王堂がある。


十王堂は10人の王を祀る堂で、その王とは冥途(死者の魂の行くところ)にいて、
亡者(死んだ人)の罪を裁く10人の判官を言う。
堂の中には、秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・太山王・
平等王・都市王・五道転輪王の10人の王が並んでいた。


十王堂の隣には、松尾芭蕉の句碑もある。
爰も三河 むらさき麦の かきつはた はせお
これは名物「むらさき麦」を詠んだもの。


旧東海道を進むと、


民家の庭先に藤川宿の一里塚跡があった。
江戸日本橋から数えて79番目となる一里塚である。
藤川宿の西の入口となる。


藤川の松並木まで400mの標識


名鉄の踏切手前に分岐点がある。


東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(岡崎市福岡町)、
西尾(西尾市)、吉良(吉良町)方面へ出る。
この道を吉良道と呼んで、その分岐点に吉良道道標(みちしるべ)がある。
吉良とは忠臣蔵で有名な吉良上野介の領地だった場所のこと。
江戸時代この道を通って大名行列や、茶壺道中、海産物や塩が運び込まれてきた
重要な街道であった。


名鉄の踏切を越えると、


その先には見事な松並木が続いている。
慶長九年(1604)江戸幕府は街道を整備し、東海道の両脇に松を植えた。


この松並木はその名残を留めるもので、「藤川の松並木」と呼ばれていて、
およそ1Kmほどの間に90本あまり残り、保存状態も良い。
岡崎市の指定文化財になっている。


藤川宿の碑
藤川宿は、東海道の37番目の宿場である。


藤川の松並木が終わり、10時22分、国道1号に合流した。


旧東海道の案内表示
ちょっと不安な時にはこのような案内表示は嬉しいものだ。


阿弥陀寺前を通過


道が分岐している。
左が旧街道になる。


坂下橋


竜泉寺川
右手には国道1号が並行して走っている。


旧街道は道路を横断して直進する。


松がまばらに残るだけの道を進み、


住宅街の旧街道を進む。


さらに県道48号を横断して進むと、


高橋という橋があった。


山綱川を渡り、


道なりに進むと、10時58分、乙川の袂で再び国道1号に合流した。


乙川を渡る。


乙川河原に馬が1頭草を食んでいた。


水量が豊富な乙川である。


乙川に架かる大平橋を渡って70mほど先を左へ曲がり、


突き当りを右に折れて進むと、


また、国道1号に合流した。
(大平町東交差点)


大平町東交差点を横断した角に東光山薬師寺があった。


東光山薬師寺
たくさんのお地蔵様が並んでいた。


薬師寺本堂


境内には、他にもお地蔵様や


石仏が建立されている。


大平上町公民館横に建つ秋葉山常夜燈
弘化四年(1847)の建立、とのこと。


岡崎大平郵便局の角に、


西大平藩陣屋跡と大岡稲荷社の案内標識があった。
この先90mとある。


11時26分、西大平藩陣屋跡に到着
「大岡裁き」で名高い大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、
西大平藩主大岡家の陣屋が置かれたところ。
陣屋は明治維新によって廃止されたが、藩主を慕う旧藩士や領民から、
陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声が上り、
大岡家別邸として復活した。
初代藩主の大岡越前守忠相は江戸に居住する定府大名のため、
藩領である西大平の地に訪れることは無かった、そうである。


内側から見た西大平藩陣屋跡の高麗門


陣屋跡内部はきれいに整備され、西大平陣屋や大岡越前守忠相に関する
解説板などが設置されている。


奥の様子
写真中央部が西大平藩陣屋の井戸跡。


陣屋跡に鎮座する大岡稲荷社


西大平藩の初代藩主大岡越前守忠相は、豊川稲荷本尊の
吒枳尼真天(だきにしんてん)を厚く信仰。
江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷より分霊して赤坂稲荷を祀り、
ここ西大平陣屋にも大岡稲荷として社殿を建立し、
豊川吒枳尼真天(とよかわだきにしんてん)を本尊として祀った。
現社殿は忠相公没後250回忌の記念事業として、平成14年(2002)に
再築されたもので、大岡家の守り本尊として代々引き継がれている。


大平一里塚
江戸日本橋から数えて80番目、京三条大橋からは38番目となる大平一里塚。
北側の一里塚は昭和三年(1928)に道路改修の際に撤去された。


南塚上にはかつては榎の大木があったが、昭和20年(1945)の台風で倒木。
現存する塚の榎は、新たに植えられたもの。


南塚の反対側、北側の一里塚の跡地には常夜灯とお堂が建てられている。


お堂の中には2体のお地蔵様が鎮座していた。


旧街道を進むと、


国道1号に合流する手前右手に村社大平八幡宮の参道入口があった。


参道を進んで行くと、更沙川を渡った先に一の鳥居があり、さらに参道は続いていた。


大平八幡宮の創立年代は不詳である。
安永六年(1777)、現在地より南西に位置する八ッ幡の地より遷座。
明治五年(1872)村社に列せられ、明治四十二年(1909)に
白山社、御鍬社、日枝社を合祀した、とのこと。


時計を見ると11時50分を過ぎるところだった。
この先弁当に適当な場所の当てが期待出来ないので、
この大平八幡宮境内で弁当を食べて行くことにした。
東京駅で買った「米八幕ノ内弁当」(951円)


3種類のおこわとおかずの味もしっかりしていて、とても美味しかった。


国道1号を進むと、


国道脇に何やら標識が。


歩行者・自転車の通り抜けの案内図だ。
東名高速への接続道路下を潜り抜けるように案内されている。


お城のような「ホテル伍萬石」を右手に見ながら、


標識に従って進む。


接続道路下のトンネルを3つ潜ると、


再び国道1号へ出た。


前方に大きな高架道が見えて来た。
県道26号である。


県道26号下を潜って少し進み、国道1号沿いの旧街道へ。
左側が国道1号である。


法光寺前を通過し、


13時11分、岡崎二十七曲碑に到着


岡崎二十七曲記念碑の冠木門


案内地図に従って進むと、


若宮町2丁目交差点の角に二十七曲り標柱(い)が。
これが最初の標柱と思われる。


岡崎城下二十七曲 岡崎城東入口とある。


江戸時代、岡崎の町は東海道の宿駅として栄えた。
東海道の往還は、当所の南で欠村から宿内に入り、この位置で西方へと大きく曲り、
宿内の中心へと進む。
その曲折点は岡崎城下二十七曲りの一つに数えられる。
宿には、綿打商・穀商・紺屋・豆腐屋・古手屋・莨(たばこ)屋・酒屋・小間物屋・
綿商などの店が軒を並べていたが、なかでも茶屋が多くあり、
茶屋で売られていた餡かけ豆腐の「あわ雪」は東海道往来する人に
名物として賞翫された。


二十七曲り標柱に従って進むと、根石原観音堂があった。
本尊の聖観世音菩薩は行基菩薩の作と云われる。
和銅元年(708)天下に悪病が流行し世人の苦しみは一方でなかった。
時の43代元明天皇も心を悩まされ直ちに行基法師を召され、
悪疫を絶やして欲しいと念願された。
法師は自ら6体の観音像を彫り、その内の2体を根石の森に勧請し、
17日間祈祷を続けたところ、果たして霊験あらわれ、病も治まり、
世人の喜びは大変なものであった。


さらに旧街道を進む。


二十七曲り標柱(は)


二十七曲り標柱(に)


伝馬通り


伝馬通りには、お茶壺道中や


朝鮮通信使、


人馬継立など道路両側に20体の石像がある、そうだ。


伝馬通りの古い商店


二十七曲り道標


伝馬通り伝馬交差点に岡崎宿西本陣跡碑があった。
脇本陣を勤めた桔梗屋は、総坪数125坪半のうち、
建坪105坪と玄関や書院を持つ豪壮な建物であった。


西本陣前角跡は、現在は駐車場になっている。


伝馬交差点を左折して60mほど進むと、
きらみち道標が。


きらみち道標


きらみち道標に従って、西京いせ道方向へ進むと、旧商工会議所があった。
大正六年(1917)、岡崎銀行本店として建てられた、赤レンガと花崗岩の
組み合わせによる、ルネッサンス風の建物である。
戦後、商工会議所として使われていたが、現在は、岡崎信用金庫の資料館として
一般に開放されている。


13時54分、籠田東惣門跡碑に到着
天正十八年(1590)家康が江戸に移ると田中吉政が岡崎城主になり、
総堀を築き城下町を形成、東海道の城内出入口として篭田松葉の惣門を建てた。


二十七曲り標識に従って籠田公園方向へ。


籠田公園正面に田中吉政像があった。
岡崎城主(1590-1600)
当時菅生川の南にあった東海道を城下へ引き入れて「岡崎二十七曲り」の基礎を造り、
また惣堀(田中堀)を築造するなど、城下町の整備を行った。


籠田公園で一休みし、


街中を進む。
この辺りから二十七曲り標柱を見見失ってしまった。


地図と感を頼りに進むと、


八幡通りに出た。
二七市通とあるので、二十七曲りに関係があるのではないか。
とりあえずこの道を進んでみよう。


二七市通を西へ進むとファミリーマートがあったので、
ここで冷たいアイスモナカを食べて一休み。


ファミリーマート前の道を右方向に進むと、


能見通一南交差点があり、二十七曲り標柱(ぬ)が現れた。
最後に見たのはきらみち道標があった(へ)なので、(と~り)が抜けてしまったが、
引き返すのは面倒なので、


このまま進むことにする。


二十七曲り標柱(る)


伊賀川に架かる柿田橋の袂に案内地図があった。


その左に二十七曲り碑が。


伊賀川に沿って進むと、白山神社への上り口があった。
ちょっと立ち寄ってみよう。


白山神社は、もと岡崎城内にあり、城主の産土神として崇敬されていた。
三国聞書集によると「永禄九年(1566)家康在城の折、厄除け・開運・祈祷のため、
上州新田から勧請した」ものであると云われている。


白山神社のムクの大木(高さ14m、太さ5.3m)
樹勢はやや衰えているが、板根がよく発達した貴重な巨木である。
また、木の様子からみて相当古いもので、市街地に残っているものとしては珍しい。
(岡崎市)


白山神社を下ると、伊賀川に面して小さなお堂があり、
大悲観世音菩薩が鎮座していた。


伊賀川に架かる三清橋


橋の袂に二十七曲り碑が。


三清橋は渡らず、道路を横断し、岡崎市図書館を左手に見ながら進むと、
国道1号に突き当たった。


国道1号岡崎公園前交差点を横断すると、15時8分、岡崎公園に到着した。
岡崎公園の二十七曲り記念碑


岡崎城は、「日本100名城巡り」で2010年10月10日(日)に訪れているので、
この日は、駆け足で城内を抜けて、宿泊先へ向かうことにする。
大手門から入り、


龍城神社、


岡崎城天守閣、


最後に神橋を渡り、


乙川沿いの竹千代通りを進む。


岡崎ニューグランドホテル前を通過


河原では、8月4日に開催される花火大会の見物席の設置工事が進められていた。


15時53分、この日の宿泊先である岡崎第一ホテルに到着した。


シャワーで汗を流した後、乙川に架かる殿橋を渡って、
名鉄東岡崎駅前へ足を運んでみた。


明大寺本町から東岡崎駅前にかけて、けっこういろんな店がある。


東岡崎駅前から明代橋に向けて進み、


第一ホテルで入手した周辺飲食店MAPと岡崎グルメガイドで、
大方目星を付けていた「くいしん坊」に入る。


先ずは生ビールで喉を潤す。
つまみには鰹の刺身・野菜サラダ・焼茄子を注文した。


コロッケにはワインが合う?


最後は、手打ちうどん・そばの「がんこ親父」で、


締めのざるそばだ。


第Ⅲステージ第3回目(藤川宿~池鯉鮒宿)の1日目(藤川宿から岡崎宿)を
歩き終わった。
明日は、この日の続きを歩くことになる。

この日の万歩計は、24,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第3回 藤川宿~池鯉鮒宿(2日目)

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コメント
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