ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧甲州街道を歩く 第二回 内藤新宿から高井戸宿へ

2016年05月29日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2016年5月29日(日)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを歩くことにした。

「甲州街道を歩く」第二回目は、内藤新宿から高井戸宿(京王線つつじヶ丘)までの約11Kmを歩いた。
高井戸宿の最寄り駅としては、京王線芦花公園駅であるが、”距離が短すぎる”との理由で、
急遽つつじヶ丘駅まで延長した、という次第。

出発地の新宿駅南口に集まったのは、自分も入れて7名。
「特選街道を歩く」と同じ面々である。


目の前に「バスタ新宿」が。
4Fが高速バスの乗場で、3Fが降車場・タクシー乗場になっている。
『ここに新しくできたんだぁ』


9時8分、とりあえず高井戸宿の芦花公園駅目指して出発!


西新宿一丁目交差点ルミネ前


9時14分、KDDI前を通過
以前勤めていた会社だ。
土浦市に引っ越してから20年間余り通った想い出のある場所である。


通りの反対側に文化学園大を眺めながら進む。


9時20分、新宿パークタワー前を通過


西新宿三丁目交差点
直ぐ右手が首都高4号線の新宿出入口だ。


NTT東日本本社ビル
見上げていると首が疲れる。


9時30分、初台交差点を通過


続いて新国立劇場前を通過
新国立劇場は、オペラ・バレエ・ダンス・演劇など最高水準の現代舞台芸術を発信し続けます、
とのことだが、まだ一度も訪れたことはない。


甲州街道は、首都高4号線沿いに続いている。


9時48分、京王線幡ヶ谷駅付近を通過


新宿駅を出発して40分余、細い路地で一休み。
この日の予想最高気温は28度、既にそのくらいはあるだろう。


首都高4号線に沿って進む。


10時3分、中野通り幡ヶ谷陸橋を通過


笹塚駅バス停前を通過


10時17分、環七通り大原交差点を渡る。


10時22分、日本橋から13Kmの地点を通過
新宿駅を出発して休憩を入れて1時間15分なので、既に4Kmは歩いていると思われる。
『この分じゃ昼頃にゴールの芦花公園に着いちゃうねっ』
『せっかくだからもうちょっと歩いた方が良さそうだねっ』
ということで、急遽つつじヶ丘辺りまでゴールを延長することになった。


代田橋駅過ぎた辺りでビワの実を見かけた。
『こんなところでビワの実を見れるなんてねっ』


井の頭通り松原交差点
松原和泉陸橋


10時33分、井の頭線を通過


続いて明治大学前を通過
『いやぁ立派な建物だねぇ』


建物の立派さに感心しながら和泉校舎の塀に沿って進むと・・・


塩硝蔵地跡の説明板が目に入った。
次のように案内されていた。
現在、明治大学和泉校舎および本願寺派築地別院和田堀廟所となっているこの付近は、
江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)として使用された跡です。
敷地はおよそ一万八千八百九十六坪(約62,000㎡)あり、御蔵地(貯蔵庫)は、
五棟・二町二反九畝五歩(約23,000㎡)の規模であったといわれます。
当時、塩硝蔵は、御鉄砲玉薬方同心三人が年番で交替居住し、警備や雑用には
付近の十六ヶ村に対して、昼夜交替で三人づつの課役が徴せられました。(以下略)


明治大学和泉校舎の直ぐ隣に築地本願寺和田堀廟所があった。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)に所属する築地本願寺の分院で、
阿弥陀如来立像が本尊として安置されている。
大正十二年(1923)の関東大震災によって築地本願寺は焼失したが、
昭和十年(1935)、インド様式の大本堂が完成した。
(杉並区教育委員会)


極楽橋の先に


インド様式の大本堂があった。
中では法要が行われており、重厚な読経が本堂に響き渡っていた。


大本堂に隣接して、広大な墓地があった。
陸軍省火薬庫跡が払下げられることになり、昭和四年出願が許可され、
翌五年地名にちなんで和田堀廟所と名付けられた。
12,000坪(39,600㎡)の広さを有し、富士が望める閑静な近代的公園墓地として注目された。
樋口一葉・九条武子・観音寺潮五郎・古賀政男・水谷八重子・服部良一等有名人の墓がある。
また、明暦の大火(1657)で焼失した築地本願寺の再建に力を尽した佃島の人々の墓地があり、
その佃島の祖先33名の由来が書かれた石碑も建てられている。(杉並区教育委員会)


甲州街道沿いに玉川上水路敷があったので、歩いてみた。


玉川上水路敷は、小さな公園になっている。
木陰に包まれて涼しい。


残念なことに、これから開花を迎える紫陽花の葉が、悉く虫に喰い尽されていた。
日陰の葉ほど見るも無残な状態である。
『あらぁ これからという時に残念だね~っ』
『消毒しないのかしらっ』


玉川上水路敷から再び甲州街道を進む。


コンビニ前で暫し休憩
延長した芦花公園からつつじヶ丘辺りまでの地図をコピーして配布した。


11時24分、日本橋から15Kmの地点を通過


11時31分、清月山覚蔵寺に到着
覚蔵寺の創建年代は不詳だが、慶長年間(1596-1614)に実成院日相が、
真言宗寺院を日蓮宗寺院に改めて中興したと伝えられる、とのこと。
”開運鬼子母尊神安置”の文字が見える。


本堂
日蓮上人の直刻と言われている鬼子母神像が安置されている、とのこと。


境内の一角に綺麗に手入れされた小さな竹林があった。
『きれいな竹林だねっ』


11時41分、続いて宗源寺に到着
ここも日蓮宗の寺院だ。


南北朝時代の板碑や寺宝の滝沢求馬筆の涅槃像がある、とのこと。


境内にある不動堂は、もともと宿の入り口にあった高井山本覚院、通称高井堂のものだったが、
明治44年(1911)に本覚院が宗源寺に合併されて、不動堂をここに移した。
この「高井堂」が、高井戸宿の名の由来になったという説も。


宗源寺のラカンマキは、杉並区指定天然記念物になっている。
胸高周囲2m15Cm、樹高9m(目測)、樹齢は推定350年だそうだ。


甲州街道を進む。


庭一杯に石像が並んでいる。
旧街道の道標などは、まるで本物みたいである。


『石の彫刻屋さんだから何だって作れちゃうんだねっ』


11時52分、日本橋から16Kmの地点を通過


道端に咲くドクダミの花が可愛らしい。


鎌倉街道入口で首都高4号線と分岐して、


欅並木の甲州街道を進むと・・・


11時59分、うまい具合に吉野家があった。
ちょうど昼時ということもあり、”麦とろ”の幟に誘われて、


何と全員が”麦とろ”を注文し、


カウンター席に並んで”麦とろ”に舌鼓を打つ。
こういうときは、早くて安いのが一番なのである。


環八通りまで500mの地点を通過


12時37分、環八通りに到着。


環八通りを横断し、横断陸橋を渡って、


いったん甲州街道と分れて旧甲州街道を進む。


12時44分、曹洞禅宗萬年山長泉寺に到着
上高井戸宿の本陣を務めた武蔵屋の墓が有る、そうだ。


参道脇の砂利の上に石像が無造作に並べられている。


享保十三年(728)建立の観音堂
狩野家二代目養朴門人、絵師中田小左衛門吉信の享保十三年(1728)作の、
板絵着色西国巡礼図二面(一対)が奉納されている。


境内には承応3年(1654)造立の地蔵や石塔などが多数ある。


本堂は、慶安元年(1648)の創建で、本尊は大日如来像


本堂の両脇に並ぶ羅漢像


当初予定していた芦花公園駅は、長泉寺の直ぐ近くだが、ここで終ってはもったいない、という声に、
つつじヶ丘辺りまで延長することにしたのである。


この日初めて見た街道歩きに相応しい古い家であるが、
遠からず壊されてしまうのかもしれない。
この家の裏手は既に建物は無く、整地が進んでいる様子だった。


烏山下宿バス停を通過


13時10分、千歳烏山駅付近を通過


13時16分、成城消防署烏山出張所前を通過


コンビニで体調を整えている人がいるため、腰を下して一休みだ。


里程標(新一里塚)碑なるものがあった。
新一里塚は、明治三年に内藤新宿を起点として甲州街道に建てられた新しい一里塚で、
正面・左側面・右側面には「内藤新宿より三里 品川県」とある。
品川県とは、明治二年布告された「府県施政順序規則」により、
荏原郡、豊島郡の半分および多摩郡の一部を含めた地域をいう。
(世田谷区教育委員会)


13時37分、世田谷給田郵便局前を通過


13時41分、仙川に架かる大川橋に到着


上流を現在の甲州街道が走っているのが見える。


仙川を亀が悠然と泳いでいた。


つつじヶ丘駅を目指す。


13時46分、仙川三差路で現甲州街道に合流


13時50分、昌翁寺(しょうおうじ)に到着
仙川領主の飯高主水貞政が建立し、菩提寺とした。
貞政は、もと今川義元の家臣だったが徳川家康に帰属し、戦功により旗本となり、
下仙川村の領地を与えられた。


門前には元禄時代の庚申塔2基と宝暦の廻国塔が並ぶ。


明治12年3月の仙川の大災で、古記録や什器類を焼失。
本堂は大正13年に再建された。
現在の本堂は昭和60年に新築したもの。


13時59分、日本橋から20Kmの地点を通過
新宿から11Kmほど歩いたことになる。


仙川一里塚跡碑
仙川駅入口のコンビニの前に、小さな石碑があった。
甲州街道5番目の一里塚で、甲州街道と三鷹街道の交差点にあたる。
慶長七年(1602)江戸・甲府間に甲州街道が完成した後に築かれた。


やや視界が開けた場所に出た。
つつじヶ丘駅は間もなくだ。


中仙川遊歩道


14時15分、調布市の天然記念物「金子の銀杏」に到着


肝心な銀杏の木は、竹林の中にあるようだが、竹が邪魔をして良く見えない。


裏の中仙川遊歩道へ回ってみると、大銀杏の木があった。
稲荷社前の一対の銀杏は、目通り幹囲4.09mと1.97mで、太いほうが雄木。
細いほうの雌木(雄木の陰で見えない)が実を付ける。
個人の敷地なのか、周りは鉄柵に囲まれて中へは入れない。


つつじヶ丘交番前の信号を20mほど過ぎると、右手に細長い参道があり、
100mほど先に朱色の金龍寺山門が見えた。


14時24分、真っ赤な山門をくぐる。


境内には十八羅漢の像があちこちに置かれている。


今まで聞いたことのない名前の羅漢像である。


源頼朝の祈願によると云われる閻魔十大王は、ひときわ目を引く。


金龍寺の創立は、建永元年(1206)の古刹である。
山門をはじめ寺の随所に葵の御紋が見られ、徳川家との由来を感じさせる。


境内には水琴窟も。
水を注ぐと澄み切った音色が聞こえ、疲れが癒される感じだ。


皆さん、かなり疲れた様子。
この日は、ここまでにしておこう。


つつじヶ丘駅へ向かう。


14時47分、つつじヶ丘駅に到着


京王線・山の手線と乗り継ぎ、日暮里駅から常磐線で帰路についた。
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「甲州街道を歩く」第一回目(内藤新宿~つつじヶ丘駅)を終わった。
当初予定していた高井戸宿(芦花公園駅)をつつじヶ丘駅まで延長した。
次回は、この日延長した分を深大寺訪問に充てて、深大寺名物の蕎麦を
食べようということになった。
次回の「甲州街道を歩く」が楽しみである。

この日の万歩計は、24,000歩を少し超えていた。

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旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第1回 三島宿~吉原宿(2日目)

2016年05月23日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2016年5月23日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの約126Kmを
2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージ第1回は、三島宿~吉原宿を2日間かけて歩いた。

昨日(5月22日)は、第Ⅱステージの第1回(1日目)で三島宿~原宿間を歩いた。
この日は、第1回の2日目、原宿~吉原宿を歩くことにしている。

朝、ホテル(ダイワロイネットホテルぬまづ)からの眺望
今日も天気は良さそうだ。


富士山が薄らと見える。


8時25分、ホテルで朝食を済ませ、沼津駅北口へ。
通勤・通学の時間帯は過ぎているのか駅前は静かである。


8時55分、昨日のゴール地点原駅に到着し、2日目の出発だ!


原駅入口交差点を左に曲がると、旧東海道である。


原駅入口交差点から50mほどのところに高嶋酒造がある。
高嶋酒造は、江戸末期創業の老舗の酒造である。


明治17年(1884)から造られているという「白隠正宗」は、
山岡鉄舟が臨済宗の名僧白隠禅師にちなんで名づけたもの。
朝廷が白隠禅師に贈った国師号「正宗国師」に由来する、とのこと。
機会があれば一度飲んでみたい。


9時10分、新田大橋を渡る。
この時点で、富士山は殆ど見えない。
肉眼では薄らと見ることは出来るが、このデジカメでは・・・


旧東海道は、昨日からず~っとこのような一直線の道が続く。


9時15分、原宿の一本松一里塚跡を通過
日本橋から32番目の一里塚である。
かつては街道を挟んで両側にあったが、現在は宅地化されてその面影はなく、碑があるだけだ。


9時26分、三社宮(浅間神社)に到着


由緒には、次のように記されていた。
慶安三年(1650)創建、明治八年(1875)二月村社に列せられる。
当地の鎮守の神様である浅間神社は、三社宮とも呼ばれ、氏子、地域住民の崇敬を集めている。


境内西側の末社には、三扉の神があり、櫛摩知命・大己貴命・少名彦名命が祭られている。


9時34分、西一本松バス停を通過


9時35分、大通寺に到着


二度とない人生だから 一輪の花にも無限の愛をそそいでゆこう
一羽の鳥の声にも無心の耳をかたむけてゆこう



大通寺本堂で旅の安全をお参り。


境内には六地蔵や、


地蔵菩薩像などが安置されていた。


念ずれば花ひらく
苦しいとき母がいつも口にしていた このことばをわたしもいつのころからか となえるようになった
そうしてそのたびわたしの花がひとつひとつひらいていった


9時47分、浅間愛鷹神社に到着


由緒には、次のように記されている。
祭神は、木花咲耶姫命、愛鷹大神
延享二年(1745)の創建で、元和元年(1615)に鈴木助兵衛父子により
当地の開拓が始まってから130年後である神社の建築物は、何回も改築されている。
今のは、昭和44年に建てられたものである。
境内社としては、山神社と天王社とがある。
当地区内には、別に、桜地蔵尊と稲荷神社とがある。
(社殿は、歴史を感じさせる建物ではない)


旧東海道を歩いていると、桜地蔵尊の案内表示があった。
浅間愛鷹神社で案内板を見たばかりなので行ってみることに。


東海道線の桃里西踏切を渡るが、堂も案内も見当たらない。


ひょいと右を見ると、白い建物の隣に赤い屋根のお堂のような建物が見えた。
『もしかしたらあの建物かも・・・』
行ってみると・・・


果して、桜地蔵尊堂のようだ。


戸は閉まっていたが、鍵はかかっていなくて、戸は簡単に開いた。
中には桜地蔵尊が祀られていた。
手を合わせて桜地蔵尊堂を後にした。


踏切を横断し、100mほど進んだ所で、


10時21分、富士市に入った。


さらに300mほど行くと県道380号(現東海道)に合流


10時32分、道路の反対側に六王子神社があった。
この六王子神社には「三股の伝説」という悲しい伝説が伝わる。
昔、沼川と和田川と潤い川とが合流し深い渕になっている所を「三股」と呼んでいた。
この渕には龍が棲んでおり、毎年お祭りをして、少女を生贄として捧げるしきたりがあった。


今から400年程前、関東の巫女7人が京都へ向かう途中、この生贄のくじを引き、
一番若い「おあじ」が引き当ててしまった。
仲間の6人は国元へ引き返す途中、柏原辺りに来た時、悲しみのあまり世をはかなんで
浮島沼へ身を投げてしまった。
村人が六人の亡骸を一ヵ所に弔ったのがこの六王子神社だと云われている。
「おあじ」は鈴川の阿宇神社に祀られている。


10時37分、東田子の浦駅前を通過


10時41分、正法山立圓寺(りゅうえんじ)に到着


山門の仁王像(阿像)
力強い像だ。


立圓寺は、日蓮宗の寺院である。
この場所は眺めがよく、参勤交代の行列が休憩がてら富士山の眺望を楽しんでいたと伝えられている。
あいにくこの日は、富士山は霞んで殆ど見えなかった。


「望嶽の碑」
尾張藩の侍医柴田景浩が、文化五年(1808)江戸に下る途中、
立圓寺に滞在した時に冨士を賞して、この碑を建てた。
石碑の裏側には漢文でその云われが書いてある。
生来山が好きな私は、山を描くことも好きである。
富士ほど珍しい山は他になく、中でもこの場所からの眺めに勝るものはない。
参勤交代で何度もここを通ったが、休憩をとるたびについ富士に見とれてしまう。
できることなら富士のふもとで息絶えたいが、思うに任せられない。
だからせめて己の髪を切り、この場所へ埋めておく。
死後、私の魂が再び、この場所に戻ってこられるように。
私の姓名は柴田景浩、字を子博といい、龍渓と称される者で、尾張藩の侍医をしている。



「望嶽の碑」の横に「ゲラティック号遭難碑」がある。
碑横にはゲラティック号の重量4tのピンク色の錨が置いてある。


ゲラティック号遭難誌
インドネシア船籍のゲラティック号は、昭和54年10月19日、
台風20号による暴風と波浪のために柏原海岸沖で遭難。
インドネシア国籍の2人の乗組員の尊い命も奪われた。
船体は、直立のまま海岸線と防潮堤の中間の陸地に打ち上げられ、
新聞テレビのマスコミにも登場し、日曜・祝日には、五万人の人出を数え、
売店が十数軒出店するなど、近郊は勿論のこと東京愛知山梨より見物人が押しかけた。
船体は、6ヶ月間を要して解体処理され、ここに遭難者の慰霊を祀り碑を建てる。
慰霊碑には、インドネシア国籍の2名の名前が刻まれている。
インドネシアとの友好の絆として建てられたらしい。


旧東海道(県道380号)を進む。


10時58分、昭和放水路の広沼橋を渡る。


昭和放水路を渡った直ぐの所に、


増田平四郎の像・一里塚跡の案内があった。


左の松林の方へ行ってみると、増田平四郎の像と説明板があった。
天保七年(1836)の大飢饉や度重なる水害から村民を救済するため、原宿の増田平四郎(1807~1892)が、
浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させたのは明治二年(1869)の春で、
人々は「スイホシ」と呼んだ。
平四郎は、韮山代官所への工事許可を願い出ること12回、勘定奉行へ駕訴すること6度に及んで、
ようやく事業の重要性と彼の努力が認められ、慶応元年(1867)に着工の運びとなった。
それは計画の発案から27年目のことであった。
事業は、身延山久遠寺から多額の資金援助を得るなど、浮島沼から海岸まで全長505m、幅7mの掘割を
明治二年(1869)に建設したが、思いがけなくもその年の8月の高波で跡片もなく壊された。
平四郎の大計画は頓挫したが、彼の願いと夢は後の人々に受け継がれている。
(富士市教育委員会)


米之宮神社(右)と


淡嶋神社(左)があった。
2つの神社がこのように並んであるのは初めて見た。


駿河湾を見たくなって、細い路地を通って海の方へ向かった。


松林を抜けると、


海岸に出た。海風が心地良い。
こちらは沼津方面


こちらは、田子の浦港方面


しばらく海風に当りながら海岸に沿って進むことにした。


富士マリンプール
6月25日の営業開始に向けて準備中だった。


富士マリンプールから田子の浦港方面を望む。
「田子の浦 うちいでてみればま白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける」と
山部赤人に詠まれたことでも有名な場所。
現在は工業地帯となり、往時を偲ぶことは難しいが、
富士だけは昔のままの美しさで仰ぎ見ることができる。
(あいにくこの日富士山を仰ぎ見ることは出来なかった)


旧東海道へ戻ると桧というバス停の近くだった。


桧交差点で旧東海道は、左へ分岐する。


11時50分、旧東海道大野新田辺りを通過
お昼になったが、ファミレスやコンビニなどこれまで1軒も見当たらなかったし、
この調子ではこれからもありそうもない。


小さな店があったが、閉まっていた。


向いにパン屋があったが、ご飯類が食べたかったのでパスすることに。


高橋勇吉と天文堀の碑があった。
三新田(大野・桧・田中)の80ヘクタールに及ぶ水田を幾多の水害から守った天文堀は、
大野新田の高橋勇吉(1806~1866)が、天保七年(1836)から嘉永三年(1850)の14年間の
歳月を費やして完成した排水用の掘割である。
勇吉は、大野新田を開いた高橋庄右衛門の子孫で、彼が三新田の干拓を考えたのは天保七年の
大飢饉による村民の困窮に心を痛めたからで、排水計画の傍ら、多くの反対や苦難を乗り越え、
ようやく村役人の賛同と幕府の許可を得て、立派な排水堀を完成させたのであった。
また勇吉は、自分の田畑や財産などを売り払って工事費に充てたと云われ、勇吉が天文の知識や
土木技術に優れていたことから、この掘割のことを「天文堀」と呼んだ。
(富士市教育委員会)


旧東海道を進んで行くと、大きな煙突が見えてきた。
(後で製紙工場の煙突だったことに気が付いた)


毘沙門天用観光バスの駐車場の看板が・・・
そろそろ妙法寺に到着する頃だが???
とりあえず毘沙門天に寄ってみよう。
(最初は、ここ毘沙門天が妙法寺だとは思っていなかった)


坂道を上って行くと、毘沙門天本堂が現れた。


せっかく来たのだからお参りして行こう。
線香の煙を全身に浴びて、


本堂へお参りを済ませた。
ここが妙法寺なのではないだろうか?
しかし、どこにも寺名が見当たらない。


近くに”お身拭い毘沙門天”があった。
あなたの身体の痛むところと、この像の同じところ(例えば腰・足・ひざなど)を
御布でよくさすって下さい。
毘沙門天王が代わって、その痛みを取り去って下さいます、とある。
さすがに今日は歩き疲れていたので、身体のあちこちをさすった。


毘沙門天を後にして次に進もうとしたところ、毘沙門天の入口に妙法寺の文字が見えた。
やはり、毘沙門天は妙法寺のことだったのだ。
毘沙門天が妙法寺だと分かって胸につかえていたものが取れてすっきりした。


旧東海道を吉原駅を目指す。
工場の煙突が次第に大きく見えるようになった。


東海道線の踏切手前に小さな蕎麦屋があった。
立寄ってそばでも食べて行こうかと思ったが、ちょうど昼時で混んでいる様子だったので、
そのまま吉原駅へ向かった。
吉原駅へ行けば何とか昼飯にありつけるのではないか?
(その考えは甘かった)


東海道線踏切を横断し、


12時43分、吉原駅に到着した。
しかし、不安は的中。吉原駅前には、一軒の店どころかコンビニもなかった。
お腹も空いて疲れもたまって来たので、この日はここをゴールとした。
三島駅まで戻って昼食することにして、電車の切符を購入(410円)した。
帰りは、三島から新幹線(こだま号)を予約しているためである。


13時17分、三島駅に到着。


三島駅前商店街へ。


うなぎ屋の暖簾をくぐって、


注文したのは値段の手頃な親子丼(1,340円)だ。
うな重(3,500円)は、自分にとっては贅沢品なので、やhり注文し辛い。
浜松宿または舞阪宿まで我慢しようと思う。


昼食後、新幹線こだま号で、東京に向かった。
当初の予定としては、吉原の少し先で左富士でも見て、吉原本町から帰ろうと思っていたのだが、
この日の富士山は殆ど見えなかったこともあり、次回の楽しみにとっておくことにした。
次回左富士を見れるかどうかは保証の限りではないが・・・

この日の万歩計は、23,000歩を計測していた。

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旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第1回 三島宿~吉原宿(1日目)

2016年05月22日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2016年5月22日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの約126Kmを
2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージ第1回は、三島宿~吉原宿を2日間かけて歩いた。

東京駅7時26分発の東海道新幹線こだま635号に乗車


日曜日で朝が早いためかこだま号自由席はガラガラだ。


定刻の8時19分、三島駅に到着
ホームからはうっすらとだが、富士山が見えた。


8時29分、三島駅を出発!


市内を流れる桜川は、菰池や白滝公園を水源とする、延長4,150mの普通河川である。
三ヶ所用水とも呼ばれ、旧三島宿・錦田村字中・旧中郷村字中島の三ヵ所の農業用水となっている。
白滝公園付近には、ハヤが生息しており、川沿いを歩く人が思わず足を止めて、
川の中を覗き込んでいる風景に出くわすことがある、そうだ。
水は大変きれいである。


桜川に沿って「三島水辺の文学碑」として正岡子規や、


松尾芭蕉、若山牧水などの句碑・歌碑が並んでいる。


三島大社で、旅の安全を祈願して行こう。


総門を潜り、


続いて神門を潜ると、


舞殿奥に社殿がある。
三島大社は、伊豆国の一宮で、三嶋大明神を祭っている。
奈良・平安時代の古書にも記録が残っており、源頼朝が源氏の再興を祈願したことでも知られている。
平成12年には、本殿が重要文化財に指定された。
頼朝旗揚げ成功以来、武門武将の崇敬も篤く、三嶋大明神の称は広く天下に広まっていった。


厳島神社は、北条政子が信仰したと云われ、家門繁栄・商売繁盛・安産・裁縫等の守護神で、
多くの人に広く信仰されている、そうだ。


9時3分、三嶋大社の大鳥居を後にして、「旧東海道歩き」第Ⅱステージのスタートだ!

 
三嶋大社大鳥居の前の道を旧東海道へ向かう。
(実はここで、道を間違えてしまっていたのだが、この時は気が付いていなかった)


からくり人形の「めぐみの子」が水を汲んでおもてなし♪
前に立つと 「ヨイショヨイショ」の掛け声とともに男の子と女の子の人形が水を汲んでくれる。
水はひんやりとして美味しかった。


言成(いいなり)地蔵尊
昔、東本町辺りに、尾張屋源内という猟師が住んでいた。
ある日、源内のひとり娘、6歳になる小菊ちゃんが町を歩いていた。母親は道の反対側にいた。
そのとき、明石の松平若狭守の行列がやってきた。町の人々は、行列が通りすぎるのを待った。
母親はあわてて、娘にそこを動かないようにと、声をかけた。
ところが、小菊は自分を呼んだものと勘違いして、何気なく行列の前を横切ってしまった。
これを見た侍は、怒って娘を本陣へ連れて行った。


驚いた町の人たちは、玉沢の偉いお上人に頼んで、娘が助かるよう殿様にお願いした。
お上人の頼みとあって、殿様はやっと許す気になったが、このときお上人はうっかり、
小菊の父親が尾張の人であることを言ってしまった。
尾張と仲の悪い殿様は、また怒り出し、打ち首を命じたのである。
小菊は手を合わせて「お殿様の言いなりになりますから、助けてください」と、何度も何度も頼んだが、
とうとう手討ちになってしまった。
これを知った父親は、箱根の山に隠れ、行列の駕篭を待ち、殿様の駕篭に狙いをつけて鉄砲を撃った。
ところが、どうしたわけか、駕篭の中には殿様はいなかったのである。
父親は、娘の敵を討つこともできないまま、自殺してしまった。
町の人々は、お地蔵様を作り、小菊ちゃんの最後の言葉から、「言成地蔵」と呼んでいる。


伊豆箱根鉄道駿豆線らしき線路を横断し、道を間違っていることに気が付いた。


旧東海道へ戻るため、市内の住宅地を歩くこと凡そ15分、


県道22号(旧東海道)の標識が見えて来たときにはほっとした。


先ほど横断した線路を再度跨ぎ、


9時31分、旧東海道と思われる道へ。


樋口本陣跡の碑で、旧東海道に間違いないことを確信。
結局25分以上ロスしてしまった。


源兵衛橋を渡る。


三度、伊豆箱根鉄道駿豆線を横断
(三島広小路駅)


9時44分、秋葉神社があったので、参拝した。
祠の前の推定樹齢300年のムクノキが印象的だった。


20人ほどのグループが熱心に何かに見入っている。


境川橋に掛かる「千貫樋」の説明だった。
千貫樋は、清水町と三島市との境に位置し、楽寿園小浜池の湧水を清水町に灌漑用水として送水するために、
境川に架設されている掛樋である。


この樋を架設した経緯は諸説あるようだが、天文二十四年(1555)に、今川・武田・北条の三氏が和睦した際に、
北条氏康から今川氏真に婿への引出物として楽寿園小浜池から長堤を築き、その水を駿河の今川領に送水した、
というのが一般的、とのこと。


名前の由来については、この樋が銭千貫に値するからという説、樋が高千貫の土地を潤すからという説、
樋を造るのに銭千貫が掛ったという説がある。
境川橋の奥に”千貫樋”と書かれたコンクリート製の橋のようなものが見える。


現在の千貫樋は鉄筋コンクリート製
大正12年(1923)の関東大震災により崩壊する以前は、木造で、全長45.0m・深さ0.45m・幅1.8m・高さ4.5mだった。
再建された現在の樋は、全長42.7m・深さ0.45m・幅1.9m・高さ4.2mで、従来のものとほぼ同規模である。


交差点やバス停の名前も「千貫樋」となっている。


常夜灯
建立は、弘化三年(1846)で、両側に秋葉大権現と富士浅間宮と刻まれている。
いずれも火を鎮める神様である。
名主をはじめ村人が防災の願いを込めて造ったものである。(清水町教育委員会)


10時4分、宝池寺(ほうちじ)の一里塚に到着
向かい側の玉井寺(ぎょくせんじ)一里塚と対を成し、一般的に伏見一里塚といわれる。
江戸から29里目になる。
長い年月、風雨にさらされ原型が損なわれたため、昭和60年多くの篤志により原寸どおり復元された。


百丈山宝池寺は、臨済宗妙心寺派の寺院
元亀二年(1571)の創建


玉井寺(ぎょくせんじ)一里塚
宝池寺一里塚と対になっている。
この玉井寺一里塚は、昔の姿をそのまま残している。


玉井寺の白隠の遺墨
白隠慧鶴は江戸時代中期に、“駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠”と言われ、
分かり易い禅画や和讃の形式で民衆の教化に努めた臨済宗中興の祖と称えられる高僧である。
玉井寺に残された白隠の遺墨は三界萬霊等二点と


山号・金龍山及び寺号・玉井寺等であり、
いずれも雄渾にして気魄のある肉太の筆跡で大変貴重である。(清水町教育委員会)


玉井寺の傍に石仏群が並んでいた。
道路整備などでここに集められたのだろう。


10時16分、国道1号線を横断(八幡交差点)


旧東海道(県道145号)を進む。


八幡神社があった。
でっかい文字で対面石と書かれている。
立寄ってみようという気にさせられたのは看板の宣伝効果だろう。


二の鳥居の先の神橋(太鼓橋)を渡ると、


どっしりとした社殿があった。


社殿の左裏に”対面石”があった。
治承四年(1180)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、
源頼朝は鎌倉からこの地に出陣し、富士川で平家軍に大勝した。
黄瀬川に陣取っていた頼朝は、奥州から駆け付けた弟の義経とこの地で初めて対面し、
涙の対面を果たしたという。
この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を”対面石”という。
(清水市教育委員会)


長沢の松並木
地元の会社の前に距離にして約100mの松並木が残っている。


10時38分、狩野川の支流黄瀬川の袂に智方神社(ちかたじんじゃ)があった。


馬頭観音・庚申塔・正観世音菩薩塔・蛇塚などの石碑群がひっそりと立ち並んでいる。
黄瀬川の改修工事の際に川辺から智方神社に移されたものだそうだ。


智方神社拝殿
瓦の色が橙色をしている神社は、今まで見たことはない。



清水町で最も大きい樹木で、目通り7m・樹高28m・根回り18.8m。
足利方に敗れた後醍醐天皇の皇子・護良親王は建武二年(1335)鎌倉の土牢に幽閉され殺された。
お側に仕えていた南の方は密かにその御首を持ち帰る途中、黄瀬川の洪水に遭いやむなくこの地に葬った。
その目印に楠を植え白馬伝説をつけたと伝えられている。
また、有名な小説家井上靖は沼津中学校への通学時にこの樹の下で休憩したとも言われている。
(清水町教育委員会)


10時45分、狩野川の支流黄瀬川を渡る。


黄瀬川橋から富士山が薄っすらと見える。
黄瀬川を越えると沼津宿のある沼津市だ。
(カメラに埃が入って見づらいのはお許しを)


黄瀬川を越えた先に臨済宗の潮音禅寺が。


門を入って直ぐ左手に亀鶴姫の墓があった。
案内板には、
黄瀬川村に小野善司左エ門政氏なる長者あり、一子なきを悲しみ、祈願、満願一子を授く、亀鶴姫と名付く。
七歳の春両親に死別、十八歳の時、源頼朝公富士の牧狩りの宴に再度召されたが応ぜず
この世を憂きことと思い、黄瀬川の水上、百沢の瀧のほとりに立ち、
「み佛の深きめぐみぞ頼みなる、身は瀧きつ瀬のあわと消ゆとも」の一首を残し、飛泉に身を沈む、とある。


旧東海道は東下石田交差点で県道380号に合流する。


東下石田交差点から800mほど進むと、直進の小さな道があった。
旧東海道は右方向だが、狩野川の流れを見るために左へ。


土手に上ってみると、狩野川が見え、その先に橋が見えた。


最初の橋を潜ってしばらく狩野川の流れを眺めながら進む。


狩野川に沿って進むこと約1Kmちょと、別の橋があったので、そこで旧東海道へ戻った。


県道に架かる横断陸橋に”三園橋”の文字が。
一つ橋を間違えて、平作地蔵・日枝一里塚・玉砥石を通り過ぎてしまっていた。


県道を日枝神社まで引き返すが、それらしきものは見当たらない。
確か平作地蔵・日枝一里塚・玉砥石はこの辺りのはずなのだが・・・


旧東海道は、県道(東海道)の他にもう一本別の道があることが分かり、探し回ること数分。
ようやく日枝一里塚・玉砥石を見つけた。


沼津日枝一里塚
日本橋から30番目の一里塚。
伏見一里塚から計測すると距離が不足する。
本来は本町地内に造るものを宿場内であるために東方に寄せて、
日枝神社旧参道脇のこの地に築いたといわれている。


玉砥石は、今から1200~1300年前に玉類を磨くために用いられた砥石と伝えられている。
柱状の二つの大石にそれぞれ直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられている。


一里塚跡からさらに引き返すと、日本三大仇討ちの一”平作地蔵”があった。
この地蔵尊の創建は明らかではないが、有名な浄瑠璃”伊賀越道中双六”に出てくる、
沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊として、その名を知られている。


”旧東海道川郭通り”という通りがあった。
川郭町は志多町と上土町との間の東海道往還沿いにあって、東側は狩野川に接し、
背後は沼津城の外郭に接した狭い町であった。


「川郭」は、「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城郭に由来して、名付けられたものと考えられる。


12時11分、中央公園に到着
沼津城本丸址碑の真ん前でギターを弾いていた。
一言断って写真だけ撮影させて貰った。
この中央公園は、三枚橋城と沼津城の本丸跡に位置している。


沼津城本丸址碑
沼津城は、慶長十九年(1614)に三枚橋城が大久保家のお家断絶のため、廃城となった後、
安永六年(1777)、水野忠友によって築城された。
明治に入って敷地が民間に払い下げられてからは、大火や道路新設に伴って遺構が徐々に姿を消し、
現在では沼津城本丸址の碑のみが残る中央公園として整備されている。


大手町という町名が今も残っている。


三枚橋城の本丸入口付近の石垣を一部復元したもの。


三枚橋城の外堀址


初代広重画の東海道沼津宿


浅間神社と丸子神社の額が入った神社が。


浅間神社(左)と丸子神社(右)の提灯が
元々浅間神社が鎮座していたが、明治になって丸子神社が遷座され、
一緒に祀られ、一扉二社という珍しい形式をとっている。


旧東海道(県道163号)を進む。
そろそろお腹が空いてきた。
12時47分、西高交差点の御成道合流点に、たまたまコンビニがあったので、弁当を買い、


コンビニの隣の山神社という小さな神社で昼食タイムにした。


13時25分、昼食後再び旧東海道を進むと、道は二手に分かれていた。
右東海道、左千本街道とある。


千本松原があると聞いていたので、千本街道を進むことにした。
旧東海道とは並行しているので、直ぐに戻れる。


海岸へ出てみることに。
千本松原は、狩野川河口から田子の浦港の間約10kmの駿河湾岸に沿って続いている松原で、
日本百景・日本の白砂青松100選にも選ばれており、松林越しに富士山を望むことも出来る、
そうだが・・・


狩野川河口方面


田子の浦港方面
残念ながら松林越しに富士山を望むことは出来なかった。


千本街道に沿って松林を歩くことにした。


松林には小さな祠や墓地があった。


松林の中は「千本ジョギングコース」になっている。


千本街道へ戻ってみると、片浜小屋内運動場の手前だった。


旧東海道へ戻ってみると、承光山吉祥院(願満具足天満宮)があった。
寛文五年(1665)正月に沼津市岡宮の大本山光長寺の末寺として、本山第25世日淳聖人が創建。


14時16分、大諏訪松長一里塚跡を通過
日本橋から数えて、31番目の一里塚である。
現在は碑が建っているのみだ。


14時27分、片浜駅を通過


14時41分、東海道線踏切を横断


「奉納赤ちゃん泣き相撲大会」のちらしが目に付くようになった。


15時9分、ちらしにあった海上山長興寺に到着した。
「赤ちゃん泣き相撲」とは、
金毘羅さんの大神さまに元気な声を聞いて頂き、健康・無病を願う行事で、
行司さんの大きな掛け声で元気に泣いた赤ちゃんの勝!
200名を募集しているそうだが、既に満員札止めとのこと。
次の日曜日(5月29日)に開かれる。
そう言えばTVで何度か見たことがある。


前を行くあるグループと一緒になった。
沼津宿から原宿まで歩いているらしい。


大本山松蔭寺
臨済宗の古寺で、歴史は約700年あり、江戸時代に白隠慧鶴が住職を務めた寺として知られている。
現在は臨済宗白隠派大本山である。
白隠は、禅画を確立したことでも名高く、好んで釈迦・観音・達磨などを描き、
現在松蔭寺に多数保存されている。


白隠禅師の墓があるようだ。


松蔭寺の山門の屋根は、石瓦葺きであることが特徴で、幅約30Cm、長さ約1mのものを1面3段54枚、
裏表合わせて108枚を用いて葺かれており、白隠禅師の考案と云われている。


松蔭寺本堂


すり鉢の松
松蔭寺には、白隠が岡山城主池田侯から贈られた備前焼のすり鉢を、
台風によって裂けた松の枝の雨避けに被せたというすり鉢の松が有名であった。
しかし、2010年に枯死したことから、現在かつての松は伐採されている。


グループの後に付いて寺の裏へ回ると、


白隠禅師の碑があった。
石燈籠の穴から白隠禅師の碑が見える。
「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた白隠禅師は、
駿河国原宿長沢家の三男として貞享二年(1685)に生まれ、幼名を岩次郎と言った。


15歳の時松蔭寺で出家、慧鶴(えかく)と名付けられ、19歳より諸国の旅を重ね、
精魂を尽くして修行を積み、享保二年(1717)松蔭寺の住職となり、
翌三年34歳の時、京都妙心寺の第一座となった。
その後、禅の大衆化を図りついに500年に1人と言われるほどの高僧となり、
臨済宗中興の祖と仰がれた。


松蔭寺を後にして、この日のゴール原駅を目指す。
15時30分、白隠禅師誕生地の碑を通過


原宿本陣跡
原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫で、代々平左衛門を名乗って幕末に至っている。
原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり、
問屋・年寄・名主等を勤めていた。
間口は15~17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6,600坪の広大な規模であった。


原駅入口交差点を左折して100mほど直進すると、


15時40分、ゴールの原駅に到着した。


東海道線で沼津へ向かう。


16時25分、この日の宿泊先、沼津駅北口2分の「ダイワロイネットホテルぬまづ」に到着


ホテルの窓から富士山が見えた。


「旧東海道を歩く」第Ⅱステージ1回目(三島宿~原宿)の初日を歩き終えて一安堵だが、
三島大社を出発して直ぐに道を間違えるという単純なミスで、時間を大きくロスしたことは
大きな反省点である。
その後も狩野川の流れ見たさに道を外れて目的地を大きく行き過ぎてしまったりしたことも
反省点の一つと言える。
一人で歩いていると、判断に多少の迷いがあっても、自由なことから、犯してしまうのかもしれない。
これからは、充分注意して歩こうと思っている。

この日の万歩計は、35,000歩を超えていた。

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素晴らしいの一言 高柴山ヤマツツジの大群落

2016年05月20日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年5月20日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28度第8回(2016年第19回)、「高柴山ハイキング(小野町)」に参加した。

高柴山は、福島県小野町の北部に位置し、田村市船引町・大越町との町境にあり、
ヤマツツジの群落で知られる標高884mの山である。
昨年、常南交通社の初企画の文字に誘われて、参加した時(2015年6月8日)は、
既に花は終わっていて、一輪のヤマツツジも見ることができず残念な思いをした。
このことから、リベンジという意味合いで今回、当会で企画したものである。
Webで紹介されているような山頂一帯を覆うヤマツツジを見ることを目標に、この日を設定した。
小野町による高柴山の山開きは、5月22日(日)に予定されていて、それよりも2日早いが、
果してヤマツツジの大群落を見ることができるのだろうか?

6時38分、三中公民館に大型バスがやって来た。


定刻の7時ちょうどに三中公民館を出発したバスは、天川団地・土浦市民会館を経由して、
定刻の7時20分より5分ほど遅れて出発!
この日の参加者は33名である。


土浦北ICから常磐道へ。


いつもの朝食弁当を食べ終わり、お茶を飲んで寛いでいる頃、


8時ちょうど、最初の休憩地友部SAに到着。


バスは、再び常磐道を走り、


9時18分、磐越道へ。


9時32分、次の休憩所差塩(さいそ)PAに到着
トイレ以外は何もないPAだ。


バスは、磐越道小野ICを降りて一般道を走ること約15分、


10時13分、高柴山臨時駐車場に到着した。
三中公民館を出発してほぼ3時間である。


既に昼食の弁当が届いていた。


各自弁当を受取り、


会長の号令による準備体操だ。


『深呼吸をして~っ』


10時21分、出発!


緑溢れる木漏れ日のなか高柴山山頂を目指す。
この日の予想最高気温は21度、暑くもなく寒くもない、最高のハイキング日和だ、


この日の先頭は、Tさんが務める。


高柴山登山口入口分岐点に奥(いり)之観音像が建てられていた。
案内によると、
ここは、奥之観音と呼ばれ、文化十四年(1817)頃に高柴山に放牧した農耕馬の
息災を祈念して建立されたが、観音像は紛失している。
この度このところに、東日本大震災・原発事故からの復興と当地域の繁栄を願い、
東京の篤志家が、聖観自在菩薩立像を奉納建立したものである。(平成26年12月吉日)


10時28分、うどん・そば店前を通過


廃材?を利用した新しいログハウスが建造中だった。


緩やかな坂道を進む、


緩やかな坂道を進む


634m、東京スカイツリーと同じ高さを通過。
山頂まで1,650mとある。


浮金登山口への分岐点を右へ。


臨時駐車場を出発して26分余の10時47分、浮金登山口に到着


ここで一休みしていこう。


『意外と早く着いたねぇ』
『先週の印旛沼一周に比べたらけっこう楽だよねっ』
皆さん、余裕の表情だが、印旛沼一周で、鍛えられたということだろうか?


高柴山を目指す。
登山道の始まりである。


少しばかり道がきつくなってきた。


つづら折りの山道が続く。


山頂まで1Kmのところに50段ほどの階段があった。
右側には、階段を迂回するための緩やかな道があるが・・・


『ウォーキングの会員なんだから階段を上らなきゃっ』
自分より一回りも上のS子さんの強い意志には頭が下がる。


階段を過ぎてところどころにヤマツツジが見られるようになって来た。


5分ほど進むと、


太鼓石の説明板があった。
それによると、
八幡太郎義家が奥州阿部貞任を攻めた際に、人馬とも疲れたので、この大石を打鳴らしたところ、
忽ち大きな太鼓の音と変わり、士気大いにあがり、敵を追い進軍したと云われる、とある。


太鼓石まで150mと近いので、一度見ておこう。


3分ほどで太鼓石に到着した。
『いくら叩いても太鼓の音なんかしないねっ』
まあ、当然と言えば当然である。


11時14分、太鼓石から戻り、再び高柴山山頂を目指す。
高柴山山頂まで残り600mだ。


『道が軟らかいんで歩き易いねっ』


道は直線的だったり、S字だったりで、自分に合った道を歩けるのが良い。


右手に突然視界が開けた。


『いやぁ なかなか良い眺めだねぇ』
遠くまで連なる山々が美しい。


後ろには物見石がある。
昨年物見石の傍まで上ってみたが、木々が邪魔をして見晴らしは良くなかったので、
今回はパスすることにした。
物見石から山頂までは残り500mである。


高柴山山頂を目指す。


下山中の人たちとすれ違いざまに山頂の様子を訊ねると、
『今が満開だよっ』の返事に『本当ですかっ?』 何となく心が弾む。


周りの緑の中にヤマツツジが目に付くようになってきた。
昨年は見られなかった景色である。


右に左にヤマツツジを見ながら進むと、


11時24分、御神水分岐点に到着した。


時間はあるのでヤマツツジを早く観たい気持ちを抑えて御神水へ。
御神水まで50mだ。


行儀良く並んで、


御神水を一口
『これはほんとに美味いっ』


御神水分岐点から山頂までは260m、もう直ぐだ。
すると、これまでの緑一色の景色が一変した。


何と周りはヤマツツジの朱で覆いつくされていた。
『うわ~っ 凄い凄いっ』


ヤマツツジの大群落が目の前に広がっていた。
『うわ~っ なんて素晴らしいんでしょっ もう最高っ』


ヤマツツジの大群落の中、展望台を目指す。


『いやぁ こればほんとに素晴らしいねぇ』


これほどのヤマツツジとは想像していなかった。


ヤマツツジに囲まれた展望台が見えてきた。
先頭グループは既に景色を堪能中である。


11時39分、展望台に到着し、早速上がってみた。


展望台からの眺め(1)


展望台からの眺め(2)


展望台からの眺め(3)


展望台からの眺め(4)
左後方に磐梯山、右後方は安達太良山とのこと。


ここは、ヤマツツジをバックに記念撮影をしておこう。
ということで、記念撮影に相応しい場所を求めて山ツツジの中へ。


『ここが良さそうだねっ』
この大群落は、明治末から昭和にかけて山頂で農耕馬が放牧されたためできたもので、
放牧の邪魔になる樹木は伐採され、草は馬に食べられたが、花や葉に毒性のあるヤマツツジは、
過度に食べられないので残り、優占したと考えられている、そうである。


全員揃っての記念撮影を済ませた。


あとはヤマツツジに囲まれて弁当だ。


草むらに腰を下して最高の遠足気分である。


この日の弁当
生姜を混ぜ込んだご飯に鮭・カツ・ホタテ・がんもなどなど色とりどり。
なかなか美味しかった。


『ちょこっと探したらこんなに採れちゃった』
明日の夕飯のおかずをしっかりと確保して満面笑みのI子さん。


高柴山神社にお参りして、


12時46分、下山開始!


ヤマツツジの群落に別れを惜しみながら臨時駐車場を目指す。


『下りは楽だし早いわねっ』


12時57分、太鼓石説明板を通過


13時5分、浮金登山口駐車場に到着。


『もうバスが待ってる駐車場に着いちゃったの?』
いくらなんでもバスの待つ駐車場には、まだ着きません。


登山口駐車場で後続を待つ間一休み。


13時13分、登山口入口分岐点を通過


ゴールの臨時駐車場を目指す。


ゴールの臨時駐車場を目指す。


ゴールが近くなってペースが一段上がった感じだ。


うどん・そば店手前の新築ログハウス前を通過


13時25分、うどん・そば店前を通過


13時29分、バスが待つ臨時駐車場入口に到着。
山頂を出発して45分、かなりのハイペースであった。


13時33分、臨時駐車場に到着し、トイレは差塩PAまで我慢してもらことにして、
休む間もなく整理体操である。
臨時駐車場の簡易トイレは出来れば利用を避けたいという女性陣の要望でもある。


『肩を強く入れて~っ』


『大きく深呼吸をして~っ』
整理体操はここまで。直ぐに出発だ。


途中、差塩PAで休憩を採り、
いわき湯本温泉「さはこの湯」には、14時46分に到着
予定の入浴時間は1時間をみている。


ゆっくりと汗を流した後、バスを待つ。
「さはこの湯」前は狭いため、バスは5分ほどの別の駐車場に停めざるを得ないのだ。
バスが到着するまで「さはこの湯」の庭石に腰を下して一休み。


15時45分、約束の時間ぴったしにバスはやって来た。


『今日のヤマツツジは本当に素晴らしかったよね~っ』
バス車内は、満足な笑顔に溢れていた。


土浦市民会館、天川団地入口で次々に会員の皆さんが下りて行く。
『お疲れさまでしたぁ』


18時23分、三中公民館に無事到着。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


福島県小野町の高柴山のヤマツツジの大群落を一目見たいと企画したのが、昨年9月頃のこと。
高柴山の山開き(5月22日)より2日早いと知ったのはこの5月になってからである。
しかし、想像以上のヤマツツジの大群落を目の当たりに出来たのは、本当に運が良かった、と思っている。
前後1週間、どちらにずれていても、天候も含めて、この日の開花状況には及ばなかったのではないだろうか。
それほど、この日は”どんぴしゃり”の状態だったように思う。
強く心に残る一日となった。

この日の万歩計は、13,000歩を計測していた。

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いささか疲れました 印旛沼ウォーキング

2016年05月13日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年5月13日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28度第7回(2016年第18回)、「印旛沼ウォーキング(印西・佐倉)」に参加した。
当会で印旛沼(西印旛沼)を歩くのは初めてである。

第一集合場所の乙戸沼公園に集まったのは、19名。
9時ちょうど、車4台に分乗し、印旛沼公園へ向かった。


10時16分、印旛沼公園に到着
マイカーで直行した人は1名で、この日の参加者は20名といつもよりやや少ない感じ。
西印旛沼一周は、凡そ15Kmあり、距離が長いことが、敬遠されたのかもしれない。


『いやぁ これはけっこう広いなぁ』
『今日中に歩けるのかねぇ』
冗談とも本気とも取れる声に、一抹の不安が頭をよぎる。


いつものように会長の音頭で準備体操をして、


10時29分、Tさんを先頭に出発!


先ずは、印旛沼公園(師戸城跡)の展望台へ向かう。
出発前に印旛沼を見ておいた方が良いとの判断である。
ゴールした後では、疲れ果てて展望台へ向かう気が失せることが懸念されるためだ。


展望台へ向かう途中、木々の隙間から印旛沼の一部が見えた。


展望台へ。


階段を上った先に・・・


展望台があった。師戸城(もろとじょう)の本丸跡である。
師戸城は、千葉氏の一族であった臼井氏の居城である臼井城の支城として、十四世紀に築かれたと云われる。
その後、何度か改築され、現存するような形となったのは、十六世紀中頃と推定される、とのこと。


『いやぁ 印旛沼って、思ってた以上に広いねぇ』
『最後まで歩けるのかなぁ 心配になってきたよっ』
『真ん中に橋でもあれば良いんだけどねぇ』
ショートカットできそうな橋はどこにも見当たらない。


「佐倉ふるさと広場」のシンボル、オランダ風車が見える。
この日最初の目的地である。


『今日は頑張って歩くしかなさそうだねっ』
腹を決めて、師戸城旧三の丸跡付近を進む。


10時41分、印旛沼公園駐車場を後にして、


先ずは、「佐倉ふるさと広場」のオランダ風車を目指す。


船戸大橋を渡る。


船戸大橋を渡る。


船戸大橋の中央が印西市と佐倉市の境になっている。


小型の貸ボートが岸辺に並んでいた。
利用者はまだいないようだ。


船戸大橋を渡ったところから、印旛沼に沿った自転車用道路(4Km地点)になる。
自転車用道路の起点は、4Km上流の阿宗橋となっている。


自転車用道路ではあるが、県道406号の標識が。
『ここは県道なんだ』


自転車用道路を進む。
その名のとおり、自転車が多い。


10時58分、印旛沼公園をスタートして30分が経過、木陰を見つけて小休止。
この日の予想最高気温は、27℃、こまめに水分を補給することにしよう。


自転車用道路には、
臼井八景”瀬戸秋月”の説明板
もろこしの 西の湖かくやらん には照る浪の 瀬戸の月影
晴れ渡った秋の夜、向う岸にある瀬戸村の空高く澄んだ月が冴えわたり、
その明月が印旛沼の水に映えて、きらきらと光輝いている。
清らかな風が静かな水面を渡ってゆくと、湖面の月影は流れるようにさざ波に漂って見える。
風景の美しさで有名な、もろこし(中国)の西湖も、名月の夜はきっとこのように見事な情景であろう・・・と、
臼井八景の作者は、未だ見ぬ中国の名勝に想いを寄せながら、瀬戸の秋月を歌に詠んでいる。
名勝「臼井八景」の説明板は、この他にも”船戸夜雨”や、”遠部落雁”などを見ることができる。


万葉の歌碑などもあり、昔の情景を偲ぶことができる。
この歌は、丈部直大麻呂が、防人として出立するときに作ったとされるもので、
潮船の 舳越そ白波 にはしくも 負せ賜ほか 思はへなくに
(潮船の舳先を越して白波が急に来るように、俄かに命じなさるものだなあ。思いもかけなかったのに。)


自転車用道は続く。


11時11分、印旛沼浄水場の放水口に架かる浜田橋を渡る。


左手を見ると師戸城跡(印旛沼公園)の小高い森が見えた。


右手にオランダ風車が見えてきた。
オランダ風車まであと1Kmほどだ。


京成電車が走るのも見える。


11時29分、「佐倉ふるさと広場」のオランダ風車に到着した。


『いやぁ 近くで見ると立派で、けっこうでかいなぁ』
この風車は、佐倉市市制施行40周年の平成6年春、「佐倉ふるさと広場」のランドマークとして、
また、日蘭親善のシンボルとなるよう建設されたもの。
本体機構のほとんどをオランダで製作し、日本で組み立てた国内初の本格的”水汲み用風車”である。
風車塔は、高さ15.6mの外壁レンガ積み、鉄筋コンクリート造りの4階建。
羽根は、直系27.5mの4枚羽根で、主要機構の水車が1階にある。


7-8名ほどが跳ね橋を渡って、


風車塔の中に入ってみた。
(料金は無料)


風車塔内部(2階)
風車の羽根を回す動力源は風である。
翼帆軸に取り付けられた羽根は、風の力によって回転し、その力は上部歯車から主軸に伝わる。


風車塔内部(1階)
そして、主軸の歯車が回転し、その力は下部の水車を回す力になる。
説明をする人の話によれば、最大毎秒1トンの水を汲み上げることができるとのこと。
『毎秒1トンって凄いよねっ』


オランダ製の自転車も展示されていた。
『さすがオランダ製、がっしりしてるねぇ』


風車塔2階からの眺望
右手に風車近くの売店「佐蘭花」、左手に飯野竜神橋が見える。


風車塔に入らなかった人は「佐蘭花」で休憩していた。


『ここから観る風車もなかなか良いもんだよっ』
風車の羽根が十字型になっている。これは小休止を表している。
大休止の場合は、X型になる、そうだ。
また、オランダ風車の羽根は反時計回りに回転するようになっている、とのこと。


一休み後、飯野竜神橋を渡る。
そろそろお腹も空いてきたことだし、弁当できる場所を探しながら歩くことにしよう。


橋の中央に龍の頭の部分が取り付けられている。
”竜神橋”たる所以である。


飯野竜神橋から印旛沼を望む。
『これからあそこを歩くんだねっ?』


名喰戸橋(なじきどばし)を渡る。


名喰戸橋を渡り、再び印旛沼畔へ。


この辺りは、オランダ風車辺りに比べると、並木の木が小さい。
木陰は望めそうにない。


11時59分、山田休憩所(双子公園)まで5Kmの案内板が。
5Kmと言えばあと1時間以上はかかることになる。
まあ、それまでには弁当に適した場所はあるだろう、とこの時は思っていたのだが・・・


『弁当に相応しい場所がないねぇ』
どこまで行っても一本の道だけが続く。


あの建物は何だろう?
「印旛沼サンセットヒルズ」のようだが、入口が見当たらない。
お腹が空いてきたが、この自転車用道路からは、行けないようだ。
仕方がないので、先を目指すことにしよう。


この自転車用道路は、金メダルジョギングロードでもある。
岩名運動公園陸上競技場を起点・終点とする2コースがあり、萩山新田・土浮を経由し、
印旛沼サイクリングロードを往復する尚子コース10Kmと、
宮前・鹿島川・印旛沼サイクリングロード・土浮・萩山新田を経由して岩名運動公園に周回する
裕子コース13Kmがある、そうだ。


堤防の外側には、ラジコン飛行場があった。


広場には、零戦や


F-35戦闘機などが並べられて翼を休めていた。
遵守事項に12時から13時までの昼休みは、飛行させないこと、とある。
現在12時半ちょうど、ということは昼休みの最中で、飛行はお預け。


『弁当はどこで食べるのっ?』
12時半を過ぎてお腹もかなり空いた。
この辺りで食べたい気持ちは分かるが、自転車もけっこう通って危険だし、
『もう少し頑張って歩きましょう!』


12時39分、裕子コース9Km地点を通過。


『地図にある野鳥の森ってこの辺じゃないのかねぇ?』
当初、野鳥の森という公園のような所があって、そこで弁当でも、と考えていたのだが、
どうやら右手に見える自然の森全体が野鳥の森だということが分かった。
ということは、途中で見掛けた案内板の山田休憩所(双子公園)を目指すしかなさそうである。


金メダルジョギングロードは、ここを右に曲がりゴールの岩名運動公園陸上競技場へ続くようだ。


自転車用道路の11Kmの標識を通過すると、


山田休憩所(双子公園)まで1Kmの案内が現れた。
『あと1Km、頑張りましょう!』


自転車用道路は県道65号線に並行していた。


13時2分、佐倉市から再び印西市に入り、


13時6分、ようやく双子公園に到着した。


東屋でとりあえず一息入れる。
『いやぁ けっこう歩いたねぇ』
『疲れちゃったぁ』


東屋からの眺望
正面の森が「野鳥の森」と思われる。


親子像のモニュメント


お腹が空いては戦は出来ぬ、ということで後半に備えて弁当タイム。


『弁当はウォーキングの楽しみの一つだよねっ』


昼食後、Kさんの掛け声で軽いストレッチ体操


『大きく肩を回しま~すっ』


Tさんが足裏にマメが出来たらしく、急遽テーピングで応急手当をして、


13時53分、ゴールの印旛沼公園(師戸城跡)を目指して、出発!
残りは6Kmほどと思われる。到着の目標は、15時30分だ。


印旛水路に架かる双子橋が見えてきた。


双子橋を渡る。


自転車用道路とは双子橋手前でお別れである。
自転車用道路は、印旛水路に沿って北上し、北印旛沼方面へと続くことになる。


ここからは、自転車を気にする必要はないが、堤防上は草ぼうぼうで
歩き難いことこの上ない。


草はかなりの丈がある。
『ゴールまでこの状態が続くのかねぇ』


少し進むと、堤防内側に砂利道があった。
草はそれほど生えていなかった。
Tさん、足は問題なさそうだ。一安心である。


ところどころにゲートが設けられている。
『どっこいしょっと』


単調な道が続く。
左側の堤防に遮られて風が全く吹かないので、暑い。


14時23分、水分補給のため休憩
風は吹かないし、日陰になる木も見当たらない。
『いやぁ 今日は暑いねぇ』


ここはとにかくゴールの印旛沼公園を目指すしかない。


14時33分、一本松揚水機場?を通過


何度目かのゲートを潜る。


14時40分、小さな木陰を見つけたので、ここで再度小休止。


腰を下して座り込む人も。
少しでも身体の負担を減らすためだ。


ゴールの印旛沼公園を目指す。


殆ど変化のない景色が続く。


堤防上へ出てみると、広い芝生場所があり、テントが張られていた。
午前中に見たラジコン広場と同じような環境だが、ここには誰もいなかった。


堤防上を進む。
『風もあるし、見通しが効くから気持ちが良いねっ』


喜んだのも束の間、途中から草ぼうぼうで歩けなくなったため、直ぐに堤防から下りることに。


後はひたすらゴールの印旛沼公園を目指す。


最後?のゲートを潜り、


黙々とゴールの印旛沼公園へ向かう。


前方に師戸城跡がはっきりと見えてきた。


15時26分、印旛沼畔の終点に到着
『やっと堤防歩きが終わったぁ』


後は、師戸城跡駐車場へ向かうだけである。
阿波踊りを踊っているように見えるのは、血行を良くするためのストレッチ。
腕を上げて阿波踊りのように振るのが効果があるそうだ。


印旛沼公園入口を通過し、


15時36分、印旛沼公園に到着。
自動販売機へ直行である。


皆さんさすがに疲れた様子。


最後尾を務めていた会長も無事到着した。


この日の締めはOさんの整理体操


『四股を踏むようにっ』


『最後は大きく深呼吸~っ』

『皆さんっ、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

この日、初めて印旛沼(西印旛沼)を一周した。
以前から一度印旛沼を歩いてみたいと思っていたので、この日実現出来て良かったと思っている。
一人の落伍者も出なかったことは幸いであった。
一番の印象としては、やはり長かったというのが実感であるが、オランダ風車の回りは、
春には色鮮やかなチューリップに包まれるそうなので、機会があればかみさんでも誘って
また訪れてみたい。

この日の万歩計は、26,000歩に迫ろうとしていた。


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