goo blog サービス終了のお知らせ 

ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日光街道を歩く 最終回 今市宿~日光東照宮

2013年09月18日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2013年9月18日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の”街道歩き”を望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

7月・8月は暑いのでお休みとしていたが、猛暑日も影を潜めたこの時期に街道歩きを再開した。
会を重ねて、今回が最終回となり、今市宿から日光東照宮を目指す。

この日も雲一つ見えない素晴らしい天気だ。
「ホテルつたや」の4階屋上から、左から男体山(2,484m)、大真名子山(2,375m)、小真名子山(2,323m)、
女峰山(2,463m)の山々が望める。


出発前に、社長から「ホテルつたや」の歴史について説明を受けているところ。
東照宮造営や大猷院が完成し、街道が整備され、今市が物資の集積地として発展してきた頃の延宝五年(1677年)、
旅籠蔦屋与左衛門として創業したというから約330年以上の老舗である。
日光街道で江戸時代初期より唯一営業している旅館とのこと。


江戸時代には、幕府・東照宮より認定された講中看板(三都講、東照宮百萬講)を店頭に掲げ、
当時の日光参拝客や商いの人を泊めていた、とのこと。
当時の講中看板は今では「ホテルつたや」の家宝だそうである。


「ホテルつたや」のすぐ近くにあるコンビニで飲み物等を調達し、


8時24分、東照宮目指して出発だ!
この日も足の古傷が痛むため、朝から杖を片手に歩くことにした。
皆さんには迷惑をかけることになるが、何とか遅れずに一緒に歩きたいものである。


歩きだして直ぐ、報徳二宮神社の参道入口があった。
立派な道標と、この地で終焉を迎えた二宮尊徳翁の墓があることを「ホテルつたや」の社長から聞いていたので、
立寄って行くことにした。


報徳二宮神社の鳥居


報徳二宮神社
二宮神社は、報徳仕法によって多大の恩恵に浴し、尊徳翁の遺徳を敬う人々が、
終焉の地である今市の霊地に創建したものである。
報徳二宮神社の本社は、生誕地である小田原の小田原城二の丸小峰曲輪の一角に創建されている。


二宮尊徳翁の銅像


二宮尊徳翁のお墓
二宮尊徳翁は幕府の命令を受け、今市を中心とする日光神領で荒廃した農村復興のために報徳仕法を始めた。
安政三年(1856)11月17日、居住していた今市報徳役所内で70歳の生涯を閉じた。


如来寺
室町時代中期の創建。
寛永九年(1632)、三代将軍家光が東照宮造営のために御殿を建設しここに逗留した。
二宮尊徳翁が亡くなった安政三年(1856)に、葬儀が行われた寺でもある。


如来寺本殿
境内には、地蔵堂や暁誉上人の五輪塔などの数多くの文化財がある。


地蔵堂
堂には木造地蔵菩薩立像(日光市指定文化財)が安置されている。


国道119号線(日光街道)と並行した裏道を進んでみることにする。
人通りは少なく、静かな佇まいである。


浄泉寺
信仰に篤い二宮尊徳の子弥太郎が文久二年に寄進したが、戊辰の戦乱にあり消滅。
その後弥太郎の子金之丞・延之輔等によって復興した。
本堂は焼失して無く、薬師堂が建っているのみである。


そば喰稲荷(澤蔵司稲荷神社)
伝えによると、金之丞の妹に夜泣きする子がいて、「そばを献上して祈願したら直ちに治った」という。
以来そば喰稲荷と云われるようになった。子育て稲荷とも呼ばれる。
この言伝えが、今市がそばのまちとして知られるルーツとなったとも云われている。


裏道を進むと東武日光線上今市駅があった。


上今市駅をさらに線路沿いに進むと公園があり、その先で杉並木街道に合流した。
やはり杉並木を歩くと気持ちが落ち着くし、日光街道に相応しい、と思う。


杉並木を進むと右手に高龗神社(たかおじんじゃ)がある。


高龗神社の本殿
祭神は大山祇命・少名彦命・草野姫命を祀る、とのこと。


社名である「高靇」は水源を司る日本神話の神、高靇神に由来している、そうだ。


街道を歩いていると、杉の大木に名前が付けられているのが目に付く。


杉並木のオーナーになった団体・個人の名前が付けられている。
オーナー代は1,000万円である。
代金は、栃木県が日光杉並木街道保護基金で運用し、その運用益で杉並木の樹勢回復事業を実施するという制度になっている。
解約したい場合は栃木県がいつでも同額で買い戻しする、そうだ。


『杉並木が美しいのはオーナーのおかげなんだね』


砲弾打込杉
戊申役のとき、日光会津への要衝今市宿をめぐる官幕両軍の激しい攻防戦が展開された。
官軍の放った砲弾が並木杉を貫いた痕をとどめるもの、だそうだが・・・
『ちょっと見にはどこが砲弾跡なのか分からないねぇ』


途中老婆とすれ違った。
『こんにちわ~』
『車には気を付けてねっ』


出発して1時間30分、一休みして行こう。


杉の木の途中に桜の木が宿って成長している。
『あと数十年もすれば、名木になるかもしれないねっ』
『その頃には我々は誰も生きていないだろうねっ』


竜蔵寺跡の薬師堂
その昔、ここには青雲山竜蔵寺という寺があった、そうである。


薬師堂の前に大きな石の釣鐘が置かれていた。石の釣鐘は初めて見た。
青雲山竜蔵寺は資力の乏しい寺だったため金属製の釣鐘を造ることが出来ず、
日光廟造営に携わった石工に頼んで造らせたものという説があるとのこと。


国道119号線との合流点。


並木太郎
並木の中で一番大きく、その姿が最も美しく端正であるということからこの名称となった。
『さすがに大きいわねぇ』


幹周り5.35m、樹高38m、材積33.5㎥あるとのこと。
『すっご~いっ、5人でやっと一回りだよぉ』


並木太郎クラスの大木が続く、七里の杉並木。


明治天皇七里御小休所
庭園の中に明治天皇が休憩した建物が残っている。


JR日光線をくぐると・・・


日光市街地へ続く最後の杉並木がある。


最後の杉並木を過ぎると右手にJR日光駅が現れた。


JR日光駅の200mほど先に東武日光駅がある。
JR日光駅に比べると人が多く、賑わっている感じである。


日光市街地を進む。
『美味しそうっ、食べて行きたいわねっ』


数百㍍ごとに二荒山神橋までの距離が表示されている。
残り620mの表示。次第に距離が短くなっていくのを見ると元気付けられる。
『もう少しだねっ』


一筆書きの龍
とても一筆書きとは思えない。


神橋袂の日光物産商会
明治時代後期に建設され、日光金谷ホテルの土産品店として創業。
当初は伝統工芸の日光彫や木工品、漆器等の製造・販売などを手がけていた。
昭和三年(1927)に日光金谷ホテルから独立し、その後は土産物販売・飲食専業となった。
日光物産商会の本館は国の登録有形文化財に指定されている。


二荒山神橋(しんきょう
有料(300円)だが、せっかくの機会なので記念に渡ってみよう。


神橋は、はね橋の形式としては我国唯一の古橋であり、日本三大奇橋(山口県錦帯橋、山梨県猿橋)の1つである。


神橋から大谷川(だいやがわ)上流を見たところ。
前日に大雨が降ったとは思えないほど水はきれいであった。


神橋の先に小さな鳥居が見えるが、一般人はここからは進むことは出来ない。
突き当りで折り返しである。
神橋は、神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用された。
一般は下流の日光橋を通行したのである。


神橋から大谷川(だいやがわ)下流の日光橋を望む。


日光橋から神橋を望む。


11時41分、ついに東照宮参道入口に到着した。


参道入口の岩には”世界遺産”の文字が刻まれていた。


東照宮はもう直ぐ、思わず足にも力が入る。


『あと少しだねっ』


日光山は天平神護二年(766)に勝道上人(しょうどうしょうにん)により開山された。


三仏堂は、約50年ぶりの大修理の真っ最中で、巨大なビルのような建物に覆われていた。
正面の壁に描かれた実物の三仏堂にお目にかかれるのはもう少し時間が必要である。


輪王寺三仏堂前で記念撮影だ。


東照宮参道を進む。


この辺りは東京スカイツリーと同じ高さ(標高634m)である。


目の前に東照大権現の石鳥居が迫る。


東照宮表門前の五重塔


東照宮表門
ここから先は有料(1,300円)となっている。
東照宮は、元和三年(1617)徳川初代将軍徳川家康公を御祭神に御まつりした神社。
その後正保二年(1645)宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになった。


東照宮表門の前で記念撮影だ。
表門の中に入るには拝観料1,300円が必要であるが、我々の目的は東照宮へ到着することであり、
私も含めて皆さんはこれまで何度も拝観しているとのことで、この日は敢て中には入らないことにした。
(陽明門の前で記念撮影といきたかったが、拝観料1,300円は決して安くはないのである)


東照宮参道を引き返し、食事処へ向かうことにした。


大谷川(だいやがわ)の清流が美しい。


大谷川の橋の傍に天海大僧正(慈眼大師)の銅像が建てられている。
天海は比叡山で天台宗の奥義をきわめた後、徳川家に仕え、日光山の貫主となった。
当時の日光は豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極にあったが、家康が亡くなると
天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移して、東照宮の創建に尽くした
日光山中興の恩人である。(説明板より)
徳川家康に神号の「東照大権現」を送ったことは特に有名。


天海大僧正の銅像の直ぐ横に磐裂霊水(いわさくれいすい)がある。
この水は男体山系の湧水で、”日本で最も美味しい水”として定評があるそうだ。
『ほんと、美味しいわねっ』


二荒山神橋前の食事処「あさやレストハウス」で昼食にしよう。


無事「日光街道」を歩き終わって、先ずは『かんぱ~いっ!』
『皆さんっ、大変お疲れ様でしたぁ』
この時のビールは殊の外美味かったことは言うまでもない。


日光とくれば名物は”ゆばそば”だろう。
実に美味しかった。


手に手に土産物をぶら下げて東武日光駅・JR日光駅へ向かう。


5人が東武日光駅へ。
『お疲れさん、気を付けてぇ』


残り4人はJR日光駅へ。


JR日光線ホームに宇都宮行き電車が入ってきた。


宇都宮行きの車内
この後、宇都宮線・水戸線・常磐線を乗り継いで帰路についた。


この日で「日光街道」(千住宿から日光東照宮までの約140Km)を歩き終わったことになる。
「日光街道」を歩いた仲間から早速次の目標を聴かれ、「旧東海道」を提案したところ、
皆さん大いに乗り気であった。
ということで、次月からは、「旧東海道」を歩くことにしたい。
しかし、日程調整や費用の面からさすがに京都までとはいかず、
全員一緒に歩くのは日帰り可能な三島宿までが良いところだろう。
三島宿から先は、いまのところ成り行きまかせではある。


ウマさんの「日光街道を歩く」 ”の目次へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日光街道を歩く 第9回 徳次郎宿~今市宿

2013年09月17日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2013年9月17日(火)

2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の”街道歩き”を望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

7月・8月は暑いのでお休みとしていたが、猛暑日も影を潜めたこの時期に街道歩きを再開した。
会を重ねて、今回が9回目となり、目指す日光東照宮はもう目と鼻の先である。
これまでは日帰りだったが、今回は今市宿で宿泊し、翌日東照宮を目指すことにした。

水戸線友部駅で小山行き電車を待つ。


水戸線終点の小山駅で東北線宇都宮行きに乗り換える。
9時16分発の宇都宮行電車が到着。


東北線車内
この日の参加者は9名、最終回にしてはやや寂しい。


9時40分、出発地の宇都宮駅に到着。
この日は今市宿で一泊することから、後処理に困らないように駅弁を購入した。
隣のコンビニで弁当を買う人もいる。


宇都宮駅からスタート地点の「六本杉」まで関東バスを利用する。


10時5分、定刻どおり石那田行きバスがやってきた。


乗客は我々一行9人以外には2人が乗っただけ。
まるで貸切状態である。


10時47分、スタート地点の「六本杉」に到着した。
我々を下ろすとバスは空っぽの状態で走り去っていった。


準備体操は省略して、今市宿を目指して出発だ!
昨日は台風18号で朝まで大雨だったが、台風一過、雲一つない快晴である。


国道119号線を日光を目指して進む。
並木道の道路は車がひっきりなしに走って危険なため、桜並木に並行した歩道を進む。


昨日の台風18号の影響で収穫期を迎えたばかりの稲が倒れている。
『刈入れが大変なんだろうなぁ』


しばらくは国道119号線を進む。
並木道が途切れると民家、また暫くすると並木道、と云う具合に並木道と民家が交互に続く。


台風一過で、日差しは強い。
少しでも日差しが遮られる並木道を歩きたいのだが・・・


石那田一里塚
日本橋より30番目の一里塚である。
道路の反対側にあり、車がひっきりなしに走るため、写真撮影だけに留めた。


バス停の名称も”一里塚”となっている。


石那田一里塚の反対側(歩いている方)に、日光街道の植樹を記念する日光街道植樹記念碑があった。


日光街道植樹記念碑のすぐ横に天保十一年(1840)の建立とされる十九夜塔の如意輪観音が祀られていた。


六本杉停留所を出発してちょうど30分、日光(今市)まで13Kmの表示。
まだまだ先は長い。


さらに10分ほど進んだところに木陰があったので、水分補給のため一休みだ。


田川
台風18号による大雨の影響で川いっぱいに溢れんばかりの水が流れている。


田川大橋を渡ると・・・


左手に石那田八坂神社がある。
明暦元年(1655)の創建で、旧石那田村の鎮守である。


毎年7月17日~24日に厄除けの天王祭が行われているとのこと。


祭礼に繰り出される各集落の屋台は彫刻や提灯で豪華に飾られている。


並木道に沿って進む。


この辺りの並木は桜の木であるが、すぐ脇には雑木などもあって、森の中を歩いている気分だ。


栗の実なども落ちていて夢中で拾っているところ。
まさに実りの秋である。


りんごも赤く色づいている。美味しそうだ!


うらない地蔵
お地蔵さんの台座に3個の丸い石が置かれている。
願をかけた後、そのうちの1個を持ち上げ、軽ければ願いが叶うと云われている、そうだ。


『よいしょっと! これ意外と軽いわねっ』
願いごとが叶うかも・・・


道端に彼岸花が咲いていた。
気温はまだ高いが、秋を感じる。


12時24分、新渡神社(にわたりじんじゃ)に到着した。
鳥居の前に大きな欅の木が植えられている。
本殿はたくさんの杉の木に囲まれていた。


ここまで何事もなく来れたことに感謝しよう。


時間も12時半を回ったことだし、『ここで弁当にしましょうっ』
神社の社務所と公民館を兼ねた建物が日除けになり、弁当を食べるにはちょうど良い具合である。


宇都宮駅で買ったそぼろと鶏肉の駅弁(700円)は、なかなか美味かった。


日光社寺まで18Km、日光市街(今市)まで10Kmの表示。
『記念に撮っておこう』


”杉並木”の文字が入った看板が出てきた。
間もなく「日光街道杉並木」が始まるのだろうか。


道が二手に分かれていた。
左は国道119号のバイパスで車がひっきりなしに走っている。
ここは、右側を歩くべきであろう。


右手を少し進むと並木寄進碑が建てられていた。
松平正綱が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑である。
この碑は日光神領の境界に建てられているので、境石と呼ばれている。
杉並木の起点となる神橋畔および、各街道の切れる今市市山口(日光街道)、同小倉(例幣使街道)、
同大桑(会津四街道)の4ヶ所に建っている、そうだ。


待ちに待った杉並木の始まりである。
車は杉並木に沿ったバイパスを通ることになっている。
杉並木は一応車は通れるが、一方通行になっており、車は極めて少ないことから、ここを歩くことにした。


杉並木の中は気温が低くて本当に気持ちが良い。
『杉並木を歩くのは最高の気分だわねっ』
『ここを歩かなきゃ日光街道を歩いたことにはならないよねっ』
次第に「日光街道」を歩いているんだという実感が湧いてきた。


杉並木があるところは、”保護地域”、住宅などがあるところは”普通地域”となっている。
特に保護が必要な場所は”特別保護地域”に指定されている。


119号線が全てバイパスになっている訳ではない。
バイパスのないところは杉並木に沿った草むらを歩く個所もある。
草むらを歩いていたら、何度か蛇を見掛けた。
『早くバイパスが出来ると良いわねぇ』


水無一里塚
日本橋より32里目の一里塚。
杉並木街道の中にあり、両塚とも僅かだが原型を残している。


水無の地蔵堂
ちょうど杉並木の途切れる付近に、数体の石仏などに取り囲まれるようにして、お堂が建っていた。


お堂の中には赤い頭巾と衣を着せられたお地蔵さんが祀られていた。


杉並木の右側を歩いたり、


左側を歩いたり、119号線を縫うように歩く。


バイパスが整備されているところは杉並木の真ん中を歩く。
一日も早くバイパスが完成し、歩道が整備されることを望むばかりである。


来迎寺(らいげいじ
今市宿の如来寺の末寺。永正十四年(1517)の創建、だそうである。


日光杉並木街道
日光街道・ 例幣使街道・会津西街道の三つの街道からなり、総延長37㎞ もある並木道。
古いものでは樹齢380年を超える杉の巨木が約12,500本も連なる壮大な並木で、我が国で唯一、
特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けている。
ギネスブックにも世界最長の並木道として掲載されるなど、貴重な文化遺産である。


旧今市市七本桜の一里塚
日光街道、33里目の一里塚である。
塚上の杉は、根元が腐って空洞ができており、大人4人程度ならば入れることから、並木ホテルと呼ばれている。


実際に空洞の中に入って見ると、5-6人は楽に入れる大きさである。
『いやぁ、この空洞はでかいねぇ』


JR日光線をくぐると・・・


今市宿の追分も近い。


16時4分、今市宿の”追分地蔵”に到着した。


地蔵堂の大きさは、東日本でも有数とのこと。
全員無事に到着できたことに心から感謝のお参りをしよう。
少し賽銭も弾んでおくことにした。


日光街道と日光例幣使街道との追分(分岐点)に位置していることから、”追分地蔵”の名で親しまれている。


この日宿泊する「ホテルつたや」は追分地蔵からほんの数分のところにあった。
16時11分、「ホテルつたや」に到着。
ほぼ予想していたとおりの時刻である。


チェックインの前にホテルの前で整理運動だ。
『いっちにっ さんっしっ』


ひと風呂浴びてさっぱりしたところで、夕食である。
『皆さん、大変お疲れさまでしたぁ』
『かんぱ~いっ!』


街道歩きで宿泊するのは初めてだが、いつものメンバーで顔なじみである。
これまで歩いてきた想い出に浸りながら話しに夢中になった。


部屋に戻った後も、話は続き、時の経つのも忘れ、遅くまで盛り上がった。


『明日は最終回、東照宮目指して頑張ろうっ』
足の古傷が痛んで、杖をついての歩行だったが、最後まで皆さんと一緒に楽しく元気にゴールを目指したい。


ウマさんの「日光街道を歩く」 ”の目次へ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日光街道を歩く 第8回 宇都宮宿~徳次郎宿

2013年07月03日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2013年7月3日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の”街道歩き”を望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

第8回目となるこの日は、宇都宮宿(JR東北線宇都宮駅)から徳次郎宿(六本杉)までの約15Kmを歩いた。
(宇都宮駅から日光街道と奥州街道の分岐点の追分までの約2Kmを含む)
当初予定していた6月19日(水)が雨で延期となり、1週間後の26日も雨で再度の延期を余儀なくされ、
3度目の正直で、この日実施することになった。

水戸線友部駅で小山行き電車を待つ。
ホームには通学の高校生がいっぱい。


小山行き電車が入ってきた。


水戸線車内
笠間駅を過ぎると車内は空席が目立つようになる。


水戸線終点の小山駅で東北線宇都宮行きに乗り換える。


東北線車内
この日の参加者は10名となった。


笠間から乗車したD子さんは、娘さんを連れての参加である。
このような飛び入り参加は大歓迎だ。


9時40分、出発地の宇都宮駅に到着した。


2週続けて延期となったが、この日も天気はあまり芳しくない。
NHK,Yahoo,Weathere NEWSによると、昼頃には”雨”の予報も見られた。
この日ストレッチ担当のUさんは都合が悪くて不参加である。
そのため準備体操は省略し、少しでも先を急ぐことにしよう。
9時55分、徳次郎宿目指して、いざ出発だ!!


ギョーザの幟がたなびく宇都宮市内を進む。


田川を渡る頃、宇都宮駅を出発して間もないのに雨がパラついてきた。
『予報より随分と早いんじゃないの???』


まだ傘を差すほどではないが、この先雨中行進になるかもしれないと思うと、気が重い。


二荒山神社前を通過。
前回、お参りを済ませておいて良かった。


宇都宮市内伝馬町付近を進む。


『これ、追分の標識じゃない?』
『日光街道と奥州街道の分岐点だとしたら、ここを曲るんだねっ』


文字が擦れていて読みづらい。
他には特に標識らしいものは何もないし、もう少しで見過ごすところだった。


清住町通り(旧日光街道)を進む。
ところどころに旧い建物があり、旧日光街道の面影が感じられる。


この日最初に立ち寄った三峰神社
天保三年(1832)武州三峰山(火防の神)の分身を頂き建立祭祀したのが始まりと云われている。


宝勝寺


宝勝寺
鎌倉時代に宇都宮景綱が蓮池の底から救い出した阿弥陀如来のために草庵を建てたのが開基という。


宝勝寺に参拝の後、少し進むと・・・
道の反対側に立派な門が見えた。


桂林寺(左)と琴平神社(右)が隣り合わせて建っている。


立派な門の桂林寺
応永三年(1396)の開山で、元和六年(1620)に現在の場所に移された。
境内には蒲生君平の墓がある。


琴平神社
四国で有名な金比羅さんが祀られている。


黄鮒の最中が売りの「たまき」
建物は古いが、昭和51年(1976)「四季の器と工芸品の店」として創業したというから比較的新しい。
昔、宇都宮に天然痘が大流行したことがあり、当時は良い薬もなく、人々は成り行きに任せる以外に方法がなかった。
ある人が田川で黄色の鮒を釣り、これを病人に食べさせたところ、不思議にも天然痘が治ってしまっただけでなく、
黄鮒を食べた人は病気にかからなかったそうだ。
しかし、黄鮒はそう簡単に釣れるものではないため、張子のキブナが初市で売られるようになった。
以来、宇都宮では新年に黄鮒の張子を神棚に飾り、無病息災を祈る習慣が残っているのだそうだ。
平成16年、宇都宮の郷土玩具「黄ぶな」をモチーフにした最中を「たまき」が創作。
以来改良を重ねて現在第7世代の黄鮒になっている、とのこと。


清住通りと国道119号線が合流する松原3丁目交差点
横断陸橋を渡って道路の反対側へ


母親に『今日の距離は短いから』と誘われて参加したと言う。
元気いっぱい、にこやかな顔が可愛い。


陸橋から桜通り(宇都宮市街地)方向を見たところ。


栃木県体育館前を通過。


中戸祭付近、確かこの辺りに「宝の木」があるはずなのだが・・・
近くの人に訊ねるが、誰も知らないとのこと。
近くを手分けして探し回り、大分時間を費やしてしまった。


「宝の木」は諦めて、先を急ごうとしたところ、
ちょうど目の前に交番があったので、会員の一人が念のためにと聞いてみることに。
巡査も知らなかったそうだが、親切にも近所の年配の物知りの方を紹介してくれたと言う。
直ぐに年配の人がやって来た。
「宝の木」なるものを探していることを伝えると、『自宅に本がある筈』と家に引き返してしまった。
しかし、なかなか戻ってこない。
せっかくの好意なので、断らずに立ち去る訳にもいかない。


年配の人が戻って来るのを待つこと15分。
ようやく戻ってきたが、本は探し出せなかったようだ。
『「宝の木」は直ぐ近くだから』と案内してくれた。
最初から案内してくれれば良かったのに・・・


探していた「宝の木」は、栃木医療センターの敷地内にあった。
かつて案内してくれた方が通った小学校が近くにあったそうだ。
『これが「宝の木」かぁ』
『もっと大木かと思ったけどそんなに大きくないねぇ』


寛文十年(1670)頃、この辺りに六軒と呼ばれた集落があり、広さ約100㎡、高さ約4mの
古墳のような大塚があり、そこに老木が一本あった。
名も知れぬまま当時の住民は「宝の木」と呼んでいたという。
明治の土地割の際には、この地区をこの木にちなんで宝木村と称したという。
猿の手柏(コノテカシワ)の木で樹齢は450年だそうだ。


栃木医療センター入口に桜の古木があった。
推定樹齢は不明だが、案内してくれた氏の先祖が植えたものだそうだ。


氏に丁重にお礼を述べ、先を急いだ。
『何とか「宝の木」を観ることができて良かったよねっ』


ほどなくすると、並木道が始まった。
櫻や杉など何種類かの木が植えられている。


中央は車専用で、歩行者は両側の一段高いところを歩くようになっている。


上戸祭(かみとまつり)一里塚
江戸日本橋から28里目の一里塚。
昭和58年に一部修復、整備がなされた。


道路反対側にも一里塚の碑が建てられているが、碑があるだけだ。


こちらは昭和59年に一部修復、整備がなされた、とある。


一里塚のほぼ正面に大学のキャンパスがあった。


上戸祭一里塚を観た時には時計は12時を少し過ぎていた。
お腹も空いたし、ここらで弁当にしよう!
幸い宇都宮市内を通り抜ける頃から雨は止んでいた。
『外で弁当が食べられるのは、ラッキーだね』


親子で弁当タイム、まるで姉妹のように仲良く、微笑ましい。


昼食後、日光を目指し、日光街道(国道119号線)を進む。
並木道はまだ続く。


並木道を過ぎると日光街道は広くなった。
気温が上昇し、大分汗をかくようになってきた。


光明寺
鎌倉時代に野沢大夫が僧・宥憲を招き石塚の地に玉塔院を建立、これが寺のはじまりとされる。
万治三年(1660)に記録類は焼失。
寛文十一年(1671)醍醐光台院より僧・早開が来住し現在地に移建し光明寺に改めた。
将軍の日光社参時の休息所となった寺で、寺の前には立場があった、とのこと。


光明寺の楼門の鐘楼
堂々たる構えの門は将軍が立寄ったという風格が漂う。


鐘楼の観音像が印象的である。
関東三十三観音霊場・第二十三番札所、関東八十八ヶ所霊場・第二十三番札所にもなっている。


光明寺にお参りしていこう。
ご本尊は大日如来だ。
源義経を慕う静御前が当地を訪れ、守本尊の薬師仏を納め、手にしていた桜の杖を塚にさして
義経の武運長久を祈願し、後に杖から芽が出て大木となった、との言伝えがある、そうだ。


境内には弘法大師像がある。
「南無大師遍照金剛」


ビルマの鐘
太平洋戦争に宇都宮の部隊がビルマに遠征し、悪戦苦闘の末、多数の将兵が戦病没した。
その50回忌に当る平成6年11月、宇都宮仏教会慰霊法要団がミャンマーを訪問した際に、
シュエダゴォンパゴダ(ヤンゴン市街の北側、シングッダヤの丘に建つ100mもの高さを誇る壮大なパゴダ)
から贈られた鐘、とのこと。
木槌で叩くと澄み切った音色が境内に響き渡った。合掌!!


しばらく日光街道を進むとまた並木道になった。


宇都宮北道路(国道119号)
東北道宇都宮IC入口である。


高谷林(こうやりん)一里塚。
この一里塚は、宇都宮城下と徳次郎宿の間に位置し、江戸日本橋から29里目を示す。
昭和58年に一部修復・整備された。


道路反対側は大きなケヤキのような木が生えており、一里塚のようだ。
しかし、雑草が生い茂っていて、碑が建っているのかどうかは反対側からは伺い知ることは出来ない。


東北自動車道だ。
右側が東北方面になる。


『あの茂みが大谷道道標?』
しかし、歩道からは何も見えない。


信号が青になるのを待って植え込みの中を覗き込む。
『あっこれかぁ 大谷道って書いてある』
『これじゃぁ歩いてたら何処にあるのか分からないわよねっ』


植え込みの中にかつての道標がひっそりと置かれていた。


田舎道のような日光街道を進むと・・・


変わった鳥居のような門が目に入った。


奥へ進んで行くと薬師堂らしき建物があった。


薬師堂の回りには、馬頭観世音像や道標などの石像が集められ、並べられていた。


薬師堂の門の向かい側に、徳次郎城跡300mと書かれた看板があった。
『へぇ~っこんなところに城跡があるのかぁ』
しかし、300mほど先ということは、往復600m以上になる。
時間も既に14時半を過ぎており、疲れが出てきたところだ。
ここは寄り道をしている時間はない、『先を急ごう』ということで、徳次郎城跡はパスすることにした。
また、何かの機会があれば立寄ってみることにしたい。


薬師堂近くの道路脇空き地で一息入れる。
最後の休憩だ。


前方にこんもりとした森が見えてきた。
智賀都神社(ちかつじんじゃ)だ。


智香津神社の手前に「日光高原たまり漬け」の店が。
智香津神社は置いといて、皆さん土産に興味があるようだ。何人かは店の中へ。
買い物をしている間に一休み。


智香津神社
鳥居のすぐ後ろに大きなケヤキの木が2本。


樹高はどちらも40m、推定樹齢は700年というから古い。
日光東照宮より300年以上も前から立っていたことになる。


無事ここまで歩けたことへ感謝の念を込めてお参りしておこう。
雨にも降られなかったことのお礼を述べておかなくちゃ。


徳次郎六本杉
道路の分離帯に、往時の杉並木が再現されている。
8本に見えるが、2本は街路灯用の柱である。


15時ちょうど、六本杉バス停に到着した。
今日は思ったより疲れたので、この日はここをゴールにしておこう。
次回はここから歩くことになるのだ。
『今日は大変お疲れ様でしたぁ』


15時5分発の宇都宮駅行きバスは貸切状態である。


40分ほどで、宇都宮駅に到着した。
この後、東北線・水戸線・常磐線を乗り継いで家路についた。



この日の徳次郎宿で「日光街道」(千住宿から日光東照宮までの約140Km)の約85%(120Km)を歩いたことになる。
残りはあと約20Kmとなった。
次回はいよいよ最終回、「日光杉並木街道」を歩くことになる。
徳次郎六本杉を出発し、今市で一泊。翌日日光東照宮を目指す予定である。
最後まで皆さんと一緒に楽しく歩き、元気にゴールを目指したい。


ウマさんの「日光街道を歩く」 ”の目次へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日光街道を歩く 第7回 石橋宿~宇都宮宿

2013年05月22日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2013年5月22日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の”街道歩き”を望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

第7回目となるこの日は、石橋宿(JR東北線石橋駅)から宇都宮宿(JR東北線宇都宮駅)までの約16.5Kmを歩いた。
5月15日(水)を予定していたが、足を痛めてしまい、めに大事をとって1週間延期してこの日となった。

水戸線友部駅で小山行き電車を待つ。


水戸線車内
この日の参加者は9名だ。
15日に実施した場合は、参加者は11-12名になったと思う。
延期したために逆に都合が悪くなって、参加できなくなった人もいるので、大変申し訳ないと思っている。


水戸線終点の小山駅で東北線に乗り換える。


東北線車内
通勤ラッシュも終わり、車内は空いていた。


9時25分、出発地の石橋駅に到着し、駅前広場へ。
先月、小山駅から石橋駅まで歩いたので、記憶に新しい。


石橋駅前でUさんの指導によるストレッチで準備運動。
2時間半も電車を乗り継いだので、十分に身体をほぐすことが重要だ。


9時45分、奥州街道との分岐点、宇都宮宿目指して、いざ出発!!


先ずは石橋山開雲寺で旅の安全を祈願していこう。
開雲寺は、真言宗智山派の寺院で、宝亀十二年(781)に恵雲律師により、開山されたと伝えられている。


金剛力士像2対を配した山門を入る。


本堂前に左右6体づつ並んだ羅漢像の表情が豊かで面白い。


江戸時代に入って、将軍家の日光参詣の休憩所となり、寺紋に葵を使用している。
葵紋入りの湯釜、家光直筆の書状などが残っている。
本尊阿弥陀如来座像(県指定有形文化財)や三体地蔵尊が安置されている、とのこと。


国道4号線を進む。


この日は、殆ど国道4号線を歩くことになり、街道歩きとしては、やや退屈な道である。
また、立寄り所が道の左右に点在しているので、車の交通量が多い道をいちいち横断するのは大変だ。
場合によっては、割愛することもあるだろう。


コンビニがあったので、お昼の弁当を買って行くことにした。
いつもはかみさんが弁当を作ってくれるのだが、この日は早朝から出掛けてしまって、
コンビニ弁当で我慢するしかない。


上三川町(かみのかわまち)の西の外れを通過。
直ぐにまた下野市に入ることになる。
この日は気温が29℃近くになるそうで、朝から暑い。
特に女性陣は直接太陽に当らないようにと暑さ対策には気を遣っている。


下野警察署の先に、「本陣」の兜武者が廃墟となって残っていた。
ラーメンやそばを商売していたらしいが、見るも無残な姿である。
何で出来ていたのか気になって触ってみたら、堅めの発砲スチロールだった。
処分に困ってそのままになっている、ようだ。


星宮神社に到着


星宮神社は、鞘堂新田村の鎮守とされている。
祭神は、磐裂神(いわさくのかみ)、根裂神(ねさくのかみ)、經津主命(ふつぬしのかみ)だそうである。
Webの情報によると、この神社近くに鞘堂地蔵尊があることになっているのだが、見落としてしまったようだ。


再び下野市に入った。
前方に見えるのは北関東自動車道である。


北関東自動車道を通過。


宇都宮まで11Kmの表示
まだ1/3ほどしか歩いていない。


宇都宮市に入った、と言っても宇都宮市は広い。
まだほんの南の端に辿り着いたばかりであり、先は長い。


陸上自衛隊宇都宮駐屯地
石橋駅を出発した時から上空を飛ぶヘリコプターが気になっていたが、自衛隊の訓練飛行だったようだ。


少し前から電柱にお菓子屋の看板が現れるようになった。
奥さんや娘さんに土産物は欠かしたことがないUさん。
「銘菓かち栗」が気になってしょうがない。


”この日の土産に”と、目の前に停まった車に店の場所を訊ねている。近くに店があるらしいのだが・・・
しかし、店までやや距離があるとのことで、仕方なく諦めた様子・・・
『宇都宮に行けば何かあるよねっ』


雀宮宿本陣小倉家跡。
現在は西松屋の敷地になっており、駐車場入口に「雀宮本陣跡」の石碑が立てられている。


雀宮本陣の国道4号を隔てた斜め向かいに、黒い屋敷門と立派な屋敷が脇本陣だった芦谷家がある。


門は堅く閉ざされていたので中には入れないのかと思ったが、黒い板塀の脇から中へ入れるようになっていた。


主屋の玄関は重厚な造りになっており、格式の高さが伺える。
主屋には玄関の式台、上段の間が残されているという。


11時43分、雀宮神社に到着。


社伝によると、長徳元年(995)藤原実方が陸奥守として赴任途中休憩したこの地で、
後を追ってきた妻の綾女が病死した。
遺言で持っていた宝珠を埋め、産土神として祀ったのが神社の始まり、とある。


その後、赴任地の陸奥で実方がなくなると、その霊魂が雀となってこの地に飛来したので
綾女と実方を合祀し雀宮と称した、そうである。


時計は11時45分を少し回っていた。
この先弁当を広げられる場所を思いつかないため、ここで弁当にしよう。


12時40分、自衛隊航空学校前バス停を通過
自衛隊航空学校は、航空科隊員に対する教育訓練を主要任務としている。ヘリコプターが多い訳だ。
本校は三重県伊勢市の明野駐屯地にあり、宇都宮校(北宇都宮駐屯地)は、分校になっている。
分校は他にも霞ヶ浦校(霞ヶ浦駐屯地)がある。


道路の反対側に寿鶴薬師堂(すずやくしどう)らしき建物が見えた。
横断歩道も見当たらないし、面倒なので、写真だけにしておいた。
ちょっと派手だが、薬師如来でも安置して祀っているのだろうか?


菅原神社
菅原道真翁を祀る神社。


”学問の神様””天神様”と呼び親しまれ、全国各地に「菅原神社」「天神様」と呼ばれる神社が建立されている。


一里交差点
「東京街道」は、宇都宮市の池上町交差点以南の国道119号および国道4号の通称らしい。
全員でキョロキョロしながら気を配って進んだのだが、江曽島一里塚跡を見落としてしまった。


これからはバラの季節である。
大輪のバラが美しく咲いていた。気持ちを和らげてくれる。


ここからは東京街道の標識から日光街道の標識に変わった。
日光まで31Kmの表示に『もうそんなに来たかっ』と喜んだのは束の間・・・


次の表示では、日光の社寺まで41Kmとなっていた。
『31Kmは少し近過ぎると思ったよ』


JR日光線の線路を跨ぐ。
この先が目的地の日光なのだと思うと、少しばかり元気が出てきた。


不動尊


旧奥州街道と奥州街道との分岐点にあり、宇都宮に入る目印となっていた。


不動明王(大聖不動)は高さ50cmの石像で宇都宮朝綱の建立といわれる。


東武日光線を通過


蒲生君平勅旌碑(がもうくんぺいちょくせいひ


蒲生君平は学者・尊王家として知られ、1808年に天皇陵について考証した山陵志を著わした。
明治天皇の命により宇都宮藩知事の戸田忠友奉行が1869年に蒲生君平の遺功を追賞したもの。


新町のケヤキ
樹齢は推定800年というから凄い。
江戸時代から宇都宮城下の入口に立っており、旅人の目印となっていた。


樹高は43mあるそうだ。
見上げるとその大きさ(高さ)が分かる。
栃木県指定天然記念物。


幹の太さは7.9mもある。
『でっかいわぁ』
これほどの大木はそうはお目にかかれるものではない。


戦前まではこのようなケヤキが3本あったが、一番大きなこの木を残して供木したため、
現在はこの木だけが残っている。
この後1,000年、1,500年と残って欲しいものである。


台陽寺(たいようじ)の子安地蔵尊


台陽寺の門を入ると・・・


右手に地蔵堂が建てられている。


六地蔵
六道輪廻とは、生命は六種の世界(地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上)に生まれ変わり、
それを繰り返す、という考え。
六体の地蔵菩薩が人を救い導くと考えられている。


慈母観音像
「ほほ笑みを 浮かべし慈母の御姿に 信徒の幸を祈りつつ はげみて止まん 禅の道」


本堂にお参りして、


戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓の前の休憩所で一休み。


熱木不動尊


康平二年(1059)宇都宮宗円が多気山頂上に陣を張ったとき、
戦勝を祈願して彫った三体の不動の一つだという。
中は公民館になっていた。不動尊と公民館が仲良く共用されているのは珍しい。


一向寺
宇都宮景綱を開基として、建治二年(1276)に創建された。
この寺の阿弥陀如来坐像は、汗かき阿弥陀といわれ、宇都宮家に凶変がある時は仏体に汗が流れるといわれた。
応永十二年(1405)に造られたとされ、国の重要文化財に指定されている。


材木町通り
前方に追分の裁判所前交差点が見えてきた。


14時53分、裁判所前交差点に到着。
この先右手の清住町通りが日光街道と奥州街道の分岐点に当る追分である。
日光街道歩きは、ここでいったんゴールであるが、宇都宮駅まで歩くことにする。


宇都宮駅までまだ約2Kmほどある。
先週痛めた足がまた痛くなってきたがここは自分の足で歩くしかない。


伝馬町本陣跡
江戸時代、この辺りに200坪ほどの大きな本陣があった。
東北地方の大名の参勤交代のときや、将軍の日光東照宮参詣の際の供者の宿舎として使われた、とある。


二荒山神社だ。
ここは寄らずに通り過ぎるわけにはいくまい。


宇都宮宿まで無事歩き終えた報告をしていこう。


田川を渡ると宇都宮駅はもう直ぐだ。


15時35分、宇都宮駅に到着した。


宇都宮まで来たからには名物の餃子を食べねばなるまい。
駅前には何軒かの餃子屋があったが、駅東口の餃子屋へ行ってみることに。


「宇都宮餃子館」へ、と言っても周りはみな同じ「宇都宮餃子館」となっている。


『今日は、大変お疲れ様でしたぁ』
『かんぱ~いっ』
歩き終えた後の一杯は格別だ。


餃子(12種食べ比べ)は、なかなか美味しかった。
まだいくらでも食べられるが、そうもいかない。
名残惜しかったが、宇都宮餃子館を後にして宇都宮駅に向かった。



この日の宇都宮宿で「日光街道」(千住宿から日光東照宮までの約140Km)の約75%(106Km)を歩いたことになる。
残りはあと約34Kmとなった。
次回からは国道4号線と別れ、本格的な「日光街道」になる筈だ。
最後まで皆さんと一緒に、楽しく元気に歩き、ゴールの日光東照宮を目指したい。


ウマさんの「日光街道を歩く」 ”の目次へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日光街道を歩く 第6回 小山宿から石橋宿へ

2013年04月17日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く

2013年4月17日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の”街道歩き”を望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

第6回目となるこの日は、小山宿(JR東北線小山駅)から石橋宿(JR東北線石橋駅)までの約15.5Kmを歩いた。

常磐線・水戸線を乗り継いで出発地の小山へ。
この日の参加者は11名。(水戸線車内)
2名が体調不良のため急遽参加を取りやめることになったのはちょっと残念である。


9時15分、小山駅に到着。


小山駅前でUさんの指導によるストレッチ運動で身体をほぐす。


入念に身体をほぐして・・・
『いっちにっ さんっしっ』
このストレッチ運動をやれば、疲れがあまり出ないそうである。


9時25分、石橋宿目指して、いざ出発!!


小山駅前から国道4号線方向へ真直ぐに伸びる「祇園城通り」に。


祇園城通りを100mほどして右折すると旧日光街道(県道265号)になる。


最初の訪問地は元須賀神社
前回は、須賀神社には参拝を見送ったので、元須賀神社にはお参りして行こう。
鳥居をくぐると、参道?両側には一般の住宅が並んでいた。珍しい参道である。


参道の先に小さな神社が祀られていた。
前回パスした須賀神社は当初はここにあった、そうだ。
元須賀神社は、江戸時代には牛頭(ごず)天王社、元祇園社、本祗園社とも呼ばれていた。


これが正式?な神拝の作法ということだろうか?
・先ず軽く一礼
・次に深く二礼
・次に合掌し二拍手
・次に合掌し祈りを申す(祈りのことば)
・次に合掌し二拍手
・次に深く一礼
・次に軽く一礼
普通、神社で見かける参拝の作法(二拝・二拍手・一拝)は、簡略されたもののようだ。


旧日光街道を進んで行くと、左手に興法寺が。
天台宗の寺院で、山号を徳王山妙薬院と号する。
興法寺の参道を進む。


興法寺の山門(薬医門)をくぐって境内に入る。


興法寺の本堂
興法寺は、嘉祥二年(849)、慈恵大師が室(むろ)の八島への途中、
小山荘に一宇を建立し妙楽院と号したのが始まり。
徳川家光より九石の寺領を寄進されたと云われている。
本尊は阿弥陀如来。


山門を入ってすぐ左手に朱塗りの鐘楼がある。
鐘楼の足元に六地蔵(地獄・峨鬼・畜生・修羅・人・天)が祀られている。


興法寺妙薬院


興法寺本堂横に墓地があり、ちょうど八重桜が満開の状態になっていた。


興法寺の墓地入口には墓を見守るようにお地蔵様が。


興法寺前の道路の向かい側に愛宕神社が。
横断歩道がなく、渡るのは危険なため、写真だけに止めて先へ進む。


祇園山天翁院てんのういん)の入口道標
天翁院は、小山祗園城跡の一角にあり、小山氏の菩提寺としても有名な古刹だそうである。


境内の広さは1万5千坪に及ぶ、とのことで、どのようなものか見ておきたかったが・・・


県道からやや距離があったため、写真だけにした。
道標の先に鬱蒼とした叢林のような森が見えるが、あそこが天翁院だろうか?


県道265号線を北へ進む。


県道265号のほぼ直線の道が続く。


両毛線の線路を渡る。


両毛線は、小山市の小山駅から前橋市の新前橋駅までを結ぶ。
思川方面(新前橋方面)を見たところ。
両毛線にはまだ乗ったことはない。


村社日枝神社の鳥居


参道のでっかい欅の木は樹齢400年以上だとか。
『うわぁ これはでかいゎ』
思わず感嘆の声が上がる。


樹齢400年以上と云われる欅の大木3本が参道に並んでいる。
人と比べるとその大きさが分かろうというものだ。


日枝神社の本殿は、国道4号線を渡らなければ行けない。
本殿の隣は、祗園城の北の守りである木沢(喜沢)の砦があったそうで、
現在も土塁がその跡をとどめている、との情報に何とか一見したかったが、
参道の続きなのだが、何故か国道4号線が走り、交通量が多く横断歩道も見当たらないため、横切るのは諦めた。
道路の反対側から一礼二拍手するに止めた。


国道4号線との合流点近くに馬頭観音の碑があった。


日清、日露、日支戦争に駆り出された馬(出征)の碑(供養塔)も。
『この辺りは、昔は名馬の産地だったんだろうねぇ』


この近くにある筈の「喜沢一里塚碑」を訊ねるが、良く分からないとのこと。


国道4号線と合流し、きょろきょろしながら進むが、結局日本橋から21番目の「喜沢一里塚碑」は
見つけることが出来なかった。
『見落としちゃったのかしら』


国道4号線をさらに北上する。


道路右側に橿原神社があった。
ここは、横断歩道があるので、安心して渡れた。


参道の八重桜のトンネルがまさに満開状態なのが嬉しい。
参道両側のぼんぼりが、何となく関西方面の寺社を連想させる。


『きれいだし、風情があって良いわねぇ』


橿原神社の本殿
橿原と言えば奈良の樫原神宮を想いだすが、
説明板によると、往古、この地の氏神様は「星宮神社」であった。
明治五年、敬神の念篤き氏子等が集い、九州は宮崎神宮より御神霊を勧請し、
「橿原神社」と名を改め創建された、とあるので、奈良の橿原神宮は関係なさそう。


神社の境内でお年寄りがゲートボールを楽しんでいた。


国道4号線に戻って北へ進む。
道路の看板が賑やかになってきた。駅が近いのだろう。


11時55分、小金井駅を通過。
(小金井駅前交差点から小金井駅を望む)


小金井駅の少し先に日本橋から22番目の一里塚「小金井一里塚」があった。
『いやぁこれが小金井一里塚なんだぁ すばらしいねぇ』


小金井一里塚は、今でも二つの塚がほぼ完全な状態で残っている。
日光道中で唯一国指定の史跡に指定されている。


時計は11時59分を指していた。
お腹も空いたことだし、小金井一里塚で弁当にしよう!


慈眼寺の山門


山門をくぐと左手に弘法大師作と伝えられる千手観世音を奉安する観音堂があった。
御利益がありそうな観音堂である。
しっかりとお参りしていこう。お賽銭も弾んでおかなきゃ。


境内右手には鐘楼が。


慈眼寺本堂
建久七年(1196)新田義兼の開基で新田一族の祈願所として建立された。
ご本尊は十一面観世音。厄除の観世音で知られる。


慈眼寺境内で一休み。


慈眼寺の隣が、金井神社である。


金井神社の拝殿


本殿の建築様式は一間社三方入母屋造と云われている。
壁面には透彫りや丸彫りなどの彫刻が施されている、そうだがよく分からない。


国道4号線沿いで見かけた小金井宿の旧い蔵造りの家。
地震などの影響だろうか、かなり傾いているのが分かる。


国道4号線をさらに北上。


日光街道は、東北線・新幹線とも並行しているので、電車が通過する度に独特の音が聞こえてくる。
その音はトラックなどとは違うので、すぐに分かる。
昼でも聞えるということは、かなり大きな音なのだ。


道端のお地蔵さん。
どこか違うと思ったら、手にしているのは十字架だ。
十字架を手にしたお地蔵さんは初めて見た。


13時28分、自治医大駅を通過。
ゴールの石橋駅は、次の駅、1時間もあれば到着するだろう。


新幹線の向こうに自治医科大学が見える。


自治医大駅を過ぎると、松並木が現れた。


1Kmほど続く赤松の松並木は、下野市の名木30選に指定されている、とのこと。


道端の芝桜が鮮やか。
今の時期は、色んな花がいっせいに咲いて、目を楽しませてくれる。


慈母観音像は、丸大食品の敷地内に建てられていた。


門の前で、最後の休憩を摂る。
皆さん、大分疲れた様子だが、ゴールはあと少しだ、頑張ろう!!


お馴染みの丸大食品のマーク


国道に背を向けた石仏群
江戸期は、この石仏群の前が街道であったが、開発によって道すじが変わり、
現在は、国道に背を向ける形で建っている。


正面から観ると・・・


国道352号線下を通過


『大きくて見事などうだんつつじだねぇ』
『これだけ大きなどうだんつつじは見たことがないよ』


道路標識に「石橋駅」の表示が現れた。
あと少しで、ゴールだ。


その前に石橋愛宕神社に立寄っていこう。


石橋愛宕神社の境内はかつては古墳だった、そうだが、境内は平でその面影は全く感じられない。


石橋愛宕神社の神楽殿は、夏祭り(おみこし広場)の写真で覆われていた。
とても賑やかな祭の様子が伺える。
7月14日(土)は去年なので、今年は7月13日(土)かな?


石橋駅の標識(0.2Kn)が見えた。


国道4号線を右折し、石橋駅に向かう。


駅前に栃木名物の「かんぴょう」を売る店があった。


珍らしさも手伝ってか、一人が買うと他の人も買いたくなるものだ。
かなりの数の「かんぴょう」が売れたのでは・・・


石橋駅のシンボル、時計台が印象的だ。
人形が動くところを見てみたい。


時計台から駅前の道路を見たところ。
次回の宇都宮宿へはここから歩くことになる。


東北線で、小山駅へ。
少し疲れたが、この日のコースを歩き通した満足感に浸っている様子。


小山駅からは、水戸線に乗り換える。
小山駅構内のコンビニで買いこんだ冷たい飲み物で喉を潤し、満足・満足
『今日は大変お疲れさまでしたっ』



この日の石橋宿で「日光街道」(千住宿から日光東照宮までの約140Km)の約六割(92Km)を歩いたことになる。
「日光街道」歩きも次第に佳境を迎えることになる。
最後まで皆さんと一緒に、楽しく元気に歩き、ゴールの日光東照宮を目指したい。


ウマさんの「日光街道を歩く」 ”の目次へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする