ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

一度は行くべし迎賓館 新宿新都心から神宮外苑

2018年11月30日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年11月30日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第26回(2018年第36回)、「新宿新都心から神宮外苑」ウォーキングに参加した。

この日のコースは、JR新宿駅をスタートして先ず新都心の中心である都庁に向かい、45F展望室へ。
都庁からの眺望を楽しんだ後は新宿中央公園の熊野神社に参拝して、明治神宮へ向かう。
明治神宮を参拝したら、原宿駅前を通り、明治神宮外苑へ。
最後は迎賓館の庭を見学して、四谷駅で自由解散する、という約11Kmのコースである。

荒川沖駅7時59分発の電車を待っているところ。


日暮里駅で山手線に乗り換える。
この日の参加者は、土浦駅、荒川沖駅、ひたちの牛久駅から合せて21名となった。


9時40分、新宿駅に到着。


新宿駅中央西口から、


先ずは都庁へ向かう。
新宿に来たからには都庁からの眺望は外せない。
『いやぁ 楽しみだねぇ』


通勤者の脚の速いこと速いこと・・・
『とてもあのスピードには付いて行けないよねっ』


都庁が見えて来た。


9時54分、都庁に到着
展望室専用エレベータのある第一本庁舎一階へ。


北展望室専用エレベータ
現在、南展望室は改修工事中のため、北展望室だけしか使えない。


10時3分、北展望室(第一本庁舎45F)に到着
多くの観光客で賑わっていた。
10時30分まで各自自由に見学してもらうことにした。


都庁展望室からの眺望(1)


『素晴らしいわねぇ』


都庁展望室からの眺望(2)


外国人が多い、というより外国人だらけと言った感じである。
いろんな国の人がいる。
日本人は全体の2割程度といったところだろうか。


都庁展望室からの眺望(3)


『富士山が見えるっ』


都庁展望室からの眺望(4)


新宿中央公園の一角にこれから行く熊野神社が見える。


展望室には土産物店がたくさん。


鎧や兜は外国人観光客に人気があるのだろう。


下りのエレベータを待つのに行列が出来ている。
定員18名の専用エレベータは2機しかないのが、混んでいる原因か。


2F出口のエレベータ前で全員が揃うのを待っているところ。


全員が揃ったところで、10時31分に都庁を後にして、


横断陸橋を渡り、


新宿中央公園へ。


熊野神社を目指す。


新宿中央公園内を進む。


振り返って仰ぎ見ると都庁がよく見えた。
『さっきまであそこまで上って観たんだよねっ』


10時37分、熊野神社本殿に到着した。
この日の無事安全を祈願した。


熊野神社の鳥居を潜り、


中央公園内を進む。
『紅葉が良い色をしてるねぇ』


角筈区民センター前交差点を表参道方面へ。


『今日は最高の天気よねっ』
『だけどちょっとお日様が眩しいわねっ』


国道20号(甲州街道)の西参道口交差点を横断
頭上を走っているのは、首都高4号新宿線である。


表参道方面へ。


後ろに聳えるのは新宿パークタワー(地下5階、地上52階、高さ235m)だ。


参宮橋を渡り、


代々木ポニー公園を過ぎると、


明治神宮の鳥居があった。
参宮橋口(西口)と思われる。
『この鳥居から入るのは初めてだよねっ』


西参道を進んで行くと、前方に西の鳥居が見えて来た。


御手洗で手を洗い清め、


西の鳥居を潜り、続いて西神門を潜って、


御社殿内へ。


参拝をしていると、


ちょうど神前結婚式の花婿・花嫁が、神職と巫女に導かれて、静々と通り過ぎて行くところだった。
(慌てて走って行って撮ったのがこの1枚で、正面からは撮れなかった)
回りには大勢の観光客がカメラやスマホで撮影していた。


明治神宮への参拝を終え、南神門(楼門)を潜って原宿駅方面へ。


表参道の砂利道へと進む。


大鳥居を潜って、


神宮橋を渡ると、


直ぐ左が原宿駅だ。


原宿駅を左横に見ながら進むと、右手に竹下通り(Takeshita Street)が見えた。
せっかくだから歩いてみようということに。
竹下通り(1)
『竹下通りってよく聞くけど初めてだよっ』


竹下通り(2)
『いやぁ 随分賑やかだね~っ』


竹下通り(3)
『とてもじゃないけど我々世代は付いていけないよねっ』


竹下通り(4)
『一言じゃ言い表せないよねっ』


竹下通りを抜け、明治通りに出たところで、この後進むべき道が分からなくなった。


左手に東郷神社の入口を見ながら進み、


明治通りの神宮前一丁目交差点で一休みしている間に、みんなでスマホなどで進むべき道を
確認し合った。


『多分こっちの道じゃないっ?』
明治通り神宮前一丁目交差点を右に折れて進むと・・・


外苑西通りの神宮前三交差点に出た。


交差点を左に折れて外苑西通りを進むと、前方に新国立競技場の屋根らしきものが見えて来た。


外苑西通りをさらに進み、仙寿院交差点を右に曲がると、新国立競技場の工事現場辺りに出た。


新国立競技場を左に眺めながら進む。
『かなり出来上がってるって感じだねぇ』
『楽しみだね~っ』


『やっぱりこの前の鹿島サッカースタジアムよりでかいよっ』


左に新国立競技場、右に神宮第二球場の間を明治神宮外苑へ。


新国立競技場の東端を左手に見て、


交差点を右に曲がると明治神宮外苑だ。
神宮外苑はもともと青山練兵場があった場所。
後に明治天皇の葬場となり、そこに「明治天皇の業績を後世にまで残そう」という趣旨で建設された
洋風庭園である。


聖徳記念絵画館は、大正八年(1919)着工、大正十五年(1926)竣工の鉄筋コンクリート2階建てで、
外壁は花崗岩貼り。
明治天皇の業績を当時の一流画家による80枚の絵画で後世に伝えるという趣旨で建設された、そうである。


聖徳記念絵画館前広場の馬のようにも見える像を見上げながら進むと、


ウォーキング運動発祥記念碑があった。
日本ウォーキング協会は、東京オリンピック開催中の1964年(昭和39年)10月17日に、
ここ新宿区の明治神宮外苑絵画館前から世田谷の東京五輪記念世界青少年キャンプに向けて
第1回大会を開催しました。
私たちは、運動発足40周年を記念して、八田一朗初代会長による機関紙の題字「あるけあるけ」を掲げ、
ウォーキング運動発祥記念碑といたします。
2004年(平成16年)10月17日 (社)日本ウォーキング協会


明治神宮外苑の外周を銀杏並木の方面へ。


銀杏並木
『いややや~っ これはまた凄い人だな~っ』


大勢の人が銀杏並木に向かって撮影していた。


青空に映える銀杏の黄葉が美しい。


当初の計画では銀杏並木の反対側から入って来て並木を歩くはずだったが、逆方向から来た形となった。
ここでめいめい銀杏並木の美しさを堪能して、引き返す形で迎賓館へ向かった。


『天井が開いているはとバスに乗ってみたいわねっ』


外苑東通り権太原交差点を横断し、


迎賓館を目指して真っ直ぐに進む。
進行方向の右は東宮御所(赤坂御用地)、左は明治記念館になる。


赤坂御用地内には現在、東宮御所の他、秋篠宮邸、三笠宮邸、寛仁親王邸、高円宮邸、
並びに赤坂東邸(旧東宮仮御所)といった各宮家の邸宅や皇室の施設が点在する。
このため、常時警備の警察官が立ち、監視している。
『ご苦労さまですっ』


安鎮坂(あんちんざか)
この付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名前になった。
武士の名からできた付近の地名によって「権田原坂」とも呼ばれている。
「権田原坂」以外にも「権太坂、権田坂」、「信濃坂」などの別名がある。


安慎坂を進み、迎賓館(赤坂離宮)へ。


13時7分、迎賓館入口から入り、受付へ進む。


何と、足下を首都高速4号新宿線が走っているのには驚かされた。


受付へ進むと・・・


手荷物検査を受ける。
飛行機に搭乗する時と同じような内容の検査が行われる。
ペットボトルや水筒の飲み物は、検査官の前で実際に飲むことが義務づけられている。


入場券300円を払って迎賓館の主庭へ。


迎賓館本館
外国からの賓客を接遇する外交の場である。
明治期の建築・美術界の総力を結集して東宮御所として建設され、国宝に指定されている。


記念植樹
旧ソ蓮ゴルバチョフ大統領の記念植樹
右側に米国フォード大統領の記念植樹も。


主庭の前に噴水がある。


迎賓館本館、および


噴水は国宝に指定されている。


噴水を通して本館を望む。
『絵になるね~っ』
『凄すぎてお腹が空いてたのを忘れちゃってたよっ』


主庭園内を歩く。
『主庭園だけでも見ることが出来てほんと良かったわよね~っ』


本館
『いやぁ ほんとに凄い、立派だよな~っ』


名残り惜しそうに本館前を通り、


玉砂利を踏みしめながら出口へ向かう。


出口を抜けると・・・


迎賓館正面の広い前庭に出た。
迎賓館は、かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった場所に10年の歳月をかけて、
明治42年(1909)に東宮御所(皇太子の居所)として建設された。


正面から本館を見たところ


迎賓館本館全体


本館前の広場


中門を通り、正門へ。


正面に正門が。
『TVなどで見るのはこの正門なんだねっ』


迎賓館正門
国宝に指定されている。


迎賓館正面の外堀通りを四谷方面へ。


間もなくゴールの四谷駅だ。


13時49分、ゴールの四谷駅前に無事到着
この日は、ここで解散することにした。
(写真は四谷見附交差点)
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『気をつけて帰って下さいね~っ』


四谷駅周辺の食事処を探す。


意外にも四谷駅周辺には食事処は少ない感じ。
ようやく見つけた一軒の食事処だったが、LO(ラストオーダー)を過ぎるからということで、別の店を探すことに。


そばが良いかラーメンにするか?
『このラーメン屋にしようっ』 TKさんの一声でラーメン店へ。


ラーメン店「四谷商店」


食事風景(1)


食事風景(2)

この後、中央線で東京駅に出て、常磐線に乗り換え、帰路に就いた。

今回は、”新宿新都心と神宮外苑のみち”ということで、
JR新宿駅をスタートして、都庁展望室、新宿中央公園、熊野神社、明治神宮、明治神宮外苑、迎賓館と巡り、
ゴールの四谷駅までの約11Kmのコースを歩いた。
紹介されていた本によると、やや長い距離なので、2日間に分けて歩くことを薦めていたが、
何とか1日で無事歩き切って一安堵している。

都庁の展望室に初めて上った。
天気に恵まれて素晴らしい景色を観れたのは幸いだった。
今回は、迎賓館の庭園(主庭・前庭)だけを見学したが、機会があれば本館内部も見たいものである。

この日の万歩計は、18,000歩を超えていた。

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特選街道Ⅱ 第5回 甲州街道(金沢宿~下諏訪宿2日目)

2018年11月26日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年11月26日(月)

平成27年(2015)1月から翌年(2016)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
『是非続けて欲しい』との声があがり、今年(2018)は「旧街道を歩くⅡ」と称して、
新たな”街道歩き”を始めた。

「旧街道を歩くⅡ」第五回(2日目)は、甲州街道下諏訪宿(鉄鉱泉本館)から上諏訪宿(JR上諏訪駅)
までを歩いた。

2日目の朝
朝食を摂った後、しっかりとNHK朝ドラを見て、


8時40分、「鉄鉱泉本館」を出発!


先ずは諏訪大社下社秋宮へ向かう。
この日の参加者は、5名となった。


下社秋宮の大鳥居から本殿に向かって礼拝!


大鳥居の前から下諏訪の町を見下ろす。
『今日も良い天気だねっ』


下社秋宮の参道(八幡坂)を下る。


八幡坂の大社通り交差点を左折してしばらく進むと、


8時59分、中央本線の踏切に到着した。
右手に下諏訪駅が見える。


踏切を渡り、


諏訪湖岸へ向かう。


諏訪湖岸へ


小さな川に沿って湖岸へ向かう。


川の流れは透き通っていてきれいだ。
川底に生えている藻の緑が美しい。


9時13分、諏訪湖岸に到着
「鉄鉱泉本館」から30分余かかった。


諏訪湖は一周約16Kmとある。
約4Km毎に目標物が定められている。
現在地は一ツ浜公園で、反時計回りで上諏訪駅を目指す。
従って今日は、一周16Kmの3/4(12Km)を歩くことになる。


9時15分、先ずは4Km先の釜口水門を目指し、湖岸歩きのスタートだ。


湖岸を進む。


沖合を5人乗りの競技ボートが滑るように進んで行く。


湖岸にはたくさんのボートが並べられていた。


『思ってたより寒くないわねぇ』


9時30分、一ツ浜公園から1Km地点を通過
この後、1Km毎にこのような標識が現れる。


釣り桟橋で釣りを楽しむ人たち。
この時期の狙いはワカサギなのだろうか。


砥川橋を渡ると、


少しだけ舗装がされていない区間になった。
しかし歩くのに何の支障もない。


お地蔵さん
『こんな所にもお地蔵さんがあるんだねぇ』
『簡単な説明があると良いのにねぇ』


IW子さんが、「鉄鉱泉本館」に水筒を忘れて来た、とのこと。
『今まで大事に使ってきたものなので、取りに引き返したい』と言う。
IW子さんには、「鉄鉱泉本館」から上諏訪方面へ向かってもらい、上諏訪駅近くの湖岸で会うことにした。


9時51分、一ツ浜公園から2Km地点を通過


諏訪湖ハイツ前を通過


D51349号
岡谷市が昭和51年に国鉄から貸与を受け、展示している、とのこと。


横河川白鳥橋を渡る。


対岸方面を見るが、曇っていて富士山は全く見えない。


白鳥飛来南端の地碑
『ここから南は白鳥は飛んで来ないってことなんだねっ』


『スポーツ施設なのかしらっ?』
岡谷市市民総合体育館の西体育館と思われる。


かなり広々とした公園だ。


湖岸を歩く2人


10時5分、一ツ浜公園から3Km地点を通過


塚間川湖岸第一橋を渡り、


10時18分、岡谷湖畔公園の見晴らし広場で一休み。


岡谷湖畔公園には子供用の遊具などもある。


希望の広場のモニュメントを過ぎると、


10時34分、一ツ浜公園から4Km地点の釜口水門に到着した。
一ツ浜公園を9時15分に出発し、休憩も入れて1時間20分弱かかったことになる。


釜口水門


釜口水門は、諏訪湖の水が出て行く唯一の水門で、天竜川となり、
その先は静岡県になり、太平洋へ注がれている。
『へ~っ 天竜川は諏訪湖が源流になるんだぁ』


対岸には、八ヶ岳連峰が見える。


釣り糸を垂らしたままになっていた。
バケツを覗いてみると、ワカサギが。


近くに竿の持ち主がいた。
ほぼ毎日どこかで竿を出している、そうである。


1日に釣ったのは最高5Kgほどで、これまでに釣った魚は50Kg、5万匹以上だとか。
スマホに収めた写真を自慢げに見せてくれた。
『いや~っ 凄いね~っ』
釣り名人に別れを告げ、次の4Kmへ。


「琵琶湖周航の歌」の作詞者小口太郎の像が建てられている。


次の4Km先のガラスの里を目指し、湖岸を進む。


湖岸に浮かぶのはビニールで覆われた釣り船だ。
『あれなら寒くはないだろうねっ』


湖岸を進む。


10時52分、釜口水門から1Km地点を通過


『のどかで良いねぇ』


川鵜ものんびり


湖面に浮かぶビニールで覆われた釣り船に人影が見える。
『ワカサギ釣りのファンはけっこう多いんだねっ』


11時5分、釜口水門から2Km地点を通過


上諏訪駅方面を望む。
湖面に釣り船が浮かぶ。


直ぐ隣を県道16号が走る。


11時18分、釜口水門から3Km地点を通過


湖岸を進む。


右手の小高い丘の上に見える建物は中央自動車道諏訪湖SAだ。


11時30分、県道16号石舟渡交差点に到着
釜口水門から休憩なしでおよそ55分かかった。


ここからは「さざなみロード」とある。
IW子さんから上諏訪駅に着いたとの連絡が入った。
上諏訪駅から湖岸へ向かってもらい、湖岸で落ち合うことにした。


「さざなみロード」を進む。


諏訪ガラスの里が右手に見える。


「さざなみロード」を進む。


11時46分、諏訪ガラスの里から1Km地点を通過


クリーンレイク諏訪で一息入れていこう。


鴨池川橋を渡る。


続いて宮川橋を渡ると、


「すわっこランド」が見えて来た。
「すわっこランド」は、屋内外にあるプールの他トレーニング施設や上諏訪温泉を引湯した温泉施設、
飲食などができる休憩室など多目的な施設ということである。
『諏訪湖の周りにはいろんな施設があるな~っ』


今度は舟渡川を渡る。
この辺りは諏訪湖に流れ込む小さな川が多い。


男性陣2人が湖岸を歩き、自分は「さざなみロード」を進む。
こうすれば、どちらかがIW子さんと合流できるだろう。


12時6分、諏訪ガラスの里から2Km地点を通過


原田泰治美術館はあいにく休館日だった。


原田泰治美術館
諏訪市出身のグラフィックデザイナー・画家の原田泰治の作品を中心に展示する市立の個人美術館。


上川大橋の手前に到着し、


振り返ると、湖岸をIW子さんがみんなと一緒にやって来る。
湖岸を歩いてる途中にみんなと合流したのだ。


12時16分、これでようやく全員が揃った。


島崎川に架かる「ふなっこ橋」を渡り、


上諏訪駅方面へ。
高島城は、次の信号を右折するようだ。


県道50号を横断し、土産物店の横を通り、高島城方面へ。
『食事処かと思ったら土産物店だったのかぁ』
近くにレストランなどは見当たらない。
この分では食事は高島城を見学した後になりそうだ。
お腹が空いてきたがしばらく我慢しよう。


高島城を目指し、県道50号を進む。


県道50号高島4丁目交差点を左折し、高島城へ。


『正面の林辺りが高島城のようだねっ』


城の勝手口(搦手にあたる)である土戸門(つちどもん)を入ると、


左手に神社があった。


諏訪護国神社である。
明治三十五年(1902)に諏訪招魂社として設立され、明治~昭和の戦没者を祀っている。


高島城は完成当時、城 のまわりは湖水と湿地に囲まれ、あたかも諏訪湖中に浮かぶようであったので、
別名「諏訪の浮城」と呼ばれた。
400年ほど前の慶長三年(1598)、豊臣秀吉の家臣日根野織部高吉により築城され、
その後は高島藩三万石・諏訪氏の居城としてその威容と要害堅固を誇ってきた。


天守閣近くに石集配湯枡が
享和三年(1803)第七代藩主忠粛(ただかた)の頃、城内三の丸浴場に引湯のため木樋を継ぎ、
集湯・配湯をした石枡である。
(諏訪市)


高島城は続日本100名城に認定されている。
天守閣への入場料は300円だ。


高島城内へ
明治八年(1875)に取り壊された天守は、昭和45年に復元され、内部は資料館と展望台になっている。


天守閣東側展望テラスからの眺め。


天守閣東側展望テラスからの眺め(パノラマ)


天守閣西側展望テラスからの眺め。


天守閣西側展望テラスからの眺め(パノラマ)


角櫓
本丸には3つの櫓が建てられていた。
そのうちの一つが復元され、内部は茶室として利用されている、そうである。


冠木門跡
本丸の表門にあたり、現在は楼門が復元されている。
冠木橋を渡ったところに冠木門があった。
冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門のことをいうが、
高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門と呼ばれる屋根付の門であったことが分かる。
おそらく、当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、名称のみ残されたものであろう。
(諏訪教育委員会)


冠木門正面の冠木橋からの眺め(角櫓)
鉄砲狭間が設けられている。


冠木門正面の冠木橋からの眺め(天守閣)
天守閣が堀際に聳えるのは珍しい。


冠木門正面からの眺め(パノラマ)


高島城を後にして、三の丸橋を渡って上諏訪駅へ。


右手に見えるのは宮坂醸造丸高工場である。
丸高味噌・醤油の工場だ。


醸造元 神州一味噌株式会社とある。
『かつてTV-CMでよく見た神州一味噌の会社なんだぁ』
あいにくこの日は休みだった。


けやき並木を上諏訪駅方面へ。


中央線の踏切を渡る。


左手に上諏訪駅が見えた。


線路沿いの食事処を探す。


13時26分、1軒の小さなラーメン店を見つけた。
麺屋 宮坂商店という豚骨ラーメン店だった。
食事風景(1)


食事風景(2)


豚骨スープだったが、意外にあっさりしており、お世辞抜きで美味かった。


上諏訪駅で土産物を見て回る。


『りんごは重いから止めとこうねっ』
彼女たちが何を買ったかは分からない。


13時58分、上諏訪駅に到着した。
次の上りの特急は14時13分発のあずさ20号だ。


ホームで電車を待つことにした。


14時16分、数分ほど遅れて特急あずさ20号がやって来た。
自由席には楽に座れた。
新宿には15時33分に到着した。

『皆さん 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧街道を歩くⅡ」第五回目甲州街道(金沢宿~下諏訪宿)(2日目)を歩き終えた。

旧甲州街道は昨日で歩き終えたので、この日は甲州街道の最終日ということで、
諏訪湖の残り3/4周を歩いた。
昨日は上諏訪から下諏訪まで歩いているので、一応諏訪湖を一周したことになる。

この日の万歩計は24,000歩を超えていた。

特選街道Ⅱ 第5回 甲州街道(金沢宿~下諏訪宿1日目)

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特選街道Ⅱ 第5回 甲州街道(金沢宿~下諏訪宿1日目)

2018年11月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年11月25日(日)

平成27年(2015)1月から翌年(2016)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
『是非続けて欲しい』との声があがり、今年(2018)は「旧街道を歩くⅡ」と称して、
新たな”街道歩き”を始めた。

「旧街道を歩くⅡ」第五回(1日目)は、甲州街道金沢宿~下諏訪宿間を歩いた。

新宿7時ちょうど発の特急スーパーあずさ1号に乗車


全員2号車の座席を指定購入したが、かなり空席があった。
この時期(11月下旬)は、普段でもそれほど混んではいなのだろう。
自由席でも良かったかな。


定刻に発車した特急スーパーあずさ1号は、9時8分、茅野駅に到着した。


茅野駅構内には国宝「土偶」の”縄文のヴィーナス展”のポスターが。



こちらは”仮面の女神”


前回最後に立ち寄った茅野駅前の諏訪神社大鳥居
この日はここがスタートとなる。


9時21分、茅野駅前の諏訪神社大鳥居を出発!
この日の参加者は自分を入れて6名である。
1名が入っていないが、5名が揃ったところを撮るのはなかなか難しい。


大年社(おおとししゃ)
諏訪神社上社の末社である。
祭神は大歳神で、祀られた年代は明らかでない。
(中略)


御座石神社同様、御柱を建てず、代わり七年ごとに素朴な鳥居を建てるなど、古風を多く残している。
国指定史跡(平成6年12月指定)となっている。
(茅野市教育委員会)
旅の無事安全を祈願した。


旧街道は少し進むと国道20号に合流する。


国道20号を進んで行くと、小さな鳥居があった。


八幡神社である。
八幡神社は古くは八幡宮とよばれ、当社の由緒書によれば、既に鎌倉時代弘長年中(1261~1264)に
前上社大祝諏訪盛重が鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を分霊し、八幡山極楽寺を別当として、神祭祈祷を盛んにし、
さらに戦国時代永禄年中(1558~1570)、鎌倉より光明寺を移し、極楽寺とともに別当し、
社地は数町歩に及び、上原城下町の中枢として広く諏訪一円から崇敬された。


八幡神社の真後ろに大きなケヤキの木が聳えているのが特徴的である。


国道20号上原頼岳寺交差点に少林山頼岳寺の石柱が建っている。


中央本線の線路を潜って進むと、


突き当たりに頼岳寺があった。
頼岳寺は、曹洞宗(禅宗)に属し、本山は永平寺(福井県)と総持寺(神奈川県)である。
開創は江戸時代初期の寛永八年(1631)で開山(初代住職)は大通関徹、開基は高島藩初代藩主の
諏訪頼水である。


総門を潜って参道を進む。


参道両側の杉並木は、かつては目通り幹周り3.5m、推定樹齢300年の大木が立ち並んでいたが、
昭和九年の室戸台風及びその後の台風によって多くの木が倒れた。
現在は同樹齢の木は少ないが、境内の杉木立と合せ、頼岳寺の由緒と風致の上からも貴重なものである。
(茅野市教育委員会)


石段を上り切ったところが山門である。


山門の仁王像(阿像)


山門を潜ると正面に大きな屋根の本堂が構えている。
『いやぁ 凄い立派な本堂じゃんっ』


本堂にお参りし、頼岳寺を後にする。


旧甲州街道を進む。
右手は一段高い地形のためか石垣が多い。


神戸(ごうど)温泉の貯水タンク
硫黄の匂いが漂う。
『本物の温泉だねっ』


地元の女性が収穫したばかりの野沢菜を温泉水で洗っていた。
この温泉は、共同で上諏訪から引いているとのこと。


火燈(ひとぼし)公園
諏訪地方にいくつかある、火燈伝承のある場所の一つ。
火燈伝承のあるいくつかの地点の中心に位置することから、地域の人達によって「火燈公園」
と名付けられたという。
神戸村では御柱年の盆の十五日(七月)のタ、頼重院の裏山、前山の峰に近い「火燈場」で、
諏訪大社へ鳥居火を灯して、奉納した。
かつてこの背後の山上で上社のための火が燈され、それを偲ぶものがこの火燈公園ということのようである。


10時34分、諏訪頼重の菩提を弔う頼重院前を通過。
諏訪頼重は、武田信玄と戦って破れ、甲府に連行されて自刃した。
頼重の妻は信玄の妹であり、まさか義理の兄が攻めてくるとは頼重も思っていなかった。
頼重は桑原城で篭城し、これを大軍で囲んだ信玄は、和睦を打診した。
これに応じた頼重は、城を出た後に甲府に連行され、そして自刃させられた、そうである。


また別の温泉を利用した地域の洗い場があった。
この温泉は硫黄の匂いはしなかった。


石に囲まれた双体道祖神と秋葉山常夜灯
この辺りでは道祖神と秋葉山常夜灯がセットになっているようだ。


道端に小さい神社があった。
神ノ木神社とも呼ばれているそうだ。
御柱もあり、小さいながらも存在感を漂わせる。


神ノ木神社の直ぐ先に一里塚碑があった。
日本橋から51番目の神戸一里塚である。
塚上の榎は8~9mほどの大木で、旅人にとってはよい目標や休憩所となり、
野良に働く里人達にも親しまれたが、明治時代に入ってから取り壊された。


旧街道を進む。


大きな常夜灯が。


常夜灯は三叉路の真ん中に建てられていた。


突然視界が開けた。


上諏訪方面の市街地が見える。
『諏訪湖はまだ見えないねぇ』


11時ちょうど、足長神社に到着
『いやぁ 随分急で長い石段だね~っ』
『ここから拝んじゃおうかなっ』


『ちょっと写真だけ撮ってきますっ』
皆さんを代表する形で足長神社の鳥居を潜って社殿へ向かった。


急勾配の石段を上る。


女性2人も後を追って上って来たが、次に振り返るとその姿は見えなかった。
諦めて引き返したようだ。


石段を上ると、車が通れるほどの道路があり、道路の反対側へと拝殿への石段が続いていた。


さらに石段を上って行くと、拝殿らしき建物が見えて来た。


足長神社拝殿に到着、参拝!
この拝殿の裏の一段高い所に本殿があるそうだが、このときは気が付かなかった。


下りの途中、道路から見下ろした上諏訪方面の景色


道祖神?
暗くて中はよく見えなかったが、


ストロボで撮ると、双体道祖神だった。


これはまた別の道祖神
2つの道祖神が並んでいるようにも見える。


11時28分、細武温泉共同浴場前を通過
『共同浴場があるってのは羨ましいねぇ』


この道祖神は新しいようだ。


ここでも野沢菜を洗っていた。
今が野沢菜漬けの最盛期なのだろう。


11時37分、旧街道は国道20号に合流した。


しばらく国道20号を進む。


古い蔵造りの家
”呉服の「かねさ」”の商号が見える。


山田養蜂場
『TVのCMでよく見るあの会社っ?』
『上諏訪が本社だったのかぁ』


店頭右手にいろんな形の蜂の巣箱が並べられていた。


宮坂醸造セラ真澄
『「真澄」って有名でけっこう人気がある酒だよねっ』
『試飲すると歩くのがおっくうになるからなぁ』
ということで試飲のために立ち寄るのは断念。


宮坂醸造セラ真澄の向かいに十王堂跡の碑が。
この十王堂は、初代諏訪藩主諏訪頼水に誅殺された男の首を、地元の人が祟りを恐れて建てたもの、とのこと。
明治の神仏分離令により廃寺となってしまった、そうである。


貞松院の門を潜る。
お昼前の休憩場所を探していたところ、たまたま通りかかったので立ち寄ってみた。


門を入ると延命地蔵尊像があり、
「延命地蔵経」には地蔵尊を信仰すれば、次の十種の福に恵まれることが説かれています、とある。
①女人泰産 女性はやすらかなお産が出来る。
②身根具足 身体が健康で丈夫になる。
③衆病悉除 諸々の病気が回復する。
④寿命長延 寿命は長くなる。
⑤聡明知恵 聡明で智慧が備わる。
⑥財宝盈溢 財に恵まれる。
⑦衆人愛敬 多くの人に愛される。
⑧穀米成熟 穀物など豊作となる。
⑨神明加護 神仏に守護を得る。
⑩證大菩薩 悟りを得る。 


史跡 松平忠輝廟の碑
松平忠輝は、徳川家康の六男で、妻は伊達政宗の娘・五郎八姫(いろはひめ)。
家康からは嫌われていたようだ。
また、伊達政宗は忠輝をかついで天下を狙っていたという話もあり、家康もそれをずっと警戒していた。
大坂夏の陣の後改易となり、いろいろな場所を巡った後、諏訪に幽閉され、天和三年(1683)
この地で亡くなった。93歳の長寿だった。


貞松院本堂


本堂前で一休みして、


旧街道を進む。


手長神社の鳥居
足長神社の長い石段で懲りているので、手長神社は鳥居の前から参拝した。


うばがふところ
説明板によると、
上諏訪郵便局のあたりは”うばがふところ”と称し、清水湧き温泉出する福地であり、
和泉町の名の由来ともなりました、とある。
『温かい御手洗水だねっ』


12時24分、諏訪教育会館前を通過すると、


右手に吉田の松が。
高島藩士吉田式部彦衛門が元禄三年(1690)から享保八年(1723)、藩主忠虎の大阪城守備に
随行したとき持ち帰ったものと伝えられる。
代々吉田家の庭園に育てられていたものを、昭和の始め旧甲州街道沿いに移植したものであり、
市内の最年長樹である。
『いやぁ 枝振りが見事だね~っ』
『ちょっと大きい盆栽って感じだねっ』


甲州道中五十二里塚
甲州道中は、江戸から甲府が表街道、甲府から下諏訪が裏街道と呼ばれ、下諏訪宿で中山道と合流していた。
ここに一里塚ができたのは慶長十五年(1610)頃と言われている。
この塚は江戸から52里で、西は下諏訪町富部の53里塚、東は四賀神戸の51里塚へと続いている。
(諏訪市教育委員会)


お昼を過ぎ、かなりお腹が空いてきた。
上諏訪駅へ行けば何らかの店はあるだろうと考え、上諏訪駅方面へ。


駅前の寂れた感じの裏通りを抜け、


12時40分、上諏訪駅に到着
駅近くの食事処の情報を元に、


駅前の「いずみ屋」というレストランへ。


この店で一番人気があるというみそ天丼セット(1,000円)を注文


皆さんみそ天丼セットである。


女性もみそ天丼セットだ。


一里塚(甲州道中五十二里塚)碑まで戻り、あらためて旧街道を進む。


崖の上の家
『いやぁ あんな崖っぷちの家に住んでて怖くないのかなぁ』
『見晴らしは良いんだろうけどねぇ』


直ぐ先に旧勾配の石段があった。
『こんな石段を上り下りするのは大変だよぉ』


13時40分、温泉寺への入口を通過すると、


先宮神社があった。
先宮神社の創立は古事記の「国ゆずり」の神話の一節にみえる。


先宮神社拝殿
諏訪神社の祭神「建御名方命」が、出雲より洲羽(諏訪)の地に遷御された以前より、
すでに原住民の産土神であった。


先宮神社拝殿


拝殿脇には諏訪市指定の天然記念物「大欅」がある。
『ケヤキのこぶは珍しいよねっ』
目通りの幹周7.45m、樹高25m、枝張(長径)25m、(短径)15mで、樹齢650年と推定される。
古来「大樹は人を育てる」といわれ有名な巨樹である。
(諏訪市教育委員会)


旧街道を進む。
寿量院500m先の案内板が。


道端に注連縄が巻かれた古木があった。


御神木のようだ。
『幹の半分がえぐれてるけど樹勢は旺盛なんだねっ』


御神木の傍にひっそりと立つ道祖神


『ようやく諏訪湖が見えたね~っ』


14時7分、清谷山寿量院の山門に到着


寿量院本堂
浄土宗の寺院で、ご本尊は阿弥陀如来だそう。


本堂の右手に文殊稲荷と枝垂桜が。
枝垂桜は、元和元年(1615)大坂夏の陣に二代藩主諏訪忠恒公が出陣し、
戦勝記念に桜を持ち帰り移植したものが、この枝垂桜と伝えられている。
(温泉寺・貞松院にも植えられている)
(説明板)


見晴らしの良い場所を進む。


古そうな家が並んでいた。


甲州道中茶屋跡(橋本政屋)
「橋本」と書かれた行燈が見える。
連子格子の家で、脇の門は高島城三ノ丸の門を移築したもの。
欄間には鯉の彫刻が施されている、とのこと。


また別の古そうな家を過ぎると、


四隅を小さな御柱に囲まれた道祖神が。


諏訪大社下社秋宮を目指し、旧街道を進む。


諏訪湖全体を見下ろす。
『こうやって見るとけっこう大きいよね~っ』


高層マンション「プチモンド諏訪レイク」前を通過
『見晴らしは最高だろうねっ』


石投場碑(右)
碑には南信八名所石投場と刻まれている。
往時は足元が湖面であった為、ここで石投げを興じた。
昔は石を投げれば諏訪湖に届くような所だったことから名づけられた。
明治天皇駐輦跡碑(左)
明治十三年(1880)、明治天皇ご巡幸の折に、とても風景が良いので思わず車を止めたと云われている。
ここから漁夫たちの投網の様子をご覧になったと云われる。


諏訪大社下社秋宮を目指す。


緩やかな坂道を下って行くと、


一里塚跡碑が。
この塚は江戸日本橋より53番目の一里塚で、甲州道中最終のもの。
あと11町(1100m)で華やかな下諏訪宿に着き、中山道につながる。


旧甲州街道を進む5人


承知川橋石
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
伝説によると、永禄四年武田信玄が川中島の戦の砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し、
社殿の建替えと千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う。
しかし、戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが、乗馬は頑として動かず、信玄ふと先の約定を思い出され、
馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したと言う。
以来承知川と呼びこの一枚石の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。


承知川橋石の左脇に祀られた承知地蔵尊


15時8分、諏訪大社下社秋宮に到着
我国最古の神社の一つであり、信濃国一之宮として、朝廷や幕府の信仰が厚く、
全国一万余の諏訪神社の総本社である。
御祭神は、信濃国の国造りをなされ、日本国土の守護神としてこの地にお鎮りになった。
本殿には後ほど参拝することにして、ひとまず甲州道中・中山道合流之地へ。


15時14分、この日の目的地である甲州道中の終点(始点)と中山道が合流する場所に到着した。


記念撮影を終え、あらためて諏訪大社下社秋宮へ。


根入りの杉
この杉の木は樹齢凡そ六~七百年で丑三つ時になると枝先を下げて、寝入りいびきが聞こえ、
子供に木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止ると云われている。
(説明板)


神楽殿(国重要文化財)
御神前に神楽を奉納するための建物で、天保六年(1835)上社本宮幣拝殿を手掛けた
立川和四郎二代目棟梁富昌により落成した。
三宝切妻造りと呼ばれる様式で幣拝殿のような彫刻は見られない。
正面の大注連縄は御柱祭毎に新しく奉製され、重量は約一トンである。
(説明板)


上社本宮幣拝殿(国重要文化財)
この建物は御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったものである。
二重楼門造りと呼ばれ、二階は跳勾欄(先の反った欄干)を回し、全体に見事な彫刻が施されている。
諏訪高島藩の命により、安永十年(1781)に初代(立川流)棟梁立川和四郎富棟によって造営された。
(説明板)


左右片拝殿(国重要文化財)
安永十年(1781)、初代立川和四郎富棟によって造営された。
幣拝殿に比べ彫刻などは見られず、江戸時代の記録には、幣拝殿は帝屋(御門戸屋)、
片拝殿は回廊と記されている。
(写真は左側で、右側にも対照的に片拝殿がある)


天覧の白松(三葉の松)
昭和天皇・皇后両陛下が行幸の折りに御覧になったと云われる「白松」だが、「三葉の松」
と云われるようである。
日本に自生していた三葉松は数百年前に絶滅して、北アメリカより渡って来たものと云われている。


昭和三十九年五月十二日 昭和天皇皇后両陛下ご参拝
と記されている。


一之御柱
御柱は、寅年と申年の七年目毎に御宝殿の造営と共に建替えられる御神木で、社殿の四隅に
建立されています。
この秋宮一之御柱は、長さ17m余、直径1m余の樅の木で、霧ヶ峰高原に続く東俣国有林に於いて伐採され、
数千人の氏子の奉仕により曳行されました。
御柱祭は、天下の奇祭として有名であり、次回は平成三十四壬寅年に行われます。
(説明板)


前回の中山道歩き(2015年7月20日(月))の際に見つけられなかった三之御柱、四之御柱は、
左右片拝殿の裏側にあることを今回しっかりと確認した。
写真は三之御柱


KKさんとはここで分かれることに。
下諏訪駅16時10分発の特急あずさ号で新宿へ向かうとのこと。
『お疲れさまでしたぁ』 『またご一緒しましょうっ』


KKさんと分かれて、この日の宿泊先「鉄鉱泉本館」へ向かった。


15時38分、中山道下諏訪宿の本陣に到着


本陣岩波家
格式高い門構えの岩波家は、本陣問屋役を元禄元年から明治維新まで務めていた家柄。
現当主は28代目になる。
門の扉は固く閉じられていた。
『この前に来た時も閉まってたよねっ』


温泉ハウス「児湯」を通過
『このお風呂に入ったよねっ』


旧中山道の下諏訪宿へ。


15時43分、「鉄鉱泉本館」に到着した。


玄関ホールでしばし寛ぐ。


一風呂浴びて旅の疲れを癒やした後は、食事の時間である。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧街道を歩くⅡ」第五回目甲州街道(金沢宿~下諏訪宿)(1日目)を歩き終えた。
明日は、鉄鉱泉本館から諏訪湖へ行き、反時計回りで諏訪湖畔を廻ることを予定している。
かねてから甲州街道歩きの最終日は、諏訪湖周遊をと計画していたので、楽しみである。

この日の万歩計は25,000歩を計測していた。

特選街道Ⅱ 第5回 甲州街道(金沢宿~下諏訪宿2日目)

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お地蔵さんがずらり 憾満の路と滝尾の路

2018年11月23日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年11月23日(土)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第26回(2018年第36回)、「憾満の路と滝尾の路(日光)ウォーキングに参加した。

今回は、日光大谷川の憾満ヶ淵を散策する「憾満の路」と、白糸の滝にある滝尾神社を訪ねる
「滝尾の路」を歩くものである。

三中地区公民館で待っていると、


6時46分、常南交通のバスがやって来た。


三中地区公民館を7時ちょうどに出発し、天川団地入口、土浦市民会館へと回り、
今回の参加者23名が揃った。
7時20分、予定通り土浦市民会館を出発し、


7時29分、常磐道土浦北ICを通過


運転手さんによると、朝食弁当の提供元が変わったそうだ。
これまでよりやや大きめのおにぎりだったが、しっかりと握られており、お腹いっぱいになった。
『美味しかった』と高評価だった。


常磐道はいつもより混んでいた。
この日は3連休の初日で、天気は良いとの予報なので当然かもしれない。


7時50分、友部SAで最初の休憩を摂り、


北関東道を走る。


東北道宇都宮JCTを日光宇都宮道路へ。
東北道はそれほど混んではいなかった。


日光宇都宮道路を走り、


9時22分、日光口PAに到着
『素晴らしい天気だよね~っ』


ここで昼食の弁当を受け取った。
この日の弁当は何だろう? 楽しみである。


9時40分、日光ICを通過して、


日光市街地を走る。


車窓に神橋を見ながら進むと、


9時50分、日光総合会館に到着した。
駐車場はほぼ満車状態だったが、中型バスが止まれる場所が一カ所だけ空いていた。
駐車場の係員がダメ出しするのを運転手の押しの一手で押し通し、何とか止めることに成功。
『いやぁ 大した度胸だよねっ』 『自分だったら別の駐車場を探すだろうなっ』


バス運転手さんに、憾満ヶ淵から戻って来た時に、車内で弁当を食べるかもしれないことを伝え、快諾を得た。
この日の日光の予想最高気温は8度前後、天気が良くても8度では寒過ぎるので、バス車内での弁当を
考慮してもらったという次第。
9時58分、TKさんを先頭に憾満ヶ淵を目指して出発!


後に続く皆さん
『弁当を食べる場所を心配しなくて良かったよねっ』


10月5日の「旧水戸街道と戸定邸」以来の参加となるSZ子さん。
今日は腰の状態はかなり良いそうだ。


憾満ヶ淵へ。


大谷(だいや)川に架かる含満大谷橋を渡る。


大谷川(上流)
『この上流が憾満ヶ淵になるんだねっ』


今シーズン目にする最後の紅葉かもしれない。


道端に佇むお地蔵さんの前を通り過ぎると、


西町太子堂があった。
この太子堂には聖徳太子が祀られており、一説には聖徳太子が諸国の名工を集め、
技術の粋を尽くした法隆寺を建設したことにあやかり、技量の向上を願って信仰するようになったという。
古い記録によると最初の祀が建てられたのは元和三年(1617)から安永四年(1775)の間。
嘉永二年(1849)の送帳も残されている。
その後数回建て替えられ、現在の祀は昭和62年(1982)に建設された。
(説明板)


公園のような芝生の広場(ストーンパーク)を進んで行くと、


慈雲寺の山門があった。


慈雲寺の山門を潜ると、右側に憾満ヶ淵が姿を見せた。
水量は多く、流れる水もきれいだ。


慈雲寺本堂
承応三年(1654)に憾満ヶ淵を開いた晃海大僧正が創建し、阿弥陀如来と師の慈眼大師天海の
像を祀った。
当時の建物は明治三十五年(1902)九月の洪水で流失し、現在の本堂は昭和四十八年に復元された。
七月十四日に輪王寺により盂蘭盆会の法要が営まれる。
(説明板)


慈雲寺本堂を過ぎると、路端に赤い帽子を被ったお地蔵さんが並んでいた。
慈眼大師天海の門弟や、有縁の僧俗が「過去万霊・自己菩薩」のために、
親地蔵と石地蔵約100体を刻み「並び地蔵」とした。


苔の緑と赤い帽子が印象的な並び地蔵である。


憾満ヶ淵は、男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝で、古くから不動明王が現れる霊地と云われる。


並び地蔵
行きと帰りで数が異なると云われ、化け地蔵と呼ぶ人もいるそうだ。


憾満ヶ淵
川の流れが不度明王の墓言を唱えるように響くので、晃海大僧正が墓言の最後の句「カンマン」をとり、
憾満ヶ淵と名付けたという。


並び地蔵
いったいいくつ並んでいるのだろう。
列座の奥の親地蔵と他の地蔵のいくつかが明治35年(1902)の大洪水で流失し、
当初100体余りあった並び地蔵は、現在74体しか残っていない、そうである。


霊庇閣(れいひかく)
承応三年(1654)慈雲寺創建のとき、晃海大僧正が建立した四阿造りの護摩壇で、
対岸の不動明王の石像に向かって天下泰平を祈り護摩供養を行った。
この2m余りの不道明王像は今はない。
当時の建物も流失し、礎石のみになっていたが、昭和四十六年に輪王寺によって復元された。
(説明板)


並び地蔵はまだまだ続いている。


『こんなにたくさんのお地蔵さんを見るのは初めてっ』


並び地蔵


これもお地蔵さん?


憾満ヶ淵
護摩壇対岸の岸壁には「かんまん」の梵字が刻まれていたそうである。


並び地蔵を過ぎて進むと、


水門が現れた。


水門を迂回する形で大日橋へ通じる道を進む。


落ち葉に覆われた細い路があったので、これも大日橋へ通じる路だろうと思い、


先を行く人の後を追って進むと、前方に落差のある流れと水門らしきものが見えた。


先ほどと同じような水門があったが、行き止まりになっていた。
先を進んでいた人は忽然と姿を消してしまっていた。
『どこに行っちゃったんだろうねっ?』


『右手には大谷川が流れているし、川に沿って行けば何とか行けるでしょう』
ということで、半ば強引に林の中を進む。


次第に藪の丈が大きくなり、藪をかき分けて進むことに。
『いやぁ これは参ったねっ』


林の中を進み、大日橋を目指すがなかなか辿り着けない。
『この林の中を進んで正解だったのかねぇ』
少々不安になってきた。


林の中を彷徨うこと10分余、糠塚稲荷という小さな社の鳥居を見つけた。


鳥居の前に石段があり、石段を下りると大日橋へ通じる道へ出た。


『最初からこの道を進んどけば良かったんだよねっ』
仰るとおりです。
行き止まりの水門の所で引き返しておけば良かった、と反省しきり。


大日橋へ。


大日橋だ。
『立派な吊り橋だよねっ』


10時49分、大日橋を渡る。


大日橋から日光男体山が見えた。
『山頂はかなり雪が積もってそうだねぇ』


大谷川の下流
この辺りから下流が憾満ヶ淵と呼ばれる景勝になっている。


大谷川を渡り、田母沢御用邸を目指す。


住宅地を進んで行くと、


10時58分、国道120号に合流した。


11時ちょうど、日光植物園前を通過


蓮華石の前を通過
昔、この地域に雄石・雌石など七個の大石があった。蓮華石もその一つである。
これらの石は子供の良い遊び場となったので、「お坊石」とも呼ばれ、子供の守護神とされた。
この石は、蓮華石村(今の花石町)の町名の由来ともなった。
かつてはここにお堂があり、「蓮華石地蔵」が祀られていた。
(説明板)


国道120号を田母沢御用邸へ


11時9分、田母沢御用邸に到着


ここで一休みしていこう。


田茂沢御用邸のベンチで一休み。


田母沢御用邸御車寄
田母沢御用邸は、日光出身で明治時代の銀行家・小林年保の別邸に、当時赤坂離宮などに使われていた
旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部を移築し、その他の建物は新築される形で、明治32年(1899)に
大正天皇(当時皇太子)のご静養地として造営された。


建物の広さは4500㎡、部屋数は106。
明治32(1899)年から昭和22年まで3代にわたる天皇・皇太子が利用した御用邸で、
江戸・明治・大正と三時代の建築が融合し、建築学的にも大変貴重であるといわれ、
これほど大規模な木造建築は全国でも珍しい。


田茂沢御用邸の紅葉
緑と紅のコントラストが美しい。


一息入れた後、田茂沢御用邸を後にして日光総合会館へ。
一休みしていたら、身体が冷えて来た。
『やっぱり寒いねぇ』


国道120号沿いの紅葉(1)


紅葉(2)


国道120号はかなり渋滞していた。


11時33分、日光カステラ本舗前を通過


『日光カステラの看板が目立つねぇ』
『日光名物って言えばやっぱり羊羹だよねっ』
自分はどちらかと言うとカステラの方が好きなのだが・・・


日光総合会館へ


11時38分、バスに到着


バス車内で弁当タイム(1)
『この寒さじゃ外では食べられないよねっ』


弁当タイム(2)
『バスで弁当は正解だねっ』


この日の弁当


12時27分、弁当タイムも終り、後半(滝尾の路)の出発だ!
先ずは神橋を目指す。


右手に大谷川の流れを見ながら進むと、


右手に日光金谷ホテルが見えた。
『一度泊ってみたいわねっ』


12時36分、神橋に到着
神橋は、大谷川に架かる長さ28mの総朱塗りの美橋である。
天平神護二年(766)日光開山の祖、勝道上人一行が、ここの激流を渡れず、神の加護を求めたところ、
赤青2匹の蛇が両岸を結び、無事に渡れたとの伝説がある、そうだ。


続いて日光橋


日光橋前の交差点を横断し、日光山輪王寺へ。


輪王寺入口に建つ勝道上人(しょうどうしょうにん)像
日光山は天平神護二年(766)に勝道上人により開山された。
以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられ、鎌倉時代には源頼朝公の寄進などが行われ、
関東の一大霊場として栄えた。


江戸時代になると家康公の東照宮や、三代将軍家光公の大猷院廟が建立され、
日光山の大本堂である三仏堂と共にその威容を今に伝えている。


輪王寺「三仏堂」はまだ工事中だったが、左半分は修理が終って見れるようになっていた。
右半分は、仮囲いで覆われており、全容は見ることが出来ない。


輪王寺東門を出て東照宮への参道を進む。
大勢の人が東照宮への参道を行き来していた。
ここで記念撮影をと思っていたが、この人混みでは断念するのが賢明だろう。


石鳥居を潜って東照宮表門へ。


この日は、東照宮は表門前までとし、二荒山神社へ向かうことにした。


絢爛豪華な五重塔前を通過し、


二荒山神社の参道(上新道)へ。


二荒山神社の参道(上新道)を進む。


二荒山神社の参道を進むと、山門が。


山門に続いて銅鳥居を潜って進むと、13時2分、拝殿に到着した。
日光の二荒山神社は初めてである。


二荒山神社に参拝!


境内には親子杉、


夫婦杉、


御神木の三本杉などの巨木がある。
いずれも見応えがある。


二荒山神社を後にして、滝尾の路へ。


常行堂(じょうぎょうどう)
嘉祥元年(848)に慈覚大師円仁によって、比叡山延暦寺の『にない堂』に模して建立された。
その昔、常行堂では、常行三昧という仏様の周りを歩きながら念仏を唱える修業が行われていた。
その為、内陣は本尊の周りをぐるりと回れる造りになっている。
現在では、回向(先祖供養・水子供養)の道場となっている。


滝尾の路へ向かう前に二荒山神社の大鳥居をバックに記念撮影を済ませた。


大猷院(たいゆういん)は、徳川三代将軍家光公の廟である。
常行堂前の右手の細い路が滝尾神社方面への入口になっているが、気が付かなかった。


ここが滝尾の路の始まりである。
滝尾神社、白糸の滝の標識が見える。


滝尾の路は、最初は緩やかな上りになっている。


空烟(くうえん)地蔵
勝道上人が男体山に登ろうとして道を探していた時、地蔵尊が現れて導いたと云われる場所。
その八百年後、延宝年間(1675年頃)家光の忠臣、老中阿部豊後守忠秋の墓を家光の
霊廟の一角に造った際、上人の伝えを聞いた阿部家が石像と常夜灯を造立した。
忠秋の墓は、この地蔵と背中合わせの大猷院内にあるが、忠秋が空烟と号したので、
空烟地蔵と呼ばれる。
(説明板)


次第に急な上りになってきた。


樹齢数百年と思しき杉の巨木が続く。


急な坂道を上り詰めた所に輪王寺行者堂(県指定有形文化財)が建っていた。
修験者の修行場として建てられた切妻造りの簡素な建物である。
創建は、平安時代、山岳信仰の盛んな頃と思われるが、現在の建物は輪王寺明細帳によると、
天正三年(1575)桜本坊宗安再興と伝えられている。
その後幾度か修理を経て今日に至っている。
正面の一間は土間で、二間目から一段高くなっており、奥の一間に壇を設けて、
役小角(えんのおずぬ)と前鬼・後鬼二体を配している。
(栃木県教育委員会 日光市教育委員会)


坂道を上りきった行者堂の先で一休みだ。


こんどは滝尾の路の石段を下って行くと、


「大小べんきんぜい」の碑
古くはこの辺りに栃御門(桜門)、下乗石、木の鳥居などがあり、これから先は滝尾神社の
聖域に入るので、大小便を禁ずる碑が建てられた。
庶民にも読めるようにと、「大小便禁制」のうち大小のほかは、「平仮名」で書かれているのが珍しい。
(説明板)


石畳の滝尾の路を進むと、


白糸の滝があった。
天狗沢にかかる高さ約10mの滝。
弘法大師修行の場と伝えられる。
文明十八年(1486)京都聖護院の道興准后が日光を訪れ、その時の紀行文「廻国雑記」に
次の和歌が詠まれている名瀑。
世々を経て 結ぶ契りの 末なれや この瀧尾の たきの白糸
(説明板)


白糸の滝から流れる稲荷川の支流を渡ると、滝尾神社への石段が続いている。


急な石段を上って行くと・・・


別所跡
東照宮の遷座以前、日光参詣の中心はこの滝尾周辺であった。
日光責めで有名な輪王寺の「強飯式」も、ここが発祥の地である。
明治になって別所は廃絶
永正六年(1509)日光に来た連歌師、宗長の紀行文「東路のつと」には、
「ここより谷を見おろせば、院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん」とあり、
盛時の様子が忍ばれる。
(説明板)


影向石(ようごうせき)と石祠
影向とは、神仏が仮の姿をとって、この世に現れること。
弘法大師(空海)が弘仁十一年(820)にこの地に来て、奥の大岩のあたりで神霊の降下を
祈願したところ、美しい女神が現れたと伝えられている。
(説明板)


運試しの鳥居
元禄九年(1696)に、三代将軍徳川家光の忠臣梶定良が奉納したもので、
鳥居の額束の丸い穴に小石を三つ投げ、穴を通った数で運を試したという。
御影石 明神造り


滝尾神社楼門
堂々たる構えである。


滝尾神社(たきのおじんじゃ)
楼門を潜ると重要文化財に指定されている拝殿・唐門・本殿がある。
滝尾神社は日光二荒山神社の別宮である。
元は今の別所跡にあり見事な舞台造りの建物と云われており、日光山の中心として栄えた。
祭神は田心姫命(女峰山の神)
明治の神仏分離までは楼門に空海筆と云われる「女体中宮」の額が架かり仁王像が置かれていたと云う。
また石鳥居の右には鐘撞堂、影向石付近には阿弥陀如来を安置する如法経堂もあった、とのこと。


参拝を終え、滝尾神社を後にする。


白糸の滝を右手に見て、石畳の路を下る。


行者堂への分岐点を過ぎ、


石畳の路を下る。


『ほんと 石畳は歩きづらいわよねっ』


石畳の路は続く。


石畳を嫌った連中は並行する工事用道路を進んでいる。
やはり石畳を歩くより早い。


石畳の路と工事用道路が合流した。


三尊像?と


菅原道真を祀る北野神社の鳥居を過ぎ、


さらに続く石畳を下って行くと、


開山堂(重要文化財)があった。
堂内には約4.5mの地蔵菩薩及び日光開祖勝道上人とその十大弟子の木造が安置されている。
上人は、弘仁八年(817)に83歳で亡くなり、この地に葬られた。
毎年四月一日に開山会が執行される。


開山堂の左側には将棋の駒を飾った観音堂がある。
別名「産の宮」と云う。
将棋の駒の香車は前に進むだけなので、安産と結びつけて妊婦が観音堂の駒を借りて
家の神棚に祀ると無事出産出来るという。
出産したら新しい駒を返納する、そうである。


奉納されている将棋の駒は全て香車であることから香車堂とも云われた。


ゴールの日光総合会館を目指す。


地図には載っていない複雑な小道が多く、やたらと駐車場がある。
どこを歩いているか見当がつかないが、とにかく下って行けば何とかなるだろう。


右折左折を繰り返しながらも何とか神橋近くまで下って来た。


深沙王堂(じんじゃおうどう)
別名蛇王権現
勝道上人一行を山菅の蛇橋(伝説)で渡した深沙大王(毘沙門天)を祀る。


もう少しでゴールの日光総合会館前だ
(後ろに神橋が見える)


国道120号の渋滞が激しい。
『いやぁ 帰りは大変だろうねっ』


地下道を通って、


14時50分、日光総合会館前で待つバスに到着した。


激しい渋滞の神橋交差点を何とか通過し、日光市街地を走る。


15時18分、日光口ICを入り、


日光宇都宮道路へ。


ひととおり周知連絡を済ませ、盛り上がる後部座席へ移動して、仲間に加わった。


皆さんと一緒に盛り上がっていると、いつの間にやら車窓に筑波山が見えて来た。


友部SAで最後の休憩を摂り、


めいめい土産物を買い求め、帰路に就いた。


土浦北ICで常磐道を降り、土浦市民会館前、天川団地入口へと回り、
18時7分、ゴールの三中公民館に到着した。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


日光大谷川の憾満ヶ淵を散策する「憾満の路」と、白糸の滝にある滝尾神社を訪ねる
「滝尾の路」を歩いた。
今回歩いた「憾満の路」と「滝尾の路」は、日光市の『日光ウォーキングガイド』で紹介されている。
日光ウォーキングガイドの全ては回りきれなかったが、どちらもなかなか良いコースだった。

この日の万歩計は、18,000歩を計測していた。

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筑波山ハイキング(旧Y.H跡⇒筑波高原キャンプ場)

2018年11月16日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年11月10日(土)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第25回(2018年第35回)、「筑波山ハイキング(旧Y.H跡⇒筑波高原キャンプ場コース)に参加した。

第一集合場所の乙戸沼公園
乙戸沼公園脇の銀杏の黄葉が美しい。
この日乙戸沼公園に集まったのは、7名。
地元で天気も良いという条件の下、最低でも10名、という予想は見事に外れた。


旧ユースホステル跡に到着したが、直行したのは4名とこれもちょっと少ない。
参加者計11名は今年度最小人数となった。
会員の平均年齢が74歳という現実を考えればやむを得ないことなのかも。


10時35分、筑波山目指して出発!
TKさんは今日も元気だ。


後に続く皆さん。


緩やかな上りの登山道を進む。


関東ふれあいの道の道標
筑波山山頂(御幸ヶ原)まで1Kmの表示。


里程標も1Kmとある。


10時42分、筑波山のカタクリについての看板がある広場に到着。


旧ユースホステル跡から筑波山頂への登山道周辺に大群落があり、春になるとお花畑のように
一面に咲きほこります、とある。
『カタクリはここじゃなくてもっと上の方に咲くんだよね~っ』


カタクリの看板前を通過して上って行くと、


前方からゴムキャタピラー付の運搬車が降りてきた。
山頂近辺で工事が行われているのかもしれない。


運搬車に道を譲り、


坂道の登山道を上る。


落ち葉を踏みしめながら上る。


10時59分、水分補給のため一休みしよう。


各自それぞれ水分補給をして、


再び筑波山山頂を目指す。


木製の階段を上って行くと・・・


11時22分、女体山寄りの御幸ヶ原の茶店裏に出た。
旧ユースホステル跡を出発して40分余りで到着したことになる。
筑波山で一番距離が短い登山道ということを実感。


『意外と早く到着したねぇ』 『もっと時間がかかるのかと思ってたよっ』
やや拍子抜けと言った表情のYMさん。


御幸ヶ原から男体山を望む。
男体山神社へは往復30分余もあれば戻って来れる。


男体山神社へは希望者だけということにしたが、残って待つという人は誰もおらず、
結局全員が男体山へ登ることになった。
健康ウォーキング同好会の意地であろうか。


11時29分、男体山神社へ。


男体山神社への登り口の階段を上り、


急な山道を進み、


男体山神社を目指す。


男体山随一の難所と言える急勾配の岩場が現れた。


急勾配の岩場を上り、


手摺りに掴まりながら最後の急勾配の石段を登ると、


男体山神社が現れた。


11時47分、男体山神社(871m)に到着
(写真は2月に撮ったもの)


全員男体山神社に参拝を済ませた。


男体山神社からの眺望
この日は霞んでいて遠くは何も見えない(北・西方面)


男体山神社の裏から女体山神社とロープウェイ山頂駅を望む。


『足下に気をつけて~っ』
上って来た岩場を下り、


御幸ヶ原へ。


12時6分、御幸ヶ原に到着
往復37分かかったことになる。ほぼ予想通りだ。


御幸ヶ原のあちこちで弁当を広げる風景が。
我々も場所を探したが、御幸ヶ原に点在するベンチは既に満席状態だ。


女体山へ通じる石段辺りが空いていたので、そこで弁当にすることに。


弁当タイム


弁当タイム


山頂の数少ない紅葉が見頃を迎えていた。


これから向かう女体山の方からゴムキャタピラー付運搬車がやって来た。
見覚えがあると思ったら、上りにすれ違った運搬車だった。
どうやら我々が男体山神社へ登っている間に引き返して来ていたらしい。


石段を下るようだが・・・


石段に敷かれた鉄板の上を降りようとしてるが、上手くいくかな・・・
通りかかった登山客が見守るなかゆっくりと進み、


無事石段を降りることができた。
周りは拍手に包まれた。


12時51分、次の目的地女体山を目指して出発!


女体山山頂へ。


12時56分、セキレイ茶屋前を通過。


セキレイ茶屋前のセキレイ石
この石の上に鶺鴒(せきれい)という鳥が止まり、イザナギノミコトとイザナミノミコトの
二神に夫婦の道を教えたという言い伝えがあります。(説明板)


女体山を目指す。


ガマ石前を通過
あの筑波山名物「ガマの油」のガマの口上を考案した永井平助(ひょうすけ)が、
この石の前で口上の文句を考えたと云われており、この不思議な形の石は、
実は江戸時代には「雄竜石(おたついし)」と云われ、その尾は霞ヶ浦に達すると
言われています。(説明板)


鉄塔前を通過し、


キャンプ場コースへの分岐点を過ぎ、女体山神社へ。


13時9分、女体山神社に到着し、参拝!
御幸ヶ原から20分弱かかったことになる。


女体山山頂(877m)には大勢の人が。
見晴らしが良い岩へ乗るのにも順番待ちの状態だ。


岩の上からの眺望(霞ヶ浦)


岩の上からの眺望(男体山とケーブルカー山上駅)


女体山神社の裏を通り抜けてキャンプ場コース分岐点まで戻り、


13時18分、女体山から1.6Km下った所の筑波高原キャンプ場を目指す。


筑波高原キャンプ場へ。


落ち葉に埋もれた山道を下る。


13時32分、筑波高原キャンプ場まで1.1Km地点を通過


つづら折の山道を下る。


筑波高原キャンプ場へ。
『岩がないから歩き易い道だよねっ』


倒れたままになった大木を跨ぎ、


快調に山道を下る。


13時43分、筑波高原キャンプ場まで0.7Km地点を通過


道の両側に熊笹が生い茂る中、キャンプ場を目指す。


13時49分、水分補給のため一休み。


トレイルランニングのランナーが駆け抜けて行った。
『いやぁ 若い人は元気が良いね~っ』
三本松コースで会ったのは後にも先にもこの2人だけだった。
『ほんとにこのコースは人が少ないよねっ』


キャンプ場を目指す。


視界が開けた場所に出た。
キャンプ場は近い。


『いやぁ なかなか良い眺めだね~っ』
『見えてるのは加波山じゃないっ?』


さらに下ってキャンプ場へ。


14時11分、女体山・キャンプ場コース(三本松線)登山口に到着
女体山から50分余かかったが、まあまあの時間だろう。


少し下るとキャンプファイアー場だ。


キャンプファイアー場で最後の休憩を摂り、


14時23分、約1.5Km先の旧ユースホステル跡へ向けて出発!


銀杏の紅葉(黄葉)が鮮やかで美しい。
『きれいな黄色だね~っ』


14時31分、女の川(めのかわ)の源流を通過
筑波山の主峰女体山を源にして真壁町側へ流れているこの川を「女の川」と呼び、
万葉の時代から詩歌に歌われ「恋の川」とも呼ばれていました。
この川は水量豊富でサンショウウオが生息しています。
下流では男体山を源に流れる「男の川」と合流して「男女川(みなのがわ)」となります。
(説明板)


急に視界が開けた。
『いやぁ 素晴らしい眺めだね~っ』
『以前は杉の林で何も見えなかったんだよねぇ』


杉林の山の向こうに筑波連山が見える。


少し先に進むと、眼下に真壁の町が。


『椅子も用意されてるし、ここは最高の場所だねぇ』
ご満悦のTKさん


14時40分、旧ユースホステル跡まで600mの分岐点を通過。


『あと600mか、頑張ろうっ!』


急坂の上り道が続く。
『この日一番身体に堪える坂道だよね~っ』


『あと少しよねっ』


旧ユースホステル跡の駐車場が見えた。


14時57分、ゴールの旧ユースホステル跡の駐車場に到着
キャンプファイアー場から35分弱かかった計算になる。
『やっと着いたって感じだねっ』
『最後の上りはきつかった~っ』

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

筑波山ハイキング(旧Y.H跡⇒筑波高原キャンプ場)を歩き終わった。
数ある筑波山の登山道の中で最も上りの距離が短いコースだったが、
11名の参加者に終わったことは、ちょっと残念だった。

近年は、出来るだけ平坦な場所を企画しているが、年に数回程度の身近にある山登りは
欠かさないようにしているが、健康のためにもその方針は継続していきたいと思っている。

この日の万歩計は、11,000歩を計測していた。

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