ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

一見の価値あり 巨大地下空間大谷資料館

2015年05月29日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年5月29日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第8回(2015年第19回)、「石のワンダーランド(大谷資料館)」ウォーキングに参加した。

6時40分、三中公民館に大型バスがやって来た。
この日は依頼した中型があいにく出払ってしまったため、バス会社の計らいで大型になったという次第。
ここだけの話であまり大きな声では言えないが、料金は最初に見積もった中型と同一である。


いつものおにぎりが配られた。
会員の皆さんには意外と好評である。


天川団地で5名、土浦市民会館で2名が乗車、この日の参加者は30名となった。


大型バスの定員は44名なので、後部は空席が目立つ。


7時20分に土浦市民会館を出発し、常磐道友部SAで最初の休憩


8時47分、北関東道壬生PAで昼食の弁当が積み込まれた。
真岡SL弁当「野立御膳」を注文していたが、常南交通社によると、弁当屋のご主人が亡くなられたため、
廃業してしまったそうである。
従ってこの日は、別の弁当となった。
どんな弁当なのかお昼が楽しみではあるが、今後「野立御膳」が食べられなくなったのは、非常に残念。


9時24分、ほぼ予定どおり宇都宮市の道の駅「ろまんちっく村」に到着
この日のスタート・ゴール地点である。


Kさんの号令で準備体操をして、


9時40分、大谷資料館目指して出発!


ろまんちっく村出入口No.1前の国道293号を大谷石資料館へ


ろまんちっく村出入口No.2付近。
園内の道を通れば、直接ここに出ることができたのだ。
少し回り道をしてしまった。


県道22号(新里街道)から小さな道に入る。
ところどころに碑が立っていたりする。
”勝善神”とはどんな神様なのだろう?


収穫間近の小麦畑
のどかな風景である。


地図を片手に大谷資料館を目指すが、何の案内表示もない道を見定めるのは大変である。
『確かこっちの方角なんだよなぁ』


道端に色鮮やかなポピーの花が。


10時14分、ろまんちっく村を出発して35分、ここらで休憩し、水分を補給しよう。
この日の予想最高気温は28℃、空は曇っているがかなり暑い。


杉林の中を進む。
木陰はやはり涼しい。


『今日はずっと平坦な筈だから楽だよねっ』


みんなで渡れば怖くない。
あまり車は通らないので車を止めるようなことはない。


大谷石で造られた石垣などが見られるようになってきた。
『ここらじゃみんな大谷石を使ってるねぇ』


露出した大谷石。
大谷石は地下にあるものだとばかり思っていたので、露出しているとは意外だった。


大谷資料館を目指す。


大きな岩が現れた。
これも大谷石なのだろうか?


奇岩が連なっている。
大谷の奇岩群”越路岩(こしじいわ)”である。
国指定の名勝になっているそうだ。


『凄いわね~っ』
『地震で倒れたりしないのかしら?』


『これ観ただけでも来た甲斐があったよねっ』


10時52分、大谷資料館の入口に到着。


駐車場の奥へ進むと、古くて頑丈そうなトラックが置いてあった。
このトラックで大谷石を運んでいたのだろう。


10時58分、大谷資料館地下坑内入口に到着
11時から資料館の案内を頼んであったので、ぴったりの到着である。


15名づつ2組に分かれて坑内を見学することにした。
我々の組は女性のボランティアガイド(青い服を着ている人)が案内してくれた。
最初は道具類などが展示してある部屋へ案内され、歴史や道具について説明があった。


11時15分、いよいよ地下坑内へ向かう。


地下坑内
ひんやりしてきた。
広さは20,000㎡(140m x 150m)、


深さは平均30m、深い所は60mに及ぶと言う。
野球場が1つすっぽり入ってしまう大きさだ。


坑内見学の様子
地下入口で備え付けの防寒着が置いてあったが、皆さんはちゃんと上着を持参していた。
自分は長袖シャツのまま入って来たのでちょっと寒い。
上着は持って来てなかったのだ。(反省!)


ライトアップされた幻想的な坑内景色に魅了される。


華道家假屋崎省吾氏の花アート作品が展示公開されていた。


これまで数多くの歌手や演奏者が登場した舞台、とのこと。


幻想的な地下空間である。


これまでいろんな歌手や演奏家が演奏した時の写真が展示されていた。


高級時計スイスオメガ社のレセプションの写真も展示されていた。


この日の坑内気温は8度とある。『寒っ!』
戦争中は地下倉庫や軍需工場として、戦後は政府米の貯蔵庫として米を預かっていたとのこと。
ここ10年の坑内の気温変化は、1.5度~12度。
年間平均気温は7度ということなので、地下の冷蔵庫といった感じである。


現在では、野菜やくだもの、ワイン、日本酒の貯蔵庫としても利用されている、とのこと。
写真は、フランスの最高級ワイン・ドンペニリヨンP2の日本国内発売を記念して提供されたもの、だそうだ。
ネットで調べたら、1998年製750ml(スパークリングワイン)が57,200円(税込)で売られていた。


巨大な地下空間に圧倒される。


坑内景色


採掘現場風景
地下で規格品に切り出して地上へ運搬するのである。
昔は大きなもので80Kgもある石を背中に背負って運び出していたというから凄い。


大谷石の規格品は、
五六(ごろく)・五七・五八・五十(ごとう)・三十・四十・六十・七十・八十・尺角がある。
最初の数字が厚さを、後の数字が幅を表し、長さは全て3尺(90Cm)だそうだ。
たとえば五十は、厚さ5寸(15Cm)、幅1尺(30cm)ということになる。


ボランティア案内の方の説明に熱心に聞き入る皆さん。


11時51分、一通り地下坑内の説明が終わり、ようやく地上へ戻ることになった。


最後に坑内景色をもう1枚


地上に出たとたん、レンズが曇ってしまった。
手も冷え切っていた。
温度差が20℃近くもあるためだ。


最後は案内の方が見送ってくれた。
『又来て下さいねっ』
『ありがとうございましたぁ』


大谷資料館を後にする。


大谷公園辺りで昼食にしよう。


飾られていた花が綺麗だったので1枚。


大谷寺の門前町に到着した。


12時13分、大谷公園に到着。
(後に見えるのは、平和観音像)


公園には東屋もあったが、全員入ることはできない。


公園内のベンチなどで食べることに。
曇っているので昼食には最高の日和と言える。
『ここはトビがいなくて良いねぇ』


夫婦揃っての弁当は、最高の気分ではないだろうか。


気になるこの日の弁当は、”日光東照宮400年記念”の”三色おこわ幕の内弁当”である。
真岡SLの”野立御膳”に負けず劣らずで美味しかった。


昼食後に平和観音へ上ってみた。


平和観音は、高さ26.93m(88尺8寸8分)で、自然の岸壁に彫られたものである。
第二次世界大戦による戦没者の霊を弔い、世界平和を祈念するために建てられた。
大谷寺の「大谷観音」と間違う人が多いらしい。


平和観音の裏には坂東33観音霊場19番札所の大谷寺が控える。


親子がえる
両方同時に見ることは出来るが、カエルに見える?


平和観音像をバックに記念撮影


大谷寺
日本最古の磨崖仏が拝めることでも有名のようだ。
”日本最古の磨崖仏”として、お守り本尊の千手観音立像の他、釈迦三尊像、薬師三尊像、阿弥陀三尊像などが刻まれている。
これらの仏像は、国指定特別史跡・重要文化財の二重指定を受けている。


一見の価値あり、ということで20名ほどが拝観料300円を払って中へ入っていった。


大谷寺には、磨崖仏の他に、昭和40年の発掘調査で出土した遺物が宝物館で展示されている。
約11,000年前のものと推定される人骨は、ほぼ完全な形で出土したものとしては、縄文時代最古と言われる。
(写真は2009年3月16日に参拝した時に撮影したもの)


既に見たことがある人は大谷寺前駐車場でしばし待機である。
『あれは一度見ておく価値があるよねっ』


13時23分、大谷寺を後にし、ろまんちっく村へ。


大谷の奇岩群
御止山(おとめやま
国の名勝に指定されている。
『いやあ これはなかなか素晴らしい景色だねぇ』


大谷の奇岩群
越路岩(こしじいわ
大谷の地形を特色づける緑色凝灰岩は、この地域に厚さ約300mにわたって堆積しており、
今から約2,400万年前に海底火山の噴出物によって海底で生成されたものとされている。


岩体に松樹が点綴するその姿から「陸の松島」とも呼ばれ、
独特の自然の景勝地として多くの人々に親しまれてきた。


『今日は良いものを観たって感じだよねっ』
大谷の奇岩群にすっかり魅了された様子てある。


13時57分、”最後の休憩”で水分を補給


「灯炉間」と書いて”あろま”と読む。
大谷石のインテリアが特徴のギャラリー喫茶らしい。


道端の花に心が癒される。


この日はずっと平坦だったせいか、男性陣の足取りは軽い。
皆さん余裕の表情である。


ろまんちっく村を目指す。


14時26分、藤本バス停を通過
ゴールのろまんちっく村は近い。


14時37分、ろまんちっく村に到着


入浴は帰宅してから、と言う人は園内で時間を潰してもらうことにした。


入浴希望者はいったんバスへ戻り、


着替えと風呂道具一式を抱えて「湯処あぐり」へ。


「湯処あぐり」で汗を流し、


風呂上がりには、ブルワリーで醸造されたばかりの”麦太郎”(税込640円)で、『かんぱ~いっ!』


『この一杯が堪らないんだよねぇ』
『今日は大変お疲れさまでしたぁ』



道の駅「ろまんちっく村」をスタート&ゴールとして、「大谷資料館」を見学した。
「大谷資料館」は自身も含めて殆どの人が初めてだったようで、幻想的な巨大地下空間には圧倒されたようだ。
坑内の気温が8度だったということも、強く印象に残った。
また、希望者による大谷寺の磨崖仏や、ほぼ完全な形で出土したものとしては縄文時代最古の人骨見学については、
『一度は見ておく価値あり』といった声もあり、概ねこちらも好評だったように見えた。
”三色おこわ幕の内弁当”の評価も概ね良かった。機会があれば、また利用したいと思う。
この日の万歩計は23,000歩(70Cm/歩で約16Km)を指していた。


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特選街道を歩くⅠ 第四回 (中山道)追分宿~坂本宿(2日目)

2015年05月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年5月25日(月)

第四回目は、中山道の追分宿~沓掛宿~軽井沢宿~坂本宿間(約27Km)を2日間かけて歩いた。
第1日目は、追分宿から軽井沢宿(約11Km)までを歩いた。
第2日目は、ここ軽井沢から坂本宿の横川駅までの約16Kmを歩く予定である。

第2日目
7時3分、朝食は少し早目にお願いしたが、快く受けてくれたのは有り難かった。
『おはようございま~す』
『今日一日も頑張ってくださいねっ!』


しっかりと食べてこの日の碓氷峠越えに備えよう。


8時11分、碓氷峠を目指して出発!


支配人によると、この辺りは高級別荘地で、有名な政治家や大物女優などが住んでいるそうだ。


街道からは少し外れるが、支配人に教えて貰った雲場池へ向かう。


8時31分、雲場池に到着。
『ほんとに美しいわね~っ』


雲場池(くもばいけ)
スワンレイクの愛称を持つ池で、初夏の緑と空の青さは何とも言えず美しく、
秋の紅葉は色鮮やかに雲場池に映し出される。
せり出すように茂る木々が水面に影を落とし、四季を通じて軽井沢ならではの風景を描いてくれる。(説明板)


もう少しゆっくりと景色を楽しもうとしていたところへ、ぞろぞろと大勢の若者たちがやってきた。
中国人らしい、朝の散歩のようである。
その数ざっと200人はいるだろうか、その賑やかなこと。
早々に池を後にした。


六本辻交差点
信号のない左回りのロータリーになっている。


しっかり確かめて、軽井沢宿方面へ。
ここで道を間違うととんでもない方向へ行ってしまう。


『今日も頑張ろうねっ』
女性陣は朝から元気である。


8時51分、旧軽井沢駅舎前を通過


碓氷峠への道
前方にも20人ほどの団体客の姿が。
こちらは静かだと思ったら、台湾からの観光客だった。


脇本陣「江戸屋」の看板があったので、覗いてみたら、単なるカフェだった。
『紛らわしいよねっ』


9時8分、軽井沢宿の一番奥に「つるや」旅館があった。
和と洋の調和、重ねられた時間が紡ぐ重厚感。
茶屋であった「つるや」が旅館業になったのは、明治19年頃のこと。
明治・大正・昭和を通じ島崎藤村など多くの文士たちの常宿として親しまれた。
最初はここを予約しようとしたが、料金が高いので止めた。


軽井沢宿の外れに芭蕉の句碑がある。
馬をさへ ながむる雪の あした哉
雪の降りしきる朝方、往来を眺めていると、多くの旅人がさまざまな風をして通って行く。
人ばかりではない、駄馬などまでふだんと違って面白い恰好で通っていくよの意。(説明板)


避暑地軽井沢発祥の地
明治21年(1888)、別荘第1号を建てたカナダ生まれの宣教師A.C.ショーを記念し、
師の胸像、左奥に記念礼拝堂が建てられている。
右奥に移築・復元された別荘があるそうだ。


見晴台行きバスが走って来た。
これに乗れば楽チンだが、勿論乗るつもりはない。


矢ヶ崎川を渡ると、


碓氷峠まで3.3Kmの案内標識があった。
これは、道路の距離なので、歩くともう少しあると思われる。


右の遊歩道を進む。


遊歩道は緩やかで歩き易い。
緑に囲まれて実に気持ちが良い。


立派な吊り橋があった。


吊り橋を過ぎると、次第に山道になってきた。
しかし、それほど急ではない。


幾度か曲がりくねった山道を進むと、


横断陸橋が見えて来た。
碓氷峠まで1.3Kmの標識、遊歩道入口から2Km歩いたことになる。


陸橋を渡って道路の反対側へ。


9時52分、陸橋を渡ったところで、一息入れよう。


1.3Km先の碓氷峠を目指す。
陸橋を過ぎてからは、尾根のような道が続く。


眩しいほどの緑に気分が癒される。
『中山道の軽井沢側は本当に素晴らしいところだねぇ』


10時21分、熊野皇大神社と見晴台の分岐点に到着。
軽井沢宿の外れ「つるや」から歩くこと1時間10分だったが、それほどの疲れは感じなかった。
坂が急ではなかったことが要因だろう。


分岐点から数分で見晴台に到着
『いやぁ これは絶景だねぇ』


『妙義山しか見えないのはちょっと残念だけどねっ!』
『富士山はどっちの方向かな?』


見晴台は群馬県と長野県の県境となっている。
標識をバックに全員揃って記念撮影だ。


少し離れた場所からは、浅間山(2,568m)が見えた。


こちらは離山(1,255m)だ。


見晴台にはタゴール記念像が建立されていた。
ノーベル文学賞を受賞したインドの詩聖タゴールは、来日した際軽井沢で行われた
日本女子大の修養会に講師として招かれ、学生を前に「祈り」について講話を行った。
この像は、タゴールの生誕120年を記念して建立されたもので、
背後の壁には彼の言葉「人類不戦」の文字が記されている。(説明板)


軽井沢側との分岐点まで戻り、薬医門を潜って、熊野皇大神社へ向かう。


力餅で有名な碓氷山荘?


碓氷山荘はこちらだった。他にも似たような店が数軒。
どの店にも力餅の看板が。
力餅は碓氷峠を越える旅人が道中安全祈願で神社に詣でた際、護符として授与された餅が起源だそうだ。


10時52分、熊野皇大神社に到着。


石段を上ると、


変わった姿をした狛犬があった。
室町時代中期の作と伝えられ、長野県内では一番古い。
狛犬は、中国で陸前に魔物退治のために置かれたのが最初で、本来威嚇を目的としているが、
ここの狛犬は、極めて素朴で大変親しみを感じさせている。(説明板)


門を潜ろうとした時、県境の標識が目に入った。


ちょうど神社の真ん中が県境になっているのだ。
以前TVで見たことがあるが、ここ熊野皇大神社だったのだ。


2つの熊野皇大神社が並んでいる。右が群馬県側、左が長野県側である。
『へぇ~っ 珍しいねぇ』
『どっちを拝んだら良いのかしら?』
ここは両方拝んで行くことにしよう。


群馬県側の神社本殿


長野県側には、科の木の大木があり、パワースポットらしい。


神社を後にする。


神社の石段の脇に、皇女和宮が江戸下向の折に小休止したと伝わる赤門屋敷跡がある。
加賀藩前田家の御守殿門に似せた赤門があった、とのことだが、今は小さな稲荷があるだけだ。


11時7分、坂本宿を目指し、碓氷峠の下り開始である。


案内標識には、8Km、130分とある。


松井田坂本宿方面へ。
”長坂道”との標識が立っている。


次第に急になるが、歩き辛いということはない。


小さな沢もある。


人馬施行所跡
笹沢のほとりに、文政十一年江戸呉服の与兵衛が、安中藩から間口十七間、奥行二十間を借りて
人馬が休む家を作った。


道中には、倒木などがそのままの状態である。
整備するのも大変なのだろう。


化粧水跡
峠町へ登る旅人が、この水で姿・形を直した水場、とあるが、水は流れていなかった。


目が滲みるような緑の中を進む。


11時36分、合流地点に出た。
戦国時代、武田方と上杉方の碓井峠合戦記があるとされる、古戦場「陣馬が原」である。


我々は左側から下りて来たが、右側が熊野皇大神社への道だ。
右側には「安政遠足(あんせいとおあし)」の標識が見える。


「陣馬が原」を過ぎた辺りから道が広くなった。


一つ家跡を通過
ここには老婆が居て、旅人を苦しめたと言われている、とのこと。


「山中坂」の説明板に見入る。
山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂で、「飯喰い坂」とも呼ばれ、
坂本宿から登って来た旅人は空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った。
山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。(説明板)
『へぇ~っ 腹が減っては戦はできないってことだよね~っ』


「山中坂」(飯喰い坂)を下る。


安政遠足の標識があちこちに立てられている。
安政遠足は、毎年5月の第2日曜日に開催される行事。
この遠足の歴史は古く、安政二年(1855)に安中藩主板倉勝明公が、
藩士の鍛錬のために碓氷峠の熊野権現まで7里余りの中山道を徒歩競走させ、
その着順を記録させたことが始まりで、日本のマラソンの発祥、である。
もう2週間早ければ安政遠足が見られたことになる。


山中学校跡
明治十一年、明治天皇御巡幸の時、児童が25人いたので、二十五円の奨学金の下附があった。
また、供奉官から十円の寄付があった、と案内されている。
『こんな山の中に学校があったんだぁ』


山中茶屋
山中茶屋は峠の真ん中にある茶屋で、慶安年間(1648~)に峠町の人が用水を汲み上げる所に茶屋を開いた。
寛文二年(1662)には13軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が2ヶ所あった。
明治の頃小学校も出来たが、現在は、屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。
明治十一年と言えば1878年、今から120年ほど前のことになる。
『寺まであったとはねぇ 全く想像がつかないねぇ』


だらだら下りのまごめ坂辺りを進む。


視界が開けて遠くの景色が見えた。
しかし、どの辺りなのか、自分のいる場所も良く分からない。
熊野神社から3Kmは下っているのは確かだが・・・


だらだらの坂道(まごめ坂)が続く。


12時17分、熊野神社を下り始めて約1時間10分が経過していた。
一先ず小休止して水分を補給しよう。
適当な所で弁当にしたいが、適当な場所が見つからない。


栗が原
明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所で、明治八年、群馬県最初の「見回り方屯所」があった。
これが公番のはじまりである。
今は跡形もない。


弁当に適した場所を求めてひたすらに下る。
『いやぁ この道は長いねぇ』


「座頭ころがし」を下る。
案内表示には、
釜場(かんば)とも言い、急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。
それから赤土となり湿っているので、滑り易いところ、とある。


一里塚
座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。ここから昔は登っていった。
その途中に小山を切り開き、「一里塚」が造られている。(説明板)
お腹も空いていたので、一里塚はあきらめ、下ることにした。


12時43分、文化十五年(1818)作の北向馬頭観世音を通過。


続いて12時47分、南向馬頭観世音を通過。
寛政三年(1791)作とある。
昔、この辺りは山賊が出たところだそうだ。


12時49分、堀り切り跡を通過。
天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を松井田城主大導寺駿河守が防戦しようとした場所で、
道は狭く、両側が堀り切られている。


だらだらとした坂が続く。


13時4分、坂本宿まで2.5Kmの標識が現れた。
近くに東屋もある。
ちょうど良い、ここで弁当にしよう。


東屋で弁当だ。


『東屋があって良かったわねぇ』


昨夜宿泊したホテルで作ってもらったおにぎり。
やや小さめだが空きっ腹だったので美味かった。


刎石茶屋跡
刎石山の頂上で、昔ここに四軒の茶屋があった屋敷跡である。
力餅・わらび餅などが名物だった。
今でも石垣が残っている。


弘法の井戸
弘法大師からこのところを掘れば水が湧きだすと教えられ、水不足に悩む村人は大いに喜び、
「弘法の井戸」と名付けたと言う。(説明板)


中は真暗で何も見えなかったが、ストロボの光が写っているところを見ると
水は今でも枯れていない。


風穴
刎石溶岩の裂け目から水蒸気で湿った風が吹き出している?
『風があるようには感じないわねっ』


馬頭観世音碑


覗(のぞき)
坂本宿を見下ろせる場所で、山梨の老木がある。
一茶は、「坂本や 袂の下の 夕ひばり」と詠んだ。(説明板)
『もう直ぐ坂本宿だねっ』
少し元気が出てきた感じだ。


上り地蔵下り地蔵
十返舎一九が、「たび人の 身をこにはたく なんじょみち 石のうすいの とうげなりとて」と・・・
その険阻な道は刎石坂である。(説明板)


刎石坂を登りつめたところにこの板碑のような地蔵があって、旅人の安全をみつめているとともに、
幼児のすこやかな成長を見守っている。(説明板)
『転ばないように気を付けなくちゃねっ』


刎石坂の途中に”大日尊”と刻まれた石があった。


”南無阿弥陀仏”と刻まれている石もある。
この辺りは碓氷峠で一番の難所だったところである。
旅人の安全を祈願して刻んだものと思われる。


柱状節理
火成岩が冷却・固結するとき、亀裂を生じ、自然に四角または六角の柱状に割れたもの。


かつての堂峰番所付近の急坂を下る。
(Iさんはこの時、かなり腰を痛めていたそうである)


次第に坂道が緩やかになってきた。


14時14分、国道18号が見えた。


14時16分、ようやく国道18号に合流した。


たまたま国土交通省のパトロールカーが通りかかったので、
Iさんを横川駅まで送ってもらうことにした。


Iさんを見送り、残った5名で坂本宿へ向かった。
妙義山がかなり近くに見えて来た。


国道18号から遊歩道アプトの道が見えた。
見覚えのある景色だと思ったら、2009年11月11日(水)に歩いたことを想い出した。


坂本宿の外れに八幡神社があった。


奇妙な姿をした狛犬
熊野神社で似たような狛犬を見たが、同じなのだろうか?


本殿にこれまでの旅の無事安全を報告。


本殿の中には神輿が鎮座していた。


14時38分、坂本宿の入口に到着


芭蕉の句碑
ひとつ脱て うしろに負いぬ 衣かへ
内容は木曽路下りのもので、碓氷峠のものではない、とのこと。


道標には、東 江戸へ三十四里 と刻まれている。
日本橋まで約136Kmということになる。


小林一茶の定宿
俳人小林一茶は、郷土信濃国柏原と江戸を往来するとき中山道を利用すると、
「たかさごや」を定宿としていた、そうである。
坂本や 袂の下は 夕ひばり


かぎや
連子窓と軒下の庵看板が往時の旅館の雰囲気を留めている「かぎや」。
先祖が高崎藩納戸役鍵番を務めていたことから、屋号を「かぎや」にしたという。


近世に設けられた坂本宿は、元々集落の少ないところに造成され、整然とした町割りが成された。
坂本宿の寛永年間の脇本陣は2軒。
現在1軒は跡地が公民館になっている。、


今も姿を残す脇本陣永井家は個人宅である。


佐藤本陣跡
坂本宿には上の本陣と下の本陣の2軒の本陣があった。
今は個人の住居になっている上の本陣佐藤家は、宿場の風情をよく残している。


下の本陣金井本陣跡
皇女和宮が江戸下向の文久元年(1861)11月9日に金井本陣に到着・宿泊。
翌日江戸へ出立された。


下木戸跡


上信越自動車道の下を通り、


横川駅へ。


霧積川の川久保橋を渡る。


15時27分、碓氷関所の東門に到着。
この地に関所が移ったのは、元和年間(1615~1623)と云われる。


鉄道文化むら


15時38分、無事横川駅に到着
Iさんが見当たらないし、携帯が繋がらない。
1時間10分以上前に到着している筈で、恐らく前の電車(14時57分発)で先に帰ったものと判断するしかない。


15時59分発の高崎行き電車に乗車


『今日は大変お疲れ様でしたぁ』


高崎から新幹線「あさま622号」に乗り、上野には17時46分に到着した。
家に着いたのは19時半頃だった。
Iさんの奥様から、1時間半ほど前にIさんが無事帰宅したとの連絡が入り、一安心。
携帯が電池切れになっていたため、充電中とのことで、繋がらなかった理由が判明。

次回(6月予定)は、信濃追分から軽井沢とは逆方向の上田までを歩くこにしている。
どんなハプニングが起こるか分からないが、何とか無事安全に歩きたいと願っている。

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特選街道を歩くⅠ 第四回 (中山道)追分宿~坂本宿(1日目)

2015年05月24日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年5月24日(日)

昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも見所が多く人気のある区間を選んで、歩くことにした。
旧街道全てを歩くのは、時間的にも資金的にも大変なため、ある街道の中から
選んで歩くことにした。
日帰りを主としているが、コースによっては宿泊も有りとしている。

第四回目は、中山道の追分宿~沓掛宿~軽井沢宿~坂本宿間(約27Km)を2日間かけて歩いた。
見所については、中央公論新社の「浅田次郎と歩く中山道」を主として参考にしている。

第1日目
上野駅で、6時58分発長野行き新幹線「あさま601号」を待っているところ。
この日の参加者は6名。


6時58分、定刻どおりに「あさま601号」が到着


昨年10月以来久しぶりの新幹線に気分はウキウキの皆さん。


8時12分、軽井沢駅に到着。


この後、しなの鉄道で信濃追分へ向かうが、信濃追分駅は無人のため、駅前で弁当など買えるかどうか分からない。
弁当を買い求めるため、軽井沢駅改札口のコンビニへ。
しなの鉄道駅改札口前で”峠の釜めし”(1,000円)が売られていたが、
容器の”釜”の始末が面倒なので、コンビニ弁当にした次第。


しなの鉄道切符売り場
スイカは使えない。駅員はしきりに『田舎ですから』と強調していた。
信濃追分までは240円である。


しなの鉄道の車両


8時52分発の長野行は、殆ど乗客は乗っていなかった。


9時3分、この日の出発地、信濃追分駅に到着。


信濃追分駅舎は、かなり古い建物だ。


9時8分、出発!
先ずは国道18号へ出て、沓掛宿・軽井沢宿・坂本宿を目指すことになる。


木々の間から浅間山が見えたが、噴煙は見えない。


緑一色の道を国道18号へ。
『清々しくて気持ちが良いわねっ』


9時26分、国道18号追分交差点に到着
今回は、ここを右に曲り、沓掛宿・軽井沢宿へ向かう。
次回(6月)は反対方向の北国街道へ歩を進めることになる。


9時28分、沓掛宿・軽井沢宿へ向かう。


大きな浅間山の看板を掲げた「追分そば茶屋」で国道18号(左)と分かれる。


旧中山道を進む。


この辺りは借宿(かりやど)と云い、追分宿と沓掛宿の間にある集落の名であるが、
江戸時代に間(あい)の宿として繁栄した、とのこと。
名前の由来は、
①追分宿と沓掛宿が満員の時、当地で宿を借りた、
②頼朝が浅間狩りの時、泊まったところが狩宿だったなどの説がある、そうだ。


中山道と脇街道女街道との分岐点でもあったことから、人馬の往来も盛んで純農村には見られないような異彩を放っていて、
立場茶屋・穀屋・質屋・造り酒屋・小商屋・職人・中馬継ぎ等出現し、特に穀取引と中馬継荷の活動は、三宿をはじめ、
佐久地方と上州間の中継地として賑わっていた、とのこと。
往時の面影を残す建物。


浅間山
雲のようにも見えるし、噴煙のようにも・・・・


追分交差点から約18分の9時46分、遠近宮(おちこちのみや)に到着した。


古来からこの辺りの鎮守産土の神として崇敬されてきた。
いつの頃よりの伝説が安産の神として信仰が厚く、遠近の人々が参拝するようになった。


昔は広い範囲に人家がぽつぽつと点在し、「遠近の里」と呼ばれたことから、
明和八年(1771)に浅間山社を遠近宮にしたという。
ここは旅の無事を祈っていこう。


10時4分、国道18号BPを通過。


古宿(ふるじゅく)の分岐点を右に進む。


古宿の道端に立つ馬頭観音碑


馬の墓塔である馬頭観音が多いのは、江戸時代に中馬継ぎが多かったことからと思われる。


道端には水が流れている。


10時14分、古宿公民館前を通過


突然後ろで悲鳴が上がったので何事かと行ってみると、松の木に青大将がいるではないか。
しかもかなり大きい、1.8mほどはあるだろうか。
青大将は大人しいが、こうやって目の前にいると気持ちの良いものではない。


道中いろんな花が目を楽しませてくれる。
黄色い牡丹


あやめの濃い紫が印象的である。


二十三夜供養塔


野仏の石像なども。


10時27分、追分交差点からほぼ1時間経過している。
ここらで一休みして水分を補給しよう。


『この石垣は溶岩で出来てるみたいだねっ』
『浅間山から持って来たんでしょうねぇ』


一方通行になっている小さな交差点を真直ぐ進む。
かつてはここが中山道で、往来があった所だ。


国道18号に合流した。


しかし、直ぐに国道18号から外れて中軽井沢駅方面へ。
「浅田次郎と歩く中山道」によると、たっぷりの餡と大きな栗が入って、ほどよい甘さが特徴の
沓掛時次郎まんじゅうが売られているモンドオル田村屋があるらしいのだ。
甘いものには目がない女性たちの強い要望でこちらへ足を延ばしたという次第。


モンドオル田村屋という店はなく、田村屋総本店という店があった。
しかし、沓掛時次郎まんじゅうは、売られていなかった。


10時54分、国道18号中軽井沢駅前交差点に到着


かぎもとや
「浅田次郎と歩く中山道」によると、
信州川上・北相木・戸隠の蕎麦粉をブレンドして打つ蕎麦は、コシが強く風味豊か。
のど越しも抜群。天ぷら、みそけんちん汁が付いた「もみじセット」がお薦め、だとか。
どちらかと言えばまんじゅうよりも蕎麦の方が良いと思うが、弁当も買ってることだし、
ここは我慢するしかないだろう。


少し時間があるので、中軽井沢駅に行ってみよう。


駅前では日曜セールのような市が開催されていた。
焼き鳥の匂いが堪らない。
昼前ということで腹も空いていたので、男性陣が1串だけ(150円x3)買った。
殊の外旨かったことは言うまでもない。


他にも焼きそばなどが売られていた。


駅中で軽井沢周辺の情報を仕入れ、沓掛宿脇本陣に向かった。


中軽井沢駅から国道18号沿い3分のところに沓掛宿脇本陣があった。
『人が住んでる感じがしないわねっ』


「脇御本陣 満寿屋清兵衞」と書かれた看板がかかっている。


「浅田次郎と歩く中山道」によると、”いまも「旅館枡屋」を経営している”ことになっているが、
どうやら廃業してしまったように見える。
”枡や”の看板が寂しく見える。


沓掛宿脇本陣の近くに和菓子やがあった。


中軽井沢駅では何も口にしなかった女性陣たちだったが、和菓子の看板に堪らず店に入ってしまった。
だんごを注文して店の中で召し上がっているようだ。
男性陣と女性1人はその間、店の外で待つしかない。


11時33分、長倉神社に到着。


長倉神社への神橋を渡って神社へ。


神橋から浅間山を望む。


長倉神社は、天長年間(824~834)に建立されたとされ、平安時代の文献「延喜式」にもその名が残り、
現在も本殿内には宝暦八年(1758)の建立当時の彫刻が残されている由緒ある神社、と案内されている。


長倉神社には、
産業全般の神であり、穀物・農業の五穀豊穣や、商売繁盛・産業興隆・芸能上達など、
出世・繁栄・繁盛の御利益がある、とされる稲荷神社の他、


勝負運・開運などから富や福をもたらすご利益がある、とされる西宮神社などが祀られている。
えびす様は商売繁盛の神様として有名だが、もともと軍神で、勝を呼ぶ神様とも云われている。


長倉神社境内の裏へ回ると、「沓掛時次郎」の碑があった。
碑には、流行歌の一節が書かれている。
千両万両枉げない意地も、人情搦めば弱くなる 浅間三筋の煙の下で 男 沓掛時次郎 長谷川伸 書
沓掛時次郎は、長谷川伸の筆によって生み出された架空の人物なのだ。


11時47分、沓掛時次郎の碑の近くで弁当タイムだ。
軽井沢駅のコンビニで買ったソースかつ重。


皆さんは何を買ったのだろう。


『外で食べるのってほんと美味しいわねっ』
ついさっきまんじゅうを食べたばかりだが、別腹のようだ。


昼食後、時間に余裕があったので、中軽井沢駅で仕入れた情報を元に、
歩いて行ける距離の観光地を観て回ることにした。
先ずは、中軽井沢駅から歩いて35分ほどと紹介されている北原白秋の文学碑へ向かった。


国道146号の緩やかな坂道を進む。


国道146号沿いに遊歩道が整備されていた。


13時4分、北原白秋の文学碑に到着。
長倉神社からちょうど35分が経過していた。
碑には、北原白秋がこの地に滞在中生まれた「落葉松」の詩が、刻まれている。
第8節(右上)は、自筆で刻まれている。
一、からまつの林を過ぎて からまつをしみじみと見き からまつはさびしかりけり たびゆくはさびしかりけり
二、からまつの林を出でて からまつの林に入りぬ からまつの林に入りて また細く道はつづけり
八、世の中よあわれなりけり 常なけどうれしかりけり 山川に山がはの音 からまつにからまつのかぜ


次は内村鑑三の記念館のあるホテル・ブレストン・コート(石の教会)へ向かった。


石の教会への道は緑に包まれてとてもきれいだ。


13時14分、ホテル・ブレストン・コートに到着。
私事ながら、2004年11月20日に娘が結婚式を挙げた場所である。


石の教会の見学者は、駐車場の奥へ案内され、しばし待機。
内村鑑三記念堂は、土日は結婚式があるため、中には入れないとのこと。残念!


案内嬢の後に付いて行くと・・・


石の教会があった。
何も規制することのない生きた建築、オーガニック建築によるそうだが、
残念ながら今日はここから眺めるだけである。
これ以上は入れないとのこと。


案内嬢の説明に熱心に聞き入る皆さん。


石の教会を後にし、


来た道を中軽井沢へ戻る。


14時7分、長倉神社の神橋に戻ってきた。
北原白秋の文学碑と石の教会に足を伸ばしたことで、1時間半ほどが経過していた。


国道18号を潜り、


さらにしなの鉄道の鉄橋を潜ると旧中山道だ。


犬の散歩をしていた外国人と話しながら進む。
日本に来て3年、小学校の英語の教師をしているそうだ。


外国人と分かれ、旧中山道を進む。
前沢橋を渡る。


『あらぁ 甘い香りがする~っ』
クレマチスの一種のようだ。


しなの鉄道線路脇の和菓子舗「おらが」を左折


14時30分、しなの鉄道の線路を渡ると、国道18号へ合流した。


市村記念館(旧雨宮邸)の門
『お寺の門みたいだねっ』


旧雨宮邸(雨宮御殿)は、近衛文麿公(元総理大臣)・市村今朝蔵が別荘として利用したものだが、
平成9年、長倉の雨宮御殿の中に移築され、市村家より町に寄付された、ものだそうである。


雨宮御殿の庭に置かれていた木の切り株で一休み。
この頃になると、かなり疲れが出て来た様子である。


14時40分、市村記念館横のギャラリー蔵を通過。


旧中山道を進む。
宿泊先のホテルは近い。


14時51分、ホテル・ロンギングハウス前を通過


軽井沢には赤いスポーツカーが似合う。


宿泊先のホテルを目指して旧中山道から外れて細い道へ入る。
この辺りは別荘地のようだ。
広い敷地の森の中に洒落た家がポチポツリと見える。


15時4分、離山(はなれやま)が目の前に見える。
なかなかホテルが見つからない。
どこにも看板が見当たらないので、自分がどこにいるのかが見当がつかない。


ホテルの支配人に携帯でやりとりしながら、別荘地の中を探し回ること10分、
ようやくこの日の宿泊先の小さな表札を見つけることができた。


15時17分、宿泊先「レクトーレ軽井沢」に到着。
支配人が出迎えてくれた。


この日の宿泊客は我々だけ、とのこと。


『今日はビールが美味しいっ』


『なかなかいけるねぇ』


スープ


メインディッシュは鳥肉のステーキだ。


日本酒は灘の「白鷹」である。


食後にはデザートと、


コーヒーが出された。お代り自由である。
紅茶やミルクも希望すれば出してくれる。


食事も終わり、しばしリビングでアルプスの山々のVTRを鑑賞。


冬の槍ヶ岳


西穂高


支配人も一緒に鑑賞である。


山に咲く花などの映像もある。
イワキキョウ


ツガザクラ


夏の槍ヶ岳
北アルプス・南アルプスの山々の映像が見放題である。
中には、夜を徹して見る人もいるそうだ。


この日は、当初予定にはなかった中軽井沢の観光地を回ったこともあり、最後は少し疲れた。
第2日目の明日は、最大の難所碓氷峠を越えなければならない。
少し早いが明日に備えるため、そろそろ部屋に戻って床に就くことにしよう。


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白鳥親子が可愛い 手賀沼ウォーキング

2015年05月22日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年5月22日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第7回(2015年第18回)、「手賀沼半周」ウォーキングに参加した。

8時58分、この日出発地の常磐線北柏駅に到着。
降り立った参加者は29名となり、今回も盛況だ。


北柏駅を利用するのは初めてである。
見渡した限り駅前には準備体操に適した場所が見当らない。
とりあえず、手賀沼畔の「柏ふるさと公園」まで移動することに。


9時7分、北柏駅を後にして、


手賀沼に向かう。


北柏駅前の広い通りを手賀沼を目指す。


Oさん外2名が先導役を務める。


大堀川に架かる北柏橋を渡り、直ぐに左折して川沿いの道を進む。


『あれは病院なのかしら?』
『2つも並んであるなんて凄いわねっ』


右手には東京慈恵会医大柏病院(左)と北柏リハビリ総合病院(右)が見える。


きちんと整備された道を手賀沼に向かう。
左側が自転車用、右側はランナー・歩行者用となっている。
『車が通らないから安心して歩けるよねっ』


柏ふるさと大橋の下を潜り、


少し進むと


9時29分、芝生の広場「柏ふるさと公園」に到着した。


ここまで歩いたことで、準備運動は半ば済んでるようなものだが、
Kさんの掛け声で準備体操だ。
広い芝生の上でやる体操は気持ちが良い。


『いちっ にっ さんっ しっ』
入念に身体をほぐす。


10時6分、あらためて出発だ!


予報では、この日の最高気温は26℃前後だが、風があり湿度も低いので、暑さは感じない。


『清々しいって感じだよねっ』


前方に北千葉導水ビジターセンターが見えてきた。


北千葉導水ビジターセンターは、「手賀沼の水を浄化」「洪水を防ぐ」「暮らしに必要な水の供給」といった
3つの役割を持った導水路や手賀沼の自然環境を紹介している。
入館見学は無料とあるが、立寄るのはまたの機会にしよう。


北千葉導水ビジターセンターを過ぎた辺りでようやく手賀沼畔に出た。
広々として気持ちが良い。
『北柏は初めてだけど、なかなか良いコースだねっ』


爽やかな風を受けながら、次の目的地、道の駅「しょうなん」を目指す。


9時55分、見晴し台を通過


緑色の線は、ハーフマラソン(21.0975km)の日本陸連公認コースであることを示している。
手賀沼エコマラソンが、今年(平成27年)の10月25日(日)に予定されている、そうだ。


対岸は我孫子市になる。


コースは右に大きく曲り、鉄塔の下へと進む。


鉄塔の真下で釣りをやっている大人が数名。
『何を釣ってるのかしら?』


竿の長さは50Cmほど。
モロコなどが釣れる、とのこと。
『へ~っ こんなところで釣れるんだぁ』


道の駅「しょうなん」を目指す。


10時5分、手賀大橋まで2.1Kmの地点を通過
意外と早いペースである。


続けて、大津川に架かるヒドリ橋を通過


大津川上流(柏)方面


大津川下流(手賀沼)方面
両岸一帯に葦原が広がる。


道の駅「しょうなん」を目指す。


10時16分、2つ目の見晴し台を通過
『車を気にしなくて済むのが良いねっ』


長い直線コース
右側の芝生は、きれいに刈られているので歩いていて気持ちが良い。


10時23分、北柏駅を出発して1時間17分が経過していた。
この先木陰が無さそうなので、この木陰で一休みしよう。


『どうぞどうぞっ』
こまめにキャラメルなどを配って回るTさん。見習わなければ・・・
『ごちそうさま~っ』


土手下の満開のポピーが美しい。


『あら~っ かわいいわね~っ』
皆さんが見つめる先には、白鳥親子が泳いでいた。


孵化してさほど日数が経っていないと思われる白鳥の雛が、母親にぴったりと寄り添っている。
その姿が何とも可愛らしい。


『白鳥の親子を見れたので今日はもう満足だよねっ』


左前方に手賀大橋が見えて来た。


10時36分、手賀大橋まで0.6Kmの地点を通過。


また白鳥の親子がいた。
今度は雛は6羽いた。
この時期は雛が誕生する季節なのだろう。


10時41分、釣り船・ボート乗り場「沼南園」を通過。
手賀大橋が次第に大きく見えるようになってきた。


道の駅「しょうなん」へ。


10時49分、道の駅「しょうなん」に到着。
ここで弁当でもと考えていたのだが、到着が少し早過ぎた。
手賀大橋を渡ったところの水の館辺りで弁当にして、ここで少し時間つぶしをして行こう。


それぞれ時間を過ごすことになり、産直野菜売り場へ向かう人や、


一休みする人も。


11時4分、道の駅「しょうなん」を後にして水の館へ向かう。


県道8号の信号を渡り、


手賀沼観光リゾート満天の湯を右手に見ながら、


手賀大橋へ。


手賀大橋を渡り、我孫子市へ。


手賀沼は釣り人天国のようだ。
一日中こうやって竿を出しているのだろう。


手賀沼の中央付近に差し掛かる。


親水広場の前の沼岸にはカッパの像が4体立っている。
この河童の像は、2007年7月に、左の1体の足の部分が破損して倒れてしまった。
FRPという素材のため、水に浮き、岸辺に流れ着いた1体は大事に保管されていた。
それ以降、しばらく3体の状態だったが、修理のために残り3体も一時的に取り外されてしまったが、
修理が無事終わり、現在は元の4体になって立っている。


手賀沼親水広場水の館がはっきりと見えて来た。


手賀大橋を渡り、親水公園を通って水の館へ。


水の館は目の前だ。


親水公園の一角にも白鳥親子がいた。
今度は雛は7羽いた。
『ほんとに可愛らしいわねぇ』
『全員無事に育つと良いわねっ』


11時23分、手賀沼親水広場水の館前に到着。
少し早いがここで弁当タイムにしよう。


親水広場で弁当タイムだ。
上手い具合に空いている東屋を見つけた。


弁当も終わり、水の館でも見学しようと思っていたら、閉館中であった。
運営主体を県から我孫子市へ移管する予定で、移行期間の平成27年4月1日から6月30日までの間、
手賀沼親水広場の利用できる施設等が制限される、とのこと。
仕方なく、水の館を後にして、


ゴールの我孫子駅へ向かう。


我孫子駅を目指し、湖畔に沿って進む。


手賀沼畔の我孫子市側の道は、やや狭い。
追い越したりすれ違ったりするのには不自由である。


そのためやや歩き難いが、現在は整備中のようだ。
整備が終われば、湖畔沿いの道は、柏市側のように歩き易くなるだろう。


手賀沼畔には西洋式の洒落たデザインの家が多い。
別荘といった趣が感じられる。


我孫子駅を目指す途中、


文学の広場があり、我孫子市にゆかりのある文人や作家たちの紹介パネルがある。


「暗夜行路」「城の崎にて」などの小説で知られる志賀直哉は、
大正四年から同十二年まで我孫子に在住した、とのこと。
「和解」「暗夜行路」「城の崎にて」などの代表作は我孫子時代の作品が多い、とのこと。


文学の広場から手賀沼公園へ。


12時24分、手賀沼公園に到着。


手賀沼畔を吹き抜ける風が心地良い。


手賀沼公園の一角にあるミニSL「あゆみの郷鉄道」の看板をバックに記念撮影を済ませ、


手賀沼公園前信号を渡り、我孫子駅を目指す。
あとは道なりに進むだけである。


我孫子駅を目指す。


我孫子市街地を進む。


12時52分、我孫子八坂神社前を通過
以前、ここで準備体操をしたことを想い出した。


間もなく我孫子駅だ


12時54分、我孫子駅前に到着。


駅前の一角でKさんの号令により、


整理体操をして、


我孫子駅へ。


駅のホームでしばし休憩


『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


手賀沼を歩いたのは、今回で4度目である。
歩く度にコースを変えているが、今回の北柏駅をスタートして手賀沼を半周して我孫子駅までのコースは
距離も適度で、時期的には、一番良い季節だったように思う。
また、白鳥の親子を数ヶ所で見掛けたことも良かったと思う。雛がとても可愛らしかった。
手賀沼湖畔では、あまり見所は多くないので、白鳥親子の姿は、良いアクセントになった。

柏市側は、ハーフマラソンの日本陸連公認コースだけあって、とても歩き易かったことも良い印象の一つである。
我孫子市側は現在工事中ということで、早期の完成が待垂れる。その時にはもう一度歩いてみたいと思う。


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人・人・人にびっくり 筑波山ハイキング

2015年05月15日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年5月15日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第6回(2015年第17回)、「筑波山」ハイキングに参加した。

第一集合場所の乙戸沼公園には13名が集まった。
車4台に分乗し、第二集合場所の裏筑波の旧Y.H(ユースホステル)跡に向かった。
直行した人は2名、この時点で参加者は16名である。


早速、会長の号令で準備体操


『肩を大きく回して~っ』


10時16分、Oさんを先頭に御幸ヶ原目指して出発!


御幸ヶ原まで1.2Kmとある。
筑波山登山ルートとしては、一番距離が短いルートである。


新緑の中を上る。
『緑がとっても美しいわねっ』


しばらくは緩やかな上り坂が続く。


10時22分、カタクリの看板を通過
案内によると、
県内では御前山・内原などの群落と共に、筑波山ユースホステルから筑波山頂への登山道周辺に大群落があり、
春になるとお花畑のように一面に咲き誇る、とある。時期は4月下旬とのこと。
具体的にはこの登山道沿いのことだと思うが、まだその大群落なるものは見ていない。


次第に坂道が急になるなか、黙々と上る女性陣。


10時39分、上り始めて約20分、ひとまず休憩にしよう。
早速道端の岩に腰を下ろす女性たち。
『ちょっとの間でも座った方が楽なのよねぇ』


水分をしっかりと補給しておこう。


猟犬2匹を連れて、山頂へ向かう人が我々を追い越していった。
既に麓で15Kmほど歩いてきたそうだ。
人も猟犬もタフでないと務まらない。


山頂近くになって登山道は階段になった。
『もうちょっとだねっ 頑張るしかないねっ!』


熊笹の場所を抜けると、


右手に突然男体山が現れた。
『えっ もう山頂に着いちゃったの?』
意外に早く着いた、との感想が漏れて来た。


10時59分、山頂に到着だ。
旧Y.H跡から休憩も入れて43分で上ったことになる。
『やっぱこのコースは楽で良いねっ』


男体山へ上る前に男体山をバックに記念撮影。
ちょうどその時、Tさんが後を追って上って来たのにはびっくり。
第二集合場所を間違って「筑波高原キャンプ場」へ行ってしまい、急いで後を追いかけたのだそうだ。
『お疲れさま~っ』
あらためて17名全員揃って撮影し直しだ。


先ずは男体山へお参りしよう。


11時10分、男体山への登頂開始。


山頂ではツツジが満開状態だった。
緑と赤のコントラストが美しい。


皆さん、ゆっくりとだがしっかりとした足取りで上る。


『ちょっときついけど頑張るわっ』


突然先頭が停止した。
どうやら渋滞のようだ。


山頂からぞろぞろと人が下りて来る。
聞けば60人以上の団体で来ているらしい。
年齢も我々とはあまり変わらないようである。ここはゆっくりと待ってあげることにしよう。
その団体さんは、自然研究路の方へ下りて行った。


待つこと4分ほど、ようやく団体さんが下り終えたところで、今度はこちらが上る番だ。
ここは岩場で男体山への一番の難所である。
『あせらずにゆっくりと上りましょうっ』


岩場をしっかりと上る。


最後の急な階段を上ると、


11時26分、筑波山山頂(871m)の男体山神社に到着した。


『無事に下りられますように』と願ったかは定かではない。


『いやぁ実に気持ち良いんだけど、ちょっと霞んじゃってるなぁ』


つくば市方面
この時期は、霞がかっており視界はあまり良くない。


山頂で一息入れる


下山の際に見事なツツジが咲いていたので、一枚。


『下りは特に慎重にっ 気を付けて~っ』


御幸ヶ原へ。


次に目指す女体山が見える。


茶店「幸雲亭」を通過し、


11時43分、御幸ヶ原に下りて来てびっくり。
人・人・人である。
中学生らしき団体に、


こちらは一般客
茶店の前のテーブル(無料)は満席状態


茶店の軒下にもずらりと並んで腰を下している。
これでは、食事場所を探すことは出来ないかも・・・少々不安になってきた。


心配していても始まらない。とりあえず紫峰杉へ向かおう。
紫峰杉を観た後では少しは空きスペースが出るかもしれない・・・


『いやぁ どこも人がいっぱいだなぁ』
山頂は子供たちで溢れ返っていた。
筑波山は終末の金曜日は”遠足日和”だったことを想い出した。


”紫峰杉”の案内表示に従って進む。


御幸ヶ原から坂道を下って紫峰杉へ向かう。


100mほど下ると、目の前にブナの大木が現れた。
筑波山の中でも最大級のブナとのことで、胸高直径は1.25mあり、推定樹齢は数百年になるらしい。


さらに50mほど下ると、”紫峰杉”が”ど~ん”と立っていた。
筑波山の雅称である紫峰の杉ということから付けられたもので、
命名者は、佐賀県唐津市の平吉俊郎氏と紹介されている。


『いやぁ これは凄いねぇ』
『ほんと 立派だよね~っ』


高さ約40m、幹回り約7m、推定樹齢は800年だそうだ。


女男川(みなのがわ)の源流
周辺の地面は”源流”の影響で湿ってはいたが、しずくがぽとりぽとりと落ちている程度だった。
そのうち枯れてしまうのではないかと思うほどだ。


御幸ヶ原へ戻り、食事場所を求めて女体山方面へ向かう。


もしかしたら、と思ったが、どこも人が一杯だ。
空いている所は残念ながら木陰にはなっていない。
女性たちが敬遠したがるのも無理はない。


12時5分、また少し先へ進むと、運良く無人のテーブルを見つけた。
『ついてるねぇ 空いている場所が見つかって』
『しかも日陰で静かだし』


また、こちらは前のグループがちょうど食事が終わったところで、席を空けてくれたのだ。
『良かったぁ グッドタイミングだったわねっ』


無理をすれば全員テーブルに座れたが、日陰にシートを敷いて弁当だ。
殆ど人は通らないので落ち着いて食べられる。


昼食後の12時41分、女体山を目指す。


少しの上りが続く。
リュックが軽くなった分、身体が重くなった感じだ。


12時45分、せきれい茶屋前を通過


ガマ石
説明板には、
元来「雄龍石」といい傍らに「雌龍石」もあり、この場所で永井兵助が「ガマの油売り口上」を
考え出したことで、ガマ石と呼ばれる、と案内されている。


岩だらけのみちを進む。


12時52分、女体山神社に到着


お参りを済ませて神社の裏に回ると、岩には人人人でいっぱいだ。
引率の先生が数人の班単位で岩の上に立つ生徒を撮影している最中だった。
手前は順番待ちの生徒たちで溢れていた。


生徒たちには申し訳なかったが、撮影の合間に何とか見晴し岩(877m)に立つことができた。
つくば市北条方面
白く反射して見える所は田植が終わったばかりの田んぼである。


つつじヶ丘RW駅方面


先ほど上った男体山もはっきりと見える。


その後も生徒達と入れ替わりながら、何とか全員が岩からの眺望をちょっぴりだけ楽しんだ。


女体山からの下山は一方通行になっており、神社の裏から下りる。


『しかし、大変な混みようだねぇ』
『金曜日はいつ来てもこんな状態なのかねぇ』


13時2分、筑波高原キャンプ場を目指して下山開始だ。


女体山・キャンプ場コースは、それほど急な坂はない。


下るだけなので楽である。


『急坂じゃないので歩き易いよねっ』


新緑に囲まれた道を下る。


ところどころに杉林もある。


『緑の中を歩くのはほんと気持ちが良いねぇ』


13時25分、筑波高原キャンプ場まで0.7Kmの地点を通過。


緑の林があったり、杉林があったり、変化に富んでいる。


『今日のコースが一番楽なんだろうねっ』
自分もそう思う。


女体山から下ること36分、視界が開けた場所に出た。


キャンプ場は近い。


間もなくキャンプ場だ。
(後方に見えるのは、加波山・燕山)


キャンプ場周辺はカタクリの保護地となっている。


13時43分、筑波高原キャンプ場に到着
女体山を出発してから40分経過していた。


キャンプ場でしばしの休息だ。


『こっちの方が見晴しは良いんだけどねっ』
しかしこの日は、真壁方面は、霞んでいて殆ど見えなかった。


13時58分、一休みの後、旧Y.H跡へ向かう。


『真っ白できれいな花だよねっ』
『山ボウシと言うのかしら?』


砂利道を旧Y.H跡へ向かう。


「女の川」(めのかわ
筑波山の主峰女体山を源にして真壁町側へ流れているこの川を「女の川」と呼び、
万葉の時代から詩歌に歌われ「恋の川」とも呼ばれていた、そうである。
また、この川は水量豊富でサンショウウオが生息している、とのこと。
下流では、男体山を源に流れる「男の川」と合流して「男女川」(みなのがわ)となる。、


14時13分、筑波高原キャンプ場から15分で、旧Y.H跡への合流点に到着。


合流点から旧Y.H跡へは急な坂道が続く。
『これが最後の坂道だよねっ?』


黙々と旧Y.H跡を目指して歩く。


ゴールの旧Y.H跡は間もなくだ。
『もうひと頑張りだねっ』


14時29分、ゴールの旧Y.H跡に到着した。


『やった~っ 着いた~っ』
大声で歩ききった喜びを爆発させるS子さん(81)
最後の上り坂はよほど堪えたらしい。


一休みして呼吸を整える皆さん。


整理体操は各自でやることに・・・
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』



2012年10月12日(金)以来となる、久しぶりの筑波山ハイキングだった。
このときは、女体山から御幸ヶ原・男体山は今日ほどではなかったがかなり大勢の人が訪れていた。
女体山の岩場では、タイミングが悪く大混雑だったため、岩場からの眺望を断念した覚えがある。
ここ数年、筑波山登山を楽しむ人が増えて来ていることは確かである。

前にも書いたが、筑波山は終末の金曜日は”遠足日和”である。
金曜日ともなるとつつじヶ丘RW駅の駐車場には、県内・県外の大型観光バスでいっぱいになる。
つつじヶ丘から歩いて登り、ケーブルカーで下山する、あるいは筑波山神社から歩いて登り、
RWで下りる、というケースが多いようだ。

毎週金曜日を例会としている当会としては、曜日を変更して筑波山登山するということは、難しい。
少なくとも年に1度は筑波山登山を企画したいが、混雑を避けるためには別コースにしたり、
時間をずらすなど工夫する必要があるように思う。


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コメント
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