ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

まるで”古墳巡り” 大甕駅から久慈川河口へ

2016年04月29日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年4月29日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第5回(2016年第16回)、「阿武隈山地最南端・大甕から久慈川河口」を巡る
ウォーキングに参加した。

水戸駅で9時9分発の竜田行電車を待つ。
この日の参加者は、この時点で24名。


竜田行は、水戸始発。


祝日のためか、あまり空いてはいなかったが、一応全員座れて一安心。


9時38分、大甕駅に到着


大甕駅
Fさんから『次の電車で追いかけるから先に出発しといて』との連絡が入った。
一つ手前の東海駅からだった。
次の電車は、9時55分に到着することになる。


大甕駅前には、準備体操に適当な広場が見当たらない。
このため、泉が森公園まで準備体操はお預けにして、9時49分、出発!
泉が森公園でFさんを待つことにしよう。


泉が森公園を目指す。


道端に馬頭観世音碑があった。
この辺りは、街道筋(陸前浜街道)だったのだろうか?


水木町2丁目付近


10時ちょうど、水木交流センター・泉が森体育館前を通過。
水木交流センターは、地域の集会場所として利用されているそうだ。


泉神社の鳥居の横に聖徳太子堂があった。
聖徳太子は、用明天皇の第一皇子にして、幼少の頃より仏教・儒教を学び、俊秀の誉れ高く、
飛鳥時代の優れた為政者でもあった。
旧札の肖像としても知られる聖徳太子は、商売繁盛・学業成就の神様としても有名である。


10時9分、「イトヨの里 泉が森公園」に到着した。
こんこんと湧き出る泉と神社があり、泉が森は、その清い泉と泉神社の神域を含む総称である。


水が透き通っており、池の底がはっきりと見て取れる。
これは、泉ヶ森から湧く水が常に注いでいるため、ビオトープ(生物の住息環境)効果で
水を浄化させているのだろう。


公園内には、トゲウオ科の珍しい魚「イトヨ」が棲む池があり、“イトヨの里泉が森公園”として整備されている。
イトヨはこの池で卵を産み、生態系が循環している、とのこと。


江戸時代には、常北十景の一つに数えられており、県指定の史跡で、茨城百景にも選ばれている。


池の周りを散策していると、Fさん夫婦が到着した。
これでこの日の参加者は26名となった。
早速、公園の芝生広場で準備体操だ。


『空が眩しいねぇ』


泉神社に参拝して行くことにした。
聖徳太子堂横の泉神社の鳥居を潜り、


”延喜式内 常陸二十八社”の幟が並ぶ参道を進む。
泉神社は、天速玉姫命を祀る延喜式内社で、日立地方では最も古い神社。
鎌倉・室町時代から多くの武将が祈願に訪れたと云われている。
延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、
そこに鎮座する神の数は3132座である。(Wikipedia)


泉神社の御神木
杉の木に桜が根付いた宿り木であるが、昭和の初めに落雷により大きな損傷を受けた。
表皮に現れた玉杢も見事で貴重なものであり、風雨を避けて温存している。
樹齢は推定450年 (説明板)


泉神社拝殿
泉神社の祭神は天速玉姫命(あめのはやたまひめのみこと)。


泉神社神殿
御祭神「天速玉姫命」が祀られている。
泉大明神と呼ばれている。


泉が湧きだす辺りに小さな社が祀られていた。
泉神社の“泉”は、湧き出している“泉”のことを指していると思われる。


泉神社を後にして、次の目的地、田楽鼻を目指す。
国道6号を横断し、


住宅地を進む。


10時33分、秋葉神社を通過。


すみれの花がきちんと手入れされて植えられていた。
『あら~っ きれいだこと』


『海が見えてきたっ』


田楽鼻を目指す。


田楽鼻の手前の道路脇に御番所跡の碑があった。
江戸時代、水戸藩は初代藩主頼房の時代を皮切りに、幕末までに助川海防城(助川館)と共に、
七つの海防施設を設けて、異国船(外国船)に対する海岸防備を行ってきた。
ここはその一つで、水木異国船遠見番所(外国船を見張る番所)跡である。


10時46分、田楽鼻に到着
長塚節の歌碑が立てられている。
多珂の海の 水木の浜に 荒波に かぢめさは寄る 
そをとりで たすけにせむと 蜑等さはよる
潮さゐの 水木の濱に 爪木たく 蜑人さわき 搗布とるかも



水木海岸には、太古、あわびの舟に乗って神が来て、金砂神社に登ったと云われ、
72年毎の浜だし神事で田楽を奉納する習わしがある。
山の中の東西二つの本宮からこの田楽鼻下の水木浜まで、二つのルートを7日かけて、
途中田楽を奉納しながら歩き、水木はその最後の田楽催場だったことが地名の由来。
ここ田楽鼻の広場では、文久二年(1862)金砂大祭礼の時に田楽が催された。


見晴らし台に上ってみよう。


『いやぁ 素晴らしい景色だねぇ』


古房地鼻の灯台が見える。


田楽鼻を後にして、次の目的地「甕の原古墳群」へ。


国道6号を横断して、住宅街を進むが、目指す「甕の原古墳群」が見つからない。
近くにいた若いお母さんに訊いてみると、国道6号を渡った海の近くではないか、とのこと。
たった今見て来たばかりの田楽鼻の見晴らし台を指しているようだ。


そんな筈はない、と近くの別の通りを探したところ、目指す古墳を見つけた。
『意外に近くにあったねぇ』
『普通の土盛りみたいだから、気を付けてないと分からないだろうねっ』


甕の原古墳群は、大みか小学校北東の太平洋を臨む台地上に分布し、3号墳と4号墳が指定史跡
として現状保存されている。


3号墳・4号墳は土を半球形に盛り上げた円墳という形の古墳で、古墳時代の6世紀後半から
7世紀ごろに造られたと考えられている。


3号墳に上ってみた
古墳から太平洋が望める。


こちらの4号墳は、3号墳より小さい。
海側へ20mほどのところに、全長41mの前方後円墳(甕の原古墳群2号墳)があり、
昭和51年に発掘調査が行われている、とのこと。


次の目的地赤羽緑地公園を目指し、市街地へ。


おおみか町2丁目付近の住宅地を進む。


中道通りを進むと、


日立製作所の工場に突き当たる。


日立製作所を右折し、工場沿いに進む。
『いやぁ ツツジが素晴らしいねっ』
鮮やかで眩しいほどの色彩である。


日立製作所に隣接して日立臨海工場が続く。


門の前に咲く八重桜がちょうど見頃だった。


工場の塀に沿って植えられたツツジが美しい。


日立臨海工場の突き当たりを左に折れると、吹上通りとなる。


時折強い風が吹いて帽子が飛ばされそうになる。
”吹上通り”と関係があるのだろうか?


常磐線久慈架道橋の下を潜り、


その先の信号を左折して進むと・・・


12時12分、赤羽緑地公園に到着した。
赤羽緑地公園は、自然にふれ、歴史に学ぶ憩いの場として親しまれている公園である。


ちょうどお昼になったことだし、お腹も空いたので、ここで弁当タイムにしよう。


女性陣は木陰にシートを広げて遠足気分。


赤羽緑地公園には、池や、


野鳥観察板がある。
年間を通じて70数種の野鳥たちが訪れる、とのこと。
『ちょっと覗き窓が大きすぎるんじゃないっ?』
『鳥から丸見えだよねっ』


野鳥の池は、かつては水田だったそうだ。
現在、その跡には生い茂る葦の群生が見られる。


さらに進んで北側の丘陵へ行くと、赤羽横穴墓(あかばねおうけつぼ)群の説明が。
北側の丘陵にはおよそ1400年前のお墓がたくさん確認されている。
丘陵の斜面に穴を横に掘り、その平面形が羽子板状になっている形態の墓制を横穴墓と呼び、
発見された場所の地名を採って、赤羽横穴暮と呼ばれている、とのこと。


横穴墓は古墳時代の墓であるが、円墳や前方後円墳等に見られるような盛り土ではなく、
台地の傾斜面に横穴を掘って墓としている。
今は、農機具などの倉庫代わりに使われている。


ひときわ大きい横穴墓が一基あった。
丘陵先端の崖にあるB支丘1号墓は、奥行き5m、高さ3mと他に比べると大きい。
B支丘1号横穴墓からは、金銅製の冠や小札・玉類などが発見され、
久慈川流域の横穴墓出土品としては、極めて貴重な副装品として、
日立郷土博物館に展示されている、とのこと。


赤羽緑地公園を抜けると、次の南高野史跡公園へ近道が出来ると聞き、
緑地公園の奥へ進む。


赤羽緑地公園を抜けて住宅地に出たのは良いが、どこを歩いているのか、
南高野史跡公園はどっちなのかがさっぱり分からない。


道に迷ってしまい、たまたま通りがかった若い女性に道を尋ねると、
親切にもスマホで場所を探してくれた。
『ありがとうございましたっ』


若い女性に教えてもらった南高野貝塚の道標を見つけた。
道を尋ねたところからは、そう離れていない場所だった。


”南高野貝塚”の道標に従って進むと・・・


2分ほどで南高野史跡公園に到着した。
しかし、自分たちが公園のどの辺りにいるのかが、分からない。
『ここは、どこなんだいっ?』


広い公園内を進むと、


公園入口があった。


案内によると、
貝塚は、人が食べた貝の殻や魚の骨、鳥や獣の骨などが堆積してできたもので、
この貝塚では、昭和27年(1952)と昭和31年(1956)に発掘調査が実施されている。


公園内を奥へ進む、
公園には円墳や貝塚があり、貝塚からは貝類や鳥類、哺乳類の骨が確認され、
土器や石器などの生活用具や装身具も出土した、とのこと。
これは円墳と思われる。


南高野貝塚が形成されたのは縄文時代の中期から晩期であり、その出土品から、
当時ここに住んでいた人々の生活をうかがい知ることができる。
貝塚は、茨城県指定の史跡に指定されている。


これも円墳と思われる。


南高野貝塚の碑をバックに記念撮影をして、


13時30分、ゴールの大甕駅を目指す。


常磐線久慈架道橋の下を潜り、


ひたちBRT(BUS RAPID TRANSIT Hitachi)に沿った歩行者専用の歩道を大甕駅へ。
ひたちBRTは、日立電鉄交通サービスが運営しているバス路線である。
廃線になった日立電鉄線の跡地を利用したBRTで、平成25年(2013)3月25日に第一期区間が開通した。


ひたちBRTのバス


専用歩道は、自転車も通行禁止となっている。
『歩行者だけしか通れないのは安心だよねっ』


専用歩道の両側は住宅地となっている。


14時2分、専用歩道が終わり、吹上通りに合流した。
間もなく大甕駅だ。


14時11分、大甕駅に到着


14時19分、遅れていたグループも到着した。


大甕駅舎内にコンビニがあった。
ここで、缶ビールを買い求め、


駅ホームへ。


14時28分発の水戸行電車が到着するまで駅構内のベンチで一休み。
『お疲れさまですっ』


常磐線に乗車し、『かんぱ~いっ』


『今日は大変お疲れさまでしたぁ』


阿武隈山地の最南端に位置する大甕駅から海岸線を通り、久慈川河口に近い南高野史跡公園までを歩いた。
茨城「歴史探訪ウォーキング」(メイツ出版)を参考にした。
イトヨが棲むほどきれいな「泉が森公園」や72年毎の金砂大祭礼の田楽が催された「田楽鼻」などの
見所もあったが、”古墳巡り”ウォーキングでもあった。
遥か古代へのロマンを掻き立てる一日だった、と思っている。

この日の万歩計は、17,000歩を少し超えていた。

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特選街道を歩くⅠ 第十二回 (北国街道)小諸宿~上田宿(2日目)

2016年04月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2016年4月25日(月)

昨年から、旧街道の中でも比較的交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、
街道の中からある宿間を選んで歩くというものである。
「旧街道を歩く」第十二回(最終回)は、北国街道の追分宿~上田宿間(約25Km)を歩くことになる。

この日は、昨日の続きでしなの鉄道大屋駅から同上田駅までの約9Kmを歩いた。
スタート地点のしなの鉄道大屋駅は、上田駅から2つ目(230円)の駅だ。

上田第一ホテルでしっかりと朝食(和or洋)を摂って、


8時18分、ホテルを出発!


上田駅へ向かう。


7分ほどで上田駅に到着


しなの鉄道駅で切符(230円)を買い、


8時39分発の小諸行に乗車。
昨日と同じ電車である。


通勤・通学時間帯が過ぎているためか、客はほとんど乗っていなかった。


8時45分、大屋駅に到着


昨日は気が付かなかったが、大屋駅舎内には大正11年11月設置の大時計があった。
設置当時の価格は70円だったそうで、昭和8年と19年に修理をしている。
初めのものは分銅式だったが、現在のものは振り子式に改造されている。
長野鉄道管理局内で同型のものは、この大屋駅に現存しているもののみ、とのこと。
今でもまだしっかりと正確に時を刻み続けている。
『大正11年からか、大したもんだねぇ』


8時51分、大屋駅を出発!
上田駅を目指す。


大屋駅を出て直ぐ、上田市街まで6Kmの標識が。
『あと6Kmじゃ大したことないねっ』
『昨日は、田中宿までだったのを、頑張って海野宿まで歩いたからねっ』


昨日歩いた割には女性陣の足取りは軽い。


その後に男性陣も続く。


北国街道の道幅が狭くなり、歩道も無くなって危ないので線路を渡って国道18号へ。


しなの鉄道に沿った国道18号を上田方面へ。


上田市東部を南北に流れる神川に、”神川合戦の地”の横断幕や幟旗が掲げられていた。
第一次上田合戦で、真田軍にここ神川附近まで追い詰められた徳川軍は、
大打撃を受けたと伝えられている。


9時28分、信濃国分寺駅を通過。


信濃国分寺跡があるというので、特に予定していなかったが、見学して行くことにした。
広い公園のところどころに礎石と思われる石が並んでいる。


塔跡だけが一段高くなっている。


僧坊跡


回廊跡


金堂跡


講堂跡


信濃国分寺に関する予備知識は全くなかったため、全体的な配置など全く分からなかったが、
幸いに国分寺僧寺跡の配置図があった。
それによると、寺域は東西176.56m、南北178.05mで、約100間四方の広さがある。
金堂・講堂・中門・塔・回廊・僧房の跡が確認され、
南大門の位置も推定されている。(Wikipedia)


国分寺の地図
国分寺跡は現国分寺の南方に位置している。
東側(右)に国分寺僧寺跡、その西側(左)に尼寺跡があるが、何とそのど真ん中を
東西にしなの鉄道が走っている。
『え~っ ここに国分寺があったことが分かって鉄道を敷いたのかねぇ』
『事前に分かってたら線路はここを避けてたと思うけどねっ』



信濃国分寺資料館(250円)があったので、ちょっと見学していくことにした。


国分寺僧寺・尼寺の模型
右が僧寺、左は尼寺で、僧寺と尼寺が隣り合っている。


僧寺
伽藍配置は中門・金堂・講堂を南北一直線に配置し、
中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付く東大寺式である。(Wikipedia)


尼寺跡は僧寺跡の西側に位置する。
寺域は東西150m、南北150mで、80間四方の正方形。僧寺より一回り小さい。
金堂・講堂・中門・回廊・経蔵・鐘楼・尼房などの跡が確認されている。
伽藍は、中門・金堂・講堂・尼坊・北門が南北一直線に配置され、
中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付くのは僧寺と全く同じ。
講堂の東西の回廊外に位置する建物跡は東が鐘楼、西が経蔵とみられる。(Wikipedia)


現在の国分寺は、国道18号を渡った先にあり、近くに横断歩道がないため、
10時35分、跨道橋を渡って国道18号を横断。


国道18号
(写真は信濃国分寺駅方面)


国分寺仁王門の手前に瓦窯跡観察施設があったので、立寄ってみた。
この窯跡は昭和42年2月、運輸会社建設工事の際に発見され、同年3月の緊急発掘調査により、
半地下式平窯跡二基であることが確認された。


窯跡
この窯跡は、平安時代の初めに、国分寺の補修用の瓦を焼いたものと考えられる、とのこと。
いつも思うが、ガラスでこのように覆うのは考えものだと思う。
ガラスが反射して見え難く、中の様子は殆ど分からないのだ。


現在の信濃国分寺の仁王門


阿像
身体の大きさに比べると顔が大きい。
ややアンバランスな感じがする。


吽像


国分寺仁王門を内側から見たところ。


仁王門を潜ると一直線の参道が続く。


10時46分、現在の国分寺に到着。
奈良時代の天平十三年(741)の聖武天皇の詔により、全国各地に建立された国分寺のうち、
信濃国分寺の後継寺院にあたる。
現在の国分寺は、信濃国分寺僧寺跡の北方300mの場所に建っている。


八日堂の別称がある。中部四十九薬師霊場の一番札所である。
本尊は薬師如来。
県指定文化材(県宝)


天台宗の寺院で、本堂は天保十一年(1840)に起工、万延元年(1860年)の建立。
再建の発願から完成まで31年の歳月を費やして竣工した。


三重塔は銅板葺で高さは20.1m。
源頼朝の発願と伝えるほか、塔内には建久八年(1197)の墨書があったと伝わるが、
様式から室町時代中期の建立と推定されている。
内部には大日如来を安置している。
室町時代の様式をよく表すとして国の重要文化財に指定されている。


観音堂
江戸時代初期の百体観音像が安置されている。


地蔵堂
地蔵尊と閻魔十王が安置されている。


鐘楼
享和元年(1801)、上田藩主松平伊賀守による建立。


大黒天堂
大正十三年(1924)に再建された。


真田・徳川会見之地
真田家の歴史が書かれた史書「上田軍記」に記述がある国分寺の会見は、
徳川秀忠が、上田城主真田昌幸の長男信之と信幸の義弟本多忠政を使いとして昌幸の元に送り、
上田城を明け渡すよう求めたと伝わる。
昌幸が応じなかったため、第二次上田合戦が起き、昌幸と二男信繁は秀忠軍を撃退した上、
関ヶ原の戦いに向かうのを遅らせることに成功した。
この碑は、NHK大河ドラマ「真田丸」放映に合わせて立てられた。


国分寺僧寺の中門跡と尼寺跡をまだ見ていないため、しなの鉄道の線路を潜って東側へ。


線路を潜ったところに、左僧寺の中門跡、右尼寺の建物跡と案内表示されていた。


僧寺の中門跡
線路の向う側に金堂・講堂が一直線に配置され、中門と講堂が回廊で繋がっていたのだ。


僧寺跡の西隣りに位置する尼寺跡へ行くと、
尼寺の回廊跡、


尼寺の金堂跡、


尼寺の講堂跡、


尼寺の中門跡などを見ることができた。
ようやく国分寺僧寺・尼寺跡の見学が終わり、


11時30分、再び北国街道へ。
『信濃国分寺って立派な寺だったんだね~っ』
『良い勉強になったよね~っ』


上堀交差点を


真っ直ぐ進み、上田市国分町へ。
『白かうじ???』


”味噌有”とある。家の造りは老舗のように見える。
『あぁ 糀屋かぁ』 納得である。 


古い家並みが続き、街道らしい雰囲気が漂う。


11時48分、国道141号を横断して進むと、


ポンプ式の井戸があった。
説明板には、
この井戸は、旧北国街道踏入村の生活用水や旅人の喉を潤した古跡です。
昔からこの井戸は、毎年七月に井戸替えをして、八月には砂文字天之川伝統行事が行われています、とある。
『昔からある古井戸なんだ』


上田市踏入付近の古い家並みを通過すると、


信州大学繊維学部入口の前に出た。


12時1分、科野(しなの)大宮社に到着した。


科野大宮社の鳥居と欅の大木
境内には欅の大木が何本か立っており、社叢は市の天然記念物に指定されている。


社伝によれば、第十代崇神天皇の御世に神八井耳命の孫・建五百建命による創建という。
天武天皇の御世に神地の下賜があり、天平年間(729年-749年)には官祭執行の儀があったともいう。
信濃国府は古来上田市にあったとされるが、平安時代初期に松本市へ移されたとされる。
上田市の国府は神科台地上と推定されており、当社は国司が参拝する総社であったとする説がある。
現在の社殿は、万延元年(1860)の上田城主松平忠礼の再建によるもの。(Wikipedia)


科野大宮社の御神紋は、梶の葉。


御神紋 穀(カジ)の苗木が植えられていた。
穀(梶)の木は、桑科の植物で、山野に自生し、古代から神に捧げる神木として、尊ばれた。
この御神木は諏訪大社本宮より寄贈されたもの。


科野大宮社で最後の休憩を摂り、


上田駅を目指す。


上田駅は近い。


12時29分、鷹匠町停留所を通過
『珍しい町名だねぇ』
真田氏によって造られた城下町のうち、城の南東に鷹匠の居住地と定めて造られた町。
真田氏のあと、仙石氏の時代、寛文三年(1663)の記録には、
この町は、鷹匠其の外扶持人の屋敷四十二軒と記されている、とのこと。


12時35分、ゴールの上田駅に到着


ある人は駅弁を買いに、またある人はラーメン店へ向かい、
めいめいお好みの昼食を済ませた。


13時36分発「あさま618号」が入って来た。


「あさま618号」自由席車内は、空いていた。
この後、軽井沢~高崎で、かなりの客が乗り込んだが、
混雑と言うほどでもなく、快適な旅を楽しめた。


ご機嫌なお二人


予定よりもかなり早い帰着で、通勤時間帯に遭わなかったため、
常磐線もゆったりと座れて、めでたし、めでたしだ。
『皆さんっ 昨日今日と連続で大変お疲れさまでしたぁ』


「旧街道を歩く」第十二回(最終回)、北国街道の小諸宿~上田宿間(約25Km)を無事歩き終えた。
皆さんと揃って、元気に上田宿(上田駅)へゴールインできてほっとしている。

今回をもって「特選街道歩き」は終わったが、ほっとする間もなく、
来月から新たに「甲州街道」(内藤新宿~下諏訪宿)を歩くことになった。
どんな旅になるか、今から楽しみである。
また、忙しい一年になりそうである。

この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。

ウマさんの「旧街道(特選)を歩く」目次に戻る。

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特選街道を歩くⅠ 第十二回 (北国街道)小諸宿~上田宿(1日目)

2016年04月24日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2016年4月24日(日)

昨年から、旧街道の中でも比較的交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、
街道の中からある宿間を選んで歩くというものである。
「旧街道を歩く」第十二回(最終回)は、北国街道の小諸宿~上田宿間(約25Km)を2日間かけて歩いた。

この日のスタートは、しなの鉄道の小諸駅から。
北陸新幹線で上田駅からしなの鉄道に乗り換えて、5つ目の駅(400円)だ。

上野駅で朝食・昼食の弁当を買い、新幹線乗り場19番ホームで待つ。
この日の参加者は8名。


乗車するのは、6時58分発の長野行あさま601号。


車内(2号車)はガラガラだった。
中央部に向い合わせで席を確保して、ゆっくりと朝食を摂る。


8時27分、定刻どおり上田駅に到着


上田駅でしなの鉄道に乗り換える。
SUICAが効かないのは、ちょっと不便。


8時39分発小諸行に乗車


しなの鉄道車内も空いていた。


8時58分、この日の出発地小諸駅に到着


9時8分、出発!
先ずは、前回の街道終点荒町一丁目交差点へ。


荒町一丁目交差点からこの日の北国街道が始まる。


「ギャラリーつたや」
江戸時代から昭和初期まで、商人宿として繁盛した旅籠だった。
現在は、骨董や手作り工芸品などを扱う6店が各部屋に出店する共同ギャラリーとなっている。


蔵を備えた大きな家


こちらは骨董店


道路反対側にも骨董・古民具の店が。
『骨董品の店が多いねぇ』


蕎麦屋「そば七」
脇本陣代として江戸後期に建てられた立派な玄関屋根を持つ。


そば打ちの真っ最中だった。
『食べてみたいねっ』


「町屋館みはらし庭」の看板があったので、立ち寄ってみた。
昭和40年代まで味噌・醤油の醸造業を営んでいた旧商家の造りをそのままに活かし、
会議や展示、イベントなど多目的に利用できる施設として整備。


合わせて、浅間山などの眺望を活かした小公園に休憩施設・公衆用トイレを併設し、
本町の情緒あふれるたたずまいに調和した施設として平成13年7月にオープン。


『残念ながら浅間山は雲に隠れて見えないねぇ』


大井伊賀守居城鍋蓋城址
鍋蓋城は、長享元年(1486)大井伊賀守光忠によって築かれたと云われる。
鍋蓋城は、近世小諸城の三ノ丸北側に、鍋蓋曲輪として小諸城代家老屋敷などが置かれていた。


小諸脇本陣
本町が、寛保二年(1742)の洪水でことごとく流失してしまったために、
問屋・本陣・脇本陣などの宿駅の機能は、ここ市町に移った。


小諸本陣
問屋場を兼ねた本陣で、18世紀末~19世紀初頭の建築と推定される。
街道時代の面影をそのまま伝える問屋場建築は全国でも2棟しかなく、国の重要文化財に指定されている。
本陣主屋は小諸駅近くに移築・公開されている。


正面に小さな破風があるのが特徴


日本城郭初期の代表格の大手門
小諸城主仙石秀久が築造した小諸城の正門。
城郭配置から表玄関になり、また本丸から四番目の門であることから、四の門(瓦)とも呼ばれる。
二階入母屋造りの楼門で、石垣と門が一体化していないことや、一階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、
二階は居館形式をとっているなどの特徴がある。


大手門を内から見たところ。
現存の門は、慶長十七年(1612)の建立と云われる。
実戦的で華美な装飾を省いた質実剛健な建築は、弘前城とともに大手門の双璧と呼ばれている。
国の重要文化財に指定されている。(小諸市)


しなの鉄道の下を潜って懐古園へ。


小諸城址懐古園のシンボル三の門
徳川家達(いえさと)公の筆による”懐古園”の大額が掛かっている。
両塀には矢狭間、鉄砲狭間がある戦国時代の戦闘式要害を伝える建物。
国の重要文化財に指定されている。


三の門内側
小諸城は、城下町より低い位置に城を築いた「穴城」で、全国でも珍しい。
「日本百名城」でもある。2010年9月25日(土)に訪れている。


今日と明日(25日)は、ちょうど懐古神社例大祭で、たくさんの露店が出店準備中だった。


懐古園を後にして、北国街道へ。


10時14分、小諸新町の諏訪神社を通過


「牛に引かれて善光寺参り」という諺で有名な布引観音への道標、しかし、北国街道は直進だ。


北国街道


小さな川の橋に”小諸馬子唄”の歌詞が。
こもろ出て見りゃ 浅間の山に 今朝も三すじの 煙り立つ


しなの鉄道を跨ぎ、


国道18号の小諸IC南交差点を渡って、上田方面へ。
北国街道は右へと進む。


10時39分、小諸駅を出発して1時間半、少し休憩していこう。
『こいのぼりの季節なんだねぇ』


西原地区辺り


分岐点に「中部北陸自然歩道」の道標が。
北国街道は「中部北陸自然歩道」でもあるらしい。


国道18号との合流点に観音像が。
『何て言う観音様なのかねぇ』


国道18号沿いに「たかこの布あそび」という、瓦屋根が五層にもなった大きな古民家風の建物があった。
土屋敬子(つちやたかこ)という人の縫ったドレス・シャツブラウス・小物・子供服を陳列している、そうだ。
もとは寿司屋だった、とか・・・


「たかこの布あそび」から少し行ったところに「CAINZ HOME」が。


ここで、一休み。


11時21分、「CAINZ HOME」で北国街道は、国道18号と分れる。


少し進むと、長く立派な塀の家や


大きな蔵などを備えた家々が見られるようになった。
『街道らしい風景になって来たねっ』


これは半鐘
『随分低い所にあるんだねぇ』
『女子供でも手を伸ばせば届くようにしてあるんじゃないっ!?』
そういうことにしておこう。


道端には剣を持った双体道祖神や石仏群も・・・
石には”観音経一千巻 牛馬難消除”と刻まれている。


古い家並みが続く。


11時43分、滋野コミュニティセンター前を通過


本物そっくりの櫓が。
野沢菜・山菜 センターの文字が見える。


牧屋(ぼくや)一里塚の碑
江戸日本橋から43番目(43里)の一里塚。
塚は明治維新の際、民間払い下げとなり、原形を失った。


雷電為右衛門は、信濃国小県郡大石村(現長野県東御市)生まれの江戸時代の大関。
力士生活21年、江戸本場所36場所中での勝率は9割6分2厘であり、大相撲史上、未曾有の最強力士に推す意見も多い。
身長197Cm、体重169Kg※の巨体から繰り出す怪力のため「鉄砲(突っ張り)・張り手・閂(かんぬき)・鯖折り」を
禁じ手にされたという逸話が有名。閂で相手力士の腕をへし折ったとも伝えられている。
※横綱白鵬(192Cm、158Kg)よりも一回り大きい体格である。


雷電為右衛門の死後、文久元年(1861)その履歴と英名を追慕して建てられたのがこの碑で、碑文は佐久間象山の筆。
いつの頃か、その破片を所持したり煎じて飲むと力が出たり丈夫になるとの信仰が生まれ、削り取られたため、
磨耗し、碑文は読むことができない。
このため、明治28年、象山夫人・勝海舟・山岡鉄舟などが新しく建て直したという。
現在、新旧二つの碑がある。


間もなくお昼、どこで弁当にしようかと地図を見ると、近くに神社のマークがあったので、行ってみると・・・
桜井神社という小さな神社だった。


『ここで弁当にしよう!』ということで、


拝殿前で日向ぼっこを兼て弁当タイム。


上野駅で買った駅弁「真田御膳」(1,150円)


海苔で巻いたおにぎりが6個、六文銭をイメージしている。
6種類のおにぎりが味わえて美味しかった。


昼食後の13時1分、街道へ戻る。


胡桃(くるみ)の木が整然と並んでいる。
胡桃が栽培されているとは知らなかった。


北国街道に戻ったところに明治天皇牧屋小休所の碑が建てられていた。


この辺りの半鐘は、一様に低い。


田中宿を目指す。


民家の軒先に慶應三年(1867)建立の筆塚があった。


「郷社縣諏方神社」と書かれた神社があった。
郷社は明治政府の決めた神社の格の一つだが、戦後は廃止されている。
明治四年(1871)全国の神社は官社と諸社に大別され、官社は大・中・小の官幣社と国幣社、別格官幣社に。
また、諸社は府県社・郷社・村社・無格社に分けられた。


近くで子供たちが遊んでいたので、何と読む神社なのか訊ねると、『すわじんじゃだよ』との返事。


境内には、欅の大木が。
神社の歴史は古そうだ。


田中宿に入った?
道路は拡張整備されて、立派な歩道も併設されている。
電柱が見当たらないのですっきりとしている。


『街道らしくないわねっ』


右手に成田山の文字が入った碑があった。長久寺だ。
地元の豪族常田氏の祈願所だったそうである。
入口に六地蔵が並んでいた。


高木屋という新しい店に「田中宿脇本陣跡」と書かれた看板が。
この先の路地を入ると、民家の庭先に本陣跡の門があるそうだが、見落としてしまった。


田中駅の反対側に馬に乗った勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)があった。
勝軍地蔵とは武具・甲冑をまとった地蔵菩薩で、戦いに勝ち飢饉なども免れるそうで、
鎌倉時代以降に武家に信仰された。
悪行や煩悩を破り勝つという仏様で、防火神としても信仰されている。


北国街道を左へ折れると、しなの鉄道田中駅である。


時刻は14時をちょっと回ったところ。
当初の予定では、この日は田中駅がゴールで、上田駅近くで宿泊することにしていたのだが・・・
少しばかり早いので、海野宿へ向かうことにした。


田中宿の家並みを見ながら進む。


海野宿まで1.2Kmの表示


しなの鉄道沿いの遊歩道を進む。


踏切を渡ると・・・


小さな公園に海野宿と刻まれた大きな石があった。
『海野宿に着いたんだねっ』


海野宿東端の白鳥神社境内に聳える御神木の欅の大木。
推定樹齢700年以上で、目通り7.3mとある。


古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊が、この地に滞在したことから、「白鳥神社」と称し、
古代から中世に栄えた豪族、海野氏の祖と伝わる貞元親王・善渕王・海野広道公を祭神としている。


白鳥神社で一息入れて、海野宿へ。


海野宿は、「日本の道百選」、また「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。
昔風の旅籠造りの家並みが、水路を挟んだ両側に続いている。


「うだつ」は、防火・富の象徴として作られた。
海野宿は、明治時代に宿場から養蚕業の地へ変わっていき、財を成した。
江戸時代には、佐渡の金が通っていたので『金の街道』と呼ばれ、
明治時代に養蚕を始めてから『絹の街道』と呼ばれるようになった、そうだ。
海野宿の「うだつ」は、明治時代に作られたもので「袖うだつ」と言われる。
江戸時代に作られた「うだつ」は「本うだつ」と言われ、形も異なる。


それにしても海野宿の通りには人影が少ない、と言うより見えない。
今日は日曜日で天気も良いのに、街は静まり返っているし、寂しい。


本陣跡があったので覗いてみると、


門を入った正面に大きな庭木があり、中の様子が伺えない。
まるで通せんぼされているようなので、これ以上入るのは止めた。


海野宿大嶋屋
家の前に馬の塩舐め石が置かれている。


一応”営業中”の看板は掛けてあったが、
「昭和62年より27年間営業して参りましたが、この三月で閉店します」の張り紙が。


”お茶でも一服”と立寄ろうとしたが、入口に”宿泊の方のみ”の札が下っていたため、入らなかった。
(他にもお茶屋の1軒くらいはあるだろう、と高をくくっていたら、お茶屋は結局この1軒だけだった)


宿場は続くが、相変わらず人通りは少ない。


お茶屋らしき店を探したが見つからず、いつの間にか「重要伝統的建造物群保存地区」から
「歴史的風致地区」に変わり、


海野宿の外れに来てしまった。
『一服するところが殆どなかったねぇ』
皆さん、少々お疲れの様子。


後は、大屋駅へ向かうしかない。


左手に千曲川を見ながら大屋駅を目指す。


15時29分、大屋駅に到着。
田中宿から1時間30分ほどかかった。


15時44分発の上田行に乗り、


15時50分、一駅で上田駅に到着した。


とりあえずこの日の宿泊先「上田第一ホテル」へ向かう。


16時2分、「上田第一ホテル」に到着


ホテルのロビーで熱いコーヒーで一息入れる。
『疲れたぁ』


ホテルの夕食は日曜日は無いため、外食となる。
16時40分、外はまだ明るい。
食事の前に上田城を見物をしようということで城へ向かった。


道路の反対側を「信州上田おもてなし武将隊」と思しき衣裳の若者が通ったので、
カメラを向けるとポーズをとってくれた。サービス精神旺盛である。
『かっこ良いよっ』


ホテルから約8分、上田城正門に到着
時刻は16時50分、帰る人もいれば、これからという人も。


「真田丸大河ドラマ館」前の屋台にはまだ大勢の人が寛いでいた。


上田城本丸櫓門
正面の櫓門は平成6年に再建されたもの。


東虎口櫓門右にある「真田石」(高さ約2.5m・横約3m)は城内で最大
真田信之が松代へ転封に当たって父の形見に持ち運ぼうとしたが、
大勢の人の力をもってしてもびくとも動かなかったと伝えられる。


櫓門の左側にあるのは角櫓(南櫓)だ。


城内の真田神社には、


真田幸村公が祀られている。


真田神社の左奥に城内唯一の大井戸、真田井戸がある。
この井戸から抜け穴があり、城の北方、太郎山麓や藩主居館跡に通じていたとの伝説もある。


本丸隅櫓(西櫓)


西櫓から上田城址公園を見下ろす。


西櫓横を通り尼ヶ淵へ。


尼ヶ淵
上田城址公園から西櫓を見上げると、その守りの堅さが実感できる。
江戸時代には、ここを千曲川の分流が流れていたため、その防御は強固になった。
崖の高さは12m余あり、上田泥流層の垂直な崖がさらに敵の侵入を難しくした。(説明板)


角櫓(南櫓)下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれている。
中断石垣は、長雨で一部崩落したことから、修復工事を実施した。
中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣がなかった部分であることから、
原形に基づきモルタルで修復している。(説明板)


尼ヶ淵の遊歩道を通って二の丸の堀跡へ。


堀は、二の丸を鈎の手に囲んでおり、その延長は約646間(1,163m)あり、上田城の堅い守りに役立っていた。
その後、昭和3年5月に上田温電北東線が開通し、ここを電車が走っていた。
昭和47年2月に電車は廃止され、現在に至っている、とのこと。
『へぇ~っ ここを電車が走ってたんだぁ』


平和の鐘建設の由来
時の鐘の歴史は、延宝五年(1677年)、時を知らせる鐘として上田城下の住民の親しまれ、
日常生活に欠かすことができなかった。
以来二百数十年の長い間、正しい時を知らせ続けてきたが、大正14年サイレンに代った。
鐘の位置も幾度か変わり、昭和9年に上田城跡のこの場に落ち着いた。
昭和18年大東亜戦争が悪化するに伴い、軍に徴発され、姿を消して鐘楼のみが風雪に耐えていた。
この歴史的遺産をなんとか復元しようと、昭和47年上田市自治会連合会に復元運動が起り、
「平和の鐘」と改め、30年振りに昔の姿に再現された。
再び悲惨な事の起らないよう、市民の平和の願いがこの鐘に込められている。
昭和48年吉日 上田市


17時40分、お腹も空いてきたので上田市内へ。
「真田丸大河ドラマ館」前の屋台は、既に閉まって人影はまばら。


ホテルで紹介された焼きとりの「千串屋」


『かんぱ~いっ』 『今日は大変お疲れさまでしたぁ』

『明日も頑張って歩きましょう!!』

「旧街道を歩く」北国街道小諸宿~上田宿間(初日)を無事歩き終えた。
当初予定していた田中宿までを急遽海野宿までに変更し、その分距離が長くなったため、正直疲れた。
「旧街道を歩く」もいよいよ明日最終回を迎える。
皆さんと揃って、元気に上田宿へゴールインしたい。

この日の万歩計は、33,000歩を超えていた。
30,000歩を超えたのは、昨年(2015)5月25日の中山道(軽井沢宿~坂本宿)以来である。


ウマさんの「旧街道(特選)を歩く」目次に戻る。

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春の花いっぱい 天空の村栃本集落

2016年04月22日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年4月22日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成278度第4回(2016年第15回)、「天空の村 栃本集落」ハイキングに参加した。

当初の計画では、水芭蕉で有名な福島県土湯温泉町の仁田沼へ行くことにしていたが、
常南交通社から『当日は土湯温泉と仁田沼を往復する旅館のマイクロバスの手配が付かない』
との連絡があり、仁田沼は断念せざるを得なくなった。
代りに、と急遽決めたのが、「天空の村栃本集落」である。
「天空の村栃本集落」は、4年前の2012年5月1日に常南交通社のバスハイクで参加したことがあり、
桃源郷のような景色に魅了され、当会でも是非一度行ってみたいと思っていた場所の一つである。
前回の5月1日より約10日早いので、少し時期が早いかと思われたが、果して・・・、

三中公民館6時30分発に合わせて、三々五々参加者が集まってきた。


バスは天川団地入口、土浦市民会館へと廻り、6時50分予定どおり出発。
この日の参加者は26名。
定員27名の中型バスは、空席は一つのみとほぼ満席状態である。


朝食はいつものおにぎりだ。
常南交通社から、近いうちに仕入れ先の都合で無くなるとの情報も。
その後はどこへ注文するか同社で検討中とのこと。
もしかしたら、慣れ親しんだこの弁当も今日が食べ納めになるかも・・・


7時31分、最初の休憩地守谷SAに到着


外環道戸田の幸魂大橋付近。


関越道も特に渋滞にも合わず順調に走り、


8時58分、国道140号の道の駅「はなぞの」で軽い休憩。


その後皆野寄居有料道路を走り、


有料道路を降りたところの皆野町のコンビニで昼食弁当を受取る。
今日はどんな弁当だろう、お昼が楽しみである。


秩父市街地を抜けスタート地の秩父湖二瀬ダムへ向かう。
窓の外には、萌えるような緑が・・・
『ほんときれいだよね~っ』


荒川に沿って二瀬ダムへ向かう。


10時27分、道の駅「大滝温泉」を通過。
帰りに入浴を予定している所だ。


10時42分、ようやく二瀬ダムに到着した。
三中公民館を出発して4時間が経過していた。


この日の準備体操は、Kさんにお願いした。
『身体を大きく捻りま~す』


『腰を廻しま~す』


10時50分、Oさんを先頭に出発!
ゴールは4時間後の15時頃が目標である。


先ずは歩行者専用の二瀬隧道へ。


二瀬隧道を抜けると、


左手に二瀬ダムが見える。
『うわっ 素敵ね~この景色』
新緑に包まれた秩父湖の景色に早くも歓声が上がる。


秩父湖に沿って進む。


秩父湖(栃本方面)を望む。
『あの山の向うが栃本なのかしらっ?』


『山桜の咲いてるのが見れるなんて来て良かったぁ』


2つに分岐している道を右手の栃本集落方面へ進む。
左側は戻って来る道である。


栃本集落への道は緩やかな上りとなっている。


『あら~ 素晴らしいわね~っ』
4年前より10日も早いが、今年はやはり暖冬なのだろう、花はそろそろ終わりを迎えようとしていた。
しかし、何とか花に間に合って良かった。(内心ほっとした)


『この花は何て言うのかしら?』
ふっくらしているのは牡丹桜と思われる。


石垣がきれいに積まれている。
『見事な石垣だねっ』


麻生加番所跡
寛永二十年(1643)幕府の役人が当村巡見の際、栃本関の警備の手薄なのを見て、
麻生に加番所を設置するよう指令があり、設置されたものである。
施設は簡単で、名主宅を役所とし、別に間口3.8m、奥行2.7mの番人詰所があった。
この番屋の建設補修費総て古大滝村の村費によりまかなわれた。
番屋は現存せず、現在の家は安政四年(1857)11月焼失のため新築されたもので、
今も同家を番所と呼んでいる。(秩父市教育委員会)


個人宅の庭先の桃もきれいだ。


麻生集落を進む。


菜の花に囲まれた小さな祠
昔と変わらぬ風景なのだろう。


道端の六地蔵や石仏も風情がある。


あまり車が通らないので、道一杯に広がって歩くのは実に気分が良い。
しかし、たまに車が通ると、右往左往である。


麻生集落を過ぎ、次の栃本集落を目指す。


山吹の黄色が鮮やかで美しい。


紅白の桜が咲いていた。


『花びらも紅白になってるんだねっ』


見上げる先には・・・


間もなく満開を迎える牡丹桜や、


ボケ(木瓜)の花が。
果実が瓜に似ており、木になる瓜で「木瓜(もけ)」とよばれたものが「ぼけ」に転訛(てんか)したとも、
「木瓜(ぼっくわ)」から「ぼけ」に転訛したとも言われる。(Wikipedia)


シャクナゲ
『もう咲いてるよ』
『今年はみんな早いんだねっ』


『次の冬に備えて随分用意が良いわねぇ』
『きっちり積んでるのをみると几帳面なんだねっ』


谷合いの新緑の景色も良い。


桃の赤と若葉のコントラストが素晴らしい。


11時43分、旧「光の村養護学校」前を通過。
「光の村養護学校」の前は、大滝村立「上中尾小学校」だったが、生徒がいなくなり廃校に。
その後「光の森養護学校」として使われていたが、今はその養護学校も廃校となっている。


栃本集落へ


以前は杉林だった筈だが、杉が伐採されたために視界が開けている。


谷の向うに薄緑の山が聳える。


伐採された杉は一部で、まだ残っている杉林は多い。


杉の木立が美しい。


『もうそろそろ栃本集落かな?』
二瀬ダム駐車場を出発してここまで約1時間15分経過していた。
栃本集落は間もなくと思われる。


『これは見事な桜だねぇ』


牡丹桜のようだ。


栂の尾根 いくつか越えて 栃本の 里えいそぎし 旅を忘れじ” 田部重治


桃源郷とはこういう景色のことを言うのであろうか?
『ほんと素晴らしい色合いだね~っ』


栃本集落だ。
整然と積まれた山間の石垣が「秩父往還道」だった頃の面影を残している。


谷の先に国道140号を望む栃本集落。


12時23分、栃本関跡に到着。
栃本関は、中山道と甲州街道の間道である秩父往還の通行人を取調べるため設けられたもので、
その位置は、信州路と甲州路の分岐点になっている。


その始まりは、戦国時代、甲斐の武田氏が秩父に進出したとき関所を置いて山中氏を任じたと伝えるが、
徳川氏の関東入国以後は天領となり、関東郡代伊奈忠次が慶長十九年(1614)大村氏を藩士に任じたという。
以後、大村氏は幕末まで藩士の職を代々務めたという。(秩父市教育委員会)


栃本関跡隣の栃本会館前には、「日本の道百選 秩父往還道」の碑が立てられている。


路傍の石仏が、往時の面影を偲ばせる。


栃本集落を進む。


『かなり古そうな家だねっ』
『旅館かしら?』


赤いポストの横の道を


上って行くと・・・


10分ほどで桃源郷のような景色が現れた。千島集落である。
『いやぁ これは素晴らしい景色だ』
『春爛漫だねっ』


ここで一休みしよう。


『まさに天空の村だねっ』


ここで昼食にと思ったが、3名が下で待っているとのこと。
ここは下ることにした。


12時53分、全員揃ったところで、折り返し地点へ向かう。
そこで弁当にしよう。それまでしばしの我慢である。


『芝桜も良いわね~っ』


「東京大学農学部附属秩父演習林 栃本作業所」
研究者の宿泊施設と管理者の事務棟があるそうだ。


『こんなトラクター使って何してるんだろうねっ?』


栃本集落から長い下り坂が続く。


山吹の鮮やかな黄色い花が目を楽しませてくれる。


13時10分、折り返し地点の東屋に到着
ここでようやく弁当タイムだ。


東屋に入れなかった人は、石垣に腰かけて、


『弁当を美味しく食べるには外に限るねっ』


この日の弁当
まずまずの味、概ね好評だった。


弁当が終わり、出発直前に皆さん何かに夢中な様子・・・、


荒川の源流が流れていた。
『ほんと水がきれいだねっ』


13時43分、あらためて二瀬ダム目指して出発だ。
目標としている15時まで残り約1時間20分、15時までに到着するのは難しいかも・・・


国道140号大峰トンネルの右手が目指す二瀬ダムだ。
右手も国道140号である。


白い牡丹桜が満開だ。
『いやぁ 白い花がきれいだよ』


二瀬ダムを目指す。
大峰トンネルが出来る前は、車はこちらを通っていた筈だが、今は車はほとんど通らない。


民宿「ふるさと」
随分寂しいところに建っているが、利用する人はいるのだろうか?
(折返し地点から二瀬ダム手前の合流点までの間(約6Km)に家はこの一軒だけだった)


荒川の流れる音が周囲に響く。


14時12分、不動滝入口にある東屋を通過。


『紅葉の緑がほんときれいだねっ』
『秋もきれいでしょうねっ』


秩父往還道の家並みが見える。
『あそこを歩いたんだぁ』


14時20分、大岩を通過


山吹の黄色がひときわ美しい。


『水が青くてきれいっ 底が見えてるよっ』
それまで聞こえていた水の流れる音が聞こえなくなった。
荒川はいつの間にか秩父湖になっていた。


秩父湖の湖面は波ひとつなく、鏡のように周りの木々を映している。


秩父湖吊橋
先頭グループは次々と吊橋を渡っている。


尻込みする女性陣の中にはおそるおそる渡る人も。
『けっこう揺れてるねっ』 『ちょっと勇気がいるわねっ』

秩父湖吊橋が、自殺の名所としても知られている、と知ったのは帰ってからのこと。
橋の中央部で、恋人と友人に惨殺された女性の霊の姿が確認された、そうである。
「稲川淳二 恐怖の現場」というビデオで取り上げられた、とのこと。

中央付近は、絶好の撮影ポイントだ。


上流側


下流側


湖面に写る吊橋


右手に秩父湖を眺めながら、


秩父湖に沿った遊歩道を進む。


秩父湖上流側を望む。
秩父湖吊橋が見える。


15時10分、一般道に合流し、二瀬ダムへ向かう。
目標の15時は過ぎてしまった。


『毎日秩父湖を眺めながら暮すせるって羨ましいわねっ』
実際どんなものか住人に聞いてみたい。


駒ヶ岳橋を渡り、


15時19分、二瀬ダムに到着した。
予定よりかなり遅れている。


二瀬隧道を抜けると、


ゴールの二瀬ダム駐車場が見えてきた。


15時31分、ゴール。
結局、予定より30分遅くなってしまった。


やや疲れはあるものの、この日最後の目的地滝沢ダムへ向かう。


ループ橋が見えた。


巨大な滝沢ダムが見える。
『けっこう大きなダムだねぇ』


15時54分、滝沢ダムに到着。


ダム湖(奥秩父もみじ湖)


滝沢ダムからループ橋を望む。
『あそこを通ってきたんだねっ』


エレベータで121m下の地下B2へ。
『B1とB2の間が86mもあるんだぁ』


地下道には、工事中の写真などが展示されている。


71段の階段を上ると、


滝沢ダムの真下に出た。


後ろを振り返るとダムが覆いかぶさるように聳えている。
『うわぁ これは凄いっ 迫力があるね~っ』


放水路に架かる吊り橋から見上げたところ。
『よくこんなでかいものを造ったよねっ 圧倒されちゃうよねっ』


『人間の力って本当に凄いねっ』


最後に吊橋からループ橋を観て、16時30分、帰路についた。

滝沢ダムは、昨年(2015年)11月22日に訪れている。
詳細は、こちらでご覧いただければと思っている。

帰りは渋滞無しでも4時間はかかる。
入浴には最低1時間はみておく必要があるため、今回入浴はパスすることにした。


後部座席ではいつものメンバーが盛り上がっている。

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

今回、当初の予定だった「仁田沼の水芭蕉」を変更し「天空の村栃本集落」ハイキングを実施した。
前回(2012年5月1日)よりも10日も早かったので、前回と同じような花が見れるか内心心配したが、
桃源郷を思わせるたくさんの花を見ることができたのは、良かったと思っている。
しかし、渋滞にも遭わず、順調に走っても片道4時間超は、やはり秩父は遠い、と感じた。

この日の万歩計は、26,000歩を少し超えていた。
かなり歩いたというのが実感である。


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不動峠 山桜の代りに新緑を満喫

2016年04月15日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年4月15日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成278度第3回(2016年第14回)、「不動峠の山桜」を愛でるウォーキングに参加した。
不動峠の山桜を目指すのは、2012年4月20日(金)以来で4年ぶりとなる。

4月1日の権現堂桜堤4月9日の下妻砂沼公園に続き、この日の不動峠の山桜、
3週連続で桜を愛でようという、欲張った企画である。
と言うより、半年以上も前に桜の時期に合わせて企画するというのは極めて難しいことから、
このうちのどれかには当たるだろうという考えである。
幸いにも権現堂桜堤、下妻砂沼公園では満開に近い桜を愛でることができたが、
果してこの日、不動峠の満開の山桜を観ることができるだろうか?

第一集合場所の乙戸沼公園
4月末が満開になる白い八重桜が早くも見頃を迎えている。


ピンクの八重桜も一二分咲といったところだ。
やはり例年以上に開花の時期が早い。


乙戸沼公園に集まったのは、17名。
車4台に分乗し、第二集合場所の筑波総合体育館へ。


9時40分、筑波総合体育館に到着すると、既に15名が直行していた。
この日の参加者は、32名となった。


会長の掛け声で準備体操


『腰を落として~っ』


『思いっきり背中を伸ばして~っ』


9時51分、Oさんを先頭に不動峠を目指して出発!


筑波総合体育館の隣の北条大池へ。
大池の周りの桜(ソメイヨシノ)はすっかり散ってしまっていた。
桜まつりの提灯も取り払われていた。
土手には、早くもツツジが咲き始めている。


北条大池から筑波山(877m)を望む。


北条大池を時計方向に進む。


北条大池に沿って進むと・・・


右手に宝篋山(461m)が望める。


北条大池を後に、平沢官衙遺跡方面へ。


9時59分、平沢官衙遺跡横を通過。


平沢東地区付近


平沢東地区付近
『宝篋山がきれいに見えるわねっ』


快調なペースで先頭を歩くOさん。
今日も元気だ。


平沢東地区の分岐点を左に進むと不動峠方面だ。


以前は見られなかったが、このような看板をところどころで見掛けた。


ここ数年、筑波総合体育館から不動峠を目指す自転車が多い。
自転車ブームなのだろう。
峠からは下りだけなのでかなりのスピードが出る。


緩やかな上りが続く。


木々の隙間から時折宝篋山が見え隠れする。
常緑樹の濃い緑と芽吹いたばかりの薄緑のまだら模様のコントラストが春を感じさせる。


次々と若者の自転車が坂道を上って行く。
『若い人は元気が良いねぇ』


10時19分、身体が温まって来たので道端で一休み。


頭上に山桜の枝が伸びていた。
『花は少し残ってるけどもうほとんど終わりに近いねっ』


『新緑がとってもきれいだよっ』


山桜に代わって、新緑の薄緑が軟らかく山を包み込んでいる。


薄日が差し込む新緑のなか不動峠を目指す。


芽吹いたばかりの新緑のトンネルが美しい。


『新緑の中を歩くのって、ほんと気持ちが良いよねっ』
上機嫌のS子さん。


いつもの年より大分早く新緑の季節を迎えている感じだ。


『紅葉も良いけどソフトな感じの若葉も素敵ねっ』


先ほど歩いたのと同じような坂道が続く。
『何回目のカーブかしらねっ』


視界が開けた場所に出た。


正面にはまだら模様の宝篋山が望める。


その右手にはつくば市方面の景色が広がる。
都心方面は、あいにく霞んでいる。


黙々と不動峠を目指す。
皆さん少し疲れた様子だ。
『頑張って~っ もう直ぐですよ~っ』


岩の間から水が流れている。
もしかしたら飲めるのかな・・・


岩を伝って一筋の水が流れ落ちていた。
これを滝と言うのは少し無理か?


自転車の若者が次々と追い抜いていく。
最近は女の子も見掛ける。


ツツジを見掛けた
『もうツツジが咲いちゃってるよっ』


不動峠が近づくにつれ宝篋山が微妙に姿を変える。


この日の不動峠近くの眺望


不動峠の大半の山桜は薄緑へと衣替えしている最中だった。
しかし、これはこれでなかなか美しい。


4年前の2012年4月20日(金)に撮影したときはこんな感じだった。
今年は開花がかなり早かったことが分かる。


ところどころに山桜の花がまだ残っていた。
辛うじて山桜が見れたという感じである。


間もなく不動峠だ。


不動峠を跨ぐパープルラインの橋が見えてきた


峠の東屋へ。


11時17分、不動峠の東屋に到着。
筑波総合体育館を出発して1時間25分かかったことになる。
『最後はちょっと疲れたわねっ』


『お茶が美味いっ』


峠で見かけた山桜


麓の筑波総合体育館が見えた。
(手前の枝にピントが合って肝心の建物はボケてしまった)


11時28分、この日午後2時半から総会を予定しているため、早々に下山開始だ。


上りに1時間25分かかったので、下りは1時間10分程を目標にしよう。
できれば12時40分までに筑波総合体育館に到着したい。


下りは緩い坂道なので、ペースは快調である。


時折姿を見せる宝篋山を眺めながら下る。


麓の平沢東地区の民家がはっきりと見えてきた。


『頑張って』 思わずエールを送る。


新緑の緑が殊の外美しい。


視界が開けた。


平沢東地区から見た宝篋山


12時16分、社会福祉法人「筑峯学園」前を通過


平沢東地区の分岐点(平沢官衙遺跡は右方向)を左へ。


12時22分、八幡川に架かる平成橋を渡る。


左手に不動峠方面の山々を望む。
『ほんとにのどかな景色だよねっ』


田んぼには田植えに備えて既に水が張られ始めている。


田植えの準備は着々と進んでいるようだ。
この辺りが、あの美味しいと評判の北条米の産地なのだろうか?


12時33分、つくば市「市民研修センター」前を通過


12時34分、ゴールの筑波総合体育館に到着した。
予定より5分ほど早く着いたことになるから上出来である。


次々とゴールしてくる。
この日は、午後2時半から総会が予定されているため、整理体操は省略だ。
ここでいったん解散し、第一集合場所の乙戸沼公園へ戻ることに。
それぞれお好みの昼食後、あらためて総会の場所(三中公民館)へ集まることにした。

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『総会への出席よろしくお願いしま~す』

14時30分、三中公民館で予定どおり総会を開催
総会のみ出席の人も10名ほどいて、例会も含めた総出席者は42名となった。
総出席者が40名を超えたのは初めてである。


平成27年度は、44回計画し35回実施したことになる。
雨で9回中止となったが、これは過去最高。
これまで多くても3-4回だったことから、雨に祟られた1年だったと言える。
そんな中で皆勤賞は、自称ウマさんである。


精勤賞(例会不参加3回以内)は全部で6名。
これは過去最高の受賞者数となった。
A子さん


Oさん


S子さん、


TKさん、


TSさん、


会長も堂々の精勤賞である。
副会長のOさんが賞状を授与する。


総会も終わり、荒川沖駅前の「庄や」で新役員有志による懇親会を開催した。


『かんぱ~いっ』
『今年もよろしく~っ』

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


今年度は、第1回の権現堂桜堤(4月1日)、第2回の多賀谷城址公園(4月9日)ではほぼ満開の桜を観ることが出来た。
続けてこの日は不動峠の山桜にも期待したが、あいにく桜花は終わり若葉に衣替えしてしまっていた。
しかし、新緑の若葉は紅葉に匹敵するほどの美しさがあった。
この日は山桜に代わって新緑を満喫した一日となった。

来年もこの時期には新たな場所の桜や新緑が満喫できるよう、会員の皆さんからコース・場所を募集していきたい。

この日の万歩計は、16,000歩を少し超えていた。

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コメント
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