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ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

青と朱に彩られた 裏磐梯五色沼・桧原湖散策

2014年10月31日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2014年10月31日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成26年度第23回(2014年第33回)、「裏磐梯五色沼・桧原湖散策」ウォーキングに参加した。

この日のコース地図
裏磐梯五色沼の毘沙門沼をスタートし、五色沼を愛でながら「五色沼自然探勝路」を進む。
五色沼の次は、「桧原湖畔探勝路」へと進み、ゴールの裏磐梯サイトステーションへ至る、
全長約10Kmのコースである。
この日のコースは、当会へ入会した2009年7月30日以来だから、5年振りとなる。
メンバーは、当時とかなり変わっており、6割以上が初めての参加である。


日の出直後の6時11分、出発場所の土浦三中地区公民館に常南交通の中型バスがやってきた。
まだヘッドライトを点けている。


三中地区公民館では20名が乗り込んだ。
この後、バスは天川団地・土浦市民会館へと回り、参加者27名を乗せ、常磐道へ。
『天気も良さそうだし、楽しみだわっ』


いつもの朝食弁当でしっかりと腹ごしらえをして、


7時59分、常磐道中郷SAで最初の休憩


9時2分、磐越道阿武隈高原SAで2度目の休憩


車窓から磐梯山が見えてきた。
こちらの天気は上々である。


10時12分、スタート地点の裏磐梯五色沼に到着。
シーズンたけなわとあって、たくさんの観光バスが停まっていた。
昼食弁当を受け取り、


土産物店で体調を整えて、準備万端。
『今日は、傘持ってかなくても大丈夫だよねっ』


10時24分、会長を先頭に出発!
風邪気味だと仰っていたが、とても調子が悪いようには見えない。
出発地の毘沙門沼前は、大勢の人で混雑しているため、準備体操は省略だ。


毘沙門沼前の真っ赤なもみじ、紅葉真っ盛りである。
『やっぱり赤いもみじは良いゎねぇ』


青い毘沙門沼も素晴らしい。
毘沙門沼は、五色沼の中で一番大きい。


五色沼に沿った「五色沼自然探勝路」を進む。
コースは全般的に平坦だが、少しばかりのアップダウンもある。


木々の間から見える毘沙門沼
『本当に青が素敵だわぁ』


ところどころに観られる赤いもみじとのコントラストも見事である。
『最高の時期に来たようねっ』


毘沙門沼を抜けると、雑木林が続く。


大きなシダの群生も見られる。


赤沼
『赤くは見えないわよねっ』
緑色の沼だが、一面に苔が茂っていてところどころ赤茶になっているところから、赤沼と呼ばれる。


深泥沼(みどろぬま
『深い緑色が素晴らしいねぇ』


自然探勝路を快調に歩く。


直ぐ傍を小川(沢)が流れている。
周りの森に響く水の音が心地良い。


竜沼は、自然探勝路の真中辺りにある。
木々や草などで、沼面が見え難い。


『今日のコースは楽で良いわ~っ』
『いつもこんなコースだと良いのにねっ』


青い弁天沼が見えてきた。


弁天沼
向かい岸の赤いもみじを入れるのがカメラ目線、とのこと。


11時4分、弁天沼脇で一休み。
『いやぁ 素晴らしい景色だよなぁ』
あちこちから『美しいっ』『綺麗っ』の声が聞こえる。


どこから撮っても美しいとしか言いようがない弁天沼である。


弁天沼の展望台へ上がってみる。
『ここからの景色は、最高だねっ』


弁天沼が一望である。


るり沼
鮮やかなコバルトブルーの沼。
時間ごとに色が変化するらしい。


るり沼
後ろに見えるのは磐梯山だ


青沼
ゴバルトブルーが一段と美しい。


展望所から観た青沼も『素晴らしいっ』の一言。


柳沼(やなぎぬま
湖面に映るもみじが映える。


自然探勝路の西端の柳沼は、これまでの沼のように青くもなく、
ひっそりと佇んでいる、という感じである。


11時40分、桧原湖畔に到着。


体調を整え、昼食場所を求めて国道459号線を進む。


赤く色付いたかえでが目を楽しませてくれる。


国道459号線を進む。


紅葉した落ち葉を手に、
『何か記念にと思って・・・』


国道459号から分かれて桧原湖畔探勝路に入る。
いきなり”熊注意”の看板が目に飛び込んできた。
『何だかぶっそうだわねぇ』


案内に従って桧原湖畔探勝路を進む。
裏磐梯サイトステーションまで6Kmほどである。


桧原湖畔探勝路を進む。
和気あいあいで何やら盛り上がっている。


桧原湖畔探勝路は、五色沼の青に代わって赤く染まった紅葉に包まれている。
『沼の青と紅葉の赤の両方が楽しめるって最高ねっ』


12時16分、桧原湖岸に出た。


砂浜もあるし、磐梯山もよく見える。


ここで、磐梯山を眺めながら弁当タイムにしよう!


『今日の弁当、美味しいわぁ』


この日の弁当は、
海苔巻きおにぎり2個に、焼シャケ・豚カツ・がんも・スパゲティと、
デザートに餡入りの一口だんごも付いていた。


弁当も終え、磐梯山をバックに記念撮影だ。


12時53分、ゴールの裏磐梯サイトステーション目指して出発!


突然現れたホテルのような建物
この辺の景色には、ちょっと不釣り合いのような気もするが・・・


朱に染まった紅葉が素晴らしい。


湖面に赤いもみじが映える。


『桧原湖の景色も良いねぇ』
明治21年(1888)の磐梯山の大噴火により、流れ落ちた火山泥流は、”マンジュウ”の形をした
大小さまざまな”流れ山”を造り、桧原湖岸の島々や凹凸に富んだ地形となった、とのこと。


夏にはさぞかし賑わったであろう、「いかり潟キャンプ場」前を通過。
今は既に営業を終了して、ひっそりとしている。


吊り橋を渡る。
”一度に20人以上は渡らないで”とあるが・・・


吊り橋から見た景色


どっかのCMではないが、『○○人乗っても大丈夫っ!』といった感じで、びくともしない。
『頑丈な造りだよねぇ』


盛期は幾分過ぎたようだが、まだまだ紅葉は美しい。


13時23分、小さな東屋で一休み。


裏磐梯サイトステーションを目指す。


13寺36分、レイクランドヒバラ・オートキャンプ場手前の小さな浜に到着


小さな浜の景色


レイクランドヒバラ・オートキャンプ場
たくさんのキャンピングトレーラーが並んでいる。
備え付けのキャンピングトレーラーで宿泊出来るようになっているが、
自前のキャンピングトレーラー親子を見掛けた。


今はボートよりカヌーの方が人気があるようだ。


静かな桧原湖をカヌーで漕ぎ回るのも面白そうだ。
機会があれば、是非やってみたい。


しらかば橋を渡り、


中瀬沼探勝路(右)と桧原湖畔探勝路(手前)の分岐点を過ぎると、


13時53分、ゴールの裏磐梯サイトステーションに到着した。


整理体操をして、入浴のため「ラビスパ裏磐梯」へ向かった。


14時40分、ラビスパ裏磐梯に到着。
実は、この日の入浴希望者は16名。
残り11名は、バスの中で待っていてもしょうがない、と言うので、
ラビスパ裏磐梯への途中にあった道の駅「裏磐梯」で時間を潰すことに。


貸切状態の風呂で、ひと風呂浴びて、


飲む一杯は、『美味いっ』


『いやぁ 素晴らしい景色だねぇ』
ラビスパ裏磐梯前で一斉にカメラを構える先には、


遠く朝日連峰方面の山々が見えた。
まるで一幅の日本画を見ているようだ。


15時32分、道の駅「裏磐梯」で時間を潰していた11名と合流し、帰路についた。


帰りのバスは、いつものように後部座席を中心に盛り上がった。
『これが何よりの楽しみなんだよなぁ』


途中立寄った中郷SAでは、何も土産になるものが売られていなかったため、
”土産休憩”と称して、あらためて友部SAで最後の休憩を取った。


皆さん、土産品選びに余念がない。
当会は、バスハイクの際などには、必ず土産を買い求める人が多いように思う。
一日外で遊んで楽しませてもらった、という家族への感謝の気持ちの表れであろうか。
かく言う自分も、かみさんに土産を買った。


『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


自身としては、2度目のコースとなったが、天気に恵まれ、五色沼の青と朱に染まった紅葉を堪能した一日であった。
渋滞は全く無く快適なバス旅行だが、片道約4時間近くかかり、料金もそこそこ高いので、そう何度も訪れる
ということは出来ないが、機会があればまた歩いてみたいコースだと思う。


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好天に恵まれて 歩崎公園から富士見塚古墳へ

2014年10月24日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2014年10月24日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成26年度第22回(2014年第32回)、「歩崎から富士見塚古墳」ウォーキングに参加した。


この日のコース地図
歩崎公園をスタートして、途中田伏の鹿島宮に立ち寄り、富士見塚古墳を目指す。
富士見塚古墳から霞ヶ浦の湖岸を歩き、霞ヶ浦大橋を渡って霞ヶ浦ふれあいランドへ。
行方市観光物産館でちょっぴり買い物を楽しみ、再び霞ヶ浦大橋を渡り、湖岸に沿って歩崎公園へ戻るという、
全長約14Kmのコースである。


第二集合場所の歩崎公園
直行した6名と併せ、この日の参加者は21名。
駐車場には幼稚園児たちを乗せた大型バスもやってきた。


体調を整えて、いつもの準備体操!


9時50分、Oさんを先頭に出発!


歩崎水族館の入口を潜り、


公園の中を進む。


『行ってらっしゃ~いっ』
『ありがとうっ 行ってくるよぉ』
幼稚園児たちの声援に送られて、水族館を後にした。


『あれ、ひょうたんだよねっ?』


立派な瓢箪である。
『たわしに使うのかねぇ』


しんがりを務めるTさん、『こっちはマイペースで行くよっ』


10時14分、鹿島宮に到着。


この日の無事安全を祈願


境内で軽く一休み。


なにやら話しが盛り上がっている。


田伏郵便局辺りを進む。


この時期は果物のシーズンでもある。いろんな果実が目を楽しませてくれる。
小さな実がびっしりと生っていた。よく見ると柿だった。
大きさはきんかん程しかない。
山柿・豆柿は、大型の生け花の材料になったりしている、そうだが、これは豆柿だろうか?


『美味しそうだねぇ』
温州みかんである。


『これっ 甘柿かなぁ』


見事に熟れた柘榴も。


10時34分、国道354号の交差点に到着。


国道354号を横断して、


車の少ない、霞ヶ浦湖岸へ。


湖岸に沿って進む。
『しかし、良い天気だねぇ』
昨日とは打って変って汗ばむくらいだ。


目指す富士見塚古墳のある柏崎方面


『霞ヶ浦も空も青いし、ホント気持ちが良いわぁ』


小さな漁港を通過


小休止したいが、適当な場所が見つからない。
『もうちょっと先へ行ってみよう』


ということで、
菱木川に架かる水神橋を渡ったところで、


2度目の休憩だ。


楽しみのひと時のお茶タイムである。
『これどうぞっ』
『ごちそうさまぁ』


富士見塚古墳を目指す。
『もう少しだねっ』


11時13分、富士見塚古墳公園展示館に到着。


古墳公園の案内図を確認し、


2階の展示館を見学
田伏中台為都南(いずな)住居郡跡からの出土品が展示されている。
ゴルフ場になるため、発掘調査をしたところ、22戸の住居跡が発見された、そうだ。
4世紀から7世紀にかけての、製塩用を含む土器類の外に、漁網用の土錘や防錘車などがあった、とのこと。


出土した円筒埴輪などが展示されている。


富士見塚古墳へ向かう。


『今日一番きつい坂道だねっ』


坂道を上りきると、左手に富士見塚1号墳(前方後円墳)が聳える。
一見円墳が二つ並んでいるように見えるが、手前が前方部で奥が後円部となっており、
全長78m、高さ11.5mと計測されている。


てっぺんに上ってみよう。


後円部の高さは、11.5mある。


後円部のてっぺんに到着。
『霞ヶ浦がよく見えるわねっ』
『富士山は見えないのかぁ』


『加波山で我慢するかぁ』
かつてはその名のとおり、富士見塚古墳から富士山が見えたのだろうか?


前方部にも行ってみよう。


前方部の頂上の高さは11.3mとのことで、後円部とは20Cmしか差はない。
『景色は殆ど同じだねっ』


前方部から直接下る。
『転んだら大変だねっ』


富士見塚2号墳
直径約25mの円墳で、造られた時期は、1号墳と同じく5世紀末から6世紀初頭と考えられている。


富士見塚3号墳
直径約18mの円墳で、造られた時期は、1号墳より100年ほど後の6世紀末頃と考えられている。


古墳で弁当でもと思ったが、まだ少し時間が早いし、お腹もそんなに空いていない。
霞ヶ浦ふれあいランドへ進もう。


富士見塚古墳公園展示館を後にして、


霞ヶ浦ふれあいランドへ向かう。


水神橋の一つ上流の権現橋を渡る。
往きと復りは違った方が良い。


『この時期白鳥がいるんだぁ』
『もう渡って来ちゃったのかねぇ』


霞ヶ浦ふれあいランドへ向かう。


『あとどのくらい歩くのかしら?』
『さぁ 30分くらいじゃないっ?』 無責任な答えである。


いつの間にか先頭はTさんに代わっていた。
かなりペースが早い。


展望塔「虹の塔」が見える。


次第に先頭グループは男性ばかりになった。


快調過ぎるほどのペースである。


のんびりと竿を出す太公望の姿も。


霞ヶ浦大橋が近付いてきた。


信号がないため、車が途切れたのを見計らって、国道354号を横断し、


霞ヶ浦大橋を進む。


「虹の塔」が次第に大きくなってきた。


行方市とかすみがうら市の中間点を通過。


霞ヶ浦ふれあいランドはもう直ぐだ。


国道354号の下を潜って進むと、


12時43分、「水の科学館」横の公園に到着した。
富士見塚古墳公園からちょうど1時間が経過していた。
30分ではちょっと無理だったということ。
意外に距離があり、時間がかかった。


『良い公園があるじゃないっ』


『お腹が空いた~っ ここで弁当にしようっ!』


女性たちは、日焼けを気にしてか、木陰で弁当を広げている。


昼食の後、文化祭展示用の記念撮影を済ませて・・・


行方市観光物産館で買い物を楽しむ。


たった今しがた弁当を食べたばっかりなのに?
皆さん、食欲は旺盛とみえる。
かく言う自分も”大人気”の文字に釣られて、「白帆焼き」(2個240円)を買い求めた。


この日の筑波山は霞んでいた。


13時32分、ゴールの歩崎公園を目指して観光物産館を出発!


霞ヶ浦大橋への近道?を上り、


霞ヶ浦大橋へ。


霞ヶ浦大橋を渡り、後は歩崎公園へ向かうだけだ。


霞ヶ浦大橋の袂に水難者供養塔が建てられている。


西日を浴びながら歩崎公園へ向かう。


13時54分、田伏の小さな港を通過。


後半、先頭を務めるTさん。
快調なペースで、先頭を引っ張る。


後続との差が少しづつ広がってきたところで、


隊列を合わせるために、最後の休憩を取る。
『何か見えるの?』


『カワセミがいたらしいよっ』
『カワセミかぁ 見たかったなぁ 残念っ』


ゴールの歩崎公園へ


湖面にたくさんのカモが浮かんでいた。
『もう渡って来たのかしら?』


『歩崎観音の展望台が見えてきたねっ』


例会の後、役員会を予定しているので、歩崎観音の展望台はまたの機会ということで・・・


14時26分、ゴールの歩崎公園に到着。


『ようやく着いたわねっ』


『ちょっと歩き疲れちゃったっ』
平坦とは言え、全長14Kmはちょっと長かったかな?
実際にはそれ以上歩いているだろうし、万歩計は20,000歩を優に越えていた。


締めの整理体操をして、
『今日は大変お疲れさまでしたぁ』


かすみがうら市郷土資料館前の佃煮屋「ガーデンパーク・シェル」(旧貝塚商店)へ。
『あれっ 閉まってる感じ~ 今日はお休みかしら?』


休みではなかったことに一安心。
『どれにしようかなっ』


晩のおかずに、酒のつまみに、帰省のお土産にと次々に買い求めている。
店内は時ならぬ来客で大賑わい、大忙しである。

めいめいお好みの佃煮を買い求めて、家路に就いた。

これまで何度か歩崎公園⇔霞ヶ浦ふれあいランド、富士見塚古墳⇔霞ヶ浦ふれあいランドは歩いているが、
歩崎公園⇒富士見塚古墳⇒霞ヶ浦ふれあいランド⇒歩崎公園と連続して歩いたのは今回が初めてである。
連続したことにより、全長は14Km以上にもなり、最後はかなり疲れた、というのが正直なところだ。
しかし、好天に恵まれたこともあり、全員最後まで歩き通して良かった。
これからも機会があれば、またこのコースを企画してみたい。


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旧東海道を歩く 第Ⅰステージ第10回 箱根湯本から三島宿(2日目)

2014年10月20日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2014年10月20日(日)

この日は、前日に続いて、第Ⅰステージ第10回(2日目)、箱根関所から三島宿(JR三島駅)までの15Kmを歩いた。

8時からの朝食まで時間があったので、散歩に出掛けた。
「夕霧荘」前の町の様子。まだ人通りはない。


国道1号線に面した駅伝広場に駅伝の碑があった。
「襷」(たすき)と刻まれている。


芦ノ湖側に駅伝のゴール・スタート地点がある。
TVでお馴染みの場所だ。


芦ノ湖から富士山がちらりと見えた。
てっぺんに笠雲がかかっている。
笠雲がかかったあとの天気は、24時間後までに雨になる確率が高いそうだが・・・


穏やかな芦ノ湖に海賊船が停泊していた。


海賊船の近くに駅伝の碑があった。
台座には過去90回の優勝校名と記録が刻まれている。
因みに今年の優勝校は、東洋大(10時間52分51秒)だ。
来年はどこの大学が優勝の栄冠に輝くのだろうか?


宿に戻って朝食だ。


今日は途中ファミレスなど期待できないので、お腹いっぱい食べておこう、ということ?
皆さん、おかわりの連発である。
瞬く間におひつが空っぽになってしまった。


8時36分、三島宿目指して元気よく出発!


箱根町の国道1号線(東海道)を進む。


箱根峠への旧街道への入口を見落として、国道1号線を進んでしまった。
右手にちらりと駒形神社が見えたが、引き返すのも大変である。
仕方なく箱根峠までそのまま進むことにした。


「箱根やすらぎの森」付近から芦ノ湖を望む。


9時6分、道の駅「箱根峠」へ到着。


道の駅「箱根峠」から芦ノ湖を望む。
正面に見えるのは駒ヶ岳(1,356m)だ。
道の駅「箱根峠」は、芦ノ湖より約100m高い、そうだが、もっと高いような気がする。


道の駅で昼食用のパンを購入し、
箱根新道の箱根峠ICと国道1号線の合流点を真直ぐに進む。


箱根峠は豆相国境で標高846m。筑波山男体山(871m)とほぼ同じ高さだ。
国道1号線、箱根新道の出入り口、芦ノ湖スカイラインの合流点で道路が入り組んでいる。
歩道はないので、注意が必要。


国道1号箱根峠の信号を直進すると、箱根旧街道の入口があった。


箱根旧街道を進む。
この辺りの石畳は、現代風の平な石が敷き詰められている。
『やっぱり歩き易いわねっ』


奇妙な形をした石(石像)が並んでいた。
新箱根八里記念碑(峠の地蔵)である。
箱根旧街道を散策する人々にとって、旅のひとときの憩いにと、1985年に設置された。


そして2003年、国交省・三島市・函南町の協力により、新たに8人の女性著名人による揮毫を得て、
新石碑が誕生した、とある。
手前 「細心大胆」 橋本聖子
中央 「我が越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に浪の寄る見ゆ」 源実朝詠 杉本苑子
右 「おしん 辛抱」 橋田須賀子


静岡県に入った。


9時38分、箱根旧街道への入口に到着。


箱根旧街道西坂入口に道標があった。
左側には「是より京都百里」、右側には「是より江戸二十五里」の文字が。
『へぇ~っ 京都まで400Kmもあるんだぁ』


三島宿まで11Kmとなっている。


東屋で一休み。


東屋の左奥に、”北斗欄干”と刻まれた井上靖の八里記念碑があった。
氏は、北海道旭川市で生まれ、中学時代を三島・沼津で過ごした、とのこと。


9時50分、西坂を三島宿へ向け出発!


西坂は、いきなり篠竹のトンネルで始まった。


兜石跡の碑
この辺りが甲石坂と思われる。
坂名の由来は兜石(甲石)があったことによる。
兜石そのものは、旧街道を少し下った接待茶屋のところに移されている。


兜石坂を下る。
下りは楽で良いが、ゆっくり進まないと石で滑って捻挫しかねない。
『足元をしっかり見てないと危険だねっ』


いったん国道1号線に出た。


10時5分、接待茶屋跡に到着。


接待茶屋とは、峠を越える人馬のお助け所のこと。
お茶や飼い葉、薪などを無償で接待した。
明治天皇が接待茶屋で休んだとき、お礼にお金を置いたがそれも受け取らなかった、とか。


山中新田一里塚碑
接待茶屋一里塚とも呼ばれる。
江戸日本橋から26番目の一里塚である。


接待茶屋跡から少し先へ進むと、兜石があった。
兜を伏せた様な形をしていることから兜石と言われている。
『どうしてここへ運んだんだろうねっ?』


明治天皇御小休跡
『明治天皇もこの石畳を通ったんだぁ』


石原坂を下る。


石原坂の途中に念仏石があった。
石碑は、行き倒れの旅人を山中集落の宗閑寺で供養したもので、
「南無阿弥陀仏・宗閑寺」と刻まれている。


杉林の中を進む。


大枯木坂辺りを進むと、


民家のあるところに出た。
庭先のようなところを進むと、


国道1号線に出た。
信号のない横断歩道、車の交通量が多いので、横断には注意が必要だ。


国道1号線を進んで行くと、三島市の標識が。
『ついに三島市に入ったねっ』


旧街道への入口を下る。


願合寺(がんごうじ)地区の石畳復元・整備の説明に見入る。


小枯木坂
平成7年に三島市が整備したもので、願合寺石畳と呼ばれる。


函南町の先の雲助徳利墓手前まで長い下りの小枯木坂が続く。


小枯木坂を下って行くと、雲助徳利の墓があった。
雲助が酒飲みの元武家の仲間のために建てた墓である。
酒でしくじって国許を追放された剣道指南の元武家が、この地で雲助になった。
その武芸・教養ゆえに仲間に親分として慕われるようになった。
墓は、生前お世話になったお礼にと、雲助仲間がお武家を偲んで造られた。


11時2分、山中城の箱根寄り入口(山中新田)に到着


山中城は、北条氏康が小田原防衛のために築城した。
秀吉の小田原征伐のとき、この城は北条方の拠点として秀吉の軍勢と戦った。
味方4千に対し、敵方3万とも5万弱ともいう圧倒的勢力差のため、半日で落城した。
本丸曲輪跡
山中城の中心となった曲輪で、中央の藤棚辺りに本丸曲輪の館があった。


本丸堀を渡って二の丸へ。


山中城二の丸
あまりの天気の良さに、芝生の上で横になってしばし休息。
皆さん、疲れが出てきた感じ。


箱井戸跡
城兵の飲料水として使われていたと考えられている。
この左手にある田尻の池は、洗い場や馬の水飲み場として利用されていた。


山中城を後にして宗閑寺へ
この辺りは山中城三の丸跡でもあった。


宗閑寺は、北条・秀吉の敵味方両軍の戦死者を弔うため江戸期に作られた。
敵味方である北条軍と豊臣軍双方の武将のお墓がひっそりと佇んでいる。


旧街道を進む。


芝切地蔵
山中村で行き倒れになった旅人が、死の間際に『自分を地蔵尊として祭って欲しい。
亡くなった後も、故郷の常陸が見えるよう、芝で塚を造って欲しい。
そうすれば村人の健康を守ってあげます』と言い残した。
村人は地蔵を祭って毎年7月19日を縁日として供養した。
その際作った「小麦まんじゅう」の味が大そう良く、有名になり売れたので、
山中の費用が賄えたと云われている、とのこと、


山中城入口に到着


『三島宿まで8Km、まだ半分も歩いてないのかぁ』
先は長い。


山中城入口前の国道1号を横断して、三島宿を目指す。


司馬遼太郎の八里記念碑を過ぎた辺り、旧街道は工事中のため、通れなくなっていた。


国道1号へ迂回するしかない。


国道1号から沼津方面が見える。
迂回しなければこの景色は望めなかった訳だ。


食堂富士見前から旧街道へ戻ろうとしたが、


何とここも工事中で通れない。


旧街道の傍に迂回路があり、そこを下ったが、一部工事中のところを通るしか道はない。
ちょうど昼飯時だったせいか、工事関係の姿は見えなかった。
工事個所は僅か30mほど、今のうちに通ってしまおう。


上長坂を進むと笹原新田に出た。


箱根西麓・三島大吊橋の工事中である。
日本一の大吊橋になるそうだ。


笹原地区の旧街道石畳を進む。
『そろそろお腹が空いてきたなぁ』
時計は12時7分を差していた。


ということで、眺めの良い場所があったので、そこで昼食を摂ることにした。
『いやぁ なかなか良い眺めじゃん』


昼食と言っても、道の駅「箱根峠」で買ったパンで我慢するしかない。


休憩地には、山梨がびっしりと生っていた。
『これだけの梨が生るって凄いわねぇ』
自分も初めて見た。


旧街道笹原一里塚辺りを進む。


三島宿まで6Kmとある。


強飯(こわめし)坂
東海道箱根西坂(笹原新田)ではもっとも険しい坂で、下長坂と呼ぶ。
頑強な男でも尻込みをするほど急な坂道だった。
人夫の背負った米が、あまりの汗と熱で強飯になるほどだったという。


そんな急な坂道が「強飯坂」と呼ばれるようになった。


強飯坂を過ぎ、国道1号を進む。


”軒下の美術館”の文字が目立つようになってきた。


松雲寺
正保元年(1644)玉沢妙法華寺の松雲院日明が創建。


宝暦十三年(1763)朝鮮使節の江戸参府、文久三年(1863)家茂の上洛などで利用した大名の休憩施設で、
寺本陣としても利用された。


本堂の左手に浄行菩薩像が祀られている。
参詣者は、浄行菩薩に水を潅ぎ、一心にお題目を唱えながら、各自の病気のところをこすれば、
諸々の苦しみが清められる、そうだ。


三ツ谷新田
元和年間(1615-1624)、この付近に3軒の茶屋があったので三ツ屋と呼ばれるようになった。
元和四年、家康より任命された大久保長安が、箱根西坂に5つの新田を作った際に、
この地域を転訛(本来の音がなまって変化)して三ツ谷新田としたとのこと。


法禅寺旧址碑
市山新田の坂小学校の裏手に、法禅寺旧址碑がある。
現在の法禅寺は題目坂の下へ移転している。
市山新田の謂れは、この辺が、箱根に登る時の一番目の山であったことから一の山、
それが転訛して市山になったという。


大時雨坂(題目坂)
市山新田の三島市立坂幼稚園の横が旧東海道で、この急坂を大時雨坂という。
法善寺は日蓮宗のお寺で、江戸時代に寺への道案内の題目碑が出来たことから、
大時雨坂は題目坂と呼ばれた。


市山新田辺りを進む。


帝釈天王法善寺前で一休み。


地蔵堂
旧東海道に面して2組の六地蔵があった。
衆生の苦患を救ってくれるという六地蔵が、蔭から旅行く人を見守っている。
生垣がちょっと邪魔をしている感じ。


臼転坂(うすころばしさか)入口
右手の坂を進む。


古い石畳が残されている臼転坂。
牛がこの道で転がったからとか、臼を転がしたためこの名がついたとも云われている。


塚原新田に入り、左手に普門庵があった。
馬頭観音や観音坐像等多数の石造仏がある、そうだ。


何故か、道端に巨大なカボチャが置かれていた。
ハロウィンが近い。


国道1号線との合流点辺り。


国道1号線との合流点にあった箱根路の碑


東駿河湾環状道路の三島・塚原ICを横断して少し進むと、


初音ヶ原の松並木が始まる。
初音の名は、源頼朝が蛭ヶ小島に配流されていたとき、この高原で鶯の初音を聞いことから
名付けられたと云われている。
このあたりは、富士山景観の素晴らしい場所として知られている、とのこと。


松並木の横には国道1号線(東海道)が走っている。


晴天の日には、素晴らしい富士山を眺めることができる、らしいが、あいにく今日は見えない。
雲が被っているのは愛鷹山(1,187.5m)である。


錦田一里塚は、国道1号の両側に形よく残っており、国の史跡に指定されている。
江戸日本橋から28番目の一里塚。


国道1号線の反対側の錦田一里塚。


初音ヶ原の松並木は、1㎞に渡り残されている。


三島市内に唯一残っている旧東海道の松並木である。


松並木が終わった辺りで一休み。
『最後の2Kmは長いねぇ』


愛宕坂は急な坂道なので、東海道になるまでは竹を敷いてあったが、人も馬も滑って大変だった。
そこで、幕府が石を敷いて石畳の道に改修した。


東海道線の踏切を渡ると、


今井坂である。


新町橋
大場川(通称:神川)に架かる橋で、この辺りが新町と呼ばれていたことから名付けられた。
江戸時代には三島宿の出入り口として多くの旅人が渡っていた。


『ここからこんな風に富士山が見えたんだ』


この橋から富士山が美しい容姿を見せることで知られている、とのこと。
江戸時代、安藤広重が、ここから見た雪景色の富士山(東海道五十三次三島狂歌入り佐野喜版)を描いている。


あいにく曇っていて何も見えない。
『誠に残念!』


守綱八幡神社を通過


莨屋(たばこや)肥料店
莨屋とは珍しい。


三嶋大社の駐車場を通過


14時39分、三嶋大社大鳥居に到着


本殿へ向かう。


神池の厳島神社は、北條政子が勧請し、殊の外信仰したと伝えられる、とのこと。


総門を潜る。


七五三参りの親子が目立つ。


神門を通り抜けると、


本殿の前に舞殿がある。


三嶋大社の金木犀は、樹齢1,200年の老木だが、9月上旬から中旬にかけて一度開花し、
9月下旬から10月上旬にかけて再び開花し満開になる、そうだ。
昭和九年に国の天然記念物に指定されている。


三嶋大社は、伊豆国の一宮で、三嶋大明神を祀っている。
頼朝旗揚げ成功以来、武門武将の崇敬も篤く、三嶋大明神の称は広く天下に広まっていった。
本殿前で記念撮影


桜川に沿って三島駅へ向かう。


桜川には富士山の雪解け水が流れる。


白滝公園で水を飲もうとしたら、最初はチョロチョロとしか出なかったが、
突然、子供の声がして、二人でポンプを押し始めた。すると水が勢いよく出てきた。
水は美味しかった。


15時19分、三島駅に到着


上りの新幹線には少し時間があったので、駅前でビールで喉を潤した。
Mさんが大鳥居の前で買ってきたコロッケの差し入れがあり、これが実に美味しかった。
『Mさんっ ご馳走さまぁ』


新幹線で東京駅に向かった
『今日は大変お疲れ様でしたぁ』



「旧東海道を歩く」第十一回目(最終回)(箱根関所~三島宿約15Km)を全員無事歩き終えた。
天気にも恵まれ、秋の旧東海道箱根路を存分に味わった。
旧東海道歩きは、今回で一応終わったが、この先京都三条へは、個人的にも行ってみた気持ちはある。
その時は、また皆さんにも声を掛け、一緒に楽しく歩きたいと思っている。

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旧東海道を歩く 第Ⅰステージ第10回 箱根湯本から三島宿(1日目)

2014年10月19日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2014年10月19日(日)

第十回目のこの日は、箱根湯本(小田急線箱根湯本駅)から箱根関所までの約13Kmを歩いた。

翌日は、JR三島から新幹線で帰る予定のため、「大人の休日倶楽部」を利用して、
往きを荒川沖⇒小田原、戻りを三島⇒荒川沖の連続切符を購入した。
連続切符とすることにより、200Km以上は、3割引となるためである。
新幹線自由席特急券も、「大人の休日倶楽部」で3割引となる。
3割引きは魅力である。

7時54分、常磐線上野駅に到着。
いつもの11名が集まった。
明日が最終回となるので、皆さんいつも以上に張り切っている感じ。


9時48分、小田原駅に到着。
この日は、途中にファミレスなど無いと思われるため、駅弁を買い求めた。
『何にしようかな~ 迷っちゃうな~っ』


箱根登山線へ乗り換える。


箱根登山電車乗り場は、かなり混雑していた。
日曜日で天気が良いということで観光客が多いのだろう。
(大半の人が箱根湯本から登山鉄道へ乗り換えていた)


10時25分、箱根関所を目指して出発!


国道1号から分かれ、早川に架かる湯本橋を渡る。
前回ここを歩いているので記憶に新しい。


須雲川の橋から見た箱根湯本のホテル「河鹿荘」


早雲通りを右に折れる。


10時40分、正眼寺(しょうげんじ)に到着。


正眼寺は、臨済宗大徳寺派の寺院で、建立は鎌倉時代まで遡る。
江戸時代には東海道を挟んで反対側に地蔵堂もあった。


慶応四年(1868)、戊辰戦争の「箱根山崎の戦い」において敗走する遊撃隊の放火により焼失。
現在の本堂は昭和47年に別荘を移築したもの。


早雲通りの坂道を進む。


正眼寺から10分ほどで石畳入口の標識が目に入った。
案内板には、
江戸幕府は延宝八年(1680)に箱根旧街道に石を敷き、舗装をした。
この先から255mは、その面影を残しており、国の史跡に指定されている。


この道は、県道に通じ、元箱根方面への近道となる、と紹介されている。
急な坂道を下って行くと、


沢に架かるさる橋があり、そこを渡って進むと、


県道732号(旧東海道)へ出た。


右手にはホテル「おかだ」や「南風荘」が見える。


11時4分、ホテルへの入口バス停で軽く給水タイム。
この日は思ったほど寒くない。意外に気温が高く首筋には汗が滲む。


葛原坂(くずはらざか
『新編相模国風土記稿』には、「海道(東海道)中、須雲川村境にあり。登り一町ばかり」
としか書かれていない。
地名が葛原で、この辺りは今も葛葉が生い茂っている。(説明板)
(一町(丁)は約109m)


箱根大天狗山神社 別院天聖院
随分と鮮やかな色彩の建物だなと、中を撮影しようとしたら、女の人が血相を変えて出て来て、
『撮影は止めて下さいっ』と大声である。
建物の撮影を禁止するなど、普通の寺院では考えられないことだ。


小田急ホテル「はつはな」辺りを通過すると、


須雲川の集落だ。
むかしは川端とも呼ばれていたそうで、この場所に集落ができたのは、江戸の初め寛永のころ。
天下の街道となった箱根道を往来する人々のため、また道を管理するために、
一定の間隔をおいて集落を作る必要があった、そうだ。


鎖雲寺(さうんじ
江戸の初め、当時早雲寺の山内にあった一庵を引いて建立された禅寺である。


夫唱婦随で見事仇討ちの本懐を遂げた物語「箱根霊験躄仇討」(はこねれいげんいざりのあだうち)の主人公、
飯沼勝五郎とその妻初花の墓がある。


箱根霊験躄仇討とは、
司馬芝叟(しばしそう)作の浄瑠璃、時代物、12段。享和元年(1801)初演。
足が不自由になった勝五郎が、兄の敵討ちをする物語。
通称「躄勝五郎」(いざりかつごろう)、「躄の仇討」(いざりのあだうち)と云われる。
建物は、初花堂である。


鎖雲寺の少し先、須雲川に架かる橋の手前に、「須雲川自然探勝歩道」への分岐点があったが、
旧街道を進むことにした。
これが、女転坂(おんなころばしざか)だろうか?


昔、馬に乗って箱根街道を登っていた婦人が馬から落ちたと言われている、らしい。
『いやぁ これはさすがにきついわっ』


11時49分、箱根大天狗山神社前を通過


旧街道(県道732号)は、車が多く危険なため、須雲川自然探勝歩道を歩くことにした。


石畳の道に入り、旧箱根道を歩く気分が高まってきた。


ここから先は江戸時代の石畳
岩だらけという感じで、気をつけないと足を挫きそうになる。


須雲川自然探勝歩道からいったん県道732号(旧東海道)へ出て、
畑宿発電所の導水管前を通過


県道732号(旧東海道)を少し進むと、箱根旧街道への入口があった。
石畳の坂道を下る。


旧街道らしい雰囲気のある道だ。


小さな沢を渡ると、その先は「大澤坂」になる。
登り三町余とあるから、約330mほどか。


大澤坂を上る。


沢から約9分ほど上ると、畑宿に出た。


『一休みさせて~っ』


12時22分、本陣跡を通過
畑宿の本陣は、屋号を茗荷屋と呼ばれた名主の本屋敷跡。
家屋は大正元年(1912)全村火災の折に消失したが、庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残された、とのこと。
(残念ながら庭園は見落とした)


畑宿の集落


この先「七曲り」が待ち構えていると思うと身が引き締まる。
その前に腹ごしらえをしておこう、と街道を進むと、


畑宿の外れに守源寺があった。
守源寺は、寛文元年(1661)に乗善院上人によって建立された、日蓮宗平賀本工寺末の寺。
たびたびの災害で本堂を失い、昭和五年豆相大地震の後再建され、現在に至っている、とのこと。


寺の人に『裏の駐車場をどうぞっ』と薦められ、裏の駐車場で弁当だ。
めいめい、小田原の駅弁に舌鼓を打つ。


とり弁当(1,030円)はボリュームがあり、満腹になった。


腹ごしらえして、箱根旧街道へ。


箱根旧街道入口に畑宿一里塚があった。
江戸日本橋から数えて23番目にあたる一里塚だ。


薄暗い街道の石畳を進む。
箱根八里は東海道最大の難所である。
標高800mを越える山中であることに加え、ひとたび雨や雪が降ると旅人はすねまで泥につかる有様で、
歩くことが大変困難なところだった、そうだ。
そこで、旅人の便宜を図るために造られたのが石畳の道である。
当初は箱根山に群生している「箱根竹」を使ったが、腐ってしまうため毎年敷き変えなければならず、
多くの人手と費用がかかることから、竹に代えて石畳にした、とのこと。
『だけど、よく造ったわよねぇ』


途中には石段もある。


七曲りの近道を進む。


日本橋を目指して京都から来たと言う一行とすれ違った。
東下りをする人もいるのだ、とその時思った。


橿の木坂バス停を通貨


橿の木坂は、かつての急坂の殆どが崩れ落ち、今は石段の連続となっている。
『新編相模国風土記稿』には、「峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得」とあり、
『東海道名所日記』には、険しきこと道中一番の難所なり、と記されている、そうだ。
おとこ、かくぞよみける。
橿の木の さかをこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの涙こぼるる


すぐ横は七曲り(県道732号:旧東海道)である。


橿の木坂の石段を上ること15分、


見晴し茶屋に到着した。
ここが箱根の樫の木平、下に見ゆるは畑の茶屋」と馬子唄にも歌われた「見晴茶屋」の跡である。


『見晴らしが良いわねぇ』
馬子唄に歌われていただけのことはある。


相模湾も見える。


見晴し茶屋から約10分で、猿すべり坂バス停へ到着。
まだ坂道は続くようだ。
ここで突然K子さんが、『疲れたからバスで行きたいっ』と言い出した。
橿の木坂でかなり堪えたようである。
無理はしない方が良いので、先に行ってもらうことにした。


猿すべり坂の階段を上る。


猿すべり坂は県道と並行しており、階段を上ると平坦になっていた。


猿すべり坂は短く、直ぐに県道732号(旧東海道)に合流した。


続けて、追込坂(おいこみざか)があった。
説明板には、
『新編相模国風土記稿』のふりがな(万葉がな)をみると、フッコミ坂と言ったのかも知れない、とのこと。
甘酒茶屋までのゆるい坂道の名称、とのこと。


緩やかな追込坂の先に、


甘酒茶屋があった。
江戸時代、箱根には13箇所に「甘酒茶屋」があった。
ここには3~4軒の甘酒茶屋が軒を並べていた、そうである。


現在は、無料休憩所になっている。


中は資料館になっていて、当時の面影を偲べるように、籠や長持ちなどが展示されていた。


奥の部屋には、赤穂浪士の大高源吾が馬方国蔵に詫びて証文を書いている場面も。
時代は流れ、大高源吾は神埼与五郎へ、舞台も三島宿から箱根山中甘酒茶屋へと変化して、
今に伝えられている、とのこと。


現在の甘酒茶屋
疲れた身体に甘酒(400円)でもと思ったが、箱根宿でのビールを美味しく飲みたいので、ここは我慢我慢。


甘酒茶屋を後にして、緩い坂を進む。


県道732号(旧東海道)を横断した先に、箱根旧街道石畳への入口があった。


現在「白水坂」と表記されている坂道を土地の古老は「城見ず坂」と呼ぶ、そうだ。
天正十八年(1590)豊臣秀吉が小田原攻略の時、小田原北条方の軍勢が、
尾根上から大量の石を落したため進軍を阻まれ、やむなく引き返した、という云われがある。


昼でも暗い旧街道
『おっとっとっと ほんと歩き難いわねぇ』


天ヶ石坂を通過


石畳の両側には水捌けも設けられている。
『どこからこんなに石を運んできたのかしらねっ』


旧街道入口から10分ほど進むと、


二子山が見えてきた。
初めて知ったが、二子山は二つあって、こちらは上二子山(1,091m)で、


こちらが下二子山(1,065m)である。
よく似ている。


こちらは、駒ケ岳(1,356m)、ロープウェイが見える。


馬子唄の碑
箱根八里は 馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と刻まれている。


二子山を過ぎると、権現坂の下りになる。


権現坂
小田原から箱根路を上る旅人が、いくつかの急所・難所を喘いで辿り着き、
一息つくのがこの場所だった。
坂の長さが八町(約870m)あるので八町坂とも云われている。
目前に芦ノ湖を展望し、箱根山に来たという旅の実感が、体に伝わってくるところ、とあるが、
木々に遮られて芦ノ湖はほとんど見えない。


関所破りをした玉という娘が処刑された場所が近くだったことから、
「お玉が池」と名付けられた、ゆかりのお玉観音堂への参拝道を過ぎ、


二子山が見えた所から、権現坂の石畳を7分ほど下ると、階段がある。


階段の下にケンベル・バーニーの功績を称える石碑があった。
およそ300年前に来日したドイツ人医師である博物学者のケンベルが、
日本の山々や自然の美しさなどを称え、記したのが「日本誌」。
その後イギリス人貿易商バーニーはケンベルの書いた「日本誌」に感激し、
箱根の自然保護を訴えた、とある。


箱根七福神の布袋尊を祀っている興福院を過ぎると、


元箱根に到着した。
箱根関所へは1,200mとある。
時計は15時12分を差していた。なんとか目標の16時には旅館に着きそうだ。


元箱根の街を進む。


箱根神社一の鳥居
箱根神社は、関東総鎮守として、源頼朝をはじめ後北条氏など代々の武将の信仰を集めた。
紅葉の時期、対岸から観る箱根神社は人気の写真撮影スポットとなっている。


右手に芦ノ湖が見えた。
富士山は見えなかったが、箱根に到着した、という実感が湧いてきた。


身替り地蔵
宇治川の先陣争いで名高い梶原景季(かげすえ)は、
ある年箱根を通りかかった時、何者かに襲われた。
当時弁舌巧みでたびたび人を陥れた平景時と間違えられたらしい。
幸いにもかたわらにあった地蔵が身替りになってようやく命が助かった。
それ以来、この地蔵を景季の身替り地蔵と呼んだ、とのこと。、


箱根の杉並木を爆音を響かせながら格好良く走るバイク集団


箱根一里塚
杉並木に入って直ぐのところにある。
日本橋から24番目の一里塚である。


箱根旧街道杉並木入口


慶長九年(1604)江戸幕府は街道に並木を植えるように命じた。


箱根の杉並木は樹齢350年ほどで、現在約400本余の大木が並んでいるが、


100年後には1/3程度になると危惧されている、とのこと。


箱根関所へ向かう。


箱根関所・江戸口御門から入る。
箱根関所は、主として諸大名の謀反防止のために開設されたと云われ、


箱根関所・大番所・上番休息所
「出女」を厳重に取り締まった。


箱根関所・足軽番所
平成19年に足掛け9年の歳月をかけて、幕末の関所が江川文庫に残っていた史料をもとに、
当時の姿に忠実に復元された。


箱根関所・厩
江戸時代、箱根関所に建てられていた厩には、5頭の馬を繋ぐことができるようになっていた。
しかし、実際には2頭しかおらず、空いた場所には、関所の周りに廻らされた木柵の予備や外掃除の道具、
火を消す道具などが納められていた。厩は納屋と兼用だった、そうだ。


箱根関所・京口御門へと抜ける。
通り抜けは無料である。


関所前の土産物店前を通過


この日の宿「夕霧荘」を地図で確認


「夕霧荘」への入口を入って進むと、


15時46分、「夕霧荘」に到着
目標の16時には何とか間に合った。
既にK子さんは到着していて、近くを散歩中とのことだった。


玄関前で整理体操を済ませ、ひと風呂浴びて汗を流した。


18時から大広間で夕食開始だ。
先ずは、『かんぱ~いっ』 


『今日はお疲れさまでしたぁ』


この日の料理


豚鍋もある。


『美味しいねぇ』


最後に全員揃って記念撮影だ。
『明日も元気で頑張りましょうっ』


「旧東海道を歩く」第十回目(箱根湯本宿~箱根関所)を無事歩き終えた。
距離は幾分長かったが、道中のハイライトである箱根の石畳歩きを楽しめた。
いよいよ明日は最終回を迎える。
皆さんと揃って、元気に三島宿へゴールインしたい。

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出雲大社常陸から稲田姫を巡る歴史探訪ウォーク

2014年10月17日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2014年10月17日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成26年度第21回(2014年第31回)、「出雲大社から稲田姫を巡る」歴史探訪ウォーキングに参加した。


この日のコース地図
水戸線福原駅をスタートして、出雲大社常陸へ参拝した後、国道50号線を水戸方面へ。
西念寺・林照寺を経て稲田神社へ向かう。
その後は、ヤマタノオロチ神話に登場するスサノオノミコトの妃、稲田姫を祀った奥の院を探訪する。
御影石の採掘場を経て、水戸線稲田駅へ至る、全長約7.5Kmのコースである。


友部駅ホームで待っていると、4両編成の9時ちょうど発水戸線小山行き電車が入ってきた。


車内は、通勤通学時間帯は過ぎているのでご覧のように空いていた。
ほぼ1両が貸切状態である。


9時15分、スタート地点の福原駅に到着。


高架橋を渡る。
見晴しが良く、快晴なので、気分も爽快になる。


福原駅には1名が直行していた。
結局この日の参加者は21名となった。


体調を整え、駅前の駐車場で準備体操
3週間ぶりに会長が参加して、号令を掛ける。
『今日は空が眩しいねぇ』


9時27分、いつも元気なOさんを先頭に出発!


福原駅前の味処「井がわ」前を通過


福原駅近くの住宅地を通過すると、


国道50号線だ。


国道50号線を潜って右に折れると、出雲大社の大きな看板が目に入る。


後を振り返ると、加波山方面が。
なかなか見晴しの良い場所である。


出雲大社の一の鳥居
駅からここまで約9分、意外と近い。


坂道を上って行くと、二の大鳥居だ。その大きさに圧倒される。
全て御影石でできている。
『いやぁ これはでっかいなぁ』


大鳥居を潜って坂道を上ると、出雲大社の拝殿前に出た。
『しめ縄 凄~いっ』一斉に感嘆の声が上がる。
平成12年12月4日、日が沈み休まる国「日隅宮」と称される島根県・出雲大社から、
大国主大神の第2御子神である建御名方大神が鎮まる長野県諏訪大社を通り、
日が生まれる国・常陸国へと直線上で結ばれている御神縁の地福原に、
出雲大社常陸分社が御造営された。


狛犬(阿形)


大しめ縄は近くで見ると本当に凄い!
本家(島根県)とほぼ同じ大きさはあるだろう。
大しめ縄は、長さ16m、重さ6トンもある。


島根県出雲大社の大しめ縄(2011年5月19日撮影)


全員がお参りを済ませる。
ご祭神は縁結びで有名な大国主大神である。
高円宮家の次女典子さま(26)と、出雲大社権宮司の千家国麿さん(41)の結婚式が、
この10月5日に出雲市の出雲大社で行われたばかりなので記憶に新しい。


拝殿の脇に檜の大國柱(だいこくばしら)がある。
樹齢は2,650年で、直径は2m50Cmもあるそうだ。
平成四年の御造営に伴い、御神縁により、此の地に据えられた。
御祭神・大國主大神の”むすび”の御力を顕す”大國柱”と呼ぶに相応しい威容を誇る、とある。


しめ縄をバックに記念撮影をして、


国道50号線を稲田神社方面へ向かう。


国道50号線は、車がひっきりなしに通る。
(国道50号を通らない裏道があるのを後で知ったが、Yahooの地図ではズームを最大に拡大しても
それらしき道は見当たらなかったことを付記しておく)


『車には十分気をつけましょうっ!』


裏道を通ると、左側の道に出られるようになっていた筈だ。
しかし、国道50号から下には下りられないため、このまま進むしかない。


ようやく国道50号線から分かれて小路に入り、一安心。


関戸農村集落センターの先に関戸神社があった。


関戸神社へお参り。
神社の由緒には、「この宮は昔、手撫崎大明神と言い、奇稲田姫の両親手摩乳神・脚摩槌神の二神をお祭し、
手足の痛みに霊験あらたかで、衆人の尊敬厚く手指足袋の奉納山をなして、その数 万を越えたと云う」とある。


たくさんのわらじが奉納されていた。


ここで軽くお茶タイムして、


関戸神社を後にして、稲田神社を目指す。


国道50号を横断


国道50号を渡ったところに笠間市の石のモニュメントがあった。
石の町らしく、全て御影石で出来ている。


国道50号に並行して、田んぼの中を進む。
『のどかで素敵だわねぇ』


のんびりとした、田園風景の中を進む。
車はたまにしか通らない。


再び国道50号線を横断して少しばかり進むと、西念寺Pの看板があった。


西念寺の参道(国道50号方面)
杉や欅の大木が両側に聳え立ち、歴史を感じさせる。


参道の先に形の変わった山門が見える。


楼閣式の西念寺の山門だ。こういった形の山門は初めて見た。
浄土真宗発祥の聖地である。
越後配流を解かれた親鸞聖人が、この地の領主で弟子となった稲田九郎頼重に迎えられて、ここに草庵を結んだ。
貞永元年(1232)60歳で京都へ旅立つまで約20年間にわたり、この草庵を根拠とした。(説明板より)


境内を進むと本堂の前に親鸞が植えたと云われる「御葉つき銀杏」の大木がある。


親鸞聖人が草庵の庭に、銀杏の実を葉に包んで蒔いたところ、葉先に実った、そうである。
東大の向坂教授によると、世界的な珍種で天然記念物のお墨付きとのこと。
明治四年の大火で類焼したが、その後樹勢は回復した。


銀杏の木の周りには、ぎんなんがいっぱい落ちていた。


西念寺本堂
浄土真宗の宗祖・親鸞はこの地で『教行信証』の製作を開始し、草稿本を撰述したと伝えられる。
浄土真宗立教開宗の聖地として、真宗門徒の崇敬を集めている。


本堂の近くに立つ親鸞上人の石像。


西念寺幽楼
念佛法難で流罪となった法然と親鸞は、5年の後に被免となったが、法然は亡くなった。
弟子が集まって相談し、念佛興隆の後継者として親鸞にお願いしようとした。
当時、親鸞(善信房)は、流罪により越後にいた。弟子のひとりに元常陸の国宇都宮城主、後の実信房がいた。
実信房は、関東が安全な場所であると提案し、親鸞を庇護することになった。関東の諸大名もこれに従った。
親鸞は、この地を眺め六角堂夢想に似ていると喜んだ。
親鸞が稲田にこられた3つの縁は、
1.法然が亡くなったこと。
2.関東武士の庇護を得たこと。
3.この地が六角堂夢想に似ていたこと、があげられる。(説明板より)


神原の井(かんばらのいど
鹿島大明神 白髪の老翁となりて、親鸞聖人の法筵(ほうえん)につらなり。 
聞法髄喜(もんぽうずいき)のあまり御弟子となり、法名を釈信海と賜う。
老翁喜びのあまり、鹿島七つ井の一つを献ぜばやと大地を叩き給いしところ、忽然と清水湧き出でたり。
この水六月十四日減ずることあるも、案じ給うこと勿れと、今も猶(なお)旧暦六月十四日に此の不思議あり。
徳川光圀公いわれを聞き、喜びのあまり御影石の井筒を寄進せり。
(説明板より)


御杖杉
建保二年(1214)の頃、親鸞聖人越後の国府よりこの稲田にご来入あり。
南方に聳ゆる山々の景色を眺めさせられ、救世菩薩の夢告を受けたのはこの地なり。
草庵を結びて、衆生化益(しゅじょうけやく)の宿願を達せばやと、
御杖杉を深く挿し給いしところ、不思議にも根芽を生じ、大木となれり。
明治四年(1871)本堂焼失のとき類焼したるは、惜しむべきことなり。
水戸光圀公詠歌 老いの身の これぞ力のしるしとぞ つきとめにけり 庭の杖すぎ
(説明板より)


稲田御坊西門に「見返り橋」とあった。
『どこに見返り橋があるんだろうね?』


前方の田んぼの中、白っぽいのが”見返り橋”と思われる。
貞永元年(1232)、親鸞が、妻恵信尼と別れをされた橋のあったところ。
別れじを さのみなげなく 法の友 また会う国の ありと思えば」 と詠われている、そうだ。


西念寺を後にして参道を国道50号方面へ進むと、


直ぐ左手に林照寺がある。
親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗単立寺院で、鎌倉時代に誠信房によって開基された。


茅葺のお御堂は、稲田草庵を忍ばせる精舎一宇として、聖人の{南無阿弥陀仏のいわれ}と{念仏往生の教え}
を人々に厚く伝承している。


林照寺を後にして、次の目的地稲田神社へ向かう。


太鼓橋を渡ると、


国道50号に出た。


林照寺から10分ほどで、稲田神社の鳥居に到着した。
出雲大社ほどの大きさはないが、これも御影石で出来ている。


石段を上って本殿へ。


拝殿
この神社は女神様ということで、女性の参拝者が多い、そうだ。
写っているのは女性ばかりだが、これはたまたまである。


本殿
水戸光圀公がこの地を訪れて、その衰退ぶりを嘆き、
四神旗を奉納し、復興に務めたと云われている、とのこと。


神社の先はグラウンドになっていて、地元のお年寄りがゲートボールを楽しんでいた。
その先は行き止まりと思い、いったん国道50号へ戻った。


稲田神社本宮址(奥の院)の案内板に従って、


本宮址(奥の院)へ向かうが、途中何も案内が見当たらない。


地元の人に場所を確認し、園家の前を通って奥の院へ。


11時45分、目指す奥の院に到着した。


奥の院は、一段高いところにあった。


稲田姫を祀ってある奥の院


奥の院の内部は簡素で質素であった。


奥の院から少し離れたところにも小さな祠があったが、何を祀っているのかは分からない。
合掌だけして、その場を後にした。


11時55分、そろそろお腹も空いてきた。
皆さん、あまり歩きたくない様子である。
みかげ石採石場への道とその近くに昼飯に相応しい公園がないか訊いているところ。
『直ぐ前の道を左手に行ったところに採石場があるよっ』
『公園は稲田神社裏にしかないねっ』


という訳で、昼飯場所を求めて、来た道を500mほど戻ると、稲田神社裏手のグラウンドへの道があった。


坂道を少し上ると、稲田神社裏手のグラウンドに到着
『国道50号を通らなくても良かったんだぁ』


早速、グラウンドの回りにあったベンチで弁当タイム


青空の下で食べる弁当は最高に美味しい!
(毎回同じ言いまわししか思いつかない)


12時42分、弁当も終わり、みかげ石採石場へ。


再び稲田姫奥の院近くを通り、採石場へ向かう。


小さな峠を越えると、左手に採石場が見えてきた。
手前の工場のような建物は、中野組石材㈱と思われる。
電車の都合上、現場に向かう時間がないため、ここから眺めるだけにした。


『現場はどんな感じなんだろうね?』


こんな感じ
(稲田駅「石の百年館」の展示写真)


こんな感じ
(稲田駅「石の百年館」の展示写真)


稲田駅へ向かう。
御影石をふんだんに使った中野組石材㈱の塀
『塀も凄く贅沢だねぇ』


中野組石材工業㈱の工場
稲田石は約6,500万年前に生成され、世界の御影石では最も若い石材と云われており、
中野組石材工業㈱を中心に東西8Km、南北6Kmにわたる通称「石切山脈」とよばれる一帯から産出される。


御影石の”五重塔”と”日本一の採掘場”の看板が印象的である。


採石場の遠望を見やりながら、


ゴールの稲田駅へ向かう。


『暑くもなく本当に良い天気だわぁ』


堂々と道いっぱいに広がって歩く。
『気持ちが良いもんだねっ』


右手に採石場を水源とする小さな流れを見ながら、稲田駅へ。


国道50号・稲田駅の表示が見えてきた。


国道50号を渡る。


しんでん橋を渡ると、


ゴールの稲田駅は目の前だ。


13時12分、稲田駅に到着。


水戸行き電車には少し時間があるので、駅隣の「石の百年館」へ。


「石の百年館」の内部見学


「石の百年館」の内部見学
『現場はこんなになってるんだぁ』


石の博物館の内部には、小さなホールもある。


稲田駅の待合室で一休み。


13時56分発の水友部行電車を待つ。


水戸線車内風景


友部駅で常磐線に乗り替えて、


帰路についた。
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


茨城の「歴史探訪ウォーキング」推奨コースで、、自身としては初めてのコースだったが、見所も多く楽しめた。
高円宮家の次女典子さまと、出雲大社権宮司の千家国麿さんの結婚式が、
この10月5日に出雲大社で行われたばかりなので、記憶に残る例会になったと思う。
また、「歴史探訪ウォーキング」では紹介されていなかったが、親鸞聖人開宗の聖地である西念寺を訪問できたのは、
大きな収穫だった、と思う。
ウオーキングの楽しさを左右する天気に恵まれたのは、何よりも大きいことは言うまでもない。
車で直行したFさんが、弁当代わりに稲田駅近くの「蕎麦屋」で食べた蕎麦が『これまでで最高だった』と言うので、
是非一度食してみたいものである。


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コメント
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