ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

鎌倉ハイキング(葛原岡・大仏コース)

2016年03月26日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年3月26日(土)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27度第35回(2016年第11回)、「鎌倉(葛原岡・大仏コース)」ハイキングに参加した。
この日のコースは、2010年12月11日(土)以来5年4か月ぶりとなる。


荒川沖7時13分発の電車は、定刻どおり8時10分に上野駅に到着。
この日の参加者は22名。グループ分けしなくても点呼可能な人数だ。


東海道線直通小田原行き(7番線)に乗り換える。


車内は土曜日の朝にも関わらずけっこう混んでいた。
最初は立っていたが、東京駅、新橋駅で全員座ることができ一安心。


戸塚駅で横須賀線に乗り換える。
横須賀線のホームが東海道線の隣なので、乗り換えには便利である。


横須賀線は空いており、ゆっくり座れた。


9時18分、この日のスタート地北鎌倉駅に到着。


北鎌倉駅


北鎌倉駅前は狭いため、準備体操は省略。
9時32分、出発!


最初に立ち寄ったのは東慶寺
案内には、
鎌倉幕府の第八代執権北条時宗の夫人・覚山志道尼(かくざんしどうに)が開創。
夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることが出来なかった時代に、
駆け込めば離縁できる女人救済の寺として、開山以来六百年近く縁切りの寺法を引き継いできた、とある。


各自200円を払って境内に入る。
境内にはウメやハナショウブ、アジサイなど様々な花が植えられ、四季を通じて楽しめる、とある。
梅は既に終わっており、桜にはまだ少し早いと思っていたら、何と桜が咲いていた。
それも満開状態である。彼岸桜だそうだ。


”鐘を撞かないでください”
鐘撞き好きのMさんが参加していたら、きっと悔しがったに違いない。


東慶寺は梅で有名だそうだが、花の時期は終わっていた。


東慶寺本堂
枝垂れ桜は一分咲きの状態である。


本堂には、ご本尊の釈迦如来坐像が安置されている。


境内には何故か大仏様も・・・


ハイキングコースへ。
『花の時期にはちょっと早かったようだねっ』


浄智寺
臨済宗円覚寺派に属する禅宗の寺院。
鎌倉五山第4位。山号を金宝山と称する。
鎌倉幕府第五代執権・北条時頼の3男である北条宗政の菩提を弔うために、
弘安六年(1283)に創建された。


上層が鐘楼を兼ねている珍しい形式の山門。
『ここから先は有料なんだよねっ』


特に用事は無いので、左の山道へ進む。


葛原岡神社を目指す。


道幅が狭くなり、


上り坂が始まった。


上り坂がしばらく続く。


木の根っこが張った尾根を進む。


『ハイキングの雰囲気が出て来たわねっ』


下りもあり、起伏に富んでいるコースだ。


源氏山公園を目指す。


10時15分、源氏山公園に到着


『そんなに汗かかなかったわっ』
皆さん、余裕である。


源氏山公園で一休み。
後ろに葛原岡神社の鳥居が見える。


一休みの後、隣の葛原岡神社へ。


葛原岡神社の祭神は、日野俊基卿である。


日野俊基卿は、鎌倉幕府の執政を北条氏から後醍醐天皇の親政にしようとして、幕府に捕えられ、
元弘二年(1332)六月三日、この葛原が丘で露と消えた。


葛原岡神社に深々と参拝


絵馬は、何故か縁結びの願掛けである。
『可愛らしいねぇ書いてることが』


日野俊基卿終焉之地
鎌倉幕府に捕われた日野俊基卿は、元弘二年(1332)六月三日、
この地で悲しい最期を遂げた。


魔去ル石
”魔が去るように願いを込め、盃をこの石に当てて幸せを勝ち取りましょう”案内されている。
「魔が去る」が転じて「勝」ということ、だそうだ。
”ナイスフォーム”Tさん(83歳)
(素焼きの盃一枚100円)


銭洗弁財天宇賀福神社(銭洗弁天)へ向かう。
境内洞窟にある清水で硬貨などを洗うと増えると伝えられていることから、
銭洗弁財天(銭洗弁天)の名で知られる。
坂道を下って行くと、


銭洗弁天へのトンネルがあった。


トンネルを抜けると


10時40分、銭洗弁財天に到着。
源頼朝が、巳年である文治元年(1185)の巳の月(旧暦4月)巳の日に見た霊夢に従い、
佐助ヶ谷の岩壁に湧く霊水を見つけ、そこに洞を穿ち社を建てて宇賀神を祀ったと伝えられる。
同じく巳年の正嘉元年(1257)に、北条時頼がこの霊水で銭を洗って一族繁栄を祈ったのが
銭洗の始まりだといわれる。


洞窟へ入ってみよう。


洞窟の奥には、銭洗弁財天奥宮があった。


ザルに硬貨を入れて、清水で洗い清める。


一万円札を洗う人も。


『これでお金が増えれば言うことないけどねっ』


境内には七福神社や下之水神宮なども祀られている。


立派な錦鯉だ。


再びトンネルを潜り、


先ほど下りて来た急坂を上り、ハイキングコースに戻る。


葛原岡・大仏ハイキングコースを進む。


海が見えた。
リビエラ逗子マリーナ辺りと思われる。


旧階段を下ると・・・


この道標には記載されていないが、長谷大谷戸交差点(400m)と書かれた数m先に、
佐助稲荷神社の案内があった。
昼食場所として、神社の境内などが考えられる。
佐助稲荷神社は初めてだが、だめ元で佐助稲荷神社へ行ってみることに。


急坂を下る。
『ちょっと怖いね、この坂は』


手摺りに摑まらないと危険である。


11時15分、佐助稲荷神社奥宮に到着


お堂の周りには、おびただしいほどの狐が。


佐助稲荷神社
伊豆の蛭が小島に流されていた源頼朝が病に伏していた時、「かくれ里の稲荷」と名乗る翁が夢枕に立ち、
平家討伐の挙兵を促した。
後に幕府をを開いた頼朝は、かくれ里に祠を探しあて、稲荷神社を建てたと伝えられる。
幼少の頃、佐殿(すけどの)と言われていた頼朝を助けたので「佐助」の名を付けたと云われている。


さほど広くない境内には、ベンチのような縁台がいくつかあった。
我々一行が座るのには十分な数である。
境内での昼食の許可をいただき、ここで昼食を摂ることにした。


『ここまで下りて来て良かったわねっ』
心配していたトビの襲来もなかった。
トビは、逃げ道が狭い場所は苦手なのだと思う。


佐助稲荷神社からハイキングコースへ戻ろうとしたら、
大仏へはこの先に平坦な道があることを教えてもらった。


ここはお言葉に甘え、佐助稲荷神社の参道を通って大仏を目指すことにした。


『立派な参道だよねっ』
『こっちは楽で良いねっ』


稲荷神社の参道を抜けると、住宅地に出た。


住宅地の中を進む。


10分ほどで、佐助一丁目交差点に出た。
左が鎌倉駅へ通じ、右へ進むと高徳院(大仏)に通じることになる。


大仏を目指す。


新佐助隧道


新佐助隧道を抜けたところで直ぐ横を元気で愛想の良い人力車が通り過ぎていった。
『あらよっと』
『人力車って良いわねぇ』


人力車も大仏へ向かうようだ。


人力車の後を追い、住宅地を進む。


人通りで混雑する大仏前の土産物店前を通り、


12時10分、高徳院(大仏)山門に到着した。
佐助稲荷神社から30分ほどが経過していた。
「大異山」を記す扁額が掲げられた山門は、18世紀初頭、内部に安置された一対の仁王像とともに
他所より移築されたものと伝えられている。


御手洗で手を洗い清め、


大仏様とご対面。
高徳院のご本尊(国宝銅造阿弥陀如来坐像)は、像高約11.3m、重量約121tを測り、
ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有している。
2016年1月13日から実施していた保存・修理作業が、この3月10日に終わったとのこと。
きれいになったとのことだったが・・・


こちらは、2010年12月11日に訪れた時の大仏様
上の写真と比べてあまり変わっていないようにみえる。


大仏様


尊像胎内巡りも支障なく拝観(20円)できるようになったそうだが、
人が列をなしていたので止めた。


全員揃って記念撮影をして、


次の目的地長谷観音へ向かう。
この日のように混雑する時は、目印になる旗の出番である。
旗手を務めるのはK子さんだ。


長谷観音前の交差点を右に曲がり、


12時46分、長谷観音(長谷寺)に到着
長谷観音は、坂東33観音霊場巡りの4番札所で、2009年11月22日(日)に訪れている。


今回は、参拝希望者のみ長谷観音へお参りすることとし、


その間、参拝しない人は、自由に近くを散策することに。
我々は、近くのカフェテラスでのんびりコーヒー(300円)を飲みながら談笑して待つことにした。


長谷観音参拝後、揃って江ノ電長谷駅へ。


いやぁそれにしても実に人が多い。
道路の両側は人の流れが途切れない。
歩道から溢れるほどである。


13時24分、長谷駅に到着


鎌倉行き江ノ電が到着


車内は超満員
『いやっ またこれは凄い人だねぇ』


この日は土曜日とあって、連結車両も満員である。


13時37分、鎌倉駅西口に到着
西口にしたのは、東口の改札口は混雑するためである。


横須賀線の線路を潜って東口へ回る。
『こんな連絡通路があったんだぁ』


鎌倉駅東口へ抜け、小町通りの前を通り、


若宮大路を鶴岡八幡宮へ向かう。


鶴岡八幡宮入口に立つ三の鳥居を潜ると、


鶴岡八幡宮が見えてきた。


舞殿を通過。
ここで、厳かな結婚式を催す人もいるが、この日は見なかった。


鶴岡八幡宮
別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。


61段の大石段を上ると、


13時58分、本宮前に到着した。
(本宮内は撮影禁止となっているため、撮影はここまで)


無事参拝を終え、鶴岡八幡宮を後にする。


14時13分、帰りは小町通りへ回る。
ここも人通りが多い。それも半数近くは外国人だ。


小町通り(1)


小町通り(2)


小町通り(3)


小町通り(4)


14時26分、小町通りの鳥居前に到着。


14時29分、鎌倉駅に到着。
土産物を買いたい人もいることから、一応ここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『気を付けてっ』


買い物を済ませた人と鎌倉駅改札口に向かう。


鎌倉からは横須賀線で東京駅へ。


横須賀線車内で寛ぐ皆さん。
『ゆっくり座っていけるのは楽で良いわねっ』


『ごちそうさまぁ』
『今日は大変お疲れさまぁ』


鎌倉には何度も足を運んでいる。今回のコースは、5年4か月ぶりとなる。
中でも銭洗弁天、佐助稲荷神社は今回初めて訪れたが、なかなか好評だった。
前回2010年12月11日(土)、ハイキングコースの道端で弁当を食べた苦い経験もあり、
どこで食べようかと悩んでいただけに、佐助稲荷神社の境内で、弁当が食べられたことが印象深い。

この日で平成27年度のウォーキングスケジュールは全て終了した。
しかし、計画した44回のうちの9回が雨で中止となった。
通常、雨や雪の影響で中止というのは年に3-4回あるかないかだったが、今年度のように多い年も珍しい。
来週から新たに平成28年度の計画(45回)が始まるが、雨で中止が少ないことを願うばかりである。

この日の万歩計は、18,000歩に迫ろうとしていた。

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特選街道を歩くⅠ 第十一回 (北国街道)信濃追分~小諸宿

2016年03月20日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2016年3月20日(日)

昨年から、旧街道の中でも交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで、歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、
街道の中からある宿間を選んで歩くというものである。
この日の「旧街道を歩く」第十一回は、北国街道の追分宿~小諸宿間(約16Km)を歩いた。

この日のスタートは、しなの鉄道の信濃追分駅からとなる。
北陸新幹線で軽井沢からしなの鉄道に乗り換え、2つ目の駅だ。
第四回の中山道(追分宿~軽井沢宿~坂本宿)で一度利用しているので、記憶に新しい。

この日の参加者は、体調が優れなかったり、親戚に不幸があったり、
また、彼岸と重なったこともあって、4名が参加を見合わせたため、5名となった。

上野駅エキュート「駅弁屋匠」で弁当を買い求める。


「駅弁屋匠」の向い「キノクニヤ アントン」でも弁当を売っていた。
『駅弁屋よりこっちの方が安いよねっ』


新幹線乗り場へ


上野駅7時30分発のあさま603号(長野行)自由席は、充分に空いていた。
向い合わせにして和気あいあい。


8時42分、軽井沢に到着し、直ぐにしなの鉄道に乗り換えだ。
SUICAが利用できないため切符を買い求めることになるのがちょっと不便。


8時52分発の長野行に乗車し、


9時ちょうど、軽井沢から2つ目の信濃追分駅に到着。


9時6分、小諸宿目指して出発だ!
『ちょっと思ってたより寒いねぇ』
予報では、最高気温は9℃となっていたが、まだ早いので気温はかなり低そう。


浅間山は雪を被っている。


前回は右の道を進んだが、今回は左の追分宿方面へ進む。


追分宿を目指す。


国道18号下を通り抜け、


三叉路を左に曲がると直ぐに中山道追分宿である。
北国街道は、この先の”分去れ”からとなる。


9時30分、堀辰雄文学記念館に到着。
堀辰雄は室生犀星と訪れた軽井沢に魅せられ、後に宿場町の面影を残す追分に居を構えた。


この地を愛した堀辰雄の文学と生涯に触れる、詩情あふれる佇まいの記念館は、この奥にある。


追分本陣門
明治26年に信越線が全線開通すると、追分宿を利用した、宿継の荷駄・旅人は他の交通手段に代り、
宿場としての機能を失っていった。
本陣門(裏門)は、明治末期頃、追分宿に近い御代田町の内堀家の表門として移築され、
大切に扱われてきた。
平成17年、本陣門が軽井沢町の歴史的遺産であることから、内堀家より軽井沢町へ寄贈された。
現在は、堀辰雄記念館の入口となっている。


旅籠油屋
江戸時代から脇本陣を務めた油屋は、堀辰雄や室生犀星、芥川龍之介ら文人が繁く泊った宿である。


旅籠油屋
脇本陣の頃の建物は、昭和12年に焼失したが、翌年に再建された旅館の建物が残っている。
油屋の「つげの間」で堀辰雄は「風立ちぬ」を執筆した。


中山道追分宿


追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあり、法度、掟書きなどを記した。
さらし首、重罪人の罪状を記し、高く掲げた版札を高札という。
ここに掲示してある高札は複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている、そうだ。


9時39分、浅間山登山道分岐点を通過


諏訪神社鳥居


境内には小林一茶の句碑が建っているとあったが、見落としてしまった。


泉洞寺は今から約420年前の、慶長三年(1598)上州常林寺第5世・心庵宗祥禅師によって開創された。


泉洞寺の門を潜ると、


立派な本堂が現れた。
創建時は「仙洞寺」だったが、江戸時代に火災に遭ったことから、火災等の災難を除けるようにと祈願して、
「仙洞寺」から、水を持って寺を守る様にと「泉洞寺」と改名して寺の安全を願った。
御本尊は聖観世音菩薩様である。


境内には、弥勅菩薩の半伽思惟像があり、左手を頬に当てているため「歯痛地蔵」と呼ばれている。
この石仏は、堀辰雄の数多くの名作の一つ「樹下」(「大和路・信濃路」)の文中にあって、
素朴な姿に心を惹かれ、朝夕ここを散歩し、親しんだと云われている。


9時58分、追分宿の西入口(京方)に到着。
国道18号(現中山道)が見える。


桝形茶屋つがる屋
寛永十二年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、
ここを往来する諸侯のため、宿場内には問屋・本陣・脇本陣を設置し、
宿の西入口、この辺りに枡形の道と土手(高さ約2.5m)を築いて宿内の警備取締りをした。
今、その面影を見ることはできないが、当時枡形の地域内にあって、
茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる。


分去れ(わかされ)
中山道と北国街道分岐点に位置する「分去れ」は、宿場町の西端にあり、
今も賑わったありし日の面影をとどめている。
三角州のようになっており、常夜灯や道標・観音像が立ち並んでいる。
「右、従是北国街道 左、従是中山道」と刻まれている。


分去れ付近の北国街道沿いに立つ石像


分去れから250mほどで再び国道18号に合流した。
小諸まで11Kmとある。


北国街道(国道18号)
日本ロマンチック街道と名付けられているが、旧街道としての見所はあまりない。


浅間山の山頂は、雲がかかっている。
『もうちょっとで雲が取れそうなんだけどねっ』


10時22分、御代田町に入った。
標高929mの表示が・・・
『929mか、寒いはずだよねっ』


日本ロマンチック街道を進む。
緩やかな下りとなっているため、楽である。


10時31分、西軽井沢法事センター前を通過。


10時41分、道路の反対側にコンビニがあったので、ここで小休止することに。
風が強くなってきたので、建物の影で風を凌ぐ。


北国街道(国道18号)を進む。
ここで、道を間違えて、北国街道を少しばかり逸れてしまった。


『ここからの浅間山は邪魔なものがなくてきれいに見えるよっ』
『もうじき雲が取れそうっ』


三ッ谷西交差点で誤りに気づき、今度は国道18号ではなく、北国街道を進む。
『こっちは車が通らないので静かで良いねっ』


北国街道を進む。


明治天皇御小休所跡
北国街道追分宿と小諸宿の中間に、馬瀬口村という間(あい)の宿があった。
そこに、明治十一年秋(1878)明治天皇が東海・北陸二道の巡行の折に、
御休息所となった高山邸があり、当時の面影が残っている。


高山家長屋門の前に明治天皇御小休所跡の碑が建っている。


長屋門の西に隣接して、明治三十二年六月に公爵二条基弘題額(だいがく)により建立された、


「間瀬口村駐輦碑文」(ちゅうれんひぶん)がある。


北国街道をいったん逸れて、高山家横の道を200mほど右へ進むと、
遮るものがない雄大な浅間山が現れた。
『やっぱり浅間山はこの風景が一番似合ってるねっ』


北国街道に戻り、再び街道を進む。
間瀬口には宿場のような、大きな構えの立派な家が多い。
ここも高山家の表札がかかっていた。


こちらの家も立派な構えをしている。


間瀬口を過ぎると北国街道は、三度国道18号と合流する。


11時48分、小諸市に入った。
標高780mと表示されている。
追分から200m余下ってきたことになる。


11時55分、上信越道を通過


上信越道から50mほどで、国道18号と分れ、北国街道は左へ。


平原一里塚跡
江戸日本橋から40里目だが、標識とその横に寛政五年(1793)の「馬頭観音」が立っているだけである。
『かつてはここに塚があったんだねっ』


12時5分、一里塚の先右手少し入ったところに「金山神社」があった。


平原は間の宿だったが、宿が作られた頃、この神社だけが南側の沢田に取り残されてしまった。
悪病が流行したのはその祟りだということで、寛永年間に現在地に移されたという。


神社境内で昼食にしよう。
平早氏子会館と神社の間がちょうど風よけになった。


いばらきいいものとりあい弁当(1,100円)


ボリュームたっぷりで、満腹になった。


12時40分、この日のゴール小諸駅を目指して出発!


左手に「十念寺」の「二十五菩薩来迎会」の碑があった。
この世の中で真面目に信心していれば、あの世へ行く時、阿弥陀様がその信者をお迎えに来て下さる、
という浄土経の教えを如実に表した仏教的演技の一つである。
ここ「十念寺」に残されている「二十五菩薩来迎会」は奈良県の当麻寺(たいまでら)とともに、
全国で2つだけ残っている貴重な無形文化財、とのこと。


平原の黒松
小諸市平原の旧家の土蔵脇に、横に枝が伸びた立派な黒松の老木がある。


参勤交代で通った加賀の殿様も絶賛した、そうだ。


静かな佇まいの北国街道。


民家の門の奥に松の木が見える。


『枝振りが素晴らしいねぇ』


静かな佇まいの家並みが続く。


家並みが途絶え、再び浅間山の雄大な景色が現れた。
山頂の雲はすっかり無くなっていた。
『今日一番の浅間山だねっ』


平原交差点下のトンネルを抜けると、


この日何度目かの国道18号に合流した。
四ッ谷東交差点で、北国街道は斜め左の国道141号に分岐する。


右手に御影用水を開削した「柏木小右衛門生誕之地」の石碑が立っている。
小諸の御影新田は、江戸時代に小右衛門が遠く軽井沢の地から、私財を投げうって開削した、
総延長72kmにおよぶ御影用水のおかげで、豊穣の地となった。
その後、用水により安定した米作りが可能になったこと、中山道と北国街道に挟まれる交通の要所、
という点から「天領(幕府直轄地)」とされた。


四ッ谷の信号を横断して細道を下り、突き当りを右折するところに道標があった。
佐久甲州街道との分岐点となる場所である。
”右甲州道”の文字が読みとれる。
(写真後方から下って来た)


北国街道は、いったん国道141号に合流するが、


唐松交差点で、また国道と分岐する。
真ん中の道が北国街道である。


唐破風を備えた本格的な三重櫓だ。
個人の所有のようだが、今は使用されていないのか扉は閉じられていた。


14時2分、与良街(よらまち)に到着。


与良街では「現金屋」の屋号の店が目立つ。
米屋の看板がかかっている。


こちらの「現金屋」は竹材店のようだ。


北国街道与良館
情報を求めるため、立寄ってみた。


入口を入ると案山子のような手作りの人形が迎えてくれる。


運営資金カンパの銭蔵コーヒー(100円)を飲みながら、北国街道与良の見所を教えてもらった。


与良館の直ぐ裏の神輿蔵の前に「ぎおん石」と呼ばれる石があった。
この石は、慶長(1596~1614)の頃、祭り好きな左衛門という百姓が、小諸に祇園様がないことを悲しみ、
尾張の国、津島から祇園様を持ち帰り、この石に祀り、村人達の祭り事や家内安全の祈願がなされたという。
後に、ぎおん石と呼ばれ人々の災厄を祓い、願い事を叶える不思議なご利益がある石として、祈願に訪れる
人々が堪えなかったことでも知られる。(ぎおん石の由来)


「ぎおん石」の裏手に小諸城「銭蔵」がある。
江戸時代、小諸城内に設けられており、享保十一年(1726)、牧野康周時代の建築である。
明治五年(1872)、他の建造物とともに入札払い下げとなり、民間所有としてこの地に移築された。


「銭蔵」の主な特徴は、板張りの床下に石室があり、ふたは車付きの一枚の平らな石を用い、
これを滑らせて引き開けるように作られ、そこに隠された千両箱を盗難や火災から防いだ蔵である。
(小諸市重要文化財)


高浜虚子記念館
虚子は、正岡子規に師事し、新派俳句の俊秀として活躍、俳誌「ホトトギス」を主宰した。


高浜虚子旧居
虚子は、戦争中の昭和19年から3年1ヶ月の間この地に疎開。
この家で「縁側散歩」を楽しみながら、句作に励んだという。


小諸駅を目指す。


酢久(すきゅう)商店
延宝二年(1674)創業で江戸中期から酢・味噌醤油を醸造。
関東から仕入れた畳表・鰹節・茶・塩などを長野県内に流す問屋業としても成功し、
小諸藩の御用商人として藩にお金を貸して、武士に近い身分を与えられた旧家。
門をはじめ土蔵・母屋といった建物は全て江戸時代に建てられたもの。


大手門・懐古園といった名所は、次回に訪れることにして、
この日は小諸駅から上田駅を経由して帰宅することにした。


14時53分、小諸駅に到着。


駅で一息入れる。
『今日はかなり歩いたねっ』 『疲れちゃった』


15時30分発のしなの鉄道で上田駅へ向かう。


15時53分、上田駅新幹線乗り場に到着。


上田16時15分発のあさま622号に乗車。
上田駅から乗ったのは、正解だった。
軽井沢駅からでは多分座れなかったと思う。
『向い合わせに座れて良かったねっ』

『今日は大変お疲れさまでしたぁ』

予想以上に寒かったが、天気に恵まれ、北国街道の追分宿~小諸宿間を歩き終えた。
最初は、雲がかかっていた浅間山も最後はすっきりとした姿を見ることができて良かった。
次回は、このシリーズ最終回として、途中一泊して北国街道(小諸宿~上田宿)を歩く予定である。
天気に恵まれることを期待したい。

この日の万歩計は、27,000歩を越えていた。

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野島崎灯台全に歓声 房総最南端ハイキング

2016年03月18日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年3月18日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第34回(2016年第10回)、「南房総最南端」バスハイキングに参加した。
今年度(平成27年度)6回目最後のバスハイキングである。

三中公民館でバスの到着を待つ。


7時34分、15分ほど遅れてバスがやって来た。
天川団地入口の一つ手前で乗る人がいたのを知らずに通り過ぎてしまい、
戻ったりしたために時間を要したとのこと。


この日の参加者は38名、過去最高の人数だ。


いつもの朝食弁当で腹ごしらえをして、


阿見ICから圏央道へ。


車窓に牛久大仏や


阿見プレミアムアウトレットを眺めながら房総方面へ向かう。


8時17分、利根川を渡る。


大永JCTで東関東道に合流し、8時41分、酒々井PAで最初の休憩。
ここまでは順調だ。


しかし、宮城野JCTから京葉道に入ったとたん、渋滞に巻き込まれた。
渋滞を抜けるのに20分以上もかかってしまった。
圏央道(東関東道~横芝)の早期完成が待ち遠しい。


9時49分、館山道富津中央ICを通過。


ハイウェイオアシス富楽里に着いた時には既に10時を回っていた。


ここで、昼食弁当が積み込まれた。


館山城は、天正八年(1580)里見義頼によって築城された。
その後、慶長十九年(1614)に里見氏は改易され、館山藩は取り潰しとなった。
この際に館山城も廃城となり、破却された。
現在建つ天守は、後に丸岡城を模して昭和57年(1982)に再建されたものである。


バスは県道86号を白浜へ向かう。


この道は、白浜への釣行で年に5-6回は通る見慣れた道である。


10時56分、ようやく道の駅「白浜野島崎」に到着した。


昼食の弁当を受取る。
南房総での弁当は初めてなので、楽しみである。


この日のコースは、昨年の8月にここ道の駅「白浜野島崎」でたまたま見掛けた看板だ。
コース図やパンフレットのようなものは道の駅には置いてなかったため、
この看板を撮影した1枚の写真を頼りに歩くのである。
下見をする時間もなかったため、少々不安もあったが、まあ何とかなるだろう。


Kさんの号令で準備体操


長時間バスに揺られた身体をほぐし、


11時13分、先ずは海へ向かって出発!
後ろに見えているのは、これから目指す虚空蔵山(90m)である。


先頭はOさんが務める。
写真のコースを確かめながら進む。


『お~っ 海が見えてきた~っ』


海岸道り(国道410号)を西へ。


『これは、ウミウだよねっ』


元禄地震は、元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震。
震源は房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、マグニチュードは7.9-8.5と推定されている。
『この高さまで津波が来たんだぁ』


海岸通り(国道410号)を500mほど行ったところで右折。


菜の花の黄が眩しい。


細い路地を進み、房総フラワーラインを横断すると、


11時35分、「めがね橋」に到着した。
明治21年(1888)3月竣工の洋式石積み工法の三重橋。
村民の寄付で399円40銭が集められた。
架橋以前は長尾川に架かる橋はなく、村民は歩いて渡っていたらしい。
昭和52年と平成5年の修復で、竣工当時の姿になった。


3つのアーチがあるのでメガネではないが、川面に移る姿から「めがね橋」と呼ばれるようになった。
関東大震災にも壊れることなく、戦時中は戦車が通ったという頑丈な橋である。
県指定有形文化財で日本の名橋百選にも選ばれている。


橋の名前は長尾橋だが、眺尾橋という文字が。


次の目的地虚空蔵山へ。


緩やかな舗装された坂道を上る。


たくさんの蜂の巣箱が置いてあった。
どの巣箱にも蜜蜂が群れていた。
菜の花のミツなのだろうか?


山頂近くに3体の石仏があり、


山頂(90m)にはコンクリート造りの虚空蔵堂があった。
弘法大師(空海)による修験信仰が虚空蔵なので弘法大師にまつわるものなのだろう。


木々の隙間から野島崎灯台が見えた。


虚空蔵山を下る。


上る時には気づかなかったが、根本方面の眺望が良い。


12時3分、「めがね橋」を渡り、


県道86号線を館山方面へ500mほど進むと、


紫雲寺と展望台への案内標識があった。
『ここを曲がれば良いんだねっ』


右手に先ほど上った虚空蔵山が見える。


展望台(城山)を目指す。


展望台へ。


展望台の標識の先に城山らしき山が見えてきた。
(城山はもっと先だった)


コースの写真を頼りに、三叉路を右折して進むと、白浜の集落に出た。
『道が違うんじゃない?』の声もちらほら・・・


後ろに虚空蔵山を見ながら、


感を頼りに農道を進むと、


12時40分、展望台への分岐点に到着した。
道は間違いではなかったのだが・・・
お昼も過ぎ、お腹も空いてきたこともあってか、城山(144m)は遠慮しておく、という人も。
先ほど上った虚空蔵山(90m)よりも高いというのがその理由らしい。


結局、ここから展望台(城山)を目指すグループ(27名)と


平坦な道を進むグループ(11名)に分かれることになった。
城山を下山した辺りで合流することにしたのだが・・・


展望台(城山)入口付近には、


白浜城跡の説明が。
里見氏の祖・義実が房州で最初に開いた山城跡。
東西1Km、南北400m、東遺構・西遺構・城山北遺構という広大な城域を持ち、
房総の中世期城郭としては最大規模を誇る。
初期里見氏の本城として歴史的に重要な遺構であると同時に、
堀や土塁のない構造的にも古い形態の城、とのこと。(以下略)


展望台まで500mとある。


森に入ると木のトンネルが続く。


道は整備されていて歩き易い。
『思ったよりきつくないよねっ』


西側切割は白浜城の大手と推定されるところだ。


『なかなかおもしろいコースだねっ』


緩やかな上りが続く。


12時52分、展望台まで200mの地点を通過。
100m間隔に標識が設置されているのでこれは助かる。


しっかりと階段も整備されているので、登り易い。
『これだったらみんな登れるよねっ』


12時59分、展望台に到着。
上り始めて15分が経過していた。


『いやぁ 素晴らしい景色だなぁ』
『この景色は登った人にしか味わえないよねっ』


野島崎灯台全景


野島崎灯台だ。
『向うからこっち見えるかなぁ』


左手には、グランドホテル太陽や、ライズリゾートなどのホテルが、


灯台に一番近い南海荘ホテル、


右手にはフローラルホールなども見える。


分かれたグループから電話があり、合流点が分り難いので、灯台へ行くとのこと。
また、時間も遅いので、弁当にしたいとのこと。
最初は”灯台近くで揃って弁当を”と考えていたが、灯台までまだかなり時間もかかりそうだし、
我々もここで弁当にした方が良さそうだ。


『あら~きれいっ 食べるのもったいない感じだねっ』


なかなかカラフルな弁当だ。
味も良かったし、ボリュームも申し分なしだ。


13時34分、下山開始


しばらくは上り下りが続く。


『まむし草があちこちに生えてるよっ』
『ここはやっぱり成長が早いんだねっ』


もう一つ展望台があった。
先ほどのよりは、規模は小さい。


しかし、展望台からの見晴らしは抜群である。


展望台を過ぎると急な下りが始まった。
『こっちから上る方が大変かもねっ』


観音堂の案内標識があった。
矢印が示す方を見たが、急な上り斜面の先は雑木林で、何も見えなかった。
(道標が傾いているため上の方を指していたが、本当は麓の方を指していたのだ)


西側切割が白浜城大手に対し、東側切割は白浜城搦手と推定されている。


『この木根元が2つあるように見えるねっ』
倒れた木と思われるが、左側にも根元があるように見える。


急斜面を下る。


下り開始から約20分、明るい平坦な場所に出た。
麓のようだ。


観音堂があった。
下る途中で見た観音堂の標識は、この青木観音堂を指していたと思われる。


里見義堯が奉納したとされる賓頭盧(びんずる)尊者坐像は、なで仏で、
目尻を下げ、開いた口に上の歯と舌を出す様がユニークな羅漢像で、
「おびんずる様」と呼ばれ、親しまれている、そうだ。
自分の痛いところをなでると治るとか。
毎月17日の法要と5月17日に行われる観音祭で公開される、とのこと。


芋井戸の案内板に従って進む。
この辺りは細い道が入り組んでおり、案内がないと目的地にたどり着くのは容易ではない。


13時59分、芋井戸に到着


芋井戸
弘法大師(空海)が諸国遍歴でこの地に立ち寄り、地元の老婆から芋をもらって喜んだという伝説が残る。
弘法大師はこの地に芋がずっと根付くと言い残した。
中には鯉が数匹泳いでいた。


14時2分、青根原神社に到着。


青木の八幡神社、根本の金毘羅神社、原田の諏訪神社の3神体を合祀したことから、
各地の頭文字をとって、この名になった、そうだ。


青根原神社の鳥居の横に里見成義の墓所があった。
里見氏二代成義の墓とされるが、五輪塔も壊れ、わずかに墓台を残すのみ。
天保年間に地元の書家が故人を偲び、里見氏碑を建てている。


キンセンカ畑を見ながら先行グループが待つ野島崎灯台へ。


畑に囲まれた農道を進む。


右手に城山を見ながら進む。
左端の稜線の木が途切れた辺りが最初の展望台があったところと思われる。


下校途中の小学生が歩いていた。


野島崎灯台への道を尋ねると案内してくれると言う。
二人は姉妹で、上が小学4年生で妹は1年生、とのこと。


上の子は、妹にランドセルを預け、家の方向とは違う野島崎灯台まで、案内してくれた。


14時28分、女の子の案内で無事野島崎園地に到着。
お礼に皆さんのお菓子を出し合った。
『本当にありがとうねっ』 『気を付けてお帰りっ』


全員が合流し、厳島神社へ。


平和の愛鍵・男根七不思議
ぶらぶらすれども落ちもせず 金があれども通用せず 竿があれども干しもせず 金があれども光なし
縫目あれどもほころびもせず 玉があれどもうてもせず 天を仰ぐこともなし
されど恋を成就し、子宝に恵まれ、優れたご利益のある祠也
(ご神体は掲載を控えたい)


厳島神社にこの日の無事をお参りして、


房総最南端へ向かう。
『灯台がきれいだわねっ』


最南端野島崎に立つ白亜の八角形をした大型灯台で、「日本の灯台50選」に選ばれており、
国の登録有形文化財にも登録されている。
慶応二年(1866)5月、米英仏蘭の4ヶ国と結んだ「改税条約」(別名・江戸条約)によって
建設を約束した8ヶ所の灯台(観音埼・野島埼・樫野埼・神子元島・剱埼・伊王島・佐多岬・潮岬)の一つ。
なお、これらを条約灯台とも云う。


房総半島最南端碑の前で記念撮影をして、


ゴールの道の駅「白浜野島崎」へ向かう。


南海荘ホテルを通過し、


南海荘ホテル付近から白浜灯台を望む。


フローラルホール前で海岸通りを横断。


15時13分、道の駅「白浜野島崎」に到着
一休みする間もなく道の駅「潮風王国」へ。


15時37分、道の駅「潮風王国」に到着


道の駅「潮風王国」で買い物だ。


買い物風景(1)


買い物風景(2)


『ホンビノス貝って、この前テレビで放送してたのよっ』
ハマグリの減少に伴い、流通時に白ハマグリやオオハマグリと呼ばれる事もあるが、
消費者に誤解を与えるという理由で、別名や通称は使用せずホンビノス貝と表記するのが
一般的となりつつある、とのこと。


『何にすっかなぁ』


南房総と言えばくじらのタレである。
クジラのタレとスモークを土産に買った。
これで一杯やることにしよう。


こちらは買い物は済んだらしい。
『歩いた後はソフトクリームが美味しいっ』


道の駅前の花屋では、皆さん彼岸の花なども買い求めたようだ。
16時20分、それぞれ土産物ショッピングを楽しんだところで、帰路についた。


『お疲れさまっ 今日は楽しかったよっ』


市原SAで休憩を摂り、


三中公民館に着いた時には、19時20分になろうとしていた。、


皆さん、手に手に土産物袋を下げ、
『いやぁ 今日は楽しかった』
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


当会としては、初めての南房総白浜での例会となったが、
天気にも恵まれ、春本番を思わせる陽気の下、房総の一日を楽しんだ。

復りは渋滞もなく3時間だったが、往きは4時間近くもかかってしまった。
圏央道が全通すれば、もっと時間短縮が図れるだろう。
房総方面は、まだまだハイキングに相応しい場所がたくさんあると思う。
圏央道の早期全通を期待したい。

この日の万歩計は、18,000歩に達していた。

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早春?の雪入ふれあいの里から三石森林公園

2016年03月11日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年3月11日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第33回(2016年第9回)、「雪入ふれあいの里から三石森林公園」ハイキングに参加した。
2013年11月22日(金)以来となる。

第一集合場所の土浦市民会館駐車場
『いやぁ 今日は今までで一番寒い感じだなぁ』
会長は、既にフードを被っている。
予報ではこの日の最高気温は7度だったが、実際の最高気温は5度だった。
(翌日の天気予報で確認)


9時36分、「雪入ふれあいの里」に到着


「雪入ふれあいの里」駐車場は、当会の車が占有した状態だ。


この日の参加者は18名。
昨年5月15日の筑波山(17名)以来の20名割れである。
やはりこの日の寒さが、出足をくじけさせたのだろう。
写真には写っていないが、小雪が降っている状態なのでやむを得まい。


久しぶりの会長の掛け声で準備体操


『脚の屈伸~っ』


9時48分、出発!
この日の先導役を買って出たのは、「雪入探検隊」と称してここ「雪入ふれあいの里」で
ボランティア活動をしているE子さんだ。


皆さん後に続く。


先ずは拾光寺(じっこうじ)観音を目指す。


薄暗い杉林を進む。


拾光寺観音を示す道標が整備されている。
「雪入探検隊」の労力の賜である。


しばらく進むと


9時55分、拾光寺観音に到着。
案内によると、十一面観音菩薩像には、寛保三年葵亥年(1743)石塚次郎左ェ門之建と刻まれている、とのこと。
『なかなか立派な観音様だなぁ』


案内は、続けて次のように記されている。
拾光寺という寺があったという記録はないが、上方に平らなところがあり、
山崩れの時に、古銭が流失したことがあった。
一説によると、中志地区の雲集寺が、元は雪入にあって、山火事で焼け落ちたと伝えられている。
しかし、その寺跡の所在は定かではない。(千代田風土記 雪入の研究)


全員お参りを済ませ、拾光寺観音を後にして、


山道を下る。


途中から剣ヶ峰コースへの”近道”を進む。
「雪入探検隊」により整備されたというこのコースは初めてだ。
湿った急斜面で靴が滑って難儀する場面や、


大木が横たわったままの所などもあり、歩き易い道ではない。
しかし、初めてのコースを歩くという点では、気分が高揚する。
『いろんなコースを歩くのって楽しいよねっ』


途中、剣ヶ峰コースの近道(健脚向け)への分岐点があったが、
「いやしの里」を通ることにしているため、いったん舗装道路へ出た。
『ここは何度か歩いたことがあるねっ』


途中から、E子さんの推薦で「いやしの里」への近道を進むことにした。。
「青年の家」経由の舗装道よりも近いそうで、保沢(なるさわ)新道というらしい。


成沢新道は、昨年12月に整備されたそうだ。


落ち葉に埋まった緩やかな上りが続く。


緩やかなつづら折の上りを


15分ほど進み、最後の急坂を上ると、


「青年の家」と「いやしの里」の中間点に出た。


砂利道を「いやしの里」へ向かう。


10時43分、「いやしの里」に到着。


「いやしの里」駐車場で一息入れる。


見晴らし台へ行ってみると・・・


あいにくの天気で見晴らしはあまり良くない。


小休止の後、10時57分、剣ヶ峰へ向けて出発!


剣ヶ峰へは、直登コース(パラボラコース)と眺望コースがあるが、
直登コース(パラボラコース)を希望する人はいなかったため、眺望コースへ。


眺望コースを進む。


緩やかな上りの眺望コース


桜の木にいろいろな名前が付けられていた。
石抱桜(いしだきざくら)
石を抱いている? ような状態から名付けられたのだろう。


眺望コースと言っても木々に隠れて眺望は殆ど望めない。


誰が名付けたか、弁天桜(七福神桜)
『羨ましいほどEカップしてるわねっ』


円周率桜
幹回りが3.14mあるというので、そう名付けられた。
もう1本あるという。


11時16分、眺望コース唯一の眺望ポイントを通過。
中央に見えるのは、「青年の家」だ。
『もうちょっと晴れてくれればねっ』


剣ヶ峰を目指す。


11時26分、眺望コース最後の急坂前に到着。
『ここはまだ剣ヶ峰じゃなかったっけ?』


剣ヶ峰への急坂前で呼吸を整えて、


11時28分、剣ヶ峰を目指す。


かつての木の階段は朽ち果てて上り難い。
『階段を整備してくれれば上り易いのにねっ』
「雪入探検隊」ボランティアの皆さん、よろしくお願いします。


剣ヶ峰への急登の途中に雪入翁桜(ゆきいりおきなざくら)が。


11時34分、剣ヶ峰広場(345m)に到着


最後尾のグループも到着。
『いやぁ この急坂には参ったよっ』


剣ヶ峰広場から雪入の集落を見下ろす。


雪入の集落
『ここはなかなか見晴らしが良いねっ』


11時38分、あきば峠を目指して出発!
ここからはOさんが先導役だ。


急な下り坂
ロープに掴まりながら慎重に下る。


雑木林の尾根をあきば峠へ。


大黒桜(七福神桜)


剣ヶ峰からあきば峠を目指すこと約20分、


12時1分、あきば峠に到着した。


そろそろお腹が空くころだが、お昼は三石森林公園で摂ることにしているので、
その前に浅間山を目指すことに。


12時5分、恵比寿桜(七福神桜)


続けて布袋桜(七福神桜)を通過。


黒文字平
ここは何度か通ったことはあるが、”黒文字平”のことは知らなかった。
筑波山・八郷がよく見える、と案内されている。
また、ベンチには、2016.2.22(雪入探検隊)の名前が。
『つい最近のことじゃないっ』


12時12分、”西弓弦月岡小幡????”と刻まれた道標前を通過。
裏には”御成婚記念大正十三年”とあるから、昭和天皇の御成婚(大正13年1月26日)
を記念して建てられたものであることが分かる。


12時15分、石噛桜コース分岐点を通過


12時18分、浅間山への表参道前に到着したが、浅間山(345m)への登頂を希望する人はいない。
浅間山へは、粘土質の急登の参道を上る必要があるため? それともお腹が空いたから?


急登の表参道を諦め、より緩やかと云われる裏参道へ。


12時24分、浅間山裏参道分岐点。
しかし、『お腹空いちゃったっ』や『早くお弁当食べたいなっ』の声が大きい・・・
まあ、この天気では見晴らしはあまり期待できないし、浅間山登頂は次の機会に、
ということで、三石森林公園へ向かうことにした。


三石森林公園を目指し、森林コースを進む。


以前に比べ、笹などがきれいに刈られていた。


ボランティアで作業をしている「雪入探検隊」の人がいた。
この人達のおかげで余分な笹や雑木が刈られ、コースが整備されているのだ。
『ご苦労さまですっ』 『頑張ってっ』


美肌桜
木の表面がすべすべしている感じである。


三石森林公園へ


木製の階段を下って行くと、


水辺エリアがあった。


砂防ダムに貯まった水に緋鯉が2匹泳いでいた。(繁みに邪魔されて見えない)
E子さんによると、2匹の鯉はいつも寄り添うように泳いでいるそうだ。


三石森林公園の「もりの小屋」へ向かう。


12時45分、「もりの小屋」に到着。


「もりの小屋」から八郷方面の眺望。


E子さんの好意で、「もりの小屋」で食事をすることに。
普段は鍵がかかっていて入れないが、この日は管理人に頼んで特別に開けてもらったのだ。


『今日は外で食事をするのは厳しいよねっ』
『ほんとに助かったよっ』


コーヒーのサービスも・・・
湯呑茶碗で飲むコーヒー、熱くて美味しかった。格別な味がした。


食事も終わり、身体も温まった。


13時33分、ゴールの「雪入ふれあいの里」目指して出発だ!


近道は避けて歩き易い車道を下る。


車道を下った入口の所に「みかえりの滝」があった。
かすかに水の音が聞こえる。


以前来た時は水は確認できなかったが、この日はひとすじの流れが見えた。
『うんっ あれは立派な滝だなっ』に納得。


「雪入ふれあいの里」へ


13時48分、あきば峠への分岐点を通過
『こっちへ行くとあきば峠なんだねっ』


剣ヶ峰のパラボラアンテナが見える。


13時51分、眺望大桜前を通過。
『この桜の木が一番大きそうだねっ』


続いて天空桜下を通過。
『花の咲く時期に見てみたいよねっ』


寿老桜(七福神桜)
ここでえ再び七福神桜にお目にかかれるとは。


七曲では、河津桜が咲いていた。
『満開にはあと少しだねっ』


福禄桜(七福神桜)
残すところは、毘沙門桜ということになるが、果して・・・


14時3分、雪入まで500m地点を通過


雪入を目指す。
『あとちょっとだねっ』


雪入ネイチャーセンターが見えた。


14時15分、「雪入ふれあいの里」駐車場に到着
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


七福神桜の最後の一つ、毘沙門桜にはお目にかかれなかったのはちょっと残念。
コースのあちこちに七福神桜以外のいろんな名前の桜も点在することが分かったので、
次は是非とも桜の咲く時期に歩いてみたいものである。

E子さんの計らいで、三石森林公園の「もりの小屋」を開放してもらったのには、感謝したい。
この冬一番の冷え込みという中で、部屋を提供してもらったのは、本当に有り難かった。
熱いコーヒーが殊の外美味しかった。

この日の万歩計は、16,000歩を少し超えていた。

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黄門様ゆかりの町史跡巡り(常陸太田)

2016年03月05日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年3月5日(土)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第32回(2016年第8回)、「黄門様ゆかりの町史跡巡り」ウォーキングに参加した。
常陸太田を訪れるのは、2009年5月1日(金)以来2度目となる。
この時は、一つ手前の谷河原駅をスタートし、佐竹寺から西山荘へ歩いたので、
今回は逆のコースとなる。

荒川沖駅7時52分発の電車を待つ。


水戸駅で9時5分発の水郡線常陸太田行に乗り換える。
この日の参加者は、22名だ。


水郡線車内は、空いていた。


水戸から早ければ34分しかかからないところを、約1時間近くもかけた9時59分、常陸太田駅に到着。
上菅谷駅で、離合待ちと追越し待ちで20分以上も待たされるというダイヤにはビックリした。


常陸太田駅の待合室には、まだひな人形が飾られていた。


10時14分、先ずは若宮八幡宮目指して出発!


『初めてだから楽しみだわっ』


2015年11月20日、国の文化審議会は、西山御殿跡「西山荘」を国指定史跡および名勝に指定した。
本県で国指定史跡および名勝が指定されるのは、1922年の常磐公園(水戸市)以来93年ぶり2件目となる。


国道293号線に並行する市道を進む。


10時24分、国土交通省交差点を横断。


しばらくすると小高い所に若宮八幡宮が見えてきた。


地図には載っていない住宅地の細い路地を入り、急な階段を上る。


10時39分、若宮八幡宮に到着
若宮八幡宮は、鯨が丘の高台に鎮座しており、戦国大名佐竹氏の居城太田城(舞鶴城)の
二の丸跡に位置する。


鳥居の直ぐ脇に大きな欅(けやき)の木があった。
幹回11.4m、根元25m、樹高30mで、推定樹齢640年以上とされ、
茨城県の天然記念物に指定されている。


境内には他にも欅の大木が見られる。


御手洗で手を洗い清め、拝殿にお参り。
佐竹氏13代義仁が、応永元年(1394)に鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を、太田(舞鶴)城中に
奉るようになったのがその始まりと云われている。
宝永五年(1708)、現在の場所に移された。


若宮八幡宮は、舞鶴城の守護神とされ、水戸徳川家からも崇敬を受けた八幡宮である。


本殿
一間社流造が2つ並んでいるように見える。


境内にはいろんな神社が合祀されている。


矢印に従って本殿裏へ回ってみたが、稲荷神社らしき小さな社があるだけで
他に神社らしき建物(祠)は見当たらなかった。
(もしかしたら見落としたのかもしれない)


若宮八幡宮からの眺め。
城の一角であったため見晴らしが良い。
若宮八幡宮は、茨城百景に選定されている。


太田二高の先の小高い所にこれから訪れる久昌寺が見える。


若宮八幡宮を後にし、急坂の石段を下り、久昌寺へ向かう。


この日は弁当持参となっていたが、あいにく持って来なかった人もいたので
コンビニへ立寄った。
『お待ちどうさま~っ』


源氏川を渡り、


太田二高横を通り、


久昌寺へ向かう。


『この坂けっこうきついな~っ』


11時5分、久昌寺の門に到着。
久昌寺は、日蓮宗の本山(由緒寺院)で山号は靖定山と云う。


最後の急階段を上って久昌寺本堂に到着
久昌寺は,延宝五年(1677)に徳川光圀公が生母の谷久子を弔うために創建した寺院。
久子の法号である「久昌院靖定大姉」からその名が付けられた。


瑞雲閣前の日蓮上人像


鐘を撞いているのは、いつものMさんだ。


虚空蔵菩薩堂
二階は重要寶物殿となっている。


久昌寺がNHK「先人たちの底力知恵泉」で放送されるらしい。
水戸黄門(義公)に関するもののようだ。
放送予定日は4月5日(火)と4月12日(火)となっている。
これは見ておきたい。帰ったら録画予約しておこう。


住職と思われる人に西山荘への道を訊いたところ、境内の裏から義公廟を通って行けるとのこと。
こちらの方が近道で坂はあまりきつくないそうだ。
寺の前の道を行くと、130段ほどのきつい階段がある、とのこと。
『ここは寺の裏を通って行くべきでしょっ』


久昌寺の墓所を通り、最後の石段を上ると、


久昌寺裏の高台に光圀公の遺徳を偲んで建てられた義公廟があった。
廟内には生母の菩提を弔う法華経10巻を納める宝塔や、光圀公が集めた明版一切経が納められている。


”西山荘へ700m”の案内に従って、


西山荘へ向かう。


間もなく西山荘だ。


11時31分、「西山の里桃源」に到着


西山荘と「西山の里桃源」を結ぶおよそ8,000㎡の園地は、
池や橋を配した静かな庭園の中を散策して行くことができる。


園内は四季折々の花々が咲き誇り、春は約70本の紅白の梅や枝垂れ桜、
6月は3,000株の華菖蒲が咲き誇る、そうだ。


今は菖蒲の手入れの真っ最中だ。
『ご苦労さま~っ』


庭園内は、梅が満開で見頃を迎えている。


満開の梅
庭園の木々は全てきれいに剪定されている。


梅の香りが漂う。


「西山荘」へ。


11時38分、「西山荘」前に到着。
「西山荘」は、「水戸黄門」で知られる、水戸藩2代目藩主・徳川光圀公が藩主の座を退いた後、
元禄四年(1691)から元禄十三年(1700)に没するまでの晩年を過ごした隠居所である。
ここで、「大日本史」編さん事業監修を行った。


この日は「西山荘」の見学は予定していなかったため、ここで引き返すことに。


ご前田(ぜんだ)
光圀公が自ら耕された水田(約5,000㎡)の一部で、一領民となられた証しとして、
太田奉行所に十二俵の年貢米を納めた、とのこと。


園内にある「晏如庵」は、光圀公が茶の湯を楽しんでいたという逸話に因んで建てられた施設。


石段を上ると沼(池?)があった。


左手のちょっと離れた所に「晏如庵」が見える。
菓子付き抹茶が500円だそうだが、今日は時間がない。


いったん「西山の里桃源」へ戻り、佐竹寺へのルートを相談。
その結果、「西山荘」の裏山を通って佐竹寺へ抜けるルートに変更することにした。
また、何名か希望者がいたので、「西山荘」の見学時間を設けることにした。
ということで、再度「西山の里桃源」の庭園へ。


時計は12時を10分ほど回っていた。
庭園の東屋があったので、弁当タイムにした。


『まだちょっと寒いけど外で食べるのって良いわねっ』


昼食後、「西山荘」見学希望者は、料金800円を払って中へ。


中に入らない人は外で待つことに。
『もう少し安けりゃ入ったのになっ』


当時「西山御殿」と呼ばれた「西山荘」は、光圀公の没後も大切に保管されてきたが、
文化十四年(1817)に焼失し、2年後の文政二年(1819)に規模を縮小して再建された。
櫟門(くぬぎもん)からは中がちょっとだけ見えるが、様子は伺えない。
質素な茅葺屋根の木造平屋建の造りで、書斎の丸窓からは築山と心字の池が眺められる、とのこと。


入口には光圀公が紀州から取り寄せ、移植した熊野杉が天を覆っている。
杉の木からしきりにキツツキが小気味よく木を突く音が響く。
音のする方角を目を凝らして探すが、枝に邪魔されて姿を見ることは出来なかった。


13時ちょうど、全員揃ったところで、佐竹寺目指して出発!


杉林の中を進む。
この小路は「歴史の里散歩道」と言うそうだ。


しばらく緩やかな上りが続く。


『西山荘から350m歩いたのねっ』


今度は下りである。


枯葉の上を歩くのは気持ちが良いが、滑って転んでしまった。


竹藪を抜けると、


隧道があった。
2009年5月1日(金)に来たことを思い出した。
この時は、佐竹寺から西山荘へ向かっていたので、今回とは逆コースだった。


旧久昌寺跡
ここも見覚えがある。
以下のように案内されている。
水戸藩二代藩主徳川光圀の生母の谷久子(靖定夫人)は、寛文元年(1661)に亡くなり、
水戸城下の日蓮宗経王寺に埋葬された。
光圀は、延宝五年(1677)の久子の十七回忌にあたって、墓を一族の墓所である瑞龍山に移すに際し、
経王寺を稲木村に移して、新たに靖定山妙法華院久昌寺と号した。
開山時には、仏殿・法堂・位牌堂・多宝塔・方丈・食堂・鐘楼・山門・浴室など巨大な寺院建築物を備え、
寺領五百石を有していた。
開山から六年後の天和三年(1683)には、僧侶の学校である「三昧堂檀林」が設けられ、
広く宗門外の学僧まで門戸を開き、盛時には、三千人もの僧が学んでいた。(以下略)


稲木町宮ヶ作集落に入ると・・・


”山の寺”があった。
ここも見覚えがある。


”山の寺”の正式な寺名は何というのだろうか?


”山の寺”には猫が多い。
この他にも数匹の猫を見た。


佐竹寺への道が分からなくなり、皆で手分けして地元の人に訊いたりして教えてもらった。
道標には、旧久昌寺・西山荘は記してあるが、逆方向の佐竹寺は記されていないのだ。


佐竹寺を目指す。
前回通ったことがあるはずなのだが、この辺りは全く記憶がない。


山寺水道の碑があった。
徳川光圀は、生母久昌院を供養するため建立した久昌寺の敷地内や周辺に生活用水を引く上水道の建設を計画。
そのひとつが山寺水道で、岩肌をくり抜いた全長約2kmのトンネル式水路を造り、天神林台地の地下水を
寺域や周辺集落の井戸に注いだ。
トンネルの底に水路として利用する幅・深さ各約30cmの溝を掘るなど、
施された様々な工夫に当時の優れた土木技術が垣間見える。(概略)


朽ちかけた鳥居は何となく見覚えがあるような・・・
(帰宅後写真集を見ると同じものがあった)


石段を上がると境内には小さな祠が祀ってあった。


天神林町の小さな集落を進む。


山寺水道の説明板に見入る。
延宝五年(1677)、徳川光圀が母久子の十七回忌にあたって久昌寺を建立した。
しかし、飲み水が不足したことから、光圀が藩の水利・土木事業にあたっていた永田勘兵衛(円水)に命じて、
天神林台地の地下水を水源として水道を開設することにした。これが山寺水道である。


稲木町・天神林町の台地の地下水を水源とし、山の神地区から全長約2kmの岩を掘ったトンネル式の水路によって、
旧久昌寺跡の井戸と宮ヶ作集落の井戸に注がれた。
このトンネルは、高さ1,6m、幅1.3m前後の不整形なかまぼこ形をしており、底に幅・深さともに30cmほどの溝が掘られ、
そこを水が流れているもので、当時の土木技術の水準の高さを伺い知ることができる。
現在でも宮ヶ作集落の人々に利用されているそうである。


水神様
山寺水道から少し進んだところに水神様という看板が立っていた。
元はこの地に塚があり如意輪観音像と水神塔が祀られていたが、水神塔は盗難にあい、
現在は如意輪観音石像のみが残されている。
ここが山寺水道の水源地の一つと見られている、そうだ。


水神様から先は急な下り坂となっている。


歩いた距離から考えると間もなく佐竹寺のはずだが、周りの景色からはそれらしき雰囲気は感じられない。
『どうも道が違ってるみたい』


ということで、いったん水神様まで引き返す。


水神様の近くに一軒の家があったので、佐竹寺への道を尋ねると、水神様前の細い道を案内された。
途中細い畦道のような小路だか、佐竹寺へ通じている、とのこと。
教えてもらった小さな小路を進む。


細い道を進むと、


前方にこんもりとした森が見えてきた。
どうやら佐竹寺のようだ。


14時1分、ようやく佐竹寺に到着した。
佐竹寺は、妙福山明音院と号する真言宗豊山派の寺院。
鎌倉時代から江戸時代にかけて常陸国を支配した佐竹氏代々の祈願所である。
大同二年(807)の開山、あるいは寛和元年(985)に花山天皇の勅願を受けて元密上人が
創建したとも云われている。


佐竹寺山門
天文十二年(1543)兵火により焼失、天文十五年(1546)佐竹氏18代佐竹嘉昭が、
佐竹城(太田城)の鬼門除けとして現在地に再建した。
佐竹寺は古くから安産・厄除けの仏様として信仰され、坂東三十三観音霊場の第二十二番札所である。
2009年3月18日(水)に訪れて以来だ。


佐竹寺本堂
本堂のあらゆるところに桃山時代の建築物の先駆ともいえる遺構が残されている、とのこと。


茅葺屋根寄棟造の本堂は明治39年(1906)に国指定重要文化財となっている。


境内には古い遺構が残っている。


七福神布袋尊像


本堂裏には、稲荷神社も祀られている。


佐竹寺でこの日の全ての訪問を終えたことになる。
後は、常陸太田駅へ向かうだけである。
常陸太田駅の方向を確認し、


14時16分、常陸太田駅を目指す。


県道61号を常陸太田駅へ向かう。


14時29分、稲木バス停を通過


県道61号を常陸太田駅へ。


左手に山吹運動公園を眺めながら、


源氏川を渡る。


常陸太田市の市街地に入った。


国土交通省交差点を右折し、スーパー「かわねや」前を通過すると、


常陸太田駅は近い。


14時50分、常陸太田駅に到着した。
佐竹寺から20分足らずというかなり早いペースだったので喉が渇いた。


ということで、駅前のカワチへ直行したのはいつものメンバーである。


『歩いた跡の一杯はほんと止められないねぇ』


入ってきた列車は、折り返し15時14分発の水戸行になる。


『今日はとっても楽しかったわよっ』
この一言が何とも嬉しい。


『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


2009年5月1日以来2度目の常陸太田市内散策だった。
前回とは逆コースで、若宮八幡宮も初めてだったこともあり、けっこう楽しめた。

急遽予定していたコースを変更して佐竹寺を目指したが、途中で道が分からなくなり
皆で手分けして道を探したりしたのも印象に残る。
苦労して佐竹寺に到着した時の喜びは、いつもより大きかったように思う。

この日の万歩計は、18,000歩を少し超えていた。

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コメント
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