ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

下町情緒薫る 寺町・谷中から上野散策

2017年09月29日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年9月29日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成29度第19回(2017年第35回)、「寺町・谷中から上野周辺散策」ウォーキングに参加した。

この日は、下町情緒薫る寺町・谷中から文化の森・上野不忍池周辺までを
歩こうというものである。

この日は、出発地が西日暮里のため、電車を利用することにしていたが、
2名が乗車時刻を間違えるといういきなりのハプニング。
荒川沖駅を発車直後に携帯に連絡があったため、次ぎの電車で後を追うように伝え、
日暮里駅で落ち合うことにした。

日暮里駅で待っているところ。
『そろそろ到着する頃じゃないかしらっ?』
この直後、遅れていた2名が無事到着し、一安堵。


日暮里駅で山手線に乗り換え、9時28分、西日暮里駅に到着。
この日の参加者は、23名である。


西日暮里駅の北口出口が分からず、地下鉄とJRの間を行ったり来たり。
何とか出口を見つけ、9時37分、ようやく日暮里駅を出発することが出来た。
地下鉄駅とJR駅間の階段往復で、ちょうど良い準備運動だった。
(半分は負け惜しみ)


道灌山通りを西へ進み、


最初の信号を左に曲がり、細い道を先ずは布袋尊を祀る修性院へ。


塀いっぱいに描かれた布袋様のイラストに心が和む。


9時44分、修性院に到着した。
修性院は、谷中七福神の一つで、「日ぐらしの布袋」と呼ばれる、
布袋尊像を安置する古刹である。
江戸時代、この辺り一帯は、“ひぐらしの里”と呼ばれ、
四季折々の花を愛でにやってくる人々で賑ったとか。


修性院本堂にお参りし、


七福神の布袋尊像を探したが見当たらない。
寺の周りは、びっしりとお墓に囲まれていた。
『布袋さんは何処に祀ってあるんだろうねっ』


修性院を後にして、次の目的地朝倉彫塑館(ちょうそかん)へ。
階段を上り、


右折して富士見坂を下る。


地元の人に朝倉彫塑館の場所を確認すると、富士見坂を上って右方向とのこと。
『反対側に来ちゃったよっ』
ということで富士見坂を引き返す。


富士見坂を上る。


『え~っ ここ車が通るんだぁ』 人と壁がすれすれである。
車を運転する人も気を遣うだろうと思う。


このように富士山が見えたようだが・・・


坂の上から今上って来た富士見坂を見下ろす。
今でも写真のように富士山が見えるのだろうか?
写真とは違う方角のようにみえるが・・・


富士見坂を突き当った左に諏訪神社があった。


この先道に迷わずに行けるよう、諏訪神社に祈願した。


諏訪神社へ参拝後、富士見坂方面へ引き返し、


諏訪台通りを進む。


朝倉彫塑館
日本近代彫塑の礎を築いた朝倉文夫の旧居である。
自らが設計した和洋折衷の住居とアトリエ、自己反省の場として築いた中庭がある。
アトリエには代表的な朝倉作品の原型を、書斎には愛用した道具や身の回りの品々を展示。
木造住居部分は非公開。(入館料は400円)
入館は各自別の機会にということで、ここは素通りだ。


七福神そば屋を通過


10時12分、長安寺を探しながらキョロキョロしていると、長安寺が目の前にあった。
寺名の字が小さくて日陰になっていた上、門の前に停まっていた
工事用トラックのため、見え難く、気が付かなかった。
寺の中は狭そうだし、工事中だったため、代表して見て来ることにした。


長安寺は、谷中七福神の一つで、寿老人を祀るこぢんまりとした古刹である。


墓地には幕末から明治にかけて活躍し、「慈母観音」や「不動明王」など
重要文化財指定の作品を残した狩野芳崖の墓がある。
「慈母観音」を完成した4日後に亡くなったと云う。


長安寺を過ぎて小さな通りを進む。
狭い通りだが、通り抜ける車は多い。
『車だよっ!!』 お互いに何度も声を掛け合い、注意を促しながら進む。


常在寺という寺の前を通過
この辺りは実に寺が多いため、全てを撮ってる訳にはいかない。
気が向いた時だけ撮ることにした。


建物の外壁いっぱいに絵馬を飾ってある家があった。
絵馬堂と書かれた看板を掲げている。
中は絵馬とは関係のない品物が見えるが・・・
『中は食堂なのっ?』
『食堂と言うのは古いねっ、レストランと言って欲しいねっ』と中から威勢のいい声が。
絵馬は趣味で集めたものだそうだ。


都道452号を「いせ辰」を目指す。


道路の反対側から子供たちの元気な声が聞こえる。
台東初音幼稚園からだった。


三崎坂(さんさきざか)の坂道を下る。
案内板には、三崎と言う地名の由来は、諸説あるらしい。
駒込・田端・谷中の三つの高台に因むと云われる。
安永二年(1773)の『江戸志』によると、三崎坂の別名を「首ふり坂」と云い、
30年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことに因むと云う、とある。


10時32分、全生庵の前を通過
『かつて中曽根総理がよく通ってたらしいよっ』とMZさん。
調べてみると、幕末から明治にかけて活躍した幕臣・山岡鉄舟が、
維新に殉じた人々の菩提を弔うために建立した臨済宗の禅寺、とのこと。
安倍首相も忙しい合間を縫って足を運んでいる、そうだ。


天龍院前を通過
この辺りは寺だらけ、と言った状況である。
『何でこんなに寺が多いのかねぇ?』


今週は、秋の交通安全運動週間だ。
『ご苦労さまですっ』


乱歩という喫茶店があった。
ミステリーの巨匠・江戸川乱歩の小説の舞台となった場所でもある、そうだ。
入ってみたくなる店の構えである。


10時28分、「いせ辰谷中本店」に到着


いせ辰は、江戸千代紙を現代に伝える店である。
関東大震災で失われた版木を一から彫り起こし、
1,000種類以上の図柄を復刻させた。


店の中には所狭しと江戸千代紙が並べられていた。
江戸時代の風俗や四季の風物、遊び心溢れるものまで多彩。
江戸の粋を感じられる貴重な店である。


三崎坂を引き返し、谷中霊園へ。


三崎坂の反対側には昭和の雰囲気が感じられる佇まいが。


この辺りは団子坂通りとある。
三崎坂の続きだが、途中で坂道名が変わるのは珍しい。
『あっちにも歩いている人がいるねぇ』


谷中を散策しているのだろう。
車夫の格好をしたガイド付きだ。


谷中茶屋町の路地を進み、


左に折れると、「花重」と書かれた花屋さんがあった。
谷中霊園は近い。


「花重」の先の「ふじむらや」を過ぎて右に曲がると、


徳川慶喜墓と書かれた矢印表示があった。
谷中霊園だ。
先頭Gはどんどん徳川慶喜の墓方向へ行ってしまった。
休憩を優先する人(自分も含む)は、墓地の木陰で一休みしながら
慶喜公墓へ向かったGが戻って来るのを待つことにした。


谷中霊園は、天王寺の境内に明治7年(1874)に開かれた広大な共同墓地である。
墓地には長谷川一夫、横山大観、渋沢栄一、徳川慶喜など、
歴史に名の残る人物が数多く眠っている。


慶喜公の墓へ向かったGが戻ってきた。
『”数分の所に五重塔がある”という情報を得たんだよっ』と言うので、
五重塔へ向かうことにした。


霊園内を進むと、


”五重塔跡”の標識が。
『跡って書いてあるよっ』


かつてここに幸田露伴の小説「五重塔」で有名になった塔があったが、
昭和32年に起きた焼身心中のため焼失してしまったのだ。


当時の塔と延焼中の写真が貼られていた。
『跡とは聞いてなかったなぁ』と悔しがるTKさん。


11時3分、気を取り直して上野動物公園の東照宮を目指す。


都道452号に続く通りを東京芸大方面へ。


上野桜木交差点を過ぎると、道路は一段と狭くなった。
今は後ろから車は来てないが、信号が青に変わると、後ろから次々に車がやって来る。
常に後ろを振り返りながら進まなければならない。
とてもゆっくりと歩いている余裕などない。


藝大美術館が見えて来た。


左手の東京芸術大学前を通過


続けて藝大美術館を右手に見ながら進む。


藝大美術館の先を右に折れ、上野動物園裏門前を通り、
東京都美術館横を通り過ぎると・・・


11時22分、上野動物園の表門に到着した。
『東照宮はどっちだろう?』
周囲を見回すと・・・


上野東照宮の案内看板があった。
矢印に従って動物園横を抜けると・・・


上野東照宮の水舎門があった。
水舎門を潜り、表参道を東照宮へ。


両側にずらりと並んでいる石灯籠の表参道を進む。


右側に見えるのは、神楽殿だ。


水舎で手を洗い清めて、


上野東照宮へ参拝
金色殿とも呼ばれるきらびやかな権現造りの社殿である。
正面に金色の唐門が建っている。


唐門前の参道には、銅灯籠が立ち並ぶ。


『凄く立派だね~っ』 『黄金色に輝いてるわねっ』


金色に輝く唐門


唐門の後ろに、金色殿(社殿)が控える。
唐門と透塀は、参道に立ち並ぶ50基の銅灯籠とともに重要文化財に指定されている。


上野動物園内の五重塔が見えた。
谷中霊園では残念ながら見ることが出来なかったので、
これで”帳消し”としよう。


池之端表道から不忍口鳥居を抜けて、上野東照宮を後にする。


上野精養軒を左手に仰ぎ見ながら進むと、


11時39分、上野動物園の不忍池弁天門前に到着した。


弁天堂へ
両側がハスの葉に覆い尽くされている橋を渡ると・・・


正面が不忍池弁天堂だ。
寛永寺を創建した天海僧正が不忍池を琵琶湖に見立て、
竹生島にあたる弁天島を築かせて弁財天を祀ったのが始まり、と云われる。


堂内には慈覚大師作と云われる本尊の八臂大弁財天を安置している。
八臂大弁財天にお参りし、


左手に不忍池(ボート池)を眺めながら不忍通りへ。
平日のためか、池に浮かぶボートは数えるほどだ。
殆どは係留されたままだった。


不忍通りを目指す。


ボート池の向うに弁天堂が見えた。


不忍通りの交差点を渡った所が、


横山大観記念館だった。
日本画壇の重鎮・横山大観が明治42年(1909)から暮らし、
数々の名作を生んだ屋敷を記念館として公開している。
横山大観の作品や習作・スケッチ・遺品を数多く収蔵し、
3か月ごとに入れ替えて展示している、とのこと。
この日は、ウォーキングが主なので、入館は各自別の機会にということで、
ここはそのまま通過することに。


不忍通りを進んだ所に地図があった。
旧岩崎邸庭園を確認すると、少しだけ行き過ぎていた。


不忍通りを50mほど引き返し、不忍池西交差点を左折する。


間もなく旧岩崎邸庭園の入口だ。


12時1分、旧岩崎邸庭園に到着した。
三菱財閥創設者・岩崎弥太郎の子・久弥が明治25年(1896)に建てた邸宅。
当時は20棟が並んでいたと云われるが、そのうち本館と和館、撞玉室が現存し、
庭園とともに公開されている。


この日は、途中で道を間違ったりしたため、かなり時間をロスしてしまった。
旧岩崎邸庭園を見学するには、急いで観て回っても少なくとも30分以上は
みておかなければならないだろう。
お腹が空いてきている状態では、鑑賞に気持ちが入らないことでもあるし、
またこの後、湯島天神へも行くことにしているため、旧岩崎邸庭園の見学は
パスすることにした。
何としても旧岩崎邸庭園を観たいと言う3名を見送って、


会長以下20名は湯島天神へと向かった。


不忍通り池之端一町目交差点を渡って、少し進むと、


右側に湯島天神の参道らしき道があり、石段の上に鳥居が見える。
『あの石段を上った所が湯島天神だねっ』


男坂の石段を上る。


12時13分、湯島天神に到着した。
とりあえず日陰で一息入れ、


湯島天神に参拝
湯島天神は、正式には湯島天満宮で、学問の神様・菅原道真を祀る古社である。
受験シーズンにはたくさんの受験生が「神頼み」に訪れる。
境内は梅の名所でもあり、紅白400本の梅が植えられている。
梅にちなんだ作品を集めた宝物殿(入館500円)もある。


天満宮の象徴である牛の像


湯島天神の参拝も終わり、残すは下町風俗資料館だけである。
男坂の石段を下って参道へ。


春日通り天神下交差点を右折して御徒町方面へ。


中央通り上野広小路交差点に出た。
斜め向いは松坂屋デパートである。


上野広小路交差点を左に曲がって進むと、上野鈴本があった。
『ここが上野鈴本かぁ』
『懐かしいよな~っ』


12時34分、中央通りと不忍通りの交差点に到着した。
下町風俗資料館を残し、大方この日の見所は巡ったことでもあるし、
皆さん(自分も含む)かなりお腹も空いている様子。
これからめいめい好きな食事処に向かいましょうと言うことで、
この日はここで解散することに。
『今日は大変お疲れさまでしたぁ』 『お互い帰りは気を付けましょうっ!』


最後に残ったのは6名だ。
いろいろと探すのは面倒なので、目の前にあった食事処「大戸屋」へ。
ちょうど食事時間帯だったため、かなり混んでいた。


待つことしばし、一番奥のテーブルに案内された。
先ずは、生ビールで『かんぱ~いっ』
『お疲れさま~っ』


めいめい好みのメニューを注文した。
自分のカメラで写真を撮られるのは、滅多にない。


食事が終わり、上野公園へ。


再び不忍池へ。


今度は時計回りに進むと・・・


13時58分、下町風俗資料館に到着した。
谷中6丁目にあった明治43年(1910)に建てられた酒屋(吉田屋)を移築して展示。
江戸中期から明治の商家建築の典型で、内部には秤や桝、徳利などが
営業当時のまま展示されている。


入館料は無料と聞いていたが、有料(300円)と表示されていた。
この日は、場所だけでも確認しておこうということなので、
中には入らず帰途についた。


中央通りを横断し、アメ横へ。


アメ横通りと上野中通りの交わる場所に出た。
相変わらず大勢の人出で賑っていた。
『いつ来ても人が多いよな~っ』


バナナならぬチョコレートのたたき売りに人垣が出来ていた。
近頃人気があるらしい。
果して新しいアメ横の名物となるか?


活気のあるアメ横を後にして、上野駅へ向かう。


14時15分、上野駅中央口コンコースに到着
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


下町情緒薫る寺町・谷中から文化の森・上野不忍池周辺までを歩いた。
途中何度か道を間違ったりしたが、予定していた訪問先は全て訪問した。
旧岩崎邸庭園は、時間的な都合でパスしたが、機会があれば是非立寄ってみたい。

この日の万歩計は、16,000歩を少し超えていた。

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旧甲州街道を歩く 第十三回 韮崎宿から教来石宿(2日目)

2017年09月25日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年9月25日(月)

「甲州街道を歩く」第十三回2日目は、日野春駅から教来石宿までの約16Kmを歩いた。

2日目の朝、しっかりと朝食を摂り、


7時58分、韮崎駅に向けて出発!


韮崎駅前通り商店街を韮崎駅へ。


昨日おにぎりを買った「ほさか」は、まだ開店していなかった。
今日はコンビニ弁当または道の駅で昼食を摂ることにしよう。


8時6分、韮崎駅に到着


韮崎駅8時29分発の下り電車がやってきた。


新府駅から新府城跡と思しき森が見えた。
『あの森が新府城跡かも知れないねっ』


8時44分、日野春駅に到着


8時58分、日野春駅を出発!


コンビニを求めて富岡三差路へ向かったが、コンビニが見当たらなかったため、
県道612号を釜無川への近道「野猿返し」へ向かう。


9時11分、武川町牧原方面近道「野猿返し」入口に到着


「野猿返し」の坂道を下る。


「野猿返し」の坂道を下る。


いったん県道612号に出て、


さらに「野猿返し」の坂道を下ると、


釜無川橋の袂に出た。


釜無川を渡った所に”むかわ”の看板が。


9時31分、国道20号牧原交差点に到達


大武川橋を渡る。


大武川


大武川を渡って少し進み、下三吹バス停を左に曲がる。


左手の旧道を進む。
緩やかな坂道になっている。


下三吹の集落を進む。


『甘柿なのかしらっ?』
鈴生りである。


下三吹の集落を進む。


集落を進むと正面に田圃が広がり、その手前に「供養塔」がある。
昭和34年8月、台風七号による土石流が村を襲い、下流では被害者が出たが、
この一石塔のおかげで土石流は迂回したという。


田んぼの中に真っ直ぐに道が伸びていた。
水車小屋が見える。その右手に公園らしい広場と東屋があった。
ちょっと一休みしていくことにしよう。


右手を見ると国道20号(右)と舞鶴松(左)の分岐点になっている。


小さな公園があり、東屋があったので立寄ってみると、
中には2人の女性が、休憩していた。(リュックの女性は我々の仲間)
実家の栗拾いに来ていて、一休みしているところとのこと。


女性たちが持参したぶどう(シャイン・マスカットとピオーネ)や
栗の渋皮煮を奨められ、恐縮しながらも戴いた。
『ごちそうさまっ』 『いやぁ このぶどうは甘くて美味しいねぇ』


田んぼの中を伸びる道が白州方面へ通じる道だと教えてもらった。
女性たちに厚く礼を言い、東屋を後にした。


周りが田んぼの農道を進む。


稲刈りの真っ最中だった。


蓮の花が咲いていた。
『きれいだねっ』


周りが田んぼの道を進むと・・・


行き止りになっていた。
有害獣被害防止用電気柵の金網で閉じられていた。


鍵はかかってなくて、手で開けることは出来た。
(この時点ではまだ道が間違っているとは認識していなかった。
東屋での女性たちが教えてくれたことを信じて疑わなかった)


さらに進んだ所で、どうやら道が間違っていることにようやく気が付いた。
このまま進んでも白州へ行けるような様子はない。
『なんだか間違ってるようだねっ』


急いで引き返すことにした。
電気柵の金網の扉を抜け、


来た道を引き返した。


国道20号(右)と舞鶴松(左)の分岐点まで戻り、舞鶴松(左)方面へ。
『白州方面はこの道しか考えられないよねっ』


坂道を上って行くと、萬休院の門が建っていた。


坂道を上って行くと、萬休院の観音像が建っていた。


10時43分、萬休院に到着した。
萬休院入口の地図で白州方面へ通じる道を確認する。
『最初からこっちの道を進んでたら良かったんだぁ』
約30分ほど時間をロスしたことになる。


萬休院に来たからには一応お参りしていこう。


萬休院本堂にお参りを済ませた。


舞鶴松は、平成18年(2006)松くい虫の被害により枯死し、
平成20年(2008)、供養祭の後に伐採されてしまった、とのこと。
かつての松の株が展示されていた。
樹齢約450年と云われている古木だった。


かつて舞鶴松が生えていた場所には、何もなかった。


平成17年(2005年)11月に訪問した当時の舞鶴松は、こんな状態だった。
名称の由来は、傘状の枝が階段状になり、全体の樹形が優美で、
ちょうど鶴が舞う姿に似ているところからきている。
樹齢450年の赤松で国天然記念物指定だった。
その見事な枝振りは、もう二度と見ることは出来ないのだ。


萬休院を後にして、白州方面を目指して坂道を下る。


坂道を下った萬休院の西口に、南無阿弥陀仏名号碑・甲子塔・地蔵尊・
一石六地蔵・馬頭観音像等が安置されている。


西口石塔群を過ぎて進む。


上三吹交差点を渡り、三吹の集落へ。


武川町三吹集落の松


村外れの右手に浄土宗無量院(廃寺)跡があった。


境内の一角に供養塔・庚申塔・安永六年(1777)造立の地蔵尊等が。


境内奥には神明社ともう一社が祀られている。


浄土宗無量院跡を過ぎると、


国道20号の手前右手に旧甲州街道一里塚跡碑があった。
碑には「甲府ヨリ七里ナノデ七里塚トモ云ウ」と刻まれている。


国道20号の尾白川橋で尾白川を渡ると、


道路の反対側に甲州街道古道入口 はらぢみち と刻まれた道標が目に入った。


横断歩道のない道路を渡り、国道20号を右手に見ながら・・・


草叢の道を進む。


道標を兼ねた馬頭観音が三体祀られていた。
横山の道標と呼ばれ、古府中より穴山、日野を経て台ヶ原村へ通じる道で、
後に「はらじみち」とも云われていた借日の主要道路である。
甲州街道の開設により台ヶ原村への入口でもあったので、江戸時代には
交通の足である馬の四魔を承伏し、交通の安全を祈願して建てられた。
馬頭観世音の側面に道標として「右かうふみち」「左はらぢ通」と記されている
台ヶ原宿に現存する唯一の道標である。


無名の巨塔入口と記された碑があったが、ここは素通りして、


古道を進む。


古道の案内碑に従って進む。


草で覆われた古道を進む。
左手には尾白川が流れる。


逆方向から古道を歩いて来た人とすれ違った。


古道の台ヶ原宿側入口に到着。
ここで古道は終わりになっていた。


石仏石塔群
馬頭観世音碑や庚申塔が並んでいる。


台ヶ原下交差点で国道20号を横断すると、”甲州街道台ヶ原宿”の
標識が目に入った。ここから台ヶ原宿だ。
台ヶ原宿は、本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠14軒であった。
この地は高く平らで台盤のようであったため、台ヶ原という地名になった。
宿並は、建設省(1986)「日本の道百選」に選ばれている。


台ヶ原宿に入ると、左手に石祠道祖神が祀られている。
道祖神は、村の境や辻などにあって悪疫を防ぎ、旅人の安全を守り、
縁結びや子宝祈願の民間信仰の神である。
文化三年の記録によれば、1月14日の道祖神祭の際には
「虎頭の舞」が奉納されており、同年間の「甲州道中文間延絵図」に
図示されている3ヵ所のうちのひとつがここである。


中宿に入ると右手に杉玉(酒林)を吊り下げた酒店がある。


右手に本陣跡碑と秋葉常夜燈があった。
御本陣小松屋伝右衛門跡で、天明二年(1782)の記録によると、
敷地は間口18間、奥行19間の351坪で、建坪は92坪だった。
甲州道中の参勤交代の大名は、高島藩・高遠藩・飯田藩の3藩に
限られていた。


台ヶ原宿の見取り図


大きな杉玉(酒林)が吊り下る山梨銘醸(北原家)は、寛延二年(1749)の創業。
銘酒七賢の蔵元である。
当家は脇本陣も兼ね、幕末には高遠藩の御用商人を勤め、明治十三年(1880)
には明治天皇巡幸の際には行在所になった。


天保六年(1835)建替えの際、高遠城主より竹林七賢(ちくりんしちけん)の欄間を拝領し、
以来銘酒を七賢と称した。
七賢とは三国志末期の頃、中国河内郡山陽の竹林で、酒を飲みながら
政談を行った七人の賢人のこと、だそうである。


山梨銘醸の隣に明治天皇菅原行在所碑が建てられている。


問屋場跡
天明六年(1786)の記録によると、敷地は間口7間、奥行き28間の196坪、
建坪は56坪あった。


七賢の向いには明治35年(1902)創業の元祖信玄餅の老舗金精軒がある。
建物は宿場時代の旅籠、とのこと。


右手の一段高い所にお茶壺道中所縁の田中神社がある。
お茶壺道中は江戸幕府三代将軍家光の寛永十年(1633)から毎年四月中旬、
京都の宇治に採茶使を派遣して、将軍家御用達の新茶を茶壷に納封して、
江戸城へ運んだ行列のこと。


宿並の左手に旧甲州街道一里塚跡碑があった。
台ケ原の一里塚跡である。
江戸日本橋より数えて四十三里目の一里塚だ。


少し先の左手に元旅籠「津留や諸国旅人御宿鶴屋」がある。
往時の佇まいをそのまま残している。


建物前には講札が三枚掲げられている。


新築された現在のつるや旅館


12時22分、道の駅「はくしゅう」に到着。


あまりお腹は空いていなかったこともあり、
もり蕎麦(600円)を注文した。


『この蕎麦けっこう黒いねぇ』


『まあまあ美味しかったわねっ』


道の駅「はくしゅう」に、タクシー乗り場があった。
しかし、タクシーは常駐はしていない。
タクシー会社の電話番号が書いてあり、呼べば来るというシステムなのだろう。
旧道から小淵沢駅までタクシーを利用することも考えられるため、
一応番号を控えて、道の駅を後にした。


国道20号に並行している旧道を進む。


間もなく稲刈りの時期を向える頃だ。
『きれいな風景だねっ』


『いやぁ 美味しそうなぶどうだよねっ』
『ちょっと小粒だけど、何という品種なんだろうねっ?』
『ワイン用なのかもねっ?』
手を伸ばせば届く距離である。


13時6分、前沢ちびっ子広場を通過。


旧道を教来石宿を目指して進む。
小淵沢駅14時36分発の特急に乗るためには、教来石宿辺りまで
タクシーに来て貰わないと間に合わない。


『今どの辺なのかなぁ?』
教来石宿までどのくらいの距離なのかが気になる。


13時22分、前沢上交差点で国道20号に合流し、


神宮川を通過。


SUNTORY白州醸造所まで1Kmの標識が現れた。


国道20号を分岐すると、


北杜市の白州スポーツ公園の総合グラウンドがあった。


さらに進むと、


13時39分、般若堂と書かれた小さな建物があった。
ここからは、凡そ20分ほどで教来石宿に着くことだろう。
ここで、タクシー会社に電話をして、教来石宿まで迎えに来てもらうことにした。
タクシーもおよそ20分ほどかかる、とのこと。


教来石宿を目指す。


松山沢川橋を渡る。


蕎麦畑の景色が広がる。


流川橋を渡る。


橋の上流には国道20号が走っているのが見えた。


14時ちょうど、国道20号に合流した。


国道を歩いていればタクシーが通れば分かるだろう。


明治天皇御小休所址碑を過ぎると


駐在所があり、向いには郵便局がある。
ここなら分かり易いのではないだろうかと思い、
タクシー会社には駐在所前でタクシーを待つことを連絡したが、
なかなかタクシーは、現れない。


14時20分くらいになってやっとタクシー2台が到着した。
運転手の話では、小淵沢駅まで約10分ほどらしいが、
小淵沢14時36分発の特急「あずさ20号」には、ぎりぎりである。
果して間に合うのか・・・
この電車に乗り遅れたら、次の新宿行特急は、16時5分なのだ。
14時31分、小淵沢駅に到着し、駅のホームへと走った。
(タクシーが遅れたため、電車のことで頭がいっぱいになり、
この間の様子を撮り忘れてしまったのは、残念で仕方がない)

ホームへ急いだ結果、何とか間に合った。
14時36分、定刻通り特急「あずさ20号」が到着した。


電車は日曜日ということもあってか、ほぼ満席状態だったが、
何とか座れて一安心。
別々の車両に分かれて座ることになったが、これは仕方がない。
新宿まで、ひと眠りすることにしよう。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ~っ』


「旧甲州街道を歩く」第十三回 韮崎宿~教来石宿(2日目)約16Kmを歩き終えた。
萬休院手前で道を間違えて、30分以上時間をロスするというハプニングには、がっくり。
また、教来石宿からタクシーで小淵沢駅に向かおうとした際に、
呼んだタクシーがなかなか来ず、目的の電車に間に合わないのではないかと、
はらはらどきどき、さすがに焦った。

次回はどんなハプニングが待っているのか、次回の「旧甲州街道を歩く」が
今から楽しみではある。

旧甲州街道を歩く 第十三回 韮崎宿から教来石宿(1日目)

この日の万歩計は、25,000歩を超えていた。


ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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旧甲州街道を歩く 第十三回 韮崎宿から教来石宿(1日目)

2017年09月24日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年9月24日(日)

昨年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、
仲間の皆さんから『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、
五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目
(2015年2月22日)に歩いているので、内藤新宿から信州の
下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第十三回目は、韮崎宿(JR韮崎駅)から
教来石宿(JR小淵沢駅)までの約33Kmを歩いた。
1日目(日)は、韮崎駅から日野春駅までの約17Kmを歩いた。

この日は、新宿から特急で韮崎まで行くことにした。
新宿駅7時ちょうど発「スーパーあずさ1号」の自由席は、満席だった。


車内放送によると、指定席とグリーン席も満席とのこと。
女性2名は通路にビニールシートを敷いて腰を下ろして一安堵だ。


甲府駅まではずっと立ちっ放しだった。
座れたのは甲府駅からたったの1駅で10分ほどである。
8時37分、韮崎駅に到着。


『いやぁ 今日は歩く前から疲れちゃったよっ』
『次からは指定席だねっ』
この日の参加者はお馴染のメンバー6名(自分も含む)だ。


9時3分、韮崎駅を出発!
この日のゴール日野春駅を目指す。


韮崎駅前通り商店街に「ほさか」と云う小さなおにぎり屋があった。
途中コンビニ弁当でもと思ったが、あまり期待は出来ない。


昼食弁当にと、めいめいお好みのおにぎり(1個110円)を買い求めた。


韮崎駅前通り商店街を進む。


県道17号本町交差点を右に曲がり、小淵沢方面へ。


9時31分、国道20号との合流点、一ツ谷交差点に到達。
交差点の右側には、中央道韮崎ICへ至る七里岩トンネルが見える。


一ツ谷交差点を過ぎて少し進むと、


十六石と書かれた標石があった。
武田信玄が治水に力を入れたのは有名だが、まだ晴信と云われた天文12-3年頃、
年々荒れる釜無川の水害から河原部村(現韮崎市)を守るため、今の一ツ谷に
治水工事を行なった。
その堤防の根固めに並べ据えた巨大な石が十六石で、その後徳川時代になって
今の上宿から下宿まで人家が次第に集まり、韮崎は宿場町として栄えるようになった、
と云われている。


15mほど離れた所に直径1.5mほどの石があったが、
これがその石(十六石)なのだろうか?


十六石を過ぎてしばらく進むと、国道20号から分岐して下祖母石の旧道に入る。
分岐点に水難供養塔が建てられていた。
昭和34年(1959)8月14日の台風7号の豪雨により釜無川が氾濫、
これによる犠牲者を供養したもの、だそうだ。


9時53分、韮崎駅を出発して50分、日陰があったので、ここで休憩していこう。


旧道の右手には七里岩の断崖が聳える。
七里岩は太古の昔に富士山程の高さがあった八ケ岳が大噴火し、
八ケ岳泥流と呼ばれる火砕流が一帯に堆積した。
これを釜無川が浸食して出来上がったもの、なのだそうだ。
この崖はおよそ七里(約28㎞)にも及んでいるので,古くから七里岩と呼ばれている。


旧道を進む。
白壁の土蔵などの旧い建物が昔を偲ばせる。


美味しそうないちじく
『ちょうど食べごろだねっ』


『見事な松の木だことっ』


威厳のある茅葺の武家門
当家は武田家に仕えた名家、とのこと。


10時14分、下祖母石(しもうばいし)の神明宮に到着。
享保九年(1724)この地に遷座し、旧祖母石村・旧西岩下村の鎮守だそうだ。


狛犬が立派で綺麗な神社だ。


神明宮に旅の安全を祈願


拝殿の先にあるのは、観音堂とのこと。


中には、きれいに飾られた観音堂が鎮座していた。


神明宮の前に南無阿弥陀仏と刻まれた石があった。
赤い色をしているところから、地元では赤地蔵と呼ばれている、そうだ。


なまこ壁の土蔵を左手に見ながら進むと・・・


国道20号との合流点手前に、九頭竜大神の石塔や道祖神の石塔があった。
左から蚕神・石尊神・道祖神・和氣大神・九頭竜大神の碑が並んでいる。
昭和34年の水害で流失したものを復元したもの、だそうだ。


和氣大神・九頭竜大神の碑


九頭竜大神の碑から200mほど引き返し、桐沢橋を渡る。


釜無川
釜無川は甲斐と信濃の國堺に位置する鋸岳に源を発し、
八ケ岳を源流とする立場川を吸収し、流末は笛吹川と落ち合い、富士川となる。
川名は、「水量が豊富で流れが速い為、釜を洗う際、流されて無くなる」とか、
絶え間なく流れる様子を表した”隈無”(くまなし)に由来している、とのこと。


釜無川を渡り、振り返ると七里岩の崖の上に新府城跡と思える小高い森が見える。
新府城は、武田勝頼が築城し、甲斐武田氏の城郭技術の集大成と評価される崖端城。
七里岩の要害に真田昌幸が普請し、甲府の府中に対して「新府」と呼ばれた。
名門甲斐武田氏の最期の城となった。
『あの辺が新府城跡なのかなぁ?』


小桐橋を渡ると、


左手に男女双体道祖神がある。
道祖神は村境等に置かれ、悪霊の侵入を阻止している。
夫婦仲が良ければ悪霊の付け入る余地が無いことを意味している、そうだ。


『美味しそうだわねっ』


百観音と刻まれた碑が建てられていた。
その横には馬頭観世音碑も。


旧道を進む。


入戸野入口と書かれた所を左に曲がると・・・


宝蔵寺の参道脇には数多くの石仏石塔が並んでいる。


11時18分、宝蔵寺に到着。
宝蔵寺の山号は延命山
本尊は地蔵菩薩、脇に等身大の守護菩薩「虚空蔵菩薩立像」がある、とのことだが、
あいにく中は見ることが出来なかった。


本堂の前に腰を下して一休みしよう。
『今日は意外と暑いねぇ』 最高気温は29度くらいはあるだろう。


11時41分、宝蔵寺を後にして旧道を進む。


徳島堰に沿って進む。
徳島堰は古くから日本三大堰(柳川堰、箱根堰)中随一と云われている、とのこと。


旧入戸野村(にっとのむら)の火の見櫓を見ながら進む。


火の見櫓の横に石仏二体と石祠が祀られていた。


名称松(くろまつ)碑と書かれた松の木があった。
昭和拾参年七月弐拾六日建立の碑には「當地方ノ一銘木ナリ」と刻まれている。
今は小振りな二代目が植栽されている。


徳島堰に沿って進む。
『いやぁ これは凄い流れだねっ』
『落ちたら助からないよねっ』


水車のような羽が水しぶきを上げて勢いよく回っている。


徳島堰入戸野第一発電所とある。
ただ今の発電量8KWの表示が見える。


その先に第二発電所があった。


こちらは、発電量12KWと表示されている。


第三発電所
水車の回り方が遅くて重そう。
ゴミが絡んでいるようだ。
発電量は0KWと表示されていた。


円井逆断層の案内に沿って進んでみることに。


徳島堰が続いていた。


円井逆断層は、どこまで行けば良いのだろう?
砂利道になり、この先まだ望めそうにないので、
円井逆断層を観るのは諦めた。


戸沢川を徒歩渡りして、


徳島堰を左手に見ながら進むと、


旧道に戻った。


少し進むと、下円井地区多目的集会所があった。
時計は12時13分を差していた。
『お腹空いたわねっ』


コミュニティ広場もある。
集会所の日陰に腰を下して、ここで弁当にしよう。


弁当は、韮崎市内で買ったおにぎり2個である。
塩かげんが程よく効いていて美味しかった。


12時45分、再び旧道へ。
旧道脇にコスモスや


ケイトウ


蕎麦などの花が咲いていた。


旧道を進むと、目の前に田んぼが広がっていた。
『素晴らしい景色だなぁ』


「かかしの里」モニュメントが建っていた。


ここでは毎年カーニバル実行委員会による、かかしイベントが行われる、とある。
写真では、稲刈りが終わった頃のようにも見えるが・・・
この後行われるのだろうか?


徳島堰の由来についての説明板があった。


寺沢川の手前に徳島堰古沢サイホンがあった。
徳島堰を横切る沢があると、堰は沢の手前で一旦沢の下に潜り込み、
沢を超えた所で再び浮かび上がる、という造りである。
『へぇ~っ 上手く出来てるもんだね~っ』


徳島堰に沿って進む。
旧道の前方に七里岩が聳える。


国道20号手前を下り、


円野横断地下道を潜って国道20号を横断。


国道20号を潜った先に真っ赤な彼岸花が咲いていた。
『いやぁ 見事だねぇ』


旧道を進む。


右手に堂々としたなまこ壁の長屋門が。


敷地内を覗くと、庭に明治天皇圓野御小休所碑があった。
明治天皇は 明治十三年(1880)巡行の際に、ここ内藤家で休息した、とのこと。
『自分ちの庭に明治天皇巡御小休所碑があるって凄いんじゃねっ』


旧道は国道20号に合流。


13時37分、国道20号を少し進むと、左にコンビニがあった。
『冷たいものでも飲んで行こうっ!』


コンビニの前で一休みだ。


『アイスキャンディが冷たくて美味しいっ』


国道20号を進む。


小武川に架かる小武川橋を渡る。


小武川は、この先で釜無川に合流している。
小武川橋を渡ると、北杜市だ。


黒沢川を渡り、


旧道を進むと、


旧甲州街道一里塚碑があった。
”甲府ヨリ六里ナノデ、六里塚トモ云ウ”とある。


旧道の右手には七里岩の断崖が聳える。
『ここの断崖はきれいに見えるねっ』


国道20号を進み、再び旧道へ。


武川町牧原辺りには、白壁の塀に囲まれた大きな構えの家が続く。


国道20号から分岐したり、合流したりを繰り返す。


国道20号牧原交差点手前で何度目かの分岐をし、


左に国道20号牧原交差点を見て、右に曲がり、
県道612号を日野春駅を目指す。


釜無川橋を渡る。


釜無川


河原には鮎釣りを楽しむ人の姿が。


釜無川橋を渡って少し行った所に、日野春駅方面近道「野猿返し」
と書かれた標識があった。


「野猿返し」の山道は、思ったほど険しい山道ではなかった。


いったん県道612号の道路に出た。


道路の反対側にさらに「野猿返し」の山道は続いていた。
『ここまで来たら行くしかないねっ』


「野猿返し」の山道を上ること15分、


再び県道612号に出た。
ここから先は「野猿返し」の近道はなかった。


日野春駅を目指して県道612号を進む。


日野春駅へ0.2Kmの案内標識が現れた。
少しでも近道出来るのはありがたい。


標識に従って住宅地の坂道を上って行くと、


15時1分、日野春駅に到着した。
次の上り電車は15時25分だ。


日野春駅のホームで待つことにした。


待つことしばし。


上り電車が到着した。


15時38分、韮崎駅に到着。
平和観音像が迎えてくれた。


韮崎駅前通りを窟観音へ。
今朝韮崎を出発した際、本町交差点付近からちらっと見えたのが気になって
一度見ておこうということに。


15時52分、窟観音碑前に到着


七里岩の崖下に曹洞宗仏窟山雲岸寺がある。
雲岸寺は、寛正五年(1464)霊場窟観音を守るべく創建された寺である。


懸崖造りの窟観音は雲岸寺の裏にあった。


窟観音の下に洞窟があり、地蔵と弘法大師・成田不動明と刻まれた石碑と
像2体が祀られていた。


石段を上り、窟観音堂へ。


手前の窟室内には寛文七年(1667)に千体仏(千体地蔵尊)が安置された、とある。


千体仏(千体地蔵尊)と弘法大師像
当時より、必ず一体は参詣祈願者と目が合う千体仏があると信仰されてきた。


中央の窟室内には天長五年(828)弘法大師作の御尊像が安置されている。


奥の窟室は窟観音本殿で、天長五年(828)弘法大師作の
本尊聖観世音菩薩像が安置されている。


窟観音堂の手前にも洞窟があり、平和観音への近道とある。


洞窟を抜けると、


平和観音像が目の前に現れた。
『ここからで充分だよねっ』


振り返ると富士山が薄らとその雄姿を見せてくれている。
『富士山も見ることが出来て良かったよねっ』


窟観音を後にして、この日の宿泊先「清水家旅館」へ。
韮崎駅前通り商店街を進む。


16時13分、「清水家旅館」に到着。


「清水家旅館」で寛ぎ、大相撲千秋楽の日馬富士優勝を見届け、
一風呂浴びて汗を流した。


汗を流した後は夕食である。
先ずは、この日無事歩き終えたお互いの健闘を称え、
『かんぱ~いっ』 『お疲れさま~っ』 
『また明日も頑張りましょうっ!』


この日の夕食
お腹が空いていたこともあり、生ビールともども美味しかった。


「旧甲州街道を歩く」第十三回 韮崎宿~教来石宿(1日目)を歩き終えた。
特急「スーパーあずさ1号」では甲府まで立ちっ放しだったので、
出発時点からやや疲れ気味だったが、何とか無事歩き終えて一安心。

国道20号牧原交差点から日野春駅へは「野猿返し」の山道を歩いたこともあり、
最後はやはり少々疲れたというのが、正直なところである。

この日は、特に変わった事はなかったが、明日はどんなハプニングが
待っているのか、明日の「旧甲州街道を歩く」が楽しみでもある。

旧甲州街道を歩く 韮崎宿から教来石宿(2日目)

この日の万歩計は、26,000歩を超えていた。


ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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峠の釜めしに満足 碓氷峠アプトの道

2017年09月22日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年9月22日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成29度第18回(2017年第34回)、「碓氷峠アプトの道」ウォーキングに参加した。

碓氷峠アプトの道は、当会では初めてだが、2009年11月11日(水)
常南交通社バスハイクに参加して以来になる。

5時45分、三中公民館へ行ってみると、既にバスは到着していた。


三々五々参加する人が集まってきた。


三中公民館を6時ちょうどに出発し、天川団地入口、
土浦市民会館へと周り、この日の参加者29名全員が揃い、
定刻の6時20分、市民会館を後にした。


朝食の弁当
いつもの三色おにぎり。
簡素だが美味しい。


常磐道を走る。


6時50分、友部SAで最初の休憩を摂り、


北関東道から


東北道へ。


7時59分、東北道岩船JCTから再び北関東道へ。


藤岡JCTで上信越道へ入り、


8時50分、上信越道甘楽PAで2度目の休憩。
後は、「おぎのやドライブイン」へ向かうだけだ。


9時17分、上信越道松井田妙義ICで高速を降りて、


9時26分、”峠の釜めし”で有名な横川の「おぎのやドライブイン」に到着。


昼食の”峠の釜めし”弁当をめいめい受取る。
『まだ温かいねっ』 出来立てである。


”峠の釜めし”看板の前で記念撮影だ。
『何かの記念になるかもねっ』


いつものようにOさんの掛け声で準備体操(1)


準備体操(2)


準備体操(3)


9時41分、アプトの道目指して出発!


「おぎのやドライブイン」を後にして、


国道18号を進む。


9時49分、鉄道ぶんか村前を通過。
まだ時間が早いためか、訪れている人は少ない。


鉄道ぶんか村の入口前にアプトの道の大きな道標が建てられている。
『ここが起点なんだねっ』
ここから6Km先の旧熊ノ平駅を目指すことになる。


左手に鉄道ぶんか村の建物「Poppo Town」を見ながら進む。
日本で唯一碓氷峠専用電気機関車『EF63』が運転体験ができ、
また展示してある『EF62』や『189系あさま号』の運転席に入って
機器類に触れることもできる、そうだ。
鉄道ファンなら一度は訪れる場所である。


横川郵便局
『(場所に似合わず)随分立派な建物だねっ』


展示された列車を見ながら、その先を右に曲がり、
さらに左に折れると・・・


9時57分、碓氷関所の東門に到着した。


碓氷関所については概略以下のように説明されている。
碓氷関所は江戸時代の元和年間(1615~1623)、
江戸幕府によって設置された。
中山道は重要な交通路であったため、関東入国の関門として、
幕府は「入鉄砲と出女」を厳しく監視した。
東西に門があり、西を幕府が、東を安中藩が守っていた。


碓氷関所を後にして道路反対側の細い路地を進むと、
青空展示されているの鉄道ぶんか村の列車が見える。


右側の線路は、鉄道ぶんか村駅と峠の湯駅間(約2.6Km)を運転している
トロッコ列車用の線路である。


いつの間にか、旗手が交代している。


旗手を務めるKY子さん、まんざらでもなさそう。


しばらくすると旧丸山変電所の建物が見えて来た。


旧丸山変電所
丸山変電所は碓氷線が幹線鉄道ではじめて電化されたことに伴い、
明治45年に建設された。
また、当時の鉄道・電気の最先端技術が導入された。
碓氷峠を通過する電気機関車の心臓部の役割を果たしていた。


煉瓦造り建築の最盛期のもので、純煉瓦造りからなり、
横川駅側は蓄電池室である。


軽井沢側は機械室になっている。
堂々とした姿が、鉄道の歴史を伝える。


旧丸山変電所のちょうど前が「まるやま駅」になっている。
「まるやま駅」は、トロッコ列車の中間駅になるが、
緊急停車駅となったため、停車はしない、とのこと。
トロッコ列車運転日は、3月~11月の土日祝日で、
8月は毎日となっている、そうだ。


旧丸山変電所を過ぎてトロッコ列車の線路に沿って進む。


旗はいつものOさんの手に戻っていた。


トロッコ列車の鉄橋を通過
『鉄橋もあるんだねっ』


トロッコ列車の下を潜って、


線路の反対側へ。


トロッコ列車の線路脇を進むと、


峠の湯駅が見えて来た。


左側にはゴールとなる峠の湯の建物があった。


後続のグループが追い着くのを待って、


10時44分、峠の湯駅の駅の待合室で一休み。
『けっこう汗かいたわよねっ』


『ずっと上りの坂道はけっこうきついな~っ』


10時50分、熊ノ平目指して峠の湯駅を出発して直ぐ、
アプトの道の脇に近代日本詩人の巨匠北原白秋の歌碑があった。
うすいねの 南おもてとなりにけり くだりつつ思ふ春のふかきを
大正十二年(1923)春、当時39歳だった白秋が信濃を訪れた帰り、
ここ碓氷峠で「碓氷の春」と題して詠んだと云われている。


しばらく進むと、一号トンネルの入口があった。


一号トンネル内
天井には電球、路面沿いは蛍光灯が照らしてくれているので安心だ。


一号トンネル内
『歩き易いわねっ』


一号トンネルを抜けて少し行くと、


二号トンネルがある。


二号トンネル内を進む。


二号トンネルを抜けると、左手に碓氷湖が見えて来た。
赤く見えるのは、「ほほえみ橋」だ。


坂本ダムも見える。
お昼はここにしよう。


三号トンネルを抜けると、直ぐ四号トンネルが続く。
四号トンネル内で横川駅方向へ歩く一団とすれ違った。
『熊ノ平から来た』とのこと。
『五号トンネルの先は行き止りだった』との情報があったので、
「めがね橋」で引き返すことを考えていたが、これなら熊ノ平へ行ける。


五号トンネルを抜けると、


11時24分、「めがね橋」に到着した。


信越新幹線の鉄橋が見える。
紅葉の時期には鳴子峡にも劣らない、見事な景色を見せることだろう。


11時31分、熊ノ平を目指し、六号トンネルへ。
会長は、ここで待っていると言う。


六号トンネルを進む。


『長いトンネルだなぁ』
六号トンネルが一番長いことが、後で分かった。


ようやく六号トンネルを抜けた。


熊が出没するようだ。
『一人じゃ怖くて歩けないよねっ』


七号・続いて八号・そして九号トンネルを抜けると、


最後の十号トンネルが見えて来た。
『これが最後のトンネルだよねっ』


碓氷峠アプトの道最後の十号トンネルを抜けると、


11時49分、熊ノ平に到着した。
「めがね橋」からおよそ18分、「おぎのやドライブイン」を出発して
2時間ちょっとが経過していた。
熊ノ平には赤い鳥居が建てられていた。
額には稲荷大明神とある。


稲荷大明神の隣に乳飲み子を抱える若い母親像”熊の平殉難”碑が
建てられていた。
碑には、
この殉難碑は昭和25年6月9日早朝、突如として山くずれが起こり、
一瞬にして埋め去られた作業中の職員と家族50のみたまを末長くまつるため、
全国の国鉄職員から寄せられた浄財で設立されたものであります、とある。


熊ノ平駅から見た信越本線のトンネル入口(出口)で、
右に見えるのがアプトの道の十号トンネルだ。


『ここから先は、行き止りのようだねっ』
信越本線は、行き止りになっていた。


一息入れて引き返すことに。


十号トンネルへ。
今度は逆の順にトンネルを潜ることになる。


『やっぱり下るのって楽だよね~っ』
足を前に出すだけでどんどん進んでしまう。


一団となって軽快にアプトの道を下る。


直ぐ近くを国道18号(中山道)が走っているのが見える。
走っている車は少ない。


九号・八号・七号トンネルと快調に進む。


一番長い六号トンネルを下ると・・・


12時13分、「めがね橋」の袂に到着した。


階段を下り、「めがね橋」で記念撮影を撮ることにした。


「めがね橋」は煉瓦造り4連アーチ式鉄道橋の愛称だ。
明治26年に完成し、昭和38年の新線開通と同時に使用廃止になった。
『首が疲れちゃうよなっ』


「めがね橋」をバックに記念撮影だ。


お腹も空いて来たので、弁当場所を求めて碓井湖を目指す。
「めがね橋」を渡り、


五号トンネルへ。


五号・四号・三号トンネルを抜けると、


右手に碓氷湖と坂本ダムが見えた。


二号トンネルの手前でアプトの道から国道18号へ。


12時44分、急坂の国道18号を下ると、碓井湖畔に到着した。
正面に見えるのは「ほほえみ橋」だ。
『いや~っ なかなかきれいな湖だね~っ』
『水面が鏡みたいだねっ』


坂本ダム(左)・ほほえみ橋(中央)・夢のせ橋(右)


水辺にはいくつかのベンチもあり、ここで弁当タイムに。


碓氷湖を眺めながらの弁当は格別だ。
『きれいな景色で良かったわね~っ』


いつも夫婦で参加のMZさん。


こちらのYMさん夫婦もいつも一緒だ。


『釜めし弁当美味しいわねっ』


しいたけの何とも言えない香りの釜めし弁当
皆さんの評判は上々だった。


湖面に写る「夢のせ橋」が美しい。


坂本ダム


ダム下流の景色(1)


ダム下流の景色(2)


坂本ダムから碓氷湖を望む。


『昼寝したくなっちゃうねっ』


『昼寝してると置いてっちゃうわよっ』
13時33分、ゴールの「峠の湯」を目指して出発だ!


急坂を上り、


再びアプトの道へ。
二号トンネル、続いて一号トンネルと進み、


一号トンネルを抜けると・・・


13時20分、「峠の湯」駅に到着。


バスへ戻り、入浴道具と着替えを抱えて「峠の湯」へ。
入浴料金は、通常600円だが、15名以上は10%割引の540円である。


「峠の湯」


『風呂上がりの生ビールに勝る飲み物はないねっ』
毎度お馴染のメンバーが揃った。
生ビールは、2009年に訪れた時には430円だったが、
現在は550円になっていた。


帰りのバス車内には、満足の笑顔が溢れた。
『天気も良かったし、弁当も美味しかったし、最高っ!』


15時ちょうどに峠の湯を出発したバスは、
15時25分、上信越道松井田妙義ICを入り、


関越道・北関東道岩船JCTまでは、来た時と同じだが、
岩船JCTからは、進路を東に変更し、圏央道白岡JCTのある、
東京方面へ向かった。
土産物は羽生PAで買おうということに。


16時50分、羽生PAに到着


「鬼平江戸処」の建物は、江戸へタイムスリップしたような
造りになっている。


江戸情緒溢れる雰囲気の飲食店が並ぶ。
薄暗い照明がなかなか良い。


土産物屋は、今までのSA・PAでは見られない品物が数多く並ぶ。


我々の年代の興味をそそる品揃えだ。


『どれにすっかなぁ』


『これがいいかなっ』
『たくさんあって迷っちゃうわねっ』


我家の土産に江戸一のしじみ・赤えび・一口昆布巻(1,080円)を買った。
全て酒のつまみだ。
かみさんに文句を言われそう・・・


羽生PAを出ると、大粒の雨が降って来た。
土砂降り状態である。


圏央道へ分岐する久喜白岡JCT付近
『今日は傘持って来てないしなぁ』
土浦市内の天気が気になる。


そんな声をよそに、後部座席は盛り上がっていた。
『歩くときに降られなくて良かったよねっ』
”結果良ければ全て良し”なのである。


18時25分、圏央道牛久・つくばICに到着。
意外なことにこの辺りはほとんど雨は降っていなかった。
『道路が濡れてないねぇ』
『さっきまでの雨、ほんと信じられないよねっ』


18時37分、バスは三中公民館に無事到着した。


『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『お先に~っ』 『気を付けて~っ』


”碓氷峠アプトの道を歩く”が無事に終わった。
紅葉の時期にはちょっと早かったが、濃い緑の中のウォーキングを
充分に楽しんだ。
前回(2009年11月11日)は、アプトの道にある10個のトンネルの
半分しか歩かなかったが、
今回は、折返し地点の熊ノ平までの10個全て歩き切って満足している。
また、鏡のように美しい湖面の碓氷湖を見れたのも良かった。

この日の”峠の釜めし”弁当は実に美味しかった。
上越本線が廃止になった今でも昔の味と香りを伝える「おぎのや」の
歴史と伝統が続いているのだなと感心させられた。
これからもずっと続けて行って欲しいものである。

この日の万歩計は、21,000歩を計測していた。

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蜂に刺されるアクシデント 小貝川豊田堰ウォーク

2017年09月15日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年9月15日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成29度第17回(2017年第33回)、「小貝川堤防」ウォーキングに参加した。
この日は、デジカメの”絞り”設定ミスで、全ての写真が暗くて、
見にくくなってしまったことを最初に断っておかねばならない。
今回はアップを止めておこうかとも思ったが、そうもいかない。
見にくいのを承知でご覧いただければと思っている。

第一集合場所の乙戸沼公園には、13名が集まった。
ここのところ、参加人数がやや少ない。
年齢によると思われる身体の不調を訴える人が増えて来ている傾向にある。
車3台に分乗し、スタート地点の取手の「かたらいの郷」に向かった。


9時50分、「かたらいの郷」に到着
直行した人は4名、この時点での参加者は、17名だ。


「かたらいの郷」
世代間の交流及び高齢者の生きがいの増進を図ることを目的とする施設で、
入浴施設もあり、誰でも自由に利用できる。


「かたらいの郷」交流広場の木陰で、Oさんの号令による準備体操(1)


準備体操(2)


準備体操(3)


10時4分、「かたらいの郷」を後にして出発!


小貝川の豊田堰を目指し、


県道11号を進む。


相野谷橋(あいのやはし)手前で、道路工事が行われていた。
警備員に誘導されて、県道11号を進む。


10時10分、相野谷川を渡る。


利根川方面に見えるのは、国交省 相野谷川排水機場だ。


この日は、日陰は涼しいが、直射日光は暑さが厳しい。


”茨城百景大利根の展望”と書かれた碑があった。


『どんな展望なのかちょっと見て行こうかっ』
ということで、木の階段を上る。


20mほど登ると、鳥居があった。
後で分かったが、面足神社(おもたるじんじゃ)と言う神社の鳥居だった。
面足神社の社殿は、左後方に静かに佇んでいる。
祭神は面足尊で、明治42年(1909)に豊受神社と愛宕神社を合祀。
大正9年(1920)には村社に列せられた、とのこと。


眼下に利根川を眺望できる、との期待は、
木々が邪魔をして見事に裏切られた形となった。
『かつてはよく見えたんだろうなっ』


面足神社鳥居の先に続く緩やかな参道を下ると、県道11号に合流した。
その時、Fさんから携帯に連絡が入った。
小文間駐在所にいるとのことだが・・・小文間駐在所は何処?


10時26分、平石バス停傍のコンビニ前を通過。


鮮やかな真紅のケイトウの花が印象的である。


道路脇の真っ赤な彼岸花も負けてはいない。
まさに今が見頃だ。


関東八十八ヶ所四十三番、相馬八十八ヶ所十九番札所の
厄除大師明星院(大師霊園)の看板前を通過。
明星院には恵比寿神が祀られており、2011年1月7日(金)
”取手七福神巡り”で参拝している。


左手の霊園には、お墓がびっしりだ。


10時32分、中妻バス停を通過。


小文間駐在所に到着したが、Fさん夫妻の姿が見えない。
携帯でFさんに小文間駐在所をたった今通過したことを告げると、
直ぐにこちらへ向かうとの返事。近くにいるようだ。


小文間公民館前で、Fさんの車が現れ公民館の駐車場へ。
『今のはFさんの車? よくここが分かったわねぇ』


Fさん夫妻が無事合流した。
これで、この日の参加者は19名になった。


10時45分、旧小文間小学校を通過
小文間小・井野小・吉田小の3校は、平成27年3月31日に閉校となり、
同年4月1日から旧吉田小の位置に「取手東小学校」を開校した、そうだ。
『過疎で閉校しちゃったのかしらねぇ?』
過疎と言うより、子供の数が少なくなって来たと云うことなのだろう。


小文間小先の交差点を左に折れて、春日神社を目指す。


少し進むと、小さいながらも神社らしき建物があった。
しかし、神社にあるべき鳥居が見当たらない。
『ここが春日神社?』


道路から直ぐの左側には、庚申塔や、


月読神社と刻まれた碑もある。
春日神社ではなくて月読神社なのか?


奥には幾つかの小さな祠があるが・・・


右側には屋根のある建物があったが、社殿ではなさそう。


建物の中を覗くと、仏像が鎮座していた。
『仏像ってことは、ここは神社じゃないよねっ』
後で分かったが、ここは大日堂だった。


春日神社での休憩を考えていたが、神社はもう少し先かもしれない。
緩やかな坂道(大日坂)を下る。


大日坂を下り、道なりに進む。
道は狭いが、けっこう車が通る。


『気を付けてっ 危ないよっ』


11時5分、数百m進んだところで、春日神社は通り越してしまったようだと
気がついた。
しかし、途中に神社の入口など何もなかった。
引き返して探すのも大変なので、道路脇で一休みすることに。


『神社の境内でなくてもここで充分だわっ』
案内役にとっては実に有り難い一言である。


前方に小貝川の豊田堰と思われる建造物が見えた。
『豊田堰まであと少しだねっ』
(後で分かったが、豊田堰(左)と北浦川水門(右)だった)


11時17分、休憩後、豊田堰を目指す。
この先、道は豊田堰から大きく逸れて蛇行していた。


『こっちの方が近いんじゃないっ?』
近道したくなるのは自然の流れである。


草が生い茂る草叢を進むと・・・


道路の柵が行く手を阻んでいた。
柵の中間を潜り抜けるには窮屈すぎる。
『これを越えないと道路へ入れないのかぁ』
『ここは越えるしかないねっ』 『よいこらしょっと』


何とか柵を越えて水門が正面に見える道路へ出たものの・・・


右手に見える北浦川水門と豊田堰へ行くには、このまま進むと却って遠回りになり、
小貝川に架かる戸田井橋まで引き返す方が近道ということに気が付いた。
近道と思った道路を引き返して、戸田井橋へ向かっているところ。
最初から戸田井橋へ向かっていれば、道路柵を越えたり、
またこんなに遠回りしなくて済んだのだ・・・と反省しきり。


11時32分、戸田井橋の裾に到着。


戸田井橋手前を左に折れ、小貝川の堤防を進む。


前方に排水機場の関連建物が見えて来た。
小貝川の水位を計測する建物だろうか?


左側には戸田井排水機場の建物が建っている。


北浦川水門とその先の豊田堰が見えた。


11時39分、北浦川水門に到着
豪雨などで小貝川の水位が上がると水門を閉じて北浦川への流入を防ぎ、
ポンプで北浦川の水を小貝川へ吐き出す、というものである。


径間28m、扉高11.42mの水門が2基並んでいる。
ポンプは日立製作所製で、2基合計毎秒13㎥の排水能力がある、とのこと。


水門から北浦川を望む。


昼前だったが、この先に日陰を望める場所は見当たらないので、
水門の日陰で弁当タイムを設けることに。
『良い眺めだよねっ』
これから渡る豊田堰を眺めながらの弁当は格別である。


『水門がちょうど日陰になって良かったよっ』


12時14分、弁当も終わり、北浦川水門を後にして豊田堰へ。
『これからあそこを渡るんだぁ』


豊田堰は、小貝川に跨る可動堰であり、周辺地域の農業用水の確保や
新利根川の水量維持など重要な役割を果たしている。
なお、豊田堰は、岡堰・福岡堰とともに昔から農業利水の
関東三大堰と云われている。(関東三大堰は全て小貝川にある)
『これで関東三大堰全部を渡ったことになるねっ』


豊田堰は、寛文七年(1667)に徳川幕府の命により、
御普請役伊奈半十郎忠治が中心となり、堰を設け、
灌漑用に供したのが始まりと云われている。


豊田堰上流部の景色
『緑の絨毯みたいできれいだね~っ』


『ここから見ると結構高いのねっ』


左の可動部が実際に動くところを見てみたいものだ。


豊田堰を渡り、堤防上を左方向へ。


前方に見えるのは、国交省豊田堰管理所とある。
正式名称は、
国土交通省関東地方整備局利根川下流河川事務所竜ケ崎出張所豊田堰管理所
長ったらしい名称である。


豊田堰管理所前を通り過ぎ、


その先を折り返して、羽根野方面へ。


羽根野の諏訪神社を目指す。
脱穀された籾殻が燻ぶっている。
『昔懐かしい景色だよねっ』 『いい匂いっ!』


畦道の彼岸花を眺めながら進む。


羽根野団地入口交差点を羽根野団地方面へ。


住宅地最奥部の細い路地を曲がると・・・


諏訪神社と刻まれた門柱があった。
『こんなところが諏訪神社の入口なんだぁ』


諏訪神社の境内は、薄暗かった。
『蚊がいるねぇ』


ここにはあまり長居すべきではない。


ということで、休憩らしい休憩も取らず、諏訪神社を後にした。
竹藪の中の急な石段を下ると・・・


諏訪神社の裏手に出た。
『やっぱ明るい所は気持ちがいいなぁ』


ここでアクシデントが・・・
SB子さんが、石段の途中で蜂に刺された、と言うのだ。
帽子を被っていなかった頭を刺されたとのこと。
かなりの激痛らしい。
この先一緒に行動を共にするのは無理な様子。
13時ちょうど、安全を考え救急車を呼ぶことにした。


こちらでは、会長の様子がおかしい。
暑さのせいかかなり疲れているように見える。
ゴールの「かたらいの郷」まではまだ5Kmほどはあると思われるが、
果してゴールまで持つのか不安が募る。


10分後の13時10分、サイレンを鳴らしながら救急車が到着した。
車体に稲敷広域消防本部とある。


最初は、付き添いは1名とのことだったが、救急隊員に頼み込んで、
付き添いとして女性1名と会長を病院まで送ってもらうことに成功。
行先は、龍ヶ崎済生会病院とのことだった。


13時24分、ゴールの「かたらいの郷」目指して出発!


13時31分、小貝川の堤防に出た。


小貝川に架かる戸田井橋が見えて来た。


戸田井橋を渡る。


小貝川の上流に北浦川水門と豊田堰が見えた。
『2時間ほど前に通った所だねっ』


13時39分、戸田井橋を渡り、県道11号へ。


”動坂”の標柱が建つ緩やかな上りを進む。


工事個所を通り、


13時53分、東京芸大取手キャンパス前を通過。


ゴールの「かたらいの郷」を目指す。


13時59分、旧小文間小学校前を通過。


14時2分、小文間公民館前に到着。
Fさん夫妻とは、ここで分れることに。


『お疲れさまでしたぁ』
『気を付けて~っ』


Fさん夫妻と分れた付近の木陰で、最後の休憩を取り、


県道11号をゴールの「かたらいの郷」へ。


14時25分、県南クリーンセンター前を通過。


ゴールは近い。


続いて相野谷川を通過


前方に「かたらいの郷」が見えて来た。


14時32分、「かたらいの郷」に到着


『いやぁ 今日はけっこう歩いたなぁ』
この後、竜ケ崎済生会病院へ行くため、整理体操は省略ということに。
『待たせちゃぁ悪いもんねっ』
付き添いのOG子さんから、少し前に既に治療は終わったとの連絡は入っていた。

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

この後、救急車で搬送された3名を迎えに竜ケ崎済生会病院へ向かった。
既に治療は済んでおり、蜂の針は見つからなかったそうである。
薬を塗っただけの治療で、思いの他大事に至らず、ひと安心といったところ。
帰宅の途に就いた。


関東三大堰のひとつと云われる小貝川の豊田堰周辺を歩いた。
過去に福岡堰、岡堰も歩いているので、三大堰を全て歩いたことになる。

蜂に襲われ、刺されるという予想外のアクシデントが発生したのにはびっくり。
疲れの見えた会長も含めて、一緒に救急車で病院に搬送してもらい、
どちらも大事に至らずに済んで一安心、と言った一日だった。

この日の万歩計は、19,000歩を計測していた。

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