ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧水戸街道を歩く 最終回 我孫子宿から馴柴へ

2012年06月27日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2012年6月27日(水)


昨年4月22日から「旧水戸街道」(日本橋から水戸)を歩き始め、12月22日には、一応「旧水戸街道」は歩き終えている。
しかし、旧水戸街道の旧街道である「布川街道」(我孫子宿から馴柴)が残っていることが気になっていた。
第11回番外編のこの日は、その「布川街道」(我孫子宿から馴柴までの約22.5Km)を歩くことにした。
従って「旧水戸街道を歩く」は、これが事実上の最終回となる。

集合場所の常磐線東我孫子駅に到着。
本来であれば我孫子宿(我孫子駅)から歩くことになるのだが、途中の”成田分岐”までは既に歩いていることから、
この日の出発地は東我孫子駅からにした。
「布川街道」は距離が長いため、少しでも距離を短くして、負担を軽くしようという狙いでもある。
この日の参加者は11名だ。


東我孫子駅前で、入念にストレッチ体操をして・・・


8時16分、出発!


最初に向かったのは、旧成田街道の最初の一里塚である「東我孫子一里塚
東我孫子駅から少し後戻りすることになる。


『昭和九年建立って書いてあるねぇ』
東我孫子一里塚は、慶長九年に徳川家康によって築かれたものだが、碑は昭和9年に建てられている。


東我孫子一里塚をこの日の起点として、あらためて、馴柴の道標を目指す。
東我孫子駅の横を線路に沿って進む。


布川街道(旧成田街道:国道356号線)を進む。


朝の通勤ラッシュで国道はかなり渋滞している。
救急車も赤色灯を点滅させず、サイレンも鳴らしていないので、一般車と同じだ。
赤色灯を点滅させ、サイレンを鳴らして追い越して行きたいところだろう。


八幡神社


こじんまりとした八幡神社の社殿


八幡神社のすぐ隣に近代的な建物があった。
最初はお寺とは気が付かなかった。白泉寺だ。


白泉寺の脇を通って坂を下って行くと、”八幡の井戸”の案内板が木に括りつけられていた。


「八幡の井戸」は湖北七つ井戸の一つで、今でも水がこんこんと湧き出ている。
あまり訪れる人はいないのだろう、蜘蛛の巣が張られて、やや荒れた状態だった。


国道号356線はかつて、旧成田街道だったこともあり、大きな構えの家が多く見られる。


こちらの家もまるで本陣のようだ。
中はきれいに手入れされた広くて豪華な庭園になっている。


9時10分、伊勢山天照神社に到着。
境内はちょうど掃き清められているところだった。
6月30日(土)には毎年恒例のお祭り、”浅間様”が執り行われるとのこと。


天照神社の拝殿にお参りしていこう。
祭神は大日霊売命(おおひるめのみこと)で、古くから下総の国中相馬七カ村の鎮守として崇敬された、のだそうだ。


こちらは、真言宗の寺院、龍泉寺の山門


神社本殿のある境内は保育園になっており、子供達が元気良く掛け回っていた。
中には一般者は入れないように施錠されていた。


龍泉寺は、延歴年間(782-806)に弘法大師が手賀沼の畔に草庵を結んで波切不動尊を安置したのが始まりとされている。


しばらく旧成田街道(国道号356線)を進むと、湖北駅近くに「湖北一里塚」があった。
案内板には、我孫子市内には我孫子、東我孫子、湖北、布佐の4つの一里塚が設けられたが、
現在でも塚として残っているのは、東我孫子とこの湖北だけとなっている、と説明されている。


またしばらく進むと道路右側に観音寺があった。
慈愍山観音寺といい、曹洞宗のお寺。
本堂には本尊釈迦如来が安置されている。


門を入るときれいなユリの花が迎えてくれた。
『素敵ねぇ』


観音堂には、平将門の守り本尊と伝える聖観世音菩薩(伝行基作)を安置する。


首曲がり地蔵
平将門は、朝廷への反逆者として、天慶三年(940)2月14日、下総国辛島において藤原秀郷らによって討たれてしまう。
この時成田山では将門調伏の祈祷を行ったため、将門を敬愛する日秀(ひびり)の土地の人たちは、
以後成田山には参詣しなくなったという。
この首曲がり地蔵は土地の人たちが故意に成田山とは反対の方向に首を曲げて作ったもの、と云われている。


道路の反対側に葺不合神社の鳥居があった。
本殿までは目の前の鳥居を潜り、一旦下って再び鳥居を潜って石段を登る必要があるそうなので、
道路の反対側から拝むだけに留めた。
近くに横断歩道がなかったのも理由の一つである。


時間の経過とともに次第に気温が上がってきた。


10時30分、気象台記念公園で一休みして行くことに。
楽しみのお茶タイムで一息いれる。


公園は、かつて気象台のアンテナが林立していたそうだが、今は全て撤去されて広々とした公園になっている。


道路脇に「布佐一里塚」の碑がポツンと佇んでいた。
『かつては、ここに大きな榎が植わってたんだぁ』


愛宕八坂神社
道路の反対側だったので、写真だけにした。


愛宕八坂神社の向かい側に延命寺があった。
延命寺は、文禄二年(1593)の創建で、真言宗のお寺。


本尊は虚空蔵菩薩。
新四国相馬霊場八十八ヶ所の24番札所となっている。


正面に利根川に架かる栄橋の陸橋が見えてきた。


陸橋を上ると、


利根川だ。


『いやぁ 風が気持ち良いねぇ』


11時32分、茨城県利根町に入った。


利根川を渡って直ぐ左側に徳満寺がある。
徳満寺は海珠山徳満寺といい、利根町を代表するとも言えるお寺である。
府川(府川)城は豊島氏の居城であった。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉が北条氏の小田原城を攻める際、豊島氏は忠節を尽くすため、
不利である北条側につき、共に敗れた。


徳満寺本堂
住職の奥さんと見られる人が庭を掃除していた。
境内で弁当にしたい旨許しを乞うと、『それなら本堂へ上がって召しあがって下さい』と快く勧められた。


豪華な飾りの本堂内部


本堂の客殿には、有名な「間引き絵馬」がある。
貧困により赤児の口をふさいでる様子が描かれており、障子に映る母親の影は鬼として描かれている。
柳田國男が13歳の思春期にこれを見て強い衝撃を受けたという。
「このようにする外ない飢饉の悲惨さを絶滅しなければならない」という思いが彼に農政学の道を選ばせた、
と説明されている。


奥さまの好意に甘えて、本堂で弁当にした。
お茶も勧められたが、これは各自持参しているので、丁重にお断りした。


宝篋印塔
お唱えすると、罪障を消滅し災難を逃れることが出来る、宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)を収めた塔だが、
これだけの大きいものは大変珍しいもの、だそうだ。


地蔵堂
本尊の木像地蔵菩薩立像(地蔵菩薩・子育て地蔵とも呼ばれている)が安置されている。
木像地蔵菩薩立像は、利根町指定有形文化財となっている。


地蔵堂の裏手に一茶の句碑がある。
一茶の師の一人であった、今日庵元夢(森田安袋)が布川の出身ということもあり、一茶はたびたび布川を訪れている。
布川には49回も訪れて、宿泊日数は289日にも及ぶとのこと。
段々に 朧よ月よ 籠り堂


わざわざ我々一行の弁当のために本堂を貸していただいた礼を述べ、徳満寺を後にした。


徳川家康公ゆかりのお寺、来見寺


来見寺の赤門
家康ゆかりの寺ということで特別に赤く塗ることを許されたそうで、とても畏れ多い門だったのである。
寺の入口に一茶の句碑が建っている。
赤門や おめずおくせず 時鳥


赤門から本堂を見たところ。
家康ゆかりの寺とあって、さすがに立派な本堂である。


来見寺から少しばかり進むと「布川町道路元標」があった。
布川町(現利根町)の起点となる場所である。


また少し進むと布川神社だ。


急な階段を上ると・・・


布川神社の拝殿があった。
布川神社では神事、尋橦(つくまい)が元禄の頃から明治末にかけて行われていたが、
明治四十二年(1909)以降は途絶えているそうだ。
尋橦とは、船型に長さ8間(14.4m)ほどの帆柱を立て、雨蛙の面をつけ竹弓を持った舞人が、
柱の上に登って種々の舞を舞うというものだとか。
竜ヶ崎市で現在でも毎年行われている撞舞と似ている。


柳田國男記念公苑
國男が少年時代を過ごした旧小川家の母屋、土蔵(資料館)で構成されている。
時間がないので案内板だけにし、先を急ぐことにした。


利根消防署近くの畦道のような狭い道路脇の田んぼの中にこんもりとした茂みがあった。
さほど大きくない木が植わってあるが、一里塚の代表的な木と云われる榎は見えない。


青面金剛、庚申塔などの碑が建てられていた。
果たしてこれは一里塚なのか?


県道4号線の道端にお地蔵さんが佇んでいた。
花が供えられている。
交通事故での弔い地蔵のようだ。


利根中学校の近くに二宮神社があった。
二宮神社は天正時代(1573~)より上総郡横須賀村の鎮守様であった。
鳥居のしめ飾りはしばらく替えていないようだ。


境内はあまり手入れが行き渡っていない様子が伺える。
軽い水分補給で、先を急ぐことにした。


少しばかり緩やかな田舎道を進む。
車が殆ど通らないので、歩き易い。


階段を上ると早尾天満宮だ。


天満宮の拝殿は、2011年に地震の影響で改築されたそうが、現代風で思ったより質素な造りだった。
利根町の天神様は他にもいくつかあるようだが、この早尾天神社がいちばん大きく有名とのこと。


境内の大スダジイの木
熱心に絵を描いている人がいた。


この時期は紫陽花である。


あちこちで色鮮やかな紫陽花を見かける。


丸池は釣り人でいっぱいだ。
他県ナンバーの車が多いとのこと。


丸池は底から水が湧きだしているとのことで、水が澄んでいる。
湖面を吹き抜ける風が気持ち良い。


阿弥陀寺(正覺山法王院)の山門は通れないようになっていたため、車道を進む。


慶長二年(1597)道祖和尚の開創と伝えられる。
本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代前期の作とされ、竜ヶ崎市指定文化財になっている。


八坂神社


太子堂の裏には弁財天、宝篋印塔、地蔵堂などがある。


「ふるさとふれあい公園」への橋を渡ると「ふるさと」のメロディが流れてくる仕掛けになっている。
思わず口ずさみたくなる。『♪う~さ~ぎ♪ ♪追~いし♪ ♪か~の~山~♪』


15時10分、ふるさとふれあい公園で最期の休憩を摂る。
既に出発して7時間近く経っている。かなり疲れてきたのは確かだ。


あと約4Km、もう少しでゴールだ。
馴柴の道標目指して元気よく歩く。


小貝川の土手を歩いてみよう。


『いやぁ 良い眺めだねぇ』
『ほれっ 頑張って!』


小貝川の堤防を吹く風が心地良い。


土手の上を少し歩いて、


そのまま進むとゴールからだんだん離れてしまうため、直ぐに下る。
『せっかく上ったのにもう降りるのぉ~?』


龍ヶ崎市川原代町の星之宮神社
住宅街の外れにある小さな社である。
本殿はかなり荒れた状態になっていた。


佐貫町の県道5号線を横切り、


関東鉄道竜ヶ崎線の踏切を渡って間もなく・・・


旧水戸街道との合流点、馴柴の道標(里程標)に到着した。
時計は16時13分を指していた。
東我孫子駅を出発して、ちょうど8時間を経過していた。
『やっと辿り着いたねぇ』


馴柴の道標
江戸十三里、水戸十六里、布川三里と刻まれている。


佐貫駅が見えてきた。


一応佐貫駅で解散ということに。
有志で駅前の「はなの舞」で喉を潤して行くことにした。
都合良く16時に開店したばかりである。
結局10人が参加した。皆さん、相当喉が渇いていたようである。


『かんぱ~いっ!!』
『お疲れさまでした~っ!』


佐貫駅にて、
『最後まで歩けて嬉しいっ!』


『いやぁ よく歩いたよねぇ』
お互いに健闘を讃え合って、帰路についた。



旧水戸街道の旧街道である「布川街道」を歩き終えたことで、旧水戸街道は一応今回をもって終わりとなった。
この後は、「日光街道」を歩いてみたい、という声もあり、何とか実現したいものだと思っている。
また、皆さんと一緒に歩けるのが今から楽しみである。


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