ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.8 仙台城

2015年07月28日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2015年7月28日(火)

この日、懸案の一つだった仙台城に登城した。
実は、2010年8月13日に一度登城しようとしたのだが、駐車場が満車だったために、
駐車場へ辿り着く事が出来ず、仙台城を目前にして引き返し、多賀城へ向かったのである。
後日仙台市役所に電話で事状を説明したところ、後日スタンプが押された紙が送られてきた。
スタンプ帳に貼っていたが、何ともすっきりしない。
やはり自分の目で見て、歩いてみないと実感が伴わない。
スタンプだけで到底登城した気分にはなれない。
そこで、今回あらためて登城した、という次第。

仙台城は、鎌倉時代創築と伝えられる千代城があった青葉山に、
伊達政宗が慶長五年(1600)から2年あまりで築城した。


青葉山の山頂に位置することから「青葉城」とも呼ばれる仙台城は、
城の三方を広瀬川の断崖と瀧ノ口の渓谷が囲む、天然の要害に守られた山城である。
本丸は仙台藩62万石に相応しい大規模なもので、東西245m、南北267mと日本最大級である。


本丸跡から仙台市街地が一望できる。


仙台市街地を望む。


動画


本丸跡から巽櫓跡へ向かう。


巽櫓跡
巽櫓は仙台城本丸の南東に位置し、築城期(17世紀前半)から存在した四基の三重櫓の一つと考えられている。
正保三年(1646)4月の地震で倒壊し、以後再建されなかったと考えられている。


巽櫓跡からの眺望


巽櫓跡からいったん本丸へ引き返す。


土井晩翠像と「荒城の月」歌碑


土井晩翠は、本名を林吉といい、明治四年(1871)仙台市北鍛治町の質商土井七郎兵衛の長男として生まれた。
明治三十年、東京帝国大学英文科を卒業、明治三十三年、母校二高の教授として帰仙した。
不朽の名作「荒城の月」は明治三十一年に作詞発表された。
歌碑からは、「荒城の月」の歌が流れていた。


本丸跡の仙台城見聞館前に本丸御殿の正面図があった。


天守は築かれなかったものの、本丸には豪華な本丸御殿が建ち並び、
初代藩主の伊達政宗もこの御殿で暮らしていたとされ、
跡地からは多くの華麗な調度品が出土している。


崖に張り出した懸造の御殿も造営されていた。


天守は築かれなかったものの、本丸は62万石の大名に相応しく、
桃山文化の集大成ともいうべき本丸御殿の建物が建ち並び、
その内部は数多くの美術品で飾られていた。
松島町所蔵「鳳凰図屏風」を一部加工して再現した、上段の間の床障壁画


本丸大広間は、本丸御殿の中心となる建物で、その広さから「千畳敷」とも称されたと言われている。
上段の間(36畳)は、歴代藩主が座していた。


「上段の間」をはじめ「孔雀の間」「鷹の間」「鶴の間」など多くの部屋が配置され、
各間は豪華な障壁画や飾金具で装飾されていた。


「上段の間」の隣り「上々段の間」(6畳)は将軍・天皇が着座する間である。


仙台城見聞館の傍に、石垣モデルが置かれている。
本丸北側の石垣モデル
仙台市は、老朽化した仙台城本丸跡の石垣を丸6年の歳月をかけて、全面的に解体・修理した。


築城期の石垣モデル
本丸北側石垣の全面的な解体工事により、伊達政宗が仙台城を築城した時期の石垣が発見された。


城内には「大手門跡ルート」と「巽門跡ルート」の2つの散策ルートが設けられている。
本丸から両ルートを回ってみることにした。


現在地の本丸御殿から鳥瞰図に従って歩き始める。


本丸跡を進むと、先ずは詰門跡がある。
仙台城本丸は、東側が広瀬川に臨む断崖であり、西側を青葉山、
南側を竜ノ口峡谷が囲むという天然の要害となっている。
この北側には石垣が築かれ、登城口が設けられていた。


詰門は、この入口に建てられた門で、正保の城絵図(1645年)によると、
二階建・瓦葺で、棟の両端に鯱がのっていた。
左右の石垣間の距離は19.5m(65尺)で、大手門と同じ大きさを持つ。
門の左右には三重の脇櫓(東脇櫓・西脇櫓)が築かれていた。
詰門跡から護国神社の鳥居を見たところ。


護国神社の鳥居を右に曲ると、修復整備が完成した本丸跡北側の高石垣が現れる。


平成になって本丸跡の調査が進み、本丸を囲む石垣は長い年月によって劣化が進んでいたが、
平成9年から7年をかけて補強、修復された。


本丸北面で最も高い17mの高石垣


本丸跡北側の高石垣は、切込接による実に見事なものである。
特に隅部の算木積は、「江戸切り」と呼ばれる手法で、
石の角に丁寧な加工を施して稜線を際立たせている。


修復された本丸跡北側の石垣


高石垣をいったん後にして、坂道を下って行くと・・・


沢門跡があった。
現在は、石灯籠が建てられている。


仙台城には、門や曲輪が複雑に設けられていた。
沢曲輪と中曲輪をつなぐ現在地には沢門があった。
沢門は平屋建てで、屋根は切妻、瓦葺であった。
本丸跡から沢門までは、大手門跡ルートと巽門跡ルートは共通している。


ここで大手門跡ルートと分かれ、右に曲って巽門跡ルートを進む。
巽門跡ルートの薄暗い坂道を下る。


緩やかな坂道を三の丸方面へ向かう。


仙台藩御用酒発祥の地碑があった。次のように説明されている。
仙台藩祖伊達政宗公は、慶長十三年(1608)柳生但馬守宗矩の仲介により、大和国の又右衛門を仙台に召下し、
榧森(かやのもり)の姓と、切米10両、10人扶持を給し、清水門の南側御太鼓部屋下に自ら地を相し、縦16間、横5間の
酒蔵を建て御城御用御酒屋と称した。
酒造用水にはこの付近の清泉が使われた。
榧森家は、初代又右衛門より12代孝蔵に至るまで仙台城御酒御用を務め、その醸造する酒は夏氷酒・忍冬酒・桑酒・
葡萄酒・印籠酒など20余種にも及び、仙台領内の酒類醸造に多くの影響を与えた。
以来仙台藩に於てはいわゆる町酒屋と御用御酒屋とが競い合い、酒類醸造技術の向上と藩の経済に大いに貢献した。
御酒蔵跡と名水の湧出する地は宮城県産清酒の源流の地である。


清水門跡
三の丸から沢門に至る登城路の途中に設けられた門で、入母屋造り二階建て二重問となっていた。
清水門の名は、門付近に仙台藩の御用酒造りに利用された湧水があったことにちなむ。
清水門跡石垣は、平成15年に復旧されている。


酒造屋敷跡
この地は、慶長十三年(1608)に伊達政宗公が大和国から招いた又右衛門が、酒蔵と屋敷を与えられ、
酒造りを行った場所と伝えられる。
又右衛門は、藩用の酒の醸造を行い、出身地にちなんだ榧森(かやのもり)の苗字を与えられ、
帯刀も許されていたという。
この場所には、江戸時代を通じて酒蔵が置かれていた。
城内に酒造屋敷がある例は、極めて珍しいものである。


巽門跡は、三の丸の南東側の門である。
巽門は、大手門や脇櫓とともに仙台空襲(1945)前まで残っていた数少ない建造物の一つである。


昭和59年に実施された発掘調査で建物の礎石14個や雨落溝などが検出され、翌年その成果をもとに
門跡の復元整備が行われた。


巽門跡を三の丸方面へ進むと、正面に仙台博物館がある。
三の丸は、江戸時代の城下絵図には、「蔵屋敷」「御米蔵」「東丸」などど記載され、
藩に納められた年貢米などを貯蔵する場所として用いられたと考えられる。
その規模は東西約144m、南北約117mで、周囲は大規模な土塁と堀で囲まれていた。


仙台博物館に向かって右手に残月亭がある。
残月亭入口


残月亭
この茶室は四畳半の屋敷の茶室を中心に、水屋・縁が付き、屋根は寄棟造り柿葺きとなっている。


初代の仙台区長の松倉恂により建てられ、その後、姉歯家所有となり、2度移築されている。
保存状態良好な明治中期の書院風茶室として貴重である。


三の丸跡東側土塁
三の丸の地は、堀と土塁とで堅固に囲まれていた。
土塁は正保の城下絵図(1645年)では、「岸」「土手」などと記されている。
博物館建設の整地によって見た目は低くなっているが、江戸時代には高さが2間(約3.6m)あったと
伝えられている。


土塁の高さは場所によって異なり、南の巽門脇は高さ5間(約9.0m)、
北の子門脇では7間半(約13.5m)もの高さがあった。


三の丸の北側から見た子門跡
仙台市博物館敷地内入口となっているこの場所には、木造二階建・瓦葺の門が建っていた。
正保の城下絵図(1645年)では、「子ノ方門」と記されいる。


三の丸跡側から見た子門跡
現在も石垣が左右に残っており、往時を偲ばせるが、昭和時代に修復されたものである。


子門跡を過ぎると、右手に三の丸東側の長沼へ通じる堀がある。


左側には、五色沼がある。
明治中期、外国人たちがこの場所でスケートを始め、明治42年(1909)頃に第二高等学校生が
ドイツ語教師ウィルヘルムからフィギュアスケートの指導を受けたという。


後に彼等や後輩たちが全国各地で普及に努めたことから、五色沼(堀跡)は、
日本フィギュアスケートの発祥の地と言われている。


三の丸東側の長沼
長沼は巽門跡まで続いている。


仙台城
築城された当時は、まだ戦乱が収まっていなかったことから、当初、本丸に至る大手筋(登城路)は、
巽門から清水門、沢門に向かう急峻な道であったという説が有力になっている。
その後、世の中が収まり、仙台城の整備が進む中で大手門が築造されると、
大橋から坂を上って大手門に入り、中門から本丸へ向かうルートが、正式な登城路として
整備されたと考えられる。


仙台城入口の前に仙台国際センターが建っている。
水沢伊達氏、登米伊達氏の屋敷跡だったところである。


大手門跡への道
後方は広瀬川大橋方面。


大手門跡への道
左は三の丸堀跡付近


さらに進むと大手門北側土塀が見えて来た。
政宗の死後、2代藩主・忠宗により、本丸よりも一段低い山麓部に二の丸が造営され、藩政の中心となった。
しかし、こうした建物群も明治時代に破却され、さらに昭和20年(1945)の空襲で焼失してしまった。
この土塀は、空襲で焼け残ったもので、仙台城内に現存する唯一の建築物である。


大手門北側土塀下の扇坂
扇坂の先は、宮城県美術館・仙台第二高へ通じている。


大手門跡正面の二の丸跡には支倉常長の銅像が建てられていた。
支倉常長は、政宗公の命を受け渡欧した「慶長遺欧使節」の日本人のリーダーであった。
サンファンバウティスタ号で、石巻市・月浦を出帆。
日本人として初めて太平洋・大西洋を越え、メキシコ・スペイン・ローマを訪れた。


二の丸跡正面の大手門には、付属の脇櫓があった。
かつて仙台城の大手には肥前名護屋城から移築したと云われていた、
桃山様式の豪壮華麗な大手門と脇櫓があったが、昭和20年の空襲により焼失した。
現在は、大手門脇櫓のみが再建されている。


焼失前の大手門(右)と付属の脇櫓(左)


再建された脇櫓


二の丸跡に建てられた、東北大学百周年記念会館。
コンサートホールおよび 会議室等からなる複合施設である。愛称は「川内萩ホール」
現在は、東北大学川内南キャンパスになっている。


二の丸跡の東北大学川内キャンパス


東北大学植物園への入口


大手門跡から本丸跡を目指す。
ここ大手門跡から本丸跡へは「大手門跡ルート」「巽門跡ルート」になっている。


しばらく進むと、中門跡が見えて来る。


中門跡
中門は、大手門から本丸に至る道の途中に設けられていた二階門で、「寅門」とも称された。
江戸時代に作られた姿絵図には、切妻造で桁行6間、梁間3間に描かれている。
門を挟んで両側には石垣が築かれている。


中門跡から大手門方面を望む。


中門跡から沢門方面を望む。


中門跡から大手門方面へ進むと、沢門跡の石灯籠が見えて来た。


さらに進むと、北側石垣が現れた。


護国神社の鳥居に到着した。
一通り城内を見て回ったことになる。
最後は護国神社へ参拝して帰ることにしよう。


護国神社


護国神社へ参拝
神社内には、「軍艦マーチ」が流れていた。


この後、土産物店で土産物を買い、仙台城を後にした。
この日の仙台城で、登城した城は、90城になった。
残り10城、何とか頑張って全100城の登城を目指したい。

この日のお城巡りではかなり歩いたと思ったが、意外にも万歩計は、8,000歩ほどだった。


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特選街道を歩くⅠ 第六回 (中山道)塩尻宿~下諏訪宿(2日目)

2015年07月20日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年7月20日(月)

昨年(2014年)は、旧東海道第一ステージとして、日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも歴史的に見所が多い区間を選んで、歩くことにした。
旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも大変なためである。

第六回は、中山道(塩尻宿~下諏訪宿)を2日かけて歩いた。
見所・立寄り先などは、「浅田次郎と歩く中山道」(中央公論新社)を参考にした。

2日目朝、先ずは下社秋宮へ参拝する前に朝風呂で身体を洗い清めていこう。


鉄鉱泉本館から本陣近くの遊泉ハウス児湯(こゆ)へ。


遊泉ハウス児湯は、下諏訪宿霊泉の始まりとされる、神話に彩られた伝説の湯。
現在は、歴史のある児湯と錦の湯が統合され、「遊泉ハウス児湯」という日帰り温泉施設である。
昨日入った「旦過の湯」と「新湯」と合せ、下諏訪温泉公衆浴場”三湯巡り”の一つになっている。


『なかなか気持ちの良い湯だったよねっ』


前を行くのは女性陣だ。
我々と同じ「遊泉ハウス児湯」に入っていたらしい。
旅館へ戻るのかと思いきや、これからもう1軒「旦過の湯」へ入るとのこと。
『湯あたりしちゃうよっ』


男性陣は鉄鉱泉本館へ


この日も暑くなりそうだし、朝食はしっかりと食べておこう。


9時16分、この日最初は、昨日参拝していなかった諏訪大社下社秋宮へ向かうことにした。
春宮へ行く際にはもう一度鉄鉱泉本館前を通るので、重いリュックは預けて身軽で行こう。


参拝する前に手と口を清める。


鳥居をくぐって石が敷き詰められた緩やかな参道を進む。


根入りの杉
この杉の木は樹齢凡そ600~700年で丑三つ時になると枝先を下げて寝入りいびきが聞こえ、
子供に木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止ると云われている、そうだ。


神楽殿
御神前に神楽を奉納するための建物で、天保六年(1835)上社本宮幣拝殿を手掛けた、
立川和四郎二代目富昌棟梁により落成した。
正面の大注連縄は、御柱祭毎に新しく奉製され、重量は約1トンあるそうだ。
また、青銅製の狛犬は日本一大きい、とのこと。


神楽殿は、三方切妻造りと呼ばれる様式で、幣拝殿のような彫刻は見られない。
あまりにも堂々とした構えなので、最初はこれが拝殿ではないかと思ったほどである。


神楽殿内部は、凛とした雰囲気が漂う。


幣拝殿は、安永六年(1777)に起工、同十年に落成した。
工匠は諏訪出身の初代立川和四郎富棟で、彼は当時盛んになった立川流建築を学び、
彫刻は中沢五兵衛につき、いくつかの名建築を残した。
国指定の重要文化財となっている。


幣拝殿内部は厳かで神々しい。


一之御柱
御柱は、寅年と申年の七年目毎に御宝殿の造営と共に建替られる御神木で、
社殿の四隅に建立されている。(案内による)
秋宮一之御柱は、長さ17m余、直径1m余、重さは10t余か?


秋宮二之御柱も同じ大きさの樅の樹で、霧降高原に続く東俣国有林に於いて伐採され、
数千人の氏子の奉仕により曳行された。
次の御柱祭(式年造営御柱大祭)の木落しは来年平成28年4月8日(金)9日(土)10日(日)に催される。
三之御柱、四之御柱は、秋宮には見当たらなかった。


下社秋宮前から大社通り(中山道:国道20号)を通して諏訪市街地を望む。
『昨日この坂道を歩いて来たんだよねぇ』


新鶴本店
明治六年創業の塩羊羹の店。
厳選した材料を揃えて楢薪を焚き、手作業で練り上げる伝統の塩羊羹は、
初代が羊羹に塩味を加えることを思いつき、考案した。
さらりとした甘みと塩の旨みが魅力、とのこと。


いったん鉄鉱泉本館へ戻り、預けていたリュックを受け取って、
次の目的地である諏訪大社下社春宮へ向かう。


かつてこの辺りは旅籠屋・茶屋・商屋が建ち並んでいた、とのこと。


伏見家邸
江戸時代の建築様式や生活用品の展示を無料公開している。


江戸日本橋より55番目の下原一里塚跡碑


火消道具箱 火乃用鎮


10時7分、慈運寺の石段前を通過
慈運寺は、武田信玄が保護した寺で、信玄ゆかりの”矢除石”がある、とのこと。
武田信玄が石の上に立つ僧に向かって弓の名手に矢を射らせたが、矢は全てはね返され、
上人には一本も当らなかったという伝説の石、だそうだ。


大曲りに差しかかる。
ここを左に進むと春宮への参道になる。


富士山がちらりと顔を覗かせてくれていた。
(今回の街道歩きで富士山を見たのはこれが最初で最後だった)


10時12分、諏訪大社下社春宮へ到着。


境内左手に神社へ奉納されたお神酒(おみき)の樽が並んでいた。
真澄は何度か飲んだことがある。


御柱を曳行する台車と思われる。


神楽殿
御神前に神楽を奉納するための建物で、落成は江戸時代前期天和年間(1681~1684年)頃のもの。
秋宮の神楽殿より古く、簡素な造りとなっている。


幣拝殿
この建物は、御幣と拝殿が一体となったもので、幣拝殿と呼ばれる。
建築様式は二重楼門造りで全体に見事な彫刻が施されている。
棟梁は、地元の宮大工柴宮で(伊藤)長左衛門で、秋宮と同じ絵図面で,
秋宮幣拝殿より1年早い安永九年(1780)に落成した。
春秋両宮は社殿構造は同じで当時は双方で技術が競われた。


拝殿内部の造りは秋宮とよく似ている。


左右片拝殿
この建物は、幣拝殿と同じ安永九年(1780)地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門により造営されたものである。
秋宮に比べて幅が短く屋根が片切りになっている。
国の重要文化財に指定されている。


一之御柱


二之御柱
秋宮御柱とほぼ同じ大きさである。
春宮にも三之御柱、四之御柱は見当たらなかった。


万治の石仏へ向かう。
橋を渡ったところは浮島社である。


浮島社からもう一つの橋を渡ると万治の石仏は近い。


土産物店の前を通って進むと・・・


10時28分、左手に万治の石仏が見えた。
大きな半球状の自然石の上に小さな頭が載っている。
画家の岡本太郎や作家の新田次郎が絶賛したというユニークな石仏である。
胴部分に万治三年と刻まれていることからこの名がついた。
岡本太郎が世に出した石仏として有名、だそうだ。


参拝方法
一、正面で一礼し、手を合せて「よろずおさまりますように」と心で念じる。
二、石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する。
三、正面に戻り、「よろずおさめました」と唱えてから一礼する。


最初に石仏の正面で手を合わせ、「よろずおさまりますように」と念じ、石仏の周りを回る。


後ろから見るとこんな形をしている。
頭がなければ普通の石である。


四周目?
写真を撮ったりしていたら、一周余計に回ってしまったようだ。


川で遊ぶ子供達の歓声が林に響く。
対岸は先ほど通ってきた浮島になる。


岡本太郎揮毫による万治の石仏碑


10時40分、下諏訪駅方面へ向かう。


大社通りを進むと下馬橋があった。


御手洗川に架けられた屋根付の太鼓橋で、諏訪大社下社最古の木造建造物である。
かつての参道で、参拝者はこの橋を渡っていたのだろう。
今は、車道は下馬橋を避けるように作られている。


石碑群と力石
昭和初期まで若者の力くらべに使われた石で、大きいのは60Kgほどあるそうだ。


下社春宮の鳥居は、明治25年に建立され、高さ約8.5mとのこと。


道祖神碑


10時56分、中央本線の線路を横断
下諏訪駅方面を望む。


当初、下諏訪駅をゴールとしていたが、まだ時間が早いので、上諏訪駅まで歩こうということになった。
下諏訪駅裏を通り、諏訪湖畔へ向かう。


朝顔の青い花びらが美しい。
『これだけ揃って咲くと見事なもんだねぇ』


炎天下の中、諏訪湖湖畔へ。


11時26分、諏訪湖畔に到着


諏訪湖畔の遊歩道を上諏訪駅を目指す。
『あの辺に富士山が見えるんじゃないっ?』


ちょうどこの辺りが国土交通省選定の”関東の富士見百景”下諏訪町「湖浜」であり、
天気の良い日は、このように見えるのだそうだ。


しかし、実際に見えたのは、富士山は雲に覆われて、こんな状況である。
『天気は良いのにねっ ほんと残念だよな~っ!』


11時38分、1Km地点を通過


湖畔の遊歩道を進む。


湖面の岸近くは菱で覆われていた。


大四ツ手網漁
産卵のため岸に近付くフナやコイを狙って、風呂敷のような網を上下に動かす、のだそうだ。


11時45分、諏訪湖博物館前を通過


諏訪湖対岸の景色
1周は約16Kmある、とのこと。


『湖畔の風が気持ち良いわねっ』


11時58分、2Km地点を通過


湖畔の景色
写真中央付近が上諏訪駅辺りだろうか?


12時11分、3Km地点を通過。


12時14分、諏訪湖間欠泉センターの建物が見えて来た。


次の間欠泉噴出まであと15分以上待たなければならない。
現在は、コンプレッサーで圧縮空気を送り、上部の冷えた温泉を取り除くことにより、
間欠泉を噴出させている。また、噴出高は5m程に留まっている。
とのことなので、このまま上諏訪駅へ向かうことにした。


諏訪湖畔公園を通過


片倉館は、大正から昭和初期に日本における輸出総額の約1割が絹製品であった当時、
シルクエンペラーと称された片倉財閥により地域住民に厚生と社交の場を供するため、
昭和3年に竣工された。
天然温泉を豊富に湛える大理石造りの浴槽は、100人が一度に入浴できるほどの広さで、千人風呂と称される。
深さ1.1mの底には黒い玉砂利が敷き詰められている。


上諏訪駅へ向かう。


12時44分、上諏訪駅西口に到着。


13時28分発の新宿行き「スーパーあずさ18号」までしばらく時間がある。


駅前で食事でもと探したが殆どの店は閉まっていた。
仕方なく駅中のコンビニでおにぎりやサンドなどめいめい好みのものを買い求め、駅のホームで。


13時35分、7分ほど遅れて「スーパーあずさ18号」がホームに入って来た。


車内はほぼ満席状態
立ったままよりはましと、通路に腰を下ろしていたが、甲府から何とか座ることができた。
新宿には15時40分頃に到着した。


上野駅駅中のたこ焼き屋でビールで乾杯
『どうも~っ 皆さん大変お疲れさまでしたぁ』


「旧街道を歩く」第六回目(塩尻宿~下諏訪宿)の2日目を無事歩き終えた。
諏訪大社下社秋宮と下社春宮に参拝できて、ひと安堵である。

当初のゴールは下諏訪駅を予定していたが、時間が早かったので上諏訪駅まで歩いた。
諏訪湖畔は、景色も良く、気持ち良く歩けた。

この日の万歩計は、16,000歩を差していた。

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特選街道を歩くⅠ 第六回 (中山道)塩尻宿~下諏訪宿(1日目)

2015年07月19日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年7月19日(日)

昨年(2014年)は、旧東海道第一ステージとして、日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも歴史的に見所が多い区間を選んで、歩くことにした。
旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも大変なためである。

第六回は、中山道(塩尻宿~下諏訪宿)を2日かけて歩いた。
見所・立寄り先などは、「浅田次郎と歩く中山道」(中央公論新社)を参考にした。

新宿駅7時0分発の「あずさ1号」は、自由席は長蛇の列でとても座って行けそうになかったため、
7時30分発の「あずさ3号」に乗ることにした。
30分待つのは大したことではないし、列も短い、と気楽に構えて列に並んでいると、
場内放送で「あずさ3号」は千葉駅始発と分かり、『え~っ新宿発じゃないんだぁ』とがっくり。
「あずさ」号は、全て新宿発だとばかり思い込んでいたのが間違いだった。
空席があることを祈りながら「あずさ3号」の到着を待った。


7時28分頃に到着した「あずさ3号」の自由席車内は、案の定満席状態だった。
台風一過の連休で、夏休みが始まったばかりとあって、混雑するのは当然か。
しかし、この日参加したメンバー7人のうち、運良く5人が座れた。


座れなかった2人は、通路にシートを敷いて腰を下ろした。
時々客や車掌が通ることもあるが、何とか邪魔にはならずに済みそうだ。
甲府辺りで全員座れて一安心。


10時14分、塩尻駅に到着。


改札口横の駅コンビニで弁当を購入。


体調を整えて、
10時33分、塩尻駅を出発。


先ずは大門通りへ向かう。


大門通り


大門通りを進む。


10時50分、大門神社に到着


大門神社
塩尻宿の京側の境に位置し、境内からは銅鐸が出土しており、10世紀頃の創建と推定されている。
武田信玄と小笠原長時との桔梗ヶ原合戦の時、討ち死にした将兵の耳を葬った所といわれている耳塚神社が隣接している。
旅の無事安全を祈願していこう。


大門神社の境内では、奉納相撲の土俵作りが行われていた。
土俵の大きさは、直径4m55Cmで、子供用も学生相撲・大相撲でも変わらないそうだ。


大門神社辺りから旧中山道に合流し、田川の塩尻橋を渡る。


大小屋交差点の分岐点には、庚申塔や秋葉大神などの石碑が5基建っている。
旧中山道は、ここを左に進む。


11時11分、堀内家住宅に到着。


文化年間に下西条村から移築したと伝えられる堀内家の建物は、県内で最も美しいと云われる築200年の本棟造り。
板葺きの大屋根と雀おどりの庇(ひさし)棟飾りに特色のある民家形式である。
国指定重要文化財となっている。


塩尻宿の碑


阿礼神社
平安朝時代の醍醐天皇の延長五年(927)に撰進された。


阿礼神社拝殿
延喜格式神名帳登載の由緒ある古社である。


旧中山道は鉤の手跡で左へ大きく曲り、国道153号に合流する。


塩尻陣屋跡近くに造り酒屋武井酒造店がある。


酒造家のシンボルである立派な杉玉(酒林ともいう)が目を引く。


塩尻宿西の脇本陣跡の碑
本陣・西の脇本陣ともに明治15年に焼失、現在は碑があるのみ。


木曽街道塩尻嶺諏訪ノ湖水眺望
塩尻嶺(峠)から諏訪湖を眺めた渓斎英泉の浮世絵。
湖水は氷結している。左手は八ヶ岳連峰の端から富士がのぞく。
(東海道と並ぶ二大街道のひとつ「中山道」は、木曽路を抜けるため別称「木曽街道」と呼ばれていた)


塩尻宿本陣跡の碑
中山道最大の本陣(川上家)があった。
本陣・西の脇本陣ともに明治15年に焼失、現在は碑があるのみ。


道路の向かい側に高札場跡と下問屋跡の碑が見える。
この辺りが中山道塩尻宿で最も賑わったところである。


小野家住宅
小野家は、屋号を「いちょう屋」と称し、中山道塩尻宿の中心部であるこの場所において
旅籠屋を経営し、同時に農地経営を大規模に行った。
旅籠として使われた主屋は、中山道に北面する短冊形の敷地に街道に面して建てられ、
主屋の東側に庭園、その背後に文庫・味噌蔵を構え、さらに畑地をはさんだ奥に長屋門を置く。


建物の建設経過は、小野家が所蔵する文書により明らかになっている。
文政九年(1826)に文庫が建設され、文政十一年(1828)の火災後に
同十二年から天保七年(1836)にかけて主屋他が建設された。
創建時の建物は、現存の主屋表屋・角屋に加え、その背後に屋敷棟を持つより大規模なものであった。


十王堂跡碑
十王とは、閻魔大王をはじめとする、冥土で死者の裁きをする十人の王の総称で、
十王信仰では、死者の罪の重さは、遺族などが死者に代わって善行を積み、
供養することで軽減されるとされていた、そうだ。


塩尻峠を目指す。


柿沢一里塚跡碑
江戸日本橋から58里目の一里塚
碑が建てられたのは、つい最近(平成26年11月)のことである。


双体道祖神
時期不明とある。
抱擁し合っているところから、お女郎道祖神とも呼ばれる。
信州には道祖神が多くあるが、ここ塩尻宿の街道筋にも点在している。
旅の安全や悪霊除けなど、路傍の神に祈りを込めたものまで、様々である。


双体道祖神から永福寺が見えた。
永福寺は、高野山真言宗の寺院である。


永福寺仁王門は、信州下諏訪の立木音四郎種清によって明治二十九年に建立された。
諏訪の大工棟梁・初代立川(立木)富棟は名工として知られた人物。
種清は、江戸時代の後期にお寺やお宮の建築及び彫刻で天下にその名声を知られた、
立川流の二代目立川和四郎富昌の弟子として長年に渡って修業した。
種清は希にみる天性と熱心な技術の習得により、独立してからその卓越した技能で各地の寺院や神社の
建築とその彫刻にあたり、また皇居の造営にもかかわり、数多くの名作を世に残した。


仁王尊像は、松本市の太田南海作である。


本堂へ旅の安全をお参りする。


腹に響くほどの大きな音に撞いた本人もびっくり。


立川流二代目富昌、三代目富重によって建てられた永福寺観音堂は、市指定有形文化財(建造物)


永福寺を過ぎ、柿沢交差点を過ぎると道が細くなり、今まで以上に坂道になった。


本棟民家
松本平に数多く見られる切妻造りの民家。


雀踊りと呼ばれる棟造り意匠は、風格と威厳がある。


立派な構えの住宅が続く柿沢集落辺り。


後方に塩尻周辺の住宅地が広がっている。
かなり上って来たことが分かる。


長野自動車道の柿沢橋跨道橋からみどり湖PAを望む。


長野自動車道を渡った頃から小雨が降って来た。


国道20号下のトンネルを潜り、反対側へ。


塩尻峠を目指す。
舗装された道なので歩き易い。


牛馬守護神の碑
牛馬安全の守護神として祀られている。
中山道の道標や一里塚碑などはどれも字が大きくしかも彫りが深い。


国道20号に合流した。


国道20号を200mほど進むと、


左へ再び分岐する。


いよいよ塩尻峠への道である。


塩尻峠を目指す。


13時5分、道端に無人の休憩所らしき場所が。
”ご自由にお休みください”との案内看板があった。


塩尻峠の頂上で昼食をと考えていたが、ここなら雨も凌げるので、ここで昼食にしよう。


13時35分、昼食も終わり、塩尻峠を目指す。


塩尻峠まで1Kmの表示、もう少しだ。


13時39分、東山一里塚に到着。
日本橋から57番目の一里塚で、


南側の一基だけが雑木林の中に現存していた。
大きさは、幅12m、奥行13m、高さ3m、とのこと。


薄暗い山道に赤い前掛けを掛けたお地蔵様が2体並んでいた。
その横に夜通道(よとうみち)の伝説碑があり、次のような説明があった。
いつの頃か片丘辺りのある美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり、
男に会うために毎夜この道を通ったことから名付けられたという。
お地蔵様とその娘の関係については分からない。


夜通道を行く元娘?2人。
こんな山中の道を男に会うためとはいえ、毎夜通ったとは女の執念は恐ろしい。


塩尻峠手前の山中に突然、1軒の本棟造りの民家が現れた。
大名や旅人の小休止場所の茶屋本陣である。
皇女和宮も休憩された、とあった。
『へぇ~っ 皇女和宮もここで休憩したんだ』


明治天皇塩尻嶺御膳水の碑
明治天皇ご来訪の折りに、ここの水が炊飯やお茶に供されたことから、御膳水と呼ばれている。


13時56分、東山一里塚から17分、塩尻峠頂上に到着した。
塩尻峠は、標高1055m、諏訪郡と筑摩郡の境であり、分水嶺でもある。


富士浅間社
松本領・諏訪領との郡境の宮として石祠が奉祀されている。


展望台があった。
明治天皇御巡幸にちなみ、塩尻峠付近は現在、塩嶺御野立公園(えんれいおのだちこうえん)と呼ばれている。


『いやぁ 素晴らしい眺めだねぇ』
岡谷市と諏訪湖が眼下に広がる。
日本一の富士山(3,776m)、第二峰の北岳(3,192m)、第三峰の奥穂高岳(3,190m)といった
我が国の三高峰が望める唯一の場所、とのこと。
天気が良ければ諏訪湖・八ヶ岳・富士山の絶景が広がる筈なのだが・・・


平成8年6月に「日本の音風景100選」、また平成17年10月には「関東の富士見100景」に選ばれている。
『残念だねぇ 富士山見たかったね~っ』


こちらは塩尻方面の眺望
一部で雨が降っているようだ。


塩尻峠からは下りである。


中山道の大石
この巨石は昔から『大石』と呼ばれている。
「木曽路名所図会」にも、「大石、塩尻峠東坂東側にあり。高さ二丈(約6m)ばかり、
横幅二間余(約3.6m)」と記されている。
伝承によれば、昔この大石にはよく盗人が隠れていて、旅人を襲ったと言われている。
ある時のこと、この大石の近くで旅人が追いはぎに殺され、大石のたもとに埋めれれた。
雨の降る夜に下の村から峠を見ると、大石の所で青い火がチロチロと燃えていたという。


岡谷市方面の眺望を観ながら下ると、


14時28分、馬頭観世音(石船観音)に到着した。
門のような入口を潜ると目の前にまるで壁のような急な石段がある。


本尊馬頭観音が船の形をした台石の上に祀られているところから石船観音と呼ばれ、
とくに足腰の弱い人に対して霊験あらたかと言われている、そうだ。


『美味しい水だねっ』
石船観音の鳴沢清水という清らかな水が参拝者の喉を潤してくれる。


中山道は、国道20号の上を跨ぐように続いている。


中山道道標
右しもすは 左しほじり峠 


下諏訪宿を目指す。


茶屋本陣今井家
旧今井村は、中山道塩尻峠の東の入口にあって、古来交通上の要衝で、
江戸時代にはここに御小休本陣が設けられ、今にその旧観を残している。


中山道は、江戸と京都を結ぶ裏街道として、江戸時代には、幕府の要人、尾張徳川家をはじめ、
参勤交代の西国諸大名の人馬の往来も激しく、多くはこの家に御小休になった。


今井番所跡
徳川幕府は江戸防衛の為、街道の要衝に多くの関所を設置して、
特に入鉄砲・出女・咎人(とがにん)等の検察に当たった。


この今井口の番所は口留・穀留の両面の検問を司っており、此処を通過するには前もって許可の手形が必要であった。
番所には、高島藩の出役が交替で勤め、添役として村役人の名主や年寄りが当たった。
(幕府は、諸大名が勝手に関所を設けることを禁じていたが、藩側も治安上の理由から関所に相当する施設を
必要としており、「関所」の名称を避けて「番所」の体裁で設置したのが口留番所である)


道祖神とだけ刻まれたものもある。


緩やかな下りの道が続く。


横河川に架かる大橋を渡る。


15時33分、国道20号出早口交差点のコンビニで小休止の後、国道20号を横断して進む。


緑に囲まれた家並が続く。
かつての中山道もこんな風景だったのだろうか?


雨は降ったり止んだり、はっきりしない。


15時45分、弥林山平福寺に到着。


平福寺は真言宗智山派の寺院。
真言密教の道場として創建された。


日限地蔵尊(おひぎりさま)は、
「日を限って一心に願掛けすれば、不思議にも聞き届けてくださる」
ことで知られ、日々多くの人が参拝に訪ずれる、とのこと。
毎月23日の縁日、特に4月の例大祭には、大般若法要が行われ、
桜の咲きほころぶなか、露店や青空市が立ち並ぶ、そうだ。


”旧渡辺家住宅入口”の標識に誘われて、細い路地を入る。


50mほど進んだ所に長野県宝旧渡辺家住宅があった。


旧渡辺家は、代々高島藩主に仕えた散居武士(城下町ではなく在郷の村々に住んだ藩士)の家である。
創築は18世紀中頃とされ、その後19世紀中頃に改築されているが、現存する武士の家として、
全国的にも貴重なものであり、県宝に指定されている。
”国宝”は、よく見聞きするが、”県宝”というのは初めてである。


この家からは、明治以降に3人の大臣を排出し、関係資料が展示されている。
左から渡辺千秋(宮内大臣)、その弟渡辺国武(大蔵大臣・逓信大臣)、千秋の三男渡辺千冬(司法大臣)


砥川(とがわ)に架かる富士見橋を渡ると中山道諏訪宿は間もなくだ。


諏訪大社下社春宮の鳥居を左手に見て、


大社通り(国道142号)を諏訪大社下社秋宮方面へ。


16時53分、諏訪大社下社秋宮前に到着。
明日あらためて参拝することにして、ここは宿へ向かおう。


この日の宿「鉄鉱泉本館」は、この先もう少しのはずだ。


16時55分、甲州道中と中山道との合流点を通過。
『ここが合流点なんだ ということは追分だねっ』


本陣岩波家
格式高い門構えの岩波家は、本陣問屋役を元禄元年から明治維新まで務めていた家柄。
現当主は28代目になる。
中山道随一と云われる庭園とともに一般公開されている、とのことだが宿へ急ごう。


旧中山道と現中山道(国道20号)の分岐点に、きれいな女の人が・・・
『そろそろ到着する頃』と宿の若女将?が迎えに来てくれていたのだ。、
わざわざ迎えに来てくれたとは感激である。


鉄鉱泉本館は、旧中山道諏訪宿旅館街の入口近くに構えていた。


美人若女将の『お疲れさま~っ』のひと声に疲れも和らいだ感じだ。


鉄鉱泉本館玄関


創業100年余りという歴史を感じさせる。


2つある内湯の一つは現在改修工事中で、もう一つの風呂はちょうど女性専用時間帯だったため、
下駄履きで近くの日帰り入浴施設「旦過の湯」へ。
下駄を履いたのは何年ぶりだろう。


「旦過の湯」(たんがのゆ
鎌倉時代、慈運寺訪れる修行僧のために建てられた、旦過寮の浴場。
700年の歴史ある源泉で温度は高く、切り傷によく効いたと伝えられ、
昔戦で傷ついた武士がよく入浴した、とのこと。


ひと風呂浴びてさっぱり、疲れもとれた。


『かんぱ~いっ』
『お疲れ様でしたぁ』


地元信州の旬な食材、山菜を用いた料理は郷土の味がした。


しっかり食べて明日も頑張ろう!!


「旧街道を歩く」第六回目(塩尻宿~下諏訪宿)の一日目を無事歩き終えた。
しかし、最大の見処である諏訪大社下社秋宮と下社春宮はまだ参拝していない。
明日も元気に、諏訪大社下社秋宮と下社春宮を訪れることにしよう。

この日の万歩計は、27,000歩を越えていた。

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山百合に大満足も 西蓮寺と井上山百合の里(行方)

2015年07月17日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年7月17日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第12回(2015年第23回)、「西蓮寺と井上山百合の里」散策ウォーキングに参加した。
昨年、この時期の西蓮寺の山百合は観ておいた方が良いとのアドバイスがあり、初めて企画した。

この日第一集合場所の土浦市民会館には15名が集まり、車3台で西蓮寺に向かった。
9時50分、西蓮寺に到着。


現地直行した8人と併せ、この日の参加者は23名となった。
台風11号の雨の影響で参加状況が懸念されたが、何とかもって欲しいという期待を込めての参加と思われる。


西蓮寺前には「山ゆり稲荷神社」があり、朱色の鳥居の回りには婚活成功・商売繁盛・五穀豊穣・夫婦円満など
いろんなご利益が書かれた立て札が立っている。(どれだけのご利益があるかは不明だが・・・)
「山ゆり稲荷神社」の後には、観音像も建てられている。
何故か”トイレの神様”と書かれた札が観音様の正面に置かれていた。


観音像から霞ヶ浦方面を望む。


10時3分、出発!
準備体操は省略だ。
この日は、いつも先頭を務めるOさんが、急用で不参加となり、2年連続の皆勤賞候補から無念の脱落となった。
Oさんに代って先頭を務めるのはTさんである。


西蓮寺の仁王門前には山百合まつりの看板が。
今年は、 7月12日(日)から7月26日(日)まで開催される。


西蓮寺仁王門
天文十二年(1543)室町時代後期の柱立。
昭和34年に解体大修理を施し、桟瓦葺を古風の銅板葺に改めた。
国指定重要文化財。


仁王門の両脇には、山百合の鉢植えが並べられている。


ほのかな山百合の香りが漂う中、仁王門をくぐり境内へ。


境内では、観光ガイドの他に、


地元で採れた野菜や


トウモロコシなどが売られていた。


鉢植えの植物なども並べられていた。


山百合の里へ向かう前に先ず西蓮寺を拝んでいこう。
西蓮寺は、天台宗の寺院で山号は尸羅慶台上山(しらとだいじょうさん) 院号は曼珠院。
本尊は薬師如来である。


石段を上ると直ぐ右手に大きな銀杏の木が目に飛び込んで来た。
西蓮寺大イチョウ一号である。
幹囲約6m、樹高約25m、樹齢は1,000年以上、とのこと。
明治十六年(1833)の火災で幹が焼けて細くなった、そうだが樹精は旺盛とのこと。
開山最仙上人の御杖銀杏と伝えられ、その根元に子安観音が祀られている。


こちらは西蓮寺大イチョウ二号
幹囲約8m、樹高約27m、こちらも樹齢は1,000年以上とのこと。
大正六年(1917)の台風で幹の中途が折れたが、銀杏として優れた樹相をしている。
根元には尸羅慶(しらと)稲荷社が祀られている。
大イチョウ一号、二号とも県の天然記念物に指定されている。


相輪橖(そうりんとう
弘安十年(1287)の建立で、国指定重要文化財。
中興慶弁阿闍梨が弘安の役の戦勝記念に建てたものと伝えられている。
相輪橖は、仏教施設のひとつで、高さ31尺、木心に青銅製の筒をかぶせ、頭部は錫杖の形に似たもの。
相輪橖と称するものは、日本に三つあり、一は比叡山に、他の一は日光山にある。


鐘楼
明治二十二年(1889)建立


常行堂(じょうこうどう
明治十七年(1884)建立
本尊は来迎の阿弥陀如来が安置されており、有名な日本で唯一の昼夜不断の常行三昧が修せられるお堂である。
このお堂には明治十七年以来、信者の立てた約27万霊の精霊が祀られている。
毎年9月24日から30日にかけて行われる常行三昧会(じょうこうざんまいえ)は、天台宗独特の法儀で、
源は唐の天台大師に発し、千年の古い歴史を有するという。
毎年多くの新盆を迎える人々が遠くから訪れるとのこと。


中堂
本尊薬師如来をいただく祈願の道場である。
薬師如来座像は、開山最仙上人の作と伝えられ、県内一の古い木像で、県指定の重要文化財。


客殿(法華堂)
明治43年建立。
本尊釈迦如来安置の法華経読謡の道場で普通一般の法要を行う。


西蓮寺を後にして、山百合の里へ向かう。


山百合の里への入口。
ここから”袖切り坂”となる。


薄暗い”袖切り坂”を下る。


途中には蚊取線香が置かれている。
心配りが感じられ嬉しい。


”袖切り坂”を下り切った先に藤棚のトンネルが続く。


藤棚のトンネルを抜けると視界が開け、目の前に里山の原風景が広がる。
畦道の突き当ったところが”山百合の里”のようだ。


田んぼの緑が美しい。


『なんか 懐かしい風景だよねっ』


10時25分、”山百合の里”入口に到着。
この頃から霧雨のような雨が降って来始めた。


入園料一人300円を払い、冷たい麦茶(セルフサービス)をいただく。


麦茶で喉を潤していると、新じゃがが振舞われた。
「井上山百合の会」の皆さんによる温かいおもてなしが嬉しい。


じゃがいもは茹で上がったばかりだ。


『ほくほくして美味しいねっ!』


冷たい麦茶に茹で上がったばかりの新じゃがのおもてなしに大感激。


”山百合の里”入口の対面には案山子や四阿などもある。
9月には彼岸花が一面を覆い尽くすほど咲き乱れるそうだ。


”山百合の里”への入口階段を上ると・・・


遊歩道沿いの両側に山百合を観ることができる。


『すてきだわね~っ』 『立派な花びらだよね~っ』
山百合の花は、一輪・二輪咲きのものや、


一本の茎にいくつも花を付けたものがある。これは株が古い証拠でもある。
風貌が豪華で華麗であることから、『ユリの王様』と呼ばれる。


遊歩道を進む。
つぼみのものもあることから、この週末には満開を迎えると思われる。


イベント用のステージ
土日には、ここでオカリナやフルートの演奏などが行われる、そうだ。


こちらで演奏を聴けるようになっている。
木々に囲まれてオカリナなどの演奏を聴いてみたいものだ。


さらに遊歩道の坂道を進む。


「里恋橋」を渡り、


山百合の咲く遊歩道を進む。


山の斜面一面に山百合が咲いている。
約20,000㎡の敷地に約20,000本の山百合が咲き誇るそうだ。
『いやぁ これは素晴らしいねぇ』


「見返りの橋」を渡って、


100mほど進むと、


遊歩道は右にUターンしていた。


遊歩道は、「見返りの橋」の下を潜るように続いていた。


「見返りの橋」の下を潜り、


杉林の中を里山へ下る。


この辺りの遊歩道の両側にもたくさんの山百合が咲いていた。


山百合の花の大きさは直径20cm以上でユリ科の中でも最大級であり、その重みで全体が傾くほどである。
中には花の重さに耐えきれずに途中で折れているものも何本か見掛けた。


『あの花は大きいねぇ』


ひと際大きな花の山百合だ。


遊歩道を下ると、里山の田んぼに下りた。
向かいの丘には四阿が見える。
『彼岸の頃にまた来てみたいわねっ』


”山百合の里”の林を望む。
『山百合ほんとに素晴らしかったわねっ』


”山百合の里”の入口へ。


”山百合の里”への入口前を通り過ぎ、


あらためて次の目的地を目指す。
この頃から霧のような小雨が降りだした。


次の目的地である香取神社を目指しているつもりだったが・・・


事前に作成したコースマップのどこを歩いているのか分からなくなってきた。
回りに家がなく人を見掛けないので、勘を頼りに進むしかない。
『とりあえずこっちへ行ってみようか』


『何とかなるわよねっ』


小さなため池があったが、地図には載っていない。


西谷御堂寺集会所とあったが、地図上のどの辺りになるのだろう。


さらに勘を頼りに進むと・・・


神社が現れた。
目指す香取神社なのか???


残念ながら香取神社ではなく、井上神社だった。
『???』


とりあえず井上神社へ参拝は済ませ、スマホを持ち合せた人に現在地を確認してもらった結果、
目的地とは全く逆方向にいることが判明し、愕然。
地図を作成した時点からコースマップが間違っていたことに気が付いたが後のまつりである。


11時12分、小雨の中をあらためて香取神社を目指すのは諦めて、西蓮寺へ戻ることにした。


西蓮寺へ戻る途中の風景(1)


西蓮寺へ戻る途中の風景(2)


西蓮寺へ戻る途中の風景(3)


霧雨の中、西蓮寺駐車場を目指す。


11時24分、西蓮寺仁王門駐車場入口に到着。


『どこを歩いたのかさっぱり分からなかったらしいけどちゃんと着いたのはさすがよねっ』


11時26分、西蓮寺仁王門駐車場に到着。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


今回は、初めての西蓮寺と井上山百合の里散策だった。
山百合には大満足だったものの、その後道に迷ってしまうというハプニング。
コースマップ作成間違いが原因であり、下見を全くしなかったことを大いに反省している。

9月には山百合の里の向かい側が彼岸花が咲き乱れるそうなので、機会があれば企画したい。
その時は、きちんと下見をして、正確なコースマップを準備したい。

この日の万歩計は、5,000歩を少し超えていた。

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牛久シャトー周辺ヘルスロード散策

2015年07月10日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年7月10日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第11回(2015年第22回)、「牛久周辺ヘルスロード」ウォーキングに参加した。

当初の計画では、牛久シャトー周辺を歩き、シャトーカミヤのレストランで昼食を、としていたが、
この日はレストラン「ラ・テラス・ドゥ・オエノン」が”貸切”のため、408号沿いの和食レストラン「桂」
に変更することになった。
1か月以上も前に「ラ・テラス・ドゥ・オエノン」に予約したが、叶わなかったのである。
それだけ人気があるという証拠なのだろう。

このところ雨に祟られて前回も中止となっていたので、2週間ぶりのウォーキングとなった。
この日は車は”禁止”、全員電車での参加である。
荒川沖駅9時17分発の電車を待つ。


9時24分、荒川沖からおよそ7分で牛久駅に到着。
『電車は安全だから、良いわよねっ』


牛久駅改札口には、既に土浦から乗車の仲間が待っていた。
1つ前の電車に乗っていたようだ。
直行した1名と併せ、この日の参加者は30名という盛況である。


改札口では他の客の邪魔になるので、駅前の広場へ。


駅前広場で、いつものように会長の号令で準備体操。


『最後に深呼吸をして~っ』


9時41分、出発!


牛久駅前をヘルスロードへ向かう。


横断陸橋に差し掛かる。


横断陸橋には、日時計があり、


その横に牛久のシンボルかっぱの像が。
愛嬌のある顔で意外と可愛らしい・・・


横断陸橋を下って行くと、


牛久市のヘルスロード「シャトー散策コース」が始まる。
”精華”のブロンズ像が迎えてくれる。


「シャトー散策コース」は、シャトーカミヤ(牛久シャトー)の回りを囲むように並木が整備されている。


牛久シャトーに相応しくぶどうが植えられている。
『勝手に食べてもいいのかしら?』


「シャトー散策コース」には、いろんな作者のフロンズ像が建てられており、目を楽しませてくれる。
この像は”幼”
『可愛いっ』


”小鳥と少女”


牛久シャトーの向かい側の塀にビートルズと思しき絵が約100mに渡って描かれている。


9時54分、牛久市役所裏の調整池に到着
ここで、牛久シャトーからはいったん離れることになる。


調整池から牛久市役所を望む。


並木道を進み、


牛久市役所の駐車場を通過


左に折れ、9時59分、牛久郵便局前を通過


汚水の蓋にも”かっぱ”がデザインされている。


県道277号を横断し、


10時3分、牛久消防署前を通過


牛久消防署前を少し進むと、


正面に牛久市中央生涯学習センターの立派な建物が現れた。


生涯学習センター前の丘へ。


10時8分、丘の上に到着


丘の上には”愛よ永遠に”の像がある。


ここで休憩だ。
このペースでは少し早すぎるので、少し長めの休憩を取ることに。


並んで腰を下ろす女性陣


生涯学習センター前広場に何やら変わった像が建っていた。
行ってみると・・・


犬の姿をしたロボット「Guri's Robot」だった。
そして、次のような説明が・・・
これは、愛犬であり保護犬である。グリのために作った、ロボット型犬小屋である。
僕らにとって、ロボットは人類を守るヒーローだった。今度は、愛犬をあらゆるものから守って欲しい。
しかし、ロボットは本当に犬に必要なのか?
保護犬にとっては、ロボットではなく、人の愛情が何よりも必要であると感じる。
そして、人にとっても同じ事が言えるのではないか。 根本雅人
考えさせられる問いかけである。


休憩後、生涯学習センター横の運動場へ向けて出発!


運動場ではグラウンドゴルフの真っ最中だった。


『大勢集まってるわねっ』


運動場のあちこちでグラウンドゴルフが行われていた。


ヘルスロードのマークに従って、


横断歩道を渡る。


牛久市内の住宅地を進む。
牛久市栄町6丁目付近は、交通量の割に道路幅が広い。
片側2車線も可能なくらい広い。


牛久市中央2丁目付近


ブラックベリー
米国中部原産。開花期は5月下旬から6月で、結実期は7月から8月上旬である。
果実は生のまま食べることも出来るが、多少酸味があるためジャムにして食べることも多い。(Wikipedia)
このように手の届く処で見たのは初めてだ。
山歩きなどで見かけるまむし草に似ている気がする。


時間稼ぎのため、少し道を逸れて交通量の多い所を歩いてみよう。


従業員らしき人達が草むしりをしていた。
背中に”親孝行”の文字が・・・


「ばんどう太郎」の従業員のようだ。
『御苦労さんっ』


再び牛久シャトーの裏側付近。


11時3分、牛久シャトー裏門に到着。
スーベニアショップの正面だ。
『こっちからも入れるんだねっ』


時間があるので、何か土産でも買って行こう。


『ここに来たらこれに限るよなぁ』


”ああ 浅草浪漫の味”電気ブランである。
自分も小瓶を2本買った。
今夜はハイボールで飲んでみよう。


スーベニアショップではワインの試飲もできる。
『ロゼを飲んでみようかなっ』
『私は白が良いわっ』


レジを取り囲むように当会の仲間が並ぶ。


レストランがだめなら、正門で記念撮影だけでもと思って行ってみると・・・
何と修復工事中で建物全体がシートで覆われていた。


仕方がないので、こっちの正門?で我慢しよう。
『はいっチーズ』
『これも何かの記念になるよねっ』


当初の計画では、牛久シャトー内の「ラ・テラス・ドゥ・オエノン」へ向かうところだが、
この日は牛久駅へ戻ることになる。


牛久駅へ向かう。
11時30分には「桂」のバスが迎えに来ることになっている。


朝方通った横断陸橋を渡り、


牛久駅前へ。


11時30分ちょうど、牛久駅に到着した。
駅前には、既に和食レストラン「桂」の迎えのバスが来ていた。
中型バスの定員は24名とのこと。


残り6名はワゴン車で店に案内された。
30名でちょうどぴったしだ。


11時46分、国道408号沿いの和食レストラン「桂」に到着。


和食レストラン「桂」
『ここは初めてだなぁ』という人がほとんど。
この店は、今年の3月にギター同好会で利用したことがあり、それが縁で今回予約したという次第。


めいめい好きなところに着席して、飲み物を注文。


女性陣の中にはアルコールは苦手という人もいたが、
とりあえず 『かんぱ~いっ』
『今日はお疲れ様でした~っ』


この日のメニュー釜めし御膳


釜めしは出来立てで触ると熱い。


つまみは釜めし御膳の鳥の空揚とナス・ピーマンの揚げものだ。


『熱くて美味しいわねっ』


『忘年会もここで決まりだなっ』 なんて声もちらほら。


食後のレストラン「桂」
『うなぎもやってるんだねっ』
『近くにこんな店があるなんて知らなかったぁ』


13時48分、牛久駅に到着


駅へ向かう皆さん、ご機嫌である。


牛久駅へはエスカレータが便利なのだが・・・


階段を歩いて上る人も。


13時50分、牛久駅に到着。
うまい具合に13時54分発の電車があった。
『ちょうど良かったねっ』


ホームで待つこと数分、電車がやってきた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


毎年この時期に実施している、牛久市周辺を歩き、シャトー内のレストランで『かんぱいっ』というのが恒例だったが、
今回は、シャトー内レストラン「ラ・テラス・ドゥ・オエノン」が貸切となっていたため、
国道408号沿いの和食レストラン「桂」に変更した。
バスで送迎という形ではあったものの、メニューに関しては意外と評価が高かったようだ。
早くも、今年の忘年ウォーキングの”候補”として推す声が男性陣から聞えた。

しかし、忘年ウォーキングの場所を決めるのは、女性陣ということになっている。
有力候補として3年連続の神立「喜作」があるが、女性陣は他にどういう店を選ぶのだろうか?
忘年ウォーキングを決めるまでには未だかなり時間がある。
期待したいと同時に、ここは女性陣の意見を尊重したい。

この日の万歩計は、9,000歩、目標の10,000歩には少し及ばなかった。

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コメント
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