ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

異様な外観吉見百穴 比企丘陵ウォーキング

2018年05月25日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年5月25日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第8回(2018年第18回)、「比企丘陵ウォーキング」に参加した。

東武東上線池袋駅
『何分発の電車に乗れば良いのかしらっ?』


東松山へは池袋発9時0分の急行小川町行に乗車することになる。


東上線車内
この日の参加者は13名、ここ数年で一番少ない人数である。
30度を超えるという天気予報と、電車で片道2時間半以上かかるのが
敬遠されたのかも知れない。


9時55分、東松山駅に到着した。
9時58分発の川越観光バスに駆け込んだ。
『滑り込みセーフ!』


『間に合って良かったわね~っ』


8分ほどで百穴入口バス停に到着した。


東松山市と吉見町境界の市野川を渡る。


市野川の土手に赤で描かれた”百”と”穴”の大きな文字が見える。
吉見百穴が近いようだ。


岩室観音堂(岩室山龍性院)は、「比企西国三十三所観音札所」の3番である。
札所巡りは、「西国」「坂東」「秩父」が有名だが、
比企西国三十三所観音札所は、遠隔地を巡礼できない人々のために
享保八年(1723)に開設されたと云われている。
現在のお堂は江戸時代寛文年間(1661~1673)に再建されたものと
伝えられている。


石段を上ると、


洞窟内には四国八十八か所の寺々の御本尊を模した石仏が並ぶ。
合計で88体ある、そうだ。
こちらは、1番から51番の御本尊が、


こちらの洞窟には、52番から88番の御本尊が並ぶ。
これらの石仏にお参りすると、四国八十八か所巡りと同じ巧徳を得られるという。


お堂の2階に上がると、鉄格子の扉の奥に御本尊様
(比企西国三十三所観音札所の3番)が奉ってある。
ご利益は、災難除け・交通安全・商売繁盛・安産など、とのこと。


天井にはたくさんの絵馬が奉納されていた。


お堂の裏に岩屋がある。


鎖を掴んで急こう配で滑り易い岩場を上り、


ハートの形をした穴を潜り抜ける(胎内潜り)と、
諸難を除き、子宝・安産・子育ての願い事が叶うと
言われている、そうである。


岩室観音堂を後にして、吉見百穴へ。


10時25分、吉見百穴に到着
一人300円を払って中に入る。


国指定史跡の吉見百穴
岩山にいくつも穴が開いているという異様な外観ではある。
凝灰岩の斜面に造られた古墳時代の横穴墓群である。
写真は、正面から見て右側の岩山の百穴


戦時中、地下軍需工場用に掘られた洞窟
洞窟の前に立つと、中からかなり冷たい風が吹いて来た。
この日の外気温(約30度)と比べると10度くらいは低いように感じた。


当時国内最大の中島飛行機㈱の大宮工場エンジン部門の施設を移転させ、
エンジンの部品製造を始めたが、本格的な生産活動に入る前に終戦となった。


戦時中、岩山の最下部に径3mほどのトンネルが碁盤の目状に掘られた。
左右約500mに亘り山腹に掘られたという横穴。


中央部分には階段があり、岩山を上ることが出来る。


階段を上ってみる。


確認された穴の数は219個と言われ、このような遺跡としては日本一の規模、
だそうである。


丘陵の上から構内を見る。
高橋売店が見える。


玄室は、横穴の中でも最も重要な部分で、


ここに作られた一段高いベッドのような床は遺体を安置する所で
棺座と呼ばれている、とのこと。


一部の横穴にはヒカリゴケが自生している。


幻想的な黄緑色の光を放っているように見えるヒカリゴケ。
このコケは山地に多く、関東平野にあるのは植物分布上極めて貴重とされ、
昭和3年に国の天然記念物に指定されている。


高橋売店
百穴の向いに土産物店があったので、立ち寄ってみた。


一番の人気は、昔懐かしい和菓子の五家宝、とのこと。
かみさんへの土産にきな粉パックの五家宝(420円)を買った。


吉見百穴の構内にある吉見町埋蔵文化センターへ。


埋蔵文化センター内部展示品(1)
土器や石器、埴輪・装飾品などが展示・公開されている。


展示品(2)


展示品(3)


埋蔵文化センター前に正岡子規の句碑があった。
明治二十四年(1891)に正岡子規が当地を訪れて詠んだ
神の代は かくやありけん 冬籠」が刻まれている。


10時56分、百穴を後にする。


武蔵松山城跡の碑


武蔵松山城跡の説明
武蔵松山城は、応永年間(1394~1428)築城と推定される。
北武蔵地方屈指の平山城で、本丸や物見櫓を始め多くの平場や空堀などが
良好な状態で残されている、とのこと。
別の機会に一度訪れてみたいものである。


11時1分、吉光院當選寺の虚空蔵菩薩堂前を通過


市道を進む。


上流川バス停付近を大沼に向けて進む。


大沼バス停を通過して、その先の道を左折すると、


11時23分、大沼に到着した。
大沼は、江戸時代から始まった水田開発のために造られた溜池の一つである。


東屋で一休み。


この日は水分補給が欠かせない。
しっかりと水分を補給して、


次の目的地天神沼を目指す。


天神沼の標識に従って、


天神沼を目指す。


11時36分、天神沼の西の端に到着した。


天神沼は、一面びっしりと水草に覆われていた。


天神沼沿いの道は細くなっている。


人気のない人家の前を 『お邪魔しま~すっ』 一声かけて通り抜ける。


あまり人が通らないのか草ぼうぼうである。


直ぐ右脇は天神沼だ。


天神沼の東の端に到着した。


今度は視界が開けた平坦な市道を進む。


市道は真っ直ぐ伸びている。
日陰はない。


市道を進む。


周りの田んぼには水が張られているが、まだ田植えは終わっていない。
『土浦と比べると1カ月くらい遅いんだねぇ』


11時53分、老人保健施設森田クリニック前を通過


弁当に相応しい場所を求めて市道を進む。
日陰のある所がないか? 辺りを見回しながら進む。
出来れば神社の境内のような場所が良いのだが・・・


息障院(そくしょういん)の標識が現れ、標識に従って進む。
息障院は、一応次の目的地になってはいるのだが・・・


寺院での弁当は出来れば避けたい。
神社であれば歓迎なのだが・・・


吉見中学校の隣に建つ吉見町武道館前を通過


神社を探しているうちに息障院に到着してしまった。
門を入った左側に、一周100mほどの小さな運動場があった。
おそらく幼稚園の運動場ではないかと思われるが、
弁当の場所としては、まぁまぁ良さそう。
弁当の前に息障院にお参りを済ませておこう。


息障院は、源頼朝・義経の異母兄弟、源範頼の館跡で、
吉見御所とも呼ばれている。


息障院山門を潜って中に入る。


境内には鐘楼、


重要建造物地蔵堂


慈母観音像、


弘法大師像などが建てられている。


松の枝ぶりが見事な本堂へのお参りを済ませる。
御本尊は重要文化財の不動明王座像である。


12時20分、息障院山門前の運動場に戻り、
弁当タイム(1)


弁当タイム(2)


弁当タイム(3)


12時50分、弁当タイムが終わり、息障院を後にする。


息障院付属のよしみ幼稚園をぐるりと回るように進むと、


県道345号と同271号の中新井交差点に出た。


息障院の裏手の県道271号を進み、


次の交差点を直進する。


次の目的地の吉見観音を目指す。


道端に西国・坂東・秩父の百番供養塔や不動明王像などの石像が並んでいた。


吉見観音を目指す。


吉見観音の参道を進むと、


参道の両脇に金剛力士像(仁王像)が。


吉見観音の門前に茶店「どびんや」があった。
看板の厄除けだんごが評判、らしい。
毎年6月18日の朝観音には長い参道に露店が立ち並び、
深夜2時頃から早朝にかけて厄除けだんごを求める人々で賑わう、そうだ。
『お参りした後に寄ってみたいねぇ』


13時11分、坂東33観音霊場11番札所の吉見観音に到着。
関東八十八箇所75番札所、東国花の寺百ヶ寺埼玉5番でもある。
岩殿山安楽寺は古くから吉見観音の名で親しまれてきた。
2009年6月21日(日)に訪れて以来2度目である。


山門の金剛力士像(阿像)
金剛力士像の造立は息障院文書から元禄十五年(1702)と考えられている。


県指定文化財の仁王門を潜ると、


左に弘法大師像があり、


正面階段の先に本堂が見えた。


吉見観音は、約1200年前に行基が観世音菩薩の像を彫って
岩窟に納めたのが始まりと云われる。
真言宗智山派の寺院で、山号は岩殿山、院号は光明院、
本尊は聖観世音菩薩である。


県指定文化財の三重塔
源範頼が建てたとされる三重塔は、天文六年(1537)に焼失。
現存する三重塔は今から約380年前の寛永年間に建築されたもので、
本堂・三重塔・仁王門・大仏等の中では最も古い。


三重塔の前に建つ大師堂


本堂左側奥の八起地蔵へ。


鐘楼の先に


八起地蔵が鎮座していた。
このお地蔵さまは「私達の願い・悩み・苦労を代わって受け、
漏れなくお救い下さる」とある。


吉見観音へのお参りを済ませたので茶店「どびんや」へ。


つぶあん・しょうゆ・あまから・ゆずみそだんごが各1本100円とある。
ゆずみそ1本(100円)を買ってその場で食べた。
美味かった。


吉見観音を後にして、北向地蔵を目指す。


北向地蔵を目指して緩い坂道を下る。


西吉見郵便局の所で県道271号へ合流して右へ曲がり、北向地蔵へ。


北向地蔵の向かい側に八坂神社があった。
先に八坂神社に参拝して行こう。


八坂神社に参拝


八坂神社から道路を挟んだ向い側に北向地蔵堂が見えた。


北向地蔵は、今から約220年前に建立された、とのこと。
その名の通り、北向に立っていることからその名が付けられた。
古くから地元では、このお地蔵様に祈願すると、イボがとれて、
肌が美しくなると云われてきたことから、
近年では美顔・美肌祈願に訪れる女性が多い、そうだ。


吉見百穴方面へ。
鉄砲の音が響く。
百穴射撃場が近いようだ。


滑川に架かる不動橋側道橋


不動橋側道橋の手前を左に折れて百穴方面へ。
左の山裾が百穴射撃場である。
ひっきりなしに鉄砲の音が響く。
『近くの家の人はうるさいだろうなぁ』


市野川の堤防上を百穴方面へ向かう。
『ゴールは近そうだねっ』


丘の上に動物霊園の看板が見える。
東松山ペットメモリアルパークだ。


市野川の堤防を百穴方面へ。


14時11分、市野川橋まで550mの地点を通過
不動橋からも550mなので、ちょうど真ん中ということになる。


市野川の堤防上を百穴方面へ。


左手に吉見百穴の横穴墓群が見えた。
『あら~っ また戻って来たのねっ』


市野川橋まで275mの地点で最後の休憩を摂り、


百穴入口バス停へ向かう。


市野川橋を渡り、


14時25分、百穴入口バス停に到着


東松山駅行バスは14時35分発となっている。
『ベストのタイミングだったねっ』


14時36分、東松山駅行バスが到着した。


バス車内は、ほぼ貸し切り状態だった。


14時44分、終点の東松山駅に到着


東上線東松山駅へ向かう。


池袋行きは14時57分とある。
あと10分ほどだ。
『これも良いタイミングだねぇ』


池袋行き電車に乗り、朝霞台駅でJR武蔵野線に乗り換え、
新松戸経由で帰路に就いた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


当会としては、初めての比企丘陵ウォーキングだった。
天気に恵まれたにもかかわらず、参加者が13名に終わったのは、意外だった。
予想気温が高かったためとやはり電車で片道2時間半以上という距離が
敬遠されたのではないかと思う。

岩山に空いた無数の穴はやはり異様な外観と言えると思う。
昔の人は長い間この不思議な穴を住居跡や墓などと感じていたのではないか
などと想像を巡らせるのも面白い。

武蔵松山城は、北武蔵地方屈指の平山城で、本丸や物見櫓を始め
多くの平場や空堀などが良好な状態で残されている、とのことなので、
別の機会に一度訪れてみたい。

参考のために、東上線で池袋から山手線、常磐線日暮里経由よりも
10分ほど早く荒川沖に着いたことを記しておく。

この日の万歩計は、21,000歩を計測していた。

ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士山は見えたが・・・忍野八海から山中湖

2018年05月18日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年5月18日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第7回(2018年第17回)、「忍野八海から山中湖」ウォーキングに参加した。

朝6時過ぎ、三中公民館には、三々五々参加者が集まった。


6時15分、予定より5分ほど早くバスが到着。
体調不良との理由で1名が参加を見送ることになり、参加者は25名となった。


バスの車窓からの景色を眺めながら・・・


いつもの朝食弁当を美味しく食べる。


圏央道の両側は田植えが終わったばかりの田んぼの風景が広がる。


東北道との分岐点を通過し、バスは圏央道を西へ。


7時20分、最初の休憩地菖蒲PAに到着


15分間の休憩の後、再び圏央道を走り、


8時21分、中央高速へ合流。
首都高を利用するよりも30分以上は早いと思われる。


前日にバス会社の営業担当者から依頼があり、ハンドルから手が離せない
運転手さんに代わって、弁当屋さんに”談合坂を通過した”ことを連絡。
この後、谷村PAで弁当を受け取るという段取りである。


バスは大月JCTから河口湖方面へ。


8時52分、談合坂SA通過からおよそ15分で谷村PAに到着した。
ここでタイムロスなくこの日の昼食弁当を受け取ることに成功。


富士山の頂上付近がうっすらと見えるが、裾野は厚い雲に覆われている。
天気は悪くはないのだが、この後富士山全体の雄姿を観れるかは不明である。


9時16分、河口湖ICで中央高速を降り、


国道138号で河口湖町を抜け、忍野村方面へ。


9時35分、忍野八海近くのバス専用駐車場に到着し、
駐車場の一角で準備体操(1)


準備体操(2)


準備体操(3)


9時40分、忍野八海巡りのスタートだ。
先ずは、駐車場から一番近いお釜池へ。


お釜池へ。


9時43分、二番霊場お釜池に到着。
名前の由来は、池に住んでいた大きなガマガエルが
池で洗濯をしていた娘を水中に引き込んでしまった
という言い伝えから、だとか。


お釜池は、忍野八海の中で最も面積が小さい池だが、
小さいながらも水深が4mもあり、透明度も高いため、
水中の魚が浮いて見える、と云われる。


『じっと見てると引き込まれそうだねっ』


次は八海1号橋・2号橋を渡って銚子池・涌池方面へ。


銚子池・涌池方面の案内表示に従って進む。


前方を歩く一団は、中国人観光客のようだ。
『彼らもけっこう朝早くホテルを出て来たんだろうねっ』


9時50分、四番霊場銚子池に到着
銚子池は、結婚式の場でそそうをした花嫁がそのことを苦にし、
銚子を持ったまま飛び込んだという悲しい伝説が残る池、だそうだ。


『あら~っ 藻がたくさん浮かんでるじゃないっ』
『全然きれいじゃないわねっ』


続いて六番霊場涌池へ。


涌池の手前に五番霊場の濁池が。
湧池と同じように川に隣接している。
濁池の名前の由来は、「地主の老婆が水を飲もうとした旅の行者を
咎めたとたん、池が濁ってしまった」という昔話から、とのこと。
『全然濁ってなんかいないわよねっ』


六番霊場涌池
忍野八海の中で最も水量が多く、毎秒2.2㎥もの水が湧き出している、そうである。


涌池は、その昔富士山が噴火した際、人々の水を欲する願いに応えた
木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が作り出した池、
という伝説があるそうだ。


きれいな水である。
池の中には珪藻が繁殖しているが、水は透き通っており魚も泳いでいる。


富士山の雪解け水が湧き出て池に流れ込んでいる。


湧池から七番霊場の鏡池に抜ける道の左手に、大きな池が。
ここも八海のひとつ? と思いきや、「忍野八海」とは関係のない
人工池の「中池」ということだ。


『これって人口の池なのっ?』
『知らなかったわね~っ』


中池全体を鏡池方面から見たところ。


土産物店が並ぶ建物の中を通り抜け、中池湧水口に到着
対岸に橋が架かっているが、渡ることは出来ない。


池の中央にある湧水口周辺は、昼前後にはたいそう混雑するそうだが、
この日はそれほどでもなかった。


湧水口を覗き込むと、コバルトブルーの水の中を魚が泳いでいる。


中池の周りに集まった中国人観光客の一団


中池湧水口を後にして、土産物店で試食品の味見だ。
『少しだけ味見してみるかなっ』
『なかなか美味しいわねっ』
味見だけだったのかは知らない。


菖蒲池へ向かう途中に縦長の池(沼?)があった。


中池を通り過ぎてすぐ、左手に見えてくる三日月のような縦長の池が
七番霊場の鏡池である。
『これも池なのかしら?』
『池にはみえないけどねっ』


鏡池は湧水が少なく、他の池と比べると濁っているが、天候など条件が揃うと、
見事な「逆さ富士」を見ることができるため、鏡池という名前がついた。
富士山が綺麗に映り込む池として有名なのだそうだが、
あいにくこの日は、富士山は全く姿を現さなかった。


八番霊場菖蒲池へ向かう。


池の周囲にたくさんの菖蒲が群生していることが、
菖蒲池という名前の由来、とのこと。
現在は水は濁っており、池というより沼地のようになっている。


(注)三番霊場底抜池
榛の木林資料館の敷地内にある池で、見学するには300円の入館料が必要、
ということなので、今回はパスすることに。
と言うより、案内表示が見当たらなかったため、通り過ぎてしまった、
というのが真相に近い。
名前の由来は、この池で食器や野菜を洗っている時にうっかり手を離すと
水底に引き込まれて決して浮かんでこないという伝説から、だとか。
引き込まれた品物はお釜池に浮かび上がるという伝説も残されている、
そうである。

10時17分、少しの休憩の後、旧い茅葺の家の前を通り、


一番霊場の出口池へ向かう。


出口池を目指して進んだが・・・


どうやら道を間違ったようだ。
近くにいた地元の方に出口池を訊ねて、道を確認する。


行き過ぎた分だけ引き返し、


あらためて出口池を目指す。


『出口池だけが離れてるんだねっ』


いくつか角を曲がって進んで行くと、出口池の標識が現れた。
この道で間違いない。


間もなく出口池だ。
足が速くなる。


10時48分、一番霊場出口池に到着した。
忍野八海の中で最も大きな池だが、深さは0.5mと浅い。
途中道を間違ったこともあり、菖蒲池から30分余かかったことになる。


『けっこう広くてきれいな池だねぇ』


出口池を観ながらしばらく休憩していると、


30人ほどの別のグループが到着した。
ツアーガイドが同行している、そうだ。


ツアーの一行は、ガイドの案内で奥の方へ進み、池端から池を観ている。
『あそこからも観ることができるんだっ』


池の周りには木道が整備されていて、池を一周することが出来るようだ。
ガイド付き一行とは逆の方へ木道を進む。


出口稲荷大明神があった。


湧水入口前を通り、


出口池を一周すると、ガイド付き一行が観ていた場所に到着した。
ここからの眺めも良いものである。


出口池を後にして山中湖方面へ。
『こっちの道で良いのかなぁ?』
少々不安げなTKさんだが、地図を信じて進んで行くと・・・


山中湖方面を示す標識があった。
東海自然歩道の文字も見える。
『やっぱりこの道で良かったんだねっ』


山中湖を目指し、東海自然歩道を進む。


標識に従って山中湖方面へ。


後方からの『富士山が見えるよっ』の大声に振り向くと、
うっすらと富士山の山頂が見えた。


『近いから凄く高く見えるねぇ』
『やっぱり地元(土浦)から見る富士山とは一味も二味も違うねっ』


東海自然歩道の標識に従って遊歩道へ。


東海自然歩道の遊歩道を進む。


『森の緑がほんときれいだよね~っ』


遊歩道右側には、特別保護地区・第1種特別地域の自然林が広がる。
『青木ヶ原樹海を思い出すわねっ』


『森の中を歩いてみたくなるわよねぇ』


時折道端に何気に咲いているルピナスを見掛ける。


快調なペースで先頭を行く3人と、


その後を追う後続グループ。
足取りは軽い。


信号を渡ると、


東海自然歩道は右に曲がる。


特別保護地区・第1種特別地域のハリモミ樹林に囲まれた道が
真っ直ぐに伸びている。
ハリモミ樹林は、日本固有種の常緑針葉高木ハリモミだけの
珍しい林、だそうだ。


弁当は花の都公園でと考えているが、花の都公園までもうしばらくかかりそうだ。
木陰で一休みして行こう。


昼食前の最後の一休みである。


花の都公園を目指す。


ハリモミ樹林の緑が美しい。


花の都公園を目指す。


美しい林の緑が続く。


11時56分、多摩美大富士山麓セミナーハウス前を通過


森の緑が途切れると、前方に山頂だけちょっぴり頭を出した富士山が見えた。


『やっぱり富士山全体が観たかったわよね~っ』


前方に花の都公園が見えて来た。


見頃は過ぎていたが、まだ終期のチューリップが咲いていた。


食事処「花庵」を左に折れて、花の都公園へ向かう。


正面に富士山を見ながら進む。


12時9分、第二ゲートに到着してみると、ここから先は有料エリアになっている。
料金は大人500円とある。
花の都公園は公共の公園だとばかり思っていたが、有料とは知らなかった。


中では幼稚園くらいの子供たちが弁当を食べている最中だった。


広い芝生の上にも何組かがビニールシートを広げている。
場所としては絶好なのだが、弁当だけのために
一人500円払うのはもったいない気がする。


ということで、有料エリアの柵の外ではあるが、柵越しにではあるが、
ほぼ正面に富士山が見えて、木陰もあって直射日光は避けれるので、
ここで弁当にしよう。


弁当タイム(1)


弁当タイム(2)


弁当タイム(3)


この日の弁当
なかなか美味かった。


後ろにはチューリップ畑が広がる。
季節によって異なる花畑が観れる、とのこと。


弁当が終わり、花の都公園の柵の外側を通って、県道717号へ。


花の都公園の全天候型フローラルドームでは、珍しい熱帯植物や
いろいろな四季の花が観られるそうだ。
塀の外からだったが、庭園のネモフィラを見ることが出来た。
ひたち海浜公園のネモフィラに比べてやや白っぽい花びらだ。


花の都大橋を通って県道717号へ。


花の都公園の駐車場で体調を整えて、


山中湖を目指して県道717号を進む。


山中湖を目指す。


山中湖を目指す。


13時15分、 FAMILY FASHION OGINOの前を通過し、


花の都公園入口交差点を左に曲り、山中湖方面へ。


ゴールは間もなくだ。


『藤がきれいに咲いてるねっ』
やや黄色がかった色の藤だが、立派に咲いている。
木も大きくて立派である。


変電所脇を進んで行くと・・・前方に山中湖が見えて来た。


13時26分、山中湖畔に到着。


バスとの合流場所を確認している間に皆さん腰を下して一休み。


こちらも一休み。


バスが停車している場所まであと数百m、もう一息だ。


今日は距離も短く平坦な道だったためか、皆さん最後まで足取りは軽い。


小白鳥親子
『あら~っ なんて可愛いんでしょっ』


山中湖畔の風景
白鳥の形をした足漕ぎボートなどがたくさん繋がれている。


13時40分、バスが待機していた駐車場にゴール。


帰りは直ぐ近くを通る東富士五湖道路の山中湖ICから入り、


車窓に富士急ハイランドを見ながら、


河口湖ICを通り抜け、中央高速へ。


14時24分、談合坂SAまで5Kmの表示を通過


14時29分、談合坂SAに到着。
土産物を買い求めるため、少し長めの休憩を摂ることにした。
土産物店を覗いてみる。


土産にほうとう(1,190円)を買った。
(夕食にかみさんと食べたがなかなか美味しかった)


バス車内
皆さん満足の表情である。


バス車内
一時に比べアルコールを嗜む人数は減ってしまったが、
”後部座席の伝統”を絶やすまいといつものように盛り上がる。
仲間に入れてもらったことは言うまでもない。


15時54分、菖蒲PAで最後の休憩を摂り、


圏央道を一路つくば方面へ。


つくばJCTまで2Kmの地点を通過


16時55分、つくば・牛久ICを通過


17時4分、無事何事もなく土浦三中公民館に到着
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


この日は忍野八海から山中湖に向けて歩いた。
初めてのコースだったが、忍野八海巡りと東海自然歩道など、
自然豊かなコースだった。
富士山も見ることは出来たが、見えたのは山頂の一部だけで、
期待が大きかった分ややがっかりと言ったところである。

くっきりとした富士山全体を見ることが、いかに難しいか
ということがあらためて分ったというのが、正直なところである、
今後のこの方面へのバスハイクでは、富士山を見ることが、
大きな目標になりそうだ。

この日の万歩計は、17,000歩を少し超えていた。

ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第1回 新居宿~吉田宿(2日目)

2018年05月15日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
平成30年5月15日(火)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第1回(2日目)は、二川宿(JR二川駅)~吉田宿(JR豊橋駅)である。
時間に余裕があればもう少し先まで歩くことにしたい。

2日目の朝6時45分、ホテル1Fロビーの食堂「和み」へ。
朝食レストラン専用(6:30-9:00)の部屋である。


何名かの宿泊者が食事をしていた。
既に朝食を済ませた人もかなりいた。
皆さん朝が早い。


自分も好みの品を皿に盛り、いただいた。
最近、朝はパン食が多い。


7時40分、豊橋駅に向かい、東海道線上り電車に乗車。


豊橋から一駅目の二川駅には、7時53分に到着した。
この日の出発地である。


7時56分、二川駅前を出発!


駅前の通りを西に向かって進む。


400mほど進むと県道3号の火打坂交差点があり、


交差点を横断してやや急な坂道(火打坂?)を進む。


火打坂交差点から800mほど進むとガーデン・ガーデンという園芸店があり、
その先に信号がある。


旧東海道の道標に従って三叉路を左折する。


この辺りの旧街道は、今時の住宅が続き、昔の面影は全く感じられない。


道路左側には松の木が植えられていた。
それほどの年数は経っていない松である。


松の並木が終わる辺りに旧東海道のクロマツ跡の碑があった。


碑には、高さ11m、幹周2.34m、枝張り17×16m、樹齢約150年と刻まれていた。
裏面には、この地区には、昭和40年代には100本を超える松が残っていたが、
松喰虫や道路拡幅などにより減少し、ここにあった最後の松も松喰虫の被害に遭い、
平成19年2月28日に伐採された、との説明も。


8時34分、豊橋岩屋郵便局前を通過


旧そうな家も見掛けたが、周りは普通の住宅が立ち並ぶ。


右手にマクドナルドが見える手前の殿田橋を渡ると、


8時53分、国道1号に合流した。
(飯村一里塚跡碑を見落としてしまった)


飯村町と三ノ輪町の境に架かる山中橋を渡り、


9時ちょうど、山中橋バス停を通過
この頃になると気温がかなり高くなって、額に汗が滲んで来た。
国道1号沿いは日陰がなく、街路樹なども見当たらない。
直射日光を直接浴びるので、暑い!


豊橋市三ノ輪町の横断陸橋に差し掛かり、


横断陸橋の下が日陰になっていたので、そこで一休み。


9時20分、円六橋バス停を通過。


瓦町交差点手前で変わった形の寺の門と三重塔が見えた。
鶴松山寿泉禅寺という臨済宗妙心寺派の寺院だった。


左側の門柱に子育安産 延命地蔵尊と刻まれている。
門を潜って中に入ってみる。


門を潜って直ぐ右側に3体の石仏が並んでいた。
門柱にあった延命地蔵尊か?


寿泉禅寺本堂
立派な建物である。


本堂の正面に建つ寿泉禅寺三重塔
立看板には、次のように書かれている。
薬師瑠璃光如来 延寿薬効・除病退悪・宇宙和順・国家安康を祈願して、
檀信安穏なることを奉する。


国道1号東八町交差点の横断陸橋の右側を通り、


県道4号(多米街道)と路面電車の線路を横断すると、


大きな秋葉山常夜灯が建っていた。


常夜灯の説明には次のように記されている。
この常夜灯は文化二年(1805)吉田宿東総門前に建てられたものである。
以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり、近隣の町民をはじめ
市民に親しまれてきたが、三河地震(1944年)による倒壊とそれに続く
戦火にあって放置されてきた。
この状況を憂えた常夜灯保存委員会により、昭和55年豊橋公園内に
復元されていたが、平成13年が「東海道宿駅制度制定四百周年」の
節目の年でもあり、江戸時代に建てられていたこの付近に
再復元したものである。
(豊橋市常夜灯保存委員会)


今度は横断陸橋(東八町歩道橋)を利用して道路の反対側へ。


中央分離帯があるケヤキ並木があり、


その植え込みの中に「吉田宿」の碑があった。
裏面に江戸 七十四里とある。


吉田宿碑の近くに東海道の標識が。


標識に従って旧街道と思われる道を進むが、
他には何も道しるべのない住宅街のため、道に迷ってしまった。
近くにいた人に道を尋ねて確認することも度々あったが、
案外あまりよく知らない人が多かった。
吉田宿の宿場は道を何度も曲がって進まなければならないので、
街道歩き泣かせだ。
もう少し標識や地図が欲しいと思ったのが正直なところである。


持参の地図も参考にしながら道を折れて、進み、引き返し、また折れて、


東海道の道しるべが現れる、ということを繰り返した。


東海道の標識に従って進むと、吉田宿問屋場跡と書かれた石柱があった。
何とか目的地に辿り着けて一安心、といったところ。
吉田宿の問屋場は大動脈である東海道の宿駅として人足100人、
馬100疋の常備を定められていた。


広い国道259号(田原街道)を横断する。


ちょうど路面電車が通り過ぎるところだった。
路面電車の走る街にはなんとなくノスタルジーを感じる。


国道259号を横断して直ぐのところに吉田宿本陣跡碑が。


その少し先の鰻料理の店先にも吉田宿本陣跡の碑があった。


享和二年(1802)の書上によると、吉田宿には清須屋与右衛門と
江戸屋新右衛門の2軒の本陣と、脇本陣1軒、旅籠65軒があり、
札木町辺りは宿の中心部として最も賑った場所であった、と記されている。


きく宗は、江戸時代より約200年変わらぬ味の郷土料理『菜めし田楽』の
老舗である。
創業は、文政年間(1804~30)の江戸時代末期の頃、とのこと。
ここで少しの間だけ吉田城見学のため、引き返すことにした。


国道1号西八町交差点の横断陸橋を渡り、吉田城へ向かう。


豊橋市役所前、


豊橋市公会堂前を通り、


10時32分、吉田城(豊橋公園)に到着した。
吉田城は、旧東海道からは少し外れており、時間もそれほどないので、
駆け足で城内を見学することにする。


吉田城跡
吉田城ははじめ今橋城と称し、永正二年(1505)牧野古白により築城された。
東三河の戦略拠点の1つとして、争奪戦を繰り返し城主が次々と入れ替わった後、
天正十八年(1590)に池田輝政が15万2千石の城主となり、城下町の改築や
整備などが行われた。


江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。
別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、
明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。


吉田城二の丸広場を本丸跡の鉄櫓(くろがねやぐら)へ。


着到櫓(ちゃくとうやぐら)跡
城内に集まった兵士たちを観察・点検するための櫓


冠木門跡から本丸入口の南御多門方面を見たところ。


吉田城櫓配置図
本丸手前の南御多門の左に千貫櫓、右に辰巳櫓が。
また、本丸奥の中央部分豊川に面して北御門、左に鉄櫓、
右に入道櫓が描かれている。


南御多門の千貫櫓跡の石垣


南御多門跡を通り抜けると、


本丸跡の広場に出た。
本丸の中央には、本丸御殿があった、とのこと。


本丸跡から見た鉄櫓(くろがねやぐら)
昭和29年に復元されたもの、だそうだ。


なんと、鉄櫓の扉は閉じられており、”本日は終了しました”の表示が。
月・火は休館日とある。 あ~っ残念無念!


豊川に面した石垣上の武具所跡から豊川上流を望む。


豊川下流(国道1号吉田大橋方面)を望む。


武具所跡から見た鉄櫓


鉄櫓から本丸跡を見たところ。


裏御門跡の石垣


裏御門跡から見た鉄櫓


11時1分、国道1号へ戻り、西八町交差点の横断陸橋を渡る。


右は国道1号吉田大橋方面で、


左は国道259号(田原街道)方面である。


真っ直ぐ国道1号から分離した国道23号を進むと、


吉田宿の西惣門の復元模型があった。
吉田宿西惣門は、江戸時代には東海道筋の坂下町と上伝馬の間にあった。
惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、
四坪の勝手があり、さらに駒寄の空き地十七坪があった。


この門は、湖西市の本興寺の惣門を参考にして作られたもので、
その惣門は吉田城大手門を延宝二年(1674)に移築した、とのこと。


西惣門先の交差点を右に折れ、豊川方面に向かって進み、


豊川から50mほど手前の信号を左折して旧街道を進む。


豊川堤防に出てみようと細い路地を右に曲がると、湊町公園があった。


公園内を進んで行くと、池中に湊築嶋辨天社の赤い幟が。


湊築嶋辨天社境内の池畔に、
芭蕉が、貞享四年(1687)11月10日、芳野紀行の途次越人を伴い、
保美(渥美町)に杜国を訪れる際に吉田に泊り、
その夜の感慨を詠んだ句碑「旅寝塚」がある。
寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき


湊築嶋辨天社の創建は、戦国時代に琵琶湖にある竹生島に鎮座する
弁財天の分霊を勧請したのが始まりとされる。
山田宗徧が造ったという池中の築島に立つ湊築嶋辨天社の社殿は、
国の登録文化財に指定されている。


湊神明神社の鳥居


湊神明神社
祭神は天照皇大神、豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)
白鳳元年(672)創建と伝えられる伝統のある神社で、
かっては吉田城下最大の祭りと云われた、元和年間(1615~24)に始まり、
伊勢神宮に御衣(絹)を献上する「御衣祭」が現在も行われている、とのこと。


旧街道は、県道496号船町交差点を右に曲り、豊川方面へ。


豊橋は幕府直轄の五大橋のひとつとされ、
現在の位置の73m下流に架けられていた。


豊川を渡る。
海が近いためか、川幅は広い。


国道1号吉田大橋の向こうに吉田城の鉄櫓が見える。


豊川を渡り終えて、しばらく堤防の上を進む。


11時37分、聖眼寺(しょうげんじ)に到着


門の前に、境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和六年(1769)の再建松葉塚、
宝暦四年(1754)建立の古碑松葉塚標石があり、文学史研究上資料的価値が
高いもの、と書かれている。


聖眼寺の門を潜って中に入る。


聖眼寺本堂


境内には芭蕉句碑が二つ並んで建っている。
左の自然石の方が「古碑松葉塚」と呼ばれ、寛保四年(1744)、
芭蕉の没後50周年を記念して建てられたもの。


右のものが「再建松葉塚」と呼ばれ、明和六年(1769)に建てられたもの。
貞享四年(1687)11月23日、芭蕉が愛弟子杜国の身を心配して
渥美郡保見(現渥美町)の里を訪れる途中、聖眼寺に立ち寄り
詠んだものと云われている。
松葉(ご)を焚て 手拭あふる 寒さ哉 芭蕉翁」という句が刻まれていて、
「松葉塚」名称の由来を示している。


旧街道を進む。


旧い趣のある大きな家を過ぎ、


さらに旧街道(県道496号)を進むと、


瓜郷遺跡を示す標識が。
復元遺跡まで120mとあったので行ってみることに。


12時12分、瓜郷遺跡(うりごういせき)に到着


瓜郷遺跡は、低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地する弥生時代中期から
古墳時代前期(2000年前~1700年前)にかけての集落の跡である。
昭和22年(1947)11月に発見され、昭和27年10月まで、5回にわたり、
発掘調査が実施された。


瓜郷遺跡は、唐古遺跡(奈良県)・登呂遺跡(静岡県)などとともに
弥生時代の低地にある遺跡の一つとして貴重なもので、
出土品は 豊橋市美術博物館に収蔵されている、とのこと。


旧街道(県道496号)に戻って進む。


12時25分、豊橋魚市場前を通過すると、


12時26分、豊川市に入った。


豊川放水路に架かる高橋を渡る。
随分大きな放水路である。まるで川のようだ。
歩道がないので、注意が必要だ。


左にJR飯田線の鉄橋、


右には国道1号の小坂井大橋が見える。


高橋を渡り終えて道なりに旧街道を進む。


善光寺川と書かれた運河のような小さな川を渡る。


子だが橋碑の説明板には、
「子断が橋」とも云われ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。
およそ千年前菟足(うたり)神社には、人身御供があり、春の大祭初日に
この街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があった、
と伝えられている。


ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と
父母に逢う楽しさを胸に秘めて暁の街道を足早に通りかかり、
橋の上まで来た。見れば我が子である。
「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに
「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
それからこの橋のことを「子だが橋」と呼ぶようになったという。
(豊川市教育委員会)


国道247号の才ノ木南交差点、続いて県道385号の才ノ木交差点を横断。


菟足(うたり)神社前を通過
菟足神社には、次回あらためて参拝することにしよう。


旧い家の前を過ぎると、


JR飯田線の踏切があり、


左に小坂井駅が見えた。


12時46分、小坂井駅に到着
この日のゴールは、JR飯田線小坂井駅ということにした。


12時56分発の豊橋行で豊橋駅へ。


お昼がまだだったので豊橋駅で駅弁を買い、新幹線乗り場へ。


助六寿司を食べながら「こだま」号を待った。


「こだま」号で浜松駅まで行き、浜松駅で「ひかり」号に乗り換え、
帰路に就いた。


第Ⅲステージ第1回(2日目)は、予定では二川宿(JR二川駅)から吉田宿(JR豊橋駅)
までだったが、少しでも先へ進んで距離を稼いでおきたいとの考えから、
JR小坂井駅までを歩いた。
また、予定にはなかった吉田城を見学したが、シンボルとも言える鉄櫓が、
あいにくの休館日で中に入れなかったのは、誠に残念だった。
これから本格的な夏を迎えるため、体調には万全の注意を払いながら歩きたい。

この日の万歩計は、25,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第1回 新居宿~吉田宿(1日目)

ウマさんの「旧東海道を歩く」目次に戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第1回 新居宿~吉田宿(1日目)

2018年05月14日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
平成30年5月14日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第1回(1日目)は、新居宿(JR新居町駅)~二川宿(JR二川駅)である。

荒川沖駅5時28分発の電車に乗り、東京駅7時3分発
岡山行「ひかり461号」に乗車。
浜松駅で東海道線下り岐阜行に乗り換え、


9時10分、スタート地の新居町駅に到着。
第Ⅲステージの始まりということで、気持ちが高揚している感じだ。


新居町駅を出発して、駅前を走る国道301号を西へ進み、


浜名橋を渡る。


橋には東海道五十三次”荒井宿”の浮世絵が並べられていた。
6枚の浮世絵全て”荒井”と書かれている。


”新居”なのだが、江戸時代の記録などは”荒井”
と書くことが多かったようだ。


新居関所へ向かった。
塀の隙間から新居関所の建物が見える。


お~っと、月曜日は休館日だったのだ。
残念!


今切の関所とも云われ、箱根関所と並んで重要な関所だった新居関所は、
「入り鉄砲と出女」を厳しく取り締まった。
現在の建物は、安政の東海大地震後に再建されたもので、
現存する近世の関所建造物としては唯一のものとして、
国の特別史跡に指定されている。


大御門
明六ツ(午前6時頃)に開き、暮六ツ(午後6時頃)に閉じた。
大御門の前には、高札を置く枡形広場があり、東海道へつながる。
大御門の大きさは、高さ5.8m、幅4.6mで、城門と同じ屋根付きの
堂々とした高麗門の造りとなっている。


大御門の前に高札場があり、


高札が掛けられていた。


新居関所の少し先、道路の反対側に紀伊国屋の建物がある。
徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿を務めた縁により、享保元年(1716)
紀伊国屋の屋号を掲げ、以後宿内最大の旅籠として営業。
明治七年(1874)に大火により焼失したが、直後に建て替えられ、
明治30年まで旅館業を営んだ、そうである。


建物は明治初めの再建だが、江戸期の建築様式を色濃く残し、
平成13年(2001)に解体修理を行い、当時の風情を体感できる施設
として公開されている、ということだったが・・・
ここも休館中の札が。 ついてない!


紀伊国屋の隣に金松酒店がある。
”みちのく山形のどぶろく”と染められた幟り旗が見える。
この場所は江戸時代、旅籠屋(伊勢屋)として
東海道を行く旅人をもてなしていた、とある。


国道301号を直進すると、正面に旧い家が見えた。


家の傍に街道標識があり、新居宿 飯田武兵衛本陣跡とある。


飯田武兵衛本陣は、天保年間の記録によると、
建坪196坪で、門構え玄関を備えていた。
飯田本陣には小浜藩、桑名藩、岸和田藩など約70家が利用した。
明治元年(1868)の天皇行幸の際に行在所として利用された。
(湖西市教育委員会)


飯田本陣の南隣りにも疋田八郎兵衛本陣跡の石碑があった。
(リュウゼツランのような葉の陰に隠れて見えにくい)
建物などは何も残っていない。


天保年間の記録によると、建坪193坪で、門構え玄関を備えていた。
八郎兵衛本陣には吉田藩のほか徳川御三家など約120家が利用した。
疋田家は、新居宿の庄屋や年寄役を務めた。
(湖西市教育委員会)


旧街道を進むと、寄馬(よせうま)跡と書かれた説明板が。
江戸時代の宿場には公用荷物や公用旅行者のために
人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に
百人の人足と百匹の馬を用意した。
しかし、交通量が多い時には助郷制度といって、
近在の村々から人馬を寄せ集めて不足を補った。
この場所は、寄せ集められた人馬の溜り場になった所である。
(湖西市教育委員会)


常夜灯がぽつんと立っていた。
特に説明などはない。


新居宿を進む。


新居一里塚跡
江戸日本橋から69里目の一里塚。
一里塚の里程の目印として、旅行者にとっては、馬代や駕籠代などの
計算の目安になった。
慶長九年(1604)二代将軍秀忠が一里塚を築かせたと云われ、
東海道では104か所あった。
ここには、左(東)にエノキ、右(西)に松が植えてあった。
(湖西市教育委員会)


旧東海道図に従って進むと、


枡形の曲り角に棒鼻跡碑と説明板があった。


ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように
土塁が突き出て枡形をなしていた。
棒鼻とは、駕篭の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、
この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになった
とも云われている。
(湖西市教育委員会)


なるほど道が枡形に曲がっている。


県道417号(旧東海道)へ出ると、橋本 新居宿加宿の標識が。
加宿とは、主に江戸時代、五街道や脇往還において
駅逓事務を取扱う為設定された宿場(宿駅)において、
人家が少なく人馬を出しにくい宿駅で隣接する村を加え
人馬の用を行わせたもの。
この主となる宿駅に対して隣接する村を加宿と言う。
(Wikipedia)


旧東海道を進む。


風炉の井(湖西市特別史跡)
この石積井戸は、深さ2m、口径は最大1.8mあり、以前はもっと深かった。
言い伝えによると、建久元年(1190)源頼朝が上洛の折、
橋本宿に宿泊した時にこの井戸水を茶の湯に用いたとされる。
(湖西市教育委員会)


教恩寺
源頼朝に寵愛された遊女が、頼朝没後に尼となり、妙相と号して建てた寺院。
鎌倉時代末期の正安二年(1300)創建の古刹で、楼門は江戸期のもの。 


教恩寺の先で道が二つに分かれている。
旧東海道は右の方だ。


旧街道を進むと、松並木が現れた。
浜名街道の松並木である。


東海道には松並木が似合う。


10時8分、紅葉寺跡の標識前を通過


松並木が続く。


藤原為家・阿仏尼歌碑
風わたる 濱名の橋の夕しほに さされてのぼるあまの釣舟
前大納言為家
為家は、中世の歌人の藤原定家の次男で「続古今」の選者。

わがためや 浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで
阿佛尼
阿仏尼は、為家の側室で「十六夜日記」の作者。


さらに松並木を進むと、


松並木が終わり、どことなく宿場の雰囲気が漂う家並みになった。


連子格子をそなえた旧い大きな家も散見される。


旧街道を進むと、


白須賀宿 火鎮神社(ほずめじんじゃ)の標識が。


火鎮神社は、元白須賀の東端に位置している。
かつての白須賀宿の鎮守の社だった。
祭神は火之迦具土神・品陀和気命
応永年間の津波、安永年間の火災で古文書は消失し、
創建の詳細は不明、とのこと。


街道を進む。


明治天皇御野立所址
明治元年(1868)9月20日、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため
京都を出発した明治天皇が10月1日、豊橋から新居へ向う際に休憩した所。
明治天皇はその後、新居宿の飯田本陣に宿泊、10月13日に東京に到着した。


元町一里塚跡・高札立場跡


この辺りでは一里塚のことを「一里山」と呼んでおり、
石碑にも「一里山旧址」と彫られている。
江戸日本橋より70里目の一里塚である。
白須賀宿高札立場は、ここ元宿と東長谷に一箇所ずつ設置されていたほか、
加宿である境宿村にも一箇所設置されていた。


神明神社
御祭神は、天照皇大御神・天手力雄命・萬幡姫命


石段を上ると、


神明神社本殿がある。
由緒には以下のように記されている。
当地を古来神森山と云い、里人は当社を内宮と称し、
菱地に鎮座する神明神社を外宮と称した。(中略)
当社には徳川吉宗公以降の朱印状寫が現存する。
明治六年三月郷社に列した。


堂々たる長屋門を構えた民家を過ぎると、


潮見観音(蔵法寺)への入口があった。


蔵法寺の山門
曹洞宗龍谷山の扁額が掛けられている。


由来は奈良時代に遡るが、現在の寺は、慶長三年(1598)に
曹洞宗の寺として開かれ、徳川家康より23石を賜ったという寺で、
この近くで戦死した今川氏親(義元の父)の墓がある。 
蔵法寺の本尊は、海から引き上げられた高さ一尺九寸(57,6cm)程の
潮見観音と呼ばれる仏様である。


境内にも潮見観世音菩薩を祀った観音堂がある。
潮見観音像縁起には、以下のように記されている。
承応三年(1654)三月十日当蔵法寺前の、遠州灘の海中より
漁師の網にかかって恩出現された観音様で、お丈は一尺九寸(57,6cm)で
その後堂内に安置され、毎年供養されて参りました。
宝永四年(1707)十月四日遠州灘一円に大地震があり、
その時起きた大津波に一瞬にして元町宿は悉く浪に呑まれ
大被害を受けました。
そのとき坂の上に逃れて、その地に現在も住んでいる子孫も多く居ります。
その前夜徳川幕府参勤交代で岡山藩城主池田綱政公当地本陣に宿泊中で、
夜半観音様が夢枕にお立ちになり、「この地に大地震あり、早々に立ち去れ」
とお告げがありましたので、夜半急ぎ一行は本陣を出立し、
危うく難を免れることが出来ました。
綱政公は観音様のご加護に感謝し邸内に潮見観音の御分身を祀り、
子々孫々現在の池田牧場まで続いております。


境内には聖観世音菩薩の銅像もある。


11時22分、潮見坂の上り口に到着した。


右旧道・左新道と刻まれた石の道標と、白須賀宿 潮見坂下の標識がある。
標識には、新居宿4.5Km、二川宿8.4Kmとある。
二川宿まで8.4Kmは、これまで歩いて来たおよそ倍の道のりだ。


やや急勾配の潮見坂を上る。


潮見坂は、街道一の景勝地として数々の紀行文などに
その風景が記されている。


潮見坂の途中から振り返るとかなりの急勾配である。
坂道の先に遠州灘が見える。
説明板には、
西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や
富士山が見ることが出来る場所として、古くから
旅人の詩情をくすぐった地であり、今でもその眺望は変わらず、
訪れる人を楽しませてくれる、とある。


潮見坂を上り切って少し進むと、白須賀宿 潮見坂公園跡の標識が。
二川宿まであと7.6Kmだ。


潮見坂公園の石碑群


潮見坂上から見た遠州灘
遠江八景の一つ「潮見晴嵐」に選定された場所である。
富士山の眺望も見ることが出来た、そうである。


潮見坂上の石碑群
ここ潮見坂上には、明治天皇が明治元年10月1日にこの地で
休憩されたのを記念に建てられた明治天皇御聖跡碑をはじめ、
白須賀出身の国学者夏目甕麿と息子の加納諸平、正直者の藤屋五平、
義僕平八郎らの顕彰碑や忠魂碑が建てられている。


11時42分、白須賀小学校前を通過


白須賀宿を進む。


曲尺手(かねんて)の東側から鷲津停車場往還が分かれる。
分岐点に明治四十五年(1912)建立の鷲津停車場往還道標が。


曲尺手
直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、
大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。
江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が
駕籠から降りて挨拶するしきたりであった。


しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては
一番の失態である。
そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、
行列がかち合いそうな場合は休憩を装い、
最寄りのお寺に緊急非難をした。


白須賀宿本陣跡


本陣職は代々世襲して本陣経営を続け、名字帯刀を許されているものもあった。
この地は、本陣大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864)の記録には、
建坪183坪・畳敷231畳・板敷51畳とある。


白須賀宿脇本陣跡
現在は脇本陣跡と書かれた石柱があるのみだ。


白須賀宿 問屋場跡の標識
二川宿まであと6.7Km。
新居宿からほぼ半分歩いたことになるが、まだ先は長い。


白須賀駐在前交差点を横断すると、角に白須賀宿が生んだ地元の偉人、
「夏目甕麿邸跡・加納諸平生誕地」の碑があった。


白須賀生まれの国学者、夏目甕麿は通称嘉右ェ門萩園と号した。
酒造を業とし国学を内山真龍に学び、後に本居宣長の門下に入り、
国学の普及に努めた。
加納諸平は甕麿の長男で、柿園と号した。
若くして紀州和歌山の本居大平のもとに寄寓、乞われて加納家の養子となり、
のちに紀州侯に召されて国学を講じ、国学所総裁となった。


白須賀宿の火防
白須賀宿は、津波の難を恐れ、宝永五年(1708)潮見坂の下から
坂上へ宿替えをした。
それまでの坂下の白須賀を元宿と呼ぶ。
宿場移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬期に西風が強く、
度々火災が発生し、しかも大火となることが多かった。
当時、殆どの家の屋根が、わら葺きであったことにもよる。
そこでこの火事をくい止める為に、生活の知恵として工夫したのが火防で、
人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にした。
火防の広さは、間口二間(3.6M)奥行四間半(8.2M)で、
常緑樹で火に強い槙が10本くらい植えられた。
宿内に3地点・6場所の火防があった。


庚申堂入口鳥居?
鳥居の奥に見える筈の庚申堂の建物は、見当らなかった。


鳥居を潜ってすぐ右側に小さな庚申堂があった。


境内の小さな庚申堂の前には庚申信仰による、
「見ざる、聞かざる、言わざる」の3匹の猿の像がある。


見ざるの猿像


白須賀宿 加宿境宿の標識を過ぎると、


成林寺の前に境宿の高札立場跡の碑があった。
境宿は字のとおりに「遠州」と「三河」の境界付近にあり、
白須賀に宿場があった頃は加宿として賑わっていた場所だった。


高札場跡の碑


12時10分、県道173号に合流


県道173号に合流した所に笠子神社があった。
かつては海岸部にあったこの神社も度重なる津波の影響で
この地に移された。


笠子神社本殿
御祭神は、大己貴命・塩土翁命
古来より笠子庄内の住民、産土神として崇敬厚く、ここに住む人の
心と心を結ぶ拠り所として、深い信仰を集めている。


時計は12時20分を回っており、お腹も空いて来たので、ここで弁当にしよう。
この日の弁当は、東京駅で買った鰺の押寿し(980円)だ。
新居宿からここまでコンビニの一つもなかったことから、弁当にして良かった。


毎回同じ台詞で恐縮だが、『美味かった』の一言。


県道173号を進むと、12時48分、豊橋市に入り、


12時53分、一里山東交差点で国道1号に合流した。


国道1号を進む。


13時8分、豊鉄バス弥栄口停留所を通過


国道1号を進むが、見るべきものがなにもないので、疲れる。


13時48分、二川宿方面を示す道標が現れた。


右手は新幹線が走っており、ガード下を通り抜けて進めということのようだ。


ガード下を潜って進むと、


筋違(すじかい)橋があり、


梅田川を渡る。


東海道本線の線路を渡って線路沿いに進むと・・・


二川宿の東入口すぐに、川口屋という宿場町の案内所があった。


二川一里塚跡
川口屋の角に、一里塚跡の碑が残る。
江戸日本橋から数えて72番目の一里塚である。


川口屋には地域のイベントに関するパンフレットや二川宿についての
案内図などが置かれている。


往時の写真なども展示されている。


写真1


写真2


14時11分、日蓮宗妙泉寺前を通過


二川宿の旧街道を進む。


古くて大きい家の前には、”三十三番目の宿場町二川宿”
と書かれた、常夜灯の模型が置かれていたり、


また、玄関には、二川宿の暖簾が下げられたりして、
町を挙げて宿場町を盛り上げている様子が感じられた。


二川八幡神社は、二川の氏神様として信仰を集めている神社で、
元々は鎌倉の「鶴岡八幡宮」から勧請してきたと伝わっている。


東の枡形
道路が枡形に曲がっている。


東の枡形手前右側に東駒屋がある。
商家「駒屋」は、主屋・土蔵など8棟の建物からなり、
二川宿で商家を営むかたわら、問屋役や名主などを勤めた
田村家の遺構である。


東の枡形の少し先に「二川宿まちなか公園」がある。
特に目ぼしいものはなかった。


東問屋場跡
宿駅本来の業務である人馬の継立てを差配したところで、
宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、
人足を用意していた。
現在、二川宿の東問屋場跡は石碑のみとなっている。


問屋場跡周辺の家々には、かつては旅籠だったようで、
「旅籠屋 和泉屋」や「旅籠屋 中村屋」、


「旅籠屋 鍵屋」などと書かれた表札が懸けられていた。


脇本陣跡
説明板があるのみだ。


二川宿脇本陣跡
二川宿の脇本陣は松坂家が務めていた。
文化四年(1807)以前には、この地に後藤家・紅林家の本陣があったが、
文化四年、本陣職が紅林家から馬場家に移った際に、本陣建築のため、
街道の南側あった脇本陣はこの地に移っている。
脇本陣の建物は、間口七間(約13m)、奥行十九間(約35m)、
畳数は九十三畳あった。


二川宿本陣跡
この本陣は復元された物で、馬場家本陣ともいう。
馬場家は、文化四年(1807)から60年間本陣役を務めた。


本陣資料館
1991年にオープンし、東海道・二川・本陣という3つのテーマで
常設展示が行われている。
2005年には、隣接する旅籠屋「清明屋」を改修復元するとともに、
増改築を行った。
本陣資料館は、あいにく休館日で扉は堅く閉まっていた。


西駒屋は、江戸時代から味噌・たまり醤油を造り、
現在でも赤味噌を製造販売しているという。


本陣から少し先に進むと西の枡形があり、再び道が桝形に曲がっている所に・・・


高札場跡と書かれた石碑があり、二川町道路元標と常夜灯も建っていた。


旧くて大きな家
かつて商家だったのだろうか?


福井荒吉商店(金物屋)


さらに街道を進むと、


14時48分、この日のゴールJR二川駅に到着した。


東海道線下り豊橋行に乗車し、


15時5分、豊橋駅に到着


豊橋駅前から駅ビルを望む。
大きな駅である。


駅前のときわ通りを通り抜け、
15時17分、予約していたホテルルートインに到着


シャワーで汗を流し、ひと眠りした後、
ときわ通りのワインダイニングMuへ食事に出かけた。


第Ⅲステージ第1回目(新居宿から吉田宿)の1日目(新居宿から二川宿)を
歩き終わった。
新居宿では一番の目玉となる新居関所だったが、この日は月曜日ということで、
休館日だったため、見学出来なかったのは残念でならない。
ほかにも紀伊國屋や二川宿本陣資料館が休館日で見学出来なかった。

旧街道は、旧道ということで、どうしても便利さからは隔離された
場所が多くなり、コンビニのひとつも見当らないことがある。
今回の新居宿から二川宿にかけてがまさにそうであった。

今回は、幸い東京駅で駅弁を買って行ったから良かったが、
途中お茶やコーヒー、パンなど欲しかったが我慢するしかなかった。
次回からは、それなりのものは必ず持参することにしよう。

この日の万歩計は、29,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第1回 新居宿~吉田宿(2日目)

ウマさんの「旧東海道を歩く」目次に戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

好天に恵まれて 宝筐山(極楽寺コース)

2018年05月11日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年5月11日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第6回(2018年第16回)、「宝筐山(極楽寺コース)」ハイキングに参加した。
宝筐山ハイキングは、2017年11月3日以来、約半年ぶりだが、
極楽寺コースは、2013年1月18日以来、約5年半ぶりとなる。

この日の第一集合場所、乙戸沼公園に集まったのは9名。
『ちょっと少ないんじゃないっ?』 『天気は晴れたのにねぇ』
高低差が400m余あることが敬遠されたのかも・・・
車2台に分乗して第二集合場所の宝筐山小田休憩所へ。


9時30分、小田休憩所の駐車場に到着
その後三々五々、集合時刻の9時45分までに集まったのは、計17名である。
KKさんの号令による準備体操は久しぶりだ。


入念に身体を解し、


最後は深呼吸をして・・・


9時57分、宝筐山目指して出発!


中央部を女性陣が、最後尾に男性陣が続く。


先頭を務めるのは、いつものTKさんである。


常願寺コースへの分岐点を極楽寺コース方面へ。
正面に宝筐山と山頂の鉄塔が見える。
田植えは既に終わっている。


両側を田んぼに挟まれる中、極楽寺コースを進む。


道標に従って三村山極楽寺五輪塔方面へ。


道端に黄色い菖蒲の花が咲いていた。
『今年は、花菖蒲も早いのかしら?』
『黄色い花も良いわねっ』


極楽寺公園前を通り、


三村山極楽寺五輪塔方面へ。


細い径を進んで行くと、


10時11分、三村山極楽寺石造五輪塔に到着した。
三村山極楽寺の五輪塔は、花崗岩で総高276.5Cm。
つくば市文化財に指定されている。
(中略)
鎌倉時代後期の全国的にも珍らしい本格的な五輪塔である。
鎌倉後期の完成された様式の五輪塔の中でも、一連の作風を示すものが、
西大寺系石工による作品である。
奈良西大寺の叡尊五輪塔、鎌倉極楽寺、大和郡山額安寺の僧忍性五輪塔が
それであり、忍性ゆかりの三村山極楽寺の本塔もこの流れに属するものと
考えられている。
(NPO法人小田地域振興協議会)


説明板には形状の詳細や様式が記されている。


五輪塔の後ろを極楽寺コースへ。


林の中を進んで行くと、


道端に小さな五輪塔が雑然と並んでいた。


沢の流れが心地良く響く。


沢を渡り、


「慈悲の滝」を左に見ながら上る。


「慈悲の滝」


登山道はボランティアによって整備され、
沢の左側も上れるようになっていた。
沢の右側を上る組とは別に、沢の左側を上ってみることにした。


沢の左側を上って行くと、ハートの形をした
幸せの「ハート岩」があった。
初めて見る岩だ。


さらに沢に沿って上って行くと、


右手を上った組と合流した。


沢を縫うように岩場の路を進む。


路は次第に険しくなって来た。


赤いシャツの人が、登山道を整備していた。
登山者が歩き易いようにと丸太を敷いているところだった。
ボランティア団体「宝篋山整備隊」の方と思われる。
『ご苦労さまですっ』


10時29分、「こころの滝」付近で一休みしていると、
KDさんが合流して来た。
10分遅れでスタートして後を追い掛けて来たそうだ。
結局、この日の参加者は18名となった。


目の前に見えるのが「こころの滝」である。


『お茶が美味しいねっ』


丸太の階段を上る。
『この丸太もボランティアの人が敷いたんだねっ』


10時39分、「白滝」を通過。
数日前に振った雨のためか、以前見た時より水量が多い感じだ。


右手に沢を見ながら上る。


『久しぶりなので、ちょっときついわねっ』


今度は左手に沢を見ながら上る。


周辺の木々が伐採されて、明るくなった場所に出た。
『この辺の木もボランティアの人が切ったんだろうねっ』


10時49分、小休止だ。


『かなり汗をかいたよ』


伐採された木々の隙間から麓の景色が良く見える。
『木の隙間から見えるのって気分が良いよねっ』


ここで突然、AK子さんが、
家に大事な忘れ物をしたことに気が付いたそうで、引き返すと言う。
引き留める訳にもいかないし、残念だが、皆で見送った。
『それじゃぁ 気を付けてねっ』


宝筐山山頂を目指す。


11時5分、純平歩道との分岐点を通過。
山頂まで1Kmの表示。


純平歩道分岐点を過ぎた辺りから岩と木が続く、
急勾配の上りになった。


『いつまで続くのかしらっ』
やや疲れの表情が浮かぶ。


11時15分、堪らず休憩だ。
『いやぁ まいったよっ』
一方、こちらの女性たちは余裕の表情にも見える。


『喉が渇いちゃったぁ』


11時22分、一休み後、宝筐山山頂を目指す。


『少し緩やかになって来たわねっ』


「こぶしの森」の標識を過ぎると、路はほぼ平らになった。


11時25分、常願寺コースの分岐点を通過


緩やかな坂道を上って行くと、


11時32分、バイオトイレ前に到着した。


『ここまで来ればもうあとちょっとだよねっ』


バイオトイレで体調を整えて、宝筐山山頂へ。


山頂の鉄塔が右手に聳える。


舗装された坂道を上り、


浅間神社の鳥居を潜ると、


右脇に忍性菩薩像が造立されていた。
僧忍性の生誕800年を記念して2017年11月4日に立てられた、とある。
忍性(1217~1303)は、長年貧者とハンセン病などの救済にあたり、
その徳を讃えて後醍醐天皇より「菩薩」の号を送られたという。
立像は土浦市の彫刻家「小張隆男」氏が制作したもので、ハンセン病の
子供を背負い、のちに招かれて救済に奔走した鎌倉の方向に向けて建て
られているという。
この像の設立は、地元のボランティア団体「宝篋山整備隊」が中心になって
準備を進めてきて、2017年11月4日に除幕式を行った、とのこと。


立像脇の「忍性菩薩像造立記」に忍性の功績や、造立の経緯が記されている。


11時41分、宝篋山山頂(461m)に到着した。
小田休憩所を出発して1時間44分を要したことになる。


筑波山がきれいに見える。
『宝篋山から見る筑波山はほんとに良いもんだねぇ』


土浦・霞ヶ浦方面を望む。


山頂ではかなりの人がベンチで昼食中だったが、
幸いいくつかのベンチが空いていた。
『筑波山をバックに弁当なんて最高だねっ』
弁当タイム(1)


弁当タイム(2)


弁当タイム(3)


12時34分、下山開始!


とりあえずバイオトイレまで下山して、


バイオトイレで体調を整え、あらためて小田城コースを下る。


12時44分、山頂から0.3Km地点を通過


下浅間神社展望所へ寄ってみよう。


『ほんと素晴らしい眺めだよね~っ』


眼前に田植えが終わったばかりの筑波平野の景色が広がる。


13時ちょうど、硯石を通過し、


続いて七曲りを下る。
『捻挫しないように気を付けなくちゃ』


急勾配の七曲りを下り、


小田城コースを下る。


杉林の中を下って行くと・・・


路が平坦になって来た。
どうやら急勾配の路は終わったようだ。


13時29分、「堂平」と書かれた標識を通過


小田城コース国道125号方面への分岐点を通過し、
「中世城の道」へ。
小田休憩所への近道である。


「中世城の道」を進んで行くと、


13時42分、「要害展望所」に到着した。


『あらぁ ここからの見晴しはほんとに素敵ね~』


国道125号の両側には、筑波平野の田園風景が広がる。


遠くに牛久大仏が霞んで見える。


『いやぁ これは素晴らしい景色だ』
『こんな良い展望所があるなんて知らなかったよ』


『今日は最高だねっ』


『今日は天気に恵まれてほんと良かったよねっ』


「要害展望所」からの眺望を満喫し、小田休憩所を目指す。


ゴールの小田休憩所を目指す。


旧石切り場の崖の端から「要害展望所」方面を望む。
写真中央上部に「要害展望所」があるが、
写真では緑に覆われていて場所が分りづらい。


急勾配の坂道を下る。
『また膝を痛めちゃいそう』


『転ぶと大怪我をするわねっ』


薬師堂の手前に石像がずらりと並んでいる。
数えたら全部で40体あった、そうだ。


しっかりと頭があり、表情豊かな石像と


頭の部分が壊れて無いため、代りに頭に丸い石を乗せられた石像も。


中世城の道を下り、


全員揃って元気に小田休憩所を目指す。


14時6分、ゴールの小田休憩所駐車場に到着。
山頂を出発して1時間30分が経過していた。


KKさんの号令で整理体操(1)


整理体操(2)


整理体操(3)


整理体操(4)
『最後に深呼吸~』
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


2013年1月18日以来、約5年半ぶりに宝筐山極楽寺コースを上った。
好天に恵まれて、山頂や下浅間神社、要害展望所などからは
素晴らしい景色を望むことが出来た。
また、気温もさほど高くなく、かいた汗は気持ち良かった。
次は、まだ下りしか歩いていない、常願寺コースに挑んでみようと
思っている。

この日の万歩計は、13,000歩を少し超えていた。

ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする