ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

彼岸花に魅了される 歴史の道常総

2013年09月27日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2013年9月27日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成25年度第20回(2013年第31回)、「歴史の道常総」を巡るウォーキングに参加した。

この日の第一集合場所は乙戸沼公園。
16名が集まった。大体いつものメンバーといったところだ。


車4台に分乗して第二集合場所の「JA常総ひかり」(北水海道)へ。
駐車場は事前に了承を得ていたので安心して止めることができた。
参加者は、現地直行者と併せて22名となった。


早速、会長の掛け声で準備体操。
『いやぁ 空が眩しいっ!』
この日の空は、台風(20号)一過で雲一つなく晴れ渡っている。
本当に気持ちが良い。


『腰を降ろしてアキレス腱伸ばし~っ』
後ろに見えるのは、「JA常総ひかり」


9時57分、先ずは彼岸花で名高い弘経寺(ぐぎょうじ)目指して出発!
この日の先頭は久しぶりにOさんが務める。


水海道有料道路
2年前には一時期試験的に無料になったが、現在はまた有料に戻っている。
道理で車は少ない。


『あそこに見えるのは富士山じゃないっ?』
『えっどれどれ、あっ本当だっ』


指差す方角に目を追いやると、うっすらと富士山が見えた。
この辺りから富士山が見えるということは、それだけ空気が澄んできたということだろう。


水海道有料道路下のトンネルには弘経寺にゆかりのある千姫の絵が描かれている。


弘経寺が近づくにつれ、道端には彼岸花が出迎えてくれている。
『綺麗だわねぇ』
『見頃じゃない?』


10時25分、JA常総ひかりを出発して30分弱で大本山増上寺別院弘経寺に到着した。


境内に入ると先ず目に付くのが、天然記念物の杉の大木(来迎杉)である。
目通り幹囲り7.5m、樹高約33mの堂々とした杉だ。


文化財に指定されている本堂にお参り。
千姫の菩提寺として莫大な寄進を受けたことから、弘経寺は「関東十八壇林」の一つに数えられる巨刹となり、
今なおその荘厳さを残している。


境内の本堂左手奥に千姫の墓(天樹院廟)がある。
千姫は、徳川2代将軍秀忠の子として生まれ、僅か7歳で豊臣秀頼に嫁ぐが、大坂城は落城し豊臣家は滅亡。
大坂城落城後江戸に移り、庵花で本田忠刻と再婚し1男1女をもうけるが、10年で忠刻と死別してしまう。
この後は落飾(らくしょく)して天寿院と号し、江戸城北の丸竹橋の屋敷で余生を送った。
落飾したときより弘経寺を菩提寺と定め、莫大な寄進をし、本堂・鐘楼・山門等を再建した、とのこと。


天樹院は、寛文六年(1666)70歳で死亡。
天樹院の死後、北の丸の住居は取り壊され、その用材の一部と千姫愛用の数々の遺品が寄付された。
遺体は家康の母方伝通院を葬ってある寿経寺に埋葬、弘経寺には遺髪を埋葬した、と伝えられていたが、
平成9年度の保存修理により、遺髪ではなく、遺骨が納められていたことが判明した、そうである。


弘経寺には、数々の建造物がありゆっくりと観て回りたいが、今回の目当ては彼岸花である。
弘経寺の境内を歩いてみる。
境内の林の中のいたるところに彼岸花が咲いていた。


前回訪問(2011年10月14日)したときはあまり人は見掛けなかったが、カメラ片手にお参りする人がたくさんいた。
弘経寺が彼岸花で名高いということを納得した。


彼岸花は弘経寺の門の外の道路沿いでも観ることができる。
境内の薄暗い林の中よりも、こちらの方が見栄えが良い。


『今日は来て良かったわねっ』


弘経寺の次は元三大師(がんざんだいし)を目指す。


弘経寺から15分ほどで元三大師(安楽寺)に到着した。
天台宗の別格本山で、正式には正覚山蓮前院安楽寺と云い、正月3日に生まれた平安期の僧侶“良源”を祀ったことから、
別名“元三大師”と呼ばれているとのこと。


元三大師(安楽寺)の南門へ続く鬱蒼とした杉並木の参道は、静けさがあり趣がある。
時代劇のロケ地としてたびたびTVなどに登場するそうだ。


安楽寺の南門をくぐる。
安楽寺には東門(福禄祈願)、西子安門(子孫繁栄祈願)、南門(延命長寿祈願)、中門(厄除け)の四つの門があり、
願い事によって入る門が異なるとのこと。
この日は南門から入ったが、我々には相応しい門だったといえるだろう。


左手の二階建ての鐘楼が目に入る。
説明がないので詳しいことは分からないが、建物は比較的新しい。


中門の前に大きなカヤの木が立っている。
幹回り5m、樹高は20mはあるだろうか。
昭和30年の火災でほとんどの枝が枯れたそうだが、樹勢は次第に回復してきているとのこと。


中門(厄除け)をくぐると・・・


左手に本堂がある。
未来の願いをする所である。


元三大師堂
現在の願いをする所である。
願いは大体”未来”のことだと思っていたが、”現在”との境界はどの辺りなのだろうか?
素朴な疑問である。


西子安門へ進む途中、「哀しい人柱伝説のお伽羅の供養塔」があった。
説明板には次のように紹介されていた。

昔、幾日も幾日も大雨の降り続いた年があった。
鬼怒川は増水し、河畔の村々では皆が今にも決壊しそうな堤防を固唾をのんで見守っていた。
逆巻く濁流に全てを押し流される恐怖心は募るばかりで、誰も彼も唯なす術もなく天を仰ぎ無力感に襲われるばかりであった。
そんな時、誰云うともなく、「龍神様に人柱をたてて怒りを鎮めてもらおう」と言いだした。
その声は次第に広がり、誰を人柱にするかということになったが、誰もすすんで人柱に立てようとする人はいなかった。
人柱をたてるということは難工事の際、荒ぶる神の心を和らげる為、犠牲に(いけにえ)として生きた人を水底や
土中深く生き埋めにすることであるため、誰一人として愛しいわが子を人柱にしたくはなかったのである。
その時どこからともなく「お伽羅を人柱にしよう」と誰かが言い出した。
お伽羅という娘は、諸国巡礼の母娘の二人連れで、旅の途中、水海道まで来た時、母は病気で亡くなり、
天涯孤独の身となった娘であった。名主が境遇に同情し、奉公人として養っていた。
気立ての良い心のきれいな娘であったが、村人達は身寄りのないお伽羅を人柱にしようとしたのだった。
名主は反対したが、他に代りがあろう筈もなく、とうとう賛成し人柱にすることが決まってしまった。
嫌がるお伽羅を「皆の為、村の為に犠牲になってくれ」といい水中に投げ込んでしまった。
お伽羅は哀しい悲鳴とともに激流の中に身を没していった。
やがて悲しい出来事も終わり、村は水没することもなく、家屋敷財産田畑、何一つ失うことなく人々は助かったが、
一人として明るい表情をみせる人はいなかった。
皆が罪の意識にさいなまれ、ある者は「川の中からお伽羅の鳴き声が聞こえた」といい、
又、村に疫病が流行り始めると「お伽羅の祟りだ」と言って畏れた。
いつしか、人柱にしたお伽羅を供養しようということになり、村中こぞって鬼怒川辺りでお伽羅の霊を慰めた。
村落の菩提寺であり、この地方の本寺でもある安楽寺に供養塔を立て、お伽羅の菩提を弔うようになった。
疫病もおさまり平安な暮らしが戻ると、お伽羅の供養の為として「伽羅免」と呼ばれる田畑をお寺に寄進し、
永代に亘り供養がつとまるようにとの村人の願いからであった。
茲(ここ)にまつられる石塔は、村人の改心と感謝の誠をあらわしたものと伝えられている。
優しいお伽羅の哀しい一生を思い遣り(やり)、懺悔と慈悲の懇ろ(ねんごろ)なる供養と
末永き回向がつとめられることを念じつつ・・・
南無妙法一心観佛   安楽寺第五十六世住職博英謹誌


西子安門(子孫繁栄祈願の門)を出て


大生郷(おおのごう)天満宮へ向かう。
工事中の側溝の上の方が安心して歩ける?


青少年の家のグラウンド(かつての向ヶ丘中学校の校庭)が見えて来た。


幼稚園児らしき子供達が運動会の練習でもやってるのかな?


銀杏の木


良く見ると大粒の銀杏がたくさん生っていた。
実りの秋は近い。


大生郷天満宮の看板に従って右折し、少しすすむと・・・


11時39分、目指す大生郷(おおのごう)天満宮に到着した。


天幡宮では学問の神様菅原道真を祀っており、必ずと言っていいほど牛の像がある。
牛の由来は、御祭神の菅公の誕生日が承和十二年(845)乙丑(きのとうし)の丑日であったと伝わる。
菅公が大宰府で亡くなった後、遺骸を牛車に乗せて進んでいたところ、急に牛が伏し、門弟が、
「菅公の御心である」と、その地に遺骸を葬った。
このことが、太宰府天満宮の始まりとなった、そうである。
また、天神信仰がはじめは農耕神として発展したことや、牛が農耕のシンボル的存在だったことも大きく関係している、
など諸説あるようだ。


大生郷天満宮本殿
菅原道真公を祭る日本三天神の一つ。
この天満宮は道真公の第三子である景行が創建し、父の遺骨を奉斎した唯一のところで、
それ故に福岡太宰府天満宮京都北野天満宮とともに日本三天神の一社とされる由緒ある神社、だそうである。


親鸞上人が布教で立ち寄り、お手植えしたと伝えられる「親鸞礼拝の杉」がある。
樹齢700年の大木であったが、明治35年の台風で折れ、大正8年の社殿炎上の際に類焼してしまった。
覆屋を建てて永久保存が図られている。


大生郷天満宮の裏手に小さな池と公園があった。


池には睡蓮の赤い大輪の花が浮かぶように咲いていた。


睡蓮の花でも眺めながら、弁当にしよう。


『やっぱり天気の良い日に外で食べると美味しいわねっ』


弁当も食べ終え、次の目的地坂野家住宅へ向かう。


水海道風土博物館 坂野家住宅の表門
薬医門は武士の家に許される格式の高い門であるが、坂野家はこの地に土着して500年ほどになると云われ、
この地方の惣名主的存在でもあったため、薬医門が許された。
国の重要文化財に指定されている。
入館料は300円であるが、65歳以上は無料となっている。


坂野家の主屋は藁葺き屋根である。
その重厚な佇まいに圧倒される。
主屋も国の重要文化財に指定されている。


今回は時間の都合上、ビデオを見るだけに留めた。
詳細は前回訪問(2011年10月14日)したときのブログを参考にしていただければありがたい。


直ぐに常総線三妻駅に向かおうかと思ったが、
せっかく来たので、和風庭園と


竹林だけは、見ておこう。
この見事な竹林は、TVでも何度かお目にかかっている。


坂野家を後にして、常総線三妻駅を目指す。


蕎麦の畑
間もなく秋蕎麦の収穫を迎える。


県道123号線を鬼怒川方面へ進む。


鬼怒川に架かる美妻橋を渡る。
緑色の橋が印象的である。
大型トラックが通る度に震度2くらいの揺れを感じる。
『この橋、大丈夫だろうねぇ』


鬼怒川の向こうに見える筑波山が美しい。


三妻小学校、


鬼怒中学校と通過して・・・


13時53分、関東鉄道常総線三妻駅(無人駅)に到着した。


『けっこう疲れちゃったわねぇ』


三妻駅から50mほど進んだところに地蔵最中を売っている店(いろはや)がある。
2年前はあいにく閉まっていたが、この日は開いていた。


三妻の”とげぬき地蔵最中”と称しており、箱入りもあるが、1個(栗入りの最中130円、大福85円)でもOKとのこと。
かみさんのお土産に”とげぬき地蔵最中”と大福を各々3個買った。
2年前の宿題が今終わったような気分である。


駅でしばらく列車を待っているところ。
日陰がないので、改札口を出た線路の直ぐ側に腰をおろしている。


14時19分、時刻表どおりに列車が来た。


1両編成の車内の様子


列車に乗ること8分ほどで、三妻駅から2つ目の北水海道駅に到着。
『ここで終わりじゃないんだよなぁっ』
かなり疲れが出て来た様子だが、残念ながらあと500mほど歩かなくてはならない。


5分ほどで、ゴールの「JA常総ひかり」に到着した。
この日は整理運動は省略だ。
『皆さん、大変お疲れ様でしたぁ』


この日は、前回(2011年10月14日)と同じコースを歩いた。
快晴でやや汗ばむくらいの空の下、弘経寺・安楽寺・大生郷天満宮・坂野家など常総の歴史を感じた一日であった。
懸案だった弘経寺の彼岸花に魅了され、また、”とげぬき地蔵最中”も買えて、個人的には満足の一日だった。
会員のリクエストがあれば、また別の時期に訪れてみることにしたい。
次はまた違った景色を楽しめることだろう。


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「関東ふれあいの道」(神奈川)No.9 「弘法大師と桜のみち」

2013年09月22日 | ウマさんの「関東ふれあいの道」を歩く
2013年9月22日(日)


”ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」”では、2011年までは主に茨城県の「関東ふれあいの道」(全18コース)を歩いてきた。
”たまには県外を”ということで、昨年(2012年)は東京都の「関東ふれあいの道」(全7コース)を歩いた。
そして次は神奈川県の「関東ふれあいの道」(全17コース)を歩こうということになり、企画した。

第七回目となる今回は、コースNo.9(弘法大師と桜のみち:約9.4Km)を歩くことにした。

日暮里駅11番ホームで山手線内回り電車を待つ。
この日の参加者は8名となった。
9月8日(日)が雨だったため、2週間延期したのが影響したのかもしれない。
この日参加できなかった人には大変申し訳ない気持ちである。


渋谷新宿方面行き電車が入ってきた。


新宿で小田急線に乗り換え、秦野には9時21分に到着。
バスの停留所を探すため、最初は南口に出てしまった。
南口に出て、バスは北口からと分かり急遽移動するというハプニング。


北口へ走り、平塚駅行きバス停を確認。
南口から移動したためバスを一つ乗り遅れてしまったが、次のバスは直ぐにあることが分かり一安堵。
次のバスまで若干時間があったことから、コンビニ弁当でも買っていきたいと云う人も。


ところが何という偶然だろうか、バス停の真ん前に弁当屋があった。
撮影するために後を追って店を覗いてみたが、その数と種類は半端ではない。
どれにしようか迷うほどである。(写真はほんの一部である)
『日暮里駅でおにぎりなんか買っちゃって、ちょっと早まったわねぇ』と悔しがる人も。
予定では今後この駅を何度か利用することになっているので、自分もここで弁当を調達することにしたい。


9時39分、定刻どおり平塚駅行きバスがやってきた。


バスはご覧のような貸切状態。
日曜日の郊外となれば、東京都奥多摩方面を除けばどこも大体こんなものなのだろう。
我々にとっては凄くありがたい。


10時01分、この日のスタート地点の南平橋に到着。
前回はここがゴールだったので、回りの景色は記憶に新しい。


この日の天気は上々、先ずは権現山を目指して出発である。
前方に見えるシェルターのようなものは、「東名高速道」だ。


先頭を女性陣が進み、


後ろに男性陣が続く。


健速神社たけはやじんじゃ
『ウォーキングに相応しい名前の神社だねぇ』
Webで調べると、本殿は秦野市内最古のものといわれ、「病気平癒」にご利益がある神社とのこと。
特に「目」の病気には狛犬の周辺で強いパワーが感じられるとのことである。
事前に知っていれば、狛犬の回りを周回したものを、この日は鳥居から拝んだだけで、
「関東ふれあいの道」の道標に従って通り過ぎてしまった。


閑静な住宅地を進む。
曲がり角には「関東ふれあいの道」の道標が必ずと言っていいほどあるので、道を間違えることはない。


「東名高速道」に架かる歩道橋「峯の上橋」を横断。


車の流れは順調である。
(写真は名古屋方面)


「東名高速道」を横断し、しばらく「関東ふれあいの道」の道標に従って進む。


いきなり右折示す弘法山2.3Kmの標識が現れた。
道路の左側を歩いていると、見落としかねないのでここは注意が必要だ。


なだらかな坂道が始まった。


坂道の途中から秦野の市街地を望むことが出来る。


”南無妙法蓮華経”と刻まれたお墓があるので、そこを右に進む。


坂道が次第にきつくなる。
弘法山まで1.7Km付近。


『結構きついなぁ この坂道は』
次第に息づかいが荒くなり、首筋から額から汗が噴き出してきた。
予報によるとこの日の秦野の最高気温は28℃となっていたので、当然か。


一息入れたいが適当な日陰が見つからない。
目の前の急坂を上る場所に、白山神社の標識があったので、立寄ってみることに。
『神社の境内なら一休み出来るだろう』


白山神社
山際の住宅地の中に小さな拝殿が建っていた。左は神輿庫だろうか。
ここで一息入れていくことに。


一息入れた後、先ほどの白山神社の標識まで戻り、再び急坂に挑む。
前方に生い茂っている木の辺りが、実は白山神社の境内だったことに後で気が付かされた。


見事なキウイフルーツが鈴なりである。
『たくさん生ってて美味しそうだわねっ』


住宅地を離れ、道は次第に山道らしくなってきた。


と思ったら、舗装された広い道に出た。
『なんだ、こんな広い道があったんだぁ』


道いっぱいに広がって進む。
時々車が通るので気を付けたい。


小さな駐車場から先が権現山へと続くようだが、ここからは歩くしかないようだ。
丸太の階段があるが、脇の方が歩き易い?
段差があるので、却って疲れる?


権現山の展望台が見えて来た。


11時13分、権現山(243.5m)の展望台に到着。
権現山の名前の由来は、山頂に権現堂があったことから名付けられた。


さっそく展望台に上る。
『いやぁ なかなか見晴しが良いねぇ』


「東名高速道」が見える。
晴れた日には相模湾、江ノ島、房総半島まで360度の展望を楽しむことが出来るそうだ。
この展望台からの富士山の眺望は素晴らしく、関東の富士見百景に選ばれているとのこと。


表丹沢の大山(1252m)がはっきり見える。


お昼にはまだ少し早い、と言うより展望台回りのベンチは全て塞がっていたので、弘法山を目指すことにした。
弘法山公園まで0.8Kmとある。


階段を下って弘法山へ向かっていくと・・・


弘法山方面から権現山へ向かってくる同年輩の一団とすれ違った。
あらためて弘法山・権現山は人気のコースなのだと思った。
『こんちはっ』


”秦野とたばこの歴史”を刻んだ碑があった。
秦野は、江戸時代初期から「秦野たばこ」の産地としてその名声を全国に及ぼしていた、そうだ。
小田急線秦野駅でたばこの葉が飾られていたのを見掛けたのは、秦野がたばこの生産が盛んな場所だったからなのだ。
薩摩たばこは天候で作り、秦野たばこは技術で作る
水府たばこは肥料で作り、野洲たばこは丹精で作る。と歌にも謳われたように、
秦野たばこの特色はその優れた耕作技術にあった、とのこと。


権現山から弘法山へは平地のような広くて平らな道で歩き易い。
子供連れのハイカーも見掛けた。


ちょうど昼時、途中のベンチはどこもハイカーに占有されていた。
弘法山に行っても空いたベンチがあるのか、少々不安になってきた。


権現山展望台から約10分、弘法山公園に到着。
弘法山公園は、「かながわの景勝50選」、「かながわの探鳥地50選」、「かながわの花の名所100選」、
「関東の富士見百景」に選ばれているとのこと。


弘法山山頂はもう少し先にあった。


公園入口からさらに進むこと6分、弘法山(235m)に到着した。
時刻は11時37分を指していた。
ベンチはあちこちにあるのだが、予想どおりどれも満席状態だった。


昼食前に証明写真だけでも撮っておこう。
撮影指定場所の大子堂(釈迦堂)で、証明写真を撮り終え、弁当タイムだ。


大きなベンチは全て塞がっていたが、ところどころに空いている小さなベンチがあった。
全員揃っては無理なので、分散しての弁当となった。


弁当を食べ終わってあらためて境内を回ってみた。
弘法山は弘法大師が山頂で修行したことから名付けられたとの伝承がある。
鐘楼の鐘は、時刻を知らせる「時の鐘」として、江戸時代から昭和三十一年(1956)まで
秦野周辺地域の人々に親しまれてきた、そうである。
この鐘は宝暦七年(1767)に麓の龍法寺六世が最初に鋳造し、その後、火災などに遭って再鋳され、
現在の鐘は享和元年(1801)のもの、とのこと。


弘法の乳の水
この井戸から湧き出た水は、白く濁り、いつも乳の香りがしていたそうで、「弘法の乳の水」と呼ばれている。
いつのころからか、「真夜中に誰にも知られずに山に登り、乳の水を飲むと、乳がどくどくと出るようになる」と
伝えられ、この水をいただきに山に登る人が後を絶たなかったと云われている、そうだ。
今では、水は白く濁ってはいない。


12時16分、次の目的地、3Km先の吾妻山を目指して出発!


ここからは下りとなる。
明るい緑の雑木林の中を下る。


下るにつれて麓の家並みが見えて来た。
手前には蜜柑畑が広がる。


12時31分、秦野国際乗馬クラブ前を通過。
馬が繋がれていた。


12時36分、国道246号線に出た。


国道246号を数はyく㍍進むと新善波隧道(しんぜんばずいどう)である。


今まで歩いてきた「関東ふれあいの道」で、トンネルの中を歩くのは初めて、だと思う。


トンネルの長さは約400mほどあった。
約4分で出口が見えて来た。


「関東ふれあいの道」の地図にはトンネルを出て直ぐ右折するように案内されている。
道標は見当たらなかったが、ちょうど道があったので、歩いていくと・・・


ラブホテルがずらりと並んでいるではないか。
どうも様子がおかしい。「関東ふれあいの道」がこんなところを通すはずがない。


右折したところまで引き返して再び国道246号を100mほど進むと・・・


一段下がったところに「関東ふれあいの道」の道標を見つけた。
これではちょっと気が付かない。


半信半疑で道標に従って畦道のような道を進む。


しばらく進むと、別の道標があった。
『やっぱり、こっちの道が正しそうだねっ』
この道は「矢倉沢街道」(矢倉沢往還)と呼ばれ、昔の人に親しまれていた、とのこと。
「矢倉沢街道」は奈良時代に開かれ、箱根越えの東海道が出来るまで官道の役割をしていた。
江戸時代には裏街道として賑わい、伊豆・沼津から足柄・秦野・伊勢原・荏田を経て、
日常生活に必要な炭、わさび、干し魚、茶、それに秦野のたばこなどが馬の背で江戸へ運ばれていた。


熊出没注意!の看板があるとは驚きである。
『こんなところにも熊が出るのかぁ』


道の脇にみかんが生っていた。
温州みかんのようだ。


『一つだけいただいちゃおうかしらっ』
『うわっ 酸っぱ~い』
まだ食べるには少し早いようである。


「矢倉沢街道」はさらに続く。
『のんびりした素敵な景色だわねっ』


道端に色鮮やかなきのこが生えていた。
これは、食べられるのだろうか?


馬頭観世音像が草むらに埋もれるように佇んでいた。
”明治十七年”の文字が読み取れる。


夜泣岩
旅人が、この石のあたりで、誰助けるともなく倒れていた。
それ以来、夜中にここを通ると、この石のあたりから、助けを求めるような声が聞こえたと云われている、そうだ。


吾妻山分岐点を過ぎると少しばかり急な上りが続く。
道は細く、回りは竹藪のような雑木林である。


400mほど進んだところで、弘法山からの道と合流した。
『こっちにも道があったんだぁ』
吾妻山へ0.4Kmとある。


一息入れて吾妻山を目指す。


13時47分、この日のコース最後の目的地、吾妻山に到着した。
石の碑が「吾妻神社」として祀られている。これは珍しい。
神社とあればお参りして行かなくちゃ。


ここで、最後の休憩だ。


休憩の後、約1Km先のゴール、坪の内バス停を目指す。
14時18分発の鶴巻温泉駅行きバスに間に合うためには少しばかり急ぐ必要がある。
そのバスに乗り遅れると、1時間は待たなければならない。
『急ぎましょうっ』


坪の内バス停まで残り0.6Kmの表示だ。時計は14時ちょうどになろうとしていた。
あと18分、何とか間に合いそうだ。


道端に2体のお地蔵さんが祀られていた。
碑には”愛鶏供養塔”と刻まれていた。
養鶏家が祀ったのだろうか?


14時10分、ゴールの坪の内バス停に到着した。
しかし、ここはゴールの筈だが、バスの停留所が見当たらない。


バス停は少し離れたところにあった。
何とかバスの時刻に間に合って一安心だ。


鶴巻温泉行きバスは、10分ほど遅れてやってきた。


乗客は朝同様、我々の他に数人だけである。


14時36分、小田急鶴巻温泉駅に到着。


鶴巻温泉駅ホームで電車を待っているところ。
皆さん、ややお疲れの様子。

『皆さん 今日は大変お疲れ様でしたぁ』

7月8月の暑い時期は休みとしていた「関東ふれあいの道」を今月から再開した。
久しぶりの山歩きに不安はあったが、この日のコースはそれほど高い山はなくて良かった。
冒頭でも触れたように、当初予定していた9月8日を雨の影響で2週間後の今日に変更したことにより、
参加予定者が大幅に減ってしまった。
雨の影響だったとはいえ、参加できなくなった方には大変申し訳なく思う次第である。
今回参加出来なかった方とは、都合をつけて、再度この日のコースを歩きたいと思っている。


ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」の目次”へ

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藤代宿本陣からビール工場見学

2013年09月20日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2013年9月20日(金)


毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成25年度第19回(2013年第30回)、「藤代宿本陣からビール工場見学」ウォーキングに参加した。

この日は、ビール工場見学ということで、電車を利用することにしている。
荒川沖駅で電車を待つ。
通勤時間帯は過ぎているので、ホームは空いている。


8時38分、藤代駅に到着。
この日の参加者は13名。
午前中にビールの試飲をすることに抵抗感があったのか、女性の参加者は4名に留まった。


藤代駅前でいつもの準備体操をして、


8時52分、出発!


先ずは藤代宿本陣跡を目指す。
駅前の通りは旧水戸街道であるが、昔を偲ばせる建物などは残っていない。


出発して約10分、藤代宿本陣跡の藤代公民館に到着。


藤代宿の名残としては、公民館内に百日紅の老木があるだけだ。
説明板によると、
藤代本陣は、天正・文禄の頃(1573~1594)この地に置かれ、名主であった飯田三左右ヱ門の子孫が務めた。
本陣は、貞治二年(1363)足利義詮が京都にのぼるさい、宿舎に宿札をかかげて本陣と称したのがその始まりと云われる。
建物は昭和三十年二月町村合併による庁舎建設のため取り壊された。
現在、この百日紅と


公民館脇の老松は、本陣玄関前にあったものだそうだ。


百日紅の横に、本陣跡を謳った句碑が建てられている。
たんぽぽに 照る陽曇る日 陣屋跡  雨城” 


藤代本陣跡を後にして旧水戸街道を進むと、鳥居が見えてきた。


相馬神社である。
説明板によると、
建立は極めて古く、元享元年(1321)六月といわれ、安政二年(1855)火災焼失、慶応三年(1867)に再建された。
明治四十年(1907)、八坂神社・富士神社を合祀して相馬神社と称した、とある。


また、社殿の材質は総けやき造り、屋根は銅板葺流れ造り、向拝柱に見事な龍の彫刻があり、
大床下や三方の壁面脇障子全体が豊麗な彫刻で飾られている。
社殿全体の豪華さは、町内にある社殿の中でも群を抜いている、とのこと。


旧水戸街道を国道6号線方面へ向かう。
この日の気温は30度近くで、かなり暑い。真夏に戻った感じである。
美味いビールを飲むためには頑張って歩くのが一番だ。


国道6号との合流点谷中本田交差点に到着。


道路を渡り、少しばかり国道6号に沿って歩く。


次の谷中交差点で国道6号と分かれて県道229号を進み、小さな堀を渡り・・・


常磐線を渡る。


この辺り、回りは田んぼに囲まれ日陰になる建物も樹木も見当たらない。
『暑いねぇ、日陰が欲しいねぇ』


六郷小学校近くにコンビニを見つけ、建物の陰で一息入れる。
皆さん、背中は既に汗でびっしょりだ。


再び常磐線を渡る。


遠くにカップヌードルで有名な工場が見える。
この工場は見学はやっていないのだろうか?
Webで調べると、申し訳ございませんが、近隣の学校教育以外は、現在はお受けしていません、とのことだ。


再び国道6号を取手方面へ進む。


桑原交差点を渡る。


取手警察署前を通過。
ビール工場までもう少しである。


目指すビール工場の建物が見えて来た。
丸いのが貯蔵タンクだ。


10時22分、目的地のキリンビール取手工場に到着。


見学者用通路を通ってキリンビアパーク取手へ。


左に見えるのが試飲室だ。
工場見学開始時刻の10時30分に、ぎりぎり間に合って一安心である。


10時34分、見学前に工場の概要や見学時の注意事項の説明を受けた。
見学中の撮影はバスで移動中の一部を除き特に問題ないとのこと、これは嬉しい、評価したい。


いよいよ工場見学ブルワリーツアーの開始である。
最初は醸造工場へ。


ビール造りに欠かせない原料について説明があった。
ビールは基本的に麦芽、ホップ、水を主原料として作られている。


この工場では麦芽は二条大麦が使用されている。
麦の穂についている実の列が二列あるので二条大麦と云われる。
因みに、穂についている実の列数が六列についているものを六条大麦という。


色が白っぽい麦芽は”一番搾り”となり、やや黒みがかった麦芽は”一番搾りスタウト”などになるそうだ。


ビールに特有の芳香と苦味を与えるホップの多くは、ドイツ、チェコなどから輸入されたものが用いられているが、
取手工場の場合は岩手県で生産されているとのこと。ホップが国内で生産されているとは知らなかった。
副原料として、米・コーンスターチ・コーングリッチなどが使われている、そうだ。
ビールは水を除く原料に占める麦芽の重量が「2/3以上」のものとされているが、これを下回ったり、
果汁など規定以外の原料を使ったりすると、「発泡酒」に分類される。
余談だが、ビールの本場ドイツでは、「大麦、ホップ、水以外の原料を使ってはならない」とされ、
現在に至るまで麦芽100%ビールが一般的になっている。


仕込み方法や煮沸について説明を受ける。


仕込み釜や麦汁煮沸釜を目の前で見ることができる。
奥の方に見える銀色をした釜が現在の仕込み・煮沸を行っている釜(ステンレス製)である。
2007年までは銅製の仕込み釜が使われていた。(釜の色が銅色をしている)
『いやぁ すごいもんだなぁ』


本日の麦汁
発酵前の出来たての麦汁を試飲させてもらった。


ホップが効いて苦みがあるが、甘味も感じられる。
『意外と美味しいよねっ』


発酵タンクを模した同サイズの部屋に入り、発酵についての説明を受ける。


次はバスに乗り、缶・びん詰工場へ移動である。


『すっご~いっ』


次々に無数のびん詰されたビールが流れている。
『いやぁ 早いなぁ』


こちらは空びん検査機(奥)と仕上げ検査機(手前)
キリンビールのびん以外は通さない機械だ。
見ているとかなりの数が外されている。
それだけ他社の瓶が混じっているということだろう。


創業以来のキリンのポスターが貼られていた。


昭和10年、11年のポスター
『私が生まれた年のだぁ』


新しい軽くなった新製品の瓶ビール”GRAND KIRIN”は、コンビニで発売されているとのこと。


新しく開発した軽量ビンは、22%以上も軽くなっている。
箱の重量が軽くなるため、車の燃費が良くなるのだ。
環境に配慮し、資源の有効利用に力を入れていることが分かる。


キリンチューハイ(氷結)の缶詰工程に見入る。


充填機(缶詰機)で”氷結”を詰めて蓋をし、印字機で製造年月・賞味期限を印字し、
ケーサーで箱詰をして出荷する工程が全て無人で行われている。


現在、取手工場で製造されている製品が並べられていた。
『こんなにたくさん作られているんだぁ』


工場見学は一応終わり、出発地へ戻ってきた。
試飲の前に「選ぼうニッポンのうまい! 2013」復興支援プロジェクトの説明があった。
キリンの対象商品に付いている応募券を6枚1口として送ると、抽選で47都道府県の美味いもの一品が当る、
と云う訳である。これは応募せずにはおられないだろう。


いよいよ試飲会場へ。


この日試飲できるのは、一番搾り、ハートフルランド、ハイネケンおよび氷結である。


早速ジョッキへ注いでもらった。
最初の1杯は一番搾りの凍結泡。ジョッキに注いだ後に凍った泡を足す(乗せる)のだが、
却って凍った泡が邪魔になって一気にグイッとはいかない。やや飲み難い。
泡が固いのである。グイッとやるには泡を乗せる必要はないと思った。


試飲風景


少量のつまみが付いて試飲時間は約25分、これだけあれば我々には十分だ。
試飲している間に、案内嬢がビールカクテルの作り方を説明してくれた。
アセロラなどのジュースに一番搾りまたは黒ビールを注いで飲むことになるのだが、
味は人の好みによるので評価は控えたい。


一番搾りの次はハイネケンを飲んだみよう。
スッキリとして美味かった。
最後はハートランドを飲んでみた。
(グラスは同じで色具合もハイネケンとほぼ同じなので写真は省略)


3杯目が空になる頃には皆さん、かなり良い気分になってきたようだ。


試飲を終えてスーベニアショップへ。
”氷結”(ライチ)とGRAND KIRINを買った。


試飲室を出たところにホップが5株栽培されていた。
『よく見ると実がなってるわねっ』


古い醸造タンクの前で案内嬢と一緒に記念撮影。


『いやぁ なかなか美味しかったよ』
『何だか少し酔っ払ったみたいな気分だねっ』


キリンビール取手工場を後にして、


約2Km離れた常磐線取手駅へ向かう。
日差しが強いので、せっかく飲んだビールが汗となって噴出してくる感じだ。


関東鉄道常総線の線路を跨ぐ。


国道294号線との分岐の交差点を通過。


次の交差点を左に曲ると取手駅である。


取手駅西入口交差点を左に曲がると正面に取手駅が見えてきた。


12時41分、取手駅西口に到着。
食事や買い物などがあるとのことで自由行動にし、ここで解散ということにした。
『皆さん 今日は大変お疲れ様でしたぁ』



3年振り自身2度めのキリンビール取手工場の見学となった。
3年前は昼食後の見学だったため、お腹一杯であまり飲めず、美味しさもいま一つだったが、
今回は、真夏日の中を歩いて汗をかき、昼食前だったので、数段美味しかった。
やはりビールは汗をかいた後で、食事前が一番である。
次は女性陣の参加を期待したい。


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日光街道を歩く 最終回 今市宿~日光東照宮

2013年09月18日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2013年9月18日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の”街道歩き”を望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

7月・8月は暑いのでお休みとしていたが、猛暑日も影を潜めたこの時期に街道歩きを再開した。
会を重ねて、今回が最終回となり、今市宿から日光東照宮を目指す。

この日も雲一つ見えない素晴らしい天気だ。
「ホテルつたや」の4階屋上から、左から男体山(2,484m)、大真名子山(2,375m)、小真名子山(2,323m)、
女峰山(2,463m)の山々が望める。


出発前に、社長から「ホテルつたや」の歴史について説明を受けているところ。
東照宮造営や大猷院が完成し、街道が整備され、今市が物資の集積地として発展してきた頃の延宝五年(1677年)、
旅籠蔦屋与左衛門として創業したというから約330年以上の老舗である。
日光街道で江戸時代初期より唯一営業している旅館とのこと。


江戸時代には、幕府・東照宮より認定された講中看板(三都講、東照宮百萬講)を店頭に掲げ、
当時の日光参拝客や商いの人を泊めていた、とのこと。
当時の講中看板は今では「ホテルつたや」の家宝だそうである。


「ホテルつたや」のすぐ近くにあるコンビニで飲み物等を調達し、


8時24分、東照宮目指して出発だ!
この日も足の古傷が痛むため、朝から杖を片手に歩くことにした。
皆さんには迷惑をかけることになるが、何とか遅れずに一緒に歩きたいものである。


歩きだして直ぐ、報徳二宮神社の参道入口があった。
立派な道標と、この地で終焉を迎えた二宮尊徳翁の墓があることを「ホテルつたや」の社長から聞いていたので、
立寄って行くことにした。


報徳二宮神社の鳥居


報徳二宮神社
二宮神社は、報徳仕法によって多大の恩恵に浴し、尊徳翁の遺徳を敬う人々が、
終焉の地である今市の霊地に創建したものである。
報徳二宮神社の本社は、生誕地である小田原の小田原城二の丸小峰曲輪の一角に創建されている。


二宮尊徳翁の銅像


二宮尊徳翁のお墓
二宮尊徳翁は幕府の命令を受け、今市を中心とする日光神領で荒廃した農村復興のために報徳仕法を始めた。
安政三年(1856)11月17日、居住していた今市報徳役所内で70歳の生涯を閉じた。


如来寺
室町時代中期の創建。
寛永九年(1632)、三代将軍家光が東照宮造営のために御殿を建設しここに逗留した。
二宮尊徳翁が亡くなった安政三年(1856)に、葬儀が行われた寺でもある。


如来寺本殿
境内には、地蔵堂や暁誉上人の五輪塔などの数多くの文化財がある。


地蔵堂
堂には木造地蔵菩薩立像(日光市指定文化財)が安置されている。


国道119号線(日光街道)と並行した裏道を進んでみることにする。
人通りは少なく、静かな佇まいである。


浄泉寺
信仰に篤い二宮尊徳の子弥太郎が文久二年に寄進したが、戊辰の戦乱にあり消滅。
その後弥太郎の子金之丞・延之輔等によって復興した。
本堂は焼失して無く、薬師堂が建っているのみである。


そば喰稲荷(澤蔵司稲荷神社)
伝えによると、金之丞の妹に夜泣きする子がいて、「そばを献上して祈願したら直ちに治った」という。
以来そば喰稲荷と云われるようになった。子育て稲荷とも呼ばれる。
この言伝えが、今市がそばのまちとして知られるルーツとなったとも云われている。


裏道を進むと東武日光線上今市駅があった。


上今市駅をさらに線路沿いに進むと公園があり、その先で杉並木街道に合流した。
やはり杉並木を歩くと気持ちが落ち着くし、日光街道に相応しい、と思う。


杉並木を進むと右手に高龗神社(たかおじんじゃ)がある。


高龗神社の本殿
祭神は大山祇命・少名彦命・草野姫命を祀る、とのこと。


社名である「高靇」は水源を司る日本神話の神、高靇神に由来している、そうだ。


街道を歩いていると、杉の大木に名前が付けられているのが目に付く。


杉並木のオーナーになった団体・個人の名前が付けられている。
オーナー代は1,000万円である。
代金は、栃木県が日光杉並木街道保護基金で運用し、その運用益で杉並木の樹勢回復事業を実施するという制度になっている。
解約したい場合は栃木県がいつでも同額で買い戻しする、そうだ。


『杉並木が美しいのはオーナーのおかげなんだね』


砲弾打込杉
戊申役のとき、日光会津への要衝今市宿をめぐる官幕両軍の激しい攻防戦が展開された。
官軍の放った砲弾が並木杉を貫いた痕をとどめるもの、だそうだが・・・
『ちょっと見にはどこが砲弾跡なのか分からないねぇ』


途中老婆とすれ違った。
『こんにちわ~』
『車には気を付けてねっ』


出発して1時間30分、一休みして行こう。


杉の木の途中に桜の木が宿って成長している。
『あと数十年もすれば、名木になるかもしれないねっ』
『その頃には我々は誰も生きていないだろうねっ』


竜蔵寺跡の薬師堂
その昔、ここには青雲山竜蔵寺という寺があった、そうである。


薬師堂の前に大きな石の釣鐘が置かれていた。石の釣鐘は初めて見た。
青雲山竜蔵寺は資力の乏しい寺だったため金属製の釣鐘を造ることが出来ず、
日光廟造営に携わった石工に頼んで造らせたものという説があるとのこと。


国道119号線との合流点。


並木太郎
並木の中で一番大きく、その姿が最も美しく端正であるということからこの名称となった。
『さすがに大きいわねぇ』


幹周り5.35m、樹高38m、材積33.5㎥あるとのこと。
『すっご~いっ、5人でやっと一回りだよぉ』


並木太郎クラスの大木が続く、七里の杉並木。


明治天皇七里御小休所
庭園の中に明治天皇が休憩した建物が残っている。


JR日光線をくぐると・・・


日光市街地へ続く最後の杉並木がある。


最後の杉並木を過ぎると右手にJR日光駅が現れた。


JR日光駅の200mほど先に東武日光駅がある。
JR日光駅に比べると人が多く、賑わっている感じである。


日光市街地を進む。
『美味しそうっ、食べて行きたいわねっ』


数百㍍ごとに二荒山神橋までの距離が表示されている。
残り620mの表示。次第に距離が短くなっていくのを見ると元気付けられる。
『もう少しだねっ』


一筆書きの龍
とても一筆書きとは思えない。


神橋袂の日光物産商会
明治時代後期に建設され、日光金谷ホテルの土産品店として創業。
当初は伝統工芸の日光彫や木工品、漆器等の製造・販売などを手がけていた。
昭和三年(1927)に日光金谷ホテルから独立し、その後は土産物販売・飲食専業となった。
日光物産商会の本館は国の登録有形文化財に指定されている。


二荒山神橋(しんきょう
有料(300円)だが、せっかくの機会なので記念に渡ってみよう。


神橋は、はね橋の形式としては我国唯一の古橋であり、日本三大奇橋(山口県錦帯橋、山梨県猿橋)の1つである。


神橋から大谷川(だいやがわ)上流を見たところ。
前日に大雨が降ったとは思えないほど水はきれいであった。


神橋の先に小さな鳥居が見えるが、一般人はここからは進むことは出来ない。
突き当りで折り返しである。
神橋は、神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用された。
一般は下流の日光橋を通行したのである。


神橋から大谷川(だいやがわ)下流の日光橋を望む。


日光橋から神橋を望む。


11時41分、ついに東照宮参道入口に到着した。


参道入口の岩には”世界遺産”の文字が刻まれていた。


東照宮はもう直ぐ、思わず足にも力が入る。


『あと少しだねっ』


日光山は天平神護二年(766)に勝道上人(しょうどうしょうにん)により開山された。


三仏堂は、約50年ぶりの大修理の真っ最中で、巨大なビルのような建物に覆われていた。
正面の壁に描かれた実物の三仏堂にお目にかかれるのはもう少し時間が必要である。


輪王寺三仏堂前で記念撮影だ。


東照宮参道を進む。


この辺りは東京スカイツリーと同じ高さ(標高634m)である。


目の前に東照大権現の石鳥居が迫る。


東照宮表門前の五重塔


東照宮表門
ここから先は有料(1,300円)となっている。
東照宮は、元和三年(1617)徳川初代将軍徳川家康公を御祭神に御まつりした神社。
その後正保二年(1645)宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになった。


東照宮表門の前で記念撮影だ。
表門の中に入るには拝観料1,300円が必要であるが、我々の目的は東照宮へ到着することであり、
私も含めて皆さんはこれまで何度も拝観しているとのことで、この日は敢て中には入らないことにした。
(陽明門の前で記念撮影といきたかったが、拝観料1,300円は決して安くはないのである)


東照宮参道を引き返し、食事処へ向かうことにした。


大谷川(だいやがわ)の清流が美しい。


大谷川の橋の傍に天海大僧正(慈眼大師)の銅像が建てられている。
天海は比叡山で天台宗の奥義をきわめた後、徳川家に仕え、日光山の貫主となった。
当時の日光は豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極にあったが、家康が亡くなると
天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移して、東照宮の創建に尽くした
日光山中興の恩人である。(説明板より)
徳川家康に神号の「東照大権現」を送ったことは特に有名。


天海大僧正の銅像の直ぐ横に磐裂霊水(いわさくれいすい)がある。
この水は男体山系の湧水で、”日本で最も美味しい水”として定評があるそうだ。
『ほんと、美味しいわねっ』


二荒山神橋前の食事処「あさやレストハウス」で昼食にしよう。


無事「日光街道」を歩き終わって、先ずは『かんぱ~いっ!』
『皆さんっ、大変お疲れ様でしたぁ』
この時のビールは殊の外美味かったことは言うまでもない。


日光とくれば名物は”ゆばそば”だろう。
実に美味しかった。


手に手に土産物をぶら下げて東武日光駅・JR日光駅へ向かう。


5人が東武日光駅へ。
『お疲れさん、気を付けてぇ』


残り4人はJR日光駅へ。


JR日光線ホームに宇都宮行き電車が入ってきた。


宇都宮行きの車内
この後、宇都宮線・水戸線・常磐線を乗り継いで帰路についた。


この日で「日光街道」(千住宿から日光東照宮までの約140Km)を歩き終わったことになる。
「日光街道」を歩いた仲間から早速次の目標を聴かれ、「旧東海道」を提案したところ、
皆さん大いに乗り気であった。
ということで、次月からは、「旧東海道」を歩くことにしたい。
しかし、日程調整や費用の面からさすがに京都までとはいかず、
全員一緒に歩くのは日帰り可能な三島宿までが良いところだろう。
三島宿から先は、いまのところ成り行きまかせではある。


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日光街道を歩く 第9回 徳次郎宿~今市宿

2013年09月17日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2013年9月17日(火)

2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の”街道歩き”を望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

7月・8月は暑いのでお休みとしていたが、猛暑日も影を潜めたこの時期に街道歩きを再開した。
会を重ねて、今回が9回目となり、目指す日光東照宮はもう目と鼻の先である。
これまでは日帰りだったが、今回は今市宿で宿泊し、翌日東照宮を目指すことにした。

水戸線友部駅で小山行き電車を待つ。


水戸線終点の小山駅で東北線宇都宮行きに乗り換える。
9時16分発の宇都宮行電車が到着。


東北線車内
この日の参加者は9名、最終回にしてはやや寂しい。


9時40分、出発地の宇都宮駅に到着。
この日は今市宿で一泊することから、後処理に困らないように駅弁を購入した。
隣のコンビニで弁当を買う人もいる。


宇都宮駅からスタート地点の「六本杉」まで関東バスを利用する。


10時5分、定刻どおり石那田行きバスがやってきた。


乗客は我々一行9人以外には2人が乗っただけ。
まるで貸切状態である。


10時47分、スタート地点の「六本杉」に到着した。
我々を下ろすとバスは空っぽの状態で走り去っていった。


準備体操は省略して、今市宿を目指して出発だ!
昨日は台風18号で朝まで大雨だったが、台風一過、雲一つない快晴である。


国道119号線を日光を目指して進む。
並木道の道路は車がひっきりなしに走って危険なため、桜並木に並行した歩道を進む。


昨日の台風18号の影響で収穫期を迎えたばかりの稲が倒れている。
『刈入れが大変なんだろうなぁ』


しばらくは国道119号線を進む。
並木道が途切れると民家、また暫くすると並木道、と云う具合に並木道と民家が交互に続く。


台風一過で、日差しは強い。
少しでも日差しが遮られる並木道を歩きたいのだが・・・


石那田一里塚
日本橋より30番目の一里塚である。
道路の反対側にあり、車がひっきりなしに走るため、写真撮影だけに留めた。


バス停の名称も”一里塚”となっている。


石那田一里塚の反対側(歩いている方)に、日光街道の植樹を記念する日光街道植樹記念碑があった。


日光街道植樹記念碑のすぐ横に天保十一年(1840)の建立とされる十九夜塔の如意輪観音が祀られていた。


六本杉停留所を出発してちょうど30分、日光(今市)まで13Kmの表示。
まだまだ先は長い。


さらに10分ほど進んだところに木陰があったので、水分補給のため一休みだ。


田川
台風18号による大雨の影響で川いっぱいに溢れんばかりの水が流れている。


田川大橋を渡ると・・・


左手に石那田八坂神社がある。
明暦元年(1655)の創建で、旧石那田村の鎮守である。


毎年7月17日~24日に厄除けの天王祭が行われているとのこと。


祭礼に繰り出される各集落の屋台は彫刻や提灯で豪華に飾られている。


並木道に沿って進む。


この辺りの並木は桜の木であるが、すぐ脇には雑木などもあって、森の中を歩いている気分だ。


栗の実なども落ちていて夢中で拾っているところ。
まさに実りの秋である。


りんごも赤く色づいている。美味しそうだ!


うらない地蔵
お地蔵さんの台座に3個の丸い石が置かれている。
願をかけた後、そのうちの1個を持ち上げ、軽ければ願いが叶うと云われている、そうだ。


『よいしょっと! これ意外と軽いわねっ』
願いごとが叶うかも・・・


道端に彼岸花が咲いていた。
気温はまだ高いが、秋を感じる。


12時24分、新渡神社(にわたりじんじゃ)に到着した。
鳥居の前に大きな欅の木が植えられている。
本殿はたくさんの杉の木に囲まれていた。


ここまで何事もなく来れたことに感謝しよう。


時間も12時半を回ったことだし、『ここで弁当にしましょうっ』
神社の社務所と公民館を兼ねた建物が日除けになり、弁当を食べるにはちょうど良い具合である。


宇都宮駅で買ったそぼろと鶏肉の駅弁(700円)は、なかなか美味かった。


日光社寺まで18Km、日光市街(今市)まで10Kmの表示。
『記念に撮っておこう』


”杉並木”の文字が入った看板が出てきた。
間もなく「日光街道杉並木」が始まるのだろうか。


道が二手に分かれていた。
左は国道119号のバイパスで車がひっきりなしに走っている。
ここは、右側を歩くべきであろう。


右手を少し進むと並木寄進碑が建てられていた。
松平正綱が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑である。
この碑は日光神領の境界に建てられているので、境石と呼ばれている。
杉並木の起点となる神橋畔および、各街道の切れる今市市山口(日光街道)、同小倉(例幣使街道)、
同大桑(会津四街道)の4ヶ所に建っている、そうだ。


待ちに待った杉並木の始まりである。
車は杉並木に沿ったバイパスを通ることになっている。
杉並木は一応車は通れるが、一方通行になっており、車は極めて少ないことから、ここを歩くことにした。


杉並木の中は気温が低くて本当に気持ちが良い。
『杉並木を歩くのは最高の気分だわねっ』
『ここを歩かなきゃ日光街道を歩いたことにはならないよねっ』
次第に「日光街道」を歩いているんだという実感が湧いてきた。


杉並木があるところは、”保護地域”、住宅などがあるところは”普通地域”となっている。
特に保護が必要な場所は”特別保護地域”に指定されている。


119号線が全てバイパスになっている訳ではない。
バイパスのないところは杉並木に沿った草むらを歩く個所もある。
草むらを歩いていたら、何度か蛇を見掛けた。
『早くバイパスが出来ると良いわねぇ』


水無一里塚
日本橋より32里目の一里塚。
杉並木街道の中にあり、両塚とも僅かだが原型を残している。


水無の地蔵堂
ちょうど杉並木の途切れる付近に、数体の石仏などに取り囲まれるようにして、お堂が建っていた。


お堂の中には赤い頭巾と衣を着せられたお地蔵さんが祀られていた。


杉並木の右側を歩いたり、


左側を歩いたり、119号線を縫うように歩く。


バイパスが整備されているところは杉並木の真ん中を歩く。
一日も早くバイパスが完成し、歩道が整備されることを望むばかりである。


来迎寺(らいげいじ
今市宿の如来寺の末寺。永正十四年(1517)の創建、だそうである。


日光杉並木街道
日光街道・ 例幣使街道・会津西街道の三つの街道からなり、総延長37㎞ もある並木道。
古いものでは樹齢380年を超える杉の巨木が約12,500本も連なる壮大な並木で、我が国で唯一、
特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けている。
ギネスブックにも世界最長の並木道として掲載されるなど、貴重な文化遺産である。


旧今市市七本桜の一里塚
日光街道、33里目の一里塚である。
塚上の杉は、根元が腐って空洞ができており、大人4人程度ならば入れることから、並木ホテルと呼ばれている。


実際に空洞の中に入って見ると、5-6人は楽に入れる大きさである。
『いやぁ、この空洞はでかいねぇ』


JR日光線をくぐると・・・


今市宿の追分も近い。


16時4分、今市宿の”追分地蔵”に到着した。


地蔵堂の大きさは、東日本でも有数とのこと。
全員無事に到着できたことに心から感謝のお参りをしよう。
少し賽銭も弾んでおくことにした。


日光街道と日光例幣使街道との追分(分岐点)に位置していることから、”追分地蔵”の名で親しまれている。


この日宿泊する「ホテルつたや」は追分地蔵からほんの数分のところにあった。
16時11分、「ホテルつたや」に到着。
ほぼ予想していたとおりの時刻である。


チェックインの前にホテルの前で整理運動だ。
『いっちにっ さんっしっ』


ひと風呂浴びてさっぱりしたところで、夕食である。
『皆さん、大変お疲れさまでしたぁ』
『かんぱ~いっ!』


街道歩きで宿泊するのは初めてだが、いつものメンバーで顔なじみである。
これまで歩いてきた想い出に浸りながら話しに夢中になった。


部屋に戻った後も、話は続き、時の経つのも忘れ、遅くまで盛り上がった。


『明日は最終回、東照宮目指して頑張ろうっ』
足の古傷が痛んで、杖をついての歩行だったが、最後まで皆さんと一緒に楽しく元気にゴールを目指したい。


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