2018年10月12日(金)
毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第19回(2018年第29回)、「高井城址公園から間宮林蔵記念館・岡堰」を巡るウォーキングに参加した。
この日は、高井城址公園から小貝川の堤防を歩いて農業ふれあい公園へ立ち寄り、
稲豊橋を渡って専称寺の間宮林蔵の墓にお参りをして、間宮林蔵記念館へ向かう。
間宮林蔵記念館を見学した後は、岡堰を渡って、高井城址公園へ戻るという
約9Kmのコースである。
この日のスタート地点高井城址公園に集まったのは15名。
やや人数が少ないのは、朝方まで小降りの雨だったのが影響したのかもしれない。
しかし、スタートする頃には雨は完全に上がっていた。
『傘もレインコートも必要なさそうだねっ』
準備体操は省略して、10時7分、TKさんを先頭に出発!
当会最年長のHA子(88)さん、この日も元気だ。
会員の多くは、出来ればHA子さんのように米寿まで元気に歩きたいと目標としている。
後に続く皆さん。
小貝川の堤防へ向かう。
堤防へ上がってみると・・・
『あら~っ 広くて気持ちが良いわね~っ』
目の前にゆったりと流れる小貝川の景色が広がる。
先ずは農業ふれあい公園を目指す。
『雨が止んで良かったよねっ』
10時19分、農業ふれあい公園まで2Kmの標識を通過。
『土手の上がヘルスロードになってるんだぁ』
農業ふれあい公園を目指す。
『暑くないから歩き易いわよねっ』
しばらく小貝川の堤防を歩く。
10時23分、下高井排水桶管を通過
前方に橋桁が青色に塗られた稲豊橋が見えた。
農業ふれあい公園を目指す。
『稲豊橋までまだかなりあるわね~っ』
下塚排水桶管を通過
10時34分、農業ふれあい公園まで1Kmの標識を通過
稲豊橋の手前でヘルスロードは右に大きくカーブしている。
久しぶりの再会を果たし、話が盛り上がっている。
10時45分、稲豊橋下を通過し、
農業ふれあい公園へ。
農業ふれあい公園の駐車場を通過すると、
農業ふれあい公園の池があった。
木製の桟橋もあり、池の周りを散策することもできる、そうだ。
管理棟
管理棟には多目的室と調理室があり、多目的室は会議や勉強会などに利用できる。
調理室には調理器具も取り揃えてある、とのこと。
10時50分、農業ふれあい公園の東屋に到着
東屋は休憩所として使用できる。
農業ふれあい公園の市民農園
市民農園は、1区画あたり20㎡で、全76区画、とのこと。
農業ふれあい公園の総面積は4,852㎡(約1,470坪)あるそうだ。
東屋のテーブルの上に(夏・冬)野菜の作付表が貼り付けてあった。
作物毎の種蒔・植付時期、連作の良否、収穫の時期、作付ポイントなどが記されていた。
これを参考に作付けを行う人も多いのだろう。
東屋でしばし休憩
休憩の合間にも、この後のコースの確認に余念がないTKさん。
11時6分、間宮林蔵記念館を目指して農業ふれあい公園を出発。
小貝川を渡る。
歩道が広いので歩き易い。
話は延々と続いている。
小貝川
小貝川を渡り終えて右に曲がり、堤防上を進む。
200mほど先で土手を下る。
前方左手にお寺が見えて来た。
間宮林蔵の墓があるという専称寺か?
専称寺?に到着
門の前に六地蔵が並ぶ。
『浄円寺って書いてあるよっ』
なんと! この寺は専称寺ではなかったのだ。
早々に浄円寺を後にして専称寺へ向かう。
11時34分、正真正銘の専称寺に到着
専称寺本堂にお参りを済ませる。
境内の慈母観音像
銀杏の大木も
『相当な樹齢なんだろうねっ』
間宮林蔵ここに眠る
19世紀初頭の北方探検家・地理学者の間宮林蔵は、安永9年(1780)常陸国筑波郡
上平柳村に生まれ、天保15年(1844)波乱に満ちた65歳の生涯を終え、
ここに眠っています。
林蔵は、当専称寺の住職伯栄和尚に学び、その才能を発揮、小貝川の堰き止め工事で
認められたといわれ、江戸に出てゆきました。
ここは幼いころの林蔵の勉学の場であり、遊びの場でもありました。
昭和30年(1955)墓は茨城県の史跡に指定されました。
郷土の偉人「間宮林蔵」顕彰のため、子孫伊奈間宮家・専称寺の協力を得て、
この墓所を保存、公開しています。
(現地説明板)
間宮林蔵の墓石の前には明治43年(1910)に建立された「間宮先生埋骨之処」の顕彰碑が建つ。
顕彰碑の後ろに間宮林蔵の墓があった。
左が間宮林蔵の墓で、右は両親の墓である。
この墓は文化四年(1807)決死の覚悟で樺太探検に出発するにあたり、
林蔵自ら建立した生前の墓で、正面には「間宮林蔵墓」と刻んであるが、
法名も没年もない。。
偉大な事業を成し遂げる前の身分の低い武士に合った百姓並みの墓である。
間宮林蔵記念館へ。
『きれいなコスモスだねっ』
11時46分、間宮林蔵記念館に到着
入館料は、一人100円だが、15名以上の団体割引で50円となる。
また、75歳以上は無料となっている。
結局、7名が75歳以上ということで無料、8名が50円を払って館内へ。
ちょうど15名だったので50円で済んだ。15名が幸いした。
記念館前に建つ間宮林蔵の銅像
先ずは映像(約9分)で間宮林蔵のことを予習して、
展示場へ。
館内は、間宮林蔵に関係するもの及び彼の生きた時代背景などで構成され、
時代に沿った紹介がされている。
間宮林蔵の肖像
この肖像は、林蔵がカラフトを探検した三十歳頃の英姿を再現したもの。
身長は約157Cm、手には海上測量用の鎖、左脇には桐の浮木が配されている。
服装は袴と脚絆が一つになった裁着袴を着用し、定紋付の羽織は鉄色だったとも
伝えられている。
この肖像画は明治43年(1910)、志賀重昂の提案で、松岡映丘が子孫をモデルに描いた
苦心の作である。
実物は昭和20年(1945)の東京空襲の際に紛失(焼失)したが、幸い肖像写真の
乾板が残されていた。
(現地説明板)
出自と生立ち
林蔵は安永9年(1780)、月日不詳
常陸国筑波郡上平柳村(現つくばみらい市上平柳)に生まれる。
父庄兵衛は、親代々からの百姓だったが、生計を助けるために箍作りの職も兼ねていた。
母クマは、小貝川を隔てた隣村、下総国相馬郡高井村(現取手市高井)の森田家から
嫁いでいる。
林蔵は、両親が日頃から信心する河内郡樋ノ沢村(現つくば市樋ノ沢)の月読神社へ
願をかけてやっと授かった一人っ子だった。
(現地説明板)
間宮林蔵のはたらき
林蔵は寛永11年(1799)4月、蝦夷地総奉行松平忠明に随行した村上島之允の従者として
初めて蝦夷地に渡った。
翌年普請役雇となり、蝦夷地、クナシリ、エトロフ島の植林、沿岸測量、新道開発にあたった。
(現地説明板)
館内見学の様子(1)
館内見学の様子(2)
カラフト間宮海峡付近の地図
一回目は松田伝十郎と共にラッカまで進み引き返したため、海峡の有無を極めることができず、
願い出て再び北進し、ついにナニオーに達し、丘上から大海の開けていることを直接確かめ、
海峡の存在を証明した。
(現地説明板)
蝦夷布
林蔵が酷寒の地で毛布として使用していたもの。
布地はアツニという木の皮を剥ぎ、10日程水に浸して織ったアッシ織りで
林蔵が現地で調達したもの。
アイヌ人はこれを服として着用していたという。
(現地説明板)
探検用頭巾(左)
林蔵が北方の酷寒地で探検をするときに使用していたといわれている。
厚木綿を2枚合わせにして(裏は浅黄)作られている。
韃靼硯(右)
林蔵が東韃靼(現在のシベリア、東タタール地方)を調査したとき、最終目的地の
デレンの東方シャイ岬より岩石を探集して持ち帰り、後に硯に加工したもの。
材質はひん岩。
(現地説明板)
測量用鎖
林蔵が水深を測るときに使用したものといわれるのが手前の鎖。
鉄製で使用していたときは、約60Cmごとに目印が付けられていた。
奥にある木製の浮木の付いたものは、近年に子孫が作ったレプリカである。
(現地説明板)
間宮林蔵生家
木造藁葺平屋建て 76.34平方メートル(23.09坪)
この家は、文化6年(1809)、間宮海峡の発見という大偉業を成し遂げた探検家・地理学者
「間宮林蔵」の生家である。
林蔵は安永9年(1780)この家で生まれ、15・6歳ごろまでここで暮らしたといわれる。
幼いころから神童ぶりを発揮した林蔵は、この家で両親の愛情に包まれ、立身出世を願っていた。
この生家は、昭和46年に移築・復元されたもので、それまで現在地の南西50mの位置にあった。
創建の年は明らかではないが、細部の建築手法から見て、安永年間よりも大して遡り得ないと
考えられている。
(つくばみらい市教育委員会)
間宮林蔵生家
居間
土間と台所
記念館内で弁当をと思っていたが、記念館内での飲食はNGとのことなので、
弁当を食べれる場所を求めて記念館を後にした。
12時21分、水神宮を通過
小貝川の堤防を進む。
12時35分、堤防から河川敷へ下りた所で弁当タイム(1)に。
弁当タイム(2)
『やっぱり外で食べる弁当は美味しいよねっ』
『雨に降られなくて良かったね~っ』
弁当が終わり、13時1分、岡堰を目指す。
岡堰へ。
岡堰が見えて来た。
岡堰は、2年前の2016年12月2日(金)に逆方向に歩いているが、記憶に新しい。
岡堰を渡る。
『近くで見ると随分と大きいのね~っ』
岡堰は、関東3大堰(福岡堰・豊田堰)の一つである。
相馬2万石を潤す水がめとして1630年伊奈半十郎忠治によって設けられ、現在は三代目。
現在の堰は「(新)岡堰」で、平成8年(1996)に作られたもの。
岡堰を渡り、ゴールの高井城址公園へ。
岡堰中の島へ渡る橋を通過
『これを渡るとまた戻って来なくちゃいけないみたいだねっ』
ということで、橋は渡らなかった。
13時31分、岡堰公園に到着
茨城百景 岡堰の碑
『岡堰が茨城百景になってるんだぁ』
『これが茨城百景 岡堰なんだねっ』
(注:茨城百景は「(旧)岡堰」を対象にしている。
旧タイプはすでに破棄されているため、今はその面影はない)
13時36分、岡堰水神岬公園に到着
水神宮
岡堰用水組合では水神宮と共に、上州榛名神社(山岳信仰の神)も祀っている。
『疲れちゃった』
ゴールの高井城址公園を目指す。
筑波山
『あの形の筑波山が私は一番好きだわぁ』
(自分もそう思う)
ゴールの高井城址公園を目指す。
13位49分、高井城址公園まで0.5Kmの標識を通過
『あと500mだって 頑張ろうっ!!』
堤防を下りて、
高井城址公園へ
元気に到着だ。
駐車場へ向かう。
13時59分、全員元気にゴールの高井城址公園駐車場に到着した。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
高井城址公園から農業ふれあい公園を経由して、間宮林蔵の墓にお参りをし、
間宮林蔵記念館を見学した。
岡堰と間宮林蔵記念館は、2年前の2016年12月2日(金)に一度訪れているが、お墓参りは初めてだ。
朝方まで小雨が降っていたので心配されたが、歩き始める時には雨は完全に上がったのは
幸いだった。
やはりウォーキングの弁当は空の下で食べるのが一番美味い。
今後の例会も雨に降られないことを願うばかりである。
この日の万歩計は、15,000歩を少し超えていた。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。
毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第19回(2018年第29回)、「高井城址公園から間宮林蔵記念館・岡堰」を巡るウォーキングに参加した。
この日は、高井城址公園から小貝川の堤防を歩いて農業ふれあい公園へ立ち寄り、
稲豊橋を渡って専称寺の間宮林蔵の墓にお参りをして、間宮林蔵記念館へ向かう。
間宮林蔵記念館を見学した後は、岡堰を渡って、高井城址公園へ戻るという
約9Kmのコースである。
この日のスタート地点高井城址公園に集まったのは15名。
やや人数が少ないのは、朝方まで小降りの雨だったのが影響したのかもしれない。
しかし、スタートする頃には雨は完全に上がっていた。
『傘もレインコートも必要なさそうだねっ』
準備体操は省略して、10時7分、TKさんを先頭に出発!
当会最年長のHA子(88)さん、この日も元気だ。
会員の多くは、出来ればHA子さんのように米寿まで元気に歩きたいと目標としている。
後に続く皆さん。
小貝川の堤防へ向かう。
堤防へ上がってみると・・・
『あら~っ 広くて気持ちが良いわね~っ』
目の前にゆったりと流れる小貝川の景色が広がる。
先ずは農業ふれあい公園を目指す。
『雨が止んで良かったよねっ』
10時19分、農業ふれあい公園まで2Kmの標識を通過。
『土手の上がヘルスロードになってるんだぁ』
農業ふれあい公園を目指す。
『暑くないから歩き易いわよねっ』
しばらく小貝川の堤防を歩く。
10時23分、下高井排水桶管を通過
前方に橋桁が青色に塗られた稲豊橋が見えた。
農業ふれあい公園を目指す。
『稲豊橋までまだかなりあるわね~っ』
下塚排水桶管を通過
10時34分、農業ふれあい公園まで1Kmの標識を通過
稲豊橋の手前でヘルスロードは右に大きくカーブしている。
久しぶりの再会を果たし、話が盛り上がっている。
10時45分、稲豊橋下を通過し、
農業ふれあい公園へ。
農業ふれあい公園の駐車場を通過すると、
農業ふれあい公園の池があった。
木製の桟橋もあり、池の周りを散策することもできる、そうだ。
管理棟
管理棟には多目的室と調理室があり、多目的室は会議や勉強会などに利用できる。
調理室には調理器具も取り揃えてある、とのこと。
10時50分、農業ふれあい公園の東屋に到着
東屋は休憩所として使用できる。
農業ふれあい公園の市民農園
市民農園は、1区画あたり20㎡で、全76区画、とのこと。
農業ふれあい公園の総面積は4,852㎡(約1,470坪)あるそうだ。
東屋のテーブルの上に(夏・冬)野菜の作付表が貼り付けてあった。
作物毎の種蒔・植付時期、連作の良否、収穫の時期、作付ポイントなどが記されていた。
これを参考に作付けを行う人も多いのだろう。
東屋でしばし休憩
休憩の合間にも、この後のコースの確認に余念がないTKさん。
11時6分、間宮林蔵記念館を目指して農業ふれあい公園を出発。
小貝川を渡る。
歩道が広いので歩き易い。
話は延々と続いている。
小貝川
小貝川を渡り終えて右に曲がり、堤防上を進む。
200mほど先で土手を下る。
前方左手にお寺が見えて来た。
間宮林蔵の墓があるという専称寺か?
専称寺?に到着
門の前に六地蔵が並ぶ。
『浄円寺って書いてあるよっ』
なんと! この寺は専称寺ではなかったのだ。
早々に浄円寺を後にして専称寺へ向かう。
11時34分、正真正銘の専称寺に到着
専称寺本堂にお参りを済ませる。
境内の慈母観音像
銀杏の大木も
『相当な樹齢なんだろうねっ』
間宮林蔵ここに眠る
19世紀初頭の北方探検家・地理学者の間宮林蔵は、安永9年(1780)常陸国筑波郡
上平柳村に生まれ、天保15年(1844)波乱に満ちた65歳の生涯を終え、
ここに眠っています。
林蔵は、当専称寺の住職伯栄和尚に学び、その才能を発揮、小貝川の堰き止め工事で
認められたといわれ、江戸に出てゆきました。
ここは幼いころの林蔵の勉学の場であり、遊びの場でもありました。
昭和30年(1955)墓は茨城県の史跡に指定されました。
郷土の偉人「間宮林蔵」顕彰のため、子孫伊奈間宮家・専称寺の協力を得て、
この墓所を保存、公開しています。
(現地説明板)
間宮林蔵の墓石の前には明治43年(1910)に建立された「間宮先生埋骨之処」の顕彰碑が建つ。
顕彰碑の後ろに間宮林蔵の墓があった。
左が間宮林蔵の墓で、右は両親の墓である。
この墓は文化四年(1807)決死の覚悟で樺太探検に出発するにあたり、
林蔵自ら建立した生前の墓で、正面には「間宮林蔵墓」と刻んであるが、
法名も没年もない。。
偉大な事業を成し遂げる前の身分の低い武士に合った百姓並みの墓である。
間宮林蔵記念館へ。
『きれいなコスモスだねっ』
11時46分、間宮林蔵記念館に到着
入館料は、一人100円だが、15名以上の団体割引で50円となる。
また、75歳以上は無料となっている。
結局、7名が75歳以上ということで無料、8名が50円を払って館内へ。
ちょうど15名だったので50円で済んだ。15名が幸いした。
記念館前に建つ間宮林蔵の銅像
先ずは映像(約9分)で間宮林蔵のことを予習して、
展示場へ。
館内は、間宮林蔵に関係するもの及び彼の生きた時代背景などで構成され、
時代に沿った紹介がされている。
間宮林蔵の肖像
この肖像は、林蔵がカラフトを探検した三十歳頃の英姿を再現したもの。
身長は約157Cm、手には海上測量用の鎖、左脇には桐の浮木が配されている。
服装は袴と脚絆が一つになった裁着袴を着用し、定紋付の羽織は鉄色だったとも
伝えられている。
この肖像画は明治43年(1910)、志賀重昂の提案で、松岡映丘が子孫をモデルに描いた
苦心の作である。
実物は昭和20年(1945)の東京空襲の際に紛失(焼失)したが、幸い肖像写真の
乾板が残されていた。
(現地説明板)
出自と生立ち
林蔵は安永9年(1780)、月日不詳
常陸国筑波郡上平柳村(現つくばみらい市上平柳)に生まれる。
父庄兵衛は、親代々からの百姓だったが、生計を助けるために箍作りの職も兼ねていた。
母クマは、小貝川を隔てた隣村、下総国相馬郡高井村(現取手市高井)の森田家から
嫁いでいる。
林蔵は、両親が日頃から信心する河内郡樋ノ沢村(現つくば市樋ノ沢)の月読神社へ
願をかけてやっと授かった一人っ子だった。
(現地説明板)
間宮林蔵のはたらき
林蔵は寛永11年(1799)4月、蝦夷地総奉行松平忠明に随行した村上島之允の従者として
初めて蝦夷地に渡った。
翌年普請役雇となり、蝦夷地、クナシリ、エトロフ島の植林、沿岸測量、新道開発にあたった。
(現地説明板)
館内見学の様子(1)
館内見学の様子(2)
カラフト間宮海峡付近の地図
一回目は松田伝十郎と共にラッカまで進み引き返したため、海峡の有無を極めることができず、
願い出て再び北進し、ついにナニオーに達し、丘上から大海の開けていることを直接確かめ、
海峡の存在を証明した。
(現地説明板)
蝦夷布
林蔵が酷寒の地で毛布として使用していたもの。
布地はアツニという木の皮を剥ぎ、10日程水に浸して織ったアッシ織りで
林蔵が現地で調達したもの。
アイヌ人はこれを服として着用していたという。
(現地説明板)
探検用頭巾(左)
林蔵が北方の酷寒地で探検をするときに使用していたといわれている。
厚木綿を2枚合わせにして(裏は浅黄)作られている。
韃靼硯(右)
林蔵が東韃靼(現在のシベリア、東タタール地方)を調査したとき、最終目的地の
デレンの東方シャイ岬より岩石を探集して持ち帰り、後に硯に加工したもの。
材質はひん岩。
(現地説明板)
測量用鎖
林蔵が水深を測るときに使用したものといわれるのが手前の鎖。
鉄製で使用していたときは、約60Cmごとに目印が付けられていた。
奥にある木製の浮木の付いたものは、近年に子孫が作ったレプリカである。
(現地説明板)
間宮林蔵生家
木造藁葺平屋建て 76.34平方メートル(23.09坪)
この家は、文化6年(1809)、間宮海峡の発見という大偉業を成し遂げた探検家・地理学者
「間宮林蔵」の生家である。
林蔵は安永9年(1780)この家で生まれ、15・6歳ごろまでここで暮らしたといわれる。
幼いころから神童ぶりを発揮した林蔵は、この家で両親の愛情に包まれ、立身出世を願っていた。
この生家は、昭和46年に移築・復元されたもので、それまで現在地の南西50mの位置にあった。
創建の年は明らかではないが、細部の建築手法から見て、安永年間よりも大して遡り得ないと
考えられている。
(つくばみらい市教育委員会)
間宮林蔵生家
居間
土間と台所
記念館内で弁当をと思っていたが、記念館内での飲食はNGとのことなので、
弁当を食べれる場所を求めて記念館を後にした。
12時21分、水神宮を通過
小貝川の堤防を進む。
12時35分、堤防から河川敷へ下りた所で弁当タイム(1)に。
弁当タイム(2)
『やっぱり外で食べる弁当は美味しいよねっ』
『雨に降られなくて良かったね~っ』
弁当が終わり、13時1分、岡堰を目指す。
岡堰へ。
岡堰が見えて来た。
岡堰は、2年前の2016年12月2日(金)に逆方向に歩いているが、記憶に新しい。
岡堰を渡る。
『近くで見ると随分と大きいのね~っ』
岡堰は、関東3大堰(福岡堰・豊田堰)の一つである。
相馬2万石を潤す水がめとして1630年伊奈半十郎忠治によって設けられ、現在は三代目。
現在の堰は「(新)岡堰」で、平成8年(1996)に作られたもの。
岡堰を渡り、ゴールの高井城址公園へ。
岡堰中の島へ渡る橋を通過
『これを渡るとまた戻って来なくちゃいけないみたいだねっ』
ということで、橋は渡らなかった。
13時31分、岡堰公園に到着
茨城百景 岡堰の碑
『岡堰が茨城百景になってるんだぁ』
『これが茨城百景 岡堰なんだねっ』
(注:茨城百景は「(旧)岡堰」を対象にしている。
旧タイプはすでに破棄されているため、今はその面影はない)
13時36分、岡堰水神岬公園に到着
水神宮
岡堰用水組合では水神宮と共に、上州榛名神社(山岳信仰の神)も祀っている。
『疲れちゃった』
ゴールの高井城址公園を目指す。
筑波山
『あの形の筑波山が私は一番好きだわぁ』
(自分もそう思う)
ゴールの高井城址公園を目指す。
13位49分、高井城址公園まで0.5Kmの標識を通過
『あと500mだって 頑張ろうっ!!』
堤防を下りて、
高井城址公園へ
元気に到着だ。
駐車場へ向かう。
13時59分、全員元気にゴールの高井城址公園駐車場に到着した。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
高井城址公園から農業ふれあい公園を経由して、間宮林蔵の墓にお参りをし、
間宮林蔵記念館を見学した。
岡堰と間宮林蔵記念館は、2年前の2016年12月2日(金)に一度訪れているが、お墓参りは初めてだ。
朝方まで小雨が降っていたので心配されたが、歩き始める時には雨は完全に上がったのは
幸いだった。
やはりウォーキングの弁当は空の下で食べるのが一番美味い。
今後の例会も雨に降られないことを願うばかりである。
この日の万歩計は、15,000歩を少し超えていた。
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