ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

アップダウンの連続に 愛宕神社から団子山へ

2019年05月31日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2019年5月31日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成元年度第9回(2019年第21回)、「愛宕神社から団子山」ハイキングに参加した。

この日のコースは、2015年3月20日(金)以来4年ぶりとなる。
前回は難台山までの往復だったが、今回は少し距離が短い団子山での折返しである。

10時ちょうど、スタート&ゴールである愛宕山駐車場(標高225m)に到着
愛宕神社は日本三大火防神社の一つとされ、火伏の神様であり、
ご祭神は火之迦具土命(ひのかぐつちのみこと)である。


この日集まったのは、乙戸沼公園からの5名とピアタウンから4名、


それに直行者8名の合計17名である。


愛宕山駐車場から岩間方面を望む。
鹿島港方面は霞んでいてよく見えない。


パノラマ写真


めいめいストレッチ運動などを行い、10時16分、TKさんを先頭に出発!


先ずは乗越峠を目指す。
『曇ってるのでそれほど暑くならないわよねっ』
この日の笠間市の予想最高気温は27度、とのこと。


駐車場に掲示してある愛宕・吾国ハイキングコース地図で確認し、


あたご天狗の森・スカイロッジ方面へ。


途中左に折れて乗越(のりこし)峠へ。


右手丘の上にスカイロッジのログハウスが見える。
案内によると、スカイロッジは、12人棟x2棟・6人棟x4棟・4人棟x4棟と合計10棟あり、
1階は、ダイニングキッチン・バス・トイレ・テレビ・エアコンが完備され、
2階がベッドルームになっている、とのこと。
バーベキューが人気がある、そうだ。


『一度利用してみるのも良いかもよっ』と笠間から参加のDD子さん。


杉林を見ながら進むと、


乗越峠に到着した。


右:駒場・滝入不動尊 2Km
左:ハイキングコース入口100m とある。


100mほど行くとハイキングコース入口があった。
『南山展望台まで1,270m 25分か』


見晴しの丘への分岐点を左へ


10時33分、見晴しの丘に到着
これまで何度かこのコースを歩いているが、見晴しの丘は初めてだ。


見晴し台に立って麓の景色を見てみよう。


木の枝が邪魔をしてやや見え難い。
眼下に見えているのはどの辺りだろうか?


『ヤマボウシがきれいねっ』


見晴しの丘を後にして、


難台山方面へ進むと、


難台山ハイキングコースに合流した。
今までは、左の方ばかり歩いていたので、今回見晴しの丘が初めてだった、ということだ。


難台山ハイキングコースは広くて歩き易い。


団子石峠を目指す。
『緑が美しいわねっ』


急坂が始まった。


急坂のハイキングコースを上る。


しばらく上ると、平坦な道になるが、


今度は下りになった。


それも束の間、再び上りになった。


『久し振りのハイキングだからきついよねっ』


すすきヶ原を通過すると、


また上りが始まった。
先ほどよりも急坂である。


急坂の上りの先に展望台が見える。
南山展望台である。


11時ちょうど、南山展望台(382m)に到着


『あそこが愛宕山なんだねっ』


正面に愛宕山(306m)がはっきりと見える。


左側には館岸山(256m)も見える。


パノラマ写真


南山展望台でしばし休憩


備え付けの地図でこの後のルートと距離を確認
『団子石峠まで半分くらい来た感じかなっ』
ハイキングコース標識には団子石峠まで1,200m 30分とあった。


11時11分、南山展望台を後にして団子石峠を目指す。
『団子石峠まであと上りはいくつあるのかねぇ』


難台山方面へ。


また小さい上りがあり、


直ぐに下る。
アップダウンの連続は、体力の消耗に繋がる。


さらに下ると、


今度は、急な上りが待っていた。


急坂の径を上る。
『ここをまた引き返すのはきついよねっ』
戻りのコースを考えておかないといけない。


ロープを掴みながら上る。
『この坂はちょっときついんじゃないっ』
『雨が降ったらとても登れないわよねっ』


急坂を何とか上りきった所で一休みだ。
『けっこう厳しいコースだったよねっ』


一休みした後、直ぐに下りが始まった。


所々に岩が露出した坂道を下る。


急坂を下り、


やや平になった径を進むと、


これまでで一番の急な下りが待っていた。
左側に張られているロープを掴みながら下る。
『滑ると危ないから気をつけてっ』


11時37分、急坂を下って行くと、団子石峠の林道(298m)に出た。
愛宕山駐車場を出発して1時間20分が経過していた。
南山展望台から30分のところを26分かかったことになる。


団子石峠の中央付近に「団子石線峰越連絡林道 開設記念碑」が建てられていた。


団子石はさらに160mほど先とある。
団子石を目指して難台山ハイキングコースへ。


比較的緩やかな坂道を上って行くと、


11時43分、団子石に到着した。


『石と言うより岩だよねっ』


この日は、難台山の少し手前の団子山まで行き、そこで折り返すことにしている。
『ここまで来たら団子山まで行きましょう!』
『あと少しっ!!』 の声に押されるように、団子山を目指した。


急坂が続く。
次第に自身も含めてペースが落ちてきた。


まだまだ急坂が続く。
『こんなに急坂だったかな~っ』


さらに急坂が続く。
団子石からこんなに距離があったとは、正直記憶に残っていなかった。
後ろには女性が数人ほどしか続いていない。
残りの人は我々が引き返して来るのを待つつもりなのだろうか。


少々不安になっているそのとき、
『私が見てくるわっ』 とIW子さんが猛スピードで先頭へ。
みるみる遠ざかり、直ぐに姿が見えなくなった。


続いて元気のある女性陣がIW子さんの後を追って団子山を目指した。
やはり女性は元気だ! と強く感じさせられた。


先を行っていた女性陣が立ち止まり、
『ここに三角点があるよ~っ』
『ここが団子山みたいよ~っ』 と大声で知らせてくれた。
どうやら団子山に到着したようだ。
IW子さんはそれより一足早く、後から続くメンバーの所まで引き返して行っていた。


12時ちょうど、団子山(432m)と思しき四等三角点のある場所に到着した。
しかし、以前あった”団子山”の標識は見当たらなかった。


『ここが”団子山”なんじゃないのっ? 三角点もあるし』


2015年3月20日に愛宕山から難台山に挑んだ時に撮った写真には、はっきりと”団子山”
と書かれていたので、ここで間違いない。
(2015年3月20日撮影)


後ろのメンバーがなかなか上って来ない。
『きっとみんな下で待ってるんじゃないっ?』 
ということで、三角点を前に元気な女性だけの記念写真を撮り、
『団子石まで引き返しましょう』と、


下り始めたそのとき、


残りのメンバーが上って来るのが見えた。
『全員揃ってるわよ~っ』
一足先に団子山を確認したIW子さんが、説得したのだと判った。


再び団子山に戻って、後から上ってきたメンバーを迎えた。
『よく最後まで上ってきたよねぇ』 『お疲れさま~っ』


『お疲れさま~っ』


最後のメンバーが無事団子山に到着した。
『いやぁ きつかったね~っ』
実際団子石で待ってようと思ってた人もいたようだ。


『とにかく全員揃って 良かった! 良かった!』


早速、団子山(432m)の三角点を囲むようにして弁当タイムである。


弁当タイム(2)


弁当タイム(3)


弁当タイムが終れば、後は引き返すのみだ。


12時38分、下り開始!


急坂の径を下る。
『下りは危ないから気をつけなくちゃねっ』


『こんな坂よく上って来れたもんだよねっ』


ロープに掴まりながら下る。


12時48分、団子石を通過し、


12時51分、団子石峠の林道に到着


先頭Gは来た道ではなく、やや距離が長い林道を選択した。
アップダウンの登山道をまた引き返すという案は敬遠されたのだ。


舗装された林道を下る。


『下りは楽だけど 舗装された道は足に堪えるねっ』


きれいに間伐された杉の林を見ながら


林道を下る。


杉の林を抜けると、


13時26分、麓の駒場の集落に出た。


駒場の集落には梅林が広がり、梅の実がたわわに実っていた。


『いやぁ 梅の実が見事だね~っ』
『だけどこんなにいっぱい成らして良いのかねぇ?』
梅の実はしばらくすると、次々に落果して適度な数になる、そうだ。


駒場集落を目指す。


駒場から愛宕山まで3Km、70分の標識が。


滝入不動尊を目指す。


大きな農家の前を通過し、


滝入不動尊へ。


13時40分、滝入不動尊に到着した。
団子石峠から50分ほどかかったことになる。


愛宕山は、古代から両部神道の霊山として識られている。
されば山中には数多くの歴史が秘められている。
特に真言・天台密教系修験行者請来の不動尊が各所に歓請され、此の滝入不動尊も
その一つである。(中略)
滝入は愛宕の渓水をあつめ、崖は急に二条の滝が懸り 樹は密に境は幽邃、
修験行者の磐座を持つ浄地である。
爾来四季を通じ、不動尊に霊験を念じ、滝に打たれ病魔退散、家内安全等
諸処の祈願各般に亘り、遠近の庶民信仰によって栄えたのである。
現在も進行は絶えない。
(以下略)


不動の滝
滝の音が周囲の静けさに響き渡る。


樋から流れ落ちる水の量はまあまあといったところか。


不動の滝の前で一休みして、


13時51分、愛宕山駐車場目指し、出発!


滝入不動から林道に出て、


乗越峠へ続く舗装された林道を進む。


林道を進む。
『こっちの道を選んで良かったんじゃないっ』


14時18分、林道の真ん中で最後の休憩を摂り、


林道を進み、


野鳥の森を過ぎると、


14時28分、見覚えのある乗越峠分岐点の東屋が見えた。
『最後の休憩から意外に早く着いちゃったわねっ』
最後の休憩場所から10分ほど、滝入不動からは37分だった。


東屋であらためて休憩は摂らずにそのままゴールの駐車場を目指した。


カスミ共感創造の森 記念植樹と書かれた杭が立っていた。
アオダモ、ヨシノザクラ、エドヒガンザクラなどいろんな木が植樹されている。


カスミ共感創造の森の看板
森林の再生事業を通じて環境保全の大切さを地域の皆様と共感します、とのこと。


スカイロッジ入口前を通過すると、


間もなくゴールだ。


木々の隙間に駐車場が見えてきた。


14時36分、ゴールの愛宕山駐車場に到着した。


次週の例会について補足説明をして、この日はここで解散とした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『帰りは気をつけて運転してね~っ』
『また来週会いましょうっ!』


2015年3月20日以来4年ぶりとなる愛宕山から団子山ハイキングを無事終了した。
愛宕山駐車場から団子山までは、アップダウンの連続で、正直言ってかなり疲れた。
特に団子石から団子山へ至る径がきつく距離もあったので足に堪えた。
会員の皆さんも同じ感想の人が多かった。
今後同じコースを企画したら皆さん参加してくれるだろうか?

この日の万歩計は、18,000歩を計測していた。

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杉並木を満喫 日光街道杉並木を歩く

2019年05月24日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2019年5月24日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成元年度第8回(2019年第20回)、「日光街道杉並木」ウォーキングに参加した。

日光杉並木を歩くのは、”旧日光街道歩き”2013年9月18日(水)以来約6年ぶり2度目。

6時40分、土浦第三中学校地区公民館に行くと、バスはすでに到着し、待機していた。
バス車庫を出発して一度も信号停止しなくて来れた、とのこと。


三中地区公民館7時0分、天川団地入口7時10分、土浦市民会館7時20分と予定時刻ぴったりと回り、
この日の参加者24名を乗せて、日光杉並木ウォーキングの出発地となる道の駅「日光」へ。


土浦市内を走り、まずは常磐道へ。


7時39分、常磐道土浦北ICを通過し、


常磐道を走る。


この日の朝食はいつものおにぎり弁当だ。


8時ちょうど、友部SAで最初の休憩を摂り、


北関東道、


東北道、


日光有料道路を走る。


時折、日光男体山が見える。
今日も天気は良さそうだ。
この日の日光市の予想最高気温は28℃とのこと。


今市ICで日光有料道路を降り、


9時43分、道の駅「日光」に到着した。
三中公民館を出発して2時間40分余りかかったことになる。
(右奥に見えるのは、船村徹記念館)


各自に昼食の弁当が配られた。
この日の弁当は何だろう? 旅先の昼食弁当はバスハイクの楽しみの一つである。


道の駅にあった周辺地図で最初に訪れる報徳二宮神社の場所、ルートを確認し、


準備も整ったところで、


10時1分、いつものようにTKさんを先頭に出発!


道の駅「日光」を後にして、先ずは報徳二宮神社へ向かう。


道の駅「日光」前の国道119号を東武日光線下今市駅方面へ少し行くと、
栃木県史跡 二宮尊徳翁の墓と書かれた標柱があった。
報徳二宮神社の参道入口になっている。


参道を進むと、


10時4分、報徳二宮神社に到着した。
『あらっ もう着いちゃったのっ?』
道の駅「日光」から僅か3分という近さである。


鳥居の前には二宮尊徳翁の木彫りの像が建てられていた。


また、社殿の近くにはお馴染みの二宮金次郎像と、


二宮尊徳翁の遺訓が。


報徳二宮神社に参拝
二宮神社は、報徳仕法によって多大の恩恵に浴し、尊徳翁の遺徳を敬う人々が、
終焉の地である今市の霊地に創建したものである。
報徳二宮神社の本社は、生誕地である小田原の小田原城二の丸小峰曲輪の一角に
創建されている。


本殿裏に廻ると二宮尊徳翁のお墓がある。
栃木県指定史跡 二宮尊徳の墓碑


二宮尊徳翁のお墓
二宮尊徳翁は幕府の命令を受け、今市を中心とする日光神領で荒廃した農村復興のために
報徳仕法を始めた。
安政三年(1856)11月17日、居住していた今市報徳役所内で70歳の生涯を閉じた。
戒名は”誠明院功誉報徳中正居士”と刻まれている。
(報徳仕法:江戸後期、二宮尊徳によって説かれた、節約・貯蓄を中心とする農民の生活指導などを通じて
農業経営のたてなおしと農村復興をはかる方法)


報徳二宮神社を後にして、如来寺へ。


10時18分、如来寺に到着
如来寺は、室町時代中期の創建。
寛永九年(1632)、三代将軍家光が東照宮造営のために御殿を建設しここに逗留した。
二宮尊徳翁が亡くなった安政三年(1856)に、葬儀が行われた寺でもある。


鐘楼堂
鐘楼堂は寛永十八年(1641)に建立された。


地蔵堂
堂には木造の地蔵菩薩立像(日光市指定文化財)が安置されている。


観音堂
聖観世音菩薩像が安置されている。
下野33観音霊場の第4番札所として参詣者が繁く訪れる、とのこと。


如来寺の山門を出て、


次の目的地「そば喰稲荷」を目指す。


10時32分、「そば喰稲荷」に到着


そば喰稲荷(澤蔵司稲荷神社)
この神社は、信仰に篤い二宮尊徳の子弥太郎が文久二年(1862)に寄進したが、戦乱にあい消滅した。
その後弥太郎の子金之亟・延之輔等によって復興した。
伝えによると、金之亟の妹に夜泣きする人がいて、そばを献上し、祈願したら直ちに治ったという。
以来「そば喰稲荷」と云われるようになった。
今市は、そばのまちとして全国的にその名を聞くところとなったが、そのルーツはここにある。
そばが約150年以前から、この地に存在し神に捧げるものとして尊ばれ、現在まで永い伝統に培われ、
守り、愛されて、引き継がれている。


『へ~っ そうなんだぁ』


そば喰稲荷の隣に浄泉寺の薬師堂がある。
浄土宗に属し、上町の薬師さまで知られる。
元亀三年(1572)の草創と伝え、はじめ日光上和泉村にあり、上泉寺と称したが、
慶長年中(1596一1615)慶誉厳長和尚が今市宿(現在春日町)に移し、
如来寺の末寺として瑠璃光山清光院浄泉寺に改められたと云われる。
本堂は焼失して無く、薬師堂が建っているのみである。


裏道を進むと、東武日光線上今市駅があった。


杉並木公園へ。
2基の大きな水車が回っていた。


杉並木は公園の隣にあった。
10時42分、杉並木ウォーキング開始である。
杉並木の左側は国道119号が走っており、車が走る音が聞こえる。


『いよいよ杉並木が始まったんだねっ』


歩き出して直ぐ、右手に高龗神社(たかおじんじゃ)が。
祭神は大山祇命・少名彦命・草野姫命を祀る、とのこと。
「高靇」は水源を司る日本神話の神、高靇神に由来している。


『難しい字だねぇ』


杉並木を進む。


記念撮影を撮り、


日光杉並木街道を進む。
日光杉並木街道は、日光街道・ 例幣使街道・会津西街道の三つの街道からなる
総延長37㎞もある並木道である。
古いものでは樹齢380年を超える杉の巨木が約12,500本も連なる壮大な並木で、
我が国で唯一、特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けている。
ギネスブックにも世界最長の並木道として掲載されるなど、貴重な文化遺産となっている。


杉並木街道を進む。


いったん杉並木が途切れ、少し視界が開けた場所に出た。


右手の突当りまで行くと、杉並木公園のMAPがあった。
杉並木公園は、東武日光線の線路に沿って上今市駅方面に通じているようで、
公園内は弁当に適しているかも知れない。


日本風景街道(杉並木)を進むと、


再び杉並木が始まった。


巨木群が続く。


『さっきより木が大きい感じがするっ』


『隣の木とくっついてる木があるよっ』


『日光の杉並木は、前から一度歩きたかったんだよねっ』


杉並木は続く。


『砲弾打込杉って書いてあるねっ』


砲弾打込杉
戊申役のとき、日光会津への要衝今市宿をめぐる官幕両軍の激しい攻防戦が展開された。
官軍の放った砲弾が並木杉を貫いた痕をとどめるもの、だそうだが・・・


『どっちが砲弾跡なのかよく分からないねぇ』


『洞穴みたいっ』
根元に空洞ができており、大人数人程度は入れるかも。


『杉並木のおかげで思ったより暑くないよねっ』


11時29分、ここらで水分補給して行こう。
道の駅「日光」を出発して約1時間半、杉並木を歩き始めてからも45分が経過していた。


恒例のお茶タイムだ。
楽しみなひと時ではある。


リュックが椅子に早変わりし、ご満悦のKKさん。


さらに杉並木を進むと、


竜蔵寺跡の薬師堂が。
その昔、ここには青雲山竜蔵寺という寺があった。
現在は薬師堂のみが残っている。


薬師堂の前に大きな石の梵鐘が置かれていた。
青雲山竜蔵寺は資力の乏しい寺だったため、金属製の梵鐘を造ることが出来ず、
日光廟造営に携わった石工に頼んで造らせたものという説があるとのこと。
『石の梵鐘は初めて見たよ』
『どんな音がするんだろうねぇ』


国道119号との合流点は近い。


12時2分、国道119号(右側)との合流点に到着した。
杉並木はいったんここで途切れる。


この先の「並木太郎」を目指すには国道119号の狭い歩道を歩かなければならない。
最近は歩行者が気を付けていても車の方から突っ込んでくるというケースも多いと聞く。
24名もがぞろぞろと歩くのは危険が大き過ぎる。
せっかくの機会に「並木太郎」を観ずに帰るのは残念な気もするが、ここは引き返した方が
無難というものだろう。


既に時計は12時を過ぎており、お腹が空いてくる時間である。
合流点を後にして、弁当に相応しいと思われる杉並木公園を目指すことにした。


『杉並木はもう十分に堪能したわよねっ』
『並木太郎は個人で来れば良いんだよっ』
皆さん、すこぶる物分かりが良い。


杉並木公園を目指す。


この辺りは特別保護地域、巨木が立ち並ぶ。


杉並木のオーナーになった団体・個人の名前が付けられている。
オーナー代は1本1千万円である。
代金は、栃木県が日光杉並木街道保護基金で運用し、その運用益で並木杉の樹勢回復や
杉並木保護の普及啓発などの保護事業を実施するという制度になっている。
オーナーが買い戻しを希望する場合は、栃木県がいつでも1本1千万円で買い戻しする、そうである。


この木は宇都宮市がオーナーということだ。


杉並木公園へ。


砲弾打込杉を見上げるTKさん。
『砲弾跡はどっちなのかねぇ』
大分気になる様子である。


杉並木公園を目指す。


杉並木公園の北端まで戻ってきた。


杉並木公園の駐車場には大型バスが停まっていた。
「報徳庵」の蕎麦を食べるために来たのだろうか?


「報徳庵」の右手を通って裏の杉並木公園へと思ったが、通行禁止となっていた。


やむなく「報徳庵」の前を通り、裏の駐車場へ。
「報徳庵」は古民家で、二宮尊徳の報徳仕法により建てられた「住宅報徳仕法農家」が
復元されたもの、だそうだ。
ちょうどお昼時だったのでかなり混んでおり、縁側で何人もが蕎麦を食べていた。


「報徳庵」左手の細い階段を下って行くと、


駐車場の先に杉並木公園があり、”日本の水車”と書かれた碑があった。


右手に杉並木公園の巨大な水車がゆっくりと回っていた。
『いやぁ これはでかいねぇ』
直径は10mほどあるらしい。
旧今市市は杉線香の生産日本一を誇っているが、かつては杉線香生産の動力として
水車が利用されていた、そうだ。


さらに公園内を進むと、


複数の水車が展示されていたが、この水車は回ってはいなかった。


その先には水車小屋があり、


水車の一部が展示されていた。


水車の説明があった。
日本にある水車の形は90種ほどあります。
その中には木製の水車や鉄製の水車などがありますが、ほとんどの水車が木製です。
揚水や製粉が主な用途であり、今もなお今市市を始め日本の各地に残っています。
ここには大きいものは直径10mから小さなものでは直径が60Cmの様々な水車が並び、
用途も異なった水車を見ることが出来ます。


時計は13時ちょうどを指していた。
お腹も空いたので、この辺りで弁当にしよう。
弁当タイム(1)


弁当タイム(2)
ベンチもいくつかあった。


弁当タイム(3)


この日の弁当は、”おむすび弁当 なきむしやま”とある。


笹の葉に包まれたちまき風のおにぎりに、ゆば・鮭・キノコの煮つけ・卵焼きなどが付いていた。
お腹が空いていたので美味しかった。


目の前を走る東武日光線の電車を見ながらの弁当は、また格別である。


弁当が終わり、13時27分、ゴールの道の駅「日光」を目指す。


Movie CAMERAを片手に撮影に余念のないYMさん。
一度見せて欲しいものである。


階段を上って進むと、


そばの粉ひき水車小屋があった。


高龗神社を通過し、


杉並木を進む。
この時点でバスの運転手に道の駅に向かっていることを連絡した。


右手の国道119号沿いに瀧尾神社があった。


国道119号を進む。


ゴールの道の駅「日光」を目指す。


13時44分、日光街道今市宿の標柱を通過


道の駅「日光」へ向かっていると・・・


貸切バスが我々一行をゆっくりと追い越していった。
近くの駐車場で待機していたようだ。


13時49分、ゴールの道の駅「日光」に到着した。


いったんリュックなどの荷物をバスに下し、


土産物を買うため日光街道ニコニコ本陣へ。


『土産物は何にしようかな~っ』


地元産の日本酒や


地ビールなどもあったが、


日光たまり漬け(らっきょう・ごぼう・七種きざみあわせ)と、


佐野ラーメン「ようすけ」を買った。


土産物も買ったし、後は帰路に就くのみである。
日光道今市ICを通過したところで、後部座席に移動して宴会に参加した。


座席に戻ったのは、友部SAの少し手前だった。


15時57分、友部SAに到着。
ここで最後の休憩を摂り、


バスは順調に常磐道を走り、


16時34分、土浦市内に到着
(市民会館通り)


土浦市民会館前で8名と別れた。
『お疲れさまでした~っ』


土浦市内を走り、
(土浦四中辺り)


天川団地入口で3名が下車
『お疲れさま~っ』


さらに土浦市内を走り、
(ボウルつくば付近)


17時ちょうど、三中公民館に到着した。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


日光杉並木ウォーキングが無事終わった。
道の駅「日光」から杉並木公園に沿って国道119号との合流点までの往復を歩き、
日光杉並木を満喫できた。
『出来れば一度歩いてみたい』と思っていた人も多かったようで、企画としては
良かったと思っている。
せっかく日光杉並木まで来たので「並木太郎」を観ずには帰れないと思ったが、
国道119号の交通量など考慮して、引き返すことにしたのは、心残りではある。

この日の万歩計は、18,000歩を計測していた。

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旧東海道第Ⅲステージ第6回 庄野宿~関宿(2日目)

2019年05月20日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2019年(令和元年)5月20日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」第Ⅲステージ第6回(2日目)は、亀山宿(JR亀山駅)~
関宿(JR関駅)を歩くことにする。

朝、ホテルの窓から外を見ると、霧雨のような小雨が降っていた。
ここで引き返していては来た甲斐がない。
予報では午前中は降ったり止んだりなので、傘を差してでも行くしかない。


先ずはホテルの食堂へ。
バイキング形式で、和食・洋食の両方から選べる。


7時ちょっと過ぎだったが食堂は空いていた。
というより、宿泊客の多くは既に食事を終えていたようだ。


メニューは簡単なものだった。
パンにサラダに味噌汁、煮つけ。食後に果物・コーヒーといったところか。
ホテル宿泊の場合、自分が選ぶのは大体こんなメニューである。
朝食は宿泊代込みで5,200円だった。


7時45分、APA HOTELを出発!


先ずは北方面の「はま寿司」の方向へ。
昨夜夕食で訪れた店である。


県道565号商工会議所前交差点を横断し、緩い坂道を東町商店街へ。


7時57分、東町商店街に到着した。


東町商店街を市役所方面へ進むと、


ほどなく江ヶ室交番前に到着した。
昨日はここを真直ぐ亀山城址へ進んだ所である。


この日は交差点を左折して進むことにする。


遍照寺
微妙に曲がる道を進むと、左手に天台真盛宗の延寿山地蔵院遍照寺がある。
鐘楼門を潜ると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」と云われた、そうだ。


屋号札の掲示の説明板
亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道46番目の宿場町として栄えた町です。
そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し、路地もさびれて、以前の賑わいも見られなくなりました。
かかる現状を憂え、協議を重ねた結果、歴史的な町の佇まいを復活する最初のプロジェクトとして、
屋号の木札を作り、該当する家に掲てもらうことを始めました、とある。
(以下略)
平成十三年十月 きらめき亀山21 町並み保存分化会(宿場の賑わい復活一座に改名)


屋号のある家
東海道亀山宿 万町いせや跡


屋号のある家
東海道亀山宿 万町だいさく家跡


古い大きな屋号のある家
東海道亀山宿 万町あらものや跡 の前を通り、緩やかな坂道を下って行くと、


右側に池があった。


県道302号を渡ると坂道の上り口に東海道亀山宿の碑が建っている。


緩い坂道を上って道なりに右に曲がって行くと、
旧館家住宅の案内表示があった。


東海道亀山宿 おかだや本店前を通過すると、


旧舘屋住宅(枡屋)があった。
枡屋は、幕末から大正にかけて呉服商を営んでおり、現在の主屋は明治六年(1873)に
建てられたものである。
木造2階建てのこの建物は、亀山宿を代表する商家建築として、平成19年市指定文化財に
指定されており、一般公開されている、とのこと。


亀山城西之丸外堀跡
この西之丸外堀は、寛永十三年(1636)に亀山城主となった本多俊次により、
同十六年から3年かけて行われた亀山城修築の際に築かれたという。
江戸時代の絵図には石垣を示す記述はなく、すべて土造りの空堀か水堀であったと
推測されている。


旧東海道を進む。


旧東海道を進む。


京口門跡碑があった。


京口門跡の解説
亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門である。
「九々五集」によれば、亀山藩主板倉重常によって寛文十二年(1672)に完成したとされる。
翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城惣構の城門として位置づけられ、
両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。
往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、
亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門 と謡われるほどであった。


京口坂橋
京口門跡の先で竜川(たつかわ)に架かる京口坂橋を渡って進む。


こちらは竜川下流域


照光寺
京口坂橋を渡り詰めた右手に、日蓮宗の妙亀山照光寺がある。
照光寺は、もとは玉泉院と称する日蓮宗の寺院である。
亀山藩主板倉重冬公の養母照光院は篤く法華経に帰依し、元禄二年(1689)
野村京口門下に一宇を再興し、照光院の法号をとり寺号としたという。


旧街道を進む。


森家住宅
照光寺から程なく左手に森家住宅がある。
街道に面して間口が広く、入口から順次整った座敷を配置している。
また街道に面した外観は出格子戸を設けるなど町家的な表構えを見せている。
現在は、伊勢うどんなどの幟を立てて飲食店として使用されている。


浄土真宗本願寺派の究竟山光明寺
光明寺の創建年代等は不詳であるが、街道に面して鐘楼門が建っている。


野村の町並み
連子格子の旧家が建ち並び、往時の町屋の雰囲気を偲ばせている。


古い蔵のある家


信号十字路手前の右角に明治天皇御召替所跡がある。


壁面の解説には次のように記されている。
明治13年5月、明治天皇が東京から山梨県を行幸され、続いて三重県で伊勢の
内宮と外宮を参拝された。
東京へ帰る途中、高田山専修寺や、鈴鹿郡亀山を行幸された。
亀山では陸軍の大阪鎮台の様子を見分された。
その折、ここ内池家で御休みになり、御茶料として三円を下された。


信号十字路を渡った所に小さな四阿があったので、雨宿りも兼ねて一休み。


東屋の隅に周辺地図があったので、この先の訪問地などを確認
間もなく野村一里塚である。


慈恩寺
浄土宗の亀鶴山無量院慈恩寺がある。
慈恩寺は、聖武天皇の勅願により僧行基が開き、忍山神宮の神宮寺として
創建されたと伝えられている。
往時には七堂伽藍があったが、たび重なる兵火で焼失したという。


旧街道を進む。


8時53分、野村一里塚に到着
江戸日本橋から数えて105里目の一里塚である。
現在は三重県下で唯一原型をとどめる一里塚で、我国の交通史を考える上で
貴重な遺跡として、”国史跡”に指定されている。


この塚上には、目通り幹囲5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。


大庄屋屋敷跡の標柱
広い空き地の前に標柱が建っており、正面に「史跡 亀山藩大庄屋打田権四郎昌克宅跡」
と記されている。
打田家は江戸初期に近江国から野尻村に移住し、代々いくつもの庄屋をまとめる大庄屋を務めた。
打田権四郎昌克(1641~1758)は、元禄十五年(1702)亀山藩領86ヶ村を中心にした
記録集「九々五集」を編纂した。
現在地から東海道を挟んだ北側にその屋敷があった。


東海道を進むと三叉路があった。


”東海道関宿 右”の標識が。


標識に従って進む。


大きな家を過ぎると、


左手に布気皇舘太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)があった。
布気皇舘太神社は、延喜式巻九「伊勢國鈴鹿郡十九座並小布気神社」とあり、
神話時代垂仁天皇18年の創始にかかる式内社である。


参道を進む。
一の鳥居の先に並ぶ石燈籠


布気皇舘太神社拝殿
布気皇舘太神社は、時代によっていろいろな名で村人に親しまれたが、
明治41年近郷の小社・小詞を合祀し、現在の社名となった。


街道に戻って神辺簡易郵便局前を進むと、


左手に落針観音堂があった。
観音縁起によれば、通称「昼寝観音」と呼ばれ、東大寺再建の折りに造られ、
奈良より背負われて各地を巡り、此の地に伝わったという。
また、各地の観音様が集まって西日本で観音様を巡ってお参りする33カ所の寺を
決める会議が開かれた時、落針の観音様は昼寝をしていて会議に行かなかったので、
33ヶ所の寺に選ばれなかったという。


落針観音堂


地蔵堂


落針観音堂前の坂道を下る。


坂道を下っていくと、逆Y字路に出た。
Y字路中央に、安政六年(1859)の常夜燈が建っている。


旧街道を進むと、


旧東海道は左折するよう案内標識があった。


案内標識に従って跨線橋を渡って国道1号と関西本線を跨ぐ。


跨線橋の先に大岡寺畷(だいこうじなわて)の桜並木が現れた。
大岡寺畷は、鈴鹿川の北堤を約18丁(3.5km)に及ぶ東海道一の長縄手であった。
江戸時代は松並木であったが、明治になって枯松の跡へ桜を植えたが、
その桜もほとんど枯れてしまった。
芭蕉もこの長い畷を旅して
から風の 大岡寺縄手 吹き通し 連(つれ)もちからも みな坐頭なり」と詠んでいる。


大岡寺畷のいわれ
畷(縄手)とは、まっすぐな長い道のことです。  
大岡寺畷は、東海道が約2Kmにわたって鈴鹿川沿いに築かれた堤の上を通り、
東海道の畷道では随一とされています。
松尾芭蕉の七部集の一つである『ひさご』に、門弟の野径が
から風の 太岡寺縄手 吹き透し」と詠んでいます。
この太岡寺の場所については他に説がありますが、亀山においては古くから、この地である
との認識がありました。
かつては「わしの想いは太岡寺 他に木(気)が無い 松〈待つ〉ばかり」(『亀山地方郷土誌』)
と謡われたほどの松並木で、太田南畝(蜀山人)が享和元年(1801)に江戸から大阪まで
の旅を記した『改元紀行』にも、「松の並木両行に立てり、此の十八町にて太岡寺縄手といふ」とあります。
なお、太岡寺の地名は、かつてこの地にあった寺である「六門山四王院太岡寺に由来すると伝えられます。


名阪国道と東名阪自動車道の高架が横切っている。


高架下には、歌川広重の東海道五十三次画が描かれている。
桑名宿 (七里渡口)


四日市宿 (三重川)


石薬師宿 (石薬師寺)


庄野宿 (白雨)


亀山宿 (雪晴)


関宿 (本陣早立)


坂之下宿 (筆捨山頂)


旧街道は、鈴鹿川に沿って続いていた。


左側を流れているのが鈴鹿川だ。


さらに旧街道を進み、


関西本線の小野踏切がある。


線路を横断すると国道1号に合流した。
左に曲がり、小野川歩道橋を渡る。


国道1号に入って直ぐ右手に旧道があり、道端に関宿の大きな看板があった。


関の「小萬のもたれ松」
小野ポケットパークの斜め向かいに関の「小萬のもたれ松」がある。
江戸中期、久留米藩士牧等左衛門の妻は夫の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿に止宿、
一女小萬を生んだ後病没。
小萬は母の遺言により、成長して3年程亀山城下で武術を修行し、見事仇敵軍太夫を討つことができた。
この場所には、当時亀山通いの小萬が若者の戯れを避けるために、姿を隠してもたれた
と伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」と呼ばれるようになった。


関宿の東端の家並みが続く。


10時26分、東の追分に到着した。
東の追分は、伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、
古い鳥居を移築するのが習わしになっている。
関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、
これが地名の由来ともなっている。


東の追分を過ぎると関宿の町並みが始まった。
慶長六年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で
47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられた。
江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町家が200軒ほど、約2kmにわたって続いている。


関宿を進む。


関宿を進む。


まちかど博物館があった。
何か資料でもと思って入ってみたが、館内には誰もいなかったので直ぐに出た。


関宿を進む。


関宿を進む。


御馳走場跡
宿場の役人が、関宿に出入りした身分の高い武家や公家に対し、衣服を改め宿場両端の
御馳走場まで出迎え・見送りを行った場所
享保十九年(1734)に造られた。
関宿には4カ所の御馳走場があった。


御馳走場跡には関宿かるたが提げられていた。
うち揃い 殿様迎える 御馳走場


芸妓置屋 開雲楼
関を代表する芸妓置店であった。
凝った意匠の二階手摺りや格子窓などにその面影を残している。


その隣に鮮魚青果物商「遊快亭」が
地元のスーパーのようだが、かつては松鶴楼という芸妓置屋だった、とのこと。


百五銀行
百五銀行は、町並みに配慮した意匠の建物で、平成9年度の三重県さわやかまちづくり賞
(景観づくり部門)を受賞している。


食事処
喫茶もやっているようだ。


関宿を進む。


関宿中町の町並み
関宿中町の町並みが続き、かつてこの中町に本陣や脇本陣があった。


関まちなみ資料館
この資料館は、江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋建築のひとつであり、
亀山市関町の文化財・歴史資料を展示するほか、関宿の町並みの移り変わりを
写真展示している。


鶴屋脇本陣
脇本陣は、本陣に準じる宿として、主に身分の高い人達の宿泊の用を勤めたが、
平素は一般庶民も泊まれた。
鶴屋は西尾吉兵衛を名乗っていたので西尾脇本陣とも言った。
座敷の前に付いた千鳥破風がその格式を示している。


鶴屋脇本陣
関宿かるたが提げられていた。
泊るなら 鶴屋か玉屋 会津屋か


鶴屋脇本陣跡の隣に問屋場跡があり、山車庫が建っている。
「関の山」の言葉の語源にもなった関宿の山車は、最盛期には16基あった。
互いに華美を競い、狭い関宿を練ったことから生まれた言葉である。


現在は4基の山車が4箇所に残っている。


川北本陣跡
山車庫の隣に川北本陣跡がある。
江戸時代初期から関で本陣を務めていた川北家の跡で、現在は、川北本陣跡碑が建っているのみだが、
本陣門は延命寺に移築されている、とのこと。


百六里庭
川北本陣跡の斜向かいに百六里庭・眺関亭がある。
関宿が江戸から百六里余りあることから名付けられた。
ここは関宿の町並みの中にある小公園で、中には東屋が設けられ、
休憩場所としては絶好の場所である。
通りに面した「眺関亭」からは、関宿の家並みが一望できる。


関宿地図で現在地を確認


伊藤本陣跡
伊藤本陣は川北本陣と並んで関宿の中心的な役割を果たした。
現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に
道具置場に供する建物である。


伊藤本陣跡(逆方向から見たところ)


玉屋(旅籠玉や)
玉屋は「関で泊るなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」と謡われたほどの、
関宿を代表する大旅籠のひとつである。


旅人宿 石垣屋


「銘菓 関の戸」の深川屋(ふかわや)
徳川三代将軍・家光の時代(寛永年間)から続く創業370余年の餅菓子の老舗である。
屋根瓦のついた立派な看板だ。
看板の文字は京都側が漢字、江戸側がひらがなになっている。
旅人が向かう方向を間違えないための工夫だと云われている、とのこと。


関郵便局


高札場跡
関郵便局前に、復元された高札場跡がある。
関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した場所にあり、街道に面した間口11間余のほぼ中央に、
枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付替えなどは亀山藩が行っていた。
その内容は、生活に関わる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった
幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などであった。
関郵便局の敷地は、天正二十年(1592)徳川家康が休息したので、御茶屋御殿屋敷と呼ばれ、
陣屋・役人の詰所などに使用された。


関宿を進む。


江戸時代より街道の旅人に親しまれてきたと云われる、関宿名物・志ら玉
1個90円(税込)とのこと。


地蔵院
天平十三年(741)、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、
この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられる、日本最古の地蔵菩薩。


地蔵院の鐘楼
明治天皇行在所の碑も立っている。


地蔵院の向かいに会津屋がある。
会津屋は、関宿を代表する旅籠の一つであり、もとは山田屋と称し、小萬が育ったことで知られている。


関宿を進み、西の追分を目指す。
会津屋の先は新所と呼ばれる町並みで、江戸時代の特産物として火縄があり、
新所を中心に数十軒の火縄屋があったという。
火縄は鉄砲に用いたため大名の御用があったが、道中の旅人が煙草などに使うために
購入したため、大いに繁盛した、そうである。


西の追分を目指す。


古い家


西の追分を目指す。


観音院
新所の家並みを見ながら進むと、右手に天台真盛宗の関西山観音院がある。
観音院は、古くは福聚寺といい、嵯峨天皇の御代(820)に開創したと言われ、
土地の豪族関氏の祈願所として栄えた。
その後、江戸時代に入り寛文五年(1665)この地にお堂を建立し関西山観音院と称した。


坂道を下ると、西の追分である。


西の追分 休憩施設とあったが、扉は閉まっていた。
(開ければ開いたのかもしれない)


11時34分、西の追分に到着
西の追分は、大和街道との分岐点で、京都へは鈴鹿峠を越えて19里半(78㎞)、
大和街道は加太(かぶと)越えをして伊賀から奈良に至る。
この先で国道1号に合流する。


東海道五十三次 関宿 本陣早立ちの画


裏面には鈴鹿峠越えの馬子唄が書かれていた。
坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る
(以下略)


西の追分から引き返し、JR関駅へ向かう。
しばらく来た道(関宿)を引き返す。


会津屋、地蔵院辺り


「銘菓 関の戸」の深川屋辺り


関宿を引き返す。


百五銀行の手前の十字路を右折すると、関西本線のJR関駅方面だ。


しばらく進むと、関駅が見えて来た


12時9分、関駅に到着した。
11時59分発の亀山行きは10分前に出発した後だった。
次の亀山行きは1時間後の12時59分である。


駅の売店があった。
先ずはコーヒー(300円)を頼んだ。


巻き寿司(1本450円)は直ぐに取り寄せることが出来ると云うので頼んだ。
ものの数分で巻き寿司が届いた。
お茶は駅売店のおばさんがサービスに煎れてくれた。


12時59分発の列車に乗って1つ先の亀山駅へ。


亀山駅で13時24分発の名古屋行に乗り換え、名古屋駅からは15時26分発の
ひかり524号で東京・品川に向かって帰路に就いた。


第Ⅲステージ第6回目(庄野宿~関宿)の2日目(亀山宿から関宿)を歩き終わった。

この日の万歩計は、19,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第6回 庄野宿~関宿(1日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第6回 庄野宿~関宿(1日目)

2019年05月19日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2019年(令和元年)5月19日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第6回(1日目)は、庄野宿(JR加佐登駅)~亀山宿(JR亀山駅)である。

東京駅7時33分発の新大阪行きひかり503号は、定刻通り9時17分に名古屋駅に到着した。


出発地の加佐登駅に向かうため、先ず名古屋駅から関西線四日市行き快速に乗る。


四日市駅から後から来た各駅停車の亀山行きに乗り替え、


11時2分、この日のスタート地加佐登駅に到着した。
家を出てから5時間半が経過していた。


11時3分、加佐登駅を出発!


加佐登駅前を亀山方面へ進み、


踏切を渡って、


500mほど進むと、庄野町西交差点があり、11時11分、東海道庄野宿の入口に到着した。


東海道庄野宿の碑
庄野宿は東海道45番目の宿場である。


安藤広重が描く「東海道五十三次」の風景版画の傑作といわれる、
「庄野の白雨」が知られている。


旧街道を進む。


庄野宿資料館
庄野宿に残る膨大な宿場関係資料の活用と旧小林家(市指定文化財)の保存を進めるため、
主屋の一部を創建当時の姿に復元して、平成10年に開館した。
入館料は無料だが、内部の写真撮影は遠慮して欲しいとのこと。
内部は言うに及ばず、実物大の高札や減免陳情書控え、焼き米など一切撮らせてもらえなかった。


ただ、中庭の撮影だけはOKだった。
(中庭だけ撮ってもしようがないのだが・・・)


庄野宿資料館の直ぐ先の庄野町集会所に、庄野宿本陣跡の標柱が建てられていた。
”距津市元標九里拾九町”とあるのは、津までの距離(38㎞)と思われる。


庄野町集会所の左隣に高札場跡の立札が。
立札が建っている家が庄野宿脇本陣跡である。


高札場跡の説明板
庄野宿資料館には人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が展示してある、とある。
(庄野宿資料館が撮影禁止で紹介できないのが残念で仕方がない)


郷会所跡


郷会所は助郷の割当を受けている各村の代表者(庄屋または肝煎)が集会する場所であった。
江戸時代も後期になると助郷人馬の割当が多くなり、該当の村々の疲弊が重なり、
減免陳情のための会合が繰り返された。
庄野宿資料館には陳情書の控え等が保管されている、とある。


延喜式内川俣神社


川俣神社社殿


神社境内の奥に県指定天然記念物スダジイの巨木がある。


高さ11m、幹周り5m、樹齢300年と云われる古木である。


庄野宿の提灯を提げた連子格子の古い家が、街道の面影を偲ばせてくれる。


比較的新しい東海道庄野宿道標の右側を進む。
この辺りが庄野宿の西口(京口)になる。


11時44分、国道1号に合流した。


合流点の国道1号に面して上手い具合にコンビニがあったので、おにぎりと菓子パンを買い、


地下通路を潜って国道1号の反対側へ。


県道637号の高架橋下を潜り、


旧街道は左に折れている。
汲川原東バス停を通過すると、


平野道と書かれた道標があった。
いぼとり地蔵 この奥50mとある。


旧街道を進んで行くと、


右側に従是東神戸領と書かれた領界石が建っていた。


反対側にも従是東神戸領の碑と女人堤防の碑が。


従是東神戸領の領界石


女人堤防の碑


女人堤防碑の説明
この辺りは安楽川と鈴鹿川の落ち合う処で、度々水害があり、人々は悩まされていた為、
文政十二年(1829)頃、築堤を神戸藩に申し出たが許可が出なかった。
そのため、女であれば許可がなくても罪が軽くなるだろうと、女性たちが禁を犯し打ち首を覚悟で
6年の歳月をかけて堤防を築き、補強したところである。
いったん捕らえられたものの、その後許され労をねぎらわれた。
(赤色で示されているのが、女人堤防)


今も女人堤防の一部が道路の両側に残っている。


12時15日分、旧街道を進むと式内川俣神社があった。


川俣神社社殿


お昼も過ぎていたので、境内の大木の下でコンビニで買ったおにぎりを食べた。


川俣神社には中富田一里塚跡碑がある。
江戸日本橋から数えて103里目の一里塚跡である。


中富田一里塚の説明
中富田村は、亀山領の東端にあたり、隣の神部領との境界を接する村である。
享和三年(1803)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」には、中富田村川俣神社の
東隣に街道を挟んで「一里塚」が描かれている。
大きな木の繁みのある大規模な塚であり、榎木の大木があったといわれている。
平成十三年十月 中富田一里塚保存会


一里塚碑の隣に従是西亀山領の領界石が建てられていた。


旧街道を進む。


富光山常念寺
天台真盛宗総本山西教寺の末寺である。


常念寺は、承応年間(1652-54)智詮和尚の開基と云われ、かつては別の場所にあったが、
安政元年(1818)の大地震により倒壊し、同じ村内にあった平建寺を買収して現在地に移転した。
本尊阿弥陀如来を祀る常念寺本堂


境内には、平建寺の本尊だった延命地蔵尊を祀った地蔵堂などがある。
真言宗白波山平建寺本尊延命地蔵尊の標柱が建っている。


延命地蔵堂の直ぐ近くの小さな地蔵堂にお地蔵さまが祀られていた。


十字路右角に道標らしき碑が建っていた。


ひろせ道と刻まれている。


安楽川の堤防手前に西富田の川俣神社があった。


庄野宿・中富田に続き3社目の川俣神社で、ここも「式内川俣神社」の社標があり、
延喜年間(901-22)の時代に、すでに存在していた神社である。


安楽川に架かる和泉橋を渡る。


安楽川
江戸時代、平水時は土橋、出水時は徒歩渡しだった、そうである。


和泉橋を渡って左へ進む。


13時ちょうど、和泉町公民館前を通過


旧街道を進む。


街道左手に小さな地蔵堂らしきお堂があり、


中には観音菩薩と思われる端正な顔立ちの石仏が祀られていた。


連子格子の趣のある古い家を過ぎ、


小田坂の下バス停を通過すると、


13時9分、極楽山地福寺に到着した。


極楽山地福寺には、常夜燈や観音堂、明治天皇御小休所石碑がある。
その他にも地蔵像や、


百度石なども。


13時21分、関西線の踏切を渡る。


13時32分、左手に井田川駅舎を見ながら通過。


国道1号を川合歩道橋で横断すると、


旧街道は少し先を左に折れて、法悦題目塔の方向へ。


旧街道を進む。


川合椋川橋を渡る。
昔、椋川がしばしば氾濫し、多くの家屋が浸水したため、安永年間(1624-44)頃、
亀山藩士生田理左衛門が私財を投げうって水流を南に変え、橋を架け替えたので、
理左衛門橋と呼ばれた。


椋川


国道1号亀山BPを潜る。


ひょうたんがびっしり


法悦題目塔
東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」 「法界塔さん」と呼ばれている。
総高2.5mで、塔身の正面に「南無妙法蓮華経」、右側に「後五百歳中廣宣流布」、左側に「天長地久國土安穏」、


そして背面に「施主谷口法悦」と刻まれている。


和田の道標
「東海道分間延絵図」には「脇道として神戸城下町へ三里半、白子町へ三里、
若松村へ三里三十四丁」と記され、亀山城下より亀山藩領若松港への重要道路であった。
市内に残る道標の中で最も古い。


旧街道を進む。


石上寺
右手段上に高野山真言宗の石上寺(せきじょうじ)がある。
正面に遊歌詠浄土と刻まれた石塔が建てられている。


石上寺本堂
石上寺は、延暦十五年(796)大和国布留郷(奈良県天理市)の住人「紀真龍」により
勧請された「新熊野三社」の神宮寺として開創されたという。
鎌倉時代には将軍家祈祷所となるなど手厚い保護を受け、広大な伽藍寺領を誇ったが、
織田信長の伊勢侵攻による兵火で伽藍等を失い、衰微したと伝えられる。


東海近畿地蔵霊場第5番地蔵堂


弘法大師像


石段を上ると、


仁王護国般若経石塚が。


三重四国八十八箇所霊場の石仏の間を奥へ進むと、
鐘楼と社殿が見えた。


熊野三社を祀る拝殿、とのこと。


14時29分、和田の一里塚に到着した。
江戸日本橋から数えて104里目の一里塚である。
この一里塚は、亀山市内に所在する野村一里塚と共に慶長九年(1604)の幕府の命により
亀山城主であった関一政が築造したものである。


かつては榎が植えられており、昭和59年の道路拡張までは塚の一部が遺されていた。
現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に、消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。


旧街道を進む。


亀山ローソク前バス停を通過すると、


左手に亀山ローソクの本社工場があった。


道路の分岐点に鳥居があった。


能褒野神社(のぼのじんじゃ)
明治時代に創建された神社で、旧社格は県社。
日本武尊を主祭神とし、建見児王および弟橘姫命を配祀する、とのこと。


鳥居を潜って150mほど進んでも神社らしき建物は何も見えなかった。
これ以上進むのは諦めて、ここで引き返した。
(能褒野神社は、ここから北北東3㎞のところにあるそうで、引き返して正解だった)


露心庵跡
能褒野神社鳥居の直ぐ先に露心庵跡がある。


露心庵跡の説明
天正十二年(1584)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退した。
この合戦の戦死者を城下東端に2つの塚を築き葬ったという。
関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立し戦死者を供養した。
この仏庵が露心庵で、本来の名称を友松庵というが、建立した露心の名から露心庵と呼ばれていた。
明治に至り廃寺となった。
この庵から西が亀山宿となる。
(亀山市教育委員会)


宿場の面影を残した古い家が続く。


巡見道
十字路角に東屋のある本町広場があり、傍らに巡見道解説が建っている。
巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。
巡見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永十年(1633)のことで、
その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や 災害などの
実情調査を行う目的で実施された。


巡見道は、ここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、
伊勢国を通過し中山道とつながる。
(左が東海道亀山宿方面になる)


旧東海道を進む。


次第に古い家が多くなってきた。


連子格子の旧家が左右に建っている。


これらの家には、「はまだや跡」 「みかわや跡」 「きりや跡」 「まつばや跡」 「なべや跡」
「おけや跡」など、かつての屋号が掛けられている。


江戸口門跡
県道566号線に突き当たると、左角に江戸口門跡の解説があった。
解説によると、江戸口門は延宝元年(1673)亀山城主板倉重常によって築かれ、
東西120m、南北70mで、北側と東側に塀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、
東端には平櫓が一基築かれていた。
曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。
この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計2万人が動員されている。
江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門
と位置づけることができる。
現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路に
その名残をとどめている。
(亀山市教育委員会)


江戸口門跡を直角に右に曲がると東町商店街入口になる。


東町商店街を進む。


東町商店街を進む。


東町商店街の端の江ヶ室交番前に東海道の標識があった。
旧東海道はここを左折することになるが、それは明日にして、
この日は亀山城跡へ向かうことにして、真っ直ぐ進むことにした。


亀山西小学校を通過。
なかなか立派な建物である。


続いて亀山市役所前を通過すると、


15時36分、亀山城跡に到着した。
伊勢亀山城は、文永二年(1265)に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1573)織田信長により
関盛信が追放されるまで、関氏16代の居城であった。
天正十八年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、『九々五集』には
本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記されている。
明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多聞櫓と
石垣・土塁・塀の一部が残されているに過ぎない。


亀山城址碑


本丸多門櫓と城郭石垣
多門櫓は、原位置のまま遺存する唯一の城郭建築として昭和28年に三重県指定文化財に指定されている。


本丸御殿跡から見た多門櫓


明治天皇行在所
解説によると、
明治天皇は、明治十三年(1880)三重県下御巡幸の折、7月10日東町藤屋(伊藤市次郎宅)
を行在所とされ、10日・11日の両日にわたり名古屋・大坂両鎮台対抗演習をご統監されました。
この建物は、この折玉座とされた奥8畳間など行在所の一部が移築保存されてきたものです。
建物はまず井尻町に移されましたが、昭和10年(1935)亀山小学校(現亀山西小学校)地内に移築され、
同14年三重県史跡に指定されました。
同26年には市指定文化財(建造物)となり、同32年亀山城多門櫓石垣北側に再移築されました。
なお、平成23年多門櫓石垣修復に伴い、石垣保護のため現在地に移動しました。
何と4度も移転している。


亀山神社
亀山城址にある亀山神社は、江戸時代中期の延享元年(1744)備中国松山から
石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けて奉斎したのが始まりとされる。


大久保神官家棟門
江戸時代に南埼権現社の神官であった大久保家の邸宅門だった。


亀山神社拝殿
亀山宿に無事到着したことを報告!


宝篋印塔基礎部
正慶元年(1332)の銘があり、市内の石造物としては最古である。


楠門跡の碑前を通り、


坂道を下って行くと、


関見櫓跡の碑があった。
関見櫓は、西出丸の二重櫓で亀山城西端の関町方面を望見する位置にあることから、
関見櫓と呼ばれた。
(亀山市教育委員会)


本宗寺前を通り、亀山駅へ向かうため、旧東海道へ。


亀山城西之丸外堀跡


西之丸外堀は、寛永十三年(1636)に亀山城主となった本多俊次により、同十六年から
3ヵ年かけて行われた亀山城修築の際に築かれたという。
江戸時代の絵図には石垣を示す表現はなく、すべて土造りの空堀か水堀であったと推測されている。


亀山城西之丸外堀跡の先に亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡が残る。
現在屋敷内に残されている長屋門は江戸時代中期に建てられたもので、三重県内に残る
数少ない武家屋敷の遺構として貴重なことから昭和25年に亀山市指定文化財に指定されている。


石川家家老加藤家屋敷
一般公開されており、開館日は土曜日・日曜日・祝日で、入場は無料となっている。


道が分岐しており、


左方向に亀山城の多門櫓が見えた。


右に曲がり、亀山駅を目指すことにした。


左前方にこの日の宿泊先APA HOTELが見える。


亀山駅へ。


16時14分、亀山駅に到着。
電車の時刻表などを確認し、


APA HOTELへ。


APA HOTELの近くには「はま寿司」や、


ラーメン「えびすや」がある。
夕食に困ることはなさそうだ。


APA HOTELに隣接してコンビニもある。
これは助かる。


16時56分、APA HOTELに到着した。

一息入れて、「はま寿司」、ラーメン「えびすや」へ向かった。


第Ⅲステージ第6回目(庄野宿~関宿)の1日目(庄野宿から亀山宿)を歩き終わった。

この日の万歩計は、26,000歩余を計測していた。
少々疲れた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第6回 庄野宿~関宿(2日目)

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道に迷いっぱなし 北守谷公園散策

2019年05月17日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2019年5月17日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成元年度第7回(2019年第19回)、「北守谷公園散策」ウォーキングに参加した。

第一集合場所の乙戸沼公園には12名が集まった。
9時数分過ぎ、車3台に分乗し、守谷市民交流プラザへ向かった。


ほぼ10時ちょうどにスタート地点の守谷市民交流プラザに到着。
直行者4名と合せ、この日の参加者は16名である。


市民ギャラリーでは第33回守谷市美術展が催されていたが、観るのはまたの機会にしよう。


10時14分、TKさんを先頭に出発!


後に続く皆さん


市民交流プラザ前の道路を御所ヶ丘小学校方面へ。


市民交流プラザから数分の御所ヶ丘小学校辺りで最初の目的地立沢公園への道が
分からなくなってしまった。
この日最初の迷子である。


近くにいた幼稚園の保育士さんと思しき人に立沢公園への道を訊き、
住宅地を少し引き返して、教えてもらった方角へ。


右手に御所ヶ丘中学校を見ながら進む。


しばらく住宅地の中を進む。


住宅地の表示があったが、住宅以外の表示は全く記載がないため、初めての我々にとっては
方角すらもよく分からない。
『他所から来た人には分からない地図だよねっ』


10時32分、広い通りに出た。
『保育士さんによるとここを渡れば良いらしいよっ』


道路を横断した角に交番があった。
ここまで来れば、交番で立沢公園の場所を聴くには及ばない。
そのまま交番横の道を進み、


守谷久保ヶ丘郵便局前を通過すると・・・


10時36分、立沢公園に到着した。
『いやぁ 何とか無事に到着したねぇ』


立沢公園の中を少し進み、


木立のある場所で一休みしよう。
『これから先が思いやられるねぇ』


一息入れた後、公園内を進む。


公園は右側の道路に沿って続いている。
『細長い公園だねっ』


公園の端に行き当たったので道路に出て、次の目的地すずめ公園を目指す。


『殆ど周りは住宅しか見当たらないわねっ』
コンビニも見かけない。


10時52分、松前台小学校入口という交差点で、この先向かう「すずめ公園」の場所を確認。
『どうもちょっと行き過ぎてるような感じがするねぇ』


ということで、来た道を少し引き返し、


住宅地の中をすずめ公園を探すことしばし。
『この近くらしいわよっ』の声も。


11時7分、すずめ公園らしき小さな公園を見つけた。
公園では、数人の保育士に見守れながら、2歳くらいの園児たちが遊具などで遊んでいた。
『ここじゃないのっ?』


公園を横切って入口と思しき場所へ行くと・・・


『やっぱりここが「すずめ公園」だったねっ』


すずめ公園の前を通り、鬼怒川方面へ。


鬼怒川を目指す。


『車が通らないので歩き易い通りだねっ』


”せせらぎの小径”の標識が。
通りの向こうにヨークベニマルのマークが見える。


11時17分、ヨークベニマルに通じる広い道路を横断し、


住宅街を進んで、鬼怒川方面へ。


道路右側の森の向こうが鬼怒川と思われる。


11時22分、鬼怒川に向けて坂道を降りて行くと、鬼怒川に沿った細い小径の入口には
”立入禁止”の看板が。
『ここから先は進めないのかねぇ』 『ここまで来たら引き返すのも大変だしね~っ』
2人が確認のために小径の先へ。


”立入禁止”の看板の横にはネットが張られ、”立入禁止”になっていた。
どうやら”立入禁止”区域はネットが張られた場所を指すようで、小径は通ることが出来そうだ。
ほどなく先行者から『通行OK』の合図が。


小径を進むと、公園らしき木立の下に大きな岩が並べられていた。
『この岩で弁当も良いかもねっ』


岩の先は少し小高くなっており、東屋もあった。


東屋横の川の一里塚には次のように記されていた。
鬼怒川の源は、栃木県塩谷郡栗山村鬼怒沼である。
川は山峡をぬい、日光中禅寺湖に発する大谷川と合流して関東平野を南下する。
流路延長176Kmに及び、守谷町野木崎地先で利根川に合流する。
鬼怒川は古代、毛野川・毛奴川・衣川・絹川と呼ばれたが、中世以降鬼怒川となった。
以前、鬼怒川は谷和原村寺畑において小貝川に合流していたが、小貝川が絶えず氾濫し、
水難に悩まされたため、元和年間(1621年頃)、細代から守谷町大木に至る約6.5Kmを
幕府の命をうけた関東郡代伊奈忠治が苦心の末、約十年間かけて開削した。
そのため常陸谷原領三万石は美田と化し、同時に板戸井川岸の景は、中国の赤壁も比せられる
名勝の地となったのである。
平成五年四月 守谷町長 會田真一


東屋から鬼怒川方面を望む。
『工事中じゃなければ河原で弁当出来たかもねっ』


地図ではここから少し先に香取神社があるので、そこで弁当にしようということに。


『あのこんもりとした森の中に香取神社があるんじゃないのっ?』
香取神社であって欲しいが・・・


結果は、森の中には神社はなかった。
さらに集落を進む。


『香取神社はもう少し先だって』
近くにいた人に聴いた情報とのことだ。


『この辺は大きな農家が多いんだねぇ』


『門も立派だしねっ』


11時41分、赤い鳥居があった。
目指していた香取神社に違いない。


続いて石の鳥居を潜って参道を進むと、


香取神社の社があった。


『なんだか薄暗くてあまり気持ち良くないわねっ』
『もう少し弁当は我慢して先に進みましょうよっ!』


ということで、香取神社を後にして、


先へ進むことに。
やまこ味噌会社の前を通過して、


大山山百合の里前を通過
『山百合が植えられているみたいだねっ』


小径を進む。


道路脇に大きな釜が・・・
『五右衛門風呂より大きいんじゃないっ?』
『味噌用で使ったのかもしれないねっ』


周りが畑の小径を進むと、


再び住宅地になった。


『今どの辺を歩いてるんだろうねっ?』
手持ちの地図ではよく分からない。
三度道に迷ってしまった。
近くに人の姿は見当たらないため、この先は感を頼りに進むしかない。


自転車屋があり人の姿が見えたので、次に向かう「松の木公園」について訊ねたところ、
地元の詳細な地図を持ち出して来て、丁寧に教えてくれた。
『ほんとうにありがとうございましたっ』


『この道の2つ目の信号近くらしいよっ』
かなり行き過ぎてしまっていたようだ。
道路も二筋ほど違っていた。


12時14分、松前台4丁目バス停を通過。


続いて「足柄うどん」店前を通過。
『お昼はうどんも良いかもねっ』


2つ目の交差点には”まつのき公園入口”の標識が。
『自転車屋さんの言ってたとおりだったねっ』
左に曲がって数10m進むと、


12時22分、公園があった、


「まつのき公園」だ。


公園内を進む。
『ベンチもあるねっ』


ここで弁当タイムにしよう。
『いやぁ 公園があって助かったよ』


『ここまで我慢して来て良かったわねっ』


弁当が終り、後は大山公園を経由して市民交流プラザを目指すのみとなった。
13時4分、先ずは大山公園を目指す。


住宅地の中を進む。


『街路樹のある道は良いわねぇ』


守谷駅方面へ通じるバス通りに出たが、持参の地図とは違う道を歩いていることに気が付いた。
また道を間違えてしまった。これで何度目だろう。
『まぁ 守谷駅方面へ進めば何とかなるんじゃないっ』
これまで何度か守谷駅周辺は歩いているのでゴールには間違いなく着くと思うが・・・

13時16分、鬼久保バス停を通過。


損保ジャパン日本興亜守谷総合研修センター横を通り、


うめぇもん処「かっぽうぎ」前を通過すると、


見覚えのある守谷第一病院の裏に大山公園があった。
『今度はまぁすんなりと着いたかなっ』


13時27分、この日最後の目的地大山公園に無事到着した。


ここで最後の休憩を摂り、


ゴールの市民交流プラザを目指す。


守谷第一病院前の広い道路を守谷駅西口方面へ。
『道が広くてけやきの街路樹も良いもんだねぇ』


お菓子の店「Maple」前を通過


続いてラーメン「清六屋」前を通過すると・・・


道路反対側にゴールの市民交流プラザが見えた。


直進で道路を横断し、


続いて右手の道路反対側へ横断


13時45分、ゴールの守谷市民交流プラザに到着した。
『ようやく着いたわねっ』


『いやぁ 何とか無事に戻ることが出来たぁ』
皆さん目の前の自動販売機のジュースに目がなさそう。


来週の「日光杉並木ウォーキング」バスハイクの周知連絡を行い、
この日はここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『また来週!!』


この日は道に迷いっぱなしだった。
コンビニ等もない初めての住宅地を、道を間違えないで歩くのは難しい。
下見なしでのウォーキングは避けるべきだと思った。
区画されてはいても、微妙に曲がっていたりすると、方向感覚までも狂ってしまう。
帰宅後に、1年半ほど前に作ってもらった地図を検証したところ、地図にも間違いが
複数箇所あることが分かった。
道を間違えたのは、当然と言えば当然だったのだ。
今後は地図作成においても充分注意しなければいけないと思った今回のウォーキングであった。

この日の万歩計は、15,000歩を計測していた。

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