ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

200万本のコスモスに癒される 下妻小貝川ふれあい公園

2012年09月28日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2012年9月28日(金)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成24年度第19回(2012年第30回)「下妻小貝川ふれあい公園」ウォーキングに参加した。


この日の第一集合場所の乙戸沼公園には18名が集まった。


車4台に乗り合わせて「下妻小貝川ふれあい公園」へ。
直行した9名と合せて参加者は27名となった。いつになく多い。
天気もまあまあ良くて場所も比較的近い、とあればこのくらいの人数が集まることを実感。


駐車場はほぼ満杯、準備体操には狭すぎるためネイチャーセンターへ移動する。
ネイチャーセンターは、外壁に国蝶オオムラサキの幼虫の絵が描かれている。


会長の掛け声で準備体操だ。
『精一杯背伸びして~ぇ』
久しぶりの参加者も多い。『身体が堅くなってる~ぅ』


締めくくりはアキレス腱伸ばしだ。
『腰を落としてぇ~』


小貝川両側の土手を時計回りで歩くことにして、10時7分、いざ出発!


この日の先導役はOさん。
前回は止むを得ない用事で参加できずに先導役を務められなかった。
今回は張り切って先頭を歩く。


土手の右手の「スポーツゾーン」を眺めながら進む。
ソフトボール場やサッカー場がある。


台風18号の影響で、向い風が強い。
帽子を飛ばされる人が続出。


彼岸は過ぎていたが、土手に真っ赤な彼岸花(曼珠沙華)が咲いていた。


ネイチャーセンターを出発して30分ちょっとで小貝大橋に到着。
橋を渡るには歩道を歩かなければならないが、歩道は反対側にしかない。


横断歩道はなく、車はなかなか止ってくれない。
流れを見計らって急いで横断だ。


橋の袂が下妻市と筑西市の境界線になっている。
ここからほんのちょっとだけ筑西市に入る。


小貝大橋を渡る。


小貝川がゆったりと流れている。


前方は筑波山だが、あいにく半分から上は雲がかかっていた。
『残念だわねぇ!』


橋を渡り切ったところで、反対側に横断。
横断すると直ぐに下妻市である。


『風が後ろからになって、帽子飛ばされなくなって助かったわ』


10時47分、ネイチャーセンターを出発して40分、最初の休憩だ。


地図には自転車道路と表示されているが、自転車は走っていなかった。


恒例のお茶タイムだ。
『どうぞ、どうぞっ』
『ご馳走さまぁ』


『いただきまぁ~す』
いつもの光景である。
いつまで経っても高血糖が下がらないのはこのせいかもしれない。
甘いものは好きだし、断りきれない性格なのだ、と半ば諦めている。


一息入れたところで、祝橋・お花畑を目指して進む。


一部だが自動車道路のように中央線のあるところもあって歩き易い。
背に受ける風が、心地良い。


『キャーッ』突然の声に駆けつけてみると。
土手の上には、あちこちに何かの幼虫らしきものが這い回っているのではないか。
ネイチャーセンターの壁に描かれていたオオムラサキの幼虫とはちょっと違う。ややグロテスクな色をしている。
(Webで調べたら、セスジスズメというスズメ峨の幼虫らしいことが分かった。これは成虫画像
中には踏みつけられたような哀れな姿も。
鳥などの餌になったりしないのだろうか?


『お願いだから、踏みつけないでね』幼虫の声が聞こえるようだ。
オオムラサキでなくてもいい、とりあえず無事渡りきって成虫になって欲しい。


前山下妻ヘリポート
航空学校の訓練などに利用される、ヘリパイロットの養成・練習場である。


格納庫一杯にヘリが格納されているのが見える。


操縦士免許の取得目指して、ヘリパイロットの操縦訓練でもやっているのだろうか。
頻繁に飛び立っては旋回・空中停止などを繰り返していた。


川の一里塚
丘の上に東屋が見えたので立ち寄って行こうかと思ったが、草ぼうぼうのため、そのまま通過。


川の一里塚での休憩がなくなっても気にすることなく快調なペースで進む。
まだまだ余裕が感じられる歩きである。


新堀排水樋管にいぼりはいすいひかん
樋門(ひもん)・樋管(ひかん)は、用水の取水や内水の排除を目的としている。
外観は水門に似ているが、見た目の規模は小さく、水門との大きな違いは、
樋門・樋管は堤防の中に水路が埋設されていることである。
土手(堤防)に埋め込まれた水が流れるトンネルとも言える。


前方に国道125号線、祝橋が見えてきた。


橋の真ん中にのみアーチがあるのは珍しいのではないか。


まだタイヤに土が付いたトラクターとすれ違う。
一瞬だけだが、ほんのりとした空気が漂う。
好きな光景の一つである。


小貝川の上流を望む。


小さな社があった。
鳥居の額には香取神社と刻まれている。


「小貝川ふれあい公園」フラワーゾーンに到着。
目の前にコスモスの花畑が広がる。
春にはポピーが咲き乱れるところだ。


花畑の種まきや除草などの管理は、ボランティアGによって行われているとのこと。
一人100円の協力金で応援しよう。


花畑には色とりどりのコスモスが咲いていた。
200万本のコスモスが植えられているそうだ。


『200万本? すごい数だねぇ』


既に最盛期は過ぎた感じだが、花に囲まれると気持ちが癒される。


弁当の前に記念撮影。
会長の専任事項である参加者の確認・把握はこれでバッチリである。


11時50分、コスモス畑を見ながら弁当にしよう。


『芝生が気持ち良い~』
『小さい頃の遠足を想いだすわねっ』


弁当も終わり、花畑の中を歩いてめいめいコスモスを堪能した。


この頃になって傘を差すほどではないが、霧雨のような雨が降って来た。
予報では昼ごろには”晴れ”だったはずなのだが・・・
『弁当を食べ終わった後で良かったわねぇ』 率直な感想である。


女性陣に囲まれて、何やら嬉しそうなTさん。
昨年喜寿を迎え、益々元気な当会の男性陣最高齢の御大である。
『いやぁ、ウォーキングは楽しいねぇ』


パークゴルフの大会が開かれていた。
『ナイスショット!!』


12時26分、ネイチャーセンターに到着した。
ネイチャーセンターの建物は、国蝶オオムラサキの顔を正面から見た様子を表している。
上から見るとオオムラサキが羽を広げている時の形をしている、そうだ。


突然の霧雨に、整理体操は省略することに。


駐車場へ向かい、三々五々帰路についた。
『今日は、大変お疲れさまでしたっ』



花の最盛期は過ぎてはいたが、200万本のコスモスに囲まれて少し気持ちが癒された感じだ。
次は、ポピー・キンセンカなど、色とりどりの花々がハーモニーを奏でる5月頃に歩いてみたい。
このコースは2時間足らずで回れることから、弁当なしでも問題ないと思われる。


ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次
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日光街道を歩く 第1回 千住宿から越谷宿へ

2012年09月26日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2012年9月26日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、続いて2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
一緒に歩いた仲間の方たちから次の街道歩きを望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を提案し、皆さんに賛同してもらった。
2012年9月から毎月1回、冬の1,2月と暑い7,8月を除いて来年の9月にかけて歩くことにした。

第1回目のこの日は、千住宿(JR北千住駅)から越谷宿(JR南越谷駅)までの約15Kmを歩いた。
日本橋から千住宿までは、「旧水戸街道を歩く」で既に歩き終えているので、出立は千住宿からとした。

この日朝8時に北千住駅前に集まった参加者は、新たに1名が加わり、計12名。
記念すべき第一回ということで、北千住駅前で揃って記念撮影だ。


Uさんの指導で軽いストレッチ体操


通勤時間帯だったが、この場所を通る人はまばら。


8時17分、日光目指して出立である。


見覚えのある千住宿場町通りを抜けて・・・


千住新橋南詰へ


螺旋階段を登ると・・・


千住新橋に出た。
国道4号線は渋滞になっていた。
平日は毎朝このような状態なのだろう。


中旬まで真夏日が続いていたが、秋分の日を過ぎて急に平年並みの気温になってきたのが嬉しい。
荒川を吹き抜ける風が心地良い。


『ほんと、風が気持ち良いわぁ』


荒川を渡り、旧日光街道を進むと、、耳の病に霊験あらたかと云われる石不動尊がある。
堂前のお地蔵さんは、元は荒川の土手下にあったものが移設されてきたとのこと。
堂前の「子育八彦尊道(やひこぞんどう)是より二丁」の碑は、子供の咳にご利益がある、
と云われる明王院(赤不動)への道標である。


旧日光街道を進む。
足立区梅田郵便局付近。


荒川から4Kmほど進んだところに、東武伊勢崎線の高架駅が見えてきた。
梅島駅だ。


9時3分、梅島駅の高架下で水分補給で一息入れる。
猛暑はなくなったが、リュックを背負って歩けばやはり暑い。
額に首筋に薄っすらと汗が滲む。
道路の向こうが梅島駅になる。


さらに1Kmほど進むと、環七通りだ。
『やはり交通量が多いねぇ』


『へぇ~っ珍しい地名だぁ』


その名もずばり、六月(ろくがつ)二丁目交差点。
奥州征伐に向かう八幡太郎義家公は六月の炎天下、この地で野武士に道を遮られてしまった。
義家公は進退窮まり鎌倉八幡を祈念したところ、太陽が背に回り無事敵を撃破したと云われる。


孫のような少学1年生らしき一団が通り過ぎるのを見守る。
『遠足かな? 楽しいよねぇ』


足立清掃工場
焼却場の紅白の煙突が印象に残る。


10時10分、いよいよ埼玉県草加市に入る。
北千住駅を出発して約2時間経過していた。


10時16分、谷塚駅近くの業務用スーパーで、体調を整える。


道路幅が広いと、歩き易い。
ただ、自転車の通行には気をつけたい。


浅間神社
江戸時代から富士山を祀る神社として厚い信仰を集め、多くの人に親しまれていた、と云う。
正式名称は富士浅間神社だ。


この日のウォーキングの安全を祈願してお参りして行こう。
現在の本殿は天保十三年(1842)に再建されたもので、市指定文化財になっている。
また、境内は草加百景の一つに選定されている。


境内の慶応元年の銘の手洗石に、現在の水準点にあたる高低測量几号(きごう)が刻まれている、
と案内板に書かれてあったので、探しているところ。
『どこに刻んであるんだろうねぇ』
結局几号を見つけられなくて、日光街道へ戻ることに。


草加市と言えば、「草加せんべい」である。
この辺りからせんべい屋をいくつも見掛けるようになった。
先ず最初に見掛けたのは「五楽堂」


火あぶり地蔵尊
千住宿に人柄の良い母親と娘が住んでいた。
父親は多額の借金を残してこの世を去り、母子は借金を返すために一生懸命に働いた。
奉公中の娘が母親の大病を知り、主に帰宅を願出たが許されず、
奉公先の主の家が火事になれば仕事が休みになると思って火を放った。
娘は放火後に掴まり、その罪で火焙りの刑に処せられてしまった。
里人はこの娘を哀れんで地蔵堂を建立し、供養したと云う。


一人のお年寄りがお参りに来た。聞いたところ、毎日の日課だそうだ。
四の付く日に花を供えるとのこと。二日前に供えられた花はまだしっかりとしていた。


「いけだ屋」
せっかく草加に来たからには、と”草加煎餅”を買い、皆さんと味見を。


お腹が空いてきたのも手伝ってか、
『すごく美味しいわぁ』
『いままで食べた草加煎餅とは一味違うわねっ』 最高の評価である。


この他にも煎餅屋は多い。
店の構えにもそれぞれ個性がある。


草加市役所の敷地の隅に浅古家地蔵堂(あさごけじぞうどう)があった。
江戸時代の豪商・浅古氏が赤堀用水を流れてきた地蔵を拾い上げ、子育て地蔵として祀ったものとの言伝えがある。
地蔵堂は十二月を除き、毎月24日に開帳される。
道路の反対側にあったため、撮影するに留めた。


ひと際古い蔵造りの構えの家は、浅古正三家。


草加駅前の道路を渡ったところにちょうど弁当屋があった。
この日は弁当持参としていたので、何人かがここで弁当を買っていくことに。


どれも美味しそうなメニュー揃いである。


草加宿「清水本陣跡」の碑
清水本陣は宝暦年間から明治初期に置かれた。
それ以前には、大川本陣が置かれていた。
この本陣には会津藩松平容頌、仙台藩伊達綱村、盛岡藩南部利視、米沢藩上杉治憲(鷹山)
らが休泊した記録がある、とのこと。


煎餅屋の「元祖源兵衛せんべい」


こちらは、せんべいの看板を掲げた「堀井商店」


久野家(大津屋)住宅(店舗部分)
草加宿では街道がほぼ直線状に設けられたが、北端では曲輪のように大きくカーブする。
久野家は宿の北端の曲がり端に位置している。
宿場は開宿以来、4回ほどの大火や震災に見舞われているが、この家は江戸時代の安政二年(1855)の大地震に耐え、
明治三年(1870)の大火をも免れた。
ただ立寄っただけにも関わらず、店の方から、「草加町歩きマップ」をいただいた。


草加宿の総鎮守の神明神社
元和初年(1615)に宅地内にご神体を祀ったのが始まりで、正徳三年(1713)に草加9ケ村の希望により、
宿の総鎮守として現在の地に移されたと伝えられている。
五と十の付く日に市が開かれ、大変な賑わいだったと云う。
幕末には宿の子を対象とした寺子屋が開かれた。


鳥居の沓掛には浅間神社では見つけられなかった、高低測量の几号(きごう)が刻まれていた。


おせん公園」の煎餅発祥の地の碑
草加松原で茶屋を営むおせん婆さんが、『団子が痛みやすい』と嘆いていたところ、
ある旅人に『団子を薄く伸ばして天日で乾かし、これを焼けばよい』と教えられた。
これが旅人には日持ちがして携帯でき、美味しい堅餅、と評判になり、
草加の名物になったと云われている。


伝右川に架かる草加六丁目橋を渡ると・・・


札揚河岸公園である。
公園の中央付近に五角形の望楼が聳(そび)えていた。
札場河岸は綾瀬川舟運の船着場で、綾瀬川は江戸に通じる重要な水路であった。


草加松原遊歩道にある県道を跨ぐための太鼓型の橋の一つ、矢立橋
奥の細道の「行く春や鳥啼き魚の目に泪、これを矢立の初めとして・・・」にちなんで名付けられた。


草加松原遊歩道は、「日本の道百選」に選ばれている。


綾瀬川沿いの遊歩道約1.5Kmに渡って松並木が続く。
天和年間(1681~1684)に綾瀬川開削の際に徳川幕府が命じて植えたと伝えられている。
一時は60数本まで減ったが、市民が中心となって600本余りまで回復させた。
東京スカイツリーの完成で、600本余りだったのを634本に急遽増やした、と先日TVで紹介されていたのを見た。


綾瀬川
お世辞にもきれいとは言えない。


11時45分、公園歩道のベンチで弁当タイム。
青空の下で食べるおにぎりは美味しい、格別である。


草加松原遊歩道にある県道を跨ぐためのもう一つの太鼓型の百代橋
奥の細道の「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ・・・」
にちなんで名付けられた。


橋から見た松並木
絶好のビュースポットとなっている。


百代橋を渡り切ったところに松尾芭蕉文学碑がある。


松尾芭蕉文学碑の脇で、食後のストレッチだ。
『いちにっ、さんしっ』


綾瀬川に架かる木製の橋
かつてのどこかの橋を模したものであろうか。


草加松原遊歩道を過ぎて数100m進むと東京外環自動車道路(外環道)が見えてきた。


外環道の高架下を進み・・・


槐戸橋(さいかちどはし)で綾瀬川を渡る。


綾瀬川に沿って進むと蒲生一里塚があった。
日本橋から五里目の一里塚である。
埼玉県下の日光街道で唯一現存している一里塚だそうだ。


塚の並びには六地蔵が祀られている。
この地面の高さは往時のままだそうである。


蒲生郵便局を過ぎると、道標と庚申像がある。
越谷市相模町へ続く、大相模不動(大聖寺)への道標だ。


この地域の人に「ぎょうだい様」と呼ばれている地蔵堂があった。
道中の安全を祈って、草鞋(わらじ)が奉納されている。


江戸時代中期の宝暦七年(1575)、日光街道の補修工事が行われ、
完成を記念して造られた砂利供養とされている、とのことだが・・・
裏に回ると正体はごつごつした岩であった。


隙間から覗くと、河童の顔の部分に似た形をしていた。
この地域の人は”わしの神様”と言っているそうだ。


旧道脇に天文三年(1534)創建の清蔵院(せいぞういん)がある。
山門は江戸時代初期、寛永十五年(1638)の関西の工匠の作と伝わる。


山門の龍は金網で覆われていた。
この龍は伝説的な彫刻職人左甚五郎の作とされ、夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らしたことから、
これを金網で囲った、と云われている。


銭湯
最近ではあまり見かけなくなった。


かつて蒲生に住んでいたことのあるT子さんが、『近くに友人がいるので挨拶していきたい』と言う。
街道沿いの家を訪ねてみたが、あいにく留守のようで、応答はなかった。
帰ってから電話してみるそうだ。


自動販売機で水分補給


JR武蔵野線だ。


JR武蔵野線を通り過ぎて1.2Kmほど進んだところにこの日最後の訪問地、照蓮院(しょうれんいん)があった。


照蓮院本堂で全員無事歩き終えたことを、感謝を込めてお参りした。


武田勝頼の遺児千徳丸の供養塔(両側の五輪塔に挟まれている小さな塔)がある。
千徳丸は、勝頼没後家臣が当地まで連れて逃れたが、天正十年(1638)に早世してしまった。
その菩提を弔うために建てられたもの。
思ったよりも小さく可愛らしい塔だった。


この日の訪問は全て終わり、照蓮院を後にして、東武伊勢崎線の越谷駅へ向かった。


いつも奥様や娘さんへのお土産を欠かさないU男さんには感心するばかりだ。
既に土産もの(お菓子)をぶら下げている。


14時36分、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)越谷駅に到着。


この後、次の新越谷でJR武蔵野線に乗り換え、新松戸を経由して柏に向った。
次回は、東武伊勢崎線の越谷駅から歩くことになる。
元気な再会を約して、それぞれ帰路についた。
この日、万歩計は28,000歩を越えていた。


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歴史と紬の町 結城市内散策

2012年09月22日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2012年9月22日(土)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成24年度第18回(2012年第29回)「歴史と紬の町結城」を散策するウォーキングに参加した。


この日の行き先は結城ということもあって、車では距離があるため、電車を乗り継いで行くことにした。
また、少しでも安くということから、”ときわ路パス”が利用できる土曜日とした。
常磐線荒川沖駅には11名が集まった。


土浦駅からは4名が参加、合計15名となった。
友部駅で水戸線小山行電車を待つ。


水戸線車内
この日は男性は4名のみ、圧倒的に女性が多い。


9時54分、結城駅に到着し、駅前で準備体操だ。


駅前はタクシーが1台客待ちをしているだけで閑散としていた。


10時9分、出発。
結城に到着した時には小雨が降っていたが、いつの間にか止んでいた。


この日の先導役を結城市を推薦したH子さんに頼もうとしたが、結城は初めてとのことで、
会長が務めることに。(実は会長もこの日のコースは初めて)
まあ何とかなるだろう。


称名寺の塀


称名寺しょうみょうじ)の裏から入る。
親鸞聖人の高弟であった真仏が開基の寺。浄土真宗本願寺派の名刹である。
親鸞の直筆といわれる「往生要集」や朝光の肖像画や木像などの文化財などを所蔵。


称名寺の総門


本堂の読経がお寺中に響き渡る。スピーカーを使ってはいるが、実に朗々たる声だ。
大勢の人が本堂でお参りをしていた。
そういえば今日は、お彼岸の中日だ。
お墓参りの邪魔にならないように気をつけよう。


結城家初代朝光の墓
朝光は、下野の豪族小山政光の第3子として生まれ、14歳の時、母の寒川尼に連れられて源頼朝に見参し、
朝の一字をもらって元服した。
以来、頼朝の御家人として活躍し、寿永二年(1183)志田義広の乱の恩賞として結城郡を分け与えられたのが、
関東の名門結城家の始まりである。
称名寺には初代朝光から四代時広までの供養塔がある。


次に向かったのが称名寺のすぐ裏にある孝顕寺こうけんじ)だ。


孝顕寺は曹洞宗(禅)のお寺で、結城水野家の菩提所。
朱塗りの三門(山門)は江戸時代中期に建てられたもので、八脚、入母屋、瓦葺、楼門形式で迫力がある。
結城市指定有形文化財になっている。


孝顕寺本堂
創建は永正十二年(1515)、結城家十五代政朝が独放禅師を招いて開山したのが始まりと伝えられる。
当初は玉岡の地に永正寺として創建されたが、慶長四年(1599)十八代秀康(徳川家康の二男)により、
現在地に移され孝顕寺と寺名を改称し、七堂伽藍を造営した。
政朝夫妻の肖像画、十七代晴朝の肖像画(いずれも茨城県指定重要文化財)が伝わる。


孝顕寺の裏にはお墓がびっしりと並んでいた。
突き当ったところに結城水野家の墓がある。


酒造蔵元武勇
酒蔵見学も出来るそうだが、9月~4月の土日は定休日となっている。


街中で見かけた地蔵堂


毘沙門天の総門


毘沙門堂


毘沙門堂中興専戒上人之墓(左)
右は水子地蔵尊供養の碑


結城酒蔵
初代は、結城氏が豊臣秀吉の養子・秀康(徳川家康の二男)を継嗣として迎えた時、
秀康に随行して京都・伏見から移り住んだとされる。
安政六年(1859)の酒造鑑札を持つ、老舗の酒蔵である。


弘経寺の裏側から見えた高さ10mの結城酒蔵の煉瓦煙突は、
明治三十六年(1903)の建設と伝わり、歴史を感じさせる煙突である。
煉瓦煙突の他、酒造業を始めた安政六年(1859)の安政蔵や、慶応年間(1865~68)の新蔵は
常時見学出来るとのことなので、一度見学してみたい。
いずれも国登録有形文化財となっている。


弘経寺(ぐぎょうじ)の山門


参道は大木のトンネルになっており、ひんやりと涼しい。


二の門は楼門形式の堂々たる構えで関東十八壇林に相応しい。


弘経寺本堂
弘経寺は浄土宗の寺院で山号は寿亀山。本尊は阿弥陀如来。
創建は文禄四年(1595)、結城家18代秀康が娘松姫の菩提を弔う為、飯沼(水海道市)の弘経寺の住職檀誉上人を
招いて開山したのが始まりと伝えられている。
創建以来、一度も焼失していないそうである。


本堂の中には大勢の人がお参りをしていた。
慶長年間(1596~1615)には浄土宗関東十八檀林(学問所)が設置されている。
江戸時代の俳人である与謝蕪村に縁のある寺院としても知られている。


金福寺こんぷくじ
証誠大師一遍上人を宗祖とする時宗の寺。
正応二年(1289)他阿呑海の開基による寺院とのこと。


すぐ隣に光福寺がある。
呼明南坊上人(こみょうなんぼうしょうにん)を開山とする真言宗豊山派の寺院である。
室町時代末期の弘治四年(1558)、光福寺の佑慶(ゆうけい)が東寺の亮恵(りょうえい)から印信を受けた後中興した。
これは、裏の妙国寺から見たところ。


結城は城下町で蔵造りの家が多いことで知られる。
街中で見かけた古い蔵(1)


古い蔵(2)


妙国寺
法頂山妙国寺と称し、室町時代初期貞和元年(1345)、日宣上人を開山とする日蓮宗の寺院。


この後、安穏寺を目指したが、寺の裏道を進んでしまい道を間違ってしまった。
引き返すのも大変だし、せめて写真だけでもと撮ったのが、裏の塀越しの写真である。
安穏寺は奈良時代に律宗の寺として創建されたが、後に禅宗に改められた。
天保十二年(1841)に建てられた本堂と至徳二年(1385)に建てられた朱塗りの楼門形式の山門などがあるそうなので、
また日を改めて訪れることにしたい。


神明神社
鳥居横の碑には結城七社の六之宮と刻まれている。


神明神社で一息入れる案も出たが、まだ先が長いことから、城址公園へ向かうことに。
11時を少し回ったところだったが、店から蒲焼の何とも言えない匂いが漂ってきた。
少しお腹も空いてきた。


城址公園へ向う途中、源翁和尚げんのうおしょう)の墓が。


源翁和尚の墓
源翁和尚は南北朝期の曹洞宗の僧侶で、越後国で生まれ、陸上寺で出家。
18歳の時禅宗に転じ、能登国総持寺の峨山禅師の弟子となって修行した後、諸国を回って多くの寺院を創建した。
室町時代の応安四年(1371)に結城家八代直光の招きで結城を訪れ、安穏寺を禅宗の寺に改めて開山した。
(案内板より抜粋)


説明板に見入る。
源翁和尚は安穏寺に4年間滞在したのち、会津に行き、
さらに那須では、悪い煙を噴き上げて人や鳥獣たちに害を与えていた殺生石を二つに割り、
石の中にいた悪霊を成仏させた人物として知られている。(中略)
殺生石にまつわる伝説は、民話・能・浄瑠璃などに取り上げられ、全国的に知られており、
このことから、石を砕いたりする槌を「げんのう」と呼ぶようになったと云われている。
『そういやぁ げんのうって言ってたなぁ』
『なあるほどぉ そうだったのねっ』


源翁和尚の墓の前で、一休み。


結城小学校前を通過
『立派な校舎だわねぇ』


11時23分、城址公園の聡敏神社そうびんじんじゃ)に到着。


江戸前期「鬼日向」と恐れられた歴戦の勇士、備後国福山藩藩祖“水野勝成”が、祀られている。
結城には水野勝成のひ孫である水野勝長が1,700年に能登から移封され水野家初代結城藩主となるが、
水野家宗家でもある初代水野勝成の武功・功績を偲んで聡敏大明神として祀られたそうである。


”あじさい坂”を進んで城址公園を後にする。


後ろに見える小高いところが城址公園
かつての結城城跡だ。


松月院
曹洞宗富田山松月院と号し、本寺は、乗国寺。
享禄二年(1529)に、乗国寺四世の信及前豚が開創したと云われている。
本尊は、釈迦如来坐像と文殊菩薩像・普賢菩薩の三尊仏となっている。


伝統工芸館
館内では本場結城紬のはた織の実演及び体験ができる。


お昼は、伝統工芸館の許可を得て、前の庭で食べることにした。


『外で食べるのって美味しいわねぇ』


お昼も終わり、少しだけ工芸館を見学していくことにした。
結城と言えば「結城紬」があまりにも有名である。
2010年11月、「結城紬」の技術や歴史が、ユネスコ「無形文化遺産」に登録されたことは記憶に新しい。
伝統工芸館入口に、茨城県本場結城紬織物協同組合の方々の合作「特大暖簾」が展示されている。
値段は想像がつかない。


つむぎの器具


糸つむぎ作業の様子(写真)


真綿から糸を紡ぐ
真綿を両手で広げ「つくし」と呼ばれる器具にからみつけ、その端から糸を引き出す。
片方の手で糸を引き、唾液をつけたもう片方の指先で真綿を細く捻るようにしてまとめ糸にする。
均一な太さを保つためには熟練した技が必要であり、特に40-50歳の女性のつむぎ手の唾液には粘りがあり
照りのある良い糸ができるという。
引いた糸は「おぼけ」という容器に溜めてゆき、一秤分の真綿が全て糸になった状態を1ボッチと呼ぶ。
個人差はあるが1ボッチの糸つむぎにかかる日数は7-10日、長さは約4-5千mである。
(Wikipediaより)


熱心に機織の説明に聞き入る女性たち。


伝統工芸館を出て乗国寺へ向かう。
『あそこに見えているのが乗国寺?』


乗国寺の総門(四脚門)は延宝七年(1679)の創建。


総門をくぐると羅漢さまが並んで迎えてくれる。
左側には六地蔵が並んでいる。


山門(楼門)は大正十三年(1924)に改築されたもの。


乗国寺本堂
曹洞宗見竜山覚心院乗国寺と号し、本寺は、下総国総寧寺。
宝徳元年(1449)結城13代成朝公が結城合戦で戦死した12代持朝公の菩提を弔うために
松庵宗栄を招いて三国山福厳寺として建立したと伝えられている。
現在の本堂は、文久元年(1860)に建立されたもの。


永代供養塔「六角堂」
堂内には延命地蔵尊が本尊として祀られている。


鐘楼


乗国寺を観終わったところでほぼ半分は歩いたことになる。
ここから結城駅へ引き返すことになる。
昼過ぎ頃から日差しが強くなり、ややペースが落ちてきた。


道端にポツンと北向地蔵が佇んでいた。


13時26分、大輪寺に到着。
これまで巡った寺には見られなかった仁王門だ。


仁王像(阿の像)
門の左側には吽の像が睨みを効かせている。


仁王門の日陰で一休みだ。


大輪寺本堂
新義真言宗豊山派如意山観音院大輪寺と号する。
寺伝によると、結城家初代朝光が常陸国河内郡田河原に在った大輪坊の僧・元観僧都を招き、
安真元年(1227)坊舎を移築し、大輪寺と改め、結城家代々の祈願所となったと伝えられている。
(パンフレットより)


大輪寺を出て、市役所方向へ進む。


結城市役所が見えてきた。
白塗りの「築地塀」が印象的である。


結城市役所


結城市役所のすぐ側に住吉神社がある。
康永二年(1343)、結城七代直朝は北極星を守る北斗七星から領内の由緒ある七つの神社を
結城七社と定め庇護し、住吉神社もその一社に数えられている。


住吉神社で最後の休憩を摂り・・・


鳥居をくぐり、住吉神社を後にする。


街中に入ると、あちこちに蔵造りの建物が目に入ってきた。
真盛堂は明治三十年頃の見世蔵である。


赤萩本店はお茶や砂糖の商店だ。
明治二十年建築の老舗である。


磯田家住宅は明治中期の建築だそうだ。


こちらは元禄十一年創業の御菓子司「蛸屋
およそお菓子屋らしくない名前である。
『美味しそうだわぁ』
『我慢した方が良いよっ』


たこ焼き、たいやき、お好み焼き
『食べたいけど我慢しようっと』


14時10分、ようやく結城駅前の「観光物産センター」に到着した。


一息入れるとともに土産を買い求める。


観光物産センターを後にして結城駅に向かう。


14時30分、結城駅に到着、友部行きは14時45分、ちょうど良いタイミングである。


帰りの電車内


和やかな雰囲気が車内に溢れる。
少々お疲れ気味の人も。


車窓から加波山が見えた。
11月中旬の例会で登る山だ。
その頃には、紅葉に染まっていることだろう。


この日は駆け足で結城市内を散策して回った。
結城は初めてであり、実際歩いてみて実にお寺の多い町ということを実感した。
浄土真宗、曹洞宗、浄土宗、時宗、日蓮宗、真言宗と宗派も様々だった。
また、古い酒造や見世蔵の多い町でもあり、城下町という歴史を感じさせる町でもあった。
ウォーキングがメインということから、今回は結城のほんの一部しか見ておらず、
与謝蕪村ゆかりの句碑などまだまだ見所は多い。
機会があれば個人的にも訪れてみたい町ではある。

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たかが152mに四苦八苦 八郷富士山

2012年09月14日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2012年9月14日(金)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成24年度第17回(2012年第28回)「フラワーパークから八郷富士山」ウォーキングに参加した。


第一集合場所の土浦市民会館には13名が集まった。


車4台で、第二集合場所の「八郷フラワーパーク」へ。


直行した6人と合せてこの日の参加者は19名に。
この日も真夏日ということを考慮すれば、まあまあの参加状況というところか。


早速準備体操だ。


軽く準備体操をするだけで、汗が滲んでくる。
既に30度は越しているだろう。


9時52分、八郷富士山目指して出発!


フラワーパークを後にする。
これからダリアやバラが見頃を迎えるそうだが、訪れる人の姿はまだ見当たらない。


フラワーパークの前の道路を横断して、農道を進む。


スタート直後、男性陣は元気が良い。
先頭集団を占める。


のどかな田園風景だ。
刈入れが終わったばかりの田んぼから、稲の匂いが漂ってくる。


気温は真夏だが、コスモスの花がちょっぴり秋を感じさせてくれる。


前方に八郷富士山(152m)らしき山が見える。
山と云うより丘陵だ。
この方角から見た感じでは、富士山には似ていない。


左に曲がると、前方に筑波山が見えてきた。


筑波山の女体山(877m)だ。


10時20分、フラワーパークを出発してちょうど30分、八郷富士山の登山口らしき場所に到着。
一息入れて登ることにしよう。


登り始めるとなだらかな坂道が続き、一向に登りの道にならない。
『こんな道だったかなぁ?』『どうも違うような気がする』
会としては、これまで数回登ったことのある山だが、案内など何もないため、これが登山道かどうか定かではない。
記憶だけが頼りなのである。


どうやら道を間違ったことに気づき、麓の道まで引き返す。


『こっちの道かもしれないね』
『ちょっと見て来よう』と半数近くの人が登っていった。


『どうもこの道でもないみたい』
個人の窯元へ通じる道だった。
結局ここでも途中で引き返すことに。


ようやく見覚えのある登山口を見つけた。
『何となく見覚えがあるよっ』
会長の『この道に間違いないっ』のひと声にようやく登山開始である。


近くの集落のお墓の脇を登る。


次第に3年前の記憶が蘇ってきた。
そういえば入会して初めて参加したのが、八郷富士ハイキングだった。


山頂まで直線的な急坂が続き、平坦なところがないため、かなりきつい。
堪らずに一休みだ。


スピードダウンして一歩一歩登るしかない。


次第に集団はバラけてしまった。
『下で待ってるわ』の声も聞こえる。


急坂の山道を上ること15分、ようやく山頂(152m)に到着した。


山頂には、「浅間神社」が祀られている。
無事登れたことに感謝を込めて参拝しよう。


その後、5分ほどの間に一人、また一人と登ってきた。
先に登った人が拍手で迎える。


5人ほどが途中で断念して引き返したとのこと。
結局14名が登頂したことになる。
今まで当会の会員が、途中で断念したということはあまり聞いたことがない。
それほど、きつかった、ということであろう。
たかが152m、されど八郷富士山、である。


一息入れた後、下山開始。
下りは急坂のため滑り易く、思わずつま先に力が入る。


下で待っていた人と合流。
『お疲れさまぁ』


八郷富士山を後にする。
既に時計は11時30分を過ぎていた。
2度も道を間違ったことで大幅に時間をロスってしまっていた。


予定では、ここから1Kmほど先の柿岡地磁気観測所を一周してフラワーパークに戻ることにしていたが、
優に1時間以上はかかると想定される。
この日は弁当は持参していないため、直接フラーパークへ戻ることにした。


この真夏日の中をすきっ腹で1時間以上も歩くのは、却って危険が伴う。
空腹で熱中症なんかになったら、例会どころではなくなってしまう。


それだけ八郷富士登山が堪えたということも引き返す理由のひとつである。
後方に見えるのが八郷富士山だ。
何の変哲もない小高い山だが、真夏日に登る厳しさを味わった。


茨城は栗の生産量が全国一ということである。
全国の生産量の30%以上を茨城県が占めているのだ。
笠間市、茨城町を中心とした県央地域とかすみがうら市を中心とした県南地域が2大産地となっている。
道端に落ちていた栗。
(本当は持ち帰ってはいけないのだが・・・)


12時ちょうど、フラワーパークに到着した。
お昼ちょうどにゴールして、一安心である。


早速、産直野菜屋へ直行。
皆さん品定めに余念がない。


『土産は欠かせないんだよなぁ』


整理体操は買い物をした後になってしまった。
まだ買い物から戻ってない人もいたが・・・
『はいっ、腰を落としてぇ~』


『今日は、お疲れ様でしたっ』


新治のJA土浦「まほら庵」で、蕎麦を食べて行くことになった。
有志13名が同行した。


12時30分過ぎという時間帯は、いつもこの混雑なのだろう。
一番混む時間帯なのかもしれない。


とにかく、並んで待つしかない。


店内の壁にはメニューがびっしりと貼られている。
15分ほどで席へ案内された。数人づつ分かれて座ることになったが、これは仕方がない。
我々が座った席では5人全員が揃って「えび天付せいろそば」を注文だ。
一番人気があるそうだ。


さらに待つこと10分、「えび天付せいろそば」が運ばれてきた。
海老と野菜の天ぷらが付いている。
平日には”まいたけごはん”がサービスで付くとのことだが、量が限定されているらしく、付いていなかった。
あと15分早く到着しておれば、”まいたけごはん”が食べられた筈だ。
『いただきまぁ~す』
蕎麦は、手打ちで腰があってなかなか美味しい、量もけっこう多い。
820円はお得だと思う。


3年振りの八郷富士山だったが、2度も道を間違え、大幅に時間をロスってしまったのは痛い。
そのため地磁気側溝所まで足を伸ばせずに引き返すことになった。
事前調査(下見)の必要性を感じる。


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「関東ふれあいの道」(東京)No.6 「杉の木陰のみち」

2012年09月09日 | ウマさんの「関東ふれあいの道」を歩く
2012年9月9日(日)


”ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」”では、
これまでは主に茨城県の「関東ふれあいの道」を歩いてきたが、
仲間の誰からともなく『他県の道を歩きたい』という声が上がり、
東京都の「関東ふれあいの道」を歩くことを企画した。

東京都のコースを選んだのは、コース数が一番少なく、電車・バスの便も良さそうだし、
茨城からでも何とか日帰りで行けるのでは、と思ったからである。

第六回目となるこの日は、コースNo.6「杉の木陰のみち」(上養沢~御嶽駅 11.5Km)を歩いた。

常磐線荒川沖駅を朝一番(5時27分発)の電車に乗り、上野から山手線(京浜東北線)で東京駅へ。
東京駅中央線ホームへの長いエスカレータ。


6時56分発の高尾山行きの電車が到着した。


到着したばかりの中央線高尾行きの快速に乗り込む。
この日の参加者は9名だ。


立川で五日市線に乗り換え、8時34分、武蔵五日市駅に到着。


上養沢行きバスは9時35分までないため、武蔵五日市駅からは、タクシーだ。
運転手に確認すると、5人まで乗れると言う。


9時ちょうど、約15分で上養沢バス停に到着した。
タクシー代は、3,100円程度だったので、4人では一人800円ほどだ。5人では一人600円ちょっとである。
バス代が470円だから、座って行けることや所要時間を考えれば安いのではないだろうか。


前回6月10日以来、約3カ月ぶりの「関東ふれあいの道」である。
念入りに準備運動をして・・・


9時10分、日の出山を目指して出発!
先導役は、この辺りの山は知り尽くしているベテランのKさんが務める。


しばらくは養沢川の流れに沿って進む。


道端にお地蔵様と二十三夜塔などの碑が建てられていた。
お地蔵様にこの日の安全を祈ってそっと手を合わせた。


『きれいな水だわねぇ』


小さな堰が数十m間隔に造られている。
魚の遡上を妨げているのではないか、などとつい思ってしまうが・・・


この日の気温は30度を超えるとの予想だが、杉の木立が強い日差しを遮ってくれるので、それほど暑さは感じない。


舗装された道を1kmちょっと進むと、「関東ふれあいの道」の道標が見えた。
御岳沢出合、ここを右へ折れ、道が分かれる。
日の出山頂まで2.1Kmとある。


山道に入った。


杉の林に囲まれ、雑草が生い茂った坂道が続く。
山道がこのように草に覆われているということは、あまり人が通らないのだろうか?
実際に未だ他の人やグループを見掛けない。
(結局、日の出山手前のくろも岩分岐まで一人も出会わなかった)


薄いピンクのシュウカイドウ(秋海棠)が群生している中を進む。


スタートして40分、建物が見えてきた。


「養沢鍾乳洞」の入口らしいが、現在閉鎖中で見学は出来ない。
養沢鍾乳洞は養沢川で最も早く発見されたもので、奥行50m、幅は広いところで15m位ある、とのことだ。


養沢鍾乳洞前で、一休みしていこう。


杉の林が続く。


石灰岩の大岩下を通る。
覆い被さるような大岩は、今にも崩れ落ちそうで怖い。


「関東ふれあいの道」は石垣で整備されている。


どこかの山城のような雰囲気が味わえる。


坂道を上ると、明るい空間が見えてきた。


金毘羅尾根に到着した。


『素晴らしい眺めだわぁ』
『気持ち良い風だねぇ』


日の出山方面


Kさんの『日の出山はもう近いよっ』の声に励まされて進む。


場所を少し移動して見ると、また景色も変わる。
下に見えるのは「日の出つるつる温泉」へ通じる道のようだ。


日の出山への分岐点
分岐点に辿り着いたとたん、急に沢山の人と合流、すれ違うようになってきた。


日の出山まであと500m付近。
『お先にっ』
女性陣は相変わらず元気が良い。あまり疲れを感じていないようだ。


何と自転車で降りてくる人が。
高尾山では時々見掛けたが、日の出山でも見掛けるとは思わなかった。


日の出山まで0.3Km付近。
坂道が続く。


クロモ上見晴台だ。
霞がかっているため眺望は今一つといったところ。
真直ぐ伸びた檜が印象的である。


日の出山まで0.2Km付近。
やや道がなだらかになってきた。


日の出山山頂直下にバイオトイレがあった。ここで体調を整える人も。


体調も万全となり、日の出山へ向かう。


石段のところに日時計らしきものがあった。
ストックを立てると、11時を差した。ぴったりだ。


11時5分、日の出山(902m)山頂に到着。
上り始めて約2時間、案内どおりである。
ここで全員の証明写真を撮って、一安心。


山頂はベンチや東屋があり、上手い具合に東屋が空いていた。


お昼には少し早いが、ここで弁当を広げることに。
周囲の景色を眺めながら弁当をいただくには、最高の場所だ。


日の出山山頂は明るく広々としており、360度のパノラマが広がる。
日の出山からの眺望(都内方面)


『こっちの方角が御嶽神社?』


『山のてっぺんに神社らしい建物が見えるねっ』
『あそこまで歩くのかぁ』


弁当も食べ終わり、腹が満たされ、御嶽神社目指して出発だ。
時計は、11時33分を差していた。


バイオトイレの先に東雲山荘があった。


山頂を後に、バイオトイレの分岐点から、御嶽神社方面へ下る。


ここからは、下りになる。


杉の林の中を進む。
御嶽神社方面からの登山客とすれ違う。
日曜日ということもあってか、その数は多い。


日の出山山頂から15分ほど下ると、木製の鳥居があった。
扁額には「武蔵御嶽神社」と書かれている。


「杉の木陰のみち」らしき道を抜けると・・・
(実際の杉の木陰のみちはまだ先であった)


国民宿舎「山楽荘」と書かれた看板が。
屋号「神乃家」と呼ばれる宿坊・山楽荘である。


他にも宿坊らしい佇まいを数多く見ることができる。
(御嶽山には全部で30軒ほどの宿坊があるらしい)


細い坂道を上って行くと・・・


国指定天然記念物の神代欅(じんだいけやき)の古木だ。
案内(昭和3年2月の国の指定書)によると、
御岳ノ神代欅
周囲二丈八尺、高さ十丈 根幹ハ崖ノ傾斜面ニアリテ、巨大ナル瘤ヲ出シ樹枝多ク分枝シテ古木ノ雄相ヲ示セリ
(中略)
日本武尊東征ノ折此山ニ登リテ甲冑ヲ蔵ス。此時己ニ此欅生ヒ茂リテアリ。
以テ神代ヨリ存スト云フ。即チ神代欅ノ名アリ。
御岳神社境内木トシテ保存セラレ、村民等ヨクコレヲ愛護セリ。
   


神代欅を過ぎると商店街(門前町)が両側に立ち並んでいる。


商店街を過ぎると、御嶽神社の大鳥居があった。


御手洗で清め、石段を上る。
石段の先に見えるのは随身門だ。


隋神門から御嶽山神社に続く石段を上る。


正面の石段は、通行止めになっていた。


案内に従って女坂を上るが、これがなかなかどうして厳しい急坂道だ。
この日一番の難所と思えるほどであった。


息を切らして上ったところに宝物殿があった。
古代、日本武尊が国家鎮護のために、着用の鎧をこの地に蔵めたことから、
武蔵という国名が生まれたと云われている。
平安時代から江戸時代にかけて、武蔵国の支配者や武士たちの信仰を集め、
大鎧や太刀・刀、具足等が数多く奉納され、それが現在展示されている、そうだ。
なかでも赤糸威大鎧あかいとおどしのおおよろい)、金覆輪円文螺鈿鏡鞍きんぷくりんえんもんらでんのかがみくら)は
国宝として指定されている。


徳川幕府によって造営された権現造りの拝殿・幣殿の御岳神社
御嶽神社は、正式には武蔵御嶽神社とよばれ、紀元前90年、崇神天皇の時代に創建されたと伝わる関東有数の霊場である。
天平八年には、僧・行基が東国鎮護を祈願して蔵王権現像を安置した。


”二拝二拍手一拝”して参拝を済ませた。


拝殿の裏に回ってみる。
本殿は荘厳な神明造りである。


御嶽山を象徴するレンゲショウマがまだところどころに咲いていた。


本殿の屋根越しに日の出山山頂(902m)が見えた。
あそこから歩いて来たのだなぁと軽い感激に浸る。


御嶽神社への参拝を終え、神代欅のところまで戻り、山上集落の中を歩く。


立派な宿坊である。
一度泊まってみたいものだ。


山上集落を抜けると左手に御嶽山ビジターセンターがあったが、改築工事中だった。


ケーブルカーの御嶽山駅を通り、表参道を下る。


杉の巨木が立ち並ぶ表参道だ。
樹齢300年ほどあるらしい。
日差しが遮られるので、暑さを凌げる。


表参道のところどころに地名の由来が書かれた木製の碑がある。
じゅうやっくぼ
説明によると、この辺りは”じゅう薬”(ドクダミ)がたくさん生えていた窪地だったためこう呼ばれた。
ドクダミは食べては解熱・解毒に良く、塗っては虫除け・虫刺されに、煎じて飲めば風邪や便秘に効く、
「十薬・重薬」と書かれることから、薬草としては大切にされてきた。
他にも、”くろもん”や”やまのかみ”・”だいこくのお”・”だんごどう”などの碑がある。


杉の大木の並木は続く。
道の両側の大きな杉の木には、上から順に番号が付けられている。
枯れて伐採された杉の木にも番号(650)が付いたままになっている。
この番号は何番まであるのだろうか?


これが「杉の木陰のみち」なのだと納得した。


ケーブルルカーの線路が見える。


ちょうどケーブルカーが山を下って行くところだった。
青色と黄色の車両がある。


急坂をどんどん下る。


麓の”杉並木一号大杉”(滝本の大杉)に到着した。
推定樹齢は350年で、参道の杉並木のうち最大の木(樹高45m)とのこと。
青梅市の天然記念物に指定されている。
ちなみに番号は784とあった。


表参道の入口の鳥居を過ぎ・・・


13時53分、山麓のケーブルカー滝本駅に到着。


軽い休憩の後、ゴールのJR御嶽駅を目指した。
ここからバスも出ているようだが、歩くことにした。


振り向くとケーブルカーが上っていくところだった。


吉野街道に突き当ったところに立つ真っ赤な大鳥居


吉野街道を横断して地図に従って「御嶽渓谷」へ向う。


道を下って行くと、「御嶽渓谷」に神路橋(かみじばし)が架かっていた。


多摩川が流れる。
堰止められたところは釣り堀になっている。


多摩川沿いの遊歩道を抜けると、国道411号線に出た。


14時36分、JR御嶽駅に到着、ほぼ予定していた時間どおりだ。


少し時間があったので、駅前の店でビールで乾杯した。
実に美味しかったことは言うまでもない。


15時6分発立川行きの電車を待つ。その顔は満足感に溢れていた。
日曜日のため、あいにく空席は無かったが、青梅で東京行きのホリデー快速に乗り換えた。
ホリデー快速ではうまい具合に空席があり、全員座ることができた。


「関東ふれあいの道」(東京)も残すところあと2つとなった。
何事もなく無事予定どおりに終れることを祈りたい。


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