ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

桜が満開 鎌倉ハイキング(天園コース)

2013年03月30日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2013年3月30日(土)


毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成24年度第41回(2013年第12回)、「鎌倉天園コース」を歩くハイキングに参加した。

鎌倉にはいくつかハイキングコースがあり、ここ数年はコースを変えて実施している。
自分としては「天園コース」は初めてである。

この日の参加者は19名。
戸塚駅で横須賀線を待っているところ。
鎌倉方面には東京駅で直接横須賀線に乗り換える方法もあるが、先ず東海道線に乗り、
戸塚で横須賀線に乗り換えるのがホームが隣り合せているため、乗り換えが楽で非常に便利が良い、と思っている。


北鎌倉駅で下車
この日は土曜日ということもあって、観光客が多いが、シーズンともなれば、混雑はこんなものではない。
北鎌倉駅のホームが狭いのと、改札口が鎌倉寄りの一か所だけしかないのが気になる・・・


改札を出るまで5分以上かかることもあるが、この日は数分で出られてホッと一安心。


駅前は狭いため、準備運動はお預けし、とりあえず建長寺を目指す。


3月末という時期に桜が満開は、予想外だった。
桜の花は気持ちも明るくなって、楽しくなるから不思議だ。
少し得した気分。


県道21号線は歩道が狭いので、会長を先頭に一列縦隊で進む。


建長寺の外門が見えてきた。
建長寺は、臨済宗建長寺派の大本山であり、鎌倉五山の第一位に位する。


建長寺の外門を抜ける。


「天園ハイキングコース」は、建長寺を通り抜けなければならない。
総門(巨福山建長寺)の先で拝観料300円を払って中に入る。


建長寺の三門。
満開の桜とのコントラストが素晴らしい。


三門は空・無相・無作の三解脱門の略称。
一般には山門と書くそうだ。
堂々たる構えは、鎌倉五山の第一位と云われるだけのことはある。


通り抜けるだけではもったいない。
せっかくなので、ここで記念撮影しよう。
境内での三脚使用は原則禁止になっているので、交代でシャッターを押すことに。


体調を整えて、いざ出発!
先頭はこれまでにも何度も挑戦し、天園コースは知り尽くしている、というベテランの会長が務める。


右手に仏殿・法堂・唐門を見ながら、「半僧坊」を目指す。


建長寺の左手を進むと、車がやっと通れるほどに道が細くなる。
天園ハイキングコースの始まりだ。


半僧坊(はんそうぼう)の参道入口に半僧半俗姿の半僧坊大権現の銅像が建てられている。
明治中期の建長寺住職 霄貫道和尚は、ある夜お坊さんのような、また俗人とも見える白髪の老人と山中で出会い、
その翁が「私を関東のいずれか清浄な処に招いてくださるなら、その処いよいよ栄え、ありがたいことが絶える事がない」
と告げ、姿を消してしまったという霊夢を見た、とのこと。
この姿が半僧坊の眞姿で、建長寺の鎮守に相応しい、と自ら奥山の方廣寺(浜松市臨済宗方廣寺派大本山)に出向き、
ご分身を請願し、明治二十三年五月、建長寺で最も景色の勝れた勝上けんに安置し、直ちに堂宇を創建して
現在の鎌倉半僧坊本殿の礎を築いた、と伝えられている。(Web参照)


半僧坊大権現への参道


参道の片隅で、遅ればせながら、準備体操だ。


『桜がきれいで良かったねぇ』


10時24分、準備体操も終わり、いよいよハイキングの始まりである。


つづら折りの急な階段が続いている。


会長によると、天園コース一番の上りだそうだ。


『けっこうきついわねぇ』


半僧坊のお供とされる大勢の天狗達に迎えられ、最後の階段を上ると・・・


正面に半僧坊大権現の本堂があった。
この日の無事・安全をお祈りして、


一息入れよう。


「半僧坊」境内から建長寺全景が見降ろせる。
手前から方丈・大庫裡・法堂・仏殿・三門の屋根が。
左手に僧堂 右手には総門が見える。


一息ついたところで、さらに上へ進む。


先ほどの階段に劣らない上りが続くが、そう長くはない。


突然展望台が現れた。
勝上けん(しょうじょうけん)展望台だ。
『いやぁ鎌倉市街が一望できるよ』
『晴れてれば良かったのにねっ』


霞がかっていて水平線は見えないが、材木座海岸(相模湾)だろうか?


建長寺の屋根群が「半僧坊」以上によく見降ろせる。


勝上けん展望台を過ぎると、コースは小さな上りと、


小さな下りが続く。


上っては、下る。


時にはこんな階段状の場所もあって、退屈しない。
『気を付けて~っ』


コース分岐点にはしっかりとした道標があるので、迷うことはない。
今泉台住宅地・覚園寺分岐点


最後の上り?


かと思ったら、まだ上りは続いている。


山中を走って駆け抜ける人をちらほら見受けた。
この「天園ハイキングコース」は「トレイルランニングコース」としても紹介されているそうだ。


11時18分、上り下りを繰り返していると、急に明るい場所に出た。


「鎌倉カントリークラブ」のクラブハウスが見える。


コース中最も標高が高いと云われる大平山(159m)だった。
少し下ったところに広場がある。


11時20分、半僧坊をしゅっぱつしてちょうど1時間になる。
会長によると、ここから先は適当な広場はないとのことなので、
『ここで、弁当にしようっ!』


『やっぱ、外で食べるおにぎりは美味いよねっ』


弁当も終わり、後は下るだけである。
「瑞泉寺」まで1.9Kmとの案内がある。


「鎌倉カントリークラブ」のコースを左手に見ながら、
『こんなところから打ち降ろすのは気持ちが良いだろうなぁ』


一軒目の茶店「天園峠の茶屋」を通過。
客はあまり入っていない様子だった。
『ここでも弁当食べれるんだろうなぁ』


少し先には、二件目の茶店「天園休憩所」の看板が。
一杯やって行きたくなるようなメニューが目を引く。
実際、木々の隙間からは、かなりの客がいっぱいやっている様子が垣間見えた。


茶店を過ぎた辺りからは下りが続く。
獅子舞への分岐付近。


下る途中、一か所だけ右手に視界が開けた。
山桜に彩られた「鎌倉アルプス」が目を楽しませてくれた。
春爛満と云った感じである。


下りの景色(その1)


下りの景色(その2)


突然、目の前に住宅街が広がった。
『え~っ、山の中だとばっかり思ってたら、こんな家の近くを歩いてたんだぁ』
少々拍子抜けした、といった感じは否めない。


気を取り直して住宅地の裏を通過。
少し進むと再び山中らしき道を「瑞泉寺」の案内に従って進む。


しばらく木々に囲まれた坂道を下ってゆくと・・・


「天園ハイキングコース」の登山口に出た。
ハイキングコースはここで終わりとなっている。


登山口を出て右手を見ると、「瑞泉寺」の料金所?が見えた。


しかし、右手には進まず進路を左に取り、「瑞泉寺」山門を通過。
「瑞泉寺」を訪れるのはまたの機会にしようということである。


静かな住宅地を進む。


『あらぁきれいな花だわねぇ』


なんて言ってるうちに、鎌倉宮への道を逸れてしまった。
車が通れそうにない小さな道を進んだため、鎌倉宮から少々離れてしまったようだ。
右手200mほど先に見える鳥居が鎌倉宮二の鳥居だが、そこまで戻ってまで参拝したい、と言う人は、残念ながら誰もいない。
やはり皆さん少しばかり、お疲れのようである。
鶴岡八幡宮へ向かうことにした。


鶴岡八幡宮への途中、荏柄天神社がある。
せっかくだから、お参りして行こう。
賛同者を募ると、やはりここでも賛同者は半数以下。
神社鳥居付近で待ってもらい、有志のみで本殿へ。


荏柄天神社にお参りを済ませる。
『天神様だから、孫の将来を祈るっきゃないねっ』


『見事な桃だねぇ』


鎌倉の細い路地には人力車が似合う。


源頼朝公の墓もパスする人が続出。
大した段数ではないが、階段を登るのは遠慮したい、のが理由らしい。
最後に鶴岡八幡宮の階段を上るために体力を温存しているのかも。
鶴岡八幡宮で合流することにして、希望者だけが源頼朝公の墓へ向かった。


参道入り口に源頼朝を祀った白旗神社がある。


鎌倉幕府の開祖である源頼朝公が眠ると伝えられる墓にしては、やや寂しい。


建久十年(1199)この世を 去った源頼朝は、大倉山の山裾に葬られ、法華堂と呼ばれる社が造られた。
法華堂は墓のすぐ右隣に位置するが、今は何も建っていない。


満開の桜のトンネルを鶴岡八幡宮へ向かう。


鶴岡八幡宮


舞殿(下拝殿とも呼ばれる)からは優雅な雅楽の音が聞えて来る。


結婚式の真っ最中だった。


大勢の観光客の目が舞殿に向けられていた。


何はともあれ今回のハイキングの安全・無事のお礼に本宮へお参りしていこう。
案の定、ここは全員がお参りを済ませたようだ。


本宮への階段
なかなか急な階段である。


本宮の門をくぐると・・・


なかなか前へ進めない。
まるで正月の参拝のような混み具合である。


何とかお参りも終わって一安心。


小町通り(その1)


小町通り(その2)


小町通り(その3)


小町通り(その4)


疲れた身体に「麦田もち」が美味しそうだったので、土産に買うことにした。
つぶ餡のよもぎ餅と餡の白餅がある。
1ケ157円で、何個でもOKなのが嬉しい。土産用の6個入りと、味見用1個を買った。
麦をこがした粉をまぶしたお餅で、香ばしくて美味しかった。


しかし、やっぱり鎌倉と言えば、「鳩サブレ」ではないだろうか。
孫達の土産に「鳩サブレ」も買って帰ることにした。


鎌倉駅には14時10分に到着。
駅前は大変な混雑なため、この日の整理運動は省略である。
『今日はお疲れ様でした~っ』

この日の「鎌倉天園コース」で平成24年度の全ての例会が終了した。
全44回のうち、雨で中止となったのは3回のみで、41回実施したことになる。
天候に恵まれたことに感謝しなければなるまい。

これで一休みしている暇はない。来週からは、25年度の例会が始まる。
また、これまで同様に、元気で歩きたいものだ。
後は天気に恵まれることを祈るばかりである。


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コースを間違うハプニング 阿見さわやかコース

2013年03月22日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2013年3月22日(金)


毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成24年度第40回(2013年第11回)、「さわやかコース阿見」を歩くウォーキングに参加した。

この日のコースは、茨城県のヘルスロード(コースNo.084)でも紹介されているが、当会員にとってはやや距離(4.4Km)が短く、
物足りなさを感じるのではと思い、コースを若干変更して実施することにした。
しかし、このことがコースを間違えるというハプニングに。


この日第一集合場所の乙戸沼公園には9名が集まった。
『今日は随分少ないわねぇ』
第二集合場所が阿見町役場となっているため、直行する人が多いのであろう。


第二集合場所の阿見町役場には、次々に参加者が車で駆けつけた。
最終的に、この日は26名が参加することになった。
(後ろの建物は阿見町役場)


早速、準備運動で身体をほぐす。
『今日は久しぶりに曇ってるねぇ』


『はいっ 深呼吸をして~っ』


9時38分、出発!


この日は、地元のOさんが先頭を務める。


このところの陽気で阿見中学校校庭の桜も三分咲きの状態である。
『今年は桜の開花が早すぎるんじゃない?』


『』


県立医療大学のグラウンド付近。


県立医療大学前の桜並木。
『いやぁ立派な桜並木だなぁ』
『今日は花見も兼ねられそうだねっ』


阿見町総合保健福祉会館「さわやかセンター」前を通過。


県立医療大学前の桜は、”明日にでも満開”といった状態のものも。


医療大学を過ぎた辺りから、回りは田んぼばかりになった。
この辺りでは地図とは異なる場所を歩いていることに全く気付かなかった。


阿見町総合保健福祉会館「さわやかセンター」の裏手に小さな公園があった。
歩き始めてまだ30分足らずしか経っていない。
この先適当な公園があるかどうか分からないので、ひとまずここで小休止しよう。


真っ白なモクレンが満開である。
『今が一番きれいなんじゃないかしら?』


5分後、体調も整ったことから、再出発!


7-8分歩いたところで、どうやらコースを間違えていることに気が付いた。
目印となる交番や学校が見当たらないのだ。
自分たちが地図上のどこにいるのか、見当がつかない。
『曇ってるから方角が分からなかったのが原因かねぇ?』


近くの住人に道を訊ねて、何とか今の位置を教えてもらった。
間違った原因は、コースを変更した際に、間違えて地図を作成してしまったのである。
初めてのコースだった上に下見もせず、勝手にコース地図を作ったことが間違いだったのだ。(反省!)

『コースを間違うことなんてよくあることよっ』
慰めの言葉に気を取り直して再出発!


左手に変わった施設が見える。
国土交通省の東京航空局阿見航空無線標識所の航空標識VOR(VHF Omnidirectional Range)だ。
VOR(超短波全方向式レンジビーコン)は、116.0MHZ(Ch.107)の電波を利用して、
全方向からVOR局からみた自分の方位を決めることが可能な航法援助施設、である。
東日本から東京空港や成田空港に入ってくる航空機は全てこの上空を通過して行くことになっている。


間違った場所から15分ほど歩いて、ようやく目印の阿見交番前の交差点に辿り着いた。
ちょうど交差点の角に交番があることから、「交番前」の名称となっている。


右手は「井関農機」の工場である。
歩道が狭いのが気になる。安全のため一列縦隊で進む。


より車の少ない道を歩くため、阿見第二小学校辺りで右折。
右手は依然として「井関農機」の工場だ。


阿見第二小学校
この日から春休みが始まったためか、校庭に子供達の姿は見えない。


阿見第二小学校を過ぎ、今度は「キリン協和フーズ」の工場を右手に見ながら進む。
この工場では、冷凍のパン生地・ドーナツ生地・パウンドケーキ・蒸しケーキ・クロワッサン
・食パン・焼きおにぎり・焼きそばなどの調理冷凍食品などを作っている、とのことだが、
パンを焼くときのようなほのかな甘い香は全くしない。


11時ちょうど、車の交通量の多い道に出た。
朝方、阿見町役場に向かう際に通った道である。


「キリン協和フーズ」の正門前を通過。
『以前、協和発酵だったところだよねぇ』


茨大農学部交差点


前方に阿見町役場が見えてきた。


11時16分、阿見町役場に到着。
いつもよりかなり早いゴールとなったが、
『午後から総会だから、このくらいでちょうど良かったよねっ』


いつものように整理体操をして・・・


最後の深呼吸
『はいっ 今日はお疲れ様でした~っ』



ヘルスロードをアレンジしてコースを設定したことが原因で、途中で道を間違ってしまった。
町中だったことから、近くの人に聞いて事なきを得たが、これが人里離れた山野だったら大変なことになる。
初めてのコースは、やはり下見が大事なことを再認識させられた。

午後から開催した総会には、例会を10名も上回る36名もの人が参加した。


皆勤賞・精勤賞授与の様子
3年以上も一度も休まずに参加しているというから凄い。
どこまで記録を伸ばすのだろう。


24年度の例会をまだ1回残しているが、この一年を無事締めくくることが出来、
役員一同一安心といったところである。
『皆さん、また来年度も健康維持のため元気に歩きましょう!!』



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日光街道を歩く 第5回 古河宿から小山宿へ

2013年03月20日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2013年3月20日(水)

2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の街道歩きを望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

第5回目となるこの日は、古河宿(JR東北線古河駅)から小山宿(JR東北線小山駅)までの約16.5Kmを歩いた。
寒さが厳しい1月と2月は実施を見合わせたため、3カ月ぶりの街道歩きである。

この日出発地の古河駅に集まったのは10名。
2名が風邪のため急遽参加を取りやめることになったのは残念である。


古河駅前でUさんの指導によるストレッチ運動で身体をほぐす。


春分の日ということもあってか、駅前の人通りは少ない。
通行人の邪魔になることはない。


入念に身体をほぐして・・・
『いっちにっ さんっしっ』


9時6分、小山宿目指して、いざ出発!!


「古河桃まつり」の幟が町のいたるところに立てられている。
”日本一の花桃の里”と謳っているが、一度見てみたいものである。


昨年12月は、古河本陣跡まで歩いたので、今回はその続きを歩くことになる。
本町二丁目交差点を右折し、”日光街道古河宿”の幟を目印に進む。
古河宿は、古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。
将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、
日光街道における主要な宿場の一つであった。


「左 日光道」の道標に従って進む。


この日の予報は曇りで気温も20℃以下とのこと。
長い距離を歩くには暑くも無く寒くも無くちょうど良い気温だ。
昨日までの強風も収まり、絶好のウォーキング日和になったといえる。


古河宿は天保十四年(1843)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣が1軒ずつ設けられ、旅籠が31軒あった。
宿内の家数は1105軒、人口は3865人であったそうである。
古河の街には当時の名残を偲ばせる建物が多い。
鰻屋「武蔵屋本店」


ちょっと変わった鬼瓦が目を引く。


こちらは「大和屋薬局」


宿場を少し外れたところの道路の右側に塩滑地蔵菩薩があった。
お堂は車に隠れて見えずらい。危うく見過ごすところだった。


10mほど奥に進むと塩滑地蔵菩薩のお堂がある。


塩滑地蔵菩薩
顔の部分には赤い布が被せられていて表情は見えない。


この地蔵の塩を体の悪い箇所にすり込むと、ご利益があるとのこと。
お堂の前に塩が置かれていた。
果たしてこの塩で御利益があるのかどうか???


国道4号線との合流点近くに野木神社の鳥居が建っている。
参道がかなり長い。数百mはあるようだ。
調査によると、仁徳天皇の時代からの古社で、文化三年(1806)の火災によって社殿が焼失したが、
古河城主の土井利厚によって再建された、とのこと。
明治時代には、乃木希典からの信仰も篤く、度々参拝に訪れたという。
立ち寄っていきたかったが、日光街道を大きく逸れるので諦めた。


国道4号線との合流点
スミレの花が整然と植えられていた。


日光街道(日光道中・例幣使道・会津西街道)といえば杉並木が有名だが、この野木宿周辺は松並木だったとのこと。
『この辺は松並木が続いていたんだぁ』


しかし、今は松並木は全く姿を消している。


野木宿木戸跡
野木宿の江戸側入口の木戸(門)であり、夜間は閉じられていた。


野木宿の説明版に見入る。
野木宿は古河宿より約2.8Km、間々田宿へ約6.9KMにあった、人口527人の小さな宿場であった。
本陣と脇本陣が各1つ、旅籠(中)2軒、同小23軒があった。
また、高札場が1箇所、問屋場が4箇所あった。
『なるほど』


満願寺
野木神社の別当寺で、寺の前には十九夜塔がある。
十九夜信仰は、旧暦十九日の夜に女性が集まり念仏を唱え、安産や子供の無事成長を祈る月待信仰の一つという。
この日古河から栃木にかけていくつかの寺を巡ったが、多くの寺で十九夜塔を見かけた。
(月待信仰:十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する
仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事)
因みに土浦周辺では圧倒的に二十三夜塔が多い。


満願寺本堂
枝垂桜が間もなく満開を迎えようとしていた。
『この時期に桜も見れるなんて幸せっ』


古河駅を出発してちょうど1時間経過したところである。
本堂の前に用意されていた甘茶で一服だ。


野木宿一里塚跡
日本橋から17里目の一里塚ということだが、小さな看板が立つだけである。
塚の上に榎が植えてあったそうだ。


小山まで12Kmの表示。
まだ1/3しか歩いていない。
『頑張ろう!』


野木宿道標
「是より太平に至る」と記されている。
当時、この横道を行くと渡し場があり川を渡って大平山神社への参詣道であった。


観音堂


「日光道中絵図」にも描かれており、正観音が安置されている、そうだが観音様は見えない。


街道には大きな構えの農家が多い。
どっしりとした長屋門を構える農家。


10時46分、野木駅辺りを通過


法音寺
門前の桜の大木が印象的だ。


中門の前には芭蕉句碑が建てられている。
「道ばたの むくげは馬に 喰れけり」は、道端にむくげの樹が立っていて、一輪の花が咲いている。
と、思ったら芭蕉の乗った馬がそのむくげの花を食べてしまった。という句である。
碑は安永九年(1780)に門人の秋元性李叟により建てられたもの。


法音寺本堂
本堂横の桜の古木もなかなか見事である。


本堂へお参り
『今日も無事に最後まで歩けますように』


『ごぉ~ん!』
静寂した境内に鐘の音が響き渡る。
一撞き50円だ。


11時を少し回り、お腹も大分空いてきた。
菓子パンなどを分け合って一刻の間空腹を凌ぐ。


法音寺仁王門を出て国道4号へ。
本来、ここから入るべきであったが、駐車場側にあった中門から入ってしまった。
せめて出るときは正門から出よう。


門の横に昔の輿が展示してあった。
かつては、このような輿で信者(遺体)を運んでいたのだろう。
霊柩車の前身というべきか?


国道4号線を挟んで法音寺のほぼ正面に正(友沼)八幡宮がある。


正八幡宮は、徳川将軍の日光参詣の際、古河城を出発して最初に休憩した場所であった。


正八幡宮の本殿を裏から見たところ。
表からは想像できない重厚な造りである。


『うわぁ、このモクレン綺麗に咲いてるわねぇ』
ここのところの暖かさで春爛漫といった感じである。


若宮八幡宮
道路の反対側で、横断歩道が近くに無かったことから、カメラに収めるだけにした。
境内には大日如来坐像が安置されている、そうである。


乙女八幡宮は、鎌倉時代に創建されたと伝えられる。


乙女八幡宮の石造鳥居
参道2番目の鳥居は、元禄十六年(1703)に、当時別当寺だった光明寺の住職が願主となって建立したもの。
島木を持つ明神鳥居形式で、規模も比較的大きく、現存するものとしては、小山市で五番目に旧い石造鳥居である。
建立当初の位置を保っていると考えられ、目立った損傷もなく、近世前期の貴重な鳥居である。(説明板より)
鳥居は小山市指定文化財


乙女八幡宮拝殿


境内には土俵があった。
毎年10月初旬には奉納子供相撲大会が催されるとのこと。


時計は11時55分を回っている。
お腹も空いたことだし、乙女八幡宮境内で弁当タイムにしよう。


乙女八幡宮の道路向かい側に佛光寺がある。
近くに横断歩道もないことから、ここはパスして次へ進むことに。


12時39分、間々田駅を通過。


車屋美術館


平成19年に国の登録有形文化財に登録された小川家住宅の米蔵を、本格的な美術展示室として改装するとともに、
主屋・庭園なども一般公開し、平成21年4月に開館した。


龍昌寺りゅうしょうじ


慶安四年(1651)、徳川家光の遺骸を日光廟に葬送の途中で安置所が設けられた。
住職が有名な「間々田の蛇祭り」を発案した寺として有名。


不動堂
中には寝起不動尊(ねおこしふどうそん)が祀られている。


間々田宿問屋場跡
今は説明板が建てられているのみ。
説明板によると、間々田宿は日本橋から11番目の宿場で、江戸と日光のちょうど中間に位置していた。
本陣1、脇本陣1、旅籠50軒があった。
宿役人が人馬継立業務の一切を取り扱い、問屋・年寄・帳付・馬差・人足差などを行う詰所が問屋場であった。


間々田宿本陣跡
問屋場跡と同様、今は説明板が建てられているのみである。
江戸時代初めから、青木家が代々この地で本陣を維持した。
明治になって、明治天皇が一時休憩して過ごした。


間々田八幡宮の鳥居
通りがかった地元の人に聞いて間々田八幡宮の鳥居と分かった。


本殿までどのくらいの距離かを訪ねると、
『ウォーキングする人なら大した距離じゃないんじゃないっ?』と言われちゃあ、進まざるを得ない。
ところが、この参道?がまた長いのだ。
途中で本当に参道なのか、不安になったほどである。


6-7分歩いただろうか、やっと次の鳥居が見えてきた。


さらに参道を進む。
『この参道本当に長いわねぇ』


一番最初の鳥居から約10分、やっと本堂にたどり着いた。
間々田八幡宮の創建は古く、今から1,200有余年前の天平年間に勧請されたものと伝えられている。
この先の無事安全をお祈りした。


境内には樹齢250年の夫婦杉が。


境内には、さまざまな神様が合祀されている。
雷電神社・愛宕神社・淡島神社などの農業神・水神・厄除神・火神・婦人守護神が祀られている。


秋の例大祭で奉納子供大相撲大会が催される。
かつては大相撲の地方巡業で賑わった、そうである。
先ほどの乙女八幡宮と言い、この間々田八幡宮と言い、子供相撲が盛んなようだ。
映画「シコふんじゃった」(1992年)の夏合宿の撮影がここで行われたそうだ。


重さ二十八貫(110Kg)の力石
大正二年に神社から持ち去られた石を、3人の力自慢が友沼宿から一度も地上に下ろさずに
持ち帰ったと伝えられている。


一休みしていこう。
少し疲れが出てきた様子である。


再び国道4号線に戻る。


千駄塚に入ると浅間神社があった。


千駄塚古墳は墳頂に浅間神社を祀っているので、別名浅間山古墳とも呼ばれている。
墳丘の直径は約70m、高さ約10mの円墳である。


緩やかな坂道を古墳丘を目指して上っていくと・・・


墳頂の平坦部に浅間神社が祀られていた。


浅間神社を後にして国道4号線をさらに進むと、安房神社があった。
安房神社の参道も長い。


参道の先に鬱蒼とした古木に囲まれた本殿が見える。
どこか神々しい雰囲気が漂う。


安房神社の本殿
藤原秀郷が、平将門の乱の際に戦勝を祈って参拝し、将門を討ちとった後に多くの資材を寄進した、と伝えられている。


ここには太々神楽・古文書・絵馬など多数の指定文化財が保存されている、とのこと。
これはまた立派な神楽殿である。


この日訪れた神社はいずれも立派な造りで、境内が広いのに驚かされた。
さすがに徳川将軍の街道「日光街道」ということだからだろうか。
『いやぁ凄く広い境内だねぇ』


国道4号を進むと、コンビニの道路脇に大きな椋(ムク)の木が立っていた。
小山市の指定保存樹木になっている。
樹齢は、はっきりとは分からないが300年ほどではないだろうか?


15時4分、国道50号との立体交差を通過。
小山駅まであと2Kmほどだ。


天満宮
天満宮、稲荷神社、雷電神社の三社が合祀されている。
古くからの村社で、江戸時代には氏子は47戸あったと云われている。


小山宿に入った辺り。
”日光ゆば”などの看板が目立つようになってきた。
”早くゴールしたい”という気持ちの表れだろうか、早足になってきた。


須賀神社
地図を確認すると、参道は700mほどあるようだ。
『疲れているのにさらに脇道に逸れるのは勘弁してっ』ということで、須賀神社は写真に収めるだけにした。
調べによると、天慶三年(840)、藤原秀郷が戦勝成就に感謝して、京都の祇園社(八坂神社)から分霊し勧請した。
夏に行われる祇園祭は盛大で、江戸時代の『下野国誌』に「当国第一の祇園会なり」と記されているほどである。
と記されている。


小山市街地は電柱を取り除いてあるので、すっきりとしている。
最近はこのように電柱を取り除き電源・通信ケーブルを地中に埋設しているところが多い。


明治天皇小山行在所跡


小山駅が見えてきた。


15時30分、無事に小山駅に到着。


水戸線友部行きは15時36分だ。次の電車は16時25分で乗り遅れると50分も待たなければならない。
整理体操する時間もなく、駅構内を走り、まさに発車寸前で間に合った。
Mさん差し入れの缶チューハイ・缶ビールでこの日の完歩を祝して『かんぱ~い!』
『こんなに美味しいと思ったの本当に久しぶりだわぁ~』


『いやぁ今日はちょっと疲れたねぇ』
『だけど、歩き終わった後のいっぱいは美味しいわねぇ』


岩瀬を過ぎる頃には、皆さんほろ酔い気分で、話も大いに盛り上がった。
『Mさんっ 次も期待してるよっ』


『皆と一緒に歩くのって楽しいよねっ 次ぎが待ち遠しいねぇ』


3ヶ月ぶりの「日光街道」ということもあり、この日は結構疲れた、というのが実感である。
小山宿に入ってからは、見所を遠望するだけに留めた所もあったが、まあ仕方がない。
この日の小山宿で「日光街道」(千住宿から日光東照宮までの約140Km)のほぼ半分(73.4Km)を歩いた。
「日光街道」歩きもこれからいよいよ佳境を迎えることになる。
最後まで皆さんと一緒に楽しく元気に歩き、ゴールの日光東照宮を目指したい。


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「矢切の渡し」で柴又帝釈天へ

2013年03月15日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2013年3月15日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成24年度第39回(2013年第10回)、「矢切りの渡しで柴又帝釈天」を参拝するウォーキングに参加した。


常磐線土浦駅、荒川沖駅などの最寄り駅から乗り込み、9時24分、スタート地となる松戸駅に到着。
人数を確認すると、この日の参加者は、23名となった。
松戸駅構内は、大変な混雑のため、準備体操は省略。
体調を整え、9時37分、最初の目的地矢切神社を目指し、出発!


松戸駅東改札口を出たところは2Fになるため、1Fに下りる。


駅前バスターミナルを通過。


既に通勤時間帯は過ぎているからか、駅前商店街の人通りは少ない。
この日の先頭はOさんにお願いした。
実はOさんも初めての道であるが、矢切神社まで行けばそこから先は何とかなるだろう。
2009年9月29日に北総線矢切駅から矢切神社を経由して帝釈天へ参拝したことがある。


イトーヨーカドー前を通過


この日は晴れで風も弱く、予想最高気温は19℃と絶好のウォーキング日和である。
『良い天気に恵まれたよねっ』


国道6号陣ケ前交差点


国道6号を横断し、県道180号を進む。


二十世紀が丘柿の木町の住宅地
車の往来が無いのを見計らって道路の反対側へ。
少しでも早目に道路を横断しておこう、という算段である。


住宅地を抜け、少し広めの松戸街道に出た。


外環道の三郷南ICから先の延伸工事の真っ最中。
かなり出来あがっている感じである。
下矢切付近。この辺りに松戸ICが造られるとのこと。


『ここを外環道が通るんだぁ』
『いつになったら出来上がるんだろうねっ』
Webで調べてみると、平成27年度の外環(千葉県区間)開通が見込まれている。
既に用地取得は99%完了しているとのこと。


10時34分、矢切神社に到着。
道を間違うことなく、何とか最初の目的地に着いて一安心。


矢切神社にこの日の安全を祈願して行こう。
宝永元年(1704)6月29日の長雨により、江戸川が大洪水を起こし、水高が地面より8尺余り(約2m50cm)となった。
当時の矢切の民家は江戸川沿岸にあったため、多数の死者を出し、産業も甚大な被害を受けた。
災害から逃れるように村民が台地上に移住し、鎮守として京都東山より稲荷を勧請して祀ったのが矢切神社である。
かつては稲荷神社と呼ばれていた。


松戸駅を出発して約1時間経過、一息入れていくことにした。


矢切神社を後にして、次の目的地「野菊の墓文学碑」に向かう。


矢切神社のほぼ正面向かい側に矢喰村庚申塚がある。


青面金剛の庚申塔を始め、地蔵尊延命地蔵菩薩如意輪観音菩薩馬頭観世音などの石像が所狭しと集められている。


矢喰村庚申塚案内
それぞれの像にはいろんな願いが込められているのが分かる。


矢喰村庚申塚の由来
「温暖で平坦な下総原野が川と海に落ち込むこの矢切台地に人が住んだのは約5千年前、
朝に魚や貝を採り、夕べに鳥や獣を追う平和な生活も、下総国の国府が国府台に置かれた
千3百年ほど前から武士たちの政争の場となり、なかでも北条市や里見氏の国府台合戦は
この矢切が主戦場となり、戦没者は一万余を数えました。
家は焼かれ、田畑は荒らされ、女子供年寄りは逃げまどい、男どもは人足に狩り出され、傷つき
一家は離散。
この塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり、「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ、
親から子、子から孫に言い伝えられ、江戸時代中期に二度と戦乱のないやすらぎと健康を願い、
庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻み朝夕お祈りをしてきました。

このたび先人たちの苦難と生きる力強さを知り、四百年前の遺蹟と心を次の世代に伝えるため
平和としあわせを祈りこの塚をつくります。
  昭和六一年十月吉日 庚申塚保存会」


「野菊の墓文学碑」へ向かう。


矢喰村庚申塚から江戸川方面に数百米行くと、「野菊の墓文学碑」への階段がある。


急な階段を上ると左手に「野菊の墓文学碑」があった。
伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の最初の一節が刻まれている。
僕の家といふは、矢切の渡を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所・・・・・


「野菊の墓文学碑」のある西蓮寺からは眺望が望めないので、道路の反対側へ。


『なかなか良い眺めだねぇ』


西蓮寺を後にして、矢切の渡しへ向かう。
少しばかり急な坂道を降りると・・・


田園風景が広がっている。
石畳が敷かれた「野菊のこみち」を進む。


「野菊のこみち」
『いろんな野菜が植えられてるねぇ』


矢切橋だ。


矢切橋を渡り、


「野菊の小みち」は左に折れる。
『なんだか暑くなってきたわねぇ』
朝方よりも大分気温も上がったようだ。


『道はこっちで間違いないねっ』


ここのところの天気で乾燥してはいるが、ところどころ、ぬかるんだ跡がある。
『雨が降った直後はぬかるんでとても歩けないよね』


「野菊のこみち」を進むこと約15分、「矢切の渡し」の看板が見えてきた。


江戸川の土手を上る。


土手に上ると、江戸川の先にビル群や高層マンションが見えた。
金町駅辺りだろうか?


左手にはスカイツリーも見える。


「矢切の渡し」はもう直ぐだ。


11時28分、渡し場の茶店に到着した。


実は「矢切の渡し」は先週までは平日は「渡し」はしていなかったのだ。
今週から通常どおり平日も「渡し」を始めたのばかりなのである。


しかもこのところ、大風が吹いて、まともに「渡し」ていなかったと思われる。
この日は「渡し」を知らせる旗はしっかりと立てられていた。
そういう意味では、天気に恵まれ、我々は実に幸運だった、と云ってもいいだろう。


船はちょうど一人の客を乗せて向こう岸へ発ったばかりだった。
戻ってくるまで待つしかない。


船は向こう岸から客を乗せてこちらへ向かっている。
非常にゆったりとした船足である。
船頭さんは、意識してゆっくりと櫓を漕いでいるように見える。


片道10分ほどかけて、ようやく船が戻って来た。
幼稚園児らしき子供8人と付き添い2人の10人が乗っていた。


早速船に乗り込む。
料金(片道200円)は各自が直接船頭さんに渡すことになっている。


定員は30名ということで、我々一行全員が一度に乗り込むことができた。
定員オーバーで2度に渡って渡るとなると、かなり時間をロスしてしまうことを気にしていたが
心配無用であった。


ゆっくりと川面を進む。
土日などで行列が出来る時には、モーターでの運転となるそうだが、
やはり櫓を漕いで渡る方が風情がある。


約12分ほどで対岸の柴又へ到着した。


時計はちょうど12時を指したところである。
この日は弁当持参としていたが、『柴又に行くんだったら名物の鰻を食べたいわっ』
という希望者がいたことから、ここで「弁当組」と「鰻組」にいったん分かれることにした。
「弁当組」は、江戸川沿いの「柴又公園」へ、また「鰻組」は帝釈天参道の「川千屋」に向かった。


「柴又公園」に向かった男性陣は、たったの3人だけである。
弁当持参の女性陣数名は近くの公園に消えて行った。


寂しく弁当を食べるOさん。
『良い天気なんだけど、これじゃぁちょっと寂しいねぇ』


「鰻組」の一行と帝釈天で合流するまでにはかなり時間がある。
せっかくだから、「寅さん記念館」へ寄って行くことにした。


入館料(一般500円だが、65歳以上は400円)を払い、館の中に入る。
最初に現れたのは「寅さん」ロケの場面だ。
山田洋次監督や助監督、小道具関係や、カメラ、音声などの人達の実寸大のパネルが展示されている。
映画作りには大勢のスタッフが参加しているのだ。


「寅さん」が化粧(メイク)している最中。
衣裳担当も重要な役目である。


次のスペースには、柴又帝釈天の参道が再現されている。
正面には本物そっくりの帝釈天の二天門が構えている。


こちらは、「くるまや」の撮影スタジオだ。


店の奥の二階上がり口で「寅さん」が気持ち良さそうに居眠りをしている。
どんな夢を見ているのだろう。


こちらはタコ社長(太宰久雄)の工場。
妹さくら(倍賞智恵子)の夫博(前田吟)も当然いる。


昭和30年代の帝釈天参道の街並みの模型。
『わたくし生まれも育ちも葛飾柴又です』の台詞が聞こえてきそうな風景である。


柴又の町並みの前には、精巧なミニチュアセットがある。


こちらは、「くるまや」の模型だ。
二階で寅さんが横になって寝ている。


「寅さん」名場面集


『結構毛だらけ猫灰だらけ お尻の回りは糞だらけ・・・』
『大したもンだよカエルのションベン 見上げたモンだよ屋根ヤのふんどし』
ご存じ寅さんの名調子が聞ける。


これは京成線の前身の動く模型。
明治32年12月より大正2年8月まで、金町~柴又間の約1.5Kmを、帝釈天の参拝者を人が押して運んでいたと初めて知った。

「寅さん記念館」は、まだまだ見所は多く、全てを紹介し切れない。
「寅さん」に会って、映画の場面を思い出すのも良いだろう。
是非一度足を運んで欲しい。

「寅さん記念館」を後にして、帝釈天に向かった。
裏から入ると目の前に大きな建物が構えている。
帝釈天の本堂(祖師堂)だ。


本堂横の帝釈堂は、日蓮大聖人が衆生(しゅじょう)の病を無くさんと、
願いをかけて刻まれた板本尊を祀る。
堂の周囲を法華経説話に取題した彫刻をめぐらしてあり、他に類のない文化財になっている。
帝釈堂内に、東方守護の持国天、北方を守る多聞天が、帝釈天の脇士として配置されている。


大鐘楼
昭和30年、名匠、林亥助棟梁によって完成された総欅の大鐘楼。
高さ約15m、豪壮な桝組と木彫を施し、関東一の鐘楼と言われる。
梵鐘は、雅楽「黄鐘調(おうしきちょう)」と言われ、昭和の銘鐘の名が高い。


二天門
帝釈天の配下の四天王のうち、南方守護の増長天、西方守護の広目天を安置する。
前述したように東方守護の持国天、北方を守る多聞天は、帝釈天の脇士として
帝釈堂に安置されている。


「鰻組」はまだ食事が終わってないようなので、柴又駅から参道を歩いてみることにした。
柴又駅前に「寅さん」の銅像が建てられている。
ふらりと旅に出る恰好が良い。


帝釈天に通じる参道入口


たくさんの土産物屋が並んでいる。


川千屋
鰻料理専門店である。
「鰻組」が今まさに食事をしているところではないだろうか?
うな重定食(\2,500~)ということなので、次に訪れる際には立寄ってみよう。


高木屋老舗
参道を挟んでテイクアウトやおみやげ等の販売店と、喫茶店の2店舗を構えている。
店の壁には故渥美清さんや山田洋次監督、歴代のマドンナの写真を飾ってあるそうだ。


とらや
柴又帝釈天参道で、明治20年「柴又屋」として創業。
当時から、参拝者の食事処、草だんごのお土産として、大いに繁盛した。
昭和44年、第1作目の「男はつらいよ」の映画に使用され、第4作目まで「寅さん」の実家として撮影が行われた。


13時15分にいったん帝釈天境内に集まり、全員揃ったところで記念撮影を済ませた。
後は、ゴールの金町駅を目指すだけである。


揃って参道を進む。


皆さん、土産も買ったようで、満足そうな笑顔に溢れている。


「うな重定食」の話で盛り上がってるのかな?


帝釈天から金町までは「柴又街道」と呼ばれていた。


金町線の電車が通過していくところ。
かつては、ここを人が押して参拝者を運んでいたのだ。


金町駅が見えてきた。


13時45分、金町駅に到着。
この日は場所も狭いため、整理運動も中止と云うことに。
これから上野方面へ行く人もいることから、ここでいったん解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れ様でした~っ』



この日は「矢切の渡しで柴又帝釈天へ」と洒落てみたが、晴れて風も弱く絶好のウォーキング日和となった。
10分余りの「矢切の渡し」であったが、ゆったりとした船旅で気分が癒された感じである。
「寅さん記念館」では懐かしの”寅さん”や”マドンナ”に会うことができ、楽しいひと時だった。
次にまた帝釈天に来る機会があれば、その時は「川千屋」の”うな重定食”を注文することにしよう。


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「関東ふれあいの道」(神奈川)No.4 「佐島・大楠山のみち」

2013年03月10日 | ウマさんの「関東ふれあいの道」を歩く
2013年3月10日(日)


”ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」”では、2011年までは主に茨城県の「関東ふれあいの道」(全18コース)を歩いてきた。
”たまには県外を”ということで、昨年(2012年)は東京都の「関東ふれあいの道」(全7コース)を歩いた。
そして次は神奈川県の「関東ふれあいの道」(全17コース)を歩こうということになり、企画した。

第三回目となる今回は、コースNo.4(佐島・大楠山のみち:約10.7Km)を歩くことにした。

荒川沖6時54分発の電車で上野へ。
日曜日のこの時間は、車内は空いていた。
ボックス席が占有できるのは嬉しいものだ。


この日の参加者9名が、上野駅で京浜東北線に乗り換え、東京駅へ。


東京駅で8時15分発の東海道線に乗る。
地下駅で横須賀線に乗り換える方法もあるが、東海道線は始発なので、空いているし、


戸塚で横須賀線に乗り換えるという手がある。
東海道線とホームが隣り合わせているので、乗り換えがこの上なく楽なのである。
横須賀線も、鎌倉まではほぼ満席に近い状態だったが、鎌倉を過ぎるとご覧のような状態だ。


鎌倉の次の逗子で下車。逗子駅前のバスロータリーへ。
ヨットのマストのような柱に時計が設置されている。


この日のスタート地点大楠芦名口に向かうため、バスを待っているところ。


バスは最初は座れない人も出るほど混んでいたが、大楠芦名口が近くなると乗客は我々だけになった。


大楠芦名口に到着し、「関東ふれあいの道」の看板でコースを確認。
『大楠山までちょうど3Kmだね』


バス停傍らのバス折り返し点でしっかりと準備体操をして、


10時12分、大楠山目指して出発!!


大楠山の大きな標識に従って進む。


しばらく住宅地を進む。


直ぐに緩やかな山道になるが、舗装されているので歩き易い。


次第に坂道が急になってきた。そんな坂道を自転車で上る人もいる。
(写真でみるより勾配は厳しい)


時々車が通るため、避けて車に道を譲る。


出発して30分ほどした時だ、目の前に満開の河津桜と鮮やかな黄色の菜の花が現れた。


『いやぁ まさに満開だねぇ』
『何だかウキウキするよねっ』


殺風景な冬景色の中に、突然濃いピンクの花と鮮やかな黄色い花に迎えられ、気持ちが大いに癒された。


その後も緩やかな坂道が続く。
この頃から風が一段と強くなってきた。
ゴーゴーと、まるで”森が強風で唸り声を上げている”といった感じである。


『いやぁ暑いねぇ 汗かいてきちゃったよぉ』
天気予報では、この日の最高気温は23℃とのこと。
既に20℃は越えているだろう。まるで初夏のような陽気である。


鉄塔が見えてきた。


NHKドコモの「大楠無線中継所」である。


さらに坂道を進むと・・・


道は右に折れ、木の階段を上る。


11時12分、大楠山頂上(242m)だ。
大楠芦名口バス停を出発してちょうど1時間かかったことになる。


お腹が空いていたが、とりあえず「大楠山」の看板の前で全員の証明写真を撮影。
『「横須賀観光マップ」で証拠バッチシだねっ』


強風を避けるため、山頂の「大楠山ビューハウス」内での弁当も考えたが・・・
『もう少し下った所にしよう』ということで、先へ進むことにした。


「大楠山レーダー雨量観測所」のアンテナ鉄塔


『梅が満開だねぇ』
『良い香りがするわ~っ』


「大楠山レーダー雨量観測所」をの少し行った所に低木に囲まれた小さな公園があった。
低木が風を遮ってくれるので、そこで弁当タイムとすることに。


『デザートにどうぞっ』
『これはどうもっ ありがとねっ』


何とか強風に邪魔されないで弁当も食べ終わり、直ぐに下山開始だ、
12時を数分回ったところであるが、まだ先は長い。


『こっからは下るだけだよね』


コースの途中にはクイズが設けられている。
『答えは何番かしら?』


クイズの質問は、「芦名の常楽寺に伝わる、800年前の運慶作の国指定有形文化財の仏像を何と云う?」
答えは、1.木像阿弥陀三尊像 である。
浄楽寺の本尊「木造阿弥陀如来及両脇侍像」(阿弥陀三尊像)および
「木造不動明王像」「木造毘沙門天立像」は運慶の真作と云われている。


『これっ 何て云う花?』


スミレの仲間?
『可愛らしいわねぇ』


こちらはマムシグサの仲間?


快調なペースでどんどん下る。


『ここを上るのは大変だよねっ』
『逆で良かった』


下り始めて45分、前田川の遊歩道に出た。


飛び石が整然と並んでいるので、歩き易い。
『水がきれいだねっ』


流れを縫うように飛び石が配置されている。


こじんまりとしているが、渓谷を歩いているような気分になる。


人工的な”滝”もある。
『変化があって、なかなか良いところだねっ』


『雨の日は歩き難そうね』


遊歩道の終点(起点)が見えてきた。


国道134号を葉山方面へ向かう。


国道134号は、車がひっきりなしに通る。


「立石公園」に到着してみてびっくり。
海は大荒れである。


『いやぁ 凄いねぇ』としか言いようがない。


強い風が吹いていたので、ある程度予想はしていたが、これではまるで台風である。
とても海岸を歩くことは出来ない。
『国道を歩くしかないね』


ひたすらに道134号を歩く。


菊の花がきれいに咲いていた。
『真冬でも枯れないんだぁ 土浦じゃ考えられないよ』


これはかなり厳しい坂道である。
『こんな坂道運転するのって怖いよねぇ』


西海岸通り(国道134号)を進むうちに「長者ケ崎」が見えてきた。
真横からの風が強い。


砂浜を歩ければよかったのだが、現在、砂浜は工事中のようだ。


三浦半島八景「長者ケ崎の夕照」はここからの眺めなのだろう。
”夕照:夕日に照らされた遠くの山”が伝統的な”八景”のひとつとして選ばれている。


葉山御用邸はもう直ぐだ。
本来は、葉山御用邸から100mほど先の一色海岸バス停がゴールだが、
葉山御用邸前を右折して500mほど先の逗子駅に近いバス停まで歩くことにした。


14時30分、旧役場前バス停に到着。
この日のゴールは、ここにしておこう。


数分後に来たバスに乗り、逗子駅に向かう。
逗子駅には14時50分に到着した。


逗子始発の横須賀線で東京駅に向かった。
『いやぁ 今日はけっこう歩いたなぁ』
自分の万歩計は優に20,000歩を越えていた。


次回(4月)は、1月の第一回ではコースの一部が工事中だったため見送った、コースNo.1(三浦・岩礁のみち)を予定している。
三浦海岸の名勝、剣崎・白浜毘沙門天・盗人狩などの岩礁を歩くので、楽しみなコースであるが、
この日のような強風で海が荒れないことを祈るばかりである。


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