ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道Ⅱ 第5回 甲州街道(金沢宿~下諏訪宿2日目)

2018年11月26日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年11月26日(月)

平成27年(2015)1月から翌年(2016)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
『是非続けて欲しい』との声があがり、今年(2018)は「旧街道を歩くⅡ」と称して、
新たな”街道歩き”を始めた。

「旧街道を歩くⅡ」第五回(2日目)は、甲州街道下諏訪宿(鉄鉱泉本館)から上諏訪宿(JR上諏訪駅)
までを歩いた。

2日目の朝
朝食を摂った後、しっかりとNHK朝ドラを見て、


8時40分、「鉄鉱泉本館」を出発!


先ずは諏訪大社下社秋宮へ向かう。
この日の参加者は、5名となった。


下社秋宮の大鳥居から本殿に向かって礼拝!


大鳥居の前から下諏訪の町を見下ろす。
『今日も良い天気だねっ』


下社秋宮の参道(八幡坂)を下る。


八幡坂の大社通り交差点を左折してしばらく進むと、


8時59分、中央本線の踏切に到着した。
右手に下諏訪駅が見える。


踏切を渡り、


諏訪湖岸へ向かう。


諏訪湖岸へ


小さな川に沿って湖岸へ向かう。


川の流れは透き通っていてきれいだ。
川底に生えている藻の緑が美しい。


9時13分、諏訪湖岸に到着
「鉄鉱泉本館」から30分余かかった。


諏訪湖は一周約16Kmとある。
約4Km毎に目標物が定められている。
現在地は一ツ浜公園で、反時計回りで上諏訪駅を目指す。
従って今日は、一周16Kmの3/4(12Km)を歩くことになる。


9時15分、先ずは4Km先の釜口水門を目指し、湖岸歩きのスタートだ。


湖岸を進む。


沖合を5人乗りの競技ボートが滑るように進んで行く。


湖岸にはたくさんのボートが並べられていた。


『思ってたより寒くないわねぇ』


9時30分、一ツ浜公園から1Km地点を通過
この後、1Km毎にこのような標識が現れる。


釣り桟橋で釣りを楽しむ人たち。
この時期の狙いはワカサギなのだろうか。


砥川橋を渡ると、


少しだけ舗装がされていない区間になった。
しかし歩くのに何の支障もない。


お地蔵さん
『こんな所にもお地蔵さんがあるんだねぇ』
『簡単な説明があると良いのにねぇ』


IW子さんが、「鉄鉱泉本館」に水筒を忘れて来た、とのこと。
『今まで大事に使ってきたものなので、取りに引き返したい』と言う。
IW子さんには、「鉄鉱泉本館」から上諏訪方面へ向かってもらい、上諏訪駅近くの湖岸で会うことにした。


9時51分、一ツ浜公園から2Km地点を通過


諏訪湖ハイツ前を通過


D51349号
岡谷市が昭和51年に国鉄から貸与を受け、展示している、とのこと。


横河川白鳥橋を渡る。


対岸方面を見るが、曇っていて富士山は全く見えない。


白鳥飛来南端の地碑
『ここから南は白鳥は飛んで来ないってことなんだねっ』


『スポーツ施設なのかしらっ?』
岡谷市市民総合体育館の西体育館と思われる。


かなり広々とした公園だ。


湖岸を歩く2人


10時5分、一ツ浜公園から3Km地点を通過


塚間川湖岸第一橋を渡り、


10時18分、岡谷湖畔公園の見晴らし広場で一休み。


岡谷湖畔公園には子供用の遊具などもある。


希望の広場のモニュメントを過ぎると、


10時34分、一ツ浜公園から4Km地点の釜口水門に到着した。
一ツ浜公園を9時15分に出発し、休憩も入れて1時間20分弱かかったことになる。


釜口水門


釜口水門は、諏訪湖の水が出て行く唯一の水門で、天竜川となり、
その先は静岡県になり、太平洋へ注がれている。
『へ~っ 天竜川は諏訪湖が源流になるんだぁ』


対岸には、八ヶ岳連峰が見える。


釣り糸を垂らしたままになっていた。
バケツを覗いてみると、ワカサギが。


近くに竿の持ち主がいた。
ほぼ毎日どこかで竿を出している、そうである。


1日に釣ったのは最高5Kgほどで、これまでに釣った魚は50Kg、5万匹以上だとか。
スマホに収めた写真を自慢げに見せてくれた。
『いや~っ 凄いね~っ』
釣り名人に別れを告げ、次の4Kmへ。


「琵琶湖周航の歌」の作詞者小口太郎の像が建てられている。


次の4Km先のガラスの里を目指し、湖岸を進む。


湖岸に浮かぶのはビニールで覆われた釣り船だ。
『あれなら寒くはないだろうねっ』


湖岸を進む。


10時52分、釜口水門から1Km地点を通過


『のどかで良いねぇ』


川鵜ものんびり


湖面に浮かぶビニールで覆われた釣り船に人影が見える。
『ワカサギ釣りのファンはけっこう多いんだねっ』


11時5分、釜口水門から2Km地点を通過


上諏訪駅方面を望む。
湖面に釣り船が浮かぶ。


直ぐ隣を県道16号が走る。


11時18分、釜口水門から3Km地点を通過


湖岸を進む。


右手の小高い丘の上に見える建物は中央自動車道諏訪湖SAだ。


11時30分、県道16号石舟渡交差点に到着
釜口水門から休憩なしでおよそ55分かかった。


ここからは「さざなみロード」とある。
IW子さんから上諏訪駅に着いたとの連絡が入った。
上諏訪駅から湖岸へ向かってもらい、湖岸で落ち合うことにした。


「さざなみロード」を進む。


諏訪ガラスの里が右手に見える。


「さざなみロード」を進む。


11時46分、諏訪ガラスの里から1Km地点を通過


クリーンレイク諏訪で一息入れていこう。


鴨池川橋を渡る。


続いて宮川橋を渡ると、


「すわっこランド」が見えて来た。
「すわっこランド」は、屋内外にあるプールの他トレーニング施設や上諏訪温泉を引湯した温泉施設、
飲食などができる休憩室など多目的な施設ということである。
『諏訪湖の周りにはいろんな施設があるな~っ』


今度は舟渡川を渡る。
この辺りは諏訪湖に流れ込む小さな川が多い。


男性陣2人が湖岸を歩き、自分は「さざなみロード」を進む。
こうすれば、どちらかがIW子さんと合流できるだろう。


12時6分、諏訪ガラスの里から2Km地点を通過


原田泰治美術館はあいにく休館日だった。


原田泰治美術館
諏訪市出身のグラフィックデザイナー・画家の原田泰治の作品を中心に展示する市立の個人美術館。


上川大橋の手前に到着し、


振り返ると、湖岸をIW子さんがみんなと一緒にやって来る。
湖岸を歩いてる途中にみんなと合流したのだ。


12時16分、これでようやく全員が揃った。


島崎川に架かる「ふなっこ橋」を渡り、


上諏訪駅方面へ。
高島城は、次の信号を右折するようだ。


県道50号を横断し、土産物店の横を通り、高島城方面へ。
『食事処かと思ったら土産物店だったのかぁ』
近くにレストランなどは見当たらない。
この分では食事は高島城を見学した後になりそうだ。
お腹が空いてきたがしばらく我慢しよう。


高島城を目指し、県道50号を進む。


県道50号高島4丁目交差点を左折し、高島城へ。


『正面の林辺りが高島城のようだねっ』


城の勝手口(搦手にあたる)である土戸門(つちどもん)を入ると、


左手に神社があった。


諏訪護国神社である。
明治三十五年(1902)に諏訪招魂社として設立され、明治~昭和の戦没者を祀っている。


高島城は完成当時、城 のまわりは湖水と湿地に囲まれ、あたかも諏訪湖中に浮かぶようであったので、
別名「諏訪の浮城」と呼ばれた。
400年ほど前の慶長三年(1598)、豊臣秀吉の家臣日根野織部高吉により築城され、
その後は高島藩三万石・諏訪氏の居城としてその威容と要害堅固を誇ってきた。


天守閣近くに石集配湯枡が
享和三年(1803)第七代藩主忠粛(ただかた)の頃、城内三の丸浴場に引湯のため木樋を継ぎ、
集湯・配湯をした石枡である。
(諏訪市)


高島城は続日本100名城に認定されている。
天守閣への入場料は300円だ。


高島城内へ
明治八年(1875)に取り壊された天守は、昭和45年に復元され、内部は資料館と展望台になっている。


天守閣東側展望テラスからの眺め。


天守閣東側展望テラスからの眺め(パノラマ)


天守閣西側展望テラスからの眺め。


天守閣西側展望テラスからの眺め(パノラマ)


角櫓
本丸には3つの櫓が建てられていた。
そのうちの一つが復元され、内部は茶室として利用されている、そうである。


冠木門跡
本丸の表門にあたり、現在は楼門が復元されている。
冠木橋を渡ったところに冠木門があった。
冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門のことをいうが、
高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門と呼ばれる屋根付の門であったことが分かる。
おそらく、当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、名称のみ残されたものであろう。
(諏訪教育委員会)


冠木門正面の冠木橋からの眺め(角櫓)
鉄砲狭間が設けられている。


冠木門正面の冠木橋からの眺め(天守閣)
天守閣が堀際に聳えるのは珍しい。


冠木門正面からの眺め(パノラマ)


高島城を後にして、三の丸橋を渡って上諏訪駅へ。


右手に見えるのは宮坂醸造丸高工場である。
丸高味噌・醤油の工場だ。


醸造元 神州一味噌株式会社とある。
『かつてTV-CMでよく見た神州一味噌の会社なんだぁ』
あいにくこの日は休みだった。


けやき並木を上諏訪駅方面へ。


中央線の踏切を渡る。


左手に上諏訪駅が見えた。


線路沿いの食事処を探す。


13時26分、1軒の小さなラーメン店を見つけた。
麺屋 宮坂商店という豚骨ラーメン店だった。
食事風景(1)


食事風景(2)


豚骨スープだったが、意外にあっさりしており、お世辞抜きで美味かった。


上諏訪駅で土産物を見て回る。


『りんごは重いから止めとこうねっ』
彼女たちが何を買ったかは分からない。


13時58分、上諏訪駅に到着した。
次の上りの特急は14時13分発のあずさ20号だ。


ホームで電車を待つことにした。


14時16分、数分ほど遅れて特急あずさ20号がやって来た。
自由席には楽に座れた。
新宿には15時33分に到着した。

『皆さん 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧街道を歩くⅡ」第五回目甲州街道(金沢宿~下諏訪宿)(2日目)を歩き終えた。

旧甲州街道は昨日で歩き終えたので、この日は甲州街道の最終日ということで、
諏訪湖の残り3/4周を歩いた。
昨日は上諏訪から下諏訪まで歩いているので、一応諏訪湖を一周したことになる。

この日の万歩計は24,000歩を超えていた。

特選街道Ⅱ 第5回 甲州街道(金沢宿~下諏訪宿1日目)

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特選街道Ⅱ 第5回 甲州街道(金沢宿~下諏訪宿1日目)

2018年11月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年11月25日(日)

平成27年(2015)1月から翌年(2016)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
『是非続けて欲しい』との声があがり、今年(2018)は「旧街道を歩くⅡ」と称して、
新たな”街道歩き”を始めた。

「旧街道を歩くⅡ」第五回(1日目)は、甲州街道金沢宿~下諏訪宿間を歩いた。

新宿7時ちょうど発の特急スーパーあずさ1号に乗車


全員2号車の座席を指定購入したが、かなり空席があった。
この時期(11月下旬)は、普段でもそれほど混んではいなのだろう。
自由席でも良かったかな。


定刻に発車した特急スーパーあずさ1号は、9時8分、茅野駅に到着した。


茅野駅構内には国宝「土偶」の”縄文のヴィーナス展”のポスターが。



こちらは”仮面の女神”


前回最後に立ち寄った茅野駅前の諏訪神社大鳥居
この日はここがスタートとなる。


9時21分、茅野駅前の諏訪神社大鳥居を出発!
この日の参加者は自分を入れて6名である。
1名が入っていないが、5名が揃ったところを撮るのはなかなか難しい。


大年社(おおとししゃ)
諏訪神社上社の末社である。
祭神は大歳神で、祀られた年代は明らかでない。
(中略)


御座石神社同様、御柱を建てず、代わり七年ごとに素朴な鳥居を建てるなど、古風を多く残している。
国指定史跡(平成6年12月指定)となっている。
(茅野市教育委員会)
旅の無事安全を祈願した。


旧街道は少し進むと国道20号に合流する。


国道20号を進んで行くと、小さな鳥居があった。


八幡神社である。
八幡神社は古くは八幡宮とよばれ、当社の由緒書によれば、既に鎌倉時代弘長年中(1261~1264)に
前上社大祝諏訪盛重が鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を分霊し、八幡山極楽寺を別当として、神祭祈祷を盛んにし、
さらに戦国時代永禄年中(1558~1570)、鎌倉より光明寺を移し、極楽寺とともに別当し、
社地は数町歩に及び、上原城下町の中枢として広く諏訪一円から崇敬された。


八幡神社の真後ろに大きなケヤキの木が聳えているのが特徴的である。


国道20号上原頼岳寺交差点に少林山頼岳寺の石柱が建っている。


中央本線の線路を潜って進むと、


突き当たりに頼岳寺があった。
頼岳寺は、曹洞宗(禅宗)に属し、本山は永平寺(福井県)と総持寺(神奈川県)である。
開創は江戸時代初期の寛永八年(1631)で開山(初代住職)は大通関徹、開基は高島藩初代藩主の
諏訪頼水である。


総門を潜って参道を進む。


参道両側の杉並木は、かつては目通り幹周り3.5m、推定樹齢300年の大木が立ち並んでいたが、
昭和九年の室戸台風及びその後の台風によって多くの木が倒れた。
現在は同樹齢の木は少ないが、境内の杉木立と合せ、頼岳寺の由緒と風致の上からも貴重なものである。
(茅野市教育委員会)


石段を上り切ったところが山門である。


山門の仁王像(阿像)


山門を潜ると正面に大きな屋根の本堂が構えている。
『いやぁ 凄い立派な本堂じゃんっ』


本堂にお参りし、頼岳寺を後にする。


旧甲州街道を進む。
右手は一段高い地形のためか石垣が多い。


神戸(ごうど)温泉の貯水タンク
硫黄の匂いが漂う。
『本物の温泉だねっ』


地元の女性が収穫したばかりの野沢菜を温泉水で洗っていた。
この温泉は、共同で上諏訪から引いているとのこと。


火燈(ひとぼし)公園
諏訪地方にいくつかある、火燈伝承のある場所の一つ。
火燈伝承のあるいくつかの地点の中心に位置することから、地域の人達によって「火燈公園」
と名付けられたという。
神戸村では御柱年の盆の十五日(七月)のタ、頼重院の裏山、前山の峰に近い「火燈場」で、
諏訪大社へ鳥居火を灯して、奉納した。
かつてこの背後の山上で上社のための火が燈され、それを偲ぶものがこの火燈公園ということのようである。


10時34分、諏訪頼重の菩提を弔う頼重院前を通過。
諏訪頼重は、武田信玄と戦って破れ、甲府に連行されて自刃した。
頼重の妻は信玄の妹であり、まさか義理の兄が攻めてくるとは頼重も思っていなかった。
頼重は桑原城で篭城し、これを大軍で囲んだ信玄は、和睦を打診した。
これに応じた頼重は、城を出た後に甲府に連行され、そして自刃させられた、そうである。


また別の温泉を利用した地域の洗い場があった。
この温泉は硫黄の匂いはしなかった。


石に囲まれた双体道祖神と秋葉山常夜灯
この辺りでは道祖神と秋葉山常夜灯がセットになっているようだ。


道端に小さい神社があった。
神ノ木神社とも呼ばれているそうだ。
御柱もあり、小さいながらも存在感を漂わせる。


神ノ木神社の直ぐ先に一里塚碑があった。
日本橋から51番目の神戸一里塚である。
塚上の榎は8~9mほどの大木で、旅人にとってはよい目標や休憩所となり、
野良に働く里人達にも親しまれたが、明治時代に入ってから取り壊された。


旧街道を進む。


大きな常夜灯が。


常夜灯は三叉路の真ん中に建てられていた。


突然視界が開けた。


上諏訪方面の市街地が見える。
『諏訪湖はまだ見えないねぇ』


11時ちょうど、足長神社に到着
『いやぁ 随分急で長い石段だね~っ』
『ここから拝んじゃおうかなっ』


『ちょっと写真だけ撮ってきますっ』
皆さんを代表する形で足長神社の鳥居を潜って社殿へ向かった。


急勾配の石段を上る。


女性2人も後を追って上って来たが、次に振り返るとその姿は見えなかった。
諦めて引き返したようだ。


石段を上ると、車が通れるほどの道路があり、道路の反対側へと拝殿への石段が続いていた。


さらに石段を上って行くと、拝殿らしき建物が見えて来た。


足長神社拝殿に到着、参拝!
この拝殿の裏の一段高い所に本殿があるそうだが、このときは気が付かなかった。


下りの途中、道路から見下ろした上諏訪方面の景色


道祖神?
暗くて中はよく見えなかったが、


ストロボで撮ると、双体道祖神だった。


これはまた別の道祖神
2つの道祖神が並んでいるようにも見える。


11時28分、細武温泉共同浴場前を通過
『共同浴場があるってのは羨ましいねぇ』


この道祖神は新しいようだ。


ここでも野沢菜を洗っていた。
今が野沢菜漬けの最盛期なのだろう。


11時37分、旧街道は国道20号に合流した。


しばらく国道20号を進む。


古い蔵造りの家
”呉服の「かねさ」”の商号が見える。


山田養蜂場
『TVのCMでよく見るあの会社っ?』
『上諏訪が本社だったのかぁ』


店頭右手にいろんな形の蜂の巣箱が並べられていた。


宮坂醸造セラ真澄
『「真澄」って有名でけっこう人気がある酒だよねっ』
『試飲すると歩くのがおっくうになるからなぁ』
ということで試飲のために立ち寄るのは断念。


宮坂醸造セラ真澄の向かいに十王堂跡の碑が。
この十王堂は、初代諏訪藩主諏訪頼水に誅殺された男の首を、地元の人が祟りを恐れて建てたもの、とのこと。
明治の神仏分離令により廃寺となってしまった、そうである。


貞松院の門を潜る。
お昼前の休憩場所を探していたところ、たまたま通りかかったので立ち寄ってみた。


門を入ると延命地蔵尊像があり、
「延命地蔵経」には地蔵尊を信仰すれば、次の十種の福に恵まれることが説かれています、とある。
①女人泰産 女性はやすらかなお産が出来る。
②身根具足 身体が健康で丈夫になる。
③衆病悉除 諸々の病気が回復する。
④寿命長延 寿命は長くなる。
⑤聡明知恵 聡明で智慧が備わる。
⑥財宝盈溢 財に恵まれる。
⑦衆人愛敬 多くの人に愛される。
⑧穀米成熟 穀物など豊作となる。
⑨神明加護 神仏に守護を得る。
⑩證大菩薩 悟りを得る。 


史跡 松平忠輝廟の碑
松平忠輝は、徳川家康の六男で、妻は伊達政宗の娘・五郎八姫(いろはひめ)。
家康からは嫌われていたようだ。
また、伊達政宗は忠輝をかついで天下を狙っていたという話もあり、家康もそれをずっと警戒していた。
大坂夏の陣の後改易となり、いろいろな場所を巡った後、諏訪に幽閉され、天和三年(1683)
この地で亡くなった。93歳の長寿だった。


貞松院本堂


本堂前で一休みして、


旧街道を進む。


手長神社の鳥居
足長神社の長い石段で懲りているので、手長神社は鳥居の前から参拝した。


うばがふところ
説明板によると、
上諏訪郵便局のあたりは”うばがふところ”と称し、清水湧き温泉出する福地であり、
和泉町の名の由来ともなりました、とある。
『温かい御手洗水だねっ』


12時24分、諏訪教育会館前を通過すると、


右手に吉田の松が。
高島藩士吉田式部彦衛門が元禄三年(1690)から享保八年(1723)、藩主忠虎の大阪城守備に
随行したとき持ち帰ったものと伝えられる。
代々吉田家の庭園に育てられていたものを、昭和の始め旧甲州街道沿いに移植したものであり、
市内の最年長樹である。
『いやぁ 枝振りが見事だね~っ』
『ちょっと大きい盆栽って感じだねっ』


甲州道中五十二里塚
甲州道中は、江戸から甲府が表街道、甲府から下諏訪が裏街道と呼ばれ、下諏訪宿で中山道と合流していた。
ここに一里塚ができたのは慶長十五年(1610)頃と言われている。
この塚は江戸から52里で、西は下諏訪町富部の53里塚、東は四賀神戸の51里塚へと続いている。
(諏訪市教育委員会)


お昼を過ぎ、かなりお腹が空いてきた。
上諏訪駅へ行けば何らかの店はあるだろうと考え、上諏訪駅方面へ。


駅前の寂れた感じの裏通りを抜け、


12時40分、上諏訪駅に到着
駅近くの食事処の情報を元に、


駅前の「いずみ屋」というレストランへ。


この店で一番人気があるというみそ天丼セット(1,000円)を注文


皆さんみそ天丼セットである。


女性もみそ天丼セットだ。


一里塚(甲州道中五十二里塚)碑まで戻り、あらためて旧街道を進む。


崖の上の家
『いやぁ あんな崖っぷちの家に住んでて怖くないのかなぁ』
『見晴らしは良いんだろうけどねぇ』


直ぐ先に旧勾配の石段があった。
『こんな石段を上り下りするのは大変だよぉ』


13時40分、温泉寺への入口を通過すると、


先宮神社があった。
先宮神社の創立は古事記の「国ゆずり」の神話の一節にみえる。


先宮神社拝殿
諏訪神社の祭神「建御名方命」が、出雲より洲羽(諏訪)の地に遷御された以前より、
すでに原住民の産土神であった。


先宮神社拝殿


拝殿脇には諏訪市指定の天然記念物「大欅」がある。
『ケヤキのこぶは珍しいよねっ』
目通りの幹周7.45m、樹高25m、枝張(長径)25m、(短径)15mで、樹齢650年と推定される。
古来「大樹は人を育てる」といわれ有名な巨樹である。
(諏訪市教育委員会)


旧街道を進む。
寿量院500m先の案内板が。


道端に注連縄が巻かれた古木があった。


御神木のようだ。
『幹の半分がえぐれてるけど樹勢は旺盛なんだねっ』


御神木の傍にひっそりと立つ道祖神


『ようやく諏訪湖が見えたね~っ』


14時7分、清谷山寿量院の山門に到着


寿量院本堂
浄土宗の寺院で、ご本尊は阿弥陀如来だそう。


本堂の右手に文殊稲荷と枝垂桜が。
枝垂桜は、元和元年(1615)大坂夏の陣に二代藩主諏訪忠恒公が出陣し、
戦勝記念に桜を持ち帰り移植したものが、この枝垂桜と伝えられている。
(温泉寺・貞松院にも植えられている)
(説明板)


見晴らしの良い場所を進む。


古そうな家が並んでいた。


甲州道中茶屋跡(橋本政屋)
「橋本」と書かれた行燈が見える。
連子格子の家で、脇の門は高島城三ノ丸の門を移築したもの。
欄間には鯉の彫刻が施されている、とのこと。


また別の古そうな家を過ぎると、


四隅を小さな御柱に囲まれた道祖神が。


諏訪大社下社秋宮を目指し、旧街道を進む。


諏訪湖全体を見下ろす。
『こうやって見るとけっこう大きいよね~っ』


高層マンション「プチモンド諏訪レイク」前を通過
『見晴らしは最高だろうねっ』


石投場碑(右)
碑には南信八名所石投場と刻まれている。
往時は足元が湖面であった為、ここで石投げを興じた。
昔は石を投げれば諏訪湖に届くような所だったことから名づけられた。
明治天皇駐輦跡碑(左)
明治十三年(1880)、明治天皇ご巡幸の折に、とても風景が良いので思わず車を止めたと云われている。
ここから漁夫たちの投網の様子をご覧になったと云われる。


諏訪大社下社秋宮を目指す。


緩やかな坂道を下って行くと、


一里塚跡碑が。
この塚は江戸日本橋より53番目の一里塚で、甲州道中最終のもの。
あと11町(1100m)で華やかな下諏訪宿に着き、中山道につながる。


旧甲州街道を進む5人


承知川橋石
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
伝説によると、永禄四年武田信玄が川中島の戦の砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し、
社殿の建替えと千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う。
しかし、戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが、乗馬は頑として動かず、信玄ふと先の約定を思い出され、
馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したと言う。
以来承知川と呼びこの一枚石の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。


承知川橋石の左脇に祀られた承知地蔵尊


15時8分、諏訪大社下社秋宮に到着
我国最古の神社の一つであり、信濃国一之宮として、朝廷や幕府の信仰が厚く、
全国一万余の諏訪神社の総本社である。
御祭神は、信濃国の国造りをなされ、日本国土の守護神としてこの地にお鎮りになった。
本殿には後ほど参拝することにして、ひとまず甲州道中・中山道合流之地へ。


15時14分、この日の目的地である甲州道中の終点(始点)と中山道が合流する場所に到着した。


記念撮影を終え、あらためて諏訪大社下社秋宮へ。


根入りの杉
この杉の木は樹齢凡そ六~七百年で丑三つ時になると枝先を下げて、寝入りいびきが聞こえ、
子供に木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止ると云われている。
(説明板)


神楽殿(国重要文化財)
御神前に神楽を奉納するための建物で、天保六年(1835)上社本宮幣拝殿を手掛けた
立川和四郎二代目棟梁富昌により落成した。
三宝切妻造りと呼ばれる様式で幣拝殿のような彫刻は見られない。
正面の大注連縄は御柱祭毎に新しく奉製され、重量は約一トンである。
(説明板)


上社本宮幣拝殿(国重要文化財)
この建物は御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったものである。
二重楼門造りと呼ばれ、二階は跳勾欄(先の反った欄干)を回し、全体に見事な彫刻が施されている。
諏訪高島藩の命により、安永十年(1781)に初代(立川流)棟梁立川和四郎富棟によって造営された。
(説明板)


左右片拝殿(国重要文化財)
安永十年(1781)、初代立川和四郎富棟によって造営された。
幣拝殿に比べ彫刻などは見られず、江戸時代の記録には、幣拝殿は帝屋(御門戸屋)、
片拝殿は回廊と記されている。
(写真は左側で、右側にも対照的に片拝殿がある)


天覧の白松(三葉の松)
昭和天皇・皇后両陛下が行幸の折りに御覧になったと云われる「白松」だが、「三葉の松」
と云われるようである。
日本に自生していた三葉松は数百年前に絶滅して、北アメリカより渡って来たものと云われている。


昭和三十九年五月十二日 昭和天皇皇后両陛下ご参拝
と記されている。


一之御柱
御柱は、寅年と申年の七年目毎に御宝殿の造営と共に建替えられる御神木で、社殿の四隅に
建立されています。
この秋宮一之御柱は、長さ17m余、直径1m余の樅の木で、霧ヶ峰高原に続く東俣国有林に於いて伐採され、
数千人の氏子の奉仕により曳行されました。
御柱祭は、天下の奇祭として有名であり、次回は平成三十四壬寅年に行われます。
(説明板)


前回の中山道歩き(2015年7月20日(月))の際に見つけられなかった三之御柱、四之御柱は、
左右片拝殿の裏側にあることを今回しっかりと確認した。
写真は三之御柱


KKさんとはここで分かれることに。
下諏訪駅16時10分発の特急あずさ号で新宿へ向かうとのこと。
『お疲れさまでしたぁ』 『またご一緒しましょうっ』


KKさんと分かれて、この日の宿泊先「鉄鉱泉本館」へ向かった。


15時38分、中山道下諏訪宿の本陣に到着


本陣岩波家
格式高い門構えの岩波家は、本陣問屋役を元禄元年から明治維新まで務めていた家柄。
現当主は28代目になる。
門の扉は固く閉じられていた。
『この前に来た時も閉まってたよねっ』


温泉ハウス「児湯」を通過
『このお風呂に入ったよねっ』


旧中山道の下諏訪宿へ。


15時43分、「鉄鉱泉本館」に到着した。


玄関ホールでしばし寛ぐ。


一風呂浴びて旅の疲れを癒やした後は、食事の時間である。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧街道を歩くⅡ」第五回目甲州街道(金沢宿~下諏訪宿)(1日目)を歩き終えた。
明日は、鉄鉱泉本館から諏訪湖へ行き、反時計回りで諏訪湖畔を廻ることを予定している。
かねてから甲州街道歩きの最終日は、諏訪湖周遊をと計画していたので、楽しみである。

この日の万歩計は25,000歩を計測していた。

特選街道Ⅱ 第5回 甲州街道(金沢宿~下諏訪宿2日目)

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特選街道Ⅱ 第4回 甲州街道(教来石宿~金沢宿2日目)

2018年06月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年6月25日(月)

2015年(平成27年)1月から翌(2016年)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
仲間から『是非続けて欲しい』との声があり、今年(2018年)は「旧街道を歩くⅡ」
と称して、新たな”街道歩き”を始めた。

「旧街道を歩くⅡ」第四回(2日目)は、甲州街道蔦木宿(すずらんの里駅)~
金沢宿(JR茅野駅)間を歩いた。

2日目の朝
しっかりと朝食(830円)を摂って、


7時33分、ちのステーションホテルを出発!


茅野駅前ビルのベルビアを左に見て、


7時35分、茅野駅に到着
ホテルから僅か2分である。


駅弁は、9時半過ぎにならないと販売されない、とのことなので、
駅売店で昼の弁当(おにぎり)や飲み物を買い、


上りホームで電車を待つ。


下り松本方面のホームは、通勤・通学の人でいっぱいだ。
『けっこう通勤・通学の人が多いんだねっ』


7時59分発の上り電車に乗り、


8時9分、2つ先のすずらんの里駅に到着


すずらんの里駅から旧甲州街道(国道20号)方面を望む。
空には雲一つなく、今日も良い天気だ。
『かなり暑くなりそうだねっ』


8時11分、すずらんの里駅を出発し、この日のゴール金沢宿茅野駅を目指す。
『暑さに負けず頑張りましょうっ!』


国道20号神戸八幡交差点を右に曲り、


国道20号を進む。


国道20号が分岐する所を左に進む。
昨日一度歩いているので、迷うことはない。


分岐点を左に少し進むと、たくさんの馬頭観音碑が並んでいる。


緩やかな坂道を上って行くと、


御射山神戸一里塚に到着した。
こちらは東の榎の一里塚
御射山神戸一里塚は、集落の北外れにあって、日本橋から48里目(49里との説も)
の塚と云われ、明治中頃までその役割を果たしていた。
道路右側の東塚には榎が育っていたが、明治初期に枯れてしまったという。
現在の榎は2代目になるのだろうか?


西の欅の一里塚
残っている西塚の欅は、塚が造られた慶長年間に植えられたものと推定され、
樹齢は凡そ380年を数える。
現在では目通り高で幹の太さが周囲6.9m、樹高は約25mの巨木となり、
永い歳月と風雪に耐えて堂々たる風格を備え、樹勢もなお盛んである。
甲州街道でこのように塚・欅ともに往時のものが保存されている例は他になく、
実に貴重な存在である。
(平成10年3月 富士見町教育委員会)


標高917mの標柱が建てられている。
『標高1,000m近いんだねぇ』


旧街道を進んで行くと、


高層マンションのような建物が現れた。
SEIKO EPSON社の社員寮「金沢精和荘」と思われる。
『随分立派な建物だよねっ』
『福利厚生がしっかりしてるんでしょうねっ』


旧街道を進む。


旧街道を進む。


庚申塔や百番四国供養塔などの碑を眺めながら進むと、


8時53分、国道20号に出た。


国道20号を進むが、どの辺りを歩いているのか見当がつかない。


小さな神社が見えたので、立ち寄ってみることに。


石段を上って行くと、金毘羅様が祀られていた。
金毘羅様の元宮は、四国香川の琴平町の象頭山の中腹に祀られている。
祭神は、大国主命で海の守護神と商売繁盛の神様である。
江戸時代、宿場町であった金沢は、商業活動が盛んであったため、
商売繁盛の神様である金毘羅様への信仰が深まり、ここに金毘羅神社が
祀られた、とある。


再び旧街道に戻って国道20号を進む。
金沢上町バス停を通過


曹洞宗金鶏山泉長寺の入口と思われるが、本陣跡を探すのに夢中になってしまい、
門前で引き返してしまった。


金鶏山泉長寺は、諏訪三十三観音霊場の三番札所になっており、
本尊は、釈迦如来である。
(写真は聖観音菩薩像)


旧街道(国道20号)を進む。
本陣跡らしき碑あるいは建物を探すが見つからない。


9時18分、信濃金沢郵便局前を通過
その先に、


連子格子の古い家があった。旅籠松阪屋だった。
旅籠松阪屋は、宿場一番の旅籠として繁盛し、当時は博打も盛んに行われ、
博打場や逃げ道(地下通路)もあったと云われております。
先祖は、伊勢の松阪より金沢宿に来た人と伝えられ、江戸時代に出版された
旅行案内書に「松阪屋は女・子供でも安心してお泊りいただけます」と
宣伝文が載せられていました。
(金沢地区コミュニティ運営協議会他)


松阪屋は、明治20年に全焼したが、その後再建されたのが現在の建物である。
江戸時代後期の旅籠屋の様式を伝えている貴重な建造物であり、
昭和の初期まで営業を続けていた、とのこと。


横棟造りの古くて大きな家があった。
中馬宿(馬宿)である。
宿場の任務は3つあり、公用荷物優先運搬の人馬の継立て、旅人の休泊、
通信業務でした。
幕府は、この業務のために人足と馬と馬子を常備させ、問屋が取り仕切っていました。
江戸中期以降商業が盛んになり、荷物の動きが多くなると、問屋経由の運搬では
間に合わなくなり、私設の中馬荷物問屋(中馬宿)が発達しました。
(金沢地区コミュニティ運営協議会他)


この馬宿は、江戸時代から明治38年までの150年間、小林家が中馬宿を営業していた。
当時は24頭の馬と馬方を泊めることが出来た。
軒先には「馬繋ぎ石」を見ることができる、とのことだが、あいにく見落とした。


門前に秋葉常夜灯と刻まれた石柱が建てられていた。
灯籠ではなく、電燈で照らすようになっている。


宮川に架かる金沢橋の手前にフェンスを背にして、
仏像や石碑などが十数基が並んでいる。


道祖神やちょっと変わった表情のお地蔵さんもある。


宮川に架かる金沢橋を渡る。
往時の川幅は7間(約12.6m)あった、そうだ。


右手にこんもりした森があった。
承応三年(1654)建立の金山大権現を祀っている権現の森である。
江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは
慶長15年(1610)の頃である。
その頃ここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、
度重なる宮川の洪水や慶安三年(1650)の大火を機に南方の現在地へ移転し、
翌四年に金沢宿と宿名を改めた。
この宿場は山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、
交通上、物資の流通上重要な所であった。
(茅野市教育委員会)


権現の森の鳥居を潜って参道を進む。


参道の突き当りに金山大権現が祀られている。


権現の森のご本体である。
祭神は、金山彦命を祀る金山権現である。
金山彦命は、鍛冶屋・鉱山関係の金鶏金山に関係した神様と思われる。


金山権現の石祠の左右には、江戸中期ころより庶民の信仰として祀られた、
大六天・津島牛頭天王、


不動明王、


摩利支天・甲子・秩父坂東西国巡礼供養塔、


蚕玉大神など大正期までの石造物が祀られている。
権現の森境内には他にも、御嶽座王大権現・如意輪観音・庚申・道祖神石祠
などが祀られている。


御柱も立っている。


権現の森で一休みだ。


権現の森を後にして旧街道を進む。


旧甲州街道
権現の森の前から通るこの道は、旧甲州街道です。
この街道沿いに青柳宿(旧金沢宿)がありました。
五街道制定時、武田信玄によって造られた青柳宿は、幾度も宮川の氾濫に
悩まされていたところへ、更に大火で青柳宿が全焼したのを契機に、
慶安四年(1651)東南方向の現在の金沢区に宿場を移し、金沢宿と改称しました。
この地は、戦国時代は武田信玄によって営まれ、江戸時代になって徳川幕府は
それを継承して宿場として本陣や問屋が置かれていました。
(金沢地区コミュニティ運営協議会他)


国道20号を右手に見ながら旧甲州街道を進む。


枡形道の外れと思われる鉤の手を右に折れ、国道20号へ戻り、


国道20号を進む。


3人は旧甲州街道枡形道の先をそのまま進んでいる。
農道のような径が続いているのだろう。
国道20号を歩くより安全だとは思うが・・・


長野精工金沢工場入口に到着。
真っ直ぐ進んだ3人が合流して曰く、万年橋と書かれた橋があった、とのこと。
交通量の多い国道20号を横断して行くのも大変なので、万年橋は諦めることにした。


国道20号を進む。


個人宅の庭先に大黒様らしき大きな像があった。
『何か御利益があるのかしらっ?』


古そうな蔵(倉庫)である。


旧甲州街道は折り返して坂道を上るように案内されている。


標識に従って急坂を上って行くと、


坂道の途中に簡素な鳥居と大きな石碑があり、低い御柱が立っていた。
石碑の字は読めないし、説明など何もない。


坂道を上って行き、


中央本線(茅野方面)を跨ぐ。


線路を渡ると、旧街道は直ぐ左手の坂道を下っていく。


前方頭上に道路が走っている。
国道20号に繋がるのぞみ大橋か?


旧街道を進む。


小早川橋を渡ると左に南無阿弥陀仏と刻まれた碑が立っていた。
無縁仏を供養する碑なのだろうか?


小さな川(宮川)に沿って進むと、


電車が走って行くのが見えた。


中央線のガードを潜る。


旧街道を進むが、道が狭い割には交通量が多い。
大型車も通るので、最大限の注意が必要だ。


鮎釣り(友釣り)をしている人が。
釣果は定かではない。


11時6分、旧街道は国道20号に合流した。


合流点に立ち並ぶ石像群
常夜燈や二十三夜塔などの石像が多数集まっている。


一級河川の弓振川を渡り、


次の坂室交差点を右に曲がると、


11時10分、酒室神社があった。


酒室神社は、諏訪大社の祭礼のひとつである御射山祭りに濁酒(どぶろく)を作り、
山の神に供える前夜祭を執り行った神聖な地に祀った神で、
酒解子(さけとくね)之神を祭神とする。
神殿は文政八年(1825)大隈流の建築家矢崎玖右衛門の建築したもの。


酒室神社


お昼にはちょっと早いが、ここで弁当にしよう。


この日の弁当は、茅野駅で買った明太子と南高梅のおにぎりである。


酒室神社を後にして、旧街道を進む。


前方に見えるのは中央自動車道だ。


中央自動車道を過ぎ、旧街道らしい町並みを進むと、


三山神社入口の案内表示があった。


階段を上って行くと、


碑が並んでいただけだった。
神社らしき鳥居や社殿などは見当たらなかった。


旧街道に戻って進むと、


蔵造りの家が現れた。
「米膳かくい」とある。


お米屋さんが経営している和菓子屋である。
メニューは、おはぎ・だんご・くるみ大福・豆餅・あんころもち・赤飯など。


さらに進んで行くと、道路を横断して観光客がぞろぞろと
建物の中に入って行くのが見えた。


道路反対側には大型観光バスが止まっていた。


12時10分、宮川三輪神社に到着
三輪神社は、久寿年間(1154~56)の創建で、大和の国三輪村神社を
この地にお迎えしたものと伝えられ、宮川茅野・西茅野両区の産土神である。
祭神は大国主命・稲御魂命・櫛玉命である。


拝殿は、文政三年(1820)に建築されたが、明治41年に改築している。


本殿は、文化元年(1804)3月に矢崎玖右衛門により建築されたもの。


神社に隣接する古めかしい三階建ての土蔵は、寒天を保存するのに使われた
「かんてんぐら」で、以下の説明が。
この建物は、昭和の初期、岡谷に在った繭倉を移築し、寒天倉庫として
使ってきたものです。
明治から大正期、岡谷は製糸で栄えていました。
昭和に入り、製糸が下火になるのと入れ替わるように、ここ茅野では
寒天作りが盛んになっていました。


「かんてんぐら」は、そんな背景の中、岡谷から移築されてきたものです。
繭倉として建てられてから築百年以上と考えられています。
寒天倉庫としての役目を終えたこの「かんてんぐら」を、平成21年、
多目的ホールに改装して、現在は音楽をはじめとする様々なイベント等で
使用しています。(宮川くらの会)


道路の反対側を見ると、蔵造りの建物が並んでいる。


醸し丸と書かれた看板には、八ヶ岳 蔵元直営 麹カフェとある。


その隣は、丸井伊藤商店とあり、店先に大きな樽が置いてある。
味噌の漬物店のようだ。
先ほどバスから降りた観光客が入っていった建物である。
工場見学にでも入っていったのだろうか?


食事処「やまと」、


すっぽん料理屋「月とすっぽん」前を通り過ぎ、


12時22分、上川に架かる上川橋を渡る。
上川は往時、茅野川と呼ばれ、川幅60間(約108m)の大河であった。


上川の水源は八ヶ岳で、流末は諏訪湖に落ち合う。
遠くに八ヶ岳が見える。


『あの建物は、私たちが泊まった所だよねっ』
ちのステーションホテルである。


茅野駅に向かう。
その前に、茅野駅南に大鳥居があるというので、見てゆこう。


茅野駅前交差点に諏訪大社上社本宮参拝道の大鳥居があった。
諏訪大社上社本宮は、歩いて行ける距離ではない、そうなので、
この日はここまでとした。


駅前ビルのベルビア内を通って茅野駅へ。


12時35分、茅野駅に到着
5分ほど前(12寺30分)に特急あずさ16号が出たばっかりだった。
次の特急スーパーあずさ18号は、13時33分である。
約1時間ここで時間を潰すことになる。


茅野駅前に姥塚古墳があった。
かつてはこの地に古墳が存在した、そうだ。
明治37年(1904)茅野駅開設に先立ち取り壊され、その際に装身具・鏡・
土器等が出土している。
また、昭和61年(1986)駅舎改築及び西口整備の際には、
それまで残されていた石室の一部も撤去され、現在は標示が立つのみである。


30分ほど駅の周辺や待合室で過ごしていたが、駅ホームの方が涼しいのではないか、
ということで、駅ホームに移動して時間を潰す。


『やっぱりこっちの方が涼しいねっ』


13時33分、特急スーパーあずさ18号がやって来た。
特急スーパーあずさ18号の自由席はかなり空いていた。
新宿までに停車した駅は、甲府・八王子・立川の3つだけで、
新宿には15時33分に到着した。早い!

『皆さん 今日は大変お疲れさまでしたぁ』

「旧街道を歩くⅡ」第四回目甲州街道(教来石宿~金沢宿)(2日目)を歩き終えた。
御射山神戸一里塚は前日にも見たが、その素晴らしさには、やはり感動した。
今後何百年も残って欲しいものである。
金沢宿では本陣跡を探すのに夢中になって、金鶏山泉長寺山門前にあるとされる
「おてつき石」を見逃したのは、残念である。
また、本陣跡も見つけられなかったのは、残念至極という他ない。


次回(2018年9月)は、甲州街道の最終回として金沢宿~下諏訪宿を予定している。
2日目は、諏訪湖の残り半周を歩くことも予定している。
次回はどのような景色を観ることができるのか、今から楽しみである。

この日の万歩計は18,000歩を計測していた。

特選街道Ⅱ 第4回 甲州街道(教来石宿~金沢宿1日目)

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特選街道Ⅱ 第4回 甲州街道(教来石宿~金沢宿1日目)

2018年06月24日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年6月24日(日)

2015年(平成27年)1月から翌(2016年)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
仲間から『是非続けて欲しい』との声があり、今年(2018年)は「旧街道を歩くⅡ」
として、新たな”街道歩き”を始めた。

「旧街道を歩くⅡ」第四回(1日目)は、甲州街道教来石宿~金沢宿間を歩いた。

新宿7時ちょうど発の特急スーパーあずさ1号に乗車
前回、自由席も満席状態で、甲府駅まで座れないという苦い経験を味わったため、
今回は指定席を購入した。
この日は、座席にはかなり空席があり、自由席でも座れたと思う。


8時54分、小淵沢駅に到着
この日の参加者は6名である。


小淵沢駅の売店で駅弁を買い、


甲州街道(国道20号)まではタクシーを利用した。


9時12分、この日のスタート地点、国道20号の荒田交差点に到着。
料金は1720円だった。
3名づつ乗ったので、一人当たり570円余りということになる。


9時17分、JRすずらんの里駅に向けて、出発!


国道20号を進む。


9時27分、鳳来警察官駐在所前を通過
前回、ここからタクシーで小淵沢駅に向かった時の記憶が蘇る。


9時30分、上教来石山口諏訪神社に到着


諏訪神社の創建および沿革について詳しいことは明らかではない。
祭神は諏訪明神と通称される建御名方命で、古来より教来石村の産土神として
崇敬を受けてきた、そうだ。
教来石に建てられていた小祠が移設された神社、とのこと。
今回の旅の無事安全を祈願して、


旧甲州街道を進む。


教慶寺の石仏地蔵
地域内に火災・悪病・強盗などの凶事が相次いだことから、この災厄を除こうと
大きな石地蔵を鎮在して、地域に平和が訪れたと云われている、そうである。


教慶寺の石仏地蔵の先で、旧街道は国道20号から分岐している。
右側の旧街道を進む。


旧街道を進むと、


山口関所跡の説明が。
甲州24ヶ所口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。
ここが何時頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(1546)、
武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。
(中略)
この番所に残る大きな出来事に、天保七年(1836)郡内に端を発した
甲州騒動の暴徒が、この地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた
判断を咎められ、番士が”扶持召し上げられ”の処分を受けたことである。
番士のうち二宮氏は再び職に戻り、明治二年番所が廃せられるまで勤め、
明治六年に設けられた台ヶ原屯所の初代屯所長に起用されている。
(以下略)


鳳来山口関跡の碑


向いに西番所跡と刻まれた碑があり、次のように刻まれていた。
天保七年八月、百姓一揆時に開門 その責任を取り、
名取慶助は若尾に改姓、明治四年に廃藩により廃止
1992年 若尾法昭
(番所の門を開き、その責任を取って改姓したことを後世に残すために
名取慶助の子孫が石碑を建立?)


10時17分、国道20号に合流


釜無川に架かる国界橋を越えると、甲斐国から信濃国へと入ることになるが、


国道方向へは行かず、国道20号を横断して真っ直ぐ進む。


『この道って通れるのかしらねぇ?』


猟銃らしきものを背負っている人がいた。
犬が猪や鹿を追って来るのを待っている、とのこと。
道を尋ねると、この先の橋を渡れば国道に出られる、と聞いて一安心。


釜無川を渡る。


橋の出口には獣害を防ぐための金網が張られ、扉が閉まっていたが、
鍵はかかってなく、通り抜けることが出来て、一安堵。


国道20号を横断し、旧街道を進むと、


10時35分、日蓮上人の高座石の碑があった。


”この奥28m”の案内表示に従って進むと・・・


高座石らしき岩が祀られていた。
伝承によると、村に悪疫が流行し、村人が難渋していたので、
日蓮上人は三日三晩この岩に立って説法とともに加持祈祷を行い、
霊験をあらわにしたという。


旧街道に戻り、道なりに進む。
道端には道祖神や石仏などの碑が立ち並ぶ。
苔むして判読できないものが多い。
簡単な説明でもあればありがたいのだが・・・


標高731m
『東京スカイツリーより高いんだねっ』


旧街道を進む。


10時44分、真福寺に到着
元は真言宗であったが、日蓮上人に感応し、日蓮宗に改宗した、そうだ。
山門の二階部分は“鐘楼”になっており、


参道にはお釈迦様の弟子おびんずる様(浄行菩薩)が祀られている。


真福寺本堂にお参りして、


旧街道を進むと、


見晴しの良い場所に出た。


応安の古碑群
応安(1368年~1374年)とは南北朝の年号で、諏訪郡で最古の碑、と伝わる。


旧街道の左手には国道20号が走っている。
いつの間にか道の駅「葛木」は過ぎてしまったようだ。


10時59分、葛木宿に到着
江戸幕府の宿駅制度によって、慶長十六年(1611)頃、
甲州道中第43番目の宿駅として設置された蔦木宿は、
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠15軒であった。


蔦木宿の入口に常夜燈が建てられ、道祖神が祀られている。


六角灯籠
このような形の灯篭は初めてだ。
『珍しい形をしてるよねっ』


南の桝形道路
蔦木宿は、甲州街道の宿駅として、慶長十六年(1611)頃に設置された。
この宿駅は新しい土地に計画されたので、希に見る完備した形態となっている。
枡形路は、南北の入口に設けられ、以来、宿内への外からの見通しを遮り、
侵入者の直進を妨げて、安全防備の役割を果たしてきた。
(富士見町教育委員会)


枡形を左に直角に曲がると、国道20号に出た。


葛木宿の各家々には、甲州街道葛木宿 xx屋の屋号が掲げられていた。
かつてここにあったという屋号であり、現在の表札とは異なる。
べっこう屋


かなり年数が経っているようで、文字が薄くて読み難い。
油屋


本陣大阪屋の門
ここは弘化三年、最後の本陣を務めた大阪屋の跡地で、
明治13年の明治天皇御巡幸の際の小休所となった所である。
本陣の規模は広大で、多くの座敷や板敷、土間のほか、堂々とした門構えや
広い玄関、書院造りの上段の間などを具備していた、とのことだが、
現在は門のみが存在している。


門の直ぐ傍には、蔦木宿本陣跡碑(右)と明治大帝御駐輦跡碑(左)が建てられている。


葛木宿の家並みと屋号が書かれた宿の図
右側は南、左側は北と表示されている。


寿喜茂登屋


与謝野晶子の歌碑
白じらと 並木のもとの石の桶が 秋の水吐く 蔦木宿かな


北の桝形道路は、国道20号から左に折れて続いている。


角に桝形道址の石碑が建っている。


旧街道(国道20号)を進む。


旧街道(国道20号)を進む。


塩沢温泉
『温泉に入りたいねっ』


ラーメン、もつ煮込み、ギョーザ、ハンバーグ、
あらあげなどの幟が風にはためいている。
このような幟が気になるということは、お腹が空いてきた証拠か・・・
弁当を食べれる場所を探しながら歩くことにする。


12時3分、机地区への上り口を通過


左手に白州町大武川地区の景色を見ながら進む。


道路左側に「たけち温泉」の看板が。
『この辺りは温泉が多いんだねぇ』


緩やかな坂道の旧街道を進み、


12時26分、立場川に架かる瀬沢大橋を渡る。


立場川は釜無川の支流になっている。


緩やかな上り坂を進むと吉見屋と書かれた看板の家があった。
たばこ、塩などの文字が見えるが、今は営業していないようにみえる。


さらに坂道を進む。


手持ちの地図には左手辺りに神社のマークがあり、いかにも神社らしい雰囲気だったので、
急な石段上って行くと・・・


12時42分、果たして小さな神社があった。
『御柱があるんだから神社なんじゃないのっ』
古いが土俵も見える。


神社の名前は分らないが、大神と刻まれた碑が。


境内の神社の反対側には2つの小さなお堂があった。


左側のお堂には全身を白い涎掛けに包まれたお地蔵様が。
子安地蔵なのだろうか?


中尾山西照寺と書かれたお堂には2体の仏像が安置されていた。


この際、神社でもお寺でも構わない。
お昼時も過ぎているし、ここで弁当タイムにしよう、ということに。


弁当タイム


この日は、小淵沢駅で買った「鶏めし弁当」(980円)である。
なかなか美味しかった。


13時24分、昼食も終わり、旧街道を進む。


緩やかな坂道を上る。
旧街道の案内表示などは何も見当らない。
『この道で合ってるんだよねっ?』
手持ちの簡略地図では不安が募るが、


道端にこのような石碑(馬頭観世音?)があるのをみると、旧街道に違いない。


小さな峠を越えると見晴しの良い場所に出た。
前方左手に建物が見えるが、コンビニだろうか?


建物は、ジャンピンというバン工房だったが、日曜日のためか扉や窓は閉まっていた。


緩やかな上り坂の旧街道を進むと、右手に山が連なっているのが見えた。
『あの山って八ヶ岳じゃないっ?』


13時48分、尾片瀬神社に到着した。
由来等は不明だが、とちの木集落の外れにある神社である。


尾片瀬神社に参拝


尾片瀬神社からは八ヶ岳がよりはっきりと見えた。


旧街道沿いの道端に佇む石仏群を過ぎると、


芧木(とちのき)風除林があった。
寛政年間(1789~1800)に村では高島藩へ願い出て、
防風林として外風除けを村の上に仕立てた。


そのアカマツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして今日に至っている。
(富士見町教育委員会)


重修一里塚碑


重修一里塚は、日本橋から46番目の一里塚である。


重修一里塚碑の近くに950mと書かれた標高標柱が。
『筑波山より200mも高いんだよねっ』
近くにいた地元の人に聞いた話では、冬は−20度にもなるそうだ。
『冬はとてもじゃないけど住めないよねっ』


甲州街道の標識に従って枡形のような道を進む。
標識がないと、道に迷ってしまう。


『ちょっと疲れちゃったねっ』


木陰に腰を下して一休みして行こう。


農道のような道を進んで行くと、原の茶屋に出た。


富士見公園があった。
公園内には、有名人の歌碑や句碑があるようだが、
見て回るのは大変だ。
現在地から一番近い所に芭蕉の句碑があるようなので、見てみよう。


芭蕉句碑
これは明治14年鶴鳴舎中により建てられたもので、
元禄七年(1694)芭蕉が箱根を越えたときに読んだ句である。
眼にかゝる ときや殊更 五月不二 はせを


街道を進むと、明治天皇御膳水の碑があった。


明治天皇御膳水碑の先に常夜灯が建てられていた。


道祖神や庚申塔、供養塔などを右手に見て、


旧街道を進む。


左手に見えるのは、入笠山だ。
入笠山といえば”すずらんの群生地”として有名である。
今から6年前の2012年6月19日(火)に常南交通社のバスハイキングで来たことがあるが、
この辺りだったとは知らなかった。


『これってキャベツでしょっ?』
『きちんと植えてあるわね~っ』


旧街道を進む。


金山大権現の碑


『これは石仏のようだねぇ』


下り坂の旧街道を進んで行くと、


前方の山裾にJRすずらんの里駅が見えた。
『すずらんの里駅が今日のゴールなんだよねっ』


15時16分、国道20号に合流
富士見パノラマリゾート入口交差点とある。


700mほど国道20号を進むと、神戸八幡交差点があった。
この信号を右に曲がればすずらんの里駅だが・・・


時間も早いし、この日の最後を飾るには御射山神戸一里塚を見ておこうということに。
その前に先ず神戸八幡神社へ参拝を済ませておこう。


御射山神戸八幡神社(富士見町指定湯系文化財)
この八幡神社は、古くは鍬形八幡と称されていたようであり、
現在の建物は宝暦十二年(1762)の建立になり、
棟梁は伊奈郡沢底村(現辰野町)出身の加藤吉左衛門である。
(以下略)


八幡社本殿東側の欅(富士見町指定天然記念物)は、樹高30m、胸高幹囲7.7mで
町内で一番の大木であり、樹齢390年と推定される。
町内の寺院や神社の境内に植栽されている欅には大木が多く、
胸高幹囲3mを超えるものが14株あり、そのうち4株がこの境内のものである。
(平成15年3月 富士見町教育委員会)


国道20号を進むと、道が分岐していた。


分岐点に石碑が立っていたが、何と書いてあるのか全く読めない。


近くにいた人に一里塚の場所を訊ねるNKさん。
分岐点を左に進むように教えて貰った、とのこと。


分岐点を左に少し進むと、たくさんの馬頭観音碑が並んでいた。
『こんなに馬頭尊が集まっているのは見たことがないよねっ』


さらに坂道を進んで行くと、堂々とした塚が見えて来た。
『あれが一里塚みたいだねっ』


御射山神戸一里塚は、集落の北外れにあって、日本橋から48里目(49里との説も)
の塚と云われ、明治中頃までその役割を果たしていた。
道路西塚には欅が、東塚には榎が育っていたが、明治初期に枯れてしまったという。
こちら東側の榎は2代目になるのだろう。


残っている西塚の欅は、塚が造られた慶長年間に植えられたものと推定され、
樹齢は凡そ380年を数える。
現在では目通り高で幹の太さが周囲6.9m、樹高は約25mの巨木となり、
永い歳月と風雪に耐えて堂々たる風格を備え、樹勢もなお盛んである。
甲州街道でこのように塚・欅ともに往時のものが保存されている例は他になく、
実に貴重な存在である。
(平成10年3月 富士見町教育委員会)
『今じゃ樹齢400年ってことだよねっ』
『こんな立派な一里塚を見るのは初めてじゃないかなぁ』


御射山神戸一里塚を見たことで、一区切り付いたことから、
すずらんの里駅へ引き返すことにしよう。


神戸八幡交差点を左に曲りすずらんの里駅へ。
前方にすずらんの里駅舎が見えて来た。


駅舎近くにスズランが植えられていた。


16時3分、すずらんの里駅に到着。


16時34分、下り電車がやって来た。


『いやぁ 今日は良く歩いたよな~』
『ちょっと疲れちゃったねっ』


16時45分、茅野駅に到着


明日の上り電車の時刻を確認
『7時59分があるねっ 乗り遅れてもその次は8時22分だしねっ』


駅前の飲食店などを確認してホテルへ向かう。
『ここでいっぱい飲って、後で何か食事を注文すればいいんじゃないっ?』
の一言に全員納得、これで決まりである。


茅野ステーションホテルが見えた。


17時2分、茅野ステーションホテルに到着


ホテルでひと風呂浴びて汗を流した後、18時30分、食事に出掛けた。


「庄や」は、けっこう地元の人で混んでいた。


先ずは生ビールで乾杯をして、一日を振り返って話が盛り上がっていると、
隣席のお嬢さんが全員での写真を撮ってくれるという。
お言葉に甘えて撮って貰ったのがこの1枚。


皆で『ありがとうっ』と礼を言い、カメラを構えると、
にっこりと笑顔で応じて、Vサインを返してくれた。
なかなかチャーミングだ。
ブログに載せることを約束した。
(コメント期待してます)


この日は、仕事の打ち合わせで来ているとのこと。
二人とも独身とのことだが・・・
幸せになって欲しい。

『皆さん 今日は大変お疲れさまでしたぁ』

「旧街道を歩くⅡ」第四回目甲州街道(教来石宿~金沢宿)(1日目)を歩き終えた。
神戸八幡神社から先の馬頭尊像や御射山神戸一里塚は、翌日も歩くので、
余分ではあったが、この日の締めには最高の場所と思い、足を延ばした次第。
御射山神戸一里塚を目にした時には、その立派さに感動を覚えた。
ここまで歩いて来て良かった、とその時思った。

茅野駅に着いた頃には正直言って疲れたが、
駅前の「庄や」でのいっぱいは、疲れを吹き飛ばしてくれた。
また、チャーミングなお嬢さんの笑顔が新たな力を与えてくれたような気がする。

明日は、蔦木宿(すずらんの里駅)~金沢宿(茅野駅)を予定している。
どのような景色を観ることができるのか、楽しみである。

万歩計は31,000歩を越えていた。久しぶりの30,000歩超えである。

特選街道Ⅱ 第4回 甲州街道(教来石宿~金沢宿2日目)

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特選街道を歩くⅡ 第三回 中山道(大宮宿~上尾宿)

2018年03月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年3月25日(日)

2015年(平成27年)1月から翌(2016年)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
仲間から『是非続けて欲しい』との声があり、今年(2018年)は「旧街道を歩くⅡ」
として、新たな”街道歩き”を始めた。

「旧街道を歩くⅡ」第三回目は、中山道の大宮宿~上尾宿間(約9Km)を歩いた。


上野発8時19分発の高崎線籠原行電車に乗り、
8時49分、出発地の大宮駅に到着した。


大宮駅東口


8時58分、上尾宿(上尾駅)目指して大宮駅を出発!
この日の参加者は、自分も入れて6名である。
大宮駅近くに大宮宿本陣の一つ臼倉本陣跡があるそうなので、
探してみることにしよう。


旧中山道(県道164号)を大宮駅前からさいたま新都心方面に
少し戻って本陣跡を探しながら上尾宿を目指すことにする。


仲町辺りから大門町方面へ本陣跡の標識などを探しながら
旧中山道(県道164号)を上尾宿方面へ。


道路の反対側にもキョロキョロと目を光らせながら進む。


すずらん通りの方も目を凝らして探す。


一番街交差点付近を通過


県道2号との大栄橋交差点を通過し、旧中山道を進む。


さらに旧中山道を進む。
6人で周りをキョロキョロしながら進んだが、
ここまで本陣跡を示す何の標識も見つからなかった。


『ここまで何も見つからなかったんじゃぁこれ以上探すのは無理だねっ』
『このまま上尾方面へ行くしかないねっ』
ということで大宮宿の本陣跡を探すのは諦めて、上尾宿を目指した。


前方に見えるのは東北本線だ。


旧中山道は、東北本線を潜って上尾方面へと続いている。


9時23分、東北本線を潜る。


大宮警察署前付近を通過


東大成葬斎センター前を通過


幸運の仔豚像
ぼくは幸運の仔豚大チャンです。
イタリアの芸術の都フィレンツェにある仔豚像は、鼻を撫でると幸せになれると
言い伝えられ、世界の人々に親しまれています。
ぼくの鼻を撫でながら願いを唱えてください。
あなたにきっと幸福が訪れるでしょう。
多くの人に鼻を撫でられたのだろう、鼻がピカピカに光っている。


9時30分、大宮郵便局前を通過


旧中山道にしては旧い建物は見当たらない。
『旧中山道を示す標識なんかも無いしねぇ』


9時38分、「くらづくり本舗」前を通過
「くらづくり本舗」は、蔵の街川越で育まれた和菓子の老舗、だそうだ。
『本物の蔵じゃあないよねっ』


旧中山道(県道146号)を上尾宿を目指す。


ユキヤナギ(雪柳)の花が満開状態だ。
『いやぁ こうやって咲いてるのを見ると見事だねっ』


9時59分、ユキヤナギの後ろの小さな公園で一休みしていくことに。
しばしのお茶タイムだ。
『ご馳走さんっ』


旧中山道を上尾宿方面へ。


庚申塔
庚申塚ともいい、中国より伝来した道教に由来する、
庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。
庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。
庚申講とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、
寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、
庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って
宴会などをする風習。


猿田彦大神と書かれた東大成庚申塔
高さ142Cm・幅45Cmの庚申塔で、江戸時代前期の元禄十年(1697)の建立。
正面に青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻されている。
地元では”耳の神さん””眼の神さん”と大事にされ、耳や眼の病気の時には
団子を供えるなどしてお参りしたそうだ。


10時13分、東北・上越新幹線下を潜ると、


東大成町交差点がある。
旧中山道は左に続いている。
右の東北・上越新幹線沿いの道は国道17号(現中山道)だ。


旧中山道(県道164号)を進む。


この辺りまでも旧中山道に関する道標や標柱など何も見当たらなかった。
昔から何もなかったのか、あるいは何かの形で残すのが面倒だったのか・・・
旧中山道としては、寂しい限りである。


歩道に橋供養塔と刻まれた石柱がポツンと立っていた。
『ここに橋があったということなのかねぇ?』
何らかの説明板があれば良いのだが・・・


『桜がきれいに咲いてるねぇ』
『ちょっと桜見物でもして行こうか?』


宮原三丁目公園の桜が満開だった。


10時29分、宮原駅入口交差点を通過。


左側を見ると宮原駅が見えた。


小さな鳥居と社のような建物があった。


社には天満宮と書かた額があった。
天満宮としての由来は、菅原道真を祭神とする神社で、
政治的不遇を被った道真の怒りを静めるために神格化し、
祀られるようになった御霊信仰である。
『天満宮にしては、可愛らしいねぇ』


10時43分、村社加茂神社に到着。


村社加茂神社
天正十年(1582)の文書で加茂宮と記載されている古社であり、
山城の国、賀茂別雷神社から勧請したと伝えられる加茂宮村の鎮守である。


御手洗で手を洗い清め、


拝殿に参拝
加茂神社の祭神は、五穀豊穫と子孫繁栄の神を意味する別雷命である。
明治六年(1873)に村社となり、明治四十年(1907)には
近辺の7社を合祀した、とのこと。


本殿は文政十年(1827)に再建されたもの。


本殿の巧緻な「競べ馬」の彫刻が素晴らしい。


加茂神社の境内に合祀されていた三峯社。


11時11分、国道16号(新大宮BP)を潜る。


ピンクがきれいな桜が咲いていた。
『本当の桜色だねっ』 『あまり見たことがない花だねっ』
『何と言う桜なのかねぇ』


11時4分、さいたま市立宮原小学校前を通過


宮原小学校のセンダンは、開校当時に教鞭をとっていた一教師が帰省した折、
郷里の高知より苗木を持参し植えたものと言われている。
樹齢100年、樹高15m、根回り3.60m、目通り(幹回り)3.02m
昭和55年3月 大宮市教育委員会


『今じゃ樹齢140年は経ってるけど かなりの古木・大木だよねっ』
センダンは成長が早いらしい。


11時11分、手作料理とお酒処「徳樹庵」前を通過


「くるまやらーめん」と続くが、昼にはまだ早い。


11時18分、南方(みなかた)神社に到着
江戸時代の『五街道細見独案内』に、諏訪神社として登場する神社である。


南方神社
旧吉野村の鎮守で諏訪社とも呼ばれたが、明治四十年(1907)
近隣にあった9社を合祀し、現在の名前となった、とある。
地元では「お諏訪さま」と呼ばれている、そうだ。


ホルモン焼き・お好み焼き
お好きなもの3品食べて1,450円の得々セットや、
90分間食べ放題プランの他、
お好み焼・もんじゃ・焼きそば・ペッパーライスのプランAが
1,480円とある。
上尾駅に着くまで食事は我慢しよう。


11時38分、宮原図書館前を通過
ユニークな建物である。
『立派な図書館だね~っ』
隣の芝生は青く見えるものだ。


漬物の河村屋
江戸文化文政期に地酒「養老の瀧」を取り扱っていて、
酒粕を利用して粕漬を創ったのが「創作漬物 河村屋」の始まり。
昔から一貫して国産野菜にこだわって漬物を作っている、とのこと。


旧中山道を進む。
前方に上尾市の標識が見える。


さいたま市北区から上尾市に変わる市境付近、
左手に小さなお堂が立っていた。


中には不動明王が祀られていた。


庚申塔
馬喰新田バス停のすぐ脇に川越道の道標を兼ねた庚申塔がある。
正面には青面金剛が彫られ、


横には「是より秋葉へ十二町 ひご方へ壱里八町 川越へ三里」と刻まれている。
寛政十二年(1800)に建立されたものだという。


歩道には中山道と書かれた道標があった。
『大宮宿風辺じゃあ道標なんか何にもなかったけど、
上尾に入ったとたんにしっかり道標が現れたねぇ』
大宮宿とは、対照的である。


最初は鎮守の森のようにも見えたが・・・どうやら「畑医院」のようだ。
しかし、2016年冬に院長が亡くなり、現在は閉院している、とのこと。


VALUE PLAZA前を通過し、


続いてヤマダ電機前を通過


12時4分、愛宕神社に到着した。


愛宕神社に参拝


愛宕神社の入口に小さな鳥居があり、


その奥に小さな祠があった。
祠の中に「庚申塔」が鎮座していた。


享保七年(1722)寅年二月吉日建立と刻まれている。
『300年ほど前に建てられたんだぁ』


愛宕神社で一休みして、


旧中山道を上尾宿を目指す。
上尾宿は間もなくである。


上尾市の中心街に入った。
高い建物が増えて来た。


12時23分、氷川鍬神社に到着
寛永九年(1632)創建の氷川鍬神社は、
上尾宿発祥の地であり、総鎮守である。


氷川鍬神社の境内には浅間大神碑や


聖徳太子像碑などがある。


氷川鍬神社拝殿に参拝
鍬祭りとして鍬を祀ったのが由来で、小さな鍬2丁を御神体とし、
五穀を司る農業神を祭神とする、神社である。


氷川鍬神社本殿
「鍬大神宮」「御鍬大明神」と称し、明治四十一年(1908)に
二ツ宮氷川神社(上尾市上尾村)の女体社を合祀して現在の社号となった。
地元では「お鍬さま」の愛称で親しまれている。


氷川鍬神社の前に本陣、脇本陣の説明があった。
中山道上尾宿の始まりや由来、本陣(本陣1軒、脇本陣3軒)
についての説明が書かれている。
本陣は鍬大神宮(現在の氷川鍬神社)の正面にあった(林本陣)。
紀州徳川家の鷹場鳥見役も兼ねていた、とのこと。


氷川鍬神社の正面に脇本陣が2軒、氷川鍬神社に1軒あった、とある。
脇本陣は、白石家・細井家・井上家が努めていた。
現在は、氷川鍬神社の正面は7階建てほどのビルになっており、
その1階には、コンビニが入っている。


この日のゴール上尾駅へ


上尾駅が目の前だ。


12時40分、ゴールの上尾駅に到着


駅の反対側(西口)に食事をする所はないのかな?


『あっ 吉野家がある!』
『速いし、安いし、吉野家にしようかっ!』
ほぼ”全員一致”ということで、吉野家に入ることにした。


先ずは生ビール(380円)で『かんぱ~いっ』
『歩いた後は、美味いよね~っ』


食事風景


自分は牛カルビ丼(580円)を注文した。
少し肉が硬かったがまあまあ美味かった。


生ビールと牛カルビ丼に満足し、吉野家を後にして、


13時19分、上尾駅改札口に到着。
『皆さん 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧街道を歩くⅡ」第三回目 中山道(大宮宿~上尾宿)を歩き終えた。
大宮宿近辺は、新しい建物ばかりで旧い商家や民家などは見られなかった。
新しい町づくりで古い建物などは全て撤去してしまったのだろうか?
それにしても普通の宿場ではよく見られる本陣跡や問屋場跡などを示す
標柱なども全く見当たらなかったのには少々がっかりした。
町が新しくなるのはそれはそれで良いことだが、古いものは全て撤去して
しまうというのは、いかがなものだろう、と思う。
街道歩きの醍醐味や楽しみが全く感じられなかったのは残念である。

この日の万歩計は、18,000歩を計測していた。

次回(2018年4月)は、甲州街道(教来石宿~金沢宿)を予定している。
次回はどのような景色を観ることができるのか、どんなハプニングが
起きるのか、今から楽しみである。

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