ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

一度観ておきたかった 茨城県庁舎

2014年02月28日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2014年2月28日(金)


毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成25年度第36回(2014年第6回)、「茨城県庁舎見学」ウォーキングに参加した。
茨城県民である以上、一度は観ておきたい、との思いから企画したものだ。

第一集合場所の土浦市民会館に集まったのは15名。


車3台に乗り合わせ、常磐道で水戸植物園へ。
直行した2名と合せ、この日は17名の参加となった。
県庁には20名の見学を申し込んでいたが、ちょっぴり少ない。


早速、準備体操をして、


9時45分、茨城県庁目指して出発!
県庁舎見学は10時30分からを予定しているので、ちょうど良い時間だ。


水戸植物園前を進む。


茨城県庁方向へ。


小吹町付近


香取神社横を通過。
帰る時に立ち寄って行くことにしよう。


前方にひと際高い県庁舎が見えてきた。
道が分らなくてもあの高いビルを目指せば何とかなる、と思うと気が楽だ。


後続が離れてしまったので、信号で待っているところ。


「ご老公の湯」のでっかい看板が目に入った。
水戸のご老公(光圀公)が肩に手拭を掛けて湯に入っている姿が、強く印象に残る。
何となく、2代目黄門様を演じた西村晃に似ている。


快調に県庁を目指す。


県庁前の県道50号水戸神栖線(旧国道6号)


信号を渡ると県庁舎は目の前だ。


県庁職員用の駐車場
駐車台数も相当なものだと思うが、職員全員の車を収容できるのだろうか?
職員数は、2,500人というから半端な数ではない。


『いやぁ~っ 近くで見るとやはり高いわねぇ』


県庁舎の南側に隣接する県警察本部庁舎
地上10階、地下1階、高さは49m。


25階建ての県庁舎は高さ116mだ。
平成9年(1997)1月に着工し、平成11年(1999)3月に竣工している。


10時30分、県庁舎に到着。
見学は10時30分からなので、ぴったりの到着である。


2Fロビー受付で見学の受付を済ませる。
既に案内嬢は待ってくれていた。


10名以上の団体の場合は、希望により案内嬢が同行して説明してくれることも可能である。
(窓側の黒っぽい服を着ているのが案内嬢)


最初は県政シアターに案内され、映像で茨城県内各地の春夏秋冬の祭りが紹介された。
県内にはいろんな祭りがあることをあらためて認識させられた。
TVなどで知っている祭りが多かったが、中には初めて見る祭りも紹介され、本物を観たい気持ちに駆られた。


祭り映像の後は、県政広報コーナーへ。
桜川・下妻の観光・物産などが展示・紹介されていた。


桜川市の天然記念物の山桜(11種)が紹介されていた。
昨年、当会で山桜見物に桜川市を訪れたが、この時は時期が遅すぎて満足のいく山桜を観ることができなかったことから、
今年こそは、と来年度のスケジュールに入れている。
古来、「西の吉野、東の桜川」と云われるほどの桜川の山桜が観られることを期待したい。


2Fロビーの中央に展示されている、茨城県の特産品を見ているところ。


もう一つの県政広報コーナーは、Jリーグ応援コーナーになっている。
J1鹿島アントラーズとJ2水戸ホーリーホックの応援グッズやユニフォームなどが展示されている。


水戸ホーリーホックのユニフォーム
ホーリーホックとは、英語で「葵」を意味する。
徳川御三家の一つである水戸藩の家紋(葵)から引用した、とのこと。


県政広報コーナーの次はいよいよ25階の展望ロビーへ。
高速エレベータで40秒ほどで、展望ロビーへ到着した。
エレベータを降りて、窓の外を見ると、出発地の水戸植物園方面が見えた。
水戸ホーリーホックのホームスタジアム「ケーズデンキスタジアム」が見える。


南側展望ロビー
『何~んにも障害物がないから、素晴らしい眺めだねぇ』


筑波山が見えた。
気温が低くて空気が澄んでいる時は富士山も見えるそうだ。


見下ろすと真下に県民広場が。


展望ロビーは広くて、南側と北側にある。
一周するとほぼ360度の展望が楽しめる。


東側にも小さな展望ロビーがある。
ここからは大洗マリンタワーを見ることが出来る。


大洗マリンタワーの少し左側に那珂川に架かる海門橋が見える。


『かなり遠くまで見えるんだねぇ』


北側を眺めているところ。


水戸市内・偕楽園方面


県庁前から水戸市街地へ延びる県道50号水戸神栖線(旧国道6号)
手前のビルは、茨城県開発公社


動画で見たら・・・


11階から上の階は中央部分が吹き抜けになっている。
覗いてみたが、下が見えない。


約1時間の見学が終わり、案内役のお嬢さんに、
『どうもありがとうございましたぁ』
『またいつでも来てくださいねっ』


11時30分、職員食堂「ひばり」へ直行だ。
好みのメニューを選んでレジで支払い、というシステムになっている。


主食とサラダ、味噌汁合せてもワンコイン(500円以内)で食べられる。
職員の休憩時間前だったので、ゆったりと食べることができた。


昼食も終わり、後は水戸植物園へ引き返すだけである。


警察本部庁舎横の桜並木を進み・・・


茨城県庁を後にする。
『天気も良くて、来て良かったわよねっ』


来た道を水戸植物園に向かう。


12時58分、香取神社に到着。


香取神社にお参りして、一休みして行くことに。


香取神社の境内の一角に保存樹(杉の切り株)があった。
樹齢350年~460年、目通り4.0m・4.8m、樹高約20m。
水戸市緑化の推進及び緑の保全に関する条例により指定された保存樹2本のうちのひとつである。
「この貴重な財産を市民のみなさんで大切に守りましょう」と書かれているが、
伐ってしまっては保存もなにもあったものではない。このままではいずれ朽ちてしまうだけである。
伐らないで残すということはできなかったものだろうか?


香取神社からの帰りは違った道を歩いてみようということで、水戸植物園の外周に沿って時計回りで歩くことにした。
(こちらは若干遠回りだったが、殆ど車が通らなくて歩き易かった)


水戸植物園に隣接する小吹運動公園を通過
小吹運動公園には、屋内プール、体育館、野球場などが整備されている。
後ろに見えるのは小吹運動公園に隣接する、清掃工場の煙突だ。
清掃工場からの余熱を利用して、プールの温度管理をしている。


前方に水戸植物園の森が見えてきた。


13時29分、ゴールの水戸植物園に到着。


『皆さん、今日はお疲れ様でした』
この後、希望者による水戸植物園の見学を実施した。


今回は、当会で初めての茨城県庁見学だった。
県庁舎25階の展望ロビーからの眺望は予想どおり素晴らしかった。
富士山が見えていれば云うことなしだったが・・・
この日は気温が上昇したこともあって、やや霞んで見えなかったのは仕方がない。
個人での見学も自由に出来るので、また機会があれば訪れてみたい。
展望ロビーには喫茶コーナーもあるので、その時はゆっくりと360度のパノラマを楽しみたい。


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関東ふれあいの道(神奈川)No.11「順礼峠のみち」

2014年02月23日 | ウマさんの「関東ふれあいの道」を歩く
2014年2月23日(日)


”ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」”では、2011年までは主に茨城県の「関東ふれあいの道」(全18コース)を歩いてきた。
”たまには県外を”ということで、昨年(2012年)は東京都の「関東ふれあいの道」(全7コース)を踏破し、認定証を受領した。
そして次は神奈川県の「関東ふれあいの道」(全17コース)を歩こうということになり、企画したものである。

第12回目となる今回は、コースNo.11(順礼峠のみち:約8.8Km)を歩くことにした。
先日の大雪(2月8日、2月14日)で延期となっていたが、何とか2月中に実施の運びとなった。

小田急新宿駅で7時50分発の小田原行き急行を待っているところ。
この日の参加者は8名といつもよりやや少ない。延期となったのが影響したのかもしれない。


伊勢原駅には9時02分に到着。


スタート地点の日向薬師行きバス(9時15分発)は既に待機中であった。


バスは思ったより空いていた。


9時36分、終点の日向薬師バス停に到着。


バス停の周りはまだ雪がかなり残っている。
「順礼峠のみち」は果たして大丈夫だろうか? 一抹の不安が頭をよぎる。
準備体操をして、


9時43分、元気よく出発だ!!


日向薬師への入口


道端に様々な石像が並んでいた。
「順礼のみち」ならではの光景だろう。


衣裳場(いしば)湧水
源頼朝公が日向薬師参詣の時、ここにおいて旅姿を脱ぎ白装束に衣裳を着替えたところから、
「衣裳場」(いしょうば)と云われ、現在は訛って「いしば」と呼ばれている、とのこと。


日向薬師への道はいきなり急な石段で始まる。


ほどなく仁王門に到着。


仁王様がお出迎えだ。


仁王門をくぐると緩やかな坂道が続く。
参道は雪解けでぬかるんでいた。


最後の石段の上に宝城坊(ほうじょうぼう)本堂らしき建物が見える。


現在修理工事中(平成の大修理)で、本堂は鉄骨で覆われていた。
現存する本堂は、630年前の室町期の康歴二年(1380)と350年前の江戸期万治三年(1660)に大修理が行われ、
現在に至っているというから、3度目の大修理ということになる。


工事現場の覆いの中は、全て取り壊されており、本堂などは見えない。
弘法大師像だけが見える。
説明によると、屋根の雨漏りや柱の蟻害などの破損があり、建物をいったん解体して、
傷んだ部材を修理して組み直している、とのこと。
工事期間は平成22年11月~平成28年9月となっていることから、完成は2年半以上も先のことになる。


幡かけの杉
足利基氏が幡を掛け、平和と幸せ・五穀豊穣を祈った「幡かけの杉」
樹高は33m・35m、胸高周囲6.3m・7.8m、推定樹齢800年で、
「宝城坊の二本杉」として神奈川県の天然記念物に指定されている。


宝城坊の鐘堂
旧日向山霊山寺の鐘堂。
木造萱葺きで、平安時代の天歴六年(952)に建造されたと考えられている、とのこと。
現在の鐘堂は江戸時代の宝暦十三年(1763)の建築とされる。
国の重要文化財である歴応三年(1340)の銘文を持つ銅鐘を吊るしている。
何故かもう一つの別の鐘が置かれてあった。(どっちが本物なのだろう)


本堂の先に進むと、ようやく土産物屋が品物を並べ始めたところだった。
これからお参りする参拝者が土産に買って帰るのだろう。


小田原産のみかんを売っていた。
『1袋100円でいいよっ』
1袋100円は安いが、これから先のことを考えると重たいので買うのはやめとこう、ということに。
しかし、いつの間にかY子さんだけは買っていたのである。
(順礼峠で昼食のデザートとしてみんなに配っていたのには恐縮した)


宝城坊を過ぎると直ぐに雪道になった。


車の輪だちの跡はシャーベット状になっており、滑り易い。


しばらく進むと視界が開けた。
伊勢原市の先に薄っすらとだが相模湾が見える。
(遥か遠くには江ノ島も見えたが、デジカメではぼんやりと霞んでしまった)


雪の重みで木が倒れて道を塞いでいる。
輪だちが出来た跡に倒れたと考えられることから、最近のことだろうか?


七沢温泉までは雪が残ったり解けたりの舗装道路が続いた。


10時36分、展望台に到着。


展望台からの眺望


地図で確認すると、まだ2Kmほどしか歩いていない。
『1/4も歩いてないんだぁ』
まだ先は長い、展望台で一息入れよう。


ようやく民家が見えてきた。
七沢温泉への分岐点を通過。


七沢彫刻工房
ネアンデルタール人の石像のようだ。
『なんだかグロテスクねっ』


七沢神社に到着
鳥居の後ろに見える御神木のけやきは樹齢600年とのこと。


七沢神社にお参りして、順礼峠を目指すことにした。


「関東ふれあいの道」の道標が順礼峠を指している方向に紛らわしい道が2本あり、
どちらを進めば良いか地元の人に訊ねているところ。
地元の人は、自信を持って順礼峠への道を教えてくれるのだが、どうやらそちらは近道らしい。
教えてくれた道は、道標とは微妙に違うので、我々はもう一つが「関東ふれあいの道」と信じてそちらの道を進むことにした。
もちろん、丁重にお礼を述べて別れたことは言うまでもない。


数百㍍進むと、「関東ふれあいの道」の道標が現れた。
信じて歩いた結果が現れたことで、一安心だ。


前方左手に見えるのは「七沢リハビリテーション病院」で、病院敷地内に七沢城址跡の石碑が設置されている。


順礼峠への道標がある角地で地元の観光案内の人がパンフレットを配布していた。
道標を見ると、左右どちらも日向薬師へ通じているが、左2.9Km、右3.9Kmとある。
我々の通った「関東ふれあいの道」は1Kmも遠回りだったのだ。
『「関東ふれあいの道」はわざわざ遠回りさせるのかぁ』
会長、少々お冠だ。


七沢温泉の七沢荘
1月28日に常南交通社のバスハイクで入浴に訪れたので見覚えがある。


順礼峠へ0.6Km付近を通過。
順礼峠はハイキングコースになっており、いろんな道標がある。


順礼峠への山道が始まったとたん、この雪道である。
かなりの雪が残っている。膝下30Cmはあるだろう。


『いやぁ この辺は相当雪が降ったんだねぇ』
ある程度予想はしていたが、それを越える雪である。


山道を進む。


木が倒れて道を塞いでいるところも何ヵ所かあった。
『どっこいしょっと』
悪戦苦闘である。


12時6分、順礼峠のお地蔵さんに到着した。
弁当の前に、全員の証明写真の撮影を済ませよう。


順礼峠の伝説(概略)
鎌倉時代初期に、相模・武蔵・上野・下野・常陸・上総・下総・安房の8か国33ヵ所の坂東三十三観音霊場が選ばれた。
この霊場をつなぐ道は順礼往来とも言われ、八番札所の妙法山星谷寺(しょうこくじ)「星の谷観音」
から六番札所の飯山山長谷寺(ちょうこくじ)「飯山観音」を経て、日向薬師へと続き、その道中にあるのが、この順礼峠である。
この峠には、順礼の旅をしていた老人と娘がこの峠路を通りかかったとき、木陰に潜んでいた悪者に斬りつけられ亡くなった、
という悲しい言い伝えがあり、無残な姿となった順礼を見つけた村人は、後日、地蔵尊を建てて二人の供養をした、そうである。


順礼峠で弁当タイムだ。
穏やかな日を浴びながら食べるおにぎりは格別で美味い!


昼食も終わり、これからしばらくは白山順礼峠ハイキングコース(セラピーロード)を歩く。
1月28日に常南交通のバスハイクで通った道の逆になる。


雪が完全に解けているところもところどころ見られる。


山頂でもないところに四等三角点があった。


峠からの眺め。
白い建物は島津製作所 厚木工場と思われる。


雪が解けているところは少なく、ほとんどこのような雪道であった。
下りは滑るので気を付けたい。


雪道を進む。


名のない峠への上り


順礼峠から1.2Km地点の峠で一休み。
『歩いていると汗かいちゃうわっ』


物見峠への急な上り坂


『いやぁ これは厳しい』
さすがの会長も音を上げる。


13時35分、物見峠に到着
『いやぁ これは素晴らしいっ』


素晴らしい眺めである。


記念撮影
皆さん(自分も含めて?)良い顔をしている。


13時48分、むじな坂峠に到着
”むじな”のことについて碑には次のように刻まれていた。
「むじなとは、獣の狢のことではなく、この付近の六つの地名、つまりムツナがムジナになったと云われ、
この峠の前後にある、白山橋・長坂・花立峠・月待場・京塚・細入江のことを云う」
ということは、Webで”狢坂峠”という文字をよく見るが、”むじな坂峠”の方が正しいと思う。


むじな坂峠を下り、


最後の上りを上ると、


白山展望台手前で「関東ふれあいの道」は左へ分岐している。
しかし、今まで歩いてきたような人の歩いた跡が殆どない。
「関東ふれあいの道」は人気がないのだなとあらためて思った。


『飯山観音に向かった方が良いんじゃないっ?』の声も。
よ~く見ると、2人が歩いたとみられる足跡が残っていた。
この後を追っていけば何とかなるだろう。


膝下30Cmほどの雪の中を下る。転倒する人が続出である。
転倒した弾みにズボンを木の枝に引っかけて破れてしまった人も。


雪の中を下ること約30分、ようやく民家が見えるところまで下りてきた。


煤ヶ谷集落にはまだかなりの雪が残っていた。
日曜日のためか、家族総出で雪かきをやっているのも見掛けた。
聞けば70-80cmは降ったそうだ。


14時41分、ゴールの御門橋バス停に到着。
予定では14時10分発のバスに乗りたかったが、この雪道ではこの程度の遅れはやむを得ないだろう。
次のバスは15時10分だ。
本厚木行きバスまで少し時間があったので地元のおばあさんたちとしばしの世間話し。
バス停前の台湾料理店は閉店してしまったそうである。


15時10分、時刻表どおり本厚木駅行きバスがやって来た。


15時50分、本厚木駅に到着。
『今日は雪の中、大変お疲れ様でしたぁ』


この日は大半が雪道の中だったが、「順礼峠のみち」を無事踏破することが出来た。
日向薬師(宝城坊)はあいにく修理工事の真っ最中で、本堂を見ることが出来なかったのは心残りである。
この日コースNo.11「順礼峠のみち」を歩き終わったことで、残すところあと3コースとなった。
順調にいけば、5月には神奈川県「関東ふれあいの道」全17コースを歩き終わることになる。
踏破賞受領までもうひと頑張りだ。頑張ろう!!


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横浜市内散策 & 中華街で食事

2014年02月22日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2014年2月22日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成25年度第35回(2014年第5回)、「横浜元町&中華街散策」ウォーキングに参加した。
1月30日は親戚の葬儀、2月7日と2月14日は雪のため中止で、3回連続例会には参加していないので、約1カ月ぶりの例会参加である。


この日の目的地は横浜ということで、お得な「休日お出かけパス」を利用することにした。
往復3,280円のところが2,600円になるので、680円が得になる計算だ。
風邪などが流行っているのだろうか、数名が突然の前日キャンセルとなったため、結局21名の参加となった。
常磐線車内風景(来年度のスケジュールに見入る)


9時42分、この日のスタート地、桜木町駅に到着。


目の前に横浜ランドマークタワーが聳える。
70階建て、高さ296.33mで、超高層ビルとしては日本で2番目に高い。
『うわぁ 物凄く高いわねぇ』
ちなみに一番高い建物は「あべのハルカス」だが、完成は2014年3月7日オープンすることになっている。
現在では横浜ランドマークタワーが一番高いことになる。


案内図で確認中
『え~っと どっちに行けばいいのかな?』


9時44分、出発!
この日は中華街で食事の予約をしており、遅れないためにも準備体操は省略だ。


最初に訪れたのは帆船日本丸。
全長97メートル、幅13メートル、最高マストの高さは水面から46メートル、
総トン数2,278トンで138名乗り込み、とのこと。
総帆数29枚は畳1,245枚分もあるそうだ。


内部見学を待っているとみられる団体がいた。
お揃いのユニフォーム?を着て、こちらに手を振っている子供たちもいる。


通常500円のところ、65歳以上は300円(帆を取り外している期間は100円づつ安くなる)となっているが、
この日は残念ながら見学している時間はない。
『せめて帆を張ってるところが見たかったねぇ』
(1月28日から2月24日までは帆は取り外されているとのこと。残念!)


汽車道
桜木町駅前と新港地区とを結ぶ、鉄道廃線跡を利用して1997年に開通した遊歩道である。
明治44年(1911)開通の旧横浜駅と新港埠頭を結ぶ臨港線(通称税関線)の廃線跡を利用し、
その一部にあたる約500mの区間を緑地として整備したもの。
臨港線は当初貨物輸送目的で作られたもので、新港埠頭内の横浜港荷扱所(後に横浜港駅へ昇格)を経由して
岸壁や倉庫の前、さらに横浜税関構内の荷扱所まで結んでいた。
今もその名残のレールが残されている。


汽車道を進む。
ちょうどこの真下辺りの地下を「みなとみらい線」が走っていることになる。
海からの風は冷たいが、風を受けながら歩くのは気持ちが良い。


汽車道から見たみなとみらい地区の高層ホテル郡
左からランドマークプラザ、クイーンズイースト、横浜ベイホテル東急、
ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル
横浜コスモワールドの観覧車も見える。


正面に見えるのは横浜国際船員センター(ナビオス)だ。


ナビオスの横に大きな錨があった。
中近東から日本へ原油を運搬した大型原油輸送船「高岡丸」(全長316m、幅50m、深さ25.5m、載貨重量215,850K/T)に
備え付けられていたものと同型、とのこと。
錨の重量は18,27K/Tで長さは4.8m、幅2.9mだそうだ。
『いやぁでっかいねぇ』


信号待ちをしていたら、突然真後ろで大きな鐘が鳴り始めた。
10時ちょうどを告げる鐘の音だった。


10時5分、赤レンガ倉庫に到着。


赤レンガ倉庫の間を通って岸壁へ向かう。
『ひゃぁ 風が冷たいっ』
さすがにここは冷たいし、強い。


赤レンガ倉庫から見た横浜港
正面に見えるのは大黒大橋か?


左手には海上保安庁の巡視船「あきつしま」が停泊していた。
「あきつしま」は、全長約150m、総トン数は約6,500トンで、巡視船としては世界最大級、とのこと。
海賊やテロにも対応できるように造船されていて、機関砲が4つ備え付けられている。
また、情報収集用のヘリコプターを2機搭載しており、尖閣諸島周辺の警備や
マラッカ海峡での海賊船からの護衛にも参加する予定、だそうだ。
2013年11月29日に就航している。


プロムナードを山下公園へ向かう。


右手に横浜港みらい地区の高僧ビル郡を見ながら進む。


横浜税関
南東北および関東地方にある都県のうち、東京税関の管轄外である太平洋側の地域を管轄する。
昭和28年(1953)に東京税関を分離した。
本関庁舎の塔屋は緑青色のドームがシンボルで、「クイーンの塔」として親しまれている、そうだ。


神奈川県本庁舎
慶応四年(1868)4月11日横浜裁判所が設置され、同年11月5日に神奈川県の行政を司る組織として神奈川県庁が設置された。
140年以上の歴史があることになる。
今でも現役で使っているとは信じがたい。


大桟橋
像の鼻パーク前の港には遊覧船が浮かんでいたが、大型客船ターミナルには大型船は停泊していなかった。


10時26分、山下公園に到着した。
インド水塔は、関東大震災の際に、横浜市がインド商人をはじめとする外国商人の救済措置を積極的に講じた返礼として
インド商組合から寄贈されたもの。
昭和十四年(1939)の建築で、横浜市認定の歴史的建造物。


赤い靴はいてた女の子像
海の方を見て座っている。
♪赤いくつ~はいてた~おんなの子~♪ 異人さんに連れられて行~ちゃった~♪
何となく”物悲しいメロディ”という印象が強い。


フォークダンスのような踊りの練習に夢中な若者たち


山下公園


山下公園には噴水もある。


港には渡り鳥がたくさん浮かんでいた。


氷川丸
日本郵船が昭和五年(1930)に竣工させた日本の12,000t級貨客船。
多くの日本の貨客船が喪失された太平洋戦争でも沈没を免れた数少ない大型貨客船で、
戦後も昭和35年(1960)まで北太平洋航路で運航を続けた。
船内見学は、一般200円のところ、65歳以上は100円となっている。
日本丸同様この日は残念ながら見学している時間はない。
(4月1日からは一般300円、65歳以上は200円になるとのこと)


横浜マリンタワー
横浜港のシンボルともなっているタワー。
かつては灯台としても機能していた、とのこと。
2010年4月1日に”恋人の聖地”に認定されている。


山下公園を後にして、首都高湾岸線を通過。


首都高湾岸線から新山下通りを500mほど進むと、港の見える丘公園への標識があった。


港の見える丘公園への坂道を上る。


この日唯一の坂道だ。
ここ3週間ほど私用や雪などの影響で休んでいるので、4週間ぶりのウォーキングである。
何となく身体が重く感じるのは、鈍っている証拠である。


大仏次郎記念館横を通り過ぎ、港の見える丘公園へ。


港の見える丘公園から見た横浜港
横浜ベイブリッジが印象的である。


動画で見たところ


横浜ベイブリッジをバックに記念撮影


外国人墓地に沿って元町公園方面へ進む。


外国人墓地
墓参の人の姿もちらほら。


山手資料館


山手234番館


エリスマン邸


イエス・キリスト教会


元町から中華街へ向かう。


元町五丁目東交差点付近から首都高神奈川3号狩場線を望む。
左は根岸線石川町駅である。
川を渡ると中華街は近い。


延平門(中華街西門)
当初孔雀門を目指していたのだが、元町で道を間違えて、反対側の延平門へ来てしまった。


西門通りを中華街へ。
ちょうどお昼時のためか、中華街へ向かう人は多い。


11時52分、善隣門に到着。


中華街大通りを永華楼へ。
凄い人の数である。


11時54分、目指す永華楼に到着。
永華楼は善隣門から80mほどの中華街大通りに面したところにあった。
ほぼ時間通りで一安心だ。


昼食風景


昼食のメニューの一部である。
中華風コーンスープを皮切りに、鶏肉と筍の炒め、エビチリ、小籠包、炒飯、もう一品あったような気がするが覚えていない。
最後にデザートの杏仁豆腐が運ばれて来た。
これで一人1,260円は、リーズナブルだと思う。
せっかくなので、男性陣は紹興酒の熱燗を注文。5年もの(3,150円)だそうだが、なかなか美味しかった。


『安いヨッ、おまけしとくヨッ』
女性陣は片言の日本語の焼き栗のたたき売りについつい財布のヒモが緩む。


手ぶらで帰るのも気が引けるので、永華楼の隣の重慶飯店でかみさんへの土産物を買った。
どうやら店の前で試食をやっていたのが効いたようだ。


土産物も買ったことだし、中華街を眺めながら善隣門へ向かう。


善隣門
”親仁善隣”は、周囲の国々や人々と仲良くしよう、という意味があるらしい。


玄武門を抜けると中華街とはお別れである。


横浜公園を抜け、


横浜スタジアム横を通り、


横浜市役所の角を曲がると関内駅は直ぐだ。
(左側は横浜市庁)


『けっこう楽しめたわよねっ』


13時20分、関内駅に到着。
この日はここで解散することに。この日は整理体操も省略ということに。
『皆さん、今日は大変お疲れ様でした』
『帰りは気をつけてねっ』


駆け足で横浜市内を散策した、というのが実感である。
ゆっくりと時間をかけて観て廻りたい、という人には、ルートや場所が参考になったのではないだろうか?
中華街の人出の多さには驚かされた、というのが正直な気持ちである。
また今までは、中華街は高い、というイメージが拭いきれなかったが、ピンからキリまであるようなので、
今度はかみさんと一緒に訪れてゆっくりとそう高くない食事を楽しみたい、ものである。


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今年話題の中津城に登城して来ました

2014年02月04日 | ウマさんの気ままなウォーキング
2014年2月4日(火)

大分臼杵出身のかみさんの姉の夫が脳出血で突然亡くなるという不幸があり、1月末から大分に帰省していた。
葬儀も無事終え、一段落したことから、今大河ドラマで話題の「軍師官兵衛」が築城した中津城を訪問することにした。

黒田官兵衛は、天正十四年(1586)に九州征伐の先鋒を務め、豊前国に侵攻。
翌天正十五年(1587)、豊前六郡を拝領。入国し検地を始めた。
天正十六年(1588)正月、中津城の築城を開始した。
慶長五年(1600)黒田家は関ヶ原の戦いで徳川方につき、中津城から西軍の所領を攻めた。
長政の戦功により筑前52万石に加増、名島城に転封となり築城は中断された。

中津城の築城に黒田官兵衛が絡んでいることを大河ドラマで初めて知ったのはお恥ずかしい限り。
「100名城」には入っていないが、大分県人として、一度は足を運んでおかねばならない。
見取り図を頼りに城内を歩いてみることに。


黒御門跡から大手御門方面を望む。


黒御門跡


椎ノ木御門跡から本丸跡を望む。
中津神社の鳥居と思われるが、椎ノ木御門跡の真ん中に建てるのはいかがかと思う。


三斉池(さんさいいけ)から天守閣を望む。
慶長五年(1600)黒田如水・長政の後を継いだ細川忠興の号”三斉”の名を冠して「三斉池」と呼ばれている。


独立自尊(福沢諭吉)の碑
(独立自尊:人に頼らずに自分の力だけで事を行い、自己の人格・尊厳を保つこと)
中津市指定文化財となっている。


中津大神宮
由緒記によると、明治十四年九月伊勢ノ神宮御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として御鎮座。
その後幾多の変遷を経て、昭和二十一年四月中津大神宮として今日に至る、とある。


中津大神宮の御祭神は天照皇大神・豊受大神ほか二柱とのこと。


中津城天守閣と櫓
昭和三十九年(1964)、本丸上段の北東隅櫓跡(薬研堀端)に観光開発を目的に建てられた。
しかし、模擬天守にしてはしっかりとした良い造りだと思う。


中津城天守閣をバックに記念撮影
かみさんの甥の息子と一緒に。


中津城天守閣
江戸時代の絵図には天守は描かれていないため、天守の存在については不明だそうである。
現在の天守は萩城の天守を模して昭和39年に建設されたものである。


法螺貝の音がするので上を見上げたら、天守閣で法螺貝を吹いているいる人が見えた。
登城する人を鼓舞するかのように高らかに吹いている。


400円を払って天守閣内に入ると黒田官兵衛と合子形兜(ごうすなりかぶと)が目に入る。
黒田孝高(官兵衛)が妻・光姫の父である志方城主・櫛橋伊定から婚約の祝いに贈られた合子形兜。
合子形とは蓋付き椀の形のことをいい、戦国時代の変わり兜のひとつ、だそう。


天守内は中津城(奥平家歴史資料館)として一般公開されており、奥平家歴代の当主の甲冑や、


奥平忠昌が徳川家康から拝領した白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)などが展示されている。


法螺貝を吹いていた人は、介護施設の運転手をしているとのことで、週に2-3回はここで法螺貝を吹いているそうだ。
自分も吹かせて貰ったが、初めてなので鳴るはずもない。
100人に一人くらいは音を出せる人がいるそうだ。


記念撮影をさせてもらった。


天守閣からの眺望
高瀬川(現中津川)河口方面を望む。


天守閣からの眺望
本丸から三の丸方向を望む。
薬研掘の左には長福寺があったそうだが、今は地方裁判所になっている。


天守閣からの眺望
高瀬川(現中津川)上流を望む。


奥平神社
黒田家・細川家・小笠原家に続き、享保二年(1717)丹後宮津より奥平昌成が入城した。
奥平家の武運・戦勝の神社で、ご神体は、奥平家中興の祖奥平貞能・信昌・家昌公三柱の祭神を祀っている。


大分地方裁判所から見た中津城天守閣


薬研堀から見た中津城天守閣


天守閣が石垣の外にせり出しているのが中津城の特徴だろうか。


右側の石垣は黒田孝高(女水)時代の本丸跡の石垣。
左側の石垣は後から積まれた細川忠興(三斉)時代の石垣で、忠興自慢の石垣だったとのこと。


中津城と黒田官兵衛像
碑には、「我、人に媚びず、富貴を望まず」と刻まれている。


高瀬川(現中津川)
中津城は、高松城、今治城と並んで”日本三水城”と云われているが、
高松城、今治城のように今でも堀が常に海水に浸っているという状態ではない。


中津神社の大鳥居
明治四年(1871)に本丸南側の石垣の一部が壊され、本丸内に通じる道が造られた。
左右に分けられた石垣の間に立つ大鳥居は、昭和七年(1932)に建てられたものである。


復元された石垣(大鳥居の東側:大鳥居に向かって右側)
戦後地表面から上半分が撤去され、堀は埋められ残った下半分の石垣は地下に見えなくなっていた。
平成13年~20年の修復工事で見えなくなっていた元の石垣を掘り出し、その上に新しい石垣を復元した。
上半分の白っぽい部分が復元された石垣。


穴太積み黒田の石垣(大鳥居の西側:大鳥居に向かって左側)
九州最古と云われる近世城郭の石垣として残っている、そうだ。
東側の石垣の端と西側の石垣の端を見通すと緩やかな弧を描き、
道路を挟んで対岸の石垣まで連続していることが分かる、とのこと。
これを「輪取り」と云い、力を内側に集中させ、石垣が崩壊するのを防ぐ造りになっているそうである。
(残念ながら確認はしていない)


中津神社
城内本丸跡には、他にも奥平神社、中津大神宮、城井神社、扇城神社がある。
こんなに神社があるのは珍しい。


唐原山城の石を使用した黒田の石垣


鉄御門跡
中津城にはすぐ脇を流れる高瀬川(現中津川)に面して鉄門(鉄御門)があった。


中津川河川敷から見た鉄御門跡の石垣


城井神社(きいじんじゃ
宇都宮鎮房を御祭神として祀っている。
城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る16代およそ400年の間豊前国守として徳政を布いていた。
秀吉は、九州平定にあたり、豊前六郡を黒田孝高に、二郡を毛利勝信に与え、宇都宮鎮房は四国今治移封とした。
鎮房はこれを返上して抵抗したため、黒田家と死闘を繰り返すこととなった。
秀吉は孝高と諮り、長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚約を約し、和睦した。
天正十六年(1588)4月20日、黒田孝高の嫡男の長政は、鎮房を中津城に招き、酒宴の席で謀殺した。
黒田孝高は、熊本の一揆征伐で中津城を留守にしていた。
天正十九年、長政は深く感ずる処があって、城内守護紀府(城井)大明神として鎮房を祀り、
福岡移封後はその地に警護大明神として祀った、そうである。

中津城を後にして、黒田孝高ゆかりの寺合元寺へ。

合元寺(ごうがんじ)の赤い壁の由来
天正十五年(1587)豊臣秀吉の九州征伐における功労者として、豊前国の6郡およそ12万石を賜った黒田官兵衛(孝高)は、
領内の平定において、城井城主・宇都宮鎮房(しげふさ)(城井鎮房)の抵抗に手を焼いていた。
官兵衛は一計を案じ、嫡子の長政が鎮房の13歳になる娘・鶴姫を嫁にし、宇都宮氏の旧領は安堵するという条件で和睦を提示、
鎮房もこれを了承した。


しかし、天正十六年(1588)4月20日、婚姻の宴に招かれた鎮房は中津城内で謀殺されてしまう。
鎮房の従臣たちが待機していたこの合元寺にも黒田の手勢が押しかけた。
鎮房の従臣たちは奮戦したが、ことごとく斬り伏せられ、壁はその血で赤く染まったそうである。
その後壁は何度白く塗っても血が染み出してくるので、ついに赤く塗ったと云う。
寺は赤壁寺とも呼ばれている。


浄土宗西山派の寺院、合元寺の山門


合元寺本堂
黒田官兵衛(孝高)が姫路から恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来を移して、空誉上人という僧を開山に迎え、
この寺院を建立した。


合元寺山門を入って直ぐ左に延命地蔵菩薩堂がある。
奮戦の末斬り伏せられた宇都宮鎮房の家臣は合葬され、寺内の延命地蔵菩薩堂に祀られ菩提を弔われた。


延命地蔵菩薩堂(お願い地蔵)内部
中央に延命地蔵菩薩、左側にお願い地蔵菩薩が祀られている。


福沢諭吉旧宅
合元寺から寺町を通り、7-8分ほどで福沢諭吉旧宅があった。
入館料400円だったのと、時間の都合もあり、写真に収めるだけに留めた。



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