ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧甲州街道を歩く 第四回 府中宿から日野宿へ

2016年07月17日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2016年7月17日(日)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを予定している。

「甲州街道を歩く」第四回目は、府中宿(京王線府中駅)から日野宿(JR日野駅)の約8.5Kmを歩いた。
なお、甲州道中として、関東三大不動尊の高幡不動尊を参拝しておきたい、ということで
日野宿到着後、多摩モノレール線「甲州街道駅」から「高幡不動駅」へ向かった。
従って歩いた距離は、10Km以上になったと思われる。
ちなみに関東三大不動尊は、高幡山金剛寺(高幡不動尊)、成田山新勝寺(成田不動尊)、
および玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊)とされている。

京王線新宿駅
9時7分発高尾山口行準特急電車を待つ。


約30分で、府中駅に到着
この日の参加者は、8名。


前回歩いたけやき通り、記憶も新しい。


9時46分、日野宿を目指して府中駅を出発!


けやき通りを大國魂神社方面へ。


大國魂神社の大鳥居とけやきの巨木


大鳥居を右折すると旧甲州街道だ。
”すもも祭”の幟が目に付く。
その起源は、源頼義・義家父子が、奥州安倍氏平定(前9年の役)途中、大國魂神社に戦勝祈願をし、
戦に勝ち凱旋の帰途、戦勝御礼詣りのためこの祭が起こった。
その際神饌の一つとして李子(すもも)を供え、境内にすもも市が立つようになったのが、名前の由来で、
夏の風物詩として、毎年7月20日に斎行される、とのこと。


ゲームセンターの2階、実物大の馬の模型が目を引く。


札の辻と問屋場跡
甲州街道と鎌倉街道が、鍵の手に交わるところに高札場があったことから、
この界隈を「札の辻」 「鍵屋の辻」と呼び、親しまれていた。
安政六年(1859)府中宿本町に大火があり、それを機に蔓延二年(1861)中久本店の
店蔵を防火建築物として再建。
隣地は問屋場であったため、大道芸人の辻芸を楽しむ人々等で賑い、武蔵府中の中心として栄えた。


中久本店の向い側に高札場がある。


札掛けには、法度や掟書、犯罪人の罪状などを掲げた。
府中高札場は中世末期からここにあったと云われているが、明治三年に廃止された。


府中小唄の碑
府中の自然や名所・史跡を題材とし、野口雨情作詞、中山晋平作曲により、昭和四年に誕生した郷土民謡。
盆踊りの時期には市内各所で歌い踊り継がれ、永く市民に親しまれている、そうだ。


高札場の赤い板塀に沿って、


甲州街道を進むと、


馬場宿があった。
この宿場は、元の名を茂右衛門宿と言った。
名主の茂右衛門によって開発されたことによる。
馬場宿と称するようになったのは、寛永十三年(1636)のことと云われている。
もともと馬場宿は、甲州古街道筋にあったが、新街道の設置(慶安の頃1648-52)に伴って、移転したもの。


割烹「馬場屋」
江戸時代の府中番場宿の雰囲気を味わえる割烹、今で言う居酒屋。
1970年頃創業、とのことなのでさほど古くはない。


10時3分、高安寺に到着
高安寺は、曹洞宗の寺院だが、江戸時代初期までは臨済宗の寺院だった。


干支本尊菩薩像が8体並んでいた。12体ではないのだ。
子年(千手観音菩薩)、丑・寅年(虚空蔵菩薩)、卯年(文珠菩薩)、辰・巳年(普賢菩薩)
午年(勢至菩薩)、未・申年(大日如来)、酉年(不動明王)、戌・亥年(阿弥陀如来)


山門は、明治五年(1872)の建立。


正面には仁王像(吽像)が、


背後には奪衣婆と地蔵尊が安置されている。
(写真は奪衣婆)


仁王門を内から見たところ


仁王門を潜ると、曹洞宗の開祖道元禅師像がある。


『いやぁ これは立派な木だねぇ』


楠の樹高は13m、幹周2.6m


コウヤマキは、樹高20m、幹周2.2m
どちらも府中市の名木百選に指定されている。


高安寺本堂
開基は室町幕府初代将軍足利尊氏であり、室町幕府によって武蔵国安国寺として位置づけられていた。
現在の本堂は、寛永元年(1624)に火災に遭い消失したものを享和三年(1803)に再建したもの。


時の鐘
この鐘は、徳川幕府公許の鐘で、二六時中近隣四方の村々へ時を報ずる役であった。
製作者は、谷保在住の「かなや」親子で、安政五年(1858)この寺の境内で改鋳された。
明治維新よりこの方、朝(覚醒)・昼(精進)・夕(反省)の3回撞いている、そうだ。


観音堂へ


観音堂は、江戸中期の建造物。
もとは高安寺の西の観音橋付近にあったが、大水により流されたため、享保年間(1716-1736年)現在地に移された。
多摩川観音霊場第三十三番札所である。


弁慶坂の碑
高安寺に伝わる弁慶の以下の伝説に由来している。
高安寺の堂の後ろにある古井戸から弁慶がこの井戸の水を汲んで硯の水とし、
大般若経を書写したと伝えられる。


弁慶坂
弁慶が通った坂道なのだろう。
それほどの坂道には見えないが・・・


弁慶坂の先に弁慶橋の碑があった。
ここに野川に架かる弁慶橋があった、とのこと。
しかし、周りを見渡しても、川らしきものは見当たらない。


弁慶橋の碑から先に、「棒屋(ぼうや)の坂」があった。
坂名の由来は、坂を下り切った所の家が、通称「棒屋」と呼ばれていたためと云われている。


「棒屋の坂」を過ぎ、京王線の踏切を渡る。
線路の先に分倍河原駅が見える。


スズカケノキ(プラタナス)の並木が続く。
葉の緑に薄桃が混じった淡い色をしている。


『この葉っぱは珍しいよねっ』
『いつものプラタナスとはちょっと違うねっ』


『本陣のような家だねぇ』


本宿町交差点で国道20号と合流し、


さらに少し進んで、新府中街道の交番前交差点を渡ったところで、一休み。


Oさんから、冷えたトマトの差し入れが。
冷たくて美味しかった。


武蔵府中熊野神社古墳の大きな看板が。


11時1分、先ずは熊野神社へ参拝。
熊野神社は、往古「熊野大権現」と称され、旧本宿村の総鎮守であった。
創建は、江戸初期と伝えられ、当時境内には別当寺である弥勒寺が勧請されていた。


本殿の裏に、再現された飛鳥時代に築造された上円下方墳の古墳があった。
古代中国では、天はドーム状の半球形、大地は四角いものと考えられ、
当時の宇宙観を反映した築造と考えられている、とのこと。
『こんな形の古墳は初めて見るねぇ』
上円下方墳は、全国的にも珍しく、これまで5例あるのみだそうだ。


展示館(無料)に入ってみることに。


展示館は2階にあり、上円下方墳の断面図や、


発掘調査などの資料が展示されていた。


上空から撮影した写真
上円下方墳の全体がよく分かる。


石室から出土した鞘尻金具を復元したもの。
中央に七曜文が刻まれている。
七つの円文は、木・火・土・金・水と日(陽)・月(陰)の七曜を表している。
七曜文は、古代中国の陰陽五行思想をもとに考案された模様と云われている。


展示館見学風景


管理人の方から概略の説明を受け、


石室復元展示室を見学することにした。


入口は狭いため、ヘルメットを着用する必要がある。
また石室の中は暗いので、懐中電灯を貸してくれる。


石室の内部
玄室には、石が敷き詰められていた。
発見された鞘尻金具の位置が記されていた。


11時33分、展示館を後にする。
見学などで30分以上費やしてしまった。


旧甲州街道を進む。


11時39分、JR南武線を通過


立派な板塀に続き、


きれいに積まれた石垣の旧家を過ぎると、


ぽつんと常夜燈が立っていた。
文久三年(1863)建立の秋葉燈である。


11時53分、谷保天満宮に到着
菅原道真が太宰府に左遷。同じく三子の道武も武蔵国多摩郡分倍庄に配流されたが、
道真没後この地に建立されたと伝わっている。


鬱蒼とした森の参道先の二の鳥居を潜って、石段を下りると、


右手に、石の牛像が横になっていた。
谷保天満宮座牛については、以下のような説明が。
牛と天神様の関係は、仁明天皇(にんみょうてんのう)の承知十二年(845)乙巫6月25日に菅公が生誕、
また公甍去の際、筑紫の国三笠郡四堂に墓を築き葬ろうと需車(喪の車)を引き出したが、
途中牛車が動かなくなったのでその場所に埋葬した等、菅公と牛に関する神秘的な伝説が数多く残っている。
座牛はこの悲しみに動かなくなった牛を表現したものである。(説明板)


本殿に近い所にさらにもう一つ牛の像が。
こちらは銅製で、鼻や足などは撫でられて光っている。


境内には合格祈願の絵馬がびっしりと掛けられていた。


本殿の前では、何組かのお宮参りの人たちが記念写真を撮っていた。


『シャッターを押して貰えますか?』と頼まれれば断る訳にはいかない。
『はいっいきますよ~っ』


谷保天満宮を後にする。


国立第一小学校前の横断陸橋を通過すると、


12時23分、左手に南養寺の常夜燈が現れた。
寛政六年(1794)に甲州街道沿いの元上谷保の油屋近くに建てられたもので、
道路拡張工事に伴い、南養寺表参道入口であるこの地に移転された。
大正時代までは、村人が順番に毎日夕方、灯りを灯していたと伝えられている。


南養寺の長い参道の先に総門がある。
安永九年(1780)地元の大工佐伯源太によって建築された。
薬医門形式で、屋根は切妻造りで銅版葺きである。


総門を潜ると、右手に地蔵堂があり、


その先には享保三年(1718)建造の大悲殿がある。
堂内には運慶作とも云われる十一面千手観音坐像が安置されている、そうだ。


大悲殿を左に曲がると文化元年(1804)建造の立派な本堂が現れた。
南養寺は、臨済宗建長寺派の禅寺で、立川普済寺の末寺。
開山は、南北朝時代の正平二年(1347)、本尊は釈迦如来坐像。
本堂の北面に枯山水の庭園があるとのことだったが、時間の都合上パスした。


境内の奥には、享保三年(1718)鋳造の鐘楼が。
梵鐘は谷保鋳物三家の一つ下谷保の関忠兵衛作、とのこと。


南養寺入口の常夜燈に戻ると、皆さん、腰を下して休憩していた。
少々お疲れの様子、というより、お腹が空いて動くのがおっくうといった状態である。
時計は12時33分を回っていた。


南養寺を出て最初の交差点(矢川駅入口)に肉の万世の看板を見つけた。
100mほど先と表示されている。
この先、適当なファストフードなどなさそうだし、
『たまには美味しい牛肉でも食べるとするかっ』


ということで、交差点を右折し、矢川通りを100mほど進むと、12時41分、万世に到着した。
途中、スリランカ料理店もあったが、これはパスした。


メニューを見ると、みなけっこう良い値段である。
『まぁ 他に店は無さそうだし、ここにするしかないねっ』


一番混んでいる時間帯だったため、席に案内されるまで10分ほど待たされた。
しかも4人づつ別の席である。
思案の結果、「とんかつランチ」(890円)を注文。
配膳されるまで20分ほどかかった。


ご飯のボリュームは充分過ぎるほどだったが、お代り自由とのこと。
『これでお代りする人っているのかねぇ』


食事を終わった時には13時30分を過ぎていた。
たっぷり50分ほど要したことになる。
『やっぱり昼飯は牛丼屋に限るねっ』などと話しながら、旧甲州街道を進む。
(後で聞いたら全員「とんかつランチ」を注文していた)


名もないような地蔵堂に手を合わせ、


旧甲州街道を進むと、


13時53分、立川市に入った。


日野橋交差点を横断


新奥多摩街道の銀杏並木を進み、錦町下水処理場交差点を左折。


東京都知事選のポスター
21名立候補しているはずだが、ポスターは6枚しか貼られていない。
他の候補者は、まだ撮影中なのだろうか?


錦町下水処理場の裏手に日野の渡し跡碑があった。
日野の渡しは、甲州道中の幕府公認の渡し場で貞享年間に現在の場所に落ち着いたが、
大正十五年の日野橋の完成で満願寺の渡しと共に廃止されている。
碑には、以下のように記されている。
日野の渡しの出来たのは、いつの頃だか誰も知らない、
江戸時代中期貞享年間、この地に渡しが移されたことは確かであろう。
かつて信濃甲斐相模への人々は、この渡しを過ぎると遠く異境に来たと思い、
江戸に向かう人々は、江戸に着いたと思ったという。


日野の渡し跡碑の先の下水処理場を過ぎると、多摩川に出た。


テニスコートや野球のグラウンドでは練習が行われていた。


休憩中の中学生たち。
『甲子園目指して頑張ってねっ』


監督・コーチの皆さんも一休みだ。
『暑いのにご苦労さんですねっ』


日野橋、長さは500mほどあるだろうか。
けっこう長い橋である。


日野橋を渡る。


日野橋から多摩川上流を望む。
多摩モノレール線が見える。


多摩モノレールだ。


何を見てるのかな?


1羽の白サギが餌を獲っているところだった。


日野橋を渡り切り、


多摩モノレール線の下を通過


日野宿へ


馬頭観音像


旧有山家の古い家の写真に見入る。


写真には、次のような説明が、
有山家(屋号「綿十」)前-下町-
左手の石垣付近が有山家です。この写真は、明治26年(1893)の大火の前に撮られたものと思われます。
有山家、中嶋家(屋号「嶋屋」)、古谷家(屋号「油屋」)、土方家(屋号「土屋」)と蔵の連なる
甲州街道沿いの町並が分かる一枚です。


14時44分、日野宿本陣に到着
日野宿本陣は、正保年間(1644-46)に日野宿の名主に取り立てられた下佐藤家の住宅である。
冠木門を構え、


瓦葺きの大屋根・入母屋の玄関など本陣建築として建築史的にも価値がある。
本陣内には近藤勇の書状や新撰組関連の歴史的資料なども展示されている。


冠木門のところで、新選組隊服に身を包み、”日野宿応援隊御預 ひの散策組”の幟を携えた女性達とばったり。
『せっかくだから』ということで、女性陣との記念写真を撮らせてもらった。
ボランティアで観光案内などをしている、そうだ。


この日は、最後に高幡不動にお参りすることにしているので、
ここ日野宿本陣で引き返し、多摩モノレールの甲州街道駅へ向かうことにした。
JR日野駅近辺の寺社は、次回に訪ずれることにしよう。


日野警察署前を通過すると、


多摩モノレール線が見えてきた。


15時9分、甲州街道駅に到着
『この日の街道歩きに相応しい駅名だねぇ』


高幡不動駅は2つ先(210円)である。
多摩モノレール車内


15時21分、高幡不動駅に到着


高幡不動の参道入口商店街の門
横浜中華街を思わせる。


参道を進むと、


高幡不動仁王門の前に出た。
圧倒されるほどの存在感だ。
楼上の扁額「高幡山」は江戸時代初期の運敞僧正「号泊如」の筆
『凄く立派な門だねぇ』


仁王尊は室町時代の作と伝わる。


線香の煙で身体を清めて、


不動堂に参拝
真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三大不動の一つに挙げられ、
高幡不動尊として親しまれている。
冒頭でも説明したように、関東三大不動尊は、高幡山金剛寺(高幡不動尊)、成田山新勝寺(成田不動尊)、
および玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊)とされている。


熊本大地震救援募金へも少しばかり・・・


奥殿に安置されている丈六不動三尊へもお参りしておこう。


総重量1100Kgを超える巨像の丈六不動三尊は、古来日本一の不動三尊と伝えられている、そうだ。


満5年の歳月をかけて竣工したと云われる五重塔は、塔高39.8m、総高45mで、
平安初期の様式を模した美しい塔だ。


新選組土方歳三の菩提寺である高幡山金剛寺には、近藤勇・土方歳三両雄の碑や、土方歳三の銅像、
また大日堂には土方歳三の位牌や新選組隊士慰霊の大位牌等、更に奥殿では歳三の書簡ほか
多くの新選組資料が展示されている、とのこと。


高幡山金剛寺にはこの他にもたくさんの建物や見所があり、全てを見て回るには相当な時間が必要である。
残りは次の訪問時の楽しみにしておいて、この日は高幡山金剛寺を後にした。


15時56分、京王線高幡不動駅に到着
15時58分発の特急で新宿へ向かい、約30分で新宿へ到着した。やはり特急は早い。
その後、山の手線で上野駅へ向かい、常磐線で帰路についた。
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧甲州街道を歩く」第四回目(府中宿~日野宿)を歩き終わった。
京王線府中駅から、JR日野駅までという比較的短い距離というのが頭にあったため、
立ち寄り先に時間をかけ過ぎた感はある。
武蔵府中熊野神社古墳では、展示館の見学に加え石室復元展示室の見学もするなど
充分過ぎるほど時間をかけたが、今では見学しておいて良かったと思っている。

街道からは少し外れているが、関東三大不動尊の高幡不動尊にお参りできたのもその一つだ。
甲州道中として訪れたが、このような機会でなければこれからも訪れることはなかったと思われる。
これも「旧甲州街道を歩く」の醍醐味(ハプニング)と言えるかも。

次回(8月)は、日野宿から駒木野宿(約12Km)を予定している。
次はどんなハプニングがあるのか、今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。
次回は、昼食はやはりファストフード店にしたい。

この日の万歩計は、21,000歩を計測していた。

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ビール&料理はグー 牛久周辺&シャトーでランチ

2016年07月15日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年7月15日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第15回(2015年第26回)、「牛久周辺&シャトーでランチ」ウォーキングに参加した。

あいにくこの日は、午前中は雨の予報である。
7時にWebで雨雲の流れを見ると、この後県北から県南にかけて雨雲に覆われる状態になっている。
通常の例会では中止にするところだが、この日はレストランを予約しているので、当日キャンセルはできない。
役員で相談の結果、牛久駅の出発を1時間ほど遅らせ、牛久シャトーの周辺を少しだけ歩こうということになった。
早速連絡網を使って参加者全員に電車の乗車時刻変更を周知。

荒川沖駅10時19分発の電車を待っているところ。
この時点では、まだ雨は降っていない。


10時26分、牛久駅に集まったのは、参加予定33名中31名。
2名がシャトー・カミヤへ直行したいとの連絡が入った。
この頃から雨が降り始めたため、準備体操は省略。
10時39分、Oさんを先頭に牛久駅を出発!
レストランへの到着は、11時30分が目標である。


続いて後続のグループが出発。
全員傘を差してのウォーキングは久しぶりのことになる。


いつになく軽装の人が多い。
シャトー・カミヤのレストランへ直行する、と勘違いした人もいたようだ。
美味しいビールを味わうには、少しでも汗をかこうという狙いは分かってもらえたと思う。


駅前の河童像のモニュメント前を通過。
河童像も『こんな雨の中をようこそ』と迎えてくれたかどうか・・・


牛久ヘルスロードを進む。


信号を横断。


シャトー・カミヤ周辺には少女のブロンズ像が建てられている。


ぶどうも生っている。
『美味しそうなマスカットだねっ』
『勝手に採っちゃって良いのかしら?』


ヘルスロードを進む。


”幼”像


シャトー・カミヤの裏通りを進む。


”小鳥と少女”像


シャトー・カミヤ裏のロイヤルホームセンターの塀には、壁画が描かれている。


壁画の道に沿ってヘルスロードが続く。


”巣立ち”像を通過すると、


右手に牛久市役所が現れる。
ピンク色の建物が特徴的だ。


左手の牛久郵便局のところを右折し保健センターに沿って進む。


10時58分、市役所庁舎の東側を通過


ハモナカフェ前を右折して、


市役所の正面入口前を通過


シャトー・カミヤのこんもりとした森を右手に見ながら進むと、


11時5分、シャトー・カミヤに到着した。


シャトー・カミヤ正門
シャトー・カミヤは、実業家の神谷傳兵衛が、明治36年(1903)に牛久市に開設した日本初の本格的ワイン醸造場。
フランスに現存した醸造場をモデルに、ボルドー地方の技術を用いて、葡萄の栽培からワインの醸造・瓶詰めを
一貫して行なった。
現在は、約6万平方mある敷地内に、当時の建物を活かした記念館やレストランを展開し、
ワインの歴史を紹介するとともに“食の楽しさ”を提供しており、多くの人が訪れる。
平成19年(2007)11月には経済産業省より「近代化産業遺産」に認定された。
また、平成20年6月には国の重要文化財に指定されている。


レストランにはまだ少し早いので、神谷傳兵衛記念館を見学することにした。


神谷傳兵衛記念館
今年7月1日から営業を再開したばかりだったのは、幸運だった。


1階は、醗酵室になっている。
直径が人の身長の2倍ほどもある巨大な樽がずらりと並ぶ様は壮観である。


2階は、神谷傳兵衛の足跡が、当時のワイン造りの資料とともに紹介されている。
見学風景(1)


見学風景(2)


見学風景(3)


見学風景(4)


見学風景(5)


見学風景(6)


昭和42年(1967)2月23日には、第48代横綱の大鵬一行も訪問している。


昭和40年代の工場とその周辺
工場の周りは畑ばかりが広がっていた農村だったことが分かる。


昭和20年代の蜂ブドー酒が並べられている。
右から、昭和21年(1946)・昭和23年(1948)・昭和25年(1950)・昭和36年(1961)製造のラベル表示が。


右はコルク栓外し機、左は回転式沈静機
いずれもフランス製


最後に地下のワインセラーを見学。
灯りがないと中は真っ暗だ。
『一人では怖いわねっ』


神谷傳兵衛記念館の見学を終え、ラ・テラス・ドゥ・オエノンへ


ラ・テラス・ドゥ・オエノンは、緑が見渡せるガラス張りの開放的な構えで、
できたてのクラフトビールと創作料理が味わえる、という触れ込みである。


11時29分、ラ・テラス・ドゥ・オエノンに到着。
しかし、まだ扉は開いていなかった。
1分前のため、入れない状態だった。


11時30分ちょうど、扉が開けられ、中へ。


こちら肉料理希望者(22名)の席と、


魚料理希望者(11名)の席は別になっていた。
3か月前の申込時に言われていたので、これは仕方がない。


『かんぱ~いっ』


『お疲れさま~っ』
『ビールが美味しいっ』


魚料理組は既に『かんぱ~いっ』は終わっていて、静かに食事中だった。


肉料理のメインディッシュは、ローストビーフだ。
ビールも美味いが、ローストビーフにはやはりワインが似合う。
シャトー・カミヤに来てワインを注文しない手はない。
何名かと赤ワイン(グラス)を注文した。満足のいく味だった。


食事風景(1)
肉料理・魚料理共にサラダとスープ、パンが付いている。


食事風景(2)
ガラス越しに庭の緑を眺めながらの食事は、また格別なことだろう。


最後にコーヒーが出て、1,500円(税込)とリーズナブルだと思う。


13時23分、ゆっくりとビールと食事を楽しんだ後は、


向かう先はスーベニアショップである。


土産物を買い求める。
店内を見渡すが、当会の会員以外は見当たらない。


ほろ酔い気分も手伝って、


ついつい「電気ブラン」(1,145円)と「葡萄の城」(1,296円)を買ってしまった。
シャトー・カミヤに来ると、毎度のことではあるが・・・


13時40分、手に手に土産物を下げ、シャトー・カミヤを後にした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


この日は、朝から昼にかけて雨の予報だったため、1時間ほど時間を繰り下げての例会実施となった。
全員傘を差した状態ということで、シャトー・カミヤと牛久市役所の周りを回っただけの短い距離になった。
当会の例会としては、やや物足りない距離ではあった。

ラ・テラス・ドゥ・オエノンの料理は、美味しく、皆さんからも好評を得たようだ。
出来立てのクラフトビール、ワインも満足のいくものだった。
次回はいつになるか未定だが、その時は今度は魚料理を注文してみたい。

これから約1ヶ月半、例会は夏休みとなる。
しばらくの間身体を休め、9月初めには、また皆さんと元気に再会できることを楽しみにしよう。

この日の万歩計は、6,500歩を少し超えていたが、やはり物足りない歩数ではある。

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富士登山トレーニング 薬王院コース

2016年07月10日 | ウマさんの気ままなウォーキング
2016年7月10日(日)

富士登山トレーニング第4回目(自身3回目)に参加した。
この日は、筑紫湖から薬王院コースを上り、男体山(871m)に参拝して、
また薬王院コースを下り、筑紫湖まで戻るというものである。

8時47分、この日のスタート地点、筑紫湖駐車場に到着。
駐車場は満車状態だった。
県外のナンバーもちらほら。多くは釣人の車と思われる。


駐車場の100mほど先の空地に車を停めて筑紫湖へ。


筑紫湖は、風もほとんどなく、穏やかだった。


筑紫湖で待っていると、この日の参加者が到着し、前述の空地に駐車して筑紫湖へ集まった。
主宰者のYさんより、霞ヶ浦の水の利用状況などの説明があった。
それによると、茨城県は、利根川の水を利用する権利はなく、県西で利用した分は、
霞ヶ浦から利根川に戻しているとのこと。
『へ~っ そうなんですか』


9時11分、先ずは薬王院目指して出発!
筑紫湖畔の蕎麦屋「つくし亭」前を通り、


薬王院参道から薬王院へ。


緩やかな薬王院参道を進む。
この日の参加者は、7名である。


つづら折の参道を進むこと凡そ30分、


薬王院の仁王門前に到着した。


下山後にゆっくりと薬王院に参拝しようということで、仁王門を後にする。


9時47分、薬王院ルート登山口に到着
筑波山歩道案内板によると、薬王院~筑波山頂は、2,300mとある。
『筑波山の登山ルートで一番長い距離だねぇ』


9時53分、登山開始!
これまで何度か上ったことがある自分が先頭を務めることになった。


杉の林とシダの群生地を過ぎると、


緩やかな山道が続く。


登山道は、最初は光が差し込むところもあったが、


雑木林に囲まれた薄暗い場所が多くなった。
次第に上りの勾配がきつくなってきた。


10時20分、最初の休憩を摂り、水分補給。


再び山道を進むと、


10時30分、舗装された道路に出た。


登山道は道路の反対側へと続いている。


この位置の標高は420m、筑波山頂まで1,622mと表示されている。


10時33分、先頭は写真を撮りづらいため、交替してもらって再び筑波山頂を目指した。


舗装道路を過ぎたら一段と急な山道になった。


丸太の坂道が現れ始めた。


10時49分、丸太の急坂が始まった。
片側に柵が設けられている。
ここからさらに急な長い階段が続くのである。


厳しい階段が続く。
全身汗びっしょりで、息が上がる。


それまで直登だった階段がジグザグのつづら折に変わった。
間もなくこの急な階段も終わる頃だが・・・


その後しばらくつづら折れの階段は続いた。


11時0分、丸太の階段が終わる辺り(標高630m、山頂まで1,092m)で堪らず休憩だ。
『いやぁ このルートは厳しいねぇ』


さらに丸太の階段を数百m上ると、


ようやく平らな道になった。
『ここまで来れば後は楽らしいよっ』


筑波山を目指す。
『ずっとこんな道だったら楽なんだけどねっ』


『さっきの階段とは比べものにならないよねっ』
快調なペースで山頂を目指す。


標高710m、山頂まで566mの標識を通過。


11時24分、自然研究路の分岐点を通過。
御幸ヶ原まで0.5Kmである。


自然研究路の分岐点を過ぎると、緑に包まれた緩やかな道になる。
途中適度な高さの石段などがある。


急な石段も3か所ほどあるが、それほど長くはない。
最後の急な石段を上り、


緑に覆われた道を進むと、


11時39分、御幸ヶ原に到着した。
筑紫湖を出発して2時間30分、薬王院から1時間50分かかったことになる。


後続を待つために男体山神社上り口の見浦茶屋で一休みすることに。


見浦茶屋は、日曜日のためけっこう賑っていた。


喉が渇いていたので、ショバ代としてかき氷(400円)を注文。
疲れた身体に、冷たくて甘いかき氷は最高に美味しかった。
そのうち遅れていた1人が到着した。
Yさんは、『今日は体調があまり優れないので途中で引き返すかも』と言っていたのだが・・・


12時20分、見浦茶屋で弁当を食べた後、男体山神社へ向かった。
他の人は何度もお参りしているらしく、遠慮しておこう、とのこと。


1人で男体山山頂(871m)を目指した。


最後の急な岩場を上り・・・


12時34分、男体山神社に到着し、
無事登山出来たことに感謝の気持ちを込めて、参拝!


男体山山頂から見たつくば市の景色。


御幸ヶ原に下り、水分補給用のお茶(200円)を買い求め、


12時54分、下山開始
この時、お茶を買い求めている間に他の皆さんは既に下山したのだとばっかり思っていた。
そのうち追い付くだろう、と気軽に考え、


皆さんの後を追いかける形で、緑一杯の道を薬王院を目指した。


13時3分、自然探求路分岐点を通過
薬王院まで2.5Kmと表示されている。


杉林の中を進む。


標高670m、薬王院まで2,118mの地点を通過
先行グループになかなか追い付かない。


丸太の道が始まった。


ここから急坂の丸太階段になる。
ここにも先行グループの姿はなかった。それにしても先行グループは、随分早いものだ。
下りとは言え、このペースは自分にとってはかなり厳しい。
汗びっしょりになってきた。
まぁ薬王院で合流すれば良いか、と少しペースを落とすことにした。


急坂の丸太階段をマイペースで下っていたところ、


後続の人に追越されてしまった。
自分と年齢はあまり変わらないように見えたが、足取りは軽そうだ。


丸太の柵が終わり、丸太の階段から


普通の山道になった。


13時31分、舗装道路に出た。
御幸ヶ原からここまで35分弱かかったことになる。
ここにも先行グループの姿はなかった。


一息入れて、13時37分、薬王院を目指す。


マイペースで薬王院を目指していたところ、何と先行している筈のグループが後ろから追い付いた。
皆さんも自分を追いかけて来たのだと言う。
お互いに追いかけあっていたのだ。


揃って薬王院へ向かった。


13時57分、薬王院まで500mの地点を通過し、


シダが生い茂る杉林を抜けると、


14時4分、登山口に到着した。
御幸ヶ原からここまでちょうど1時間である。


薬王院を目指す。


14時7分、仁王門に到着


どっしりと風格のある薬王院仁王門だが、仁王像はなかった。


仁王像2体は現在修理中のようだが、阿形像は修理完了したとある。
吽形像はまだ修理中のようだ。
2体揃って修理が完了したら、またここに戻されるのだろう。


仁王門を潜って、急な石段を上ると、


薬王院本堂が目の前に現れた。
無事の下山を感謝して、


鐘を撞いた。
腹に響くような大きな音が境内に鳴り響いた。


Yさんは既に到着していた。
50分ほど前からここで待っておられたそうだ。


一休みした後、三重塔を経て筑紫湖へ向かう。
三重塔は、大工棟梁桜井瀬左衛門安信の手により、宝永元年(1704)に完成した、とある。
安信は、7年後に成田山新勝寺三重塔を完成させている。
三重塔は、県の文化財に指定されている。


筑紫湖駐車場へ向かう。


薬王院参道を下る。


参道入口で次回の集合場所と登山ルートを確認
次回は、薬王院コースを上り、女体山を経由して、筑波高原キャンプ場へ下ることになった。


筑紫湖が見えてきた。


15時29分、ゴールの駐車場に到着。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


富士山トレーニング第4回目(自身3回目)が無事終わった。
筑紫湖から薬王院を経由し、薬王院コースを上り、男体山(871m)にお参りして、薬王院コースを下るという
筑波山コースの中で最も長くて厳しいコースと云われているが、無事歩き終えてホっとしている。
前回ほどではないが、足の筋肉が痛い、あと1-2日はこの状態が続くことだろう。
念願の富士登山に向けて、可能な限りトレーニングに参加して、富士山登頂を果したい。

この日の万歩計は、21,000歩を計測していた。


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「たつのこ山」からの眺めが素晴らしい 龍ヶ岡公園周辺

2016年07月08日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年7月8日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28度第14回(2016年第25回)、「龍ヶ岡公園周辺(龍ヶ崎NT)」ウォーキングに参加した。
龍ヶ岡公園は、2013年12月6日(金)以来2度目となる。

この日、第一集合場所の乙戸沼公園に集まったのは17名。


車4台に分乗し、9時47分、龍ヶ岡公園に到着。
龍ヶ岡公園に直行したのは13名で、参加者は30名となった。


龍ヶ岡公園のシンボル「たつのこ山」(標高41m、地上23m)は、草刈りの最中だったが、
上るのには支障はなさそうだ。


「たつのこステージ」前に移動して、Oさんの号令で準備体操。


「たつのこステージ」の正面が「たつのこ山」になっている。


最後に大きく深呼吸をして、


9時58分、Oさんを先頭に出発!


先ずは「たつのこ山」頂上(標高41m)を目指す。


『地上23m以上はありそうだよねっ』


周りの景色を見ながらということで、途中から螺旋状の道へ。


南東の方角には、龍ヶ崎市総合体育館「たつのこアリーナ」が見える。
メインアリーナには、バスケットボール・バレーボール・バドミントン・ハンドボールなどのコート、
及び卓球台などを備えている、とのこと。
手前左には陸上競技場「たつのこフィールド」が見える。


北に見えるのは龍ヶ崎済生会病院だ。
(麓に見える遊具施設は、前回訪問した(2013年12月6日)時にはなかった)


「たつのこステージ」は、北西に当たる。


10時3分、「たつのこ山」山頂(標高41m)に到着
『360度見渡せるよっ』 『見晴らしが良いねぇ』 


山頂から龍ヶ崎済生会病院を望む。


南西方向の城ノ内方面


10時6分、下山してウォーキング開始だ。


前回は反時計回りだったので、今回は時計回りに歩くことにしたので、
「たつのこステージ」方面へ下山する。


最初に「たつのこ公園」入口の子育て支援センター「さんさん館」前を通過すると、


直ぐに「たつのこ交番」がある。
『随分立派な交番だねぇ』


散歩中の保育園児たちとすれ違う。
『あらぁ 可愛いわね~っ』


先に交差点を渡って、後の組を待つ間にも道端に腰を下す。
今日は暑いから出来るだけ体力を使いたくない、ということのようだ。


10時17分、龍ヶ崎済生会病院前を通過


龍ヶ崎済生会病院の先から小さな林「市民健康の森」へ通じている。
公園内は松林となっており、強い日差しを遮ってくれる。


『少しでも日陰があるのはありがたいんだよねっ』


松林を抜けると県道243号(ぬくもり通り)に出た。
ドラッグストア「カワチ」を過ぎると、


ホームセンター「ジョイフル山新」だ。


ジョイフル山新前を通過すると、


陸上競技場の金網超しに「たつのこ山」が見える。


陸上競技場を過ぎると、正面に「たつのこアリーナ」が見えてきた。


「たつのこアリーナ」には、室内競技用コートなどの他、
ウェルネスシステムを導入した機器や、温水プールも備えている、そうだ。
『立派だよね~っ』 『羨ましいわね~っ』


ぬくもり通りを横断して、「たつのこスタジアム」へ向かう。


「たつのこスタジアム」前を通過し、


再度ぬくもり通りを横断し、「たつのこアリーナ」側へ。


「たつのこアリーナ」の裏は、一段低くなっており、臨時の駐車場と、


龍ヶ岡公園の広大な緑地帯が広がっている。
時計回りに緑地帯を一周することにした。


10時44分、龍ヶ岡公園を出発して凡そ30分が経過していた。
木陰で一休みして行こう。


水分補給と恒例のお茶タイム。
皆さんが持ち寄ったお菓子を配り合うお馴染の光景である。


『どうぞっ』 『いやぁ これはごちそうさん~っ』


緩やかな坂道を下って行き、


調整池の橋を渡り、対岸へ。


破竹川防災調整池というのが正式名称である。


調整池の橋を渡ると、


葦原の前方右手に「たつのこアリーナ」が見える。


調整池の散歩道を進む。


『涼しくて歩くには良いコースだねっ』
『散歩にはもってこいよねっ』


「たつのこアリーナ」に近い方の橋を渡り、


「たつのこアリーナ」裏の臨時駐車場を通り、


「たつのこアリーナ」入口へ。


11時9分、「たつのこスタジアム」前の交差点に出た。


交差点を右折して県道243号(ぬくもり通り)を進む。


龍ヶ崎市中里三丁目は、洋風的で個性的な家が多い。
薪ストーブを使っている家も何軒か見掛けた。


さらにぬくもり通りを進むと、


右手に先ほど歩いた破竹川防災調整池が見えてきた。
『緑と水辺がある景色って素敵だよね~っ』


さらにぬくもり通りを進み、


交差点を右折する。


左手に城ノ内小学校を見ながら進むと、桂昌寺の看板があった。
桂昌寺で最後の休憩を摂っていくことにしよう。


城ノ内5丁目の住宅地の中を進み、


11時31分、桂昌寺に到着した。


桂昌寺は、曹洞宗の寺院である。


本堂前脇には、金剛力士立像2体が安置されている。
桂昌寺の仁王尊(金剛力士像)は、もとは八代町富士神社の仁王門に祀られていたものである。
富士神社は、社伝によると、鎌倉時代の 正治二年(1200)の創立で、元亀二年(1571)に
江戸崎城主土岐治英の保護のもとに再興されたという。(龍ヶ崎市教育委員会)
口を開けた阿形像、像高は200cm。


口を閉じている吽形像の像高は210cm、
ともに、近世初頭の造形を示す優品、だそうだ。
金剛力士立像2体は、市指定の文化財となっている。


仁王像脇で最後の休憩を摂り、


11時41分、ゴールの「たつのこ山」を目指す。


城ノ内中学校入口を通過


城ノ内住宅街を進む。


11時54分、城ノ内3町目バス停を通過


11時57分、県道34号線城ノ内1町目バス停を通過


ゴールの「たつのこ山」が見えてきた。


12時ちょうど、「たつのこ山」に到着。


最後にもう一度「たつのこ山」に上ってみよう。


景色を見るのもそこそこに直ぐに下る。
やっとのことで上ったので最早景色を楽しむ余裕はないようだ。


12時5分、龍ヶ岡公園駐車場にゴール!
『最後の「たつのこ山」は、きつかったぁ』

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

今回、龍ヶ岡公園周辺散策ということで、龍ヶ崎NT(ニュータウン)の龍ヶ岡公園を訪れた。
龍ヶ岡公園のシンボル「たつのこ山」からの眺望は、なかなか素晴らしかった。
「たつのこ山」には、遊具施設もあるので、次は孫を連れて訪れてみようかな。

この日の万歩計は、11,000歩を計測していた。

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初の水戸芸術館展望タワー 千波湖・偕楽園散策

2016年07月01日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年7月1日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28度第13回(2016年第24回)、「千波湖・偕楽園散策(水戸)」ウォーキングに参加した。


荒川沖駅8時ちょうど発の勝田行を待つ。


最初はバラバラだったが、土浦駅を過ぎると、車内が空いてきてまとまって座れるようになった。


9時2分、この日の出発地水戸駅に到着


この日のコース説明と今後予定されている例会(7月15日「牛久シャトーでランチ」、
9月16日「奥の細道バスハイク」)の参加再確認などをして、9時18分、出発!
参加者は、33名だ。


駅北口の黄門様と助さん格さん像に見送られ、


水戸駅を後にする。
『行ってくっからねっ』


最初の訪問地、義公生誕の地(水戸黄門神社)がある三の丸二丁目へ。


9時25分、黄門様で親しまれている水戸藩2代藩主徳川光圀公生誕の地に到着。
生誕の地は、今は水戸黄門神社となっている。


水戸黄門神社に参拝
水戸の生んだ不朽の傑人「水戸黄門光圀」(義公)は、初代水戸藩主頼房(徳川家康の第11子)の第3子で、
寛永五年(1628)6月10日、家老三木仁兵衛之次の邸に生まれた。


三の丸二丁目交差点近くに水戸黄門様の像があった。
水戸黄門神社への入口だった。
このような像があったとは知らなかった。


いったん駅前まで戻り、次の目的地弘道館へ向かう。


国道50号の銀杏坂交差点を右折して、坂道を上ると、正面に三の丸小学校があった。
三の丸小学校の門は、冠木門である。
『小学校の門としては珍しいねぇ』


三の丸小学校の塀に沿って弘道館へ。


三の丸小学校の先が弘道館になっている。


9時41分、弘道館正門に到着
弘道館は、水戸徳川家9代藩主徳川斉昭が、天保十二年(1841)水戸藩の学校として創建し、
当時としては珍しい医学や天文学なども教えた。
15代将軍・慶喜もここで5歳から英才教育を受け、大政奉還時に彼が謹慎した至善堂も残されている。
弘道館正門は、本瓦葺きの四脚門で、藩主が来館する際など正式の場合のみ開門した。
学生や諸役人は通用門から出入りした。
時間の都合上、この日は中の見学はパスすることに。


弘道館公園内の梅園を通って鹿島神社へ向かう。


孔子廟前を過ぎると、


弘道館鹿島神社の鳥居がある。


御手洗で手を洗い清め鹿島神社に参拝。


鹿島神社の境内には、八角型の堂宇“八卦堂”が建っている。
弘道館を創建した徳川斉昭公の弘道館の教育基本方針を刻んだ、高さ約3.1m 幅1.9mの石碑
「弘道館記碑」が納められている。


要石歌碑
斉昭の自詠自筆で「行末も ふみなたがへそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ要なりける」とあり、
その大意は「日本古来の人倫の大道は、永久に変らないものであり、
日本人はこの道を踏み違いするということがあってはならない」との意。
歌意と鹿島神宮の「要石」になぞらえて「要石歌碑」という名がつけられた。
この歌詞の書は、弘道館の至善堂御座の間の床の間に飾られている。


三の丸庁舎を左手に見ながら水戸市立博物館へ。


『変わった建物だねぇ 教会のようには見えないし』
後で調べたら、水戸市水道低区配水塔と分かった。
下市地区へ良質な水道水を市民に供給するため、昭和7年(1932)に造られたそうだが、
平成11年度をもってその役割を終えた、とある。
昭和60年(1985)には近代水道百選にも選ばれている、とのこと。


水戸東武館は、創設以来の「文武不岐」の精神のもとに、日本の伝統文化である
剣道・なぎなた道・居合道の修練を重ね、これを正しく後世に伝承するための
修練に努める道場である。
特に、少年剣道の基礎、基本の習得に重点を置き、生涯を通して実践できる能力を養う、とのこと。


気象台前の交差点を左折する。


水戸市立博物館の正面の階段は、閉じられていた。


次に目指す水戸芸術館のタワーが見えてきた。
水戸地方で地震があったりすると、必ずと言っていいほどこのタワーの映像が流される。


10時16分、水戸芸術館に到着


水戸芸術館は、水戸市制100周年(1989年4月1日)を記念して建てられ、
音楽・演劇・美術の文化発信地となっている。


高さ100mのタワーは展望台(200円)にもなっている。
TVではよく見るが、タワーに上れるとは知らなかった。
せっかくなので、上ってみることにした。


エレベータ前のタワーの模型と写真


エレベータ前にある券売機は1台しかなく、まとめて買うことができないため、
大きなタイムロスとなった。
また、展望台へはエレベータを使うことになるが、定員は10名で、あまり速度が速くないため、
全員が上るまでに、かなりの時間を要した。


展望室の高さは86.4m、定員19名となっているため、全員揃って見れる広さはない。


先に上った人は、後からの人のために、直ぐに下りることが求められる。
団体の場合、ゆっくりと見ている余裕はない。
高さや大きさが異なる丸い窓がランダムにある。


地上86mの展望室からの眺望(1)
千波湖方面を望む。


地上86mの展望室からの眺望(2)
目の前の高層ビルは、マンション(レーベンハイム五軒町レジデンス)だ。


展望台で思わぬ時間を要してしまった。
10時53分、水戸芸術館を後にする。先を急ごう。


『展望台に上ったってことが話のタネになるのよねっ』


水戸市内泉町付近、


大工町交差点を渡り、次の目的地信願寺を目指す。


『紫陽花がきれいだねっ』


水戸市内大工町を抜けると、


11時13分、信願寺に到着した。
変わった形をした門柱が印象的である。


信願寺は、浄土真宗本願寺派で、
本尊は、鎌倉期の作の銅造阿弥陀如来立像。県の文化財に指定されている。。
創建は貞永元年(1232)、親鸞聖人の弟子の1人唯信房(ゆいしんぼう)が開山
したのが始まりと伝えられている。
信願寺は、親鸞二十四輩第23番寺として信仰を集めている、とのこと。
東日本大震災の影響で、本堂の屋根瓦は全て取り外されたままになっていた。


本堂の前に恵信尼公と子息・信蓮房を連れた親鸞の等身銅像があった。


境内の藤棚の下で一休み。


好文亭表門通りを通り、


好文亭の表門へ。


11時28分、好文亭表門に到着
好文亭表門は、天保十三年(1842)の偕楽園創設時に設けられた門で、園の正門に相当する。
昭和二十年(1945)の戦災を免れ、建設当初の姿を今に伝える貴重な門である。


小さな一の木戸門を抜けると、


見事な竹林があった。
『いやぁ これは実に素晴らしいっ』


竹林と杉木立の中は、ひんやりとして涼しい。


玉砂利を踏みしめながら杉林の中を進み、


吐玉泉(とぎょくせん)へ。


杉の大木が見えてきた。


太郎杉だ。
推定樹齢は、800年とのこと。
かつて、太郎杉の周囲には杉の巨木があり、大きい順に名前が付けられていた。
五郎杉まであったようだが、現在あるのは太郎杉だけ、だそうである。


11時34分、直系2mの大理石から清水が湧き出る吐玉泉に到着
『あら~っ 冷たくて気持ちが良いねっ』


好文亭の前を通って偕楽園東門へ向かうことにした。


両側を熊笹に囲まれている七曲り坂を上る。


熊笹の坂道を上って行くと、


右手に好文亭の2階がちらりと見えた。


熊笹の道を過ぎ、杉林の道を進み、


好文亭中門を潜ると・・・


好文亭入口があった。
好文亭の名前の由来は、晋の武帝の故事「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」により、
梅の異名を「好文木」といったことから命名されたと云われている。
二層三階の好文亭と北側の奥御殿からなり、全体を総称して好文亭と呼んでいる、とのこと。


好文亭は、皆さん一度は訪れているので、時間の都合もあり、
兼六園、後楽園と並ぶ日本3名園のひとつと名高い偕楽園の中を通り、東門へ向かうことにした。
偕楽園は、徳川斉昭が自ら構想し、天保十二年(1841)から造園。
100種3,000本の梅の名所となっている。


偕楽園の東門を抜け、


土産物店の先を左に曲がると、常盤神社があった。
左回りで1回、右回りで1回、最後に左回りでもう1回の計3回茅の輪を潜り、


11時56分、常盤神社に参拝を済ませる。
常盤神社は、水戸藩2代藩主徳川光圀、9代藩主徳川斉昭を祀っている。


記念撮影?
『くたびれちゃったから座ってるだけなのっ』
そう言えば時刻は既に12時近いし、お腹もかなり空いてきた。


常盤神社境内に、東湖神社があった。
藤田東湖は、徳川斉昭の藩政改革を推進した中心人物で、斉昭が実権を握った後は海防を担当した。


常盤神社を後にする。
最後に東照宮に立ち寄って水戸駅に向かうことにした。


東照宮を目指す。


偕楽園駅(臨時駅)を過ぎて、県道342号を潜り、


線路脇の近道らしき道を進む。
『ここを真っ直ぐ進めば早いんじゃないの?』


道は続いているように見えたが・・・


マンションの駐車場で行き止りだった。
マンションの中を通り抜けようとしたが、ドアがロックされており、
中を通り抜けることは出来なかった。残念!


ここは仕方なく県道342号のところまで引き返すことに。
『急がば回れってことだよなっ』


高台の住宅街を通り、


東照宮を目指した。


備前町の紀州堀緑地の先の信号に出た。
この道を進めば東照宮に行けそうだ。


右手に常磐線を見ながら進むと、


千波大橋が見えてきた。


東照宮は間もなくだ。


県道50号から小さな路地を入って行くと東照宮山車庫が現れた。
山車庫の後ろの小高い所が目指す東照宮のようだ。


12時42分、東照宮に到着した。


お腹が空いて力が入らなかったところだが、
最後の力を振り絞って62段の石段を上ると、


東照宮の社殿があった。
元和七年(1621)水戸藩初代藩主頼房が徳川家康を祀る神社として、
日光東照宮の様式を取り入れ、創建した。
旧国宝だった社殿は、昭和20年の戦災で焼失し、昭和37年に現在の社殿が再建された。
今日では徳川頼房も祀られている、そうである。


家康の愛刀、備前一文字派則包(のりかね)の太刀(国の重要文化財)が奉納されている、とのこと。


東照宮を後にして水戸駅へ。


間もなくゴールの水戸駅だ。


水戸駅前交差点を渡ると、


水戸駅だ。


12時58分、水戸駅北口に到着


この日は、ここで解散ということに。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『また来週お会いしましょうっ!』


我々は、駅ビルExel 6Fのレストラン街へ。
とんかつ「和幸」で食事をしていくことに。


先ずは生ビールで『かんぱ~いっ』


こちらも『かんぱ~いっ』
『お疲れさまでしたぁ』


真夏を思わせる中、三の丸の水戸黄門神社を皮切りに、弘道館・鹿島神社・水戸芸術館・信願寺・
偕楽園・東照宮と市内を散策した。
芸術館のタワー展望台に初めて上ったのが、印象深い。
駅前の東照宮も初めてである。
これまで例会で何度か水戸を訪れているが、まだまだ知らない場所が多そうだ。
これからも、まだ訪れていない場所を求めて、水戸駅周辺のウォーキングを企画してみたい。

この日の万歩計は、16,000歩を少し超えていた。

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