ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

青い海が印象的 城ヶ島と歴史ある港町を巡る

2017年04月28日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年4月28日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成29年度第3回(2017年第16回)、「城ヶ島と歴史ある港町を巡る
ウォーキングに参加した。

6時30分を過ぎた頃から三中公民館には参加者が次々に集まってきた。


6時50分、土浦市民会館⇒天川団地入口と巡って来た常南交通社の
新型の中型バスが、到着した。
早速乗り込んで、出発だ!


この日の参加者は33名、満席である。


毎度お馴染の三色おにぎり弁当で腹ごしらえ。


7時25分、守谷SAで最初の休憩を摂る。


常磐道から首都高に入ると、渋滞が待っていた。


渋滞は、中央環状線、


湾岸道横浜方面へと続いていた。
羽田空港辺りからスムースに流れ出したが、
この渋滞は何とかならないものだろうか。


大黒PAで2度目の休憩


横浜横須賀道路衣笠ICから三浦縦貫道路を走り、


10時10分、三崎港「うらり」に到着
土浦から3時間半以上かかった計算になるが、
これを大幅に短縮することは難しいと思われる。


遅れてやって来たお昼の弁当を受取り、


10時20分、Oさんを先頭に出発!
先ずは、城ヶ島大橋袂の諏訪神社を目指す。


「うらり」をひとまず後にする。


三崎港交番辺りにあった地図で城ヶ島大橋への道を確認する。
不案内な三崎の市街地を歩くより、港の風景を眺めながら歩こう、
ということで、


港に面した道を進むことにした。


向いに産直センター「うらり」が見える。
渡し船が着岸する場所である。


花暮岸壁から


仲崎、日ノ出辺りを進む。


右手に、城ヶ島大橋が見えた。
『あの橋を渡るんだねっ』


北条辺り


この辺は、三崎港の一番奥まった所になる。


北条から三崎港を見たところ。
『静かできれいな港だねっ』


港の遊歩道から、


細い路地を進んで行くと、


10時49分、諏訪神社に到着した。


この日の無事安全を祈願して行こう。


地元の人に諏訪神社の鳥居の横を上ると城ヶ島大橋が近い、
ということを教えてもらった。


狭くて急な石段を上ると、


城ヶ島大橋への道路に出た。


料金所を通り抜けると、


城ヶ島大橋である。
『風が気持ち良いわねっ』


『三崎港が一望だよっ』


城ヶ島大橋から見た三崎港
『青くてきれいだね~っ』


パノラマ写真


残念ながら、富士山は雲に隠れていて見えなかった。


『潮干狩りもできるのかしらっ』


浜辺では子供たちが遊んでいた。


城ヶ島大橋を渡って右手に折れ、道なりに進むと、


11時16分、城ヶ島公園に到着した。


公園内を進む。
『ほんと良い天気になって、お日様が眩しいわねっ』


公園で安房崎灯台への道を確認
『真っ直ぐ行けば良いみたいだねっ』


安房崎灯台を目指す。


安房崎灯台への途中、第2展望休憩所を過ぎた辺りに
見晴らしの良い場所があった。


『いやぁ これは素晴らしい景色だ』
『ほんとに 海は青いんだね~っ』


さらに進み、第1展望休憩所先のピクニック広場辺りまで来ると、
安房崎灯台が見えて来た。


細い坂径を下って海岸へ下り、安房崎灯台へ。


11時40分、安房崎灯台に到着


『いやぁ 海も良いもんだねぇ』


パノラマ写真


安房崎灯台をバックに記念撮影をして、


海岸沿いに城ヶ島公園へ戻ることにした。


岩場を進む。


『気を付けてっ』


険しい岩場が続く。


ようやく城ヶ島公園(第2展望休憩所)へ戻る階段があった。


『頑張って もう直ぐよっ』
先に到着した仲間からエールが送られる。


「うみのね広場」に到着。
時計は、12時20分になろうとしていた。
この広場と第2展望休憩所で弁当にしよう。


弁当を食べ始めると同時に上空にトンビが現れた。


『気を付けなくちゃ』
キョロキョロと空を見上げながらの弁当である。


こちらは、傘を差して防御体制は万全である。
抜かりのない準備は『さすがっ』


この日の弁当のおかず
これにご飯が付く。
トンビに気をとられていてあまり味は覚えていない。


第2展望休憩所の下で食べた女性陣は、トンビに狙われることは
なかったそうだ。
やはり屋根の下は安全なようだ。


昼食後、城ヶ島公園の正面ゲートへ向かう。
後ろに見えているのが第2展望休憩所である。


正面ゲートで体調を整え、13時5分、馬の背洞門を目指す。


ウミウのモニュメントのところを左に曲がると、


馬の背洞門、城ヶ島灯台へと遊歩道が続いている。


三浦半島八景「城ヶ島の落雁」


説明板には以下のように記されていた。
三浦半島八景は、神奈川県と三浦半島4市1町が協働して、
次の八つを平成13年11月に選定した。
大塔(鎌倉宮)の夜雨、灯台(燈明堂)の帰帆、大佛の秋月、長者ヶ崎の夕照
神武寺の晩鐘、猿島の晴嵐、城ヶ島の落雁、建長寺の暮雪

伝統的な「八景」は、以下の八つの景色を基本形に作られ、それぞれ
次のような情景を表すのではないかと云われている、とのこと。
夜雨:水辺の夜の雨        晩鐘:山寺の晩鐘
帰帆:港に帰る漁船        晴嵐:朝もやに煙る松林
秋月:水辺に映える秋の月     落雁:干潟に降り立つ雁の群れ  
夕照:夕日に照らされた遠くの山  暮雪:夕暮れの雪景色


馬の背洞門まで100mとある。


海岸から戻る小学生の一団とすれ違った。


径が二つに分かれていた。
先頭Gは馬の背洞門は左側と判断し、左の径へ。
後に続く。


急な坂を下って行くと、広い海岸(赤羽根海岸)に出た。
しかしどこにも馬の背洞門らしき景色は見当たらない。
ここは馬の背洞門ではなさそう。
どうやら下りるところを間違ったようだ。


二手に分かれていた所まで引き返し、右の径を進むと・・・
馬の背洞門の上(馬の背)に出た。
『分岐点に標識を立てておいて欲しかったよねっ』


急な石段を下ると、


13時27分、馬の背洞門の正面に出た。
馬の背洞門は、海蝕洞穴で長い年月をかけて波浪、
風雨等に浸食されてこのような見事な形となったもの。
高さ8m、横6m、厚さ2mで、土地の人は「馬の背の洞門」のほか、
「めぐりの洞門」、「眼鏡の洞門」などと呼んでいる。
(三浦市)
洞穴から見える海の青さが印象的である。


馬の背洞門をバックに記念撮影


城ヶ島灯台へは、この海岸を進んでも行けるとのことなので、
海岸線を進むことにした。


しきりに岩の間に溜った海水の中を見ている。
何か生き物を見つけたのかな?


波打ち際の岩には海藻がびっしりと生えていた。
ヒジキのようだ。


砂浜には、採ったばかりのヒジキがいくつも積まれていた。
この後、解して砂の上で乾燥させるそうだ。


振り返って馬の背洞門を見たところ。
洞穴の向うに白い船が見える。
絵になる1枚ではないだろうか。


岩場を進む。
午前中に歩いた岩場よりは歩き易い。


岩場を進んで行くと、


『灯台が見えてきたよっ』
城ヶ島灯台である。


『良かった これで岩場は終わったのよねっ』
やはり岩場は歩き難いのだ。


『露天風呂って書いてあるよっ』
城ヶ島最南端の「港屋」は、宿泊可能なお座敷食堂で、
露天風呂・客室からの眺めや秋から春にかけての夕日は最高、だそうだ。


城ヶ島灯台を目指す。


城ヶ島灯台へ。


城ヶ島灯台
城ヶ島灯台の歴史は古く、慶安三年(1648)、当時三崎奉行であった
阿部次郎兵衛が徳川幕府の命によって、航行する船のために
島の東端安房崎に烽火(のろし)台を設けたのが始まりで、
延宝六年(1678)にこれを廃して、島の西側に灯明台を設けた。


明治3年(1870)、横須賀製鉄所首長フランス人ヴェルニーにより
西洋式灯台として設置点灯された。
このレンガ造円形、灯高基礎上5.76mの灯台は、大正12年(1923)
9月1日の関東大震災によって一瞬に建物の基礎から倒壊。
現在の灯台は、大正15年(1926)8月1日に改築された、とのこと。
真っ白な灯台と真っ青な空のコントラストが美しい。


城ヶ島灯台から太平洋を望む。


城ヶ島灯台を観終わって土産物街へ戻ると・・・
『お帰りなさいっ』 『お疲れさま~っ』
灯台への階段がきついからという理由?で、この店で
ソフトクリームを食べながら待っていたと言う。
『いやぁ 素晴らしかったよ~っ』


土産物店街を通り抜け、


14時8分、渡し船乗り場に到着


事前の情報では、渡し船は12人乗りで、船賃は300円ということだったが・・・
船は新しくなり、一度に40人が乗ることができる、そうだ。
船賃はこれまでの300円を500円にした、とのこと。
またここから城ヶ島大橋を歩いて戻るのは厳しい。
ここは500円払って乗るしかない。
『一度に全員が乗れるというのは悪くはないねっ』


6分後の出船までしばしの休息だ。


『今日は冷たいお茶が美味しいっ』


数分後、対岸の「うらり」目指して出航!
『あの橋を渡って来たんだよな~っ』
こうやって見ると感慨深いものがある。


渡し船は10分足らずで「うらり」前の岸壁に到着した。
時計は14時23分を差していた。
『やっぱり早いねっ』 『何だか物足りない感じっ』


30分ほど自由時間を設け、「うらり」他で土産物などの買い物を
楽しんでもらうことにした。
『みんな欲しくなっちゃうわねっ』


『どうしようかなぁ』と迷ってる様子。
自分は、保冷材など必要がない、まぐろの尻尾の部分のヒモノと
海藻の一種”あかもく”、それに鯨の佃煮を買った。
(締めて2,600円也)


14時55分、土産物買いも済ませたところで、帰路に就いた。
三浦縦貫道路を抜け、


衣笠ICから横浜横須賀道路を走り、


首都高湾岸道路へ。


途中、朝と同じく大黒PAで休憩を摂り、


順調に首都高湾岸道路を走っていたが・・・
羽田空港直下のトンネル辺りから、


渋滞に巻き込まれてしまった。
運転手さんによると、渋滞情報はどちらに回っても同じような状態だと。


湾岸線葛西JCTを通過すると・・・


左手にはっきりと東京スカイツリーが見えてきた。
今年度末には展望台に上る予定を組んでいるので、今から楽しみである。
『待ってろっ 東京スカイツリー!!』


常磐道柏ICを過ぎ、利根川に架かる橋が見えてきた。
利根川を渡ると茨城県だ。


17時52分、守谷SAに到着し、最後の休憩を摂る。


改装後の守谷SAのフードコート
広々として明るくなった感じである。


こちらは土産物店
まだ土産物を探し回っている人の姿も・・・


バス車内


後部座席は盛り上がっている様子。


常磐道から圏央道つくばJCTへ向い、


18時39分、無事三中公民館に到着
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
この後、バスは天川団地入口、土浦市民会館へと向かった。


今回、三浦半島先端の城ヶ島島内を歩いた。
自分としては、城ヶ島大橋を歩いて渡るのはもちろん、
城ヶ島へ渡るのは初めてであった。
海岸線を歩いたこともあるが、島内は想像していたより広く感じた。
快晴の天気になったことも手伝って、馬の背洞門の洞穴から見えた海が
ひと際青かったのが印象に残る。

島には2つの灯台があることを初めて知った。
また、三浦半島八景の「城ヶ島の落雁」とともに、
夜雨・晩鐘・帰帆・晴嵐・秋月・落雁・夕照・暮雪の「八景」が、
基本形の情景であることを学んだのは収穫だった。

次に訪れる機会があれば、城ヶ島最南端のお座敷食事処で、
のんびりと露天風呂に浸かりながら夕日を眺めてみたい。

この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。

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新緑が美しい 宍塚大池から上高津貝塚へ

2017年04月21日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年4月21日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成29年度第2回(2017年第15回)、「宍塚大池から上高津貝塚を巡る
ウォーキングに参加した。
この日のコースは、平成25年3月1日以来で、4年ぶりとなる。

集合場所は土浦イオンである。
地元ということもあり、結果として32名が集まった。


いつものようにOさんの号令による準備体操


『身体を思いっきり反らせて~っ』


『最後に深呼吸~っ』


9時13分、先ずは宍塚大池目指して出発!


土浦イオンを後にする。


この日も先頭を務めるのはOさんである。


土浦イオンから真っ直ぐに県道24号(土浦学園線)に伸びる道路を進む。


『今日も天気が良くて良かったわね~っ』


ステーキハウスの先に変わった看板の店が。
『何だか気持ち悪い看板だよねっ』
『VAPE JAPANってどういう店なのかしらっ?』
ネットで調べると電子タバコ専門店とのこと。


9時34分、県道24号(土浦学園線)に合流。


土浦学園線から一つ入った路地を進み、


大きな長屋門の農家の前を通過
『立派な門構えだねぇ』
『この門は人が住めそうな大きさだねっ』


長屋門を過ぎると、人家がなくなり、細い田舎道に。


谷津田の草むらに木彫りのフクロウたちが迎えてくれる。


『れんげ草が咲いてるよっ』
『なんだか懐かしいわね~っ』


宍塚大池へ


前方に宍塚大池の堤防が見えてきた。


オニバスの池
オニバスの池は、「宍塚の自然と歴史の会」の皆さんが造ったもの。
宍塚小では、毎年、この池にオニバスを移植して、
オニバスの保護を目指しているそうだ。
4~5月に発芽し、花期は8~9月で、直径4cm程の濃紫色の花を
1個付ける、とのこと。


9時47分、宍塚大池に到着


静かな湖面の宍塚大池


宍塚大池パノラマ写真


振り返ると、歩いて来た谷津田の風景が広がる。


宍塚大池の堤防で一息入れ、


9時54分、宍塚大池の奥へ進む。


大池の縁に沿って進む。
新緑の柔かな緑色が美しい。


さらに池の奥へ。


大池は静まり返っていた。
蛙の鳴き声もほとんど聞こえない。
蛙はいなくなってしまったのかもしれない。
時折、小鳥のさえずりが聞こえてくるだけだ。


杉の大木の間を進む。


大池の最奥部へ行くと、


「イナリヤツ(谷津)湿地」と書かれた看板が立っていた。


枯草に覆われているが、この下は湿地になっているらしい。


石棺材の橋
この橋は、古墳の石棺材を使ったものと推定されている、とのこと。
この石は筑波山麓産の片麻岩の板状の石で、ビタ石と呼ばれている、そうだ。


イナリ谷津湿地を過ぎると、径は林の中へと続いていた。


芽吹いて間もない薄緑の若葉が美しい。


『静かで気持ちの良いコースねっ』


それまでの雑木林から杉林になった。
『こういう林も良いもんだなぁ』


再び雑木林に戻ったが、今度は小さな笹竹が多い。


途中で径の十字路に出た。
『ここを左折すれば良いんだねっ』
進むべき径を確認して進むと・・・


民家が現れた。


ここで再度進むべき径を確認して・・・


ソーラーパネルの脇を進む。
前にも一度歩いたことがあるが、その時とは様子が全く変わっている。
左側の林が切り開かれ、その後にソーラーパネルが設置されている。


『今でもソーラーパネルを新設するメリットはあるのかねぇ』
他人事ながら気になる。


S子さん(83)は今日も元気だ。


10時20分、県道123号(土浦岩井線)に出た。


県道123号を上高津貝塚方面へ向かう。


県道123号を左折し、上高津貝塚の裏口へ。


緑に囲まれた林を抜けると・・・


上高津貝塚の裏口に到着した。
門や柵などはなく自由に入れる。


上高津貝塚の「ふるさと歴史の広場」には、
小学校高学年くらいの子供たちがいた。
貝塚の見学などで来ているのだろう。


「ふるさと歴史の広場」は、自由時間を設け、
各自自由に見てもらうことにした。


第2号竪穴式住居
一辺が4-5mの角のとれた四角い形の掘り込み(建物の中の一段低い部分)
として発見されたものをもとに建物を復元したもの。
住居の中央部には火を焚いた炉があり、家の中の生活の中心となっていた。


第4号竪穴式住居
直径が3mの丸い掘り込み(建物の中の一段低い部分)が発見されたものをもとに
建物を復元したもの。
これらの家の屋根には茅が葺かれており、夏涼しく、冬暖かい作りになっている。


廃棄土坑(はいきどこう
ここに住んでいた縄文時代の人たちが食べた残りかすなどを捨てた穴を
発掘調査の成果をもとに復元したもの。
大規模な貝塚の他、このように家族単位で作られたとみられる小規模な
貝塚もある。


1号墓壙(ぼこう
縄文時代のお墓が発掘調査によって発見された様子を再現している。
発見されたとき、埋められていた人の頭のところには、土器が被せてあった。
(以下略)


女性陣は、あまり興味は無さそうだ。
『時間まで休憩しとこっ』ってな感じ。


こういう時はお茶タイムが最高?


展望所


かつての景色はこのように見えた!?
『ここから海が見えたんだぁ』


現在の景色はこんな感じで、霞ヶ浦も見えない。


貝層断面展示施設へ。


貝塚
この貝層は、発掘調査時の断面に特殊な薬剤をつけて、
貝層の土層を剥ぎ取ったものを、立体的に再生展示している。
表面に見える貝や土器は縄文時代のもの。


『へぇ~っ これって縄文時代の貝なんだぁ』


考古資料館へ。
これまで何度か訪れてはいるが、まだ中には入っていない。
Oさんによると、勉強になるそうなので、中を見学することにした。
入館料は1人105円のところ、20名以上の団体割引で75円である。


駐車場には、一般車以外に市教育委員会の大型バスも。
市内の小中学生が多く訪れるようだ。


内部の展示品(1)


内部の展示品(2)


内部の展示品(3)


内部の展示品(4)


小学生たちの見学風景
学芸員の方の解説付で、子供たちはメモ用紙を持っており、
熱心にメモしていた。


見学風景(1)


見学風景(2)


見学風景(3)


内部の展示品(5)


内部の展示品(6)


内部の展示品(7)


内部の展示品(8)


2階の展望室から外の景色を望む。


見学が終了し、三々五々考古資料館前に戻ってきた。


全員揃ったのを確認し、11時18分、考古資料館を後にする!


『今度は一人で来てもっとゆっくりと見たいねっ』


上高津住宅街へ。


土浦イオンを目指し、


上高津の住宅街を進む。


『お花がいっぱい飾ってあるねっ』


各家の塀に飾ってある花が美しい。


ゴールの土浦イオンは間もなくだ。


左手前方に土浦イオンが見えてきた。


小さな神社を通過し、


国道6号BPの下を潜って、


トンネルを抜けると・・・


土浦イオンは目の前だ。


『もう直ぐねっ』


11時43分、土浦イオンに到着


駐車場へ向かう。


11時44分、駐車場に到着


締めはOさんの号令による整理体操だ。
『肩を大きく回して~っ』


『次は腰を下して~っ』


『最後に大きく深呼吸して~っ』

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


この日のコースは、平成25(2013)年3月1日以来で、4年ぶりである。
宍塚大池奥の芽吹いたばかりの新緑がとても美しかった。

上高津貝塚の考古資料館へ初めて入館したが、珍しいものがたくさん
陳列してあって、楽しませてもらった。
古墳時代の土器ではあるが、まるで芸術品のような出来栄えには、
驚かされる。

紅葉の時期にでもまた歩いてみたいものである。

この日の万歩計は、11,000歩を少し超えていた。

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旧甲州街道を歩く 第十一回 黒野田宿から石和宿(2日目)

2017年04月17日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年4月17日(月)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、
仲間の皆さんから『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、
五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目
(2015年2月22日)に歩いているので、内藤新宿から信州の
下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第十一回(1日目)は、黒野田宿(JR笹子駅)から
駒飼宿までの約11Kmを歩いた。
2日目のこの日は、鶴瀬宿から石和宿(JR石和温泉駅)までの約9Kmを歩いた。

2日目の朝、8時からの朝食までには少し時間があるので、
近くを散歩してみようということに。
女性陣は、一足先に出かけたようだ。
「甲斐の国自然学校」の入口にあるカブトムシの模型
『よく出来てるねぇ』


女性陣は、景徳院方面へ行ったようだが、
我々は日川の上流へ行ってみよう。


「甲斐の国自然学校」から5分ほどの所に「大和福祉センター」があった。
入浴施設「田野の湯」は一般の入浴も大歓迎、とある。
『デイサービスも兼ているみたいだねっ』


「甲斐の国自然学校」から15分ほどで日川渓谷竜門峡入口に到着した。
昨日訪れた「土屋惣藏千人切の碑」は、ここから800mほど先になる。


竜門峡の景観地図
竜門橋から竜門峡天目地区入口の栖雲寺までの約2.4Kmに亘り、
ハイキングコース(竜門遊歩道)が続いている。
『そのうち一度歩いてみたいねっ』


とりあえず竜門橋を渡ってみよう。


対岸から竜門橋を見たところ。
赤いアーチ橋である。


竜門橋から渓谷沿いに進んだ所にキャンプ場跡があった。
今は廃れていて使われていないようだ。


8時からの朝食に合わせるため、竜門橋で引き返すことにした。


朝食の様子


この日の朝食メニュー
しっかりと食べてこの日の街道歩きに備えよう。
宿泊料金は、朝夕2食付で4,860円、それにごみ処理代として
全員で108円が必要。
布団の上げ下げや部屋の掃除などを自分たちでやることになるが、
子供以外にも武田家ゆかりの地巡り・竜門峡散策・大菩薩峠ハイキング
などで宿泊する人も多いらしい。
もう一度訪れてもいいかなと思う。


昨日迎えに来てもらった大和橋西詰のガソリンスタンドまで
送ってもらった。
『どうもありがとうございましたぁ』
『気を付けて行ってらっしゃいっ』


9時11分、石和温泉駅目指して出発!


日川に架かる立会橋を渡る。


金岡自画地蔵尊碑
平安時代、巨勢金岡という大和絵の祖が岩に地蔵尊を描いた。
江戸時代には線が細くなり普段は見えなくなってしまったが、
水をかけると浮かび上がったという。
明治40年の洪水で像は流失したが、地蔵岩を示す碑が残っている。


鶴瀬関所跡
史跡甲州道中「鶴瀬関所跡」と書かれた標柱がある。
甲州十二関所のひとつで、「鶴瀬の口留番所」と言われた。
この関は甲州道中の小仏関に次ぐ口留番所として、上り男手形不要、
女上下とも改めで、江戸への鉄砲の入りと、大名妻女の江戸からの脱出
「入り鉄砲に出女」を特に警戒したと云われている。
参勤交代の際に利用した藩は、信濃高遠藩、高島藩、飯田藩の3藩だった。


鶴瀬宿碑
江戸より31宿、江戸へ30里27丁、甲府へ5里1丁と書かれた標柱と、
「鶴瀬地区」と書かれた石碑がある。
鶴瀬宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠4軒と小さな宿であった。
問屋継立業務は、毎月1日~20日迄は鶴瀬宿で、21日~末日迄を
駒飼宿が勤めた。


常夜燈
鶴瀬の常夜燈がある。


甲州鞍馬石に刻まれた達磨大師像
「甲州鞍馬石」は、山梨県北東部の山中から産出され、
酸化鉄を含む茶褐色の花崗閃縁岩の転石です。
この石が京都の鞍馬石と同じように庭石材に適していることから、
「甲州鞍馬石」の名称で開発され、灯籠や飛石・水鉢・橋石・
沓脱石等に加工され人気を呼んでいます。
(山梨県石材建設事業協同組合)


直ぐ左に中央高速を見ながら進む。


鶴瀬歩道橋を渡る。


女性陣は今日も元気で笑顔が絶えない。


甲州街道(国道20号)を進む。


曹洞宗鶴瀬山真竜寺を過ぎたところに古跡「血洗澤」と
書かれた標柱が立っていた。
武田勝頼が落ち延びる際、家臣の跡部大炊介が逃亡。
土屋惣蔵が追尾してこれを討取り、この沢で血痕を洗い流したと
云われている。
『土屋惣藏は、頼もしい家来だったんだねぇ』


隧道の入口手前右側に階段があった。
しかし、標識などなにもない。
『甲州街道はここを上るのかねぇ』


階段を上ると直ぐの所に観世音菩薩碑があった。


さらに階段が続いており、旧甲州街道かと思って上ってみると・・・


赤い屋根の聖観音堂があった。
説明によると、
本尊は、聖観世音菩薩で京都清水より移したものと云われており、
養蚕の守護神としての信仰があります、とある。


聖観音堂からの見晴らしはなかなかのものである。
この先に道はなくここで行き止りだった。


隧道入口まで引き返し、隧道(トンネル)を進むことに。


トンネルは、いくつか連なっていた。
交通量は多い。


トンネル出口に架かる観音橋を渡り、


その少し先の信号を左に進む。


トンネルを抜けて進むと・・・


遠くに雪を被った山々が見えてきた。
『あの一番高いのが甲斐駒ケ岳じゃないっ?』


柏尾橋の袂に近藤勇像が建てられている。
明治元年、近藤勇が率いる幕府軍と板垣退助が率いる新政府軍の先鋒隊が
戦った地である。


石像の台座に柏尾の戦い(甲州勝沼の戦い)概要が書かれていた。
明治元年(慶応四年)3月6日、近藤勇率いるかつての新選組、
会津潘兵から成る幕府軍甲陽鎮撫隊と板垣退助らが率いる新政府軍
(因幡・土佐・諏訪潘兵からなる官軍)との間でこの地で戦った。
戦いは新政府軍の勝利で僅か1日で決着、近藤らは敢え無く敗走した。


柏尾戦争を描いた錦絵
中央に近藤勇、右側奥に大善寺の山門が描かれている。


勝沼村の柏尾山麓に布陣した近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、
正面の甲州街道、南の岩崎山、そして北の菱山の三方から
新政府軍の攻撃を受け、甲州街道を八王子方面へ敗走した。
現在の菱山は、南側斜面に太陽光パネルを建設中だった。


柏尾坂の馬頭観音
明治36年(1903)中央本線が開通するまで、
甲州街道の物流を担っていたのは馬である。
しかし、街道には難所も多く、そこで息絶える馬もあり、
供養のために馬頭観音が数多く建立された。


近藤勇像の前で休憩


『幕府軍と官軍じゃあ最初から兵力に差があったんだろうねっ』
歴史を偲ぶひとときである。


柏尾橋を渡ると勝沼町だ。
明治13年(1880)、明治天皇御皇巡幸に際し、柏尾橋は
長さ19間(約34.5m)、幅3間(約5.4m)の欄干付きの板橋に
架け替えられた。


大善寺の入口?を入って行くと・・・


山門と楽堂の中間地点に出た。
左が山門である。


右側の本堂への石段を上り、


楼門のような楽堂の下を潜る。


楽堂
延宝五年(1677)再建立
大祭藤切り祭や縁日の日には楽堂で音楽を奏で、稚児堂で舞をまい、
参拝者をもてなしたと云われている。
拝観券のある人は中に入れる。


大善寺本堂
柏尾山大善寺は、真言宗智山派の寺院で、
寺伝では養老二年(718)に行基によって開創された。
弘安九年(1286)頃に建てられ、築730年以上にもなる。
山梨県では一番古い建物である。
本堂の中に、本尊の薬師如来座像と脇侍の日光・月光菩薩立像を
安置しているので「薬師堂」とも呼ばれる。
また、「ぶどう寺」とも呼ばれている。
薬師堂は国宝に指定されている。


『いやぁ 素晴らしい眺めだなぁ』


勝沼の盆地が一望できる。


境内には、芭蕉句碑、
『勝沼や 馬さは葡萄を 喰いながら』


正徳四年(1714)の石塔、


稚児堂などがある。
稚児堂は、大祭藤切り祭の稚児舞の舞台として使用される。
縁日の日には楽堂で音楽を奏で、稚児堂で舞をまい、
参拝者を楽しませたと云われている。


山門を潜って大善寺を後にした。


Kさんが、大善寺境内に地図を置き忘れて来てしまい、
それを取りに戻っている間、国道20号脇で一休み。


旧甲州街道は、国道20号から分かれて県道38号へと続く。


国見坂の碑


緩やかな国見坂を下る。


上行寺の碑には、日蓮上人投宿之地と刻まれている。


振り返ると小高い丘陵の上行寺が一望だ。


勝沼宿脇本陣跡と書かれた標柱があった。
この辺りが勝沼宿の中心だったと思われる。


本陣槍懸松
勝沼宿本陣に大名・公家などが泊ると、その目印に槍を立て掛けた老松。
勝沼は甲州道中の宿として元和四年(1618)に新設された宿である。
宿並は東西12町と長く、甲府盆地の東端に位置し、
物資集積の地として栄えた。


『いやだ~っ なんだか気持ち悪~い』
蛇の胴体を連想させるのだとか。
そう言われれば分かる気がする。


勝沼は甲州道中の宿として、元和四年(1843)には、
本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒、旅籠23軒であった。


勝沼宿仲松屋住宅
江戸時代後期の主屋を中心とした東屋敷と明治前期の建築を中心とした
西屋敷の二軒分の商家建築から成る。(以下略)


地下一階、地上三階建ての土蔵
明治二十年頃の大火の後、自己所有の山林の木材で作った、そうだ。
勝沼町で保存予定とのこと。
『いやぁ 随分荒れてるねぇ』
『早く修理しないと全壊しちゃいそうだねっ』


旧田中銀行社屋
明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた伝承を持つ
入母屋造り・瓦葺・二階屋の建物で、大正9年より昭和7年ごろまで
山梨田中銀行の社屋として利用された。
国登録有形文化財に指定されている。


ようあん坂碑
勝沼宿内で最も急な坂、とのこと。
その名は、”用有”と呼び止めたからとも、天野養庵の家が近くにあったため
とも伝えられる、とある。
その隣に山梨県庁より16.027粁、海抜400米と刻まれた石碑が。


勝沼学校跡
勝沼学校は、勝沼町と等々力村の学校として建てられ、
明治十三年の明治天皇御巡幸の折、行在所となった。


甲州街道(県道34号)を進む。


『きれいなチューリップだねっ』


11時53分、諏訪神社に到着
等々力の産土神で、建御名方神と事代主命を祭神とする。


本殿
境内にはこの他、天神・稲荷・石尊・痘瘡・白山・太神・蚕影・
秋葉・道祖神などの諸社が祀られている。


ほうとうの看板を見つけた。
この日の昼食は、ほうとうを食べようと決めている。


皆吉(みなき
『随分立派な構えだねっ』
ちょっと高そうな感じもするが、他にほうとうの店は見当たらないので
この店に決めた。


注文してから30分は待つことになると書かれていた。
全員「野菜ほうとう」(1,200円税別)を注文して待つことに。


待っている間に庭を拝見
『庭も立派だし、元々は何屋さんなんだろうねっ?』


ちょうど30分後、注文した品が出て来た。
『いただきま~すっ』


野菜たっぷりで美味しかった。
カボチャももちろん入っている。


皆吉の直ぐ近くに文政の常夜灯が立っていた。


常夜灯の傍には変わった形の石が。
道祖神だろうか・・・


杉御坊と書かれた石碑も。
この近くにある万福寺を別名「杉御坊」と呼ぶそうだ。


旧甲州街道の道標
等々力を過ぎた辺りから、国道411号になっている。


この時期に勝沼まで来たからには桃の花を見よう、
とある小さな神社の裏手に行ってみた。


神社の裏には桃畑が広がっており、桃の花が咲いていた。
既に摘花が始まっていたが、これからという木も見られた。
『桃の花見ることができて良かったわね~っ』


桃畑のパノラマ写真


栗原宿の碑
栗原宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠20軒の小さな宿であった。


大戸屋のでっかい看板が目に入った。
大戸屋グループ創業者三森久実生誕の地とある。
『ここで生まれたんだぁ』


13時56分、大宮御所大神参道入口に到着


大宮御所大神本殿
明和・安政年間の江戸絵師による浮世絵風芝居の絵馬が奉納されており、
全国でも貴重な民俗遺品として山梨市の民俗文化財に指定されている。


本殿再建のときクロマツを植えたと記されている、とのこと。
現在市指定の天然記念物となっている。
枝垂れ・樹形が大変良好で、樹勢も旺盛とのこと。
根廻り3.25m、目通り2.83m、樹高12m、
枝張り東4.5m、西3.0m、南5.2m、北3.7m
『ほんと盆栽みたいに良い形をしてるねっ』


甲州街道道標
道が分からなくなったとき、このような道標が現れると、ほっとする。


この先国道411号は特に見所がないため、ほぼ平行して流れている
日川の堤防を歩くことにして、左に曲がって堤防へ。


日川の対岸に広がる桃の花が美しい。
『桃源郷のようだねっ』
『こっちにして正解だったわねっ』


パノラマ写真


日川の堤防を進む。
吹き抜ける風が心地良い。


日川に架かる日川橋を渡る。


日川橋から日川を望む。


右手に新緑の大樹に覆われた白山神社が。


14時33分、白山神社に到着
白山神社の創建や由緒などは不明である。


甲州街道をいったん外れて日川の堤防へ。


『堤防を歩く方が気持ちが良いねっ』


甲州桃太郎街道の標識が。
桃の里に相応しい名前だと思う。
この辺りはちょうど、日川と重川(おもかわ)、笛吹川の3つが合流して
笛吹川になる所だ。


甲州桃太郎街道を石和温泉駅を目指す。


『石和温泉駅までそんなにないんじゃないっ?』
目見当で4Kmちょっとと思われる。


右折して笛吹橋を渡る。


笛吹橋から笛吹川上流を望む。


笛吹橋を渡って左折すると、松並木が現れた。
『ちょっと東海道を想い出させる景色だねっ』


堤防の上は車が多いので、並行している堤防下の道を
松並木を見上げながら進む。


15時14分、松並木が終わる所に笛吹権三郎之像があった。
笛の上手な権三郎の母が、石和川の氾濫で流されてしまった。
権三郎は、母の好きな曲を吹きながら探したが、自らも川に落ちて
死んでしまった。
夜になると川の中から美しい笛の音が響き、いつしかこの川は
笛吹川と呼ばれるようになった。


笛吹権三郎之像の前で最後の休憩を摂る。
ちょっとばかり疲れた様子。
自分も少しでも早く石和温泉駅へ到着したい一心である。


『石和温泉駅まであと3Kmくらいかしらっ?』


石和温泉駅を目指すのみだ。


道が二つに分かれていた。
少しでも近い方が良いだろうと云うことで、右へ進路をとった。


水路にはたくさんの鯉が泳いでいた。


石和温泉駅への標識があった。
近道をしたために、石和宿本陣跡を見落としてしまったが、
次回最初に訪れることにして、ここは石和温泉駅へ直行だ。


石和橋の上にも笛吹権三郎像があった。
笛吹権三郎像は、石和の観光スポットなのだろう。


権三郎の母親が流されたのはこの石和川?


石和駅周辺には大きな旅館やホテルが立ち並ぶ。
石和宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠18軒であった。
石和は武田氏の故地である。
新羅三郎義光から四代目信義の時、韮崎の地(武田)に移り、
以降武田と名乗った。
五郎信光は甲斐守として石和に領を構え、18代信虎の時に
甲府の躑蠋ヶ崎に移るまでここが武田氏の本拠地であった。
宿の北東大蔵寺山麓に温泉が僅かに湧いていたが、
昭和36年1月石和の地で突然大量の高温の温泉が湧き出した、
そうである。


正面に石和温泉駅が見えてきた。


15時56分、石和温泉駅に到着


普通列車は時間がかかるため、特急かいじに乗ることにした。
特急券は、全員大人の休日倶楽部会員なので、
通常1,340円のところ3割引きの930円となり、得した気分。


ゆっくりと座って帰ることができた。
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧甲州街道を歩く」第十一回1日目(黒野田宿~駒飼宿)、
および2日目(駒飼宿~石和宿)約21Kmを歩き終えた。

1日目は武田勝頼公の終焉の地を訪れ、その家臣土屋惣藏昌恒が、
常陸土浦藩と深い縁があったということを知った。
2日目のこの日は幕末新選組の英雄近藤勇が新政府軍と激突した
「柏尾の戦い」の歴史に触れ、当時に思いを馳せた旅となった。

当初予定していた2月末を延期して、桃の花咲く勝沼を訪れる
という目的は果たせたし、本場のほうとうも堪能できた。
今回は、記憶に残る街道歩きの旅だったと思う。

次は、どんなハプニングが待っているのか、
今から次回の「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。

旧甲州街道を歩く 第十一回 黒野田宿から石和宿(1日目)

この日の万歩計は、30.000歩を超えていた。

ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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旧甲州街道を歩く 第十一回 黒野田宿から石和宿(1日目)

2017年04月16日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年4月16日(日)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、
仲間の皆さんから『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、
五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目
(2015年2月22日)に歩いているので、内藤新宿から信州の
下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第十一回目は、黒野田宿(JR笹子駅)から
石和宿(JR石和温泉駅)までの約21Kmを歩いた。
1日目(日)は、笹子駅から笹子峠を越えて甲斐大和駅までの10Kmである。
一人で甲州街道を歩いていると言う「健康ウォーキング同好会」のS子さんも
『一人では笹子峠を越えたくない』との理由で、同行することになった。


6時48分に東京駅に到着し、駅弁屋へ直行。
6時53分発の高尾行に乗るため中央線ホームへ一目散。


高尾行中央特快に無事乗車。
『ぎりぎり間に合って良かったぁ』
安心してお腹が空いちゃった?


男性陣は常磐線で朝食を済ませている。


この日の参加者は、女性4名・男性6名の計10名である。


高尾駅で甲府行に乗り換え、9時2分、時刻表どおり笹子駅に到着。


めいめい体調を整え、9時19分、笹子駅を出発!


国道20号を笹子峠を目指す。


黒埜宿笠懸地蔵
往古より此の街道路傍に分厚い笠様の物を、頭に立ちつくす。
小作りの珍形石造り地蔵が在る。
之を黒埜宿笠懸地蔵と呼ぶ。其の由来に就ては今も詳ならず。
創建は安政二年卯五月、十三代将軍徳川家定の天領政治時代の頃。
天保の大飢饉と徳川天領時代の重税に苦しむ百姓たちが、
餓死・心中・乞食など襲って来る苦渋に満ちた諸業を喜しかれと、
このお地蔵様に心願して来たもの、とのこと。


笹子川に架かる黒野田橋を渡ると、


黒埜山普明院という寺があった。
臨済宗妙心寺派の禅寺である。


山門の脇に黒野田の一里塚碑が立っていた。
江戸日本橋より二十五里(約100Km)とある。


毘沙門堂


堂内には毘沙門天王が祀られている。


十六羅漢堂内には、大きな榧(かや)の根っこがあり、
その周囲にはいろんな木彫りの像が並べられている。


十六羅漢像は、榧の根っこの左右奥に鎮座していた。


境内に芭蕉の句碑があった。
『行くたびに いどころ変わる かたつむり』


普明院を後にして甲州街道を進むと、中央高速沿いの桜が目に入った。
『いやぁ まさに今が満開だねっ』
『こうやって下から見上げるの良いね~っ』


屋影橋の先にも見事な桜の木があった。


桜の木の脇には馬頭観世音像が並んでいた。
笹子峠は、昔の旅人や武士たちにはかなりきつい傾斜道だったのだろう。
共に旅をした馬を弔う馬頭観音塚はその苦難を物語る。


9時52分、追分を通過


笹子峠を目指す。


矢立杉の案内板
『笹子峠まで4Kmか、そんなに遠くはないねっ』


かつてのコンビニ跡に激安100円と表示された自販機が。
しかし、全部が100円ではない。120円、130円のものもある。


激安自販機の少し先で旧甲州街道は国道20号と分かれていた。
矢立の杉4Km、笹子隧道5.7Kmとある。
先ほどは、笹子峠4Kmとなっていたが、どっちが正しいのだろう。


左へ折れて山口橋を渡り、県道212号(旧甲州街道)へ。


旧甲州街道の案内板をうっかり見落としてしまった。
後ろからの大声で引き返し、案内板があったのに気がついた次第。
案内板は反対側を向いていて、進行方向からは見え難かったのだ。
『これじゃあ見落としちゃうよねっ』


県道212号から分れて旧甲州街道に入ると、
舗装された道は細い山道に変わった。


緩やかな上りが続く。


坂道を上って行くと、


杉林になった。
身体が温まってきた、と同時に汗が滲んできた。


10時43分、県道212号に合流する少し手前で一休み。
水分補給だ。


舗装された県道212号を進んで行くと・・・


笹子峠自然遊歩道(旧甲州街道)の案内板があった。
800mで矢立の杉へ至るとある。
左に矢立の杉方面を指す標識が立っていた。


矢印が指す笹子峠自然遊歩道へ。


笹子峠自然遊歩道は、急な坂道だったり、


沢を渡ったり、変化に富んでいる。


城跡を思わせるような石垣に囲まれた一角が現れた。
『ここに城があったんじゃないのっ?』


ここはかつての三軒茶屋跡で、
明治天皇御野立所跡の碑が建てられている。
『ここで野立をやったんだぁ』


三軒茶屋跡の石垣の上に、野仏像がポツンと残されていた。


沢に架かる木橋を渡り、


少しばかり急な坂道を上ると・・・


目の前に「矢立の杉」が現れた。
樹高約26.5m、根回り14.8m、目通幹囲9mで、樹齢1000年とも云われ、
天然記念物に指定されている。
幹は地上約21.5mで折れ、樹幹の中は空洞になっている、そうだ。
かつては中の空洞を見られたそうだが、今は周りに柵がしてあり、
進入禁止になっている。
『いやぁ しかし凄いね~っ』 『見事という他ないねっ』
その巨大さに圧倒される。


笹子峠の東800mほど下がったところに立つ「矢立の杉」は、
出陣する兵士がこの杉に矢を射立てて冨士浅間神社を祀り、
戦勝を祈願したと云われ、甲斐国誌などの古書に記されたり、
北斎や二代広重などの絵にも描かれている、そうであり、
当時からいかに知られた巨木であったかが伺える。


近くに身代わり両面地蔵菩薩像があり、


その隣に矢立の杉の歌碑があった。
唄杉良太郎となっているが、聴いたことはない。


この先も旧甲州街道の案内板に従って進むことにしよう。
県道212号よりかなり近道のはずである。


道なき道が続いている。
沢に架かる細い木橋を渡ったり、


急坂の杉林を抜けたり。


『街道歩きじゃないねっこれは、まるで山登りだねっ』
『昔の殿様もこんな所を歩いたのかねぇ』


急坂の山道を歩くこと25分、


県道212号に合流した。
『いやぁ きつかったよっ』
『街道歩きと言うより登山だねっ』


県道212号を笹子隧道(トンネル)へ向かう。


舗装道路を笹子隧道を目指す。


11時56分、舗装道路を歩くこと10分で笹子隧道に到着した。
甲州街道最大の難所と云われた笹子峠を回避するため、昭和13年に完成。
長さ240m、幅3mのトンネルは、地元住民の悲願であった。
国登録有形文化財になっている。


右手に峠への案内板があった。


『せっかくだから峠を越えたいねっ』と最年長のKさん(83歳)
自分よりも一回りも年長のKさんにそう言われれば、いやとは言い難い。


ここでトンネルを通過する4名と峠越えに挑戦する6名に分かれた。
ここまで来たからには、峠越え組と行動を共にするしかない。
12時1分、Kさんの後を追い、急坂の登り開始。


『いやぁ 峠越えはやっぱりきついねぇ』
『昔の人は大したもんだねぇ』


12時9分、トンネル入口から8分で笹子峠に到着。
江戸から諏訪までの甲州街道のちょうど中間地点にあたる笹子峠は、
江戸方面より上り1里15町、下り22町の峠道で、
笹子山は篠籠(ささご)嶺、坂東山とも呼ばれた。
北は大菩薩嶺より初鹿野山、南は黒駒山、御坂嶺、片山に連なる
一脈の大山である。
峠は八代、都留二郡の境で標高1096m、甲州街道一番の難所だった。


峠を少し下った右手に、天神宮の赤い鳥居が見えた。
昔ここを通った旅人たちが旅の安全を祈願したものと思われる。


峠を越えると反対側への下りは緩やかだった。


12時18分、トンネル西側(甲州市)に到着
トンネル通過組が首を長くして待っていた。


お腹が空いた、『弁当にしましょうっ』


トンネル出口辺りに腰を下して弁当タイム。


この日の弁当は、山形特選牛めし(950円)だ。


お腹もいっぱいになり、12時51分、麓の駒飼宿を目指して出発だ!


隧道の近くに甲州街道峠道の案内標識が立っていた。
『これって近道なんじゃないっ』


案内標識に従って山を下る。


峠道は急坂になっていた。


5分ほどで舗装された県道212号に出た。
そこには新たな旧甲州街道の案内標識があった。
清水橋という所へ通じているらしい。


案内標識に従って山を下る。
先ほどに比べさらに急坂で険しい径が続いていた。


甲州街道峠道は、杉林へと続く。


『ここは弾力があって歩き易いわねっ』
腐葉土のような状態で気持ちが良い。


小さな沢を渡り、


木橋を渡り、


さらに丸太橋を渡る。


13時19分、自害沢 天明水と書かれた道標を通過すると・・・


視界が開けた場所に出た。
しかし、今どの辺りを歩いているのか見当がつかない。
黙々と径を下るだけである。


13時25分、清水橋に到着した。
県道212号に合流である。
笹子隧道から35分かかったことになる。


この峠を往来した当時の旅人を偲んで作られたという
「甲州峠唄」が、昭和61年2月12日に発表された、とある。
この唄の発表によって旧道を復元しようという気運が高まり、
昭和62年5月、清水橋から峠まで地域推進の一環として、
日影区民一同と大和村文化協会の協力によって荒れていた旧道を整備して
歩行の出来る状態にしました、とのこと。


清水橋からは県道212号を進むことになる。


桃の木茶屋跡と書かれた標柱が立っていた。
往時は3軒の茶屋があった、そうだ。


県道212号を進む。
『県道なんだけど車が全然通らないねぇ』


もちざわ橋を通過


「飯田コンクリート(株)山梨工場」の手前で、
県道212号は車止めで閉ざされていた。
『なあんだ 車は通さないようになってたのかぁ』
車が通らない訳だ。


駒飼宿を目指す。


ヘアピンカーブが続く道路だが、少しでも近道をしようと、
斜面を下りる。


駒飼宿を目指す。
『あとどのくらいなんだろうねっ』


笹子峠から6Km地点を通過
国道20号まで2Km余りと思われる。


大和町日影の民家が見えてきた。


笹子沢川に架かる天狗橋を渡ると、


右手に芭蕉句碑があった。
秣負ふ 人を栞の 夏野或
(馬草負う 人を枝折の 夏野哉)


甲州道中 駒飼脇本陣跡 と書かれた標柱が立っていた。
今は駐車場になっている。
標柱の傍で子供が無邪気に遊んでいた。


駒飼宿(日影)の家並み


さらに駒飼宿を進む。


甲州道中 駒飼本陣跡
江戸より第三十宿、江戸へ三十里九丁、甲府へ五里十九丁
本陣一、脇本陣一、旅籠六、問屋場一、宿内家数六十四戸、
宿高百三十五石五斗六升三合 と書かれた標柱が立っていた。
『六升三合とは随分細かいねぇ』


旧甲州街道の道標に従って進む。


往時の駒飼宿の図
笹子峠の西麓にあった駒飼宿は、江戸時代には幕府の公用を
継立する役目を果たし、本陣・脇本陣・旅籠などが設けられた
甲州街道の要所として知られていた、とある。


旧い民家
二階中央部の造りが特徴的である。
猿が家の中に入ってくるので、窓は閉めたままにしているそうだ。
つい2-3日前にも猿が現れた、とのこと。


その隣も旧い民家だが、オーガニックカフェ店として営業していた。


S子さんお薦めのカフェ店で、熱いオーガニックコーヒーを注文した。
一杯550円とやや高かったが、疲れた身体には美味しかった。


旧甲州街道を国道20号へ。


笹子沢川に架かる古道橋を渡ると、


中央高速道が見えてきた。


さらに坂道を下ると、


右手に甲斐大和の町並みが見えた。


14時59分、国道20号のガソリンスタンド前に到着。


ここでS子さんとはお別れだ。
彼女は、先週一人で甲府から勝沼まで歩いたので、
この後、甲斐大和から勝沼まで歩き、電車で帰宅するとのこと。
『気を付けてね~っ』 『お疲れさま~っ』 


この日宿泊予約している「甲斐の国自然学校」に、
迎えに来て欲しい旨連絡し、ガソリンスタンドの脇で
めいめい整理体操などをしていると、


7分ほどで、迎えのワゴン車がやって来た。


途中コンビニに寄ってもらい、ビールと酒などを購入。
「甲斐の国自然学校」は、アルコール類を提供していないが、
持ち込みは自由とのこと。


時間があったので、武田勝頼公終焉の地で、勝頼公の墓があるという
景徳院へ案内してもらうことにした。
15時28分、景徳院山門前に到着。


この楼門は、天保六年(1835)に再建されたもの。
景徳院は2度の大火で堂宇を焼失しており、この山門だけが
往時の姿で残っている。県指定有形文化財。
『いやぁ 立派な山門だねぇ』


旗竪松(はたたてのまつ
勝頼公事すでに急迫なるを見て、武田家累代の重宝旗を大松の根本に立て、
楯無鎧を世子信勝公に着用させ擐甲の礼(元服式)を行いし処、
との説明がある。


景徳院本堂
景徳院は、武田勝頼公の死を弔うため、徳川家康が武田家滅亡後直ぐに
武田遺臣に命じて建立させた、そうだ。


本堂内には、勝頼親子と夫人の位牌が安置されている。
左から嫡子の勝信、勝頼公、北条夫人。
1週間後の4月23日(日)には、第52回「武田勝頼公まつり」が行われる。
武者行列や出陣絵巻が予定されている、とのこと。


本堂前左右には、勝頼公と死を共にした家臣たちの名前が書かれた
幟が立てられていた。


その中に常陸土浦藩とゆかりがあるという土屋惣藏昌恒と書かれた
幟があった。
Kさんによると、概略以下のようである。
土屋惣藏昌恒の嫡男は、天目山合戦の最中に家来によって秘かに逃げ、
駿洲興津の清見寺に預けられた。
父と同名を名乗った惣蔵が9歳のとき、徳川家康によって召し出され、
徳川秀忠の小姓として預けられた。
この時、「忠」の一字を承け惣蔵という名を「忠直」としている。
忠直は、天正19年に相模にて3千石、慶長7年には2万石を得て
上総久留里藩主となった。
忠直の二男数直は、秀忠の命によって家光の近習として仕えた。
また家光の下で若年寄に任命され、寛文2年に1万石で常陸土浦藩主となった。
つまり武田家家臣の土屋惣藏昌恒は、土浦藩と大いに縁がある、
という訳である。


甲将殿
勝頼親子と夫人の影像(人形)や遺品などが保存されている。


甲将殿の裏に勝頼公の墓がある。
左は信勝(勝頼の嫡男16歳)、中央が勝頼公(37歳)、
右は北条夫人(正室19歳)


勝頼公の生害石
天正十年(1593)三月
勝頼公はこの石の上で自害した。


北条夫人の生害石


勝頼夫人の辞世の句碑
『黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒』


景徳院を後にして「甲斐の国自然学校」に向かおうとした時、
運転手さんが気を利かして、「土屋惣藏片手切の碑」を案内してくれた。
土屋惣藏昌恒と土浦藩は縁があるという話を横で聞いていたのだ。

惣蔵は勝頼の自害の時間を稼ぐため、山中の最も崖路の狭い所で岩角に身を隠し、
左手は藤蔓に摑まり、右手で刀を持ち、迫りくる織田兵を次々に斬って捨て、
谷川に蹴落としたと伝えられ、谷川の水は3日間鮮血に染まったと
云われている、とのこと。


土屋惣藏の活躍奮闘により、武田勝頼主従は田野の郷まで戻り、
従容として自刃したと云う。
数丈の崖、自然の楯のようなこの場所で、寄せ来る敵兵を防ぎ、
たくさんの人を片手で切ったことから、「土屋惣藏片手千人切」と
云われている、そうだ。


16時3分、「甲斐の国自然学校」に到着


男性は、通常8人用の部屋を6人で使うことに。


天然温泉で汗を流した後は、コンビニで買ったビールで喉を潤す。
『かんぱ~いっ』
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


『かんぱ~いっ』


『最後に景徳院を案内してもらって本当に良かったよねっ』


『武田家と土浦藩がこんな形で繋がっていたとは意外だったなぁ』


一杯飲んだ後だが、夕食もしっかりといただこう。
『また明日も頑張りましょう!』


夕食


「旧甲州街道を歩く」第十一回目1日目(阿弥陀海道宿~駒飼宿)間
約11Kmを歩き終えた。
当初は2月末に予定していたが、甲州街道随一の難所とされる
標高1,096mの笹子峠には、雪が残っている可能性があり、
峠越えは厳しいと判断。
また、2日目は勝沼方面を歩くことから、せっかくなら桃の花が咲き誇る
4月初旬まで待とうとこの日まで延期した次第。

S子さんも無事笹子峠越えを果して一安心といったことだろう。

武田勝頼公終焉の地となった景徳院を案内してもらったおかげで、
武田勝頼公家臣の土屋惣藏昌恒が土浦藩と縁があることを知った。
また、「土屋惣藏片手切の碑」までも案内していただき、
「甲斐の国自然学校」の運転手さんには、大いに感謝している。

次は、どんなハプニングが待っているのか、
明日の「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。

旧甲州街道を歩く 第十一回 黒野田宿から石和宿(2日目)

この日の万歩計は、22.000歩を超えていた。


ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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満開の桜を満喫 三日月橋さくら散策コース

2017年04月14日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年4月14日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成29年度第1回(2017年第14回)、「三日月橋さくら散策」(牛久)
ウォーキングに参加した。
4月7日(金)の平成29年度第1回「楽法桜と雨引山」は、雨のため中止となったため、
この日が第1回目となった。

第一集合場所の乙戸沼公園
例年は既に桜は散る頃だが、今年は満開の状態だ。


乙戸沼は桜の花に覆われていた。
4月中旬に満開というのは珍しい。


今の時期、やはり水辺に桜は美しい。
大げさかもしれないが、日本人に生まれて良かったと思う。


このところ気温も高めで、水鳥たちも気持ち良さそう。


この日乙戸沼公園に集まったのは21名。
車5台に分乗し、第二集合場所の三日月橋生涯学習センター(牛久)へ。


三日月橋生涯学習センター駐車場に行ってみると・・・


『いやぁ 今日は大勢集まってるねぇ』
なんとその数41名。
2週間前(3月31日)の例会「水の恵みを知る道」(霞ヶ浦)で
記録したばかりの過去最高記録(39名)をあっさりと更新してしまった。


早速いつものようにOさんの号令で準備体操を開始。


『肩にかけた腕を開いて~っ』


『最後に大きく深呼吸~っ』


9時51分、Oさんを先頭に出発!


生涯学習センター前の道を三日月橋方面へ。


この日は珍しく女性陣が後ろに続く。
後ろに見えるのは、三日月橋生涯学習センター


桜の木の向うに牛久沼が見える。


観光アヤメ園もきれいに整備され、あとは花の咲くのを待つばかり。


稲荷川に架かる三日月橋を渡る。
欄干の河童像が印象的である。


稲荷川対岸の右手前方に桜並木が見えてきた。
『どうやら満開みたいだねっ』


三日月橋から牛久沼方面を望む。


沼には1羽の白鳥が浮かんでいた。
『北に帰りそびれたのかねぇ』


三日月橋を渡り、桜並木へ。


『いやぁ 牛久沼にこんな桜の名所があるとは知らなかったなぁ』


稲荷川の対岸に三日月橋生涯学習センターが見える。


ソメイヨシノに混じってオオシマザクラもある。


10時ちょうど、東林寺に到着
永平寺(福井県)・総持寺(横浜市)を2大本山とする曹洞宗の寺院である。


寺院入口には水子地蔵像が建てられている。
水子供養を執り行っているのだろう。


東林寺本堂


本堂にお参りを済ませ、境内でしばし寛ぐ。


境内には満開のミツマタや、


咲き始めたばかりの鮮やかな色のシャクナゲなどが目を引く。
『きれいだよね~っ』


軽い休憩の後、東林寺を後にする。


一般道を進む。


民家の前を通らせてもらって、


再び桜並木の径へ。


『天気も良いし、今がちょうど見頃だねっ』
『こんな素敵な所とは思わなかったわっ』


これはまた見事な桜である。
『いやぁ この桜の木は素晴らしいっ』
まさに今が満開といった状態だが、我々以外に桜を愛でてる人は見当たらない。
『こんなに天気の良い日に、我々だけじゃもったいない気がするねぇ』


農家の庭には真っ赤な花ももや、


黄色いレンギョウ、


白い桜などの花が咲き誇り、目を楽しませてくれる。
『今が一番美しい時期なんだね~っ』
『きれいな花に囲まれて羨ましいわね~っ』


『乙戸沼公園よりも桜の木は多いよねっ』
つい地元の乙戸沼公園と比較してしまう。


長い桜並木が終わると、田んぼ沿いの道になる。


桜並木に代わって田んぼ沿いの緑の道を進む。


『今日は、いっぱい着て来たけど暑くて汗かいちゃったっ』
予報では最高気温は21度となっている。
半袖でも良いくらいだ。


歩いて来た桜並木を振り返る。
『あの桜並木を歩いて来たんだぁ』


『素晴らしい景色だよねっ』


牛久沼へ続く稲荷川を渡る。


橋の上から稲荷川・牛久沼方面を望む。


橋を渡り、稲荷川に沿って少し進んだ所で、


小休止だ。
『暑いわねっ』 『紫外線がきついんだよねっ』
『いやぁ こんなに良い天気になるとは思わなかったよぉ』


一息入れた後、刈谷中央公園を目指す。


稲荷川沿いの径を進む。


白鳥
『さっきも1羽見たけど 夫婦かしらっ?』


稲荷川沿いの細い径から、


刈谷町方面へ。
『この先確か刈谷団地だよねっ?』


刈谷町の住宅地へ。


刈谷町の住宅地を進む。


『意外と広いんだねっ この団地』
『一人だと迷子になっちゃうわねっ』


濃いピンクの花ももの花が美しい。


広い道路を真っ直ぐ進んで行くと・・・


10時51分、刈谷中央公園に到着


『なかなか立派な公園だねっ』


刈谷中央公園で一息入れる。


あちらこちらで恒例のお茶タイムが始まった。


この日は午後2時から総会が予定されているため、
ゆっくりとお茶タイムを楽しみたいところだったが、
少し早めに切り上げ、ゴールの三日月橋生涯学習センターを目指すことに。


生涯学習センターを目指す。


刈谷町二町目の住宅街を進む。
『こっちの方角で合ってるはずだよなぁ』
少々不安そうなOさん。


刈谷町中央大通りの交差点を横断。
あとは、この道を真っ直ぐ進むだけだ。
道が正しかったことを確認し、Oさんも一安心。


大通りの歩道にはツツジの植え込みが整備されており、
一部では花が咲き始めている。
『きれいだねっ』


刈谷3丁目バス停を通過すると、


前方右手に牛久第三中学校が見えてきた。


11時21分、牛久第三中学校前を通過
『ここの桜も満開だねっ』


牛久第三中学校先の交差点を右折すると、
ゴールの三日月橋生涯学習センターはもう直ぐだ。


前方に満開の桜に覆われた三日月橋生涯学習センターが見えてきた。
『桜の花に包まれちゃってるねぇ』


緩やかな坂道を下ると・・・


三日月橋生涯学習センターだ。


観光アヤメ園手前のT字路を左折し、
11時28分、ゴールの生涯学習センター駐車場に到着した。


Oさんの掛け声で整理体操


『大きく深呼吸をして~っ』
『今日は大変お疲れさまでした~っ』
ここでいったん解散し、めいめい食事場所へ。


我々もいったん乙戸沼公園へ戻り、
新粧なった「幸楽苑」でランチを済ませた後、


「総会」会場の三中公民館へ。


役員一同が勢ぞろいし、


会員の皆さんも三々五々駆け付け、
開始予定の14時には、これも過去最高の47名が集まった。


総会の詳細内容は省略するが、
当会の「総会」のハイライトは表彰式である。
会員のモチベーションを高める目的で始められ、今回で6回目となる。
先ずは皆勤賞の授与
常連のA子さんは、3度目の受賞である。
表彰制度以前には5年連続で皆勤という”つわもの”だった。


Oさんは2度目の受賞である。


一昨年入会したTさんは、初受賞だ。
そして自分(3度目)の合わせて計4名が皆勤賞を受賞した。
一度に4名の皆勤賞授与は、初めてである。


続いて精勤賞の授与
会長の精勤賞は、3年連続4度目の受賞となる。


S子さんの精勤賞は、2年連続である。


3年前から、長年の実績に加え、80歳の誕生日を迎えられた方には
特別に”功労賞”を設け、その功績・功労を讃えることにしている。
今年は当会の創設者とも言うべき会長に贈られることになった。
最初は、80歳という年齢を受け入れるのに若干の抵抗もあったようだが、
『長い間本当にご苦労様でしたぁ』
『今後も益々頑張って下さいっ』の声にまんざらでもなさそう。


総会終了後、”ご苦労さん会”をやろうと言うことで、
男性役員一同の意見が一致。
場所はいつもの荒川沖駅前の「庄や」である。
『またこの1年頑張ってやるしかないねっ』
『お互い頑張りましょうっ』
(写真は割愛させていただく)


平成29年度第一回目のウォーキングと総会が無事終了した。
今回は、三日月橋さくら散策コース(牛久)を歩き、満開の桜を満喫した。

12年前に十数人で発足した当会だが、現在では60名近くまで増えており、
例会の参加者も30名を超えるのが今では普通になってきている。
参加者が増えることは会としては喜ばしい限りだが、会員の高齢化も進み、
それとともに、車や電車の移動に伴うトラブルも増えてきている。

今まで目立った事故などはないが、今後予期せぬ事故などが考えられる。
今まで以上に充分な注意や気配りが重要になってくると思われる。
この一年また、全員何事もなく無事例会を楽しめればと思っている。

皆勤賞・精勤賞の受賞者は、今回1人を除いてほぼ同じ顔ぶれが並んだ。
来年度は新たな受賞者が現れることを期待したい。

この日の万歩計は、11,000歩を計測していた。

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