ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

快晴に恵まれて 古河桃まつりウォーク

2015年03月27日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年3月27日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成26年度第40回(2015年第11回)、「古河桃まつりウォーク」に参加した。
なお、今回が平成26年度の最終回である。

この日は、「古河桃まつりウォーク」として、古河駅をスタート&ゴールとする、全長約8Kmのコースである。
古河駅をスタートして、旧日光街道を日光方面へ進み、古河第五小学校前を通り、雀神社へ。
渡良瀬川の土手を歩き、三国橋・古河城址・新三国橋と進み、桃まつり会場へ向かう。
昼食後、香取神社へお参りして、古河第五小学校を経由して、古河駅に戻る。

荒川沖駅7時5分発の水戸行き電車を待っているところ。
「青春18キップ」と大人の休日倶楽部を利用して、乗車したのは、22名。


常磐線友部駅で7時52分発の水戸線に乗り替える。
土浦から乗車した10名と合せ、参加者はこの時点で32名だ。
30名が「青春18キップ」利用という結果に一安堵。


笠間を過ぎた頃の水戸線


水戸線車内


小山駅で9時21分発の湘南新宿ライン(逗子行)に乗り替える。


9時34分、古河駅に到着。
車で直行した3名と合せて、35名。
何と、今年度最後の例会は最高の参加者となった。


古河駅前でコースの説明を行い、3組にグループ分けを行った。
1組10名程度が、点呼を取るのも容易である。
(別にもう一つの団体がいるため、人数が多い)


9時50分、出発!


古河駅から日光街道方面へ。


『ほんと 天気が良くて気持ちが良いわねぇ』


先頭を歩くのは、いつも元気なOさん。
この日の参加で、26年度の皆勤賞受賞が決まった。
いつも以上に張り切っている感じだ。


日光街道へ向かう。
「古河桃まつり」の幟が目に付く。


ポスターには第39回とあるから、かなり歴史がある。
”日本一の花桃の里”に気分が高まる。


旧日光街道を進む。


旧日光街道の名残りであろうか、「よこまち柳通り」を進む。


玄関前にさりげなく桃の花が飾られている。
『あらぁ素敵っ 満開だねっ』


レトロなポストなども見られる。
『まだ現役なんだねぇ』


昔は何屋だったのだろう?


県道261号への合流点手前を左に折れ、旧日光街道とは分れて、本成寺前を通過。


桜が間もなく開花を迎えようとしていた。


古河第五小学校前を通過。
春休みで校庭に子供達の姿は見えない。


あと2-3日もすれば、一斉に開花すると思われる。
10日後には満開状態となり、見事な桜並木になるだろう。


地面から出た芽に一輪の桜の花が咲いていた。
”ど根性桜”とでもいうべきか?


こちらは、今まさに満開状態を迎えた桜である。
枝の先ではなく幹から直接咲いている桜を見たのは初めてだ。


雀神社の裏手に古河藩野渡御蔵跡があった。
年貢米を収納・管理していた蔵があった場所である。
思川・巴波川(うずまがわ)流域で古河藩に属した村々は中郷と呼ばれ、
その村々からの年貢米を収納した蔵を御蔵といった。
古河町からの地続きの野渡村に置かれていたので、野渡御蔵という。(以下略)
(野木町教育委員会)


10時28分、雀神社に到着
旧古河町の総鎮守で、社名の「雀」は「鎮め」が変化したものとされる。
かつては茨城県西部の猿島郡で唯一の郷社であった。
現在の社殿は、慶長十年(1605)松平丹波守康長が造営したもの。


拝殿の前に「八紘一宇」(はっこういちう)と書かれた石碑があった。
三原じゅん子参議院議員が、先の参院予算委員会で『紹介したい』として持ち出して話題になっている。
八紘一宇とは、大東亜戦争(第二次世界大戦)中の大東亜共栄圏のスローガンの1つである。
平たく言えば、人類みな兄弟という意味。
しかしながら、時代背景も手伝って現代においては「侵略戦争のスローガン」 として、
その意味を捉えがちな傾向がある。(ニコニコ大百科)


境内の片隅に神輿庫(左)があった。


中には神輿が静かに鎮座していた。
高さ3.3m・屋根幅2.1m・台輪1.15m・重さは、1.1t(250貫目)とのこと。


雀神社境内で一休み。


しばしのお茶タイムだ。


雀神社の裏から渡良瀬川の土手に上がってみよう。


『いやぁ これは広いっ 凄く良い眺めだなぁ』


『こんな処でプレーするのは気持ちが良いだろうなっ』
古河ゴルフリンクス(7,092ヤード)である。


雀神社へは戻らず、このまま土手を歩いて行こう。


河川敷のゴルフ場を眺めながら進む。


『少しの風だけど気持ち良いわねっ』
予報ではこの日の最高気温は20℃。
既に20℃近いと思われる。風が吹かないと暑くて堪らない。


三国橋が近くなって来た。


三国橋は交通量が多い。
大型トラックがひっきりなしに走る。


三国橋の国道354号線を横断し、さらに土手を進む。


『いやぁ 気持ちが良いけど暑いねぇ』
『帽子を忘れた』と言うKさんには、ちょっとばかり気の毒な天気である。


土手の上に古河城本丸跡と書かれた碑が立っていた。
この碑がたっているあたりに古河城の本丸があったそうだ。


説明によると、
目の前の河川敷には、堀を含め東西500m、南北1,800mに及ぶ、関東最大規模の城郭と云われた古河城があった。
そしてこの堤防上のこの場所が本丸の一部だった、とのこと。
古河城は江戸時代、古河藩の中心として、城郭の象徴ともいえる御三階櫓(ごさんかいやぐら)を有していた。
御三階櫓は、寛永十一年(1634)、江戸幕府大老だった土井利勝が標高約20mの本丸土塁の上に築いた、
外観三層・内部四階建ての櫓で、高さ七丈三尺余(約22m)もある、古河のランドマークタワーだった、そうである。


かつての古河城をCGを使って蘇らせる、案内もある。
詳しくはCGで蘇る古河城をご覧いただきたい。


本丸跡から正面の二の丸跡を見たところ。


古河総合公園を目指す。


遠くに熱気球が見えた。
この方角からすると古河総合公園の桃まつり会場辺りと思われる。


新三国橋を過ぎると、


高校生らしき若者がサッカーの試合をやっていた。


河川敷のグラウンドでは、ボールを追って元気よく走り回っていた。


サイクリングロードの終点
この先は工事中のため、行けない。
左側の道を進み土手歩きは終わった。


農道を道なりに進むと、右手に熱気球が直ぐ近くに見えて来た。
演歌が流れて来たが、カラオケにしては、上手い。


11時29分、古河総合公園の桃まつり会場に到着。
『やったぁ 着いたぁ』


歌謡ショーが行われていた。
臨時のステージの裏で出番を待っている歌手たち。
この日は、司会を含めて10名の歌手が出演していた。


ステージの前では、大勢の観客が熱心に歌に聞き入っていた。


昼食の前に、園内を少し歩いてみよう。


桃の花がちょうど見頃を迎えている。
『ちょうど良い時に来たみたいだねっ』


御所沼を1周してみよう。


『水辺を歩くのは気持ちが良いわねっ』


対岸から富士見塚辺りを望む。


『足元に気を付けて~っ』


天神橋を渡り御所沼を半周。


桃まつり会場のある芝生広場へ。


芝生広場を抜け、桃林へ。


青空に映える濃いピンクの花が美しい。
花ビラが散らないのが、桜とは違った良さだろうか?


真っ白い桃もあった。


お昼を過ぎ、桃の木の下で弁当を広げている家族連れが見える。


我々も桃の花を見ながら、弁当にしよう。
『やっぱり青空の下での弁当は美味しいわねっぇ』


『桃の花を見ながらの弁当も良いもんだねぇ』
しかし、花見にしては、何かが足りない。


時間を多めに割いて、めいめい自由に園内を散策してもらうことにした。
我々男性陣は再び桃まつり会場へ向かった。


たくさんの屋台があり、大勢の人で賑わっていた。


我々の目的は、誰誘うともなくこの店であった。
”以心伝心”であろうか・・・・


椅子とテーブルは満席状態のため、芝生に腰を下ろして、


古河の地酒は、甘口だが、すっきりとして美味い。


ステージからは、演歌歌手の歌声が響いてくる。
花見酒にはやはり演歌が似合う。


すっかり心地良くなって、園内を巡ってみることにした。
小高い山の形をした岡があった。富士見塚である。
食後の運動も兼ねて、上ってみる。


『園内が見渡せるねぇ』


山頂からの景色


集合時刻となり、全員集まったところで、桃の花をバックに記念撮影だ。


まだまだのんびりとしていたいところだが、そろそろ帰ろう。
大賀蓮池を渡り、


総合公園を後にする。


古河駅を目指す。


香取神社があった。
回りを取り囲む木が少ないのが寂しい。


ここまでの無事安全のお礼をしていこう。


国道354号線の横断陸橋を渡る。


三国橋方面を望む。


後方に気を配りながら進むOさん。


後に続く会長。


古河歴史博物館の前に「鷹見泉石記念館」があった。
あまり時間は割けたくなかったが、無料だと言うので、入って観ることにした。


蘭学者鷹見泉石の晩年の住まいで、古河城(三階櫓)の余材を使って建てたと伝えられている。
古河城の出城諏訪郭跡はすぐ近くである。


正面の玄関には雛人形が陳列されていた。


海外情報について教えを請う幕府の役人たちが泉石のもとを訪ねたと云われる。
もとのた建坪は現在(44坪)の2倍以上の100坪もあった、そうである。


裏に回ってみる。


しっかりとした造りに驚かされる。
家老の家に相応しい造りである。


楓所のある間
この座敷の床の間には、清(中国)蘇州の人の揮号による「楓所」と描かれた掛け軸がある、とのこと。
掛け軸はあいにくここからは見えなかった。


「楓所」の間の前に古河市指定文化財・天然記念物の”楓樹”の古木がある。
楓樹は、唐楓の一種で、中国と台湾を原産地とするマンサク科の落葉喬木で、樹脂は薬用にもなる。
古代中国では、天子の居所に植えられたという、特別な木であることを知った八代将軍吉宗が、
初めて輸入させ、江戸城と日光東照宮・上野寛永寺に植えたという。


「鷹見泉石記念館」には、竹林もあり、風情が感じられる。


「古河歴史博物館」は時間的に余裕がなかったので、古河駅に向かった。


東屋で一休み


会長から、この日初参加2名の新人の紹介があり、


それぞれ自己紹介
『今日はとても楽しかったです』


『よろしくお願いしま~すっ』


古河駅へ向かう。


この辺りは古河の歴史的・文化的な中心地である。
「古河歴史博物館」をはじめ、「古河文学館」や「篆刻美術館」などがある。
また別の機会にゆっくりと訪れてみたい。


写真は古河文学館


趣のある通りを進むと、


煉瓦造りの塀に囲まれた古河第一小学校があった。
由緒ある学校のようだ。


住宅地を進む。


突き当りを右折すると、本町二丁目交差点だ。


本町二丁目交差点を渡り、少し進んで右に曲ると、


古河駅が見えてきた。


14時33分、ゴールの古河駅に到着した。
『お疲れ様でしたぁ』で終わる訳にはいかない。
青春18キップなので、帰る時も一緒なのだ。


古河駅から東北線で小山へ向かう。
電車が来るまでのひと時をベンチで一休みだ。


小山駅で水戸線へ乗り替える。


ここでも一休み。


さすがに皆さん、少々お疲れの様子。


水戸線では、友部まで1時間余り。
ひと眠りする時間はたっぷりある。


水戸線車内
女性たちは、まだまだ元気いっぱいである。
『天気が良くて、桃の花も見れて良かったわね~っ』


『今日は楽しかったわよっ』
その一言が何よりも嬉しい。
『今日は大変お疲れさまでしたぁ』


福原駅から我国山が見えた。
1週間後の27年度第1回目の例会に予定している。
果たしてカタクリは咲いているのだろうか?
見ることができれば良いのだが・・・・期待しよう!


初めての「古河桃まつりウォーク」は、これまでで最高の参加人数となって正直驚いた。
”一度桃の花をじっくりと観てみたい”という好奇心と、”快晴で高気温”の天気予報によるものと思われる。
また、普通運賃(往復)3,880円のところを、青春18キップで2,370円という安さが後押しをしてくれたのも大きい。

予報どおりの快晴に恵まれ、桜とは違った雰囲気を楽しめて、最高の一日となった。
この日で26年度の例会(実施40回、中止3回)は全て終了した。
休む間もなく、1週間後には27年度の例会がまた始まる。
今年も忙しい年になりそうである。

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特選街道を歩くⅠ 第二回 (甲州街道)日本橋~新宿追分

2015年03月22日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年3月22日(日)

昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
今年1年間は、旧街道の中でも見所が多く、人気のある(?)区間を(独断で)選んで、歩くことにした。
旧街道の全ての区間を歩くのは、時間的にも経済的にも、また年齢的にも大変なため、
日帰りを主としているが、コースによっては宿泊も止むを得ない。

第二回目となる今回は、甲州街道の日本橋~新宿追分間の約8Kmを歩いた。

上野から上野東京ラインを利用して、9時5分、東京駅に到着。
1駅で5分しかかからないというのは、やはり便利である。利用しない手はない。
この日の参加者は8名、ちょっと少ない。


八重洲地下道を通って地上(外堀通り)へ出てみると、東京駅がど~んと聳えていた。
この方角から東京駅を見るのは初めてである。


外堀通りを北へ進み、


右に折れてビルの間の小さな通りを中央通りへと進む。


中央通りを日本橋方面へ進むと、日本橋高島屋が見えて来た。


永代通りを渡り、さらに進むと、見慣れた日本橋が見えて来た。


このタイムカプセルは、日本橋」保存会により、常盤小学校の生徒たちが「25年後の自分」をテーマに綴った作文や、
日本橋女学館の中学生による「日本橋の未来」を思い描いた作文、地域の有識者による、日本橋の資料や記録集、
架橋100年の記念グッズなど、日本橋への願いが込められた品々が収められ、「2012年に設置されたもので、
25年後の2036年に開封が予定されている。
なお、2036年は、架橋125周年目に当る、とのこと。


首都高速都心環状線の下には、ここに来ると、どうしても写真を撮りたくなるものがある。


「日本国道路元標」である。
ただ、日曜日以外は車が多くて危険なのでお勧めは出来ない。


日本橋の北詰に「東京市道路元標」がある。
明治四十四年(1911)に現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置された。
下には、「日本国道路元標」のレプリカもある。


9時26分、日本橋を出発し新宿追分に向かう。


永代通りを大手町方面へ進む。
呉服橋交差点付近。


スカイバス
都内の5つのコースを車窓から眺める観光バスだ。
大人1,900円とのこと。
乗っていたのは殆ど外国人のように見えた。


前に見えるのはJRの鉄橋である


JRの線路下を抜けると、左手にレンガ造りの東京駅が・・・
しかし、回りのビルがあまりにも高くて大きいので、東京駅が小さく見える。


大手町野村ビル付近


永代通りと日比谷通りが交差する大手町交差点を右折し、神田橋方面へ進む。
ひときわ高いのは、読売新聞東京本社ビルだ。


9時51分、酒井家上屋敷跡の将門塚に到着。
平将門は、下総国に兵を起こし、坂東八ヵ国を平定し、自らを平新皇と称して政治の革新を図ったが、
平貞盛と藤原秀郷の奇襲を受けて憤死。享年38歳であった。
将門の首級は京に送られ、獄門に架けられたが、3日後に白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。
まさしくこの場所であった。
江戸時代の寛文年間、この地は、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の「先代萩」で知られる
伊達騒動の終末、伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。


平将門は、平安時代中ごろに関東地方で大規模な反乱(天慶の乱)を起した人物。
徳治二年(1307)遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、
板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされる。
その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残ったが、大蔵省再建事業の際に崩された。
幾多の変遷の後、昭和四十五年(1970)に将門塚保存会などにより現況のように整備されたもの。


将門公首塚
神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。
平将門公は、承平天慶年間(931~946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行ないました。
弱きを助け、強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました。
またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、
また5月の神田祭の時には必ず神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。
将門塚保存会の神輿も神田祭の時に同保存会の方々により担がれます。
現在、同保存会により大切に維持・管理が行われております。(江戸総鎮守 神田明神)


将門公首塚を後にして、江戸城内堀(大手濠)を進む。
大勢のランナーが走って来る。
ここは、皇居ランニングコース(約5Km)になっている。


10時ちょうど、大手門の高麗門前を通過。
高麗門の先は枡形になっており、江戸城本丸の正門である大手門がある。


桔梗濠に写る巽櫓


桔梗門方面へ向かう。
ここではランナーを気にしなくて済むので安心だ。


桔梗門
皇居内見学の時の入口である。
5年以上前の2009年11月20日に訪れたことが想い出される。


軽い休憩の後、二重橋を目指す。


蛤濠(はまぐりぼり)から坂下門と宮内庁庁舎を望む。


坂下門
西の丸に続く坂の下に位置していることからこの名があり、現在は宮内庁への通用門となっている。


皇居外苑の広場を進む。


前方に大勢の人だかりが見えて来た。
二重橋の撮影ポイントになっているので、たくさんの観光客が詰めかけているのだ。


我々も二重橋をバックに記念撮影。


二重橋を後に、桜田門へ向かう。


渡櫓(わたりやぐら)門の形式をした外桜田門
江戸城内堀に造られた門の一つで、桜田濠と凱旋濠の間にある。


外桜田門は枡形門の形式となっている。
巨大な渡櫓門と、高麗門から成る。


高麗門
江戸城の門は、枡形形式となっており、外側の門は、ほとんど高麗門になっている。


高麗門を外側から観たところ。
安政七年(1860)3月3日の大雪の朝、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩浪士に暗殺された。
これが、桜田門外の変である。


桜田門外からの眺望(1)
法務省中央合同庁舎第6号館赤レンガ棟


桜田門外からの眺望(2)
警視庁庁舎


桜田門外からの眺望(3)
国会議事堂


桜田濠に沿って半蔵門方面へ。
ランナーが一段と増えた感じだ。


桜田濠


元気いっぱいに颯爽と歩く「健康ウォーキング同好会」会長。


三宅坂付近


10時49分、最高裁判所前を通過。


続いて国立劇場前を通過。


10時54分、半蔵門を通過して左折、新宿通りへ。


新宿通りの警視庁麹町警察署(赤い建物)付近を進む。


11時2分、太田姫稲荷神社に到着
伝説によれば、室町時代に太田道灌の姫が当時大流行した天然痘を病んだ。
「山城国一口(いもあらい)の里にある稲荷神社に祈願すれば治る」と云われ、さっそく参詣祈願。
すると姫の病は忽ち平癒したという。


江戸城築城に際し、道灌は崇敬・感謝の念で伏見より一口稲荷を勧請し、江戸城内に祀った。
その後徳川家康が江戸に入府し、江戸城改築の折、城外に移した。
それが神田駿河台の太田姫稲荷神社で、変遷の後ここ麹町に分社鎮座したと云う。


麹町本通り
かつてこの辺りは尾根道であり、今でも道の左右は全て下り坂になっている。
(写真では分かりづらい)


麹町四丁目付近
防火服を着た黒人の女の子が可愛い。


11時12分、日本橋から5Km地点を通過。


11時19分、上智大学前を通過。
四谷駅は間もなくだ。


11時24分、四谷駅横の四谷見附石垣に到着。
四谷見附は、江戸城の西の玄関口にあたり、寛永十三年(1636)に長門萩藩主毛利秀就によって城門石垣が、
そして3年後に門が完成。桜田門同様の渡櫓を配した枡形門だった。
明治32年に石垣の多くが撤去され、その一部が四谷駅麹町口に残されている。


四谷見附の石垣に上ってみたが、先端には行けなかった。
かつてはここに渡櫓門があったのだろう。


『桜を見物しながら歩くには良さそうなところだなぁ』
『満開になる頃にまた来てみようかな~』


四谷駅前を通過して新宿方面へ向かう。


四谷見附交差点


2階建はとバスのオープンバス「オー・ソラ・ミオ」が走り過ぎて行った。
料金は季節やコースによって異なるが、TOKYOパノラマドライブ(レインボーブリッジ&銀座) は、
4月以降は1,600円(大人)とのこと。一度乗ってみたい。
日・英・韓・中・スペイン語などの音声ガイド付だそうだ。


新宿通りを進む。


11時0分、日本橋から7Km地点を通過。


田宮稲荷神社へは、この辺りを入って行けば良いのかな?
四谷三丁目交差点近くの小さな路地を進む。


地元の人に教えて貰い、11時59分、田宮稲荷神社に到着。
幟には、「於岩稲荷田宮神社」と書かれている。
立身出世のために妻を毒殺、その怨霊に取り憑かれるというお馴染の、鶴屋南北作「東海道四谷怪談」
主人公・田宮伊左衛門の妻お岩を祀ったお岩神社の旧地で明治五年、田宮稲荷と改称した。


都教育委員会の案内によると、
鶴屋南北作の戯曲「東海道四谷怪談」は、実在の人物から200年後の作品で、お岩夫婦も怪談話しとは大きく異なり、
円満だった、そうである。
『四谷怪談は作り話しだったんだねぇ』


「於岩稲荷田宮神社」の斜め向かいに「於岩稲荷霊神」の幟が立てられた建物があった。


お岩さまを祀る陽運寺である。
案内によると、
江戸時代に実在した女性「お岩」は、家庭をとても大事にした貞淑な妻だったとも伝えられている。
お岩さまを祀る陽運寺は、「えんむすび」の寺として全国に知られている。


悪縁を切り、良縁を結ぶお岩さま。
厄除・縁結び・芸道上達・新たな出会いを望む人、大歓迎とのことである。


四谷三丁目交差点近くの歩道脇に、花束が供えられている「お岩水掛け観音」があった。
とても小さいので、危うく見逃すところだった。
我々が「お岩水掛け観音」に手を合せていると、
こんなところで何をしているのだろうと、通行人が不思議そうな顔をして通り過ぎて行く。


観音様に水を掛けているところ。観音様は水が掛けられたためか黒光りしている。
お岩ゆかりの田宮稲荷向かいにある陽運寺がここに勧請したものとか・・・


新宿通りを進む。


12時25分、日本橋から7Km地点を通過。
新宿通りと新宿御苑トンネルの分岐点である。


新宿通りの交差点を渡り切ったところに、四谷大木戸跡碑があった。
道路の反対側を歩いていたので、探し出すのに苦労した。
大木戸とは西国の豊臣残党から江戸を守る目的で構築された櫓のこと。
江戸では高輪とここ四谷の2か所にある。


新宿通りを進んでいると、道路の反対側に大きな石碑が見えた。
江戸時代に玉川上水の水量や水質を管理した水番所のあったところ。
それを記念して、明治二十八年(1895)に石碑が建てられた。
碑は、高さ4.6mにもおよび、漢文で玉川上水建設の理由や、
請け負った玉川兄弟の事績を讃えた内容が記されている、そうである。


12時37分、新宿御苑正門前を通過。


『そろそろお腹が空いてきたねぇ』
『どこか良いところがないかなぁ』


新宿2丁目近くで、道路の反対側に「丸亀製麺」の看板を見つけた。
路地を挟んだ向かい側にはカレー屋もあった。
看板を見てたら、『何だか急にカレーを食べたくなったねぇ』


ここでうどん組とカレー組に分かれ、カレー屋へ。
店で一番人気の2食カレーを注文。
『久しぶりに食べたけどけっこう美味しいねぇ』
『ちょうど良い辛さだねっ』


ナンはかなり大きく、食べ応えがある。
お代り自由だそうだが、とてもそんなに食べられない。これで充分だ。
830円は、リーズナブルだと思う。


13時24分、大宗寺に到着。
大宗寺は、慶長年間(1956頃)に僧太宗が開いた草庵で、のち信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した。
江戸の入口に安置された地蔵菩薩「江戸六地蔵」・「内藤新宿の閻魔様」・「切支丹灯籠」など、
街道時代の面影を色濃く残す文化財が今に伝えられている。
江戸六地蔵
江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ、
無事平癒したことから、京都の六地蔵に倣って宝永三年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、
江戸市中六ヶ所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ造立したと伝えられている。
江戸の六地蔵は、ここ太宗寺(甲州街道)の他に、
品川寺(東海道)・東禅寺(奥州街道)・霊巌寺(水戸街道)・永代寺(千葉街道)・真性寺(中山道)がある。


閻魔堂
江戸時代より、「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集め、かつては藪入り
(1月と7月の16日に商家の奉公人が休暇をもらい家に帰ること)に閻魔大王の縁日が出て賑わった。


閻魔像は、文化十一年(1814)に安置されたとされ、製作もその頃と推察される。
しかし、数度の火災による度重なる補修を受けたため、当初の部分は頭部を残すだけとなった、とのこと。
閻魔像の左には、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取り、
罪の軽重を計ったとされている、奪衣婆(だつえば)像があるが、
金網越しに奪衣婆の顔半分を見るのが精いっぱいで、撮るのはちょっと難しい。


不動堂


不動堂内部
暗くて見え難いが、正面上段に額に銀製の三日月を持つ「三日月不動」と呼ばれる不動明王立像が鎮座している。
正面手前は、新宿山の手七福神の布袋尊像である。


塩かけ地蔵
願掛けの返礼に塩をかける珍しい風習のある地蔵尊。
造立年代や由来についてははっきりしない、とのこと。


新宿通りに戻り、新宿2丁目付近を進む。


新宿2丁目交差点から先は歩行者天国となっていた。
大勢の人が気ままにのんびりと歩いていた。


歩行者天国を進む。


追分だんご本舗
甲州街道と青梅街道の分岐点である新宿追分にある団子の老舗。
串1本から買える、そうだが、まだ満腹状態で食欲が湧かない。ここは素通りだ。


13時48分、新宿3丁目伊勢丹前に到着。
伊勢丹前で左折して、明治通りへ。


雷電稲荷神社
伝説によると、源義家が奥州征伐に行く途中、この付近ではげしい雷雨にあったため、小さな祠の前で休んでいると、
一匹の白狐が現れ、義家の前で三回頭を下げたところ、雷雨がたちまち止んだので、義家は無事北進できた。
その後、村人はこの小祠を雷電神社と呼ぶようになったという伝承がある、そうだ。


雷電稲荷神社は、昭和3年に花園神社に合祀されたが、現在も鳥居と祠が残されている。


きつねの狛犬は金網で囲まれていた。
逃げないように?囲われているのだろうか?
随分と窮屈な金網ではあるまいか。


13時59分、この日最後の訪問地である天龍寺に到着。
曹洞宗寺院の天龍寺は、護本山と号する。
小田原最勝寺五世の春屋宗能和尚を開山、戸塚忠春とその娘の西郷の局を開基として牛込に創建された。


天龍寺本堂
江戸城表鬼門を鎮護する上野寛永寺に対し、裏鬼門を護る寺とされていたと云われるが、
天和三年(1683)牛込の火事で類焼、この地へ移転した。


時の鐘
天龍寺の時の鐘は、上野寛永寺・市ヶ谷八幡とともに江戸の三名鐘に数えられた。
天龍寺は府外で登城するのに時間がかかったことから、江戸の各所にある時の鐘より、
朝四半刻(30分)早く鐘を撞いていたといい、新宿で遊興していた人々を追出す鐘ともなっていたため、
「追出しの鐘」として頗る評判が悪かったとも云われる。


天龍寺本堂の傍の観音像が、『お疲れさま』と言っている様にも見えた。


天龍寺を後にして、新宿駅へ向かう。


14時15分、新宿駅南口に到着。


『皆さんっ、今日は大変お疲れさまでしたぁ』



「旧街道を歩く」第二回目(日本橋~新宿追分間約8Km)を歩き終えた。
甲州街道に因む名所旧跡に立ち寄り、いろいろと勉強になった。
中でも於岩稲荷霊神で「東海道四谷怪談」が全くの作り話だったことを知ったのは、収穫だった。
新宿2丁目で食べたカレーの美味しかったことが印象深い。
次回(2015年4月)は、日光御成街道(駒込~岩淵宿間約8.5Km)を予定している。
皆さんと一緒に元気に楽しく歩きたい。


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堪えました! 愛宕神社から難台山を歩く

2015年03月20日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年3月20日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成26年度第39回(2015年第10回)、「愛宕神社から難台山を歩く」ハイキングに参加した。
この日のコースは、初めて来たのが2010年10月1日(金)で、2回目は2011年5月27日(金)だから、
4年振り3回目ということになる。

コースは、愛宕神社駐車場を出発し、南山展望台を経て団子石峠へ。
団子石峠から難台山へ向かい、そこで折り返して、団子石峠へ戻る。
団子石峠から林道を通り、駒場集落の滝入不動へお参りして、
愛宕神社駐車場へ戻る、全長約12Kmのコースである。

第一集合場所の土浦市民会館に集まったのは、10名。
ハイキングとなると、参加人数が少なくなるのはいつものことである。


第二集合場所の愛宕神社駐車場
2名が直行して待っていた。結局この日の参加者は12名となった。


あいにくの曇り空で、愛宕神社の鳥居も霧に包まれてご覧のような状態である。


スパッツを付けるなどめいめい準備を整えて、


準備体操だ。


この日は、会長が同好会の集まりがあり、参加できないため、Kさんに号令を掛けてもらった。


10時12分、Oさんを先頭に出発!


「あたご天狗の森公園」内を進む。


スカイロッジが見える。
案内によると、スカイロッジは、12人棟x2棟・6人棟x4棟・4人棟x4棟と合計10棟あり、
1階は、ダイニングキッチン・バス・トイレ・テレビ・エアコンが完備され、
2階がベッドルームになっている、とのこと。
『一度ロッジに泊ってみたいわねっ』


10時19分、乗越峠を通過。


乗越峠が難台山方面へのハイキングコース入口になっている。
入口は2つに分岐しているが、右側は鎖で閉じられていたので左側へ。
『いよいよハイキングって感じだねっ』


しばらく進むと、もう一方の道と合流した。
『右側でも通れたんだぁ』


10時28分、難台山方面から下って来る人とすれ違った。
『こんちわ~っ』
難台山へ行って戻って来たのだろうか? かなり健脚そうに見えた。
この時間にすれ違うということは、愛宕神社を夜明けとともに出発する必要がある。


難台山方面への最初の上りが始まった。


「まゆみの会」所属の男性陣が後に続く。
速度はゆっくりだが、しっかりとした足取りである。


最初の坂道を上りきると、今度は下りだ。


直ぐに2つ目の坂道が始まる。


10時41分、「すすきヶ原」と書かれた標識を通過。


3つ目の坂道はかなりの急勾配で、前日の雨で地面が軟らかくなっており、歩き難い。
『足元が悪いねぇ』


急勾配の坂道を上りきると、目の前に南山展望台が現れた。
時計は10時46分を指していた。
駐車場を出発してから34分経過したことになる。
ここまでは順調なペースだ。


あいにくの天気で展望はまったく利かない。
ここで小休止だ。


めいめい持参したお茶菓子を配る。
『ごちそうさまぁ』


南山展望台で10分ほど休憩を摂り、10時55分、難台山へ向けて出発!


難台山まで、90分の標識が・・・
このとき時計は10時58分なので、難台山には12時半頃の到着ということになる。
『90分かぁ まだまだ先は長いんだねぇ』


4つ目の坂道を上り、


また下る。
難台山への道はこの繰り返しである。
アップダウンの連続は体力を消耗する。


坂道の中央は、昨日の雨で滑り易くなっているので、道の両端を下る。


5つ目の坂道を上る。


登山道にはロープが張られている。
それだけ、急坂ということである。


5つ目の坂道を下る。


坂道の先に、舗装された道路が見えた。
団子石峠である。


11時19分、難台山頂55分の標識前を通過。
ということは難台山到着は12時15分頃ということになる。


11時22分、団子石を通過。


団子石の後で休憩している夫婦が。
『こんにちわぁ』 『お疲れさまぁ』


団子石の先に視界が開けた場所があった。
霧のようなモヤの先に、愛宕山が見えた。
『あそこから歩いて来たんだぁ』


団子石を過ぎると、急な坂道になった。


『けっこうきついよなぁ』


坂道の途中で立ち止まる人も・・・


長くて急な坂道を上りきり、『ここが難台山なのっ?』


残念ながら、そこには団子山と書かれていた。
団子山? 地図には載っていない。
時計は11時38分を指していた。
案内標識どおりだと、難台山はまだ40分以上先になる。


堪らずに座りこんでお茶を一杯。


気を取り直して難台山を目指す。


上りの坂道が次から次へと現れる。


11時54分、大福山に到着。
『こんな名前の山、知らないよなぁ』


後続の到着を待つ。


少し遅れて後続の2人が大福山に到着。
ここから先は『ちょっと無理みたい』ということで、2人でここで待つと言う。
あまり無理してもいけないので、折り返して戻るまで待ってもらうことにした。
『行ってきま~すっ』 『行ってらっしゃいっ』


11時59分、大福山を後にして、10人で難台山を目指した。


『これが最後の坂道なのかしらねぇ』


「ししヶ鼻」から見た景色だが、霞んでいてよく見えない。


「天狗の奥庭」


「天狗の鼻」からの景色も「ししヶ鼻」同様だ。


12時17分、「屏風岩」に到着。


最後の急な岩場を上り、


熊笹の道を進んだところに・・・


難台山の山頂(553m)があった。
時計は12時29分を指していた。


『やはり案内標識通り、90分かかったねぇ』
『ちょっと疲れたなぁ』


ここから2人が待っている大福山へ引き返すには、下りであっても少なくとも30分はかかる。
『お腹も空いたし、ここで弁当にしようよっ』
ということで、弁当を広げることに。


Tさんは、カップラーメン持参である。
『あまり温度が下がらないし、熱々で良いよっ』


12時56分、昼食が終わり、直ぐに引き返し開始だ。


下りは危険なため、特に気を付けたい。


岩場を下り、2人が待つ大福山を目指す。


お腹が一杯になったため、緩やかな上り坂でも足に堪える。


『登山する時は、腹いっぱいになるまで食べちゃだめだねっ』


13時20分、大福山に到着。
2人は同じ場所で待っていた。1時間20分ほど待っていたことになる。
『いろんな話しをして、ちっとも退屈しなかったわよっ』


ここでTさんが、『17時からのお通夜に出るため、市民会館には16時頃までには帰りたいねっ』とのこと。
ということは、愛宕神社駐車場まで、遅くとも15時には到着する必要がある。
とにかく急ごう。『急坂は特に気を付けてっ』


ロープにしっかりと掴まって下る。


団子山への坂道を上り、


13時28分、団子山の三角点を通過。
ここから一段と急坂の坂道になる。


急坂道を下る。


『けっこう長い坂道だよねっ』
急いで下る時には特に気を付けたい。


少しばかり霧が晴れて愛宕山の山頂がはっきりと見えた。
しかし、予報された晴れ間を見ることはできない。


13時37分、団子石を通過。


13時41分、団子石峠に到着した。


来た道を引き返すのは、途中の坂道が滑り易いため、そこを上るのは厳しい。
林道を下って駒場集落の滝入不動経由の方が安全、と判断し、林道を下ることにした。
下りに30分、上りに50分みれば15時には愛宕山駐車場に着くのでは、という計算だ。


舗装された林道の坂道を駒場集落へ急ぐ。


視界が開けて・・・


愛宕山が見えた。
『山を下ったら、またあそこまで上るのかぁ』


14時11分、林道を下り始めて約30分、駒場集落の梅林辺りを通過。


『良く手入れされた梅林だねぇ』


14時16分、駒場集落の分岐点を通過。
ここまで35分、意外に時間がかかった。


駒場の滝入不動へ向かう。


14時22分、滝入不動に到着した。


滝の水は昨日の雨で水量が多いように見える。


滝入不動にこの日の無事安全をお参りした。


不動堂には、色鮮やかな花が供えられていた。地元の人が供えたのだろう。
そう言えば、今日は彼岸だった。墓参りがまだだったことを想い出した。


14時27分、お参りを済ませ、ゴールの愛宕山駐車場を目指した。


果たして15時までに着けるのか? 少々不安になってきた。


先頭の2人はかなりのハイペースで先を急ぐ。
次第に後続との間隔が空いていく。


右手を見ると、先ほど上った難台山が見え隠れする。


林道を進むと、前方に「あたご天狗の森公園」の鉄塔が見えて来た。
乗越峠はもう直ぐだ。


14時55分、後続の2人が乗越峠に到着し、Vサイン!


14時57分、最後尾の2人も乗越峠に到着。


スカイロッジを左手に見ながら進み、


15時4分、ゴールの愛宕山駐車場に到着した。
目標タイムより、4分遅れである。
『まぁこの時間なら何とかなるかなっ』とTさん。


整理体操をして、


『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
この後、家路を急いだ。


4年振りの難台山だったが、正直前回(2011年5月27日(金))よりもきつく感じた。年取った証拠だろう。
皆さんも、相当身体に堪えたようである。
後半、時間を気にして速足になったのが、一因かもしれないし、このところの例会は、
平坦なコースが多かったからかもしれない。

コースの途中何人かに、次回企画したら参加するかどうか訊ねたところ、あまり良い返事は返ってこなかった。
『今度あっても参加したくないわっ』とはっきり言う人もいた。
この日のコースは、当面は見送った方が良さそうだ。


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関東ふれあいの道(埼玉) No.7「長瀞の自然と歴史を学ぶみち」

2015年03月15日 | ウマさんの「関東ふれあいの道」を歩く
2015年3月15日(日)

”ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」”では、2011年までは主に茨城県の「関東ふれあいの道」(全18コース)を歩いてきた。
『たまには県外を』という声が上がり、2012年は東京都の「関東ふれあいの道」(全7コース)を踏破した。
続いて2013年1月から2014年4月にかけて神奈川県の「関東ふれあいの道」(全17コース)に挑み、これも無事踏破した。
次は埼玉県(全13コース)を目指すことになり、2014年9月から開始することになった。

埼玉県の第7回目は、コースNo.7「長瀞の自然と歴史を学ぶみち」(約8.8Km)を歩いた。
荒川沖駅5時27分発の常磐線上り始発電車に乗り、上野駅には6時27分に到着。

6時40分発の高崎線に乗り替え熊谷へ向かう。
この日の参加者は5名、今までで最も少ない。
朝が早いので、電車の中で朝食を摂る人も。


熊谷には7時48分に到着。
熊谷で8時ちょうど発の秩父鉄道に乗り替える。
上長瀞駅までの切符(780円)を買った直後に、「秩父路遊々フリーきっぷ」(当日限定1,440円)という
便利なものがあることに気が付いた。
帰りは皆野駅から(800円)なので、通常で買えば1,580円、その差は140円だ。
窓口で、最初の切符の払い戻しと、あらためて「秩父路遊々フリーきっぷ」を購入した。
払い戻しに快く応じてくれたのが嬉しい。


8時ちょうど発の三峰口行き電車は既に入線していた。


秩父鉄道の車内。
剣道部の高校生などが乗り合わせていた。
空席はあまりなかったが、何とか全員無事座れて一安心。


寄居駅を過ぎると、剣道部の学生も下車して、空席が目立つようになってきた。
熊谷から出発地の上長瀞まで約50分、ひと眠りしておくのは賢明だ。


8時52分、上長瀞駅に到着。
この駅で降りたのは、我々5人だけだった。


駅前でめいめい準備を整え、


8時59分、先ずは長瀞駅を目指して出発!!
荒川(長瀞)方面へ進む。
駅前の土産物店は未だ閉まったままである。


「虎岩」の案内があった。
この地域は、国の名勝・天然記念物に指定されており、茶褐色の幅15mほどの岩が「虎岩」とのこと。
大正五年(1916)に宮沢賢治が長瀞を訪れ、「虎岩」を次のように詠っている。
つくづくと ”粋なもようの博多帯” 荒川岸の片岩のいろ


道から外れ、荒川の河川敷へ向かう。


これは、一見「虎岩」のように見えるが・・・


対岸の岩が「虎岩」なのだろうか?


『虎岩はどこだ???』
『看板くらい立てておいてくれれば良いのにねぇ』
(後で気付いたことだが、背にしている岩が「虎岩」ではないかと思われる)


長瀞駅方面へ進むと、「小滝の瀬」が現れた。
ここだけ河川敷が白くなっている。


長瀞駅方面へ向かう。


長瀞駅方面への道は、両側に桜が植えられている。
花見のシーズンは人も多く、もっと華やかになるだろう。


『せっかくだから長瀞を観て行こうっ』


『ここを渡った所が岩畳かなっ』


岩畳から長瀞上流部を望む。
対岸の”秩父赤壁”が見える。


岩畳から長瀞下流部を望む。
長瀞ライン下りの船着き場が見える。
まだ営業前なのか、1艘も漕ぎ出していない。人影はまばらだ。


土産物店方面を見ると、観光客が次々と現れ始めた。
長瀞ライン下りを楽しもうという人達だろうか。


時計を見ると、9時37分を差していた。
長瀞駅への土産物店はそろそろ営業を始めようかという状態である。


長瀞駅方面


長瀞駅
熊谷方面からの電車が到着したばかりだった。
次々にお客が降りてくる。


国道140号の長瀞駅前交差点の宝登山神社大鳥居


宝登山神社を目指して緩やかな参道を進む。


宝登山神社が見えて来た。


宝登山神社の鳥居
先ほど見た鳥居にはなかった扁額やしめ縄もあり、風格が感じられる。


急な石段を上ると、


正面に宝登山神社の拝殿が。
宝登山神社は、神武天皇・大山祇神(おおやまづみのかみ)・火産霊神(ほむすびのかみ)を祀り、
秩父神社・三峰神社とともに、秩父三社の一つとしてとして知られている。
火災盗難よけ・諸難よけの守護神としての御神徳が高く、地元はもとより関東一円からの参拝者は、
年間100万余を数える、とのこと。


本殿は、銅葺き入母屋造り、千鳥破風、向拝の軒、唐破風権現造りと、
江戸建築の技巧美を今なお伝えている。


10時2分、宝登山神社にこの日の無事を祈願して、宝登山へ向かう。
ここから宝登山山頂まで2Km、約1時間との案内表示があった。


緩やかな坂道の奥宮参道を進む。


少し上ると参道は砂利道になった。


参道を出発して約18分、「関東ふれあいの道」の道標があった。
宝登山山頂まで50分と表示されている。


緩やかな勾配の砂利道を進むと、


少しだけ見晴しの良い場所に出た。
前方は野上方面と思われる。


10時26分、ベンチがあったので、ここで一休みだ。


10時32分、宝登山神社奥宮を目指す。


宝登山神社奥宮へ。


奥宮参道を上る人は多い。
我々の前にも一団が山頂を目指している。


山の斜面の杉の木は伐採され、JATA(社団法人日本旅行業協会)により、別の木が植林されていた。


こちらは、三菱UFJ信託銀行による植林である。


「関東ふれあいの道」道標を横目に見ながら、さらに坂道を上って行くと、


左手に長瀞市街地が見えた。
画面では見難いが、長瀞駅前交差点の白い大鳥居も見える。


後を振り返ると、『ここでちょっと近道をしましょうよ』と、I子さんが斜面を上り始めた。
ここは、後に続くことにした。


急斜面を上ると、


再び参道に出た。
先を行く一団の先だったので、少しだけ近道だった。


しばらく進むと左手に長瀞方面の家並が見えた。
次第に建物などが小さく見えるようになり、高度が上がっていることを実感する。


10時58分、宝登山神社奥宮への石段前に到着。


石段を上って行くと、宝登山神社奥宮の大鳥居が聳えていた。


11時ちょうど、宝登山神社奥宮に到着。
この日の証明写真の撮影ポイントは、奥宮の前と指定されている。


先にお参りを済ませて、全員の証明写真を撮影した。


朝が早かったので、お腹が空いてきた。
11時12分、ちょっと早いが、奥宮付近で弁当タイムにしよう。


Kさんは、いつものように、カップラーメン持参である。
熱いお湯を注いでラーメン作りに余念がない。


目の前には蝋梅園が広がる。


蝋梅の見頃は既に終わってしまったと思っていたが、まだ咲いていた。
顔を近づけると仄かに香りがした。


少し時間があったので、ロープウェイ山頂駅へ行ってみることにした。
左側には、新たに蝋梅の植林が行われていた。
宝登山山頂は、そのうち一面蝋梅で覆われてしまうだろう。


ロープウェイ山頂駅前の広場では、「白鳥睦会 屋台囃子保存会」による、
秩父屋台囃子の演奏が行われていた。
小学生くらいの子供も力強く太鼓を打ち鳴らしていた。


この日は日曜日のため、ロープウェイ長瀞山頂駅には長い行列が出来ていた。


秩父地域の今日の予想最高気温は、14℃前後だが、山頂は風が冷たい。
寒さ凌ぎに甘酒(200円)で身体を温める。
『身体が温まるねぇ』


糀と砂糖の甘さがちょうど良い具合だ。


ロープウェイ山頂駅には梅林が広がる。


梅林の中を宝登山山頂へ。
『蝋梅と梅の両方を観られて良かったわねぇ』


蝋梅はほぼ終わったようだが、梅林はこれからしばらく見頃が続くと思われる。


12時4分、宝登山山頂(497.1m)に到着した。
ちょうど昼時でもあり、山頂は大勢のハイカー達が弁当を広げていた。


12時5分、ゴールの根古屋橋を目指して、宝登山を下る。


根古屋橋への下りは、いきなり急な坂道で始まった。
『けっこう急な坂道だねぇ』


急な坂道が続く。
『ここは下りもだけど、上るのも大変だよねっ』


上りの人とすれ違う。
『こんちわぁ』


12時20分、分岐点に到着。
左は、野上駅方面である。


我々のゴールは野上駅とは反対方向だ。
分岐点までは、何人かとすれ違ったりしたが、とたんに誰にも会わなくなった。
それだけ、「関東ふれあいの道」は、人気がないということなのだろう。


大木に藤の古木(蔓)が絡み付いている。
からみ付かれた木は既に枯れているものもある。
『藤も一生懸命なんだねっ』


この日3つ目の里程標
ゴールの根古屋橋まで、残り2.8Kmとある。


緩やかな坂道を下る。
ここから先は下りしかない。
『今日のコースは、楽で良いわねっ』


シイタケのほだ木がずらり。


『シイタケ残ってないかしらねっ』


木々の隙間から麓の田んぼや道路が見えて来た。


12時48分、宝登山山頂を下り始めて約40分、県道44号線に到着。
正面に西光寺というお寺があったが、特に立寄ることはしなかった。


県道44号線を根古屋橋へ


県道44号線を根古屋橋へ。
周辺にはコンビニどころか自動販売機も見当たらない。
人家がぽつりぽつりと建っているだけである。
『ここはほんど何にもないねぇ』


13時2分、明治稲荷前を通過。


商い中とあったので、ちょっと覗いてみることにした。
最初は、地元の小さなスーパーのような店かと思ったら、そうではなかった。


舞茸専門の販売所(マイタケセンター直売所)だった。


せっかくなので、お土産に1個500円の舞茸を買った。
天婦羅にして食べることにしよう。
包装して貰っているところ。


舞茸を手にぶら下げて根古屋橋へ向かう。


しばらく歩くと・・・


根古屋橋が現れた。


13時30分、根古屋橋を渡ったところにバス停があり、そこがゴールである。
ここから、皆野駅行きバスに乗ることになる。


待つことしばし、14時7分発の皆野駅行きバスがやって来た。
見覚えのある皆野町営バスである。


14時25分、皆野駅前バスターミナルに到着。


皆野駅
これまで何度か利用したので、ある意味懐かしい。


14時30分発、熊谷行きの電車が入ってきた。


熊谷駅には、ちょうど1時間後の15時30分に到着。
熊谷駅で高崎線(東海道線直通の小田原行き)に乗り替え、上野駅へ。
16時42分、上野駅に到着。
昨日のダイヤ改正で、上野始発の常磐線は11番ホームとなっている。


『今日は天気も良かったし、コースもきつくはなかったねっ』
『皆さん、今日は大変お疲れ様でしたぁ』


「関東ふれあいの道」(埼玉県)第七回目、コースNo.7「長瀞の自然と歴史を学ぶみち」(約8.8Km)を歩き終わった。
この日のコースは”家族向き”ということもあり、距離はさほど長くなく、アップダウンも少なかった。
つい1週間前の予報では傘マークがあり、雨が心配されたが、天気にも恵まれ、気持ち良く歩けた。

いよいよウォーキングシーズン到来であるが、次回は17.1Kmとこれまでの最長距離コースが待ち構えている。
山道の17.1Kmは、かなり厳しいものになると思う。
日頃のウォーキングで体力を付けて、挑むことにしたい。


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岩瀬家住宅に圧倒される 紫が丘公園コース

2015年03月13日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年3月13日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成26年度第38回(2015年第9回)、「紫が丘公園コース」を歩くウォーキングに参加した。
紫が丘公園コースは、「土浦元気アップロード」(全8コース)の一つで、
都和公民館をS&Gとする全長約6.4Kmの周回型コースである。

第一集合場所の土浦市民会館に集まったのは10人。
『今日はちょっと少ないねぇ』 『近いから直行したのかしら・・・』


車3台に分乗して第二集合場所の都和小学校裏「スーパーまるも」の駐車場へ行くと、


いるいる。その数10数人。
けっこうたくさんの人が直行していた。
その後も何人かが駆け付け、結局この日の参加者は26人となった。


駐車場の空きスペースで、準備体操


『最後に深呼吸っ』


9時35分、出発!


「スーパーまるも」の前の道を北へ。


先頭はいつものOさんが務める。
「紫が丘公園コース」は、昨年一度歩いたことがあるそうだ。


会長以下が後に続く。


住宅地の緩やかな坂道の先に田んぼが見えて来た。


田んぼの景色を眺めながら進む。


『ちょっと風が冷たいけど、気持ちが良いゎねっ』
この日の最高気温は14度だが、朝方なのでまだ気温が低い。


田んぼを通り過ぎ、再び住宅地の中を進む。


笠師町付近
この辺りは歩道が整備されていないので、車には十分に気をつけたい。


9時50分、中都町(なかつまち)農村集落センター前を通過


常磐高速道をくぐり、


常磐高速道沿いに北東に進む。


常磐高速道沿いの道を進む。
この先が工業団地になっているためか、道幅が広い。


前方にモダンなモニュメントのような建造物が見えて来た。


入口に「紫が丘ポンプ場」の表示が。
土浦市の汚水中継場である。


土浦北工業団地へ。


工業団地の中を進む。
左は「三協フロンテアつくば工場」


三協フロンテアは、ユニットハウスやプレハブなどの建設用設備器材のレンタルや製造販売を
全国で展開している会社、とのこと。


先ほどから何か良い匂いがするなと思ったら、「花園万頭」と書かれた工場が現れた。
会社案内によると、”和菓子の命とも言うべきを全て自家製造しています” また、
”創業以来170年間、を炊き続けてきました” と紹介されている。
良い匂いの元は、この工場で作られている””だったのだ。
『工場見学して行きたいわねっ』


10時8分、「花園万頭」工場の先に、調整池があった。


『きれいな公園だよねっ』


きれいな調整池を眺めながら、小休止。
調整池の中にひょうたん型の池がある。


小休止の後、紫が丘公園を目指し、道なりに進む。


後方に見えるのは、先週登った宝筺山だ。


10時21分、紫が丘公園に到着。


紫が丘公園内へ


中央付近は岩(大石)が積み上げられて、小高くなっている。


中央付近から土浦北工業団地を観た風景。
巨石が並べられているが、何か意味があるのだろうか?


巨石をバックに記念撮影


紫が丘公園を後にして、


今泉方面へ。


今泉方面へ。


道端の塀の前に真新しい道祖神や弁財天の碑が・・・
”何となく懐かしい”、とか、”ありがたみ”のような気持ちが少しも湧いてこないのは、何故だろう。
やはり、ある程度年代を重ねないとそのような感情が湧かないのだと思う。
あと、何十年後、あるいは何百年後かに、そのように感じられば良いのだが・・・


小山崎辺りの農道を進む。


さらに農道を進むと、


回りは雑木林になった。
『あらぁ 緑が芽吹き始めてるねっ』


『何となく昔が懐かしく想い出される道だよねっ』


紫色の花が一面に咲き始めていた。花の名前は定かではない。
『これがれんげだったらもっと綺麗なんだけどねぇ』


『ほんと 気持ちが良いわねっ』
この頃になると、気温も上がり始め、風の冷たさはあまり感じなくなっていた。 


宝筺山(461m)がかなり近くに見えるようになった。
山頂の鉄塔がはっきりと見える。


檜と竹の林


『立派な竹林だよね~っ』
『大きなたけのこが採れるんじゃないっ?』


竹林を抜けると、目の前に立派な門構えの建物が現れた。
『お寺かしら?』


何と! お寺ではなく個人(岩瀬市郎右衛門)の住宅である。
登録有形文化財と記されている。
Webで調べたところ、
岩瀬家の当主「市郎右衛門」の名は元禄期に小山崎村組頭として現れるが短期間で消え、
小山崎村名主として文書の上に再登場してくるのは宝暦期である。
以後明治維新に至るまでの約110年間小山崎村名主を務めた、そうである。


敷地面積は、建物の建っている場所で約5,200㎡(1,600坪余)、
屋敷林なども含めると約13,000㎡(3,900坪余)もあるとのこと。
いわゆる、一町屋敷である、と紹介されている。


『いやぁ~っ これは凄い家だなぁ』
『こんな家は今まで見たことないねっ』
残念ながら中には入れず、門のところから中の様子を伺うだけだった。


家の門も凄いが、門の前の朽ちかけた古木もかなりな樹齢と思われる。


門の前には、手入れの行き届いた梅が満開状態になっていた。


10時56分、岩瀬家を後にする。


小山崎地区を進むと、


前方に常磐高速道が見えて来た。


常磐高速道前の交差点を渡る。


『みんなで渡れば怖くない』


前方左は、中都町(なかつまち)農村集落センターだ。


11時11分、笠師町公民館付近を通過。


田んぼ付近を通過。


『もう直ぐゴールだねっ』
11時19分、並木5丁目付近を通過。


「スーパーまるも」が見えて来た。


11時23分、ゴール


整理体操は『めいめいで』ということに。
やはり号令がないと、皆さんバラバラである。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


この日の「紫が丘公園コース」は、地元「土浦元気アップロード」でもあり、
近くて距離も短いことから、26名の人が参加した。
地元土浦と言っても、Oさん以外は初めてという人がほとんどだった。

土浦北工業団地や紫が丘公園は、車も少なく道も広いので、歩き易い。
今泉地区や小山崎地区は、田舎を思い起こさせるような癒される景色が広がり、ウォーキングには良い場所だと思った。
中は見れなかったが、岩瀬家住宅の立派さには圧倒された。

今度は、「土浦元気アップロード」(全8コース)の未踏破コースや、既に歩いているコースでも多少アレンジして
みるのも面白いのではないかと思う。


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コメント
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