ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧甲州街道を歩く 第十三回 韮崎宿から教来石宿(2日目)

2017年09月25日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年9月25日(月)

「甲州街道を歩く」第十三回2日目は、日野春駅から教来石宿までの約16Kmを歩いた。

2日目の朝、しっかりと朝食を摂り、


7時58分、韮崎駅に向けて出発!


韮崎駅前通り商店街を韮崎駅へ。


昨日おにぎりを買った「ほさか」は、まだ開店していなかった。
今日はコンビニ弁当または道の駅で昼食を摂ることにしよう。


8時6分、韮崎駅に到着


韮崎駅8時29分発の下り電車がやってきた。


新府駅から新府城跡と思しき森が見えた。
『あの森が新府城跡かも知れないねっ』


8時44分、日野春駅に到着


8時58分、日野春駅を出発!


コンビニを求めて富岡三差路へ向かったが、コンビニが見当たらなかったため、
県道612号を釜無川への近道「野猿返し」へ向かう。


9時11分、武川町牧原方面近道「野猿返し」入口に到着


「野猿返し」の坂道を下る。


「野猿返し」の坂道を下る。


いったん県道612号に出て、


さらに「野猿返し」の坂道を下ると、


釜無川橋の袂に出た。


釜無川を渡った所に”むかわ”の看板が。


9時31分、国道20号牧原交差点に到達


大武川橋を渡る。


大武川


大武川を渡って少し進み、下三吹バス停を左に曲がる。


左手の旧道を進む。
緩やかな坂道になっている。


下三吹の集落を進む。


『甘柿なのかしらっ?』
鈴生りである。


下三吹の集落を進む。


集落を進むと正面に田圃が広がり、その手前に「供養塔」がある。
昭和34年8月、台風七号による土石流が村を襲い、下流では被害者が出たが、
この一石塔のおかげで土石流は迂回したという。


田んぼの中に真っ直ぐに道が伸びていた。
水車小屋が見える。その右手に公園らしい広場と東屋があった。
ちょっと一休みしていくことにしよう。


右手を見ると国道20号(右)と舞鶴松(左)の分岐点になっている。


小さな公園があり、東屋があったので立寄ってみると、
中には2人の女性が、休憩していた。(リュックの女性は我々の仲間)
実家の栗拾いに来ていて、一休みしているところとのこと。


女性たちが持参したぶどう(シャイン・マスカットとピオーネ)や
栗の渋皮煮を奨められ、恐縮しながらも戴いた。
『ごちそうさまっ』 『いやぁ このぶどうは甘くて美味しいねぇ』


田んぼの中を伸びる道が白州方面へ通じる道だと教えてもらった。
女性たちに厚く礼を言い、東屋を後にした。


周りが田んぼの農道を進む。


稲刈りの真っ最中だった。


蓮の花が咲いていた。
『きれいだねっ』


周りが田んぼの道を進むと・・・


行き止りになっていた。
有害獣被害防止用電気柵の金網で閉じられていた。


鍵はかかってなくて、手で開けることは出来た。
(この時点ではまだ道が間違っているとは認識していなかった。
東屋での女性たちが教えてくれたことを信じて疑わなかった)


さらに進んだ所で、どうやら道が間違っていることにようやく気が付いた。
このまま進んでも白州へ行けるような様子はない。
『なんだか間違ってるようだねっ』


急いで引き返すことにした。
電気柵の金網の扉を抜け、


来た道を引き返した。


国道20号(右)と舞鶴松(左)の分岐点まで戻り、舞鶴松(左)方面へ。
『白州方面はこの道しか考えられないよねっ』


坂道を上って行くと、萬休院の門が建っていた。


坂道を上って行くと、萬休院の観音像が建っていた。


10時43分、萬休院に到着した。
萬休院入口の地図で白州方面へ通じる道を確認する。
『最初からこっちの道を進んでたら良かったんだぁ』
約30分ほど時間をロスしたことになる。


萬休院に来たからには一応お参りしていこう。


萬休院本堂にお参りを済ませた。


舞鶴松は、平成18年(2006)松くい虫の被害により枯死し、
平成20年(2008)、供養祭の後に伐採されてしまった、とのこと。
かつての松の株が展示されていた。
樹齢約450年と云われている古木だった。


かつて舞鶴松が生えていた場所には、何もなかった。


平成17年(2005年)11月に訪問した当時の舞鶴松は、こんな状態だった。
名称の由来は、傘状の枝が階段状になり、全体の樹形が優美で、
ちょうど鶴が舞う姿に似ているところからきている。
樹齢450年の赤松で国天然記念物指定だった。
その見事な枝振りは、もう二度と見ることは出来ないのだ。


萬休院を後にして、白州方面を目指して坂道を下る。


坂道を下った萬休院の西口に、南無阿弥陀仏名号碑・甲子塔・地蔵尊・
一石六地蔵・馬頭観音像等が安置されている。


西口石塔群を過ぎて進む。


上三吹交差点を渡り、三吹の集落へ。


武川町三吹集落の松


村外れの右手に浄土宗無量院(廃寺)跡があった。


境内の一角に供養塔・庚申塔・安永六年(1777)造立の地蔵尊等が。


境内奥には神明社ともう一社が祀られている。


浄土宗無量院跡を過ぎると、


国道20号の手前右手に旧甲州街道一里塚跡碑があった。
碑には「甲府ヨリ七里ナノデ七里塚トモ云ウ」と刻まれている。


国道20号の尾白川橋で尾白川を渡ると、


道路の反対側に甲州街道古道入口 はらぢみち と刻まれた道標が目に入った。


横断歩道のない道路を渡り、国道20号を右手に見ながら・・・


草叢の道を進む。


道標を兼ねた馬頭観音が三体祀られていた。
横山の道標と呼ばれ、古府中より穴山、日野を経て台ヶ原村へ通じる道で、
後に「はらじみち」とも云われていた借日の主要道路である。
甲州街道の開設により台ヶ原村への入口でもあったので、江戸時代には
交通の足である馬の四魔を承伏し、交通の安全を祈願して建てられた。
馬頭観世音の側面に道標として「右かうふみち」「左はらぢ通」と記されている
台ヶ原宿に現存する唯一の道標である。


無名の巨塔入口と記された碑があったが、ここは素通りして、


古道を進む。


古道の案内碑に従って進む。


草で覆われた古道を進む。
左手には尾白川が流れる。


逆方向から古道を歩いて来た人とすれ違った。


古道の台ヶ原宿側入口に到着。
ここで古道は終わりになっていた。


石仏石塔群
馬頭観世音碑や庚申塔が並んでいる。


台ヶ原下交差点で国道20号を横断すると、”甲州街道台ヶ原宿”の
標識が目に入った。ここから台ヶ原宿だ。
台ヶ原宿は、本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠14軒であった。
この地は高く平らで台盤のようであったため、台ヶ原という地名になった。
宿並は、建設省(1986)「日本の道百選」に選ばれている。


台ヶ原宿に入ると、左手に石祠道祖神が祀られている。
道祖神は、村の境や辻などにあって悪疫を防ぎ、旅人の安全を守り、
縁結びや子宝祈願の民間信仰の神である。
文化三年の記録によれば、1月14日の道祖神祭の際には
「虎頭の舞」が奉納されており、同年間の「甲州道中文間延絵図」に
図示されている3ヵ所のうちのひとつがここである。


中宿に入ると右手に杉玉(酒林)を吊り下げた酒店がある。


右手に本陣跡碑と秋葉常夜燈があった。
御本陣小松屋伝右衛門跡で、天明二年(1782)の記録によると、
敷地は間口18間、奥行19間の351坪で、建坪は92坪だった。
甲州道中の参勤交代の大名は、高島藩・高遠藩・飯田藩の3藩に
限られていた。


台ヶ原宿の見取り図


大きな杉玉(酒林)が吊り下る山梨銘醸(北原家)は、寛延二年(1749)の創業。
銘酒七賢の蔵元である。
当家は脇本陣も兼ね、幕末には高遠藩の御用商人を勤め、明治十三年(1880)
には明治天皇巡幸の際には行在所になった。


天保六年(1835)建替えの際、高遠城主より竹林七賢(ちくりんしちけん)の欄間を拝領し、
以来銘酒を七賢と称した。
七賢とは三国志末期の頃、中国河内郡山陽の竹林で、酒を飲みながら
政談を行った七人の賢人のこと、だそうである。


山梨銘醸の隣に明治天皇菅原行在所碑が建てられている。


問屋場跡
天明六年(1786)の記録によると、敷地は間口7間、奥行き28間の196坪、
建坪は56坪あった。


七賢の向いには明治35年(1902)創業の元祖信玄餅の老舗金精軒がある。
建物は宿場時代の旅籠、とのこと。


右手の一段高い所にお茶壺道中所縁の田中神社がある。
お茶壺道中は江戸幕府三代将軍家光の寛永十年(1633)から毎年四月中旬、
京都の宇治に採茶使を派遣して、将軍家御用達の新茶を茶壷に納封して、
江戸城へ運んだ行列のこと。


宿並の左手に旧甲州街道一里塚跡碑があった。
台ケ原の一里塚跡である。
江戸日本橋より数えて四十三里目の一里塚だ。


少し先の左手に元旅籠「津留や諸国旅人御宿鶴屋」がある。
往時の佇まいをそのまま残している。


建物前には講札が三枚掲げられている。


新築された現在のつるや旅館


12時22分、道の駅「はくしゅう」に到着。


あまりお腹は空いていなかったこともあり、
もり蕎麦(600円)を注文した。


『この蕎麦けっこう黒いねぇ』


『まあまあ美味しかったわねっ』


道の駅「はくしゅう」に、タクシー乗り場があった。
しかし、タクシーは常駐はしていない。
タクシー会社の電話番号が書いてあり、呼べば来るというシステムなのだろう。
旧道から小淵沢駅までタクシーを利用することも考えられるため、
一応番号を控えて、道の駅を後にした。


国道20号に並行している旧道を進む。


間もなく稲刈りの時期を向える頃だ。
『きれいな風景だねっ』


『いやぁ 美味しそうなぶどうだよねっ』
『ちょっと小粒だけど、何という品種なんだろうねっ?』
『ワイン用なのかもねっ?』
手を伸ばせば届く距離である。


13時6分、前沢ちびっ子広場を通過。


旧道を教来石宿を目指して進む。
小淵沢駅14時36分発の特急に乗るためには、教来石宿辺りまで
タクシーに来て貰わないと間に合わない。


『今どの辺なのかなぁ?』
教来石宿までどのくらいの距離なのかが気になる。


13時22分、前沢上交差点で国道20号に合流し、


神宮川を通過。


SUNTORY白州醸造所まで1Kmの標識が現れた。


国道20号を分岐すると、


北杜市の白州スポーツ公園の総合グラウンドがあった。


さらに進むと、


13時39分、般若堂と書かれた小さな建物があった。
ここからは、凡そ20分ほどで教来石宿に着くことだろう。
ここで、タクシー会社に電話をして、教来石宿まで迎えに来てもらうことにした。
タクシーもおよそ20分ほどかかる、とのこと。


教来石宿を目指す。


松山沢川橋を渡る。


蕎麦畑の景色が広がる。


流川橋を渡る。


橋の上流には国道20号が走っているのが見えた。


14時ちょうど、国道20号に合流した。


国道を歩いていればタクシーが通れば分かるだろう。


明治天皇御小休所址碑を過ぎると


駐在所があり、向いには郵便局がある。
ここなら分かり易いのではないだろうかと思い、
タクシー会社には駐在所前でタクシーを待つことを連絡したが、
なかなかタクシーは、現れない。


14時20分くらいになってやっとタクシー2台が到着した。
運転手の話では、小淵沢駅まで約10分ほどらしいが、
小淵沢14時36分発の特急「あずさ20号」には、ぎりぎりである。
果して間に合うのか・・・
この電車に乗り遅れたら、次の新宿行特急は、16時5分なのだ。
14時31分、小淵沢駅に到着し、駅のホームへと走った。
(タクシーが遅れたため、電車のことで頭がいっぱいになり、
この間の様子を撮り忘れてしまったのは、残念で仕方がない)

ホームへ急いだ結果、何とか間に合った。
14時36分、定刻通り特急「あずさ20号」が到着した。


電車は日曜日ということもあってか、ほぼ満席状態だったが、
何とか座れて一安心。
別々の車両に分かれて座ることになったが、これは仕方がない。
新宿まで、ひと眠りすることにしよう。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ~っ』


「旧甲州街道を歩く」第十三回 韮崎宿~教来石宿(2日目)約16Kmを歩き終えた。
萬休院手前で道を間違えて、30分以上時間をロスするというハプニングには、がっくり。
また、教来石宿からタクシーで小淵沢駅に向かおうとした際に、
呼んだタクシーがなかなか来ず、目的の電車に間に合わないのではないかと、
はらはらどきどき、さすがに焦った。

次回はどんなハプニングが待っているのか、次回の「旧甲州街道を歩く」が
今から楽しみではある。

旧甲州街道を歩く 第十三回 韮崎宿から教来石宿(1日目)

この日の万歩計は、25,000歩を超えていた。


ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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旧甲州街道を歩く 第十三回 韮崎宿から教来石宿(1日目)

2017年09月24日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年9月24日(日)

昨年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、
仲間の皆さんから『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、
五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目
(2015年2月22日)に歩いているので、内藤新宿から信州の
下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第十三回目は、韮崎宿(JR韮崎駅)から
教来石宿(JR小淵沢駅)までの約33Kmを歩いた。
1日目(日)は、韮崎駅から日野春駅までの約17Kmを歩いた。

この日は、新宿から特急で韮崎まで行くことにした。
新宿駅7時ちょうど発「スーパーあずさ1号」の自由席は、満席だった。


車内放送によると、指定席とグリーン席も満席とのこと。
女性2名は通路にビニールシートを敷いて腰を下ろして一安堵だ。


甲府駅まではずっと立ちっ放しだった。
座れたのは甲府駅からたったの1駅で10分ほどである。
8時37分、韮崎駅に到着。


『いやぁ 今日は歩く前から疲れちゃったよっ』
『次からは指定席だねっ』
この日の参加者はお馴染のメンバー6名(自分も含む)だ。


9時3分、韮崎駅を出発!
この日のゴール日野春駅を目指す。


韮崎駅前通り商店街に「ほさか」と云う小さなおにぎり屋があった。
途中コンビニ弁当でもと思ったが、あまり期待は出来ない。


昼食弁当にと、めいめいお好みのおにぎり(1個110円)を買い求めた。


韮崎駅前通り商店街を進む。


県道17号本町交差点を右に曲がり、小淵沢方面へ。


9時31分、国道20号との合流点、一ツ谷交差点に到達。
交差点の右側には、中央道韮崎ICへ至る七里岩トンネルが見える。


一ツ谷交差点を過ぎて少し進むと、


十六石と書かれた標石があった。
武田信玄が治水に力を入れたのは有名だが、まだ晴信と云われた天文12-3年頃、
年々荒れる釜無川の水害から河原部村(現韮崎市)を守るため、今の一ツ谷に
治水工事を行なった。
その堤防の根固めに並べ据えた巨大な石が十六石で、その後徳川時代になって
今の上宿から下宿まで人家が次第に集まり、韮崎は宿場町として栄えるようになった、
と云われている。


15mほど離れた所に直径1.5mほどの石があったが、
これがその石(十六石)なのだろうか?


十六石を過ぎてしばらく進むと、国道20号から分岐して下祖母石の旧道に入る。
分岐点に水難供養塔が建てられていた。
昭和34年(1959)8月14日の台風7号の豪雨により釜無川が氾濫、
これによる犠牲者を供養したもの、だそうだ。


9時53分、韮崎駅を出発して50分、日陰があったので、ここで休憩していこう。


旧道の右手には七里岩の断崖が聳える。
七里岩は太古の昔に富士山程の高さがあった八ケ岳が大噴火し、
八ケ岳泥流と呼ばれる火砕流が一帯に堆積した。
これを釜無川が浸食して出来上がったもの、なのだそうだ。
この崖はおよそ七里(約28㎞)にも及んでいるので,古くから七里岩と呼ばれている。


旧道を進む。
白壁の土蔵などの旧い建物が昔を偲ばせる。


美味しそうないちじく
『ちょうど食べごろだねっ』


『見事な松の木だことっ』


威厳のある茅葺の武家門
当家は武田家に仕えた名家、とのこと。


10時14分、下祖母石(しもうばいし)の神明宮に到着。
享保九年(1724)この地に遷座し、旧祖母石村・旧西岩下村の鎮守だそうだ。


狛犬が立派で綺麗な神社だ。


神明宮に旅の安全を祈願


拝殿の先にあるのは、観音堂とのこと。


中には、きれいに飾られた観音堂が鎮座していた。


神明宮の前に南無阿弥陀仏と刻まれた石があった。
赤い色をしているところから、地元では赤地蔵と呼ばれている、そうだ。


なまこ壁の土蔵を左手に見ながら進むと・・・


国道20号との合流点手前に、九頭竜大神の石塔や道祖神の石塔があった。
左から蚕神・石尊神・道祖神・和氣大神・九頭竜大神の碑が並んでいる。
昭和34年の水害で流失したものを復元したもの、だそうだ。


和氣大神・九頭竜大神の碑


九頭竜大神の碑から200mほど引き返し、桐沢橋を渡る。


釜無川
釜無川は甲斐と信濃の國堺に位置する鋸岳に源を発し、
八ケ岳を源流とする立場川を吸収し、流末は笛吹川と落ち合い、富士川となる。
川名は、「水量が豊富で流れが速い為、釜を洗う際、流されて無くなる」とか、
絶え間なく流れる様子を表した”隈無”(くまなし)に由来している、とのこと。


釜無川を渡り、振り返ると七里岩の崖の上に新府城跡と思える小高い森が見える。
新府城は、武田勝頼が築城し、甲斐武田氏の城郭技術の集大成と評価される崖端城。
七里岩の要害に真田昌幸が普請し、甲府の府中に対して「新府」と呼ばれた。
名門甲斐武田氏の最期の城となった。
『あの辺が新府城跡なのかなぁ?』


小桐橋を渡ると、


左手に男女双体道祖神がある。
道祖神は村境等に置かれ、悪霊の侵入を阻止している。
夫婦仲が良ければ悪霊の付け入る余地が無いことを意味している、そうだ。


『美味しそうだわねっ』


百観音と刻まれた碑が建てられていた。
その横には馬頭観世音碑も。


旧道を進む。


入戸野入口と書かれた所を左に曲がると・・・


宝蔵寺の参道脇には数多くの石仏石塔が並んでいる。


11時18分、宝蔵寺に到着。
宝蔵寺の山号は延命山
本尊は地蔵菩薩、脇に等身大の守護菩薩「虚空蔵菩薩立像」がある、とのことだが、
あいにく中は見ることが出来なかった。


本堂の前に腰を下して一休みしよう。
『今日は意外と暑いねぇ』 最高気温は29度くらいはあるだろう。


11時41分、宝蔵寺を後にして旧道を進む。


徳島堰に沿って進む。
徳島堰は古くから日本三大堰(柳川堰、箱根堰)中随一と云われている、とのこと。


旧入戸野村(にっとのむら)の火の見櫓を見ながら進む。


火の見櫓の横に石仏二体と石祠が祀られていた。


名称松(くろまつ)碑と書かれた松の木があった。
昭和拾参年七月弐拾六日建立の碑には「當地方ノ一銘木ナリ」と刻まれている。
今は小振りな二代目が植栽されている。


徳島堰に沿って進む。
『いやぁ これは凄い流れだねっ』
『落ちたら助からないよねっ』


水車のような羽が水しぶきを上げて勢いよく回っている。


徳島堰入戸野第一発電所とある。
ただ今の発電量8KWの表示が見える。


その先に第二発電所があった。


こちらは、発電量12KWと表示されている。


第三発電所
水車の回り方が遅くて重そう。
ゴミが絡んでいるようだ。
発電量は0KWと表示されていた。


円井逆断層の案内に沿って進んでみることに。


徳島堰が続いていた。


円井逆断層は、どこまで行けば良いのだろう?
砂利道になり、この先まだ望めそうにないので、
円井逆断層を観るのは諦めた。


戸沢川を徒歩渡りして、


徳島堰を左手に見ながら進むと、


旧道に戻った。


少し進むと、下円井地区多目的集会所があった。
時計は12時13分を差していた。
『お腹空いたわねっ』


コミュニティ広場もある。
集会所の日陰に腰を下して、ここで弁当にしよう。


弁当は、韮崎市内で買ったおにぎり2個である。
塩かげんが程よく効いていて美味しかった。


12時45分、再び旧道へ。
旧道脇にコスモスや


ケイトウ


蕎麦などの花が咲いていた。


旧道を進むと、目の前に田んぼが広がっていた。
『素晴らしい景色だなぁ』


「かかしの里」モニュメントが建っていた。


ここでは毎年カーニバル実行委員会による、かかしイベントが行われる、とある。
写真では、稲刈りが終わった頃のようにも見えるが・・・
この後行われるのだろうか?


徳島堰の由来についての説明板があった。


寺沢川の手前に徳島堰古沢サイホンがあった。
徳島堰を横切る沢があると、堰は沢の手前で一旦沢の下に潜り込み、
沢を超えた所で再び浮かび上がる、という造りである。
『へぇ~っ 上手く出来てるもんだね~っ』


徳島堰に沿って進む。
旧道の前方に七里岩が聳える。


国道20号手前を下り、


円野横断地下道を潜って国道20号を横断。


国道20号を潜った先に真っ赤な彼岸花が咲いていた。
『いやぁ 見事だねぇ』


旧道を進む。


右手に堂々としたなまこ壁の長屋門が。


敷地内を覗くと、庭に明治天皇圓野御小休所碑があった。
明治天皇は 明治十三年(1880)巡行の際に、ここ内藤家で休息した、とのこと。
『自分ちの庭に明治天皇巡御小休所碑があるって凄いんじゃねっ』


旧道は国道20号に合流。


13時37分、国道20号を少し進むと、左にコンビニがあった。
『冷たいものでも飲んで行こうっ!』


コンビニの前で一休みだ。


『アイスキャンディが冷たくて美味しいっ』


国道20号を進む。


小武川に架かる小武川橋を渡る。


小武川は、この先で釜無川に合流している。
小武川橋を渡ると、北杜市だ。


黒沢川を渡り、


旧道を進むと、


旧甲州街道一里塚碑があった。
”甲府ヨリ六里ナノデ、六里塚トモ云ウ”とある。


旧道の右手には七里岩の断崖が聳える。
『ここの断崖はきれいに見えるねっ』


国道20号を進み、再び旧道へ。


武川町牧原辺りには、白壁の塀に囲まれた大きな構えの家が続く。


国道20号から分岐したり、合流したりを繰り返す。


国道20号牧原交差点手前で何度目かの分岐をし、


左に国道20号牧原交差点を見て、右に曲がり、
県道612号を日野春駅を目指す。


釜無川橋を渡る。


釜無川


河原には鮎釣りを楽しむ人の姿が。


釜無川橋を渡って少し行った所に、日野春駅方面近道「野猿返し」
と書かれた標識があった。


「野猿返し」の山道は、思ったほど険しい山道ではなかった。


いったん県道612号の道路に出た。


道路の反対側にさらに「野猿返し」の山道は続いていた。
『ここまで来たら行くしかないねっ』


「野猿返し」の山道を上ること15分、


再び県道612号に出た。
ここから先は「野猿返し」の近道はなかった。


日野春駅を目指して県道612号を進む。


日野春駅へ0.2Kmの案内標識が現れた。
少しでも近道出来るのはありがたい。


標識に従って住宅地の坂道を上って行くと、


15時1分、日野春駅に到着した。
次の上り電車は15時25分だ。


日野春駅のホームで待つことにした。


待つことしばし。


上り電車が到着した。


15時38分、韮崎駅に到着。
平和観音像が迎えてくれた。


韮崎駅前通りを窟観音へ。
今朝韮崎を出発した際、本町交差点付近からちらっと見えたのが気になって
一度見ておこうということに。


15時52分、窟観音碑前に到着


七里岩の崖下に曹洞宗仏窟山雲岸寺がある。
雲岸寺は、寛正五年(1464)霊場窟観音を守るべく創建された寺である。


懸崖造りの窟観音は雲岸寺の裏にあった。


窟観音の下に洞窟があり、地蔵と弘法大師・成田不動明と刻まれた石碑と
像2体が祀られていた。


石段を上り、窟観音堂へ。


手前の窟室内には寛文七年(1667)に千体仏(千体地蔵尊)が安置された、とある。


千体仏(千体地蔵尊)と弘法大師像
当時より、必ず一体は参詣祈願者と目が合う千体仏があると信仰されてきた。


中央の窟室内には天長五年(828)弘法大師作の御尊像が安置されている。


奥の窟室は窟観音本殿で、天長五年(828)弘法大師作の
本尊聖観世音菩薩像が安置されている。


窟観音堂の手前にも洞窟があり、平和観音への近道とある。


洞窟を抜けると、


平和観音像が目の前に現れた。
『ここからで充分だよねっ』


振り返ると富士山が薄らとその雄姿を見せてくれている。
『富士山も見ることが出来て良かったよねっ』


窟観音を後にして、この日の宿泊先「清水家旅館」へ。
韮崎駅前通り商店街を進む。


16時13分、「清水家旅館」に到着。


「清水家旅館」で寛ぎ、大相撲千秋楽の日馬富士優勝を見届け、
一風呂浴びて汗を流した。


汗を流した後は夕食である。
先ずは、この日無事歩き終えたお互いの健闘を称え、
『かんぱ~いっ』 『お疲れさま~っ』 
『また明日も頑張りましょうっ!』


この日の夕食
お腹が空いていたこともあり、生ビールともども美味しかった。


「旧甲州街道を歩く」第十三回 韮崎宿~教来石宿(1日目)を歩き終えた。
特急「スーパーあずさ1号」では甲府まで立ちっ放しだったので、
出発時点からやや疲れ気味だったが、何とか無事歩き終えて一安心。

国道20号牧原交差点から日野春駅へは「野猿返し」の山道を歩いたこともあり、
最後はやはり少々疲れたというのが、正直なところである。

この日は、特に変わった事はなかったが、明日はどんなハプニングが
待っているのか、明日の「旧甲州街道を歩く」が楽しみでもある。

旧甲州街道を歩く 韮崎宿から教来石宿(2日目)

この日の万歩計は、26,000歩を超えていた。


ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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旧甲州街道を歩く 第十二回 石和宿から韮崎宿(2日目)

2017年05月22日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年5月22日(月)

「甲州街道を歩く」第十二回(1日目)は、石和宿(JR石和温泉駅)から
韮崎宿(JR韮崎駅)までを歩いた。
2日目のこの日は、甲府宿から韮崎宿(JR韮崎駅)までを歩いた。

2日目の朝、朝食をしっかりといただく。
ビジネスホテルとは思えないほど、メニューは充実していた。


各自部屋で朝の連続TVドラマ「ひよっこ」を見終わり、
8時34分、出発だ!


甲府駅南口から伸びる平和通りを跨ぐ歩道橋が見えて来た。


相生歩道橋を渡り、国道52号(韮崎)方面へ。


国道52号をしばらく進むと、


荒川橋がある。


荒川


荒川橋を渡る。


荒川の直ぐ隣には貢川(くがわ)が並行して流れている。


貢川橋を渡ると国道5号は二つに分かれていた。
どちらも国道52号だが、


旧甲州街道は、右の道になる。


貢川橋西詰から350mほど進むと、左に大きく曲がる所に
上石田のサイカチの木があった。


この地は貢川の河川近くであったが、河川は整備され今のような市街地となった。
サイカチは川岸の湿ったところに生える木で、この場所に本樹があるのは、
昔の自然の一部を残したものである。


また、大小そろって生えていることから、地元の人々は「夫婦サイカチ」
と呼んで親しんでいるが、両樹とも雌木である。
樹齢は両樹とも約300年と推定される。
甲府市指定有形文化財・天然記念物である。
(甲府市教育委員会)


旧甲州街道(国道52号)を甲斐・韮崎方面へ。


貢川交番前交差点を横断。


韮崎まで12Kmの標識
『まだ先は長いわねっ』


旧甲州街道を韮崎を目指して進む。


この日の昼食は、道中の食事処で食べられる保証はないことから、
コンビニで弁当を買って行くことにする。


9時42分、県立美術館前を通過。
ミレーの「落穂拾い」、「種をまく人」などを所蔵していることで知られる。
この前を通る国道52号は美術館通りと呼ばれている。


旧甲州街道を進む。


9時52分、中央自動車道の手前で甲斐市に入った。


『今日も暑くなりそうだねっ』
この日甲府市の予想最高気温は30度になるらしい。
昨日は32度だったので、いくぶんましだが・・・


旧甲州街道は、竜王新町交差点で国道52号と分岐する。
竜王新町交差点を右に曲がり、少し進むと、
ビルの真ん前に竜王新町下宿道祖神場があった。
道祖神のご神体は、直径45Cmのまん丸い石である。


江戸時代、村人の互助的な集会協議実行の場所として、
地域発展の基点となった「寄合場」である。
村の道路・河川・農産・慶弔交際又は、盆・正月・祭り・相撲大会など
すべての事がここで民主的に協議された。
往時50坪の地積であったが、大部分が道路用地となったので、
この由緒ある地積を保存すべく、昭和8年大蔵省から払い下げ、
10人の共有地となっている、とのこと。


10時15分、称念寺に到着


称念寺本堂
浄土宗の寺院で山号は必得山


ご本尊は、阿弥陀如来像である。
市指定有形文化財の紙本著色仏涅槃図(しほんちゃくしょくぶつねはんず
を所蔵されている。説明によると、
仏涅槃図とは、釈迦の入滅の情景を描いた絵画です。
一般的には、釈迦の足に触れるのが大迦葉あるいは
毘舎離城の老女であるのに対し、この称念寺本は
俗人の翁となっています。(甲斐市教育委員会)


称念寺には「くり抜き石枠井戸」がある。
この井戸は、江戸時代には称念寺が信州往還(甲州街道)に面しており、
ここを往来する人々が赤坂台を通過する際に休憩したことから
古くから『お休み井戸』とも呼ばれていた。
この井戸の石枠の規模は高さ61㎝、幅92㎝、内径65㎝の正四角形で、
四隅は角を削ってある。
市指定有形民俗文化財になっている。


本堂左手奥に石造六地蔵尊がある。
銘文は見られないが、江戸時代初期の作とされている。
もとは寛永年間(1624~1644)に赤坂諏訪神社付近に創建された
地蔵院の本尊であったと伝えられている。
市指定有形民俗文化財になっている。


称念寺でお茶タイムにしよう。
『どうぞっ』 『いやぁ ありがとう、いただきま~すっ』


中央本線の踏切を渡る。


右側には竜王駅が見える。


左側は韮崎方面だ。


線路を渡って少し進むと、すこしばかり急な上りの坂道になる。
赤坂だ。


坂の途中で後ろを振り返ると富士山が見えるとのことだったが、
あいにくの曇り天気で霞んでしまって富士山は見えなかった。
『晴れてればばっちりと見えたんだろうけどねっ』


坂の途中に供養塔が建てられている。
供養塔は、高さ4.3m、幅1.12m、厚さ0.38mの大きさ。
建立年代は、安政年間(1854~59)で、表面を平坦に加工した
巨大な自然石で造られている。
阿弥陀如来の名を称える「南無阿弥陀仏」を六号名号と呼び、
この塔は六号名号を本尊として、供養のために建立されたものであり、
念仏講中による信仰的な表現である。
市指定有形民俗文化財


10時45分、赤坂を上り切った辺りの諏訪神社に到着


境内には御柱が立てられていた。
柱には”竜王新町諏訪神社秋期御柱大祭 平成28年10月30日”とある。
『次の御柱大祭は7年後なんだろうねっ?』


諏訪神社の拝殿に参拝!


その右隣に赤坂稲荷大明神がある。
ここにも一応参拝!


諏訪神社を後にして、韮崎を目指す。


赤坂台総合公園の入口交差点には「クリーンエネルギーセンター」があり、
展示室には水力発電・太陽電池・風力発電などのクリーンなエネルギー
に関する体験型の装置があるとのこと。


龍王源水
龍王源水は、竜王地域の人々が日常飲用している水道水の原水である。
釜無川近くの水源の地下100mの深井戸から汲み上げた水で、
地中のカルシウムやマグネシウムのミネラル分が豊富に溶け込んで
中程度の軟水になっている、そうである。


旧甲州道中下今井宿辺り


T字路に道標があった。
”右市川 左甲府”と刻まれた文字が読める。


道標を右に曲がると、蔵屋敷の門を構えた家が現れた。
歴史を感じさせる構えで当時の面影が偲ばれる。
この下今井宿には本陣はなく、商人が利用した「宿」だったという。


『大きくて立派な家だねぇ』
門の両側が蔵になっている家は初めてだ。


天真山自性院の参道
石畳は、明和二年(1765)の建造で、
甲斐市指定有形民俗文化財になっている。


参道にある赤い印のついた石は、
水戸光圀公が諸国漫遊で甲州街道より信濃方面に出向いた際、
自性院に立ち寄り、けつまづいた石、だそうだ。
『水戸の人はこのこと知ってるのかねぇ』


自性院は、一度しかない人生をどう生きていくかを静かに考える寺、
静かにお参りしましょう。
と門の前に書かれていた。


本堂の前に地球の反対側を示す標識があった。
赤い矢印の先がアルゼンチン共和国バンバ市、だそうだ。
ここが地球のまんなかです、ともあるが・・・


自性院は、曹洞宗のお寺として、元亀元年(1570)に
関刹界翁禅師が開山した。
本尊は、弘法大師の作と伝えられている。


『みんな元気甲斐っ!』
ピンコロ地蔵が微笑みかける。
ピンピンコロリといきたいものだ。


一息入れた後、自性院を後にする。


旧甲州道中沿いには旧い蔵をよく見かける。
なまこ壁の蔵が多い。


中部横断道を過ぎ、


煉瓦のトンネルで、中央本線を潜り、


線路に沿って右に曲がり、塩崎駅へ向かう。
『塩崎駅で弁当にしましょうっ』という訳である。


中央本線・塩崎駅の200mほど手前に”泣き石”がある。
天正十年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は、
完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて
落ちのびて行った。
その途中、勝頼婦人はこの地で、燃える新府韮崎城を振り返り、
涙を流したという言伝えがある。
高さ約3.8m、巾約2.7m、奥行約3.7mで中央部から水が流れていたが、
鉄道の開通により水脈が断たれてしまった。


線路沿いに進むと・・・


12時8分、塩崎駅に到着
駅舎は工事中だった。
『どっか弁当に適当な場所はないかな~っ』


駅ホームに小さな待合室があったので、ここで弁当に。


待合室だけでは入りきれないので、ホームのベンチも
利用させてもらった。(写真は反対側のホーム)
これまでいろんな所で弁当を食べたが、駅のホームは初めてだ。
ホームに無断で入って弁当を食べるなど、許される行為ではないが、
ここは大目に見ていただきたい。


弁当も終わり、12時40分、韮崎駅を目指して街道を進む。


三界萬霊塔
三界萬霊塔とは、この世のあらゆる生命あるものの霊を宿らせ、
供養することが目的に建立され、三界萬霊牌を祀っているということは、
我が家の先祖だけでなく、すべての精霊に供養することの大切さを教える
ものだそうである。


三界とは我々が生まれ変り、死に変わりするこの世界のことで、
欲界・色界・無色界の3種の世界があり、
欲界というのは、食欲・性欲・睡眠欲などの欲望の世界で、
色界は欲望が無くなった世界。
無色界は、形のあるものから離れた純粋な世界を指す、とのこと。
萬霊とは、欲界・色界・無色界などのそれらすべてを指す、そうだ。


塩崎の蔵屋敷
歴史を感じさせる。


塩崎の蔵屋敷
なまこ壁が印象的だ。


右手に双葉西小学校を見ながら進むと、


船形神社の石鳥居があった。
明神鳥居といわれる形式だが、高さは2.53mと低い。
室町時代前期の応永四年建造で、県指定有形文化財になっている。


宇津谷バス停を通過し、


田畑交差点を右折して中央本線方面に向かって行くと、
道が二つに分かれていた。


分岐点に二十三夜塔が2基立っていた。


二十三夜塔を左折すると下りの坂道が続いていた。


道なりに旧い家並みの中を進む。


坂道を下ると県道6号に出た。
先ほどの田畑交差点を真っ直ぐに進むと、
ここで合流することが後で分かった。


県道6号を進み、塩川橋を渡る。


塩川
塩川橋の右手を走っているのは中央本線だ。


塩川橋を渡り切ると、13時18分、韮崎市に入った。


塩川橋西詰信号を右に折れて線路沿いに進む。


道端の黄色い花がきれいだ。


13時30分、法務局韮崎出張所の建物の陰で一休みしていこう。


『さすがに疲れちゃったわねっ』


目の前を特急「かいじ」が通過していった。


13時40分、韮崎警察署前を通過


本町3町目辺りを通過


鰍沢(かじかざわ)横丁
身延への道との追分である。
ここから「みのぶ道」駿信往還ともいい、峡北地方や諏訪・佐久地方の
江戸城納めの年貢米を馬背に積んで、鰍沢河岸(幕末には船山河岸)まで
通行する道筋である。
沿道には駄菓子屋・馬方茶屋などが軒を並べて賑ったが、明治36年(1903)
国鉄中央線が開通して荷物輸送経路も一変し、往時の活況は消えた。


韮崎小学校バス停辺りを通過


本町三差路を右折して県道27号を進む。


中央本線の陸橋を潜って右折すると、


14時3分、この日のゴール韮崎駅に到着した。


韮崎は、平成28年度(2016年)のノーベル医学・生理学賞を受賞した
大村智博士のふるさとだったのだ。
TVで紹介されていたのを思い出した。


韮崎駅のホームから平和観音像が見えた。
高さは、16.6mだそうだ。
『スマートな観音様だねっ』


韮崎駅14時6分発の普通電車で甲府へ向かう。


『旨い具合に電車があって良かったねっ』


甲府から特急「かいじ号」に乗り換え新宿へ。
『かんぱ~いっ』
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧甲州街道を歩く」第十二回1日目(石和宿~甲府宿)、
および2日目(甲府宿~韮崎宿)を無事歩き終えた。
30度を超える真夏日の中だったが、心配された熱中症にもならず、
無事歩き終えたことに一安堵である。

塩崎駅のホームで弁当を食べたのが印象に残る。
この日も特にハプニングと言われるようなことは無かったが、
次は、どんなハプニングが待っているのか、
今から次回の「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。

旧甲州街道を歩く 第十二回 石和宿から韮崎宿(1日目)

この日の万歩計は、23,000歩を超えていた。

ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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旧甲州街道を歩く 第十二回 石和宿から韮崎宿(1日目)

2017年05月21日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年5月21日(日)

昨年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、
仲間の皆さんから『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、
五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目
(2015年2月22日)に歩いているので、内藤新宿から信州の
下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第十二回目は、石和宿(JR石和温泉駅)から
韮崎宿(JR韮崎駅)までの約18.7Kmを歩いた。
1日目(日)は、石和温泉駅から甲府駅までの約6.5Kmだが、
甲府駅の北側に位置する躑躅ヶ崎館(武田神社)と、甲府城(舞鶴城)
を訪れたので、実際にはこの倍近く(12-13Km)は歩いたことになる。

この日の昼食は、甲府市内の飲食店を予定しているため、
駅弁は買わずに直接中央線ホームへ。
6時53分発の特快高尾行に乗り込む。
電車はガラガラに空いていた。


『今日は余裕で間に合ったねっ』
この日の参加者はお馴染のメンバー8名だ。


高尾駅で中央線に乗り換え、9時38分、石和温泉駅に到着。


駅舎から石和温泉駅前を望む。
駅前の花壇にはバラが植えられていた。
『たくさんのバラが咲いてるよっ』


駅前の花壇へ行ってみよう。


駅前に植えられた色とりどりのバラが、ちょうど見頃を迎えていた。
”石和温泉を訪れた人が元気になるバラ園”がテーマ、だそうだ。
『きれいだねっ』


102品種、450株のバラは、
市民ボランティア「笛吹ローズクラブ」の皆さんによって
手入れされている、とのこと。
『良い香りだねっ』


バラに元気を貰って、9時49分、石和温泉駅を出発だ!
この日甲府の予想最高気温は32℃とのこと。
熱中症には充分気を付けたい。


笛吹権三郎
笛の上手な権三郎の母が、石和川の氾濫で流されてしまった。
権三郎は、母の好きな曲を吹きながら探したが、
自らも川に落ちて死んでしまった。
夜になると川の中から美しい笛の音が響き、
いつしかこの川は笛吹川と呼ばれるようになった。


国道411号の石和温泉駅入口交差点に到着
甲府宿はここを右折することになるが、前回見落としていた
石和本陣跡を見て行くことにした。


国道411号を200mほど山梨市方面へ戻ると、
石和本陣跡の標識があった。
宝暦11年(1761)信州高遠城主内藤大和守が参勤交代のため、
初めて本道中を通行することになり、石和宿仲町の後藤甚兵衛に
本陣を命じたことが始めと云われる。


以来子孫が継承して明治に至った。
明治以降も旅籠として利用したが、明治13年(1880)6月7日の
石和の大火により焼失し、現在はわずかに土蔵1棟と
諸大名通行の書状および、古記録文書が残っている。


史跡 石和本陣跡の碑


石和本陣跡の碑を見たことで、あらためて甲府宿を目指し、
国道411号を進む。


平等橋
平等川に架かる橋。


平等橋を渡る。


宇治平等院に比するくらい『蛍』が見事であったので平等川となった。


平等橋を渡ると、甲府駅まで6.2Kmの標識が。


あちこちの道路脇にバラを観ることが出来る。
『この辺の人はバラを育てるのが好きなんだねっ』


和戸町由来碑
和戸町は平安期この付近を中心として栄えた表門郷の遺称である。
郷とは、奈良時代に50戸をもって編成された行政村落のことで、
地名の由来から、古くから集落が発達していたことが知られる。
地内には在原塚、琵琶塚、太神さん塚などの古墳が点在する。


和戸町由来碑の後ろに道祖神が祀ってあった。


二宮尊徳像


11時3分、建物の日影で休憩だ。
石和温泉駅を出発して1時間10分余が過ぎていた。


十郎川に架かる十郎大橋を渡ると、


青梅街道との分岐点、山崎三差路があった。
『ここで青梅街道と合流するのかぁ』


山崎三差路の少し先にあの箱根駅伝で有名な山梨学院大学があった。


山梨学院大学
『いやぁ なかなか立派な建物だねぇ』


山梨学院大学から甲府駅まで3.6Kmとある。
『まだ半分も歩いてないんだぁ』


善光寺通りの先に甲斐善光寺の屋根が見えた。
『長野の善光寺とそっくりだねっ』


身延線の線路を潜ると、


右手に身延線の善光寺駅があり、ちょうど電車が発車するところだった。


甲府市を目指し、城東通りを進む。


11時52分、甲府駅まで2.0Kmの標識を通過


身延線金手駅近くで街道は鈎型(桝形)に曲がっている。


ガソリンスタンドの向かいの駐車場辺りに甲府の本陣があったそうだが、
今はその跡を示す標識など何もない。


本陣跡を探して疲れたため、建物の日影でしばしの休憩だ。


城東通りから甲斐奈通りを進み、甲斐奈神社前を通過


甲府宿、正式には「甲府柳町宿」は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒であった。
今の甲府市街は武田信玄の父信虎が永世十六年(1519)に石和から移り、
躑躅ケ崎に居館を構えたのに始まる。
天正九年(1581)には韮崎の新府に移り、翌年武田家は滅亡してしまう。
信長の死後家康が領し、秀吉の代に甲府城が築城された。
以後この甲府城を中心に発展した「甲府柳町」の名は宿中程にある、
柳町に問屋場等の機能が集中していたところから付けられた。


甲斐奈通りを進み、街道近くにある宿泊先のホテルへ向かう。
武田神社(躑躅ヶ崎館)を訪問している間、リュックなどを
預かってもらうためである。


桜通り商店街を進むと、


12時32分、この日の宿泊先、「ドーミーイン甲府」に到着
リュックなどの荷物を預けて、ホテルを後にした。


日曜日ということで、商店街の殆どの店は休みだったが、
「イオン甲府ココリ店」の近くに寿司屋を見つけた。


『まぐろが安いねぇ』
『ここにしようっ!』


この先武田神社まで歩くことになるが、
何はともあれ『かんぱ~いっ』


『お疲れさまぁ』


自分が注文したのはマグロ丼(1,000円)だ。
(それほど安いとは思えない)


甲府城を通り過ぎ、武田神社を目指す。


中央線の線路を渡ると、


右手に復元された山手渡櫓門が見えた。
武田神社からの帰りに立寄ることにしよう。


およそ2.5Km先の武田神社を目指す。


甲府駅北口から武田神社まで一直線の武田通りを進む。
緩やかな上りの道である。


織田信長と対峙した秋山伯耆守信友の説明板があった。
秋山氏は、甲斐源氏の支流で、武田家の譜代家老の家柄。実名は虎繁。
信玄の信濃国伊那郡制圧に伴い、高遠城代、次いで飯田城代を歴任。
織田・徳川氏を監視する役割を担った。
長篠敗戦後、織田信忠軍に包囲されて降伏し、岐阜で処刑された。


秋山氏の屋敷跡は現在の山梨大学の敷地内にあった、とのこと。


14時46分、ようやく武田神社に到着した。
『ビールを飲んだ後は堪えるねっ』


神橋を渡り、


武田の軍旗「風林火山」の幟が棚引く参道を進み、


武田神社本殿へ。
武田神社は、「日本100名城巡り」で2011年4月2日(土)に登城している。


武田神社に参拝
国史跡である武田氏館跡は、永正十六年(1519)に
武田信虎が築いた武田氏の本拠で、一般には「躑躅ヶ崎館」
つつじがさきやかた)の呼び名で親しまれている。
大正八年(1919)に武田神社が創建された場所は、信虎・信玄・勝頼の
武田氏三代が居住し、政務を執り行った館の中心だった。


武田神社には、薪能の舞台となる甲陽武能殿もある。


躑躅ヶ崎館(武田氏居館)跡の図
この地は武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)の居館にして、
躑躅ヶ崎の西方にあるところから後世この別称を用いたと伝えられる。
屋形一帯の濠塁・縄張りは左図の如き構成でほぼ現存し、往時を偲ぶに足る。


居館中心地域については、各説あるも一応左図の如き屋形配置が想像される。
別名「躑躅ヶ崎館」と呼ばれる武田氏館は、永正十六年(1519)に
武田信虎によって築かれた方形の館である。
周囲を濠と土塀に囲まれ、東西北にそれぞれ門がある。


現在の武田神社全図
館跡を一周してみることにしよう。


土塁や石垣がそのまま残っている。


濠を渡る土橋から館内部を見たところ。


躑躅ヶ崎館の裏は、濠に沿って道が続いている。


濠に沿ってほぼ一周すると、館東側の旧大手門(武田神社大手門)に至った。


大手門を入ると、武田神社の宝物殿・拝殿辺りに戻った。
一周約15分ほどだった。


神橋から武田通りの甲府駅方面を望む。
『ここからまた駅まで歩くのっ?』


土産物店「かぶとや」の向いに甲府駅行バス停があった。
ちょうど甲府駅行バスが来たので、乗ることにした。


『やっぱり楽だよねっ』


16時11分、甲府駅北口に到着
(料金は190円)


山手渡櫓門は、甲府城にあった3つの出入口の1つで
武器庫としての役割を果たしていたとのこと。


山手渡櫓門を潜ると、高石垣と土塀に囲まれた高麗門がある。


山手渡櫓門
中は展示室になっていて、発掘調査で出土した瓦や陶磁器、
山手渡櫓門の模型、江戸時代の歴史資料などが展示されている。


中央本線を跨ぐ舞鶴通りを通って甲府城へ。


甲府城(舞鶴城)が見えてきた。
本丸の一角に建てられているひと際高い謝恩塔が印象的である。
甲府城は、「日本100名城巡り」で2011年4月2日(土)に登城している。


16時22分、甲府城(舞鶴城公園)の入口に到着
甲府城は、今から410余年前、豊臣秀吉の命により
浅野長政・幸長によって築城された。
築城は、江戸の徳川家康を牽制する目的だったが、
江戸幕府が開かれると代々徳川一門や柳沢氏の居城となった。


内松陰門を潜って城内へ。


門を支えた基礎石と石垣が残っているだけの銅門(あかがねもん)跡を通り、
折れ曲がった桝形の石段を上ると本丸である。


本丸の芝生広場に出ると、正面に天守台が。


天守台からの眺め(東)


天守台からの眺め(南)
うっすらとだが富士山が見える。


天守台からの眺め(南パノラマ写真)


天守台からの眺め(西)


天守台からの眺め(西パノラマ写真)


天守台から稲荷櫓を望む。


天守台からの眺め(北パノラマ写真)


天守台前の芝生で一休み。
『ちょっと疲れちゃったねっ』ということで、ホテルへ戻ることにした。


鉄門(くろがねもん)を潜り、


鍛冶曲輪と天守曲輪・二の丸を繫ぐ坂下門跡を通り、


東の出入口である鍛冶曲輪門へ。


舞鶴通りをホテルへ向かう。


ホテルに到着後、一風呂浴び、夕食に出掛けた。
ホテルで紹介されたグルメ横丁に行ってみると、
提灯の灯りは点いていたが、日曜日のため全店休みだった。
『休みの所を紹介されてもしょうがないよなっ』


直ぐ隣に全国チェ-ン店の「魚民」があった。
他に探すのも面倒なので、ここに入ることにした。


『かんぱ~いっ』 『お疲れさま~っ』 
『また明日も頑張りましょう!』


「旧甲州街道を歩く」第十二回1日目(石和宿~甲府宿)を歩き終えた。
宿間距離は短かったが、街道から少し外れて武田神社(躑躅ヶ崎館)、
甲府城と歩き回ったため、最後はやはり少々疲れたというのが、
正直なところである。

この日は、特に何事もなく終わったが、明日はどんなハプニングが
待っているのか、明日の「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。


旧甲州街道を歩く 第十二回 石和宿から韮崎宿(2日目)

この日の万歩計は、25,000歩を超えていた。


ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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旧甲州街道を歩く 第十一回 黒野田宿から石和宿(2日目)

2017年04月17日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年4月17日(月)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、
仲間の皆さんから『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、
五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目
(2015年2月22日)に歩いているので、内藤新宿から信州の
下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第十一回(1日目)は、黒野田宿(JR笹子駅)から
駒飼宿までの約11Kmを歩いた。
2日目のこの日は、鶴瀬宿から石和宿(JR石和温泉駅)までの約9Kmを歩いた。

2日目の朝、8時からの朝食までには少し時間があるので、
近くを散歩してみようということに。
女性陣は、一足先に出かけたようだ。
「甲斐の国自然学校」の入口にあるカブトムシの模型
『よく出来てるねぇ』


女性陣は、景徳院方面へ行ったようだが、
我々は日川の上流へ行ってみよう。


「甲斐の国自然学校」から5分ほどの所に「大和福祉センター」があった。
入浴施設「田野の湯」は一般の入浴も大歓迎、とある。
『デイサービスも兼ているみたいだねっ』


「甲斐の国自然学校」から15分ほどで日川渓谷竜門峡入口に到着した。
昨日訪れた「土屋惣藏千人切の碑」は、ここから800mほど先になる。


竜門峡の景観地図
竜門橋から竜門峡天目地区入口の栖雲寺までの約2.4Kmに亘り、
ハイキングコース(竜門遊歩道)が続いている。
『そのうち一度歩いてみたいねっ』


とりあえず竜門橋を渡ってみよう。


対岸から竜門橋を見たところ。
赤いアーチ橋である。


竜門橋から渓谷沿いに進んだ所にキャンプ場跡があった。
今は廃れていて使われていないようだ。


8時からの朝食に合わせるため、竜門橋で引き返すことにした。


朝食の様子


この日の朝食メニュー
しっかりと食べてこの日の街道歩きに備えよう。
宿泊料金は、朝夕2食付で4,860円、それにごみ処理代として
全員で108円が必要。
布団の上げ下げや部屋の掃除などを自分たちでやることになるが、
子供以外にも武田家ゆかりの地巡り・竜門峡散策・大菩薩峠ハイキング
などで宿泊する人も多いらしい。
もう一度訪れてもいいかなと思う。


昨日迎えに来てもらった大和橋西詰のガソリンスタンドまで
送ってもらった。
『どうもありがとうございましたぁ』
『気を付けて行ってらっしゃいっ』


9時11分、石和温泉駅目指して出発!


日川に架かる立会橋を渡る。


金岡自画地蔵尊碑
平安時代、巨勢金岡という大和絵の祖が岩に地蔵尊を描いた。
江戸時代には線が細くなり普段は見えなくなってしまったが、
水をかけると浮かび上がったという。
明治40年の洪水で像は流失したが、地蔵岩を示す碑が残っている。


鶴瀬関所跡
史跡甲州道中「鶴瀬関所跡」と書かれた標柱がある。
甲州十二関所のひとつで、「鶴瀬の口留番所」と言われた。
この関は甲州道中の小仏関に次ぐ口留番所として、上り男手形不要、
女上下とも改めで、江戸への鉄砲の入りと、大名妻女の江戸からの脱出
「入り鉄砲に出女」を特に警戒したと云われている。
参勤交代の際に利用した藩は、信濃高遠藩、高島藩、飯田藩の3藩だった。


鶴瀬宿碑
江戸より31宿、江戸へ30里27丁、甲府へ5里1丁と書かれた標柱と、
「鶴瀬地区」と書かれた石碑がある。
鶴瀬宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠4軒と小さな宿であった。
問屋継立業務は、毎月1日~20日迄は鶴瀬宿で、21日~末日迄を
駒飼宿が勤めた。


常夜燈
鶴瀬の常夜燈がある。


甲州鞍馬石に刻まれた達磨大師像
「甲州鞍馬石」は、山梨県北東部の山中から産出され、
酸化鉄を含む茶褐色の花崗閃縁岩の転石です。
この石が京都の鞍馬石と同じように庭石材に適していることから、
「甲州鞍馬石」の名称で開発され、灯籠や飛石・水鉢・橋石・
沓脱石等に加工され人気を呼んでいます。
(山梨県石材建設事業協同組合)


直ぐ左に中央高速を見ながら進む。


鶴瀬歩道橋を渡る。


女性陣は今日も元気で笑顔が絶えない。


甲州街道(国道20号)を進む。


曹洞宗鶴瀬山真竜寺を過ぎたところに古跡「血洗澤」と
書かれた標柱が立っていた。
武田勝頼が落ち延びる際、家臣の跡部大炊介が逃亡。
土屋惣蔵が追尾してこれを討取り、この沢で血痕を洗い流したと
云われている。
『土屋惣藏は、頼もしい家来だったんだねぇ』


隧道の入口手前右側に階段があった。
しかし、標識などなにもない。
『甲州街道はここを上るのかねぇ』


階段を上ると直ぐの所に観世音菩薩碑があった。


さらに階段が続いており、旧甲州街道かと思って上ってみると・・・


赤い屋根の聖観音堂があった。
説明によると、
本尊は、聖観世音菩薩で京都清水より移したものと云われており、
養蚕の守護神としての信仰があります、とある。


聖観音堂からの見晴らしはなかなかのものである。
この先に道はなくここで行き止りだった。


隧道入口まで引き返し、隧道(トンネル)を進むことに。


トンネルは、いくつか連なっていた。
交通量は多い。


トンネル出口に架かる観音橋を渡り、


その少し先の信号を左に進む。


トンネルを抜けて進むと・・・


遠くに雪を被った山々が見えてきた。
『あの一番高いのが甲斐駒ケ岳じゃないっ?』


柏尾橋の袂に近藤勇像が建てられている。
明治元年、近藤勇が率いる幕府軍と板垣退助が率いる新政府軍の先鋒隊が
戦った地である。


石像の台座に柏尾の戦い(甲州勝沼の戦い)概要が書かれていた。
明治元年(慶応四年)3月6日、近藤勇率いるかつての新選組、
会津潘兵から成る幕府軍甲陽鎮撫隊と板垣退助らが率いる新政府軍
(因幡・土佐・諏訪潘兵からなる官軍)との間でこの地で戦った。
戦いは新政府軍の勝利で僅か1日で決着、近藤らは敢え無く敗走した。


柏尾戦争を描いた錦絵
中央に近藤勇、右側奥に大善寺の山門が描かれている。


勝沼村の柏尾山麓に布陣した近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、
正面の甲州街道、南の岩崎山、そして北の菱山の三方から
新政府軍の攻撃を受け、甲州街道を八王子方面へ敗走した。
現在の菱山は、南側斜面に太陽光パネルを建設中だった。


柏尾坂の馬頭観音
明治36年(1903)中央本線が開通するまで、
甲州街道の物流を担っていたのは馬である。
しかし、街道には難所も多く、そこで息絶える馬もあり、
供養のために馬頭観音が数多く建立された。


近藤勇像の前で休憩


『幕府軍と官軍じゃあ最初から兵力に差があったんだろうねっ』
歴史を偲ぶひとときである。


柏尾橋を渡ると勝沼町だ。
明治13年(1880)、明治天皇御皇巡幸に際し、柏尾橋は
長さ19間(約34.5m)、幅3間(約5.4m)の欄干付きの板橋に
架け替えられた。


大善寺の入口?を入って行くと・・・


山門と楽堂の中間地点に出た。
左が山門である。


右側の本堂への石段を上り、


楼門のような楽堂の下を潜る。


楽堂
延宝五年(1677)再建立
大祭藤切り祭や縁日の日には楽堂で音楽を奏で、稚児堂で舞をまい、
参拝者をもてなしたと云われている。
拝観券のある人は中に入れる。


大善寺本堂
柏尾山大善寺は、真言宗智山派の寺院で、
寺伝では養老二年(718)に行基によって開創された。
弘安九年(1286)頃に建てられ、築730年以上にもなる。
山梨県では一番古い建物である。
本堂の中に、本尊の薬師如来座像と脇侍の日光・月光菩薩立像を
安置しているので「薬師堂」とも呼ばれる。
また、「ぶどう寺」とも呼ばれている。
薬師堂は国宝に指定されている。


『いやぁ 素晴らしい眺めだなぁ』


勝沼の盆地が一望できる。


境内には、芭蕉句碑、
『勝沼や 馬さは葡萄を 喰いながら』


正徳四年(1714)の石塔、


稚児堂などがある。
稚児堂は、大祭藤切り祭の稚児舞の舞台として使用される。
縁日の日には楽堂で音楽を奏で、稚児堂で舞をまい、
参拝者を楽しませたと云われている。


山門を潜って大善寺を後にした。


Kさんが、大善寺境内に地図を置き忘れて来てしまい、
それを取りに戻っている間、国道20号脇で一休み。


旧甲州街道は、国道20号から分かれて県道38号へと続く。


国見坂の碑


緩やかな国見坂を下る。


上行寺の碑には、日蓮上人投宿之地と刻まれている。


振り返ると小高い丘陵の上行寺が一望だ。


勝沼宿脇本陣跡と書かれた標柱があった。
この辺りが勝沼宿の中心だったと思われる。


本陣槍懸松
勝沼宿本陣に大名・公家などが泊ると、その目印に槍を立て掛けた老松。
勝沼は甲州道中の宿として元和四年(1618)に新設された宿である。
宿並は東西12町と長く、甲府盆地の東端に位置し、
物資集積の地として栄えた。


『いやだ~っ なんだか気持ち悪~い』
蛇の胴体を連想させるのだとか。
そう言われれば分かる気がする。


勝沼は甲州道中の宿として、元和四年(1843)には、
本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒、旅籠23軒であった。


勝沼宿仲松屋住宅
江戸時代後期の主屋を中心とした東屋敷と明治前期の建築を中心とした
西屋敷の二軒分の商家建築から成る。(以下略)


地下一階、地上三階建ての土蔵
明治二十年頃の大火の後、自己所有の山林の木材で作った、そうだ。
勝沼町で保存予定とのこと。
『いやぁ 随分荒れてるねぇ』
『早く修理しないと全壊しちゃいそうだねっ』


旧田中銀行社屋
明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた伝承を持つ
入母屋造り・瓦葺・二階屋の建物で、大正9年より昭和7年ごろまで
山梨田中銀行の社屋として利用された。
国登録有形文化財に指定されている。


ようあん坂碑
勝沼宿内で最も急な坂、とのこと。
その名は、”用有”と呼び止めたからとも、天野養庵の家が近くにあったため
とも伝えられる、とある。
その隣に山梨県庁より16.027粁、海抜400米と刻まれた石碑が。


勝沼学校跡
勝沼学校は、勝沼町と等々力村の学校として建てられ、
明治十三年の明治天皇御巡幸の折、行在所となった。


甲州街道(県道34号)を進む。


『きれいなチューリップだねっ』


11時53分、諏訪神社に到着
等々力の産土神で、建御名方神と事代主命を祭神とする。


本殿
境内にはこの他、天神・稲荷・石尊・痘瘡・白山・太神・蚕影・
秋葉・道祖神などの諸社が祀られている。


ほうとうの看板を見つけた。
この日の昼食は、ほうとうを食べようと決めている。


皆吉(みなき
『随分立派な構えだねっ』
ちょっと高そうな感じもするが、他にほうとうの店は見当たらないので
この店に決めた。


注文してから30分は待つことになると書かれていた。
全員「野菜ほうとう」(1,200円税別)を注文して待つことに。


待っている間に庭を拝見
『庭も立派だし、元々は何屋さんなんだろうねっ?』


ちょうど30分後、注文した品が出て来た。
『いただきま~すっ』


野菜たっぷりで美味しかった。
カボチャももちろん入っている。


皆吉の直ぐ近くに文政の常夜灯が立っていた。


常夜灯の傍には変わった形の石が。
道祖神だろうか・・・


杉御坊と書かれた石碑も。
この近くにある万福寺を別名「杉御坊」と呼ぶそうだ。


旧甲州街道の道標
等々力を過ぎた辺りから、国道411号になっている。


この時期に勝沼まで来たからには桃の花を見よう、
とある小さな神社の裏手に行ってみた。


神社の裏には桃畑が広がっており、桃の花が咲いていた。
既に摘花が始まっていたが、これからという木も見られた。
『桃の花見ることができて良かったわね~っ』


桃畑のパノラマ写真


栗原宿の碑
栗原宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠20軒の小さな宿であった。


大戸屋のでっかい看板が目に入った。
大戸屋グループ創業者三森久実生誕の地とある。
『ここで生まれたんだぁ』


13時56分、大宮御所大神参道入口に到着


大宮御所大神本殿
明和・安政年間の江戸絵師による浮世絵風芝居の絵馬が奉納されており、
全国でも貴重な民俗遺品として山梨市の民俗文化財に指定されている。


本殿再建のときクロマツを植えたと記されている、とのこと。
現在市指定の天然記念物となっている。
枝垂れ・樹形が大変良好で、樹勢も旺盛とのこと。
根廻り3.25m、目通り2.83m、樹高12m、
枝張り東4.5m、西3.0m、南5.2m、北3.7m
『ほんと盆栽みたいに良い形をしてるねっ』


甲州街道道標
道が分からなくなったとき、このような道標が現れると、ほっとする。


この先国道411号は特に見所がないため、ほぼ平行して流れている
日川の堤防を歩くことにして、左に曲がって堤防へ。


日川の対岸に広がる桃の花が美しい。
『桃源郷のようだねっ』
『こっちにして正解だったわねっ』


パノラマ写真


日川の堤防を進む。
吹き抜ける風が心地良い。


日川に架かる日川橋を渡る。


日川橋から日川を望む。


右手に新緑の大樹に覆われた白山神社が。


14時33分、白山神社に到着
白山神社の創建や由緒などは不明である。


甲州街道をいったん外れて日川の堤防へ。


『堤防を歩く方が気持ちが良いねっ』


甲州桃太郎街道の標識が。
桃の里に相応しい名前だと思う。
この辺りはちょうど、日川と重川(おもかわ)、笛吹川の3つが合流して
笛吹川になる所だ。


甲州桃太郎街道を石和温泉駅を目指す。


『石和温泉駅までそんなにないんじゃないっ?』
目見当で4Kmちょっとと思われる。


右折して笛吹橋を渡る。


笛吹橋から笛吹川上流を望む。


笛吹橋を渡って左折すると、松並木が現れた。
『ちょっと東海道を想い出させる景色だねっ』


堤防の上は車が多いので、並行している堤防下の道を
松並木を見上げながら進む。


15時14分、松並木が終わる所に笛吹権三郎之像があった。
笛の上手な権三郎の母が、石和川の氾濫で流されてしまった。
権三郎は、母の好きな曲を吹きながら探したが、自らも川に落ちて
死んでしまった。
夜になると川の中から美しい笛の音が響き、いつしかこの川は
笛吹川と呼ばれるようになった。


笛吹権三郎之像の前で最後の休憩を摂る。
ちょっとばかり疲れた様子。
自分も少しでも早く石和温泉駅へ到着したい一心である。


『石和温泉駅まであと3Kmくらいかしらっ?』


石和温泉駅を目指すのみだ。


道が二つに分かれていた。
少しでも近い方が良いだろうと云うことで、右へ進路をとった。


水路にはたくさんの鯉が泳いでいた。


石和温泉駅への標識があった。
近道をしたために、石和宿本陣跡を見落としてしまったが、
次回最初に訪れることにして、ここは石和温泉駅へ直行だ。


石和橋の上にも笛吹権三郎像があった。
笛吹権三郎像は、石和の観光スポットなのだろう。


権三郎の母親が流されたのはこの石和川?


石和駅周辺には大きな旅館やホテルが立ち並ぶ。
石和宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠18軒であった。
石和は武田氏の故地である。
新羅三郎義光から四代目信義の時、韮崎の地(武田)に移り、
以降武田と名乗った。
五郎信光は甲斐守として石和に領を構え、18代信虎の時に
甲府の躑蠋ヶ崎に移るまでここが武田氏の本拠地であった。
宿の北東大蔵寺山麓に温泉が僅かに湧いていたが、
昭和36年1月石和の地で突然大量の高温の温泉が湧き出した、
そうである。


正面に石和温泉駅が見えてきた。


15時56分、石和温泉駅に到着


普通列車は時間がかかるため、特急かいじに乗ることにした。
特急券は、全員大人の休日倶楽部会員なので、
通常1,340円のところ3割引きの930円となり、得した気分。


ゆっくりと座って帰ることができた。
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧甲州街道を歩く」第十一回1日目(黒野田宿~駒飼宿)、
および2日目(駒飼宿~石和宿)約21Kmを歩き終えた。

1日目は武田勝頼公の終焉の地を訪れ、その家臣土屋惣藏昌恒が、
常陸土浦藩と深い縁があったということを知った。
2日目のこの日は幕末新選組の英雄近藤勇が新政府軍と激突した
「柏尾の戦い」の歴史に触れ、当時に思いを馳せた旅となった。

当初予定していた2月末を延期して、桃の花咲く勝沼を訪れる
という目的は果たせたし、本場のほうとうも堪能できた。
今回は、記憶に残る街道歩きの旅だったと思う。

次は、どんなハプニングが待っているのか、
今から次回の「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。

旧甲州街道を歩く 第十一回 黒野田宿から石和宿(1日目)

この日の万歩計は、30.000歩を超えていた。

ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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