ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

塩原の2大名瀑を堪能 雷霆・咆哮霹靂の滝

2014年08月27日 | ウマさんの気ままなバスハイキング
2014年8月27日(水)

常南トラベル(株)が主催する日帰りバスの旅「塩原の2大名瀑 雷霆(らいてい)の滝・
咆哮霹靂(ほうこうへきれき)の滝
」ハイキングに参加した。
常南トラベル(株)としては、雷霆・咆哮霹靂の滝巡りは今回が初の企画とのこと。

所属する「健康ウォーキング同好会」からは、会長以下有志の7名が参加することになった。

6時10分、ほぼ予定時刻どおり、荒川沖駅前に常南交通の大型バスがやって来た。


バスに乗り込むと、直ぐに朝食が配られた。
今日もいつものホットドッグだ。半分にはポテトサラダが、もう半分には焼きそばが入っている。


この日はバナナが2本。
いつものように土浦から乗車のA子さんと、同好会会長も持参したためだ。
一度に全部は食べきれないので、1本は帰りにいただくことにしよう。


この日参加した「健康ウォーキング同好会」のメンバー。


すこぶる元気である。
「健康ウォーキング同好会」の後半の例会が9月5日から始まるので、今日は足馴らしといったところか。


友部SAで最初の休憩を摂り、2回目の休憩は、東北道の上河内SA。


矢板ICで高速を降りると、常南トラベル社手作りの地図が配られ、コースの説明があった。
それによると、
「山の駅たかはら」をスタートし、緩やかな道を1Kmほど下ると「山神の碑」に到達する。
そこから1.3Kmほど少し急な木の階段や岩場を下ると「雷霆(らいてい)の滝」に到着する。
途中、大きなシダなどを観ることが出来ると言う。
「雷霆の滝」からさらに下り、倒木を潜ったり吊り橋を渡ったりして、1Kmほど進むと、
「咆哮・霹靂(ほうこう・へきれき)の滝」に到着する。
ここが弁当のお薦めポイント、とのこと。
「咆哮霹靂の滝」が折り返し点になっており、同じ道を「山の駅たかはら」まで引き返す、とのこと。
片道3.3Km余り、往復約6.6Kmのコースとなっている、そうだ。
(もう少し濃い目の説明地図が欲しい)


9時50分、スタート地点の「山の駅たかはら」に到着。
八方ヶ原ハイキングの際に何度か利用したことがある。


外は小雨が降っているため、バスの中で着替えを済ませるようにとの添乗員の指示で、
車内で着替えているところ。
満席(40人)なので、着替えも大変だ。


上河内SAで運び込まれた昼食の弁当が配られた。
中見が楽しみだが、雨が気になる。


着替えを済ませて、準備体操をして・・・


10時12分、順次出発!


我々同好会は最後にスタートだ。


石畳に続いて、最初は熊笹の中を進む。


緩やかな坂道が続く。


林の中のため、雨粒が時折当る程度でさほど気にはならない。
フードを被っていると暑いのか、傘を差す会長である。


『熊が出るんだぁ』
『一人で歩くのは危険だねっ』


10時32分、「山神の碑」に到達。
スタートから20分が経過していた。
添乗員の説明より、5分ほど遅い。
40人もの団体だとペースが遅くなるのだと思われる。


「雷霆(らいてい)の滝」まで1.1Kmの地点を通過。
下りが急になってきた。


ところどころに小さな沢があるが、水はほとんど流れていない。


木の石段
丸太が斜めに敷設してあって、歩き辛い。


つづら折りの坂道


『帰りにここを上るのは大変だぁ』


10時51分、「雷霆の滝」まで0.6Kmの地点を通過。


この頃になると、雨は殆ど止んでいた。(傘を畳んでいる)
この調子で行けば、雨に降られないで弁当を食べることが出来そうだ。


道はどんどん下っている。


大きなシダが生えていた。
左手から水の流れる音が聞こえだした。
滝は近い。


木が倒れたままの状態になっている。(放置されたものではなさそう)
『どっこいしょっと』


11時13分、最初の滝塩原10名瀑の一つ、「雷霆(らいてい)の滝」に到着。
駐車場を出発して、ちょうど1時間が経過していた。
案内地図より10分遅れている。


「雷霆の滝」
「雷霆」とは、激しい雷のことを表した言葉、とのこと。
かなりの水量である。


「雷霆の滝」は、高さは約10m、幅が広く水量は豊富で、一枚岩の上を落下していく姿は見事である。


「雷霆の滝」では記念撮影や休憩で満員のため、我々一行は先へ進む。
記念撮影は帰る際に撮ることにしよう。


次の「咆哮霹靂の滝」を目指す。


吊り橋を渡る。


「咆哮霹靂(ほうこう・へきれき)の滝」まで0.4Km地点を通過


「雄飛(ゆうひ)の滝」まで0.6Kmの地点を通過
案内地図には載っていなかったが、ここを左に進むと塩原10名瀑の一つ「雄飛の滝」へ行ける。


しかし、「雄飛の滝」への道は通行止めになっていた。
岩盤崩落のため、2014.4.15から一部通行止め、だそうだ。


急な階段を下ると・・・


瀧があった。
11時45分、「霹靂(へきれき)の滝」に到着した。
駐車場を出発して1時間33分、予定より20分余分にかかったことになる。
「霹靂の滝」は目の前だが、木々が邪魔をしていて全体がよく見えない。
直ぐ近くまで行きたいが岩の間を通り抜けなければ行けない感じだ。
この位置から観るしかなさそうだ。


「霹靂の滝」は、塩原10名瀑の一つ。
「霹靂」とは雷の激しい音を表し、荒々しい滝の様を形容している。


「霹靂の滝」の右隣にもう一つ滝があった。


「咆哮(ほうこう)の滝」である。


「咆哮の滝」は、塩原10名瀑の一つで、咆哮とは虎などが吠えることを言う。
名前のように豪快な音を立てて流れ落ちる滝は見応え充分である。


11時50分、ここで弁当タイムにしよう。


滝の音をバックに食べる弁当は良いものである。


海苔巻とおいなりに、唐揚げと煮物が付いている。
食べ始めたちょうどその時、雨がパラつき始めた。
慌てて胃の中に詰め込んでしまった感じで、ゆっくり味わう余裕はなかった。


弁当を食べ終わったのは12時5分。
バスへの到着時刻は13時45分と告げられているため、ゆっくりと瀧を見物する時間はない。
帰りは上りなので、下り以上に時間がかかると思われる。直ぐに引き上げ開始だ!
従って、「咆哮霹靂の滝」にいたのは、弁当タイムも含めて20分ということになる。
何とも慌しいハイキングである。


今度は一転上りである。


12時21分、吊り橋を通過


沢を渡る。


岩を縫うように上る。
『こんな岩があったっけ?』 はっきりと覚えていないのが情けない。


12時35分、「雷霆の滝」へ到着。「咆哮霹靂の滝」から30分経過している。
ここで記念写真を撮ることにした。


滝の雄姿をもう一度目に焼き付けて、「雷霆の滝」を後にした。


倒木を跨ぐ。
(ピンボケなのは腕が未熟のためで、お許し願いたい)


急坂を前に、水分を補給していこう。


長い木製の階段を上るうちに次第に隊列が離れていった。


13時00分、八方ヶ原(バス駐車場)まで1.7Km地点を通過。
バス駐車場まで45分、何とか間に合いそうだ。


熊笹の中、長い階段が続く。


13時22分、「山神の碑」へ到達
「咆哮霹靂の滝」から1時間15分経過していた。
ここで、少し遅れている後続の仲間を待つことにした。
この時、別の女性だけのグループが追い越していった。
どうやら、我々が最後尾になったようだ。


駐車場まで1Kmである。


少し遅れていた仲間が追い着いた。
この日は体調が優れないとのことで、やや疲れ気味である。


『ゴールはもう直ぐっ、頑張ろうっ!』


最後の石畳は濡れていて滑り易い。
注意が必要だ。


13時53分、バスに到着
「咆哮霹靂の滝」から1時間45分、下りと同様予定計画より20分ほど余分にかかったことになる。
計画段階において、この程度の時間はみておいた方が良いということだと思う。
この後、バスは一路「かんぽの宿喜連川温泉」へ。


15時8分、「かんぽの宿喜連川温泉」に到着した。


ひと風呂浴びて、ビールで乾杯っ!!
『お疲れ様でしたぁ』


「かんぽの宿喜連川温泉」からは国道294号を走り、北関東道真岡ICから高速へ。
常磐道友部SAに到着したのは、日も落ちた18時ちょうどだった。
この頃にはバスの最後尾で盛り上がっていた男性陣は、すっかり出来上がっていた。


皆さん、満面笑みで満足の表情である。

『今日は大変お疲れさまでしたぁ』

塩原の2大名瀑 雷霆の滝・咆哮霹靂の滝ハイキングということで参加したが、
塩原にこのような素晴らしい滝があることを初めて知った。
姿の異なる三つの滝の豪快な流れを堪能したハイキングだった。
塩原10名瀑と謳われているので、機会があれば、残りの8名瀑も訪れてみたいものである。
『常南トラベルさん、よろしくお願いしま~す』


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旧東海道を歩く 第Ⅰステージ第8回 大磯宿から国府津

2014年08月24日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2014年8月24日(日)

この日は、第八回目ということで、大磯宿から国府津までの約10Kmを歩いた。

常磐線荒川沖を6時54分発の電車に乗り、上野駅には定刻どおり7時53分に到着。
元気良く山の手線へ向かう、この日の参加者は11名だ。

荒川沖駅からの4名は、青春18キップ(2,370円/1人)を利用。
休日お出かけパス(2,670円)よりもさらに300円お得である。

東京駅では8時3分発の熱海行きに間に合い、全員座ることができた。
発車時刻が少し遅れていたこともある。


この日のスタート地大磯駅には9時8分に到着。
すこぶる順調である。


大磯駅前でめいめい準備を整える。
この日は曇りで気温もさほど高くない。
”街道歩き”には願ってもない好天気である。


9時16分、国府津駅目指して出発!!


駅前に観光案内所があったので、「大磯観光ガイドマップ」を入手。
先ずは地福寺(じふくじ)へ。
観光案内所の前に地福寺方面への近道があった。
急東海道から大して逸れないことを確認し、こちらの道を進む。


近道を入ると風格のある洋館が目に入った。
洋館は旧木下家別邸と呼ばれている。(中略)
周辺環境と調和した風格のある佇まいは、新館と石垣を携えた敷地と一体となって、
大磯の別荘文化を現代に伝える景観を形成している、ということで、
大磯町の景観重要建造物に指定されている。
また、国登録有形文化財にも登録されている。


ちょっと道に迷いそうになったが、地元の人に案内されて地福寺へ到着。


地福寺には、弘法大師坐像や地福寺文書がある、とのこと。


境内には島崎藤村の墓があり、その左隣には静子夫人のやや小ぶりな墓もあった。
どちらの墓にも菊の花が供えられていた。


地福寺から数分で旧東海道(国道1号線)に出ることができた。
旧東海道へ出て直ぐに尾上本陣跡碑があった。
大磯宿には本陣が3つ(小島本陣・尾上本陣・石井本陣)あったが、脇本陣はない。
明治元年(1868)の明治天皇東幸にあたり、御宿泊所となった大磯宿の代表的本陣の小島本陣は、
地福寺へ近道をしたせいで通り過ぎてしまったようだ。
(地図で確認したら僅か50mほど戻った場所だった)


いかにも旧い感じのする和菓子屋「新杵」
島崎藤村や吉田茂に愛された店だそうだ。
「西行饅頭」「虎子饅頭」は彼らにも愛された、とのこと。


9時34分、新橋から68Km地点を通過
ゴールの国府津駅まで約10Kmということなので、78Kmの標識があることだろう。


道路の反対側に新島襄終焉の地の碑があった。
明治時代の三大教育家として知られる同志社の新島襄は、大磯の旅館百足屋(むかでや)で47歳の生涯を閉じた。
かつて百足屋の玄関だったところに徳富蘇峰の筆による碑が、門下生によって建てられている。


鴫立庵(しぎたつあん)の標識があった。


寛文四年(1664)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、
元禄八年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し、第一世庵主となった。
現在は、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに、日本三大俳諧道場の一つと云われている。


西行法師が詠んだ「心なき 身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」という名歌は
ここからの風景を詠んだものと云われている。
後に崇雪が西行を慕い訪れ、「湘南清絶の地」と絶賛し、草庵を結んだ。


このことから、ここ大磯が「湘南発祥の地」として注目を浴びている。
中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南と言い、
大磯がこの地に似ているところから湘南と呼ばれるようになった。


上方見附跡
見附とは城下に入る見張り門のことで、江戸時代の宿場の出入り口にも見附を置き、
宿場を守る防御施設として造られた。
街道を挟んで両側に台形状をもって造られ、高さは1.6mほどでその上に竹矢来が組まれていた。


宿場の京都側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいる。
平和な江戸時代には防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出入り口を示す役割を果たすようになった。


大磯の松並木の始まりだ。
昨年「関東ふれいの道」で歩いた場所なので、見覚えがある。


大磯の松並木は、今に残る神奈川県内有数の旧東海道松並木で、
樹齢300年を超える松も残り、借日の姿を残している。


松並木に沿った歩道を進む。


この切り株は、平成6年11月に松の天敵であるマツクイムシの被害にあってしまった老松(樹齢217年)で、
「東海道の歴史を語り続けて欲しい」との気持ちから歴史年表として保存する、と紹介されている。
しかし、まだ20年しか経っていないのに、既に松の株は朽ち、覆いも一部壊れている。
この後も補修し続けないと後世には残せないだろう。
大変な手間がかかることである。


滄浪閣(そうろうかく
伊藤博文の旧宅だが、閉じられていた。


旧東海道(国道1号線)を進む。


城山公園(じょうやまこうえん)の信号が見えてきた。
城山公園は、もとは三井総領家三井高棟の別荘地だった。
高棟は昭和九年に「城山荘本館」を山頂に築き、大雄殿をはじめとして、国宝茶室「如庵」などがあった。
現在は県立公園となっている。


『この辺から大磯駅までバスに乗ったんだよねぇ』
皆さん懐かしそうである。


城山公園の信号を過ぎると左手に吉田茂邸宅跡があった。
ここは城山公園の一部で「吉田茂邸地区」、道路の反対側は、「旧三井別邸地区」となっている。
休憩も兼ねて立ち寄ることにした。


内門(兜門)
サンフランシスコ講和条約を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」とも言われている。
また、軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれる。


日本庭園
池を中心にその周囲を散策して自然の移り変わりを愛でるもので、「池泉式回遊式」と呼ばれている。
吉田茂は晩年、この庭園を散策することを日課にしていたと伝わっている。


日本庭園の反対側の洋式庭園へ行ってみると、


吉田茂がその生涯を閉じる昭和42年、89歳までを過ごした邸宅跡地があった。
平成21年3月、旧吉田邸は焼失してしまったため、大磯町が「町有施設」として再建することとなり、
現在、建物の再建工事が行われている。


「旧吉田茂邸地区」はかなり広い。きれいに手入れされた竹林もある。
とても短時間で回りきれるものではない。竹林辺りで引き返した。
後で分かったことだが、竹林の先に相模湾を一望できる散歩道もある、とのこと。
また、サンフランシスコを向いて立つ吉田茂像や、七賢堂もあるそうだ。
(七賢人:岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝充・伊東博文・西園寺公望・吉田茂)


無料の管理棟があったので、


一休みしていこう。
ボランティアの方から庭園ガイドのお誘いがあったが、先を急ぐ身なので、丁重にお断りした。
次に訪れる機会があれば、「旧三井別邸地区」も含めて案内していただくことにしよう。


旧東海道(国道1号線)を進む。
不動川の新不動橋を渡る。


10時50分、日本橋から71Kmの地点を通過。
大磯駅を出発してから1時間30分経過しているが、まだ3Kmほどしか進んでいないことになる。
少しペースを上げよう。


六所神社の鳥居
もとは石神台の地に置かれていたが、大化改新後、現在地に移った。
その後、相模国府がこの地に移り、相模の六社の分霊が六社神社に祀られ、相模の総社となった。


11時8分、二宮町に入った。


11時24分、二宮駅に到着


ガラスのうさぎ像
二宮駅南口に、父の形見となった「ガラスのうさぎ」を抱いて静かにたたずむ乙女の像は、
第二次世界大戦終戦間近の8月5日、二宮の空襲で父を失った体験を綴った高木敏子さんの
小説「ガラスのうさぎ」にちなんで建てられた。
町民の平和への願いも込められている。


伊達時 景徳碑(だてとき:明治-大正時代の政治家・医師)
明治維新以降、二宮の発展と社会福祉の増進に尽くした伊達時を記念して建てられた。
彼の功績は二宮駅の設置、大磯女子敬業学舎の開校、平塚盲学校初代校長など多岐にわたる。


二宮駅から10分ほど進むと、道が分岐していた。
旧東海道は右方向である。


”旧東海道の名残り”の標識が立てられていた。
この道が”名残り”ということだろうか?


目の前に吾妻神社の鳥居があった。
この神社は日本武尊の后(妻)、弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)が夫の武運を祈り、海に身を投げた。
その後海辺に流れ着いた櫛を吾妻山山頂に埋めた場所だと伝えられている。
役場横の階段を登った山の頂上には公園があり、相模湾を見下ろせて、眺めは格別だそうだが、
距離は短いとは言え、これから登山は大変だ、先へ進もう。


大きな釜が置かれていた。
隣の醤油漬物醸造工場(ヤマニ醤油)で実際に使われていた釜だ。
ヤマニ醤油は、江戸時代の天保十三年(1842)にこの醤油蔵を開いたと伝えられており、
二宮町で創業165年という老舗、だそうだ。


緩やかな坂道を上って行くと、


右手に等覚院があった。
別名藤巻寺と呼ばれ、薬師堂の前には町の天然記念物に指定されている古い藤の木がある、とのことだが、
寺の境内は葬儀の様子のように感じられたため、中へ入るのは控えた。


もとは吾妻神社にあったと伝えられる梵鐘は、町指定の重要文化財となっている。
(道路から見えたのでカメラに収めた)


二宮消防署山西第一分団詰所の前で、団員総出?で消防車の点検らしき作業が行われていた。
(今年の2月に消防車を入れる倉庫が新しくなったそうである)
『御苦労さまですっ!』
詰所の直ぐ前にたくさんの道祖神などの石碑が並べられていた。


11時58分、日本橋から75Kmの地点を通過。


道路の反対側に一里塚の跡碑があった。
「江戸より十八里」の一里塚があった場所に、昭和57年一里塚の跡の碑が築かれた。
既に8Kmほど歩いているが、この日初めて見る一里塚碑だ。


観通しの良い、長くて緩やかな車坂を下る。


中村川の押切橋を渡ると・・・


二宮町???
途中で別の町を通った覚えはない筈だが・・・


数10mも行かないうちに今度は小田原市に入った。
どういうこと???
(押切橋でいったん小田原市となるが、直ぐに二宮町の小さな飛び地になっていることが分かった。
その小さな飛び地を過ぎたとたん、再び小田原市になったということだと思われる)


小田原市に入ると、左手に海が見えてきた。相模湾である。
遠くに霞んで見えるのは、熱海・伊東方面と思われる。


史跡車坂碑が立っていた。


太田道灌、源実朝・北林禅尼(阿仏尼)が詠んだ歌碑が掲げられている。


車坂碑の前の木陰で一休み。


車坂碑からほんの少し先に大山道の道標が立っていた。
大山道は大山阿夫利神社へ参拝するための道で、その案内標識が大山道道標である。
不動明王像の下に”従是大山道”、横面には”大やまみち”と刻まれている。


12時33分、ガストの看板が目に入った。
そろそろ昼食の頃合いだが、これより1.7Km先とある。
国府津駅より先のようだ。


のんき亭を通過。


12時42分、日本橋から78Kmの地点を通過。
大磯駅を出発して直ぐに68Kmの標識があったので、10Kmを過ぎている。
そろそろゴールの国府津駅だ。


12時43分、この日のゴール国府津駅に到着。
しかし、駅前にはレストランなど店は見当たらない。
こうなったら、食事場所を求めて『小田原駅まで行こうっ!』ということに。
休日お出かけパス、青春18キップだから小田原まで別に料金は必要ない。


13時11分、小田原駅に到着


小田原城も我々を迎えてくれている?


うまい具合に駅前に個室割烹料理屋があった。


ゴールしたことだし、兎に角生ビールで乾杯だ。
『かんぱ~いっ!』『お疲れ様~っ』
いつもは遠慮してかあまり飲まない女性も、この日ばかりは我慢できないようだ。
『美味しいっ!』


『生ビールが一番っ』


刺し身定食(980円)を注文。
刺し身は新鮮で、ご飯(新潟産こしいぶき)もけっこう美味かった。


『海鮮丼美味しかったなぁ』
『次また来ても良いわねぇ』
皆さん大満足の様子。


せっかく小田原に来たことだし、何か土産でも買って帰ることにしよう。


『何にしようかなぁ』
皆さん、迷っている様子。
晩酌のつまみに魚のすり身の天婦羅を買うことにした。


14時45分、小田原駅改札口に集合。


ホームの椅子に座り、ちょっと疲れた様子。


帰りの東海道線車内
『久しぶりに飲んで今日は楽しかったわぁ』
すごぶるご機嫌である。
『今日は大変お疲れ様でしたぁ』


「旧東海道を歩く」第八回目(大磯宿~国府津)を歩き終わった。
この日は曇り空で、昨日までの猛暑は影を潜めてくれたお陰で、何とか最後まで歩き通せた。
来月はいよいよ小田原入りである。
最後まで元気に楽しく歩きたいものである。

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日本100名城巡り No.92 熊本城

2014年08月18日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2014年8月18日(月)

この日朝、ホテル華の荘を出発し、人吉市内で土産に球磨焼酎を買い求め、
昨日回りきれなかった人吉城を一回りし、熊本城を目指した。

熊本城は別名を銀杏城と呼ばれる。

熊本城の前身は、鹿子木(かのこぎ)氏が茶臼山一帯に築城した隈本城で、
現在見られる黒板の壁が印象的な熊本城は、慶長六年(1601)、加藤清正によって築かれた。
最高所にある本丸には大天守や小天守を建て、各曲輪には宇土櫓をはじめ、
天守に匹敵する五階櫓を5基も建てて並べた。
慶長十二年(1607)に完成した。
加藤清正は城完成の4年後に没し、忠広が跡を継いだ。
しかし、寛永九年(1632)に忠広は改易となり、替わって小倉から細川忠利が入城し、
細川家は11代城主を勤め上げ、明治維新を迎えた。

熊本城の真価を天下に知らしめたのは、築城から270年も経った明治十年(1877)の西南戦争のときであった。
西郷隆盛に率いられた西郷軍が、明治政府に対して蜂起し、約4,000名の政府軍の将兵が守る熊本城を攻撃した。
政府軍の将兵は懸命に防備した。
簡単に落せるだろうとたかをくくっていた西郷軍は、城に容易に近づくことさえできなかった。
この戦いの中、西郷は「清正公と戦をしているようだ」と言ったと云われている。
落城はしなかったが、西郷軍の攻撃の前に、城内で謎の出火があり、大小天守、本丸御殿など多くを焼失した。


熊本城に近いコンビニで簡単な昼食を済ませ、12時5分、二の丸駐車場に到着。


二の丸駐車場から大天守と小天守を望む。


二の丸広場を通って西大手櫓門へ向かう。


西大手櫓門の手前の堀


西出丸の長塀に沿って堀られている。


西大手櫓門


内(西出丸)から見た西大手櫓門


広大な西出丸と長塀
その先に戌亥櫓が見える。


西出丸の戌亥櫓
西出丸の西北(成亥の方角)にある隅櫓で、木造で二層三階。
平成15年8月に復元された。


奉行丸
この曲輪は、細川氏入国後、奉行所が置かれたことから奉行丸と呼ばれている。
奉行所は御奉行所・御勘定方・小物成・御郡代の四部門からなり、多くの藩士が公務を行っていた。


奉行丸の未申櫓(ひつじさるやぐら
熊本城復元整備計画の一環として、平成15年までに未申櫓・元太鼓櫓・塀を復元した。


西出丸から見た南大手櫓門


枡形から見た南大手櫓門
櫓内部では西南戦争関連遺跡の特別展が公開されていた。
奉行丸から入れるようになっている。


西出丸から宇土櫓を望む。


巨大な破風に飾られた三層五階櫓の宇土櫓。
大天守、小天守に次ぐ「第三の天守」とも呼ばれる。


右から宇土櫓、大天守、小天守の三天守そろい踏みだ。
直線的な破風が特徴的な宇土櫓、その櫓台石垣(高さ約30m)の反り立つ姿は壮観である。
宇土櫓が巨大な天守閣のように見える。


入城料一人500円を払って頬当御門(ほおあてごもん)を入る。


頬当御門虎口枡形の石垣の先に大天守が見える。


頬当御門虎口枡形を進む。


頬当御門虎口枡形から宇土櫓の隅櫓を臨む。


平左衛門丸に進むと目の前に大天守と小天守が現れた。
その雄姿には圧倒されそうだ。


首掛石
本丸の西側、平左衛門丸に首掛石といわれる凹凸の石がある。
数人がかりでも運べなかったこの石を、横手の五郎は首に掛けて運んだと云われる。
五郎が城造りを手伝ったのは、加藤清正と一騎打ちを行い、戦死した父親の仇を討つために城に入りこむことだった。
だが五郎は取り押さえられ、井戸に投げ込まれてしまう。
上から石を次々と落されたが、五郎はそれを受け止めては足元に置き、どんどん上がってくる。
そこで砂が落され、ついに生き埋めにされたという伝説が残されている。


井戸
加藤清正は朝鮮出兵のとき、蔚山城(うるさんじょう)での籠城戦の経験から、
城内に120余りの井戸を掘ったと云われている。
この井戸もその中の一つで水面までの深さが36mもある。覗きこんで見たが底は見えなかった。
この他にも城内には17の井戸が現存している。


大天守と小天守の前に宇土櫓に登ってみる。
三層五階で、現存する11の櫓のひとつだ。
第三の天守とも云われ、他の城では天守級の大きさである。
破風が直線を活かした造りで、一種幾何学的でさえある。


宇土櫓内部


宇土櫓の柱組み模型


宇土櫓の狭く急な階段を上る。


宇土櫓の天守に到着


宇土櫓からの眺望(1)
大天守と小天守を望む


宇土櫓からの眺望(2)
宇土櫓の隅櫓、頬当御門、南大手櫓門、西大手櫓門方面


大天守・小天守の眺望はどこから撮っても素晴らしい。
昭和35年(1960)に外観が復元された。
西面から石垣を見ると、大天守の石垣は勾配が緩く、小天守の石垣は急で技術的に新しい。
このことから、当初は大天守のみで、その後石垣を積み増して小天守を建てたと推測されている。


大天守・小天守へ向かうには、本丸御殿の下を通らなければならない。
これは本丸御殿地下通路への道だ。


本丸御殿地下通路への入口
地下通路の中は暗いのでその入口は闇り御門(くらがりごもん)と云われている。


地下通路の様子
本丸御殿は、2つの石垣を跨ぐように建てられているため、通路を地下に造る必要があった。
その地下通路の中は昼でも暗いので闇り通路(くらがりつうろ)と呼ばれる。
ここが御殿への正式な入口である。
石垣の上に梁が掛けられ、そこに柱が建てられている。


地下通路の先に不開門(あかずのもん)があった。
城の北東にある門。
北東は鬼門とされ、この方角は塞いでも、開放してもいけないとされ、扉が閉ざされていた。
ちょっと外へ出てみよう。


本丸御殿の地下通路からの不開門を出たところ。


不開門の先の様子
再び本丸御殿地下通路へ戻る。


本丸御殿の地下通路を抜けると、


本丸である。
目の前に大・小天守が威風堂々と聳え、迫ってくる感じだ。


天守へ登る前に本丸御殿へ入ってみよう。


本丸御殿大広間内部
この部屋は天井が高く、大きな梁が渡されていた。


本丸御殿内部
大広間の完成後に増築されたと考えられる大台所。
天井は高く、大きな梁で支えられている。
囲炉裏には発掘された当時の石の一部をそのまま使用している。


鶴の間


鶴の間から手前から梅の間・櫻の間・桐の間・若松の間を見通したところ。
一番奥に藩主の間である若松の間がある。
若松の間に藩主が、桐の間・櫻の間・梅の間に家来が控えることになる。


梅の間・櫻の間・桐の間・若松の間と長い廊下が続く。


外は本丸御殿小広間跡だ。


若松の間は、藩主の間である。


昭君の間
本丸御殿にある最も重要な部屋である。壁や天井は絢爛の絵が描かれている。
昭君の間は、実は「将軍の間」の隠語という説もある、そうだ。


熊本城を造った加藤清正は豊臣秀吉子飼いの武将である。
その遺児である秀頼に万が一のときは、清正にはこの熊本城に秀頼を迎え入れ、
西国武将を率いて徳川に背く覚悟があり、そのための部屋が「昭君の間」という、のだそうだ。


御殿内部には立派な茶室もある。


こちらは家老の間


本丸御殿を出て、いよいよ天守閣へ。
大天守と小天守は昭和三十五年(1960)に再建された、望楼型の巨大天守である。
小天守をともなって清正流石垣上に建つ。
明治十年(1877)の西南戦争では城内に籠った新政府軍を西郷軍が攻めたが落城せず、城の強固さは証明された。
しかし、西郷軍の攻撃の前に、城内で謎の出火があり、大小天守、本丸御殿など多くを焼失した。


登城口は小天守で大天守が出口になっている。


小天守の登城口


小天守からの眺望(1)
大天守を望む


小天守からの眺望(2)
宇土櫓方面


小天守からの眺望(3)
長局櫓方面


小天守からの眺望(4)
NHK方面


小天守から大天守へ向かう途中、
大天守・小天守の骨組み模型が展示してあった。


大天守に到着
大天守へ登るのにかなりきつそうだったが、意外と元気そうなかみさんたちだ。


大天守からの眺望(1)
宇土櫓・西出丸方面


大天守からの眺望(2)
長局櫓、県立美術館・NHK方面
本丸御殿は大銀杏に隠れて見えない。


大天守からの眺望(3)
小天守を望む。


大天守からの眺望(4)
本丸御殿


大天守からの眺望(5)
熊本市街地の南東方面
ビルの一面全体にクマもんが描かれている。


天守閣をバックに記念撮影


長局櫓で抹茶(300円)でも飲んで一服しよう。


『美味しいっ』


本丸御殿の闇り御門を出たところから大天守を見上げる。


二様の石垣へ向かう。
正面の石垣の上に見えるのは本丸御殿だ。


二様の石垣へ向かう途中の景色は絵になる。
石垣が素晴らしい。


二様の石垣
ここの石垣は、隅部の反り(勾配)や積み方が著しく異なっている姿が同時に観れることから、
「二様の石垣」と云われている。
向かって右手、隅部の勾配が緩やかな石垣が築城当初の加藤時代のものと考えられている。
この石垣は下部は勾配が緩やかなので、何となく登れるような気がするが、途中まで登って上を見上げると
石垣が覆いかぶさってくるような錯覚を覚えるという。これこそ清正流石垣である。
左手は細川時代になって増築されたもので、勾配が急になっている。


隅部の石の形や積み方にも違いが観られ、重ね積みから算木積みへと時代による石積み技術の
進歩が解る貴重な資料となっている。
また、不揃いの石を使っている加藤時代の積み方(乱れ積み)と、比較的同じ大きさに加工した石を使い、
整然と積み上げる細川時代の積み方(布積み)も平部において観ることができる。


二様の石垣で、かみさんたちは車に戻ると言い出した。
いつものことだが、ここでかみさんたちと分かれ、石垣コースに従って竹の丸へ向かった。


石垣コースの石垣(1)


石垣コースの石垣(2)
素晴らしい石垣の美が堪能できる。


石垣コースの石垣(3)
竹の丸から大天守を望む。
中央の一段高い石垣は、竹之丸五階櫓跡と思われる。


竹の丸に立っている楠木


竹の丸の井戸
加藤清正は籠城の際に備えて城内に120余の水量豊かな井戸を掘ったと云われている。
この井戸もその中の一つで深さ約7mある。
覆屋は、市制100周年を記念して明治四年頃に撮影された古い写真を参考にして再建したもの。


竹の丸を右手に進むと、櫨方門(はぜかたもん)がある。
いったん外に出て門を撮影し、再び竹の丸へ戻る。


櫨方門の左手を観ると、飯田丸五階櫓が聳えていた。
飯田丸の南西隅に建つ五階建ての櫓である。
この石垣の反りは急なので、細川時代のものと思われる。
飯田丸の名称は加藤清正の重臣、飯田覚兵衛が管理していたことから、こう呼ばれるようになった、とのこと。


石垣コースは、櫨方門で一応終わるため、竹の丸から櫓コースを進むことにした。
竹の丸には肥後名花園がある。
第六代肥後藩主細川重賢(しげかた)が家臣の精神教育の目的で園芸を奨励したため、
同好会「花連」が生まれ、六名花の母体を築いた。
名花は、肥後椿をはじめ、


事後菊、


肥後山茶花、


肥後花菖蒲、


肥後勺薬、それに肥後朝顔の六花を言う。
かつては武士の園芸だっただけに、現在までその厳格な栽培方法が伝えられ、
一部は今なお門外不出とされており、純粋種が保たれている、そうだ。


平御櫓(ひらおんやぐら
平御櫓は、長塀の防御線を一段高い位置から援護する役割や、須戸口門から侵入した敵を、
東竹の丸との連携で挟み打ちにするための櫓であった。
櫓に登る石段は、敵が須戸口門を突破したときに、この石段を崩して侵入を防ぎ、
敵中でも孤立した拠点として最後まで戦うために造られた櫓であったと、考えられている、とのこと。


須戸口門(すどぐちもん
竹の丸の東の虎口に位置し、本丸の南側に設けられた最前線の門である。


虎口の間の門構えが柵のように隙間を開けて造られたので、須戸口門と呼ばれた。
この虎口は戦闘用に設けられたもので、平常時に出入りするところではなかった。


櫓コースに従って進む。


高石垣の上に十四間櫓・四間櫓が見える。


源之進櫓
櫓の外壁には狭間、石落としが備えられている。


熊本大神宮


東十八間櫓


六地蔵憧(ろくじぞうどう
石の六角灯篭の傘の下の龕部(がんぶ)と云われる各面に地蔵尊像を彫刻したもの。
人間は死後、六道をまわるとされており、その六道の辻に立って救済するために作られた。


本丸御殿下の石垣を進むと、


東竹の丸に出た。
先ほど下から見上げた源之進櫓・四間櫓・十四間櫓が並んでいる。
源之進櫓は、普段は武器・武具の倉庫として使われていた。


源之進櫓・四間櫓・十四間櫓に続いて七間櫓・田子櫓が並んでいる。
この後、櫓コースは東竹の丸から二様の石垣、本丸御殿へと続く。


数寄屋丸に立ち寄ってみた。
不思議な模様の地図石があった。
打込接(うちこみはぎ)という方法で、箱型に99個の切石が組まれた場所がある。
組み合わせた境界が地図のように見えるため、「地図石」と呼ばれる。
その模様は熊本城の縄張を表すとも、日本地図に見えるとも、城下町の地図とも云われてきた。
実はこの空間は、古地図には「御待合」と記されている。
来客者を遊興の場である数寄屋丸へ案内するための待合所として利用されたようで、
人の目を楽しませるために石垣と敷石をきれいに組んだものとみられる。


数寄屋丸
数寄屋丸とは、秀吉築城大坂城の「山里丸」の流れをひくもので、
熊本城における文化的遊興の空間であったと思われる。
茶会・能・連歌の会などが催され、二階御広間もそのような用途に使われていたと考えられている。(熊本市)


二の丸駐車場に向かう途中、花嫁・花婿姿の若者を見掛けた。
記念の撮影をするためなのか、時折パラつく小雨の中を南大手櫓門方向へ消えていった。


駐車場に着いたときには、15時40分を過ぎていた。
熊本城には、3時間半以上いたことになるが、それでも熊本城の全てを観た訳ではない。
まだまだ観たいところはいっぱいあったが、時間的にも、そろそろ大分へ帰る時間である。
後ろ髪を引かれる思いで熊本城を後にした。
また、何かの機会に熊本を訪れることがあれば、真っ先に訪れてみたい。

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日本100名城巡り No.93 人吉城

2014年08月17日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2014年8月17日(日)

この日は、鹿児島城に続き、人吉城に登城することにしている。

人吉城は、中世城郭の特色を色濃く残す相良氏歴代(35代・670年)の居城で、
別名を三日月城・繊月城(せんげつじょう)と呼ばれる。

人吉城は、建久九年(1198)、人吉荘の地頭として下向した相良長頼の築城と伝えられる。
天正十七年(1589)、相良長毎(ながつね)が大改修を開始、慶長六年(1601)に
本丸、二の丸などの詰の城部分や御館(みたち)部分を竣工、寛永年間(1624~1644)に
石垣が完成した。


この日は午前中に鹿児島城に登城し、簡単な昼食後に車を走らせ、午後4時少し前に人吉城辺りに到着した。
人吉は初めてであり、事前の調査もほとんどしていなかったので、自分がどこにいるのかを確かめる必要がある。
人吉城前と思しき場所に案内図があったので、位置と城を確認。


案内図から推察すると、球磨川に架かる橋は水ノ手橋ということになる。


対岸は人吉市の中心市街地か。


水ノ手橋から人吉城を見てみる。
武者返の石垣と白くて長い土塀のコントラストがなかなか美しい。


橋の上から人吉城の水ノ手門方面を見たところ。
かつては、水ノ手門には船着場があり、球磨川に面する城門だったという。、


本丸への石垣は、武者返石垣と云われる。
城址へ踏み入ると最初に迎えてくれるのがこの武者返の石垣である。
石垣の上部に石材が突き出す「翅出」の技法が見られる。


石垣に沿って間米蔵(あいだこめぐら)跡がある。
間米蔵は、水ノ手門西側にあった間村(あいだむら)の年貢米を納めた蔵、と考えられている。
この蔵は、幕末の文久二年(1862)の寅助火事で焼失し、その後再建されたが、
明治初期の払い下げによって解体された。


振り返って武者返石垣を見る。


水ノ手門跡
慶長十二年(1607)から球磨川沿いの石垣工事が始まり、外曲輪が造られた。
水運を利用するため、川に面した石垣には7か所の船着場が造られ、
その中で最大のものが「水ノ手門」である。


この門は寛永十七年(1640)以前から幕末まで、人吉城の球磨川に面する城門であった。
川側にあった船着場は石張りの傾斜面となっていて、水位の増減に対応できるように工夫されていた。


堀合門の先に大村米御蔵跡・欠米蔵跡がある。
人吉藩では藩内12か所に米蔵を置き、このうちの間蔵と大村蔵は、
それぞれ城内の水ノ手口と堀合門東方に1棟づつあった。


大村米御蔵跡・欠米蔵跡の先、左手に小さな公園があった。


剣術の稽古の最中だった。


犬童球渓(いんどうきゅうけい)の歌碑
人吉が生んだ偉大な音楽家で、作詞・作曲は360余点にのぼる。
なかでも「故郷の廃家」「旅愁」は広く知られている。


御下門(おしたもん)跡
御下門は「下の御門」とも呼ばれ、人吉城の中心である本丸・二の丸・三の丸への
唯一の登城口に置かれた門である。


大手門と同様の櫓門形式で、両側の石垣上に梁間2間半(5m)桁行10間(20m)の櫓を渡し、
その中央下方の3間分を門としていた。
門を入った奥には出入り監視のための門番所があった。


振り返って御下門虎口を見たところ


石段を上る。
木々が生い茂っているので、特にこの箇所は昼でも暗い。


さらに石段を上ると・・・


三の丸跡だ。
二の丸の北・西部に広がる曲輪である。


周囲には石垣は造られず、自然の崖を城壁としており、「竹茂かり垣」と呼ばれる
竹を使った垣で防禦していた。


三の丸から二の丸を目指す。
かみさんたちは、何の建物もない景色はあまり興味がないためか、どんどん先へ行ってしまう。


二の丸への石段
次第に古城らしい雰囲気が漂ってきた。


かつてこの辺りに三の丸から二の丸に入る正門中御門があったところだ。
小規模ながら枡形となっている。


枡形の先を右へ曲ると二の丸への最後の石段がある。


二の丸に到着
江戸時代初期、「御本丸」と呼ばれて、城主の住む御殿が建てられ、人吉城の中心となった場所。
周囲の石垣には瓦を張りつけた土塀が立ち、北東部の枡形には櫓門形式の中御門があり、
見張りのための番所が置かれていた。


二の丸御殿は、6棟の建物で構成され、すべて板葺の建物で、相互に廊下や小部屋でつながり、
建物の間には中庭があった。
御殿の「御金ノ間」は、襖などに金箔が貼られていた書院造りの建物で、城主が生活・接客する
御殿の中心となる建物だった。


二の丸から三の丸広場を見る。
西方に於津賀社と2棟の「塩蔵」、井戸と長屋を配置するだけで、広大な広場が確保されている。


二の丸からの眺望
人吉市街地が一望できる。
水ノ手橋の一つ下流に架かる大橋の先にホテルなどが見える。


二の丸から三の丸への石段
中御門を通らなくても二の丸・三の丸間の行き来ができるようになっている。


石段を下りると三の丸である。


再び二の丸への石段を上って本丸へ向かう。
本丸への石段は、三の丸から二の丸への石段に比べるとかなり狭い。


本丸跡に到着した。
ポツンと東屋が建っているだけだ。


本丸跡
本丸は、はじめ「高御城(たかおしろ)」と呼ばれていた。
地形的には天守台に相当するが、天守閣は建てられず、寛永十三年(1626)には護摩堂が建てられ、
その他に御先祖堂や時を知らせる太鼓堂・山伏番所があった。


礎石群は、板葺きで4間四方の二階建ての護摩堂跡である。
中世には「繊月石」を祀る場所であったように、主として宗教的空間として利用されていることに特色がある。


本丸を後にして御下門口へ。


次は御館(みたち)への入口である堀合門へ向かう。


堀合門
堀合門は、城主が住む御館の北側にあった裏門で、文久二年(1862)の「寅助火事」でも焼失を逃れた。


明治四年(1871)の廃藩置県後は、城外の新宮家に移築され、人吉城唯一の現存する建造物として、
市の有形文化財に指定されている。
形式的には棟門と呼ばれるもので、化粧垂木に強い反りを持たせた屋根の優美な曲線が特徴的、とのこと。
平成19年に復元された。


堀合門を入ると、御館の広い敷地が広がる。
建物は残っていない。


文久二年(1862)の火災を契機に、御館の防火のために行われた工事で、武者返しを付けた西洋式石垣を導入、
外塀も土塀に変わった。


土塀上から見た御館の広場


かつての藩主の御殿があったとされる御館の奥へ向かって進むと、神社があった。
相良神社(拝殿)である。本殿が左にちらっと見える。
創建は明治十三年(1880)で、人吉・球磨地域の国事殉難の英霊4,748柱を合祀している、とのこと。


相良神社の鳥居
長い参道の先に拝殿が見える。


力石
第21代相良頼寛公の家老相良清兵衛は、主君の2万2千石に対して8千石をも領していた権力者で、
専横の振舞いが多く、相良家ではこの権力と実力を制しきれず、幕府に対して九ヶ条の罪状をあげて訴え出た。
江戸幕府では早速清兵衛を呼び出した。清兵衛出立後、その留守居をしていた清兵衛の義理の子田代半兵衛は、
この主君の仕打ちに不平を抱き反抗したので、藩では彼の屋敷を焼き打ちにし、一族は討死した。
これを御下の乱という。
その時城内に火の手があがったのを見て、城下の士卒は驚いて駆け付けたが、大手の門は固く閉ざされて、
開かなかったため、大童三之丞という人が付近にあったこの大石で門を打ち破って入り、
主君の安否を気遣ったという。この石を力石という。


居石
説明板(由来や何時頃からあるのかなど)が欲しい。


御館跡(みたちあと)庭園
御館は、天和三年(1683)に城主相良氏の居宅が置かれて藩政の中枢となった場所である。
公的な接客・饗応を行った表御門の南端には玄関が付いた大広間や使者の間がおかれていて、
この庭園を眺望できるようになっていた。池泉廻遊式庭園である。(中略)
優雅にして力強く、小空間にして宏大であり、眺めにも勝る相良氏の想い。
歴史ある大名ならではの名園と言える(作庭家 野村勘治氏監修より)


御館御門橋
御館(相良神社)への入口である。
多脚式の石橋で、明和三年(1766)に山田村の石材を切り出し、領内各村に割当して運搬させ建設された。


堀は蓮で覆われていた。
この堀は人吉城内で唯一の堀である。


馬責馬場(うませめばば)に沿って長い石垣(麓居館石垣)が続く。
右側は御館(相良神社)である。


長い石垣塀の途中に御館への入口があった。
ここを上ると御館(相良神社)へ行くことができる。


人吉城歴史館
歴史館館内には人吉城復元模型や歴史資料を展示とあるが、
平成17年からは全国でも例のない、地下室遺構が公開されているというので立寄ってみることに。
(有料200円)


地下室遺構の説明
相良清兵衛屋敷の地下室には、6m四方の大きさで、深さは3m、出入り用の階段が二か所にあって、
床の一角には途中まで石段がついた水深2.3mの方形の大型井戸がある。
床面北側の小石敷の下にはスギ板を敷き、井戸底からは刀が出土している。(中略)
全国的には類例のない謎の多い遺構である。


百聞は一見にしかず。
ここは実物(復元)を見るしかない。
歴史館の係の方の案内で地下室遺構への狭い入口から、階段を下りると・・・


そこには相良清兵衛屋敷の地下室遺構があった。
全国的にも他に類例が無く、実際の用途は不明、だそうだ。
貯蔵場・井戸・風呂場・キリシタン関連の施設などとする様々な用途や説が唱えられているが、
現段階ではいずれも断定することはできない、とのこと。


構造上では持佛堂での護摩祈祷に関連する「行水」「沐浴」といった、何らかの宗教的行為を行う
場所であった可能性も考えられる、とのこと。


人吉城歴史館を出て、平成五年に復元されたという角櫓・長塀・多聞櫓へ向かった。
途中に「御下の乱」供養碑が建てられていた。
寛永十六年(1639)、21代人吉城主相良頼寛(よりひろ)は父長毎(ながつね)の遺言によって、
専横の振舞いのある相良(犬童)清兵衛頼兄(よりもり)を幕府に訴えた。
翌年、清兵衛頼兄は津軽藩お預けの処分となったが、これを不服とする人吉城内の犬童半兵衛
ほかの一族によって「御下の乱」が起こり、半兵衛方の121人が死亡した。
死体は筏に積まれ、矢黒の亀ヶ渕の川原に埋葬され、この供養碑が建てられた。
河川改修のため、昭和48年に清兵衛の屋敷地であった現在地に移転している。


復元された角櫓
この角櫓は胸川が球磨川に合流する人吉城北西隅の要所に建てられた櫓である。
元は藩の重臣の相良清兵衛頼兄屋敷地であったが、寛永十七年(1640)の「御下の乱」で屋敷が焼け、
その直後に櫓が建てられている。


幕末になると角櫓は漆蔵として使用され、文久二年(1862)の「寅助火事」でも焼失せず、
明治初期の廃藩置県後に他の建物とともに払い下げられて撤去された。
内部は廊下があり、3部屋に分かれているそうだが、中には入れなかった。
平成五年に多聞櫓・長塀とともに復元された。


復元された長塀
球磨川と胸川に面した石垣上には、要所に櫓が築かれ、櫓や門の間には塀が立てられた。
宝永四年(1707)の大地震で塀の一部が損壊すると、塀の控石柱を引き抜いて土台とした
厚さ3尺(90Cm)の土塀に修復している。


長塀は、瓦葺き漆喰塗りとし、外側の下部には腰瓦が張られた。


また、塀の一部には石落としのための突き出しがある。
投石は古来から武器として利用されており、城郭建築においても櫓や塀に設置された。
平成五年に多聞櫓・角櫓・長塀とともに復元された。


石累上に建つ細長い櫓は、一般的に多聞(多門)櫓と呼ばれる。
人吉城の多聞櫓は、城の正面口である大手門の脇を固めるために建てられた長屋風の櫓である。
大手門櫓・角櫓と同様、江戸時代前期の1640年代に建てられ、宝永四年(1707)の大地震で
傾いたので修理されている。


幕末になると、「代物蔵」として使用され、寅助火事でも焼失せず、廃藩置県後の払い下げで撤去された。
平成五年に角櫓・長塀とともに復元された。


大手門橋の上から見た多聞櫓


球磨川の支流胸川に沿って手前から多聞櫓と長塀が並ぶ。


大手門櫓跡
胸川御門と呼ばれた大手門は、城の正面入口となる重要な場所だったので、
石垣の上に櫓(矢倉)を渡して下に門を設けた。


さらに門前の通路は鍵形にして枡形に作り、また、門の北側には多門櫓を建てた。
門内には番所を置いて監視させている。
大手門櫓は正保年中(1644~1648)に建てられ、享保五年(1720)に造り替えられ、
明治初期の払い下げで撤去された。


大手門橋
大手門の外濠となる胸川の対岸に大手門橋を架けて防禦していた。
手前が大手門櫓跡


渋谷家屋敷跡
案内板には次のように紹介されている。
城の正面入り口である大手門周辺は、城の防備にとって重要な場所であるので、監視のための番所を置き、
重臣の屋敷を配置して戦時に備えた。
この場所は寛永十六年(1639)の絵図では、西然太郎屋敷と下台所屋敷であったが、翌年の御下の乱で焼失した。
その後、天保期(1830~1844)の絵図では、家老の渋谷三郎左衛門(しぶやさぶろうざえもん)の屋敷となっている。
手前の穴は台所隅にある食糧貯蔵用の穴倉だ。


下台所跡・犬童市衛門(いんどういちえもん)屋敷跡
江戸時代初期の絵図によると、球磨川と後口馬場に挟まれた区域は相良清兵衛屋敷や息子の相良内蔵助屋敷で、
馬場の南側には上級武士の屋敷が広がっていた。
江戸時代初期には下台所や犬童市衛門屋敷だったが、江戸時代後期には渋谷三郎左衛門屋敷があった、とのこと。
後に見えるのは人吉市役所。


方形井戸
前出の建物の西側にある方形の井戸は、江戸時代初期のもので、内法で東西90Cm・南北1.1mで、自然石で野面積み。
方形の井戸はこれまでの人吉城跡の発掘調査では前例がなく、珍しい遺構、とのこと。


後口馬場(うしろぐちばば)の井戸跡
平成12年度の発掘調査で発見された直径1.7mの円礫(えんれき)積みの円形井戸。
後口馬場と呼ばれた道路上に江戸時代はじめに造られ、寛永十七年(1640)の「御下の乱」直後に埋められている。
他の武家屋敷などの井戸は直径1m程度であることから、大型の井戸である。
実力者相良清兵衛屋敷の門前付近の道路上にあり、清兵衛との係りが強い公衆用の井戸と推定される、そうだ。
ちなみに後口馬場は、現在の人吉城歴史館近くに当る。


この後、この日の宿泊先である「ホテル華の荘」へ向かった。
人吉城址から車で5分ほどのところである。


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日本100名城巡り No.97 鹿児島城

2014年08月17日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2014年8月17日(日)


この日訪れる鹿児島城は、島津家久が標高107mの城山東麓に築いた平城である。
島津氏七十七万石の居城で、別名を鶴丸城と呼ばれる。

慶長六年(1601)に築城工事を開始、その約10年後に完成した。
城山を背後におき、中世以来の館造りを踏襲した城構えであった。
本丸と二の丸が連郭式に並ぶだけのシンプルな縄張で、御楼門以外に天守も櫓もなかった。
これは戦国期に領内に設置された多くの外城(支城)が外敵の侵入を防ぐことで、
本城を要害化する必要がなかったためとされる。
城は元禄九年(1696)に焼失、宝永四年(1707)に再建されたが、明治六年(1873)再び焼失してしまった。


この日は午前中に鹿児島城、午後には人吉城への登城を計画している。
「かんぽの宿日南」を8時を少し回った頃に出発し、鹿児島城を目指した。
11時20分、中央公園地下駐車場に到着した。

先ずは、駐車場から一番近い、明治維新の推進者のひとりである小松刀帯像へ。
駐車場を出ると、目の前に宝山ホールが目に入った。


小松刀帯像は、宝山ホールの前に建てられていた。
小松刀帯は天保六年(1835)喜入領主肝付家の三男として生まれ、20歳で吉利(日吉町)の領主小松家の養子となり、
小松刀帯と名を改めた。
子供の頃から学問や武芸に優れ、27歳で家老となり、西郷隆盛や大久保利通などを重要な役目につけた。
寺田屋事件・生麦事件・薩英戦争を乗り切り、薩長同盟を結ぶなど明治維新に向けて活躍した。
維新後も外交官など要職に就いたが、34歳で亡くなった。


銘文には次のように紹介されている。
この像は、京都二条城会議で真っ先に筆をとって署名し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、
王政復古を実現させた小松刀帯の功績を讃える像である。
時に小松三十三歳、慶応六年(1867)十月十三日であった。


次に向かったのは、薩摩の英雄西郷隆盛像である。
宝山ホールに隣接する中央公民館前を進むと、


正面の国道10号線(歴史と文化の道)の向こうに西郷隆盛像が見えた。
西郷隆盛像全体が見渡せるため、中央公民館前が撮影ポイントとなっている。
後ろの小高い山が城山公園である。


国道10号線(歴史と文化の道)の歩道橋から見た鹿児島城二の丸、本丸方面


横断陸橋を渡って西郷隆盛像とご対面。


鹿児島城二の丸、本丸方面へ。


市立美術館
旧二の丸跡に建てられている。
城山の山麓に位置するこの地は、歴史的に政治・文化の中心地として発展してきた場所である。
地元関係作家を中心とし、19世紀末葉以降の西洋美術の作品を主として収集・保存・展示している、とのこと。


市立美術館を過ぎると、石垣が少しだけ高くなった。
この辺りも旧二の丸跡だ。


鹿児島県立図書館前を通過
かつてはここは二の丸への入口だったところだ。


二の丸跡を過ぎると歩道の左側に植え込みがあり、道幅が広くなった。
間もなく本丸跡への入口である。


本丸跡の濠は一面蓮で覆われていた。
現存する一段と高い石垣や水濠が往時の姿を今に伝えている。


ポツンとピンク色の蓮の花が咲いていた。


本丸跡へ通じる石橋が架かっている。


鶴丸(鹿児島)城碑
鶴丸城は別名だと思っていたが、地元ではどうやら鹿児島城が別名のようだ。


この石橋の先に御楼門(本丸大手に建っていた櫓門)があったが、明治七年(1874)に焼失してしまった、とのこと。
御楼門の跡は石垣の立派な枡形が残されている。


石橋中央から濠と石垣を見る。


本丸枡形


本丸枡形を右に折れ、


さらに左に折れると本丸跡に辿り着く。


現在では鹿児島県歴史資料センター「黎明館」となっている。


黎明館は、明治百年(昭和43年)を記念して、昭和五十八年(1983)に開館。
人文系の総合博物館で、鹿児島の歴史・考古・民族・美術・工芸を紹介している。
鹿児島城復元模型や歴史資料も展示されている、とのこと。


黎明館の敷地は、江戸時代の鹿児島(鶴丸)城の本丸跡で、今でも濠・石垣・石橋など
由緒あるものが残っており、これらは県指定の史跡になっている。(黎明館案内書より)


本丸跡の一角に天璋院(篤姫)銅像が建てられている。
篤姫は、薩摩藩の名君島津斉彬の娘(養女)となった。
21歳のときに、将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立のために、第13代将軍・徳川家定の正室となるため、大奥に送り込まれる。
しかし、家定が慶喜を極度に嫌っていたことなどにより、慶喜擁立は成功せず、結果的にはこの政略結婚は失敗に終わる。
その後、家定は結婚後わずか2年で死去。篤姫は23歳で寡婦となってしまう。
彼女は「徳川の女」として生きることを選び、戊辰戦争では西郷隆盛に徳川の家名存続を求める書状を送るなど、
幕末という激動の時代に存在感をみせた。(Wikipediaより)


黎明館へ入ってみる。
お腹も空いたし、外は何しろ暑い。
黎明館内部は冷房が効いていて涼しかった。
涼を求めてなのかどうかは分からないが、外からは想像できないほどの人がいたのにはびっくり。


ホールには、NHK大河ドラマで篤姫が乗った女乗り物(駕籠)が展示されていた。


金襴振袖打掛数点も展示されていた。


歴史資料センター
ここで100名城のスタンプ押下完了。
内部見学は有料(310円)となっているが、せっかくなので、中を覗いてみることにした。
なお内部は撮影禁止となっている。

歴史資料センター1Fを駆け足で回り、城山公園へ行こうと思ったが、かみさんたちはここで休憩して待つと言う。
仕方なく、一人で城山公園へ行くことにした。

本丸跡から城山に至る途中に薩摩義士碑があった。
愛知・岐阜・三重の3県にまたがる濃尾平野を流れる、木曽川・長良川・揖斐川は、
合流地点で度々大水害を引き起こしていた。
宝暦三年(1753)、幕府は薩摩藩にこの治水工事を命じ、藩は家老の平田靭負を総奉行に任じ、約1,000名を派遣した。
平田は大阪の商人から22万両を借り、工事に取り掛かったが、梅雨の増水でせっかく築いた堤が切れ、工事は困難を極めた。


さらに監督する幕府役人の横暴や疫病の発生により、自刃・病死する者が続出。
完成までの1年3カ月の間に犠牲者は84名を数え、工費も40万両に達していた。
平田総奉行はその責めを一身に負い自刃。藩主重年も後を追う様に病没した。
藩政時代は幕府への遠慮から、彼らの偉業は公表されず、
大正九年(1920)ようやく慰霊碑が建ち、義士として讃えられた。


碑の横に城山自然遊歩道があり、城山公園への上り口となっている。


城山自然遊歩道は石段だったり、


緩やかな坂道だったりする。


城山展望台への途中、木々の間から黎明館と市街地が垣間見えた。


さらに城山自然遊歩道を上る。


上り始めて約30分ほどで、城山展望台に到着した。
20人ほどの人が眺望を楽しんでいた。


展望台の側には茶店もあった。
冷たい飲み物でも買って、喉を潤しながら眺望を楽しむことにしよう。


展望台からの鹿児島市街地の眺望は”素晴らしい”の一言。
かみさんたちにも見せてあげたい。


桜島
朝方は雲に覆われていたが、きれいに晴れ上がってくれた。
”ありがとうっ”


市街地の眺望
鹿児島市街地は思っていたよりも大きな町だということが分かった。


城山を下りてかみさんたちと黎明館で合流し、黎明館内部のレストランへ。
天文館辺りで食事をしたかったが、次の人吉城のことを考えるとここで済ませるのが一番と判断。


鶏飯(けいはん)を注文
ご飯に鶏肉・卵焼き・しいたけ・奈良漬・ねぎ・海苔などを混ぜ、だし汁を掛ける茶漬けである。


『さっぱりしていて美味しいわねぇ』


食事の後は、駐車場へ戻る際に二の丸跡を通ることにした。


二の丸御角櫓(おすみやぐら)跡
御角櫓は、本丸の南東角に位置し、城の防禦とともに美観や威厳を保つ施設。
明治初期の資料では、「御角屋蔵」と表現され、物品収蔵施設としての用途もあったものと推測されている。
元禄九年(1696)に焼失し、幕府の許可を得て再建されたが、明治六年(1873)の大火で再び焼失した。


二の丸跡に建てられた県立図書館
かつて、本丸に政庁と藩主の居館・表書院などが置かれ、
二の丸には世継や側室などの居館や庭園が設けられた。


14時30分に駐車場へ戻り、次の目的地人吉城へ向けて車を走らせた。


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