ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

小町の心に触れられたかな? しずく石~三ツ石~東城寺

2023年05月26日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2023年5月26日(金)

隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和5年度(2023年度)第4回、令和5年(2023年)第10回、「小町の館~しずく石・三ツ石~東城寺
ハイキングに参加した。

この日の例会は、当初は5月19日(金)に実施することになっていたが、その日は昼頃から
雨の予報だったこともあり、無理はせずに1週間延期しようということになった次第。

この日、第一集合場所の乙戸沼公園に集まったのは、何とたったの5名!!
これまでで最も少ない人数に愕然といったところ。
気を取り直して車2台に乗り合わせ、


小町の里の第2駐車場へ行ってみると・・・既にそこそこの人数が集まっていた。
結局この日の参加者は20名、まあまあの参加者と言ったところだろうか。
大げさかもしれないが、胸を撫で下ろした。


いったん第2駐車場から小町の館前へ移動。
第2駐車場もほぼ満車に近い状態だった。


第1駐車場もご覧のように満車状態だ。
平日のこの時間(9時40分頃)、第1駐車場でも数台の空きスペースが見られるのだが・・・


TK会長の挨拶の後、


9時54分、いつものように元気なTK会長を先頭に、小町山しずく石を目指して、出発!


後に続く皆さん
当会最高齢のKKさん(89)の元気な顔が見える。


いつも会話が絶えない二人である。


朝日峠&小町山ハイキングコースを進み、


突き当りを左に曲がり、小町山ハイキングコースへ。


小町山登山口を上り・・・


ホッとした表情で後続を待つTK会長。


この間、この日の無事を願って「山の神」に手を合わせる人と、


寸暇を見て一休みする人が。


全員揃ったのを確認して、本格的なハイキング開始だ!!


いつもは左側の沢コースを進むのだが、この日は尾根コースの方へ。


『私はどっちも初めてなのよっ』


尾根コースは別名「長生きコース」と名付けられており、”18歳と81歳の違い”の表示があるのが
特徴である。
恋に溺れるのが 18歳   風呂で溺れるのが 81歳
10時10分、一合目を通過。


沢コースとは一味違う坂径が続く。


『二合目はどんな違いなんだろうねっ?』
早くも”18歳と81歳の違い”に興味を示す人も。src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/91/c968cf34a550a2823ed50287aec4bd15.jpg" border="0">

10時15分、二合目を通過。
道路を爆走するのが 18歳   逆走するのが 81歳
『なるほどねっ』

 
大木の中を進んで行くと・・・


10時18分、三合目を通過。
心がもろいのが 18歳   骨がもろいのが 81歳
『そうなんだよねっ』 皆さん納得の様子


大木に続いて杉木立の間を進んで行くと・・・


10時21分、四合目を通過。
ドキドキが止まらないのが 18歳   動悸が止まらないのが 81歳
『今じゃぁ しょっちゅう動悸でドキドキだよっ』


平坦になった径を進んで行くと・・・


1本の桜の木があった。
コース地図で示されている”一本桜”だ。


10時25分、”一本桜”の五合目に到着。
恋で胸詰まらせる 18歳   餅を喉に詰まらせる 81歳


五合目で一休みしよう。


『けっこう汗かいてきちゃったわっ』


後続の人も到着した。


軽いお茶タイム。
『ごちそうさま~っ』
『喉に詰まらせないでねっ』 『それはそれは御親切に』と言ったかどうか・・・


沢コースとの合流点を目指す。


谷あいの細い径を進む。


10時42分、六合目を通過
偏差値が気になる 18歳   血圧、血糖値が気になる 81歳
『身に覚えがあるよっ』


沢に架かる丸太の橋を渡り、


10時46分、七合目を通過
まだ何も知らない 18歳   もう何も覚えていない 81歳


急坂を上り、沢コースとの合流点を目指す。


10時49分、八合目を通過
自分探しをしている 18歳   皆が自分を探している 81歳
『こうはなりたくないよねっ』


眼下に沢コースとの合流点が見えた。


10時51分、沢コースとの合流点に到着し、ベンチで一休み


『いやぁ 最後はちょっと疲れたよねっ』


一息入れた後、しずく石へ。


沢コースを下って行くと・・・


11時2分、しずく石に到着。


ここから「うたのみち」を経て三ツ石へ向かうことになる。


小野小町のうたが続く。
「おもひつつぬれはやひとのみえつらむ ゆめとしりせはさめさらましを」
「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」
あの人のことを思いながら寝たから夢で逢えたのだろか?
夢とわかっていればそのまま目覚めなかったのに…


「うたたねにこいしきひとをみてしより ゆめてふものはたのみそめてき」
「うたたねに恋しき人を見てしより 夢てふ物はたのみそめてき」
うたたねに愛しい人を見ていらい、夢というものを当てにするようになってしまった…


「いとせめてこいしきときはむはたまの よるのころもをかえしてそきる」
「いとせめて恋しき時はむばたまの 夜の衣を返してぞきる」
昔は衣(服)を裏返して寝ると、夢で愛しい人に逢えると言われていました。


小野小町のうたを読みながら、三ツ石を目指す。


「うつつにはさもこそあらめゆめにさへ ひとめをよくとみるかわひしさ」
「現にはさもこそあらめ夢にさへ 人めをよくと見るかわびしさ」
そりゃ現実で冷たくされるのはしょうがないわよ、でも夢の中でさえ避けなんて… 


「ゆめちにはあしもやすめすかよへとも うつつにひとめみしことはあらす」
「夢路には足も休めず通へども うつつにひとめ見しことはあらず」
夢の中では毎日通ってくれるけど、現実は全く来ないってどういうこと?


「あきのよもなのみなりけりあふといへは ことそともなくあけぬるものを」
「秋の夜も名のみなりけり逢ふといへば 事そともなく明ぬるものを」
秋の夜長、何て言うけど名前だけね。
愛しいあなたと一緒にいればあっという間に朝になってしまうわ… 


「はなのいろはうつりにけりないたつらに わかみよにふるなかめせしまに」
「花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」
老いという抗えない運命に身をやつす女…


「うたのみち」の案内板
三ツ石まで続いているようだ。


「おろかなるなみたそそてにたまはなす われはせきあへすたきつせなれは」
「おろかなる涙ぞ袖に玉はなす 我はせきあへずたぎつ瀬なれは」
泣くと言ったってあなたの涙は「玉」程度かもしれないけど、私は「滝」よ!


「いまはとてわかみしくれにふりぬれは ことのはさへにうつろひにけり」
「今はとてわか身時雨にふりぬれば 事のはさへにうつろひにけり」
もうお別れだ、といって私が年をとったら、あなたの言葉も色あせてしまったわ。


前方に三ツ石の一つが見えて来た。


「いろみえてうつろふものはよなかの ひとのこころのはなにそありける」
「色見えでうつろふ物は世中の 人の心の花にぞ有りける」
色が見えないで変わってしまうものは、人の心の花だったのね。


11時12分、「うたのみち」終点に到着した。
小野小町のうた十首を並んでいた順に紹介したが、他にもうたはあった。
興味のある方はこの径を一度歩いてみては・・・


三ツ石最大の石


大石の前で一休みしよう。
『うたを読みながら歩いていたら、いつの間にか着いちゃったって感じだねっ』


軽いお茶タイムを過ごして・・・


11時20分、次の目的地の東城寺を目指して出発!


”子宝”を通り過ぎて、山を下る。


細い山径を下る。
『径が細いから気を付けてねっ』


しばらく下ると幾分なだらかになった。


11時29分、左小町・天の川コースと右東城寺・宝篋山の分岐点に到着した。
ここを右に曲がって、


東城寺を目指す。


東城寺へ


東城寺へ


東城寺まであともう少しだ。


「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」の文字が
お薬師様の真言(仏の働きを表す呪文)は「オン コロコロ センダリマトウギソワカ」です。
おおよそ「帰依し奉る、病魔を除きたまえ払いたまえ、センダリやマトーギの福の神を
動かしたまえ、薬師仏よ」となる、そうである。


11時46分、東城寺本堂裏に到着した。
分岐点から17分経過したことになる。


東城寺本堂
山号は朝望山、院号は東光院で真言宗の寺院。
創建は延暦十五年(796年)と旧い。
ご本尊は薬師如来である。


薬師堂にお参りするNKさん。
「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」・・・


少し遅れて後続Gが到着した。
元気いっぱいである。


最後尾で一緒に歩いていたKKさんの下山を見届けたと言うIW子さんだが少し遅れて到着した。
『それにしてもIW子さんって足早いのねっ』
『当会随一の健脚だねっ』


KKさんを除く全員が揃ったところで、東城寺を後にすることに・・・
急で段差の異なる石段を下る。
危険な石段を避けて車道を下る人も何人か。


『気を付けて~っ』
細心の注意を払い、超スローペースで石段を下る。


石段を下り切ったところで車道を降りて来るメンバーと合流した。
『それでもやっぱり石段の方が早かったんだっ』


山門が見えて来た。


山門の仁王像(阿像)
とても力強い感じがする。


東城寺の山門を後にして、


ゴールの小町の里を目指す。


前方に見える一段高い所が朝日峠展望公園辺りだろうか。


小町の館を目指す。


『ゴールはもう直ぐだねっ』


小町の里の第1駐車場が見えて来た。


12時34分、ゴールの小町の館に到着した。


次回のバスハイクの説明などをして、この日はここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


皆さん、それぞれお気に入りの蕎麦店などを目指したようだ。
自身は車の同乗者2名と「小町庵」に向かった。


「小町庵」はほぼ満席だったが、5分ほどで席に案内された。


3人全員が天もり蕎麦(1,100円)を注文した。
蕎麦は冷たく冷やされていて、とても美味しかった。


1週間延期していた、小町の館~しずく石・三ツ石・東城寺ハイキングが無事終了した。
地元に近いということだったが、参加者は20名とややもの足りなさを感じた。
山歩きということが敬遠されたのかも知れない。
歳を取っての山歩きは足腰の衰えを防ぐには効果があるのは確実ということなので、これからも
続けたいと思っている。
また、例会だけでなく個人的にでも機会を見つけて近くの山歩きをしようと思っている。
この日は小野小町の「うたのみち」を歩き、彼女の心のほんの一部に触れたような気がした。

この日の万歩計は、10,000歩を計測していた。

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旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(4日目)

2023年05月16日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年5月16日(火)

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(4日目)

この日は今回(旧東海道第Ⅲステージ第7回)の最終日ということで、昨日の続きとして
三雲駅をスタートして、石部宿、ゴールの草津宿を目指すことになる。
昨日三雲駅までしか進めなかったためその分距離は長くなることから、少々早めに
ホテルを出て三雲駅まで送ってもらった。
この日の天気は晴れ、最高気温は27℃という予報である。
熱中症で途中でストップなんてことにならないよう水分補給は怠らないようにしたい。
かみさん達は近江八幡や多賀大社などを観光するという。

7時44分、かみさん達と分かれて三雲駅を出発!


しばらく旧東海道を歩く。


昨日までの3日間見て来た同じような街道の景色が続く。


JR草津線の踏切があった。


踏切を越えた所に旧東海道の道標と観光地図があった。


きずな街道(旧東海道)の歴史探訪・史跡めぐりマップで現在地と周辺の史跡などを確認する。


JR草津線を電車が走っているのが見えた。


しばらく進むと”きずな街道休憩所”があった。


歴史探訪・史跡めぐりマップを確認すると、大沙川隧道・弘法杉は直ぐ先である。


対向車が来ないことを確認して大沙川(おおすなかわ)隧道を通り抜ける。


大沙川隧道の説明板
大沙川は、旧東海道の上を流れる天井川です。
奈良時代に奈良の仏教寺院や石山寺の造営時、この辺りの木々が切り倒されて禿山となり、
大雨の毎に土砂が流れ、川底が上がり天井川になったと伝えられています。
当時三雲地区には天井川が多く、大沙川・由良谷川・家棟川も旧東海道と交差していた。
人々は天井川に出会えば土手を登り、小橋か浅瀬を渡って川越するという
「人馬通行ノ難所タルハ衆人ノ熟知スルところ」であった。
明治になると東海道を整備することになり、その一環として天井川に隧道を掘って人馬の
通行の便宜を図ることになり、明治17年3月に県下最初の道路トンネルとして築造された。
全長16.4m、高さ4.6m、幅4.4m、半円アーチ形天井、壁は花崗岩の切石積みという立派で
頑丈な構造で造られており、地元では「吉永のマンボ」と呼ばれ親しまれている。
また、このトンネルの上には弘法大師の伝説で伝えられている樹齢750年の「弘法杉」が
聳えている。
平成29年(2017)3月  三雲学区まちづくり協議会


隧道を通り抜け、隧道の上に上って振り返ってみると・・・そこには杉の大木が!


旧東海道を横切る大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹齢約750年の杉がある。
この大杉を古来より弘法杉、または二本杉と人々はよんでいる。
伝説によれば、もとは2本あって並立していたが、洪水のために堤防が崩壊して一樹は倒れた
といわれている。
昔からこの地方の子どもが左手で箸をもって食事をするものは、この木の枝で箸を作って
使用させると自然と右手で食事をするようになるといわれている。
そのために、下の方の枝はたいてい切り取られていたと伝えられている。
一説によれば弘法大師(空海)がこの地方を通過した時、二本の木を植えたとも、
また弘法大師が食事をしたあと杉箸を差しておいたのが芽をだしたとの説がある。
その後、大風のために折れて朽ちたので里人が再び植えたが、安永2年(1773年)の台風で
そのうち1本が倒れたともいわれている。
平成6年3月 甲西町教育委員会


大杉の裾に弘法大師を祀った大杉弘法堂があった。


旧東海道を進む。


浄土宗了安寺入口前を過ぎ、


続いて三雲小学校を過ぎると・・・


夏見一里塚跡を示す説明板があった。
この夏見の一里塚は江戸日本橋から115里の地点にあり、東の先は水口(泉)に、西の先は
石部にそれぞれ一里塚があります。
しかし、多くあった一里塚も明治以降は保護されず、道路の拡張や開発によってなくなり、
そのまま残っているのはごく僅かで、この一里塚のように跡地を示すだけになっています。
この写真は数少ない愛知県名古屋市にある笠寺一里塚で、このような塚がここにもあったと
想像されます。
平成27年1月(2015) 三雲学区まちづくり協議会


夏見一里塚跡を過ぎて少し進むとまた隧道があった。由良谷川(ゆらたにがわ)隧道だ。
大沙川隧道の2年後の明治19年竣工、花崗岩で出来た切石を追石に使用してどっしりとした
重厚な造り。
由良谷川は野洲川に合流する河川で東海道の上を流れる天井川である。
毎年辺りは紅を差した様な明るくなる見事な桜並木である。
きずな街道の歴史探訪・史跡めぐりマップより


由良谷川隧道を通り過ぎて振り返って見たところ。


由良谷川隧道を過ぎると新由良谷川があった。
小さな川である。


旧東海道を進む。


おやすみ処の看板が目に入った。


針公民館にあるきずな街道休憩所だ。
ここで一息入れて、


また旧東海道を進むと・・・北島酒造があった。


北島酒造は米どころ近江平野にあり、最高の酒米と鈴鹿山系の伏流水を使用し、丁寧な
手造り行程で醸造している「御代栄」は全国でも数少ない本当の技と愛情で少量しか造らず、
全量低温発酵、低温貯蔵で造られているお酒である。
「気に入らないものは一本も出荷しない」と社長自らが全ての製品を厳しくチェックする。
そんな手造り手の思いがこもったお酒である。
きずな街道の歴史探訪・史跡めぐりマップより


北島酒造を過ぎて少し進むと、
国指定天然記念物 うつくし松 の案内板があった。
次のようにと紹介されている。
平松に自生する赤松の変種。
根から放射状に出て傘を開いたような美形の松で、その名も「うつくし松」。
大小二百本が群生し、日本でこだけしかなく、国の天然記念物に指定されています。
湖南観光協会


家棟川橋を渡り、


旧東海道を進んで行くと・・・


天然記念物うつくし松自生地0.9Km の案内標識が。
時間があれば是非とも立ち寄って行きたいところだが・・・


石部宿高木陣屋跡の説明板
元禄11年(1698)道中奉行に任命された高木伊勢守が、元禄12年に平松を領するようになった。
その後、文化年間(804-1817)に広壮な二階建ての陣屋を建てたが、明治維新後、個人の所有
となり、建物は取り払われた。
しかし、陣屋の門はその後所有者が転々とするが、現在は、三雲の郷内にあるレストラン入口の
門として再移築されて、当時の面影を残している。
湖南市観光協会


浄土真宗本願寺派 紫雲山光林寺前を通過


バス停のような小さな”きずな街道お休み所”を通過


9時34分、石部宿に入った。


東の見附跡
東の見附は目川屋より約30m東に行ったあたりで、道路の中央付近まではみ出していた
巾3m、高さ2mほどの台場であり、石部宿場の両入口にあった。
桝形城門の俗称で、番兵が通行人を見張るところから、「見附」といった。
石部宿には東西二ヶ所に設けられた。
湖南市観光協会


吉姫神社
御旅所のある上田の地に斎き祀られていたが、明応年度の兵火によりこれを焼失し、
天文三年に現在の地に祭祀された。
境内には南北朝時代作の木造狛犬や万病に効能あらたかな宮前の湧き水がある。


9時46分、石部宿に到着


西福寺前を通過して少し進むと・・・


石部宿駅(休憩所)があった。
厠(トイレ)なども整備されている。


東海道五十三次宿場地図
三条大橋まで残す宿場は3つである。


旧東海道を進むと、東海道五十三次 目川ノ里 の浮世絵があった。
五十一番目の宿場として、二軒の本陣、六十二軒の旅籠、二百余軒の商家で栄えた所です。
と説明されている。


10時5分、石部宿本陣跡に到着した。
ここにも明治天皇聖蹟碑がしっかりと建立されていた。


石部宿 小島本陣跡説明板
石部宿には、幕府直轄と膳所藩直轄の二つの本陣が置かれ、全盛期には216軒の商家や
62軒の旅籠が並び、東海道51番目の宿場町として栄えました。
数多くの大名や明治天皇なども宿泊した小島本陣は、慶安3年(1650)に創建されましたが、
膳所藩主本多俊次、康将二代に対する小島氏の顕著な奉公により承応元年(1652)に本陣職を
許されました。
湖南市観光協会


小島本陣跡を過ぎて少し進むと、道は大きく右に曲がっていた。
その角に田楽茶屋があった。


田楽茶屋の説明板には、
歌川(安藤)広重が天保3年~4年(1832-1833)の時、東海道を55枚の風景道中画で表し、
田楽茶屋は石部宿の象徴として紹介されました。
栗東の岡に、「京いせや」、「こじまや」、「元いせや」の3軒の代表的な田楽茶屋があり、
ここは平成14年町政百周年記念事業として再現されました。
湖南市観光協会


田楽茶屋を過ぎて進むと、


100mほど先が直角に左に曲がっていた。


鉤の手道の説明板
京都方面から来て、見附を過ぎると街道が鉤の手に二か所設置されていて、敵がむやみに
侵入しにくい構造になっていた。
石部宿には街道に8か所の交差点があったが、宿内を見渡せない遠見遮断で防御の役割を
果たしていた。
湖南市観光協会


旧東海道を進む。
前方にこんもりとした山が見える。近江富士(三上山)らしい。
後で調べてみると、次のような説明があった。
高さ432mで、なだらかな稜線を描くその美しい姿から、「近江富士」と呼ばれています。
また、この山を7巻半した「大ムカデ」を武将「俵藤太」が弓矢で退治したという伝説が
残っており「ムカデ山」の別名もあります、とのこと。


石部宿の西のは外れと思しき所に小さな公園があった。
西縄手である。


西縄手
縄手とは立場から立場の道のことを言い、石部宿の西にあたることから西縄手と呼ばれていました。
江戸時代、ここは宿内に入る前に参勤交代の為の大名行列を整理した場所で、長い松並木がありました。
湖南市観光協会


宮川を渡って旧東海道を進むと、国道1号石部ランプが見えた。


国道1号石部ランプ下を通り抜けてJR草津線を右に見ながら進むと、踏切があった。


踏切は渡らず、JR草津線に沿って真っ直ぐ進む。


名神高速道のトンネル下を潜って、


田舎道を進む。


右手にはっきりと近江富士(432m)が見えた。
きれいに富士山の形をしている。


10時59分、浄土真宗本願寺派 弁天山徳生寺前を通過


旧東海道を進む。


この地区の各家にはかつての屋号(職業)が付けられている。
この家は東海道 林村 刀鍛冶「刀屋」とある。


ほかにも東海道 林村「甘酒屋」や


東海道 林村 人力車「人力屋」などがあった。


長徳寺 薬師如来堂前を通過


六地蔵地蔵尊へ立ち寄ることにした。
この辺りは六地蔵という村だったと後で分かったが、ありがたい村名だと思った。
たまたま立ち寄ったのだが、立派なトイレがあったので使わせて戴きました。
(少しだけですが寸志は納めておきました)


本堂にお参りをすると・・・


ご本尊の地蔵尊(国宝)を拝むことが出来た。


六地蔵地蔵尊を少し進むと・・・和中散本舗の建物があった。
家康が腹痛を起こした時、この薬を服用し快復したところから「和中散」と名付けた。
道中薬として広く普及した。


建物は小休本陣、シーボルトも立ち寄った、とのこと。


国の指定重要文化財となっている。


和中散本舗を過ぎて道なりに進むと、六地蔵の小公園があった。


11時48分、直ぐ近くに一里塚碑があった。
六地蔵一里塚跡で、江戸日本橋より117番目の一里塚となる。


東海道名所図会(梅の木)
江戸時代の東海道沿線のガイドブックに記載されていた六地蔵村の様子。
宿場と宿場の間の休憩所である立場(たてば)が置かれ、梅木(うめのき)立場と称された。
「ぜさい」を名のる道中薬、腹薬の「和中散」を商う店があることで、京・大坂・江戸にまで
知れ渡っていた。


旧東海道(六地蔵村)を進む。


景観重要樹木指定標識には以下のように案内されている。
肩かえの松(クロマツ)
指定の理由となった樹容の特徴
東海道沿いにあり、歴史街道景観のシンボルの1つとして、往時を彷彿とさせる景観形成に
重要な役割を果たしており、地域住民や東海道を訪れる方々にも親しまれている。


実際の肩かえの松


旧東海道を進む。


12時11分、名神高速道栗東IC付近の道路下を通過


東海道手原村 手原醤油
塩屋藤五郎と書かれた看板がかかっていた。


里中大明神


12時25分、東経136度子午線の標識を通過
北緯35度01分22秒とある。


旧東海道を進む。


旧東海道を進む。


旧東海道は大きく左に曲がっていた。


道なりに進むと・・・


道路脇に 九代将軍足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地 文明十九年(一四八七年)
と刻まれた石碑があった。
室町幕府は応仁の乱後、勢力が衰え社会は乱れた。
近江守護職位高頼は、社寺領等を領地とした。
幕府の返還勧告に応じない佐々木氏を討伐のため、時の将軍足利義尚は長享元年10月
近江へ出陣、鈎に滞陣した。
滞陣2年目に病で延徳元年3月に、25歳の若さで当地で没した。
本陣跡は西に約200mの永正寺の一帯である。


鈎の陣所ゆかりの地碑の後ろは大きな池になっている。


旧東海道を進む。


真宗大谷派 養煙山善性寺を通過すると、


道が二手に分かれていた。


左は中郡街道となっているので、右に曲がって東海道の方へ。


目川 ひょうたん展示・販売 の店があった。


店の塀には目川の歴史が。
栗東市の目川は、東海道五十三次草津の宿に接する立場(旅人の休憩所)として栄えた所で、
旅人の必需品を売るいろんな店や茶店がありました。
その中でも瓢箪(ひょうたん)は旅人がお茶やお酒などを入れる容器として売られていたものと
思われ、江戸時代中期以降明治の頃まで当地方の農家の副業的地場産業でした。


12時59分、目川一里塚跡に到着
江戸日本橋より118番目の一里塚となる。
一つ前の六地蔵一里塚から1時間10分ほどかかっていた。


田楽発祥の地 元伊勢屋の碑
東海道を往来する旅人の休憩所として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し、東海道の名物となった。
(以下略)


目川田楽古志ま屋跡碑


目川田楽 京伊勢屋跡


13時15分、東海道新幹線下に到着、新幹線下で一休みしよう。
休んでいる間にかなりの数の新幹線が通過していった。


13時26分、草津市に入った。


国道1号を横断し、


少し進むと・・・


小汐井神社(地蔵尊)前を通過


いつの間にか草津駅の繁華街に迷い込んでしまった。
歩いているのとは逆の方を示す草津本陣跡の標識があった。
どこかで道を間違ったようだ。
この日は時間がないことから、最終回に本陣跡へ行くことにして草津駅へ向かった。


13時54分、草津駅前の道標に到着した。
最後は慌ただしかったが、何とか無事に草津宿(JR草津駅)に到着した。


かみさん達とは彦根駅で待ち合わせすることになっているため、とりあえず駅前で軽い食事を
摂ることにしよう。
近くにコメダコーヒー店があったので、サンドイッチとコーヒーを注文。
急いで食べ終わり、真っ直ぐ草津駅へ。

13時55分、草津駅に到着。
かみさん達が観光している多賀大社に近く、名神高速道彦根ICからも近い彦根駅へ向かった。

彦根駅でかみさん達と合流し、帰路に就いた。


この日万歩計は32,000歩を計測していた。
前日に続いての30,000歩越えである。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(1日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(3日目)

2023年05月15日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年5月15日(月)

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(3日目)

昨日までの雨も上がり、朝から時々晴れ間も見えるという良好なコンディション。
この日は土山宿の西の外れを出発し、水口宿を過ぎて、出来れば石部宿を目指したい。

9時19分、土山宿西の国道1号との合流地点を出発


国道1号は大型トラックなどが頻繁に走るのでちょっと怖さを感じながら進む。


道が二手に分かれていた。
右手は国道1号なので、左側の旧東海道と思われる方へ。


しばらく進むと、 
先へ足進めれば歌声橋 のんびり歩こう旧東海道 これより3Km先に松並木
何だか街道歩きが楽しくなる案内表示板である。


少し進むとモダンでおしゃれなドームに包まれた橋があった。
これが歌声橋なのだろうか。


下には野洲川が流れる。


右手に国道1号が直ぐ近くを走っている。
ここも左側の旧東海道を進む。
旧東海道は舗装の色が普通のアスファルトとは違う色が付いているので分かり易い。
この色の道がずっと続いているのだろうか?


旧東海道に沿って家並みが続く。


街道沿いの家はかなり間取りが大きいと推察される。


瀧樹(たぎ)神社の案内板
この神社には次の二つの宮が祭祀されている。
一、瀧樹大明神宮
この宮の主祭神は、速秋津比古之命と速秋津比賣之命という神で、この神は水門の神と
云われている神様で水害を守る神である。
近くに二つの川が合流している落合があり、大昔から洪水が多く、その度ごとにこの近辺は
大被害にあい困ったのでおまつりされた神様である。
一、天満宮
この宮の主祭神は、学問の神と云われている菅原道真をおまつりしている宮である。
この神は、室町時代の領主が信仰された神様で氏子が学問に励み立派な村にすることを
願ってまつられたものである。
この神社の祭礼日は、毎年五月三日で当日は、国の選択文化財に指定されているケントケ踊りを
はじめ、花奪(はなばい)神事や神輿の渡御が行われる盛大な祭りである。
平成十七年に本殿、拝殿が新築され、同時に境内の全面的な整備がなされ神域の荘厳さを増している。


100mほど先に瀧樹神社の参道入口の鳥居と2度目の案内板があり、ここより200m先という
案内表示を信じて、行ってみることにした。


最初の参道を過ぎると青々とした茶畑の景色が広がっていた。


茶畑の先に瀧樹神社の大きな鳥居があった。
本殿はもう少し先のようだ。


さらに進むと今度は杉並木の参道が続いていた。
本殿は近そうだ。
右手の方から川が流れる音が聞こえる、かなり大きな音である。


音のする方へ行ってみると・・・轟音とともに野洲川が流れていた。


神社の方へ戻って、石段を上ると・・・拝殿が現れた。
旧東海道から200mとあったが、実際には倍の400mはあったと思われる。


本殿のさらに奥に天満宮の本殿(左)と


瀧樹神社の本殿(右)が並んでいた。


旧東海道へ戻って旧東海道を進む。
瀧樹神社への往復に20分以上要してしまった。


10時16分、福彗山地安禅寺前を通過


前野の地安禅寺には、御水尾法皇の御影御位牌が安置されている。
御水尾法皇は慶長元年(1596年)後陽天皇の第三皇子として生まれ、慶長16年に16才の若さで
即位された。
徳川幕府が成立していく中で、天皇になられたが、寛永6年(1629年)明正天皇に皇位を譲られ、
34才で上皇になられた。
元禄11年(1698年)、善明院(法皇の第一皇女)の意向により、法皇の像、位牌を下附され、
その安置所として宝永5年(1708年)地安寺境内に建立された。
平成二十八年一月
土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会


旧東海道を進んで行くと、


垂水頓宮御殿跡の碑が。


伊勢神宮に伝わる「倭姫命世紀」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神の
ご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。
土山町頓宮には巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎が
この付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。
また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。
平成十六年三月
土山の町並みを愛する会


浄土宗長泉寺前を通過


10時39分、大野市場一里塚跡碑前を通過


大日川に架かる大日川橋を通過


大日川(堀切川)掘割
往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れが広がり、このため一度
大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚だしかった。
大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、
間に挟まった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。
元禄十二年(1699年)、市場村は排水路を掘割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に
願い出て許可を受け、頓宮村境より延長504間(約904m)、川幅4間(約7.2m)の排水路工事に
着工し、河敷地の提供から市場村民の総腑役により、元禄十六年(1703年)に完成した。
平成七年三月
土山町教育委員会


野洲川に流れ込む掘割


1本の松の木があった。
かつてはこのような松の並木が続いていたのだろうか。
他には松の木は見当たらない。


11時ちょうど、花枝神社の一の鳥居を通過


甲賀市立大野小学校前を通過し、


さらに旧東海道を進む。


11時20分、明治天皇聖蹟碑前を通過


間の宿大野の説明板
江戸時代の東海道の江戸大坂間には幕府の指定した正式な宿場が五十七あったが、その宿場間
にあった休憩等がとれる集落のことを間の宿(あいのしゅく)とよんだ。
この大野の辺りは東の土山宿と西の水口宿のちょうど中間点になり、旅人の休憩や買い物
などのために茶店や商店などがあった。
間の宿は公認の宿ではないため宿泊は許されていなかったが、それは名目上のことで、実際には
宿泊のための旅籠もあり数軒の屋号が今も伝えられている。
1868年の明治天皇東幸の折には、ここにあった小幡屋という旅籠が小休憩の御用を務め、
それなりに設備が整っていた旅籠であったということが推察できる。
こうした施設は立場(たてば)とよび、この近辺にもいくつかの立場があったと伝えられている。
令和三年一月三十一日
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


魚屋の屋号を付けた大きな家


会席料理みよし 赤帆亭(せきほてい)の看板があった。


三好赤帆旧跡
三好赤帆(1798-1873)は、待花園月坡(じかえんげっぱ)と号し、通称才市と呼ばれた。
生家は代々の魚商であったが、少壮より俳諧に親しみ、嵯峨上田村の宍戸霞州に就いて教えを請うた。
その後家業を子に譲って京都に上り、東福寺法主虚伯(きょはく)に就いて十年余り研鑽を深めた。
その間、京・大阪の斯道の諸大家と広く交わった。
その後、郷里に帰って後進を指導し、この地方の俳諧の基礎を築いた。
俳著に『窓あかり』がある。
明治5年75歳で没した。
碑名 「ほととぎす 早苗に影を のこしゆく
平成二十四年二月八日
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


国道1号を横断するため螺旋状の階段を利用することにした。
大津43Km、甲賀市街7Kmの標識が見える。


螺旋階段の上から水口方面を望む。


旧東海道の大野集落を進む。


さらに大野集落を進むと・・・


直ぐ左手を国道1号が走っている。


国道1号を横断すると、


11時54分、甲賀市水口に入った。


旧東海道を案内に従って右側の緩やかな坂道の方へ。


旧東海道を進むと・・・


古民家カフェ「一里塚」という店があった。
12時を少し回ったが、お昼はもう少し我慢しよう。


先ほど通った古民家カフェ「一里塚」から数百mの所に、今在家一里塚があった。
江戸日本橋から112番目の一里塚で、本町域では、泉・林口・今在家の3か所に存在した。
江戸時代の一里塚は明治の初年に撤去され、現在の一里塚はその後復元されたもの。
今は塚の上に榎が植えられているが、かつては桜が植えられていたと伝わる、とのこと。


バス停の待合室のような小さな休憩処のような建物があった。


中を覗いてみると、郷ノ里と書かれており、椅子やテーブルが置かれていた。
自動販売機も設置されていた。
休憩していきたいが、あまり時間もないのでそのまま進む。


さらに旧東海道を進むと少し広い道路に出たが、また直ぐ二手に分かれた。
右手の道(旧東海道)を進む。


旧東海道を進む。


12時23分、龍王山宝善寺前を通過して少し進むと・・・


岩神社・岩上神社参道の入口に到着した。


鳥居を潜って石段を上って行くと・・・


5分ほど石段を上ると岩神社に到着した。


岩神社の説明板


旧東海道に戻り、水口宿を目指す。


永福寺、八幡神社を過ぎて進むと、道が二手に分かれていた。
右旧東海道の案内表示に従って進む。


旧東海道の松並木についての碑があった。


前方に見える小高い山が古城山だろうか。


山川橋を渡ると・・・


旧東海道水口宿 田町に入った。


少し進むと、東見附跡があった。


東見附(江戸口)跡
この地が水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿って通じていた
東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長十年(1605)以降のことである。
特に天和二年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は
警備の施設も整えられた模様である。
(以下略)


さらに旧東海道を進むと、旧水口宿脇本陣の建物があった。
この建物は、水口宿の脇本陣の一部とされ、文久三年(1863年)の「水口宿内軒別書上帳」
の中に記述がみられることから、十九世紀前半の建築と推定されています。
現在残る建物は当時の一部のみとなっていますが、脇本陣の特徴である大きな間口・奥行
が見られ、もとの家屋規模は水口随一の大型町家であったと想像できます。
その構造や蟇股(かえるまた)などの装飾は石部宿や土山宿の本陣にも類似性が見られます。
甲賀市観光協会


さらに進むと、13時20分、水口宿本陣跡に到着した。


石畳を進むと・・・
水口宿本陣跡の石碑があった。
(前略)
本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門、玄関、書院などがあって格式を示し、
その経営には宿の有力者があたりました。
この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、
明治二年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去されました。


奥には明治天皇聖蹟の碑が建てられていた。


また少し進むと高札場跡があった。


高札場跡の説明板には次のように説明されている。
「お達し」を公示する掲示板で、まちの中心のひとめにつきやすい辻、橋詰、出入口等に
設置されました。
水口宿では作坂町と旅籠町の境、三筋町の北筋と真ん中の筋の合流するところに設置されていました。
江戸時代には立札とも言われ、犯罪事実の公示・通報や、逮捕の協力を求めていました。
特に寛永十七年(1622)の宗門改役が設置されてからは「隠れキリシタン」取り締まりのため、
密告への賞金制度等が掲示されました。(甲賀市観光協会)


水口宿のこの辺りから町が三筋に分かれているため、三筋の町と呼ばれている。


「ふみや」という食事処があった。
時計は14時20分を過ぎており、お腹が空いていたので、この店で食事をしていくことにした。


旧東海道水口宿の街道沿いの古民家で、旧旅籠だったという雰囲気が落ち着く。


この店の売りは、目の前で炊く”釜土御膳”だ。
ご飯が炊ける間に注文したおかずを用意する、というシステムである。
メニューは、焼き魚・天ぷら・から揚げ・豚カツ・ハンバーグから選ぶことになる。
天ぷらを注文し、ご飯が炊きあがるのを待つこと凡そ20分、


炊き上げのご飯と出来立ての天ぷらは、まだ熱かったが、とても美味しかった。


旧東海道を進む。


14時35分、銭湯「清水湯」前を通過
街道沿いの銭湯は初めて見た(ような気がする)


真宗高田派 水口山蓮華寺前を通過すると、


14時41分、三筋の道の西端に到着した。


宿場町の水口が次のように紹介されていた。
天下を握った家康は、慶長6年(1601)東海道を整備し、五十三の宿駅を置いて公用輸送を
確立、この時水口も宿駅となりました。
宿場は、町数27、家数718と発展、俳聖芭蕉も逗留し「命二つのなかに生たる桜かな」の句を
残しています。
庶民の旅が盛んとなった江戸後期には40余の旅籠と本陣・脇本陣があって客引で賑わいました。
宿場の名物には干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等があり、夏の風物詩「かんぴょう干し風景」は
歌川広重の浮世絵によって広く世間に知られました。


近江鉄道水口・蒲生野線の踏切を横断すると、河内町に入った。


東海道案内図があり、
ここを右に直角に曲がり、少し先を今度は左に直角に曲がるように案内されていた。
水口城天王口跡
江戸時代この場所は水口城の東端にあたることから木戸が置かれ、「天王口御門」と呼ばれました。
もともと直進していた東海道も、ここで右に直角に曲がり、北町・天神町・小坂町と
城の北側を迂回し、林口五十鈴神社の南で再び当初の道に戻りました。
「天王口」の名の起源でもある八坂神社(八坂)がもと牛頭天王社と呼ばれたためです。
これより木戸内には「広小路」「南小路」などの武家屋敷が広がり、普段は藩士以外の
一般の通行は制限されていましたが、四月の水口祭には藩主や藩士に見せるため曳山が
曳き入れられました。


案内図に従って、北へ直進し、


突き当りを左に曲がって進む。


北町


天神町曳山蔵


天神町を通過し、


小坂町のところを左に曲がり、小坂の水口石のところを右に曲がって進む。


北邸(きたやしき)町の稲荷大明神を通過した先に、


真徳寺という寺があり、真徳寺の表門の説明があった。
当時の表門は、もと水口城内の郭内に所在した家臣(蜷川氏)屋敷の長屋門を近代に移築した
ものである。
寺院の表門に改めた際、かなり手が加えられたが、旧城下に残る数少ない武家屋敷遺構の
一つとして貴重である。
なお境内墓地には、明治の代表的書家として知られる巖谷一六の先祖の墓碑が伝えられる。
水口町教育委員会


真徳寺の表門


真徳寺


真徳寺を過ぎて少し進むと・・・
15時8分、五十鈴神社に到着した。


境内に入ると推定樹齢300年と云われるヒノキの大木があった。
水口町の古木・銘木に選定されている。
他にもイヌマキの大木があった。


五十鈴神社の本殿


五十鈴神社境内の片隅に林口一里塚碑があった。
林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが、水口城の郭内の整備にともない、東海道が
北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。
本塚は、往時を偲んで修景整備されたものです。


15時15分、水口宿西見附跡
水口宿の西の端に設けられたもので、「京口」と呼ばれています。
木戸や番所が置かれ、宿場の防犯施設となっていました。
東端の田町と片町の境界には東見附があり「江戸口」と呼ばれ、同じ機能を果たしていました。
東海道は最初はここから東へ真っ直ぐ延びていましたが、水口城築城と水口藩成立の二回の
機会に北へ迂回させられました。
またここを流れる川は見附川と呼ばれています。
甲賀市観光協会


すぐ横を流れる見附川


15時18分、美富久(MIFUKU)酒造会社前を通過


15時19分、柏木神社前を通過


北脇縄手と松並木
東海道が一直線に伸びるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。
縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない曲がりくねっていた旧伊勢大路を
廃し、見通しの良い道路としたことにちなむと考えられる。
江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があった。
街道は近隣の村々に掃除場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。
旅人は松の木陰で涼を取り、旅の疲れを休めたと云われている。


旧東海道が一直線だ。


道端にお地蔵さんらしき石像が祀られていた。


回りは一面麦畑である。


こちら側は田んぼに水が張られ田植えは既に終わっていた。


旧東海道を進む。


割烹「米新楼」前を通過


15時35分、甲賀市立柏木小学校前を通過


柏木公民館の所に半鐘を鳴らすために梯子を上る人の姿が。


街道脇に水路があり、緩やかに水が流れていた。


16時9分、国宝延命地蔵尊泉福寺前を通過


道が二つに分かれていた。


道標に従って横田渡し方面へ。


泉川に架かる舞込橋を渡ると、


泉一里塚があった。
水口宿では泉、林口、今在家の三箇所に一里塚があった。


(前略)
当時のものは現在地よりやや野洲川よりにあったが、これはそのモニュメントとして整備されたものである。
水口町教育委員会


さらに進むと冠木門があり、


16時22分、横田渡跡常夜灯に到着した。
「横田の渡し」は「東海道十三渡し」の一つで、常夜燈は文政五年(1822)に建立されている。
常夜燈は万人講中のもので、普段は土橋、水かさが増した場合は舟渡しを行っていた。
現在は公園となり川が一望できる。


横田橋渡し跡から見た野洲川


当初この日は石部宿を目指そうと考えていたが、まだここから10Km以上はあると思われることから、
この日は三雲駅までとすることにし、かみさん達に連絡した。
横田渡跡常夜灯で一休みした後、三雲駅を目指した。


コンビニ(セブンイレブン)を横目で見ながら三雲駅を目指す。


コンビニの先で国道1号に合流し、


野洲川を渡るために人と自転車は陸橋へ。


陸橋の上から野洲川に架かる横田橋を望む。


横田橋を渡る。


横田橋から見た野洲川


16時52分、三雲駅に到着した。


この後、かみさん達と宿泊先の「水口センチュリーホテル」に向かった。
ホテルのシャワーで汗を流した後、近くの飲食店へ。


いくつか探したが、ちょうど良い店がみつからず、結局昨日と同じ店に入ることにした。


この日も生ビールが美味かった。


この日万歩計は33,000歩を計測していた。
街道歩きで30,000歩を超えるのは久しぶりのことである。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(4日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(2日目)

2023年05月14日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年5月14日(日)

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(2日目)

この日は昨日の続き、鈴鹿峠を越えた万人講常夜灯からのスタートとなる。
APA HOTEL亀山を出発し、かみさんには国道1号の鈴鹿峠トンネルを出て直ぐの万人講常夜灯
近くで降ろしてもらった。

10時01分、2日目のスタート地点は、万人講常夜灯を少し過ぎた国道1号からである。
道路反対側へ渡ろうと地下通路へ向かったところ、かみさん達が車のクラクションを鳴らして
『そこは通れないわよっ』と教えてくれた。
昨日自分を迎えるために万人講常夜灯へ向かう時に確認したのだと言う。


対抗車線の車がないことを確認して道路反対側へ移動。
この日も朝から強めの雨、しかも風がかなり強い、街道歩きには最悪のコンディションだ。
昨日の鈴鹿峠越えは折畳み傘を差していたが、今日は少しでも濡れるのを和らげるために
大きなコウモリ傘に変えた。


10時10分、滋賀県土山町山中付近を通過


雨は正面からではなく背中から降って来る感じなので、まだ少しは我慢できる。


道路反対側に十楽寺という寺が見えた。
十楽寺は甲賀市土山町にある浄土宗の寺院で、山号は清浄山。
本尊は阿弥陀如来、本尊は甲賀三大仏の一つ、とのこと。


前方に新名神高速道路の橋脚が見えて来た。


東海道を示す標識を見ると何故か気持ちが落ち着くから不思議である。


街道沿いに民家が立ち並ぶが、いずれも間取りが大きそうな家ばかり。
雨は相変わらず強く降っているため、ズボンの裾がかなり濡れて来た。


道路脇に建つ地蔵菩薩堂
歴史を感じさせる建物である。


新名神高速道路の橋脚が次第に大きくなって来た。


10時34分、新名神高速道路の橋脚下を通過


新名神高速走路を通過した所に”「第二名神」滋賀県起工の地”のモニュメントと碑があった。


「第二名神」滋賀県起工の地 碑
平成7年12月18日に当地滋賀県土山町山中地先の土山橋下り線の下部工工事が第二名神の
滋賀県での最初の工事として着工されました。
当地が第二名神の起工の地であることを記念し、また、古より東海道の宿場町として道と共に
栄えてきた”あいの土山”の未来永劫の発展を願い、ここに記念碑を建立します。
滋賀県土山町


10時37分、山中一里塚公園に到着した。


櫟野観音道(いちのかんのんみち・大原道)道標


山中地区の旧東海道沿いから南西に伸びる道は、古くから東海道と神村(甲賀町大字神)
・櫟野村(甲賀町大字櫟野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道とも呼ばれていた。
当時、道標は東海道との分岐点に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ
一里塚緑地に移転されている。
この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には櫟野寺(らくやじ)本尊の十一面観音の
慈悲を詠んだ、虚白の「盡十方(つくすとも) 世にはえぬきや 大悲心(だいひしん)」
という句が刻まれており、櫟野の櫟野寺への参詣道でもあったことを伝えている。
平成十五年三月 土山町教育委員会


山中一里塚公園には鈴鹿馬子唄の碑と、


馬子が馬を曳く像が建立されている。


旧東海道(国道1号)を土山宿を目指す。


道の駅「あいの土山」まで2Kmの標識が。


東京から437Kmの標識を通過


国道1号沿いの民家の前を通過して、


さらに国道1号を進むと・・・


道が2手に分かれていた。


右側の道が土山町蟹坂(かにがさか)から道の駅「あいの土山」への道が赤く表示されている。
また、東海道土山宿はここから800mと案内されている。


右側の道に入って直ぐ右側に榎島神社(白川神社の末社)があった。
この神社の椎の木は御神木で樹齢は約400年とのこと。


蟹坂地区の案内図
左側は蟹坂古戦場跡、田村神社を経て土山宿へ800m、右側は現在地から鈴鹿峠4.5Kmとある。


蟹坂の集落を進む。


両側に工場のある場所を通り抜けると・・・


11時12分、蟹坂古戦場跡の碑があった。


蟹坂古戦場跡の説明
天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将
神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。
当時の山中城主は山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。
こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛り返し、さらに北伊勢の軍勢を加えて
再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、
軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。
一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国と合戦した。
この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。
平成七年三月 土山町教育委員会


蟹坂古戦場跡を後にして田村神社方面へ向かった。


真っ直ぐ進むと、高札があった。


高札の解説(太字の部分)
「この橋を渡ることのできるのは、安永四年(1775)の閏月12月23日からである。
(旧暦には閏月があり、この年は12月が2回続く)
この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。
また、近村に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない
人達の渡り賃も無料である。
しかし、それ以外の住民および一般の旅人については一人につき三文、また荷物を馬に乗せて
渡る荷主についても馬一頭につき三文、渡り賃を取ることになっている。
この規則は一時的なものではなく、橋がある限り永遠に続くものである」


高札の先に木製の橋があった。街道橋である。
江戸時代の安永4年(1775年)に架けられた田村永代板橋を復元した橋。
往時の橋は、巾二間一尺五寸(約4.1m)、長さ二十間三尺(約37.3m)。
高さ0.3mの低い欄干が付いた、当時としては画期的な橋であった。


街道橋の上から下流(土山宿方面)を臨む。


街道橋を渡り切ると・・・
歌川広重の「東海道五十三次」の「春の雨」が紹介されていた。
天保四年に刊行された「東海道五十三次」には、土山を描いた「春の雨」が描かれている。
雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り田村神社の杜のなかを
宿場に向かっている風景であると云われている。


田村神社の杜のなかを進むと・・・


右側に田村神社の鳥居があった。


参道を進んで行くと・・・田村神社があった。
祭神は坂上田村麻呂で、平安時代初期の建立と云われている。
社殿は鈴鹿峠から移されたものであるらしい。
明治時代の初め、付近の氏神を廃してここに合祀して以来、現在の壮大な姿となった。
田村麻呂の、鈴鹿峠の鬼退治の伝説にまつわる「厄よけの神」としても有名。
この鬼退治が2月18日だったことに因み、毎年2月17日、18日、19日に厄除祭が催されている。


11時34分、田村神社を挟んだ国道1号の反対側にある道の駅「あいの土山」に到着した。


道の駅「あいの土山」で一休みすることにしよう。
かみさん達は先に到着して、車の中で休憩していた。
この頃から雨が一段と強くなったため、弱くなるまで待つことにした。


車の中で待つこと約1時間、雨が少し弱くなって来たので、とりあえず土山宿の西の外れまで
進むことにした。
その後、近くで一緒に昼食を摂ることにして、12時40分に道の駅「あいの土山」を出発した。
道の駅「あいの土山」の少し先に土山宿の絵地図があった。


土山宿は、上方へ向かう旅人が、鈴鹿峠を越えて最初に入る宿場である。
当時は、小田原宿や三島宿と同様に賑わっていた、とのこと。
土山宿の説明板
(前略)
宿場の主体をなしたのは宿中央にあたる現在の仲町・吉川町あたりで、そこには人馬継立を
差配する問屋場や公用者の休泊のための本陣などがあり、徳川幕府は役負担を義務付けられた
宿の保護のために地子(じし:租税)の免除などの特権を与えていた。
また宿の中心には旅籠や商店、茶屋なども多く、街道に沿って細長く宿場町を形成していた。
1843年の記録では本陣2軒、旅籠44軒、家数351軒で人口は1,505人だった。
令和2年1月31日  土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


東海道 土山宿の碑


土山宿の街並みを進む。


重厚な家が多い。


お六櫛
江戸元禄の頃、信濃の国の櫛職人が伊勢参りを終えて京都見物に行く途中、ここ土山宿の
生里野で重い病気になり、生里野の民家で養生させてもらって一命をとりとめ、京都へと
旅立つことが出来ました。
その旅人は信濃へ帰国した後、土山で受けた恩恵に報いようと、櫛の製法を伝授すべく
再度土山を訪れました。
この櫛は「みねばり」などの木を材料にして作られ、土産物として大変人気がありました。
最盛期には十軒余りの業者が櫛に関わっていましたが、今は姿を消してしまいました。
(甲賀市観光協会)


土山宿を進んで行くと、お六櫛の本家櫛所と書かれた看板の家があった。
前述の説明と関係があるのかも・・・


土山宿の街並みを進み、


来見橋を通過。


続いて白川神社前を通過。


大原製茶場前を通過。


森鴎外の泊まった平野屋
平野屋は、鴎外が祖父白仙の墓参のために土山を訪れ、明治33年3月2日に一泊した旅籠である。
土山の町並みを愛する会


蕎麦処 うかい屋前を通過
土山宿で食べ物屋を営んでいる店があるとは知らなかった。


二階家本陣跡


堤家(二階家)本陣跡
(前略)
土山宿には吉川町の北土山村側にあった土山家本陣と、中町の南土山村側にあった堤家本陣の二軒があった。
堤家本陣はその屋号から「二階家本陣」とも呼ばれ、代々忠左衛門を名乗った。
(中略)
堤家本陣は幕末には衰微し、これより250m西、吉川町の北土山村側にあった大旅籠の大黒屋が
その代替として利用された。
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


土山宿伝馬館


東海道伝馬館に入ると・・・


伝馬館内部(1)


伝馬館内部(2)


伝馬館内部(3)


伝馬館を出て直ぐ右側に土山宿問屋場跡があった。


土山宿の問屋場は、中町と吉川町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、
時代と共にその場所は移り変わってきた。
明治時代の宿駅制度の廃止に伴い問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。


土山宿問屋宅跡


土山宿本陣跡
土山宿本陣は、寛永11年(1634年)、三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。
土山氏文書の「本陣職之事」によって分かるように、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門
を初代として之を勤めた。
本陣は当時の大名、旗本、公家、勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されて
いたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


本陣跡には必ずと言っていいほど明治天皇聖蹟の碑が建てられている。
ここ土山宿本陣も例外ではない。


土山宿は続く。


一の松通りを横断した所に小さな大黒屋公園があり、形の良い松の木が1本植えられていた。


また、『高桑闌更(たかくわらんこう)句碑』があった。
土山や 唄にもうたふ はつしぐれ  闌更


作者 高桑闌更 俳人 享保十一年(一七二六)~寛政十年(一七九八)
加賀国金沢(石川県金沢市)に生まれる。 生家は屋号釣瓶屋という商家。
本名忠保(または正保)、通称は長次郎。
俳諧を和田希因に学び、蕉風の復興に努め、与謝蕪村らとともに、俳諧中興に貢献。
後年、医を業としながら京都東山双林寺内に芭蕉像を安置する芭蕉堂を営む。
芭蕉関係の俳書を翻刻、注釈するなど功績をあげた。 俳風は温和高雅。
門下から桜井梅室や土山に縁のある虚白禅師等を輩出する。
代表的な句集や編書に「半化坊発句集」「落葉考」「芭蕉翁消息集」「花の故事」「深川集」などがある。
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


その隣に大黒屋本陣跡と土山宿問屋場跡の碑が並んで建てられていた。


土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣宿の事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と
土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。
大黒屋本陣の設立年代については、はっきりと判らないが、旅籠屋として繁盛した大黒屋が
土山本陣の補佐宿となっている。
古地図によると、当本陣の規模は、土山宿本陣のように、門玄関、大広間、上段間をはじめ
多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であることが想像できる。
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


大黒屋本陣跡と土山宿問屋場跡の碑の奥に明治天皇聖蹟の碑が建てられていた。


大黒屋本陣跡と土山宿問屋場跡の碑を過ぎて東海道を進む。


土山宿 旅籠 古め屋跡


吉川に架かる大黒橋を渡って進むと、


国道1号が見えて来た。


国道1号との合流地点に土山宿の案内板があった。


土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになって以来、難所を
控える宿駅として発達してきた。
源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路線が
一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。
とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国規模で設け、土山宿は東海道五十三次の
第四十九番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しはじめた。
宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立てなどを司る問屋場、公用者の
宿泊などのための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、幕府は御役町の保護の
ために地子の免除その他の特権を与えていた。
この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道の脇に
細長く宿場町を形成していた。
平成七年三月  土山町教育委員会


13時30分、この日の東海道歩きはここまでとし、かみさん達の待つ蕎麦処「うかい屋」へ。
10分で蕎麦処「うかい屋」に到着、この時雨はかなり小降りになっていた。


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(1)


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(2)


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(3)


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(4)


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(5)


注文したのは鴨蕎麦だったが、なかなか美味しかった。
お腹が空いていたので、安倍川餅も注文してしまった。
餅2個は自分にとっては、ちょっと多過ぎた。


食事の後、かみさん達の観光に付き合う形で、甲賀流忍術屋敷(甲賀望月氏本家旧邸)へ。
40分ほど甲賀流忍術屋敷の巧妙なからくりを見学したり体験したりして過ごし、


この日予約していた「水口センチュリーホテル」へ向かった。


ホテルによれば、近くにはレストランはなく、普通の料理屋があるというので、行くことにした。
「酔虎伝」という店で、メニューは豊富で美味しかった。


この日万歩計は14,000歩を計測していた。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(3日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(1日目)

2023年05月13日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年5月13日(土)

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(1日目)

旧東海道第Ⅲステージは、第6回(2019/05/19~05/20庄野宿から関宿)までほぼ順調に歩いて来たが、
同年7月頃に予定していた、第7回(関宿~草津宿)直前になって、ちょっとした油断から風邪をこじらせ、
東京医科大での診断で、急性肺炎ということで緊急入院する羽目になり、当分の間は街道歩きの中断を
余儀なくされてしまった。

年が明けた翌2020年1月頃には肺の調子も大分良くなり、担当医師に通常の生活もOKと診断され、
街道歩きを再開しようと意気込んだその時、新型コロナウィルスの感染拡大で、他県への移動自粛制限
により、街道歩きどころではなくなってしまった。

それから1年9か月余の2021年10月にはワクチン接種のおかげもあってか、コロナ感染者数は
減り、他県への移動制限はなくなったことはご存じの通りである。

同年11月中旬になって、今度こそ”街道歩き再開”と亀山市と水口市のホテルの予約を済ませ、
数日後には出発を待つばかりという段階になって、急に胸の辺りに痛みが走り、息苦しさを
覚えるようになった。
何と、今度は肺から空気が漏れる”気胸”と診断され、再び10日間の入院を余儀なくさせられる羽目に。

急性肺炎やコロナ禍などで鈴鹿峠を前に関宿で留まること丸4年が経った。
このままでは近いうちに傘寿を迎えてしまうと思い、今回鈴鹿峠越えに挑むことにした。
計画では5月13日(土)に自宅を出て、14日に関宿をスタートして16日に草津宿到着を目指す
ことにしていたのだが、Yahooの予報では14日(日)、15日(月)はかなりの雨。
しかし、ホテルも既に予約済で、今回の旅行には是非とも付き合いたいという大分に住む
かみさんの妹も数日前から来宅して待機いることから、運を天に任せて13日早朝に自宅を出発した。
旧東海道関宿のある亀山市には13時半過ぎには到着した。
到着したこの日もあいにくの雨だったが、夕方には一時的に小降りになるというスマホの予報を信じ、
夕方までには鈴鹿峠は越えられるだろうと判断した次第。

14時46分、右手にデジカメ、左手に地図と折畳み傘を持ち、雨のなか関宿「西の追分」を出発。
西の追分は、大和街道との分岐点で、京都へは鈴鹿峠を越えて19里半(78Km)の距離がある。
一方、大和街道は加太(かぶと)越えをして伊賀から奈良へ至る道になる。


「西の追分」まで送ってくれたかみさん達とはいったんここで分かれ、いざ旧東海道へ。


しばらく国道1号に沿って進む。
甲賀まで27Kmの表示が見える。


鈴鹿川の一瀬橋手前に右”東海道(坂下宿)”の案内標識が。


案内標識に従って進み・・・


少し上流で鈴鹿川を渡り、


小さな集落を進むと・・・


国道1号に出た。


国道1号を横断したところに、浄土宗本願寺派の西願寺というお寺があった。
山門の前に常夜灯が建っているのが印象的である。


また国道に出て、しばらく国道1号を進む。


筆捨山バス停を通過
筆捨山はもともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと
筆をとり、翌日書き残した分を続けようとしたところ、雲や霞が立ち込め山の姿が全く
変わってしまったため描き足すことができず、諦めて筆を投げ捨てたことからこの名が付いたと
伝えられる。


この日の筆捨山方面も雲が立ち込めていて筆捨山は全く見えなかった。


15時28分、楢の木バス停辺りを通過。


東海自然歩道の道標があった。
文字は見づらいが、片山神社3.9Km、鈴鹿峠4.3Kmと判読できる。


沓掛の集落を進む。


真宗大谷派の寺院超泉寺前を通過


沓掛バス停前を通過


沓掛集落を進む。


15時43分、坂下簡易郵便局を通過
この辺りが坂下宿なのだろうか?


鈴鹿馬子唄会館前を通過して少し進むと・・・


道の左側に日本橋から順に旧東海道の宿場名を記した標柱が続いていた。


由比宿まで来ると、
昭和13年に建てられ、昭和54年3月に廃校となった「坂下尋常高等小学校」の校舎があった。
廃校後は坂下公民館等として坂下地区の人々を中心に利用され、現在は青少年のための
宿泊研修施設「鈴鹿峠自然の家」として利用されている、とのこと。
平成11年、国土の歴史的景観に寄与しているとして、国の登録有形文化財(建造物)に登録されている。


宿場名を記した標柱が続く。


標柱は坂下、土山、水口、石部、草津、大津と続き、


最後は三条大橋で終わっていた。
京都三条大橋まであと6つの宿場を残すのみとなった。


旧東海道を進む。
ここまで来て、もしかしたら坂下宿を通り過ぎてしまったのか? という不安が頭を過ぎり、
確認のためにもう一度坂下簡易郵便局まで戻って、それらしい目印を探した。
しかし本陣跡等を示す石柱などは何も見つからず、また標柱まで戻って来たため、その間
往復30-40分はかかったと思われる大幅なタイムロスをしてしまった。


この辺りは坂下宿だろうか?
目を凝らして旧東海道を進む。


松屋本陣跡と書かれた石柱があった。
ようやく東海道47番目の宿場町坂下宿に到着した。
坂下宿には、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒があり、本陣などの規模も大きく、かなり大きな
宿場だった、とのこと。


大竹屋本陣跡の石柱


法安寺
ここの玄関は松屋本陣から移築したもので、これは坂下宿で当時を偲ぶ唯一の遺構だそう。


小竹屋脇本陣跡の石柱


坂下宿を進むと、


家並みが無くなり、しばらく道なりに進んで行くと・・・


16時48分、道端に東海自然歩道の道標があった。
片山神社1.1Km、鈴鹿峠1.5Kmと書かれていた。


道標の指す先には急な階段が・・・やや愕然としたが、ここから本格的な峠越えが始まるのだ。
角度は30%はありそうな急斜面だが、ここは頑張って登るしかない。
関宿を出発した時には右手にデジカメ、左手に地図と傘を持っていたのだが、傘は折り畳んで
リュックに仕舞い、代わりに杖を持つことにした。


左手で杖を使いながら、急な階段を登る。


5-60段ほど登ると平坦な径になった。
片山神社方面へ。


小さな谷には板張りの橋が続いていた。


今度はコンクリート製の階段があった。
段差があって登りづらいし、角度も急で厳しい。


この後、谷を跨ぐ橋と


急な登りの階段が


交互に続いていた。
思っていた以上に厳しい鈴鹿峠である。
昔の人や馬はこの峠を行き来していたと思うと感心せざるを得ない。


それまで急な登りだった径が突然下りになった。
鈴鹿峠が終わったのか???


下り切った所に”南無阿弥陀仏”と刻まれた碑が建てられていた。
馬頭観世音碑だろうか?


直ぐ近くに東海自然歩道の道標があった。
片山神社0.2Km、鈴鹿峠0.6Kmと書かれていた。
まだ鈴鹿峠を越えていないと分かってガックリ。


片山神社はもう直ぐ、と思って進むと、片山神社と刻まれた大きな石柱が現れた。
神社はもう少し先のようだ。


さらに小径を進むと・・・


17時30分、ようやく片山神社に到着した。
急な階段を登り始めて50分ほどかかったことになる。
鈴鹿大明神、鈴鹿権現、鈴鹿明神と呼ばれ、坂上田村麻呂を助けた鈴鹿御前を祀ったといわれている。
水害や火事の神様である。


一息入れていた時、かみさんから『万人講常夜灯で待っている』との連絡が入った。
鈴鹿峠を越えた先の万人講常夜灯を目指すことにした。
これまであった東海自然歩道の標識によると、鈴鹿峠はあと400mほど先ということになるのだが・・・


薄暗い坂道を上って行くと・・・


国道1号の下に出た。


石段を上って国道1号方面へ。


石段を上り切ると小さな空き地があった。
三重県関町と書かれた木製の柱があるのみで、案内板は剥げ落ちていて何が表示されていたのかは分からない。
鈴鹿峠は左の階段を登ることになると思われたので、手持ちの地図と勘を頼りに進んだ。


薄暗い坂道を上って行くと・・・鈴鹿峠の説明板があった。
鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道(あすはみち)」と呼ばれ、
平安時代の仁和2年(886年)に開通した。
八町二十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の
今昔物語集に水銀(みずがね)商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文を
唱えて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立鳥帽子という山賊を捕らえた
という話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。
また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師に
鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠まれている。
江戸時代の俳人、松尾芭蕉は鈴鹿峠について「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残している。
環境省・三重県


さらに上りの石段の坂道が続く。


曲がりくねった急坂を息を切らしながら上って行くと・・・


径が平坦になって、鏡岩150mの案内表示が・・・
この時点でかなり疲れていたし、かみさん達を待たせることになるため、鏡岩(往復300m)
へ行くのは諦めることにした。


鈴鹿峠の説明板が。
鈴鹿峠は伊勢と近江の国境をなす標高378mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っている、とある。
(以下略)
ここが鈴鹿峠の頂上(378m)と思われる。


左三重県・右滋賀県の境界を記す石碑が建てられていた。


旧東海道の石柱に従って、


石柱を過ぎて少し進むと・・・


18時7分、かみさん達が待つ万人講常夜灯に到着した。


万人講常夜灯
道中安全を祈願して江戸時代に建立されたもので、「万人講」・「金毘羅大権現永代常夜灯」と刻まれています。
重さ38t、高さ5.44mの自然石の常夜燈で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられています。
由来書によれば、「文化年中」の霊験により見出された「神石」を用いたものといい、「甲賀郡中」の信心ある者たちが寄った「万人講」が企画・建立し、毎夜火を灯すようになったと云います。
鈴鹿トンネルの工事のため旧東海道沿いから現在地に移設されましたが、東海道随一の難所・鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことでしょう。
甲賀市教育委員会


この後、予約していた亀山市内のホテルに向かった。
夕食はホテルから5分ほどの和食レストラン「さがみ」へ。


和食御膳は盛りだくさんで美味かった。


この日の万歩計は18,000歩を計測していた。
関宿の西の追分から鈴鹿峠を越えただけだったが、意外と歩数が多かったのには驚いた。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(2日目)

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