ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧甲州街道を歩く 第五回 日野宿から駒木野宿へ

2016年08月28日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2016年8月28日(日)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第五回目は、日野宿(JR日野駅)から駒木野宿(JR高尾駅)までの約12Kmを歩いた。

山の手線上野駅で、小田原行を待っているところ。


東京駅中央線ホームへは長いエスカレータだ。


8時39分発の高尾行中央特快に乗車。
立川から先へ行くには、中央特快が断然早い。


『いつもの快速を使うより15分も早く着くんだって』


9時26分、日野駅に到着


この日の八王子市の予報は、午前中は曇りということだったが、駅に着いた直後小雨が降り出した。
大した雨ではないので我慢出来なくはないが、全員一応雨具を着用し、9時37分、出発!


日野駅を出発して直ぐ、八王子方面へ向かう甲州街道の坂の途中に宝泉禅寺があった。


宝泉禅寺は、臨済宗建長寺派の寺で、開祖は鎌倉建長寺の曇芳同応大和尚、
元徳年間(1330年頃)の創建と云われる。


本堂は、平成13年5月に新築落慶し、境内も整備し直されている。
この日の旅の無事安全を祈願した。


宝泉禅寺を後にして八王子方面へ向かおうとしたところ、
なんと中央線を横断する踏切は閉じられた状態に・・・
通りがかりの婦人に道を訊ねると、少し先に線路を跨ぐ橋があるとのこと。


線路に沿って中央高速道の下を潜り、しばらく行くと、


婦人に案内された中央線を横断する橋(神明橋)が見えてきた。


階段を上って神明橋へ。


神明橋から中央高速道、日野駅方面を望む。


神明橋を渡って大坂上三丁目の三叉路を左に折れ、甲州街道(国土20号)を目指す。


しばらく進むと、右手に日野自動車本社工場が・・・


大型・中型トラックの組立~検査までの一貫作業を行っている、とのこと。
敷地面積は、429,000㎡ で東京ドーム約10個分の広さだそうだ。
『いやぁ とにかく広いなぁ』


日野自動車の工場が終わると、今度は左手にコニカミノルタの工場が現れた。
こちらもかなりの広さである。


10時33分、コニカミノルタの工場を過ぎると八王子市に入った。


八王子市に入ると、旧家が目立つようになった。
まるで武家屋敷のような、薬医門を構えた大きな敷地の家が続く。


高倉稲荷神社前を通過
この辺りは高倉町というらしい。


高倉町交差点を通過すると、


甲州街道(国道20号日野バイパス)への合流点だ。


10時45分、日野バイパスに合流したところにコンビニがあったので、ひと息入れていくことにした。
日野駅を出発して1時間10分が経過していた。
雨は殆ど止んでいた。


『高尾まで8Kmなんだねっ』


11時ちょうど、八高線を通過
(写真は拝島方面)


11時5分、日本橋から43Kmの地点を通過


続いて、11時10分、国道16号(八王子バイパス)を通過


道路右手に「吉野屋」があった。
『5月に食べた”とろろ牛丼”、美味しかったよね~っ』
『しかし今日はちょっと時間が早すぎるよねっ』
ということで、この日は素通りすることに。
国道20号沿いなので、この先いろんな店があるだろう、との期待を込めて。


11時16分、浅川に架かる大和田橋に到着


大和田橋は、往時は4月~9月までは徒歩渡りで、10月~3月までは架橋された、そうである。


大和田橋を渡る。


橋の歩道上には、写真のような色タイルがある。
太平洋戦争の空襲による焼夷弾の投下跡、とのことだ。
説明によると、
八王子市は、太平洋戦争終結の13日前の昭和20年8月2日未明に、米空軍のB29爆撃機180機による空襲を受け、
約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街地の80%の家屋が焼失する被害を受けた。
このとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かった。


大和田橋の歩道上には、この空襲のとき投下された焼夷弾の跡が17か所残っている。
車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていないが、歩道上の弾痕数から推測すると、
橋全体では約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われる。
建設省相武国道工事事務所では、焼夷弾の弾痕を保存し、太平洋戦争の痕跡を末永く後世に伝えるものです。
(建設省関東地方建設局 相武国道工事事務所)


浅川は、鮎が名物で将軍家にも献上された、そうである。


浅川を渡ると旧甲州街道は、現甲州街道(国道20号)から右に逸れ、北大通りを進むことになる。


竹の花公園の片隅に「竹の鼻一里塚跡碑」が建っていた。
日本橋から12番目の一里塚跡である。
江戸初期の頃は、ここが八王子宿の入口だったが、その後街道が移動して、現在は甲州街道筋からは外れている。


竹の花公園の隣に永福稲荷神社がある。
永福稲荷神社は、八王子市新町の鎮守で、祭神は倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)。
古くはこの辺り一帯は竹の鼻と呼ばれていたところから、竹の鼻稲荷神社とも言われていた。
宝暦六年(1756)力士八光山権五郎が再建し、落成と同日に相撲を奉納したと云われている、そうだ。


永福稲荷神社の境内に、八光山権五郎の実物大の像が建てられている。
八光山権五郎は、江戸時代中期(寛延・宝暦)に活躍した八王子出身の力士で、
身長六尺三寸(191Cm)体重不詳、嶋屋という絹問屋の後継ぎで商売をしながら相撲をとっていた。
八光山は、八王子から相撲が開かれる場所へ旅立つ前には、必ず稲荷神社へ参拝し、旅の安全と必勝を祈願、
亦帰郷した折にも境内で勧進相撲を奉納した、とのこと。(以下略)


永福稲荷神社例大祭のポスター
9月3日(土)、屋台一杯に生姜を盛り上げた露店が並ぶ「しょうが祭」が行われる。
新町周辺で生姜が採れたことから、「しょうが祭」は江戸時代に始まったのではないかと言われている。
9月2日は前夜祭で、境内でカラオケや舞踊が、3日には奉納演芸大会が催される、そうだ。


旧甲州街道は、永福稲荷神社から八王子の市街地へ。


八王子駅近くに村社・市守神社があった。
天正十八年(1590)の八王子城落城後、八王子の町は現在地に移され、
横山宿では四の日、八日市宿では八の日に市が開かれ賑った。


そこで、市の取引の平穏無事を守り、人々に幸せを与える守護神として、
「倉稲魂命」(うかのみたまのみこと)を祀り創建され、横山市守稲荷と呼ばれた。
現在でも毎年二月の初午の日には「市守祭」と呼ばれる例祭が行われている。


江戸時代中期に「天日鷲命」(あめのひわしのみこと)が配祀され、毎年11月の酉の日に商売繁盛を祈願する
「大鷲祭」(おおとりさい)が行われ、現在でも「お酉さま」や「酉の市」と称されて賑っている。
今年の「酉の市」は、「一の酉」が11月11日、「二の酉」は11月23日となっている。


11時43分、八王子駅前交差点を通過


駅前の歩道には、「しょうが祭」の看板が・・・


そろそろお腹も空いてきた。
『どこか適当な料理店はないのかねぇ』


「八王子夢美術館」の前に八日市宿の碑が建っていた。
戦国時代の終り頃、関東を治めていた後北条氏が滅ぼされると、秀吉の命で徳川家康が新たな領主となった。
家康の統治下となった八王子では、八王子城下から現在の市街地へ街が移され、新しい街づくりが始められた。
まず東西の道(甲州道中)が整備され、横山・八日市・八幡の3宿が開かれた。


江戸時代に入ると、八王子は甲州道中の宿場町として、また地域経済の中心地として発展。
なかでも八日市宿は横山宿と並び本陣と脇本陣が置かれ、山上家や新野家が本陣役を勤めるなど、
八王子の中心的な役割を担っていた。
四のつく日は横山宿、八のつく日は八日市宿で六斎市が立ち、多くの人々で賑った。


『ありそうでないねぇ』
適当な飲食店がなかなか見つからない。
『そのうち見つかるでしょっ』


目に入るのは仏壇屋ばかりである。
何故か八王子は仏壇・仏具屋が多い感じがしたが、気のせいだろうか?


12時12分、日本橋から46Km地点を通過
次第に飲食店のみならず普通の店も少なくなって、少し心細くなってきた。


そんな中、追分バス停に差し掛かった所で、小さな飲食店を見つけた。
ラーメンやカレーライスなどの他、定食や丼もある。
お腹もかなり空いていたので、全員一致で入ることに。


店内には他に客の姿はなかった。
店は綺麗で雰囲気も悪くなく、店主の対応もすこぶる良い。


めいめい好みの品を注文し、待つこと30分、親子丼が出て来た。
あさり汁が付いて、800円(税込)はリーズナブルである。


『いやぁ なかなか美味しいねっ』


『ファストフード店とは一味違うよねっ』
皆さん満足の様子だった。


13時24分、追分交差点の5差路に差し掛かった。
横断陸橋は、一部は完成していたが、まだ残り半分はこれからという状態だ。


追分交差点の横断陸橋を渡り、旧甲州街道へ。


追分交差点の横断陸橋を渡ったところに追分道標がある。
この道標は文化8年(1811)江戸の清八という職人(足袋屋)が、高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に、
江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てたと云われる道標の一つ。
”左甲州道中高尾山道”と刻まれている。


甲州街道を進む。


千人同心が住んでいたと言う、千人町一丁目付近を通過


日本橋から47Kmの地点を通過。


山梨中央銀行前に馬場横丁の碑があった。
江戸時代に千人隊拝領の馬場が宗格院の北側(現在の五小)前の通りにあったので、
当時からこの所より宗格院迄の道を「馬場横丁」と呼んでいた、とのこと。
武田氏の遺臣がルーツの武士集団で、千人槍衆とも呼ばれ、甲州・武蔵の国境警備に当った
千人同心屋敷跡碑を見落としてしまったのは、残念である。


甲州街道を進む。


高尾山道標
右高尾山、左真覚寺の文字が見える。
ここは散田一里塚跡で、日本橋より13番目の一里塚であった。
この辺りには田んぼが散らばっていたことから散田という地名になったという。


道標脇の石には、昭和二年新道開設当時の甲州街道の景色と歌が刻まれている。


旧甲州街道は、高尾山道標の横に続いている。
細い道の割には車がやたら多い。


原因はこのショッピングセンターにあるのではないか?
警備員に誘導され、次々に車が入ったり、出たりしていた。


細い道は、400mほどで再び甲州街道(国道20号)に合流した。


13時57分、曹洞宗(禅宗)の長安寺前を通過。
ここ八王子を発展させた徳川家康の家臣、大久保長安が有名。
長安は、八王子が江戸城に西側の固めとしてきわめて重要な場所であると考え、
ここに「千人同心」をおくことを提案し、実現させた人物である。
しかし、「長安寺」の長安は、大久保長安とはなんら関係ない、そうだ。


銀杏並木が続く甲州街道を進む。


銀杏(ギンナン)が鈴なりの木も


日本橋から49Kmの地点を通過。


14時10分、高尾警察署前を通過


武蔵陵墓地参道の石柱(参道右側)が建っていた。
多摩御陵参道の入口である。


参道左側の石柱には、多摩御陵参道とある。


参道は、欅の並木になっている。
『100年でこんな大木になるんだぁ』


14時18分、欅並木の先の南浅川橋に到着


昭和二年(1927)、御陵造営決定に伴い、南浅川に全長87mの木製の橋が架けられ、
「南浅川橋」と名付けられたのが始まり。


昭和十一年(1936)に現在の威厳と趣のある橋に架け替えられた。


南浅川橋を往復して欅並木の端で一休み。
ここから約1.5Km先の多摩御陵まで行くかどうかの相談をしているところ。
皆さん少しお疲れの表情に見える。


結局、高尾駅へ向かうことにした。


旧甲州街道は、右へ続いている。


国道20号から逸れて、旧甲州街道を進む。


車が殆ど通らない、静かな住宅地の中を進む。


黒い塀の旧家
『なんて言ったら良いか 趣があるよねぇ』


黒い塀の家は何軒か続いていた。
いずれも重厚さが伝わる造りである。


旧甲州街道は、高尾街道に突き当たった。


高尾街道を横断し、甲州街道(国道20号)へ。


銀杏並木が終わった所を左に曲がると、この日のゴール高尾駅はもう直ぐだ。


見覚えのある高尾駅舎だ。


14時59分、無事高尾駅に到着


高尾駅15時2分発の特別快速(中央特快)に間に合いそうだ。


東京駅から常磐線への接続時刻を調べている?


『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧甲州街道を歩く」第五回目(日野宿~駒木野宿)を歩き終わった。
JR中央線日野駅から、高尾駅までというまずまずの距離だった。
日野駅では出だしからいきなり小雨に見舞われたが、途中で上がったため、傘無しで歩けたのは幸いだった。

次回(9月)は、駒木野宿(高尾駅)から小仏峠を越える道(約10Km)を予定している。
距離はさほどないが、甲州道中最大の難所と云われた小仏峠越えがある。
どんなハプニングが待ち構えているのだろうか?
今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。

この日の万歩計は、21,000歩を計測していた。

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富士登山トレーニング 薬王院コース(4回目)

2016年08月19日 | ウマさんの気ままなウォーキング
2016年8月19日(金)

富士登山自主トレーニングとして、筑波山薬王院コースに三度挑戦した。
8月7日、約1ヶ月ぶりで薬王院コースに挑戦した際に、太腿の筋肉痛で思うように歩けず、
皆さんには大きな迷惑をかけている。
この状態で約半月後に迫った富士登山本番を迎えるのは、ちょっと厳しいと思った次第である。

この日のコースは、前回(8月11日)と同じく、薬王院の駐車場をスタートし、薬王院コースを上り、
女体山(877m)に参拝して、薬王院コースを下るというものである。
この日は、「健康ウォーキング同好会」のNさんも一緒だ。

9時30分、薬王院駐車場に到着。
待ち合わせをしていたNさんが、間違えて別の駐車場へ行ってしまったようだ。
携帯で連絡を採ろうとしたが、通信状態が悪くて思うように繋がらない。
念のため筑紫湖駐車場へ戻ったりしてみるが、なかなか会うことが出来ずに少々あせった。
筑紫湖駐車場付近で、何とか携帯が繋がり、無事合流することに成功。


9時55分、準備を整えて出発!


9時57分、薬王院仁王門(楼門)前に到着


仁王門は、県の文化財に指定されている。
Nさんは、薬王院は初めてとのことで、仁王門の偉容に圧倒されたようだ。


仁王門を潜って


急な石段を上ると、目の前に本堂が構える。
椎尾山薬王院は、延暦元年(782)最仙上人の開基による天台宗の寺院である。


県内三塔の一つに数えられている三重塔も県の文化財に指定されている。


本殿(瑠璃殿)にこの日の無事を祈願して、登山口へ向かう。


10時4分、薬王院ルートの登山口に到着


筑波山頂まで2,960mだ、頑張ろう!
先頭は、自分が務める。


杉の林とシダの群生地を過ぎ、


標高250m、筑波山頂まで2,560mの地点を通過。


緩やかな山道が続く。


かなり急な丸太の階段を上ると、


10時37分、筑波高原キャンプ場へ続く舗装道路に出た。
登山口から33分が経過していた。
ここまで休憩なしで、まずまずのペースである。


水分補給のため、しばし休憩。


10時44分、今度はNさんを先頭に筑波山山頂を目指して、出発!
山頂まで1,622mと表示されている。


舗装道路を過ぎた辺りは、普通の山道だが・・・


次第に上りの勾配がきつくなり、丸太の階段が始まった。


しばらく丸太の階段を上ると、丸太の間隔が短くなり、一段と急坂になって来た。


薬王院コースの最大の難所「心臓破りの階段」だ。


太腿が次第に痛くなってきたが、ここが頑張りどころだ。


直登だった階段が終わり、ジグザグの階段に変わる。


この後ジグザグの階段が続くが、もうひと踏ん張りだ。
たまに下ってくる人とすれ違う。


11時14分、丸太の階段がいったん途切れる辺り(標高630m、山頂まで1,092m)を通過。


丸太の階段は、この後もさらに続く。
この辺りはかなり呼吸が苦しくなる場所だ。


標高670m、山頂まで942mの地点を通過し、11時21分、ようやく平坦な場所に出た。
『いやぁ このコースは厳しいねぇ』
Nさんもかなり堪えたようである。


一息入れた後、杉林を抜け、


緩い丸太の坂道を進む。


11時35分、自然研究路の分岐点を通過。
御幸ヶ原まで残り0.5Kmである。


自然研究路の分岐点を過ぎると、緑に包まれた緩やかな石段の道になる。


木々の間から加波山・燕山・丸山の筑波連山がはっきりと見える。
昨日の雨で視界が良くなっている。


最後のやや急な石段を上り、


熊笹に覆われた道を進むと、


11時47分、御幸ヶ原に到着した。
薬王院登山口から1時間43分かかったことになる。
この日は、平日のためか、人出は少なかった。


ケーブルカー山頂駅の茶屋とコマ展望台も人はまばらである。


『今日はかなりはっきりと見えるねぇ』


御幸ヶ原からの眺望(真壁方面)


御幸ヶ原からの眺望(筑波連山)


昼食には、まだ少し時間があるので、女体山神社へ参拝することにした。


女体山側から見た男体山
人影は少ない。


女体山へ


セキレイ茶屋を通過


セキレイ茶屋の前にセキレイ石がある。
”この石の上に鶺鴒が留まり、男女の道を教えたと云われている”とある。
日本書紀には、日本神話の国産みの伝承の一つとして、イザナギとイザナミが性交の仕方が分からなかったところに
セキレイが現れ、セキレイが尾を上下に振る動作を見て性交の仕方を知ったという内容の異伝に関する記述がある。
(Wikipediaより)


ガマ石を通過、


続いてアンテナ鉄塔を通過し、


12時9分、女体山神社(877m)に到着
脚の筋肉痛は少しあったが、前々回ほどではなく、何とか登頂することができた。
無事登頂出来たことに感謝の気持ちを込めて、参拝!


女体山山頂(877m)はそれほど混んではいなかった。


女体山頂から見たつつじヶ丘駅周辺の景色


筑波山麓の景色


男体山(871m)を望む。


絶景に見入るNさん。


女体山から下山し、再び御幸ヶ原へ。


御幸ヶ原を見下ろす石段脇に腰を下し、昼食を摂ろうとしたその時、小学生の団体がやって来た。
引率の人も入れてその数50名は下らない。


目の前で、弁当タイムが始まった。


石段の手前右側は、自分たちより先に弁当を食べていた人たちだが、
向い側は、たった今到着したばかりの一団だ。
どうやらボーイスカウトの子供たちと引率の先生のようである。


石段は子供たちに占領されてしまった。こんな状態である。
この石段は、大きな木が直射日光を遮ってくれるので、人気の場所なのである。


子供たちに囲まれながらも何とか食事も終わったので、後は下山するだけである。


13時3分、下山開始!
下りはNさんが先頭を務める。


熊笹に覆われた道を薬王院を目指す。


コンクリートの階段を下り、


13時12分、自然研究路分岐点を通過
薬王院まで2.5Kmと表示されている。


緩やかな丸太の階段を下り、


杉林の道を過ぎると、


丸太の急な階段が始まった。


下りの階段は、段差があって歩き難いが、


Nさんは、一気に丸太の階段を下る。
遅れまいと後を追うのが精いっぱいである。


舗装道路が見えてきた。


13時37分、舗装道路に出た。


御幸ヶ原からここまで34分かかった。
前々回より3分ほど早い。


13時44分、一息入れた後、薬王院を目指す。
Nさんの後を追うのはしんどいので、今度は自分が先頭を務めることにした。


15分ほど山道を下り、14時ちょうど、薬王院まで500mの地点を通過


シダが生い茂る杉林を抜け、


14時6分、登山口に到着した。
御幸ヶ原からここまで1時間3分かかったことになる。
まずまずのペースだと思う。


14時8分、薬王院薬師本堂に到着


振り返ると、男体山の山頂が見えた。
『またおいで』と言ってるようだった。


無事登山が出来たことに感謝の念を込めて、梵鐘を一撞きし、


仁王門の前を通って、薬王院を後にした。
Nさんとは、再度の挑戦を約束し、帰路に就いた。


富士山自主トレーニングが終わった。
心配していた太腿の筋肉痛は若干あったが、何とか無事に下山することが出来て一安心している。
この調子ならば、あと1-2回トレーニングすれば、皆さんにそれほど迷惑をかけなくて済むのではないか・・・
念願の富士登山に向けて、可能な限りトレーニングを積み、富士山登頂を果したい。

この日の万歩計は、15,000歩を超えていた。


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富士登山トレーニング 薬王院コース(3回目)

2016年08月11日 | ウマさんの気ままなウォーキング
2016年8月11日(木)

この日は、富士登山自主トレーニングとして、筑波山薬王院コースに挑戦した。
4日前の8月7日、約1ヶ月ぶりで薬王院コースに挑戦した際に、太腿の筋肉痛で思うように歩けず、
皆さんには迷惑をかけたことから、
このままの状態で1か月後に富士登山本番を迎えるのは、かなり厳しいと思ったのが理由である。

薬王院の駐車場をスタートし、薬王院コースを上り、男体山(871m)に参拝して、
薬王院コースを下るというものである。

9時16分、薬王院駐車場に到着。
駐車場には他に車は1台しか停まっていなかった。
山の日なので、もう少し多いかと思ったが・・・


この日は1人なので、直ぐに出発だ。


9時18分、薬王院の仁王門前に到着


仁王門(楼門)の前に、樹齢500年と云われる椎の大木がある。
この椎は、寺のシンボルとなっている。
椎尾山薬王院の山号に相応しい。


仁王門の横には、大きな草履と下駄が奉納されている。
この反対側にも同じものがある。


仁王門を潜って


急な石段を上ると、


目の前に本堂が構える。
椎尾山薬王院は、延暦元年(782)最仙上人の開基による天台宗の寺院である。
楼門・薬師堂・三重塔などの伽藍が樹林の中に配置されている。
本尊の薬師瑠璃光如来は鎌倉時代の作で、県内三塔の一つに数えられている三重塔とともに、
県の文化財に指定されている。


県内三塔の一つに数えられている三重塔


本堂を後にして、首なし六地蔵の前を通り、登山口へ向かう。


9時27分、薬王院ルートの登山口に到着


案内標識には、筑波山頂まで2,960mと表示されている。
登山口の歩道案内板には、2,300mと書かれているが、どちらが正しいのだろうか?


登山開始しようとしたところ、目の前にニョロニョロと動くものが!
何と”マムシ”である。
縁起が良いのか悪いのか? 運は天に任せるしかない。


上り始めて直ぐに、若い女性2人が駆け足のようなスピードで追越して行った。


その姿はみるみる小さくなっていった。
自分は、マイペースで上ることにしよう。


杉の林とシダの群生地を過ぎ、小さな板張りの橋を通過。


緩やかな山道が続く。


次第に上りの勾配がきつくなり、丸太の階段になってきた。


かなり急な丸太の階段を上ると、


9時58分、筑波高原キャンプ場へ続く舗装道路に出た。
登山口からちょうど30分が経過していた。
自分を追い抜いて行った2人の女性と別の男性が話をしていた。


しばらく休憩を摂った後、10時4分、筑波山山頂を目指して、出発!
山頂まで1,622mと表示されている。


舗装道路を過ぎた辺りは、普通の山道だが・・・


しばらくすると、丸太の間隔が短くなり、一段と急坂の道になって来た。


薬王院コースの最大の難所「心臓破りの階段」だ。


太腿は痛いが前回ほど歩けないほどのことはない。
しかし、スピードが極端に遅くなった。
息が上がる。後から上る人に次々に追い越されてしまう。


直登だった階段の中間地点に到着して、後ろを振り返る。
このポイントは、よく上って来たものだと来る度に思う場所だ。


この後ジグザグの階段が続くが、もうひと頑張りだ。


10時31分、丸太の階段がいったん切れる辺り(標高630m、山頂まで1,092m)を通過。


丸太の階段は、この後もさらに続く。
この辺りもかなり呼吸が苦しくなる場所だが、ものともせずに上る人もいる。


10時36分、標高670m、山頂まで942mの地点を通過すると、


ようやく平坦な道になった。
先ほど追越して行った人たちが休んでいた。
2人ともやはりこの直前の階段は、相当堪えるらしい。


しばらく休んで息を整えていると、次々に若い人たちが上ってきた。
顔馴染みのようだ。


杉林を抜け、


緩い丸太の坂道を進む。


10時49分、羽鳥道コースとの分岐点を通過。


羽鳥道コースの入口には、
「このルートは道がはっきりしておらず、危険な場所や迷い易い場所が数多くあります。
ご利用には十分ご注意下さい」
との注意書きがある。
このコースは、2011年10月28日に、所属する「健康ウォーキング同好会」で一度上っている。
男の川案内板からの近道になるため、利用する人はけっこう多い。


10時54分、自然研究路の分岐点を通過。
御幸ヶ原まで0.5Kmだ。


分岐点の直ぐ近くに”大石重ね”がある。
願い石(筑波山神社で祈祷された小石)に願い事を書き入れ、この場所に置くと、
願いが叶うと言われている、らしい。


自然研究路の分岐点を過ぎると、緑に包まれた緩やかな石段の道になる。


木々の間から筑波連山が見える。
左から加波山、燕山、丸山と続いている。


最後のやや急な石段を上り、


緑に覆われた道を進むと、11時7分、御幸ヶ原に到着した。
薬王院登山口から1時間40分かかったことになる。
この日は、初めての『山の日』で、かなりの人たちで賑っていた。


さまざまな『山の日』イベントが催されていた。
”カチカチカチカチ・・・・”
20人余りの子供たちが懸命に石を割っていた。


筑波山化石発掘体験とある。


コマ展望台前では”食べ放題”の臨時のビアガーデンが・・・


”流しそうめん”の受付には、


長い行列が出来ていた。


昼食には、まだ少し早い。
女体山神社へ行こうかと思ったが、岩場は混雑が予想されたため、男体山へ登ることにした。


男体山頂へ


男体山頂への途中から見た女体山の景色。


山頂の神社への岩場は大変なラッシュである。


最後の急な石段を登り、


11時32分、男体山神社(871m)に到着
無事登山出来たことに感謝の気持ちを込めて、参拝!
脚の筋肉痛はあったが、前回ほどではなく何とか登れた。


男体山頂から見た筑波平野の景色


男体山から下山し、


見浦亭へ。


かき氷を注文した。
前回はいちごだったので、今日はメロン(400円)にした。
男体山へ登った時は、かき氷を食べるということがクセになりそうだ。


あまりお腹は空いていなかったので、
とりあえず下山し、麓に着いて弁当にしよう。
ということで、11時59分、御幸ヶ原を後にして下山開始!


緑に覆われた道を薬王院を目指した。


12時9分、自然探求路分岐点を通過
薬王院まで2.5Kmと表示されている。


続いて、標高710m、薬王院まで2,494mの標識を通過


12時12分、羽鳥道コースとの分岐点を通過


緩やかな丸太の坂道を下り、


杉林を過ぎると、


丸太の急な階段が始まった。


標高630m、薬王院まで1,968mの地点を通ぎると、


つづら折れの階段になる。


下りの階段は、段差があって歩き難い。
急坂の丸太階段をマイペースで下っていたところ、
自分と年齢はあまり変わらないと思しき人に楽々と追越されてしまった。


汗をかきながら、ようやく段差のある丸太の柵が終わり、普通の山道になった。


12時37分、舗装道路に出た。
御幸ヶ原からここまで38分弱かかった。
ほぼ前々回と同じペースである。


一息入れて、薬王院を目指した。


急坂の山道を下り、


小さな板張りの橋を通過


続いて、12時58分、薬王院まで500mの地点を通過


シダが生い茂る杉林を抜けると、


登山口に近い所に、”冷たい甘酒・甘茶用意しました”の案内が。
朝は、見掛けなかったはずだが・・・


13時5分、登山口に到着。
御幸ヶ原からここまで1時間6分かかった。


13時7分、薬王院薬師本堂に到着した。


感謝の念を込めて、梵鐘を一撞き。


『甘茶、甘酒はいかがですか?』の声がする方を見ると、薬王院授与所からお坊さんが笑顔で招いてくれている。
甘茶・甘酒は、薬王院の「山の日」のイベントで、今年から始めたそうである。
車の運転があるので、甘茶を戴いた。冷たくて美味しかった。
お坊さんが自分で漬けたという梅干しも出してくれた。薬王院で採れた梅だそうだ。
こういう”おもてなし”は嬉しいものである。


お坊さんにお礼を言い、仁王門の前を通って、薬王院を後にした。


13時26分、薬王院駐車場に到着。
クーラーを効かした車内で弁当を食べ、帰路に就いた。


富士山自主トレーニングが終わった。
心配していた太腿の筋肉痛はあったものの、何とか無事に下山することが出来てホっとしている。
この分ならば、あと1-2回トレーニングすれば、皆さんに大きな迷惑をかけないで済むのではないか・・・
念願の富士登山に向けて、可能な限りトレーニングを重ね、富士山登頂を果したい。

この日の万歩計は、14,000歩を計測していた。


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富士登山トレーニング 薬王院コース(2回目)

2016年08月07日 | ウマさんの気ままなウォーキング
2016年8月7日(日)

富士登山トレーニング第5回目(自身4回目)に参加した。
この日は、前回の薬王院コースとは若干異なり、筑紫湖からではなく直接薬王院から薬王院コースを上り、
女体山(877m)に参拝後、女体山コースを下って、筑波高原キャンプ場を目指すというものである。
そのため、この日の第一集合場所は、筑波高原キャンプ場となった。

8時46分、この日の第一集合場所、筑波高原キャンプ場に到着した。
この日参加する人の車が1台の他、登山者のものと見られる車が数台停まっていた。


その後順次、この日の参加者の数台が到着し、しばし談笑。


9時ちょうど、主宰するYさんが到着した。
Yさんが用意した富士登山予定者名簿と詳細行程・持物などを整理した資料を下に説明があった。
この日の参加者は10名である。


車2台に乗り合わせてスタート地点の薬王院駐車場へ移動。


薬王院駐車場で準備を整えて、


9時45分、筑波山を目指して出発!
前回は筑紫湖からだったので、いきなり薬王院からの出発というのは、やはり楽である。


薬王院仁王門前の石段を登る。


桜川市指定文化財の薬王院仁王門
ここで、体調を整えて、


本堂へ参拝
やはり登山前に参拝しておく方が気持ちが落ち着く。


9時54分、体調を整え終って、あらためて筑波山を目指して、出発だ!


弁財天前を通過


六地蔵前を通過
ほとんど首から上が無くなっている。
誰かが意図的に壊してしまったのだろうか?
そうだとしたら本当に心無いことをするものだと思う。


境内奥のお墓の前を通過すると、


見覚えのある薬王院ルート登山口である。
筑波山歩道案内板によると、薬王院~筑波山頂は、2,300mとある。
9時57分、登山開始!


前回は道案内役として途中まで先頭を務めたが、この日は中程を歩くことにした。
シダが生い茂る林を進む。


緩やかな山道が続く。


次第に上りの勾配がきつくなってきたので、最初の休憩を採る。
本堂前を出発して25分が経過していた。


水分補給後、再び山道を進む。


丸太の階段の箇所もあり、勾配が急になってきた。
かなり息が上がる。


丸太の階段道を上ると、


10時33分、舗装された道路に出た。


先頭の2名は、登山口横で腰を下して待っていた。


筑波高原キャンプ場へ続く舗装道路
『この道を通って薬王院に来たのかぁ 気が付かなかったなぁ』


10時38分、最後尾の組が合流し、全員揃った。
薬王院本堂前を出発して44分が経過していた。
主宰者のYさんは、体調が優れないので、前回に続いてここで分れるとのこと。
直接筑波高原キャンプ場へ向かうかもしれないとのこと。


10時39分、一息入れた後、筑波山頂を目指して出発!
この位置の標高は420m、筑波山頂まで1,622mである。


舗装道路を過ぎたら一段と急な山道になった。


丸太の長い急な坂道が現れ始めた。


皆さん、息遣いが荒くなってきた。
自分もこの日は太腿の筋肉が痛くなり、次第にペースが落ちだしたのを感じた。


10時59分、堪らず休憩である。


この先は、丸太の長い急階段が待ち構えている。


厳しい上りの階段が続く。
丸太の柵に掴まりながら上る。
『この坂ちょっときつ過ぎるわよねっ』


それまで直登だった階段がジグザグのつづら折に変わった。
太腿の筋肉が我慢できないほど痛くなり、スピードが極端に落ちてきた。
先を行く3名の後を追うが追い付かないばかりか、次第に離されてしまう。


後から上る人に


追い越され、置いて行かれる始末である。


11時15分、標高630m、筑波山頂まで1,092mの標識を通過。


少し先で先頭グループが一息入れていた。


もう少し先に平らな場所があるので、そこで後続を待つことにしようということに。
標高670m、筑波山頂まで942mの標識を通過し、


ようやく平らな場所に出た。
『ここで待つことにしようっ』


目の前を若い女の子が駆け足で走り抜けていった。
『いやぁ 若い子はやっぱり凄いよね~っ』


丸太に腰を下して待つこと数分、後続グループが到着した。


ここからは、急な上りはないので、めいめい筑波山を目指すことになった。


11時46分、不動滝コース分岐点を通過。


緑に包まれた緩い坂道を進む。


標高710m、山頂まで566mの標識を通過。


11時51分、自然研究路の分岐点に到達。
ここで太腿の筋肉痛を和らげる薬を塗布している間に後続のグループに追い越されてしまった。
看板の裏にいたので、皆さん気が付かなかったようだ。


自然研究路の分岐点を過ぎると、緑に包まれた緩やかな石段の道になるが、
後からの人に軽々と追越されてしまう。


緑の平坦な道を追いかけるがなかなか追いつかない。


木々の間から筑波連山が見えた。
この日は、加波山・燕山・丸山などがはっきりと見える。


石段の先で、ようやく休憩中の最後尾のグループに追いついた。
『先を行ってるとばかり思ってたよっ』
看板の裏にいたことを説明した。


最後の石段を上り、


緑に覆われた道を進むと、


12時5分、御幸ヶ原に到着した。
この日の御幸ヶ原は日曜日にも関わらず人はさほど多くはなかった。
やはり気温が高い(この日の予想最高気温は35度)のが敬遠されたのかもしれない。
薬王院本堂を出発して2時間9分、薬王院登山口から2時間6分かかったことになる。


御幸ヶ原から真壁方面の景色を楽しむ。


『この日は良く見えるわね~っ』


昼食場所を求めて女体山側へ。


御幸ヶ原から男体山(871m)方面を望む。


御幸ヶ原の広場に”ガマの油売り口上”のセットが・・・
休憩中らしく誰もいなかった。


御幸ヶ原の女体山側の木陰で昼食を摂ることにした。


ここで、偶然にも仲間と思われる人にばったり。
ユースホステル跡から上り、既に女体山・男体山に登ったとのこと。


12時14分、石段に腰を下して昼食タイム。


昼食後、石段前の茶屋に水を買い求めに行くと、白袴に鉢巻、タスキ掛けの服装の御仁が。
一見して”ガマの油売り口上”の香具師と思しき人が食事中だった。
記念にと1枚撮らせてもらった。
立派な髭を生やしてなかなかの風貌である。


そろそろ下山しようかと思っていたら、ガマ口上が聞こえてきた。
『さあさあご用とお急ぎでない方は聞いてらっしゃい、見てらっしゃい』のお馴染の口上の合間に
観客に話しかけるような感じで始まった。
しかし、観客は2名のみ、これはいささか少な過ぎる。


ご用とお急ぎでなければ、じっくりと聞きたいところなのだが、この日はそうはいかない。
下山開始する際にもう一度見ると、観客がもう1名増えていた。
暑さが厳しいが、頑張って欲しい


12時51分、女体山神社へ向かって後半のスタート。


女体山神社を目指す。


せきれい茶屋を通過
ここで筋肉痛を抑える薬を塗布している間に皆さんとはかなり遅れてしまった。


13時3分、ガマ岩を通過


13時6分、筑波高原キャンプ場への下山口を通過
ここから下ることになる。


筑波山ロープウェイへの分岐点を通過し、


13時8分、何とか女体山神社へ到着した。
この日の無事登頂を感謝


女体山の岩場はいつ見ても何名かの人が占有するような状態である。
手前には、そこに立ちたい人が列を作って並んでいる。


我々一行は既に下山開始の体制に入っている。
この日は、岩場に立つのは諦め、皆さんと一緒に下山することにした。
皆さん愛用の薬などを分けてもらったのは、有り難かった。


13時16分、筑波高原キャンプ場への下山口に到着し、下山開始だ。
キャンプ場まで1.6Kmと案内表示されている。


最初は急坂の山道が続くが、


途中から緩やかな道になる。


丸太の階段ではないので、足への負担が少なく歩き易い。


13時27分、キャンプ場まで1.1Kmの地点を通過。


緑のモミジ林の中を下る。
秋には紅葉が素晴らしいことだろう。


13時34分、キャンプ場まで0.7Kmの地点を通過。


杉林の緩やかな斜面を下る。
『このコースは初めてだけどなかなか良いコースだよねっ』


『こんなコースがあるなんて知らなかったわっ』


13時42分、下山開始から約25分経過したところで一息入れる。
最後の水分補給だ。


ゴールのキャンプ場を目指す。


女体山山頂まで1.5Kmの標識を過ぎると、周囲が明るくなり、景色が変わった。


左手の林の中にキャンプ場のバンガローが見えてきた。


キャンプ場の広場が見えた。


13時56分、筑波高原キャンプ場に到着した。
女体山コースの下山開始からちょうど40分である。
最後まで歩けたのは、下りだけだったこともあるが、皆さんから分けていただいた
薬が効いていたからかもしれない。


駐車場へ向かった。
Yさんの車は見当たらなかった。
既に帰宅したものと思われる。


この後、薬王院駐車場へ向い、そこで解散した。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『本番ではお互いに頑張りましょうっ!』


富士山トレーニング第5回目(自身4回目)が無事終わった。
薬王院駐車場をスタートして、薬王院コースを上り、女体山神社を経由して、女体山コースを下るという
筑波山コースの中でも上りはきつかったが、前回に比べ比較的短いコースだった。
太腿の筋肉痛で大変だったが、皆さんの協力で無事歩き終えてホっとしている。

途中での太腿の筋肉の痛さは、今まで経験したことのないものだった。
このまま本番を迎えるのは何とも心もとない。
あと1-2回はこのコースを経験しておいた方が良さそうだ。
念願の富士登山に向けては、可能な限りトレーニングを積み、富士山登頂を果したい。

主宰者のYさんから、筑波高原キャンプ場から直接帰宅したとの連絡があったことを添えておこう。

この日の万歩計は、12,000歩を計測していた。


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日本100名城巡り No.1 根室チャシ跡群

2016年08月01日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2016年8月1日(月)

チャシ跡は、アイヌ文化期(13~19世紀)の砦跡とされているが、チャシ跡の築造は、18世紀頃までとされている。
砦の他にも見張場・聖地・祭祀場などの使われ方をしたようで、その規模や形状はさまざま、そうである。

北海道内には500ヵ所以上のチャシ跡が確認されている。
特に道東地方はチャシ跡の分布密度が高く、根室市内にはチャシ跡が32ヵ所現存している。
その殆どがオホーツク海を臨む海岸段丘上に造られている。
根室半島のチャシ跡群は保存状態が良好なこと、分布密度が高いこと、寛政元年(1789)の
和人のアイヌ民族に対する非道が発端の「クナシリ・メナシの戦い」と関連性が高いことから、
根室半島に分布する24ヵ所が、「根室半島チャシ跡群」として、昭和58年に国指定史跡となっている。
根室半島のチャシ跡群分布図


日本100名城ガイドブックの他には何も資料を持ち合わせていないため、
前日、スタンプ押印も兼て「根室市歴史と自然の資料館」を訪れることにした。
ガイドブックには「根室市歴史と自然の資料館」の住所は記載されておらず、
電話番号を頼りにNAVIに入力すると、花咲港中央付近が案内された。

花咲港近くの大八カニ店から「根室市歴史と自然の資料館」へ直接電話して、場所を教えて貰った。
電話では直ぐ近くのようだったので、歩いていけると考え、指示に従って進むことにした。
これが意外に遠かった。
指示どおり近くに花咲港金刀比羅神社があった。


金刀比羅神社から少し先の坂道を上って行くが、それらしき建物は見当たらない。


場所を間違えたのではないかと、少々不安になった。
深い霧の中、急坂の道を上って行くこと約400m、


ようやく「根室市歴史と自然の資料館」に辿り着いた時には、体中が汗だくになっていた。


「根室市歴史と自然の資料館」でスタンプを押印し、パンフレットを貰った。
パンフレットには、ヲンネモトチャシ跡とノツカマフ1・2号チャシ跡の説明や、
クナシリ・メナシの戦いとチャシ跡の関係など、日本100名城ガイドブックには
記載されていない情報が載っていた。
これらの情報を元にチャシ跡を訪れることにしよう。


大八カニ店に戻り、今夜のつまみに花咲蟹を購入。
花咲蟹がたっぷりと入ったカニ炒飯もお薦めらしい。
NHK-BS3の”心たび”で日野正さんが美味しそうに食べていたのを思い出した。
カニ炒飯は、実際に大変美味しく孫にも好評だった。


花咲蟹が美味かったのは言うまでもない。


翌日(8月1日)、先ずは納沙布岬を訪れることにした。
納沙布岬へ向かう途中、根室市街地(西浜町)の近くの岬にチャシ跡らしきものが見えたが、
これは、日本100名城ガイドブックに記載されているアツケシエト1号2号チャシ跡だろうか?


納沙布岬灯台
北海道灯台発祥の地で、本土最東端の灯台である。
日本で一番早く朝日が昇る。


本土最東端納沙布岬の標柱を前に孫と記念撮影


納沙布岬には、北方領土の返還を求める標柱が多い。
”呼び返そう 祖先が築いた 北方領土”


”返せ 全千島 樺太 北の防人”
全ての日本人の願いが込められている。


北方館の建物には、”北方領土は日本の領土”と書かれている。


四島返還を求める碑には、”四島のかえる日平和の日”が英語で併記されている。


四島のかけ橋の碑


聖火のように赤々と灯が燃えている。
四島が返還されるまで絶えることなく燃え続けるのだろう。


四島のかけ橋には、次のように刻まれている。
四つの島がしっかり支え合っているこのシンボルは、歯舞・色丹・国後・択捉島の祖国復帰をひたすらに願う
全国民の祈りを込めて、建立されました。
みなさんとともに、わが国固有の領土であるこの島々が祖国に還る日を、力強く祈念しつづけましょう。


北方館の前に寛政の蜂起和人殉難墓碑が建てられていた。
「根室市歴史と自然の資料館」で入手したパンフレットにも記載されている。
「墓碑裏面には、和人の視点からアイヌ民族が不意に襲って来たとあるが、
和人が殺害された原因はアイヌ民族への非道行為が原因であり、石碑の内容と事実は異なる」
との記述がある。


墓碑表面:横死七十一人之墓
(不慮の死を遂げた七十一人の墓)


墓碑裏面には、
寛政元年五月に、この地方の凶暴なアイヌが集まり、突然反乱を起こした。
偶然居合わせた侍や漁民、合計七十一人が殺された。その姓名の記録は役所にある。
ここに合わせて供養し、この碑を建てる、と刻まれている。
和人を殺害したアイヌ民族37人は、ノッカマップに連れてこられ処刑された、そうである。


墓碑側面には、文化九年歳在壬申四月建
(文化九年四月に建てる)と刻まれている。


日本100名城ガイドブックには、根室半島の概略地図と、チャシ跡名が記載されている。
そこで、記載されていた納沙布岬近くのポンモイチャシ跡を探した。
地図で示された辺りの景色だが、ここがポンモイチャシ跡かどうかは定かではない。


標識などは何もなく、残念ながらポンモイチャシ跡を見つけることは出来なかった。


パンフレットに示されたチャシ跡を求めて、温根元漁港へ向かう。


温根元漁港の近くにヲンネモトチャシ跡の標識があった。


標識に従って進むと、草原に人が歩けるほどの細い道が続いていた。


草原の中を進むと、ヲンネモトチャシ跡の案内板が立っていた。


案内に従って進むと、


温根元野鳥観察舎があった。
海鳥やチシマシギをじっくり観察できるスポット、だそうだ。


野鳥観察舎をさらに進むと、右手に温根元の漁港が見えてきた。


温根元漁港を見ながら進むと、


根室半島チャシ跡群の標柱が建っていた。


ヲンネモトチャシ跡
チャシ跡は平に盛土され、周りを壕が囲んでいる。
深さは2-3m、かつてはもっと深かったのだろう。


小高い所がヲンネモトチャシ跡で、手前の窪んだ所が壕跡である。


ヲンネモトチャシ跡に立って、先ほどの根室半島チャシ跡群の標柱(白い杭のようなもの)を見たところ。
後方には温根元の民家が見える。
手前の窪んだ所が壕跡。


ヲンネモトチャシ跡には先ほどとは別の標柱が建っていた。
チャシ跡から温根元漁港を望む。


ヲンネモトチャシ跡から見た温根元漁港(1)

ヲンネモトチャシ跡から見た温根元漁港(2)

ヲンネモトチャシ跡から見た温根元漁港(3)


今度は、温根元漁港からヲンネモトチャシ跡を見てみた。
日本100名城ガイドブックに載っていた写真と同じだ。


岬の先端がヲンネモトチャシ跡で、標柱が見える。


ヲンネモトチャシ跡を後にして、ノツカマフチャシ跡へ向かった。
ヲンネモトチャシ跡から根室市方面へ10Kmほど走ったノッカマップ岬に
ノツカマフ1号・2号チャシ跡の案内標識があった。
小さいながらも車が数台停まれる駐車場もあった。


案内標識に従ってノツカマフチャシ跡へ向かった。


雑木林を抜けると、


広い草原になっていて、細い道が続いていた。


細い道は次第に細くなって、草むらの中を歩く感じである。
この日は霧雨のような雨が降っていたので、ズボンの膝から下はびしょ濡れになってしまった。


ノツカマフチャシ跡の案内板
左側は2号チャシ跡で、1号チャシ跡は右側になっている。


最初に右側の1号チャシ跡へ向かった。
草むらの中を50mほど進むと、根室半島チャシ跡群の標柱が立っていた。
チャシ跡は、16~18世紀ごろ造られたアイヌの砦跡で、当チャシ跡は、
壕が半弧形に横二つ合わさったように掘られている、とある。


ノツカマフ1号・2号チャシ跡の説明板


ノツカマフ1号・2号チャシ跡の周辺地形図
ノツカマフ1号チャシ跡は、半円形の壕が2つ連結して構成されている。
壕の幅は約5m、深さは2-3mと深く、壕の一部に「土橋」と思われる高まりが見られる。
壕の内側は盛土され、チャシ跡中心部は平坦になっている、とのこと。


1号チャシ跡(正面から見たところ)
深くなっている所が壕である。
壕の向うは盛土がされて小高くなっている。


1号チャシ跡(左側の壕)


1号チャシ跡(右の壕)


1号チャシ跡中央部から説明板方面を見たところ。


1号チャシ跡(右の壕)


1号チャシ跡(土橋のある辺りか?)


1号チャシ跡から右方向に小さな港が見える。


1号チャシ跡から引き返し2号チャシ跡へ向かう。


1号チャシ跡から120mほど進むと、ノツカマフ2号チャシ跡の標柱があった。


2号チャシ跡標柱から先端を見たところ。


2号チャシ跡から標柱を見たところ。
左右に窪みが見られるのは、半円形で幅2-3mの壕が巡り、深さ50Cmほどと浅く造られている。


2号チャシ跡の先端は海に面している。


先端から海を見たところ。


ノッカマップ湾の海岸から見たノツカマフ1号チャシ跡
ノツカマフ1号・2号チャシ跡は、ノッカマップ湾に突き出した岬の上にある。


また、オホーツク海を一望できる崖上に、半円形の壕が巡る形となっている。


この後、土砂降りとなった雨の中、日本100名城ガイドブックに紹介されていた他のチャシ跡(ヒリカヲタチャシ跡)を探したが、
残念ながら標柱も含めて見つけることはできなかった。
根室半島を後にして、知床方面へ車を走らせた。

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