ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

ちょっと長過ぎた? 水の恵みを知る道(霞ヶ浦)

2017年03月31日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年3月31日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第42回(2017年第13回)、「水の恵みを知る道(霞ヶ浦)
ウォーキングに参加した。
稲敷市の桜川総合運動公園をスタートして、「関東ふれあいの道」を土浦方面へ進み、
ロードパーク美浦で折返すといういつもよりやや長いコース設定である。
今回が、平成28年度最後の例会となる。

第一集合場所の乙戸沼公園
19名が集まり、スタート地の桜川総合運動公園へ。


桜川総合運動公園に集まった参加者は、27名。
地元に近いという割には30名には届かなかった。
この日は気温も低く、距離もいつもより長いという前触れが効いた?


いつものようにOさんの掛け声
『手をしっかり開いて~っ』


『身体を大きく横に倒しま~す』


10時3分、Oさんを先頭に出発!


目指すは約9Km先の折返し地点となるロードパーク美浦だ。


旧桜川村(現稲敷市桜川地区)古渡方面へ。


緩やかな坂道を下る。
Oさんによると、この道は過去に何度か歩いているそうだ。
間道にしては広く、立派だ。


興禅寺が左に見える。
帰る時に寄ることにしよう。


六地蔵と同じ数の竹棒が立てられている。
竹の先の真っ赤なとうがらしは、ろうそくの炎ということらしい。


桜の並木
まだほとんどが蕾の状態だ。
開花まであと数日かかると思われる。


幹から直接花を咲かせている木があった。
『”ど根性桜”だねっ』 


「桜川こども園」前を通過


旧桜川村内の住宅地を進む。
静かな町並みだ。


10時17分、古渡バス停前を通過


小野川に架かる古渡橋(ふっとばし)を渡る。


古渡橋を渡り、


古渡橋袂のコンビニ前の横断歩道を渡ると、


”うなぎ”と書かれたでっかい絵文字看板がいやが上にも目に入る。
食事処・旅館「喜久」とある。一度入ってみたい。


「喜久」の前を右折すると、
10時24分、霞ヶ浦湖岸沿いの「関東ふれあいの道」が始まる。


霞ヶ浦湖岸に沿って進む。
風が冷たい。昨日の天気が嘘のようだ。


小さな港を通過。
小型のヨットが係留されていた。


10時36分、西浦(霞ヶ浦)右岸24.0Km地点を通過
”西浦右岸”は、常陸川水門からの距離を表している。
0.5Km毎に標識が立っている。


出発して約30分が経過した。
周囲には何もないが、この辺りで一休みしよう。


堤防下の草むらで休憩だ。


土手下なら『少しでも風を受けなくて済みそう』という組と、


『大して変わらないんでしょっ』という土手上を進む組


しかし、150mほどで土手下の道が終わり、再び全員が土手上の道を進む。
まだまだ道は続く。


霞ヶ浦と高橋川の河川管理境界の標識
霞ヶ浦は国土交通省、高橋川は稲敷市となっており、管理者が異なるようだ。


11時2分、高橋川に架かる「はとざき橋」を渡り、対岸へ。


後続グループと高橋川を挟んですれ違う?
『先頭は早すぎるんじゃないっ?』
『早く追い付かないと置いてっちゃうよっ』(そんなことはありません)


湖岸を進む。


小さな港を通過
『これは一応漁港なんだろうねっ?』


11時10分、西浦右岸25.5Km地点を通過


しっかりと後に続く会長
平坦なコースは何ら問題ないようだ。


こちらは先頭グループ
寒い中、快調なペースで進む。


真っ赤な防寒具の釣り人に対して


こちらは紺色の防寒具の釣り人
防寒具の色が対照的だ。
ところで、今は何が釣れるのだろうか?


遠くからでもかなり目立つ建物。
窓ガラスは割れていて中は空っぽだった。


11時23分、湖岸だった道は2つに分かれていたので、内部の方へ。
もう一方は、湖岸へ続いていた。


周りが田んぼの中を進む。


畦のある一ヵ所だけに纏まって咲いていた花が印象的である。
名前は何と言うのだろう?


田んぼは耕され、一部の田には水が張られ始めていた。
田植えの準備はもう始まっているようだ。


「関東ふれあいの道」の道標


11時35分、元鹿島海軍航空隊の跡碑に到着
この地は、元日本帝国海軍所属の水上機搭乗員養成基地
「鹿島海軍航空隊」があったその一角であり、
当時義務教育を終え又は旧制中学途中で志願してきた飛行練習生、
大学在学中に志望してきた飛行専修予備学生、海軍兵学校出身の
飛行学生等、隊内各兵科の支えを受けながら優秀な「パイロット」を
育成していたところである。(以下略)


元鹿島海軍航空隊の跡碑に見入る。
『ここに鹿島海軍航空隊があったんだぁ』


元鹿島海軍航空隊の倉庫?
『・・・にしては、そんなに古くはないよねぇ』


『この先行き止りかもしれないねっ』と
気にしながらも倉庫の脇をずんずん進む。


たくさんのボートが駐艇されていた。


11時42分、倉庫脇の細い道を進むと、広い駐車場に出ることができた。
『行き止りでなくて良かったぁ』


『広いわね~っ』
後続も次々に到着


休憩をしている間に通りかかった地元の人と思しき男性に何かを訊ねている。


かつての指令本部跡や


機罐場跡が残っている、とのこと。


こちらは、東側滑走台跡である。
前方右側にはカタパルト跡や南側滑走台跡もあるそうだ。


11時55分、折返し地点のロードパーク美浦を目指す。
再び、吹く風が冷たい湖岸を進む。
『寒いわねぇ』


目指すはロードパーク美浦だ。


西浦右岸29.0Km地点を通過


前方に折返し地点の森が見えてきた。


『見えてる割にはなかなか辿り着かないねぇ』
もどかしい感じがする。


12時13分、西浦右岸30.0Km地点を通過


左側に休憩用の東屋があったが、東屋は1つだけだったので、
ここはパスすることに。


時計は既に12時を過ぎている。
皆さん、お昼の弁当が気になる時間帯である。
『どこで弁当食べるのかしらっ?』


ここは、一刻も早く折返し地点のロードパーク美浦へ向かうしかない。


Tさんの様子がいつもと少し異なる。
足元がややおぼつかない様子だ。
『なんでもないよっ』と精一杯の笑顔を見せるTさん。
甘いキャンディを口に入れると、少し元気になった。


少しペースを落としてロードパーク美浦へ。


12時35分、馬掛不動堂前に到着
応永五年(1398)の創建と云われ、安産不動として有名、とのこと。


馬掛け不動尊
霞ヶ浦を眼下に見下ろす台地の縁にあり、付近一帯は、
馬掛自然環境保全地域に指定されている。
先頭Gは、既に先へ行ってしまったので、後を追いかけることにした。


間もなくロードパーク美浦だ。


ロードパーク美浦に到着。


12時41分、両脇を抱えられながら、Tさんも無事到着。


”この上から見える景色は最高!”とあるので、上ってみよう。


緩やかな坂道を上ると、草地が広がっていた。
周りの木々が風避けとなり、思ったほど風は強くない。
むしろ下の公園より弱いくらいだ。


なるほどここからの見晴らしはなかなか素晴らしい。


薄っすらとではあるが、筑波山も見える。
晴れていれば最高なのだが・・・


パノラマ写真


広場にはベンチもあるし、ここで弁当にしよう。


『公園で弁当は良いんだけど、今日はちょっと寒いねっ』


弁当も終わり、直ぐに引き返すことにした。
じっとしていると身体が冷えて来るので、歩いた方が良い。


13時20分、ロードパーク美浦を後にし、


来た道を引き返す。


帰りの先頭もOさんが務める。


つくだ煮・うなぎ製造直売の看板


湖岸周りよりも少しでも距離が短い道を進もう。


『これってフキノトウだよねっ?』
『まだ食べられるかしらっ?』
『成長し過ぎてるんじゃないっ』


13時50分、「おかだいらゴルフリンクス」前を通過


両側が田んぼの直線道路を進む。


Tさんの具合が芳しくなさそう。
本人は『大丈夫だよっ』と言い張っているが、まだゴールはかなり先だ。
ちょうど「安中・大須賀津地区農業集落排水処理施設」という建物があったので、
タクシーでも呼んでもらおうと中に入って行くと・・・


たまたま一週間ぶりに点検見回りに来たという人がいて、
自分の車で目的地まで運んでくれると言う。


せっかくなのでお言葉に甘え、Tさんだけ先にゴールまで送ってもらうことにした。
車には工具などが積んであるため、一人しか乗れないとのこと。


14時14分、Tさんの後を追いかけるように、我々も約6Km先のゴールを目指した。


15分ほど進んだところで、先ほどの車が戻ってきた。
何のお礼もできなかったので、せめてもの感謝の気持ちを込めて、
皆さんが出してくれたお菓子を受け取ってもらうことにした。
『本当にありがとうございましたっ』
『いやぁ こちらこそ恐縮ですっ』


午前中に渡った高橋川に架かる「はとざき橋」を渡り、


湖岸に出てゴールの桜川総合運動公園を目指す。


14時47分、西浦右岸24.5Km地点を通過


湖岸をゴールへ向かう。


前方に青色の古渡橋が見えてきた。


15時ちょうど、西浦右岸23.5Km地点を通過
国道125号まであと少しだ。


『今日はちょっとばかり距離が長すぎたかなっ』


前方に国道125号沿いの建物が見えてきた。


食事処「喜久」前を過ぎ、


15時8分、古渡橋袂のコンビニに到着


当会最高齢のH子さん(86歳)も元気に到着。
さぞかし疲れていると思いきや、『全然平気よっ』
恐れ入ります。


コンビニ前でしばし休憩し、


15時11分、ゴールの桜川総合運動公園を目指す。


古渡橋を渡り、桜川古渡の町中を進む。


桜川古渡郵便局を左折し、


15時21分、桜川こども園前を通過


最後に興禅寺へお参りして行くことにしよう。


楼門は修理中だった。


延命地蔵を安置している地蔵堂は、安産・子育ての守護菩薩として
今でも信仰を集めている、そうだ。


興禅寺本堂
平安時代末期、平治元年(1160)の”平治の乱”(へいじのらん)後、
衰退する源氏の将来を案じた源頼政公が、応保年間(1161~1162)
源氏の再興を祈って増築したのが創始と言われている。
鎌倉時代に源頼朝の室政子が鹿島参拝の折、この寺を参詣し、
その衰微を嘆いて復興を命じ、再建されたのを機に
真言宗から臨済宗に変わり、江戸時代以降は曹洞宗に改宗している。


15時33分、桜川総合運動公園を目指す。


15時43分、桜川総合運動公園に到着。
身体が冷えないうちに整理運動だ。


『最後に深呼吸~っ』
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


今回、「関東ふれあいの道」茨城県No.17コース(水の恵みを知るみち)を歩いた。
7年前の2010年1月14日(木)、古渡橋から木原水神宮までの約14Kmを歩いているが、
今回は桜川総合運動公園からロードパーク美浦までの往復だったので、
歩いた距離は、約20Km近くはあったのではないかと思う。

平均年齢73歳の当会にとっては、20Kmというのはちょっと長すぎたようだ。
今後、適度な距離としては、せいぜい十数Km程度に抑える必要があるかもしれない。

この日の万歩計は、上記を裏付けるように、30,000歩を計測していた。
今年度最後の例会が今年度最長距離となってしまった。
正直言って今日は疲れた。


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赤い鳥居が似合う 工芸の丘から笠間稲荷神社

2017年03月24日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年3月24日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第41回(2017年第12回)、「工芸の丘から笠間稲荷神社
ウォーキングに参加した。

この日のコースは、一昨年(2015年6月30日)土浦市三中地区公民館主催の
行事で歩いた時のコースを若干アレンジし、距離を長くした。

荒川沖駅8時0分発の電車を待っているところ。


常磐線車内は思ったより空いていた。
春休みのせいなのだろう、学生の数が少ない。


友部で9時1分発の水戸線に乗り換え、


9時10分、スタート地の笠間駅に到着した。


駅前には、飛び入り参加のD子さんが待っていた。
”関東ふれあいの道”や”甲州街道歩き”ではお馴染の女性だ。
この日の参加者は、D子さんを入れて32名となった。


駅前で準備体操をして、


9時28分、Oさんを先頭に出発!


皆さん、Oさんに遅れじと後に続く。


水戸線沿いの住宅地を国道355号方面へ。


水戸線の踏切を横断し、


最初の目的地春風萬里荘を目指す。


吾国山(518m)がきれいな姿を見せている。
D子さんは、この近くに住んでいるそうだ。
『なかなか良い所だねぇ』


春風萬里荘近くの道路は整備中だった。


突き当たりの向山窯本店を右に曲がって坂道を下り、春風萬里荘へ。


50m先の十字路を左に曲がると、垣根越しに春風萬里荘の
枯山水の石庭が見えた。
京都・龍安寺を模して造られた、そうである。


9時50分、春風萬里荘に到着
春風萬里荘は、北大路魯山人の鎌倉の旧宅を移築した、
風情あふれる江戸時代中期の茅葺き屋根の古民家である。
北大路魯山人自らが設計した茶室「夢境庵」や、
睡蓮の池にかかる太鼓橋などが観賞できる、とのこと。
入館料:600円(65歳以上500円)
内部見学は別途個人で来訪してもらうことにして、次の目的地へ。


春風萬里荘を後にして次の目的地笠間工芸の丘へ向かおうとしたが・・・


工事中のため全面通行止めとなっていた。
通行止めの旧道の右側には、工事中の新しい道路があり、
四季蕎麦「山桜」への案内標識が見える。


この分なら歩行者は抜けられそう・・・


工事中の砂利道を進むと・・・


水戸線を跨ぐ新しい道路が造成中だった。
反対側へは、何とか渡れそうだ。
引き返すのも大変だし、もうここを渡るしかない。


水戸線を跨ぐ新しい道路の工事現場
コンクリートの壁の向こうに水戸線の線路が走っていた。


工事中の道路を横断して反対側に渡り、坂道を下って行くと、
下市毛という住宅地へ出た。


下市毛の住宅地にあった細い階段を下って線路沿いに進むと、


見覚えのある水戸線の踏切に出ることが出来た。
ここまで来れば安心だ。


交通量が多い国道355号だったが、横断歩道が近くになかったため、
半ば強引に皆で揃って横断させてもらい、


国道355号に沿って進む。


『窯出しが明後日になってるわねっ』
『明後日来てみようかな~っ』と言ったかどうかは定かではない。


10時21分、笠間焼共販センター前を通過し、


10時27分、芸術の森公園南入口に到着


緩やかな坂のプロムナードを進む。
左手に県立陶芸大学校が見える。


工芸の丘へ。
『この坂けっこうきついよなっ』


茨城県陶芸美術館
東日本で初めての陶芸専門の県立美術館である。
「ときめく」「識る」「楽しむ」の3つのキーワードをもとに、
陶芸のすばらしさに触れることができる、そうだ。
地元の食材を笠間焼の器で楽しめるレストランも併設されている。
入館料:300円(企画展は別途)
この日はウォーキングがメインなので、入館希望者は
別途個人でということでセンタープラザへ。


10時32分、センタープラザに到着


ここでしばしの休憩だ。


センタープラザ内部では、笠間焼・陶芸用品・茨城の物産品
などが販売されている。


2階には笠間の人間国宝“松井康成”氏の常設展示室がある。


ふれあい工房
“ろくろ“や”手ひねり”で作品を作る体験もできる。


10時51分、センタープラザを後にして、北側の丘に向かう。


工芸の丘の釜場前を通り、


北側の丘へ。


丘の上には、笠間市出身の高野公男作詞、船村徹作曲の
「別れの一本杉」の歌碑(右側)と、


船村徹の詩碑と高野公男の”絆の譜”碑(左側)が
建てられている。
『そう言えば船村徹も最近亡くなっちゃったんだよなぁ』
(2017年2月16日(木)心不全で84歳の生涯を閉じた)


音響設備が故障のため、残念ながら「別れの一本杉」を
聞くことは出来なかった。


10時57分、笠間工芸の丘を後にして、


佐白山麓公園へ向かう。


途中で右へ折れ、緩やかな坂道を下る。


道標に従って、日動美術館方面へ。


「佐白山のとうふ屋」
この店の手作り豆腐は大そう人気があり、美味しいとの評判だが・・・
立寄ってゆっくりと味わう時間がない。
『ちょこっとで良いから食べてみたかったな~』の声も・・・


佐白山麓公園を目指す。


五台山玄勝院は曹洞宗の寺で、笠間氏第九代笠間朝清の菩提寺。
曹洞宗の御本尊は、「釈迦如来」を仰ぐが、ここ玄勝院は、
「聖観世音菩薩」を御本尊として仰いでいる。


緩やかな坂道を上ると、


11時20分、佐白山麓公園に到着した。
公園には”史跡笠間城主下屋敷跡”の碑が建てられている。
鎌倉時代に笠間時朝によって築城された笠間城の下屋敷を公園にしたもので、
笠間の桜の名所としても知られている、とのこと。


公園には、忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄(よしお/よしたか)の像や、


時鐘楼があり、笠間の歴史を感じることができる。


笠間城址登り口の右側に治功神社がある。
見るからに寂しい雰囲気が漂う。


右側が笠間城址へ通じる道だ。
左側は、林の中を通って、つつじ山へ行くことが出来る。


少しばかり急な坂道を8分ほど上ると、


舗装された道路に出た。


呼吸を整えて、本丸跡へ向かう。


急坂の曲がりくねった道を城跡を目指す。


先客とすれ違う。
『本丸跡はもう直ぐですよっ』の一言に励まされる。


急坂の先に御殿があったと考えられている広い平坦な場所に出た。
右手に規模の大きな土塁が続いている。


土塁の端には笠間城八幡台櫓跡碑がある。
その先に本丸跡が見える。


11時40分、笠間城本丸跡に到着
ここに来て、後続のメンバーから、天守への登城はパスして、
つつじ山を目指したいとの声が・・・
理由は、東日本大震災後しばらくは、通行止めになっていたということと、
目の前の急登の石段を見ての判断らしい。


笠間城天守跡を目指すのは、恐らくこれが最期の機会だろうから
この日は是非とも登城しておきたいと言うGも。
自分は、当初案通り天守を目指すGと行動を共にすることにした。
つつじ山を目指すGとは、ここでいったん分かれることに。
天守跡へは段差の大きな石段を登ることから始まる。


山頂の天守への途中には、佐志能神社を示す道標や、


”笠間城天守跡”の碑が建てられている。


天守直下の石垣はシートで覆われ、ロープが張られて進入禁止となっていた。


石垣の右側の急な石段を上ると、


さらに急勾配の石段が続いていた。


急勾配の石段を上ると・・・


天守跡には佐志能神社があった。
ここには、当時は二層の天守を備えていた、そうだ。


佐志能神社に参拝
『多分これが最期になるだろうなっ』


下りは慎重に。


これは後ろ向きに下っている姿である。
後ろ向きに石段を下る姿を見るのは、初めてである。
それだけ急勾配ということで、つつじ山を目指したGの理由が理解できた。


12時4分、再び本丸跡へ戻り、あらためてつつじ山を目指した。


つつじ山へ向かう途中の木立に大手門跡碑があった。
『こんなところに大手門があったんだ』


12時8分、千人溜り駐車場に到着
かなり広い平坦地になっている。
戦などで兵馬が集まるのには充分な広さだと思う。


千人溜り跡の碑


千人溜り跡の碑から少し下った所に「大黒石」と呼ばれる巨石があった。
案内板にはつぎのように記されている。
鎌倉時代の始めに、佐白山の僧兵と七会の徳蔵寺の僧兵が戦い、
佐白山の僧兵が敗れて佐白山に逃げ延びた。
佐白山の僧兵は山上にあったこの「大黒石」を転がし、
徳蔵寺の僧兵に多数の死者、けが人を出させて退散させ、
難を逃れたと云われている。
「大黒石」はそのときここまで転がってきて止まった、そうである。


大黒石を後にして、つつじ山公園に向かう。


つつじ山公園の入口ゲートをくぐり、山頂を目指す。


市内が一望できるつつじ山公園は4月中旬から5月上旬にかけて、
25品種8000株のつつじが咲き誇り、人々の目を楽しませてくれる。
満開まであと1ヶ月ちょっと、また訪れてみたい。


12時22分、つつじ山山頂に到着
身代わり観音像が迎えてくれた。


『お疲れさま~っ』 『お先にいただいてま~すっ』
先着組は既に弁当を広げていた。
やや北風があるためか、風を避けるように、展望台の下で、


あるいは大樹の下で、弁当の最中だった。
後続組も適当な場所を確保して、弁当にした。


向いの佐白山の山頂に、佐志能神社の屋根が見える。
『あそこに登って参拝して来たんだねっ』


弁当の後の寛ぎのひと時。


のんびりと芝生の上に寝そべる人も。


座頭市の碑が何故ここに?
理由は、勝新太郎演じる映画「座頭市」の主人公”市”は、
笠間生まれの下館育ちという設定なのである。
笠間で生まれた市は、笠間から出る前に光を失った。
そのため、市が見た最後の景色は笠間の景色であり、
また笠間以外の町の景色は見たことはない、とある。


『今日は遠くまではっきりと見えるわねっ』
『蓬台院はどっちの方かしらっ?』


展望台から笠間の市街が一望だ。


美しいシャクナゲで有名な蓬台院もはっきり見える。
2015年5月8日に訪れている)


パノラマ写真


13時1分、つつじ山の下山開始


つつじの木に囲まれた坂道を下る。


麓の佐白観音(観世音寺)を目指す。


前方に吾国山と筑波連山が見える。
『なかなか素晴らしい景色だねぇ』


”父のさくら”の大樹を過ぎると、


13時11分、佐白観音(観世音寺)に到着した。
佐白観音は、坂東三十三観音霊場の23番札所としても名高い。
本尊は十一面千手観世音像だ。


”母のさくら”の脇を通り、


佐白観音の参道を下る。


右折して直ぐ左側に笠間日動美術館がある。
なだらかな丘陵地に位置し、敷地内にはフランス館・パレット館・
企画展示館の3つの展示館がある。
企画展示館の3階にはオープンテラスのカフェも併設され、
春の桜や秋の紅葉など四季折々の美しい風景が楽しめる。
入館料:1,000円(65歳以上800円)


笠間日動美術館の隣に大石邸跡がある。


大石邸跡
「忠臣蔵」で知られる大石内蔵助良雄の祖父、笠間藩家老だった
大石良欽(よしたか)の邸宅跡。
笠間藩主であった浅野家の家老としてここに屋敷を構えていた。


大石邸跡を後にして笠間稲荷神社へ向かう。


正面に江戸時代後期文政二年(1819)創業の老舗、武藤酒類醸造㈱がある。
主銘柄の「東海」は、朝日の昇る東の海を意味し、
その昇天の勢いのような発展を、という願いが込められ、
創業当初から使用している、とのこと。
『「東海」か、どんな味か一度飲んでみたいねぇ』


武藤酒類醸造㈱の50m先を左に折れると、笠間三稲荷の一つ城山出世稲荷大明神がある。
笠間藩主井上氏時代、城内に白狐の穴を見つけたので、霊験あらたかな
新町の稲荷神社を下屋敷に移したが、同氏の国替えの元禄五年(1692)頃
新町の旧地に戻したと伝えられている。
赤い幟がずらりと並んでいるのはいかにも稲荷神社らしい。


この本殿は、元々富士山(つつじ山)に祀られていた、承応三年(1654)創建の
八幡宮本殿を明治二十二年(1889)に移築したと伝えられている、とのこと。


城山出世稲荷大明神にめいめい出世?を祈願した後、笠間稲荷神社へ。
笠間稲荷神社の本殿は江戸末期の建築で、


周囲の彫刻は国の重要文化財に指定されている。


笠間稲荷神社拝殿
創建は白雉二年(651)で、1360余年の歴史を誇る、日本三大稲荷の一つである。


笠間稲荷神社に参拝!


境内には、「八重の藤」(県の天然記念物 樹齢400年)と、
(2015年5月8日撮影)


「大藤」の2株の藤樹の花が5月上旬に見られる。
(2015年5月8日撮影)


参拝を済ませた後は、楼門(萬世泰平門)を通り抜け、


仲見世通りの参道へ。


2010年10月13日(水)に突然中貫部分が落下した大鳥居だったが、
咋年(2016年)の10月に6年ぶりに復活していた。
今度は稲荷神社らしく赤い(真紅の)鳥居である。めでたしめでたしだ。
『やっぱり稲荷神社には赤い鳥居が似合うねぇ』


稲荷神社前の門前通りに出たところで時計は13時41分を差していた。
これから笠間駅に向かうことになるが、笠間駅まで30分はかかる見込み。
13時59分発の友部行きには間に合いそうにない。
次の電車は1時間後のため、稲荷神社周辺でしばらく時間を潰すことにしよう。
ということで30分余の自由時間を設けることにした。


めいめい土産物などを求めて門前通りへ散って行った。
大鳥居のちょうど真向い饅頭屋があった。
”元祖胡桃饅頭”の看板が目を引く。


人通りのそれほど多くない門前通りで、この一角だけは
当会のメンバーが占有して、大賑わいとなった。


蒸したてのくるみ饅頭(85円)は、熱々で柔らかく、
甘さ控えめで疲れた身体にとても美味しかった。
飛ぶように売れていた。


こちらは老舗の酒屋


晩酌用に”にごり酒”(900ml 1,250円が1,000円)を買った。


笠間稲荷名物の”いなり寿司”を買う人も。


集合場所の大鳥居横の縁台で待っていると、


皆さん手に手に土産物をぶら下げて戻ってきた。


高橋町交差点の大きな常夜燈を左折し、ゴールの笠間駅へ向かう。


門前通りを笠間駅を目指す。


この道を真っ直ぐに進んだ突き当りが笠間駅になる。


正面に笠間駅が見えてきた。


14時26分、笠間駅に到着
次の電車までまだしばらく時間がある。


笠間駅舎の待合室で寛ぐ皆さん。


『もうちょっとゆっくりしても良かったかなぁ』


14時59分発友部行き電車に乗り、


友部で15時14分発の常磐線に乗り換え、


出発地の荒川沖駅には15時55分に到着した。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


この日は、笠間駅を発着点として、春風万里荘から工芸の丘・佐白山公園・
笠間城址・つつじ山・佐白観音・大石邸跡・笠間稲荷神社と笠間市内を巡った。
これまで当会の例会や「関東ふれあいの道」で何度も歩いたコースだが、
見どころも多く、起伏に富み、歩き易いコースだと思う。
機会があれば、また笠間を巡るコースを企画してみたい。

復旧した笠間稲荷神社の大鳥居を、この日初めて見た。
かつての白い鳥居から赤い鳥居に変わったが、
やはり、稲荷神社には赤い鳥居がよく似合うと思う。
新しい笠間のシンボルとして人集めに一役買うことを期待したい。

この日の万歩計は、20,000歩を計測していた。

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皆野アルプス 破風山ハイキング

2017年03月19日 | ウマさんの気ままなバスハイキング
2017年3月19日(日)

常南トラベル(株)が主催する日帰りバスの旅「皆野アルプス 破風山ハイキング」に
参加した。
常南トラベル主催のバスハイクは、昨年11月21日の「岩櫃山ハイキング」以来、
約4ヶ月ぶりとなる。

同社の案内には、以下(抜粋)のように記されている。
破風山は、秩父盆地の北方にある山で、標高は626m、
山頂には石宮が置かれています。
南に展望が開け、武甲山・秩父市街・蓑山・丸山・武川岳などが見渡せます。
今回歩くのは、秩父札所巡り三十四番水潜寺前をスタートし、破風山山頂を経由、
「関東ふれあいの道」を下りながら、秩父温泉「満願の湯」を目指す、
約4Kmのコースです。
標高差は約400m、標準的な歩行時間は途中休憩を含め、約2時間30分~3時間です。

この日のコースは、2015年1月18日(日)に
関東ふれあいの道(埼玉)No.8「秩父盆地を眺めるみち」で、
逆方向から歩いているので2年ぶりとなる。

荒川沖駅東口6時45分の予定時刻より10分ほど早く行ってみると、
常南トラベルの大型バスは既に到着していた。
この日の参加者は、我々「健康ウォーキング同好会」の9名を含め39名。
ほぼ満席状態だ。


バスに乗り込むと、朝食弁当が配られた。
いつもの弁当だが、今日も美味しくいただいた。


バスは、先月25日に茨城県内が全線開通したばかりの圏央道を走り、
8時18分、菖蒲PAに到着。
ここで最初の休憩を摂り、圏央道から関越道へ。


関越道花園ICで降りて、9時29分、道の駅「花園」に到着した。


トイレ休憩の前に、道の駅「花園」の「ひだまりの公園」で準備体操。
スタート地に到着する前に準備体操を済ませておけば、
その分時間を有効に使えるという算段のようだ。


準備体操の後、体調を整えて「満願の湯」へ向かう。


「満願の湯」で昼食の弁当を受取った後、この日のスタート地となる
秩父札所巡り三十四番札所の水潜寺近くの駐車場へ向かった。
昼の弁当が気になる。


10時34分、水潜寺から400mほど離れた駐車場に到着。
全員が4列に整列して最終点呼を取り、


10時35分、駐車場を出発
後ろに見えるのは日野澤大神社(ひのさわだいじんじゃ)である。


日野澤大神社は、奥社の神楽殿で舞われる日野澤大神社神楽が有名、らしい。
10月の祭礼では、神事舞いの後、祭典の神事が行われ、神楽が奉納されるそうだ。
日野澤大神社神楽は、皆野町の無形民俗文化財に指定されている。


県道284号を先ずは水潜寺を目指す。


皆野町立日野沢小学校
この小学校は、昭和54年3月に閉校となり、「日野沢山の家」という宿泊施設と
なったそうだが、現在は「天空の楽校」として活用されている、とのこと。
一度利用してみるのも面白そう。


2列縦隊で整然と進む。


「健康ウォーキング同好会」からは9名が参加しているが、
女性陣は先頭集団に混じって先頭付近を歩いているようだ。
最後尾に当会の男性陣が続く。
『女性陣は速いねぇ』


水潜寺を目指す。


10時43分、水潜寺参道入口に到着


「関東ふれあいの道」のコース案内板
この日のコース「関東ふれあいの道」No.8(秩父盆地を眺めるみち)の始まりだ。


先ずは水潜寺へお参りして行こう。


参道には秩父34観音霊場の観音様がずらりと並んでいる。


日沢山水潜寺本堂
西国33観音霊場、坂東33観音霊場、そして秩父34観音霊場合せて100観音霊場となる。
水潜寺は、100観音霊場巡りの結願(満願)の寺でもある。
「満願の湯」は、100観音霊場巡りを終えた人の汗を流すという意味で、
そのように命名したらしい。


水潜寺本堂にこの日の無事安全を祈願して、


10時48分、いよいよ山道の始まりである。
札立峠1.3Km、破風山1.7Kmと案内表示されている。


カウンターが設置されていた。
入山者の数を管理するために置かれたものだ。


一人がようやく通れるほどの細い緩やかな坂の山道が続く。


かつては、多くの巡礼者がこの道を歩いた、のだそうだ。
”巡礼道”の札が往時を偲ばせる。
”注意 熊出没”の看板が気になる。


長い隊列が続く。
当会の女性陣は、どの辺りだろうか。


次第に急坂になってきた。
同時に身体が温まってきた。


左手に沢が流れるが、水の量は少ない。


11時ちょうど、最初の休憩。


後から登って来た女性グループに親切に道を譲るNさん。
『どうぞお先にっ』


11時3分、水分補給後札立峠を目指して出発。
少しだけ前後の順番が入れ変わったが、またこの順序がしばらく続くことになる。


杉の木が伐採されたままになっている。
荒れ放題といった状態は、2年前の「関東ふれあいの道」で
歩いた時と変わっていない。


坂道を進む。
先ほどまで左手を流れていた沢が、今度は右手になった。


最後尾を務めているのはどうやら当会の男性陣だ。
添乗員さんと一緒である。


杉林の中を進む。


小さな沢を渡る。
水はほとんど流れていない状態だ。


杉林の坂道が続く。


かなりの勾配なことが分かる。


次第に曲がりくねる道になってきた。


後ろは、当会の男性陣4名と最後尾を務める添乗員さんだけになった。
マイペースで登るのが一番


11時19分、2度目の休憩


『札立峠まであと少しだねっ』


札立峠を目指す。


『けっこうきついよなぁ』とOさん。


七曲がりの坂道になってきた。


七曲がりの坂道は、いったん少しだけ緩やかになるが、


また曲がりくねった道になったりと変化する。
その先に尾根の部分が見えてきた。


11時31分、札立峠(ふだたてとうげ)に到着した。
水潜寺本堂から約43分かかっている。
常南トラベルの予定した時間とほぼ同じだ。
先着組は一息ついたのだろう、順次破風山へ向けて出発している。
当会の女性陣の姿は見えない。先着組と一緒に破風山に向かったようだ。


説明板には次のように紹介されていた。
秩父札所の巡礼は、笈摺(おいずり)を着、菅笠・手甲・脚絆を身につけ、
草鞋をはいた姿で、1巡約100Km、歩いて5泊6日の道程を、
各寺に札を打ち巡拝した。


この峠は、昔からの巡礼道で、33番菊水寺を参詣の後、赤平川に沿った久長集落から、
ここを越えて下日野沢へ降り、34番水潜寺で打ち留めの札と笈摺を納めた。


札立峠の名は、昔、大旱魃(かんばつ)の時、旅の僧の「雨を祈らば観音を信ぜよ」
との教えにより、「樹甘露法雨」の札を立てたところから名付けられたと云われている。


11時32分、当会のメンバーが到着。


破風山まで残り0.5Kmとある。


一息入れて破風山を目指す。


前を行く組の最後尾もマイペースといった状態である。


前を行く最後尾の後を追い、


最後の急登を上ると・・・


11時47分、破風山(はっぷざん)山頂(626.5m)に到着した。


11時49分、全員が破風山に到着した。


破風山からは、南に展望が開け、武甲山・秩父市街・蓑山・丸山・武川岳
などが見渡せる、との案内だったが、この日は今一つといった状態。


パノラマ写真


山頂には石宮が設置されていた。


一緒に登って来た添乗員さんに記念写真を撮ってもらった。


東屋を目指して破風山を下る。


東屋に到着してみると・・・
既に大勢の人が弁当の最中だった。
当会の先頭組もいる。


全員揃ったところで記念撮影だ。


東屋が満席だったので、少し離れた林の中で弁当に。
『今日は天気が良いし、外で食べるのは最高だねっ』


この日の弁当は「満願の湯」製である。
ご飯は2人分はあろうかというほどの量だった。
(後で聞いたら、多くの女性陣は食べ切れなかったため、
持ち帰った人もいたそうだ)


12時13分、我々が弁当の最中に早くも下山する先頭グループ。
当会の女性陣も一緒である。


先頭グループに遅れること7分、我々も下山開始!
『時間はたっぷりあるし、ゆっくり行きましょうっ』


しばらくは急坂の山道が続く。


下りの山道には注意が必要だ。


『あれ、猿岩じゃないのっ?』


下り始めて5分ほどで、猿岩に到着した。
猿岩は、「関東ふれあいの道」(埼玉)No.8「秩父盆地を眺めるみち」の
証明写真の撮影ポイントに指定されている。


この日は証明写真は撮らずに下ることにした。


「関東ふれあいの道」の里程標が現れた。
水潜寺からここまで2.3Km歩いたことになる。
風戸入口まで、残り2Kmである。


足元に注意しながら下る。


木々の隙間から麓の景色が見えるが、今一つはっきりしない。


曲がりくねった杉林の下り道


急坂の杉林を下る。


「関東ふれあいの道」道標には風戸まで0.5Kmとある。
やはり下りは速い。


大渕登山口への分岐点を風戸を目指して左折し、


曲がりの道を下って行くと・・・


突然一軒の民家が現れた。


民家の前の階段を下る。
ここにもカウンターが設置されていた。


12時50分、カウンターの先の東屋に到着。


東屋から観た景色
前方正面に見える山は宝登山と思われる。
宝登山の斜面に「ミッションヒルズカントリークラブ」が見える。


風戸入口バス停まで残り1Km。
添乗員さんによると、「満願の湯」へ直行するのとほぼ同じ距離らしい。


東屋からは、舗装された下り道になった。


左手に崩れかけた旧い土蔵を見ながら進むと、


ようやく先を行く最後尾の人達が見えてきた。


「風戸の鏡肌」
案内板には、次のように紹介(概略)されていた。
風戸は所在地の地名であり、
鏡肌とは、断層で岩石がずれるときの摩擦でできた光沢のある面のことで、
鏡の肌のように光って岩石の面が見えることをいう。
”風戸断層”がこの近くを通っており、鏡肌は、幅約9m、高さ約7mある。
ジュラ紀(約1億9960万年前にはじまり、約1億4550万年前まで続く地質時代)
にできたもの、とのこと。
鏡肌の岩は、長年の風雨のためか、鏡の肌のように光ってはいなかった。


「風戸の鏡肌」の先が、風戸バス停経由で「満願の湯」への近道になっているが、
添乗員さんの案内により、ここを右に進み、舗装道路を「満願の湯」へ向かうことに。
距離はさほど変わらないとのこと。


ようやく愛用のカメラを構えるKさんに追いついた。
木のてっぺんに止まっている”鷹”を狙っていたようだが、
我々からは遠すぎて見えなかった。


Kさんと一緒にゴールの「満願の湯」を目指す。


杉林の坂道を抜けると、


やや広い道路に出た。


特養老人ホームのところで待っていた添乗員さんに迎えられてゴールへ向かう。


左手に特養老人ホームを見ながら進む。


特養老人ホーム


13時13分、ゴールの「満願の湯」駐車場に到着
破風山近くの東屋を出発して53分かかったことになる。
先頭グループから遅れること約7-8分ほどらしい。
日野澤大神社前の駐車場を出発したのが10時35分だから、
約2時間40分かかったことになる。
常南トラベルの予定時間どおりである。


「満願の湯」は駐車場の目の前だ。


秩父温泉「満願の湯」の玄関を入る。
入浴料金は、日曜日ということで、平日より100円高い900円。
個人負担となっている。


1階の「満願大広間」では、地元の人と思われる老人が
自慢の演歌を熱唱していた。


カラオケを横目に「満願の湯」へ一直線


風呂から上がって、『かんぱ~い』 『お疲れさま~っ』
『歩き終わってひと風呂浴びた後のビールは格別だねぇ』


帰りのバス車内


いつものように日本酒・ワインで盛り上がる。


『今日くらいのコースがちょうど良いねぇ』
皆さん大満足の様子である。


来る時と同じく、圏央道菖蒲PAで休憩を摂り、


夕陽が沈む頃には、地元に到着だ。
いつもと比べると、ちょっと早いような気がする。
やはり圏央道を利用したことが影響しているものと思われる。


17時54分、荒川沖駅東口に到着


めいめい家路についた。
『今日は、大変お疲れさまでしたぁ』


2年ぶりとなる破風山ハイキングを楽しんだ。
天気は悪くはなかったが、破風山からの霞みがかった眺望は少し残念だった。
春先の天気というものはこういうものなのだろう。

常南交通社のバスハイクは、4か月ぶりの参加である。
残り4ポイントで5千円の補助が貰えるからという理由ではないが、
これからも機会があれば参加しようと思う。
常南交通社の今後の企画に期待したい。

申込から料金徴収・支払いなどTさんに一切をやって頂き恐縮している。
このコーナーを通じて厚くお礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。


ウマさんの気ままなバスハイキングの目次”に戻る。

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本丸は何処? 牛久沼周辺散策(城中ルート)

2017年03月17日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年3月17日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第40回(2017年第11回)、「牛久沼周辺散策(城中ルート)
」ウォーキングに参加した。


この日第一集合場所は乙戸沼公園には、17名が集まった。
車4台に分乗して、スタート&ゴールの得月院駐車場に向かった。


得月院駐車場には既にかなりの人が集まっていた。
その後も次々と到着する。


さほど広くない得月院駐車場は、当会の車でたちまち満車状態に。
この日は、春の彼岸の入りである。
後から来るであろう墓参の人のためにも縦列駐車をしておこうと言うことに。


縦列駐車後の駐車場
『これだったら、大丈夫だよねっ』


縦列駐車などで時間を要したこともあり、準備体操は省略して、
9時56分、出発!


得月院前を通過


得月院には最後にお参りすることにしよう。


得月院の先を右に曲がり、牛久城方面へ。


『今日も良い天気で良かったねっ』
いつもの元気な顔ぶれが揃った。


緩やかな坂道を進む。


先頭を務めるのは、Oさんだ。
今年度の例会には全て参加しており、2年ぶりの皆勤賞は確実だ。


農道を進むと・・・


谷津田の風景が広がる場所に出た。
数年前に歩いた筈だが、この景色は記憶がない。
『道、間違ってるような気がするんだよなっ』とOさん。
早い方が良いとの判断で、引き返すことに。


谷津田に出る手前にあった細い径を進むと・・・


径は孟宗竹の竹林に続いていた。
(『納得がいかなかった』と言うOさんは、翌日再訪して
手前の左側にあった正規なルートを確認した、そうである)


『こんな道だったかなぁ』などと喋りながら竹藪を進む。
孟宗竹の竹林は行き止りとなり、民家の裏に突き当たった。


民家の裏から軒下を通り抜けると、


10時10分、得月院からさほど離れていない小祠脇に出た。
『こんな所に出ちゃったのかぁ』
小祠には「木造薬師如来坐像」の案内が見える。
案内には、
奈良時代の僧(行基)の作と伝えられており、
ほぼ半等身の薬師如来坐像が安置されている。
牛久市指定文化財(彫刻)とある。


径に迷った分、かなり余分な時間を費やしてしまったが、
気を取り直して牛久城を目指す。
今度は一般道を進むことに・・・


特別養護老人ホーム「元気館」前を通過し、牛久城へ向かう。


前方左手に何となく見覚えのある林が見えてきた。
『牛久城はあの林の中じゃなかった?』


さらに進むと、牛久城の案内表示があった。
『やっぱりこの径で良かったんだ』
案内表示に従って、牛久城跡へ。


両側に広がる竹林の間を通って進むと、


土塁に囲まれた牛久城の空堀跡が現れた。
『今でもしっかりと残ってるんだねぇ』
牛久城跡は近い。


竹林に続く杉林の中を進むと・・・


10時29分、牛久城跡(本丸あるいは二の丸のどちらか)に到着した。
周囲を竹藪に囲まれた広場になっている。
石碑や説明板などは何もない。
『ここが牛久城の跡なのっ?』


牛久城は岡見氏によって築かれた城である。
牛久沼へ突き出した台地に位置し、三方を沼に囲まれている。
佐竹氏と組んだ多賀谷氏からの攻撃を受けて岡見氏が滅亡した後は、
北条氏方の持ち城となった。


その後「小田原の役」で北条氏が滅びると、豊臣秀吉によって
由良国繁の母に牛久城が与えられ、由良国繁が城主になったが、
元和九年(1623)に廃城となっている。


江戸時代には山口氏が牛久陣屋を築き、明治維新まで存続した、そうである。


女性陣は、草っぱらだけの城跡などに興味はなさそう・・・


早々に牛久城を後にした。


次の目的地である牛久沼の「河童の碑」を目指し、先ほど来た道を戻る。


『牛久沼じゃないっ?』
『来るときは気が付かなかったけど良く見えるねっ』


牛久沼を目指して坂道を下る。


10時38分、案内に従って「かっぱの小径」へ。


正面が牛久沼だ。


右手に田んぼが広がり、木道が続いていた。


木道を進む。
『ここを歩くのは、初めてだよねっ』
『しっかりとした木道じゃないっ』


小春日和の中、牛久沼を渡る風が心地良い。
”春近し”を感じる。


鏡のような水面を見せる牛久沼が美しい。
このようなきれいな水面の牛久沼を見るのは恐らく初めてである。
左の方に泊崎大師堂が見える。


木道に続く「かっぱの小径」を進む。


「雲魚亭」・「河童の碑」の案内表示に従って、右へ。


この日一番の急な坂道を上り、


「雲魚亭」・「河童の碑」を目指す。


「雲魚亭」・「河童の碑」の少し手前に「抱樸舎」(ほうぼくしゃ)があった。
抱樸舎とは、
『橋のない川』・『向い風』・『夜あけ朝あけ』などの作品で知られる
作家の「住井すゑ」氏が夫の犬田卯(いぬたしげる)氏と共に、
昭和10年に牛久村城中に移り住み、執筆と農耕自給の生活を送った
場所に建てられ、住井すゑが様々な人たちと勉強会を行った場所、である。
現在は、見学の対応が出来ないとの理由で、公開は中止となっている。


10時54分、雲魚亭(うんぎょてい)に到着。
雲魚亭は、
小川芋銭最晩年の昭和12年(1937)9月19日、芋銭夫人と芋銭長男により
芋銭旧宅の敷地内に建てられた画室兼居室(アトリエ)である。
芋銭は同年9月末にここに移り住み、古希記念新作展などの準備に当るが、
翌昭和13年1月末に脳溢血で倒れ、12月17日に永眠するまでは、
療養のための居宅となった。


現在は小川芋銭記念館として芋銭の作品や遺品を一般公開(無料)している。
火~金は屋外のみだが、土日祝日は室内も公開している、そうだ。


雲魚亭から牛久沼に向かって直ぐの所に「お茶屋松」と命名された
枝振りの良い松の木があるが、詳細は不明。
なんらかの説明板が欲しい。


雲魚亭から河童の碑へ続く小道の脇に「与一の歌碑」が建てられている。
朝夕の 芋銭した志みながめたる 沼の向ふの 富士美しき
この歌碑は作家で歌人である「中河与一」氏が、
芋銭の雲魚亭の朝な夕なの生活から、その心境を詠んだもの。
ここから富士山が見えたのだろう。


「河童松」
牛久沼に住むいたずら好きな河童が畑を荒らしたり、子供を溺れさせたりと
住民に迷惑をかけていた。
そこで、村人たちは懲らしめのため、陸で昼寝をしていた河童を捕まえ、
沼のほとりに生えていた大きな松の大木に縛りつけた。
河童は二度と悪さをしないと泣いて村人に訴えたので、
哀れに思った村人は河童を沼に帰した。
それ以来、河童は悪さを止めただけでなく、沼の周囲の葦を刈り取る
といった村人の手伝いまでするようになった。
今でもこの河童を縛り付けたという松の木が残っており、
「河童松」と呼ばれている。


石碑の右脇にも形の整った松の木があるが、これは「河童松」ではない。
説明板には、わざわざ⇦で左側の「河童松」を指している。何とも紛らわしい。


「河童松」の前で小休止。


恒例のお茶タイムだ。


『ここから芋銭も富士山を眺めたんでしょうねっ』


この日はあいにく富士山は見えなかった。
(方角が多少違っているのかも・・・)


「河童の碑」へ向かう途中、「改善一歩」の碑(道標)が建っていた。
この道標は、大正11年(1922)に城中青年会(矯風会)の手によって
旧牛久村の主要な道筋に建てられたもの。
その当時青年たちが道標をたてる計画をしていたところ、それを知った芋銭が、
永久に耐えられる石柱にしなさいと寄付をしてくれたもの、だそうだ。
青年会では早速好意を受け芋銭の名を石柱に刻もうとしたが、
芋銭は名前の代りに、「改善一歩」と刻みなさいと云われた。
これは、自分の歩む道を善い方へ改めて進みなさい、という意味だそうである。


芋銭の「河童の碑」の手前に文字だけの「河童碑」が建てられているが、
この碑の詳細については不明。


11時4分、「河童碑」の少し先に建てられている芋銭の「河童の碑」に到着。
この碑は、芋銭没後の昭和26年、小川家をはじめ、
敬慕する人々によって建立されたもの。
正面には、芋銭晩年の作である河童の絵が描かれ、
”誰識古人画龍心”の文字が刻まれている。


「河童の碑」の後ろに「スダジイ」(ブナ科)の大木が生えている。
樹高15m 樹幹周り400cm 推定樹齢400年の古木である。
この辺りは、かつて牛久藩の陣屋(1619年~1871年)の一部であり、
近代日本画壇の巨匠小川芋銭(1868年~1938年)も、四季を通じて
詩情豊かな沼畔に望むこの地をこよなく愛した、とのこと。
この「スダジイ」は、牛久市の”市民の木”に指定されている。


「河童の碑」を後にして、右手に稲荷神社を見ながら
三日月橋生涯学習センター方面へ。


緩やかな坂道を下って行くと、


谷津田の田園風景が広がる場所に出た。


三日月橋方面へ。


『ほんとにのどかな風景だよねっ』


前方に三日月橋生涯学習センターが見えてきた。


稲荷川に架かる三日月橋
近いうちにこの橋を渡る予定である。


11時22分、三日月橋生涯学習センター前を通過


続いて、関東鉄道城中バス停を通過


左手に牛久第三中学校が見える。


牛久町に新しく造られた道路を得月院を目指す。


『ゴールの得月院は近そうだねっ』


得月院の手前に牛久城大手門跡碑があった。
大手門は、堀切のほぼ中央に”喰違い虎口”と”枡形馬出し”を備えた
厳重なものであったと説明板にある。
先に訪れた本丸あるいは二の丸からはかなり離れていることから、
城域としては相当広いと思われる。
大手門の痕跡は全く見る事ができない。


得月院へ向かう。


11時42分、得月院の到着
得月院は、曹洞宗の寺院である。


得月院の山門を潜ると、


正面に得月院本堂がある。
得月院は、文禄三年(1594)牛久城に移り住んだ、由良国繁の母妙印尼輝子が
開基した寺院である。
地元出身で近代日本画壇の巨匠小川芋銭の菩提寺としても知られている。


本堂内部


本堂脇にある榧(カヤ)は、樹高20m、樹幹周り500Cm、樹齢推定500年とある。
近代日本画壇の巨匠小川芋銭の2本の大木をモチーフにした作品「樹下石人談」
に描かれた木である。
この榧の木は、牛久市の”市民の木”に指定されている。


得月院の裏に回ると墓地があり、その中の小川家の墓地の一角に
一回り大きな芋銭の墓があった。
墓碑には、”潮光院清淵芋銭大居士”と刻まれていた。


得月院の山門を入って直ぐ左側に閻魔堂がある。


閻魔堂の中には、中央に閻魔大王、その右側に妹の奪衣婆(だつえば)が
睨みを効かせている。


奪衣婆
この兄妹は、三途の河原を渡ろうとしている亡者に対し、
奪衣婆が亡者の身ぐるみを剥ぎ、その剥ぎ取った衣服を、
側に居る懸衣翁(けんえおう)という爺さんに渡す。


閻魔大王
懸衣翁は受け取った衣服を衣領樹(えりょうじゅ)という木の枝に下げる。
すると、亡者の生前の業(ごう)の重みによって、悪いことをしてきた亡者の衣服は
枝が撓るほど下がる。
それを閻魔大王が見ていて、その亡者に対し、あの世での処遇を決める、
という仕組みだそうだ。


11時49分、ゴールの得月院駐車場に到着した。
この日は、整理体操も省略である。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


何年かぶりに牛久沼周辺(城中ルート) を散策したが、牛久城跡への道を間違えて
竹藪の中を右往左往することになってしまった。
『納得がいかなかった』と言うOさんは、翌日再訪して正規なルートを確認した、
とのこと。ご苦労様です。
Oさんのためにもいつかリベンジする機会を設けたいものである。

この日は、道に迷いながらも何とか牛久城跡には到着したが、
そこが本丸跡だったのかあるいは二の丸跡だったのかは、分っていない。
再訪する機会があれば、その時は本丸跡と二の丸跡の両方を見たいと思う。

この日の万歩計は、10,000歩を計測していた。

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女体山・男体山両峰登頂 筑波山ハイキング

2017年03月10日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年3月10日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第39回(2017年第10回)、「筑波山(筑波高原キャンプ場コース)
」ハイキングに参加した。
この日のコースは、いくつかある「筑波山登山道」の中でも最も距離が短くて、
楽なコースと言われている「筑波高原キャンプ場コース」である。

第一集合場所の乙戸沼公園に集まったのは、16名。
車5台に分乗し、裏筑波の筑波高原キャンプ場へ向かった。


10時3分、筑波高原キャンプ場に到着
直行組も次々に到着し、この日の参加者は24名となった。


いつものようにOさんの号令で準備体操だ。


『ず~っと腰を下して~』


『最後に大きく深呼吸をして~』


10時28分、Oさんを先頭に出発!


後に続く皆さん。
今日も元気だ。


キャンプ広場を通過
『ここでキャンプファイアーをやるんだねっ』


登山口の辺りはカタクリの群生地として、保護のため立入禁止となっている。
よく見ると、ところどころにカタクリの葉が芽吹いていた。
あとひと月半もすればカタクリの可憐な花を見ることができることだろう。


女体山・キャンプ場コースの登山口
山頂まで1.6Kmとの案内表示が見える。


山頂まで1.5Kmの標識を通過


緩やかな上りを過ぎると、


杉林が現れた。


杉林の坂道を進む。


杉林を過ぎると、周りは雑木林に変わった。


山頂まで0.9Km地点を通過したところで、


10時57分、最初の休憩を摂り、後続を待つことに。


6分ほど遅れて、後続組が姿を見せた。


数分後、あらためて山頂を目指す。


最近降った雪だろうか?
ここは裏筑波なので、簡単には解けないのだろう。


雪は踏み固められたのか、氷のように堅くなっていた。


再び杉林の中を進んで行くと、


山頂まで0.5Kmの案内表示が現れた。
キャンプ場から1.1Km上って来たことになる。


山頂を目指す。
『もうちょっとよねっ』


次第に傾斜が急になり、少しスピードが落ちてきた。


ちょっときつい坂道だが、ここはしっかりと上る。


11時28分、後続を待つためと称して2度目の休憩


恒例となったお茶タイムは、楽しみなひと時でもある。


山頂を目指す。
また雪道が残っていたが、この雪は直ぐになくなり、


雪解けの泥道になった。
靴の底に泥がくっついて離れないため、靴が重くなって歩き辛い。


泥んこの道に悪戦苦闘しながらも、
11時44分、山頂手前のロープウェイ分岐点に到着した。


加波山方面を望む。


後続組も次々に到着した。
『頂上に着いたのねっ?』
一安堵といった表情を見せる。


最後尾の到着にはまだしばらくかかりそうなので、
先に到着した人から女体山神社にお参りすることにした。


11時47分、女体山神社(877m)に到着


女体山神社に参拝を済ませ、山頂の展望岩へ。


女体山山頂に恐る恐る立って大喜びのS子さん。
『怖くないっ?』
『足が震えてるのよねっ』


パノラマ写真


山頂からRWつつじヶ丘駅がはっきりと見える。


御幸ヶ原ケーブルカー山頂駅と男体山山頂(871m)を望む。


女体山神社後ろから見えた加波山方面の景色も素晴らしい。


女体山神社下に集まり、最後尾の到着を待つ。


12時ちょうど、遅れていた最後尾の組が到着した。
これで、全員が揃ったことになる。


座り込む会長、少し疲れたようだ。
『体力の限界かなっ』
女体山山頂へは諦めるとのこと。
『今まで何回も上ってるし、女体山神社は止めとくよっ』
賢明な判断だと思う。


あらためて点呼を取り、弁当を広げられる場所を求めて御幸ヶ原へ。


『こんちわっ』 『こんちわっ』 
平日だが、かなりの登山客とすれ違った。


12時8分、ガマ石を通過
「ガマの油売り口上」を伝承してきた初代・永井兵助は、
この岩にいたガマの様子を見て口上を思いついたと云われている。


女体山から御幸ヶ原へは、大きな岩だらけの道が続く。


滑ると危険なため、慎重に下る。


岩だらけの道を下って行く。


12時11分、「せきれい茶屋」を通過


「せきれい茶屋」の前にせきれい石がある。
この石の上に鶺鴒(せきれい)が留り、男女の道を教えたと云われている、
そうだ。


12時19分、御幸ヶ原の茶店前に到着


茶店の手前の石段に陣取って弁当を広げることにした。


『男体山も見えるし、なかなか良い場所だよねっ』


『筑波山で食べる弁当って、最高っ!』


御幸ヶ原のベンチで弁当にする人も。


弁当が終わり、有志(希望者)で男体山山頂に登ることにした。
『女体山だけで充分』と言う人には、お茶屋付近で待ってもらうことに。


男体山山頂に向かう途中、御幸ヶ原から真壁方面の景色がくっきり。
『素晴らしい景色だねっ』


12時58分、男体山山頂目指して出発!
男体山山頂へはお茶屋の横の階段から始まる。
また戻って来るので、残った人にリュックは預けたという人も。


最初からかなり急な階段である。
弁当直後の身体には堪える。


階段状の道が続く。
『けっこうきつい階段だよねっ』


階段を過ぎると、今度は岩登りである。


岩登りの途中から女体山を望む。
女体山神社やRWの山頂駅がはっきりと見えるのはこの時期だからか。
緑の季節になると、木々の葉などに遮られ、女体山を望むのは難しい。


最後の岩を登ると・・・


13時10分、男体山神社(871m)に到着した。
御幸ヶ原からおよそ13分ほどかかったことになる。


男体山神社に参拝を済ませた。


『身軽だから』と財布ごとリュックを預けたまま登った人・・・
『財布も一緒に置いてきちゃったの 賽銭貸しといてっ』


当会の例会で女体山と男体山の両方に登ったのは、
これが初めてではないだろうか。


『今日初めて登ったけど、素晴らしい景色だね~』
感無量といった表情のS子さん。


パノラマ写真


男体山を下山し、


13時25分、仲間の待つお茶屋へ行ってみると・・・


皆さん、コーヒーなど飲んじゃって話に夢中になっている様子だった。
『あらっ もう戻ってきちゃったのっ?』
戻るのが予定より5分ほど早すぎたようだ。


13時30分、下山開始
旧Y・Hコースを下り、筑波高原キャンプ場を目指す。


男体山に分かれを告げる。
『また来るからねっ』
『今度来た時は登るからねっ』


旧Y・Hコースを下る。


下りは速い。
先頭を行く健脚組になかなか追いつけない。
その差は開くばかりだ。


13時53分、カタクリの看板前に到着。


ここで後続との距離調整のため一休み。


「関東ふれあいの道」の道標に見入る。
『ここも「関東ふれあいの道」になってるんだねっ』


数分後、後続組が到着


ゴールの筑波高原キャンプ場を目指す。


旧Y・H跡の駐車場を右手に見ながら、そのまま通過し、


舗装された坂道を下る。


旧Y・H跡からの道は、かなりな急坂である。
スリップ防止用の舗装が施されている。
『これが逆だったら、大変だよねっ』


筑波高原キャンプ場を目指す。


14時20分、筑波高原キャンプ場・国民宿舎「つくばね」への分岐点に到着。
ここから筑波高原キャンプ場まで残り0.7Kmとある。


ゴールの筑波高原キャンプ場へ向けて砂利道を進む。


周りの木が伐採されて視界が開けた場所に出た。


きのこ山・加波山・燕山・雨引山などが連なる素晴らしい景色が広がっていた。
『いやぁ こんなに見晴らしが良い所だったとは思わなかったねぇ』
これまでは、杉の林などで視界が全く効かなかった場所なので尚更だ。


女の川(めのかわ)を通過
筑波山の主峰女体山を源にして、真壁町側に流れているこの川を
「女の川」と呼び、万葉の時代から詩歌に歌われ、「恋の川」
とも呼ばれていた。


この川は水量豊富で、サンショウウオが生息している、そうである。
下流では、男体山を源に流れる「男の川」(おのかわ)と合流して、
「男女川」(みながわ)となる。


「関東ふれあいの道」の道標
『ここにも「関東ふれあいの道」があるよっ』


砂利道を過ぎ、曲がりくねった道を進むと、


筑波高原キャンプ場の案内表示が洗われた。
『もう直ぐゴールだねっ』


湯袋峠への分岐点を通過し、
『ここから湯袋峠に行けるんだぁ』


14時36分、ゴールの筑波高原キャンプ場駐車場に到着。
この日は整理体操は省略し、帰路についた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


筑波高原キャンプ場をスタートし、女体山・男体山・旧Y・H跡を経由して、
筑波高原キャンプ場へ戻るというコースを歩き終わった。

「筑波山登山コース」の中でも一番短くて楽と云われるコースだったが、
平均年齢73歳となった当会にとっては、案外相応しいコースだったのでは
ないだろうか。

当会では、これまで何度も筑波山に登っているが、
女体山・男体山の両方に登ったのは、自分が知る限りでは初めてのケース
だと思う。
これからも、筑波山を目指すことになると思うが、可能な限り、
女体山・男体山の両峰に挑みたいものである。

この日の万歩計は、13,000歩を計測していた。

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コメント
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