ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第4回 池鯉鮒宿~宮宿(2日目)

2018年10月09日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年10月9日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」第Ⅲステージ第4回(2日目)は、鳴海宿(名鉄前後駅)~
宮宿(JR熱田駅)を歩くことになる。
前日、カメラのトラブルで大幅に時間をロスしてしまい、目的地の鳴海宿まで到達することが
出来なかった。
その分この日の距離は長くなるが、ゴールの宮の渡しまでは頑張って歩きたい。

7時2分、宿泊先「新月旅館」を出発!
朝食付きではないので、少し早めに旅館を出た。


昨日夕食を買ったコンビニでおにぎり2個とお茶を買い、本笠寺駅へ。


本笠寺駅7時19分発の名鉄名古屋線に乗り、スタート地の前後駅へ向かう。
20分ほどで前後駅に到着した。


前後駅の前で職場・学校へと急ぐ人たちの流れを眺めながら、おにぎりをほおばった。


7時59分、前後駅を出発し、この日の旅が始まった。
旧東海道を西へ向かう。


秋葉常夜灯


道路右側に馬のモニュメントが。
名鉄中京競馬場前駅は近くのようだ。
駅の近くに旧桶狭間合戦場跡があるとのことだが、詳細な場所・経路は分からない。
中京競馬場前駅へ行けば何らかの情報が得られると思い、中京競馬場前駅へ向かった。


名鉄中京競馬場前駅に行ってみると、


案の定、駅の前に”国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地”の説明板と地図があった。
”桶狭間の戦い”には、以下のように記されていた。
天下分け目の戦いと云われた関ケ原の戦い(1600年)から遡ること40年。
日本中が戦国大名どうしの戦いに明け暮れていた永禄三年(1560)、尾張において、
日本の歴史にその名を残す戦いが起きた。「桶狭間の戦い」である。
戦ったのは当時、駿河・遠江で強大な勢力を誇っていた今川義元と、尾張を統一したばかりの
小大名織田信長。力の差は歴然であった。
しかし、大群を率いて尾張に侵攻した今川義元に対し、織田信長は自ら先頭に立って出陣し、
「桶狭間」で義元を打ち破り、歴史的な勝利を飾った。
その後、織田信長は東海・北陸・近畿へと勢力を拡大し、豊臣秀吉の天下統一、徳川家康の
江戸幕府へつながる礎を築いた。


地図に従って進んで行くと、電柱に「桶狭間古戦場伝説地」の案内が。
次を右に曲がると、


8時50分、史跡桶狭間古戦場に到着した。
この地は、永禄三年(1560)5月19日、小勢2千の織田信長が、2万5千の今川義元の大軍を
破った古戦場で、田楽狭間あるいは桶狭間と呼ばれた。
史跡桶狭間古戦場の碑が建てられている。
国の史跡に指定されている。


今川治部大輔(じぶだゆう)義元の墓
駿河・遠江・三河の国主、今川義元は西上の途次、永禄三年(1560)5月19日に織田信長の
奇襲に遭い、ここで倒れた。ここにはその霊が祭られている。
以前ここは塚であったが、有松の住人山口正義が主唱し、明治九年(1876)5月にこの墓を建てた。


今川義元の墓周辺は小さな公園として整備されている。


旧東海道に戻った所に高徳院の標柱が。
現在の高徳院の境内は今川義元公の本陣跡とされている、そうである。


国道1号の桶狭間交差点まで来たところで、旧街道を少し外れていることに気が付いた。


桶狭間交差点を右に曲がり、8時56分、旧東海道へ戻ることが出来て一安心。
(名古屋有松郵便局)


有松の旧東海道の家並み


有松山車会館
有松にある山車三輌(布袋車・唐子車・神功皇后車)を毎年交代に展示し、
まつり文化を紹介しております。
慶長年間より現在まで400年を経て、町並みも江戸風情を残し、落ち着きと潤いを
感じさせてくれるとともに、生きた歴史資料として貴重なものです。
(HPより)


旧くて大きな家が多い。しかも立派な構えである。


各家の軒先には絞りの暖簾”ありまつ”が飾られていた。


有松・鳴海絞会館
絞りの歴史資料や技術が、実物を使い、分かりやすく展示されています。
伝統工芸士による絞りの実演も必見の価値あり。
研修室では希望により絞り体験教室も開かれ、気軽に絞りの世界を満喫できます。
また、1階展示即売場は有松絞りのすべてを一堂に見ることができます。
(HPより)


服部幸平家住宅の倉
服部幸平家は、西隣(左)の絞問屋・服部家から分家した家柄であり、かつて屋号を井桁一といった。
明治時代中期、分家の際に譲り受けたこの倉は、切石の土台の上に建てられた
木造切妻二階建て桟瓦葺で、白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とし、江戸時代の様相を呈している。
服部家住宅と一体をなしている点で、有松の町並み景観上非常に重要である。
昭和62年(1987)県の有形文化財に指定された。
(名古屋市教育委員会)


服部家住宅
服部家は、寛政二年(1790)創業の絞問屋で、屋号を井桁屋という。
屋敷地は、東海道に面して広い間口を有する。
中央部に店舗及び居住として利用する二階建の主屋を配し、井戸屋形、店倉、藍倉、門など
合わせて十一棟の建物が有力な絞問屋の屋敷遺構の典型として、昭和三十九年(1964)、
県の有形文化財に指定された。
(名古屋市教育委員会)


”有松絞井桁屋”と書かれた看板は、歴史を感じさせる。


有松の旧東海道


服部家住宅の長い塀
塀越しの松の木はきれいに手入れされている。
庭も出来れば見てみたいものである。


服部家住宅の向かい側に建つ旧い家


有松駅と東海道を結ぶ遊歩道、山与遊歩道
平成24年に整備され、西側家屋の元所有者絞商山与さんに因んで名付けられた道。
かつて東海道にかかっていた中川橋の石柱が残り、これを境に往還と橋東という小字が
付いていました、とある。


こちらも旧くて重厚な感じの家だ。
このような家が街道筋にずらりと並んでいるのは壮観である。


倉と一体となった古い家


有松駅へ通じる県道37号に面して、新生堂薬局がある。
海鼠壁の旧い蔵を使って一部今風に造られている感じがする。


有松の旧い家並みは、県道37号を横断しても続いていた。


唐子車(中町)の山車庫
ここ中町の山車庫には唐子車(からこしゃ)という山車が格納されている。
かつて祭礼に曳航された山車は、祭りが終わると山車庫に解体保管していたが、
現在は、上山を降ろした状態で収容・格納している。
唐子車は、天保年間(1830~44)に知多内海で造られたものを、明治八年(1875)に
中町が購入した。
昭和48年(1973)市の文化財に指定された。
(名古屋市教育委員会)


”名古屋市有松町並み保存地区”と書かれた標柱
この辺り一帯は町並み保存地区になっている。


竹田家住宅
市指定有形文化財(平成7年)
主屋一棟、書院棟一棟、茶席一棟、宝蔵一棟、一・二番倉一棟、縄倉一棟
附属棟(西門・長屋門・味噌蔵)三棟
当住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。
建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。
特に主屋は塗籠造、書院、茶席とも建築的にはたいへん優れている。
竹田家は、屋号を笹加と言う。
(名古屋市教育委員会)


有松の町並み


岡家住宅
市指定有形文化財(昭和62年)
主屋一棟、作業場一棟、東倉一棟、西倉一棟
当住宅は江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。
主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な
美しい外観を備えた塗籠造の建物である。(以下略)
(名古屋市教育委員会)


梅屋鶴壽の句碑
ありまつの 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の 立ちとまりけれ  梅屋鶴壽


名古屋第二環状自動車道下を通って、


名鉄名古屋本線の踏切を横断し、


鎌砥橋(かまとぎばし)を渡って少し進むと、


9時15分、AEON Max Valuがあったので、ここで一息入れることにした。


平部町常夜灯
東海道品川より四十番目の宿場町、鳴海宿の東の入口平部町に建てられたもの。
大きく華麗な常夜燈で、道中でも有数のものと云われ、往時の面影を偲ぶことができる。


表に「秋葉大権現」 左に「永代常夜燈」 右に「宿中為安全」 裏に「文化三丙寅正月」
の文字が刻まれている。
文化三年(1806)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と
火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した。
(名古屋市教育委員会)


鳴海宿の旧東海道を進む。


10時ちょうど、龍蟠山瑞泉寺に到着
禅(曹洞宗)大本山総持寺直末の寺院で、鳴海根古屋城主安原宗範が応永三年(1396)に
創建したと伝えられ、大徹禅師を開山とする。


山門は、宇治市の黄檗宗万福寺総門を模した中国風形式の門で、
県の有形文化財に指定されている。


法堂へは回廊で繋がっている。


瑞泉寺法堂


ご本尊にお参り
曹洞宗は、基本は一仏両祖(お釈迦様と道元禅師と瑩山禅師)となっており、
釈尊を本尊、道元を高祖、瑩山紹瑾を大祖としている。


瑞泉寺の鐘楼も立派な造りである。


旧街道を進む。


山車庫
旧東海道の本町交差点を西に70mほどの場所に根古屋山車庫がある。
その山車庫の前に鳴海宿本陣跡の説明板があった。
西へ向かう場合は、非常に分かりにくい。
気付かずに通り過ぎてしまったが、引き返して来て初めて気が付いた。


鳴海宿本陣跡
鳴海は、江戸時代東海道五十三次の宿駅の一つとして栄えた。
宿駅には、一般の旅人用の旅籠屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、
公的に宿泊する本陣が置かれた。
鳴海宿の本陣はここにあり、幕末の頃そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・
総畳数159畳であった。
なお、天宝十四年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人・旅籠68軒
(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。
また、予備の脇本陣は、2軒あった。
(名古屋市教育委員会)


旧東海道を進む。


住宅街の中を旧東海道は進む。


丹下町常夜燈
鳴海宿の西口丹下町に建てられた常夜灯である。
旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した
火防神として大切な存在であった。
平部常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。


旧東海道の道路は狭くて車も多く歩きにくかったが、地元の女性に直ぐ脇の歩道を勧められた。
歩道はとても歩き易く、何より安全だ。


鉾ノ木(ほこのき)貝塚
縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。
下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線文土器、上部貝層からは、
前期中ごろの羽状縄文、爪形文を施した平底の深鉢型土器を主体として出土しており、
上層土器の型式をとらえ「鉾ノ木式」と呼称されている。
野村三郎氏により発見された。
(名古屋市教育委員会)


説明板の横に小径があったので、貝塚があるのかと思い、坂道を上ってみた。


竹藪があり、坂道は続いていた。


さらに坂道を上って行ったが、貝塚らしきものは何もなかった。
畑で作業をしていたお婆さんに貝塚のことを尋ねると、道の入口にある説明板、とのこと。
何も坂道を上って来ることはなかったのだ。


細い坂道の入口に千鳥塚の標識に矢印が。
今度はこの坂道を上って行くに違いない。


坂道を上って行くと壁に俳句が刻まれていた。
星崎の 闇をみよとや 啼く千鳥 芭蕉
近くで作業をしていた人に尋ねると、この上の丘に塚があると言う。


石段を上って行くと、


古木の根元に千鳥塚と書かれた石碑があった。
この碑は、貞享四年(1687)11月、寺島安信宅での歌仙「星崎の闇をみよとや啼く千鳥」の巻が、
満尾(終わりになること)した記念に建てたもので、文字は芭蕉の筆、裏面には連衆の名、
側面に興行の年月が刻んである。
これは、芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚であり、俳文学史上稀有の遺跡といってよい。
昭和52年名古屋市史跡に指定された。
(名古屋市教育委員会)


塚の少し先の小高い所に、広場があった。


広場から見下ろした景色は実に気持ちが良かった。


旧東海道(県道222号)を進む。


旧東海道(県道222号)を進むと、天白川があった。


天白川に架かる天白橋を渡る。


天白橋を渡ってしばらく進むと、


道路分岐点にこんもりとした塚があった。


笠寺一里塚だ。
笠寺一里塚は、江戸から88里の処にあり、名古屋市内を通る旧東海道に残る唯一の一里塚で、


東側の塚だけが現存している。


11時37分、天林山笠覆寺(りゅうふくじ)に到着した。


笠覆寺の仁王門は、実に堂々とした構えである。


仁王像(阿像)


手洗い専用の建物だが、このような大きな建物は今まで見たことがない。


手を洗い清め、お地蔵様にたっぷりと水をかけてあげた。


笠覆寺の本堂へ。
本堂も実に大きい。
笠覆寺は天林山と号し、真言宗の寺院である。
俗に笠寺観音の名で知られ、尾張四観音の一つである。


ご本尊には十一面観世音を安置する。


境内には、笠寺善光寺堂、


千鳥塚芭蕉と刻まれた石柱や宮本武蔵之碑、
(剣豪宮本武蔵は各地を回りながら修行を重ねたと言われているが、尾張城下の笠寺にある東光院を
宿坊にしていたと伝えられている。顕彰碑は、武蔵の弟子のご子孫によって建立された、そうだ)


笠寺薬師堂などがある。


多宝塔は江戸時代初期の正保年中(1644~47)に建てられ、銅板葺、一辺4.83mの塔である。
内部に阿弥陀如来像を安置する。


多宝塔の前に徳川家康公幼少之砌(みぎり) 人質交換之地と書かれた碑が建つ。
風雲時を告げる戦国の世は天文十六年(1547)、敵対する尾張の織田氏と駿河の今川氏との間にある
三河の松平氏は今川方に援護を頼むため六才の竹千代(のちの徳川家康)を人質として差出すも、
護送中に竹千代は織田方の手に落ちた。
天文十八年(1549)、安祥城を陥落し、織田信広(信長の異母兄)を捕えた今川方は、織田方に
信広と竹千代との人質交換を持ち掛け、ここ笠寺観音に於いて両者の交換が成立した。


正門傍に六地蔵が安置されている。
六地蔵は普通6体のお地蔵さんだが、このように一柱に六面彫ってあるのは珍しい。
東海地方では笠寺観音を入れて4ヶ所ほど、らしい。


笠覆寺を後にして、


旧街道を進む。


12時7分、街道筋に手打ちうどんの「ゆたかや」という店があった。
お腹も空いてきたので、うどんを食べていくことにした。


スキヤキうどん定食(820円)を注文
なかなか美味かった。


名鉄の踏切を渡り、


旧東海道を進む。


13時3分、清水稲荷大明神を通過し、


旧東海道を進む。


村社熊野三社前を通過


山崎の長坂と刻まれた石柱を通過
少し下りの坂道になっているが、かつてはけっこう急坂だったのだろう。
裏に山崎城址・安泰寺と刻まれていたところをみると追分(分岐点)のようだ。


山崎川に架かる山崎橋を渡ると、


旧東海道は左に曲がっていた。


松田橋交差点の歩道陸橋で、国道1号と名古屋高速3号大高線を横断。


旧東海道を進むと、


JR東海道本線の踏切があった。
ちょうど電車が通過するところだった。


踏切の手前にお地蔵さんがぽつんと佇んでいた。


旧東海道を進む。


新堀川を渡る。


名鉄常滑線の線路を潜って進むと、


姥堂の前に裁断橋址の碑があった。
裁断橋は、宮宿の東の外れを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。
天正十八年(1590)に18歳になる息子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために
母親は橋の架け替えを行った。
33回忌にあたり、再び架け替えを志したが、それも果たさず亡くなり、養子が母の意思を継いで
元和八年(1622)に完成させた。
この橋の擬宝珠(ぎぼし)に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、
この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。
擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。
(名古屋市教育委員会)


姥堂
延文三年(1358)9月、法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に
創建したと伝える。
本尊姥像は熱田神宮に在ったものを、ここに移したと伝えられ、姥像の衣紋に熱田神宮の
桐竹の紋が金で描かれてあった。
旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で存在は早くから知られており、尾張名所図会にも
登載されている。
昭和二十年(1945)3月の戦災で堂宇本尊ともに消失したが、姥像は高さ八尺の座像で、
その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。
尊容から奪衣婆と見る説もあるが、両手に童顔の御像を捧持していること、
熱田神宮伝来などから日本武尊の母か宮簀媛命の像ではないかとも想定されている。
昔から民間では安産や子育て・家内安全の仏として信仰され「おんばこさん」と呼ばれ
親しまれてきた。
現在の本尊は平成五年五月に焼失前の写真を元に四尺の大きさで復元した御像である。


都都逸発祥之地の碑も建つ。


住宅街の中に建つ鈴之御前社前を通り過ぎると、


中央分離帯がある広い道路(県道225号)に突き当たった。
歩道のある交差点まで行って横断することに。


国道1号の交差点で道路(県道225号)を横断して進む。
この道で間違いないと思ってはいたが、電柱に”旧東海道”の文字が見えた時は
何とも嬉しかった。


道路突き当たり右手に道標があった。
ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点であり、
重要な地点であった。
この道標は、建立当時(1790)より三叉路東南隅にあったが、平成27年に現在の地に移設した。


道標の四面には、次のように刻まれている。
  北 さやつしま(佐屋津島)
東             道
  同 みのち(美濃路)
南 寛政二庚戌年(かのえいぬ)
  東 江戸かいとう(街道)
西
  北 なこやきそ道(名古屋木曽)
  南 京いせ七里の渡し(伊勢)
北             道
  是より北あつた御本社貳丁(にちょう)

この三叉路の北東隅には、これより32年前(宝暦八年)に建立された道標があった。
標示は”京いせ七里の渡し”以外はこれと同じである。
戦災で破損したが復元され、10mほど東側にある。
(名古屋市教育委員会)


ほうろく地蔵
「尾張名所図会」によれば、この石地蔵は、もと三河国重原村(現知立市)にあったが、
野原の中に倒れ捨石のようになっていた。
三河より焙烙(ほうろく)を売りに尾張に来る者が、荷物の片方の重しとしてこの石仏を
運んできて、ここで焙烙を売りつくした後、海辺の葦原に捨てて帰った。
地元の人がこの石仏を発見し、土中に埋まっていた台座と思われる角石に置いた。


横断陸橋で国道247号を横断し、


宮の渡し公園へ。


14時18分、宮の渡し公園に到着


七里の渡し
江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」
の船着場としても栄えていた。
寛永二年(1625)建立の常夜灯は、旅する舟の貴重な目標であった。
現在は復元されて往時の名残を留めている。
安藤広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、
当時の舟の発着の様子を知ることができる。


熱田湊常夜灯
常夜灯は寛永二年(1625)、藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて、
須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。
その後、風害で破損したために、承応三年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に
管理が委ねられた。
寛政三年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬政典によって再建されたが、
その後荒廃していたものを昭和30年に復元した。
(名古屋市教育委員会)


浜の風景


七里の渡し時の鐘
延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により、蔵福寺に時の鐘が設置された。
正確な時刻を知らせるこの鐘は、熱田の住民や東海道を旅する人々にとって
重要な役割を果たしていた。
昭和20年の戦災で鐘楼は焼失したが、昭和58年、市民の声に応えて「宮の渡し公園」内に
復元された。


七里の渡し舟着場跡
この地は宮(熱田)の神戸(ごうど)の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。


この日のゴールである宮の渡しに無事到着出来た。
朝早く出発したこともあり、少し時間があるので、熱田神宮へ参拝して帰ることにした。
国道247号を熱田神宮方面へ向かった。


右手に熱田神宮の森を見ながら進むと、


14時43分、熱田神宮の西門に到着した。


第二鳥居、第三鳥居と進んで、


熱田神宮本宮に参拝した。


参拝後、再び第三鳥居、第二鳥居を潜り、東門を出て、


JR熱田神宮駅へ向かった。
途中の商店街は、シャッターが降りている店が多く、どこか寂しい感じがした。
名鉄の駅へ向かう人の方が多いということなのだろう。


名古屋駅から新幹線「こだま号」に乗車し、帰路に就いた。


第Ⅲステージ第4回目(池鯉鮒宿~宮宿)の2日目(鳴海宿から宮宿)を歩き終わった。
次回からは、いよいよ桑名宿から京都三条大橋を目指すことになる。

この日の万歩計は、31,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第4回 池鯉鮒宿~宮宿(1日目)

ウマさんの「旧東海道を歩く」目次に戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする