ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

春一番並の強風の中 房州アルプスハイキング

2017年01月27日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年1月27日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第33回(2017年第4回)、「房州アルプス」ハイキングに参加した。

土浦市三中公民館前
7時20分発のバス到着を待っているところ。
この日富津市の最高気温は14度との予報だが、
ここ土浦では氷点下2度と震えあがる寒さである。
『いやぁ 今日は寒いねぇ』


7時18分、市民会館⇒天川団地入口からの参加者を乗せた、
常南交通の中型バス(28人乗り)がやって来た。
早速乗り込んで、ほぼ予定した時刻に出発。
目指すは、千葉県富津市志駒の「房州アルプス」だ。


この日の参加者は28名、満席である。


牛久・つくばICから圏央道に乗り、快適に走る。


朝食は、いつものおにぎり弁当。


圏央道江戸崎PAで最初の休憩を摂り、


東関東道から館山道へ。


館山道市原SAへ3Kmの地点を通過し、


8時52分、館山道市原SAに到着
ここで2度目の休憩だ。


15分の休憩後、SA出口へ向けてGSの横を走り抜けようとしていた時、
お昼の弁当を受け取っていないことに気がついた管理人(私)が、
常南交通の運転手さんに『弁当はどこで受け取るの?』と訊ねると、
運転手はあわててバスを止め、『受取場所は確認していなかった』との返事。
『至急確認しますっ』と言いながら、高速出口を30mほどバックして再びSAへ。
SAに戻り、運転手さんが会社に確認している時、窓の外に弁当屋さんらしき人が、
ダンボール箱を乗せた台車を押してこちらに向かって来るのが見えた。
弁当の受取場所が市原SAということが分かったのは、ほぼ同時だった。
市原SAで無事弁当を受取り、あらためて「房州アルプス」へ向けて出発!
もうちょっと気が付くのが遅れたら、大変なことになっていた、はずだ。


館山道木更津南ICを通過し、


9時47分、館山道富津中央ICを降り、県道182号へ。


「房州アルプス」登山口への入口を探しながら県道182号をゆっくりと走るが、
そのうち長狭街道(県道34号)へ出てしまい、いつの間にか登山口入口を
通り過ぎたことに気がついた。
運転手ともども『そんな入口見かけなかったよなぁ』などと言いながら
県道182号を引き返す途中、人家がまばらな場所に竹ノ内米店という会社があった。
藁をもすがる思いでそこの事務所で道を訊ねると、女性事務員が詳細な地図を出してきて
親切丁寧に教えてくれた。
さらにその地図をコピーまでしてくれたのには恐縮した。
『いやぁこれは助かります。本当にありがとうございましたっ』


10時27分、当初の予定より20分ほど遅れたが、何とか登山口への入口となる道を
見つけることができた。
昼食弁当をめいめい受取り、


着替えなどを済ませ、出発準備OK。


出発の前に、10日前に病のため亡くなった会員のHM子さんを偲んで
全員で黙とうを奉げようということに。
『黙とうっ!』


10時36分、黙とうの後、Oさんを先頭に出発!


Oさんの後に続く。


鹿原林道の起点が「房州アルプス」の登山口へ通じる入口になっている。
「房州アルプス」を示す案内板など何もなく、誰も気が付かなかったのも無理はない。
『これじゃぁ案内板がないと分からないよねっ』


登山口へは最初は緩やかな坂道になっている。


林道を進むうちに次第に勾配がきつくなってきた。


『登山口までけっこうあるんだねっ』


この日の富津市の予想最高気温は14度。
出発した時はまだ気温は低かったが、長い坂道を上るうちに汗をかき始めた。
10時53分、ここで少し呼吸を整えて行こう。


麓の集落がはっきりと見える。
『こうやって見るとまだ大して上ってないねっ』


さらに登山口への坂道は続く。


坂道の途中から見えた景色


さらに坂道を進んで行くと、


道はT字路になっていた。
乗用車と軽トラックが停まっていた。地元の人の車のようだ。


T字路の左に「房州アルプス」と書かれた朽ちかけた標識があった。
11時20分、「房州アルプス」の登山口に到着である。


ここでは特に休憩せずに「房州アルプス」の登山開始である。


先ほどの登山口までの坂道よりもっと緩やかな道が続いていた。
平坦に近い径である。


『最後までこんな状態なのかしらねっ』
そんな筈はないだろうが、どこまでこんな調子で続くのだろう?


登山道から見える景色は素晴らしい。しかし、この日の風は強い。
南からの風が周りの木に吹き付け、ゴーゴーと不気味な音を立て、
何度も帽子を飛ばされそうになった。まるで台風のようだ。
立春(2月4日)を過ぎていれば、”春一番”になったことだろう。


多少の上り下りはあるが、概して平坦な登山道を進むうちに、
朝方曇っていた空には次第に晴れ間が広がり、陽が差して来た。


合流点のような所があったので小休止し、


近くにあった倒れかけた標識で径を確認。
左(下)は山中を差している。県道182号を走る時に見かけた地名である。
右(上)は何と書いてあるのか文字は読めないが、こちらに違いない。


『風が強くていやんなっちゃうわねっ』
手で押さえておかないと帽子を飛ばされてしまう。


径には、倒れたままになった木が道を塞いでいたりする。


アップダウンの径が続く。


『「房州アルプス」って、径幅が広くて歩き易いねっ』


11時46分、ちょっとした上りの後、見晴らしの良さそうな場所に出た。


『いやぁ なかなか素晴らしい景色だねぇ』
標高の高い山はないが、付近一帯を見渡せる景色が広がる。


時折強い風を横から受ける。
『まともに受けると大変っ!』


11時51分、開けた場所に出た。
少し前から差して来た陽も充分に浴びることができる。
ここは意外と風が弱く、まともに風を受ける心配はなさそうだ。
見晴らしもまずまずである。


間もなくお昼の時間、この先適当に開けていて風が避けられる場所が
見つかるかどうかは分らない。
「房州アルプス」最高峰の無実山への登頂を前に、昼食を済ませておこう。
ということで、ここで弁当タイムを取ることに。
皆さん、既にそのモードに入っているようだ。


弁当タイム
『日向ぼっこをしながらの弁当って、最高だねっ!』


『この弁当凄く美味しいねっ』
『量が多くて全部食べ切れないわっ』


この日の弁当
ご飯(太巻き・稲荷・海苔巻き)とおかずが別になっているが、
ご飯(左側)だけで満腹になった。
おかずは手を付けずに持って帰ることにした。


『あれって富士山じゃないっ?』
指さす方を見ると・・・


『ほんとだっ 富士山が見えるっ』


写真では分かりずらいが、富士山である。
(写真右側)


『「房州アルプス」から富士山も見えたし、今日は最高だねっ』
(風が吹かなければ、の条件付)
後は無実山を目指すだけである。


低木に囲まれた中を進む。


ようやくハイキングを実感できるような径になってきた。


その先には急な上り坂が待っていた。


曲がりくねった山道を上る。
『やっぱりハイキングはこの位じゃないとねっ』


一つのピークを過ぎると、今度は両側が崖のような尾根の径になった。


木の根っこが張って躓くと危ないが、滑り難い分、却って安全かもしれない。
『躓かないように気を付けて~っ』


尾根を過ぎると再び急な上りになった。
無実山は近そうだ。


12時38分、「房州アルプス」の最高峰? 無実山山頂(268m)に到着である。
『ちゃんと無実山って書いてあるし、三角点もあるのねっ』


山頂は狭く、全員が揃って写真を撮れるような広さがないため、
先に登った人から順次下り開始だ。


『おっとっとっ!』
下りの急斜面は滑り易いので注意が必要だ。


無実山を下る。


木の根が張った尾根を進む。


急斜面を横切る径は、幅が狭く、滑り易いのでちょっと怖い。
足元に注意しながら慎重に進む必要がある。


時折、木々の隙間から見える房州の山々が美しい。


この径は、あまり人の手が入っていないと見え、
倒れたままの状態の木が目立つ。


『どっこいしょっと』


『木に抱き着くように跨ぐと楽だよねっ』


急斜面を横切る径の終点辺り。
『後ろは続いているのかしらっ』と心配そうに振り返る。


何とか無事に全員が続いていることを確認して、さらに尾根を下ると、


少しだけ広い畑のような場所に出た。
水仙が栽培されているようだった。
畑の隅には収穫されずに実が生ったままの蜜柑(夏みかん?)なども生えていた。


無実山山頂では場所が狭かったため記念撮影は断念したが、ここなら撮れそうだ。
ということで、記念に撮った一枚。


記念撮影も終わり、後はゴールで待つバスへ向かうだけである。
突然舗装された道が現れた。
坂道を下って行くと、


13時28分、「房州アルプス」のもう一つの標識があった。
「房州アルプス」を歩き終わったことになる。


登山口の標識を鋭角的に曲がり、バスが待つ下沢公民館を目指す。


快調なペースで下る先頭集団。


後続のグループも遅れじと続く。


どの社の携帯用アンテナ基地かは不明だが、
N社は圏外のためかバス運転手には繋がらなかった。


麓の人家が見えてきた。
ここからでもバス運転手への携帯は相変わらず繋がらなかった。
この近くに住む人には不便だろう、と余計な心配をしてしまう。


坂道を下ると、バスの待つゴールは間もなくだ。


13時50分、県道182号へ下りて来た。


県道182号の道路脇に常南交通のバスが待っていた。
全員無事ゴールし、13時57分、帰途についた。


バスは県道182号を走り、君津ICから館山道へ乗り、
14時53分、館山道市原SAに到着。


土産物を求めて品定め中。


『何にすっかなぁ』


『これにしようかしらっ』
かなり迷っている様子のS子さん。


ひものコーナー
人気No.1と書いてあった、ひもの4種類6匹(1,296円)を買った。
(さんま2・あじ2・さば1・きんめ1が入っている)


若干の工事渋滞のあった千葉市内の館山道を抜けると、


バスは、東関東道から圏央道へと順調に走った。


利根川へ沈む夕陽が眩しく美しかった。


皆さん、満足そうな表情である。


夕陽に映える牛久大仏のシルエットが見えた。
間もなく最初のゴール、土浦三中地区公民館だ。


16時57分、土浦三中地区公民館に到着。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『お先に~っ 気を付けて~っ』

この後バスは、朝とは逆の天川団地入口⇒土浦市民会館へと走って行った。

初めての「房州アルプス」ハイキングは、あいにくの強風の中だった。
風が強かった以外は、気温も高く、晴れ間も覗き、快適な一日だった。

館山道市原SAで昼食弁当を受け取る際に、ちょっとしたハプニングはあったが、
何事もなかったかのように事は運んで一安心。

「房州アルプス」への登山口入口を探し出すのには苦労した。
Webで入手した「房州アルプス」ハイキングコース1枚の地図だけでは、
登山口入口を探し出すのは、観光バスのベテラン運転手でさえも
至難だと云うことが分かった。
たまたま県道182号に竹ノ内米店という会社があったから良かったものの、
竹ノ内米店で懇切丁寧に教えて貰わなければ果して登山が出来たかどうか・・・
竹ノ内米店さんには、あらためてお礼を申し上げたいと思います。

この日の万歩計は、14,000歩を計測していた。

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旧甲州街道を歩く 第十回 大月宿から阿弥陀海道宿

2017年01月22日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年1月22日(日)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)に歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第十回目は、大月宿(JR大月駅)から阿弥陀海道宿(JR笹子駅)
までの約12Kmを歩いた。

荒川沖駅6時39分発の常磐線車内


この日の参加者は7名、ほぼいつものメンバーだ。


東京駅には8時ちょうど着。
時計を気にしつつ東京駅構内の駅弁屋へ急行し、駅弁を購入。


東京駅8時11分発の高尾行中央特快に無事乗車。
『いつもぎりぎりだねっ』


高尾駅で9時20分発の松本行に乗り換える。



『ん???』中央線の車内広告が1枚もない。
『車内広告が1枚もないというのは珍しいねぇ』
(正確にはYGUの1枚のみだった)


10時1分、この日のスタート地大月駅に到着した。


駅前の観光案内所で情報(パンフレットなど)を入手して、


10時10分、阿弥陀海道宿(笹子駅)目指して出発だ!


国道20号が走る大月市街地を進む。


10時15分、大月市役所前を通過。


10時19分、桂川に架かる大月橋に到着。


道標
中央に南無阿弥陀仏の文字が刻まれ、その両側には、
左富士山道、右甲州街道の文字が刻まれている。
『ここは富士山への分岐点だったんだっ』


大月橋を渡る。


桂川


大月橋は中央線も跨いでいる。


10時32分、花咲下宿バス停を通過すると、


花咲宿本陣の大きな家があった。
花咲宿の本陣は、星野家が名主・問屋を勤めた。
上段の間を残している、とのこと。
花咲宿は下花咲と上花咲で一宿を成していた。
問屋継立業務は、上15日を上花咲宿が、下15日を下花咲宿が勤めた。
花咲の地名は両宿の間にあった花折と言う地に桜の古木があり、
花咲く頃旅人が憩ったところから由来している、そうである。


本陣の石碑は、大きくて立派だ。
『これは目立つねぇ』


”しばらくの間見学は休止”の貼り紙が。


中には入れなかったので、本陣を横から見たところ。


街道を進む。


10時42分、中央道大月IC入口を通過


右手に西方寺橋という橋があり、その前を横切って進む。


西方寺橋を過ぎ、右手に笹子川を見ながら進む。
前方丘の上に変わった形の建物が・・・
NEC山梨の大月工場である。
『工場にしては、面白い形をしてるねぇ』


街道を進んで行くと、


コンビニがあった。


10時59分、コンビニで一休みして行こう。
何時の頃からか、めいめいが持ち寄った差し入れを配るのが恒例になっている。
お菓子もあれば、酒に漬けた手作りの果物などもあり、多彩である。
ちょうど小腹が空く時間帯なので美味しくいただく。
これで一時は持つだろう。


中央道を潜る形で通過。


三軒屋バス停を通過し、


11時12分、大月警察署前を通過。


大月警察署前を過ぎた辺りは、全く陽が当たらないのか、
2日ほど前に降ったと思われる雪が、かなり積もったままの状態で残っていた。
『相当降ったみたいだねっ』


NEC山梨大月工場
高速大容量の光NWを支える製品として、海底に敷設される光ケーブルの中継装置、
FTTHで用いられる光トランシーバー、携帯電話などの開閉スイッチに用いられる
磁気感応型MRセンサーなどを生産している。
高台にポカリと浮かぶ丸味を帯びたデザインは、何となく「UFO」を彷彿させ、
地元では、この社屋を「UFO」と呼び親しんでいる、そうだ。


笹子川に架かる真木橋(まぎばし)を渡り、


甲州街道(国道20号)を進む。


11時25分、真木諏訪神社下を通過


初月橋を渡って進むと、


街道沿いに食事処があった。
居酒屋・焼き鳥・おでん「いなだや」の看板が。
立寄って一杯やって行きたい雰囲気がある。


国道20号を進む。
”この先11km 笹子トンネル”の文字が。


国道20号を進む。


笹子川の対岸に中央本線の電車が走っているのが見えた。


道端にひっそりと立つ道祖神
長い年月風雨に晒されてか、形がはっきりしない。


11時39分、日の出鉱泉前を通過
昭和初期から鉱泉宿として創業しており、創業当時から変わらずに、
地下水である鉱泉を汲み上げて薪で沸かしている、そうだ。
煙突から煙が立ち上っている。湯を沸かしているのだろう。
料金は500円、とのこと。


笹子川に架かる法雲寺橋を渡ると、


日本橋からちょうど100Kmとなるポイントを通過。


『日本橋から100Km歩いて来たんだねっ』
何か感慨深いものが感じられ標識である。


道路より一段低い大きな家の前に、山本周五郎生誕之地碑が立っていた。
山本周五郎は、明治三十六年(1903)山梨県北都留郡初狩村にて父清水逸太郎、
母とくの長男として誕生。
明治四十年の山津波で祖父母・叔父母を亡くし、周五郎一家は初狩を離れ、
東京に転居した。
本来の生家は山津波で流されているので、後ろの家は生家ではない。
碑は、山本周五郎が初狩生まれという記念碑であるらしい。

山本周五郎生誕之地碑の近くに二十三夜塔の石碑があった。
時計を見ると12時10分前だった。
お昼の弁当にしたいが、適当な場所がない。
初狩駅が近いのでとりあえず初狩駅へ行ってみよう。


数分で初狩駅に到着した。
駅は無人で、待合室のベンチが空いていた。
『ここで弁当にしましょうっ!』


初狩駅舎の待合室で弁当タイムだ。


『お腹が空いてたんで美味しいよねっ』


この日の駅弁は、山形特選の牛めし(1,080円)である。


これまで東京駅で買った駅弁の中でも一番美味かった、ような気がした。


12時30分、初狩駅を発ち、国道20号を阿弥陀海道宿を目指す。


初狩駅から数分で宮川橋に到着した。
「宮川橋の一目富士」と呼ばれ旅人に評判であった、そうだ。


そんなことはついぞ忘れてしまい、先へ進んでいると、
後ろから、『富士山が見えるよっ』の声が。
振り返ってみると、OKさんがカメラを構え、しきりにシャッターを押していた。


急いで戻り、カメラに収めた富士山である。


宮川橋を渡ると中初狩宿に入る。
初狩宿は下初狩と中初狩で一宿を成していた。
問屋継立業務は、上15日を中初狩宿が、下15日を下初狩宿が勤めた。


宮川橋から数分の所に”甲州街道 中初狩宿”の標識が立っていた。
標識の横の石碑には、芭蕉の句碑があった。
句碑の左隣にあるのが芭蕉塚である。
句碑には、「山賤の 頤とつる 葎哉」(やまがつの おとがいとずる むぐらかな)とある。
山道で貧しい木こりに出会った。話しかけても黙ったままだ。
田舎の人は朴訥(ぼくとつ)だ。
まるで山の蔓草(つるくさ)にあごを縛られている様だ。


芭蕉句碑の裏に大月市立初狩小学校がある。


初狩小学校を過ぎると家並みが続き、時々旧くて大きな家が現れる。
旧いと言ってもそれほど歴史を感じる建物ではないが・・・


12時47分、側子バス停を通過すると、


中初狩宿小林本陣跡の建物があった。
建物の左側には本陣特有の屋敷門を見ることが出来る。
ただ、建物も門も当時の物ではない、とのこと。


屋敷門の左側に明治天皇御小休遺跡碑が建てられており、
ここが本陣だったことが分かる。
脇本陣は、斜め向かい側にあったそうだが今はその痕跡は無い。


12時54分、唐沢橋バス停を通過し、


さらにその先、笹子川に架かる船石橋を渡り、


13時5分、立河原バス停を通過したところで、
首塚・石塔群・船石由来碑など、いくつかのポイントを
見落としたことに気がついたが、後戻りせずにそのまま進むことにした。


国道20号を進み、


13時13分、中央本線のガード下を潜って進む。
この辺りには歩道がなく、カーブで車も多いのでちょっとばかり危険を感じた。


13時16分、”初狩駅から3.2Km、笹子駅まで3Km”の標識があった。
初狩駅を12時30分に発っているので、ここまで約45分で来たことになる。
『45分で3.2Kmはけっこう速いペースだよねっ』
『道理でねっ ちょっと疲れちゃったよっ』


国道20号と旧甲州街道(白野宿)に分岐する手前で一休みだ。


一休み後、右側の白野宿への道を進む。
『笹子駅まで残り3Km、ゆっくり行きましょうっ』


白野宿内の家並みが続く。
車があまり走ってないので、安心して歩けるのが良い。


庚申塔
左は常夜灯


一般の民家が続く白野宿を進む。
天保十四年(1843)の白野宿の宿内家数は84軒、うち本陣1・脇本陣1・問屋1・
旅籠4軒で、人口は318人(男149人、女169人)だった、とのこと。
阿弥陀海道宿と黒野田宿の3宿で1宿とし、問屋業務は月のうち23日から晦日までを
白野宿が勤めた。


大月市消防団第一分団第一部の前に白野宿の標柱が立てられていた。


宿場の中ほどにどっしりと構えた大きな家は「旅籠よろず屋跡」だ。
江戸時代の建物ではないが、宿場内では存在感のある建物だ。


白野宿の家並みが続く。


大きな石柱が2本あった。宝林寺への参道口だ。
標識等はないが、右手が天野脇本陣跡で、左手が今泉本陣跡、だそうだ。
参道口を進んで行くと、


宝林寺の門があった。
宝林寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、白野宿唯一のお寺である。
永正六年(1509)清心浮公が開基した。本尊は地蔵菩薩。
建立年代は天文元年(1532)と云われているが定かではない。


門の所には蛇腹の扉が閉まっていて中へ入れない。
本堂は門から見るだけである。
『中に入れないお寺ってのは珍しいよね~っ』


白野宿の西の外れで国道20号に合流した。
ここが白野宿の西口である。


白野宿を少し進むと、子神社の標識が。


右手に白野村の鎮守、子()神社があった。
祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)の遣いが
ね(ネズミ)であるところに由来している、そうだ。
本殿はしっかりと覆いで護られている。


子神社の拝殿


狛犬


国道20号を進むと、”笹子峠 矢立の杉 分岐まで4Km”の看板が。
笹子駅まであと2Km余か?


国道20号を進みながら、いつの間にか旧甲州街道から
逸れてしまっていたことに気がついた。


振り返ると、稲村神社と思しきこんもりとした木立が見えた。
しかし、今更戻るのは面倒である。
『このまま進みましょう』ということで前へ進むことに。


地図で確認すると、旧街道が国道20号に合流する地点から葦ヶ池は近い。
せめて葦ヶ池へは行ってみよう、ということで、中央本線の方へ。


中央本線を潜って直ぐ右手に葦ヶ池の標柱と碑があった。
葦ヶ池には、次のような伝説がある、そうだ。
大百姓小俣左衛門の娘「およし」は美女だったが、心悪しく、
慳貪邪見(けんどんじゃけん)で、ついに蛇身となった。
大沼に棲み、夜な夜な出て来て里人を悩ませた。
ここを通りかかった親鸞上人が小石に南無阿弥陀仏の名号を書き、
池に投げ入れると、娘の霊は済度(成仏)した、とのこと。


国道20号に戻り、ゴールの笹子駅を目指す。


14時20分、笹子川橋バス停前を通過。


笹子川橋を渡るとゴールは近い。


『もう直ぐ笹子駅だねっ』


笹一酒造会社前を通過
大正八年(1919)創業の比較的新しい酒造会社である。


ワインも造っており、見学や試飲・販売も行っている、そうだ。
『ちょっと寄って一杯やって行きたいねっ』の声も・・・


笹子餅屋の前を通過すると、笹子駅は目の前だ。


14時32分、笹子駅前に到着
駅前に阿弥陀海道宿の標柱が立っていた。
一応ここがこの日のゴールである。


笹子隧道記念碑が笹子駅前広場に建てられていた。
笹子隧道は、明治29年(1896)10月に着工し、
明治35年(1902)11月に完成した、鉄道トンネルの記念碑である。
全長4,456mは、当時東洋一の鉄道トンネルとして注目された。
このトンネルは中央線下り列車専用で現在でも使われている、そうである。


14時34分、笹子駅に到着したが・・・


すんでのところで14時35分発の電車は発車したばかりだった。
次の電車までちょうど1時間待つことになる。
『まぁ しょうがないね』 
Mさんが笹一酒造まで戻って日本酒を買い、皆に振舞ってくれた。


『どうぞっどうぞっ』 『ごちそうさま~っ』


『かんぱ~いっ』
『お疲れさまぁ』


なんと! 金粉入りである。
円やかでいつになく美味しかった。


15時半過ぎ、中央線笹子駅ホームには陽が当たらないため、殊の外寒かった。


ホームの半分以上が雪に覆われた状態だ。
次回は笹子峠越えに挑むことになるが、ここでこの調子ということは、
峠越えにはアイゼンが必要になるだろう。


15時35分、高尾行電車が到着した。


高尾駅で東京行快速に乗り換える必要があるが、
その前に大月駅で東京行快速に乗り換えることにした。
これなら終点の東京駅まで乗り換え無しでゆっくり座って行ける。

『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』

「旧甲州街道を歩く」第十回目(大月宿~阿弥陀海道宿)間約12Kmを歩き終えた。
次回(2017年2月)は、阿弥陀海道宿(笹子駅)から石和宿(石和温泉駅)間
約21Kmを予定している。
次回は甲州街道随一の難所とされる笹子峠越えが控えている。
雪が多いとされる時期だけに、無事峠越えはなるのか、不安が募る。

笹子峠を越えた先の甲斐大和での一泊を予定しているが、
無事に峠を越えて、甲斐大和の宿では美味い酒を酌み交わしたいものだ。

どんな景色が現れるのか、またどんなハプニングが待っているのか、
今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみでもある。

この日の万歩計は、22.000歩を超えていた。

ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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北浦はこの日も雨だった 白鳥の里北浦ウォーキング

2017年01月20日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年1月20日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第32回(2017年第3回)、「白鳥の里北浦散策」ウォーキングに参加した。
「白鳥の里北浦散策」は、2012年2月3日(金)以来で、今回は5年ぶり2度目となる。
この間、2014年2月14日、2015年1月9日、2016年1月29日と繰り延べて計画したが、
いずれも雨のため中止となっていた。

第一集合場所、土浦ピアタウン駐車場に予定の9時までに集まったのは9名。
この日は大寒、一年で最も寒い日とされている。
予報(潮来)では午後から雨で、最高気温は7度というこの冬一番に相当する寒さ。
参加を控えた人が多く出たのはやむを得ない。
午前中は何とか持って欲しいとの僅かな望みを抱きながら、
スタート地点のかんぽの宿「潮来」へ向かった。


この日のスタート場所、かんぽの宿「潮来」に到着。
土浦を出発する時は粉雪だったが、潮来では小降りながら冷たい雨に変わっていた。
直行でかんぽの宿「潮来」まで来た1名を入れて、参加者は2桁の10名となった。


長時間雨の中を歩くのは大変なので、予定のコースを短縮することにした。
かんぽの宿内で体調を整えて、雨具への着替えなどを済ませた。


準備体操は省略し、いつものようにOさんを先頭に出発!


かんぽの宿の入口にこの日のコース図があった。
森林浴ゾーン、リフレッシュゾーンはショートカットすることにした。


かんぽの宿を出たところを右へ曲がり、


坂道を下り切ると県道188号に出る。


県道188号を北方向へ進む。


この頃になって雨はいったん上がったかに見えた。
この分なら・・・


リフレッシュゾーンとバードウォッチングゾーンの中間点に見当を付けて北浦へ。


周りの田んぼの風景を見ながら、


北浦へ。
『このまま雨が降らないでくれたら良いんだけどな~っ』


民家の間の小さな路地を抜け、


北浦の堤防へ上ると・・・


目の前に北浦の景色が広がった。霞ヶ浦と似たような景色だ。
空はどんよりとした厚い雲に覆われている。
これから目指す水原洲吠崎方面を望む。


こちらは水原洲吠崎の反対側である。


水原洲吠崎の先の白鳥飛来地を目指す。
一時止んでいた雨が再び降り始めた。


右手の丘の上にかんぽの宿「潮来」が見える。
『あそこがゴールだねっ』


水門を通過


雨が次第に強くなって来た。
背中から吹く風も少し強くなった感じだ。
『予報は外れちゃったねぇ』


『いやぁ 雨は冷たいし寒いねぇ』


水原洲吠崎の先端を湖岸に沿って進む。


沖合の柵に川鵜とカモメが並んでいる。
揃って同じ方向へ向いているのが面白い。


水原洲吠崎を過ぎると、今度は右側から風を受けるようになり、
傘で雨を遮るような形で進む。


小さな漁港を通過


『もう直ぐ「白鳥飛来地」だよねっ』


葦の向うに鴨が群れていた。


『けっこうな数の鴨だねぇ』


白鳥の姿が見える。
北浦の白鳥は、昼間は餌を求めてどこかへ飛んで行き、
餌付けの時間帯(夕方)に戻ってくるとの話を聞いていた。
何羽かの白鳥はどこへも行かずにそのままいるのかも・・・


餌付け場所にはたくさんの鴨が集まっていた。


餌付け場所の前に鳥インフルエンザの警告が。
『これ以上近づかない方が良いねっ』


堤防の上から観るだけにした。


白鳥たちが近くに寄ってきたが、


残念ながら誰も白鳥たちに与える餌は持ち合わせていなかった。


近寄って来た白鳥が、


大きく羽ばたいたのを観て、餌付け場所を後にした。


餌付け場所からさほど離れていない同じような場所があったが、
ここには鳥たちの姿は見えなかった。
餌を貰える場所ではないので鳥たちも寄って来ないのだ。
その違いは歴然としていた。


白鳥の里散策コースの案内に従って、右へ折れ、


田んぼに囲まれた畦道を県道188号へ。


田んぼの脇には水神社が祀られていた。
昔から水辺の田んぼには、水神社は欠かせないのだ。


県道188号へ出て、横断して右方向へ進む。


『わ~っ梅が咲いてるっ』
『潮来はやっぱり暖かいんだねっ』


さらに県道188号を進むと、


左手に水子・子安地蔵尊が祀られている建物があった。
水原の観音様(安産・子育の御神)として近郷近在の女人の信仰を集めている、そうだ。


愛染院の楼門
山門の二階は鐘撞堂になっており、梵鐘が吊るされていた。
この寺は「東雲山愛染院根本寺」(真言宗)が正式名称だが、
地元では水原の観音様として親しまれている、とのこと。


これは西国三十三観世音堂である。


堂内の中央には観音像が祀られており、


両脇には西国三十三観音霊場の観音像が並べられている。
西国三十三観音霊場を一度で参拝したと同じご利益が得られるという
有り難いお堂なのである。


観音堂(本堂)
愛染院は、真言宗豊山派に属し、東雲山愛染院根本寺と称する。
享保四年(1719)の建立とされ、潮来市の文化財に指定されている
源義家(八幡太郎)の守護仏を胎内仏とした、本尊の如意輪観世音菩薩像は、
県指定文化財となっている。


金毘羅宮と刻まれた石碑の先に長くて急勾配の石段があった。
漁の関係者の鎮守と云われる金毘羅神社が祀られている、とのこと。
雨で滑ると危険なため、下から参拝するだけにした。


弘法大師堂


弘法大師堂の前に北浦の方を眺めている弘法大師像が立っている。


「金蘭」と書かれた扁額のかかった金堂


内部には本尊の金剛愛染明王が祀られていた。


愛染院を後にして、かんぽの宿「潮来」を目指す。


県道188号をかんぽの宿「潮来」へ。


民家の庭に蝋梅の花が咲いていた。
『やっぱり蝋梅は素敵な香りがするねっ』
この日の天気にもかかわらず、”春近し”なのである。


ゴールのかんぽの宿「潮来」を目指す。


”白鳥の里”の看板があった。
ここから餌付け場所まで一番近い所のようだ。


県道188号に面したガソリンスタンドを過ぎ、


かんぽの宿「潮来」への坂道を上る。


かんぽの宿「潮来」は間もなくである。


かんぽの宿「潮来」に到着


早速着替えを済ませて館内のレストランへ。


食事風景
『こんな日は温かい麺が一番だよなっ』


食事風景
『思ったより美味しいねっ』


注文したのはひれかつ定食(1,080円)だ。
美味かった。


食事の後は土産物探しである。


皆さん、それぞれ土産を買い求め、かんぽの宿「潮来」を後にした。

『皆さん、寒い中今日は大変お疲れさまでしたぁ』

5年ぶり2度目の白鳥の里北浦散策は、冷たい雨の中となってしまった。
予報では雨は午後からとなっていたが、完全に外れた形である。

どうも”潮来”となると、雨で中止となることが多い。
今回の北浦散策も2014年2月14日、2015年1月9日、2016年1月29日と
3回も繰り延べ、5年ぶりに実施となったのは前述のとおり。
さらに、昨年5月27日に予定していた「水郷潮来花嫁コース」ウォーキングも
雨のため中止となっているのである。

来年度(2017年度)も6月中旬に計画してみたが、今から心配になってきた。
今から心配してもどうなるわけでもないし、後は運を天に任せるしかない。

この日の万歩計は、約9,000歩を少し越したところだった。

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下りの山口コース1は断念 宝筐山ハイキング

2017年01月13日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年1月13日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第31回(2017年第2回)、「宝筐山(山口コース)」ハイキングに参加した。
この日の計画は、上りは山口コース2を、下りは景観の良い山口コース1を
予定している、はずだったが・・・

第一集合場所の乙戸沼公園
集まったのは9名とちょっとばかり少ない。


スタート地の筑波総合体育館へ行ってみると、直行した13名が待っていた。
結局この日の参加者数は、22名となった。
まあまあの人数ではある。


早速、Oさんの号令で準備体操を始める。
『背筋を思いっきり伸ばして~っ』


『最後は深呼吸~っ』


10時ジャスト、Oさんを先頭に宝篋山を目指して出発!


今年の干支酉年生まれのS子さん(83)、今日も朝から元気が良い。


つくば市市民研修センターを過ぎた辺り。
宝篋山を目指し、山口集落へ向かう。


右手に目指す宝篋山(461m)が見える。
『今日はあそこまで登るんだっ』


山口集落の道標
右側には、”藤澤を経て土浦”と刻まれている。
左側には、”鬼子母神社不動峠”や”柿岡”、”下妻”などの文字が読める。
ここが追分だったようである。


10時10分、農家の大きな長屋門前を通過。


「南無馬頭観世音・・・」の文字が刻まれている。
あとは何と刻まれているのかよく分らない。


山口コース2は、正面の墓地の所で右に曲がり、


右手にため池を見て、


その突き当たりを左へ進むことになる。


田んぼの脇で見掛けた奇妙なロウソク立て。
人が3人とそれぞれの前にロウソクが3本立てられている。
しかし、火を灯した形跡はない。
何かの風習のようにも見えるが・・・
(この少し先にも同じものがあった)


鬼子母神社辺りから急坂が始まった。


この辺りではまだ余裕が感じられるが・・・


急坂はしばらく続く。


この辺りに来るともう余裕などない。
『こんなきつい坂は何年ぶりかよねっ』


10時25分、見晴らしの良い平らな場所に出た。
しばし休憩して呼吸を整えよう。


北条の丘?
標高は200mもなさそうだが・・・
『何という山なのかねぇ』
ちょっと気になる山である。


『筑波山がきれいに見えるわね~っ』


筑波山


急坂はまだ続く。
『かなり堪えるねぇこの坂道は』


ようやく急坂が終わった。
『きつかったぁ』


10時37分、一呼吸おいて山道の始まりである。


ようやくハイキング気分が味わえる道になった。
それまでの舗装道ほどではないが、かなりの坂道である。


宝篋山を目指す。


11時1分、山口コース1への分岐点を通過。
山頂まで1.5Kmとある。


『山頂までまだ1.5Kmあるんだぁ』


雑木林の道を登る。


11時12分、新寺コースからの合流点を通過
山頂まで1.2Kmとある。


一抱えもある岩が階段状にあり、険しい道が続く。


岩の道を過ぎると、杉の林が現れた。


杉の根っこが階段の代りになり、歩き易い。


11時22分、陽の当たる場所があったので、一休みしていこう。


かつてはこのような雑木はなかったように思うが、
今は木々に遮られて見晴らしは良くない。


『何にも見えないわねっ』


11時35分、山頂まで0.7Kmの地点を通過


宝篋山山頂(461m)を目指す。


11時43分、小田城コースとの合流点を通過
山頂まであと0.3Kmとある。


もう少しだ、『頑張りましょうっ!』


先頭Gが立ち止まっている。


山頂への道が2つに分かれている。
前回(2013年4月26日)は、真っ直ぐ(0.3Km)を登ったので、
今回は左(0.2Km)の距離が短い方へ挑戦してみようということに。


山頂まで残り200mだ。


最後の急坂に挑む。


『あと少しだねっ』
『頑張らなくちゃっ』


山頂の浅間神社の鳥居が見えた。


11時58分、宝篋山山頂(461m)に到着した。


宝篋印塔に手を合わせる。


時計はちょうど12時を差していた。
山頂のベンチには昼食を摂るグループがあちこちに見られた。
丁度お昼の時間なので昼食中のハイカーが多い。


空いているベンチを探す。
『ここもいっぱいだねぇ』


何とか空いているベンチを見つけて、弁当タイム。
ちょうど鉄塔の日陰になっているが、贅沢は言えない。


こちらは筑波山が正面に見える特等席だ。


弁当も終わり、下山しようとしたとき、”鉄人”のYさんとばったり。
我々が宝篋山に登った時には、必ずと言っていいほど会う。
ほぼ毎日のように登っているのではと思われる。
(聞くところによると、既に1,400回以上も登っているそうだ)


再会を喜びあったのも束の間、Yさんは駆け足でみるみる下って行ってしまった。
こんな急坂を駆け足で下るとはまさに”鉄人”である。


我々も下山しよう。
最後尾の2名がまだ姿を見せないのである。
一緒だった一人が言うには、途中で休憩しているらしい。
携帯で連絡を取ろうとするが、繋がっても直ぐに切れてしまうため、
どういう状況なのかが分からない。


当初下山は山口コース1としていたが、登って来た道(山口コース2)を
引き返すことにした。
2人が待っているという場所へ急ぐ。


山頂から100mほど下ったバイオトイレ前の広場に、最後尾だった2名が待っていた。
ちょうど弁当を食べ終わったばかりだった。


体調を整え終わり、22名全員が揃ったところで、


13時2分、下山開始


ゴールの筑波総合体育館を目指す。


13時5分、山頂手前の分岐点を通過


下りは楽だし、速い。


13時10分、小田城コースとの合流点を通過


雑木林の道を下る。


13時24分、後続との間隔がやや開いたため、一休みして行こう。


杉林の中を下る。


正面の木々の隙間から筑波山が見えた。
『こんな所から筑波山が見えるんだぁ』
『登って来る時は気が付かなかったよなっ』


さらに杉林を下る。


沢の手前で後続との間隔調整のため一時停止中。
全員揃ってのゴールが、当会のモットーなのである。


14時5分、平らな広場に到着


ほどなく後続グループも広場に到着した。


『ここからの景色は最高だよねっ』


見慣れた筑波山の姿だが、いつもながら美しいと思う。


軽い休憩の後、筑波総合体育館を目指す。


S子さんは相変わらず元気一杯だ。
満足感に満ちたはちきれんばかりの笑顔が良い。


右手に筑波山を見ながら


見晴らしの良い急坂を下る。


14時20分、麓の山口集落が見えて来た。


眩しい陽の光を正面に浴びながら・・・


ゴールの筑波総合体育館を目指す。


『これって福来みかんでしょっ?』
『随分小さい感じだねっ』


小ぶりの福来みかんである。


14時28分、長屋門前を通過すると・・・


筑波総合体育館が見えてきた。


14時34分、つくば市研修センター前を通過し、


14時36分、ゴールの筑波総合体育館に到着した。


Oさんの号令で整理体操だ。


『最後に大きく深呼吸をして~っ』
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

宝篋山は、2015/03/06の新寺コース以来、またこの日の山口コースは、
2013/04/26以来約4年ぶりである。

当初の計画では、上りは山口コース2を、下りは景観の良い山口コース1を
下ることにしていたが、山頂目前で登頂を断念せざるを得ない人が出たため、
山頂の逆方向となる山口コース1を経由して下山することは断念し、
上りと同じコースを下ることに変更した次第。
特に事故もなく、全員無事下山出来て一安心である。

この日の天気は快晴で風も弱く、寒さはあまり感じなかった。
あいにく富士山は見えなかったが、宝篋山ハイキングとしては、
まあまあのコンディションだったと思う。

この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。

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旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第5回 島田宿~掛川宿(2日目)

2017年01月10日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2017年1月10日(火)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージ第5回目は、島田宿(JR島田駅)~掛川宿(JR掛川駅)を
2日間かけて歩いた。
2日目は、日坂宿から掛川宿までの約8.6Kmを歩いた。

ホテルの朝食場所は、1Fフロントの脇にある。
ガラス戸はホテルの入口で、その向うは外になる。


10名ぐらいが座れるテーブルと6名ほどのカウンター席が用意されている。


この日は、和食にしたが、洋食(クロワッサン)もあった。


7時35分、ホテルを出発


掛川駅北口を7時50分発の東山行に乗車
このバスに乗り遅れると、次は2時間後の9時40分発となるのだ。
乗客は、最初は15名ほどいたが、途中のエコポリス工業団地で
殆どの客は降りてしまった。
バスの中でホテルにストックを忘れたことに気がついたが、
引き返す訳にはいかない。


8時17分、日坂バス停に到着。


バス停は日坂宿本陣の直ぐ横だった。
日坂宿本陣の屋号は「扇屋」で、代々片岡家が世襲で営んでいた。
本陣の敷地はおよそ350坪、建坪220坪、門構・玄関付の建物だったが、
嘉永五年(1852)の大火で全焼。
再建後、明治三年(1870)に店を閉じた。


8時27分、掛川を目指して日坂宿を出発!
その前に、ホテルに電話し、ストックを部屋に忘れてきたことを説明。
掛川に着いたら受取りに伺う旨を連絡し、あらためて出発。


問屋場跡
日坂宿の問屋場は、かつてこの場所にあり、日坂宿の宿役人は問屋1人・年寄4人・
請払2人・帳附5人・馬指3人・人足割3人・同下役6人だった。
問屋場へは問屋・年寄をはじめ宿役の者が毎日交代で一人づつ詰め、
重要な通行があった時には全員で業務に携わった。


脇本陣「黒田屋」跡
日坂宿の脇本陣は、時代とともに移りかわり何軒かが務めた。
ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」があった。


屋号を各家が掲げている。
かつて名乗っていた屋号や店などだ。
実際には「すし屋」や「だんご屋」はない。


「藤文」
日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七郎
伊藤文七翁は、安政三年(1856)に日坂宿年寄役となり、万延元年(1860)から
慶應三年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めた。
維新後の明治四年(1871)には日坂宿他27ヶ村の副戸長に任ぜられた。
その間、幕府の長州遠征に50両を献金、明治維新の時は、
官軍の進発費として200両を寄附している。
(中略)
この建物は、「藤文」部分が江戸末期に、


「かえで屋」部分が明治初期に建てられた。


「萬家」
建設時期は、安政年間(1854-1860)と推定されている。
筋向いの「川坂屋」が士分格の宿泊もできた大旅籠だったのに対して、
「萬家」は日頃、庶民の旅人が利用した旅籠だった。
間口は四間半(約8.2m)であり、幕末としては中規模の旅篭である。
江戸時代そのままに、一階が店や帳場で、二階が宿泊室という、
ごく普通の構えである。


法讃寺
真宗大谷派は、我家の宗派ということもあり、


この日の旅の無事安全を祈願した。


旅籠屋「川坂屋」は寛政年間(1785~1800)に、問屋役を務めたことがある
斎藤次右衛門が始めたと伝えられている。
宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を残す、
数少ない建物の一つである。
格子が特徴的で、当時建築にあたっては、江戸より棟梁を招いたとのこと。


現存の建物は、江戸時代後期の嘉永五年(1852)に発生した、
日坂宿大火の後に再建されたもの。


(1月9日)
宿場内をきょろきょろしていると、「川坂屋」の管理人と思しき人が
中を案内してくれると言う。
お言葉に甘えて、内部を見学させてもらった。
中庭に続く通り土間


みせおく


みせおく


上段の間(二の間)
この襖の墨跡は、幕末期の幕臣、新政府では明治天皇の側近の一人であった
山岡鉄太郎(号は鉄舟・1836-1888)によるもの。
鉄舟は、戊辰戦争の際、勝海舟と協力して西郷隆盛を説いて、
江戸城の無血開城を実現させたことでも有名。


上段の間(一の間)


上段の間
格子の障子が美しい。


衝立の書は、隆盛の弟で明治の政治家・軍人の西郷継道(1843~1902)が、
明治二十一年(1888)夏に宿泊して書いたもの。
「以静侍譁 戊子夏日 南浦漁者」
(せいをもって かをまつ ぽしかじつ なんぽぎょしゃ)


わざわざ錠を開けて内部を案内していただいた管理人の方に丁重に礼を述べ、
「川坂屋」を後にした。
緩やかな坂道を下ると、


右手相傳寺の入口に秋葉常夜燈があった。
日坂宿はしばしば火災に遭っているためか、火伏の秋葉信仰が盛んであった。
当時の人々は、神仏のご加護を願い、秋葉講を結成し、分社や常夜燈を
各所に作った。
この常夜燈は天保十年(1839)に建立されたもの。
日坂宿には他にも本陣入口と、古宮公会堂脇の2基がある。


常夜灯の奥に相傳寺のお堂(観音堂)があった。
遠州三十三観音霊場の二十一番札所にあたる古寺で、
古くから日坂の人々の信仰を集めた。


観音堂脇には、三十三体の観音石像、


廃寺となった威法院の千浦地蔵(六地蔵)、


延命日限地蔵などが安置されている。


相伝寺の脇には、日坂宿の高札場が復元されている。
当時は相傳寺観音堂敷地内にあり、”下木戸の高札場”とも云われていた。


高札場の近くを流れる逆川の脇に下木戸跡がある。
大規模な宿場では観音開きの大きな門だったが、
小規模だった日坂宿では、川が門の役割を果していた。


逆川に架かる古宮橋を渡る。
江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こった時は
宿場の治安維持のために橋を外したとも伝えられている。


賜硯堂成瀬大域出生の地
文政十年(1827)ここ古宮町に生まれた成瀬大域は、明治期に活躍した書家。
明治天皇より楠木正成愛用と伝わる硯を賜り、自らと庵を”賜硯堂”と称した。


古宮町の秋葉常夜燈
弘化二年(1845)の建立。
常夜燈の後ろに見える小さな社は若宮神社だ。


県道415号との合流点手前に事任(ことのまま)本宮の鳥居があった。
本宮まで271段とある。
どんな所なのかちょっと立寄ってみよう。
この日最初の訪問地である。


一人がやっと通れるほどの急な271段の階段を上ると・・・


事任八幡宮本宮の鳥居があり、


小さな社が祀られていた。
かつてはここ本宮山に神が祭られていたのを平安初期の大同二年(807)に、
坂上田村麻呂が現在地に移転して再建したと伝えられている、そうだ。


9時5分、旧東海道は、県道415号(東海道)に合流。
昨日は、ここからバスで掛川に向かったのだ。


事任八幡宮へ参拝して行こう。
古代より”願いことのままに叶う神社”とされてきた、そうだ。
太鼓橋の先に一の鳥居がある。


境内に合祀されている金刀比羅神社と稲荷神社の先に楠の巨木があった。
高さ31m・目通り6m・根回り19.3m、静岡県内有数の大木である。
記述はなかったが、樹齢は500年くらいだろうか?


二の鳥居
事任八幡宮は、遠江国一の宮である。
創立年代は未詳とのことだが、一説には成務天皇の御代(131~190年頃)に
創建されたと云われている、そうだ。


事任八幡宮拝殿
古くより願い事を”ことのまま”に叶えてくれる神と伝わる。
主祭神は己等乃麻知媛命 (ことのまちひめのみこと
創建年代は不詳、大同二年(807)坂上田村麻呂が桓武天皇の勅を奉じ、
再興したと伝わる。
康平五年(1062)源頼義が石清水八幡を勧請し、八幡宮を称するようになった。
江戸時代の通称は「誉田八幡宮」だった。


事任八幡宮の御神木杉
本殿の東奥にあることから、御神木「東の宮様」と呼ばれている巨樹。
高さ36.5m、目通り6.3m、根回り11.2m
市指定天然記念物となっていることから、樹齢は350年以上と推察。


日本一の大笛
事任八幡宮で開催される大笛祭では、御神楽や各町内奉納囃子が披露される。
この大笛祭の「大笛」とは、中遠竹友会が奉納したもので、
日本一の長さ(約4m)といわれる。


県道415号線を掛川へ。
道の駅「掛川」が近くにあるようだ。
この道の駅には何度か訪れたことがある。


国道1号日坂BPを潜って少し行くと、


旧東海道は県道415号を左に分岐する。


嵐牛蔵美術館
江戸時代後期から明治期にかけて活躍した俳人伊藤嵐牛の作品が展示されている。
見学には事前に予約が必要とのこと。
ここは伊藤嵐牛の出生地で美術館は子孫の方が開設運営している。


伊達方に鎮座する大頭龍神社。


伊達方一里塚
大頭龍神社の向かいに伊達方一里塚跡がある。
江戸日本橋から57番目の一里塚、両塚とも現存はしない。


「歌人石川依平翁出生地」碑
石川依平は江戸後期の国学者で歌人、少年期に冷泉為章の門人となり歌道を学び、
22歳の時に同郷の栗田土満(真淵・宣長門下)へ入門し国学に精進する。
後に多くの著書を残し、多くの門弟を抱え活躍した。


参道入口に立つ慶雲寺道道標。
この先で県道415号に合流するが、


旧東海道は、再び県道415号を左に分岐する。


9時55分、本所の六地蔵を通過


旧東海道「本所」道標を通過


逆川の向こう岸の栄川中学校のグラウンドで
年配の人たちがグラウンドゴルフに興じていた。


10時ちょうど、県道415号の岩橋を通過


掛川市千羽付近
東京日本橋から225Kmの表示


変わった形の門
何と言う形式の門なのだろう?


10時13分、エコポリス工業団地(右)への交差点を通過
JA共済の時計も10時13分を差していた。合ってる。


掛川市薗ケ谷付近
東京日本橋から226Kmの表示
旧東海道の日本橋~京都三条までの総距離495.5kmの半分まであと少しだ。


本村橋交差点を過ぎると、旧東海道は、三度県道415号を左に分岐する。


本村橋交差点にある旧東海道「成滝」道標


「成滝」道標の直ぐ脇に小さな馬頭観音堂があった。


お堂の中を覗くと馬頭観音像が祀られていた。



この道しるべは大頭龍大権現と福天大権現の参道標である。
昔は掛川宿と深い交流のあった川崎湊(現在の静波町)に続く川崎街道と言って
多くの人々に利用されていた。
元の位置は約十米ほど東よりであり、川崎街道の起点となっている。


10時48分、逆川に架かる馬喰橋東袂に到着


馬喰橋を渡った逆川左岸に葛川一里塚があった。
江戸日本橋から58番目の一里塚である。


一里塚碑のある道路反対側の”もちや”のでっかい看板が目を引く。


看板の横に「掛川宿名物 振袖餅」の石碑が。
時計は10時52分を差していたが、小腹が空いたので、ちょっと店を覗いてみよう。


「もちや」は江戸時代後期の文久三年(1863)創業の老舗和菓子屋である。
大勢の老若男女が近くの観世音菩薩へのお参りの帰りに立寄り、
土産に持ち帰ったのが評判になった。
細長い形が着物の振袖に似ていることから”振袖餅”という名が付いた。
十返舎一九が京都に向かう折に買い求めた事もあったり、
また、諸大名も参勤交代の際に買い上げたそうである。


かみさんへの土産にと振袖餅1箱と途中でのおやつ代わりに1個を買ったら、


何とおしるこが出されたのにはビックリ。
お茶まで出されたのには恐縮してしまった。
おしるこは適度な甘さで餅も軟らかく、実に美味しかった。
江戸時代から評判が高かったというのも頷ける。
『ご馳走さまでした~っ』


馬喰橋東詰の旧東海道
かつてこの辺りの旧東海道筋は馬喰町と呼ばれ、橋名だけにその名を残している。


七曲
城下出入口の新町・葛川境から枡形まで七曲りと呼ばれ、
旧東海道は連続して鉤の手に曲げられている。


秋葉常夜燈が残る鉤の手を左に曲がり、


新町区屋台置場前を通り、


今度は鈎の手を右へ。これまで何度鈎の手を曲がっただろう。
何の案内標識もないので不安で仕方がないが、とにかく進んでみよう。


塩の道の道標
その昔、沿岸部から内陸部に向かって塩を運んだ道が全国にたくさんあった。
日本の代表的な塩の道のひとつに、
静岡県牧之原市相良から掛川市を抜けて、新潟県糸魚川市へと続く道がある。
その一部は「秋葉街道」とも呼ばれ、秋葉神社への信仰の道としても栄えていた。
ちょうどここが旧東海道と交わる場所のようだ。
日本海⇔太平洋350Kmの表示も。


塩の道の道標の先に旧東海道掛川宿の道標があった。
東番所跡とかろうじて読める。七曲の終点のようだ。
七曲を間違わずに歩けて一安心と言ったところ。


掛川宿と言えば掛川城が有名だ。
時間も早いので掛川城へ行ってみることにした。
標識に従ってお城を目指す。


掛川城天守閣が見えてきた。


泉洞山天然寺の前に”阿蘭使節ゲースベルト・ヘムミ先生古墳”
と刻まれた碑が建てられていた。
門の中は幼稚園のようだったので、塀に沿って進むと、


古い地蔵や


古い墓の先に、


ゲイスベルト・ヘンミィの墓があった。
ゲイスベルト・ヘンミィの主な使命は日本との通商であり、
オランダの使節として11代将軍家斉との謁見を終え、
長崎に帰る途次、掛川宿中町の役人林喜太右衛門方に投宿。
その3日後にかねてからの病気が悪化し、この地で死去。
天然寺に葬られた。
ときに寛政十年(1798)6月8日、ゲイスベルト・ヘンミィ51歳だった。


11時30分、掛川城大手門前に到着


元の位置より50m程北側に復元された掛川城大手門


大手門内側に建つ大手門番所
安政六年(1859)に再建された番所で、廃藩後に元静岡藩士谷庄右衛門が
居宅用に移築、昭和53年(1980)になって谷家より市へ寄贈され、
元の位置に近い現在地へ移築復元された。
大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しいことから、
掛川市の文化財に指定されている。


大手門番所裏に鎮座する三光稲荷
山内一豊が掛川城と城下の整備に取り掛かった文禄年間(1592-1596)
伏見城の普請に携わった縁で伏見稲荷を勧請したことに始まるという。


掛川城太鼓櫓


掛川城には日本100名城巡りで、平成22年(2010)10月10日に訪れている。
6年ぶりの掛川城登城となる。
本丸へ通じる四足門
正保城絵図を元に復元された。


天守閣と二の丸御殿拝観料410円を払い本丸広場へ。
本丸広場より太鼓櫓を望む。
城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物。
掛川城に現存する唯一の櫓で、安政大地震後に再建されたもの。
元は荒和布(あらめ)櫓があった場所で、昭和30年(1955)
現在地に太鼓櫓が移築された。


掛川城
室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、
家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが掛川城の始まり。
戦国時代には、山内一豊が城主として10年間在城した。
この間一豊は、大規模な城郭修築を行い、天守閣・大手門を建設するとともに、
城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注いだ。


掛川城天守は嘉永七年(1854)に発生した安政東海地震により損壊。
再建されることなく明治二年(1869)廃城に。
安政東海地震から約140年を経た平成6年(1994)、日本初の
「本格木造天守閣」として復元されたものである。


いざ天守へ!


天守閣へ至る急な石段を登る。
何度も折り曲げた狭い階段は、敵の侵入に備え登りにくくなっている。


霧吹き井戸
永禄十二年(1569)徳川家康は、今川氏真の立て籠もる掛川城を攻めた。
この時、井戸から立ち込めた霧が城を包み、家康軍の攻撃から城を守った、
という伝説がある。
掛川城は別名「雲霧城」とも呼ばれている。


天守閣内
階段は急で狭い。


さらに階段を上ると天守閣に至る。


天守閣からの眺望(南)
掛川駅方面


天守閣からの眺望(東)
二の丸御殿が一望だ。


天守閣からの眺望(東)
真っ白な雪を被った富士山がはっきりと見える。
鉄塔がちょっと邪魔である。


天守閣からの眺望(西)


天守閣を後にして、二の丸御殿へ。


掛川城公園から天守閣を望む。


二の丸御殿入口


報刻の太鼓
安政二年(1855)8月、当時の掛川藩主太田氏により製作された。
直径90Cm、長さ100Cm、胴周り333Cm
樹齢600年の欅で作られている。


三の間
城主や家老に用向きの場合、この間に通され用件を済ませる。
用件によっては御二の間や次の間に通される場合もある。


次の間
城主と謁見できる身分の高い者だけが通された部屋。


御書院上の間
藩主が藩の政治を司った部屋。


次の間
城主や奥方の世話・護衛をする役人が控えていた部屋

(二の丸御殿にはまだたくさんの部屋や展示物があるが、
ここでは割愛させていただくことにする)

掛川駅へ向かう。


市街には、今年のNHK大河ドラマ「女城主直虎」の幟がはためく。


12時45分、掛川駅に到着した。


忘れてきたストックを受取りに駅前のホテルへ。
この後、駅構内のレストランで昼食だ。
昨日夕食を摂った「㐂膳」である。


天丼セット(1,490円)を注文した。


掛川駅13時32分発の新幹線「こだま号」で東京へ向かった。


この日は素晴らしい富士山を見ることができた。
これまでの東海道歩きでは味わえなかった満足感に浸れた。


日坂宿の区間は昨日と一部重複したが、掛川宿まで歩き終えた。
2010年10月10日以来2度目の掛川城登城だったが、城巡りの楽しさを再認識。
帰りの新幹線から見えた雪を被った富士山は、本当に素晴らしかった。
満足の旧東海道歩きだった。
「もちや」で買った”振袖餅”、かみさんの評価は上々だった。

この日の万歩計は、19,000歩を計測していた。

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コメント
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