ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

前日梅雨入り発表 国分寺お鷹の道~殿ヶ谷戸庭園へ

2024年06月22日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和6年(2024年)6月22日(土)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第7回、令和6年(2024年)第12回「国分寺お鷹の道~殿ヶ谷戸庭園へ
ウォーキングに参加した。

前日、関東甲信地方が”例年より2週間ほど遅れて梅雨入りした”と発表されたばかりなので、
雨が心配されたが、この日は朝から快晴という願ってもない好天気となった。

荒川沖8時5分発に乗るために改札口に集まった皆さん。
この日荒川沖駅に集まった人は12名、まぁいつもの顔ぶれである。


8時5分発の電車を待っているところ。


電車は定刻どおり到着した。
土浦方面からは6名が参加した。


このあと牛久駅から1名、龍ヶ崎市駅から1名が乗り込み、この日の参加者は合計20名となった。
9時16分に東京駅に到着し、中央線に乗り換えるため、長~いエスカレータで中央線ホームへ。


一つ前の9時24分発の青梅行きを見送り、2分後の9時26分発の青梅行きに乗車。
2分後だったこともあり、全員が一つの車両内で向かい合って座ることが出来た。


『こんなことって珍しいんじゃないっ?』


『全員が一つの車両に座れて良かったよなっ』


この日のスタート地である西国分寺駅には10時14分に到着した。


西国分寺駅で体調を整え、西国分寺駅南口でこの日のコース概略と注意点などを説明し・・・


10時30分、先ずは伝鎌倉街道、武蔵国分尼寺跡を目指して出発!!


少し歩くと、伝鎌倉街道780m、武蔵国分尼寺跡1000mの案内標識が現れた。
『案内標識がしっかりしてるみたいだから、心強いよねっ』


西国分寺駅南口を真っすぐに進む。


東京都知事選挙の立候補者ポスター掲示板があった。
いわゆる有名人のポスターが目に入った。
『そのうちこの掲示板がいっぱいになるのかなぁ?』
『いっぱいになったところを見てみたいねぇ』


今歩いている所は”史跡通り”と呼ばれているらしい。
以下のような説明があった。
天平十三年(741年)に市名(国分寺市)の起源でもある武蔵国分寺が建立されましたが、
元弘三年(1333年)に新田義貞と北条泰家との戦いのため武蔵国分寺は、惜しくも焼失して
しまいました。
現在、武蔵国分寺の跡地は国の史跡に指定され、史跡公園として整備されつつあります。
昭和48年4月に西国分寺駅が開設されてから、この道路を地元の皆さんが史跡公園に通ずる
道路であることから、”史跡通り”と呼ぶようになりました。(以下略)
昭和56年4月 国分寺市


『緑が多くて歩き易いよねっ』


道路の両側にはあちこちにアジサイが花を咲かせていた。
『今がちょうど見頃なんじゃないっ?』


正面の都道145号(多喜窪通り)の下を潜って都道145号を横断すると、正面に細い道が。


細い道の入口?に武蔵国分尼寺跡630mの案内標識があった。
地図では国分尼寺の手前に伝鎌倉街道があることになっている。
伝鎌倉街道はこの道で間違いなさそうだ。


案内標識に従って細い道を真っ直ぐ進むと・・・


突き当りに左伝鎌倉街道170mの案内標識が・・・


案内標識に従って進むと、正面のJR武蔵野線に沿うように右折して道が続いていた。


細い道は薄暗い森の中へと続いていた。


少し進んだ所に伝鎌倉街道と書かれた石柱があり、丸太の階段があった。


丸太の階段を5mほど上ると、草むらに覆われた細い径が続いていた。
最近あまり人が歩いた形跡はなさそうな様子である。
これが”伝鎌倉街道”なのだろうか?


草むらに覆われた細い径を進んで行くと・・・


今度は下りの丸太の階段があり、普通のアスファルトの道が見えた。
伝鎌倉街道はここで終わりのようだ。
『もっと歩きたかったわよねっ』 皆さん気に入ったようだ。


丸太の階段を下りると、芝生の公園のような広場が現れた。
その名の通りである。
後で調べたら”緑地広場”となっていた。


緑地広場を進んで行くと・・・


武蔵国分尼寺跡に出た。
整然と礎石が並べられていた。
この辺りは武蔵国分寺尼寺の尼坊跡のようだ。


武蔵国分尼寺講堂想定地に立って周りを見回す。


講堂想定地の先の一段高い所の金堂跡へと続いている。


武蔵国分尼寺金堂跡


武蔵国分尼寺金堂
仏殿。本尊をおまつりする堂で、尼寺伽藍の中心にある最も大きな瓦葺建物。
屋根の大きさに築かれた高さ1mほどの基壇上に建てられた。
僧寺と同じと推定される河原石による乱石積基壇や雨落石敷、階段などの痕跡は
一切残っていなかったが、かろうじて残存していた基壇掘り込み部(版築土)の規模と
地上部の規模をほぼ同じと考えて東西26.7m(90尺)、南北18.5m(62尺)と復元した。
(中略)
広い堂内中央には須弥壇(しゅみだん)が据えられ、丈六の阿弥陀三尊像などの仏像が安置されていた。


金堂の近くに”史蹟武蔵国分寺址”と刻まれた旧い碑が建てられていた。
右隣の新しい碑には、”史跡武蔵国分尼寺跡”と刻まれている。


史跡武蔵国分寺址碑の左横の道は”雑木林のみち”と名付けられていて、武蔵野線の下を潜って
武蔵国分寺跡へと続いているようだ。


武蔵野線の下を潜って、その先にある府中街道を横断し、


元町通りを武蔵国分寺跡へ向かう。


武蔵国分寺跡へ。


武蔵国分寺の礎石の先に中門・金堂間の幢竿(どうかん)遺跡の説明
幢竿とは、宗教儀礼の際に装飾として用いる幡(ばん)を吊り下げる柱のことです。
中門と金堂の間からは伽藍中軸線上に東西に並ぶ2列の大きな柱穴が検出され、幢竿の痕跡と
推定しています。(以下略)


これが幢竿を建てる時の穴の跡と思われる。


武蔵国分寺址”の碑


武蔵国分寺の金堂跡の須弥檀(しゅみだん)に腰を降ろして一休みだ。


金堂跡の先に数本の大木が繁茂している。
その先が講堂跡になっている。


講堂跡
説明によると、武蔵国分寺の講堂は、経典の講義が行われた建物で、9世紀後半に
大規模工事が行われ、再建された建物の規模は、東西約42.2m、南北約22.6mあったと
されている、とのこと。


武蔵国分寺を後にして、七重塔跡へ向かった。


七重塔跡230mの標識前を通過
国分寺楼門は七重塔跡の後に行くことにしている。


七重塔跡へ


11時24分、七重塔跡に到着した。


七重塔跡
飢饉や疫病の流行、内政の混乱を仏教の力で治めるため、聖武天皇は天平13年(741)に
「国分寺建立の詔」を発布しました。
詔には国ごとに七重塔を1基造り、金字金光明最勝王経を安置するように示されており、
「造塔の寺は国の華である」という記述から七重塔は伽藍の中でも特に重要視されて
いたことが分かります。(以下略)
右端に七重塔推定復元図(高さ約60m)が描かれている。
『60mって言ったら物凄く高いよねっ』
『五重塔の比じゃないってことだよなっ』
『実際に復元するという計画はないのかなぁ』


11時27分、七重塔跡を後にして国分寺楼門へ向かうことにした。


国分寺楼門へ


11時33分、国分寺楼門に到着した。
建物は間口三間(約6.2m)奥行二間(約3.7m)の楼門造り、板金葺で江戸時代の建築様式を
よくとどめています。
この門は、米津出羽守田盛(通称内蔵助)の元菩提寺として建立された米津寺(東久留米市)の
楼門を明治28年に移築したものです。
国分寺境内の諸建築物とともに、国分寺の変遷を知るうえで重要な建物です。
国分寺市教育委員会
(国分寺楼門は昭和51年10月7日に国分寺市の重要有形文化財(建造物)に指定されている)


国分寺の楼門を潜ると正面に国分寺の石の門があった。


門の中に国分寺がある。
重厚な構えの建物である。


国分寺から徒歩3分の所にあるという薬師堂へ向かった。
石段を上って行くと・・・


仁王門があった。


仁王像(吽像)


さらに石段を上って行くと・・・


11時45分、薬師堂があった。


薬師堂にお参りを済ませて、お堂の裏へ回ってみた。
そこにはずらりと石仏が並べられていた。
これらにお参りすると、四国八十八ヶ所巡りをしたことになり、御利益が得られるのだとか。


石仏群の中央辺りの少し奥まった所に弘法大師様らしき石仏が祀られていた。


11時50分、国分寺薬師堂を後にして、お鷹の道へ向かうことにした。


再び武蔵国分寺の石の門前を通り、


お鷹の道へ向かう。


旧本多家住宅長屋門前を通り、お鷹の道遊歩道へ。
この長屋門は、国分寺村の名主を歴任した本多家の屋敷地南側に表門と先代名主の隠居所を
兼ねて江戸時代後期に建築されました。
後には村医・書家として活躍した分家の本多雖軒(すいけん)がここを居宅兼診療所として
私用したことが伝わり、農家の長屋門には珍しく、居室と物置とを合わせた建物であることが
特徴です。


お鷹の道遊歩道
江戸時代の寛永元年(1748)に国分寺市内の村々は、尾張徳川家のお鷹場に指定され、
慶応三年(1867)に廃止されるまで村人の生活に多くの影響を与えていました。
国分寺崖線下の湧水を集めて野川にそそぐ清流沿いの小径はいつのころからか「お鷹の道」
と呼ばれ、昭和47年~48年に国分寺市が遊歩道として整備しました。


お鷹の道を進む。


お鷹の道の脇を流れる水路は名水100選”ホタルのすむ川”として整備されているようだ。
『へぇ~ここでホタルが見れるんだ~』   『水が綺麗なんだねっ』


真姿池湧水群の案内板を左に曲がって湧水と思しき流れに沿って進むと・・・


弁財天が祀られていた。
ネットには次のような記述があった。
国分寺には、『医王山縁起』というお寺の縁起が残されています。
それによると、嘉祥元年(848)、不治の病に苦しんだ玉造小町が病気に苦しみ、
病気平癒のために国分寺を訪れて21日間薬師如来を参拝しました。
すると一人の童子が現れ、小町を池のほとりに案内し、この池の水で洗い清めるように
と言ってすぐに姿を消しました。
小町が身を清めると、いつの日か病は癒え、元の姿(真姿)に戻ったそうです。
この言い伝えによって、「真姿の池」と呼ばれるようになりました。
現在は弁財天が祀られています。


東京都指定名勝真姿の池湧水群
昭和60年に環境省(当時環境庁)の名水百選に選ばれ、水路沿いの遊歩道と池周辺に複数の
湧水があることから「お鷹の道・真姿の池湧水群」と名付けられた。
また、東京都の名湧水57選にも入っている。
平成10年には国分寺崖線湧水群の中の代表的な湧水であるとして、東京都名勝に指定され、
保存が図られている。(中略)
この辺りでは「水口八十八ヶ所」という言葉があり、多くの湧水群があった。
しかし、都市化などにより、枯渇したり埋め立てられた結果、湧水源も湧水量も
少なくなっている。


最奥の湧水源と思しき所からは、とめどなく水が湧き出ている。


湧水源の所でお鷹の道へ引き返すことにした。


お鷹の道沿いにある湧水の流れを見ながら進む。


そのうちに湧水の流れが見えなくなり、住宅地の中へ出た。


国分寺駅630mの標識が現れた。
殿ヶ谷戸庭園は国分寺駅前だからほぼ同じ距離である。


『これってヤマボウシだよねっ 凄いわね~っ』


野川に架かる不動橋を渡り、


やや急な上りの坂道を


国分寺駅方面へ。


正面右手に森のような景色が現れた。
殿ヶ谷戸庭園のようだ。


殿ヶ谷戸庭園の近くにトイレがあったので、体調を整えるついでに少し休憩して行こう。


12時37分、殿ヶ谷戸庭園に到着。
パンフには次のように紹介されていた。
殿ヶ谷戸庭園は、武蔵野段丘の南縁の「国分寺崖線」と呼ぶ段丘崖とその下段部付近の
礫層から浸出する湧水を利用し、雑木林の風致を生かして作られた近代の別荘庭園です。
三菱合資会社の社員で、後に南満州鉄道副総裁から貴族院議員にもなった江口定條は、
大正2年(1913)~4年(1915)に、この地に別荘を構え、「隋宜園」と命名しました。
昭和4年(1929)に三菱合資会社の取締役であった岩崎彦弥太が江口家から別荘を買い取り、
「国分寺の家」として親しむようになりました。
彦弥太は昭和9年(1934)に和洋折衷の木造主屋に建て替え、庭園建築として紅葉亭を
新築するとともに、主屋前面の芝生地と崖線下方の湧水及び園地とを結んで、回遊式庭園を
完成させました。
昭和49年(1974)に東京都が買収し、整備後、有料庭園として開園し、平成23年(2011)
9月21日に殿ヶ谷戸庭園(隋宜園)として国の名勝に指定されました。


休憩している間に会計担当の人が買って来た入園チケットを手に殿ヶ谷戸庭園「隋宜園」へ。


通常一般150円のところ65歳以上は半額の70円になるが、20名以上の団体の場合は
さらに割引かれて50円になったとのことだったが、料金表の所に目をやると、
『なるほどちゃんと書いてあるねぇ』
『心から喜んで良いものなのかねぇ』やや複雑な気持ちではある。


全員が入園したところで、会員の提案により、この日はここで解散することになった。
『殿ヶ谷戸庭園、充分に楽しんで行って下さいねっ』
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


園内が不案内のため、殿ヶ谷戸庭園の見取り図を参考に歩いて回ることにした。


一応解散はしたものの、園内不案内のため、途中までは揃って回ることに。
12時43分、庭園散策のスタートだ。



『気持ちが良いくらいに手入れされてて素晴らしいわねっ』


『緑がほんとにきれいだね~っ』


藤棚の緑も美しい。


園内を進む。


竹の小径を進む。


『手入れされている竹林は良いもんだね~っ』


右手に次郎弁天池を観ながら進む。


馬頭観音への坂道
この階段の上には馬頭観音の石碑があります。
馬頭観音とは馬の息災と旅の安全をもたらす観音様です。
岩崎家が江口家よりこの地を譲り受けた際、土地の西側外堀にあったこの石碑を庭園内に
移し祀りました、と書かれている。
ちょっと馬頭観音像を観に行くことにして仲間とはいったん分かれて坂道を上った。


けっこうな坂道を息を切らして上って行くと、小さな馬頭観世音像と説明板があった。
説明板には次のように書かれていた。
馬頭観世音
建立年代  文政七年(一八二四)七月二十三日
施主    国分寺村 本田氏
石材    福島県産 八目石
市内に現存する馬頭観音十一基のうちの一つ。
建立当時の国分寺村の人口は三百六人、馬は二十二頭いました。
国分寺村は府中宿への助郷として馬の供給をしていました。
この馬頭観音の石碑は亡くなった馬の供養のため、建てられたと言われています。


馬頭観音像を後にして、また急坂を下った。


湧水源
武蔵野台地に降った雨は、関東ローム層に浸透し地下水となり、崖線下のハケから
湧水として湧き出し、次郎弁天池へ流れ込んでいます。
水温は年間を通して15℃~18℃です。(この水は飲めませんとあった)


”東京の名湧水57選”  ”殿ヶ谷戸庭園” と書かれた木柱があった。
”東京の名湧水57選”は、真姿の池湧水群のところでも紹介されていた。


紅葉亭へ行くと皆さんが寛いでいた。
やや疲れた様子ではある。


紅葉亭の裏手にあった鹿おどし
この鹿おどしは、天然石の水盤と奇岩を組み合わせて作られており、流れ込む井戸水の
重みにより竹筒が役石を叩き、風情ある音が鳴り響く仕組みとなっています。
鹿おどしは1600年代半ばに京都一乗寺の詩仙堂にて、漢詩人石川丈山が作物から鳥獣を
追い払うために考案し、僧都(そうず)と名付けました、と説明されていた。


13時ちょうど、最初にスタートした所に戻って来た。
20分ほどかけて庭園内をぐるりと一回りしたことになる。


ここで、皆さんとは分かれることになった。
『それでは、皆さんお気を付けて』


皆さんと別れて、国分寺駅に向かった。
駅ビルは「セレオ国分寺」として市民に親しまれている、そうだ。


13時6分、国分寺駅ビルに到着。


国分寺駅構内の様子


エスカレーターでレストランのある9Fへ行き、好みの飲食店を探す。
我々男性陣は和食メニューの豊富そうな「百干」(ひゃっかん)で意見が一致


好みのメニューを探す前に生中を注文。
直ぐに生中が運ばれて来たので先ずは『かんぱ~い!!』 


『お疲れ様でしたぁ』


『いやぁ やっぱりウォーキングの後の一杯は美味いねぇ』


皆さん好みのメニューを注文したが、7名中6名が同じメニューだった。
唯一海鮮丼を注文をしたのはTK会長だ。
『海鮮丼が好きなんだよねっ』


他の皆なは生(き)そば御膳を注文した。
『歳を取ると好みが似て来るんだぁ』


「百干」を出ると、何と隣の「がんこ国分寺茶寮」に入った女性陣7名とばったり。
『あらぁ 隣のお店に入ってたのねっ』
仲良く一緒に帰路に就いた。

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

国分寺お鷹の道から殿ヶ谷戸庭園へのウオーキングが無事終了した。
前日に平年より2週間遅れてようやく梅雨入りしたばかりだったので、天気が気になったが、
朝から快晴という願ってもない好天気となって、それまでの懸念が吹き飛んだ格好となった。

この日のコースは全員初めてだったが、皆さん大変気に入ってくれたようで、企画して
良かったと思っている。
これからもこの日のコースのように自然に恵まれたコースを歩いてみたいものである。

この日の万歩計は、11,000歩を計測していた。

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