ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.91 島原城

2018年08月18日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2018年8月18日(土)

この日訪れた島原城は、森岳城(もりだけじょう)とも呼ばれる。
九州外様大名への押さえに築かれた巨大天守の城である。

島原城は、元和四年(1618)に松倉重政が築城を開始した。
しかし、築城のための課役、キリシタンの弾圧、過酷な年貢などが要因となり、
農民たちが天草・島原の一揆を起こした。
原城に立て籠った一揆勢は鎮圧されたが、一揆を押さえられなかった責任を取らされて
松倉氏は断絶。
その後、城には高力氏、松平氏などが入った。

城は南から北へ本丸・二の丸・三の丸が並ぶ連郭式の縄張であった。
当時は、五重五階の天守を中心に3基の三重櫓が建ち、平櫓は33基あった。
明治になって城は民間に払い下げられて、建物は壊されてしまったが、
昭和35年(1960)に西三重櫓を再建したのを皮切りに、天守、巽三重櫓、
丑寅三重櫓が順次再建されて、本丸の景観がよみがえった。

天守や櫓などは、藩日記や諸記録を元にコンクリートで復元されたが、
石垣は築城当時のもの。


佐世保のハウステンボス近くのホテルを出発して、凡そ2時間後の11時10分、
「日本100名城巡り」最後の城となる島原城に到着した。
昭和39年(1964)に再建された五重五階の島原城天守閣
最上重を除いて破風が全くない典型的な層塔型天守である。


天守閣の前で”おもてなし女子”たちが踊りを披露していた。


天守閣の正面には土産物店が入った休憩所「城の茶屋」がある。
後で休憩で立ち寄ることにしよう。


島原城入城の前に記念の撮影を済ませる。


今日は「日本100名城巡り」の最後を記念して、かみさんも一緒だ。


11時16分、島原城へ入城


1階の受付で入館券540円を払い、しっかりと100名城スタンプを押し、上階へ。


天守閣の中は、1階はキリシタン史料館、2階は郷土史料館、3階は民族史料館、
4階は観光と物産コーナー、5階は展望台となっている。


1階展示室(1)
1階キリシタン史料展では、島原の乱にまつわる史料を展示している。
潜伏キリシタンが隠し持っていたマリア観音やロザリオなどが印象に残る。


1階展示室(2)
阿蘭陀船


1階展示室(3)
石像マリア観音


1階展示室(4)
マリア観音像


1階展示室(5)
隠しマリア聖像


1階展示室(6)
千々石ミゲル像画
彼は、千々石城主・千々石淡路の守の子で、有馬晴信の名代としてローマへ旅立った。
ローマ教皇に謁見して帰国した彼は、イルマン(修道士)となり活躍するが、やがて棄教。
人知れず生涯を終わる。何が理由だったのだろうか。(説明板)


1階展示室(7)
逗子入り青銅マリア観音像


1階展示室(8)
天草四郎肖像画


1階展示室(9)
影踏・踏絵


1階展示室(10)
原の城攻防図・模型


1階展示室(11)
雲仙地獄の殉教図


2階展示室(1)
2階は郷土史料館となっている。
松平家の鎧をはじめ、数々の藩主や島原城関係の文物を展示している。


2階展示室(2)


2階展示室(3)


3階展示室(1)
3階は民俗史料館となっている。
庶民が使っていた懐かしい生活用品が展示されている。


3階展示室(2)


3階展示室(3)


4階展示室(1)
4階は観光物産コーナーということで、島原市の特産品の他姉妹都市(福知山市)や
兄弟都市(豊後高田市)について紹介している。


4階展示室(2)
また、精霊流し舟や、全国の主な城の写真が展示されていた。


4階展示室(3)
小倉城(左)、中津城(右)


4階展示室(4)
郡上八幡城(左)、大垣城(右)


4階展示室(5)
島原城


最上階(展望台)


最上階からの眺望(1)
西の方向
正面の眉山は、雲仙岳の東に位置する。


最上階からの眺望(2)
北の方向


最上階からの眺望(3)
東の方向(島原湾)


最上階からの眺望(4)
南の方向(上天草方面)


最上階からの眺望(5)
再び西の方向(眉山)


最上階からの眺望(6)
城内古野梅苑に建てられた松倉重政祭祀の祠


最上階からの眺望(7)
丑寅櫓(民具資料館)


最上階からの眺望(8)
巽櫓(西望記念館)


入口の反対側にある専用の出口から天守閣を出て、
城内の櫓を回ってみることにする。


11時55分、先ず北東隅にある丑寅櫓へ向かった。
丑寅櫓は、民具資料館として、明治・大正・昭和の暮らしが偲ばれる品々が
展示されている。


丑寅櫓内部の展示品(1)


丑寅櫓内部の展示品(2)


丑寅櫓内部の展示品(3)


丑寅櫓内部の展示品(4)


丑寅櫓内部の展示品(5)


12時3分、続いて南東隅にある巽櫓へ向かった。
巽櫓は、西望記念館として、島原出身で日本彫塑会の巨匠北村西望の代表作
60点が展示されている、そうだ。


巽櫓手前の公園には、北村西望作の彫刻が展示されている。
北村西望自身の像には、次の句が刻まれている。
「たゆまざる 歩みおそろし かたつぶり」
昭和47年11月18日 米寿西望塑人


北村西望作の彫刻


日蓮上人像『喝!』


巽櫓(西望記念館)から見た天守閣が素晴らしく、その美しい姿に魅了された。
ず~っと眺めていたい気持ちにさせてくれる。


鐘楼の先、


12時9分、西の櫓に到着した。
日本全国の城の絵や各県の特徴あるこけしなどが展示されている。


西の櫓内部の展示品(1)


西の櫓内部の展示品(2)


西の櫓内部の展示品(3)


西の櫓内部の展示品(4)


西の櫓最上階


西の櫓最上階から見た天守閣も美しい。


城内古野梅苑の入口に松倉重政祭祀の祠がある。


この祠は、松倉豊後守重政公と築城工事中に死亡した人々が祀られている。


扁額は松平家十代城主松平忠精公が奉納したもの。


松倉豊後守重政公は徳川家康公に仕え、関ケ原の戦い、大坂冬・夏の陣にも軍忠を尽くした。
大和五条・二見の領主であったが、元和二年(1616)島原半島を領することとなり、
元和四年から7年余の歳月を費やして島原城を築き、以来約250年間政治の中心として栄えた。


城内をひととおり回ったところで、城の茶屋で一休み。
冷たい寒ざらしが甘くて美味しかった。


城外から写真のような島原城を見てみることにしよう。


12時37分、いったんかみさんと分れ、武家屋敷で落ち合うことにした。


島原城入口
正面に見えるのは眉山


振り返って島原城入口から城を見たところ。
正面に見えるのは、西の櫓である。


城入口に向かって右手の石垣と西堀端ハス池
石垣の曲線が美しい。


左手の石垣と堀
アサザがびっしりと水面を覆っている。


左回りに歩いてみる。
具雑煮姫松屋の前を通り、


雑煮姫松屋の前から南堀を望む。
南堀もアサザがびっしりと水面を覆っている。


南堀端通りから西の櫓を望む。


南堀端通りから石垣と南堀を望む。


南堀端通りから東堀を望む。
東堀は、東堀端ハス池になっており、蓮(酔妃蓮)の葉が生い茂っている。


南東隅から巽櫓と天守閣を望む。


五重天守閣と三重巽櫓が、幾重にも屈曲した高石垣上に建ち並ぶ姿は美しくまた圧巻である。
堀越に見る城は、城巡りの醍醐味で、一見の価値ありと思う。


南東隅から巽櫓と東堀を望む。
折れを伴った高石垣は見事だ。


東堀端通りから巽櫓を望む。


東堀端通りから丑寅櫓を望む。


東堀端通りから丑寅櫓を望む。


立派な構えの家
上級武士の屋敷のような風格を感じさせる。


島原名産の味噌・醤油を代々受け継ぐ醸造の老舗
「中屋」喫茶部と


「中屋」海藻部


東堀北詰から丑寅櫓と東堀を望む。


東堀北詰から二の丸を望む。


12時57分、武家屋敷佐久間邸跡の看板があった。


佐久間邸跡には何もなく、小さな公園のような広場だった。


説明を要約すると、
佐久間家は代々郡方勘定奉行を歴任。
二代藩主松平忠雄公時代(1700年頃)に佐久間太郎左衛門が島原藩家臣に召し抱えられ、
知行百石と屋敷を下賜された。(現在地が当時の屋敷跡地)
佐久間家は代々太郎左衛門の名を世襲した。
今では公園ほどの広さの跡地が残っているだけだが、往時は約300坪あり、
写真に写っているような屋敷門を持つ見事な武家屋敷だった、そうである。


二の丸と三の丸の間の広大な堀は、現在は空堀となっている。
堀へ下りる石段もあり、自由に歩けるようになっている。


こちらの一角は菖蒲園になっている、とのこと。


かみさんと落ち合うことにしている武家屋敷方面へ向かう。
市立第一小学校前を通過。


市立第一小学校と県立島原高校の間を通って、武家屋敷を目指す。


正面突き当りの市立第一中学校を右折し、第一中学校に沿って進むと、


13時15分、史跡御用御清水(ごようおしみず)の碑があった。


御用御清水説明板
寛文九年(1669)丹波国(京都府)福知山から入府した藩主松平忠房公は、
武家屋敷一帯の生活用水として水道の設置を行った。
この御用御清水も城主の居館があった三の丸(現県立島原高校と市立第一小学校敷地)の
用水として建設されたことが松平文庫の古文書に記されている。(以下略)
(島原教育委員会)


武家屋敷周辺に到着した。
かみさんとこの辺りで落ち合うことにしているのだが・・・
周辺案内地図で確認して、


市立第一中学校の塀に沿って進むと、


武家屋敷への入口冠木門があった。


武家屋敷街説明板
ここ一帯に徒士屋敷があり、松倉重政が島原城を築いた時に、下士をまとめて住まわせた。
(上士は城内に取り込んでいる)
一軒一軒の屋敷には境界の塀はなく、隣家の奥まで丸見えで、鉄砲の筒の中を覗いたようだ
というので、鉄砲町と呼ばれていた。
鉄砲組すなわち歩兵の居住地帯であったからでもある。(中略)
長さ約400mの屋敷町で、それぞれ約90坪の屋敷に建坪約25坪で、屋根は藁葺。
約700軒あった。
(以下略)


武家屋敷通り
通りの中央を流れる清水は、北方約2kmにある杉谷・水の権現から引いた人工の水路である。
飲用水にもなっていたので、水奉行を置くなどして大切に使用されていた。


武家屋敷
現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、山本邸・篠塚邸・鳥田邸の3軒が
一般に無料開放されている。
公開されている山本邸の表門。
藩主から特別許されて立派な門を構えている。


山本邸
屋敷内に入って部屋の中や庭を見渡すと、当時の武家生活の様子が偲ばれる。


六五の井戸
町筋を流れる飲料水が、時代が下って衛生上問題が生じたため掘られた井戸で、
大正六年五月に完成を見たので、それにちなんで六五の井戸と命名した。


台所


水置き場


奥座敷
この家の主が居た場所だ。


居間
家族は通常居間に居た。


裏庭


武家屋敷通り
湧き水の水路が通りの中央を流れる「武家屋敷町並み保存地区」は、
島原ならではの風景。


400mほどの直線の通りの中央を流れる清流や武家屋敷を見ながら歩く。


無事合流したかみさん、武家屋敷通りが気に入ったようだ。


囲碁 武家屋敷の標識
囲碁をやる所のようだが、武家屋敷のようで紛らわしい。


武家屋敷通りを進む。


1軒だけはちみつを売っている店があった。


武家屋敷鳥田邸


鳥田邸


居間


奥座敷


台所


風呂?
これは新しく作られたもののようだ。


武家屋敷通りを反対側から見たところ。


吉田松陰来訪の地
武家屋敷の入口付近に島原藩士・宮川度右衛門(たくえもん)の屋敷跡があった。
この一帯は、鉄炮町の一角にあたる。


幕末期の当主・宮川度右衛門守興は、種子島流荻野派の砲術師範として多くの弟子を育てた。
嘉永三年(1850)十二月四日、長州藩士吉田松陰が兵学の研鑽の旅の途中、ここを訪れた。
松陰は「西遊日記」に次のとおり記録している。
「宮川云、直發砲ニ非サレハ功ヲ成スヿ(こと)ナシ。故ニ近頃葛論碩ヲ造ル」
(訳・宮川が言うには、直発砲でなければ功を成すことは無い。そのため、
近頃はカノン砲を造る)と、この日守興から聞いた話を書き残している。
(島原商工会議所女性会)


松井老舗(菓子店)前を通り、細い道を進むと、島原城が見えて来た。


島原城入口左側の石垣


島原城入口の坂道を上り、


13時45分、島原城天守閣前に到着した。


「日本100名城巡り」は、今回の島原城が100番目で、100名城全てに登城したことになる。
2010年7月25日の上田城から開始して、足掛け9年掛かった計算である。
もう少し早く達成できるかと思ったが、意外と長く掛かったという印象だ。
このブログをアップしたら、かみさんと二人だけで達成祝いをやろうと思っている。

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日本100名城巡り No.90 平戸城

2018年08月17日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2018年8月17日(金)

この日訪れた平戸城は、長崎県平戸市にある城で、松浦氏の居城として知られている。
別称亀岡城・日の岳城(ひのたけじょう)とも呼ばれる。
三方を海に囲まれ天然の要害としている城で、本丸・二の丸・三の丸から構成された
梯郭式の平山城である。

11時32分、平戸観光交流センターに到着
平戸観光交流センターで平戸城や平戸市に関するパンフなどを入手。


平戸観光交流センターから平戸城の模擬天守が見える。


亀岡公園の案内MAPで天守閣や櫓の位置などを確認して、


先ずは北虎口門を目指して石段を上る。


坂道を上って行くと、


櫓のような建物が現れた。
北虎口門脇の狸櫓(たぬきやぐら)である。
平戸城では数少ない現存する建築物とのこと。


狸櫓の角を左に曲がると、北虎口門があった。
本丸北下に位置し、石垣と石垣の間に乗った「渡櫓」様式で、
宝永三年(1706)建造の城内に現存する唯一の木造遺構、とのこと。
改変されている部分が多いが、現存建物として貴重な存在だそうだ。


北虎口門と狸櫓


北虎口門の先に地蔵坂櫓がある。


北虎口門を潜り、城内へ。


北虎口門を内側から見たところ。


北虎口書院で入城料510円を払って城内へ。


北虎口書院前を左に曲がって石段を上ると、


正面に狸櫓がある。


狸櫓由来記
この建物の名称は正しくは「多門蔵」であるが、これまで誰も「多門蔵」とは呼ばず、
「狸櫓」とばかり呼ばれてきた。
その由来については、第35代藩主(松浦観中公煕ヒロム)が「亀岡随筆三十六」に
記している、とあるだけで、由来については何も記されていない。


狸櫓の内部は、平戸城に関する資料が展示されている。


平戸城の概略
慶長四年(1599)、松浦鎮信(しげのぶ)は三方を平戸瀬戸に囲まれた亀岡山に
日之嶽城を築いたが、幕府による改易を恐れて、慶長十八年(1613)に鎮信自ら
城を焼き捨てた。
以後、城は築かれなかったが、元禄十六年(1703)、藩主が寺社奉行に抜擢されたのを機に
新規築城を幕府に願い出て許された。
江戸時代中期、5代藩主・松浦棟(たかし)は、東シナ海警備の必要性もあり、
元禄十七年(1704)2月に日之嶽城跡に新たに築城を開始し、宝永四年(1707)に
平戸城が完成した。
明治四年(1871)、廃藩置県により廃城、山上部の建物は現存する北虎口門・狸櫓
を残して取り壊された。


代表的な櫓
本丸沖見櫓、二の丸見奏櫓、二の丸懐柔櫓、二の丸乾櫓、二の丸地蔵坂櫓、
三の丸大手二重櫓


代表的な城門
本丸二の門、北虎口門、二の丸安寿御門


平戸城古図の各櫓・門位置図


平戸城と山鹿流


狸櫓を出て土塀に沿って本丸へ向かう。
本丸・二の丸をはじめ、外郭ラインの至る所に山鹿流軍学による折れや屈曲が
施されている、とのこと。


北虎口門から延びる土塀に設けられた石挟間(石垣に開けられた挟間)


石段を上って行くと、


本丸櫓門が現れた。


本丸櫓門を潜って石段を上る。


本丸櫓門の櫓部分は、休憩所となっている。


本丸右手に平戸城模擬天守が聳える。
昭和37年(1962)、本丸北東隅に三重五階の模擬天守が建造された。
現在は城のシンボルとなっている。


1階で100名城スタンプを押し、城内へ。
城内展示(1)


城内展示(2)


城内展示(3)


城内展示(4)


城内展示(5)
平戸城縄張り模型


模擬天守最上階


模擬天守からの眺望(1)
平戸港・オランダ商館を望む。


模擬天守からの眺望(2)
見奏櫓


模擬天守からの眺望(3)
平戸瀬戸の急潮、黒子島が一望出来る。


模擬天守からの眺望(4)
懐柔櫓、平戸大橋方面を望む。
懐柔櫓は、模擬天守とともに昭和37年に築造されたもの。


模擬天守からの眺望(5)
本土と平戸島を結ぶ朱色の吊橋平戸大橋(全長665m)


模擬天守からの眺望(6)
乾櫓から平戸市街地を望む。


模擬天守からの眺望(7)
最教寺奥の院大師堂(三重塔)


模擬天守からの眺望(8)
平戸港と平戸市街地を望む。


模擬天守からの眺望(9)
聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂


平戸城遠景(1)
平戸瀬戸に突き出した亀岡山に築かれている。
左から見奏櫓、沖見櫓、模擬天守、乾櫓


平戸城遠景(2)
オランダ商館前から見たところ。


城内を回ってみよう。
見奏櫓・懐柔櫓の案内板に従って進む。


見奏櫓が見えて来た。


見奏櫓


見奏櫓内部の展示品(1)


見奏櫓内部の展示品(2)


見奏櫓内部の展示品(3)


見奏櫓内部の展示品(4)


懐柔櫓へは扉が閉まっていて行けなかった。


見奏櫓から模擬天守を望む。
右手に見えるのは、沖見櫓


再び模擬天守から本丸櫓門を通り抜け、


石段を下って北虎口書院方面へ。


北虎口書院裏の古井戸跡


案内板に従って地蔵坂櫓へ。


石段を上ると、


地蔵坂櫓があった。


地蔵坂櫓の内部は、民族文化財資料館として古い民具が展示してあった。
地蔵坂櫓内部の展示品(1)


地蔵坂櫓内部の展示品(2)


地蔵坂櫓内部の展示品(3)


地蔵坂櫓を後にして亀岡神社・乾櫓方面へ。


乾櫓


乾櫓から亀岡神社へ向かう途中、明治天皇の祖母中山愛子の像があった。
この像は、明治百年を記念し、明治天皇の祖母にあたる平戸出身の中山愛子姫(~1906)
を偲んで、昭和43年(1968)に建立された、とある。


亀岡神社神楽殿


亀岡神社


亀岡神社社殿


いったん乾櫓まで戻って地図を確認し、


槙並木へ。


槙街道
以下の説明が。
慶長四年(1599)に平戸瀬戸を望む丘の上に日の岳城が築かれた。
この槙並木は、その築城の頃植えられ、樹齢は400年は超えていると思われる。
この槙並木は、二の丸の石垣に沿って列をなしており、今では亀岡公園修景の
主役として聳え立つ平戸城と並ぶ名所として知られている。
槙の並木として、こうした大木が列植されているものは、他に例がないものである。


槙並木の先の亀岡神社二の鳥居から亀岡神社を望む。


亀岡神社二の鳥居


二ノ大手門(推定)


二ノ大手櫓跡(推定)


平戸ツツジ園


大手二ノ門辺り(推定)


大手一ノ門辺り(推定)


亀岡神社参道


亀岡神社一の鳥居


亀岡神社一の鳥居


亀岡神社(平戸城・亀岡公園)入口


平戸市内方面へ進み、
(実際には、この後市内観光を兼て平戸港近くで昼食を摂り、幸橋・オランダ商館・
最教寺三重塔などを見学し、平戸城へ戻った)


城内通りを進むと、


乾櫓が見えて来た。


テニスコート
この辺りは平戸城三の郭跡である。


乾櫓


乾櫓への登城口を過ぎると、


自由の広場平戸観光交流センターに到着した。


日本100名城巡りは、今回の平戸城で99番目となる。
残りは、1城(島原城)のみとなった。

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日本100名城巡り No.87 名護屋城

2017年06月19日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年6月19日(月)

破却の跡を残す朝鮮出兵の拠点 肥前名護屋城を訪問した。

名護屋城は、天下統一を行った豊臣秀吉が「文禄・慶長の役」で、
大陸征服の基地として築いた平山城である。
わずか1年1ヶ月の短期間とはいえ、秀吉は名護屋城に在陣し、
そこから全国の諸大名に号令した。
また、秀吉の命により徳川家康・前田利家・伊達政宗など
全国の諸大名が集結させられ、各自が陣屋を構築し、
長期滞在をしたことは、九州の一地方である名護屋の地を
一気にわが国の政治上の中心地に押し上げるという、
日本史上類を見ない特異な状況を生み出した。

名護屋城は、秀吉の死によって突如その役割を終え、
島原の乱後、大規模な城破却が行われている。
廃城された城や陣跡・城下町の遺構は広範囲に点在する。


佐賀県立「名護屋城博物館」手前の駐車場に車を停め、
名護屋城跡に隣接した博物館へ。


博物館では、狩野光信が描いたとされる「肥前名護屋城図屏風」や
城と城下町模型などが展示されている、とのことだった。
100名城スタンプ押下も兼て訪れてみると、月曜日は休館日と聞いて
一瞬頭が真っ白になった。


しかし、100名城スタンプは、博物館の管理事務室に置かれていた。
スタンプを押し終えて一安心。


名護屋城跡入口から太閤道の終着点となっている大手口を望む。
最後に大手口へ戻って来ることにして、


最初は、搦手口方面から見て回ることにする。


大手口から城の南側を歩き、搦手口に向かう。
馬場の南側にあたるこの辺りの高石垣は最大14m以上を測る、そうである。


V字型に削られた高石垣の破却跡
最初は、”破却”というイメージが浮かばなかったが、
現実にこの目で見て愕然としたというのが正直な気持ちである。


城のかげ溜池を望む。


石採場辺りから振り返って本丸南側伝馬場の石垣を見る。
石垣が規則性をもって「V字型」に壊れており、
人的に破却(破城)された様子がよく分かる。


搦手口へ至る途中の弾正丸の石垣


ほぼ全ての石垣の隅角部が、削られ、破却されている。


搦手口
名護屋城にある虎口(城の出入り口)の一つ。
搦手とは、城の裏側という意味で、表側の大手に対する言葉である。


搦手口の坂道を上る。


弾正丸に至る搦手口は、弾正丸への侵入を防ぐため、
通路を屈折させた典型的な喰違い虎口の形状をしている。


弾正丸は、浅野弾正少弼長政の曲輪と云われ、
名護屋城内では最も防御性が高い曲輪とされる。


弾正丸から見た風景


かつてはこのように陣跡が並んでいたとされる。
当時ここからは、毛利輝元や片桐且元、加藤清正など
50にも及ぶ陣跡が見えた。


弾正丸から先ほど歩いて来た本丸南側石垣の破却跡を望む。


弾正丸の奥へ行って見る。
現在はみかん畑になっていた。


弾正丸跡にはみかんの苗木が植えられていた。


浄水場跡を通って二ノ丸・馬場方面へ進むと、


破却された本丸の石垣が現れた。
左が二ノ丸で、右は伝馬場になる。


伝馬場方面へ進む。
伝馬場は、幅15m、長さは約100mほどの細長い帯曲輪状態で、
城の東西を結ぶ重要な通路となっている場所である。
また、ここで乗馬の訓練をしたとも伝えられている。


本丸南面は、上下2段の高石垣によって防御されている。


破却を受けて転落した石材が、400年前の当時のままの状態で
残されている。


伝馬場の通路の途中に設けられた馬場西側櫓台跡
この櫓台は、通路の途中にあるということで、名護屋城の櫓配置でも
特異な例とされる。


馬場西側櫓台跡から弾正丸方面を望む。
黒沢明監督映画「乱」の撮影場所となった、そうである。


馬場櫓台跡から城のかげ溜池方面を望む。


伝馬場から二ノ丸方面を振り返って見たところ。


細長い帯曲輪の伝馬場を進んだ突き当り、三ノ丸虎口の
三ノ丸南西櫓台(写真右)は、平成の石垣修理が行われ、
その際11tの巨石を使用していることが明らかになった。


三ノ丸南西櫓台には三つの巨大な鏡石を配し、見栄えを重視した
石組になっている。
中央にある縦長の巨石が城内一の大きさを誇る鏡石で、
その重さは11tあるそうだ。


三ノ丸南西櫓台
この櫓台は城内最大規模を誇る、とのこと。


三ノ丸南西櫓台の石段を上ってみる。


石段を上ると・・・


三ノ丸南西櫓台からの景色
城のかげ溜池が見える。


三ノ丸南東隅櫓台の南側石段(新)は、櫓台のほぼ中央にある。


三ノ丸南東隅櫓台の北側石段(旧)
石段を登ると、幅1mほどの平坦部があるだけで、その先は、
三ノ丸東面の高石垣(12m)に面している。
このことから、石段として実際に使用された可能性は低い、とのこと。


三ノ丸
ホルトの木々が曲輪全体を覆い、良好な歴史環境と自然環境が融合した
心地良い空間になっている。


三ノ丸のほぼ中央にある三ノ丸井戸
名護屋城で最も高所(標高76m)にある。


南北1.9m、東西1.3mの楕円形をしており、名護屋城や陣跡で発見された
その他の井戸には見られない特徴だそうだ。
現在の深さは、地面から2mほどだが、当時どの程度の深さだったかは不明、
とのこと。


馬乗り馬場


名護屋城址三ノ丸石碑
三ノ丸は、本丸の東側に位置し、東西75m、南北110mの大きさ。
内部は、南部の区画と一段高い北側の区画に分かれている。
南部の区画は、中央の井戸跡を中心に馬場・二ノ丸、本丸、東出丸と連絡し、
北側の区画は水手通路や本丸大手と連絡している。


緩やかな石段を上り、本丸大手へ。


本丸大手
三ノ丸と本丸を結ぶ通路で、かつてこの辺りに本丸大手門があった。
平成3年度からの発掘調査によって、大きな城門の礎石や
L字形に曲がった石段、門や櫓のものと思われる大量の瓦などの
遺物が見つかっている、とのこと。
桝形虎口「本丸大手」は、城内最大級


本丸大手に残る石垣の上に上がる広い石段の遺構


本丸大手を上ると、右手に本丸跡が見えて来た。
後ほど行くことにして、本丸跡の外周に沿って進む。


本丸旧石垣
説明によると、
名護屋城は築城後に何らかの理由で大規模な改造が行われている。
この石垣は本丸の南側および西側への拡張に伴って、
完全に埋められていた築城当初の石垣、とのこと。


本丸新石垣櫓台
本丸の拡張に伴って新たに造られた櫓台が発見されている。


本丸新石垣櫓台から馬場西側櫓台を望む。


本丸南西隅櫓跡
本丸の南西隅にあたり、隅櫓の礎石が発見されている。
隅櫓は曲輪の隅部に配置された建物で、天守閣と同様に
物見としての役目を持っていた。
赤い部分は、破却によって盛土がなされたことを示すために、
赤色塗装にしている、とのこと。


本丸多聞櫓跡
全長約55m、幅約8mの規模を持つ長大な建物だった、そうである。


本丸多聞櫓跡から天守台を望む。


本丸多聞櫓跡を経て、屏風絵では5層7階の天守があった天守台へ。


天守台へ向かう途中、左下に遊撃丸が見えた。


名古屋城のシンボルである五層七階建ての天守閣が建てられていた天守台。
天守台からは発掘調査により礎石や出入り口が確認された。
礎石は全部で24個と考えられ、うち16個が現存している。
地下1階部分で礎石や玉石敷きが、天守台周辺では金箔瓦などが
発見されている、とのこと。


名護屋城天主台跡の碑
豊臣秀吉が築城したということに敬意を込めてなのか、
天守が天主と刻まれている。


天守台から見た風景(1)


天守台から見た風景(2)


天守台から見た風景(3)


天守台から見た風景(パノラマ写真)
天気の良い日には長崎県の対馬まで望むことができる、そうだ。


天守台から見た陣跡を示す風景
33の陣跡が表示されている。


太閤が 睨みし海の 霞かな
この句は、昭和八年(1933)に青木月斗が名護屋城を訪れた際に詠んだもの。


本丸跡に建つ東郷平八郎書による名護屋城址の碑


本丸跡から本丸北門を通り、水手口へ。


正面に水手曲輪を見ながら水手通路を下ると・・・


水手口に出た。


水手口から城内を見たところ。


秀吉のプライベート空間であった山里丸へ向かう。


右手の坂を上り、上山里丸の小曲輪へ。


山里丸では1998年度の発掘調査により上山里丸の小曲輪において、
飛石・玉砂利敷き・井戸などとともに小規模な掘立柱建物跡を確認している。


上山里丸の井戸


屏風図に描かれている茶室と推定される方形の藁葺屋根建物と一致すること、
また、博多の豪商神谷宗湛の「宗湛日記」には、この茶室跡が宗湛が招かれた
茶室と考えられることから、秀吉の「草庵茶室」と推定されている。


草庵茶室を後に、秀吉が生活した山里丸へ。
山里丸は、豊臣秀吉が名護屋城で生活した場所である。


石垣を上ると、


広沢寺があった。
広沢寺は、秀吉の側室広沢局が一堂を建てたのが始まりとされる
禅宗寺院である。


広沢寺本堂


欄間に秀吉の肖像画が懸けられていた。


広沢寺本堂の境内に文禄の役の際、加藤清正が朝鮮から持ち帰り
秀吉に献上され秀吉が手植えしたと伝えられる大蘇鉄がある。
樹齢は400年で、根回り樹高とも約3m、枝張り約6mあり、
主要な枝だけで40数本もある巨木である。
国の天然記念物に指定されている。


秀吉が過ごした居館跡の山里丸は、広さが約30,000㎡あり、
本丸、二ノ丸、三ノ丸と共に重要な部分を占めていた。


山里丸の反対側にある鯱鉾池は、城の北東を守る唯一の水堀だった。


山里口は、上山里丸への大手口に相当し、二重の喰違い虎口で
厳重に防御されている。


上山里丸へ石段を上る。
少なくとも5回の折れを以て上山里丸に上らなければならない。


山里口の虎口には名護屋城内で唯一、
破却を免れた隅角部のある石垣が残る。


上山里丸の上から山里口を見たところ。
山里口の向いの一段低い所は鯱鉾池である。


上山里丸から秀吉の居館跡を見たところ。
広沢寺の屋根が見える。


山里丸から再び水手口に戻り、水手曲輪へ。
左側の細い坂道が水手曲輪へ通じる唯一の道となっている。


水手曲輪は、本丸の北側に位置している方形の曲輪である。
本丸等の雨水をこの曲輪に集めて貯めたと伝えられ、
水に関する施設があったと推定されている。


水手曲輪の井戸跡


水手曲輪の入口まで戻り、右手の道を遊撃丸方面へ。


左手に天守台を見上げながら進み、


船手口を過ぎると、右手に二ノ丸、左手に遊撃丸の石垣があった。


逆方面から見た遊撃丸の石垣


遊撃丸へ。
この辺りに遊撃丸の門があったと考えられる。


遊撃丸
文禄二年(1593)に明国の講和使節(遊撃将軍・沈維敬)が滞在し、
もてなしを受けた曲輪と云われているが、詳細は不明とのこと。


遊撃丸から天守台を望む。


遊撃丸から対馬方面を望むが、霞んで何も見えない。


遊撃丸に隣接して二ノ丸の広場がある。


二ノ丸広場のパノラマ写真


二ノ丸長屋建物跡
二ノ丸の発掘調査では、名護屋城の時代のものと思われる
掘立柱建物跡が発見されている。
手前が長屋建物南棟、向う側が長屋建物北棟


再び本丸南西隅の石垣に出た。


伝馬場を通り、三ノ丸へ。


三ノ丸から東出丸へ向かう。


東出丸へ
右は大手口に通じる門跡


東出丸跡から見た陣跡の風景
徳川家康・前田利家・伊達政宗・石田光成など30ほどの陣跡名が見える。


東出丸跡から見た風景(1)


東出丸跡から見た風景(2)


東出丸跡
東方に張りだした長方形の曲輪で、千人桝とも呼ばれている。
大手口・三ノ丸警固のための侍詰所があったと推定されている。


東出丸櫓台


東出丸櫓台から東出丸を望む。


大手口へ
右手は三ノ丸の石垣


観光客が大手口の坂道(大手道)を上って行く
大手口から100mほどの登り坂が東出丸まで続いている。
登城坂とも云われる。


大手道の南東部には、長屋建物があったとされる。


破却された大手口の石垣(三ノ丸南東隅櫓台)


大手口櫓台(北東面)


大手口
ここから南に向かって唐津に通じる「太閤道」が伸びていた。
大手口は「太閤道」の終着地点であり、名護屋城の表玄関にあたる。


大手口前の広場には、団体の観光客が訪れており、
ツアーガイドの説明に耳を傾けていた。


名護屋城跡を後にして、かみさん達が待つ近くの道の駅「桃山天下市」
へ向かった。


名護屋城陣跡巡り” へ

100名城巡りは、今回の名護屋城で98番目、
残り2城(平戸城・島原城)となった。
ここまで来れば、一日も早く全城登城を達成したい、
という気持ちが強くなって来た。


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日本100名城巡り No.85 福岡城

2017年06月18日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年6月18日(日)

大野城に続いて、福岡城を訪問した。

福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政が、慶長六年(1601)から
7年の歳月をかけて築いた城である。
天守台を中心にして本丸、二の丸、東西の三の丸からなり、
周囲を堀で囲む構造となっている。
47の櫓を築いたと云われるが、そのうち多聞櫓・祈念櫓・伝潮見櫓は
現在でも見ることができる。
藩主ゆかりの地、備前国福岡(岡山県瀬戸内市付近)にちなんで
福岡城と名付けられたが、別名舞鶴城とも呼ばれる。
昭和32年に国史跡に指定されている。

平和台陸上競技場近くの舞鶴公園駐車場に車を停め、福岡城へ。


地図で現在地を確認するが、福岡城のどの辺りにいるのかが、
よく分らない。


二の丸跡・本丸跡・祈念櫓・天守台の案内表示があったので、
それに従って進む。
地図は分かり難い。もう少し詳細な表示であって欲しい。


松ノ木坂御門跡へ続くなだらかな坂道を進む。


松ノ木坂御門跡と思しき石垣を過ぎると、


別の案内標識があった。
先ずは本丸表御門跡・祈念櫓・鉄御門跡方面へ行ってみる。
本丸・裏御門跡・多聞櫓はその後だ。


右へ曲がると、正面に表御門跡の石垣が見えて来た。


表御門跡
二の丸梅園より本丸へ上がる石段の中程に本丸表御門が建てられていたのだ。


表御門跡の内側から二の丸梅園方面を望む。


本丸表御門跡の石段を上ると、前方に祈念櫓が見える。
本丸北東に位置し、鬼門封じとして僧徒が交代で詰めていた、とのこと。
棟札によって現在の建物は、万延元年(1860)三月に起工し、
同年十月に竣工した、とのこと。


本丸表御門跡の右手には、広い本丸跡が。


本丸跡
天守台の石垣の北面に広がる本丸の広庭
藩主が政務を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿」があり、
天守台へと続く福岡城の中心部にあたる。


本丸跡パノラマ写真
かつての本丸は、公式政務の建物・城主の居間部分・大台所のほか
長局に当る櫓が連なっており、表御殿と奥御殿を合わせたものだった。
後に二の丸御殿、三の丸御殿が増築されている。


本丸の井戸(1)


本丸の井戸(2)


正面が大天守台で、その入口となるのが鉄御門(くろがねごもん)跡である。


要衝の門に相応しく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっている。


狭い石段を上り、大天守台へ。
高く積まれた石垣の上には櫓や塀が張り巡らされ、
上から攻撃ができるようになっていた、そうである。


鉄御門跡の先には埋門跡があり、これも狭い門となっている。


埋門跡前から大天守台を望む。
石垣が聳えるように建っている。


階段を上り、埋門の上へ。


埋門の上からの眺望


大天守台へ向かう。


大天守台
東西約25m、南北約22mの敷地内に約40個に及ぶ天守の礎石が
残されているが、定説では福岡城には天守閣がもともと
建設されなかったとされている。
しかし、近年では天守閣の存在を伺わせる文章が発見され、
幻の福岡城天守閣をめぐる議論が続けられている、とのこと。


大天守台を上から見たところ。
大天守台の礎石や石垣の規模からすると、5層の大天守閣が建っていた、
と想定されている。
東側には、中天守や小天守が立ち並ぶという偉容を誇っていたとも・・・


大天守台からの眺望(1)


大天守台からの眺望(2)


大天守台からの眺望(パノラマ)


大天守台からの眺望(3)


大天守台からの眺望(4)


大天守台からの眺望(パノラマ)


埋門跡を潜って大天守台の裏へ。


大天守台の裏(中・小天守跡)へ


埋門跡の裏から見た大天守台


中・小天守跡付近から月見櫓下の野球場方面を望む。


中・小天守跡から武具櫓跡の桝形虎口を通り、
二の丸・裏御門跡へ。


二の丸・裏御門前へ。


裏御門前の広場


裏御門前の広場から振り返って大天守台を見たところ。


裏御門跡の石垣


裏御門跡
この先は、本丸跡になる。


南丸(二の丸南部)方面へ。


二の丸南部入口の手前に井戸跡があった。


多聞櫓のある南丸(二の丸南部)への入口


多聞櫓
二の丸南部にある多聞櫓は、江戸時代から城内に残っている
数少ない櫓の一つで、福岡城内に残る唯一の国指定重要文化財である。
二層の隅櫓とそれに連なる総延長四十間の奥行をもつ平櫓からなる。
平櫓は現在修理中だった。


シートで覆われた隙間から見た多聞櫓(平櫓)
(ここから先は入れなかった)


多聞櫓内部の写真
多聞櫓の内部は、一般に突き抜けの状態になっていることが多いなか、
この櫓は、16の小部屋に分かれている。
この多聞櫓の内部は非公開となっているが、イベント時等に
一般公開している、とのこと。


多聞櫓は、桜の季節にはライトアップされ、幻想的な空間を作り出している。
(ライトアップ時の写真)


大天守台南側に位置する南二の丸付近


南二の丸から二の丸方面を望む。


二の丸から表御門方面へ。


二の丸の紅八重枝垂れ桜の並木道


100名城スタンプを押すため、
舞鶴公園から平和台鴻臚館(こうろかん)方面へ。


100名城スタンプは、鴻臚館の他「福岡城むかし探訪館」にも置いている
とのことなので、「福岡城むかし探訪館」へ。


「福岡城むかし探訪館」


1/400の再現模型を通して、さまざまな角度から
福岡城を間近に見ることができる。


本丸・天守台・二の丸周辺


福岡城むかし探訪館からのパノラマ写真
ここは、現在鴻臚館埋蔵調査地区となっているそうだが、
かつて西鉄ライオンズが本拠地としていた平和台球場があった場所だ。
右手の白い建物は、鴻臚館である。


上之橋御門入口脇に平和台球場記念モニュメントがあった。


明治通りから上之橋御門を望む。
昔は、石組み橋桁の中央に木橋が架けられ、敵が攻めて来た時には、
自ら橋を焼き落とす仕掛けとなっていた、そうである。


堀(左側)
一面蓮で覆われていた。


堀(右側)
半分近くが連に覆われている。


上之橋御門
江戸に近い上之橋御門は、黒田52万石を誇る本城三の丸に入る
公式御門である。


上之橋御門虎口
「虎口構え」の高さ約10mに及ぶ石垣に守られた二層の楼門は、
戦災で消失した。


現在は、算木積みの稜線の美しい石垣が、当時の面影を残している。


明治通りを下之橋御門へ向かう。


明治通りの堀に沿って進む。
こちらの堀も連で埋め尽くされている。


大手門・潮見櫓を示す標識
大手門は2か所(上之橋御門と下之橋御門)あり、
こちらは下之橋御門である。


下之橋御門への入口


下之橋御門と伝潮見櫓


下之橋御門
下手の入り口である下之橋御門は、殿様が生活する
お館への出入口である。
また、国表の奥方様のお里帰りやお城に仕えるお女中さん達の
出入口でもあった。


内部から下之橋御門を見たところ
城門は、2000年8月に不審火で半焼したが、
2008年11月、美しい二層の城門として復元された。


伝潮見櫓
下之橋御門と隣接して建てられている、従来潮見櫓と称されてきたものは、
近年の調査で、本丸表御殿近くにあった「古時打櫓(ふるときうちやぐら)」と
推定されている、とのこと。
本来の潮見櫓は、保険局跡の西隅に位置し、
博多湾の満潮・干潮を見守っていた、そうである。


”黒田如水隠居地 三の丸御鷹屋敷跡”とあったので、
見て行くことにした。


紫陽花の咲く坂道を上って行くと・・・


「黒田如水公 御鷹屋敷跡」と刻まれた石碑が建っていた。
藩政初期、黒田如水(官兵衛)の隠居所があったと伝えられる場所である。


黒田如水隠居地跡の入口横に建てられているのが母里太兵衛邸長屋門だ。
母里太兵衛(ぼり たへえ)は、黒田家の重臣
「黒田二十四騎」の一人で、戦国大名福島正則から、
名槍日本号を飲み取った豪傑として知られる。


現在の天神二町目の野村証券㈱の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、
この長屋門は、そこに構えられていた。
武家屋敷長屋門として代表的な江戸時代の優れた建造物として、
昭和31年に県の文化財に指定され、同40年にこの地に移築された。


名島門
この門は天正十五年(1587)筑前国主となった小早川隆景によって、
多々良川口の名島(現福岡市博多区名島)の陵端に築かれた
名島城の脇門である。
慶長年間(1596~1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移す際、
黒田二十四騎の1人である林掃部(はやしかもん)に下げ渡され、
邸宅の門として使用されてきた。
名島城とは福岡城以前に、豊臣系大名の拠点になっていた城で、
この名島門は「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の
一つとなっている。


明治の中ごろに長崎に移築されそうになったが、
当時の代議士によって買い戻され、戦後現在の場所に移された。


平和台陸上競技場の前を通り、かみさんたちが待つ
舞鶴公園駐車場に向かった。


地理不案内のなか、福岡城跡を見て回った。
思っていた以上に大きな城で、時間の都合上全ては回れなかった。

福岡城天守閣をめぐる議論が続けられている、とのことだが、
個人的には大天守閣、また中・小天守閣が存在していたと信じたい。
これらの天守閣が復元され、その時再び福岡城を訪ずれることが
できればと、心から願っている。

100名城巡りは、今回の福岡城で97番目、残り3城となった。
明日は、肥前名護屋城を訪問する。

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日本100名城巡り No.86 大野城

2017年06月18日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年6月18日(日)

この日は、古代飛鳥時代に築かれた朝鮮式山城、大野城跡を訪問した。
大野城跡は、国の特別史跡に指定されている。

7世紀の激動する東アジア情勢の中、天智天皇二年(663)、
大和朝廷は、百済復興をかけ、朝鮮半島で起こった白村江の戦いで
唐・新羅連合軍に敗れた。
連合軍が日本に来襲することを恐れた大和朝廷は、朝鮮半島から近い
北部九州を中心とした防衛体制を固めるため、664年に水城を、
翌665年に大野城と基肄城(きいじょう)を築城したと云われる。

大宰府の北側の守りとして四王寺山に築かれたのが大野城である。
大野城は、大宰府政庁が攻撃された時に備えた籠城のための城であった
と考えられている。

大野城は守り易く攻めにくい山城で、山の尾根線には土塁を、
谷間には石塁を築き、城を囲むように城壁が築かれており、
その総計は8Kmにも及ぶ。

往時の建物は失われているが、石垣や門柱の礎石、
そして土塁跡などが現在も点在している。

これらの古代山城は、百済の亡命貴族の指揮のもと、朝鮮半島の技術が
活かされていることから、朝鮮式山城と呼ばれている。
朝鮮式山城は、九州や瀬戸内地方に多く見られ、居住スペースがないなど、
戦国期の中世山城、江戸時代の近世山城の造りとは大きく異なっている。

概略以上の大野城に関する予備知識を下に、
最初に訪れたのは、四王寺県民の森管理センターである。
先ずは96城目となる100名城スタンプを押しておこう。
全くの地理不案内のため、事務所の方に県民の森の案内図をいただき、
かみさんとその妹の3人で訪れたため、女性連れでも訪問し易い場所
(百間石垣、尾花礎石群と焼米ヶ原、土塁など)を教えてもらった。


四王寺県民の森管理センターの向いに学習展示館があった。
四王寺山の模型、県民の森の風景、森の働き、昆虫展示など、
四王寺の森に関する様々な資料が展示されている。
また、水城・大野城・基肄城の地理や歴史に関するVTRで
四王寺山の予備知識を得ることができた。


地図で場所を確認するが、四王寺山は初めての訪問なので、
方角が皆目見当がつかない。


戴いた地図を頼りに先ずは百間石垣へ向かった。
県民の森センターから宇美町方面へ1kmほど下ると、
大野城最大と云われる石塁「百間石垣」へ通じる径があった。
かなり急坂である。


かみさんたちも後に続くが、かなりきつそうだ。


急斜面の途中に石垣見学路と書かれた標識があり、
丸太の階段が続いていた。
標識辺りから百間石垣の一部を見ることができる。
かみさんたちは、百間石垣の一部を見ただけで引き返してしまった。


丸太の階段を上り切った所に、百間石垣があった。
見学路からの高さは5-6mほどで、長さが百間(約180m)あることから、
百間石垣と呼ばれるそうだ。


百間石垣を逆方向から見たところ。


見学路を進むと、行き止りのように見えたが・・・


よく見ると、突き当りにさらに階段が続いていた。


階段を上り切ったところに音楽堂・屯水を示す標識が。
反対側は登山道となっている。


階段を上り切ったところから百間石垣を振り返ったところ。


登山道方面へ戻り、百間石垣を見る。
7世紀に造られたものとしては、なかなか立派な石垣である。


音楽堂を示す標識が気になったので、行って見ることにした。
径は、意外にも急斜面だった。
砂岩でできた径だったため、滑り易く上り難い。


汗をかきかき急斜面の山道を15分ほど上って行くと・・・


音楽堂があった。
現代風の野外音楽堂である。
神楽殿のような建物を想像していたのだが、予想が外れた。
この日は、大野城の次に福岡城を訪れる予定なので、
音楽堂で引き返すことにした。
もう少し足を延ばしておけば大野城の排水施設の水門である
屯水があったようだが、音楽堂で引き返して少し後悔している。


次に向かったのが焼米ヶ原の駐車場である。
駐車場から土塁が続いていた。


大野城跡には尾根に沿って土塁の城壁が築かれている。
尾根の部分は土塁(土をつき固めて積み上げる版築工法)の城壁、
また谷の部分は石塁(石垣)が築かれている。
その総延長は8Kmにも及ぶ、とのこと。


土塁の上から見えた景色


逆方向から土塁を見る。
土塁の上は、今ではハイキングコースになっているようだ。


史蹟大野城・四王寺址碑
四王寺山は、古くは大野山とも大城山とも呼ばれていた。
天智天皇四年(665)に大野城が築かれたことで、
日本の防衛という重要な役割を担った。
その110年後、奈良時代の宝亀五年(774)に四王寺(四王院)が創建された。
これは、当時外交関係が緊張していた新羅の日本への呪詛の動きに対し、
大野山の清浄な地を選んで四天王像を安置し、呪詛を祓い国を護る祈祷を
することが目的だった、と云われている。
これ以降、四王寺山と呼ばれるようになった、とのこと。
現在、四王寺山には、四天王である毘沙門天・広目天・持国天・増長天
と呼ばれる地名が残っている、そうである。


四王寺址碑の脇に四王寺山33石仏巡り5番札所の千手観音像が祀られていた。
大野城跡の土塁線上を中心に、33体の石仏が点在している、とのこと。
これらの石仏は、江戸時代後期に建立されている。
寛政十年(1798)に福岡城下町の大火災、翌年天然痘の大流行、
干魃や豪雨などの転変地異が続いたため、大野山(四王寺山)一円に
石仏巡りの札所をつくり、観音様のご利益にすがって、現世の不幸から
逃れようとの願いから博多の人々が発起し、博多・大宰府・宇美の人々が
協力して、四国33か所に倣って四王寺山全域に霊場建立を成し遂げた、
と云われている。


5番札所の石仏の奥に、尾花礎石群があるということで、
建物跡の説明があった。


建物の復元図
尾花礎石群では奈良正倉院のような高床式の倉庫が10棟ほど
建っていた、とのこと。
倉庫内には米や武器などを収納していたと思われる、とのこと。


尾花礎石群の建物の礎石跡(1)


尾花礎石群の建物の礎石跡(2)


尾花礎石群の建物の礎石跡(3)


建物礎石跡の近くに”焼米ヶ原”の説明があった。
この場所から炭化して黒くなった米が見つかっているので、
”焼米ヶ原”という名前が付けられている、とある。


焼米ヶ原


焼米ヶ原の一角に玄清法印之墓と刻まれた石碑があった。
玄清法印は、太宰府に生まれ、17歳のときに視力を失うが、
盲僧となり琵琶を弾いて人々を救った、そうだ。
延暦八年(789)に四王寺北谷に成就院を建立したと伝えられている。


太宰府で天然痘が流行した際、玄清法印は四王寺山に登って
地神陀羅尼経を唱えながら、琵琶を弾き続けて、天然痘の流行を
鎮めたという。
玄清法印は弘仁十四年(822)に57歳で亡くなった。
一千年忌(1834)に建てられたのがこの四王寺山上のお墓だそうだ。


玄清法印の墓から焼米ヶ原を見たところ。


焼米ヶ原から見た景色


焼米ヶ原から土塁の上を駐車場へ引き返す。


駐車場へ引き返す途中見えた大宰府市街地


駐車場からさらに下へと土塁が続いていたので、行ってみることに。


下り坂の土塁入口右側に戦国武将岩屋城城主
「高橋紹運」(たかはし じょううん)辞世の歌碑があった。
流れての 末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水


土塁の突き当りに史蹟大野城四王寺阯と刻まれた碑が建っていた。


史蹟大野城四王寺阯碑の手前に大宰府口城門の標識があったので、
標識の指す方へ急坂の径を下って行くと・・・


大宰府口城門跡があった。


大宰府口城門跡
(反対側から見たところ)


大宰府口城門の礎石跡
ここに城門が建っていたのだ。


大宰府口城門跡近くに建っていた鳥居を潜り、
かみさんたちが待つ駐車場へ向かった。


四王寺県民の森管理センターで入手した地図を参考に、係の方に紹介して貰った
大野城の百間石垣・焼米ヶ原・尾花礎石群・大宰府口城門跡を見て回った。

時間的に余裕があれば、総延長8kmに及ぶ土塁を歩いてみたかったというのが、
正直な気持ちである。
他にも見所がたくさんあり、初めての訪問で、しかも半日足らずという
短時間で観て回るのは極めて困難ということが分かった。
可能であれば、もう一度訪れてみたいとは思うが、その思いが叶うのかは
定かではない。

後ろ髪を引かれる思いで、この後、福岡城へ向かった。

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