ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅰステージ第4回 神奈川宿から戸塚宿

2014年04月27日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2014年4月27日(日)

この日は第四回目、神奈川宿(JR1横浜駅)から戸塚宿(JR戸塚駅)までの約14Kmを歩いた。

JR横浜駅からJR4戸塚駅まで歩くことになるため、消費増税による値上げ(70円)はあったものの、
休日お出かけパス(2,670円)を利用することにした。

常磐線で上野駅へ向かう。
この日の参加者は10名だ。


東京駅から東海道線で横浜駅へ向かう。


この日のスタート地JR横浜駅には9時18分に到着。
横浜駅西口


前回のゴール地点青木橋へ向かう。


9時27分、青木橋交差点に到着


『この前はここまで歩いたんだな』
ということで、今日はここからスタートだ。


歩きだして直ぐに、横浜の大綱大神金刀比羅(こんぴらさん)があった。
大神様の尊き御神徳を知る数多くの会社経営者を始め、船舶関係、農業関係、建築関係、医療関係、
民衆に至るまで、十六神の大神様の御神徳を頂ける神社、とのこと。(大綱大神金刀比羅HP)
この日は歩く距離も長く、立寄るか所も多いので、この神社は素通りとさせてもらった。


しばらく歩くと、文久三年(1863)創業の料亭田中屋があった。
神奈川宿が賑わった当時から続く、唯一の料亭である。
田中屋の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれた由緒正しき店名で、
高杉晋作やハリスなども訪れている、そうだ。


坂本龍馬の妻「おりょう」が勝海舟の紹介で働き始めたのは、明治七年(1874)からと伝えられている。
英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていた、そうである。


少し進むと、右手に神奈川台の関門跡の碑があった。
説明によると、関門があったのは、この場所よりやや西寄り、とのこと。
開港後外国人が何人も殺傷され、各国の領事たちは幕府を激しく非難。
幕府は安政六年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。
この時、神奈川宿の東西にも関門が造られた。そのうちの西側の関門が神奈川台の関門である。


大人が発泡スチロールの中を真剣に見ているのが気になったので、近寄って覗いてみると・・・


メダカ?と思ったが、デメキン(出目金)の子だった。
『いやぁ、可愛らしいねぇ』
出目金は、キンギョの一品種で、眼が左右両方に大きく突き出ているのが特徴である。
よ~く見ると両目が少しだけ突き出ているのが分かった。尾も三つに分かれている。
ここでセリを行っており、品定めをしているとのこと。


旧東海道は坂道を下って進む。


横浜駅方面への道を跨ぐ。
この下を横浜市営地下鉄ブルーラインが走っている。


南軽井沢1丁目
『軽井沢以外に軽井沢の地名があるとは知らなかったねぇ』


駐車場料金が35,000円!
軽井沢という地名だからか? これが普通の料金なのだろうか?
『やはり横浜だから高いのはしようがないんだろうねっ』


首都高速神奈川2号三ッ沢線下を通過


右手に赤い鳥居が見えてきた。


10時3分、この日最初の立寄り地の浅間神社だ。


先ほど見えていたのはこの鳥居だった。


浅間神社にこの日の無事安全をお祈りしていこう。


拝殿の後ろの本殿が高く聳えている。
この位置から本殿が見える神社はあまり見たことがない。この神社の特徴となるのだろう。
なお、浅間神社境内に十幾つあったという横穴古墳群は、神社の拡張・整地などによって
無くなってしまったそうだ。


アーチには「洪福寺松原商店街」と描かれている。
年末には「ハマのアメ横」という冠詞付きで、その活況ぶりをテレビ中継するのが恒例となっている、
そうだが、この辺りは人通りもそんなに多くない。


次第に人が増えて、通りは賑やかになってきた。
写真は横の通り。
「洪福寺松原商店街」の詳細は、こちら


コーヒーの無料配布をやっていた。


コーヒーを配布していたおねえさん。
コーヒーは控えているので、代りにポップコーンをもらった。
『ありがとうっ いただきまぁす』


『いやぁ 実に賑やかだねぇ』
『ハマのアメ横とはよく言ったもんだなぁ』


「洪福寺松原商店街」の先には「天王町商店街」が続く。
『まだまだ続いてますねぇ』


こちらは「シルクロードフリーマーケット」と書かれているが、果たして・・・


何と! 道が塞がれている。
通り抜けるには両側の歩道を歩くようだ。
しかし、歩道は人でごった返して、歩くのも大変である。


「天王町商店街」では、年に数回フリマを開催しているとのこと。
毎月第四土曜日には「天王町アンティークバザール」が開催される、そうだ。


橘樹神社(たちばなじんじゃ)は、立寄り予定場所の一つである。
創建は鎌倉時代初期(1186)。江戸時代は牛頭天王社(ごづてんのうしゃ)といい天王町の由来となっている。
大正時代に現在の橘樹神社となった。祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)


橘樹神社は、昔からの地域の氏神で、人々に「お天王様」と言って崇められている。
この日は、神社の境内もフリマに占領されていると云った状態だ。


『何とかお参りだけはしておかなくちゃねっ』


再び旧東海道に戻って天王町へ向かっていると・・・
”猿回し”をやっていた。しかも若い女の子の調教師である。
少しばかり見て行きたいが、この調子では先が思いやられるので、先を急ぐことにした。


旧帷子橋(かたびらばし
安藤広重の浮世絵で新町橋として有名だが、ここもフリマに占領されていた。


フリマは、相鉄線天王町駅へと続いていた。


天王町駅を通り過ぎると、ようやく普通の道になった。
少しペースを上げよう。


『いやぁ フリーマーケットは凄かったねぇ』
『たまたまやってたところに出合ったようだけど、印象に残るよねっ』


保土ヶ谷宿へ向かって進む。


香象院(こうぞういん
江戸時代末期、保土ヶ谷宿で最も大きい寺小屋があり、明治六年(1873)に保土ヶ谷小学校の分校となった。


保土ヶ谷方面へ進む。


問屋場跡の説明板に見入る。説明板には以下のように紹介(概略)されている。
宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の
書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが、問屋場で、宿場の中
でも最も重要な施設だった。
宿場では、この業務をつとめるのに十分な数の人足と馬を用意するよう定められていた。
問屋場には問屋を筆頭に、年寄・帳付・馬指などの宿役人が詰めていた。


扉のシャッターに東海道五十三次の絵(程ヶ谷新町入口)が描かれている。
いよいよ保土ヶ谷宿に入った、という感じだ。
今から45年ほど前に保土ヶ谷に3年ほど住んでいたことがあるので、懐かしさが湧いてきた。


金沢横丁道標
ここは、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれていた。


金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、
道標として四基が建立された。右から、
①円海山之道 天明三年(1783)建立 
②かなさわかまくら道 天和二年(1682)建立
③杉田道 文化十一年(1814)建立 正面に(程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪きそう)と
刻されている。 
④富岡山芋大明神社の道 弘化二年(1845)建立


東海道線・横須賀線の踏切でしばし待たされる。
第一回目の品川宿への入口、京浜急行の踏み切りを想い出した。


3分後、ようやく遮断機が開き、線路を渡ることが出来た。


線路を渡り、国道1号線に合流した正面に本陣跡の説明板が。
保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣、苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が務めていた。
同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土谷における最も有力な家で、安政六年(1859)に
横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くした。
明治三年(1870)に軽部に改姓し、現在も在住されている、とのこと。


本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊・休息した。
保土ヶ谷宿は通過の宿場として使われたため、本陣や脇本陣は休息所として使われることが多かった。
3軒の脇本陣があった。
脇本陣(藤屋)跡


脇本陣(水屋)跡


本陣消防署


偶然にも脇本陣跡の隣に「保土ヶ谷消防署本陣消防出張所」があった。
消防車にも本陣と書かれていた。
本陣という地名のようだが、江戸時代に本陣があったのと関係あるのかな?


旅籠本金子屋跡
天保年間の本金子屋の規模は、建坪79坪(約261㎡)・間口7間(薬2.7m)・奥行11軒半
(約20.9m)で、室数は13あったとのこと。
明治二年(1869)に建て直されたが、江戸時代の旅籠の佇まいを偲ばせる建物である。


国道1号線に沿って流れる星川の支流、今井川に沿って進むと、


日本橋から8番目の保土ヶ谷一里塚の跡があった。


保土ヶ谷の松並木は、この辺りから境木までの約3Kmに渡って続き、広重や北斎などの
浮世絵にも度々描かれた。
昭和初期まで比較的良好な状態であったが、時代とともに年々減り続け、現在は権太坂付近に
わずかに名残を留めるだけになった。
平成19年の松並木復元事業で、今井川に沿った約300mの区間に数十本の松などを復元した。
(東海道保土ヶ谷宿松並木フロムナード実行委員会)


今井川にはメス(金色をした)鯉に産卵を促すオスの鯉がまとわりついていた。


亀がのんびり甲羅干しをしていた。


街道沿いに緑に包まれた樹源寺があった。
鎌倉時代に建てられた医王寺が焼失した後、江戸時代初期に軽部家により、身延山久遠寺の
末寺として開山した。


門を入ると、”関係者以外は申し出るように”との看板があったため、面倒なので門で引き返した。
門から見ただけだったが、美しい緑に包まれた庭園が、寺の名前に関係あるのではないかと思ったほどだ。


道標に従ってコンビニ店の角を左に折れ、旧東海道を進むと、


国道1号線手前で右へ曲ると権太坂が始まる。
権太坂は、昔は今より急坂で江戸からの旅人が初めて出会う難所であった。
回りには、高層マンションが建ち並ぶ。


保土ヶ谷バイパスを跨ぐ。


保土ヶ谷バイパス新保土ヶ谷IC方面


振り返ると横浜ランドマークタワーが見えた。
権太坂をかなり上って来たことが分かる。


権太坂の碑
東海道を江戸から西へ向かう旅人が初めて経験するきつい上り坂が続く(約2Km)。
名前の由来は、道端の老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の遠いこの老人は
自分の名を聞かれたと思い、「権太」と答えたため、「権太坂」になった、とのこと。


権太坂の名前の由来は諸説ある、そうだ。
①は、前項で述べた耳の遠い老人の答え説
②は、昔、権左衛門という人が代官の指図により開いてできた坂道を、その名をとって
「権左坂」と名付けたものが、いつのころか「権太坂」になったという説
どちらを信じますか? というのだが、どちらも信じたい。


権太坂2丁目を通過
保土ヶ谷一里塚で説明があった、”わずかに残った松並木”は残念ながら見当たらなかった。


境木立場跡
宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息などのために設けられたのが立場である。
なかでも境木の立場は権太坂・焼餅坂・品濃坂と難所が続くなか、見晴しの良い高台で
西に富士、東に江戸湾を望む景色が素晴らしく、旅人が必ず足をとめる名所であった。
また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知れ渡り、大変賑わったという。


武相国境モニュメント
この地が武蔵国(保土ヶ谷宿)と相模国(戸塚宿)の境であり、昔は木の杭が立てられていたので境木と云う。
このモニュメントは平成17年に設置された。


江戸日本橋から東海道の宿場名が並んで刻まれている。


境木地蔵尊
江戸時代の初めに、鎌倉の浜に打ち上げられたお地蔵さまを漁師が江戸に運んでいる途中、
この辺りで牛車が動かなくなり、置いていった。
夢枕に立ったお地蔵様の託宣を聞いた村人がお堂を建ててお祀りしたので、この辺りの町は
栄えたと云われる。


万治二年(1659)の建立と云われ、江戸からの講中や道中の安全を祈る多くの旅人が参拝した。
現在のお堂は関東大震災後に再建された。


境木延命地蔵尊を出発した後、道を間違いかけたが、運良く道端に旧東海道の道標を
見つけることができ、事なきを得た。


焼餅坂を下る。
境木の名物は、立場茶屋で焼く「牡丹餅」であった。
旅人たちの空腹を満たす餅を焼いたことから、その坂の名は「焼餅坂」と呼ばれるようになった。


焼餅坂を下ると、直ぐにまた上り坂になった。


坂道を上りきったところに、品濃一里塚があった。
日本橋から9番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置している。


旧東海道を挟んで東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていた。
今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内ではこの一里塚
だけであり、昭和41年には県の史蹟に指定されている。
(写真は東側の塚)


東戸塚駅辺りの高層マンションが見えて来た。
とたん、急にお腹が空いてきた。
時計は12時40分になろうとしていた。


東戸塚駅前の「ニューシティ東戸塚」の高層マンション群


ダイエーのファストフード店で昼食を摂ることにした。
店内には、うどん店や、


そば店などがあった。


『ようやく昼飯にありつけたねっ』
ファストフード店以外の専門店が数多くあったのに気が付いたのは、昼食後だった。


昼食後、横浜環状2号線を進む。


途中で右に折れ、品濃坂を進む。


品濃坂を下る。
かつては保土ヶ谷宿と戸塚宿の難所の一つだったところだ。


小さな川沿いに進むと国道1号線と合流する。
(川の名前は分からない)


赤関橋を渡り、国道1号線の測道を進むと、


秋葉大橋下で、国道1号線と合流する。
これで、この日何度目かの合流である。


右手にポーラ化粧品の工場を見ながら通過。


益田家のモチの大木
樹高18m、目通り2.4m、根回り3.1mの雌株と、0.75m離れた樹高19m、目通り3.2m、
根回り4.9mの雌株の二本がある。
樹齢はおよそ300年と推定される。
モチノキは通常3~8mに達するが、これほどまでに成長した大木は他に類を見ないと云われている。
神奈川県の天然記念物に指定されている。


不動坂交差点
大山道は各地と大山を結ぶ道で、江戸時代に大山詣をする人で賑わった。
不動坂交差点に近いこの地は、当時の大山道への入口となった。


不動坂の木陰で一休み。
『ゴールは近いかしら?』
『もう直ぐだと思うよ』


元舞橋を通ぎ、国道1号線の舞岡入口交差点付近を通過。


宝蔵院は、真言宗大覚寺派のお寺で東峰山宝蔵院という。


本堂内部
天文十六年(1547)に中興され、御本尊は寛永九年(1632)作の不動明王である。
戸塚不動尊として、衆生を守護し導く如来界の使者として活動している、とのこと。


本堂裏手には水子地蔵堂もある。


ビルの壁に江戸方見付の説明と浮世絵が描かれていた。
慶長九年(1604)戸塚が東海道となり、この地に戸塚宿の出入り口となる「江戸見付」が置かれた。
大阪下バス停付近に設置された、「上方見付」までの間の20町19間(2.2Km)が戸塚宿と呼ばれ、
江戸から十里(40Km)、相模国に入って最初の宿場として栄えた、と説明されていた。


ちょうど道路(国道1号線)の反対側に江戸方見付跡の碑があった。


水道管の蓋は、箱根駅伝の様子を描いている。
『この道を走るんだぁ』


吉田大橋
歌川広重が描いた「東海道五十三次戸塚」は、この大橋の袂になる。
当時の橋の長さは10間(18.2m)、幅2間半(4.6m)の板橋だった。


下を流れるのは柏尾川だ。


橋の両側の4枚の浮世絵の模写など、東海道をイメージした橋になっている。


吉田大橋を渡るとゴールの戸塚駅は間もなくだ。


善了寺
天福元年(1233)江戸麻布善福寺の僧了全が浄土真宗のお寺として開山したと伝えられている。
この日最後の立寄り所である。


善了寺の本堂
モダンな本堂と歴史ある浄土宗本願寺派のお寺である。本尊は阿弥陀如来。
明治には、自由民権運動の仲間が坂の道をあがってきたことがあるとか。


戸塚休憩処があったので、立寄って休憩して行くことにした。


パンフレットを貰う。
管理人としばし東海道の話しで盛り上がった。


東海道宿の番付表があった。宿名の下にはそれぞれの宿の名物や名産品も紹介されている。
東の横綱は小田原、西の横綱は熱田となっている。


戸塚駅だ。


15時4分、この日のゴール戸塚駅に到着!
『今日は大変お疲れ様でしたぁ』


「旧東海道を歩く」第四回目(神奈川宿~戸塚宿)を無事歩き終えた。
距離は今までで一番長く、万歩計は24,000歩を越えていた。
天気は、最高気温23度というわりにはさほど暑くもなく、空気が乾燥していたので大汗を
かくこともなかった。
東海道だけあって、見所は多かったが、気付かずに見落とした所もかなりあった。
もう一度という訳にもいかないが、何かの機会に再び訪れることがあれば良いな、
と思っている。

ウマさんの「旧東海道を歩く」目次に戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛久大仏からツムラ漢方記念館へ

2014年04月25日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2014年4月25日(金)


毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成26年度第3回(2014年第13回)、「牛久大仏からツムラ漢方記念館」を巡るウォーキングに参加した。

この日のコースマップ
牛久大仏駐車場からツムラへ直行し、記念館・薬草園を見学(90分コース)。
その後、工業団地の外周を一周し、時間に余裕があれば延命寺を訊ねて、牛久大仏駐車場へ戻る、
というコースである。


第一集合場所の乙戸沼公園に集まったのは13名。
3台の車に分乗し、牛久浄苑へ。


牛久浄苑(牛久大仏)
直行していた15名と合せると、この日の参加者は28名となった。
地元に近くて天気に恵まれれば、30名近い参加者になるということである。


この日は、歩く距離は短いことから、『準備体操は省略っ!』ということで、
9時39分、ツムラ漢方記念館に向かって出発だ!
見学開始は10時ちょうどとなっている。


先頭を務めるのはOさん。
『最近、弱くなっちゃってよぉ』と言いつつも元気いっぱいである。


大仏様に見守れながら浄苑内を進む。
”元気で行っておいで”
『行ってきまぁす』


『近くで見ると優しい顔してるわねっ』


安全な歩道は反対側にあるため、工業団地内の道路を横断。


ツムラへ入ろうとしたが、ここは運搬車両専用出入口だった。


あらためて200m先のツムラの正門へ向かう。


こちらがツムラの正門だった。
事前に見学の予約をしていたので、担当の方が正門で出迎えてくれていたのには驚いた。


ツムラの工場内は公園のようだ。
敷地面積は178,000㎡(約54,000坪)もあるというから広い。


きれいに手入れされている。
チリひとつ落ちていない。歩いていて気持ちが良い。
『ちょうど新鮮な緑がいっぱいで一番良い季節よねぇ』


わざわざ正門まで出迎えに来てくれた担当の方に付いて、工場入口から真直ぐ進むと、
噴水の向こうに漢方記念館があった。
記念館前に、この日の見学案内の担当の方全員(約7名)が出迎えてくれたのには
ビックリしたと言うより恐縮した。


記念館に入ると、1Fの多目的ホールで、プロジェクタを使って会社の紹介がなされた。
画像を見ながら、会社概要(創業・資本金・売上高など)から工場の概要(建物の配置・役割や広さなど)の説明があった。
なお、記念館・薬草園見学に際しては、自由に撮影OKというのは嬉しい。
お言葉に甘えて最初に撮った1枚である。


この茨城工場(工場と記念館)は1983年竣工・操業開始で、働いている従業員の数が800人ほどいると聞いて、
『そんなに働いているんだぁ』とビックリ。
ツムラ全社員の3割近い人数がこの茨城工場に居ることになるのである。
(写真はツムラ提供)


会社概要の説明が終わると、記念撮影をするとのこと。
記念館の前には、カメラを構えた美人揃いの女性社員が待ち構えていた。


記念撮影(写真はツムラ提供)
ツムラで撮影した写真は、帰りにCDに落して提供してくれるとのこと。
(こういったサービスは初めてである)


3班に分かれて記念館と薬草見本園を案内された。
我々は先ず2Fへ。
漢方と言えば人参を思い浮かべる。
御種人参(朝鮮人参・高麗人参ともいう)が展示されていた。


続いて江戸時代の薬用具室(写真はツムラ提供)
江戸時代に実際に使用されていた薬研・薬籠・蘭引・百味箪笥などが展示されている。


実物の百味箪笥


生薬トレーサビリティの説明
原料となる生薬の栽培・流通・製造・品質管理まで製品の履歴情報を追跡できる体制を紹介している。


こちらは別の班。
漢方医学に関する説明に聞き入る(写真はツムラ提供)


体験コーナー
原料の生薬約50種の見本の形・色・匂いなどが体験できる。


薬研(やげん)は、漢方薬などを作るとき薬効を持つ薬種(草・根・木あるいは動・鉱物質)を
細粉に挽くのに用いる器具。「くすりおろし」ともいう。(写真はツムラ提供)


『漢方独特の匂いがするわねぇ』(写真はツムラ提供)


『匂いを嗅いだだけで何だか効いてきた感じっ』(写真はツムラ提供)


創業時のツムラの説明(写真はツムラ提供)


明治時代創業当時の製品「中将湯」の金看板が展示されている。
津村が故郷から受け継いだ秘薬を元に改良され、創業と同時に、婦人保健薬「中将湯」を発売したのが始まりとのこと。


明治時代の創業時の本店を模型で再現している。
「中将湯」の他にも明治四十年(1907)に胃腸薬「ヘルプ」を発売している。
「ヘルプ」を改良・研究の結果「バスクリン」となった。


明治の創業時から現在までの製品が展示されている。


現在の製品
一般用医薬品としては、風邪薬「葛根湯」が馴染深い。
うちのかみさんも愛用している一人だ。


この後、漢方記念館をいったん出て薬草見本園へ。


薬草見本園
およそ200種以上の薬草が育てられている。
低・中・高木や樹木、湿性植物も含めるとその数は250種以上にもなる。


薬草見本園見学風景


薬草見本園見学風景
御種人参(オタネニンジン)(写真はツムラ提供)
日本での産地は、 雲州(島根県)・信州上田・会津の3か所とのこと。


オタネニンジン
日光の直射と雨滴を防ぐために小屋掛けが必要で、特に夕日を嫌うらしい。


成長には年月を要し、5-6年目にようやく収穫する、そうだ。(写真はツムラ提供)


薬草見本園見学風景
ハッカ(薄荷)の葉っぱを嗅いでいる。
『あ~っ ハッカの匂いがするねぇ。懐かしい匂いだよねぇ』


薬草見本園見学風景
サンショウ(山椒)(写真はツムラ提供)
『へ~っ、トゲが無いんだぁ』
『すりこぎの材料になるんだよねっ』


薬草見本園見学風景
キジツ(枳実)
ダイダイは、乳頭が二つ重なっており、台が二つなので、ダイダイという呼称がある。
また、秋に黄色に色づいた果実をとらずにおくと、冬には青にもどり、秋にはまた黄色になる。
このことから、代々色が変わるということでその名がついたそうだ。
「代々、家が続くように」という意味合いから、正月飾りの縁起物として使われるようになった。
実は酸っぱくてとても食べられたものではない。


薬草見本園
間もなくいろんな花が咲き乱れるのだろう。


他の班と入れ替わり、再び記念館へ。
1Fの漢方医学の歴史を見て回る。


漢方医学の歴史の説明(写真はツムラ提供)


初の医学書「医心方」(いしんぼう
平安時代の宮中医官である鍼博士丹波康頼(たんばのやすより)撰による日本現存最古の医学書である。
丹波康頼の末裔として、映画俳優故丹波哲郎が有名だ。
第二十二巻(写真)は、胎教篇として医心方全三十巻の中でも唯一図を持つ巻とされる、とのこと。


曲直瀬道三(まなせ どうさん
戦国時代の医師。
日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称される。


最後に、ツムラで扱う医療用漢方製剤と生薬の見本116種の展示を見て、見学は終わりとなった。
『どうもお疲れ様でした』
『ありがとうございましたっ』


見学が終わり、アンケートに記入してツムラを後にした。
時刻は11時40分を差そうとしていた。


この日は弁当なしなので、あまり遠くへは行けない。
工業団地内を一周することにした。
後ろに大仏様が見える。


工業団地内
皆さん(自分もだが)お腹が空いて来たようで、口数が少なくなってきた。


ツムラの工場裏辺りに調整池があった。


調整池で軽い休憩を摂ることに。
水分補給やお茶菓子を配り合っている間に、次週、次々週の地図を配布し、コースの概略説明を行った。
どのくらいの人数の参加があるのか楽しみである。


”茶腹一時” 元気を出して牛久大仏を目指す。


大仏様が目の前、ゴールはもう直ぐだ。


”元気で帰ってきたね”
大仏様も微笑んでいるようだ。
『ただいまぁ』


墓地内を進む。


12時31分、ゴール!
この日歩いた距離はさほどなかったし、お腹も空いたことだし、整理運動は省略ということに。
『今日はお疲れさまでしたぁ』


かねてから会員の皆さんの要望が強かった、株式会社ツムラの漢方記念館・薬草園を今回初めて訪問した。
会員の中には既に一度訪問したことがあり、今回が2回目という人もいた。
ウォーキングとしてはやや物足りなかったが、記念館見学もあってなかなか好評のようだった。
ツムラとしては歩いて訪問するというのは初めてのことだったそうである。

漢方の歴史や効能について知識を深めることができ、また実際に生薬に触れてみて、少しだけ漢方が身近に感じられるようになった。
花の時期にはちょっと早かったが、薬草見本園の草花を見て、参考になった。
これから歳とともに、益々漢方薬にお世話になるかもしれない。


ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まさに絶景! 浅間隠山ハイキング

2014年04月23日 | ウマさんの気ままなバスハイキング
2014年4月23日(水)


常南トラベル(株)が主催する日帰りバスの旅「浅間隠山」ハイキングに参加した。
常南トラベル(株)としては、浅間隠山ハイキングは今回が初の試みで、今日がその初日だそうだ。

浅間隠山は、群馬県吾妻郡吾妻町と長野原町の境にある山で、東吾妻町、中之条町側から見ると、
浅間山を隠してしまうことから、「浅間隠山」(あさまかくしやま)と名付けられた。
遠望すると円錐形の美しい山で富士山に似た山容から「川浦富士」、あるいは山頂部が二峯に分かれているため、
「矢筈山」(やはずやま)といった別名もある。日本二百名山の一つに選ばれている。

所属する「健康ウォーキング同好会」からは、会長以下有志の4名が参加する予定だったが、
一人が風邪で不参加を余儀なくされ、3名の参加となった。

荒川沖駅前
常南交通のバスに乗りこむ。
『おはようございま~すっ』
『今日はよろしくっ』


次の土浦駅に向かう途中、朝食が配られた。今日はホットドッグだ。
これから軽登山をするにしては、やや物足りない量ではあるまいか。
家でトーストを1枚食べて来て良かった。


土浦駅で約8名、石岡ロードパークで約15名が合流し、この日は38名が乗り合わせることになった。
石岡から見覚えのある3名が乗りこんで来た。「まゆみの会」のメンバーだ。
友部SAで最初の休憩。


バスは、常磐道・北関東道と走り、北関東道の波志江PAで2度目の休憩。


高崎ICで高速から降り、右手に榛名山を見ながら国道406号を旧倉渕村へ向かった。
途中でこの日のコースマップが配られ、コースの説明があった。
登山口から浅間隠山(1,756m)まで片道2Km、約1時間30分の道のりとのこと。
3月下旬に下見で登ったという添乗員が同行してくれると言うのは心強い。



登山口から先はトイレがないため、麓のはまゆう山荘で、用を済ませることに。
その前に、はまゆう山荘の駐車場で準備体操をして、


ハイキングの準備も済ませて、はまゆう山荘へ向かう。
幕末の偉才・小栗上野介は、横須賀の今日の発展の基礎となった横須賀製鉄所の建設を進めた人物で、
彼の領地が権田村(旧倉渕村権田)であったことがきっかけとなって、友好関係が結ばれていた。
鞍渕村は村有林の一部(5ha)を横須賀市に貸与し、そこに横須賀市によって、市制施行80周年記念事業の一つとして
「市民休養村はまゆう山荘」が建設された。
その後倉渕村は高崎市と合併し、倉渕村は無くなったが、それまでの友好関係から、
はまゆう山荘が横須賀市から無償譲渡された、ということである。


はまゆう山荘のロビー


ロビーの壁にはまるでピカソのような絵が飾られていたのが印象に残る。


はまゆう山荘から再びバスに乗り、県道54号線を15分ほど走り、登山口へ向かう。
途中、車窓から垣間見えたが、あれが浅間隠山だろうか?


15分ほどで登山口駐車場へ到着した。
この辺りの標高は1,350mほどらしい。はまゆう山荘(850m)からおよそ500m上って来たことになる。
ここで弁当を受け取り、準備完了!


10時55分、浅間隠山目指して出発!
先頭は下見をしたという添乗員が務める。


駐車場から県道を70mほど下ると浅間隠山登山口があった。
山頂まで90分、2.1Kmと表示されている。


最初は緩やかな上りで始まる。


カラ松林を縫うように上る。


この辺りのカラ松はまだ全く芽吹いていない。枯れたような状態のままだ。
麓の国道406号で、満開の桜と新緑が車窓から目に入ったのとは、対照的である。
標高が高いことが分かる。


第1地点辺りを通過。


11時10分、第2地点(尾根)に到着。


第2地点から白樺が目立つようになった。


まだ雪が残っているところがあった。
しかし、この雪ももう直ぐ解けてしまうのだろう。


第3地点を過ぎると回りは背の低い熊笹になってきた。
この日の予想最高気温は21℃。
早くもTシャツ1枚になっている人も。


二度上峠と北軽井沢の分岐点を通過
ここから山頂へは、直登の急な坂道と緩やかな道に分かれている、そうだ。


添乗員から、急な坂道は避けた方が良いとの助言があり、少し遠回りだが緩やかな方を進む。


振り返ると、木々の隙間から真っ白に雪を被った浅間山が見え隠れする。


熊笹のつづら折りの坂道を進む。


ところどころ、雨で土がえぐりとられ、段差の大きな坂道が現れる。


段差が大きいと上りづらいうえに余分な体力を消耗してしまう。
『けっこうきついわねっ』


熊笹の道を過ぎると、今度は岩の道が続く。


山頂に近い分岐点で、この日先頭を務めていた添乗員が道を案内してくれていた。
『頂上は真直ぐ、もう直ぐですよっ』


やや急な傾斜の先に山頂が見えて来た。
最後の上りだ。


12時10分、浅間隠山山頂(1,756.7m)に到着した。
正面に見えているのが浅間山(2,568m)だ。


『いやぁ最後はちょっときつかったねぇ』
まゆみの会の皆さんともう一人の添乗員も到着した。


先に登頂した人達は浅間山の絶景を観ながら弁当を食べていた。
我々も弁当にしたいが、もう一人遅れているIさんが登頂するまで待つことにした。


山頂から見た浅間山(2,568m)の眺望は”素晴らしい”の一言に尽きる。
まさに絶景である。


浅間隠山からの眺望(動画)


子持山、榛名山方面


谷川岳方面
右手は至仏山、燧ケ岳方面か?


12時15分、5分遅れで健康ウォーキング同好会会長も到着。


我々も全員揃ったところで弁当にしよう。
この日の弁当は、地元の”やんば弁当”だ。


きの子と卵焼きのまぜご飯に、たっぷりの肉と天ぷら(天つゆ付)である。天つゆ付の弁当は珍しい。
煮付けのこんにゃくも付いていた。ボリューム満点で味もなかなかのものだった。


弁当を終わって、下山する前に浅間山をもう1枚。


13時2分、下山開始!
添乗員より、14時30分までにバスへ到着して欲しいとの注文があった。
前方は妙義山方面か?


お腹を満たした後で、足取りは軽い。
『下るだけだから楽だねっ』


急な砂利道が滑り易い。
『気を付けてっ』


最近上りは苦手と言う会長も、下りは快調である。


『石が滑りそう』


『段差が大きいから大変よっ』


低灌木の道を下る。
誰も休憩しようという人はいない。


熊笹の中を下る。


第3地点付近を通過。


から松林ということは、ゴールは近い。
まだ13時56分、14時30分まで30分以上もある。かなり早いペースだ。


14時4分、浅間隠山登山口に到着!!
普通1時間30分はかかるところをほぼ1時間で降りてきたことになる。
添乗員も”びっくり”といった顔をしていた。


記念撮影
『上る時に撮ってなかったから』だそうだ。


駐車場にはバスが待機していたが、予定(14時30分)よりも15分も早くバスは出発した。


再びはまゆう山荘へ。
用を足すためにだけ立寄るということになるが、何だか申し訳ない気持ちである。


借りるだけ借りて、というのを良しとしない年代である。
せめてもの土産を物色中だ。
はまゆう山荘は横須賀市と友好関係にあるということで、「横須賀海軍カレー」が売られていた。
はまゆう山荘名物のトマトのソフトクリームが女性陣に大人気だった。


国道406号を渋川市小野上温泉へ向かう。
草津街道大戸関所跡を通過。


はまゆう山荘からバスで走ること50分。
15時50分、ようやく小野上温泉に到着した。


バスに50分も揺られて汗は完全に引いてしまったが、何はともあれ、幸の湯で汗を流すことに。


『今日は大変お疲れ様でしたぁ、かんぱ~いっ』
『風呂上がりの一杯は美味いっ!!』


浅間隠山ハイキングは好天に恵まれ、絶景の浅間山を見ることができて、最高の一日となった。
”やんば弁当”も美味しかった。帰りのバスでもひと際拍手が多かったのも頷ける。
添乗員も自信を深めたことだと思う。
ただ、入浴施設がバスで50分も先というのはちと遠すぎる。
もう少し近くの温泉(旧倉渕村の日帰り温泉など)を検討すべきではないだろうか?

ウマさんの気ままなバスハイキングの目次”に戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関東ふれあいの道(神奈川)No.17 「北条武田合戦場のみち」

2014年04月13日 | ウマさんの「関東ふれあいの道」を歩く
2014年4月13日(日)


”ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」”では、2011年までは主に茨城県の「関東ふれあいの道」(全18コース)を歩いてきた。
”たまには県外を”ということで、昨年(2012年)は東京都の「関東ふれあいの道」(全7コース)を踏破し、認定証を受領した。
そして次は神奈川県の「関東ふれあいの道」(全17コース)を歩こうということになり、企画したものである。

第14回目となる今回は、コースNo.17(北条武田合戦場のみち:約8.5Km)を歩くことにした。
本来のコースは、坂尻バス停~半原越~経ヶ岳~半僧坊前~三増合戦場・・・となっているが、
坂尻バス停~半原峠(約4.8Km)は、コースNo.12(丹沢山塊東辺のみち)で歩いているので、今回は省略。
半原越~経ヶ岳~半僧坊前(3.9Km)は別の機会を見つけて歩く、ということで、距離が短くなっている。

この日の参加者は10名。
いつものように常磐線日暮里駅で乗り換え山の手線で新宿に向かった。
小田急新宿駅で小田原行きの電車を待つ。
8時11分発の小田原行き急行が入って来た。


本厚木駅には9時7分に到着。


間違って宮ヶ瀬行きのバス停(5番)へ行ってしまい、うろうろとバス停を探しているちょうどその時、
バスセンター方面から半原行きバスが走って来るのを見つけ、あわててそのバスを追いかけた。
高校生が大勢乗り込むところだったので、何とか乗り遅れなくて間に合った形となった。
このバスに乗り遅れると、次は1時間後しかないのである。


バスは満員となった。全ての席は先に乗り込んだ高校生たちに占領されていた。
中には席を譲ると言う生徒もいたが、彼らは途中で降りるのが分かっているので、
好意だけ受けることにした。


9時57分、半僧坊前に到着。


国道412号に沿った路地を通り、半僧坊へ。


寺院前の地図で確認
『え~と、今ここ(半僧坊)の前にいるんだねっ』


満殊山勝楽寺(しょうらくじ)の案内によると、
勝楽寺は曹洞宗の寺院で、草創は古く弘法大師が、法華経を書き写した霊場と伝えられる、とのこと。


堂々とした山門(仁王門)に圧倒される。
総高16m、間口9m、奥行5.6mだそうだ。
造営は文政十二年(1830)半原の工匠柏木右兵衛安則の手により着工したが、
安則が高齢によって死去、工事は一時中断していた。
その後安則の長男矢内但馬藤原高光がこれを継ぎ、嘉永四年(1851)に落慶した。
山門は、名匠右仲・左仲・左文治の三兄弟の工によるもので、
楼上には、文殊・普賢の2菩薩、舎利佛、目犍連(もくけんれん)、十六羅漢などの像が安置されている、そうだ。


阿形の金剛力士(仁王)像
今まで仁王像は朱塗りの赤や青(青銅)ばかり見てきたので、黒い仁王像は初めてだ。


吽形の金剛力士(仁王)像
阿吽の二神(仏教の護法善神)で門を見張る。


中門をくぐって本堂へ。


半僧坊堂
御本尊は釈迦牟尼佛
この日の無事安全を祈っていこう。


遠州奥山方広寺から勧請した半僧坊大権現
後醍醐天皇の皇子の無文元選禅師の方広寺の元に忽然と現われ、無理やり弟子入りした白髪の老人で、
神通力を持っており、無文禅師が死去するとその老人も姿を消したという。


毎年4月17日には、近郷近在の花嫁が参拝して「花嫁まつり」とも云われ、植木市とともに賑わう、そうである。
地元では平山の勝楽寺というより、田代の半僧坊という呼称が一般的だそうだ。


田代半僧坊大権現の隣にあった枝垂れ桜が今まさに満開だった。


日本における曹洞宗の開祖と云われる道元禅師像
鎌倉時代初期の正治二年(1200)に誕生し、貞応二年(1223)中国・宋へ渡る。
安貞元年(1227)に帰国。寛元元年(1243)に北陸越前に入山し、今の永平寺が開山された。
建長五年(1253)病により永平寺の貫首を弟子孤雲懐奘に譲り、俗弟子覚念の屋敷(京都)で没した。
享年54(満53歳没)だった。


半僧坊の鐘楼


準備を整える。
『今日は上着は要らないわよねっ』
『最初に脱いでた方が良いねっ』


10時17分、出発!


半僧坊前の道を真直ぐ進む。


この時期、いろんな花が咲いて、我々の目を楽しませてくれる。
ヤマブキの花と聞けば、
「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」
という有名な歌と大田道灌を連想する。


道端に咲いているニリンソウに夢中でカメラを向けるKさん。


自分も撮ってみたが、白く反射して上手く撮れない。


ツツジが美しい。


『いろんな花が咲いてて今が一番楽しいわねぇ』


中津川に架かる橋を渡る。


中津川の河原では、バーベキューを楽しんでいる家族も。


「関東ふれあいの道」は、中津川に架かる橋を渡って左折し、


50mほど行くと、右の小さな道へと案内されている。


何とこんな山の中、と言っては失礼だが、ふぐ料理の看板が。
『こんなところにふぐ料理屋とは意外だねぇ』


住宅地の中の細い道を進む。


しばらくすると、住宅地から離れ、杉林の山道が現れた。
ようやく「関東ふれあいの道」らしくなってきた。


マムシ草
茎(茎ではなく偽茎)の紫褐色の模様がマムシ(蝮)の斑模様に似ているところから付けられた名前、だそうだが、
コブラが鎌首を持ちあげたような形で、個人的にはあまり好きではない。


緩やかなつづら折りの坂道が続く。


10分ほど坂道を上ると、開けた台地に出た。


『いやぁ なかなか良い景色だねぇ』


遅咲きの桜の花や桃の花が満開状態だ。


のどかな道を標識に従って三増・志田峠方面へ進む。


11時10分、三僧(みませ)合戦場の碑へ到着。
碑の横に”三増合戦のあらまし”が紹介されていた。
永禄十二年(1569)10月、甲斐(山梨県)の武田信玄は、2万の将兵を従えて、
小田原城の北条氏康らを攻め、その帰り道に三増峠を選んだ。
これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦、娘の夫綱成らを始めとする2万の将兵で
三増峠で迎え撃つことにした。
ところが武田軍の近づくのを見た北条軍は、半原の台地上に移り体制を整えようとした。(続く)


信玄は、その間に三増峠の麓桶尻の高地に自分から進み出て、その左右に有力な将兵を手配りし、
家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、
また山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。
北条方は、それに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。(続く)


そのとき、山県の一隊は志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので、
北条軍は総崩れとなって負けてしまった。
この合戦中、武田方の大将浅利信種は、北条軍の鉄砲に撃たれて戦死した。
北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて荻野まで駆けつけてきたが、
すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
信玄は、勝ち戦となるや、すぐに兵をまとめ、反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、
勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式を行い、甲府へ引きあげたという。
(愛川町教育委員会:看板資料より)


三僧合戦場の碑前で全員の記念撮影を済ませ、東屋で一休み。


既に散ってしまった桜並木を志田峠を目指して進む。


志田峠へ


道は途中から舗装が無くなり、砂利道になった。


『歩き難いゎねぇ』


自転車で峠越えに挑戦する若者も。
『おっ若いの、よう頑張るなぁ』


12時6分、志田峠へ到着。


谷を埋め立てているようだが、何が目的なのだろう?


後続の皆さんも少し遅れて峠に到着。


ここ志田峠で弁当をと思ったが、峠を吹き抜ける風が強く、時折埃を舞いあげるので、
峠を下ったところを探そう、ということに。


志田峠を5分ほど下ると、清正光(せいしょうこう)があった。
『この石段を上るのぉ』
およそ200段の石段を上らなければならない。
『行ってみるかぁ』


『けっこうきついわねぇ』


さらに石段は続く。


上ったところに猛犬が繋がれていた。
我々を見るなり狂ったように吠えまくっていた。
繋がれていなかったら、間違いなく咬みつかれていたことだろう。


石段はさらに続く。
Y子さんによると、結局石段は260段余りだった、そうである。


ツツジが美しい。


12時25分、本堂に到着。


さらに石段があったが、展望もあまり良くないので、本堂の階段を借りきって弁当タイムだ。
幸いなことに、弁当を食べる間、と言うより下山するまでずっと、我々以外には誰も訪れる人はいなかった。
あの石段を上ってお参りするのは大変なことだが、誰も訪れないと、実に寂しいところだ。


本堂の近くに別院があったので、立寄って手を合せた。


吠えまくる猛犬の鳴き声を耳にしながら、石段を下る。


韮尾根バス停を目指す。


何となく見覚えのある風景が現れた。


前回のコースNo.13「山里から津久井湖へのみち」で雨乞山から降りて来たところに合流したのだ。
『この道を降りて来たんだよねっ』


国道412号に出ると、韮尾根バス停とは反対方向の半原バス停を目指すことにした。
前回の経験から、韮尾根バス停からはちょうど良いバスがないため、2Km先の半原バス停まで歩き、
そこから淵野辺行きバスを利用することにしているためである。


K子さんが、前回この近くでパン屋の旗を見掛けたので、何とかしてそこで”揚げパン”を買いたいと、
朝からずっと云い続けてきているので、ちょっと立ち寄ってみようということに。


直ぐに「丹沢あんぱん」の看板が現れた。


店の名前は「オギノパン」と言うらしい。
たくさんの車やオートバイが駐車していて、大層賑わっている様子だ。


K子さんが言うには”あげぱん”の評判が良いらしい。
売り場には、かなりの人が並んでいた。
”あげぱん”(110円)を2個買った。帰ってかみさんと食べることにしよう。


こちらではアンパンが売られていた。
こちらも売れ行きは上々のようである。


全員何がしかのパンを買い、笑顔で半原バス停を目指した。
『パンが買えて良かったねっ』K子さんは大満足の様子だ。


国道412号を半原方面への坂道を下る。
この時、時計は13時40分を差そうとしていた。
『13時50分発の淵野辺行きに間に合うかもしれないよっ』の声が。
先月の「津久井湖へのみち」で歩いた帰りに利用したバスである。
それを逃がすと1時間待たなければならない。
急に皆さんの足が速くなった。


半原日向の交差点を過ぎて、Kさんが『先に行ってバスを止めておくから』と言い残して駆けだした。
皆も後に続けとばかり、先ほどよりもう一段ギアを入れ直し、バス停へ急いだ。


日向橋を渡ると・・・


Kさんがバスを止めて待ってくれていた。
『間に合った』と喜んだのは束の間・・・
そのバスは淵野辺行きではなく本厚木行きだった。
もとよりそのバスには乗るつもりはないので、発車してもらった。


バスがもう1台停まっていたが、三ヶ木行きとなっている。
運転手に訊ねると、淵野辺行きは3月末で路線を廃止してしまったそうだ。
『え~っ、淵野辺行きバス無くなっちゃったのぉ』 全くの想定外である。
運転手によると、このバスは三ヶ木で橋本行きバスに接続しているとのこと。発車は14時00分だそうだ。
それでも本厚木行きよりも安くなるという計算で、仕方なくこのバスを利用することにしたのだが・・・

何と! 今しがた息急き切って歩いて来た道を、韮尾根までまた戻るルートと知って皆ガックリ。
『骨折り損のくたびれ儲けだったね』という洒落にならない”落ち”となった。

14時23分、三ヶ木バスセンターに到着。
ずらりとバスが並んでいる。この中の1台(左から3番目)が橋本駅北口まで行くようだ。


三ヶ木バスセンターで橋本駅北口行き(14時24分発)に乗り換える。
疲れもあり、バスに揺られながらひと眠りしてしまった。


橋本駅で八王子行き電車の確認をしているところ。
『とにかく、今日は皆さん本当にお疲れ様でしたぁ』


この日も好天に恵まれ、コースNo.17「北条武田合戦場のみち」を歩くことが出来た。
いきなり半僧坊の高層の山門には圧倒された。
三増・志田峠では、北条武田合戦の頃に想いを馳せた。
最後は、駆け足のように歩いた2Kmの道をまたバスで戻る、というハプニングだったが、
きっといつまでも記憶に残一日となるだろう。
来月は、いよいよ最後のコースNo.14「峰の薬師へのみち」である。


ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」の目次”へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年はまずまず 磯部桜川公園・平沢の山桜

2014年04月11日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2014年4月11日(金)


毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成26年度第2回(2014年第12回)、「磯部桜川公園・平沢の山桜」を愛でるウォーキングに参加した。
この日のコース半分は昨年(2013年4月20日)に続いて2度目である。
昨年は、山桜は既に終わってしまっていたため、数本の八重桜で我慢するしかなかった。
『一度満開の山桜を観たい』の想いを込めて10日ほど早めた今年の再挑戦だが、果たしてどうだろうか?

この日のコース地図
水戸線羽黒駅をスタートして、国道50号線を渡り、先ずは磯部桜川公園を目指す。
磯部稲村神社を経由して、岩瀬東中学校横を通り、稲地区から福崎地区・平沢地区へと進む。
平沢地区の山桜眺望スポットで山桜を観て、途中昼食を挟み、中山地区を回り、磯部稲村神社に戻る。
最後は磯部稲村神社から月山寺に立ち寄り、羽黒駅に戻るという、全長約10Kmのコースである。


荒川沖駅
乙戸沼公園の桜まつりの垂れ幕には誰も関心がないようだ。


荒川沖駅から乗車した参加者は23名。
昨年より10名も多い。
この後、土浦駅から5名、神立駅から2名が合流し、30名となった。
平沢の山桜への期待の大きさが伺える。


水戸線車内は、専用車両と行った感じである。


9時20分、定刻に羽黒駅に到着


羽黒駅には車で直行したFさん夫妻が待っていた。
結局この日の参加者は32名となった。
忘年会や新年七福神巡り以外の通常例会で30名を超したことは今までなかったと記憶する。


羽黒駅前で準備体操をして、


9時35分、先ずは磯部桜川公園目指して出発!


先導役はOさんとTさんだ。
昨年までは金曜日に仕事があったため、満足に参加できなかった悔しさからか、
今年は仕事を土曜日に変更して、参加に意欲を見せるTさんである。


国道50号線を横断し、


桜川に架かる羽黒橋を通過。
この辺りは稲田に近いので石が豊富なのだろう、御影石で造られた擬宝珠が印象的である。


羽黒の住宅地を進む。


芝桜が美しい。
『きれいだねぇ』


遠くに磯部桜川公園が見えてきた。
桜の状態はなかなか良さそうだ。


看板を確認し、磯部桜川公園へ。
『去年は反対側から来たんだよねっ 見覚えがあるよっ』


四ツ榎稲荷神社を通過。


10時ちょうど、磯部桜川公園に到着


桜川公園を進むとひと際目立つ桜の木が目に飛び込んできた。
まさにこの日満開を迎えたと云った感じである。
記念撮影をしている人が順番待ちの状態だ。
『素晴らしいわぁ』


周りの山桜も満開状態だ。
『今日来て本当に良かったわねっ』


我々も満開の桜をバックに記念撮影と行こう!


公園の中を山桜を愛でながら一回り。
『いやぁ 山桜も良いもんだねぇ』


既に満開状態を過ぎたものもあるが、これから咲くと思われる木も見られる。
山桜は、染井吉野のように一度に全部の木がいっせいに咲くわけではないので、
長く楽しめる、という特徴がある。


『素敵だわぁ 山桜に囲まれて』


「天然記念物指定の碑」横を通り、磯部稲村神社へ。


10時23分、磯部稲村神社に到着。


天然記念物の11種の山桜の写真


磯部稲村神社では糸桜が特に名高い。
”これだけは何としても見ておかなくては”と自由時間の合間に観たが、
あいにく見落とした人も。


神社境内で高峯山の山桜の写真が展示されていた。
昨年(2013年4月20日)は、遅すぎたため、全くみることが出来なかったが、
このような景色が見れるのならもう一度、ということで企画した次第である。


磯部稲村神社で一休みして、


今年は是非とも先ほどの写真のような景色を観てみたい、と平沢地区を目指すことにした。


磯部稲村神社の外周を歩き、


県道257号線を横切って進むと、視界が開けた。
左手に見えるのが高峯山だ。
中腹にはぼんやりとだが山桜が咲いているのが見える。


田園風景の中を進む。
『いやぁ 天気が良いから気持ちが良いねぇ』


県道257号線から1Kmほど行ったところを左折し農道を進む。
回りが田んぼの中を高峯山を目指す。


回りの田んぼには麦が植わっている。
後方に見えるのはヒメハルゼミで有名な仏頂山と思われる。


鯉のぼりがはためいている。のどかな風景である。
桜が終われば直ぐに端午の節句である。


農道と県道289号線の交差点で一休み。


平沢地区
真直ぐに伸びている農道の先が高峯山だ。


平沢地区


農道を右に曲った先に平沢公民館があった。
「里山の山桜」駐車場の看板が。


公民館前を左折し、高峯山方面へ進むと、弁天池があった。
磯部稲村神社で手に入れた案内図に、近くに山桜の絶景撮影ポイントがあると紹介されていたので、
絶景撮影ポイントへ向かった。


弁天池から5分ほどで、絶景撮影ポイントに到着した。
農道の道端には数台の車が停まっていて、見物客が訪れていた。
もう少しピンクや赤が混じるときれいなのだが・・・
(手前のピンク色は畦道に植えられた芝桜)
『だけど素敵よねぇ』
『来て良かったわっ』


絶景ポイントに納得し、いったん弁天池まで引き返す。


弁当を食べれるような場所を求めて、弁天池からあらためて平沢地区へ向かう。
こちらもなかなかの景色である。


大きな家の庭先に高峯山棚田米の直売場があった。
他にも漬物や草餅、大豆、野菜(トマト・ねぎ)などが売られていた。
女主人に弁当を食べる場所を探していることを伝えると、この先に展望所があると言う。
40分ほどのところだそうだ。
これ以上は進む元気も気力もないため、相談したところ、庭を使って良いとのこと。
トイレも利用させてもらい、その上庭先を自由に使って良いとは、何とも嬉しい限りである。


お言葉に甘えて庭先で弁当タイムにさせてもらった。


農機具倉庫の前で広げる弁当は格別な味がする?


庭先を借りたお礼にとばかり、皆さん、米、大豆、草餅を片っ端から買い求めていた。


女主人も予期せぬ売れ行きに思わず顔がほころぶ。
『売り切れっちまうだよっ』


弁当も終わり、平沢地区を後にする。


のどかな田園風景が広がる。
正面には雨引山、加波山が見える。


たばこの苗が植えられていた。
4年前(2010年5月13日)「関東ふれあいの道」で歩いた時のことを想い出した。


この辺りも里山の桜の眺望スポットだ。
『ここからの景色も素晴らしいねぇ』


御即位式記念 八大龍王神と刻まれた碑が建てられていた。
八大龍王は、天竜八部衆に所属する竜族の八王。法華経(序品)に登場し、仏法を守護する。
霊鷲山にて十六羅漢を始め、諸天、諸菩薩と共に、水中の主である八大竜王も幾千万億の眷属の竜達とともに
釈迦の教えに耳を傾けた。
釈迦は「妙法蓮華経」の第二十五 観世音菩薩普門品に遺されているように「観音菩薩の御働き」を説いた。
その結果、「覚り」を超える「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、原語Anuttara samyaksaMbodhi)、
無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)」を得て、護法の神となられるに至った。
(Wikipediaより)
近くに八大龍王大明神の額の鳥居も見えたが、道を見つけることができず、素通りしてしまった。


下坪地区へ


香取神社を通過


県道267号を磯部稲村神社を目指して進む。


岩瀬東中学校の校庭外周


岩瀬東中学校の校庭


再び磯部稲村神社へ
『また戻ってきちゃったみたいねっ』


磯部稲村神社で一休み。
『疲れちゃったわねっ』


午前中、糸桜を観れなかった人もいたため、もう一度糸桜を観て帰ることにした、という次第。


『なるほどっ これが糸桜なのねっ』


全員糸桜を観た後は、最後の訪問地月山寺へ。


月山寺が見えてきた。


月山寺の山門
天台宗の寺院で、山号は曜光山。


月山寺は特に庭が美しい。


千手堂
『あまり見かけない形の観音堂だねっ』


千手堂前に咲いていた桜
『この桜が今日の中で一番見事だねっ』


最後にこの碑一番の桜に満足して月山寺を後にした。


後は羽黒駅を目指すだけだ。


国道50号を渡るとゴールは目の前である。


14時20分、羽黒駅に到着。
万歩計は優に20,000歩を越えていた。
思ったより以上に距離を歩いた計算になる。


皆さん少々お疲れ気味ということで、整理運動は省略となった。
国道50号沿いのコンビニで買った函ビールで喉を潤す。


水戸線ホームへ。
電車は14時47分発友部行だ。


『今日は思った以上に歩いたねぇ』

『今日は大変お疲れ様でしたぁ』

昨年に続いて2度目の桜川の山桜だったが、ほぼ満開状態の桜を観ることができて、満足している。
企画した側としては、”一安心”、といったところである。
しかし、磯部稲村神社で見せられた写真のような高峯山の山桜には、お目にかかれなかった。
3年連続の企画はあまり気が進まないが、個人的には、あの写真のような景色を一度見てみたいと思う。
皆さんの強い要望があれば話は別である。


ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする