ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第4回 池鯉鮒宿~宮宿(2日目)

2018年10月09日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年10月9日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」第Ⅲステージ第4回(2日目)は、鳴海宿(名鉄前後駅)~
宮宿(JR熱田駅)を歩くことになる。
前日、カメラのトラブルで大幅に時間をロスしてしまい、目的地の鳴海宿まで到達することが
出来なかった。
その分この日の距離は長くなるが、ゴールの宮の渡しまでは頑張って歩きたい。

7時2分、宿泊先「新月旅館」を出発!
朝食付きではないので、少し早めに旅館を出た。


昨日夕食を買ったコンビニでおにぎり2個とお茶を買い、本笠寺駅へ。


本笠寺駅7時19分発の名鉄名古屋線に乗り、スタート地の前後駅へ向かう。
20分ほどで前後駅に到着した。


前後駅の前で職場・学校へと急ぐ人たちの流れを眺めながら、おにぎりをほおばった。


7時59分、前後駅を出発し、この日の旅が始まった。
旧東海道を西へ向かう。


秋葉常夜灯


道路右側に馬のモニュメントが。
名鉄中京競馬場前駅は近くのようだ。
駅の近くに旧桶狭間合戦場跡があるとのことだが、詳細な場所・経路は分からない。
中京競馬場前駅へ行けば何らかの情報が得られると思い、中京競馬場前駅へ向かった。


名鉄中京競馬場前駅に行ってみると、


案の定、駅の前に”国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地”の説明板と地図があった。
”桶狭間の戦い”には、以下のように記されていた。
天下分け目の戦いと云われた関ケ原の戦い(1600年)から遡ること40年。
日本中が戦国大名どうしの戦いに明け暮れていた永禄三年(1560)、尾張において、
日本の歴史にその名を残す戦いが起きた。「桶狭間の戦い」である。
戦ったのは当時、駿河・遠江で強大な勢力を誇っていた今川義元と、尾張を統一したばかりの
小大名織田信長。力の差は歴然であった。
しかし、大群を率いて尾張に侵攻した今川義元に対し、織田信長は自ら先頭に立って出陣し、
「桶狭間」で義元を打ち破り、歴史的な勝利を飾った。
その後、織田信長は東海・北陸・近畿へと勢力を拡大し、豊臣秀吉の天下統一、徳川家康の
江戸幕府へつながる礎を築いた。


地図に従って進んで行くと、電柱に「桶狭間古戦場伝説地」の案内が。
次を右に曲がると、


8時50分、史跡桶狭間古戦場に到着した。
この地は、永禄三年(1560)5月19日、小勢2千の織田信長が、2万5千の今川義元の大軍を
破った古戦場で、田楽狭間あるいは桶狭間と呼ばれた。
史跡桶狭間古戦場の碑が建てられている。
国の史跡に指定されている。


今川治部大輔(じぶだゆう)義元の墓
駿河・遠江・三河の国主、今川義元は西上の途次、永禄三年(1560)5月19日に織田信長の
奇襲に遭い、ここで倒れた。ここにはその霊が祭られている。
以前ここは塚であったが、有松の住人山口正義が主唱し、明治九年(1876)5月にこの墓を建てた。


今川義元の墓周辺は小さな公園として整備されている。


旧東海道に戻った所に高徳院の標柱が。
現在の高徳院の境内は今川義元公の本陣跡とされている、そうである。


国道1号の桶狭間交差点まで来たところで、旧街道を少し外れていることに気が付いた。


桶狭間交差点を右に曲がり、8時56分、旧東海道へ戻ることが出来て一安心。
(名古屋有松郵便局)


有松の旧東海道の家並み


有松山車会館
有松にある山車三輌(布袋車・唐子車・神功皇后車)を毎年交代に展示し、
まつり文化を紹介しております。
慶長年間より現在まで400年を経て、町並みも江戸風情を残し、落ち着きと潤いを
感じさせてくれるとともに、生きた歴史資料として貴重なものです。
(HPより)


旧くて大きな家が多い。しかも立派な構えである。


各家の軒先には絞りの暖簾”ありまつ”が飾られていた。


有松・鳴海絞会館
絞りの歴史資料や技術が、実物を使い、分かりやすく展示されています。
伝統工芸士による絞りの実演も必見の価値あり。
研修室では希望により絞り体験教室も開かれ、気軽に絞りの世界を満喫できます。
また、1階展示即売場は有松絞りのすべてを一堂に見ることができます。
(HPより)


服部幸平家住宅の倉
服部幸平家は、西隣(左)の絞問屋・服部家から分家した家柄であり、かつて屋号を井桁一といった。
明治時代中期、分家の際に譲り受けたこの倉は、切石の土台の上に建てられた
木造切妻二階建て桟瓦葺で、白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とし、江戸時代の様相を呈している。
服部家住宅と一体をなしている点で、有松の町並み景観上非常に重要である。
昭和62年(1987)県の有形文化財に指定された。
(名古屋市教育委員会)


服部家住宅
服部家は、寛政二年(1790)創業の絞問屋で、屋号を井桁屋という。
屋敷地は、東海道に面して広い間口を有する。
中央部に店舗及び居住として利用する二階建の主屋を配し、井戸屋形、店倉、藍倉、門など
合わせて十一棟の建物が有力な絞問屋の屋敷遺構の典型として、昭和三十九年(1964)、
県の有形文化財に指定された。
(名古屋市教育委員会)


”有松絞井桁屋”と書かれた看板は、歴史を感じさせる。


有松の旧東海道


服部家住宅の長い塀
塀越しの松の木はきれいに手入れされている。
庭も出来れば見てみたいものである。


服部家住宅の向かい側に建つ旧い家


有松駅と東海道を結ぶ遊歩道、山与遊歩道
平成24年に整備され、西側家屋の元所有者絞商山与さんに因んで名付けられた道。
かつて東海道にかかっていた中川橋の石柱が残り、これを境に往還と橋東という小字が
付いていました、とある。


こちらも旧くて重厚な感じの家だ。
このような家が街道筋にずらりと並んでいるのは壮観である。


倉と一体となった古い家


有松駅へ通じる県道37号に面して、新生堂薬局がある。
海鼠壁の旧い蔵を使って一部今風に造られている感じがする。


有松の旧い家並みは、県道37号を横断しても続いていた。


唐子車(中町)の山車庫
ここ中町の山車庫には唐子車(からこしゃ)という山車が格納されている。
かつて祭礼に曳航された山車は、祭りが終わると山車庫に解体保管していたが、
現在は、上山を降ろした状態で収容・格納している。
唐子車は、天保年間(1830~44)に知多内海で造られたものを、明治八年(1875)に
中町が購入した。
昭和48年(1973)市の文化財に指定された。
(名古屋市教育委員会)


”名古屋市有松町並み保存地区”と書かれた標柱
この辺り一帯は町並み保存地区になっている。


竹田家住宅
市指定有形文化財(平成7年)
主屋一棟、書院棟一棟、茶席一棟、宝蔵一棟、一・二番倉一棟、縄倉一棟
附属棟(西門・長屋門・味噌蔵)三棟
当住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。
建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。
特に主屋は塗籠造、書院、茶席とも建築的にはたいへん優れている。
竹田家は、屋号を笹加と言う。
(名古屋市教育委員会)


有松の町並み


岡家住宅
市指定有形文化財(昭和62年)
主屋一棟、作業場一棟、東倉一棟、西倉一棟
当住宅は江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。
主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な
美しい外観を備えた塗籠造の建物である。(以下略)
(名古屋市教育委員会)


梅屋鶴壽の句碑
ありまつの 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の 立ちとまりけれ  梅屋鶴壽


名古屋第二環状自動車道下を通って、


名鉄名古屋本線の踏切を横断し、


鎌砥橋(かまとぎばし)を渡って少し進むと、


9時15分、AEON Max Valuがあったので、ここで一息入れることにした。


平部町常夜灯
東海道品川より四十番目の宿場町、鳴海宿の東の入口平部町に建てられたもの。
大きく華麗な常夜燈で、道中でも有数のものと云われ、往時の面影を偲ぶことができる。


表に「秋葉大権現」 左に「永代常夜燈」 右に「宿中為安全」 裏に「文化三丙寅正月」
の文字が刻まれている。
文化三年(1806)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と
火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した。
(名古屋市教育委員会)


鳴海宿の旧東海道を進む。


10時ちょうど、龍蟠山瑞泉寺に到着
禅(曹洞宗)大本山総持寺直末の寺院で、鳴海根古屋城主安原宗範が応永三年(1396)に
創建したと伝えられ、大徹禅師を開山とする。


山門は、宇治市の黄檗宗万福寺総門を模した中国風形式の門で、
県の有形文化財に指定されている。


法堂へは回廊で繋がっている。


瑞泉寺法堂


ご本尊にお参り
曹洞宗は、基本は一仏両祖(お釈迦様と道元禅師と瑩山禅師)となっており、
釈尊を本尊、道元を高祖、瑩山紹瑾を大祖としている。


瑞泉寺の鐘楼も立派な造りである。


旧街道を進む。


山車庫
旧東海道の本町交差点を西に70mほどの場所に根古屋山車庫がある。
その山車庫の前に鳴海宿本陣跡の説明板があった。
西へ向かう場合は、非常に分かりにくい。
気付かずに通り過ぎてしまったが、引き返して来て初めて気が付いた。


鳴海宿本陣跡
鳴海は、江戸時代東海道五十三次の宿駅の一つとして栄えた。
宿駅には、一般の旅人用の旅籠屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、
公的に宿泊する本陣が置かれた。
鳴海宿の本陣はここにあり、幕末の頃そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・
総畳数159畳であった。
なお、天宝十四年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人・旅籠68軒
(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。
また、予備の脇本陣は、2軒あった。
(名古屋市教育委員会)


旧東海道を進む。


住宅街の中を旧東海道は進む。


丹下町常夜燈
鳴海宿の西口丹下町に建てられた常夜灯である。
旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した
火防神として大切な存在であった。
平部常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。


旧東海道の道路は狭くて車も多く歩きにくかったが、地元の女性に直ぐ脇の歩道を勧められた。
歩道はとても歩き易く、何より安全だ。


鉾ノ木(ほこのき)貝塚
縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。
下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線文土器、上部貝層からは、
前期中ごろの羽状縄文、爪形文を施した平底の深鉢型土器を主体として出土しており、
上層土器の型式をとらえ「鉾ノ木式」と呼称されている。
野村三郎氏により発見された。
(名古屋市教育委員会)


説明板の横に小径があったので、貝塚があるのかと思い、坂道を上ってみた。


竹藪があり、坂道は続いていた。


さらに坂道を上って行ったが、貝塚らしきものは何もなかった。
畑で作業をしていたお婆さんに貝塚のことを尋ねると、道の入口にある説明板、とのこと。
何も坂道を上って来ることはなかったのだ。


細い坂道の入口に千鳥塚の標識に矢印が。
今度はこの坂道を上って行くに違いない。


坂道を上って行くと壁に俳句が刻まれていた。
星崎の 闇をみよとや 啼く千鳥 芭蕉
近くで作業をしていた人に尋ねると、この上の丘に塚があると言う。


石段を上って行くと、


古木の根元に千鳥塚と書かれた石碑があった。
この碑は、貞享四年(1687)11月、寺島安信宅での歌仙「星崎の闇をみよとや啼く千鳥」の巻が、
満尾(終わりになること)した記念に建てたもので、文字は芭蕉の筆、裏面には連衆の名、
側面に興行の年月が刻んである。
これは、芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚であり、俳文学史上稀有の遺跡といってよい。
昭和52年名古屋市史跡に指定された。
(名古屋市教育委員会)


塚の少し先の小高い所に、広場があった。


広場から見下ろした景色は実に気持ちが良かった。


旧東海道(県道222号)を進む。


旧東海道(県道222号)を進むと、天白川があった。


天白川に架かる天白橋を渡る。


天白橋を渡ってしばらく進むと、


道路分岐点にこんもりとした塚があった。


笠寺一里塚だ。
笠寺一里塚は、江戸から88里の処にあり、名古屋市内を通る旧東海道に残る唯一の一里塚で、


東側の塚だけが現存している。


11時37分、天林山笠覆寺(りゅうふくじ)に到着した。


笠覆寺の仁王門は、実に堂々とした構えである。


仁王像(阿像)


手洗い専用の建物だが、このような大きな建物は今まで見たことがない。


手を洗い清め、お地蔵様にたっぷりと水をかけてあげた。


笠覆寺の本堂へ。
本堂も実に大きい。
笠覆寺は天林山と号し、真言宗の寺院である。
俗に笠寺観音の名で知られ、尾張四観音の一つである。


ご本尊には十一面観世音を安置する。


境内には、笠寺善光寺堂、


千鳥塚芭蕉と刻まれた石柱や宮本武蔵之碑、
(剣豪宮本武蔵は各地を回りながら修行を重ねたと言われているが、尾張城下の笠寺にある東光院を
宿坊にしていたと伝えられている。顕彰碑は、武蔵の弟子のご子孫によって建立された、そうだ)


笠寺薬師堂などがある。


多宝塔は江戸時代初期の正保年中(1644~47)に建てられ、銅板葺、一辺4.83mの塔である。
内部に阿弥陀如来像を安置する。


多宝塔の前に徳川家康公幼少之砌(みぎり) 人質交換之地と書かれた碑が建つ。
風雲時を告げる戦国の世は天文十六年(1547)、敵対する尾張の織田氏と駿河の今川氏との間にある
三河の松平氏は今川方に援護を頼むため六才の竹千代(のちの徳川家康)を人質として差出すも、
護送中に竹千代は織田方の手に落ちた。
天文十八年(1549)、安祥城を陥落し、織田信広(信長の異母兄)を捕えた今川方は、織田方に
信広と竹千代との人質交換を持ち掛け、ここ笠寺観音に於いて両者の交換が成立した。


正門傍に六地蔵が安置されている。
六地蔵は普通6体のお地蔵さんだが、このように一柱に六面彫ってあるのは珍しい。
東海地方では笠寺観音を入れて4ヶ所ほど、らしい。


笠覆寺を後にして、


旧街道を進む。


12時7分、街道筋に手打ちうどんの「ゆたかや」という店があった。
お腹も空いてきたので、うどんを食べていくことにした。


スキヤキうどん定食(820円)を注文
なかなか美味かった。


名鉄の踏切を渡り、


旧東海道を進む。


13時3分、清水稲荷大明神を通過し、


旧東海道を進む。


村社熊野三社前を通過


山崎の長坂と刻まれた石柱を通過
少し下りの坂道になっているが、かつてはけっこう急坂だったのだろう。
裏に山崎城址・安泰寺と刻まれていたところをみると追分(分岐点)のようだ。


山崎川に架かる山崎橋を渡ると、


旧東海道は左に曲がっていた。


松田橋交差点の歩道陸橋で、国道1号と名古屋高速3号大高線を横断。


旧東海道を進むと、


JR東海道本線の踏切があった。
ちょうど電車が通過するところだった。


踏切の手前にお地蔵さんがぽつんと佇んでいた。


旧東海道を進む。


新堀川を渡る。


名鉄常滑線の線路を潜って進むと、


姥堂の前に裁断橋址の碑があった。
裁断橋は、宮宿の東の外れを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。
天正十八年(1590)に18歳になる息子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために
母親は橋の架け替えを行った。
33回忌にあたり、再び架け替えを志したが、それも果たさず亡くなり、養子が母の意思を継いで
元和八年(1622)に完成させた。
この橋の擬宝珠(ぎぼし)に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、
この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。
擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。
(名古屋市教育委員会)


姥堂
延文三年(1358)9月、法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に
創建したと伝える。
本尊姥像は熱田神宮に在ったものを、ここに移したと伝えられ、姥像の衣紋に熱田神宮の
桐竹の紋が金で描かれてあった。
旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で存在は早くから知られており、尾張名所図会にも
登載されている。
昭和二十年(1945)3月の戦災で堂宇本尊ともに消失したが、姥像は高さ八尺の座像で、
その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。
尊容から奪衣婆と見る説もあるが、両手に童顔の御像を捧持していること、
熱田神宮伝来などから日本武尊の母か宮簀媛命の像ではないかとも想定されている。
昔から民間では安産や子育て・家内安全の仏として信仰され「おんばこさん」と呼ばれ
親しまれてきた。
現在の本尊は平成五年五月に焼失前の写真を元に四尺の大きさで復元した御像である。


都都逸発祥之地の碑も建つ。


住宅街の中に建つ鈴之御前社前を通り過ぎると、


中央分離帯がある広い道路(県道225号)に突き当たった。
歩道のある交差点まで行って横断することに。


国道1号の交差点で道路(県道225号)を横断して進む。
この道で間違いないと思ってはいたが、電柱に”旧東海道”の文字が見えた時は
何とも嬉しかった。


道路突き当たり右手に道標があった。
ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点であり、
重要な地点であった。
この道標は、建立当時(1790)より三叉路東南隅にあったが、平成27年に現在の地に移設した。


道標の四面には、次のように刻まれている。
  北 さやつしま(佐屋津島)
東             道
  同 みのち(美濃路)
南 寛政二庚戌年(かのえいぬ)
  東 江戸かいとう(街道)
西
  北 なこやきそ道(名古屋木曽)
  南 京いせ七里の渡し(伊勢)
北             道
  是より北あつた御本社貳丁(にちょう)

この三叉路の北東隅には、これより32年前(宝暦八年)に建立された道標があった。
標示は”京いせ七里の渡し”以外はこれと同じである。
戦災で破損したが復元され、10mほど東側にある。
(名古屋市教育委員会)


ほうろく地蔵
「尾張名所図会」によれば、この石地蔵は、もと三河国重原村(現知立市)にあったが、
野原の中に倒れ捨石のようになっていた。
三河より焙烙(ほうろく)を売りに尾張に来る者が、荷物の片方の重しとしてこの石仏を
運んできて、ここで焙烙を売りつくした後、海辺の葦原に捨てて帰った。
地元の人がこの石仏を発見し、土中に埋まっていた台座と思われる角石に置いた。


横断陸橋で国道247号を横断し、


宮の渡し公園へ。


14時18分、宮の渡し公園に到着


七里の渡し
江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」
の船着場としても栄えていた。
寛永二年(1625)建立の常夜灯は、旅する舟の貴重な目標であった。
現在は復元されて往時の名残を留めている。
安藤広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、
当時の舟の発着の様子を知ることができる。


熱田湊常夜灯
常夜灯は寛永二年(1625)、藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて、
須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。
その後、風害で破損したために、承応三年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に
管理が委ねられた。
寛政三年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬政典によって再建されたが、
その後荒廃していたものを昭和30年に復元した。
(名古屋市教育委員会)


浜の風景


七里の渡し時の鐘
延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により、蔵福寺に時の鐘が設置された。
正確な時刻を知らせるこの鐘は、熱田の住民や東海道を旅する人々にとって
重要な役割を果たしていた。
昭和20年の戦災で鐘楼は焼失したが、昭和58年、市民の声に応えて「宮の渡し公園」内に
復元された。


七里の渡し舟着場跡
この地は宮(熱田)の神戸(ごうど)の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。


この日のゴールである宮の渡しに無事到着出来た。
朝早く出発したこともあり、少し時間があるので、熱田神宮へ参拝して帰ることにした。
国道247号を熱田神宮方面へ向かった。


右手に熱田神宮の森を見ながら進むと、


14時43分、熱田神宮の西門に到着した。


第二鳥居、第三鳥居と進んで、


熱田神宮本宮に参拝した。


参拝後、再び第三鳥居、第二鳥居を潜り、東門を出て、


JR熱田神宮駅へ向かった。
途中の商店街は、シャッターが降りている店が多く、どこか寂しい感じがした。
名鉄の駅へ向かう人の方が多いということなのだろう。


名古屋駅から新幹線「こだま号」に乗車し、帰路に就いた。


第Ⅲステージ第4回目(池鯉鮒宿~宮宿)の2日目(鳴海宿から宮宿)を歩き終わった。
次回からは、いよいよ桑名宿から京都三条大橋を目指すことになる。

この日の万歩計は、31,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第4回 池鯉鮒宿~宮宿(1日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第4回 池鯉鮒宿~宮宿(1日目)

2018年10月08日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年10月8日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第4回(1日目)は、池鯉鮒宿(名鉄牛田駅)~鳴海宿(名鉄前後駅)である。

荒川沖駅5時28分発の電車に乗り、東京駅には、6時36分に到着。
東京駅の「膳まい」で駅弁を買い、


東京駅6時56分発の新大阪行「こだま633号」に乗車。


この日は富士山は全く見えなかったが、掛川城はよく見えた。


9時27分、三河安城駅に到着。
のぞみ号の通過を待って、9時32分発となっている。


三河安城駅から普通電車に乗り換えJR刈谷駅へ向かう。


JR刈谷駅から名鉄碧南線に乗り換え、知立駅へ。
知立駅で名鉄本線に乗り換え、


10時5分、この日のスタート地点牛田駅に到着した。
家を出てから約5時間かかったことになる。


牛田駅を出発し、国道1号を左折して、知立方面へ向かうと、
衣浦豊田道路が見えて来た。


衣浦豊田道路の横断陸橋で国道1号を跨ぐと、


ようやく旧東海道の池鯉鮒松並木の東の入口に到着した。


池鯉鮒(知立)松並木
この知立の松並木は、幅7m、約500mに渡り凡そ170本の松が植えられている。
側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。


馬の象が建てられていた。


馬市の句碑と万葉の歌碑


馬市の句碑
かきつばた 名に八ツ橋のなつかしく 蝶つばめ 馬市たてしあととめて
俳人麦人は、和田英作を尋ねてこの地を訪れたことがある。

万葉の歌碑
引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに
この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えられている。


松並木が終わると旧東海道は広い国道1号と合流する。


地下道で国道1号下を潜り、旧東海道へ。


トンネルを潜って出たところに東海道池鯉鮒宿の石柱が建っていた。


旧東海道を進む。


名鉄線の線路を渡って進むと、


10時56分、慈眼寺に到着した。
福聚山慈眼寺の由来は、江戸時代の初期に馬の供養の為に造られた御堂から始まっている。
その為、馬頭観世音菩薩を本尊とし、境内には馬塚がある。


古びた馬頭観世音菩薩の幟が立ち並ぶ。


寺院入口に建つ馬頭観世音菩薩及家畜市場と刻まれた石柱


馬市の跡
池鯉鮒の馬市は、広重の浮世絵「東海道五十三次」で「首夏馬市」と題して描かれている。
その昔、池鯉鮒宿は木綿の集散地で、馬が運搬に使われた関係で馬市が栄えたと云われている。
馬市は、毎年四月二十五日に始まり五月五日に終わった。
宿駅の東の野(松並木)には四・五百頭の馬が繋がれ、馬の値を決める所を”談合松”と言った。
明治になって慈眼寺境内に移り、昭和の初期までは馬が牛に変わったものの鯖市も兼ねられ、
賑わっていたが、昭和十八年を最後にその歴史を閉じた。
(知立市教育委員会)


馬市の跡を撮り終えたところで、突然次の写真が撮れなくなってしまった。
”管理ファイルに空きがありません”と表示され、シャッターが下りない。
しばらくカメラをいじってみたが、直ぐに復旧する気配がない。
『困った』 頭が真っ白になった。
撮影が出来ないとなると、旅を続ける意味がない。
知立駅まで行けば何とかなるかも・・・と思い、知立駅へ向かった。
(これ以降の写真は、カメラが直ってから撮ったもの)


駅前商店街に「ニワカメラ」の看板を見つけたので、すがる思いで店内へ入ってみた。
年配の店主が親切に応対してくれたが・・・
しかし、原因究明には至らなかった。


近くに電気店がないか尋ねると、800mほど先にエディオンという電気店があるという。
他の店はかなり離れており、エディオンが一番近い店、だそうだ。
親切にも地図まで画いてくれた。
(エイデンとあるのは、エディオンのこと)


地図を頼りに、名鉄碧南線・名鉄名古屋本線の踏切を渡り、エディオン電気店を目指した。


しばらく進むと、地図で示されたとおり、エディオン電気店があった。


店員に調べてもらうと、SDHCの空き容量がない状態、とのこと。
これまで撮った写真は全てPCに移し終え、空になったフォルダも削除した状態となっているが、
データは全て残ったまま満杯状態になっているため、次の写真が撮れない、のだと言う。
SDHCを取り替えれば使える状態になると言う。
最悪の場合は新品のカメラを買うことも考えていたので、SDHCだけで済むなら安いものである。
直ぐに新品のSDHCに入れ替えてもらい、きちんと撮れることを確認して、一安心。
16GBのSDHCが1個で締めて1,382円で済んだことになる。


慈眼寺本堂
再度慈眼寺まで戻り、撮影を再開した。
時計は既に12時50分を過ぎていた。
約2時間ほどのタイムロスである。


北向き地蔵
昔から霊験あらたかなお地蔵様として信仰されてきました、とある。
この写真を撮り終えた時点で、時計は既に12時54分を回っていた。


慈眼寺境内の地蔵堂


地蔵堂の地蔵(1)


地蔵堂の地蔵(2)
地蔵堂には他にも地蔵が安置されていたが、割愛する。


地蔵堂の横に百度石があった。


本堂前に東屋とベンチがあったので、ここで弁当タイムにする。


前回(7月9日)と同じ「米八」の弁当(「米八幕ノ内弁当」)だが、
よく見ると「黒酢チキン野菜弁当」とある。微妙に違っている。
値段も897円と前回(951円)よりも少し安い。
味も少し違った。(前回の方が美味しかった)


弁当も食べ終わり、慈眼寺を後にして、気持ちを新たに旧街道を進む。


常夜灯
旧東海道の名残なのだろう。


左手に古風豊かな呉服・帯の「ゑびすや」を左手に見ながら、


旧東海道は右側の細い道へと進む。


高層マンションの前に池鯉鮒宿問屋場之跡と書かれた石柱が建てられていた。


かつては、ここに池鯉鮒宿の問屋場があったのだろう。


問屋場之跡の先の交差点を渡った辺りが池鯉鮒宿脇本陣跡と思われるが、
石柱など何も見当たらない。


池鯉鮒宿本陣跡と思われる場所には山車蔵が建っていた。
池鯉鮒宿本陣跡の石柱を見つけることは出来なかった。


知立古城跡
知立城は、元来知立神社の神主永見氏の居館であった。
同氏の系譜を記した「永見氏家譜」には、平安時代末に後白河院の北面の武士として
保元・平治の乱に従軍した13代貞春の代にすでにその名が記され、29代貞英まで続いたが、
永禄三年(1560)の桶狭間の戦で落城した。


その後、天正年間に刈谷城主水野忠重が織田信長饗応のため約3,000坪の土地を整備した。
寛永年間には将軍上洛用にと増築も行われたが、元禄十二年(1699)の大地震により倒壊した。


知立古城跡の図


御殿址の碑


知立古城跡には、明治天皇御小休所跡の碑も建てられている。


了運寺前を通り、


知立1号地下横断歩道で、国道155号(豊田南BP)を潜る。


地下横断歩道入口に総持寺跡大銀杏の木(樹齢200余年)の説明板があったが、
近くにそれらしき銀杏の木は見当たらなかった。


地下横断歩道を潜って進むと、右手に延喜式内知立神社と刻まれた標柱があった。


標柱を右に曲がり、左右に秋葉常夜灯を見て、


参道を進むと、左手に土御前社と刻まれた石柱があった。
土御前社の参道は、花菖蒲の公園になっている。


13時54分、知立神社に到着
正面の多宝塔が目に入った。


現存する多宝塔は、永正六年(1509)重原城主山岡忠左衛門が再建した。
明治の神仏分離令の際には、祀られていた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除き瓦葺に変え、
「知立文庫」と名も替えて、取り壊しの難を逃れた。


知立神社本殿
社伝では、嘉祥三年(850)天台宗僧円仁が神宮寺を創立し、多宝塔を建立。
知立神社の別当寺となった。


知立神社に参拝


境内には親母神社や合祀殿・小山天神社の他


秋葉神社や


馬神社も祀られている。


知立神社参道のほぼ向かいに総持寺があった。


総持寺
この寺は大正十五年(1926)に再建されたもので、知立神社の別当寺であった。


徳川家康側室お万の方の誕生地でもある。


逢妻川(あいつまがわ)に架かる逢妻橋を渡る。


逢妻川


100mほど先で合流した国道1号をしばらく進むと、


一里山町と書かれた横断歩道橋があった。
今は面影がないものの、この辺りに一里塚があったと思われる。


旧東海道を進む。


旧い家を時々見かける。
どの家も立派な構えである。


乗蓮寺(じょうれんじ)
真宗大谷派の寺院で、江戸時代前期の草創とされる。


乗蓮寺本堂


親鸞聖人像


境内の椎は、樹齢850年と推定され、昭和33年には市天然記念物に指定されている。
昭和34年の伊勢湾台風で損害を受けたが、現在は樹勢を回復し、実もつき始めている。


しばらく国道1号を進む。


旧東海道を進むと、境橋と書かれた説明板があった。
慶長六年(1601)、東海道に伝馬制度が設けられ、程なく尾張と三河の立ち会いで橋が架けられた。
この橋は、中程より西は板橋、東は土橋で、多くの旅人の脚をとどめたが、度々の洪水に流された。
やがて、継ぎ橋は一続きの橋になり、明治になって欄干つきになった。


現在の境橋


境川


境橋を渡って直ぐ右に句碑があった。
うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん
狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文六年(1666)当時の境橋は、尾張側は木橋、
三州側は土橋の所謂継橋として有名であった。
詠み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正二位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸と称された。
(豊明市観光協会)


伊勢湾岸自動車道の高架下を通り、


少し進むと、電柱に阿野一里塚の案内表示を見付けた。
阿野一里塚は近そうだ。


15時55分、阿野一里塚に到着した。


阿野一里塚(左側)
慶長九年(1604)2月家康が、永井白元、本田光重に命じて街道の両側一里ごとに
築かせたもので、江戸日本橋から86番目の一里塚。
往時は東海道交通上の目安となっていたが、明治維新以降次第にその価値を失った。


道路向かい側にも一里塚があった。


阿野一里塚は、左右の塚が昔の姿のまま残る貴重な一里塚である。


県内の東海道には十八の一里塚があったが、現存するのは四カ所。
そのうち道の左右とも残っているのは、この塚と知立市のみである。
昭和十一年十二月に国指定史跡の指定を受けた、
(豊明市教育委員会)


16時7分、豊明小学校前を通過。
名鉄牛田駅を出発して、かれこれ6時間余歩いている。
この頃になり、かなり疲れが出てきた。
腰も痛く歩くのがしんどくなってきて、スピードも落ちてきた。


16時13分、名鉄前後駅前のパルネスに到着した。


少し時間は早いが、今日は前後駅までにして、明日はまた前後駅から歩くことにしよう。


ということで、少し休憩を摂った後、名鉄前後駅へ。


16時43分発の岐阜行きに乗車し、


17時7分、本笠寺駅に到着。
宿泊先は、本笠寺駅から徒歩10分ほどの所にある。


地下道を通って、駅の反対側へ。


この日の宿泊先「新月旅館」は、夕食・朝食なしのため、
途中のコンビニで飲み物と弁当を購入し、


17時37分、「新月旅館」に到着した。
辺りは既に薄暗くなっていた。


第Ⅲステージ第4回目(池鯉鮒宿~宮宿)の1日目(池鯉鮒宿から鳴海宿)を歩き終わった。
しかし、カメラの不調(SDHCの満杯状態)で2時間近いタイムロスとなり、予定していた
区間を大幅に短縮せざるを得なくなるというハプニングに見舞われた。
明日は、この日の続きを歩くことになるが、距離が長くなるため、無事目的地に着けるのか
不安が募る。

この日の万歩計は、29,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第4回 池鯉鮒宿~宮宿(2日目)

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引込線を常磐線と勘違い 旧水戸街道と戸定邸(松戸)

2018年10月05日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年10月5日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第18回(2018年第28回)、「旧水戸街道と戸定邸」を巡るウォーキングに参加した。

今回の例会は、当初は東京都港湾局が運航する視察船”新東京丸に乗って東京湾を視察する”
という企画だった。
2ヶ月前の申込み日(8月1日)午前9時から何度も電話したが繋がらず、20分後にようやく
繋がった時には、10月5日は既に満席状態となり、断念せざるを得なかったのである。
代替案として企画したのが、この日の「旧水戸街道と戸定邸」という次第。

荒川沖駅で8時19分発の常磐線上り電車を待つ。


”新東京丸に乗って東京湾を視察する”では希望者は30名を超えていたのだが・・・
この日の参加者は21名となった。
”千葉地方は午前中は雨模様”の天気予報が災いしたようだ。
電車は定刻どおり9時4分に松戸駅に到着
『あらぁ 久しぶり~っ』
『元気だった~ぁ?』
夏休み明け後、初めての参加という人も何人かいた。


松戸駅西口改札口を通り抜け、


松戸駅西口に出てみると霧のような雨が。
傘を差さないでという訳にはいかない感じだ。


9時23分、TKさんを先頭に松戸駅西口を出発!


松戸駅西口正面の道(県道38号)へ進み、


江戸川方面を目指す。


松戸市民劇場前を通過して、


旧水戸街道(流山街道)の松戸宿を進む。
旧水戸街道は、江戸と水戸を結ぶ脇往還で、松戸はその宿場だった。
江戸幕府の天領(直轄地)でもあった松戸宿は、舟運の中継地として栄えた。
江戸時代、銚子方面で採れた鮮魚は陸路で松戸に運ばれた後に、舟で江戸川を下り、
江戸に届けられた。


道路反対側に松戸探検隊ひみつ堂(観光案内所)を見ながら進み、
信号を右折して小さな路地のような通りを進む。


新坂川に突き当たったが、向こう岸に渡る橋は、新坂川の少し上流だった。
新坂川に沿って少し戻ることに。
旧水戸街道を右折する際に信号を一つ行き過ぎてしまっていたためだ。


新坂川
お世辞にもきれいとは言えない流れである。


新坂川に架かる堂の口橋を渡ると・・・


江戸川の土手に出た。


右側に江戸川の流れを眺めながら、川下へ進む。


この辺りに船問屋の歴代当主「青木源内」にちなむ木橋「源内橋」があるとのことだったが・・・
それらしき木橋や案内表示は見当たらなかった。


雨も降っていることだし、先へ進もう。


少し進むと戸定邸への案内表示があった。


本来はもう少し川下から北上するルートだったが、案内表示に従う形で、
ここから戸定邸方面を目指すことにした。
土手を下り、


江戸川の土手を後にした。


旧水戸街道を横断し、坂川に架かる橋を渡った所に松戸神社があった。


御手洗で手を洗い清め、


松戸神社にお参りだ。
松戸の総鎮守である松戸神社は、嘉永三年(1626)創建と伝わる。
ご祭神の日本武尊が東征の折、従者と待ち合わせた地に祠を建てたのが始まりという。


松戸神社の境内には、秋葉神社も祀られている。


境内には、立派な神楽殿も建つ。


御神水(龍神水)
神域より汲み出した清らかな御神水です。
謹んで御神徳をおうけ下さい、とある。


10時10分、松戸神社を後にして、


常磐線方面へ。


車は直進のまま常磐線の線路下を通れるようになっているが、人は通れない。


常磐線の線路脇に通行人用のトンネル入口があった。


トンネルを潜り、常磐線下を反対側へ。


常磐線の線路を潜って進むと、戸定歴史館の案内標識が。


10時3分、戸定が丘歴史公園に到着。
この頃には雨は止んで、傘なしでも歩くことができるようになった。
『雨が止んで良かったよねっ』


緩やかな「戸定みその坂」を上って行くと・・・


10時6分、戸定邸の門前に到着。
まだ時間が早いので、この先の浅間神社へお参りしてから見学することにした。


いったん戸定邸を後にして、門前を進み、浅間神社方面へ。


坂道の右手に常磐線の線路が見えた。


常磐線線路に沿って進む。


常磐線快速列車がゆっくりと走って行く。
『随分ゆっくりと走ってるわねぇ』
『何か事故でもあって遅れてるのかしら?』
(実はこのとき、車両基地の引込線の線路だということを知らなかった)


国道6号のトンネル手前を左に曲がり、
(よく考えれば常磐線が国道6号を潜る筈はないのだ)


国道6号に沿って進み、浅間神社を目指した。


地図からすると、そろそろ左手に浅間神社が見えて来ても良さそうなのだが・・・
先頭を歩いていた仲間が近くの人に道を訊ねると、浅間神社は引込線の線路を潜った先
ということを教えてもらった、とのこと。
(この時初めて今まで常磐線だとばかり思っていた線路が、実は車両基地の引込線だった
ということを知った次第)


常磐線だと思っていた線路まで戻ると、引込線脇にトンネル入口があった。


トンネルを抜けて右方面に進むと、


右手に浅間下こどもの遊び場という小さな公園があった。
『浅間下って 浅間神社が近いのかなっ?』


浅間下こどもの遊び場の先に池があった。
どうやら浅間神社の池らしい。


『浅間神社だよっ』


10時30分、道を間違えて右往左往したが、何とか無事に浅間神社に到着した。


『無事目的地に着けて良かったわね~っ』


一息入れた後、長い石段を上る。


石段の先に浅間神社の拝殿があった。


浅間神社に参拝を済ませることができてひと安堵だ。


浅間神社に参拝後、同じ石段を下り、


10時46分、戸定邸へ向かうことにした。
近道があるようだが、来た時と同じ道を戻ることにした。
『こっちの方が確実だよねっ』


引込線脇のトンネル入口から引込線方面を見ると、「松戸車両センター」と書かれた
看板が見えた。
これでようやく納得出来た。


引込線脇のトンネル入口を入り、


来た時とは逆に左に引込線の線路を見ながら戸定邸を目指した。


常磐線と引込線の分岐点(中間地)へ通じる高架橋だ。
『浅間神社へ行くには、この高架橋を渡らなければならなかったんだねっ』
『来るときは全然気がつかなかったよっ』


『ややこしいルートなんだねっ』


戸定邸へ向かう。


10時58分、戸定邸に到着した。
旧徳川家松戸戸定邸は、水戸徳川家の第11代藩主の徳川昭武(あきたけ)(1853~1910)が、
江戸川を臨む台地上に建てた住宅である。
徳川昭武は、水戸藩主斉昭の18男で、徳川15代将軍徳川慶喜の弟になる。


石段を上り、茅葺きの門を潜って戸定邸へ。
戸定邸の「戸定」とは地名に由来する名で、竣工は明治17年(1884)4月、とのこと。


戸定邸入口に到着
入園料は通常250円のところ、20名以上の団体割引で200円である。
ボランティアガイドの申し出があったので、お願いした。


表座敷棟
戸定邸の中心となる建物で、南側と西側が庭園に包まれ、皇室や華族家の大切なお客様を
迎える部屋と徳川昭武が暮す部屋(居間)がある。
(現地説明板)


表座敷棟
最上等の杉材とそれを活かす高い大工技術は、気品ある雰囲気を醸し出し、
華美な装飾を排して簡潔にまとめられた空間は、庭園との一体感をもたらしている。
(現地説明板)


徳川昭武が求めたくつろぎの空間がここに表現されている。
(現地説明板)


ボランティアガイドの方の説明に耳を傾ける。


こちらのレベルに合せて優しく説明してくれる心遣いが嬉しい。


表座敷の欄間
葵の紋が透かし彫りされている。


表座敷西側の窓から見た風景
この日は曇っていて全く見えなかったが、


2008年以前はこの写真のように富士山がはっきりと見えたそうだ。
富士山が見えるのは、寒い時期の午前11時頃までとのこと。


表座敷から見た庭園
後で庭に下りてみることにした。


中座敷棟(1)


中座敷棟(2)


中座敷棟の中庭


奥座敷棟の欄間
雀が飛ぶ様子が左から動画調に彫られている。


離座敷棟へ通じる廊下は、狭い。


離座敷棟


離座敷の窓から見た庭


湯殿


ここで来訪者のお付きの者が待機していた「使者の間」


窓の外に一つの株に三本の古樹が育った状態が見える。
(木の種類は聞き漏らした)


使者の間の欄間
福を招く生き物としてコウモリが彫られている。


使者の間から表座敷棟を見たところ。


玄関を上がった所に徳川慶喜が徳川昭武に宛てた電報の内容が展示されている。
ボランティアガイドの方の説明によると、”2日間 二番列車で訪れたいが 差し支えないか? 
返事を待っている、”という内容とのこと。
トクガワ ケイキは慶喜のことである。


葵紋付の長持と奥の「中庭」(中座敷棟前)に置かれていた鉢が内蔵に展示されていた。
長持は、高松宮喜久子妃殿下が徳川慶喜家から高松宮家に嫁ぐ際に整えた婚礼調度の一つ。
(現地説明板)


旧徳川昭武庭園
国指定重要文化財であり、2015年3月に国の名勝にも指定された由緒のある庭園である。
(現地説明板)


書院の床柱の前に座って眺めるための書院造庭園で、1884年から1887年までに
1度目の整備を終え、1890年までに2度の拡張が行われた。
(現地説明板)


表座敷棟の西にも芝生が広がる。
洋風技法による芝生面はわが国現存最古とのこと。
(現地説明板)


戸定邸の中は、戸定が丘歴史公園があり、市民のための広場として
無料で開放されている。
東屋では弁当を広げる人も。
『弁当も持込みOKなんだねっ』


広々として手入れが行き届いた芝生が美しい。
(東屋庭園)


東屋から西に望む江戸川と富士山も見所のひとつ。


東屋をバックに全員で記念撮影し、


東屋庭園を後にする。


『素敵な場所だったよねっ』


戸定邸の門を潜り、


12時2分、戸定邸を後にして、


松戸駅を目指す。


松戸駅へ


12時20分、松戸駅に到着
この日は、ここで解散となった。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


昼食は、早くて安いと評判の駅前のラーメン日高で摂り、帰路に就いた。


東京都港湾局が運航する視察船”新東京丸に乗って東京湾を視察する”という企画を
急遽”旧水戸街道と戸定邸”を巡るウォーキングに変更した例会が無事終了した。
車両基地への引込線を常磐線と勘違いして浅間神社の場所を間違うというハプニングも。

水戸徳川家の第11代藩主の徳川昭武が建てた戸定邸は、和洋折衷の庭園が素晴らしかった。
無料で開放されている戸定が丘歴史公園も、広々として芝生が美しかった。
時間があればまた訪れてみたい場所のひとつである。

この日の万歩計は、11,000歩を計測していた。

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