ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

カメラが壊れるハプニング 富谷観音ハイキング

2016年11月25日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年11月25日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28度第18回(2016年第29回)、「富谷観音」ハイキングに参加した。
2009年(平成21年)6月19日(金)以来となる。

乙戸沼公園を9時に出発し、第二集合場所の岩瀬駅裏駐車場には10時4分に到着。
駅裏駐車場は、車がいっぱい停まっていたが、当会の人はまだ誰も来ていなかった。
あと数台は停めることは出来そうだが・・・
停まっているのは、岩瀬駅からの通勤客の車なのだろうか?


以前は、岩瀬駅裏駐車場には殆ど車は見られなかったように思うが・・・
車での通勤客が増えたということだろうか?


集合時刻の10時30分までに直行したのは車3台で4人、
何とか駐車場に停めることが出来た。
結局この日の参加者は、17名となった。
近場にしては意外と少ない。前夜雪が降った影響かもしれない。


Oさんの号令で準備体操


『大きく深呼吸して~』


10時31分、いつものようにOさんを先頭に富谷観音(小山寺)を目指して出発!


女性陣が後に続く。
何故かこの日は男性陣の方が多い。
これは当会としては非常に珍しいことである。


水戸線の犬田踏切を渡り、


日比谷稲荷神社前を通過


市街地を進む。


桜川に架かる桜橋を渡る。


桜川
霞ヶ浦(土浦)に注ぐ桜川の上流である。
『ここはまだ川幅が狭いのねっ』


国道50号元岩瀬交差点に架かる横断陸橋へ。


横断陸橋から国道50号下館方面を望む。


中央部を歩いて横断陸橋を下る。
両端は前夜の雪が融けずに凍っており、滑って危険なためである。


富谷観音を目指す。


前方左手、山の中腹に青色の展望台が見えてきた。


虎丸橋を渡る。
「関東ふれあいの道」出発点の旧虎丸バス停が近い、そうだが、
今はバス路線はない、とのこと。


桜川の支流。川の名は分からない。


正面に富谷観音がある山が見えてきた。
右手は採石場だが、今でも石を切り出しているのだろうか?


右手に山桜で名高い高峯山を眺めながら進むと、


富谷観音の道標が見えてきた。


道標のように見えたが、”茨城百景 謡曲桜川の櫻 富谷観音”の碑だった。
富谷観音は、ここを右折しても行けるが、ここは真っ直ぐに進む。


富谷山を右手に見ながら進むと、


富谷観音へ一直線の参道に突き当たる。
そこを右折する。


旧家が立ち並ぶ参道を進む。


「関東ふれあいの道」の道標
富谷観音まで1.1Kmとある。


11時8分、富谷観音の麓に到着
富谷観音まであと1Kmである。


ここで一休みして行こう。
『おひとつどうぞっ』 『いただきまぁす』
いつも貰ってばかりで申し訳ない気持ちだ。


5分ほど休憩した後、11時13分、富谷観音を目指して出発!
富谷観音までは一直線の参道が続く。


富谷ゴム工場前を通過して、


11時20分、富谷観音(小山寺)の麓に到着した。


『この石段を上らなきゃならないのねっ』
車が通れる道への迂回路もあるが、ここは「ウォーキング同好会」としては、
上るしかないでしょ。


重要文化財指定の小山寺塔婆の碑


富谷山を含むこの地域は、自然公園特別地域に指定されており、
工作物の新築・改築・増築・土地形状変更・木竹の伐採・広告物の設置・
指定植物の採取などの行為は知事の許可が必要、とある。


11時23分、石段の上り開始。


皆さんも後に続く。
誰一人迂回路へ向かう人はいなかった。


途中、舗装道路に出たが、小山寺への道はその先の階段へと続いていた。


急斜面の階段を上って行くと、


再び舗装道路に出た。
しかし、これで終わりではなかった。
『まだ上に続いているんだぁ』


上に行くほど段差が高くなっている。
『きついねぇ この階段は』


11時36分、山門に到着した。
茨城県指定文化財(建造物)


仁王像(阿像)


仁王像(吽像)


仁王門から続く石段の脇に倶利迦羅竜王の石像がある。
不動明王の化神と云われて、当山の守護神であります。
この水は体護水または延命水ともいう。(案内板)


仁王門の先にはさらに急な石段が続いている。
この時上から鐘の音が響いてきた。
多分Mさんが撞いたに違いない。


11時42分、本堂に到着。
小山寺という名前だが、俗に富谷観音と呼ばれている。
本尊は十一面観世音で行基菩薩の作と云われている。
開運・安産・子育てに霊験がある。
茨城県指定文化財(建造物)


小山寺の大杉
存在感のある杉である。
桜川市指定文化財(天然記念物)


鐘楼
この日もMさんが一足先に撞いてしまっていた。
茨城県指定文化財(建造物)


木造釈迦涅槃像を納めている堂は、鍵が掛かっていた。
事前に連絡すれば、拝観させてもらえる、とあった。


三重塔
関東より北では最古とされている。
国重要文化財(旧国宝)


三重塔を後にして展望台へ向かう。


水神様を祀った井戸があった。
この水神様は、大古水又は体護水と云われ、古来より当山の飲水として
又仏事等に使われました。(小山寺)


小山寺の車出入口を後にして、


展望台を目指す。


坂道を上って行くと、


右手斜め上に青色の展望台が見えてきた。
今は青色だが、以前は赤色だったと記憶している。


坂道を上って行くと、


12時8分、展望台に到着した。


螺旋階段を上って行くと、


展望台の一番高い所に到着した。
何と、そこは真っ白な雪に覆われていた。
『いやぁ これは凄いねぇ』
『こんなに雪が積もっているとは思わなかったね~っ』
この時間にこれだけ積もっているということは、かなり降ったということである。


展望台からの眺望
加波山


筑波山


加波山と筑波山


『富士山は見えないけど今日の景色は最高っ!』


『岩瀬の街が一望だねっ』


右手に「ふれあい公園」が見える。
『あそこで弁当にしましょうっ』


展望台を後にして、「ふれあい公園」へ。


「ふれあい公園」へ向かう。


12時23分、「ふれあい公園」の東屋に到着


『さあこれから弁当』というまさにその時、


カメラを落としてしまった。コンクリートの上だった。
見た目には損傷など特になかったが、何とシャッターが下りないではないか。
しかもズームも効かなくなった。撮影が不可能になったのだ。オーマイゴッド!
この1枚がこの日最後の写真となってしまった。残念!

というわけで、今日のブログはここまでである。
写真がなければ、コメントのしようがないのである。無念!

この日の万歩計は、多分18,000歩は超えていたと想定している。
というのも、帰宅して万歩計を見たら、何と電池切れで、
全くカウントされていなかったのだ。残念!

カメラは壊れるわ、万歩計は電池切れになってるわで、
今日は全くついてないの一言。


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旧甲州街道を歩く 第八回 上野原宿から鳥沢宿へ

2016年11月23日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2016年10月23日(日)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第八回目は、上野原宿(JR上野原駅)から
鳥沢宿(JR鳥沢駅)までの約14Kmを歩いた。

東京駅の駅弁屋で


めいめいお好みの弁当を買い、


東京駅8時11分発の高尾行特別快速に乗車。
食べているのは、買ったばかりの”駅弁”ではもちろんなく、
それぞれが持参した朝食である。


終点の高尾で9時20分発の甲府行に乗り換え、


9時37分、スタート地の上野原駅に到着。


上野原駅では、「駅からハイキング」イベントが開催されており、
地図や時刻表などを無料で配布していたので、参考にもらった。


9時48分、前回の終点、疱瘡神社へ向かって出発!


この日の参加者は、またいつもの8名である。


疱瘡神社(塚場一里塚)を目指す。


右手に桂川を見ながら坂道を上る。


中央自動車道を跨ぎ、


10時10分、疱瘡神社(塚場一里塚)に到着。


前回参拝はしているが、あらためて旅の安全を祈願した。


疱瘡神社を後にして、上野原宿へ。


上野原市内を進む。
町を歩いていて、数軒の酒まんじゅう屋さんがあるのに気が付いた。
この日は、お茶タイムで皆さんに配るおやつを忘れたこともあり、
酒饅頭を買って分けることにした。


『甘さ控えめで美味しいねっ』
『酒まんじゅうは上野原の名物なのかねぇ』


自宅前を掃除していた人が、我々が甲州街道を歩いていることを知り、
近くに旧本陣の門があることを教えてくれた。
教えられた場所へ行ってみると、旧本陣の門だけが残されていた。


門の奥に現在の家があり、その門の表札には”旧本陣”とあった。


国道20号から旧甲州街道への分岐点を左に逸れ、


旧甲州街道を進む。


道標に従って進む。
このような道標は、初めて歩く者にとっては非常にありがたい。


国道20号を跨ぐ形で鶴川入口歩道橋を渡り、


旧甲州街道へ。
野田尻7Km、鳥沢15Kmと表示されている。
これから鳥沢まで15Kmというのはけっこう距離がある。
夕方までに鳥沢駅まで辿り着けるのだろうか?


旧街道から鶴川宿方向を見た景色。
『街道歩きらしくて、良い景色だねぇ』


旧街道を進む。


案内に従って旧街道(近道)を進む。


少しでも近道はありがたい。
案内があるので安心して歩ける。


鶴川に架かる鶴川橋を渡る。


鶴川橋から中央自動車道が見える。


鶴川橋を渡った右側に、”鶴川宿”と書かれた立派な石碑があった。
これより鶴川宿である。


鶴川宿の宿並は二町三十間と小さかったが、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠8軒があった、
そうである。
今はそれほど古い建物は残っているわけではないのだが、
こじんまりとしていて、どことなく”宿”の雰囲気が感じられる。


旧甲州街道の道標に従って進む。


街道は、左に分岐していた。


坂道を上る。


しばらく坂道が続く。
『けっこう堪える坂道だねぇ』


街道は、中央自動車道の脇道に繋がっていた。


中央自動車道に沿って進むと、左に跨ぐ形になっていた。
かつての街道を分断する形で中央自動車道が造られたのだ。


中央自動車道から数分進むと、11時34分、大椚(おおくぬぎ)一里塚に到着した。
大椚一里塚は江戸日本橋から19番目の一里塚である。
現在、その跡は残されていないが、鶴川宿から大椚集落に入る手前の
道の両側にあったことが江戸の絵図などに記されている、とのこと。


大椚一里塚で一休みしよう。


11時43分、大椚一里塚を後にする。


大椚の集落は、石垣で囲まれた家をあちこちで見掛けた。


整然と積まれた石垣が美しい。


「椚屋」の表札があった。
『大椚と関係がありそうだねっ』


大椚宿発祥の地と書かれた木柱があった。
大椚集落は、鶴川宿と野田尻宿の間に位置するが、
大椚宿に関する情報はWeb上には見当たらなかった。
右は、秋葉常夜灯と思われる。


大きな杉の木があった。
目通り約6m、根回り約10m、樹高約20mで、推定樹齢は約600年とある。


吾妻神社である。
境内に椚があったところから村名となった。
しかし、今は枯れてしまった。


拝殿に参拝して振り返ると、


一段下の境内では、地元の人たちが行儀よく昼食の真っ最中だった。
”歩け歩け大会に参加した人たち”とのことである。
時計を見ると11時57分を指していた。


境内には、千手観音堂もある。
弁当はもう少し先に適当な所があるだろう。


と言うことで、吾妻神社を後にした。
中央高速が見えてきた
談合坂SAまで1Kmの表示が見える。


中央自動車道の側道を進んで行くと、長峰砦跡の説明板があった。
この場所は、甲斐国と相模国との国境に当たり、ある時は甲斐の勢力によって、
またある時には関東勢の手によって、国境警備の役割をしていた、とのこと。


江戸時代になると、この場所を甲州街道が通過することになり、
当時に描かれた絵図には「城山」と描かれたりしている、そうだ。


さらに側道を進むと、


野田尻宿方面への案内標識があった。
中央自動車道を渡ることになるのだが・・・
女性陣から談合坂SAで昼食を摂りたいとの意見が上がっている。
地図を確認すると、甲州街道は、談合坂SA手前でいったん中央自動車道を渡るが、
談合坂SAを過ぎた辺りで再び中央自動車道を戻るルートとなっている。
その間の見どころとしては、犬嶋神社と西光寺があるが、
西光寺は談合坂SAから行けなくもなさそうだ。


ここは、野田尻宿をパスして直接談合坂SAへ向かうことにした。
「勘助本舗」ビルの前を通り、


道なりに進むが、談合坂SAに入れるような個所は見当たらない。
談合坂SAに入ることは出来るのだろうか、少々不安になってきた。


さらに進むと談合坂SAが右手下方に見えてきた。


そのまま進むと、入口があった。
ゲートで車の誘導を行っていた人に確認すると、ここから入れるとのこと。
『良かったぁ』と一安心。
入った所は、給油所の裏辺りで、トイレなども近い。


12時37分、談合坂SAに到着した


駐車場は、満車状態だ。
今日は勤労感謝の日で祝日、混んでいるのは仕方がない。


フードコーナーもかなり混んでいたが、何とか空席を見つけた。


中央自動車道のフードコーナーで駅弁(十日町のおいしいごはん弁当)
を食べるとは予想していなかった。


13時16分、弁当が終わり、談合坂SAを後にする。


右手の中央自動車道を潜って直ぐのところに、


西光寺があった。


赤いよだれかけを掛けたお地蔵さんがずらりと並んでいる光景は壮観だ。
子宝に恵まれるようにと参拝者が奉納したものである。


本堂にお参りを済ませ、


寺の右手を通っている旧甲州街道へ。
談合坂SAへ寄り道をしたが、ここで再び旧甲州街道に戻った。


しばらく緩やかな坂道を進み、


中央自動車道を渡る。
中央自動車道を渡るのは、これで何度目だろう。


中央自動車道を渡った所に道標がある。
右の犬目・鳥沢方面へ。


少し進むと、


13時33分、荻野一里塚の説明板があった。
日本橋から20里、20番目の一里塚で、甲斐国(山梨県)に入って3番目の一里塚になる。


一里塚説明板の後ろに階段があったので、何かあるのかと上ってみた。
しかし、周囲を見渡しても何も見つけることはできなかった。


萩野入口バス停前を通過。


中央自動車道に沿った道を進み、


中央自動車道を渡る。


中央自動車道を渡った先で、旧甲州街道は、右の細い道を上ることになる。


矢坪坂古戦場跡の説明板
長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に出る。
この矢坪と新田の坂を矢坪坂と言い、昔戦場となった所である。
(上野原教育委員会)


『銀杏がきれいに紅葉してるねっ』


銀杏の木


武甕槌(たけみかづちのみこと)を祀った武甕槌神社の鳥居前を通過すると、


旧甲州街道は、薄暗い林の中へと通じていた。


『随分細い道なんだねぇ』
人がすれ違うのがやっとという広さである。
しかも左側は、崖になっている。
柵がなければ、歩くのもままならない。


『昔の人はこんな狭い所を歩いたんだろうかねぇ』
信じられないと言った感じである。


また、暗い林の中へ通じていた。


14時3分、「座頭ころがし」の標識があった。


ここを盲人の一行が差しかかり、先行していた者の声を頼りに直進した盲人が
谷底に転落してしまったという場所である。


『ここから転げ落ちたんだぁ』
しげしげと崖下を見る。


「座頭ころがし」を後にして少し進むと、


住宅地に出た。
犬目のようだ。


大きな塀を構えた家があった。
米山家である。


門も立派である。まるで本陣のような構えである。


「旧甲州街道新田宿尾張の殿様定宿家」と書かれた札が掛かっていた。
甲州街道を利用したのは信州高遠の殿様だけだったが、名古屋から西の大名は、
行列の宿泊が他の大名の宿泊と重ならないよう、甲州街道も利用された。
米山家では、一時期尾張の殿様が泊る定宿だったことがあった。
犬目宿の本陣ではなく、脇宿である新田宿の米山家に泊った理由は、
この前の駐車場から富士山が良く見え、甲州街道で最も眺望が良いために
お殿様がお気に入りになり、定宿となったから、だそうだ。


道端に佇む念佛石経塔、庚申供養塔の碑


犬目宿のようだ。


まるでホテルのような建物は、石垣エンジニアリング社という、
高性能、高品質を必要とするコネクター端子の超精密金型製作(CAD/CAM)、
及び端子加工(高速自動プレス)に専門特化した会社だった。
『精密機器の会社だったのかぁ』


馬頭観世音碑は各地でよく見かけるが、牛頭観世音の石碑は初めて見た。


犬目の兵助の墓の標識
いったんは気付かずに通り過ぎてしまったが、Y子さんが、
『さっき見かけたよっ』と言うので、引き返した次第。
これでは、見落とす人も多いのではないだろうか?


犬目の兵助の墓
天保四年(1833)以来凶作が続き、同七年(1836)犬目の竹七と兵助が指導し、
一揆を起こした。
この騒動は国中に広がり、鎮圧後竹七は捕らえられ牢死した。
平助は逃げ切り、維新後奈良氏を名乗った。


14時31分、犬目宿の碑前に到着
正徳三年(1713)に犬目宿が構成された。
本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠15軒であった。
しかし、昭和45年の大火で宿の6割を焼失してしまう。
「この地極めて高き所にて、房総の海、富士の眺望奇絶たる所」と云われた。


犬目の兵助の生家
甲州一揆の首謀者兵助はこのとき40歳で、妻や幼児を残して参加したが、
一揆の首謀者は当然死罪になる。
家族に類が及ぶのを防ぐための「書置きの事」や、妻への「離縁状」などが、
この生家である「水田屋」に残されている。
説明板の裏は普通の民家となっており、車が停まっていた。


犬目バス停を通過


14時38分、宝勝寺前を通過
周囲が大分薄暗くなってきたので、それほど大きなお寺や神社でない所はパスすることに。
完全に暗くなる前に鳥沢駅に着きたい。


白馬不動尊の赤い鳥居があった。
ここを上ると本尊があるそうだが、ここもパスしよう。


白滝山不動明王


14時54分、恋塚一里塚に到着
日本橋から21里で21番目の一里塚である。
塚は直径12m、高さ5mの円丘で原形をよく残している。
『随分ポッコリしてるよねっ』


鳥沢駅を目指す。
『早く行かなくちゃ。まだ大分あるんでしょっ?』
女性陣は元気が良い。


山住神社の鳥居
階段を上ってみたが、小さな社があるだけだった。


道端の道標に旧甲州街道石畳の文字が読みとれる。


落ち葉に埋もれた山道を上って行くと、
細い緩やかな坂道に石が敷き詰められていた。
『これが、甲州街道の石畳かぁ』
距離は10m余ととても短い。箱根路の石畳とは比べものにならない。
『今日の最後の見ものだったねっ』


15時8分、大月市に入った。


鳥沢駅を目指す。


麓の民家が見えてきた。


鳥沢駅を目指す。


坂下橋を渡り、中野バス停付を通過。


中央自動車道が見えてきた


中央自動車道下を潜り、


15時44分、国道20号に合流した。
ゴールの鳥沢駅は間もなくだ。


国道20号を鳥沢駅へ向かう。


15時54分、この日のゴール鳥沢駅に到着した。


次の東京行は16時21分、少し時間があったので、
駅前の酒屋で缶ビールを買い、喉を潤した。


鳥沢駅のホームで電車を待っているところ。
辺りはかなり暗くなってきた。
『まぁ 明るいうちにゴール出来たから良しとしようっ』


東京行快速に乗車
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧甲州街道を歩く」第八回目(上野原宿~鳥沢宿間約14Km)を歩き終わった。
14Kmほどであったが、意外に時間がかかってしまった。
あちこち立寄りをしながらの「街道歩き」ということがその理由である。
今の時期、このくらいの距離が良いところと思われる。

次回(12月)は、鳥沢宿(鳥沢駅)から大月宿(大月駅)までを予定している。
どんな駅弁にしようか、今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。

今回のハプニングと言えば、
談合坂SAで昼食を摂ったことだが、誰も全く予想していなかった。
次回はどんなハプニングが待っているのだろう。

この日の万歩計は、32.000歩を超えていた。

ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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真田氏ゆかりの 岩櫃山ハイキング

2016年11月21日 | ウマさんの気ままなバスハイキング
2016年11月21日(月)

常南トラベル(株)が主催する日帰りバスの旅「岩櫃山ハイキング」に参加した。
常南トラベル(株)主催のバスハイクは、昨年6月8日の「高柴山ハイキング」以来、約1年5ヶ月ぶりである。

岩櫃山は、標高802mの岩山で吾妻八景を代表する景勝地の一つ。
それほど高い山ではないが、南側は約200mの絶壁となっていて、奇岩・怪岩が数多く、
山頂からは四方360度見渡せ、上毛三山(榛名・赤城・妙義)や浅間山、白根山、
谷川岳、日光白根山、男体山などを望め、晴れた日には遠く富士山も望める。

戦国時代には岩櫃城を中心に武田・上杉の攻防の舞台にもなった歴史ある名山である。
中腹には武田の三堅城の一つ、戦国・真田氏の拠点だった岩櫃城本丸があり、
北関東を代表する山城とされている。(常南交通案内文より)

荒川沖駅東で待っていると、朝6時を少し回った頃、
常南交通の大型バスがやって来た。
予定より8分ほど早いが、乗り遅れるような人はいない。


バスに乗り込むと、朝食弁当が配られた。
一昨日食べたばかりだが、今日も美味しくいただいた。


この後バスは、土浦駅東~千代田庁舎下6号バス停~石岡ロードパークを回り、
少し戻って千代田石岡ICから常磐道へ。
休憩場所は、最初は常磐道友部SA、次は関越道駒寄PAに立ち寄った。
駒寄PAで昼食の弁当を受取った後、岩櫃山へ向かった。
この日の参加者は、25名とのこと。
大型バスにしては、少し物足りない人数ではある。


10時12分、スタート地点の「コニファーいわびつ」に到着した。
「コニファーいわびつ」は、岩櫃山中腹にあるリゾートホテルで、
帰りに入浴することになっている。


リュックと入浴用具等を持ち、ホテル内へ。
ロビーを通り抜け、


入浴用具類などを纏めて、靴を履き替えたり、皆さん出発準備に余念がない。


リュックを持って駐車場まで戻ると、添乗員の号令で簡単な準備体操。


10時35分、足に自信のない人から順に2列縦隊で出発である!
我々「健康ウォーキング同好会」一行6名は、男性添乗員と一緒に
先頭を歩かせてもらうことにした。


自称健脚の人が後に続き、
女性添乗員が最後尾を務めるという隊列である。


10時49分、出発から15分ほどで岩櫃山登山口休憩所前を通過。
帰りに立ち寄って行くことにしよう。


10時50分、ここから「沢通り」を歩くことになる。
左は、中城跡を経由して岩櫃城本丸跡に向かう道になっている。
帰る際は、こちらから戻ることになる、そうだ。


しばらく男性添乗員が先頭を務める。
岩櫃山は今回が3回目だそうである。


次第に山道になってきた。
緩やかな坂道が続く。


先頭G


杉林の中を進む。
かなり汗をかいてきた。


11時1分、最初の休憩
上着を一枚脱いだり、水分を補給したり。
『いやぁ 思ったより暖かいね今日はっ』


この日は、「まゆみの会」会長のKさん(中央)も参加していた。
「関東ふれあいの道」(埼玉県)で一緒に歩いて以来である。


休憩後は、本格的な登山道が始まるということで、
足に自信のある人が先頭を務めることになった。
我々は、それほど足に自信があるわけではないので、
中間を歩くことにした。


道標には岩櫃山まで1Kmとある。
ここで言う岩櫃山は、山頂を指していると思われる。
時計は11時5分を指している。
この日の目的地は九合目なので、昼前には着くのではないか。


大きな石(岩)が道の両側に不規則に並んでいるが、
それほど歩き難いということではない。


次第に急斜面になってきた。
それでも先頭Gはペースが落ちない。さすが健脚家である。
こちらは次第に息が上がってきた。


自称足に自信のないGも後に続く。
次第に間隔が開いていく。


巨大な岩が現れ始めた。


岩の間を縫うように進む。


変化のあるハイキングコースで退屈する間などない。


急斜面の道が続く。
『これが、中級者向けなんだってねっ』


めいめい個人のペースで進む。
しばし立ち止まって呼吸を整える人の姿も・・・


11時23分、「櫃の口」に到着。


櫃の口で一休みして呼吸を整える。
ここから先は巨岩が続き、梯子や鎖場があるとのことだ。


道標には山頂まで0.7Kmとある。
かなり歩いたはずなのだが、まだ300mしか進んでいないことになる。


「櫃の口」から、梯子が始まった。
目の前には巨大な「天狗の蹴上げ岩」が聳える。


梯子を上ると、


11時28分、そこには「六合目」と刻まれた石があった。


2つ目の梯子を上り、狭い岩の間を抜け、


窮屈な岩の間をよじ登ると、


11時32分、「七合目」に到達した。


倒れた巨木の脇を通り、


急斜面を上って行くと・・・


目の前に大きな壁が立ちはだかっていた。


ここは、鎖を使って上らなければならない。


一人づつ慎重に上る。
『左側を登ってっ』
『鎖を股の間にした方が楽だよっ』
崖の上下からエールが送られる。


鎖場を上ったところは、八合目になっていた。
11時38分、九合目までもう一息だ。


九合目を目指し、最後の岩場を上る。


11時45分、添乗員が推奨した九合目に到着した。
一応目的地に到着と言うことになる。
九合目は岩だらけでそれほど広くはなかった。
一段高い所があったので、上ってみることに・・・


『ここは少し場所があるから、ここで弁当にしようかっ?』
回りは絶壁で少し怖いためか、他の人はここまであまり登って来ない。
周囲は霞んでいるが、一応360度見渡せる。


『あれが岩櫃山の山頂なんだっ』
雲で霞んでいてはっきりとは見えないが、何人かが垂直に近い岩を鎖を頼りに
山頂を目指していて、何人かが山頂の切立った巨大な岩の上にいた。
添乗員が、『今回はヘルメットがないので登らないように』と口を酸っぱくして
言っていたことに納得した。
しかし、バスの何人かは山頂(802m)を目指したようだ。


登頂を果たした数人が山頂で喚声を上げていた。
登り甲斐があることだろう。


遅れていたOさんが到着して我々の全員が揃った。
『まぁここが我々の山頂と言うことで我慢すっか』


『雨が降り出す前に弁当にしようっ』


この日の弁当
『晴れていれば最高だったんだけどね~っ』


弁当が終わった直後、Kさんがやって来た。
たった今山頂に登ってきたところだと言う。
『やっぱりねっ Kさんじゃないかと思ってたわっ』
弁当はまだらしい。


Kさんには悪いが、先に下山することにした。


九合目を後にする。


鎖場をひとりづつ慎重に下る。


『気を付けてっ』


巨岩の間を通り、


狭い岩の間を慎重に下りる。


梯子を下る。


雲の影響で岩が濡れているため、滑り易くなっている。
足を踏み外さないように慎重に下りる。


最後の梯子を下りてしまえば、一安心だ。


「尾根通り」への途中に上着の上に石を積み上げたケルンがあった。
もしかするとこの上着は遭難した人が着ていたものなのかなどと思ってしまう。


岩櫃城本丸跡(0.5Km)方面へ。


紅葉は既に終わっている。
間もなく全ての葉が散ってしまう季節を迎える。


「尾根通り」は、落ち葉がびっしりと積もっているので、
足元には充分な注意が必要である。


城址を示す標識があり、その先はかなり急な坂になっている。
雨が降ると濡れて滑り易くなるのでここも注意が必要だ。


12時43分、分岐を示す標識があった。
添乗員の指示に従って岩場を迂回する左の方へ。
岩場の道は、足場の狭い崖のような場所があるらしい。


迂回の道と岩場の道が合流した所に大きな岩が立っていた。
さざれ石のような岩である。注連縄が掛けられていた。


両側が谷になっている尾根道を進む。


周囲の視界は全く良くない。


後ろの方から聞き覚えのある声がすると思ったら、Kさんだった。
弁当を食べて後を追いかけて来たのだが、それにしても速い。
さすがかつての山男、その健脚ぶりには驚かされる。


真田丸の幟が現れた。


12時58分、岩櫃城本丸跡に到着。
岩櫃城は、築城時期や築城者は不明ながら、中世に築かれたとされる山城である。
25mx15mの建物の土台と思われる形跡があり、ここに岩櫃城の見張台と
指揮台を兼ねての中枢部があった考えられている。


堅堀と書かれた木柱があった。


本丸跡から見た堅堀
ジグザグになった構造をしている。
これを上って本丸を攻めるのは難しいと思われる。
甲斐の岩殿城、駿河の久能と並び、「武田の三堅城」と称されている。
真田信繁もこの城で過ごしたと云われている。


岩櫃山の全体を撮った幟が立っていた。
先ほど登ってきた九合目の岩や山頂はどれだろう?


12時59分、東屋の脇を通り、本丸跡から下山開始。


二の丸跡から本丸跡を見たところ。


二の丸跡を下り、中城跡へ。


中城跡へ向かう途中の右手には、殿邸がある、とのこと。
名前からすると居館があったと考えられる。


13時9分、中城跡を通過
中城跡は、登城口から一段高い場所にある削平部だ。
他の場所から推定するに、三の丸のような曲輪だったのではないだろうか。


中城跡を過ぎると、登山道入口の合流点が見えてきた。


13時12分、登山道入口合流点に到着。
『下りは意外と早かったねぇ』
本丸跡から13分しかかかっていない。


岩櫃山登山口休憩所
各種パンフレットをそろえ、岩櫃山周辺の観光案内を行っている。


登山口休憩所にあった岩櫃山の写真
やっぱり岩櫃山は凄い山だということが分かる。


登山口休憩所を後にして「コニファーいわびつ」を目指す。


午前中に通ったので、見覚えのある道だ。


13時27分、「コニファーいわびつ」入口に到着。
本丸跡からほぼ30分だ。


「コニファーいわびつ」の建物はこの上になる。
『最後の坂道がきついねっ』


これは、「真田丸」の模型だそうだ。
NHK-TVで放送されることになり、急ごしらえで造ったものらしい。


最後の階段を上ると、


もう一つ別の急階段があった。
『いやぁ もう勘弁して欲しいよな~』などとぼやきながらも・・・


13時34分、「コニファーいわびつ」に到着した。


纏めて置いておいた風呂用具を持って、


ひと風呂浴びよう。


ひと風呂浴びた後は、バスの出発までロビーで寛ぐことに。


『歩き終わって一風呂浴びた後のビールは格別だねぇ』


揃って『かんぱ~い』 『お疲れさま~っ』


バスの中でも盛り上がったことは言うまでもない。
(ただし、周囲に迷惑となるような行動はとっておりませんのでご安心を)


北関東道波志江PAに着く頃には、ポツポツと雨が降りだした。


常磐道友部SAでは、一時大雨になり、バスから自宅まで自転車と言う人もいて、
どうなることかと心配したが、土浦に着く頃には雨はすっかり止んでいた。
幸運だったと言っても良いだろう。

『今日は、大変お疲れさまでしたぁ』

NHK大河ドラマ「真田丸」で一躍有名になった、「岩櫃山」に登ることができた。
切立った絶壁の岩登りは危険と言うことで、九合目までの登頂に終ったが、
変化のあるコースで充分に楽しめた。

ドラマでは、最初の頃は岩櫃城についても少し触れていたが、実際に自分の目で見て、
難攻不落の堅城だったということが理解できた。

天気がもう少し良くて、360度の景色を見ることが出来ていれば最高だったと思う。

久しぶりの参加だったが、これからも機会があれば参加しようと思う。
常南交通社の今後の企画に期待したい。


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富士山がばっちり 十国峠から岩戸山ハイキング

2016年11月18日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年11月18日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第25回(2016年第36回)、「十国峠から岩戸山」ハイキングに参加した。
今回の「十国峠から岩戸山」ハイキングは、当会としては初めての企画である。


早朝の6時20分、土浦三中公民館前でバスの到着を待っているところ。


6時22分にバスが到着し乗り込むが、2名が不参加と判明。
1名は突然の発熱でダウン、もう1名は、目覚ましの設定を誤ったために
集合時刻に間に合わなかったとのこと。


結局この日の参加者は、26名となった。


いつもの朝食弁当を食べ終わる頃、


6時52分、守谷SAに到着
最初の休憩を摂り、守谷SAを7時5分に出発したが・・・


首都高手前で渋滞に巻き込まれた。
この渋滞は、何時ものことらしいが・・・
この日は、外環道・東北道・圏央道へと迂回するわけにもいかないので
首都高を抜けるまで我慢するしかない。


首都高6号堤通り付近ではいったんスムースになったものの・・・


神田橋辺りでは再び渋滞である。


9時前にようやく渋滞の首都高を抜けることが出来た。
海老名SAで2度目の休憩を摂り、バスは東名・小田原厚木道路を走り、


箱根峠を越え、10時25分、十国峠レストハウス前に到着した。
三中公民館を出発して4時間を要したことになる。


10時35分発のケーブルカーに乗り込み、


山頂に向かう。
通常片道360円のところ、9名以上の団体割引きで330円だ。


下りのケーブルカーとすれ違う。


約3分で山頂駅に到着し、早速記念撮影である。
十国峠の名前は、伊豆・駿河・遠江・甲斐・信濃・相模・武蔵・上総・下総・安房の
十の国がここから見渡せたことに由来する。
しかし、十国どころか富士山も雲に隠れて全く見えない。残念!


記念撮影を終わり、三脚をしまい込んだ直後、突然富士山が姿を現し始めた。
『あらぁ~ 富士山が頭を出した~っ』 『うれしいっ 最高っ』
周りから歓声が上がる。


記念撮影を”もう一回”とも思ったが、諦めた。
この距離で富士山がはっきりと映るかは分からないからだ。
記念写真は、これで我慢してもらおう。
せめてもの写真と思い撮ったのが、この一枚。
こうやって見ると、やはり富士山の雄姿はちょっと小さい。


これから向かう岩戸山の後方に真鶴半島が見える。


めいめい個人で富士山などをバックに記念撮影を済ませ、
10時52分、Oさんを先頭に岩戸山を目指して出発!


お願い地蔵
平成18年「十国峠ケーブルカー開業50周年」を記念し、また、この地を訪れた人の
「旅の安全と交通災害ゼロ」を祈願して、平成19年にこの地蔵を建立した、とのこと。


岩戸山を目指す。


十国峠ケーブルカー山頂駅の建物を後にして、


草原のような景色の中を進む。


富士山と十国峠ケーブルカー山頂駅


源実朝の歌碑
実朝は、箱根権現に参詣するため、この道を何度も歩いた、そうだ。


右大臣実朝の歌碑
「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」


岩戸山を目指す。
しばらく簡易舗装の下りの道が続く。


東光寺への途中、所々に石仏が見られる。


石仏


日金の伝三仙人塚
この奥50mに日金山・東光寺の開祖創を伝える松葉仙人・木生仙人・金地仙人を供養する
宝篋印塔の三基が建つ三仙人塚がある、とのこと。


その分岐点を過ぎて下ると、


11時7分、日金山東光寺に到着した。
東光寺は、3世紀の開山と伝わる古刹で、本尊の延命地蔵は江戸時代前期の作と伝わる。


日金山東光寺の由来
応神天皇二年(271)伊豆山の浜辺に、光る不思議な鏡が現れた。
鏡は波間を飛び交っていたが、やがて、西の峰にとんで行った。
その様子は日輪のようで、峰は火を吹き上げているように見えたので、
日が峰と呼ばれ、やがて日金山と呼ぶようになった。
同四年(273)松葉仙人が、この光る不思議な鏡を崇め、
小さな祠を建てて祀ったのが、開山と伝えられている。


本堂の写真を撮っていると、鐘の音が・・・
Mさんが撞き終わった後だった。
またも先を越されてしまった。


東光寺を後にして、岩戸山を目指す。


笹が茂る細い山道を進む。


道が分岐しており、右に「石仏の道」が続く。
日金山東光寺から麓まで40町(約2.7Km)の間に1町毎に石仏が置かれている。


左湯河原温泉、右熱海伊豆山と刻まれている。
右の石仏の道を進む。


末代上人宝篋印塔
伊豆走湯山の住僧末代上人(富士上人)は富士山に数百回登って修行し、
山頂に大日寺を建立、富士山の山岳信仰を定着させた人だそうだ。
この宝篋印塔は、伊豆山神社の別当坊「般若院」の第九代住職周道が
末代上人一千年遠忌として建立したものだそうだ。


さらに細い道を進むと、


11時19分、「石仏の道」分岐に出た。
草原のようでススキがきれいだ。


分岐点に石仏があった。
三十五町目と刻まれている。


ここを左に分岐して岩戸山へ向かう。


道標に従って進む。


樹木の隙間から見える雪を被った富士山が美しい。


分岐から22分、”岩戸山山頂近道”の標識があった。


上りは岩戸山近道の方から、戻る時は、右の方から戻って来ることにしよう。


近道は急な上りはあったが、それほどきつくはない。


11時47分、近道の表示から5分ほどで岩戸山山頂(734m)に到着した。


眼下には熱海港が見える。
あいにく後方は雑木が生い茂っていて富士山は見えない。


山頂はとても狭く、ベンチと一つのテーブルがあるだけだった。
ここで、26名揃って弁当は狭すぎる。


11時52分、岩戸山山頂での弁当は我慢して、分岐したススキヶ原まで戻ることにした。
戻りは、上って来た道とは反対の方角を選択した。


反対側の道は、近道よりちょっとだけ遠回りだろうと思っていたのが大間違いだった。
最初は、道もはっきりとしていたのだが・・・


そのうち生い茂った草で足元は全く見えない状態になってしまった。
しかも丸太の階段になっているので、踏み外しそうになる。
次第に先頭Gと最後尾Gは次第に離れてしまい、
互いに大声を出して確認しながらの下山となった。


最近人が歩いたというような形跡は感じられなかった。
『階段を踏み外しそうで怖いわねっ』


道標があった。
日金山東光寺・姫が沢公園方面を指していたので間違いではなさそうだ。


細い笹竹に囲まれた道が続く。


『今どの辺を歩いてるんだろうねっ』


ようやく視界が開けたが、どっちの方角に向かっているのか分からない。


12時9分、一休みしている先頭Gに追い着いた。
何となく見覚えのある場所のようだが・・・


『いぇ~いっ やっと着いた~っ』


12時13分、少し遅れて後続G全員が到着した。
左岩戸山近道とあることから、先ほど上ってきた分岐点である。
近道は5分とかからなかったが、こちらの道は、20分もかかったことになる。
『近道を戻れば良かったんだねっ』 後の祭である。


あらためて、分岐点のススキヶ原を目指した。


途中、木々の隙間から富士山を眺めながら、


さきほど歩いた細い道を戻る。


『もう直ぐ分岐点だよねっ』


12時31分、分岐点に到着した。


『ようやく弁当が食べられるのよねっ』


弁当に適した場所を求めて、もう少し先へ。


三十四町目の石仏を過ぎ、


『この辺で良いんじゃないのっ』


初島と熱海の港が見える場所があった。
『ここで弁当にしようっ!』


『天気も良いし、最高だねっ』


ハイキングコースを塞ぐような形で弁当にしたが、
幸いなことに誰一人通る人はいなかった。


この日の弁当は、鶏の照り焼きだ。
なかなか好評だった。


弁当も終わり、後はゴールの来宮駅を目指すだけである。


13時5分、下山開始


ところどころに段差があるので、注意が必要である。


波静かな相模湾を見ながらのハイキングは、爽快である。
『初島が見えるねっ』


石仏とxx町目と刻まれた石が歩く距離の目安になる。
『ところでここは何丁目っ?』


気温はそれほど高くはないが、急な下りの連続に、けっこう汗をかく。


13時16分、三十町目を通過


『ここは二十八町目だねっ』


石仏や石の他に、町目の中ほどに板の道標もある。


13時32分、二十一町目を通過


二十町目を過ぎた辺りから道は雑木林の中へ。


林の中を15分ほど下ると、


13時50分、舗装された道路に出た時は、十三町目になっていた。


道路を左方向へ進むと、


右方向へ分岐していた。


舗装道路の端に石仏の道らしき細い道があった。
どちらを選択するか迷った。


近くにいた地元の人に来宮駅への道を訊ねると、どちらも行けるとのこと。


ここはやはりハイキングコースを進むべきと判断し、石仏の道を進むことにした。
時刻は間もなく14時になろうとしていた。


この道で良かったのだろうかと思っていた矢先、石仏の道の標識が現れた。
標識を見て何故かほっとした。


来宮駅を目指す。


七町目の石仏
『ところで、一町目はどこになるんだろうねっ?』
『来宮駅まで続いてるのかねぇ?』


『次は六町目だねっ』


さらに下ると、笹良ヶ台の団地に出た。
『ここを下って行けば来宮駅には着けるんじゃないのっ』
急坂の道路を進むと、


団地内の道路の端に四町目の標識があった。
『この道で間違いなかったってことだよねっ』


まだまだ下りの道は続く。


石仏の道の終点(起点)を示す看板があった。
『ここが終点ってことなのっ?』
『来宮駅までまだ大分あるみたいだねっ』


ここから先は石仏も石もないことになるが、このまま下って行くしかない。
そのうち来宮駅に着くだろう。


高級そうな旅館がちらほら・・・
『何となく高そうねっ』


14時31分、第一小学校前を通過。


湯気が立ち上っている。源泉のようだ。
『家のすぐ傍に源泉があるなんて羨ましいねぇ』


線路の手前左側に来宮神社の鳥居があった。
せっかくだから来宮神社に参拝して帰ることにしよう。
来宮駅で待機しているバスの運転手さんにその旨を伝え、


御手洗で手を洗い清め、


拝殿に参拝しようとしたまさにその時、携帯電話がなった。
会員の一人が体調が優れず途中で動けなくなった、とのこと。
まだ最後のGが到着していなかったことに気が付かなかったのは迂闊だった。


来宮駅で待機していたバスに連絡して、来宮神社へ迎えに来てもらうことにした。
5分ほどでバスは到着したが、駐車場が狭く、切り返しが出来ずに難儀させてしまった。
少し上の駐車場入口でUターンして、無事全員が乗り込んだ時には拍手が起きた。
『さすがプロだねっ』


バスは、熱海市内を抜けると、熱海ビーチライン・真鶴ブルーラインを快適に走った。
『海岸線を走るのってロマンチックねっ』


西湘バイパスから小田原城を右手に見ながら、小田原厚木道路へ。


16寺19分、海老名SAではゆったりと休憩を摂った。


東名を走る頃には後ろの席はかなり盛り上がっていた。
後ほど同席させてもらうことにしよう。


18時54分、守谷SAに到着


バスの中は、この日の出来事を思い返すかのように満足の笑顔に満ちていた。


『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


初の「十国峠から岩戸山」ハイキングだったが、天気に恵まれ、秋の一日を楽しんだ。
記念撮影の直後だったが、山頂に雪を被った富士山の雄姿を見ることができ、
この日最大の目的が達せられたのは幸運だったと言える。

ゴールが突如来宮駅から来宮神社に変わり、運転手さんもびっくりしたと思うが、
快く対応していただき感謝している。
紙面を通じてお礼を申し上げたい。

往復に要する時間が気になるところだが、箱根・熱海・伊豆方面の見どころは多い。
今後も季節に応じて、適切な場所を企画していきたいと思っている。

この日の万歩計は、18,000歩を少し超えていた。

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旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第3回 興津宿~府中宿

2016年11月06日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2016年11月6日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージ第3回目は、興津宿(JR興津駅)~府中宿(JR静岡駅)を歩いた。

東京駅で駅弁を買って行こう。


7時前という時間だが、大勢の人が駅弁を求めて、店内は混雑していた。


7時3分発の岡山行「ひかり461号」に乗り込む。


この日は新幹線から富士山を見ることができた。
(新富士辺り)


静岡駅には定刻の8時5分に到着。
東海道線上り8時22分発の興津行は、日曜日ということもあって、空いていた。


8時40分、この日の出発地興津駅に到着


8時44分、府中宿(静岡駅)を目指し、興津駅を出発!
国道1号を西へ向かう。


興津駅を出発して少し進んだところに理源寺があった。


理源寺の開山は、身延山久遠寺26世知見院日暹。
江戸時代初期、疫病で多数の死者が出た。
寺の裏を沢端川が流れ、その向こうに七面山という山がある。
村の代表者が身延の七面山を信仰して厄を逃れたという縁故から、
沢端川を身延七面山の春木川になぞらえ、身延の地形に合わせて
この寺が建立された、とのこと。


境内には日蓮上人像や、


日蓮上人像の近くに目の神様「意眼さん」を祀った祠がある。
法号「覚智院意眼日明尊位」は、若狭の国宮津城主の子で盲人。
身延山日朝上人の許に参詣の折にこの地にて死す。
29歳、短い一生であったが、目の不自由な人々のために尽くす。
「日朝さん」 「意眼さん」として尊敬される。


理源寺の少し先に興津宿公園があった。
小さな公園で興津宿の案内板などがあった。
興津宿は、東海道五十三次のうち、日本橋から17番目の宿場として栄え、
興津郷と称されていた。
地名のいわれは、「宗像神社」の興津宮をこの地に勧請したことに由来する、とのこと。


興津宿東本陣跡
興津宿には本陣が2軒あった。
東本陣は、教敬山耀海寺を開いた市川法清を祖にもつ市川家が勤めた。
延宝八年(1680)興津宿の大火では、自分のところも焼けたというのに
300両以上の大金を宿の人々に無利息で融通したという。


水口屋
江戸時代、水口屋は興津宿の脇本陣であり、明治以降は西園寺公望や伊藤博文など、
日本の政治経済の大物たちが数多く宿泊した。


塀越しに中を覗くと興津宿脇本陣水口屋跡の石碑があった。


興津宿西本陣跡
興津宿には本陣が2軒あり、西本陣は手塚家が務めた。
寛永十二年(1635)から明治三年(1870)まで東本陣の市川家と月番で営んでいた。


シャッターにイチローの手書きと思しき大きな絵が。
イチローの大ファンの自分としては、東海道とは無関係だが、載せることにした。
並んで撮れれば良かったのだが・・・


右手に清見寺が見えてきた。
清見寺は、臨済宗妙心寺派に属し、開山は関聖上人。


総門
総門に掲げられている「東海名區」の扁額は、朝鮮人錦谷居士筆による。


清見寺の全体写真


東海道線(静岡方面を望む)を跨ぎ、山門へ。


山門は、慶安四年(1651)に建築され、屋根は檜皮葺であったが、
明治二十二年(1889)に現在の瓦葺に改められた。


清見寺の仏殿
本尊は『釋迦如来』
天保十三年(1842)の再建。
正面には釋迦如来の坐像(家康公姫君静照院寄付)を泰安し、
両脇に迦葉、阿難の両尊者の像が安置されている、とのこと。


清見寺の大方丈と臥龍梅
文政八年(1825)の改築で、内陣には十一面観世音菩薩の坐像を泰安する。
大方丈前に「徳川家康公御手植」と伝わる臥龍梅がある。
「龍臥して法の教えを聞くほどに 梅花の開く身となりにけり」
という与謝野晶子の歌も記されている。


鐘楼は、天正十八年(1590)四月、豊臣秀吉公伊豆韮山城攻伐の際、
陣中に於いて使用したと云われている。
また明治の文学者高山樗牛の「清見寺の鐘声」の名文は、
この鐘声を聞いて作られた、そうだ。
梵鐘は、正和三年(1314)の鋳造で、県指定文化財になっている。


聖観世音菩薩銅像
昭和十三年(1938)北村西望の作


五百羅漢
天明年間(1781~1788)の彫造にして、作者不詳なるも形相悉く神異非凡の作である。
又この羅漢尊者の群像は、島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっている、
とのこと。


9時22分、坐魚荘(ざぎょうそう)跡に到着
西園寺公望公は、明治・大正・昭和三代を自由主義の政治家として貫き、
昭和15年11月24日、91年の長寿を全うしたわが国近代の元老の一人。
坐漁荘は、西園寺公が70歳になった大正八年(1919)に老後の静養の家として
風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘である。


入館の9時半にはまだ少し時間があったが、ちょこっと覗いて見ることに。
入館見学は無料となっている。


坐魚荘の碑
西園寺公望公は、伊藤博文の側近を経て第一次・第二次西園寺内閣を組閣。
首相辞任後は元老に任じられ、大正天皇・昭和天皇を輔弼した。
現在の立命館大学の原型となった「私塾立命館」の創始者としても有名。


坐漁荘の建物は昭和45年に解体され、愛知県犬山市の明治村に移されたが、
元あったこの場所に、オリジナルに忠実に復元された。


旧東海道(現国道1号)を進む。
国道1号静清バイパスが見えてきた。


国道1号静清バイパスの下を通って、左の小径へ進み、


住宅地を進むと、東海道線の横砂踏切がある。


横砂踏切を渡って進むと再び国道1号に合流した。
合流点に横砂の延命地蔵尊があった。


『病は治せるが寿命は延ばせない』との無理な願いを叶えてくれるのが、
横砂の延命地蔵さん、だそうだ。
ここは、是非お参りして行かなくちゃ。賽銭も弾んでおこう。


旧道を少し進むと、


東光寺があった。
山門は、勅使が興津川の川止めで泊まる事になり、急遽造られたとされ、
門扉の作りから格子門と呼ばれる。


東光寺は、臨済宗妙心寺派(禅宗)の寺院である。
戦国時代の天文年間(1532~1554)に温仲和尚によって現在地より北方の地に創建。
本尊の薬師如来(秘仏)は行基作と伝わる。
9世共堂義範(明治41年没)の師が、清見寺蓉嶺維禎だったため
その頃に妙心寺派となった。


本堂の前に鑑真和上将来と書かれた中国菩提樹がある。
大宰府戒壇院から贈られたものなのだろう。


9時56分、庵原川を渡り、横砂西町に入ったちょうどその時、


前方から軽快なリズムのブラスバンドの隊列がやって来た。


小学校低学年と思える可愛い鼓笛隊の姿も見える。
何かの祭なのだろうか?


沿道の住居に貼られていたポスターを見て分かった。
静岡市袖師地区の青少年健全育成の推進パレードだったのだ。
それによると、先頭の演奏は、静岡学園吹奏楽部によるものだろう。
パレードは、300mほど続いた。
道路の反対側(自分の方)には、カメラを手にした父兄がずらり。


道が左右に分かれるところに、1本の松の木があった。
「細井の松原」である。
当時の細井の松原は太平洋戦争で松根油(航空機燃料)として伐採されてしまった。
現在は、その跡もなく植樹されたものが1本だけ植えられている。


元禄十六年(1703)の検地によると、辻村の戸数110戸、松原の全長199間2尺(約360m)
松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶屋があったと伝えられている、
とある。


無縁さんの碑
辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。
この並木は昭和19年、松根油採取のため、伐採されたが、
この折多量の人骨が出土した。
東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人は寺に葬り、
松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めた。
平成十三年、東海道四百年を記念し、この石碑を建立した。
「活き活き」街づくり辻の会


旧東海道を進む。


旧東海道江尻宿の標示がところどころに貼ってあった。
この辺りが宿場の中心地だったのだろう。


東木戸跡付近
この付近には道路が桝形ではないが「く」の字形に曲がり、
外から宿内を見通すことが出来ないように工夫してある。


近くにいた地元の方に訊くと、「江尻・辻の一里塚跡」と「東木戸跡」を示す標識は、
かつてはこの付近にあったが、いつの間にか無くなってしまった、とのこと。
残念! 歴史を示す標識くらいは残しておいて欲しかった。


10時47分、清水駅前を通過
実は、10時30分に一度はここを通過したのだが、「江尻・辻の一里塚跡」と「東木戸跡」
を見落としたと思い、先ほど通った江尻宿の標示まで引き返して探すも、見つけられず、
地元の方に撤去されたことを聞き、2度目の清水駅前通過となった次第。


清水駅前を過ぎ、何度か街中の角を折れ曲がって進むと、


巴川に架かる稚児橋に到着した。
慶長十六年(1611)9月、家康公の命でここに橋が架けられた。
渡り初めで、一番の老夫婦が先頭を歩いていたら、
巴川より童子が突然現れて橋の上を駿府の方角に歩き去ったという。
このためこの橋を稚児橋というようになった。
これは河童の類と云われている。


4本の親柱の上には可愛い河童の童子像が乗っている。


巴川の下流は清水港に繋がっている。
かつてクロダイ釣りで何度か訪れ、渡しの舟でこの川を下り、
清水港貯木場へ渡してもらったことを思い出した。


橋の上から釣りをしている人も。
ハゼを狙っているそうだが、潮が下げているので、当りはないとのこと。


河童のこしかけ石
平成三年の秋の台風により石垣が崩れ、修復工事を行った際、
五つの石が掘り出され、誰言うとなく、稚児橋の河童伝説にちなみ、
「河童のこしかけ石」と呼ばれるようになった、そうである。


船高札
江戸時代初頭、河川交通の重要地巴川河畔に、現在の掲示板にあたる
「船御高札」が建てられていた。
その内容には、暴風などに遭っている船には助け船を出すことや、
船が破損したときには力を合わせて荷を引き上げること、
(引き上げてもらったものは褒美を渡すこと)などが書かれていた。


入江2丁目交差点を右に曲がって旧道を進む。


門柱の脇に江尻宿木戸跡の碑があった。
実は、最初は見落としていたのだが、この先の入江生涯学習交流館前の案内板を見て、
ここまで引き返して撮影した。


入江生涯学習交流館
館の前に「江尻宿」の地図があり、江尻宿の歴史的史跡場所を標示している。


追分羊かん
創業元禄八年(1695)の老舗。
羊羹は日持ちがしたため、道中食でもあった、そうだ。
あいにくこの日は定休日だった。


追分羊かんの脇に、追分の道標がある。
正面に「是より志ミづ道」、左に「南無妙法蓮華経」と彫られている。


都田の吉兵衛供養塔
文久元年(1861)、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、
遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。
この地の人が、吉兵衛の菩提を弔う人が稀なのを憐れみ、
供養塔を建て、侠客の霊を慰めたとされる。


元追分


巴川の支流に架かる金谷橋を渡る。
橋の脇には、追分と金谷橋の今昔が次のように記されている。
昔からこの辺りは東海道と清水湊への道(志ミづ道)との分岐点であることから
「追分」と呼ばれていた。
周囲には数軒の家が並び、街道の両際には松並木が続き、
その外側には田んぼが広がり、遠くには富士山が望めた。
往来の旅人は土橋であった金谷橋を渡ったが、重い荷物を運搬する牛馬は、
橋横の土手を下り、渡川して土手を上り、街道に合流した。
古来、牛道と言われた名残を今に留めている東海道の史跡である。


11時41分、東海道線を横断した先に


上原堤(うわはらづつみ)「宗丹池」(そうたんいけ)があった。


11時54分、「宗丹池」の少し先の上原(うわはら)延命子安地蔵に到着した。
延命子安地蔵は、鎌倉時代かそれ以前の創建とされる。
天正十年(1582)、徳川家康が武田勝頼を攻めるに先立ち、
武田の宿将で江尻城主の穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。
その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡のきっかけとなった、
というエピソードがある。


延命子安地蔵の入口に槙の古木がある。
樹齢約230年、樹高10m70Cm、枝張り東西4m、南北7mとあったが、
隣の家の邪魔になったのか、あちこち伐採(剪定)されて小ぶりになっていた。


延命子安地蔵で弁当タイムにした。
東京駅で買った秋田の”鶏わっぱめし”(1,050円)だ。


いぶりがっこ・鮎甘露煮・じゅんさいなどもあって、なかなか美味しかった


弁当が終わり、12時27分、府中宿(静岡駅)目指して出発!
延命子安地蔵から2分ほどの所に千手寺という寺があった。
山門の先に、


千手寺の本堂が。
千手寺は、黄檗(おうばく)宗の寺院で、
明の僧隠元によって江戸時代もたらされた禅宗。
本山は京都万福寺。


境内には庚申塔や


古井戸もあった。


12時38分、清水有度(うど)第一小学校を通過。


府中宿境まで一里二十六町(6.8Km)とある。


旧東海道は、県道407号に合流した。


12時43分、草薙一里塚碑を通過
江戸日本橋より43番目の一里塚である。
塚の脇には高札場があり、榎の大木の枝が繁っていたという。


草薙一里塚の横に何故か狸(身長10尺:3.3m 重量500Kg)の像が・・・
”狸八相縁起”なるものが書いてあったので紹介しておこう。
笠 ・・・思はざる悪事災難避けるため用心、常に身を守る笠。
目 ・・・何事も前後左右に気を配り、正しい判断をする。
顔 ・・・世間は広く互いに愛想よく暮らし、真を以って務め励む事。
徳利・・・恵まれた飲食だけで満足し、人徳を見に付けよ。
通 ・・・世渡りは、先づは信用が第一だ、活動常に跳躍前進する事、
腹 ・・・もの事は、常に落ち着きながら決断、力の大胆を持て。
金袋・・・金銭の宝は常に自由になる運用をしろ。
尾 ・・・何事も終り大きくしっかりと身を立てる事こそ真の幸福なり。


草薙神社の鳥居を左手に見ながら、草薙駅前の交差点を左折し、
中之郷の住宅地を進む。


植木などの園芸屋の看板が目立つなと思っていたら、


この辺りは生産緑地地区になっていた。
『どうりで・・・』納得である。


東名高速道下を通過し、


再び県道407号に合流。
コンビニがあったのでここで一休み。


13時41分、静鉄県総合運動場駅を通過


旧東海道記念碑が建てられていた。
昭和37年、国鉄操車場の建設により、「栗原」の西側が分断され、
更に静清土地区画整理事業による新しい町づくりが行われたことから、
栗原地内の旧東海道もその姿を消すこととなった。
その昔を偲びなおかつ旧東海道とともに発展してきた「栗原」の歴史を
正しく後世に伝えたいとの願いを込めて、この記念碑を建てることにした、とのこと。


記念碑の右側に線路の反対側へ通じる小さなトンネルがあった。
入口(出口)はかなり狭い。
途中で車が来たらどうしよう。


しかし、トンネルの中央部は、車がすれ違えられる広さになっていた。
新幹線が頻繁に走り抜ける音がトンネル内に響く。


トンネルを潜って反対側(西側)に出た。


線路沿いの道が左右に分かれていたので、右方向へ。


少し進み後久(ごきゅう)橋を渡ると、


古庄の道標があり、旧東海道に間違いなかったことが分かり一安心。
府中宿境まで3.3Kmの表示。


国道1号線に合流した所に駿河三大名物「兎餅」跡地と書かれたでっかい看板が。
「安倍川餅」「追分ようかん」「兎餅」が駿河三大名物とのこと。
「安倍川餅」以外は食べたことがない。


国道1号


国道1号長沼交差点を渡り、国道1号の一本裏の道を進む。


長沼一里塚碑があった。
江戸日本橋から44番目の一里塚だ。


14時13分、静鉄長沼駅を通過


右手に静岡県護国神社の鳥居を見ながら進むと、


国道1号沿いの「MARK IS 静岡」の前に出た。
大型のショッピングセンタ-のようだ。


静鉄柚木駅で、横断陸橋で国道1号を横断。


国道1号静岡方面


国道1号を渡った先で、新幹線・東海道線の線路を潜ることになる。


新幹線・東海道線の線路を潜り、


線路を潜った先の道路を右に曲がると・・・
曲金コンフォートの前に曲金(まがりかね)の道標があった。
府中まで0.9Km、間もなくゴールだ。


また新幹線・東海道線の線路に沿って進み、


三度新幹線・東海道線の線路を潜ると、


国道1号東町交差点に合流した。


東町交差点の一つ先の日出交差点を右折し、


つつじ通りを150mほど進むと、


旧東海道の伝馬町通りの横田町西交差点がある。


横田町西交差点を左に曲がり、伝馬町通りを進む。


15時3分、府中宿に到着した。
この日のゴール静岡駅まであと少し。


花陽院(けよういん)
徳川家康の祖母源応尼(華陽院)の菩提寺として知られている、浄土宗京都智恩院の末寺。
もともとは真言宗知源院という名称であったが、華陽院の法名により改められた。
境内には華陽院の墓のほか、家康の五女である市姫の墓もある。


家康公お手植えのみかんの木
随分可愛らしい木だが、何代目になるのだろう?


艾(もぐさ)の店とは、珍しい。
今でもこうやって店が続いているのだ。


静鉄新静岡駅辺りの繁華街


ビルの谷間に本陣・脇本陣跡の碑がポツンとあった。
歴史の移り変りを感じさせる光景である。


府中宿伝馬町の道標
この辺りが一番賑っていたのだろうか。


人通りが一段と多くなって来た。
静岡駅は近いと思われる。


通りのあちこちで大道芸などが行われていた。
この日は日曜日、どおりで人が多いはずである。


15時25分、この日のゴール静岡駅に到着


静岡15時37分発の東京行「ひかり470号」自由席はほぼ満席、
だったが、何とか座れて一安心。
座れずに立っている人も何人かいた。


立っている人には申し訳なかったが、缶ビールで喉を潤した。
興津駅から16Km以上歩き、疲れた身体に心地良い味がした。


この日は、興津宿~府中宿(約16Km)を歩いたが、正直けっこう疲れた。
初めての道の歴史を辿りながら歩くのは楽しいが、距離が長いため、
たくさんあり過ぎて、ゆっくりと時間をかけて鑑賞している時間がなかったのが、
やや残念ではある。
しかし、次回はさらに距離が長くなる可能性がある。
適当な宿泊先がないためである。
まあ頑張って精力的に観て回わるしかなさそうだ。

この日も歩く途中で富士山の雄姿を見ることは出来なかったが、
朝方静岡に向かう途中、新幹線から富士山が見れたのは、
せめてもの救いだった、と思っている。

この日の万歩計は、34,000歩を越えていた。

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コメント
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