令和6年(2024年)11月16日(土)
原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「
健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第11回、令和6年(2024年)第16回「
千住宿からお化け煙突の跡地へ」
ウォーキングに参加した。
1週間ほど前には雨が予想されていたが、数日前頃からは雨の予報は次第に前日に移り、
この日はまずまずの天気となった。
この日荒川沖駅に集まった人は11名、まぁいつもの顔ぶれである。
荒川沖8時47分発の電車を待つ皆さん。
土曜日の電車は空いていた。
全員安心してゆったりと座って行けるのが嬉しい。
土浦駅からも11名が乗車したことで、参加者は22名となった。
下車駅の南千住駅までの小1時間は、会計担当によるバスハイクの余剰金の払戻や、
忘年会の参加希望などの確認などで有効に過ごすことが出来た。
9時40分、この日のスタート地である南千住駅に到着した。
めいめい体調を整えた後、コースの説明に続いてTK会長の挨拶があり、
9時56分、南千住駅をスタート!!
最初の訪問地、延命寺を目指した。
JR常磐線の下を潜り、JR常磐線と東京メトロ日比谷線の間に挟まれた場所に立地する
延命寺へ。
10時3分、南千住駅から5-6分で最初の目的地の延命寺に到着した。
この寺には延命地蔵(別名首切地蔵尊)が有名な寺で、近くに江戸初期から小塚原刑場が
あったところだ。
寛保元年(1741)に刑死者の菩提を弔うために建立されたものである。
延命寺のお地蔵様(延命地蔵)が台座に座っているのが見えた。
ウマさんの街道を歩くシリーズの”旧水戸街道を歩く”の第一日目に延命寺を訪れた時には、
東日本大震災の直後だったため、台座の上にお地蔵様の姿はなく、お地蔵様の頭の部分だけが
台座の脇に鎮座していたのを思い出した。
(
2011年4月24日に訪れた時の写真)
延命寺を後にして次の目的地である円通寺へ向かった。
10時13分、小塚原回向院(
えこういん)前を通過。
江戸時代には、刑死者を自由に供養することは許されなかったが、ここ小塚原回向院だけが
許され供養していたそうである。
桜田門外の変で伊井大老を暗殺した水戸浪士たちも小塚原で処刑されている。
鼠小僧次郎吉や吉田松陰の墓があることでも知られる。
回向院の先を左に曲がり、次の目的地円通寺を目指す。
突き当りの国道4号を横断し、
左折して少し進むと、10時24分、目指す円通寺に到着した。
この寺には弾痕も生々しい上野寛永寺の黒門が移築されている。
慶応4年(1868)5月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から
敗走した。
彰義隊士の墓
累々と横たわる隊士の遺体を見た当時の円通寺住持だった仏磨和尚は、神田旅籠町の
御用商人三河屋幸三郎とともに、官許を得て慶応4年(1868)の上野戦争のあとも
野ざらしにされていた彰義隊士の遺骸を秘かに火葬して円通寺に合葬した。
黒門もその縁で円通寺に移築されたという。
境内にはたくさんの戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者と思われる追弔碑や墓碑がある。
『まだみんな若かったんでしょうね~っ』
戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑(1)
戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑(2)
戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑(3)
いくつかの追弔碑・墓碑に手を合わせ、円通寺を後にした。
国道4号を北上して千住大橋方面へ。
10時42分、素盞雄神社(
すさのおじんじゃ)の前を通過。
素盞雄は別名牛頭天王(
ごずてんのう)で、天王様と呼ばれている。
10時46分、隅田川に架かる千住大橋に到着し、大橋を渡る。
千住大橋を渡った所の左側に小さな広場があった。
広場の一角に”
富嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二”の浮世絵顕彰碑があった。
以下のように説明されている。
葛飾北斎(1760-1849)は、富嶽三十六景で「
武州千住」、「
隅田川関谷の里」、
「
従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を千住地域を題材に描いています。
富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として次代を担う子供たちに伝えるために
画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。
『この辺りからこんな感じで富士山がきれいに見えたんだねっ』
ここ千住大橋は”
奥の細道矢立て初めの地”で、その昔、松尾芭蕉が弟子の曽良とともに
奥の細道へ旅立ちした地である。
「
行く春や 鳥啼魚の 目に涙」
この句が紀行「奥の細道」の最初の句(矢立初め)ということだ。
堤防の石段を上り、隅田川方向に下って行くと・・・
千住大橋を渡る時に見えた、奥のほそ道 旅立ちの地の図があった。
与謝蕪村筆 「奥の細道図屏風」と書かれている。
与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」は6枚からなり、これは最初の屏風図絵である。
千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康の関東入国間もない文禄三年(1594)に
普請奉行伊奈備前守忠次によって架けられた橋です。
文禄三年の架設の際に、伊達政宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという高野槙が使われたと
伝えられています。
(中略)
その昔に架けられていた橋の一部と思われる木杭が今もなお、水中に眠っています。
時には桟橋の上から見えるかもしれません。
「
伽羅(きゃら)よりもまさる 千住の槙の杭」 古川柳
東京都 足立区
千住大橋の下に造られた「せんじゅこばし」を進むと・・・
国道4号の反対側に出ることが出来た。
ここにも松尾芭蕉の像を見ることが出来る。
『みんな顔が違うよねっ』
京成本線の高架橋の下を通り、旧日光街道を千住宿方面へ。
昭和5年(1930)当時の旧陸羽街道(旧日光道中)千住市場の問屋配置図を右手に見ながら進む。
墨堤通り(都道461号)交差点を横断し、
11時7分、稲荷山源長寺の前を通過。
旧陸羽街道(旧日光道中)を進む。
道路を横断した所から”
千住ほんちょう商店街”が始まるようだ。
(この場所は道路の下を東京メトロ千代田線が走っていることになる)
道路を横断した所の足立成和信用金庫本店の前にも松尾芭蕉の像が立っていた。
『ずいぶんほっそりとした芭蕉だよねっ』
”
千住ほんちょう商店街”を進む。
”
千住ほんちょう商店街”の終わりか???
と思っていたら”
千住ほんちょう商店街”はまだ続いていた。
さらに”
千住ほんちょう商店街”を進むと・・・
右手突き当りに北千住駅が見えた。
北千住で最も賑やかな通りになっているので、食事処は多そうだ。
帰りはこの辺りで解散することにしよう。
”
千住ほんちょう商店街”を真っ直ぐに進む。
”
千住ほんちょう商店街”の両側の石柱に北斎富嶽三十六景のうち”
従千住花街眺望ノ不二”の
画が飾られている。
この辺りは”
宿場町通り”と名付られている。
千住宿の中心地だった場所なのだろうか?
千住宿は江戸四宿(
東海道:品川宿、中山道:板橋宿、甲州街道:内藤新宿、
日光街道(旧陸羽街道):千住宿)の一つとして繁栄した。
11時29分、横山家住宅前に到着
屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。
街道に面して、間口が広く、奥行きが深い、”伝馬屋敷”の面影を今に伝える、商家である。
また、戸口は一段下げて造る(お客様を迎える心構えの表れ)のが特徴である。
(案内板より)
槍かけだんご かごや
水戸街道歩き2回目(2011年6月12日)にだんごを買って食べたことを想い出したが、
随分と店の雰囲気が変わってしまった感じがする。
2011年6月12日に撮影した時の
槍かけだんご かごや
槍かけだんごの雰囲気としてはこの時の方が合っていたように思う。
電柱に名倉医院の看板が・・・
11時36分、名倉医院前を通過
名倉医院は骨接ぎの名医として知られた。
骨接ぎと言えば名倉、名倉と言えば骨接ぎの代名詞になるほど、名倉医院は関東一円に
有名である。
下妻道に面し、日光道中や水戸街道分岐点を間近にして便が良かったため、駕籠や車で
運ばれて来る患者がひしめいていたという。
門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの堪り場であった。
(中略)
千住名倉医院は、たたずまいと文化と美術を今に伝える史跡である。
令和三年三月 東京都足立区教育委員会
名倉医院前の道を進むと、11時38分、荒川の土手に突き当たった。
(赤い矢印の所)
旧日光道中と旧水戸街道の分岐点はいつの間にか過ぎてしまったが、ここを右に曲がれば
旧水戸街道へは通じる。
この日の目的地お化け煙突のモニュメントは、ここを左に曲がって進むのだが、ここで一息
入れて行くことにしよう。
お茶タイム(1)
お茶タイム(2)
お茶タイム(3)
この辺りは海抜0mとなっている。
11時48分、最後の目的地お化け煙突のモニュメントを目指す。
足立区の生涯学習センター、足立区中央図書館のビルのトンネルを潜る。
屋上に公園でもあるのだろうか? 木々が生い茂っている。
突き当りに国道4号が走っているため、左に折れて国道に沿って少し戻ることになる。
200mほど戻った辺りで国道4号を横断し、
住宅街を進む。
案内図によると、この近くに昭和の初めから約90年に渡って地域の人たちに愛されてきた
銭湯ファン憧れの的の”
大黒湯”という銭湯があることになっているのだが・・・
地元の人と思える人に尋ねたが、銭湯のことはよく知らないとのこと。
結局見つけることが出来ず、大黒湯は諦め、お化け煙突のモニュメントを目指すことにした。
後で分かったことだが、大黒湯は、2021年6月に諸事情で惜しまれながらも閉店となって
しまったらしい。建物も既に無くなっているようだ。
あとはこの日最後の目的地、お化け煙突のモニュメントを目指すだけである。
墨堤通りの元宿堰稲荷神社辺りではなかったかと思うが・・・
葛飾北斎の富嶽三十六景「武州千住」の千住浮世絵顕彰碑があった。
江戸時代より千住は風光明媚な名所として多くの文人墨客が集まり、文化的にも進んだ
地域でした。
葛飾北斎(1760-1849)は、富嶽三十六景で「
武州千住」、「
隅田川関谷の里」、
「
従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を千住地域を題材に描いています。
富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として次代を担う子供たちに伝えるために
画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。
(地図の左上の赤い印①が武州千住、②が隅田川関谷の里、③が従千住花街眺望ノ不二とある)
江戸時代、ここには荒川(後の隅田川)につながる水路があり、元宿掘と呼ばれました。
葛飾北斎の富嶽三十六景で「
武州千住」は、この場所から描かれたと推定されています。
富嶽三十六景「
武州千住」の千住浮世絵顕彰碑から少し進み、
帝京科学大学入口バス停を左に曲がって200mほど進むと、
右側に帝京科学大学千住キャンパスの建物があった。
帝京科学大学千住キャンパス前を通り抜けると、目の前に荒川(後の隅田川)の堤防があった。
堤防の階段を上ると、
目の前に隅田川の流れがあった。
遠くには東京スカイツリーが見えるが、こちらにはモニュメントなどは見えない。
右方向を見ると、隅田川に架かる尾竹橋が見えるが・・・
直ぐ隣に建つ帝京科学大学千住キャンパスの建物の方へ振り返ると・・・
『あったぁ~』 『これだよねっ』 『嬉しいっ!!』会員の皆さんから歓声が上がった。
”
お化け煙突のモニュメント”だ!!
正面から見た”
お化け煙突のモニュメント”
”
お化け煙突”は、大正15年1月から昭和38年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、
約40年間親しまれてきました。
この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、時には2本、1本に見えました。
実際には左図のように薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に
変わりました。
このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。
(中略)
千住火力発電所は、昭和39年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿
小学校で滑り台として残され、この度帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして
再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。
縮尺1/20のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。
資料・写真の提供 電気の史料館
モニュメントをバックに記念写真を撮った。
記念の写真を撮った時、時計は、12時40分を差していた。
お腹も空いてきたことだし、この日のゴール北千住駅を目指すことにした。
帝京科学大学千住キャンパス前を通り、
墨堤通りの元宿堰稲荷神社前を南方面へ。
千住瀧田交差点を左に曲がり、
国道4号線を横断すると、北千住駅はほぼ一本道である。
13時10分、旧日光道中の”
千住ほんちょう商店街”に到着した。
人通りが多いので、簡単な挨拶で、この日はここで解散することに。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『気を付けて~っ!!』
いつものメンバー6人はTK会長の案内で、旧日光道中の「柏屋」という蕎麦屋に向かった。
13時を少し回っていたが、入店まで10分ほど待たされた。
人気のあるお蕎麦屋さんである。
先ずは生ビールで『かんぱ~いっ』
『お疲れさまでしたぁ』
『これで少しは疲れが取れるよねっ』
ちょうど生ビールが切れたため少し待たされたHRさんも遅れて『かんぱ~いっ』
『この一杯がうまいんだよなぁ』
めいめい好みの蕎麦を注文。
自分は、天もり蕎麦(1,600円)を注文した。
量も多く、美味しかった。
食後北千住駅へ向かった。
14時半頃の電車だったが、運よく我々4名全員は座って帰ることが出来た。
千住宿からお化け煙突の跡地へのウォーキングが無事終わった。
目的地の一つである大黒湯の建物を見つけられなかった時には少し疲れも出て来たが、
お化け煙突のモニュメントはこの日最大の目的地なので、これを諦める訳にはいかない。
最後にこの日最大の目的地に無事辿り着けた時は正直少し感激した、という次第である。
この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。
”
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