ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

前日梅雨入り発表 国分寺お鷹の道~殿ヶ谷戸庭園へ

2024年06月22日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和6年(2024年)6月22日(土)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第7回、令和6年(2024年)第12回「国分寺お鷹の道~殿ヶ谷戸庭園へ
ウォーキングに参加した。

前日、関東甲信地方が”例年より2週間ほど遅れて梅雨入りした”と発表されたばかりなので、
雨が心配されたが、この日は朝から快晴という願ってもない好天気となった。

荒川沖8時5分発に乗るために改札口に集まった皆さん。
この日荒川沖駅に集まった人は12名、まぁいつもの顔ぶれである。


8時5分発の電車を待っているところ。


電車は定刻どおり到着した。
土浦方面からは6名が参加した。


このあと牛久駅から1名、龍ヶ崎市駅から1名が乗り込み、この日の参加者は合計20名となった。
9時16分に東京駅に到着し、中央線に乗り換えるため、長~いエスカレータで中央線ホームへ。


一つ前の9時24分発の青梅行きを見送り、2分後の9時26分発の青梅行きに乗車。
2分後だったこともあり、全員が一つの車両内で向かい合って座ることが出来た。


『こんなことって珍しいんじゃないっ?』


『全員が一つの車両に座れて良かったよなっ』


この日のスタート地である西国分寺駅には10時14分に到着した。


西国分寺駅で体調を整え、西国分寺駅南口でこの日のコース概略と注意点などを説明し・・・


10時30分、先ずは伝鎌倉街道、武蔵国分尼寺跡を目指して出発!!


少し歩くと、伝鎌倉街道780m、武蔵国分尼寺跡1000mの案内標識が現れた。
『案内標識がしっかりしてるみたいだから、心強いよねっ』


西国分寺駅南口を真っすぐに進む。


東京都知事選挙の立候補者ポスター掲示板があった。
いわゆる有名人のポスターが目に入った。
『そのうちこの掲示板がいっぱいになるのかなぁ?』
『いっぱいになったところを見てみたいねぇ』


今歩いている所は”史跡通り”と呼ばれているらしい。
以下のような説明があった。
天平十三年(741年)に市名(国分寺市)の起源でもある武蔵国分寺が建立されましたが、
元弘三年(1333年)に新田義貞と北条泰家との戦いのため武蔵国分寺は、惜しくも焼失して
しまいました。
現在、武蔵国分寺の跡地は国の史跡に指定され、史跡公園として整備されつつあります。
昭和48年4月に西国分寺駅が開設されてから、この道路を地元の皆さんが史跡公園に通ずる
道路であることから、”史跡通り”と呼ぶようになりました。(以下略)
昭和56年4月 国分寺市


『緑が多くて歩き易いよねっ』


道路の両側にはあちこちにアジサイが花を咲かせていた。
『今がちょうど見頃なんじゃないっ?』


正面の都道145号(多喜窪通り)の下を潜って都道145号を横断すると、正面に細い道が。


細い道の入口?に武蔵国分尼寺跡630mの案内標識があった。
地図では国分尼寺の手前に伝鎌倉街道があることになっている。
伝鎌倉街道はこの道で間違いなさそうだ。


案内標識に従って細い道を真っ直ぐ進むと・・・


突き当りに左伝鎌倉街道170mの案内標識が・・・


案内標識に従って進むと、正面のJR武蔵野線に沿うように右折して道が続いていた。


細い道は薄暗い森の中へと続いていた。


少し進んだ所に伝鎌倉街道と書かれた石柱があり、丸太の階段があった。


丸太の階段を5mほど上ると、草むらに覆われた細い径が続いていた。
最近あまり人が歩いた形跡はなさそうな様子である。
これが”伝鎌倉街道”なのだろうか?


草むらに覆われた細い径を進んで行くと・・・


今度は下りの丸太の階段があり、普通のアスファルトの道が見えた。
伝鎌倉街道はここで終わりのようだ。
『もっと歩きたかったわよねっ』 皆さん気に入ったようだ。


丸太の階段を下りると、芝生の公園のような広場が現れた。
その名の通りである。
後で調べたら”緑地広場”となっていた。


緑地広場を進んで行くと・・・


武蔵国分尼寺跡に出た。
整然と礎石が並べられていた。
この辺りは武蔵国分寺尼寺の尼坊跡のようだ。


武蔵国分尼寺講堂想定地に立って周りを見回す。


講堂想定地の先の一段高い所の金堂跡へと続いている。


武蔵国分尼寺金堂跡


武蔵国分尼寺金堂
仏殿。本尊をおまつりする堂で、尼寺伽藍の中心にある最も大きな瓦葺建物。
屋根の大きさに築かれた高さ1mほどの基壇上に建てられた。
僧寺と同じと推定される河原石による乱石積基壇や雨落石敷、階段などの痕跡は
一切残っていなかったが、かろうじて残存していた基壇掘り込み部(版築土)の規模と
地上部の規模をほぼ同じと考えて東西26.7m(90尺)、南北18.5m(62尺)と復元した。
(中略)
広い堂内中央には須弥壇(しゅみだん)が据えられ、丈六の阿弥陀三尊像などの仏像が安置されていた。


金堂の近くに”史蹟武蔵国分寺址”と刻まれた旧い碑が建てられていた。
右隣の新しい碑には、”史跡武蔵国分尼寺跡”と刻まれている。


史跡武蔵国分寺址碑の左横の道は”雑木林のみち”と名付けられていて、武蔵野線の下を潜って
武蔵国分寺跡へと続いているようだ。


武蔵野線の下を潜って、その先にある府中街道を横断し、


元町通りを武蔵国分寺跡へ向かう。


武蔵国分寺跡へ。


武蔵国分寺の礎石の先に中門・金堂間の幢竿(どうかん)遺跡の説明
幢竿とは、宗教儀礼の際に装飾として用いる幡(ばん)を吊り下げる柱のことです。
中門と金堂の間からは伽藍中軸線上に東西に並ぶ2列の大きな柱穴が検出され、幢竿の痕跡と
推定しています。(以下略)


これが幢竿を建てる時の穴の跡と思われる。


武蔵国分寺址”の碑


武蔵国分寺の金堂跡の須弥檀(しゅみだん)に腰を降ろして一休みだ。


金堂跡の先に数本の大木が繁茂している。
その先が講堂跡になっている。


講堂跡
説明によると、武蔵国分寺の講堂は、経典の講義が行われた建物で、9世紀後半に
大規模工事が行われ、再建された建物の規模は、東西約42.2m、南北約22.6mあったと
されている、とのこと。


武蔵国分寺を後にして、七重塔跡へ向かった。


七重塔跡230mの標識前を通過
国分寺楼門は七重塔跡の後に行くことにしている。


七重塔跡へ


11時24分、七重塔跡に到着した。


七重塔跡
飢饉や疫病の流行、内政の混乱を仏教の力で治めるため、聖武天皇は天平13年(741)に
「国分寺建立の詔」を発布しました。
詔には国ごとに七重塔を1基造り、金字金光明最勝王経を安置するように示されており、
「造塔の寺は国の華である」という記述から七重塔は伽藍の中でも特に重要視されて
いたことが分かります。(以下略)
右端に七重塔推定復元図(高さ約60m)が描かれている。
『60mって言ったら物凄く高いよねっ』
『五重塔の比じゃないってことだよなっ』
『実際に復元するという計画はないのかなぁ』


11時27分、七重塔跡を後にして国分寺楼門へ向かうことにした。


国分寺楼門へ


11時33分、国分寺楼門に到着した。
建物は間口三間(約6.2m)奥行二間(約3.7m)の楼門造り、板金葺で江戸時代の建築様式を
よくとどめています。
この門は、米津出羽守田盛(通称内蔵助)の元菩提寺として建立された米津寺(東久留米市)の
楼門を明治28年に移築したものです。
国分寺境内の諸建築物とともに、国分寺の変遷を知るうえで重要な建物です。
国分寺市教育委員会
(国分寺楼門は昭和51年10月7日に国分寺市の重要有形文化財(建造物)に指定されている)


国分寺の楼門を潜ると正面に国分寺の石の門があった。


門の中に国分寺がある。
重厚な構えの建物である。


国分寺から徒歩3分の所にあるという薬師堂へ向かった。
石段を上って行くと・・・


仁王門があった。


仁王像(吽像)


さらに石段を上って行くと・・・


11時45分、薬師堂があった。


薬師堂にお参りを済ませて、お堂の裏へ回ってみた。
そこにはずらりと石仏が並べられていた。
これらにお参りすると、四国八十八ヶ所巡りをしたことになり、御利益が得られるのだとか。


石仏群の中央辺りの少し奥まった所に弘法大師様らしき石仏が祀られていた。


11時50分、国分寺薬師堂を後にして、お鷹の道へ向かうことにした。


再び武蔵国分寺の石の門前を通り、


お鷹の道へ向かう。


旧本多家住宅長屋門前を通り、お鷹の道遊歩道へ。
この長屋門は、国分寺村の名主を歴任した本多家の屋敷地南側に表門と先代名主の隠居所を
兼ねて江戸時代後期に建築されました。
後には村医・書家として活躍した分家の本多雖軒(すいけん)がここを居宅兼診療所として
私用したことが伝わり、農家の長屋門には珍しく、居室と物置とを合わせた建物であることが
特徴です。


お鷹の道遊歩道
江戸時代の寛永元年(1748)に国分寺市内の村々は、尾張徳川家のお鷹場に指定され、
慶応三年(1867)に廃止されるまで村人の生活に多くの影響を与えていました。
国分寺崖線下の湧水を集めて野川にそそぐ清流沿いの小径はいつのころからか「お鷹の道」
と呼ばれ、昭和47年~48年に国分寺市が遊歩道として整備しました。


お鷹の道を進む。


お鷹の道の脇を流れる水路は名水100選”ホタルのすむ川”として整備されているようだ。
『へぇ~ここでホタルが見れるんだ~』   『水が綺麗なんだねっ』


真姿池湧水群の案内板を左に曲がって湧水と思しき流れに沿って進むと・・・


弁財天が祀られていた。
ネットには次のような記述があった。
国分寺には、『医王山縁起』というお寺の縁起が残されています。
それによると、嘉祥元年(848)、不治の病に苦しんだ玉造小町が病気に苦しみ、
病気平癒のために国分寺を訪れて21日間薬師如来を参拝しました。
すると一人の童子が現れ、小町を池のほとりに案内し、この池の水で洗い清めるように
と言ってすぐに姿を消しました。
小町が身を清めると、いつの日か病は癒え、元の姿(真姿)に戻ったそうです。
この言い伝えによって、「真姿の池」と呼ばれるようになりました。
現在は弁財天が祀られています。


東京都指定名勝真姿の池湧水群
昭和60年に環境省(当時環境庁)の名水百選に選ばれ、水路沿いの遊歩道と池周辺に複数の
湧水があることから「お鷹の道・真姿の池湧水群」と名付けられた。
また、東京都の名湧水57選にも入っている。
平成10年には国分寺崖線湧水群の中の代表的な湧水であるとして、東京都名勝に指定され、
保存が図られている。(中略)
この辺りでは「水口八十八ヶ所」という言葉があり、多くの湧水群があった。
しかし、都市化などにより、枯渇したり埋め立てられた結果、湧水源も湧水量も
少なくなっている。


最奥の湧水源と思しき所からは、とめどなく水が湧き出ている。


湧水源の所でお鷹の道へ引き返すことにした。


お鷹の道沿いにある湧水の流れを見ながら進む。


そのうちに湧水の流れが見えなくなり、住宅地の中へ出た。


国分寺駅630mの標識が現れた。
殿ヶ谷戸庭園は国分寺駅前だからほぼ同じ距離である。


『これってヤマボウシだよねっ 凄いわね~っ』


野川に架かる不動橋を渡り、


やや急な上りの坂道を


国分寺駅方面へ。


正面右手に森のような景色が現れた。
殿ヶ谷戸庭園のようだ。


殿ヶ谷戸庭園の近くにトイレがあったので、体調を整えるついでに少し休憩して行こう。


12時37分、殿ヶ谷戸庭園に到着。
パンフには次のように紹介されていた。
殿ヶ谷戸庭園は、武蔵野段丘の南縁の「国分寺崖線」と呼ぶ段丘崖とその下段部付近の
礫層から浸出する湧水を利用し、雑木林の風致を生かして作られた近代の別荘庭園です。
三菱合資会社の社員で、後に南満州鉄道副総裁から貴族院議員にもなった江口定條は、
大正2年(1913)~4年(1915)に、この地に別荘を構え、「隋宜園」と命名しました。
昭和4年(1929)に三菱合資会社の取締役であった岩崎彦弥太が江口家から別荘を買い取り、
「国分寺の家」として親しむようになりました。
彦弥太は昭和9年(1934)に和洋折衷の木造主屋に建て替え、庭園建築として紅葉亭を
新築するとともに、主屋前面の芝生地と崖線下方の湧水及び園地とを結んで、回遊式庭園を
完成させました。
昭和49年(1974)に東京都が買収し、整備後、有料庭園として開園し、平成23年(2011)
9月21日に殿ヶ谷戸庭園(隋宜園)として国の名勝に指定されました。


休憩している間に会計担当の人が買って来た入園チケットを手に殿ヶ谷戸庭園「隋宜園」へ。


通常一般150円のところ65歳以上は半額の70円になるが、20名以上の団体の場合は
さらに割引かれて50円になったとのことだったが、料金表の所に目をやると、
『なるほどちゃんと書いてあるねぇ』
『心から喜んで良いものなのかねぇ』やや複雑な気持ちではある。


全員が入園したところで、会員の提案により、この日はここで解散することになった。
『殿ヶ谷戸庭園、充分に楽しんで行って下さいねっ』
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


園内が不案内のため、殿ヶ谷戸庭園の見取り図を参考に歩いて回ることにした。


一応解散はしたものの、園内不案内のため、途中までは揃って回ることに。
12時43分、庭園散策のスタートだ。



『気持ちが良いくらいに手入れされてて素晴らしいわねっ』


『緑がほんとにきれいだね~っ』


藤棚の緑も美しい。


園内を進む。


竹の小径を進む。


『手入れされている竹林は良いもんだね~っ』


右手に次郎弁天池を観ながら進む。


馬頭観音への坂道
この階段の上には馬頭観音の石碑があります。
馬頭観音とは馬の息災と旅の安全をもたらす観音様です。
岩崎家が江口家よりこの地を譲り受けた際、土地の西側外堀にあったこの石碑を庭園内に
移し祀りました、と書かれている。
ちょっと馬頭観音像を観に行くことにして仲間とはいったん分かれて坂道を上った。


けっこうな坂道を息を切らして上って行くと、小さな馬頭観世音像と説明板があった。
説明板には次のように書かれていた。
馬頭観世音
建立年代  文政七年(一八二四)七月二十三日
施主    国分寺村 本田氏
石材    福島県産 八目石
市内に現存する馬頭観音十一基のうちの一つ。
建立当時の国分寺村の人口は三百六人、馬は二十二頭いました。
国分寺村は府中宿への助郷として馬の供給をしていました。
この馬頭観音の石碑は亡くなった馬の供養のため、建てられたと言われています。


馬頭観音像を後にして、また急坂を下った。


湧水源
武蔵野台地に降った雨は、関東ローム層に浸透し地下水となり、崖線下のハケから
湧水として湧き出し、次郎弁天池へ流れ込んでいます。
水温は年間を通して15℃~18℃です。(この水は飲めませんとあった)


”東京の名湧水57選”  ”殿ヶ谷戸庭園” と書かれた木柱があった。
”東京の名湧水57選”は、真姿の池湧水群のところでも紹介されていた。


紅葉亭へ行くと皆さんが寛いでいた。
やや疲れた様子ではある。


紅葉亭の裏手にあった鹿おどし
この鹿おどしは、天然石の水盤と奇岩を組み合わせて作られており、流れ込む井戸水の
重みにより竹筒が役石を叩き、風情ある音が鳴り響く仕組みとなっています。
鹿おどしは1600年代半ばに京都一乗寺の詩仙堂にて、漢詩人石川丈山が作物から鳥獣を
追い払うために考案し、僧都(そうず)と名付けました、と説明されていた。


13時ちょうど、最初にスタートした所に戻って来た。
20分ほどかけて庭園内をぐるりと一回りしたことになる。


ここで、皆さんとは分かれることになった。
『それでは、皆さんお気を付けて』


皆さんと別れて、国分寺駅に向かった。
駅ビルは「セレオ国分寺」として市民に親しまれている、そうだ。


13時6分、国分寺駅ビルに到着。


国分寺駅構内の様子


エスカレーターでレストランのある9Fへ行き、好みの飲食店を探す。
我々男性陣は和食メニューの豊富そうな「百干」(ひゃっかん)で意見が一致


好みのメニューを探す前に生中を注文。
直ぐに生中が運ばれて来たので先ずは『かんぱ~い!!』 


『お疲れ様でしたぁ』


『いやぁ やっぱりウォーキングの後の一杯は美味いねぇ』


皆さん好みのメニューを注文したが、7名中6名が同じメニューだった。
唯一海鮮丼を注文をしたのはTK会長だ。
『海鮮丼が好きなんだよねっ』


他の皆なは生(き)そば御膳を注文した。
『歳を取ると好みが似て来るんだぁ』


「百干」を出ると、何と隣の「がんこ国分寺茶寮」に入った女性陣7名とばったり。
『あらぁ 隣のお店に入ってたのねっ』
仲良く一緒に帰路に就いた。

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

国分寺お鷹の道から殿ヶ谷戸庭園へのウオーキングが無事終了した。
前日に平年より2週間遅れてようやく梅雨入りしたばかりだったので、天気が気になったが、
朝から快晴という願ってもない好天気となって、それまでの懸念が吹き飛んだ格好となった。

この日のコースは全員初めてだったが、皆さん大変気に入ってくれたようで、企画して
良かったと思っている。
これからもこの日のコースのように自然に恵まれたコースを歩いてみたいものである。

この日の万歩計は、11,000歩を計測していた。

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帰りはバスが正解 紫陽花の名所水戸保和苑へ

2024年06月14日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和6年(2024年)6月14日(金)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第6回、令和6年(2024年)第11回「紫陽花の名所水戸保和苑へ
ウォーキングに参加した。

会員の中には既に何度か保和苑を訪れていると言う人もいたが、自分は九州大分の出身
ということもあり、この日が初めてである。
例会の数日前(11日)の新聞に、”保和苑のアジサイが見頃”という記事が紹介されていた。
この分であれば、当日は丁度良い時期ではないかと期待が膨らんだ。


荒川沖駅8時ちょうど発の常磐線下り水戸行の電車を待っているところ。


定刻通り下りの水戸行電車がやって来た。


9時1分、電車は定刻通り水戸駅に到着した。
日本の電車の発車・到着時刻はほんとに正確だとつくづく思った。


女性陣が体調を整えている間、改札口近くで待っているところ。
体調を整え終わった女性たちもいるが、まだしばらくは待たなければならなさそう。
『女性陣はいつも時間がかかって大変だねぇ』


改札口内で待つこと凡そ17分、ようやく改札口を出ることが出来た。


水戸駅北口でこの日のコースの概略説明を行い、TK会長からは充分に水分を補給して熱中症には
くれぐれも注意するようアドバイスがあった。
この日の参加者は23名だ。


9時24分、いつものように元気なTK会長を先頭に保和苑を目指して出発!


水戸駅北口の橋上歩道を進み、


国道50号方面へ。


水戸三の丸 駅前再開発地区の前を通り、


国道50号方面へ。


『昔と随分変わったわよねっ』


水戸中央郵便局の先を


右に曲がり、水戸三の丸方面へ。


水戸城跡(塁および濠)前を通過し、


水戸地方裁判所前を通過すると、


裁判所の向い側に茨城県庁の旧三の丸庁舎が見えた。


突き当りに建てられている”水戸東武館”を左に曲がり、


しばらく道なりに進む。


朝方はそれほどでもなかった気温が次第に上昇し始めた。
この日の水戸の最高気温は31℃と予報されていたが・・・
『風が弱いのでちょっと暑くなりそうだねっ』


道路の反対側に、亡国の明を再興するために日本を訪れ水戸に仕えた明の遺臣
朱舜水(しゅしゅんすい)の像が建てられていた。


前方左手に水戸芸術館のシンボルタワー(高さ100m)が見える。


9時48分、水戸地方気象台前交差点に到着した。
国道118号を真っ直ぐ進むと宇都宮・常陸大宮方面だ。


気象台前交差点を横断し、


道路反対側へ渡って、国道118号を進み、


水戸保和苑を目指す。


9時53分、コンビニ前を通過


『そろそろ水分補給した方が良い頃かなっ』の声が上がるも、日陰となる場所が見当たらない。


五軒小学校前という交差点があり、右手を見ると、桜の木らしき木陰が見えた。
行ってみると、五軒小学校の校庭があり、校庭の周りには桜の木が植えられていた。
ここなら充分に日陰がある。
『ここで小休止しましょうっ!!』
時計は10時を回ったばかり、グッドタイミングだ。


美味しそうにお茶を飲む皆さん。
『今日は最高に美味しいわよねっ』


木陰に腰を降ろして一時の休息だ。
『ちょうど休憩に良い処があって良かったねっ』


当会最高齢のKKさん(90)、誕生日プレゼントのキャップが気に入ってくれているようだ。


10時9分、五軒小学校を出発し、


国道118号に戻って保和苑を目指す。


国道118号と県道342号の合流点となる末広町1丁目を通過。


道路脇に”水戸の あじさいまつり”の看板が現れた。
保和苑は近そうだ。


街路樹の根本にはあじさいの花が植えられていた。


この辺りの国道118号は”あじさい通り”と呼ばれているようだ。


茨城交通のバス停(末広町二丁目)があった。
地図を確認すると保和苑は近い。


水戸駅北口方面へのバス時刻表を見ると、けっこう頻繁にバスが走っていることが分かった。
『帰りはバスを利用しなさいって言われてるようだねっ』


旧町名 馬口労町 関南沖書 と刻まれた石柱があった。
石柱の横には次のような説明があった。
藩政初期の政保年間(1644~1648)常葉村から町方に編入された。
城下への出入り口として問屋や運送業者、商店で賑わった町で、町名の由来には
諸説あって明らかでない。
『これ何て読むのかしらっ?』
後で調べたら、バクロウチョウと読むことが分かった。


10時32分、牛丼の”すき家”とラーメンの”幸楽苑”が並んであった。


両店を過ぎると・・・保和苑入口と書かれた看板があった。


看板の裏に小さな広場のような場所があり、付近一帯の地図があった。
地図によると保和苑は直ぐ近くだ。


保和苑入口の地図に従って道路に出て右を見ると、正面に桂岸寺の門が見えた。
仁王門だ。


『いやぁ なかなか立派な仁王門だよねぇ』


仁王門を潜って真っ直ぐ進むと、桂岸寺の本堂があった。
ネットには以下のように説明されている。
桂岸寺は正式には大悲山保和院桂岸寺と言いますが、地元の人間には「谷中の二十三夜尊」
という名前で知られています。
天和2年(1682年)檀海和尚が開山し、当初は香華院(こうげいん)と称しましたが、
元禄7年(1694年)、徳川光圀公の命令により保和院と改称しています。


御本尊は勢至菩薩で、行基の作と伝えられ、佐竹氏の第8代当主佐竹貞義の護持仏です。
二十三夜尊の由来は、江戸時代に流行した二十三夜に勢至菩薩を念ずれば万劫の罪が滅する
という民間信仰からきており、桂岸寺の御本尊が勢至菩薩であることから俗に”谷中の二十三夜尊”
と呼ばれるようになった模様です。
その名の通り毎月旧暦23日に縁日が行われ、縁結び・金運・合格に恵まれるとして遠く県外からも
参拝者が訪れます。


本堂の左奥へ進むと、”ぴんころ地蔵尊”が建立されていた。
穏やかな表情である。


延命地蔵尊縁起(ぴんころ地蔵尊)
保和院桂岸寺は、天和2年(1682年)に建立され、御本尊は強い力を持つ大勢至菩薩です。
本堂の左奥に、江戸時代中期に時の典医の提案で建立された”宝暦の延命地蔵尊”があります。
昔から天命を全うし、ころりと最後を迎える功徳があるといわれ、「ぴんころ地蔵さん」とも
呼ばれておりました。
近年、自分の体の病める所と延命地蔵さんの同じ所に直接ふれて願い事が出来る小さな
お地蔵さんを望む声を聞くようになりました。
この願いをかなえ、さらに広く社会の福祉と街の再生を期して、多くの方々の募金ご協力
によって、新しくこの延命地蔵さんが建立出来ました。
平成19年11月23日、桂岸寺住職大越恒範権大僧正を導師として、大勢至菩薩のお力により
盛大な開眼法要式が執り行われました。
新しい延命地蔵尊の愛称は「ぴんころ地蔵尊」です。
ぴんぴんと天寿を全うし、ころりと大往生をとげるご利益があると言われております。
製作は石の彫刻家 深谷直之 氏です。
平成19年11月 延命地蔵尊建立委員会


「ぴんころ地蔵尊」の少し先に宝暦の延命地蔵尊像があった。
左が宝暦の延命地蔵尊像、右はぼけ除けの延命地蔵尊像


10時45分、保和苑入口に到着した。
ここからは各自自由に保和苑の中を観て周ってもらうことにして、45分後の11時30分に再び
ここに集まってもらうことにした。


保和苑
保和苑は、もとを辿ると隣接する大悲山保和院桂岸寺に隣接する庭園に起源を求められる。
水戸藩第2代藩主徳川光圀が寺の庭に親しみ保和園と名付けたのが始まりとされ、昭和初期に池に築山を配した純日本庭園として整備し名前を保和苑と改めた。
初夏には1万5000㎡の苑内に約100種・6000株のアジサイが色とりどりに咲き誇り、アジサイの
名所として知られ、毎年6月中旬から7月上旬には水戸のあじさい祭が開催される


苑内へ。
店名の入ったボンボリが並ぶ。
夜は明かりが灯るのだろう。


苑内には色鮮やかなアジサイの花が咲いていた。


真っ白でふんわりとしたアジサイの花に見惚れながら展望台へ。


展望台から下を望む。
『意外とこの展望台高い所にあるんだねぇ』
なかなか良い景色である。


順路を逆方向に進んでみることに・・・
順路11の方へ。


白いアジサイの花が目立つ。


谷の方から展望台を望む。


アジサイは見頃を迎えていた。


順路に沿って回って来た会員とすれ違った。


名前は分からないが綺麗に咲いている。


順路7の地点を通過
(必ずしも逆の順路の通りではないかも)


これはガクアジサイだろうか?


階段を上って行くうちに仲間と逸れてしまった。


アイスコーヒーやコーヒーゼリーなどの売店があった。
喉が渇いていたのでコーヒーゼリー(150円)を注文。
美味しかった。


さらに上への階段があったので上ってみると見晴台になっていた。


見晴台から苑内を観下ろしたところ。


見晴台の先(外)は住宅地になっていた。


見晴台を下って苑内を進む。


明星の滝
人工の滝だが、かなりの水が流れ落ちていた。


さらに苑内を進む。


アジサイの花


アジサイの花


弁天池があった。


池には噴水があり、手作りのアジサイの花が乗せられた筏が浮かべられていた。


苑内のあちこちで最も多く咲いていたアジサイ


この種の花もたくさん見ることが出来た。


間もなく集合時刻の11時30分になるため、保和苑の入口へと向かった。


寺の墓地との境に時なしの鐘があった。
鐘楼ではなく四脚門の中央に梵鐘が吊り下げられているところが珍しい。


NKさん(85)に鐘を撞いてもらった。
鐘の音が腹の底に重く響いた。


11時28分、「宝暦の延命地蔵尊」前で待っていると皆さんが次々に集まって来た。


集合時刻には少し早いが、全員が揃ったので、保和苑(桂岸寺)を後にすることにした。
この日はここで解散ということに。
帰りはめいめい水戸駅まで歩くなり、バスで帰るなり自由とした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』   『帰りは気を付けてね~っ』


桂岸寺の本堂に最後のお参りをして、桂岸寺の仁王門へ。


バス停に到着し、水戸駅北口行きバスを待っているところ。
皆さん全員がバスで帰ることにしたようだ。
今日の気温ではバスが正解と思われる。


11時41分、水戸駅行きバスがやって来たが、何人かはまだ来ていない。


少し遅れていつものメンバーと女性陣がやって来た。
近くの”美味しい蕎麦店”へ行くと言う。
お腹も空いていたので、水戸駅に向かうバスを見送って、一緒に蕎麦店へ行くことに。


蕎麦店はバス停から数分の所にあると言う。


11時44分、蕎麦店「久月」に到着した。
バス停から100mほどの所だった。


女性陣は5名、


男性陣は4名だ。
先ずは冷たいビール(中瓶)を注文
(生はあいにく提供されていなかった)


『かんぱ~いっ』


イカ天せいろ蕎麦(1,400円)を注文した。
ボリュームがあってとても美味しかった。


12時30分、食事が終わり、


揃ってバス停へ。
『いやぁ ウオーキングが終わったらその地の食事が楽しみなんだよな~』
上機嫌のTK会長であった。


バスを待つこと1分、水戸駅北口行きバスは直ぐにやって来た。
『この路線は素晴らしいねぇ 待ち時間がほぼゼロなんだよなっ』


12時53分、バスは約15分(270円)で水戸駅北口に到着した。


女性陣の皆さんは満足そうな表情だった。


13時4分発の土浦行きに乗ることにしよう。


水戸から約1時間後の14時9分、土浦駅に到着した。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


炎天下のなか、紫陽花の名所水戸保和苑へのウォーキングが無事終わった。
片道4Kmと見ていたので、帰りも歩くことを想定していたが、気温は30℃を越えていたと
思われるなか、歩くのを断念しバスを利用することに変更した次第。
保和苑の苑内を回った段階で万歩計は既に9,500歩を超えていたことから、帰りも歩いた場合は
往復16,000~17,000歩になっていたと考えられることから、帰りのバス利用は正解だった
のではないかと思っている。
当会(38名)では、最高齢90歳を筆頭に80歳以上13名、平均年齢が77歳を過ぎている
という状況のなか、自信も含めて無理はしないことが重要だと考える今日この頃である。

この日の万歩計は、11,000歩超を計測していた。

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全員が初めて 山と湖を望む台地コース(六中地区)

2024年06月07日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和6年(2024年)6月7日(金)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第5回、令和6年(2024年)第10回「山と湖を望む台地コース(六中地区)
ウォーキングに参加した。
この日のコースは、土浦市の「元気アップッロード」の中から運動普及推進員お薦めコースとして
紹介されている六中地区の”山と湖を望む台地コース”を歩くものである。
当初の計画では、5月31日に実施する予定だったが、雨のため1週間延期となりこの日に実施する
ことになった。

第一集合場所の乙戸沼公園(1)
もうすっかり緑一色である。


第一集合場所の乙戸沼公園(2)


乙戸沼公園に集まったのは、5名。
車2台に分乗してスタート地点の霞ヶ浦総合公園に向かった。
霞ヶ浦総合公園の駐車場にはかなりの人数が集まっていた。


『お久しぶりっ』   『今日も元気いっぱいですねっ』


あちらこちらで会話が弾んでいる。
この日の参加者は26名、予想を上回る人数となった。


この日のコース概要を説明した後、TK会長から注意点と励ましの挨拶があり、


9時44分、先ずは霞ヶ浦総合公園のシンボルである風車を目指して出発!


霞ヶ浦文化体育会館(水郷体育館)
面積約7,600㎡の大体育館で、バレーボールの国際試合などのスポーツだけでなく、
4,000人規模の大集会、講習会、展示会にと幅広く利用されている、とのこと。
大体育室(1778㎡ 36m×48m)
バレーボール3面・バスケットボール2面・バドミントン8面・ハンドボール1面・卓球台36台・
柔道4面・ソフトテニス2面等々


小体育室(626㎡ 20m×32m)
バレーボール1面・バスケットボール1面・バドミントン3面・卓球20台以上


サッカーグラウンドを横切って風車へ行ってみよう。


『いやぁ 気持ちが良いもんだね~っ』


グラウンドに見慣れないものがあった。
『これは何なのかねぇ?』


机の上に”女子ラグビーシューティング”と書かれた表のようなものがあった。
『女子ラグビーの組み合わせ表のようだねっ』
先ほど見たものは女子ラグビーに関係があるのかも知れない。


サッカーグラウンドを通り抜けて、周回道路を横断すると・・・


左手正面に風車があった。


風車方面へ。


風車を通り過ぎると、「光の輪のむこうに」(釣りキチ三平像)がある。


水生植物園へ。
土浦市の鳥に指定されているヨシキリの鳴き声があちこちから聞こえ、辺りに響き渡る。


水生植物園の中をぐるりと回って、


一回りすると・・・


右手に風車が見えた。
『こっちから見る風車も良いもんだねぇ』


さらに水生植物園を進み、


霞ヶ浦総合公園内の周回道路を進む。


左側の歩道を進んでいると、途中で歩道が途切れてしまったので、右側の歩道のある方へ。


10時8分、前方に霞ヶ浦文化体育会館(水郷体育館)が見えて来た。
9時44分に出発して、風車や水生植物園を観て、25分ほどで戻って来たことになる。
”足慣らし”が終わり、これからがこの日のコース本番となる。


国道125号方面へ進む。
右手には田植えの終わった田んぼの風景が広がる。
遠くに土浦市内のビルなどが見える。


国道125号交差点を渡り、


国道125号に沿った細い道路(国道125号の旧道か?)を土浦三高方面へ。
『この道は車も殆ど通らないようだし、静かで良いよねっ』


『あらぁ びわの実がたくさん生ってるう』


『もう直ぐ食べられそうだねっ』   『美味しそうっ!』


さらに旧道?を進むと・・・


土浦第三高等学校の各種部活の活躍状況を祝す幟が目に入った。


関東ソフトテニス選手権大会出場、全国高等学校簿記競技大会出場、全国高等学校ワープロ
競技大会出場、全国高等学校総合文化祭 物理部門・弁論部門出場、全国高等学校総合体育大会
弓道競技大会出場などの幟が並んでいる。


さらに旧道?を進むと・・・


少しだけ急な上り坂になった。


坂道を上って行くと、


土浦三高の正門へ続く桜の並木道に出た。
桜並木の木陰で一休みしようということに。


『霞ヶ浦方面からの風が心地良いわねっ』


この日家庭の事情で3年半前に退会していたFJさんが参加してくれた。
当会を辞めてからは運動不足を感じているそうで、近くのコースであれば随時参加したいとのこと。
もちろん大歓迎である。


10時36分、緩やかな坂道を土浦三高方面へ。


土浦三高正門


正門を入った少し先に”三高祭2024”の看板の一部が見えた。
『ちょうど文化祭が終わったところだったのかもねっ』


土浦三高の正門を左方向に道なりに進むと法泉寺の駐車場に出た。


法泉寺仁王門横ではたくさんのお地蔵様が迎えてくれた。


法泉寺仁王門


仁王像(阿像)


仁王像(吽像)


法泉寺へお参り
ちょうど庭木の手入れ作業が為されているところだった。


法泉寺概要
法泉寺の創建は醍醐寺三宝院流乗海和尚が開山したのが始まりと伝えられています。
応安7年(1374)、領主である小田城主小田孝朝によって小田領四ヶ寺(普門寺・大聖寺・法泉寺・
南円寺)が定められると法泉寺もその1つとなり以後、歴代小田氏から庇護され寺運が隆盛し
200を超える門徒を擁しました。
当初は諏訪ノ台にありましたが祐尊和尚によって中興され応永年間(1394~1428)に現在地に
移されています。
本尊の簑笠不動尊は弘法大師空海が自ら彫り込んだと伝わるもので、特に雨乞いに御利益を
あるとして、雨乞い祈願の祈祷がある時だけ御開帳になるそうです。
明治時代に入ると境内に大岩田小が開校し校舎としても利用されました。
寺宝である木造薬師如来脇侍三尊像は南北朝時代(14世紀)に製作されたもので桧材、寄木造、
玉眼、中尊である薬師如来座像の像高90Cm、脇侍である日光菩薩立像、月光菩薩立像の
像高107Cm、昭和49年(1974)に茨城県指定文化財に指定されています。
宗派:真言宗豊山派で本尊は簑笠不動尊。


10時44分、法泉寺仁王門前の参道を進み、


法泉寺を後にした。


緩やかな坂道を進み、


突き当りを右方向へ。


後に続く皆さん。
最後尾Gはもう少し遅れている感じだ。
この先小さな道が続くので離れてしまうと後続Gは道に迷ってしまうかも知れない。
少し待つことにしよう。


最後尾Gが追い付きそうだ。


『柘榴の花がきれいだねっ』


右手に小奇麗な竹林を観ながら進む。


曲がりくねった道を進む。
『けっこう道が複雑だねぇ』


大岩田一区公民館⇒の案内表示を見ながら真っ直ぐ進むと・・・


一面芝生に覆われた場所に出た。
『まるで芝生公園って感じだねっ』


木いっぱいに梅が生っている。


梅の実がたくさん落ちていた。
今年は全国的に梅の不作が報じられている筈だが・・・
『収穫しないのはもったいないよね~っ』


道なりに進む。


カシワバアジサイの花が咲いていた。


こちらはがくアジサイだ。


土浦消防署南分署から霞ヶ浦総合公園に至る道路を横断する。


真っ直ぐ進む。


”活魚寿し 寿司富”の看板を左手に見ながら真っ直ぐ進む。


さらに真っ直ぐ進み、


突き当りの急な坂道を上って行くと、


視界が開け、台地のような場所に出ることが出来た。


少し左へ進むと小さな鳥居があった。
鹿島神社の鳥居である。
鳥居を潜って・・・


参道?らしき所を進むと・・・
前方に門のような石の上に狛犬が乗っていた。
しかし、正面には小屋のような建物が建てられている。
鹿島神社の本殿は建物に隠れていて見ることが出来ない。
『この建物は何なんだろうねっ?』  『神輿が収められているのかなぁ?』


建物の左奥には赤い祠が建てられていた。
祠の名前は分からない。
キュウリが供えられていた。


右手を見ると、鹿島神社の本殿があった。
『いやぁ なかなか立派な建物じゃないっ』
本殿にはやはりキュウリが供えられていた。


本殿の前で参拝を済ませた。


先ほどから気になっていた本殿の真正面の建物だが、鉤はかかっておらず、手で開けることが
出来た。
少し開けて中を覗いてみたが、特に何も置いてはいなかった。
益々この建物が何の為に本殿の真正面に建てられたのかが解らなくなった。


多くの疑問を抱きながら、鹿島神社を後にして、台地コースを進む。


左手を見ると、遠くに山が見えたが、筑波山なのだろうか?
この辺りからだと男体山と女体山の両方が見える筈なのだが・・・
『宝篋山かしらっ?』


少し進むと今度は土浦市内が見えた。
一段高い建物は土浦駅前のうららビルと思われる。


台地には人家は殆ど見当たらず、野菜畑のみが広がっていた。
トマトや、


にんにくなどが植えられていた。


台地を進んで行くと小さな小屋のようなものがあり、


その脇に石仏群が並んでいた。


小さな建物の中には石仏の像が鎮座していた。


『近くにお墓もあるし、昔は寺があったんじゃないっ?』


石仏群を後にしてお墓の方に行ってみると・・・
土浦市指定名木・古木 「大岩田のヒサカキ」
樹高:10.0m、胸高囲:0.91m、葉張り:東西4.7m、南北6.8mと紹介されていた。


「大岩田のヒサカキ」の直ぐ近くに小さなお堂があり、市指定彫刻 石造浮彫如意輪観音像と
刻まれた石柱が建てられていた。


お堂の中を覗いて見ると、如意輪観音像が収められていた。


奥に祠のような建物があった。
神社のように見えるが、『墓がすぐ近くにあるのでお寺ではないか』という声も。


神社かお寺か分からない建物を後にして、お墓の横を進むと、石段があった。
『ここを降りるのって怖いよねっ』


手摺に掴まりながら慎重に下りる。


石段の途中から霞ヶ浦方面を観たところ。
中央やや右側に総合公園の風車が見える。


ようやく全員が何事も無く石段を下りることが出来た。


国道125号に沿った細い道(旧国道125号?)を霞ヶ浦総合公園方面へ。


細い道の右側には水路があり、水が流れていた。


細い道(旧国道125号?)を進むと、


11時42分、国道125号の総合公園入口交差点に到着した。


国道125号総合公園入口交差点を横断し、


ゴールの霞ヶ浦文化体育会館を目指す。


間もなくゴールの霞ヶ浦文化体育会館だ。


『今日のコースは良かったよっ』
その一言が嬉しい。


11時55分、ゴールの霞ヶ浦文化体育会館に到着した。
ちょうどお昼時で、お腹も空いて来たようなので、この日はここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


当会としては初めてのコースとなる、山と湖を望む台地コース(六中地区)が無事終わった。
この日は天気も良く、このようなコースが身近にあることを知ったということもあってか、
皆さんの評価はかなり良かったように感じた。
機会があればまた歩きたいと言う声も。

次回(6月14日)は紫陽花の名所と云われる水戸保和苑へのウォーキングが予定されている。
ネットで確認したところ、”水戸あじさい祭り2024”は6月8日から6月30日に開催が予定されて
いるので保和苑の紫陽花をしっかりと堪能したいと思っている。

この日の万歩計は、11,000歩を計測していた。

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感動は半分! 高柴山ハイキング

2024年05月18日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和6年(2024年)5月18日(土)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第4回、令和6年(2024年)第9回「ヤマツツジ群落の高柴山
ハイキングに参加した。

高柴山は、福島県小野町の北部に位置し、田村市船引町・大越町との町境にあり、
ヤマツツジの群落で知られる標高884mの山である。

常南交通社初企画”の文字に誘われて、2015年6月8日(月)に参加したのだが、
その時は花は完全に終わっていて、一輪のヤマツツジも見ることができず非常に残念な思いをした。

2回目は、前年のリベンジということで、ネットで紹介されていた満開のヤマツツジを期待して
翌年の2016年5月20日(金)に当会の例会で初めて訪れた。
この時は山頂一帯が満開のヤマツツジに覆われ、大いに感動したことを今でも鮮明に覚えている。

今回は、その時の感動をもう一度味わおうということで、8年振りに企画した次第。
ネットで確認すると、令和6年5月17日(金)現在、高柴山山頂は”満開~散り始め”の状態とあった。
令和6年度の高柴山の山開き(安全祈願祭)は令5月26日(日)に予定されているとのこと。
例会は山開きより約1週間早いが、もしかすると、満開状態に近いヤマツツジの大群落を
再び見ることができるかも知れない。
温暖化の影響だろうか、今年は色んな花の開花時期が通常よりかなり早くなっている。
期待と不安が入り混じる。


6時41分、三中公民館に常南交通社の中型バスがやって来た。


三々五々三中公民館に集まった参加者が乗り込む。
三中公民館からは13名がバスに乗り込んだ。


定刻の7時ちょうどに出発したバスは、途中天川交差点の常陽銀行前で1名、市民会館では8名
が乗り込み、この日の参加者は22名となった。


市民会館近くのコンビニで


常南交通社が予約していた朝食の弁当を受け取り、常磐道土浦北ICへ。


7時44分に土浦北ICを通過し、最初の休憩地友部SAへ向かう。


朝食の弁当
おにぎり2個とウィンナー、鳥唐揚、卵焼きが入った定番の弁当だったが、美味かった。


常磐道を走り、


8時6分、最初の休憩地友部SAに到着。
法令で定められた15分の休憩を採り、


バスは、再び常磐道を走った。


日立市山間部のいくつものトンネルを抜け、


9時21分、常磐道から分岐して磐越道へ。


しばらく磐越道を走ると、


9時34分、次の休憩所差塩(さいそ)PAに到着
トイレ以外は何もないPAだ。


9時57分に小野ICを降りて、


一般道を走ること約10分の10時11分、高柴山登山口への入口を通過。


10時19分、高柴山臨時駐車場に到着した。
臨時駐車場には弁当屋の車以外に、1台の車も停まっていなかった。
『今日の高柴山は我々だけの貸切状態なのかなぁ?』
『そんな筈はないでしょうよっ!』   『そうだよな~っ』


既に昼食の弁当が届けられていた。


各自へ昼食弁当を配り終え、


10時25分、高柴山目指して出発!


女性陣の一団が後ろに続く。


臨時駐車場を出た所を左折して、高柴山登山口方面へ。


緑溢れる木漏れ日のなか高柴山山頂を目指す。
『清々しくて気持ちが良いわね~っ』
この日12時頃の予想気温は25度だが、湿度は50%台とあった。
風もあるようなので、それほど暑くはならないだろう。


高柴山登山口入口分岐点に奥(いり)之観音像が建てられていた。
奥(いり)之観音 由来 によると、
ここは、奥(いり)之観音と呼ばれ、文化十四年(1817)頃に高柴山に放牧した農耕馬の
息災を祈念して建立されたが、観音像は紛失している。
この度このところに、東日本大震災・原発事故からの復興と当地域の繁栄を願い、
東京の篤志家が、聖観自在菩薩立像を奉納建立したものである。
(平成26年12月吉日)  施工 石元


10時33分、トタン屋根・木造の建屋前を通過。
前回2016年5月20日(金)来た時には、うどん・そばなどの店があった所だ。
今は全ての建物の扉は閉じられていた。


緩やかな坂道を進む。


緩やかな坂道をさらに進むと、


10時42分、東京スカイツリー(634m)と同じ高さの所を通過。


浮金登山口への分岐点を右へ進んで行くと、


臨時駐車場を出発して凡そ30分の10時54分、浮金登山口に到着
『な~んだ、皆さんここの駐車場を利用していたんだねっ』
臨時駐車場に我々以外に他の人の車を見かけなかった理由が分かった。


後続Gも次々に到着した。
『ほぼ予想通りの時間だねっ』


ここで軽い休憩を採り、


高柴山の案内図を確認し、


この日杖などを持って来なかった人用に備えられていた竹製の杖を借用して、


高柴山登山口から


11時3分、登山開始である。


浮金登山口までの緩やかな道とは異なり、少しばかり坂道の傾斜がきつくなってきた。


つづら折りの山道が続く。
『山道は久しぶりだから、けっこうきついわねっ』


緩やかな道との合流点には、”高柴山山頂まで 1Km”の案内表示が
『意外と距離はないのねっ』


この辺りから直線的なコースと緩やかなコースがあったが、もう8年前のような元気はない。
緩やかなコースを進むことにした。


登山開始から12分後の11時15分、太鼓石の案内石碑があった。
八幡太郎義家が奥州阿部貞任を攻めた際に、人馬とも疲れたので、この大石を打鳴らしたところ、
忽ち大きな太鼓の音とかわり、士気大いにあがり、敵を追い進軍したと云われる。
小野町観光協会


太鼓石まで150m、初めての人もいることから、太鼓石へ。
何名かは、太鼓石案内石碑で待つと言う。


3分ほどで太鼓石に到着した。


『この石を打ち鳴らしたら太鼓の音に変わったんだぁ』
『大きな太鼓くらいの石だねっ』


11時24分、太鼓石案内石碑へ戻ると、皆さん笑顔で迎えてくれた。
『お疲れさんっ』


再び高柴山山頂を目指す。
太鼓石案内石碑には高柴山山頂まで残り600mとあった。


11時31分、”山頂まで500m”の標識を通過。
左後方に”物見石”が見える。


高柴山山頂を目指す。


高柴山山頂を目指す。


周りの緑の中にヤマツツジが目に付くようになってきた。


11時39分、御神水分岐点に到着した。
あまり時間がないので、御神水へは寄らずに山頂を目指すことにした。
御神水分岐点から山頂までは260m、展望台までもう直ぐだ。


階段を上り、展望台を目指す。
周りのヤマツツジはそれほど咲いているような様子ではなかった。
『”満開から散り始め”ってあったけど、これが満開状態なのかねぇ』


展望台へ


『以前来た時とかなり状態が違う感じだよねぇ』
ヤマツツジがまずまず咲いている木と

前回(2016年5月20日)来た時に撮ったもの(同じ木かどうかは不明)


全くと言って良いほど咲いていない木が混在している状態である。


12時49分、展望台に到着した。
展望台の周りはヤマツツジは殆ど咲いている状態ではなかった。


早速展望台に上がってみた。
展望台からの眺め(1)

前回(2016年5月20日)来た時に撮ったもの


展望台からの眺め(2)

前回(2016年5月20日)来た時に撮ったもの


展望台からの眺め(3)

前回(2016年5月20日)来た時に撮ったもの。
その違いは一目瞭然である。


展望台からの眺め(4)


気温はそれほどでもないが、太陽が照り付けると暑いので、展望台の下で昼食を摂ることにした。
幸いなことに周りには誰もいなかった。
昼食タイム(1)


昼食タイム(2)


昼食タイム(3)


昼食タイム(4)


この日の弁当、とても美味しかった。
皆さん満足したようで、弁当の評判はすこぶる良かった。


昼食後、ヤマツツジをバックに記念撮影をしておこう。
『ここが良さそうだねっ』


全員揃っての記念撮影を済ませた。


高柴山神社にお参りして、


12時41分、下山開始!


下山途中で見かけたヤマツツジ(1)


下山途中で見かけたヤマツツジ(2)
ヤマツツジの花が日焼けしているような状態である。


先ずは浮金登山口を目指す。


日陰に咲いているヤマツツジは元気そうに見える。


『太陽に晒されると枯れるのが速くなるのかねっ』


ヤマツツジの群落を過ぎると、緑一色の景色に変わった。
『緑がとても綺麗だよねっ』


『下りは楽だから良いねぇ』


『そんなに暑くないからあまり汗かかないよねっ』


13時8分、浮金登山口に到着。


浮金登山口で後続を待っているところ。


全員が浮金登山口に到着したところで、13時13分、ゴールの臨時駐車場へ向けて出発!


『ここからは緩やかな坂道だから楽だよねっ』


登山口入口分岐点へ。


13時24分、東京スカイツリー(634m)と同じ高さの標識を通過し、ゴールを目指す。


ゴールの臨時駐車場を目指す。


13時31分、閉鎖されたログハウス前を通過


奥(いり)之観音像の傍にこちらを向いて微笑むお地蔵さんにお別れをして、


13時39分、バスが待つ臨時駐車場入口に到着した。


会計担当の女性がこの日の会費(一人10,300円)を徴収し終り、


13時52分、臨時駐車場を出発し、差塩PAへ向かった。


国道349号を走り、


14時5分、磐越道小野ICを通過


途中、差塩PAで10分の休憩を採り、


磐越道から常磐道を走る。
(常陸南太田IC付近)


15時35分、久慈川を通過すると、


間もなく友部SAだ。


15時47分、友部SAに到着。


皆さんは土産物買いに余念がなかったが、自分はいつものように、自販機のコーヒーを購入。


常磐道から筑波山が見えた。
『この形が好きなんだよね~っ』


16時20分、土浦北ICを通過。


土浦市民会館には16時31分に到着した。


『お疲れさまでしたぁ』


土浦市診療所前で1名が降り、最初の出発地三中公民館には16時57分に無事到着した。
『こんなに早く帰り着くとは思ってなかったよっ』

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

8年前に高柴山のヤマツツジの大群落を初めて見た時の感動をもう一度味わいたい、と企画したが、
前日5月17日現在の”満開~散り始め”というネット情報に、満開状態に近いヤマツツジの大群落を
再び見ることができるかも知れない、と大いに期待したのだが、実際には予想とはかなり異なる
状態であった。
まあ今回は、”感動半分”と言っておいた方が正直なところだろう。

この日の万歩計は、14,000歩を計測していた。

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弁当持参は正解 石神井公園から牧野記念庭園へ

2024年05月03日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和6年(2024年)5月3日(金)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第3回、令和6年(2024年)第8回「石神井公園から牧野記念庭園
(東京都練馬区)
」ウォーキングに参加した。

この日のコースは、まだ寒さの残る去る3月9日に下見を行っている。
コースを間違って皆さんに心配と迷惑を掛けたくないというのが、その理由である。
果たして今回は石神井公園駅を出発して、道を間違わずに大泉学園駅に辿り着けるだろうか。

荒川沖駅8時5分発の東京上野ライン品川行がホームに入って来た。


この日は祝日(憲法記念日)ということもあって、予想どおり車内は空いていた。


土浦駅からの人は勿論、


荒川沖駅からの人もゆったりと座ることが出来た。
『やっぱりゆっくりと座って行きたいよねっ』


9時6分、日暮里駅に到着。
この日の参加者は24名、予想を上回る参加者だ。


日暮里駅で山手線に乗り換えるため、山手線ホームへ。


山手線(池袋方面)ホームはかなり混雑していた。
『いつもこんな感じなのかねぇ』


9時33分、池袋駅に到着し、地下道を通って西武線方面へ。


9時40分発の急行飯能行き電車の入線を待っているところ。
急行飯能行きは、この日のスタート地石神井公園駅が最初の停車駅となる。
『一駅目が石神井公園駅とは幸先が良いんじゃないっ』


池袋から約10分後の9時50分、定刻通り石神井公園駅に到着した。
駅前で急遽弁当持参に変更した経緯などを説明し、先ずは石神井公園に向けて出発!!
石神井公園駅からいったんふじ大山道方面へ。


直ぐにふじ大山道を左に曲がり・・・


石神井駅前の商店街を石神井公園方面へ。


『いやぁ 今日の天気は素晴らしく良いねぇ』


”ようこそ石神井公園へ あと3分”の表示が。
『石神井公園って駅から近いんだねっ』


暫く進むと・・・


10時1分、石神井公園ボート乗り場に到着した。


石神井公園ボート乗り場の建物
売店もあり、軽食も可能なようだ。


石神井池にはたくさんのボートが繋がれていた。
既に石神井池に漕ぎ出しているボートも。


石神井公園案内図でコースを確認


”ワナを設置しています”の張り紙が
”特定外来生物のアメリカザリガニやブルーギル、オオクチバス、ミシシッピアカミミガメを
駆除しています”  石神井公園サービスセンター 認定NPO法人 生態工房
”週1回中身を確認しています!” などと書かれている。
『ほっとくと特定外来生物が増えすぎちゃうんだろうねっ』


右手に石神井池を眺めながら遊歩道を進む。


石神井池には気持ちよくボートを漕ぐ人たちが。


対岸の景色
『まるで緑に包まれてる感じだねっ』


洋風の邸宅なども見える。
『素敵な家だよねっ』   『あんな家に住んでみたいわねっ』


メタセコイアとラクウショウの大木が植えられている。
『どっちがメタセコイアなのかラクウショウなのか分からないねぇ』


石神井池の遊歩道を進む、当会最年長のKKさん。
この3月に90歳の卒寿を迎えたが、元気そのものである。


石神井池に建てられた「聖衣」
作者:三澤憲司 設置月日:1984年(昭和59年)3月31日 と紹介されている。
材質はイタリア産白大理石で高さ5.6m、重量は23t とのこと。


10時22分、けやき広場に到着。
この先弁当摂取地及び牧野記念庭園までトイレはないため、出来ればここ(けやき広場)で
済ませておきたいという考えで、休憩することにした次第。


しばしの休憩


10時28分、トイレを済ませ、井草通りを横断して


三宝寺池方面へ。


三宝寺池を反時計回りで進む。


 
『あらぁ もう花菖蒲が咲いてるよ~』


アサザ
池沼に生育する多年草です。アメリカザリガニなどの食害で消滅してしまいました。
しかし、その後水元公園から移植し、少しづつ増やしてきました、と表示されている。
『アサザって霞ヶ浦にも生えているわよねっ』


三宝寺池


メタセコイアも植えられている。


厳島神社と東屋が見える。


緑に覆われた遊歩道を進む。


三宝寺池
『青い空と三宝寺池が見事にマッチしてるね~っ』
『今日来て良かったぁ』


10時45分、厳島神社に到着


厳島神社に参拝した後は、東屋に行ってみることに。


いつの間にか鯉が寄って来た。
『いやぁ 随分でっかい鯉だなぁ』


遊歩道を進む。


水神社を視界を遮るように斜めに生えている大きな松の木が印象的である。


さらに遊歩道を進むと・・・


10時57分、石神井城址碑前に到着した。


石神井城は、中世武士の豊島氏の城です。
豊島氏は、葛西・江戸両氏とともに、秩父平氏で、南北朝時代には石神井郷を領有していました。
室町時代に城主の豊島勘解由吉座衛門尉(泰経)は、関東管領の上杉顕定に背いた長尾景春に
味方しましたが、そのために顕定を援助していた上杉定正の重臣である江戸城主の太田道灌に
より攻められ、文明九年(1477)四月、落城したと伝えられています。(以下略)
令和三年三月  練馬区教育委員会


坂道を上って行くと・・・


東京都指定史跡 石神井城跡の説明板があった。
(内容は石神井城址前の説明板とほぼ同様)


石神井城跡は木々が生い茂り森のような状態になっていた。
周囲は金網で囲まれており、中には入れないようになっている。


石神井城址を後にして、三宝寺へ。


石神井城跡(左側)と三宝寺(右側)の間にある小さな径を進むと、


大きくて立派な門構えの家があった。


その門前を右に曲がって、小さな径を進み、


さらに右に折れて細い径を進むと・・・


11時7分、三宝寺の境内に出た。


境内に小さなトイレがあったようで、何名かがここが最後だろうからと行ってしまった。
ここは待つしかない。


境内には満開状態のシャクナゲが・・・思わず見惚れてしまった。


『この石楠花はこれはほんとに綺麗よねっ』 


トイレに行った人が戻って来たので、先ほどの境内案内図に従って、境内を廻って観ることに。


三宝寺本堂
真言宗智山派の寺院
関東三十六不動尊の札所となっている。


根本大堂の手前に境内の四国八十八ヶ寺を巡る案内地図があった。
緑色で表示されているのは、徳島県(阿波の霊場、1番霊山寺から23番薬王寺)、
青色は高知県(土佐の霊場、24番最御崎寺から39番延光寺)、
茶色は愛媛県(伊予の霊場、40番観自在寺から65番三角寺)、
紫色は香川県(讃岐の霊場、66番雲辺寺から88番大窪寺)となっている。
最後の大窪寺の石碑は根本大堂の傍に戻るように設置されている。


根本大堂


根本大堂から太子堂(奥の院)へ向かう小さな通路があり、


通路の両側には各寺の名が刻まれた石碑が順に設置されていた。


太子堂(奥の院)
建物什宝調書控には「経堂」として載せられているもので、絵図面によれば、古来ほぼ現在地の
近くにあったと思われる。
昔は一切経等を納めた経蔵であったが、これに千体地蔵と弘法大師を安置したので、専ら太子堂
と呼ばれていた、と紹介されていた。


修行太子像
両脇に”南無大師遍照金剛”の幟が


三宝寺本堂と御成門の中間に大黒堂と地蔵堂があった。


お堂の中では大勢のお坊さんたちが揃って般若心経を唱えていた。
お経に合わせてリズムを取るような心地よい太鼓の音も聞こえた。
『まるでコーラスを聴いているようだねっ』


大黒堂と地蔵堂前に”ねりまの名木”として指定されているアカマツがあった。
樹高17m、幹の太さ2.5m


こちらはサルスベリで、樹高10m、幹の太さ1.5m


三宝寺の山門(御成門)
重厚な造りの四脚門で、主柱や控柱は上下を細め、肩を丸めた粽(ちまき)付円柱。
頭貫の獅子、像や獏の彫刻などに、江戸時代後期の特徴が示されている。
練馬区教育委員会
江戸時代は徳川3代将軍家光が狩猟でこの地を訪れた際に立ち寄っている。
以来山門は御成門と呼ばれている。


御成門を潜って三宝寺を出て右方向へ。
直ぐに右に曲がり、江戸時代以前から江戸と所沢を結ぶ古道だった旧早稲田通りへ。


旧早稲田通りを進むと・・・


11時31分、石神井氷川神社の参道前を通過


さらに旧早稲田通りを進む。
ここから先は車は一方通行となっている。


個人宅ではあるが、満開のバラが美しい。


さらに進むと、庚申塚という交差点があり、


道路を渡った所に庚申塚があった。


庚申塚


庚申塚の少し先の案内板によると、この道は「所沢道」と呼ばれていたとの説明があった。


所沢道は、八成橋で杉並区から練馬区へ入ります。
禅定院の門前で向きを西に変え、道場寺・三宝院を通って、富士街道を斜断した後、
南大泉を経て保谷市に入り、所沢へと通じています。
概ね今の「早稲田通り」です。(以下略) 
昭和59年3月 練馬区教育委員会


住宅地の中に大きな畑があり、キャベツが植えられていた。
『いやぁ凄いっ! ここは練馬区なんだねぇ』 


江戸時代は大山詣りの参詣道として活用されたふじ大山道(富士街道)を進み、


右側にRoyal Hostがある交差点を右へ。


そのまま進むと大泉学園駅に行けるが・・・


300mほど先の井頭の信号を左折して、


50mほど進むと・・・
12時4分、この日弁当を食べることにしている「井頭こぶし憩いの森公園」に到着した。


公園内を100mほど進んだ所に、


いくつかのベンチがあった。
子供連れの親子何組かの姿も見られたが、他には誰もいなかった。
『ここで弁当にしましょうっ!!』
弁当タイム(1)
『お腹空いちゃったなぁ』


弁当タイム(2)
何時も夫婦仲良く睦まじく。


弁当タイム(3)
『丁度上手い具合に人数分のベンチがあったんだよねっ』


弁当タイム(4)
リュックに腰掛けるKKさん。
お馴染みの光景だ。


弁当が終わり、12時45分、牧野記念庭園へ。


練馬区立南大泉小学校前を通過し、


住宅地内を幾つか曲がって進むと・・・
13時1分、目指していた牧野記念庭園の正門前に到着した。
庭園内の見学は自由行動として、13時30分に入口に集まってもらうことにした。
見学料金は嬉しいことに無料である。
『いやぁ 我々にとって無料は有難いよねっ』


何名かはVTRを視聴できる講習室へ。


ご案内
牧野記念庭園は世界的植物学者の牧野富太郎が大正15年(1926)から30年間暮らした
居宅の跡地を整備した。
昭和33年に開園し、平成22年8月にリニューアルした。
博士ゆかりの品を見学できる展示館もある。
園内には300種類以上の草木が植栽され、その中にはスエコザサ、仙台屋(センダイヤ:桜)、
ヘラノキなど珍しい植物も数多く含まれる。
最奥の建屋内には、牧野博士が生前、研究や執筆に没頭した書斎と書庫が当時のままに
保存されている。   昭和33年12月 練馬区



公園内には牧野富太郎博士の実物大の絵や、


直ぐ近くに牧野富太郎博士の胸像があった。
牧野記念庭園の牧野博士の胸像を囲むように植えられたスエコザサは、昭和2年(1927)に
博士が高知市の仙台屋の前で発見した笹の新種だそう。
当時、博士の妻・壽衛(すゑ)は病床にあり、翌年他界した。
博士は妻への感謝と愛情を込めてこの笹に「ササ・スエコアナ・マキノ」と命名した、そうだ。


ねりまの名木センダイヤ ザクラ
園内には牧野博士が高知市の仙台屋の前で発見して命名したもので、親木は枯死しており希少な
ことから指定されました、とのこと。
樹高:8m、幹の太さ:1.4m


メタセコイアの大木もあった。


園内の様子(1)


園内の様子(2)


園内の様子(3)


園内の様子(4)
熱心にスマホカメラで写真を撮っている人も。


ちょと疲れた様子


13時31分、牧野記念庭園を後にして、大泉学園駅へ。


ゴールの大泉学園駅を目指す。


間もなく大泉学園駅だ。


駅前の信号を横断すると・・・


13時39分、ゴールの大泉学園駅に到着した。
この日はここで解散というような形となり、自分たちは西部池袋線で池袋へ向かい、
山手線日暮里駅で常磐線に乗り換えて帰路に就いた。


15時38分、荒川沖駅に到着した。
疲れを癒そうということで、地元の数名が駅前の「や台ずし」に寄って行くことにした。
平日は16時開店だが、土日祝日は15時開店となっている。


『かんぱ~いっ』   
『やっぱ生ビールは美味いねっ』   『これがあるから楽しいんだよねっ』


『かんぱ~いっ』  
『これで少しは疲れが取れるようだねっ』

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

石神井公園から牧野記念庭園ウォーキングが無事終了した。
天気は快晴、これ以上は望めないウォーキング日和だったと言っても過言ではないと思う。

下見の時は弁当は大泉学園駅周辺または池袋の大手デパートででもと考えており、弁当持参
ではなかったのだが、その考えは甘かったというのが、見直すべき点として上げられる。
大泉学園駅周辺は食べ物店は殆どなく、池袋の大手デパートのレストラン街は、週末は特に
大混雑で、長時間待たされるという状態だったのだ。
そのため、例会1週間前に、弁当持参で参加するよう連絡網で周知を図ったのは正解だったと
思っている。
今後の都内各所のウォーキングは、都内各所での食事も悪くはないが、下見をしっかりと行い、
弁当持参も考慮に入れながら計画しなければと思っている。

この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。

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