ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(2日目:最終日)

2023年11月27日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年11月27日(月)

旧東海道第Ⅲステージの前回の第7回(関宿から草津宿)は、2023年5月13日から5月16に歩いた。
残すは草津宿から京都三条大橋までの2宿となっていたが、今回、旧東海道第Ⅲステージ第8回
(草津宿から京都三条大橋)として、2023年11月26日から11月27日にかけて歩いた。

第Ⅰステージ 日本橋から三島宿 2014年1月から2014年10月(凡そ10か月)
第Ⅱステージ 三島宿から新居宿 2016年5月から2018年4月(凡そ1年11か月)
第Ⅲステージ 新居宿から京都三条大橋 2018年5月から2023年11月(凡そ5年6か月)

日本橋をスタートしたのが2014年1月19日(日)だったことから、旧東海道終点の
京都三条大橋までを歩き終えるのに8年10か月かかったということになる。

旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(2日目:最終日)

前日は京阪石山坂本線の中ノ庄まで歩いたので、この日は中ノ庄から歩くことになる。
ホテルを出て中ノ庄駅には7時51分に到着した。
草津宿~京都三条(2日目:最終日)のスタートである。


子供たちが京阪電車の踏切を渡っている。
大人も足早に踏切を渡っており、いままさに通勤・通学の時間帯である。


旧東海道を進む。(中ノ庄駅近く)


少し進むと、膳所城址公園前の看板があった。
近くなので、膳所城址公園へ行ってみよう。


8時3分、膳所城跡公園の入口に到着。
入口には城門が復元されている。
慶長六年(1601年)、徳川家康の命によって築かれ、戸田一西の居城となった。
日本では珍しい湖城だった。


関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、関ケ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)、東海道を制し、
湖上の船運を抑える目的で、現在の膳所城跡公園(膳所崎)に膳所城を築城させました。
築城計画は藤堂高虎が担当し、それまで膳所崎に流れていた相模川を北方に付け替えたといいます。
(以下略)


城門を入ると、正面に膳所城址と刻まれた大きな石の碑があった。


公園内には野外音楽堂などもある。


膳所崎から近江大橋を望む。


旧東海道へ戻り、大津宿方面へ。


8時20分、和田神社に到着
膳所城址公園前の看板があった所から数100mほど進んだ所に、和田神社があった。


鎌倉時代に建築された本殿は、国の重要文化財に指定されている。


境内の公孫樹(いちょう)は、樹齢約600年・樹高約24m・周囲約4.4mの巨木。
関が原の合戦に敗れ捕らえられた石田三成を京へ護送する途中、休止の際に一時繫いだと云われている。


旧東海道を進む。


手製の地図を参考に歩いているのだが、時々現れる東海道の標識などが道案内になるので助かる。


滋賀朝鮮初中級学校を過ぎた辺りから手製の地図と道が合わなくなり、いくばくかの不安を覚えながら進んだ。
旧東海道(?)を進む。


旧山城屋の銀杏の木があった。
かなりな古木で道の真ん中なのだが、事前の情報としては持ち得ていなかった。


道に不安を覚えながら進むと、踏切があった。
京阪石山坂本線の踏切である。
この時点で完全に道を間違っていることに気が付いた。


京阪錦駅の所にあった案内表示板で現在地と旧東海道の位置を確認し、


先ほど渡った踏切ではなく、京阪錦駅のもう一つの踏切を逆方向に渡り、住宅街の狭くて曲がりくねった道を
数100m進むと・・・


県道18号(湖岸道路)に出た。
ここで、地元の人と思しき方に旧東海道を教えていただき、何とか旧東海道に戻ることが出来た。
このミスにより、石坐神社と北惣門跡を見過ごすこととなった。


教えていただいた旧東海道を進むと、


番場一丁目の案内図があった。
よく見ると旧東海道が青色で示されている。


ほどなく史跡 義仲公・芭蕉翁墓所の義仲寺に到着した。
時計は9時8分を差していた。


義仲寺境内
義仲寺の名は源義仲を葬った塚があるところから来ていますが、室町時代末に佐々木六角氏が建立した
との伝えがあります。
門を入ると左奥に俳聖・松尾芭蕉の墓と並んで木曽義仲の供養塔が立っています。
木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄の作です。
境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。
また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
昭和四十二年(1967年)十一月に国指定の史跡となりました。
大津市教育委員会


何と!! ”月曜日は閉門”とさせていただきます、とのこと。 残念!!


旧東海道を進む。
また京阪線の踏切があった。
右手に石場という駅が見えた。


またしばらく進むと、平野神社横と書かれた案内図があった。


緩やかな坂道を上って行くと・・・


9時21分、平野神社に到着した。


祭神は精大明神で蹴鞠の祖神と云われ、古くから芸能の神として信仰を集めてきた。
江戸時代には、蹴鞠を家職とする公家の飛鳥井・難波両家も当社を信仰し、その神事に奉仕していた。
毎年8月に境内で蹴鞠祭が催されている。


旧東海道を進む。


お城のような建物が・・・
後で調べたが、琵琶湖文化会館と思われる。


可愛らしい生水地蔵尊前を通過


滋賀県庁舎らしき建物が見えた。


旧東海道を進む。


古い宿場町の家並みが続く。


かつての大津宿の面影を今に伝える景色だ。


9時53分、京町一丁目交差点に到着した。
京阪電車が目の前を走っていくのが見えたが、交差点に踏切は見当たらない。


京町一丁目交差点は、札の辻であった。
札の辻の名は、江戸時代、幕府の法令を記した高札が建てられた四つ辻であったことに由来しており、
旅人たちに、馬や人足を提供する大津宿の人場会所もこの角にあった。
ここは、東海道と北国海道(西近江路)の分岐点でもあり、京都から来た東海道は東へ向かい、
西へ行くと北国海道であった。


現在、京町一丁目交差点(札の辻)には、大津市道路元標の石碑が建てられている。


京阪電車の踏切を横断して京都方面へ。


八町通の碑
上関寺町からから札の辻までの距離が八町(約872m)あったからとも、その間に八か町あったことによる
ともいわれています。
江戸時代の東海道にあたり、道の両側には多くの旅籠屋がありました。
なお、碑の立つ場所は、大名などの宿泊する本陣跡です。


近くに明治天皇聖跡の碑が建てられていた。
大津宿には二軒の本陣があり、この地はそのうちの大塚嘉右衛門宅である。


大津市御幸町辺りを通過


10時10分、JR東海道本線の上を通過


京阪京津線の踏切を横断してしばらく進むと・・・


10時13分、関蝉丸神社下社に到着した。
琵琶の名手蝉丸を祭る蝉丸神社は、逢坂山の麓の旧東海道沿いに三ケ所ある。
関蝉丸神社下社はそのうちの一つなのだろう。


京阪電車の蝉丸神社の踏切の先が蝉丸神社下社になる。


蝉丸神社下社本殿


本殿近くに 謡曲「蝉丸」と関蝉丸神社の説明板があった。
幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。
此の世で前世の罪業の償いをする事が未来への扶けになるとあきらめた宮も孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
一方延喜帝第三皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果まで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。
美しい琵琶の音に引かれて偶然にも弟の宮の蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆きあい、
姉宮は心を残しながら別れて行く、という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。
蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の
免許を受けることとされていたと伝えられる。


境内には蝉丸が詠んだ百人一首でも有名な句碑が建てられていた。
これやこの 行くも帰るも 別れつつ 知るも知らぬも 逢坂の関


旧東海道を進む。
この辺りは国道1号線と同じ道を歩くことになる。


また、直ぐ左側を京阪電車が走っている。


名神高速道路の下を進むと・・・


右手に関蝉丸神社上社が見えた。
道路を横断するのも大変だし、ここはパスすることにしよう。


そに少し先の弘法大師堂の隣に、逢坂常夜燈があった。


さらに進むと・・・


逢󠄀坂山関址の碑と逢坂常夜燈があった。
逢坂の関は、伊勢の鈴鹿・美濃の不破と並ぶ天下の三関のひとつと云われる。
隣の逢坂常夜燈は、寛政6年(1794年)建立、とのこと。


逢坂山を越えた辺りに来ると、「かねよ」の大きな看板が・・・
”日本一のうなぎ” と謳っている。
明治5年(1872)創業の老舗「かねよ」は、浜名湖産の国産うなぎを使用したうなぎ料理店、とのこと。


旧東海道(国道1号)を進む。


大津算盤の始祖・片岡庄兵衛の碑
江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長十年(1612年)、片岡庄兵衛が
明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝える。
同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。
なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家の御子孫が住まわれていた。


少し進むと、右一里町と彫られた道標があった。


さらに進むと、今一里塚町の表示が・・・
この辺りが日本橋から百二十三里目の走井一里塚ではないかと思われる。


国道1号を進むと、旧東海道(国道1号)は、名神高速道路の下を潜って進むことになる。


旧東海道を進む。


上横木を過ぎた辺りで、


”この先歩道行き止まり”の表示版が・・・


その先の土産物店(走り井餅本家?)の警備員と思われる方に『この先は行き止まりだから手前の地下道を
通れば反対側に渡れますよ』とのアドバイスをいただき、地下道を潜って反対側へ。


この場所は、国道1号と国道161号(西大津BP)の交わる箇所で、かなり複雑だったが、苦労の末、
何とか反対側へ抜けることが出来た。


旧東海道の案内マップを見つけた時には、ホッとした。


旧東海道を進む。


車石の説明板があった。


大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの荷物を運ぶ道として利用されてきました。
江戸時代中期の安永8年(1778年)には牛車だけでも年間15,894輌の通行がありました。
この区間は、大津側に逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり、通行の難所でありました。
京都の心学者脇坂義堂は、文化2年(1805年)に1万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋
にかけて約12Kmの間に牛車専用道路として車の轍を刻んだ花崗岩の岩を敷き並べ、牛車の通行に
役立てました。
これを車石と呼んでいます。


車石


旧東海道(三井寺観音堂辺り)を進んで行くと・・・


11時56分、京都市の案内標識があった。
ついに京都に入ったか、という気持ちになった。
あともう一息、頑張ろう!!


11時59分、旧三条四ノ宮を通過。


徳林庵という臨済宗南禅寺派の山号を柳谷山という寺の六角堂があったので、ここで少し休憩して行くことにした。


山科廻地蔵(めぐりじぞう)六角堂
現在の六角堂は江戸時代の作で山科廻地蔵を安置しています。
はじめ伏見六地蔵にあった六地蔵尊像は、後白河天皇の信仰を受け、平清盛・西光法師らの手により、厄病退散、
都往来の路上安全、庶民の福楽利益結縁を祈願し、それぞれの街道の入口六ヵ所に六角堂をつくり一体ずつ
分置されました(1157年)とあった。


旧東海道を進むと、12時18分、山科駅前交差点に到着した。


既に12時半近くになっていたので、山科駅でお昼にしていくこにしよう。


JR山科駅前にうどん・そば店があった。


肉うどんを注文(チケット購入)した。


昼食後、再び旧東海道を進み、京都三条大橋を目指した。


明治天皇御遣跡の碑前を通過


”おいしい焼肉屋さん”の看板
黄金色をした牛(近江牛?)の看板は目立つ。


旧東海道を進む。


史跡 五条別れ道標
この史跡道標は宝永4年(1707年)の建立。
道標には、「右ハ三条通」「左ハ五条橋・ひがしにし六条大佛」などと彫られている。


JR東海道本線の下を潜り、


電柱にあった急東海道の案内標識に従って・・・


府道143号を横断して、旧東海道へ。
随分と狭い径である。
とても旧東海道とは思えないような径である。


旧東海道の案内標識が頼りである。


車がやっと通れる狭い道路は続く。


今度はやや急な坂道になった。
坂道を上って行くと・・・


旧東海道(日ノ岡の峠径)の説明板があった。


(一部割愛)
東海道では幕末まで車の往来が禁止されていたが、都に近い大津・京都間だけは例外であった。
人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道(くるまみち)を分けて、車道には舗石が並べられ
車石と呼ばれていた。
当初、この辺りの日ノ岡の峠道は、大津から京都への難所の一つで、牛車の通る車道は深くえぐられて、
人馬が通る道との段差が生じ、雨が降るとぬかるんで牛車を立ち往生させていた。
そこで木食正禅上人が享保19年(1734年)頃から道路の改修に取り組み、車道に土砂を入れ人馬が通る道との
段差を無くしたり、峠の頂上を掘り下げ、その土砂を坂道に敷いてゆるやかな勾配にするなど工夫し、
元文3年(1738年)に改修を完成させた。こうして峠道は大きく改善されたのである。(以下略)
京都市


13時50分、国道1号線と合流した。


国道1号との合流点は小さな広場となっている。


平成九年十月の京都市営地下鉄東西線の開業に伴い、廃線となった京阪電鉄京津線軌道敷を利用し、
三条通の四車線化及び歩道の整備事業を実施した。
本事業の完成を記念して、三条通の舗石として敷設されていた車石を利用し、往年の牛車道を模した
広場を設置する。
平成十六年一月  京都市


旧東海道(国道1号)を進む。
この辺りは、かつて栗田口刑場があったといわれている所だ。


左側は京都市蹴上浄水場になる。


14時8分、京都市地下鉄東西線の蹴上駅を通過


ウエスティン都ホテル京都前を通過
大きなホテルだ。


14時15分、佛光寺本廟前を通過


粟田神社前を通過
粟田神社は、京都の東の出入口(粟田口)に鎮座し、道中の安全を願って、東海道を行き来する旅人の
信仰も厚かった。


京都三条通り


右手を見ると、平安神宮の大きな鳥居が目に入った。


京都三条大橋を目指す。


白川橋の袂に史跡 三条白川橋道標があった。
京都における現存最古の道標である。
(是より)ひだり ちおんゐんぎおんきよ水みち と彫られている。


ふと見ると、明智光秀の塚(約2分)の案内板があった。
最後の訪問地となるであろう、明智光秀の塚へ行ってみよう。


白川沿いに進み、


さらに案内に従って小さな路地を入って行くと・・・


明智光秀公の塚があった。


明智光秀の塚
天正十年(1582年)六月二日、明智光秀は本能寺(下京区)に宿泊していた主君・織田信長を急襲し、
自害させました。
しかし光秀は、備中高松城(岡山市)から引き揚げて来た羽柴秀吉(豊臣秀吉)と、十三日に山崎(天王山)で
戦って敗れ、わずかな家臣とともに近江の坂本城を目指して逃れます。
そしてその途中、小栗栖(伏見区)の竹藪で地元の農民に襲われて重傷を負い、自害して家臣に首を討たせた
と云われています。(以下略)


白川沿いに三条通りに戻り、


三条大橋を目指す。


古川町商店街を通過し、


三条大橋へ


京阪三条の信号を渡った所に、


高山彦九郎正之 皇居望拝之像があった。
高山彦九郎は、群馬県の出身である。
十八歳の時以来、前後五回上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように、
京都御所に向かって拝礼した。その姿は、
大御門(おおみかど) その方向きて橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 真心たふと 橘曙覧
と和歌に詠まれた。


14時48分、京都三条大橋に到着した!!


鴨川を渡る。
三条大橋から下流方面を望む。


京阪三条の対岸河原町方面へ。


三条大橋の京阪三条の反対側には”東海道中膝栗毛”で有名な「弥次さん」「喜多さん」の像があった。
この日東海道を歩き終えたという方がいたので、記念にシャッターを押してもらった。


もう一度京阪三条へ渡ることにしよう。
橋の袂に旧三条大橋の石柱があった。


今度は地下鉄東西線のある京阪三条方面へ


三条大橋から鴨川の上流を望む。


京阪三条の三条大橋の袂には、駅伝発祥の地の碑が建てられていた。
駅伝の歴史、ここに始まる
我国、最初の駅伝は、首都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」が、大正六年(1917年)
四月二十七日、二十八日、二十九日の三日間に渡り開催された。
スタートは、ここ京都・三条大橋、ゴールは東京・上野不忍の池の博覧会正面玄関であった。
自身の旧東海道歩きは、ここをゴールとしたい。


旧東海道歩きは、長い間の懸案事項だったが、何とか無事に歩き終わった。
この後京都市営地下鉄を利用して四条のホテルへ向かい、16時15分、ホテルに到着した。



この日の万歩計は、35,000歩を計測していた。
『いやぁ 今日は疲れた~』正直な感想である。


旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(1日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(1日目)

2023年11月26日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年11月26日(日)

旧東海道第Ⅲステージの前回の第7回(関宿から草津宿)は、2023年5月13日から5月16に歩いた。
残すは草津宿から京都三条大橋までの2宿となっていたが、今回、旧東海道第Ⅲステージ第8回
(草津宿から京都三条大橋)として、2023年11月26日から11月27日にかけて歩いた。

第Ⅰステージ 日本橋から三島宿 2014年1月から2014年10月(凡そ10か月)
第Ⅱステージ 三島宿から新居宿 2016年5月から2018年4月(凡そ1年11か月)
第Ⅲステージ 新居宿から京都三条大橋 2018年5月から2023年11月(凡そ5年6か月)

日本橋をスタートしたのが2014年1月19日(日)だったことから、旧東海道終点の
京都三条大橋までを歩き終えるのに8年10か月かかったということになる。

旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(1日目)

この日は荒川沖駅6時19分発の電車に乗り、東京駅7時57分発の「こだま707号」で米原へ。
JR東日本の大人の休日俱楽部会員は、「のぞみ」「ひかり」の指定席は利用出来ない。
東海道新幹線で乗ることが出来るのは、「こだま」のみである。
米原駅から東海道線に乗り換えて草津駅へ。
草津駅には12時14分に到着した。


草津駅前には、旧東海道と旧中山道の道標のモニュメントが建てられている。
右東海道いせち(伊勢路)と刻まれている。


草津駅前の道路を旧中山道方面へ。


旧中山道には、”草津歴史街道”の説明板(内容は省略)があった。
ここを右に曲がって行けば、旧東海道との分岐点(追分)になる筈だ。


旧中山道を少し進むと、トンネル(草津川隧道)があった。


草津川隧道の由来に関する説明板はトンネルを抜けた所にあったが、このような内容となっている。


トンネル(草津川隧道)の中は、両側に街道の景色を描いた絵があった。


こちらは宿場の風景だ


トンネル(草津川隧道)を抜けると、右側に高札場が。


反対側には東海道と中山道の追分道標が建てられている。
ここはかつての日本五街道の最幹線で、東海道と中山道との分岐点である。
トンネルができるまでは、この上の川を越せば中山道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へと行けた。
ここは草津宿のほぼ中心部で高札場もあり、この付近は追分といわれ、銅製の立派な大燈籠は、
旅人にとっては大切な目安であった。
常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残を留めている。


また、ここには東海道に関する草津歴史街道の説明板(内容は省略)があった。


草津宿の看板


草津宿を進むと・・・


右側に本陣跡の建物があった。
史跡草津本陣跡(田中七左衛門本陣)は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、


延4726㎡の敷地内には、かつての本陣の姿を髣髴とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品他、
貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、きわめて重要な文化遺産である。
入館料は史跡草津宿本陣のみの場合は240円、草津宿街道交流館との2館共通の場合は350円となっている。


田中本陣跡の少し先に脇本陣跡の建物が。
草津宿には、本陣が2軒、脇本陣が時代によって2~4軒あった。
この家は脇本陣藤屋与左衛門家にあたる。
今はお茶屋(吉川芳樹園店舗兼主屋)になっている。


草津宿街道交流館


交流館の少し先に草津宿の宿場町の地図があった。
宿場町を歩く際にはこのような地図があるのはありがたい。


石造道標
正面「右東海道」、右面「天明七年五月吉日」と彫られている。
以下の説明が・・・
江戸時代後期の作とある。
もともと建てられていた場所は分かりませんが、曲がり角や分岐点で東海道の道筋を示していたと思われます。
右側面に天明7年(1787)の年号が刻まれていることから、現存する道標のなかでは比較的古いものといえます。


「道灌蔵」前を通過


呉服商 万屋善助前を通過


12時42分、立木神社に到着した。


以下は、立木神社HPより
立木神社の創建は古く、縁起によると今から約千二百数十年前の神護景雲元年(767年)のこと、
御祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸国(茨城県)の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ
(古来初めて旅立つ事を鹿島立ちと云うのはこの縁による)、諸国を経てこの地に到着されました。
そして、手に持たれた柿の鞭を社殿近くに刺されこう言われたそうです。
「この木が生え付くならば吾永く大和国(奈良県)三笠の山(春日大社)に鎮まらん」
すると、その後不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出しました。
里人は御神徳を畏み、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています。


延暦二十年(801年)、征夷大将軍坂上田村麿将軍が、東北鎮圧に際して、当社にて道中安全と厄除開運を
祈願され大般若経一部を寄進しました。
この霊験に由来し、現在では厄除開運・交通安全の守護神として崇敬を広く集めています。
また、当社は古来より朝野の崇敬厚く五穀豊穣・家内安全・安産・商売繁盛・火災鎮護並びに
勧学の大神としてご神徳高く広く信仰されております。


立木神社を後にして、旧東海道へ。


12時53分、草津川に架かる矢倉橋を渡り、


旧東海道を西へ。


小さな地蔵尊に心の中で手を合わせる。


矢倉道標(市指定有形民俗文化財)
東海道と矢橋街道の分岐点に、かつて「姥ケ餅屋」があった場所の北の軒先に一基の石造道標があった。
これは、東海道を道ゆく旅人を矢橋の渡し場へと道案内するものであった。
この道標は、歌川広重の浮世絵をはじめ、「東海道名所図会」や「伊勢参宮名所図会」などに紹介された
「姥ケ餅屋」の軒先にも描かれている、とのこと。


南草津駅近くの旧東海道と東海道(国道1号)の合流点


国道1号を渡った先に、野路一里塚跡の碑があった。
野路一里塚は、日本橋から119番目の一里塚である。
現在は、上北池公園になっている。


関ケ原の合戦で、天下を手中にした徳川家康は、慶長6年に東海道、慶長7年には中山道に対する伝馬徴発令を
発布するなどいち早く江戸を中心とする交通、運輸網の整備を進めた。
慶長9年(1604)には引き続き東海道、中山道、北陸道の街道沿いに一里塚を築造した。
(以下略)


この先の旧東海道は複雑と聞いていたが、赤字で示された道標があったので、これを参考にして進んだ。


東海道と書かれた表示板に従って進む。
こういう案内標識はありがたい。


旧東海道を進んで行くと・・・


弁天池を示す地図があった。
赤く表示された道が旧東海道である。


少し進むと、”古き宿駅 野路駅の名残り”の説明板が。
野路の地名は平安時代末期にあり、「平家物語」や多くの紀行文にもその名がある。
ここ野路の十禅寺川と東海道が交わる辺りには、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。
「千載和歌集」の源俊頼の歌に
あすもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やどりけり
と詠まれた野路の玉川である。
萩の名勝として近世には、「近江名所図会」や歌川広重の浮世絵にも紹介されている。 
付近には重要文化財の本殿がある新宮神社をはじめ、野路小野山製鉄遺跡など多くの歴史遺産が所在する。


旧東海道を少し進むと・・・
弁天池があった。


弁財天参道橋を渡って弁天様に行けるようになっている。


弁天池を後にして旧東海道を進む。


月輪という地名の由来が刻まれた碑が建てられていた。
月輪池に由来する地名で、この池に映った美しい月の姿から名付けられたとも、
月輪殿九条兼実の荘園内にあったからともいわれます。
元来は原野でしたが、江戸時代に入って開墾がすすめられ、延宝四年(1676)大萱新田となり、
明治七年(1874)月輪村と改称されました。


曹洞宗普門山月輪寺行者堂


月輪寺行者堂には、新田開発発祥の地碑と


明治天皇御東遷御輦之所(めいじてんのうごとうせんごちゅうれんのところ)の碑が建てられていた。


さらに進んで道路を横断した所に東海道立場跡の碑があった。


立場跡の碑の後ろ側は枯れた状態であるが、月輪池と思われる・・・


旧東海道を進む。


一里山橋を渡り、


道路名は不明だが、そこを横断して緩やかな坂道を下って進む。


大江の千里(ちりんさん)
大江の地を荘園として持っていた伝えられる「大江の千里」は平安時代前期の歌人で、三十六歌仙のひとりとして
また、百人一首の第二十三首の歌人として著名な人である。
その奥方がこの地に住まいしていた。
村人はその跡地に野上神社(現在は、御霊神社のお旅所)を建て、その遺徳を偲んだといわれている。
第二十三首「月見れば 千々にものこそ 悲しけれ 我が身ひとつの 秋にあらねど
瀬田学区自治連・瀬田歩こう会


旧東海道と思しき地図があった。


旧東海道を進む。


大場の桜
この山桜は樹齢約200年の古木です。
旧東海道筋にあり、毎年美しい花を咲かせています。
旧東海道と芦浦街道との分岐点にあるこの木は、昔から現在まで人々の様子を見てきた古木です。
この桜は、江戸時代には参勤交代ででみやびやかな列をなして、毛槍を振り振り供奴を連れた大名行列が、
物々しく西に東に行き交っていたのを見つめていたことでしょう。
瀬田学区自治連合会  瀬田歩こう会  瀬田文化振興会


赤い欄干の高橋川を渡り、


桧山神社を左手に見ながら進むと・・・


15時19分、瀬田の唐橋の袂に到着した。


瀬田の唐橋を渡る。


瀬田川に沿って大きなホテルや旅館が立ち並んでいる。


遠くに琵琶湖が見える。
日本三名橋・日本三古橋の一つで歌川広重の『近江八景』のうち『瀬田夕照』はこの橋の風景を描いたもの。
東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしか方法はなく、瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は
京都防衛上の重要地であった。
そのため「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。


瀬田の唐橋の中州辺り


こちらは京都方面


京阪石山坂本線の線路を越えたところの鳥居川交差点を右に曲がる。


旧東海道を進む。
草津駅をスタートしたのが、12時30分頃だったので、この日は出来るだけ距離を稼いでおきたい。
JR瀬田駅前にホテルを予約しているので、暗くなる直前の16時30分頃まで歩くつもりである。


国道1号下を潜り、


京阪石山坂本線を渡る。


さらにJR東海道本線の下を潜って進む。


工場群が目立つ旧東海道を進む。


農業試験研究発祥の地付近の碑
明治28年4月1日、この旧東海道の向いに広がっていた、粟津が原(旧膳所村別保)に滋賀県農事試験場が
開設以来百年を迎えるにあたり、これを記念して建立(平成7年3月)


大津市立粟津中学校前を通過


膳所城勢多口(南惣門)跡の碑
膳所城下町の南の出入口になる。


旧東海道を進む。


京阪石山坂本線の踏切を横断して右に曲がると・・・


16時7分、若宮八幡神社に到着した。
若宮八幡神社は、壬申の乱(672年)があって3年後の白鳳四年(675年)、天武天皇が宇佐八幡の神託により造営した。


神社の社殿等が完成したのは白鳳八年(679年)で、九州宇佐八幡宮の次に古い八幡宮であり、当初は
粟津の森八幡宮、のちに若宮八幡宮となり、明治から若宮八幡神社となった。
表門は膳所城の犬走り門を移築したもの。


旧東海道を進む。


また、京阪石山坂本線の踏切があった。


旧東海道を進む。


篠津神社
祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)。創始年代や社歴については不詳。
古くから産土神(うぶすながみ)として庶民の信仰を集めていた。
重要文化財に指定されている表門は、膳所城北大手門を移築したもの。


道なりに200mほど進むと、中ノ庄駅があった。
時計は16時20分を少し過ぎようとしていた。
この日はこの辺りでホテルに引き返した方が良さそうだ。
ということで、この日は京阪石山坂本線の中ノ庄駅をゴールとしよう。


この後、京阪石山坂本線で石山まで行き、JR東海道線に乗り換えJR瀬田駅へ行くことになる。
16時40分、JR瀬田駅前のAPA HOTELに到着した。


この日の万歩計は23,500歩を計測していた。


旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(2日目)

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参加断念というハプニング 熊の山ハイキング

2023年11月18日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和5年(2023年)11月18日(土)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和5年度(2023年度)第13回、令和5年(2023年)第18回「熊の山(常陸大宮市)
ハイキングに参加した。

この日のコースは、水郡線下小川駅を起点・終点とする「熊の山」ハイキング。
熊の山には過去2回訪れている。
1回目が2013年5月3日(金)、2回目が2016年10月29日(土)なので、7年振り3回目となる。

土曜日としたのは、土日休日利用可能な「ときわ路パス」(一日2,180円)が利用できるから。
荒川沖~下小川は片道1,980円(往復3,960円)のところが2,180円と1,780円安くなる。
”大人の休日倶楽部”会員は、さらに510円安く1,670円で購入できるので、かなりお得である。
”大人の休日倶楽部”会員の身としては、これを利用しない手はない。

この日荒川沖駅には9名が集まった。
ほぼいつものメンバーである。


常磐線下りホームで8時ちょうど発の水戸行電車を待っているところ。


土曜日だったが、土浦までは立ったままの状態だった。
土浦駅で大半の人が降りたため、水戸まではゆっくりと座って行くことが出来た。


KS夫妻


ただ、この日土浦駅から乗車した当会の会員は1名のみだった。
参加を楽しみにしていたTK会長の姿が見えないのが気になった。
携帯に電話すると、キップ(ときわ路パス)の購入に手間がかかっている様子だった。
あと数分で発車するが、間に合うのだろうか?
8時12分、定刻どおり水戸行電車は発車したが、車内には会長の姿はないということに。
会長によると、特急で水戸駅へ先回りすることも考えたそうだが、特急は全て座席指定であり、
空席があるかは乗ってみないと分からないので、今回は参加は断念したということである。
結局、この日は13名が下小川駅に向かうことになった。

9時1分、時刻表どおり水戸駅に到着し、水郡線乗り場へ。
土曜日ということもあって、車内はかなり混んでいたが、何とか空席を見つけることが出来た。
全員がバラバラの状態で座ることになった。


10時23分、この日のスタート&ゴール地の下小川駅に到着。
下小川駅は無人のため、車掌にキップを見せて下車することになっている。


下小川駅


めいめい体調を整えた後、この日のコースと、帰りに予定している列車は14時12分発で、
その次の列車は2時間後の16時13分になることを説明し、


10時35分、熊の山を目指して下小川駅を出発!


線路に沿って上りのひたち大宮方面へ。


途中、線路を跨いで久慈川方面へ。


前方に久慈川に架かる沈下橋のような橋が見えた。


『四万十川の沈下橋みたいだねっ』


沈下橋?を渡る。
この地方では”地獄橋”とも呼ばれるそうだが、正式名称は”平山橋”という。


”平山橋”を渡って少し上ると国道118号に出た。


信号を横断してほぼ正面の急な坂道へ。
大きな文字で「熊の山」と書かれた案内板がガードレールに括り付けられていた。


坂道を上る。


『いやぁ けっこう急坂なんだよな~』


『いきなりの急坂には参っちゃうわよね~っ』


急坂を上ること凡そ10分、少し緩やかになった所で堪らず休憩だ!
『前に来た時よりきつかったわぁ』
前に来たことがあるということは、1回目が2013年5月3日なので10年前、2回目が2016年10月29日なので、
7年前ということになる。
体力的にも相当落ちていると思われるので、当然と言えば当然だろう。


秋空の下熊の山を目指す。


『いやぁ 今日は気持ちの良い晴れだねぇ』


熊の山方面を示す標識に従って、右方向へ。


途中から舗装された道路が、砂利道に変わった。
『ここから山道が始まるんだねっ』


最初は緩やかな上りの径が続く。


両側が雑木林の中を進んで行くと・・・


急な上りの手前に差し掛かった。


はっきりと径を覚えていないので、心細かったが、熊の山の標識が現れると心強く感じる。


11時25分、また別の標識が現れた。
この辺りは”見晴らし台”かもしれない。


ここで一息入れよう。


しばらく雑木林の中を進むと・・・


11時33分、三角点があった。
三角点は地図にも載っているので、径は間違ってはいないようだ。


それまで上りの径だったが、一転急な下りの径になった。


下りの先はまた上っている。
上りと下りが交互に続く。


下りの尾根道を進むと・・・


また、上りの山道になった。
あまり人が歩いた跡が感じられない山道に、「径は正しいのだろうか?」不安が頭を過ぎる。


11時58分、上りの山道を過ぎて下って行くと・・・”平山橋経由下小川駅”の標識が現れた。
何となく見覚えがある。今正に我々が歩いて来た道のことである。
歩いて来た山道は正しかったということが証明され、不安が払拭された。


その左側には、”左 下小川橋経由下小川駅 右 熊野山”の標識があった。
『帰りはここを通って下小川駅に行けば良いのよねっ』


後続Gが下りて来た。


全員揃ったのを確認して、右へ折れて熊の山を目指した。


熊の山の登り口までは平坦な径が続く。


左”熊の山” 右”高井釣”と書かれた標識があった。


当然のように、ここは左の坂道を進むと、熊野神社の鳥居が現れた。
この石段を上った所が熊野神社(熊の山山頂)である。


12時6分、鳥居を潜って石段を上る。
数えたことはないが、山頂の熊野神社(熊の山)まで200数十段ある、らしい。


途中から鎖が繋がれているのが有難い。
『鎖があると助かるよねっ』


山頂の熊野神社らしき建物が見えて来た。
『あともう少しっ!!』


12時13分、鳥居から6分ほどで熊の山山頂に到着した。
『いやぁ きつかったぁ 疲れた~っ』
『お疲れさ~んっ』
山頂には他のGが弁当を食べているところだった。


熊野山(310.6m)に到着!!


熊野神社に参拝を済ませ、


我々も早速、弁当タイム(1)
他のGは弁当が終わった後、直ぐに下山して行った。


弁当タイム(2)


弁当タイム(3)


弁当タイム(4)


弁当を終え、熊の山山頂からの眺望を撮った。
この日はやや曇があったため、眺望は前回(2016年10月29日)、前々回(2013年5月3日)
ほどではなかったものの、360度の景色が楽しめた。
パノラマ写真(1)


パノラマ写真(2)


下小川駅の次の駅、西金(さいがね)駅が見える。
画面中央には国道118号もはっきりと見える。


12時43分、弁当後に山頂でゆっくりする間もなく、下小川駅14時12分発の上り列車に間に合う
ことを念じて直ぐに下山開始だ。


熊野神社の鳥居を潜り、


下小川橋を目指した。


12時51分、”下小川橋 経由 下小川駅”の標識を通過。
列車の出発時刻まであと1時間20分、間に合うだろうか?


標識を過ぎると下りが続く。


先ずは下小川橋を目指す。


途中、倒木に径を塞がれた箇所があったが、何とか乗り越え・・・


下小川橋を目指した。


麓の墓地前を通過して、


13時13分、麓に到着した。
下山を開始してから、30分が経過していた。
『やっぱり下りは早いよねっ』


国道118号線沿いの「そば道場」のでっかい看板が見える。


『この分なら下小川駅14時12分発の列車には間に合いそうだねっ』


数分後、少し遅れていた後続Gが下りて来た。


全員揃って下小川駅を目指すことにした。
国道118号下を潜って、坂道を下ると・・・


13時26分、下小川橋の正面に出た。
『発車まであと45分、これなら充分間に合うよねっ』
列車に間に合うことが分かり、大分気が楽になった。


下小川橋を渡る。
『水郡線が見えるよっ』


『列車が走ってるのが見えれば最高なんだけどねっ』


『こっちが下流だねっ?』


久慈川の下流を見たところ。
『陽の光がキラキラと反射して眩しいけど、良い景色だねっ』


下小川橋を渡る。
後方には国道118号の赤い橋が見える。
絵になる景色である。


後方に見えるのは熊の山だろうか?


水郡線の踏切を渡り、


ゴールの下小川駅を目指す。


13時41分、盛金富士ハイキングコース入口を通過。


13時45分、下小川駅に到着!
次の列車の発車時刻の約25分前に到着したことになる。
『余裕だったねっ』


体調を整え、何人かは既に水戸方面のホームで列車を待っている。


少し遅れて我々も水戸方面へのホームに向かうことにした。


向い側に袋田方面の駅舎を見ながら・・・


列車を待つ間、しばし談笑のひと時を過ごす。


KM子さん手作りの干し芋が配られ、一段と話が弾んだ。
『甘くて美味しいわねっ』 『毎年作ってんだよっ、全部食べてっ』


14時10分、向い側のホームに郡山行き列車が到着した。


14時13分、1分ほど遅れて水戸行列車が到着した。


車内はかなり混んでいた。
全員が立ったまま水戸駅まで列車に揺られることを余儀なくされた。
『今の時期じゃしょうがないわねっ』


15時9分、列車に揺られること約1時間、水戸駅に到着した。
この日はここ水戸駅で解散しようということに。


解散といっても笠間から参加した一人を除いて向かう先は全員常磐線乗り場である。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


3回目の「熊の山」ハイキングは、まずまずの天気に恵まれた。
前日昼過ぎにはかなりの雨が降っていたので、一時”中止”もあるかな?との考えが脳裏を
過ぎったが、各社がこの日は”晴れ”という予報を信じたのが幸いした。

ショックだったのは、いつも元気に参加していたTK会長が、キップ(ときわ路パス)の購入に
手間取って電車に間に合わず、参加を断念されたということだった。
キップの購入は前日にと思っていたそうだが、都合によりこの日になった、とのこと。
なお、キップ(ときわ路パス)は、未使用により全額払い戻しをされたとのこと。
後日慰めることにしたい、と思っている。

この日の万歩計は、13,000歩を計測していた。

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祝日は避けた方が無難! 筑紫湖から椎尾山薬王院

2023年11月03日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2023年11月3日(金)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和5年度(2023年度)第12回、令和5年(2023年)第17回「筑紫湖から椎尾山薬王院
ウォーキングに参加した。

この日のコースはこれまで何度か歩いているが、各会ともコースは微妙に異なる。
最初の2015年4月24日(金)は、先ず筑紫湖を一周して、酒寄地区の熊野神社へ参拝し、
みかん圓を通り抜ける道を通って薬王院へ。
帰りはのんびりと薬王院参道を下り、筑紫湖へと歩いた。

2回目の2019年5月3日(金)は、筑紫湖駐車場から前回とは逆に薬王院参道を通って
薬王院へ向かい、みかん圓を通り抜ける道を下って、筑紫湖へと歩いた。

4年振り3回目の今回は、筑紫湖をスタートし、筑紫湖を半周して酒寄地区の熊野神社へ参拝し、
酒寄地区から椎尾地区を通って薬王院へ向かうコースとした。
帰りは1回目と同様、薬王院参道を下り、筑紫湖へと歩いた。

この日第一集合場所の乙戸沼公園には、7名が集まった。


車2台に分乗して出発地の筑紫湖へ向かった。


筑紫湖へ到着すると、筑紫湖の駐車場は既に満車で、駐車場から200mほど離れた道路脇に
かろうじてスペースを見つけてそこに駐車するハメになった。
『こんな所に停めるなんてことは初めてだよねっ』


駐車場に戻る際の道路の状況。
道路も隙間がない混み様だ。


筑紫湖駐車場の状態。
元々駐車台数が少ないので直ぐに満車状態になる。


当会の人の車は数台で、あとは殆どが他県などからのナンバーだった。
『いやぁ この混雑は想像以上だよねっ』
『この状態じゃぁ この時期はどこの観光地も混雑してるんだろうねぇ』


いずれにしても、とりあえず予定の出発時刻(10時00分)まで参加者を待つことに。
結局この後は参加者はいなくて、この日の参加者は21名となった。


集合時刻を10分ほど過ぎたことから、連絡事項等の説明後、いつものようにTK会長の元気な
挨拶を受け、10時15分、出発!!


この日は先ず筑紫湖を時計回りに半周する形に。


先頭はいつも元気なTK会長(83)が務める。


後に続く皆さん。
この時間になってもまだ駐車スペースを求めて? 走り回っている車が見られた。


駐車場から200mほどの地点を右折する。


この辺りに停めた愛車の横を通り過ぎ・・・


筑紫湖を右手に見ながら進む。


筑紫湖に映る筑波山と薬王院を詠んだ、と思しき和歌が刻まれた石があった。
紫の 山と薬師の 影うつす 水辺に映えよ 若き桜木” 


筑紫湖(南椎尾調整池)を右手に見ながら進むと、


調整池の施設があった。
霞ヶ浦揚水場から汲み上げられた水を一時的にこの調整池に貯めておく施設である。
この水は茨城県南西部に農業用水・工業用水・水道用水として供給されている。
この調整池には、学校のプール約1,000個分の水を貯めることが出来、その面積は東京ドーム
約3個分にもなるという。


施設の前には霞ヶ浦の水質浄化に関する説明があった。
『へぇ~ 筑紫湖の調整池ってけっこう重要な役割を背負ってるんだぁ』


施設の前を左に曲がって県道41号方面へ。


緩やかな坂道を下って行くと・・・


10時32分、県道41号に合流した。


県道41号を左に曲がって100mほど先をさらに左(酒寄地区)へ。


酒寄地区を進む。


『あれって リンゴじゃないっ?』
『酒寄地区はミカンだけかと思ったらリンゴも育つんだねっ』


前方に見えるのは、筑波山だ。
『筑波山っていつ見ても霞んでるわねっ』
紫峰と呼ばれる所以である。


しばらく酒寄地区を進み、


県道41号から600mほどの所を左へ曲がって進むと・・・


10時44分、熊野神社入口に到着した。


熊野神社入口には庚申塔が並んで立っていた。
一番大きな塔には”十九夜塔”と刻まれている。


この頃になると気温が上昇して、かなり暑くなって来た。
着ていた長袖シャツを着替える人も。
『ここでちょっと休んで行きましょうっ!』


『今年はなぜか柿が良く出来ちゃったのよっ』
何人かが持参した柿を配って回っていた。
『甘くて美味しいわねっ』


甘くて美味しい柿を頬張りながら、いざ熊野神社へ参拝だ!!


『いやぁ けっこう石段の数が多いねぇ』
(数えてみたら全部で80数段あった、そうだ)


『落葉で滑ると危ないからねっ』
『掴まる処がないから気を付けて~っ』


『まだ続いてるんだぁ』
最後の石段は真ん中に手摺が付いていた。
手摺があるだけでちょっとした安全を感じる。


10時51分、熊野神社拝殿前に到着した。


拝殿前の狛犬


熊野神社に参拝!!
酒寄は昔、熊野保といって紀伊熊野神社の社領であったらしい。


拝殿の扉を引くと開いたので、中は真っ暗だったがストロボで撮ってみた。
3体の木造らしき象が祀ってあった。
(10月27日に撮影したもの)


再び石段を下って・・・


熊野神社入口に戻って来た。


熊野神社を後にして、かなりの傾斜の坂道を薬王院方面へ。


『大きくて立派な長屋門だねぇ』
『普通の家1軒分以上の大きさがあるんじゃないっ?』


坂道を進む。


『立派な柚子だことっ』


『いやぁ 皆さんの家は大きな庭が付いてるよねっ』


馬頭尊の碑があった。


馬頭尊碑の横に”関東ふれあいの道”の案内板が。
薬王院まで1.2Kmとある。


この地点は三叉路となっており、左が薬王院方面ということになる。


三叉路で後続Gを待ち、


揃ったところで薬王院方面へ。


三叉路から6分ほど進んだ所で少し広い道路に合流した。
『ここはどの辺?』
皆さん、まだどの辺りか見当が付かないようだが・・・


合流地点を左に進むと・・・


『なんとなく見覚えあるなぁと思ったら、左は筑紫湖に行ける道だよねっ?』
どうやら歩いている場所が見当が付いたようだ。


薬王院を目指すには、右手に分岐して進むことになる。


坂道が次第にきつくなって来た。
当会最高齢のKKさん(89)は相変わらず元気である。
ゆっくりとだが、しっかりと進む。


ピラカンサスの真っ赤な実が生っていた。
『真っ赤できれいだよねっ』


道端に”二十夜塔”と刻まれた庚申塔がひっそりと佇んでいた。


関東ふれあいの道の碑があった。
このコースは、関東ふれあいの道(茨城県)コースNo.9で、上曽峠 から筑紫湖 までの
約12Kmとなっている。


坂道の右側には小さな流れ(沢?)があり、水が流れていた。


薬王院まであと数百米ほどの急坂の手前で、後続Gを待っているところ。


薬王院まで0.7Kmの表示


右側は行き止まりになっている。


後続Gが追い着いたので、揃って薬王院を目指すことにした。
『いやぁ この坂道はきついなんてもんじゃないよねっ』


急坂の径を上ること約8分・・・


11時32分、ようやく薬王院の参道に出ることが出来た。


参道を進み、


参詣順路 仁王門・三重塔・瑠璃殿へ。
阿弥陀堂は帰りにお参りすることにしよう。


『もう直ぐ目的地に到着だねっ』


仁王門への段差のある石段を上る。


仁王門の手前右側には、県指定天然記念物の樹齢500年のスダジイの巨木がドンと構える。
『いやぁ この椎の木は凄いね~っ! また立派だね~っ!』


仁王門を潜るも、


残念ながら、現在仁王門に金剛力士像の姿はない。


金剛力士像は拝観料500円で有料となっている。


この金剛力士像の写真は、2010年12月9日(木)に関東ふれあいの道で歩いた際に撮ったもの。
修理に出す前の状態である。
【阿像】


【吽像】


最後に東日本大震災で傾いた、段差があって上り辛い石段を上り切ると・・・


11時42分、正面に諸精霊菩提供養の仏像が迎えてくれた。
仏像の前には小さな可愛らしい仏像さんたちの姿も。
(10月27日に下見をした時にはなかった)


薬王院瑠璃殿にお参り!
椎尾山薬王院は延暦元年(782)最仙(さいせん)の開基による天台宗の古刹である。


本尊の薬師瑠璃光如来像は、鎌倉時代の作で県の文化財に指定されている。
この薬師堂は古来より病気平癒の霊場で知られている。


瑠璃殿の近くで最後の一休みだ。


『ここまで来ればねっ 後は下るだけだから』


『疲れちゃったぁ』


当会最高齢のKKさん(89)は、リュックに備え付けの自慢の簡易椅子で一休みだ。
まだまだ元気な様子。


境内に荘厳な鐘の音が響き渡る。


三重塔(県指定文化財)
県内三塔の一つに数えられている。
塔高25m、椎尾山のシンボルとなっている。
現在の堂塔は、38世学頭本孝・39世尊孝が、大工棟梁桜井瀬左衛門安信の手により、
宝永元年(1704)に完成させたもの。
色彩豊かな装飾建築が見所で、桜井安信は8年後に著名な成田山新勝寺三重塔を
完成させており、その点でも重要な建造物となっている。


三重の塔の近くにも立派なスダジイの巨木が。


椎尾薬師の御朱印所前を通り、


阿弥陀堂前で見えない阿弥陀如来に手を合わせ、


薬王院参道へ。


『ここからは下るだけだから楽だねっ』


足取りも軽く薬王院参道を下る。


『もう直ぐゴールだねっ』


薬王院から25分ほどで、薬王院参道への上り口が見えて来た。


12時23分、薬王院参道入口に到着し、左へ折り返して駐車場へ。


筑紫湖(南椎尾調整池)が見えた。


土・日・祝祭日のみ営業するという「つくし亭」前を通過。
会員の一人がちょっと覗いて見たところでは、かなり混んでいるとのことで、
1時間待ちの状態のようだった、とのこと。
また、蕎麦が無くなり次第閉店する、とのこと。
『秋の3連休初日じゃ仕方がないのかなっ』
初となる筈の「つくし亭」の蕎麦だったが、諦めた方が良さそうだ。


12時28分、ゴールの筑紫湖駐車場に到着した。


数名が他のコースへと抜けていったが、他の全員は無事ゴールした。
次回(11月18日 熊の山ハイキング)の”ときわ路パス”購入に関する注意点などを説明し、


TK会長から労いの挨拶があり、ここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


自車まで200mほど進み、帰路に就くことに・・・


帰るまで何も食べない訳にはいかないので、TK会長のお薦め店(蕎麦店)があると言うので、
皆さん(10名)と揃って筑波山登山口近くの蕎麦店「丸忠」に立ち寄ることにした。


祝日のためか、いつも以上に待たされはしたようだが、お腹が空いていたこともあって、
蕎麦はとても美味しかった。
蕎麦にありつけたことにより、最後はまあまあ満足して帰路に就いたことを報告しておこう。


好天のなか今年度第12回目となる”筑紫湖から椎尾山薬王院”へのウォーキングが無事終了した。
これまで何度か祝日に実施した例会はあったが、今回ほど後悔の残る例会はなかった。
先ず筑紫湖駐車場の混み方は想定外だったし、現地の蕎麦店「つくし亭」の込み具合も
我々としては、異常と思える状況だった。
金曜日に拘らなければこのような目に遭わなくて済んだかも知れない。
後悔の残る例会だったと思ってしまう一日となった。
今後は金曜日が祝日の場合は、翌週にするとかあるいは土曜日にずらすということも
考えなければと思った次第である。

この日の万歩計は、11,000歩を計測していた。

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