ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

八景を求めて 金沢八景歴史探勝(横浜)

2017年05月27日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年5月27日(土)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成29年度第7回(2017年第20回)、「金沢八景歴史探勝(横浜)
ウォーキングに参加した。
京浜急行金沢文庫駅から称名寺・海の公園・野島公園・琵琶島神社を巡り、
金沢八景駅まで散策しようというものである。

この日の行先は横浜のため、「休日お出かけパス」利用が得な土曜日とした。
土浦駅(荒川沖駅)からだと、往復3,326円なので、「休日お出かけパス」
(2,670円)は650円ほど得になる。

荒川沖駅7時38分発の電車を待つ。


常磐線車内
土浦駅から11名、荒川沖駅からは17名が乗り合わせ、
この日の参加者は、28名となった。


上野駅で東海道線に、横浜駅から京浜急行に乗り換え、


10時15分、金沢文庫駅に到着


金沢文庫駅東口を出発し、駅近くを走っている国道16号を横断。


100mほど横須賀方面へ行くと、「称名寺境内」 「金沢文庫」の案内表示。
案内表示に従って左へ。


住宅街を進む。
藻の日、都合により不参加のOさんに代り、先頭を務めるのはTさんである。
『Tさん よろしくっ!』


しばらく住宅街を進むと、金沢文庫への近道の表示が。
ここは案内に従うべきだろう。


庭には色とりどりの花が植えられ、目を楽しませてくれる。
『素敵だよねっ』


住宅地を進むと、


金沢文庫に到着した。
金沢文庫は、鎌倉時代中期に北条実時が所蔵する和漢の書物を
収めるために設けた私設図書館である。
館内では当時の資料と称名寺に伝わる文化財を展示する。
入館料500円(特別展は別途)


時間的な都合で、館内の見学はパスして、次の称名寺へ向かおうとしたが、
道が見つからない。


金沢文庫の奥に趣のある門構えがあったが、これは個人の家だった。
その先は山の奥へと続いており、称名寺への道ではなさそう。


引き返すかどうか迷ったが、近くの住人らしき女性がいたので、
称名寺への道を訊ねると、金沢文庫の横の小さな通路を教えてくれた。
『此処を行けば良いんだ』


その奥はさらに細い通路になっていた。
『いやぁ これじゃぁ 分らないよねっ』


通路を進むと、右手に金沢文庫の裏の入口があった。
称名寺の国宝・重要文化財の大部分は現在の金沢文庫が管理しているそうで、
入口は、称名寺を向いている。


金沢文庫入口の前がトンネルになっていた。
『このトンネルの向うが称名寺なんだっ』


トンネルを抜けると、称名寺の庭園が広がっていた。


庭園を右手に進むと、目の前に称名寺の苑池が。
先ほどまで歩いて来た住宅地とは全く異なる景色が広がっていた。
『まるで別世界にタイムスリップって感じだねっ』


金堂へ渡る反橋が見える。


さらに進むと、右手に新宮古址と刻まれた石柱と
その奥に社のような建物が。


堂々たる構えの仁王門
称名寺の仁王門は文政元年(1818)の創建。


阿像
仁王像(金剛力士像)は、胎内墨書により、元享三年(1323)の
院興らの作であることが判明しており、関東における最大の金剛力士像
だと云われている。
神奈川県指定重要文化財


反橋を渡り、


続けて平橋を渡ると、


正面が本堂(金堂)だ。
称名寺は、真言律宗別格本山の寺院で、山号は金沢山(きんたくさん
称名寺は、13世紀中ごろに金沢北条氏一門の菩提寺として建立された。


本尊は弥勒菩薩である。


釈迦堂


”称名の晩鐘”は、金沢八景の一つとなっている。


称名寺絵図(重要文化財)をもとに復元された浄土式庭園が広がる。
苑池と朱塗りの橋が美しい浄土式庭園は、四季、花に彩られる。
金堂前の苑池を中心とする浄土式庭園は、元応二年(1320)、
金沢氏3代貞顕の代に整備されたもので、発掘調査を経て
昭和62年(1987)に復元された。
浄土式庭園とは、浄土曼荼羅に基づいて配置された庭園のことで、
平安時代末期に盛んに造られた。
称名寺の境内は、国の史跡に指定されている。


反橋を渡り、次の目的地へ向かう。


仁王門を通り過ぎ、称名寺参道を進む。


称名寺塔頭(たっちゅう)光明院(こうみょういん)表門
光明院は、称名寺の塔頭のひとつで、「新編武蔵風土紀稿」に
「光明院、仁王門に向かって左にあり、五院の第一﨟(ろう)なり、
本尊地蔵春日の作なり」とあり、江戸時代後期には、五つの塔頭の
一位を占めていた。
この表門は、小規模な四脚門だが、和様を基調に禅宗様を加味した意匠。
寛文五年(1665)の造営で、横浜市内で最も古い建造物。
横浜市指定有形文化財(建造物)


参道の先に総門(赤門)がある。


総門(赤門)を潜り、称名寺を後にして、


金沢シーサイドラインの海の公園柴口駅を目指す。


住宅街を海の公園柴口駅方面へ。


『道路の向いが柴口駅みたいだねっ』


柴口駅前の信号を渡り、


駅舎を抜けると、海の公園柴口駅の東口に出た。


石段を上り、


松林を右手に見ながら進むと、


海岸に出た。
横浜で唯一の海水浴場がある人工ビーチである。
3~6月には潮干狩りで賑わうと聞いていたが、
まさに砂浜は大勢の人で賑っていた。
『いやぁ 人がいっぱいだぁ』


海を挟んだ対岸は、八景島シーパラダイスだ。
八景島側には人工の磯が広がり、夏は磯遊びや釣りが楽しめる、とのこと。


パノラマ写真
人工砂浜の砂は、千葉県富津市から運ばれて来たもの、だそうだ。


松林と砂浜の間にある歩道を進む。


『暑いけど適当に風があって気持ちが良いよねっ』


海の波打ち際も人が一杯だ。
松林の木陰(歩道の左側)にはたくさんのテントが張られていた。


歩道の右側もたくさんのテントが。


海岸の人出の様子
潮干狩りを楽しんでいる。海の公園の潮干狩りは無料だそうだ。
『無料で潮干狩りが出来るってのは良いねぇ』


手足についた砂を洗い落とす設備もある。


砂浜近くの草の上にもテントがびっしり。


海岸の様子
これほどの人出は想像以上である。
『いやぁ もの凄い人だなぁ』


人工砂浜が終わると、次は金沢シーサイドラインに沿って進む。
高架橋の下を進む。


『ちょうど日除けになって良いわねっ』


11時34分、金沢警察署洲崎交番前を通過


金沢シーサイドラインから野島運河の対岸の様子を見る。
こちらは、人工ではなく自然の海岸である。
後ろの小高い山が目指す野島山(海抜57m)と思われる。


一生懸命に潮干狩りをしている。
こちらも無料だそうだ。
『それにしてももの凄い人だねぇ』


濃いピンクのタチアオイ(立葵)
『きれいだねっ とっても』


野島公園駅が見えてきた。


野島橋で野島運河を渡り、対岸へ。


野島運河


野島運河を渡って直ぐに左に折れ、運河に沿って海岸方面へ。


『あらまぁ 小さいけど立派に生ってるじゃないのっ』
自然のビワがもう直ぐ食べごろだ。


金沢八景教会前を通過して少し進んで左へ折れると、


11時49分、伊藤博文別邸に到着した。


見学は無料だが、時間がないため、玄関を入っただけで失礼し、
外から建物を観て回ることにした。


伊藤博文別邸の裏に廻ってみると、
『あらぁ 海が真ん前じゃないのっ』


伊藤博文別邸裏は海岸になっていた。
『みんな潮干狩りしてるみたいだねっ?』
バケツやクーラーボックスには、かなりのアサリなどが入っていた。


八景島は目の前だ。
『海の香りがするわねぇ』
海岸いっぱいに青のりの匂いが広がる。


伊藤博文別邸
平成21年に復元工事が施された、明治31年(1898)建築の
茅葺き寄棟造りの建物。
大正天皇や韓国の皇太子も訪れたという。


邸内には伊藤博文に関する資料と調度品を展示している。


既に花期は終わったが、牡丹園もある。
広い庭園には18種・205株の牡丹が4月中旬〜5月にかけて咲き誇る、
とのこと。


伊藤博文別邸を一回りすると、牡丹園入口に出た。


駐車場近くの松林は、ほとんどキャンプ場といった状態だ。
松の木の下は、テントだらけである。


海抜57mの野島山展望台を目指す。


少しばかり急な坂道を野島山山頂(57m)へ。
『今日のコースは、平坦って書いてあったけどねっ』
当会にとって海抜57mは、平坦のうちなのだ。


山頂への途中、木々の隙間から人工砂浜と金沢漁港が見えた。


12時5分、野島山山頂に到着


早速弁当にしよう。
旨い具合に、山頂には適度な数のベンチと椅子があった。


『ベンチも椅子も揃ってるとはラッキーだよねっ』
広い山頂には、我々以外には殆ど人はいなかった。
たまに何人かが上って来ただけだった。


『あっ トビが飛んでるよっ』
『気を付けてっ!』


この直後に女性たちの悲鳴が聞こえたと思ったら、
あっと言う間にTさん(左)が手にしていたパンが
トビにかっさらわれてしまった。


昼食後、展望台へ。


『いやぁ ここからの眺めは素晴らしいねぇ』


展望台からの景色(1)


展望台からの景色(2)


展望台からの景色(3)


展望台からの景色(4)
あいにく富士山は見えなかった。
(肉眼ではかすかに見えたが、デジカメには収められなかった)


展望台からの景色(5)
横浜のゲートブリッジ


展望台屋上で記念撮影を済ませ、


念のため展望台をバックに記念撮影し、


12時57分、野島山を後にした。


上って来た道とは違う道を下りる。


『天気が良くて気持ち良かったわねっ』
『ほんと良い所だったよねっ』


『けっこう急な石段だなぁ』
『気を付けてっ!』


石段を降りた所に野島稲荷神社があった。


地図があったので場所を確認しようとしたが、
公園の周囲は省略されており、北が逆方向を向いているので、
初めて訪れた者にとっては、どういう風に進めば良いのかが分らない。


近くにバーベキュー場があり、


その傍に管理場があったので、夕照橋への行き方を教えてもらった。


夕照橋を目指して松林の中を進む。


教えられた通りに進むと、運河と並行する道に出ることが出来た。
後はこの道を真っ直ぐ進めば夕照橋の筈だ。


夕照橋を目指す。


左前方に夕照橋らしき橋が見えて来た。


夕照橋だ。


この辺りから見えた景色が金沢八景の一つ”野島の夕照”かも知れない。


夕照橋から右手の平潟湾を見たところ。
”乙艫(おっとも)の帰帆”は、金沢八景の一つとされている。
潮が引いたところでは、潮干狩りをしている人もいたが、その数は少ない。


夕照橋を渡り、平潟湾に沿って進む。


金沢シーサイドラインの列車が走っているのが見えた。


侍従川を渡る。


平潟湾沿いの道には、いろんな木が植えられている。
カリステモン(ブラシの木)の花が咲いていた。
『ブラシみたいな花だねっ』


平潟湾には、ヨットが停泊されていた。
『ヨットまでどうやって行くのかねぇ?』
『ボートで運んでもらうのかねぇ?』


金沢シーサイドラインの電車がちょうど頭の上を通り過ぎて行った。


平潟湾を眺めながら進む。
”平潟の落雁”は、金沢八景の一つとされている。


右手に琵琶島神社が見えてきた。


13時41分、琵琶島神社に到着
横浜金沢七福神の一つである弁天様が迎えてくれる。


琵琶島神社の鳥居を潜って参道を進む。
神社は、平潟湾に臨んで琵琶の形にせり出した小島に祀られている。


琵琶島神社境内から平潟湾を望む。
琵琶島神社近くから見る”洲崎の晴嵐”と”瀬戸の秋月”が、
金沢八景とされている。


琵琶島神社に参拝
鎌倉時代の征夷大将軍源頼朝の妻、北条政子が近江の竹生島から勧請した
弁天様が祀られている。


琵琶島神社で最後の休憩を摂り、


京浜急行金沢八景駅へ向かう。


13時56分、金沢八景駅に到着


ホームに上がると直ぐに電車が来たので、一度は乗ったのだが、
切符を買ってる人がまだホームに上がって来ていない、と云うので、
いったん電車を下りた。
何人かは電車に乗った状態だったため、そのまま行ってしまった。
切符を買うのに手間取って遅れてやって来た人と一緒に、
次の電車を待っているところだ。


横浜駅で東海道線に乗り換え、


品川駅で常磐線の始発に乗り換える。


『始発だからゆっくり座って帰れるねっ』


この日の思い出話は尽きない。


『冷えたビールが美味いっ!』
『お疲れさま~っ』

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

この日は、金沢八景を求めて京浜急行金沢文庫駅から金沢八景駅まで散策した。
八景の由来は、江戸時代に心越禅師(しんえつぜんじ)が選んだ以下の八つの名景である
①称名の晩鐘 ②洲崎の晴嵐 ③野島の夕照 ④瀬戸の秋月
⑤乙艫の帰帆 ⑥小泉の夜雨 ⑦平潟の落雁 ⑧内川の暮雪、による。
現在は、入江の形が大きく変わっているため、当時の姿としては
称名寺の晩鐘の他は見ることができなかった。
ただ、いくつかの景色を除き、金沢八景のかつての面影は
偲ぶことができたように思う。

この日の万歩計は、15,000歩を計測していた。

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旧甲州街道を歩く 第十二回 石和宿から韮崎宿(2日目)

2017年05月22日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年5月22日(月)

「甲州街道を歩く」第十二回(1日目)は、石和宿(JR石和温泉駅)から
韮崎宿(JR韮崎駅)までを歩いた。
2日目のこの日は、甲府宿から韮崎宿(JR韮崎駅)までを歩いた。

2日目の朝、朝食をしっかりといただく。
ビジネスホテルとは思えないほど、メニューは充実していた。


各自部屋で朝の連続TVドラマ「ひよっこ」を見終わり、
8時34分、出発だ!


甲府駅南口から伸びる平和通りを跨ぐ歩道橋が見えて来た。


相生歩道橋を渡り、国道52号(韮崎)方面へ。


国道52号をしばらく進むと、


荒川橋がある。


荒川


荒川橋を渡る。


荒川の直ぐ隣には貢川(くがわ)が並行して流れている。


貢川橋を渡ると国道5号は二つに分かれていた。
どちらも国道52号だが、


旧甲州街道は、右の道になる。


貢川橋西詰から350mほど進むと、左に大きく曲がる所に
上石田のサイカチの木があった。


この地は貢川の河川近くであったが、河川は整備され今のような市街地となった。
サイカチは川岸の湿ったところに生える木で、この場所に本樹があるのは、
昔の自然の一部を残したものである。


また、大小そろって生えていることから、地元の人々は「夫婦サイカチ」
と呼んで親しんでいるが、両樹とも雌木である。
樹齢は両樹とも約300年と推定される。
甲府市指定有形文化財・天然記念物である。
(甲府市教育委員会)


旧甲州街道(国道52号)を甲斐・韮崎方面へ。


貢川交番前交差点を横断。


韮崎まで12Kmの標識
『まだ先は長いわねっ』


旧甲州街道を韮崎を目指して進む。


この日の昼食は、道中の食事処で食べられる保証はないことから、
コンビニで弁当を買って行くことにする。


9時42分、県立美術館前を通過。
ミレーの「落穂拾い」、「種をまく人」などを所蔵していることで知られる。
この前を通る国道52号は美術館通りと呼ばれている。


旧甲州街道を進む。


9時52分、中央自動車道の手前で甲斐市に入った。


『今日も暑くなりそうだねっ』
この日甲府市の予想最高気温は30度になるらしい。
昨日は32度だったので、いくぶんましだが・・・


旧甲州街道は、竜王新町交差点で国道52号と分岐する。
竜王新町交差点を右に曲がり、少し進むと、
ビルの真ん前に竜王新町下宿道祖神場があった。
道祖神のご神体は、直径45Cmのまん丸い石である。


江戸時代、村人の互助的な集会協議実行の場所として、
地域発展の基点となった「寄合場」である。
村の道路・河川・農産・慶弔交際又は、盆・正月・祭り・相撲大会など
すべての事がここで民主的に協議された。
往時50坪の地積であったが、大部分が道路用地となったので、
この由緒ある地積を保存すべく、昭和8年大蔵省から払い下げ、
10人の共有地となっている、とのこと。


10時15分、称念寺に到着


称念寺本堂
浄土宗の寺院で山号は必得山


ご本尊は、阿弥陀如来像である。
市指定有形文化財の紙本著色仏涅槃図(しほんちゃくしょくぶつねはんず
を所蔵されている。説明によると、
仏涅槃図とは、釈迦の入滅の情景を描いた絵画です。
一般的には、釈迦の足に触れるのが大迦葉あるいは
毘舎離城の老女であるのに対し、この称念寺本は
俗人の翁となっています。(甲斐市教育委員会)


称念寺には「くり抜き石枠井戸」がある。
この井戸は、江戸時代には称念寺が信州往還(甲州街道)に面しており、
ここを往来する人々が赤坂台を通過する際に休憩したことから
古くから『お休み井戸』とも呼ばれていた。
この井戸の石枠の規模は高さ61㎝、幅92㎝、内径65㎝の正四角形で、
四隅は角を削ってある。
市指定有形民俗文化財になっている。


本堂左手奥に石造六地蔵尊がある。
銘文は見られないが、江戸時代初期の作とされている。
もとは寛永年間(1624~1644)に赤坂諏訪神社付近に創建された
地蔵院の本尊であったと伝えられている。
市指定有形民俗文化財になっている。


称念寺でお茶タイムにしよう。
『どうぞっ』 『いやぁ ありがとう、いただきま~すっ』


中央本線の踏切を渡る。


右側には竜王駅が見える。


左側は韮崎方面だ。


線路を渡って少し進むと、すこしばかり急な上りの坂道になる。
赤坂だ。


坂の途中で後ろを振り返ると富士山が見えるとのことだったが、
あいにくの曇り天気で霞んでしまって富士山は見えなかった。
『晴れてればばっちりと見えたんだろうけどねっ』


坂の途中に供養塔が建てられている。
供養塔は、高さ4.3m、幅1.12m、厚さ0.38mの大きさ。
建立年代は、安政年間(1854~59)で、表面を平坦に加工した
巨大な自然石で造られている。
阿弥陀如来の名を称える「南無阿弥陀仏」を六号名号と呼び、
この塔は六号名号を本尊として、供養のために建立されたものであり、
念仏講中による信仰的な表現である。
市指定有形民俗文化財


10時45分、赤坂を上り切った辺りの諏訪神社に到着


境内には御柱が立てられていた。
柱には”竜王新町諏訪神社秋期御柱大祭 平成28年10月30日”とある。
『次の御柱大祭は7年後なんだろうねっ?』


諏訪神社の拝殿に参拝!


その右隣に赤坂稲荷大明神がある。
ここにも一応参拝!


諏訪神社を後にして、韮崎を目指す。


赤坂台総合公園の入口交差点には「クリーンエネルギーセンター」があり、
展示室には水力発電・太陽電池・風力発電などのクリーンなエネルギー
に関する体験型の装置があるとのこと。


龍王源水
龍王源水は、竜王地域の人々が日常飲用している水道水の原水である。
釜無川近くの水源の地下100mの深井戸から汲み上げた水で、
地中のカルシウムやマグネシウムのミネラル分が豊富に溶け込んで
中程度の軟水になっている、そうである。


旧甲州道中下今井宿辺り


T字路に道標があった。
”右市川 左甲府”と刻まれた文字が読める。


道標を右に曲がると、蔵屋敷の門を構えた家が現れた。
歴史を感じさせる構えで当時の面影が偲ばれる。
この下今井宿には本陣はなく、商人が利用した「宿」だったという。


『大きくて立派な家だねぇ』
門の両側が蔵になっている家は初めてだ。


天真山自性院の参道
石畳は、明和二年(1765)の建造で、
甲斐市指定有形民俗文化財になっている。


参道にある赤い印のついた石は、
水戸光圀公が諸国漫遊で甲州街道より信濃方面に出向いた際、
自性院に立ち寄り、けつまづいた石、だそうだ。
『水戸の人はこのこと知ってるのかねぇ』


自性院は、一度しかない人生をどう生きていくかを静かに考える寺、
静かにお参りしましょう。
と門の前に書かれていた。


本堂の前に地球の反対側を示す標識があった。
赤い矢印の先がアルゼンチン共和国バンバ市、だそうだ。
ここが地球のまんなかです、ともあるが・・・


自性院は、曹洞宗のお寺として、元亀元年(1570)に
関刹界翁禅師が開山した。
本尊は、弘法大師の作と伝えられている。


『みんな元気甲斐っ!』
ピンコロ地蔵が微笑みかける。
ピンピンコロリといきたいものだ。


一息入れた後、自性院を後にする。


旧甲州道中沿いには旧い蔵をよく見かける。
なまこ壁の蔵が多い。


中部横断道を過ぎ、


煉瓦のトンネルで、中央本線を潜り、


線路に沿って右に曲がり、塩崎駅へ向かう。
『塩崎駅で弁当にしましょうっ』という訳である。


中央本線・塩崎駅の200mほど手前に”泣き石”がある。
天正十年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は、
完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて
落ちのびて行った。
その途中、勝頼婦人はこの地で、燃える新府韮崎城を振り返り、
涙を流したという言伝えがある。
高さ約3.8m、巾約2.7m、奥行約3.7mで中央部から水が流れていたが、
鉄道の開通により水脈が断たれてしまった。


線路沿いに進むと・・・


12時8分、塩崎駅に到着
駅舎は工事中だった。
『どっか弁当に適当な場所はないかな~っ』


駅ホームに小さな待合室があったので、ここで弁当に。


待合室だけでは入りきれないので、ホームのベンチも
利用させてもらった。(写真は反対側のホーム)
これまでいろんな所で弁当を食べたが、駅のホームは初めてだ。
ホームに無断で入って弁当を食べるなど、許される行為ではないが、
ここは大目に見ていただきたい。


弁当も終わり、12時40分、韮崎駅を目指して街道を進む。


三界萬霊塔
三界萬霊塔とは、この世のあらゆる生命あるものの霊を宿らせ、
供養することが目的に建立され、三界萬霊牌を祀っているということは、
我が家の先祖だけでなく、すべての精霊に供養することの大切さを教える
ものだそうである。


三界とは我々が生まれ変り、死に変わりするこの世界のことで、
欲界・色界・無色界の3種の世界があり、
欲界というのは、食欲・性欲・睡眠欲などの欲望の世界で、
色界は欲望が無くなった世界。
無色界は、形のあるものから離れた純粋な世界を指す、とのこと。
萬霊とは、欲界・色界・無色界などのそれらすべてを指す、そうだ。


塩崎の蔵屋敷
歴史を感じさせる。


塩崎の蔵屋敷
なまこ壁が印象的だ。


右手に双葉西小学校を見ながら進むと、


船形神社の石鳥居があった。
明神鳥居といわれる形式だが、高さは2.53mと低い。
室町時代前期の応永四年建造で、県指定有形文化財になっている。


宇津谷バス停を通過し、


田畑交差点を右折して中央本線方面に向かって行くと、
道が二つに分かれていた。


分岐点に二十三夜塔が2基立っていた。


二十三夜塔を左折すると下りの坂道が続いていた。


道なりに旧い家並みの中を進む。


坂道を下ると県道6号に出た。
先ほどの田畑交差点を真っ直ぐに進むと、
ここで合流することが後で分かった。


県道6号を進み、塩川橋を渡る。


塩川
塩川橋の右手を走っているのは中央本線だ。


塩川橋を渡り切ると、13時18分、韮崎市に入った。


塩川橋西詰信号を右に折れて線路沿いに進む。


道端の黄色い花がきれいだ。


13時30分、法務局韮崎出張所の建物の陰で一休みしていこう。


『さすがに疲れちゃったわねっ』


目の前を特急「かいじ」が通過していった。


13時40分、韮崎警察署前を通過


本町3町目辺りを通過


鰍沢(かじかざわ)横丁
身延への道との追分である。
ここから「みのぶ道」駿信往還ともいい、峡北地方や諏訪・佐久地方の
江戸城納めの年貢米を馬背に積んで、鰍沢河岸(幕末には船山河岸)まで
通行する道筋である。
沿道には駄菓子屋・馬方茶屋などが軒を並べて賑ったが、明治36年(1903)
国鉄中央線が開通して荷物輸送経路も一変し、往時の活況は消えた。


韮崎小学校バス停辺りを通過


本町三差路を右折して県道27号を進む。


中央本線の陸橋を潜って右折すると、


14時3分、この日のゴール韮崎駅に到着した。


韮崎は、平成28年度(2016年)のノーベル医学・生理学賞を受賞した
大村智博士のふるさとだったのだ。
TVで紹介されていたのを思い出した。


韮崎駅のホームから平和観音像が見えた。
高さは、16.6mだそうだ。
『スマートな観音様だねっ』


韮崎駅14時6分発の普通電車で甲府へ向かう。


『旨い具合に電車があって良かったねっ』


甲府から特急「かいじ号」に乗り換え新宿へ。
『かんぱ~いっ』
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧甲州街道を歩く」第十二回1日目(石和宿~甲府宿)、
および2日目(甲府宿~韮崎宿)を無事歩き終えた。
30度を超える真夏日の中だったが、心配された熱中症にもならず、
無事歩き終えたことに一安堵である。

塩崎駅のホームで弁当を食べたのが印象に残る。
この日も特にハプニングと言われるようなことは無かったが、
次は、どんなハプニングが待っているのか、
今から次回の「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。

旧甲州街道を歩く 第十二回 石和宿から韮崎宿(1日目)

この日の万歩計は、23,000歩を超えていた。

ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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旧甲州街道を歩く 第十二回 石和宿から韮崎宿(1日目)

2017年05月21日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年5月21日(日)

昨年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、
仲間の皆さんから『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、
五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目
(2015年2月22日)に歩いているので、内藤新宿から信州の
下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第十二回目は、石和宿(JR石和温泉駅)から
韮崎宿(JR韮崎駅)までの約18.7Kmを歩いた。
1日目(日)は、石和温泉駅から甲府駅までの約6.5Kmだが、
甲府駅の北側に位置する躑躅ヶ崎館(武田神社)と、甲府城(舞鶴城)
を訪れたので、実際にはこの倍近く(12-13Km)は歩いたことになる。

この日の昼食は、甲府市内の飲食店を予定しているため、
駅弁は買わずに直接中央線ホームへ。
6時53分発の特快高尾行に乗り込む。
電車はガラガラに空いていた。


『今日は余裕で間に合ったねっ』
この日の参加者はお馴染のメンバー8名だ。


高尾駅で中央線に乗り換え、9時38分、石和温泉駅に到着。


駅舎から石和温泉駅前を望む。
駅前の花壇にはバラが植えられていた。
『たくさんのバラが咲いてるよっ』


駅前の花壇へ行ってみよう。


駅前に植えられた色とりどりのバラが、ちょうど見頃を迎えていた。
”石和温泉を訪れた人が元気になるバラ園”がテーマ、だそうだ。
『きれいだねっ』


102品種、450株のバラは、
市民ボランティア「笛吹ローズクラブ」の皆さんによって
手入れされている、とのこと。
『良い香りだねっ』


バラに元気を貰って、9時49分、石和温泉駅を出発だ!
この日甲府の予想最高気温は32℃とのこと。
熱中症には充分気を付けたい。


笛吹権三郎
笛の上手な権三郎の母が、石和川の氾濫で流されてしまった。
権三郎は、母の好きな曲を吹きながら探したが、
自らも川に落ちて死んでしまった。
夜になると川の中から美しい笛の音が響き、
いつしかこの川は笛吹川と呼ばれるようになった。


国道411号の石和温泉駅入口交差点に到着
甲府宿はここを右折することになるが、前回見落としていた
石和本陣跡を見て行くことにした。


国道411号を200mほど山梨市方面へ戻ると、
石和本陣跡の標識があった。
宝暦11年(1761)信州高遠城主内藤大和守が参勤交代のため、
初めて本道中を通行することになり、石和宿仲町の後藤甚兵衛に
本陣を命じたことが始めと云われる。


以来子孫が継承して明治に至った。
明治以降も旅籠として利用したが、明治13年(1880)6月7日の
石和の大火により焼失し、現在はわずかに土蔵1棟と
諸大名通行の書状および、古記録文書が残っている。


史跡 石和本陣跡の碑


石和本陣跡の碑を見たことで、あらためて甲府宿を目指し、
国道411号を進む。


平等橋
平等川に架かる橋。


平等橋を渡る。


宇治平等院に比するくらい『蛍』が見事であったので平等川となった。


平等橋を渡ると、甲府駅まで6.2Kmの標識が。


あちこちの道路脇にバラを観ることが出来る。
『この辺の人はバラを育てるのが好きなんだねっ』


和戸町由来碑
和戸町は平安期この付近を中心として栄えた表門郷の遺称である。
郷とは、奈良時代に50戸をもって編成された行政村落のことで、
地名の由来から、古くから集落が発達していたことが知られる。
地内には在原塚、琵琶塚、太神さん塚などの古墳が点在する。


和戸町由来碑の後ろに道祖神が祀ってあった。


二宮尊徳像


11時3分、建物の日影で休憩だ。
石和温泉駅を出発して1時間10分余が過ぎていた。


十郎川に架かる十郎大橋を渡ると、


青梅街道との分岐点、山崎三差路があった。
『ここで青梅街道と合流するのかぁ』


山崎三差路の少し先にあの箱根駅伝で有名な山梨学院大学があった。


山梨学院大学
『いやぁ なかなか立派な建物だねぇ』


山梨学院大学から甲府駅まで3.6Kmとある。
『まだ半分も歩いてないんだぁ』


善光寺通りの先に甲斐善光寺の屋根が見えた。
『長野の善光寺とそっくりだねっ』


身延線の線路を潜ると、


右手に身延線の善光寺駅があり、ちょうど電車が発車するところだった。


甲府市を目指し、城東通りを進む。


11時52分、甲府駅まで2.0Kmの標識を通過


身延線金手駅近くで街道は鈎型(桝形)に曲がっている。


ガソリンスタンドの向かいの駐車場辺りに甲府の本陣があったそうだが、
今はその跡を示す標識など何もない。


本陣跡を探して疲れたため、建物の日影でしばしの休憩だ。


城東通りから甲斐奈通りを進み、甲斐奈神社前を通過


甲府宿、正式には「甲府柳町宿」は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒であった。
今の甲府市街は武田信玄の父信虎が永世十六年(1519)に石和から移り、
躑躅ケ崎に居館を構えたのに始まる。
天正九年(1581)には韮崎の新府に移り、翌年武田家は滅亡してしまう。
信長の死後家康が領し、秀吉の代に甲府城が築城された。
以後この甲府城を中心に発展した「甲府柳町」の名は宿中程にある、
柳町に問屋場等の機能が集中していたところから付けられた。


甲斐奈通りを進み、街道近くにある宿泊先のホテルへ向かう。
武田神社(躑躅ヶ崎館)を訪問している間、リュックなどを
預かってもらうためである。


桜通り商店街を進むと、


12時32分、この日の宿泊先、「ドーミーイン甲府」に到着
リュックなどの荷物を預けて、ホテルを後にした。


日曜日ということで、商店街の殆どの店は休みだったが、
「イオン甲府ココリ店」の近くに寿司屋を見つけた。


『まぐろが安いねぇ』
『ここにしようっ!』


この先武田神社まで歩くことになるが、
何はともあれ『かんぱ~いっ』


『お疲れさまぁ』


自分が注文したのはマグロ丼(1,000円)だ。
(それほど安いとは思えない)


甲府城を通り過ぎ、武田神社を目指す。


中央線の線路を渡ると、


右手に復元された山手渡櫓門が見えた。
武田神社からの帰りに立寄ることにしよう。


およそ2.5Km先の武田神社を目指す。


甲府駅北口から武田神社まで一直線の武田通りを進む。
緩やかな上りの道である。


織田信長と対峙した秋山伯耆守信友の説明板があった。
秋山氏は、甲斐源氏の支流で、武田家の譜代家老の家柄。実名は虎繁。
信玄の信濃国伊那郡制圧に伴い、高遠城代、次いで飯田城代を歴任。
織田・徳川氏を監視する役割を担った。
長篠敗戦後、織田信忠軍に包囲されて降伏し、岐阜で処刑された。


秋山氏の屋敷跡は現在の山梨大学の敷地内にあった、とのこと。


14時46分、ようやく武田神社に到着した。
『ビールを飲んだ後は堪えるねっ』


神橋を渡り、


武田の軍旗「風林火山」の幟が棚引く参道を進み、


武田神社本殿へ。
武田神社は、「日本100名城巡り」で2011年4月2日(土)に登城している。


武田神社に参拝
国史跡である武田氏館跡は、永正十六年(1519)に
武田信虎が築いた武田氏の本拠で、一般には「躑躅ヶ崎館」
つつじがさきやかた)の呼び名で親しまれている。
大正八年(1919)に武田神社が創建された場所は、信虎・信玄・勝頼の
武田氏三代が居住し、政務を執り行った館の中心だった。


武田神社には、薪能の舞台となる甲陽武能殿もある。


躑躅ヶ崎館(武田氏居館)跡の図
この地は武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)の居館にして、
躑躅ヶ崎の西方にあるところから後世この別称を用いたと伝えられる。
屋形一帯の濠塁・縄張りは左図の如き構成でほぼ現存し、往時を偲ぶに足る。


居館中心地域については、各説あるも一応左図の如き屋形配置が想像される。
別名「躑躅ヶ崎館」と呼ばれる武田氏館は、永正十六年(1519)に
武田信虎によって築かれた方形の館である。
周囲を濠と土塀に囲まれ、東西北にそれぞれ門がある。


現在の武田神社全図
館跡を一周してみることにしよう。


土塁や石垣がそのまま残っている。


濠を渡る土橋から館内部を見たところ。


躑躅ヶ崎館の裏は、濠に沿って道が続いている。


濠に沿ってほぼ一周すると、館東側の旧大手門(武田神社大手門)に至った。


大手門を入ると、武田神社の宝物殿・拝殿辺りに戻った。
一周約15分ほどだった。


神橋から武田通りの甲府駅方面を望む。
『ここからまた駅まで歩くのっ?』


土産物店「かぶとや」の向いに甲府駅行バス停があった。
ちょうど甲府駅行バスが来たので、乗ることにした。


『やっぱり楽だよねっ』


16時11分、甲府駅北口に到着
(料金は190円)


山手渡櫓門は、甲府城にあった3つの出入口の1つで
武器庫としての役割を果たしていたとのこと。


山手渡櫓門を潜ると、高石垣と土塀に囲まれた高麗門がある。


山手渡櫓門
中は展示室になっていて、発掘調査で出土した瓦や陶磁器、
山手渡櫓門の模型、江戸時代の歴史資料などが展示されている。


中央本線を跨ぐ舞鶴通りを通って甲府城へ。


甲府城(舞鶴城)が見えてきた。
本丸の一角に建てられているひと際高い謝恩塔が印象的である。
甲府城は、「日本100名城巡り」で2011年4月2日(土)に登城している。


16時22分、甲府城(舞鶴城公園)の入口に到着
甲府城は、今から410余年前、豊臣秀吉の命により
浅野長政・幸長によって築城された。
築城は、江戸の徳川家康を牽制する目的だったが、
江戸幕府が開かれると代々徳川一門や柳沢氏の居城となった。


内松陰門を潜って城内へ。


門を支えた基礎石と石垣が残っているだけの銅門(あかがねもん)跡を通り、
折れ曲がった桝形の石段を上ると本丸である。


本丸の芝生広場に出ると、正面に天守台が。


天守台からの眺め(東)


天守台からの眺め(南)
うっすらとだが富士山が見える。


天守台からの眺め(南パノラマ写真)


天守台からの眺め(西)


天守台からの眺め(西パノラマ写真)


天守台から稲荷櫓を望む。


天守台からの眺め(北パノラマ写真)


天守台前の芝生で一休み。
『ちょっと疲れちゃったねっ』ということで、ホテルへ戻ることにした。


鉄門(くろがねもん)を潜り、


鍛冶曲輪と天守曲輪・二の丸を繫ぐ坂下門跡を通り、


東の出入口である鍛冶曲輪門へ。


舞鶴通りをホテルへ向かう。


ホテルに到着後、一風呂浴び、夕食に出掛けた。
ホテルで紹介されたグルメ横丁に行ってみると、
提灯の灯りは点いていたが、日曜日のため全店休みだった。
『休みの所を紹介されてもしょうがないよなっ』


直ぐ隣に全国チェ-ン店の「魚民」があった。
他に探すのも面倒なので、ここに入ることにした。


『かんぱ~いっ』 『お疲れさま~っ』 
『また明日も頑張りましょう!』


「旧甲州街道を歩く」第十二回1日目(石和宿~甲府宿)を歩き終えた。
宿間距離は短かったが、街道から少し外れて武田神社(躑躅ヶ崎館)、
甲府城と歩き回ったため、最後はやはり少々疲れたというのが、
正直なところである。

この日は、特に何事もなく終わったが、明日はどんなハプニングが
待っているのか、明日の「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。


旧甲州街道を歩く 第十二回 石和宿から韮崎宿(2日目)

この日の万歩計は、25,000歩を超えていた。


ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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満開のポピーに囲まれて 下妻小貝川ふれあい公園

2017年05月19日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年5月19日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成29年度第6回(2017年第19回)、「下妻小貝川ふれあい公園」周辺を巡る
ウォーキングに参加した。
この日のコースは、2012年9月28日(金)以来となる。

この日の第一集合場所の乙戸沼公園には16名が集まった。


車5台に乗り合わせて「下妻小貝川ふれあい公園」へ。
直行した人は10名で、参加者は26名となった。
場所が比較的近くて参加し易い距離だが、この日は夏日の予想。
30名ほど集まるのではと予想したが、暑さが敬遠されたのかもしれない。


駐車場からネイチャーセンターへ移動する。
ネイチャーセンターの外壁に国蝶オオムラサキの幼虫の絵が描かれている。


Oさんの掛け声で準備体操だ。
『う~んと背中を反らして~ぇ』
『空が眩しい~っ』


締めくくりは深呼吸だ。
『腕を回して大きく息を吸い込んでぇ~』


小貝川両側の土手を時計回りで歩くことにして、10時10分、出発!
先導役はいつものようにOさんが務める。


土手の右手は「スポーツゾーン」となっており、ソフトボール球場や
サッカー場が整備されている。


強い日差しだが、土手の上は時折吹く風が心地良い。


国蝶のオオムラサキの観察小屋があった。
この小屋は、小貝川の自然観察ゾーンに生息する国蝶オオムラサキを
身近に観察するための施設である。
毎年6月中旬から7月下旬にオオムラサキが羽ばたく姿が見られる、とのこと。
この先の自然観察ゾーンの森でも観察出来る、そうだ。


今は終齢幼虫の時期で、まさにネイチャーセンターの外壁に描かれている
幼虫の姿をしている頃であり、さなぎになる前の段階である。
木の葉と同じ色をしているためか、幼虫は見えなかった。
(見つけられなかったと云う方が正しいのかも)


道は真っ直ぐだ。
右手は、自然観察ゾーンで、「オオムラサキの森」となっている。
案内図によると、森の中には自然観察路があり、
小さな水路も流れていることになっている。
一度オオムラサキが羽ばたく頃に森の中を歩いてみたい。


先頭グループ
会旗をNさんへバトンタッチしたOさん、
『気軽で良いよっ』


47Km地点を通過
利根川の分岐からの距離と思われる。


『気持ちの良い天気よねっ』
いつも一緒で仲睦まじい、入会2年目を迎えたYさん夫妻である。


土手の一角に横瀬夜雨詩碑があった。
『やれだいこ』
花なる人の 恋しとて 月に泣いたは 夢なるもの
破れ太鼓は たたけど鳴らぬ 落ちる泪を 知るや君

『やれだいこ』は、「筑波嶺詩人」として知られた横瀬夜雨の代表的な詩の一つで、
明治三十二年(1899)に発表され、のちに詩集「花守」に収められた。
人並みの健康に恵まれないわが身を破れた太鼓にたとえて、
悲痛な諦めの思いを託した詩は「お才」とともに夜雨民謡詩の絶唱とされている。
以下略(下妻市教育委員会)


近くの石碑にも詩が刻まれていた。


この先、日除け出来る場所がないため、ここで一休みだ。


土手を歩く。


前方にうっすらとだが筑波山が見えてきた。


左手には田んぼの稲の緑が広がる。


『あれは水門かなっ?』


10時39分、浅間排水樋管(せんげんはいすいひかん)を通過
樋管(ひかん)は、内水の排除を目的としている。


道が急に広くなった。
白線の左側はサイクリングロードになっている。


道いっぱいに広がって歩くのは本当に気持ちが良い。


ネイチャーセンターを出発して35分ちょっとで小貝大橋裾に到着。
小貝大橋を渡る歩道は県道131号の反対側にしかなく、横断歩道のない道路を
横断しなければならない。
しかし、県道131号は交通量が多く、車もスピードを出しているので
我々年配者が渡るのには危険が伴う。
よく見ると、左側にサイクリング用の道が県道131号を潜っている。


県道131号のトンネルを潜ると・・・


県道131号の反対側へ出た。
『これだったら、安全だよなっ』


これなら安全に小貝大橋を渡ることができる。


小貝大橋を渡る最中にもひっきりなしに車が行き来する。
『やっぱり県道を横断するのは怖いよねっ』


小貝大橋を渡る。


小貝川がゆったりと流れている。
最近の突然の大雨などによるものなのか、川はかなり濁っている。


小貝大橋を渡り切ったところで、反対側に折れる。
ここにも横断歩道がないので、安全のため、サイクリングロードへ。


土手を直接下ると、サイクリングロードが続いている。


県道131号の下を潜って反対側へ。
2度も県道下を潜らなければならないが、
安全のためには、これが一番と言える。


土手上の道(サイクリングロード)に合流した。


土手上の狭い道を進む。
たまに自転車が通るので、注意が必要だ。


左側には田植えが終わったばかりの田んぼが広がる。


振り返ると筑波山が霞んでいた。


ほんの一部だが中央線があり、少し広い場所があったので、
ここらで一休みしよう。


11時5分、ネイチャーセンターを出発して約1時間、2度目の休憩だ。
太陽を遮るものはなにもないのでじっとしていると暑い。


『お茶が美味いっ』


一息入れたところで、直ぐに出発だ。
日除けがないので、じっとしているより、歩いた方が良い。
祝橋・お花畑を目指す。


土手を進む。
会の旗は再びOさんの手に渡っていた。


11時12分、48Km地点を通過
この標識は川の両岸に設置されている。


アルファー・アビエイションの下妻ヘリポート・訓練所が見えてきた。
航空学校の訓練などに利用される、ヘリパイロットの養成・練習場である。
茨城の他、北海道(足寄)にもオペレーションセンターがある、とのこと。


訓練の外にもへリポート周辺の空の散歩が楽しめる、そうだが、
我々が通る時には1機も飛んでいなかった。


格納庫にはヘリが格納されているのが見える。


『ここは小貝川の河川敷だよねっ?』


河川敷にある田んぼは初めて見た。


祝橋・お花畑を目指して進む。


遠くに祝橋のアーチが見えてきた。


時折、サイクリング車が走る。


川の一里塚
この辺りに「川の一里塚」があったはずなのだが、
草ぼうぼうのため、そのまま通過。


11時38分、新堀排水樋管(にいぼりはいすいひかん)を通過


対岸の花畑一面にシャーレーポピーが咲いているのが見える。


小貝川に架かる祝橋のアーチが次第に大きく見えてきた。
『もう直ぐ祝橋だねっ』


小貝川に架かる国道125号の祝橋。
橋の真ん中にアーチがあるのが特徴だ。


後続グループを待つ先頭グループ
『頑張ってぇ~っ』


後続グループももう直ぐ祝橋に到着だ。


全員揃って祝橋を渡り、花畑を目指す。


穏やかな流れの小貝川上流を望む。


祝橋から花畑を望む。
奥の方に300万本のシャーレーポピーが咲き乱れている。
手前は、キンセンカ(約100万本)のようだ。


11時48分、「小貝川ふれあい公園」フラワーゾーンに到着。


花畑の種まきや除草などの管理は、ボランティアGによって行われているらしい。
微力ながら一人100円の協力金で応援しよう。


花畑には色とりどりのシャーレーポピーが咲き競っていた。
シャーレーポピーは5月中旬~5月下旬とのことなので、
まさに今が見頃ということになる。


300万本のシャーレーポピーだそうだ。
『300万本ってすごい数だよねっ』


筑波山を背にした花畑は、絵になる。


パノラマ写真


色とりどりのシャーレーポピーが美しい。


周りは一面ポピーである。
花に囲まれると気持ちが癒される。


花畑の中を歩いてシャーレーポピーを堪能した。


花畑の隣はパークゴルフ場になっているが、この日は人の姿は見えなかった。


日差しが強いので、弁当を食べる場所を求めて
ネイチャーセンターに向かっていたら・・・
林の中にベンチが見えた。


林の中のベンチは、バーベキュー用のものだったが、
木陰もあり、弁当を食べるのにはもってこいである。
『ここで弁当にしましょうっ!』


早速バーベキュー広場で弁当だ。


『良い場所が見つかって良かったわねっ』

『日差しも避けれるし、今日みたいな日は最高だよねっ』


弁当も終わり、ネイチャーセンターへ。
12時37分、ネイチャーセンターに到着した。
ネイチャーセンターの建物は、国蝶オオムラサキの顔を正面から見た様子を表している。
上から見るとオオムラサキが羽を広げている時の形をしている、そうだ。
『最初はバッタかと思ったよっ』


ネイチャーセンターには、オオムラサキに関する資料や


全国のオオムラサキの分布状況、


各地方のオオムラサキの標本などが展示されている。
(四国地方のオオムラサキ)


この他ネイチャーセンターには、ミニミニ水族館もあり、
小貝川に生息する魚や生き物、


身近な可愛らしい淡水魚などを観ることができる。


軽食・喫茶室もある。
この日は、中を見たのは本当に駆け足だったので、
一度ゆっくりと観てみたい。

この後、整理体操は省略して、帰路に就いた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

夏日の中だったが、300万本にも上る満開のシャーレーポピーに囲まれて
気持ちが癒された。
この後、毎年6月中旬から7月下旬にオオムラサキが羽ばたく姿が見られる、
とのことなので、その頃もう一度訪れてみたいものである。

この日の万歩計は、10,000歩を少し超えていた。

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日本100名城巡り No.54 大坂城

2017年05月14日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年5月14日(日)

この日訪れた大坂城は、別称錦城・金城(きんじょう)とも呼ばれる。
水運の利に恵まれた、大阪で最も標高の高い上町台地に、豊臣秀吉が
天下取りの拠点とするべく、天正十一年(1583)に築城を開始。
これが、豊臣大坂城である。

天正十三年(1585)には五重八階、黒漆塗りの下見板と金箔瓦、
金の飾り金具をつけた豪華な望楼型天守を完成させた。
これによって、秀吉は天下人の権威を欲しいままに示した。

しかし、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣では徳川勢を撃退したが、
翌年の大坂夏の陣で、豊臣大坂城は天守もろとも炎上してしまった。

その後徳川幕府は、元和六年(1620)、徳川への政権交代を
天下に知らしめるために、豊臣大坂城の縄張りの上に盛土をし、
石垣を新たに積み直して城を築いた。
そして秀吉の天守を上回る規模で白漆喰総塗籠の徳川大坂城天守が
寛永六年(1629)に完成した。
現在残る石垣と堀は、この工事によって出現したものである。

しかし、この天守も寛文五年(1665)に焼失。
以来昭和六年(1931)に復興されるまで天守は存在しなかった。
なおこの3代目天守は豊臣大坂城天守を模して、徳川大坂城天守台の
上に建てられている。

東京駅7時3分発の「ひかり461号」に乗車し、
新大阪駅には10時ちょうどに到着した。
新大阪駅で駅弁を買い求めた。


大坂城に入る前に、大坂城の南西にある大阪歴史博物館
(天守閣入場料も含めて900円)に立寄ってみることにした。


NHKに隣接している大阪歴史博物館
(入口は、NHKと同じになっている)


10階の展示フロアの北端からは、広い外堀や高い石垣に囲まれた広大な
大坂城の縄張りが見晴らせる。
絶好の眺望スポットではあるが、ガラスが反射して写りが良くない。
しかし、二の丸南側に屈曲しながら長く続く石垣は圧巻の一言。
安くはなかったが、料金を払って来ただけのことはある。


大阪歴史博物館の10F~7Fの展示は軽く流して大坂城へ。
大坂城公園の南東角に入ると、大坂城南外堀が見える。
寛永五年(1628)からの工事で完成した石垣は、
ほぼ同じ大きさの割石を布積みにした打込接布積を採用している。


南外堀の石垣隅角部は、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせた
算木積みとなっている。
西から東を望むと石垣が同じ曲線で重なって見える。
寛永期の石垣構築技術の高さを知ることができる。


かつては雁行する石垣上に土塀が走り、一番から七番までの二重櫓が
建っていた、とのこと。
見えているのは六番櫓である。


南外堀を左に回り、大手土橋を進むと、


左に元和六年(1620)に建設された重用文化財の千貫櫓がある。
大手土橋や西側の水堀に横矢を効かせている。
初重に出窓型石落し、二重目には唐破風をつけた二重二階櫓である。


『千貫』の名は、本願寺の戦いの際、この付近にある櫓を攻めあぐねた織田信長が、
「千貫文出しても奪いたい」と言ったことに由来すると伝わる。
国指定重要文化財になっている。


大手土橋の右側の南外堀と見事な曲線の石垣
石垣隅角部は、算木積みとなっている。


大手門
寛永五年(1628)に造営された大坂城の大手口の正門である。
高麗門様式で、建設当時の姿を留めている。


屋根は本瓦葺き、扉と親柱は黒漆総鉄板貼りである。
親柱と後の控柱との間にも屋根を載せている。
大手門の南北に続く塀には岩岐(石段)があり、鉄砲狭間が開けられている。
門、塀とも重要文化財に指定されている。


重要文化財の大手門を入るとそこが大手桝形になっている。
周囲を土塀と巨大な多聞櫓が取り囲む。
正面には、鉄砲狭間や格子窓を配した続櫓が、
前方左には巨大な渡櫓がある。


鉄砲狭間


大手門を潜り大手桝形に入ると、巨石に目を見張らされる。
正面の続櫓に位置する大手見付石は、表面積が29畳敷(47.98㎡)で城内第4位、


左の大手二番石は、表面積が23畳敷(37.90㎡)で第5位、


右の大手三番石は、表面積が22畳敷(35.82㎡)で第8位。
いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島とされている。


渡櫓(多聞櫓)
大手口の枡形の石垣にある櫓。
大門の上部を跨ぐ渡櫓と南に直角につながる続櫓で構成されている。
高さは14.7mで全国でも最大規模。
渡櫓の壁面には通路幅いっぱいに格子窓を設けており、
櫓床下は槍落しが造られている。
もし、大手門が破られても、この桝形で敵を食い止めるためだ。


櫓門を潜って城内から見た渡櫓(多聞櫓)


土日限定で3つの櫓(多聞櫓・千貫櫓・焔硝蔵)の内部が特別公開されていた。
(入場料金は700円)
これは、素通りする訳にはいかない。


入場料700円でチケットを購入し、先ず多聞櫓へ。
靴は脱いでビニール袋に入れて、スリッパに履き替えて中に入る。


多聞櫓内部


多聞櫓の兵士たちの詰所
この部屋は、いざ戦いというときに兵士たちが籠城して
寝泊りするために作られたもの。
多聞櫓は大手門を防衛する兵士が詰めた場所なのだ。


大坂城石垣の刻印が展示してあった。


槍落とし
千貫櫓の石落しと同じ機能の装置で、侵入しようとする敵に
真上から槍や石などを浴びせた。
下からは気付かれにくい構造となっている。


多聞櫓を出ると、見学路は千貫櫓に続いていた。
千貫櫓は、西の丸庭園の南西側にあり、大手口を守る二層の隅櫓である。
織田信長が石山本願寺を攻撃している最中、この付近にあった櫓からの攻撃に悩まされ、
「千貫払ってでもその櫓を奪い取りたい」と言ったという故事に由来する。
造営は元和六年(1620)で大坂城最古の建築物と云われる。


千貫櫓内部


展示されている火縄銃は、ずしりと重かった。


千貫櫓から見た外堀(乾櫓方面)


千貫櫓の見学が終わって外へ出ると、そこは西の丸庭園だった。
櫓内部見学料金には、西の丸庭園の入園料(200円)も含まれていたのだ。
園内ではちょうど弁当を食べているところだった。


西の丸庭園から天守閣を望む。


天守閣を眺めながら弁当にしよう。


外堀に沿って西の丸庭園内を進むと、坤櫓(ひつじさるやぐら)跡があった。


坤櫓跡
ここには西の丸の隅櫓の一つが建っていた。
西の丸の南西(坤)にあたることから坤櫓と呼ばれた。
規模は南に現存する千貫櫓とほぼ同じであった、そうだ。


坤櫓跡から西外堀方面を望む。
千貫櫓や大手門、大手土橋が見える。


坤櫓跡から外堀に沿って進むと、乾櫓があった。
乾(戌亥)は北西を表す言葉で、西の丸の北西に位置することから
この名が付いている。


大手口から京橋口までの広い範囲を見渡す重要な地点にあり、また、
堀を隔てた城の外側の南・西・北のどの方角からも望めたことから、
「三方正面の櫓」とも呼ばれた、とのこと。
乾櫓から北西側外堀を望む。


乾櫓から南西側外堀を望む。


乾櫓から焔硝蔵へ向かう途中に大阪迎賓館があった。
国際会議「APEC’95」の舞台となった大阪城西の丸庭園内の大阪迎賓館が、
予約制レストランとして2016年5月中旬にオープンしたもの。


大阪迎賓館の少し先に焔硝蔵(火薬庫)があった。
櫓見学の最後の建物である。
焔硝蔵は、屋根が瓦葺で、頑丈な石造りとなっている。


外装だけでなく、壁・天井・床・梁の全てを石造りとした構造は
他に全く例がない、そうだ。
石壁の厚さは約2.4mとのこと。


焔硝蔵出口
焔硝蔵は、江戸城や二条城といった将軍の城をはじめ各地の大名の城にもあるが、
江戸時代のまま残っているのはこの一棟だけだそうだ。


西の丸庭園から内堀を挟んで天守閣を望む。


黄金色の御座船(遊覧船20分1,500円)が見える。
乗っている人は秀吉の気分に浸っているのだろう・・・


西の丸庭園から天守閣を望む。


望楼展望台には大勢の人の姿が見える。


西の丸庭園
現在の西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城の
防衛や維持管理の最高責任者である大坂城代の屋敷(官邸)があった。
公務を行う広間や書院だけでなく、城代の妻子が居住する建物も備えており、
本丸御殿に次ぐ規模の御殿であった、そうである。


西の丸庭園(パノラマ写真)


西の丸庭園を出て、


南仕切門跡へ向かう途中、内堀の一部が空堀になった部分があった。
西の丸庭園方面の空堀を望む。
ここに敵を引き寄せ戦闘を行ったという。


桜門方面の空堀を望む。


西の丸庭園から本丸に行くには、南仕切門跡を左に折れ、
太鼓櫓跡の前を通って桜門へ向かうことになる。
南仕切門跡を通過


太鼓櫓跡から二の丸を通って進むと本丸の大手である桜門に達する。


桜門へ行く前に二の丸にある豊国神社や六番櫓・一番櫓を見ておこう。
太鼓櫓跡正面を南外堀方面へ進むと、六番櫓がある。
二の丸の南外堀石垣の隅角に建てられていた一番から七番までの二重櫓で、
現存する一つである。


修道館前を通過
修道館は、柔道・剣道・なぎなた・弓道その他武道の普及振興を図り、
社会秩序の確立と青少年の健全な育成に寄与するという目的で、
武道の錬成道場として昭和38年に設立された。
中からは、大きなかけ声が聞こえていた。


豊国神社鳥居の先に、


豊臣(羽柴)秀吉像が建てられていた。


豊国神社拝殿
大阪城内桜門の正面に鎮座する神社で「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」
「豊臣秀長卿」を奉祀する神社である。
農民から天下人になった秀吉公に肖り、出世開運の神として
信仰を集めているとのこと。


豊国神社本殿へ参拝を済ませ、


二の丸一番櫓へ向かう。


一番櫓
二の丸南面の最も東にあることから「一番櫓」という。
大坂城は南面が陸続きであるために二の丸の南外堀に向けて
一番から七番の櫓を設けて防御としたが、現存するのは、
この一番櫓と六番櫓のみである。


一番櫓から南外堀を望む。


一番櫓の南寄りに二番櫓があったと思われる跡があった。


二番櫓跡から南外堀を望む。


本丸の大手である桜門への登城橋


桜門へ。


桜門前から見た本丸南側の空堀。
巨大な石材で算木積が組まれている。
隅石としては、日本最大規模と云われる。


桜門
高麗門形式の門
その名称は、豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、
当時二の丸に桜の馬場と呼ばれる場所があったことから、
門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられている。


銀明水井戸の井筒
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団指令部庁舎(旧大阪市立博物館)
の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。
銀明水井戸は、徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸の内の一つで、
本丸御殿台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。
大坂城内で最も格式の高い井戸の一つである。


本丸の正門にあたる桜門の枡形も高麗門と多聞櫓で構成されている。
桝形の正面には域内最大の面積を持つ蛸石と呼ばれる巨石が迫る。
蛸石は、城内第1位の巨石で、表面積はおよそ36畳敷(59.43㎡)、
重量は108トンと推定されている。


表面左下に蛸に見える模様があることから、蛸石と呼ばれている。
備前岡山藩主の池田忠雄の担当によって築かれ、
石材は備前岡山産の花崗岩が用いられている。


蛸石の左手にも巨石がある。
振袖石と呼ばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85㎡)で、城内第3位。


桜門桝形を抜けると、右手に工事中の大きな建物が目に入る。
天守閣と同じ昭和六年(1931)に陸軍第四師団司令部として建てられた建物だ。
1960年からは大阪市立博物館として利用された。


工事中の囲いに大坂城の変遷を示す資料が展示されていた。
豊臣秀吉築城の大坂城


大坂夏の陣 大坂城落城


徳川幕府再築の大坂城


徳川期の大坂城


天守を失った大坂城
徳川時代の天守は、寛文六年(1665)、北側の鯱に落雷して焼失した。
それから昭和六年(1931)に再建されるまで、大坂城は天守のない城だった。


復興直後の大坂城
現在の天守は、昭和六年(1931)に建設、
外観復元で内部は鉄筋コンクリート八階建て、
高さは54.8mで「大坂夏の陣図屏風」を参考に、
豊臣時代の天守を再現した。
大坂城には①豊臣時代に建てた天守、②徳川時代に建てた天守、
③昭和になって建てた天守、の3つが存在したことになる。


旧大阪市立博物館の脇に建つ金蔵。
幕府御用金を収めた施設で、頑丈な造りになっている。
金蔵は国内では大坂城にしか残っていない、そうである。


本丸に聳える天守閣は、徳川幕府が築いた天守台の上に、
大阪市民からの寄附を得て建設された。
大阪城天守閣が所蔵する「大坂夏の陣図屏風」に描かれた天守が
モデルになっている。


天守閣入口
入場料金は600円だが、大阪歴史博物館で買ったチケットで入場出来た。


金明水井戸屋形
大坂城の小天守台にある井戸を金明水といい、それを覆う建物を
金明水井戸屋形という。
井戸は水面まで約33mの深井戸である。
寛永三年(1626)の銘があり、天守と同時期に造営された。


大坂城天守閣は、鉄筋コンクリート造りの外観5層内部8階で
登録有形文化財に指定されている。
1階~7階は展示施設、最上階は望楼展望台になっている。
100名城スタンプは、天守閣入口を入った1F案内所にあった。


最上階の望楼展望台には、大勢の観光客がいた。
韓国・中国の人が圧倒的に多い。


望楼展望台からの眺め(1)
西の丸庭園


望楼展望台からの眺め(2)
山里丸


望楼展望台からの眺め(3)
金の鯱


望楼展望台からの眺め(4)
青屋門と大阪城ホール


望楼展望台からの眺め(5)
青屋門


望楼展望台からの眺め(6)
パノラマ写真


望楼展望台からの眺め(7)
御座船


望楼展望台からの眺め(8)
工事中の旧大阪市立博物館


天守閣を後にして、山里丸へ向かう。


徳川期の天守台は、打込接布積を採用している。


天守台の隅角部は、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせた
算木積みとなっている。


天守閣の西を北に向かうと山里丸へと出る。


その手前を左に折れると、


兵士を隠していた隠し曲輪に突き当たる。
本丸に唯一築かれた帯曲輪で、再建時の江戸幕府によるものである。
天守まで攻め込まれた際の反撃拠点として設けたと思われる、とのこと。


本丸北の一段低くなった場所が山里丸で、


現在は刻印石広場になっている。


大坂城築城の過程で石垣に刻まれた刻印石が展示されている。


大坂城が多くの大名を動員した天下普請で築かれたことが感じられる。


刻印石広場の先には豊臣秀頼と淀殿の自刃の地の石碑が建てられている。
二人は大坂夏の陣の時、この辺りにあった櫓で自刃したという。
秀頼、淀殿ら自刃の地碑には献花する人が後を絶たない。


山里丸を北に進むと、本丸搦手にあたる桝形虎口があり、


その先に本丸と二の丸の北側を繫ぐ極楽橋がある。


極楽橋を渡り切り、


東へ折れると青屋口へ、西に折れると京橋口へと続く。
ともに大坂城の搦手にあたる。


青屋口には、古材を用いて復元された青屋門が建つ。
青屋門は、二の丸北東にある櫓門である。
戊辰戦争で焼失して復元されたが、再び第二次世界大戦の空襲で焼失。
昭和44年に復元された。


青屋門は太平洋戦争の空襲で甚大な被害を受け、
建物の高さなどは推定復元がされている。


京橋口の桝形には、蛸石に次ぐ巨石である肥後石が残る。
畳約33畳敷(55.71㎡)で城内第2位の大きさである。


京橋口


京橋口から北外堀を望む。


京橋口から西外堀を望む。
乾櫓が見える。


西外堀の外側から見た乾櫓
切妻破風を付けている。
外壁面には石落しが設けられている。


時間に余裕があれば、外堀の外周をぐるっと回って見てみたかったが、
帰りの電車のことを考えると、この辺で止めておこう。
乾櫓を見たのを最後に、地下鉄谷町線の天満橋駅へ向かった。

100名城巡りは、今回の大坂城で95番目となった。
残り5城となったが、全て九州の城である。
出来るだけ早く全城登城を達成したいものである。

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