ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

土方歳三一色 新選組のふるさと日野を歩く

2019年01月25日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2019年1月25日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第31回(2019年第3回)、「新選組のふるさとを訪ねる(日野市)」ウォーキングに参加した。

荒川沖駅7時50分発の電車を待っているところ。


常磐線車内
つくばTX開通後の常磐線は比較的空いている。
時間帯にもよると思うが、朝方参加者全員が楽に座って行けるのは嬉しい。
この日の参加者はこの時点で21名。


10時10分、スタート地点の中央線日野駅に到着。


駅ホームに”新選組のふるさと日野”の横断幕が迎えてくれる。
今年は土方歳三没後150年になるという。


駅構内にも別の横断幕が。
『いやぁ 土方歳三一色だねぇ』


日野駅改札口で、待っていたFJさんと合流。
『お待ちどうさま~っ』
結果この日の参加者は22名となった。


10時18分、日野駅を出発!


”土方歳三没後150年”の横断幕が続く歩道を先ずは宝泉寺へ向かう。


日野駅前の横断歩道を渡り、宝泉寺へ。
宝泉寺は新選組六番隊組長井上源三郎の墓があることで知られている。


10時20分、日野駅から2分ほどで宝泉寺に到着した。
宝泉寺は、山号を如意山と言い、臨済宗建長寺派の禅寺である。
江戸期には寺領7石の御朱印状を拝領したと云われる。


宝泉寺の山門を潜ると正面に観音堂が。


観音堂の本尊は馬頭観世音石像で、俗に「持ち上げ観音」の名で知られている、とのこと。


観音堂手前に菩提達磨像が鎮座している。
禅宗の高僧達磨大師である。


宝泉寺本堂には本尊釈迦如来・脇侍文殊・普賢両菩薩の三尊が安置されている。


本堂の左手奥に新選組六番隊組長だった井上源三郎の墓(顕彰碑)が。
因みに慶応元年三月頃の再編組織では、総長近藤勇、副長土方歳三で、隊は十番隊まであり、一番隊組長は沖田総司だった。


井上源三郎の墓(顕彰碑)前で合掌する女性陣の皆さん。


宝泉寺を後にして次に向かったのは八坂神社だ。
10時33分、八坂神社は旧甲州街道沿いにあった。


入口に門人が奉納した天然理心流の扁額の写真が展示されている。
安政五年(1858)、天然理心流近藤周助の門人であり、佐藤道場で稽古に励んでいた二十五名によって、
八坂神社(当時は午頭天皇社)に奉納。
欅板に大小二本の木刀が架けられている。
井上源三郎・沖田惣次郎(総司)・嶋崎勇(後の近藤勇)の名前も見える。
安政六年入門の土方歳三の名前は、この扁額にはない。


八坂神社の社殿
『なんだか神社らしくない建物だよねっ』
『けっこう新しいんじゃないっ?』


八坂神社に参拝


道路向かい側の建物の右側に日野宿問屋場・高札場跡の碑が見える。


10時44分、日野宿本陣に到着
日野宿本陣は、正保年間(1644-46)に日野宿の名主に取り立てられた下佐藤家の住宅である。
日野宿の本陣は上佐藤家、脇本陣は下佐藤家の屋敷で、両家は交替で日野本郷の名主と
日野宿問屋役を務めていた。
嘉永二年(1849)の大火で本陣・脇本陣とも消失したが、脇本陣は当主佐藤彦五郎により
元治元年(1864)に再建された。
都内に残っている唯一の本陣・脇本陣施設である。
冠木門を潜って中に入ると、


明治天皇行幸の碑が目に入る。


日野宿本陣
瓦葺きの大屋根・入母屋の玄関など本陣建築として建築史的にも価値がある、と云われている。


本陣見学用入口
一人200円(22名分4,400円)を払って中へ。


座敷


新選組の羽織
(記念写真を撮るためのもの)
日野宿の名主を務めていた佐藤彦五郎が以前に住んでいた自宅に天然理心流の道場を開き、
そこに近藤勇・土方歳三・沖田総司らが稽古に訪れていた、そうだ。


ボランティアの方の説明を聞く。


佐藤家と土方家の家系
佐藤彦五郎の母親マサさんは、土方歳三の父の妹である。
また、土方歳三が慕う姉のノブさんは、当主の佐藤彦五郎の妻であるため、
佐藤彦五郎は歳三の従兄弟・義兄にあたるという極めて深い繋がりがある。


ボランティアの方の説明に耳を傾ける。


玄関(式台)
一般人ではない、いわゆるお偉い方をお出迎えする間


かつての上段の間
日野宿本陣には上段の間は残っていない。


上段の間の説明
日野宿の上段の間と次の間は、明治26年(1893)の日野の大火の後、
家屋を類焼した佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先有山家に移築されて今ここにないが、
当初はこの縁先に写真に見られる二間が続いていた、とある。


次の間にあたる座敷


座敷から裏庭を望む。


甲州街道に残る本陣の建物は、ここ日野宿の他に、小原宿と下花咲宿にある。
”ウマさんの甲州街道を歩く”の”駒木野宿から小原宿”および”大月宿から阿弥陀海道宿”にて
両本陣を訪れている。


小原宿本陣平井家(平成28年(2016)9月25日撮影)
信州高島藩・高遠藩・飯田藩の大名や甲府勤番の役人が宿泊した。


花咲宿本陣星野家(平成29年(2017)1月22日撮影)
”しばらくの間見学は休止とさせていただきます”の案内が貼られている。


座敷
こちらの部屋は彦五郎と妻ノブさんの寝室だったと言われる。


二羽の兎の釘隠し
子だくさんを願ってのことだそう。
上段の間には、魔除け・福を招くとしてコウモリの釘隠しを使っているそうだ。


先ほどのボランティアの人は、次のお客さんに説明をしている。
重ねてお礼を言って日野宿本陣を後にした。


日野宿本陣の道路向かい側に日野宿交流館が。


旧甲州街道を進み、川崎街道への分岐点を横断


旧甲州街道と川崎街道分岐点の角に道標がある。
高幡山不動尊道と刻まれている。
川崎街道は高幡不動尊へ通じる道である。


旧甲州街道を進む。


有山家の建物で、日野宿の名主を務めた佐藤彦五郎の4男である彦吉が、
有山家に養子に行って建てた家という。


有山家(屋号「綿十」)前-下町-
左手の石垣付近が有山家です。この写真は、明治26年(1893)の大火の前に撮られたものと思われます。
有山家、中嶋家(屋号「嶋屋」)、古谷家(屋号「油屋」)、土方家(屋号「土屋」)と蔵の連なる
甲州街道沿いの町並が分かる一枚です。


11時17分、日野警察署前を通過


旧甲州街道を進む。


旧甲州街道を進む。


右手に多摩モノレールの甲州街道駅が見える。


反対側は立川方面だ。


都道149号(多摩モノレール通り)を横断して、


多摩モノレール線に沿って都道503号(多摩モノレール通り)を進んでいると、
ちょうど高幡不動方面行きのモノレールが到着するところだった。


11時25分、甲州街道駅を通過


多摩モノレール通りを進む。


中央高速道路下を潜って進む。


多摩モノレール線に沿って進むと、


11時36分、万願寺一里塚があった。
当初の甲州街道は、青柳(国立市)付近から万願寺渡船場で多摩川を渡り、
この万願寺一里塚を経て日野宿に入った。
その後、貞享元年(1684)に、上流の日野渡船場を通る道筋へと改められた。
現存する塚は南側の一基だけで、北側の塚は昭和43年(1868)に取り壊された。
『初期の一里塚が昔のまま残っているんだねぇ』


万願寺一里塚碑には、江戸日本橋より九里(約36Km)とある。


多摩モノレール通りを進む。


多摩モノレール通りを進んで行くと、


前方に多摩モノレール万願寺駅が見えた。
案内地図に従って少し手前の信号を左折して、さらにその少し先を右に折れて進むと、


多摩川に架かる橋へ通じる国道20号(日野バイパス)に行き当たった。
道路反対側には真っ直ぐには進むことが出来ない。
『参考本には真っ直ぐ進めるようになってたんだけどねぇ』


仕方なく多摩モノレール通りまで戻ることに。


多摩モノレール通りまで戻り、国道20号(日野バイパス)を横断して、


直ぐに左方向へ。
左手の道路反対側にはその前を通ってきたスーパー「いなげや」が。


日野バイパスの多摩川手前。
先ほど行き止まりになった場所である。


右に曲がって進む。


次の目的地石田寺(せきでんじ)を目指す。


石田寺一丁目辺りを通過して、


右に曲がると、石田寺が見えた。


12時8分、石田寺に到着。


石田寺の境内に入ると、六地蔵が迎えてくれる。
左から堅固慧菩薩、持地菩薩、法印手菩薩、宝処菩薩、宝掌菩薩、地蔵菩薩と並んでいる。


石田寺のカヤの木
樹高約26m、目通り幹囲4.2m、根元から2.5mの高さから三分岐している。


樹齢は400年以上と推定される。
カヤはイチイ科の常緑高木で雌雄別株であるが、当所のカヤは、雌株である。


枝張りは四方に約5mで、樹勢は極めて良好である。
日野市の天然記念物にも指定されている。
(日野市教育委員会)


カヤの木の傍に土方歳三義豊之碑がある。
この碑は、早くして両親を亡くした歳三の親代わりでもあり、家督を継いだ兄喜六の曾孫にあたる
土方康氏が昭和43年(1968)に明治100年を記念して建立したもの、とのこと。


土方歳三義豊之碑の横に土方歳三の墓を指している石碑が。


矢印の方へ行ってみると、あっちも土方


こっちも土方
『み~んな土方って名前なんだねっ』


『ここが土方歳三の墓だよっ』
声のする場所へ向かうと、


土方歳三の墓(右側)があった。


土方歳三の墓
墓碑に本人の写真が埋め込まれている。
(日野で生まれ育った時から新選組で活躍した頃の説明は略す)
慶応三年(1867)10月の大政奉還により、慶応四年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発し、
土方らも参戦したが、敗れた。
以後、勝沼・宇都宮・会津と転戦し、仙台で榎本武揚の率いる幕府艦隊と合流した。
そして、北海道へ渡り箱館政府設立に参加し、土方は陸軍奉行並に選任された。
明治二年(1869)、官軍の反撃が始まった。
土方は、弁天砲台に孤立した味方を救出するために、箱館市内に突入したが、
午前10時頃、腹部に銃弾を受けて戦死した。
五月十一日没 三十五歳  法号 歳進院殿誠山義豊大居士
(日野市教育委員会)
合掌! 


石田寺本堂にお参りを済ませた。


石田寺には日野七福神(福禄寿)も祀られている。


石田寺を後にして、歳三の子孫が館長を務めるという土方歳三記念館に立寄ろうとしたが、
第一・第三日曜日しか開館していないため、直接浅川の堤防を目指すことにしたのだが、
道に迷ってしまった。
しばらく石田寺の周りを行ったり来たり。
日野高校の裏を抜けると、


やっとのことで、浅川の堤防に出ることが出来た。


『堤防の上を歩くのねっ』


多摩モノレール通りの新井橋の下を潜る。


新井橋の下を潜り抜けると、


浅川の土手に出た。
やはり広々とした景色は気持ちが良い。


浅川の土手を進む。
後方に見えるのは今潜って来た多摩モノレールだ。


浅川
多摩川から1.4Km地点を通過


前方にふれあい橋(正式名称は万願寺歩道橋)が見えて来た。


ふれあい橋は目の前だ。


ふれあい橋を渡る。


高幡不動の五重塔の相輪(九輪)が見えた。


浅川の流れがきれいで美しい。


ふれあい橋(万願寺歩道橋)を渡り、


右に曲がってさらに土手を進む。


浅川に目をやると、


白い鳥が。体長が少し大きい。
チュウサギのようだ。


土手の上で一息入れて、


高幡不動尊を目指す。


高幡不動尊へ。


潤徳小学校の塀に沿って進むと、


京王線の高幡不動駅北口に到着した。


階段とエスカレータで上階へ上り、


高幡不動駅南口へ。


今度はエスカレータで1階まで降りると、


高幡不動尊の参道入口に出た。
『いやぁ 立派な門だねぇ』
『横浜中華街の門みたいだねっ』


参道の門前町商店街を進むと、


高幡不動尊の仁王門が見えて来た。
『謹賀新年て書いてあるよっ』
『まだ1月だからかねっ』


川崎街道を横断して、高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊)の仁王門に到着
楼上の扁額「高幡山」は江戸時代初期の運敞僧正「号泊如」の筆、とのこと。


ここからは各自が境内を自由に歩けるように自由時間を設けることにした。
先ず線香の煙で身体を清め、


宝輪閣(お札所)
護摩修行の受付所でもある。


不動堂本堂にお参りしよう。
真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三大不動の一つに挙げられ、
高幡不動尊として親しまれている。
関東三大不動尊は、高幡山金剛寺(高幡不動尊)、成田山新勝寺(成田不動尊)、
および玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊)とされている。


不動堂本堂


中ではお坊さんが張りのある声でお経を唱えていた。
お経はスピーカーで境内に響き渡るようになっている。


大勢の人がお坊さんと一緒に声を合せてお経を唱えていた。


不動堂裏の奥殿には、丈六不動三尊が安置されている。


奥殿の本堂


丈六不動三尊
総重量1,100Kgを超える巨像の丈六不動三尊は、古来日本一の不動三尊と伝えられている。


弘法大師の案内に従って進むと、


大師堂と


その隣に聖天堂があった。


大師堂の裏山は、境内八十八箇所参拝コースになっている。


満5年の歳月をかけて竣工したと云われる五重塔は、塔高39.8m、総高45mで、
平安初期の様式を模した美しい塔である。


新選組土方歳三の菩提寺である高幡山金剛寺には、近藤勇・土方歳三両雄の碑や、土方歳三の銅像、


また大日堂には土方歳三の位牌や新選組隊士慰霊の大位牌等、更に奥殿では歳三の書簡ほか
多くの新選組資料が展示されている、とのこと。
しかし、これらの全てを見て廻るには余りにも時間が少なかった。


皆さん、ほぼ駆け足で境内を歩き周り、順次土方歳三像近くに集まって来た。
全員揃ったところで、13時21分、この日はここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


高幡不動境内の土産物店で


土産物などを買う人もいる。


解散はしたものの、全員揃って総門を潜り抜け、


とりあえず門前町商店街へ。
この商店街でお好みの店を見つけて抜けて行った人も。


我々いつものメンバーは、京王線高幡不動駅ビルへ向かった。


とんかつの「和幸」はあいにく満席だった。
『もう13時半を過ぎてるのにけっこう混んでるんだねぇ』
「和幸」の隣に蕎麦と酒肴「たまの里」という店があったので、覗いてみると、
『何とかここは入れそうだねっ』


先ずは『かんぱ~いっ』
簡単なつまみが付いた”ちょいのみセット”(600円)の中生が美味かった。


中生で一杯の後は、ミニかきあげ天丼とそば(600円)を注文した。
『いやぁ けっこうボリュームもあるし、美味いよねっ』
併せて1,200円はリーズナブルである。

この後、京王線で新宿駅に向かい、中央線神田駅で山の手線に乗り換え上野駅へ。
上野駅始発の常磐線で帰路に就いた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

この日は”新選組のふるさと”と呼ばれている日野駅をスタートして、新選組ゆかりの寺社や
日野宿本陣などを巡り高幡不動尊まで歩いた。
今年は土方歳三没後150年という節目の年ということもあり、日野駅を始めその周辺は土方歳三一色だった。
日野市最大の観光イベント「ひの新選組まつり」は、土方歳三の命日に合せて、毎年5月上旬に開催されるが、
今年は、5月11日(土)、12日(日)に開催される予定とのこと。
5月11日は土方歳三の命日であり、没後150年が重なるため、大いに盛り上がることだろう。

高幡不動尊の境内は広く、いろんな建物や碑・像などがあり、20分足らずの自由時間では短か過ぎて廻りきれなかった。
1時間以上の時間が必要だったと思われる。
今回の大きな反省点である。


この日の万歩計は、15,000歩は軽く超えていた。
意外と歩いたものである。

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霞ヶ浦総合公園から桜川・亀城を歩く

2019年01月18日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2019年1月18日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第30回(2019年第2回)、「霞ヶ浦総合公園から桜川・亀城散策」ウォーキングに参加した。

この日、第一集合場所の乙戸沼公園に集まったのは、僅か3名。
この日の予想最高気温は8℃。風がかなり強い。
この分では10名以下になるんじゃないかと3人で話合いながら、第二集合場所の
霞ヶ浦総合公園に行ってみると、案の定数名が来ているだけだった。
『いやぁ 今日は少ないね~っ』


しかし、その後順次集まりだし、出発予定時刻(9時30分)を少し回った頃には、
その数は17名となった。
『何とか格好がついたんじゃないのっ』
『いやぁ それにしてもこの寒いのによく集まったもんだよな~っ』
当会の史上最低の参加人数を記録しなくて一安堵。


9時45分、TKさんを先頭に出発!


霞ヶ浦文化体育会館


今年(2019年)は「いきいき茨城ゆめ国体」の年である。
この文化体育館は相撲競技会場になっている。


2016年にリニューアルされた「水郷プール」を右手に見ながら体育館前を進む。


『ほんと今日は寒いわよね~っ』
『風が冷たいよねっ』 


総合公園内を風車方面へ。


霞ヶ浦総合公園のシンボルとなっている風車
この風車は,土浦市市制施行50周年(1990年)を記念して建てられた、
というから今から約30年前のことである。


国民宿舎「水郷」の「霞浦(かほ)の湯」前を通過
日帰り入浴施設「霞浦の湯」の入浴料は410円、とのこと。


9時57分、備前川水門を通過


備前川


霞ヶ浦湖岸の堤防道路を進む。


いろんな種類の水鳥が羽を休めている。


コハクチョウの姿も見える。


うなぎ料亭「美浦柳(みほやぎ)」前を通過。


『一度この店でうなぎを食べてみたいわね~っ』
霞ヶ浦を眺めながらの食事はまた格別なものらしい。


続いてウェディングハウス「アジュール土浦」前を通過


湖岸の道路を進む。


前方に霊峰筑波山が見える。


霞ヶ浦の対岸はおおつ野辺りか?
土浦協同病院らしき建物が見える。


また水門が現れた。


霞ポート水門である。


内側は小さな港になっている。


10時13分、霞ポート水門を通過して、


桜川(右手)に沿った桜並木を進む。


かなりの年数が経っていると思われる桜の巨木が多い。
桜の時期に歩いてみたいものだ。


右斜め前方に土浦駅周辺の高層ビル群が。


狭い道にも関わらず時々車が通るので、気を付けて歩きたい。


強く冷たい風の中、桜並木を進むと、


前方に水郷橋が見えて来た。


まもなく水郷橋だ。


水郷橋
桜川に架かる橋の中で霞ヶ浦に最も近い橋である。


10時27分、水郷橋の袂に到着


水郷橋を渡る。


水郷橋の上から見た桜川(霞ヶ浦方面)
『この辺りはけっこう川幅が広いよねっ』


水郷橋を渡り終え、


土浦駅へ向かう。


10時36分、土浦駅東口に到着


土浦駅構内の東西連絡通路を進む。


かすみがうらマラソンの横断幕
4月14日(日)にかすみがうらウォーキングと同時開催される。
かすみがうらウォーキングには当会からも毎年何名かが参加しているが、今年はどうなのだろう。


土浦駅西口を出て、正面うららビルの土浦市役所へ。


土浦駅西口のバスターミナル


土浦駅西口の駅前広場


土浦市役所の中を通り抜けて、


国道125号方面へ


国道125号を土浦城を目指して進む。


125号の上を高架道路が走っている。


高架道路下を通って土浦城へ。


「ほたて食堂」前を通過
今から148年前の明治二年(1870)創業の天ぷら屋で土浦市最古の飲食店。
当時は鮮魚店で丼ものを出していたが、現在は天ぷら専門店として営業している。


土浦町道路元標と桜橋の親柱遺構
現在の亀城通りと中城通り(旧水戸街道)の交差点には「櫻橋」という文字が刻まれた
桜橋の親柱遺構がある。


和食と地酒の店「里山」前を通過


土浦市指定名木・古木が。
久松医院のクロガネモチだ。
樹高10m 胸高周1.37m+0.5m 葉張り9.4m(東西)7.5m(南北)
『モチの木って珍しいよねっ』


土浦城へ。


11時2分、土浦城(亀城)前に到着
土浦城を拠点とする土浦藩は、土屋氏のときに藩領が9万5千石となり、
常陸国では水戸藩に次ぐ領地の広さを誇った。


亀城内の地図で位置を確認して、


霞橋を渡って城内へ。


霞門を潜ると本丸跡だ。


東櫓は、私立博物館附属の展示館になっており、入館料(105円)が必要である。


西櫓
こちらの櫓は中へは入れない。


櫓門は明暦二年(1656)に改築されたと伝えられ、本丸にある江戸時代の櫓門としては
関東地方で唯一現存する。
階上に太鼓を置き、時刻を知らせていたことから太鼓櫓とも呼ばれていた。


二の丸跡から見た櫓門(太鼓櫓)


櫓門前の二の丸跡を通って西へ進むと堀があり、小さな橋が架かっている。


橋を渡って、


土浦小学校方面へ。


土浦小学校前の通りを進む。


旧土浦城大手門跡
旧土浦幼稚園跡(現土浦小学校)の門の前には土浦城大手門跡の碑が建っている。
かつてはここに土浦城の大手門(正門)があった。


途中で列を抜けていたFJさんが、差し入れがあると言うので、中条天満宮へ向かうことにした。
「山口薬局」の古い看板の店前を左折して、


江戸時代より土浦の商業の中心地として栄えた中城通りを進む。
土浦まちかど蔵「大徳」「野村」はこの先になる。


中之条通りから天神通りへ。


11時15分、中条天満宮に到着
祭神は菅原道真で、書道と学問の信仰を集めている。
地元では中城の天神様の通称で知られている。


鳥居の前には菅原道真と縁の深い牛の像が。


中条天満宮の創建年代は不詳だが、源義家が前九年の役で境内で軍馬を閲した伝説がある。
江戸時代には、境内で中城の駒市が3月11日から15日まで行われていて、多い時で700頭の
馬が集まった。
(閲する:見て確かめる。 目を通して調べる。)


FJさんから差し入れのあった大福餅に舌鼓を打つ皆さん。
『御馳走さま~っ』


『ちょっぴり塩味が効いてるけど、柔らかくて美味しいねっ』


中条天満宮を後にして桜川を目指す。


料亭「霞月楼」の前を通り、


桜川方面へ。


高架道下を通り、桜川を目指す。


正面に土浦駅前のうららビルが見える。


いろんな商店が並ぶ桜町三丁目付近。


県道24号を横断し、桜町二町目を桜川方面へ。


11時31分、桜川に架かる匂橋に到着した。


匂橋は、2009年に「関東ふれあいの道」茨城県No.15(土浦匂橋から筑波大学)、また
No.16(土浦匂橋から木原水神宮)などで、何度か歩いているので、懐かしい感じがする。


桜川の上流を望む。


桜川の下流を望む。


匂橋を渡る。


匂橋を渡って桜川の堤防を下流へ。


桜川の堤防を進む。


前方に国道125号が走る桜川橋が見えて来た。


桜川橋を右折すると、どら焼きの「どてきん」が。
自分も何度か買ったことがある。
MT子さんが差し入れにと店内に入って行ったが、直ぐに出て来た。
『20分待ちだって~っ』と残念そう。
寒空の下で20分も待たせる訳にはいかない、との配慮である。
ここはMT子さんの気持ちだけ頂いておこう。


国道125号を横断して、常磐線方面へ。


常磐線のガード下を潜って進むと、


土浦駅方面から国道125号に繋がる広い道路に出た。


広い道路を横断して右に曲がって進むと、


土浦小松郵便局の先に備前川が流れていた。


備前川に架かる小松橋を渡り、


備前川に沿った道を霞ヶ浦総合公園へ。


住宅地を過ぎると、右手は蓮畑になっている。


備前川の対岸に住んでいるというIW子さんによると、
『さっきの住宅地もちょっと前まではこんな状態だったのよね~っ』
『へ~ぇ そうなんだぁ』


『ここもいずれさっきのような住宅が建っちゃうのかねぇ』


右手に蓮畑を見ながら備前川に沿って進む。


備前川に沿って進む。
『風を後ろから受けるからあまり寒さは感じなくなったよねっ』


備前川の先に備前川水門が見える。
朝方通った最初の水門だ。


『戻りは違った道を歩きましょう』ということで、途中で右へ曲がり、田んぼの道へ。


後に続くメンバーの皆さん。


周りが田んぼの中を進む。


田んぼに隣接した林が防風林の役目をしてくれる。
『身体が温まってマスクはしてられないねっ』
見ると、皆さんマスクを外している。


右手に霞ヶ浦総合公園の体育会館が見えて来た。


ゴールの霞ヶ浦総合公園の体育会館を目指す。


正面にレストハウス「水郷」が見えて来た。


レストハウス「水郷」の前を右へ曲がり、体育会館を目指す。


前方左手に風車が見えて来た。


『もう直ぐゴールだねっ』


土俵
『国体の相撲はここでやるのかしらっ?』


ゴールは目の前だ。


12時20分、ゴールの霞ヶ浦文化体育会館に到着。


『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


この日は午後3時から臨時役員会を予定しているため、三中公民館近くの料理屋「大野屋」で食事を摂ることにした。


3名とも”鯵フライ・鯖味噌煮”定食を注文


『いやぁ ボリュームもあるし、味も良いよねっ』


食後にコーヒーも付いている。
『これで750円は安いよねっ』
『また今度来ることにしようっ』


第一集合場所の乙戸沼公園に僅か3名しか集まらなかったのを見て、少々愕然としたが、
霞ヶ浦総合公園では結果的に17名となって一安堵、というのが正直な感想である。
原因は、この日の気温が低く風も強かったためと考えられる。

この日のコースは地元でもあり、そのうちまた企画することになると思う。
天気が良く風も穏やかであればもう少し参加者が増えるだろう。
その時を期待したい。

この日の万歩計は、15,000歩を少し超えていた。

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年の初めは 浅草名所七福神巡り

2019年01月11日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2019年1月11日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第29回(2019年第1回)、「浅草名所七福神巡り」ウォーキングに参加した。

上野へ向かう途中の我孫子駅で、『日暮里駅下りホームで、お客様が列車に接触したために
運転を見合わせます』との案内放送があり、大勢の人が各駅停車へ乗り換えるために別のホームに向かった。
我々も一足遅れて電車を降り、各駅停車へ乗ろうとしてホームで点呼を取っている最中に、
『日暮里駅での安全確認が終わったので、快速電車はこのまま発車します』とのこと。
慌てて快速電車に戻って数分後、電車は動きだした。
新年の第一回目の朝からとんだハプニングである。

約20分ほど遅れて、電車は上野駅に到着した。
上野駅入谷改札口


入谷改札口を出ると、


パンダ親子のばかでかいぬいぐるみ像が迎えてくれた。


この日入谷パンダ像前に集まったのは28名。
体調不良等で4名が参加見合わせである。


点呼を取り易いように3つのグループ分け編成を行い、9時50分、TKさんを先頭に出発!
先ずは福禄寿が祀られている矢先神社を目指す。


浅草口前の高架道を浅草通り方面へ。


昭和通りを横断し、


左折して昭和通りに沿って進む。


昭和通りの東上野交差点を右折して進むと、正面に東京スカイツリーが見えた。
『この通りを真直ぐ進めば良いんだよねっ』 通りの確信はない。


この後目指す矢先神社をなかなか見つけることが出来ず、うろうろと付近を探し回った。
『神社一つ見つけるのにも苦労するねぇ』
(後で気が付いたが、浅草方面への通りを一つ間違っていた。見つからない訳である。)


10時19分、ようやく目指す矢先神社に到着した。
『いやぁ この分じゃこの先が思いやられるねぇ』


矢先神社本殿


矢先神社は、幸運・生活の安定・長寿の神様とされる福禄寿が祀られている。


矢先稲荷神社の拝殿


天井一面の天井画「日本乗馬史」が有名とのこと。


天井画「日本乗馬史」は、およそ100枚。
『いやぁ これは素晴らしいねぇ』


矢先神社を後にして、合羽橋通りへ。


次の目的地鷲神社を目指して合羽橋通りを北へ。


合羽橋通りに立つ「かっぱ河太郎」像
全身が金色に塗られている。
外国人観光客も珍しそうに見ていた。


合羽橋通りの看板・ちょうちん専門店


合羽橋通りをさらに進み、金竜小を過ぎた先の角を右折。


国際通りを横断して、


左へ少し進むと、10時55分、鷲(おおとり)神社に到着した。
『立派な神社だことっ』


鷲神社は、長寿延命の神様とされる寿老人を祀っている。
酉の市発祥の地として有名である。


神社入口の明神鳥居を潜り、その先の”商売繁盛 鷲神社”と染められた真っ赤な幟の間を進む。


俳人其角の句碑
春をまつ ことのはじめや 酉の市


茅の輪を潜ると、


鷲神社の拝殿である。


鷲神社では、撫でる顔を場所によっていろいろなご利益があるといわれる
「なでおかめ」も有名だそうだ。


叶鷲
『可愛いわねっ』


鷲神社を後にして、鷲神社の直ぐ裏手にある吉原神社へ。


11時14分、吉原神社に到着。


吉原神社は、知恵・技芸・音楽・財福の神様と云われる弁財天を祀っている。


吉原神社の境内には「お穴様」が祀られている。
ここの地中には神社の土地を守っている神様がおられ、心を込めてお詣りすると
必ず福が得られると伝えられている、とある。


逢初桜(あいぞめさくら)
「逢初め」とは、恋い焦がれている人に初めて会うという意味があり、
二百年前に吉原神社の御神木として崇信されていたが、明治四十四年の大火で焼失し、
忘れられて現在に至る。
今、うれしくも百年ぶりに吉原神社御神木として復活することが出来ました。
浅草防犯健全協力会の甚大なる努力と奉納に深く感謝します。
平成二十五年一月吉日 吉原神社氏子一同


吉原神社を後にして、次の目的地石浜神社へ。


仲之町通りを石浜神社へ。


東京スカイツリーを右手に見ながら仲之町通りを進む。
『この辺はどこからでもスカイツリーが見えて羨ましいわね~っ』


台東区循環バス「めぐりん」
台東区内を循環するコミュニテイバスで、「北めぐりん」「南めぐりん」「東西めぐりん」
「ぐるーりめぐりん」の4路線が運行している。
15~20分間隔で、料金は100円(大人・子供)とのこと。
一度乗ってみたい。


仲之町通りに続くアサヒ会通りの橋場交番前交差点を渡って、左折し、


明治通りを右折して進むと、


墨田川の白鬚橋西詰交差点に行き着く。
交差点手前を左折して進むと、


11時47分、石浜神社に到着した。


石浜神社一の鳥居を潜って進む。


石浜神社は、長寿延命の神様と云われる寿老人を祀っている。


石浜神社の社殿
主祭神の天照大御神(あまてらすおおみかみ)と豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る。


富士山遙拝所(区登録文化財)


実際に富士山に登って祈願できない人のために、同じご利益を得られるようにと、
富士山の形を模して建立した富士塚は、宝暦八年(1758)の造営。
白髭富士とも呼ばれる。
塚の上には庚申塔が建てられている。


社殿をバックに記念撮影を済ませ、次の目的地橋場不動尊へ。


白鬚橋を左に見ながら明治通りを横断して真直ぐ進むと、


12時11分、橋場不動尊に到着した。
関東三十六不動霊場第二十三番札所である。


橋場不動院の尊像(不動明王)は、古来から開運厄除け不動として崇敬を集めてきた。
七福神は、家庭円満・堪忍・和合を教える福徳の神様と云われる布袋尊を祀っている。


橋場不動尊
天平宝字四年(760)に寂聴(じゃくしょう)上人によって開かれたという歴史がある。
本堂も歴史あるもので、弘化二年(1845年)に建立されたもの。
お不動様ご真言
ナーマーサンマン・ダーバーサラナン・センダーマーカロシャーナー・
ソワタヤウンタワ・タ-カンマン
次に訪れる機会があれば、ご真言を称えてみようと思う。


本堂の左手に御授地蔵尊が祀られている。


境内の大木


墨田川沿いの都道314号を進み、浅草病院、台東リバーサイドスポーツセンター野球場
を左手に見て、小さい路地を右折すると、


12時32分、今戸神社に到着した。


今戸神社は、招き猫発祥の地および沖田総司終焉の地、とある。


境内には円形の絵馬架けに丸い絵馬がびっしり。
『円形の絵馬架けは珍しいねぇ』


今戸神社は、イザナギノミコト、イザナミノミコトという夫婦の神様を御祭神とし、
縁結びにご利益があると云われているのは有名だそうで、女性の参拝客が多いらしい。
人力車で訪れた2人連れの女の子も縁結びの御利益を期待しているのかな?


茅の輪を潜って、今戸神社の拝殿へ。


今戸神社は、幸運・生活の安定・長寿の神様と云われる福禄寿を祀っている。


拝殿正面に、招き猫が右手を上げて迎えて?くれている。
(右手を上げているのは金運を招くと云われている)


境内には、今戸焼発祥之地の碑が建てられている。
今戸焼とは、現在の台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類・土人形類のことで、
かつては江戸を代表する焼き物として繁盛していた。
台東区教育委員会


その隣には沖田総司終焉之地の碑が。
沖田総司は、当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘わらず、
その甲斐もなく当地にて没したと伝えられている。
碑字は橘右近書


今戸神社を後にして、次の目的地待乳山聖天(まっちやましょうでん)へ向かう。
案内はかつてこの近くに勤めていたことがあり、地理には詳しいと言うTKさんだ。


TKさんの後に付いて行くと、「待乳山聖天と墨田川」の風景画が。
以下のように記されている。
江戸時代の待乳山聖天の界隈は、こんな楽しそうな町並みでした。
聖天さまから見た墨田川の眺めが素晴らしく、多くの画人たちが描くほどの
眺望の名所でもありました。 台東区


待乳山聖天の上り口に池波正太郎生誕の地碑が。
鬼平犯科帳で知られる作家の池波正太郎は、大正12年1月25日、旧東京市浅草区聖天町61番地
(現在の東京都台東区浅草7丁目3番付近)で誕生した。
生誕地は「待乳山聖天」から道路を一つ隔てすぐ南側の場所、とのこと。
『あの池波正太郎はここで生まれたんだぁ』


12時47分、石段を上り待乳山聖天の社殿へ。


待乳山聖天は、人倫の道・仏教の守り神とされる毘沙門天を祀っている。
”聖天様(しょうでんさま)”として地元からの篤い信仰を集める。


ケーブルカー
待乳山聖天は小高い丘の上にあるため、普通は階段を上り下りするが、
高齢者や体が不自由な人の為に、駐車場からケーブルカーがある。
高低差は10mもない。せいぜい6-7mと思われる。
『こんな所にケーブルカーがあるなんて面白いわね~っ』


境内でお供え用の大根が売られていた。
当山の紋章には巾着と二股大根が組み合わされており、巾着は砂金袋のことで商売繁盛を、
二股大根は無病息災・夫婦和合・子孫繁栄をそれぞれ意味し、大聖歓喜天の福徳を示しています、とのこと。


二股大根の絵が描かれた提灯も。


待乳山聖天を後にして、次の目的地浅草神社へ向かう。
東京スカイツリーが大きくはっきりと見えた。


裏通りを浅草神社を目指す。


姥ヶ池
浅草寺が出来た頃、周囲は浅茅が原と呼ばれていた。
その中の一軒家に老女と若い娘が棲んでいた。
旅人に宿を貸しては深夜になって旅人を殺し、金品を剥ぎ取っていたのだ。
殺された人が999人になったとき浅草観音が若者に変装して老女のところに泊まった。
老女はいつものように若者を殺して、明かりをつけてビックリ仰天。
殺した相手は旅人ではなくて自分の娘だったのである。
老女は大いに嘆き、仏眼を開いて悔い、大きな竜となって池の中へと消えていった。
その後この池を姥が池と呼ぶようになったそうである。


観光バスが停まっていた。
外国人観光客を乗せて来たのだろう。


二天門を潜ると、


13時12分、浅草神社に到着した。


浅草神社は、明治元年(1868)の神仏分離令により、浅草寺から神社として分離されて出来た。
浅草寺の起源に深く関わった3名(土師真中・桧前浜成・桧前竹成)を御祭神として祀っている。
浅草神社は、労働・商売・漁業などの守護神とされる恵比寿天を祀っている。
商売繁盛・家内安全・心願成就が御利益と云われている。


浅草神社に参拝!
残るは直ぐ隣の浅草寺である。


浅草神社の境内では猿芸(猿回し)が披露されていた。
周りは大勢の観光客・参拝客が取り囲んでいた。


13時21分、浅草寺に到着
『いやぁ やっぱでかいよね~っ』


松の内は過ぎてはいるが、たくさんの人が参拝に訪れていた。
浅草寺は、東京最古の寺院で、何にでも御利益があるとされる「観音様」は、
都内屈指のパワースポットなので、当然といえば当然であろう。


浅草寺は、五穀豊穣・量食・財宝の神様と云われる大黒天を祀っている。
浅草寺に参拝を済ませたことで、この日の「浅草名所七福神巡り」は全て終わったことになる。
この時点でいったん解散し、めいめい好みの食事処へ向かうことにした。
『皆さ~ん 今日は大変お疲れさまでした~っ』
『帰りは気を付けてね~っ』


とは言っても皆さんお目当ての店が決まっている訳ではなさそう。
とりあえず、雷門まで一緒に行こうということになった。
広大な境内の中には、本堂の他・五重塔・宝蔵門・仲見世・雷門・ど多くの見所がある。
先ずは宝蔵門


続いて五重塔(眺めるだけ)


仲見世通りを通り、


伝法院通りを右手に見ながら雷門へ。


仲見世通りは人が多いため、仲見世の裏を通って雷門へ。


雷門(内側)を潜ると、


13時35分、雷門(外側)に到着した。
この後、TKさんの案内で神谷レストランへ。同行したのは15名ほど。


神谷レストラン(2F)は、満席状態に近かったことから、5-6名づつに分かれて離れて座ることに。
『かんぱ~いっ』 『お疲れさま~っ』


『かんぱ~いっ』
食前のビールは何時になく美味しく感じた。


食後は、せっかくだから上野駅まで歩こうということになり、
途中、土産にと紀文堂総本店で人形焼きを買ったり、再び雷門前を通り、


雷門横の常磐堂で雷おこしを買うなどして、上野駅へ向かった。


上野駅からは15時52分発の常磐線に余裕で座れた。
TSさんの差し入れで、あらためて『かんぱ~いっ』
『今日は本当にお疲れさま~っ』


神谷レストランで買った電気ブラン


新年を迎えた最初の例会で、朝から電車が運転見合わせになるというハプニングに見舞われたが、
何とか無事に「浅草名所七福神巡り」を終えることができた。

七福神巡り最初の矢先神社を見つけるのに右往左往したのは、反省すべき点である。
もう少し詳細な地図で事前確認をしておくべきだった。
矢先神社以降の七福神巡りはほぼ順調だっただけに、最初のつまづきが残念でならない。

帰りは浅草から上野駅まで歩くことになったが、これは全く予想していなかった。
何となく雰囲気でそうなってしまったので、これもハプニングと言えるかも。
さすがに疲れてしまった。

この日は、平成31年(2019年)の長い一年が始まったばかりである。
今年も元気に歩けることを願って参拝したが、これから先どんなハプニングが待っているのだろうか、
気になるところではある。

この日の万歩計は、20,000歩を少し超えていた。
浅草から上野駅まで歩いたのが大きく響いている。

ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。

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