ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

快晴に恵まれて 熊の山ハイキング

2016年10月29日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年10月29日(土)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28度第23回(2016年第34回)、「熊の山」ハイキングに参加した。
熊の山ハイキングは、2013年5月3日(金)以来2度目である。

荒川沖6時8分発の電車を待つ。


6時58分、水戸駅に到着。
水郡線7時28分発の郡山行きまで少し時間があるので、水戸駅舎で寛ぐ皆さん。
この日は、「まゆみの会」のD子さんも特別に参加してくれた。


7時28分発の郡山行に乗り込む。


郡山行車内は、空いていた。
この日の参加者は18名、D子さんを入れて19名になった。


8時30分、スタート地の下小川駅に到着。


下小川駅前
この日のコース説明と、D子さんを紹介し、


Oさんの掛け声による準備体操


『腰をゆっくり下ろして~っ』


8時43分、Oさんを先頭に熊の山目指して出発だ!


先ずは平山橋方面へ。


踏切を渡ると、


久慈川に出た。


『いやぁ 随分濁ってるねぇ』
昨夜の雨で水の流れもかなり増えている感じだ。


沈下橋にも似た平山橋を渡り、対岸へ。


平山橋を渡りきったところで、20名ほどのグループとすれ違った。
これから平山橋を渡るところのようだ。
(土浦二中地区のハイキング教室とのことだった)


国道118号を横断すると、いきなり急坂の道が始まった。
「熊の山」と書かれた大きな看板が目印だ。


青息吐息で長い急坂の道を上って行く。
道端のエンジェルス・トランペットの花が疲れを癒してくれる。


急坂の道はしばらく続く。
皆さんスピードダウンのところを、当会最高齢のH子さん(86)は、
常に先頭集団に位置している。
この急坂もあまり苦にはならない様子。


ようやく急坂の道を上り切った先の民家の片隅に、お地蔵さんが祀ってあった。
『よく来たね』と語りかけてくれているようだ。


お地蔵さんの少し先で道が二つに分かれている。
道標には「熊野山へ登古道」と書かれている。
熊の山へ通じる古道である。


道なりに進むと、それまでの舗装された道路が細い山道に変わり、
杉の林へと通じていた。


緩やかな坂の山道が続く。


『国道を越えてからずっと上りっぱなしだよねっ』
皆さん、少し疲れた様子。


9時18分、ここらで一休みしよう。
下小川駅を出発して、35分が経過していた。


『かなり汗かいちゃったねぇ』


10分ほど休憩した後、再び熊の山を目指した。


休憩した場所を過ぎた辺りから一段と急な山道になった。


つづら折れの山道が続く。


急坂の道を10分ほど上ると、


9時35分、見晴らし台に出た。


木々の隙間から奥久慈の山々や麓の家が見えた。
紅葉にはもう少し時間が必要な状態である。


見晴らし台からさらに進む。


右手に杉林を見ながら進む。
『木が真っ直ぐだねぇ』


標高261mを表す標識
『山道の途中にこんな標識があるのは初めて見たよっ』


今度は急な下りである。
滑ると危険だ。


『ゆっくりで良いよっ 落ち着いてっ』


次に現れた小高い頂を抜けると、


また、急な下りが現れた。


『気を付けて~っ』 『もうちょっとだよっ』
先行Gからエールの声が・・・


一休みして、後続Gを待つ。


待つこと5分、最後尾のGが無事岩場を下りてきた。


全員揃ったところで、熊の山を目指す。


10時12分、下小川橋からの合流点に到着。
帰りは、ここを左に進むことになる。


熊の山へ。


10時20分、熊野神社の鳥居に到着。


一礼をして鳥居を潜ると、長くて急な石段が続いていた。
『いやぁ 随分長い石段だねぇ』


石段の中間地点辺りから下を見ると、後続Gが鳥居に到着したところだった。
石段を見上げて、『ここで待つことにしようかっ』などの声も聞こえたが、


『最後にこの石段は堪えるねぇ』
ボヤキながらも一段々しっかりと上って来る。
(後で聞いたら石段は230段ほどだったそう)


10時28分、山頂の熊野神社に到着


標高310.6mと刻まれている。


山頂からの眺望
県庁方面


筑波山方面


10時30分、最後のGも無事到着。
『いやぁ疲れたよっ』


『きつかったけど、最後まで登ったよっ』
満足そうなS子さん。


10時37分、昼にはちょっと早いが、ここで弁当にしよう。


『天気は良いし、最高の眺めだねっ』


『おにぎりが美味しいっ!』


西金方面?


男体山


八溝山


弁当が終わると、後は下山するのみだ。
11時8分、下山開始


『いやぁ 上る時は感じなかったけど、下りは怖いねぇ』


11時16分、平山橋からの分岐点を通過


熊野山を下り、


下小川橋を目指す。


かなりな斜面のため下りは早い。


下り始めて約30分、麓の墓地を通過。


11時35分、麓の民家まで下りて来た。
ここまでまだ30分経っていない。


標識に従って、下小川駅方面へ。


国道118号の向うには、蕎麦で有名な「そば道場」が。


国道118号の下を潜り、


急坂道を下ると、


11時41分、下小川橋に出た。
『ここまで下るの随分早かったよな~っ』


下小川橋を渡る。


久慈川(上流)
水郡線の鉄橋が見える。
この橋は、鉄橋を走るSLを撮影する絶好のポイントらしい。


下小川橋を渡る。
後方は、先ほど下を潜った国道118号の橋である。


次の上り(水戸行)列車は、12時53分である。
まだ時間は充分あるので、国神神社へ参拝して行くことにしよう。
ということで、下小川橋を渡ったところを右折し、国神神社へ。
帰りに飲み物でもと思っていたスーパーは、閉まっていた。
(3年前には、営業していたのだが・・・)


富士フィルム盛金工場を通過


水郡線の下を抜け、


久慈川の支流久隆川に架かる国神橋を渡ると、


国神神社に到着した。下小川橋から4分ほどだった。
国神神社由緒によると、御祭神は国常立命(神世七代の一神)
沿革には、この地盛金は、古くは陸奥国白河郡の一部依上保と称した。
永世年間約5百年前に佐竹氏の所領となってから、常陸国に属した。
当社の創建は、御土門天皇の明応元年(1492)で、
以来盛金地区の鎮守として尊崇されている。(中略)
鳥居は、”両部鳥居”と称し、嘉永年間(1848~1854)に建立されたもので、
今回再建した、とあったが、再建時期の記述はない。


『また階段かよっ』


『熊野山よりは短いから、ここは上っとくかっ』
(82段あった)


国神神社に熊の山に全員無事登山出来たことを報告した。


本殿裏に奥の院があったことを思い出した。


奥の院に参拝


皆さん揃って川を覗き込んでいる。


産卵のため遡上した鮭が泳いでいた。
身体中傷だらけになっている。
こうした姿を見ると感動を覚えずにはいられない。


国神橋を渡り、ゴールの下小川駅へ。


国道118号の赤い橋の後ろに見えるのが熊の山(310.6m)と思われる。


盛金地区の住宅地を下小川駅へ。


水郡線の線路を横断


右手に盛金富士(標高340.6m)が見えてきた。


盛金富士のハイキングコース入口
山頂付近にイワウチワの大群落があるそうだ。
『一度登ってみたいわねっ』


下小川駅が見えてきた。


12時13分、ゴールの下小川駅に到着した。
当初の予定では、次の列車(14時11分)に乗ることにしていたのだが、
早く着き過ぎてしまったが、早く帰れるというのは、良いことである。
整理体操は、めいめいにということで、軽く身体を動かす。


女性陣はラジオ体操で締めくくりだ。


ホームで列車を待つ。


列車が到着するまでホームのベンチで一休み。
『時間があるから座って待つことにするよっ』


12時54分、水戸行が到着


帰りの車内は空いていた。


『天気に恵まれて良かった~』


『今日は、大変お疲れさまでしたぁ』


2度目の「熊の山ハイキング」は、快晴の天気に恵まれた。
前日、深夜までかなりの雨が降ったので、一時”中止”という言葉が
脳裏をかすめたが、”曇り”の予報を信じたのが幸いした。
しかし、紅葉には早すぎた。色付くのは、2週間ほど先になると思われる。

当初の予定では、帰りは下小川駅14時11分発の列車に乗ることにしていたが、
一つ前の列車(12時53分発)に余裕をもって間に合うことができた。
国神神社以外にもう少し見所が欲しいところである。

楽しみにしていた冷たい飲み物も店がなくなってしまっては、残念と言うしかない。
3年前は、スーパーも営業していたのだが、駅周辺に店を見つけることは出来なかった。
思った以上に過疎化が進んでいる証拠であろう。

この日の万歩計は、13,500歩を計測していた。

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旧甲州街道を歩く 第七回 小原宿から上野原宿へ

2016年10月23日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2016年10月23日(日)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第七回目は、小原宿(JR相模湖駅)から上野原宿(JR上野原駅)までの約10Kmを歩いた。

東京駅のホームで好みの駅弁を買い、


東京駅8時39分発の高尾行中央特快に乗車。
この日の参加者は8名、4ヶ月振りにMさんが参加してくれた。


9時26分、高尾駅に到着し、9時47分発の松本行に乗り換える。


松本行の車内は、それほど混んではいなかった。


9時56分、この日のスタート地相模湖駅に到着。


めいめい準備を整えて、10時6分、相模湖駅を出発!


相模湖駅から数分歩いた所の柿の木が、びっしりと実を付けていた。
高枝切狭で採取しているところだった。
甘柿(富有柿)で、今年は豊作だそうだ。
『それにしても凄い数だね~』


『自由に採って持って行っても良いよっ』と仰るので、採らせてもらった。
『では遠慮なくいただきますっ』


満面の笑みのKさん、思わず表情が緩む。
皆に一つづつ分けてもらった。
お昼のデザート代りにでも食べることにしよう。


『ほんと 甘いよこの柿』
早くも丸かじりしている人もいる。


明治天皇与瀬小休所阯の碑
この辺りに与瀬宿本陣があるはずなのだが、見落としたようだが・・・
明治天皇が小休止されたということは、ここに本陣があったということ?
与瀬宿は、相模川の渓谷に沿った宿で、木材の川流しや舟運が盛んだった地域。
本陣は武田家の旧家臣(旧坂本家)が勤め、
江戸時代、鮎料理が評判の宿として知られていた、そうである。


道標などがないため、与瀬宿の次の宿場吉野宿への道が分からず、
10分ほど近くを探し回った。
まあ、慈眼寺の入口を進めば何とかなるだろう。


坂道を上って行くと、与瀬神社の鳥居が建っていた。
いきなり急な石段だが、直ぐ近くに慈眼寺もあるようだし、
ちょこっと見るだけにしておこう。


石段を上ると、中央高速道の上に出た。
(山梨方面を望む)


高速道路を跨いだ先に慈眼寺と与瀬神社の鳥居があった。


慈眼寺は、金峰山慈眼寺と号する高野山真言宗の寺院。
天正年間、頼源阿舎利により開創された寺で、明治五年の神仏分離以前は、
与瀬蔵王大権現の別当寺だったそうだ。


与瀬神社
吉野山の蔵王権現を勧請した古社で「与瀬の権現様」と呼ばれている。
祭神は日本武尊で4月13日に例大祭が行なわれる、そうである。
社殿は、さらに石段を上った先にあるため、参拝は見合わせた。


中央高速道から見る相模湖の眺望は素晴らしい。


『こんなに急な階段だったっけ』
『下りる時の方が大変だよねっ』


旧甲州街道は、中央高速道に沿って進む。


中央高速道の下を潜って国道20号沿いに進むと、


ら~めん屋があった。


ら~めん屋手前の小さな道を進むが、


車両通行止めになっていた。
人は大丈夫だろうと少し進んでみたが、街道らしき道は見つけることは出来なかった。


甲州古道の木柱を見つけた。
目指す吉野宿は左手前を指している。
たった今上って来た道のようにも見える。


仕方なく国道20号まで戻り、ら~めん屋の方へ。


中央高速道を潜ると、国道20号の右側に道があった。
『こっちの道じゃないのっ?』


その道は、再び中央高速を潜るように続いていた。


中央高速道を潜り、左手に中央高速道を見ながら坂道を進む。
かなり勾配のある坂道である。


さらに坂道を上って行くと、


甲州古道横道の木柱があった。
左吉野宿とある。
道が間違っていなかったことに安堵した。


左手に相模湖を見ながら、


甲州古道を進むと、


11時14分、秋葉神社があった。
鳥居は傾いているうえ、珍しく竹で出来ている。
赤い常夜灯は木製で簡素なものだ。
鳥居の先に社殿があるのかは分からない。


道路脇には石仏などが並んでいた。


庚申塚や供養塔、お地蔵さんなどもあった。


甲州古道を進む。


甲州古道橋沢と書かれた木柱があった。
隣に県立神馬相模湖自然公園と書かれた木柱もある。
この道は、ウォーキングコースにもなっているらしい。


道の分岐点手前に甲州古道子の入と書かれた木柱があった。
この辺りに馬頭観音像があるはずなのだが・・・近くには見当たらない。


ここに30年近く住んでいると言う地元の方に訊いてみたが、
『知らない』とのこと。
わざわざ家から出て来て一緒に探してくれたのには恐縮した。
厚くお礼を述べ、左手の甲州道中へ。
(後で調べたら、馬頭観音像はもう少し山の方ということが分かった)


子の入で左に分岐して、中央高速道を跨ぎ、
(山梨方面)


坂道を下って行くと、


観福寺の屋根が見えてきた。


11時45分、観福寺に到着
本尊は千手観世音菩薩で、不動明王・毘沙門天を従えている。


観福寺を後にして坂道を下って行くと、
甲州古道桜野と書かれた木柱があった。


さらに下ると、


甲州古道矢部と書かれた木柱があった。


矢部と書かれた木柱の所を右折して下る。
細くて急な坂道になっている。


甲州古道椚戸(くぐど)と書かれた木柱があった。
『木偏に門って、クヌギじゃないっ?』
さすが物知りのKさんである。


道なりに進むと、


左手に相模湖が見えてきた。


『相模湖が直ぐ近くだねっ』


坂道を下ると、


吉野宿高札場と書かれた木柱があった。
『吉野宿に入ったんだっ』


高札場跡碑の横には六地蔵が鎮座していた。


聖蹟の碑の隣に吉野本陣跡の説明があった。
吉野宿本陣は、上り下りの大名が宿泊する規模の大きな本陣であった。
かつては5階建ての巨大な建物があったが、明治29年の大火で消失した。


隣に焼け残った土倉が残る。


郷土資料館
かつての旅籠「ふじや」が、現在は郷土資料館として公開されている。


屋根裏を含め、3層の展示場に藤野町の民具や


養蚕などの用具が展示されている。
管理人によると、蚕は今年のものだそうだ。


吉野宿のミニジオラマ
街道沿いに民家が立ち並んでいる。
吉野宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒と小さな宿であった。
吉野宿本陣も見える。


吉野本陣のミニチュア
本陣は名主吉野家で同家は問屋をも兼ねた。
本陣の建坪は150坪で、与瀬本陣坂本家とともに甲州街道の本陣の中では規模が大きい。
右の建物は、明治29年の大火でも消失せずに残った土倉である。


郷土資料館の壁に破風が展示されていた。
(破風は、日本の建築で切妻造や入母屋造の屋根の妻の板)


郷土資料館を後にして上野原宿を目指す。


12時23分、吉野橋に到着


吉野橋は、沢井川に架かる橋である。
かつてこの橋の南寄り「小猿橋」と呼ばれる橋があった。
長さ十四間(25m)、幅二間(3.6m)、高さ五丈八尺(25m)の欄干付きの板橋だった。
大月の「猿橋」と工法と形も同じで、その規模が少し小さいことから「小猿橋」と呼んだ。
吉野橋の架設に伴い消滅した。


そのうち観ることになるであろう大月の「猿橋」に期待しながら吉野橋を渡る。


吉野橋から湖を観る。
今は相模湖があるため、沢井川の流れは見られない。
『静かだねっ』


国道20号を分岐して旧街道を進む。


分岐した旧道は殆ど坂道になっている。
坂道はやはりきつい。


7分ほどで再び国道20号へ合流した。


国道20号を進む。
この辺りは歩道はないうえ、車が多いので危険を感じる。


12時47分、藤野駅に到着した。


駅舎の前に上手い具合にベンチがあったので、ここで弁当タイムだ。


『この駅弁美味しいわよっ』


この日の駅弁は五目わっぱめし(950円)だ。


お腹が空いていたこともあるが、なかなか美味しかった。


弁当も終わり、13時22分、上野原宿を目指して藤野駅を出発。


藤野駅前の国道沿いに「シーゲル堂」と言う店があった。
店主の横山茂さんは、「わらび座」という歌舞団活動を戦後から27年行っていた、とのこと。
その後、藤野の駅から真っ直ぐ降りた所で薬局屋を30年近く営んでいたが、
その薬屋を廃業して、平成13年に藤野に住むアーティスト達と一緒に作りだした、
怪しく楽しいお店『シーゲル堂』がスタートした、そうである。
ちゃんとした商品から、ヘンテコな商品、怪しい商品、ユニークな作品・・・
とにかく、「なんでもあり」なお店、らしい。
しかし、なぜか全体がうまく調和している不思議な店、だそう・・・


しばらく国道20号を進むと、


中央高速道の下を進むことになる。


関野本陣跡の説明板があった。
説明板によると、明治21年とその後の大火で本陣及び宿場の面影を残す建物は、
ほとんど焼失してしまった、とのこと。
関野宿は、相模国の西端の宿で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒だった。
また、関野宿は長谷川伸の戯曲「関の弥太ッぺ」の舞台でもある、そうだ。


増珠寺
石段の入口は、閉まっていたが、簡単に開けることが出来た。
急な石段を上ると、


増珠寺本堂があった。
増珠寺は、永世年間、北約2Kmの大日野原古寺に、功雲七世潮翁能音大和尚により開創。
黒沢山陰棲寺と称したが、後の天明五年八世一堂快ごう大和尚の時、現在地に移転された。
御本尊は延命地蔵菩薩


境内のあちこちにお地蔵さんが鎮座していた。


可愛らしい六地蔵尊


このお地蔵さんは、屋根付きの祠に祀られていた。


石段を下り、国道20号へ戻る。
『下りの石段は怖いねぇ』


増珠寺を過ぎた辺りから、坂の上・御留坂・下小淵下といった木柱道標が続く。
甲州古道坂の上の分岐を右方向へ


坂の上の分岐点には何故かウルトラマンの像が・・・
『これは良い目印になるねっ』


少し進むと、甲州古道御留坂(ごりゅうざか)の木柱道標があり、


坂道を下ると、また国道20号へ戻った。
甲州道中は、短い分岐路が多い。


えのき坂という坂道があったので、上って行ったが、


『どこまで行けば国道に戻れるんだろうねぇ』
えのき坂の分岐から400m以上進んだ辺りで、道を間違っていることに気が付いた。


えのき坂を300mほど戻ったところで、地元の人に、
写真の道が国道20号へ出られることを教えて貰った。
『ありがとうございま~すっ』


しばらく道なりに進み、国道20号に合流出来て一安心。


『また木柱があるよっ』
『何て書いてあるのっ?』


甲州古道下小淵下と書いてある。


『こっちの道だよねっ』
国道20号から分岐して坂道を下る。


境沢橋を渡る。
境沢橋は、境川に架かる橋で、相模国(神奈川県)と甲斐国(山梨県)の国境だった。


相模川に架かる橋(境川橋)があった。


相模川の水面は鏡のようでさざ波ひとつない。
『まるで湖みたいだねっ』


上野原宿への道は反対側だった。


上野原市方面へ。
右の道は先ほど下小淵下の木柱道標から下りて来た道である。


急な坂道を上って行くと、


14時32分、道路の一段上の斜面に諏訪関跡の石柱があった。


諏訪関の説明板に見入る。
諏訪関跡の名称は、諏訪番所(境川番所・境川口留番所)とも呼ぶ。
もともと、この付近は相模国と甲斐国との国境であり、
かつ甲斐国の東側入口に当たったため、重要視された。
通行取り締まりと物資出入り調べ・高瀬舟取締りと徴税(二割二分)
・鶴川「渡し場」取締り・通行手形改め・番所坂所在茶店よりの
情報聴取などがあった。


坂道を上って行き、14時38分、上野原自動車教習所を通過


上野原宿を目指す。


船守寺を通過
船守寺は、十界曼陀羅を本尊とする日蓮宗の寺院である。


14時48分、諏訪神社に到着


諏訪神社に参拝
かつて、小田原攻めをした武田軍が諏訪神社で休息を取った際、
あまりの疲労と寒さのため、拝殿の板を燃やして暖を取ったとされ、
このため、諏訪神社の氏子の怒りを買い、武田勝頼が謝罪の上、
修繕したと伝えられる、そうである。


上諏訪バス停を通過
『信州と同じ地名だねっ』


14時59分、諏訪橋に到着
ゴールの上野原駅は間もなくだ。


諏訪橋は、中央自動車道に架かる橋である。
東京方面は、行楽帰りの車で混んでいた。


15時3分、諏訪橋から3分で、この日最後の訪問地疱瘡(ほうそう)神社に到着した。


疱瘡神社
この地に残る伝承と記録によると、江戸時代の初め、疱瘡神と縁のある
越前国(福井県)湯尾峠(ゆのおとうげ)生まれのあばた顔の老婆が、
諸国遍歴の途中、この地で倒れ、村人の手厚い看護に感謝して
『この地を疫病から護る。疱瘡の神を作れ』と言い残して亡くなった。
そこで村人は湯尾峠から疱瘡の神を勧請して、萬治四年(1661)三月、
疱瘡神社を建立した。


疱瘡神社の裏に、塚場一里塚がある。


日本橋より17番目の一里塚で、塚木はカヤであった。
現在私有地のため、中には入れない。
カヤの木は切り倒されたままで塚だけが残っていた。


疱瘡神社を後にして上野原駅へ向かう。


中央高速道はかなり混んできている。


中央高速道を跨いで上野原駅を目指す。


上野原駅周辺の住宅地と中央本線の線路が見えてきた。
上野原駅は近い。


上野原駅への階段を下りると、


上野原駅舎の真ん前に出た。


15時24分、ゴールの上野原駅改札口に到着


上野原駅の改札口は少々変わっている。
上り・下りの改札口が別々になっている。
こちらは上りの改札口で、下りの改札口は後ろにあるのだ。
(どちらからでも入れると思う)


電車を待つ間に缶ビールでもと思ったが、あいにくKIOSKは、閉まっていた。
土日祝日は、13時30分までの営業となっていた。
『土日祝日の午後はお客がいないってことなんだろうねっ』
駅舎を出て外まで缶ビールを買いに行ってる時間はない。
ここは東京まで我慢するしかなさそうだ。


15時41分発東京行快速電車がやって来た。


上野駅のコンビニで好みの缶ビールを買い、
『かんぱ~い』 『お疲れさま~っ』
やはり、常磐線は落ち着いて飲める。

『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』

「旧甲州街道を歩く」第七回目(小原宿~上野原宿間約10Km)を歩き終わった。
相模湖駅を出発して直ぐに道を間違えたのを皮切りに、途中で何度も道を間違え、
どうなることかと心配されたが、何とか最後まで無事歩くことが出来た。

帰宅後、相模湖駅近くで戴いた柿を食べたが、甘くてとても美味しかった。

次回(11月)は、上野原宿(上野原駅)から鳥沢宿(鳥沢駅)までを予定している。
どんな駅弁にしようか、今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。

この日の万歩計は、24.000歩を超えていた。

ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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碧い滝に魅了される 西沢渓谷ハイキング

2016年10月21日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年10月21日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第20回(2016年第31回)、「西沢渓谷」ハイキングに参加した。
西沢渓谷には、2010年5月25日の常南交通によるバスハイクを始め、
これまで数回訪れているが、ハイキングコースを周回したのはこの時だけで、
後はいずれも「竜神の滝」で引き返している。

早朝6時5分前頃から土浦三中地区公民館に次々に参加者が集まり始め、
6位20分の出発10分前には、全員が揃いバスの到着を待った。


6時17分、常南交通の大型バスが土浦方面の参加者11名を乗せ、やってきた。


この日の参加者は、33名である。


朝食の弁当は、前回「奥の細道」黒羽散策(2016年9月16日)と少し違ったが、
美味しくて皆さんの評価は良かった。


7時2分、守谷SAで最初の休憩を摂り、首都高へ。


外環道への分岐点辺りでは、首都高方面は早くも渋滞になっていた。
ここは運転手さんの判断で、外環道方面へ迂回することに。


バスは、外環道から東北道へ。
埼玉県内の圏央道が平成27年10月31日に全線開通したことから、
常磐道からこのルートへ迂回する車が多くなったそうだ。
一日も早い茨城県内の圏央道全線開通が待たれる。


東北道から圏央道へ廻り、鶴ヶ島JCTを経て八王子JCTから中央道へ。
この間特に渋滞もなく、車はスムースに流れた。


中央道談合坂SAまで4Kmの地点を通過し、


9時ちょうど、談合坂SAに到着
守谷SAから1時間45分が経過していた。
首都高を通ったより早かったと思われる。


9時40分、中央道勝沼ICを降りたところで、昼食弁当を受取り、


道の駅「みとみ」に向けて一般道を走る。


恵林寺の脇の”信玄通り”は、既に紅葉が始まっていた。
『あらぁ きれいだね~っ』


勝沼ICから国道140号(雁坂みち)を走ること凡そ45分、
道の駅「みとみ」手前の広瀬ダムの湖が見えてきた。


10時27分、道の駅「みとみ」に到着。
ほぼ予定した時間である。


昼食の弁当を受取る。


点呼を取るためのグループ分け(3グループ)を行い、
10時37分、Oさんのグループを先頭に西沢渓谷目指して出発!


道の駅「みとみ」を左手に見ながら、


国道140号(雁坂みち)を進む。
『きれいだこと』


雁坂みち沿いの少し色付いた紅葉が美しい。


西沢大橋手前で雁坂みちを横断すると、


西沢渓谷の入口である。


雁坂茶屋の前を通り過ぎて進むと、
西沢渓谷のゲートがある。
ここからは一般の車両は侵入禁止になっている。


なれい沢橋を過ぎ、


11時4分、「ネトリ広場」に到着した。
「ネトリ広場」は、西沢渓谷を周回するハイキングコースの合流点になっている。
ここで、記念撮影を済ませた。


西沢渓谷入口の山之神に安全祈願をして、
11時8分、西沢渓谷終了地点を目指した。
「七ツ釜五段ノ滝」まで1時間30分とある。


11時10分、ヌク沢を通過。
沢には橋脚のようなものが見えるが、これは、昭和28年頃から沢の上流で珪石を採掘して、
トロッコで塩山駅の集積場まで運搬していた森林軌道の橋脚跡である。
安い外国産の珪石が輸入されるようになり、森林軌道は、
珪石の生産が中止される昭和46年頃まで続けられた。


紅葉が始まったばかりの木々の中を進む。
まだ緑が濃い。


11時14分、ヌク沢の少し先の西沢山荘(閉鎖中)を通過。


山荘から「七ツ釜五段ノ滝」まで約80分とある。


渓谷の流れを聞きながら山道を進む。


11時21分、二股吊橋を渡る。


『いやだぁ けっこう揺れるじゃないっ』


東沢上流からの豪快な流れにしばし見惚れる。


笛吹川下流
東沢は、ここで右からの西沢渓谷の流れと合流して笛吹川となる。
ここがちょうど合流点である。


吊橋をわたり、鶏冠山(とさかやま)登山口の分岐点を通過すると、
急坂の上りが始まる。


錦色の紅葉が陽の光を浴びて美しい。
『わ~っ きれいだね~っ』


急勾配のスティール製の階段が始まった。


階段を上り始めたところに小さなスペース(観瀑台)があり、
対岸の「大久保の滝」を観ることができる。


急勾配のスティール製の階段
『急過ぎてちょっと怖いよねっ』


急坂の上りを過ぎると次は急な下りだ。


左手下方に「三重の滝」の観瀑台が見える。


観瀑台を目指して岩場を下る。
『滑り易いから気を付けてっ』


11時43分、「三重の滝」観瀑台に到着。


「三重の滝」を満喫し、観瀑台から引き返す。


沢沿いに上流へ向かう。
足元は瓦礫で歩き難い。


瓦礫の坂道を上ると、


フグ岩、


うなぎの床、


人面洞と奇岩や名瀑が続く。


11時56分、少し広い岩場があったので、ここで一休み。
『お腹が空いてきたわねっ』
弁当は、「七ツ釜五段ノ滝」の先の西沢渓谷の終点まで我慢してもらうことに。


川に沿って上流を目指す。


「七ツ釜五段ノ滝」に次ぐ西沢渓谷の名瀑「竜神の滝」だ。


「竜神の滝」を過ぎると、急勾配の岩場が続く。
鎖を掴みながら慎重に進む。


「恋糸の滝」


「恋糸の滝」を過ぎ、さらに岩場を上る。


ときどき現れる美しい紅葉に目を奪われる。


一段と勾配のきつい岩場を上る。


岩場を上り切り、少し下ると、新たな滝が見えてきた。


「貞泉の滝」である。
滝壺に豪快に流れ落ちる水が碧く澄んでいて美しい。
「吹割の滝」を連想させる。


笛吹川に沿ってさらに上流を目指す。


勾配が緩やかになってきた。


大きな岩の間を抜けると、


「母胎淵」が現れた。
吸い込まれそうな錯覚を覚える。


母胎淵の上流は、


岩場のアップダウンが続く。


「カエル岩」の標識


『これって カエルに見えるっ?』


12時43分、方丈橋を渡る。


方丈橋の上流を見ると、滝がみえた。
「七ツ釜五段の滝」の最下の釜(滝壺)のようだ。


方丈橋を渡り、川沿いの最後の急こう配の岩場を上ると、


12時50分、「七ツ釜五段の滝」の観瀑橋?に到着した。
『凄いわねっ』
「ネトリ広場」の西沢渓谷入口から1時間40分が経過していた。
10分ほど余計に時間を要したことになる。


正面に「七ツ釜五段の滝」の全容が現れた。
『いやぁ これは素晴らしいっ』


「七ツ釜五段の滝」の上部から観る。
「袋田の滝」を思い起こさせる。


さらに上部へ進むと間近に滝壺を見ることが出来る。
碧く澄み切った水が印象的だ。


「七ツ釜五段の滝」を過ぎて、少し進むと、


右奥に西沢渓谷最後の滝「不動の滝」が見えた。


「不動の滝」を過ぎると、この日一番の急登が待っていた。


最後の登りで、一休み。
『今まで参加した中で一番きつい所だったけど、素晴らしい所だったわっ』
表情にはどこか満足感が漂っていた。


”西沢渓谷終点まで100m”からは、木製の階段になっている。


『あと100mだよねっ?』


13時14分、西沢渓谷終点に到着
道の駅「みとみ」から2時間37分、「ネトリ広場」の西沢渓谷入口から
2時間8分が経過していた。


先行グループは、一番眺めの良い場所に陣取っており、
後続組のために場所を確保してくれていた。


前に聳えるのは鶏冠山(とさかやま)だろうか?


始まったばかりの紅葉を愛でながらの、


弁当は美味しい。


この日の弁当は、海苔で包んだおにぎりが2個と、鮭・海老・かまぼこ・
卵焼き・野菜の煮物・焼売など。
隼人瓜の漬物はM子さん手作りで、食欲が一段と増す。
『ご馳走さまで~すっ』


弁当が終わり、13時53分、下山開始!


「三塩軌道」のレールが残っているなだらかな道を下る。


「さわぐるみ橋」(方丈橋)を渡る。
方丈とは歩廊・主桁を支える斜めの部材を呼び、谷間など中間に支えを作れない場合に、
つり橋・アーチ橋とともに多く見られる橋の形状である。
現在の橋が出来る前にあった橋も木の方丈橋であり、この地にとどめるため
その形状を模したデザインとなっている。
橋名は、ここの地名から「さわぐるみ橋」と命名した、とのこと。


沢を渡る多くの橋は、番号で命名されている。
これは43号橋


橋には金網が敷かれてあるが、下が丸見えである。
高所恐怖症の人には向かない。


シャクナゲ橋は、吊り橋の形状をしている。


「三塩軌道」を道の駅「みとみ」を目指す。


14時4分、「ひこいっちゃんころばし」を通過
昭和8年から43年まで「三塩軌道」を馬とトロッコを使い、木材を搬出していた。
その際、「運材夫」(木材を塩山駅まで運搬する係)をしていた”彦一”さんが、
操作ミスで馬と一緒に沢に転落(方言で”ころばりこんだ”と言う)し、
負傷したことから「ひこいっちゃんころばし」と呼ばれている。
(三富村 西沢渓谷歩道管理組合)


続いて14時10分、「いこりころばし」を通過
昭和8年から43年まで「三塩軌道」を馬とトロッコを使い、木材を搬出していた。
その際、「運材夫」(木材を塩山駅まで運搬する係)をしていた”猪虎狸”さんが、
操作ミスで馬と一緒に沢に転落(方言で”ころばりこんだ”と言う)し、
負傷したことから「いこりころばし」と呼ばれている。
(三富村・西沢渓谷歩道管理組合)


『柵も何もない所は怖いねぇ』


目の前は、深い谷になっている。
落ちたら命の保証はなさそうだ。


14時14分、大展望台に到着


前に聳えるのは鶏冠山(とさかやま)だろうか?
しばし、目の前に広がる雄大な景色を楽しんだ。


「三塩軌道」のレール跡が続く。


19号橋を渡ると、


かつて木材を積んだトロッコが展示されていた。
『これで木材を塩山駅まで運んだんだぁ』


9号橋を渡る。


緑と錦色をした葉が陽の光に映える。


道の駅「みとみ」を目指す。


14時38分、西沢渓谷山之神を通過
大嶽山那賀都神社の幟が立てられている。


3号橋を渡る。


「奥悪沢」(おくわるさわ)を通過
昭和8年から43年まで「三塩軌道」の路線延長の際、山の形状等の理由で何ヶ所か
沢を迂回するコースが作られたが、その中でも特に路線施行が困難で、災害等
常に修復をしなければならなかった沢の一つで最も奥に位置したことから、
「奥悪沢」と呼ばれるようになった。
(三富村 西沢渓谷歩道管理組合)
水が流れ落ちているから沢なのかもしれないが、急峻な崖である。


西沢渓谷迂回路入口を過ぎ、カワズ池を経て「ネトリ橋」へ。


「ネトリ橋」を渡る。


沢の上流側に朽ちかけた吊り橋が見える。
『むかしあの吊り橋を渡ったことがあるわっ』とT子さん。
あの吊り橋を渡るとは良い度胸をしている。
ただ、「ネトリ橋」が未だなかった頃、あの吊り橋を渡るしかなかったそうだ。
『あの時はほんとに怖かったわ~っ』


14時57分、「ネトリ広場」に到着した。
西沢渓谷終点を出発して1時間4分が経過していた。


左側に目を向けると、T子さんがかつて渡ったと言う吊橋が見えた。
撤去はせずに朽ちるに任せているようだ。


道の駅「みとみ」を目指す。


西沢大橋を潜り、


西沢渓谷蒟蒻館を過ぎ、


15時18分、ゴールの道の駅「みとみ」に到着した。
西沢渓谷終点を出発して1時間25分かかったことになる。
予定の14時40分を40分ほど過ぎてしまっていた。
バス運転手によると、『ゆっくりと入浴を楽しんでいる余裕はなさそうです』とのこと。
役員で相談の結果、やむなくこの日の入浴は断念することにした。


その分、道の駅「みとみ」で土産物を選び、


それぞれ好みの品を買い求めた。
かみさんに頼まれていた甲州名物「ほうとう」とワインを買った。


帰路のバス車内は、満足そうな笑顔に包まれていた。


談合坂SAに着く頃には、陽も落ちて薄暗くなって来た。


守谷SAでは、真暗になっていた。


『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


2010年5月25日以来、2度目となる西沢渓谷周回ハイキングだったが、
碧い滝と少しばかり早い紅葉を楽しんだ。

前回は、スタートしてからゴールするまで4時間ほどだったが、
今回はその時より40分ほど余計に時間がかかってしまった。
このため、入浴を断念せざるを得なくなったのは、残念だった。

首都高の渋滞を避けるために外環道・東北道・圏央道へと迂回したことも
時間を要した一因である。
茨城県側の圏央道が全線開通すれば、もう少し時間的な余裕が生まれ、
入浴を断念するようなこともなくなることだろう。
圏央道の一日も早い全線開通を期待したい。

この日の万歩計は、21,000歩を計測していた。

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見所は多い 龍泉寺から来迎院(龍ヶ崎)

2016年10月14日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年10月14日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第21回(2016年第31回)、「龍泉寺から来迎院(龍ヶ崎)」を巡るウォーキングに参加した。

第一集合場所の乙戸沼公園に集まったのは、20名。
車4台に分乗し、スタート地の龍ヶ崎市役所へ向かった。


龍ヶ崎市役所には、既に16名が直行しており、合わせて36名の参加者となった。
今年度最高の参加者数である。


市役所の真前ということもあって、準備体操は省略。
10時1分、Oさんを先頭に出発だ!


市役所前を通る県道5号線へ出て、


市役所前交差点を渡り、


最初の訪問地頼政神社を目指した。


頼政通りの標識が・・・


頼政神社は近くにありそうだが、なかなか見つけられない。
たまたま近くにいた地元の人に訊ねると丁寧に教えてくれた。


10時11分、教えらえれた場所に行ってみると、
公園のような広場の大木の下に頼政神社があった。
『え~っ どこどこっ?』


頼政神社は、平氏追い討ちを図りながら戦死した源頼政を祀ったものといわれる。
鳥居や本殿などはなく、ヤマハゼの木の下にある石の祠で、
地元でも知る人の少ない小さな神社だが、約800年の歴史があるという。
『へぇ~っ これが頼政神社なのっ?』
『随分小さな神社なんだねっ』
『これじゃぁ 見つけるの大変だよねっ』


次の訪問地、八坂神社を目指す。


関鉄竜ヶ崎駅から直線で伸びる市街地を進む。


頼政神社から10分ほど進むと、八坂神社があった。


厄除けの早見表
『この歳だからもうとっくに厄は卒業しちゃったよっ』
残念?ながら、当会には一人も厄に該当する人はいない。
喜ぶべきことではないが・・・


八坂神社の本殿
文治年間(1185~90)、下河辺正義が龍ヶ崎開拓にあたって、
高井の農民移住とともに鎮守天王社をこの地に分祀させたのがはじまり。


厄除け以外の祈願は、やはり欠かせない。


7月の祇園祭りの最終日に行われる撞舞(つくまい)は、


高さ14mの柱の上に雨蛙姿の男がよじ登って曲芸を行う。
国選択無形民俗文化財の珍しい行事である。
(平成20年7月27日に般若院の撞舞通りで撮影したもの)


神社の裏には、砲弾の形をした立派な忠魂碑が建てられていた。


次の目的地は龍泉寺へ向かう。


龍ヶ崎市の街中には古い家も残っている。


新旧の建物が入り混じった市街地を進むと、


10時41分、龍泉寺(龍ヶ崎観音)に到着


龍ヶ崎観音は茨城百景の1つに選ばれている。


賓頭盧(おびんずる)様は、撫でられて全身ピカピカだ。
体に触ると、その箇所の病気や怪我が良くなると云われているのだ。
自分も足首が痛いので、撫でさせてもらった。


寺の本尊は安産聖観世音菩薩。
水子地蔵がずらりと並んでいる光景は壮観ではある。


龍泉寺本堂
天台宗の寺院である。
天正年間(1573~92)、江戸崎(現稲敷郡)城主土岐胤倫(たねとも)の創建と伝えられ、
寛永年間(1624~44)に上野寛永寺の天海僧正が再興した。
通称「龍ヶ崎観音」と呼ばれ、安産・子育て・開運・厄除けにご利益があると親しまれ、
毎月17日が縁日となっている。


本堂にお参り


『おん あろりきゃ そわか』


龍泉寺を後にする。


市街地に見られる古い家


この蔵も古そうだ


龍ヶ崎城址が前方に見えてきた。
(設定ミスで、これ以降ピンボケとなってしまった)


『この石段を上るのぉ』
『ここで待ってようかなっ』


などと言いつつも、皆さんしっかりと石段を上る。


石段の上から町を見おろす。
一望とまではいかないが、見晴らしは良い。


かつてこの地を支配した竜崎氏は、現在の龍ヶ崎一高に龍ヶ崎城(白旗城)を築き、
その出丸を置いたのが竜ヶ崎二高のあるこの高台であった。
竜崎氏が滅ぶと土岐氏がここに城を構えた。
全体の地形が城としての面影を残している。


石段を下る。
『下りの方が怖いよねっ』


街中を進み、次の目的地大統寺へ向かう。


県道5号をしばらく進むと、大統寺の入口が見えてきた。


11時9分、大統寺の参道へ。


大統寺は、曹洞宗の寺院である。
参道の途中右手には、宗祖道元禅師の塔が建てられている。


門の前では六地蔵が迎えてくれる。


門を潜ると、


左手に鐘楼があり、ちょうどMさんが鐘を撞くところだった。
今回は鐘を撞く瞬間に間に合った。


本堂にお参り
天正十三年(1585)、大聖院、天真院の二つの寺院を合併して創建。
本堂は寛文年間(1661~73)と文化年間(1804~18)に再建された。
本尊は釈迦年尼仏
龍ヶ崎城主土岐胤倫(たねとも)の墓がある。


本堂前のマキ科常緑樹竹柏(ナギ)は、市指定の天然記念物。


ナギの木の隣には、一回り大きなマキの木が赤い実を付けていた。


根町の撞舞通りを般若院へ向かう。


般若院の正式な門はもう少し先だったが、入口案内があったのでそこを入った。


11時30分、細い道を何度か曲がって般若院の正門に到着。


般若院本堂
天元元年(978)道珍法師によって創建されたといわれる。


本堂裏にある枝垂れ桜は、推定樹齢350~400年、
樹高約10m、枝張り東西約15m、南北約22mで県の天然記念物となっている。
『やっぱり花の時期じゃないとねっ』


満開の枝垂れ桜
(平成19年3月29日撮影)


般若院を後にして、


撞舞通りを市役所方面へ。


龍ヶ崎市役所裏の駐車場を左手に見ながら、真っ直ぐ進むと、


11時52分、愛宕神社に到着した。
『また階段を上るんだぁ』


お昼近くになってお腹も空いてきたが、ここは元気を出して石段を上るしかない。


愛宕神社拝殿
「火伏の神」とも云われ、寛永十八年(1641)、当時の領主伊達陸奥守忠宗
(正宗の子)が龍ヶ崎領民を火災から守るために創建したと伝えられている。
現在の社殿は宝永五年(1708)に再建されたもの。


愛宕神社本殿には覆いがしてあった。


立派な彫刻が施されている。
なかでも左甚五郎作と伝えられている鷹の彫刻は逸品、らしい。


愛宕神社の裏手を回り、


愛宕中学校校舎前に出た。
校舎の前を通り抜け、


校門を出ると、緩やかな坂道があった。
『さっきの石段を下りるよりは良いよねっ』


坂道からは龍ヶ崎市役所がよく見える。
『この高台はなかなか見晴らしが良いねぇ』


坂道を下った所で折り返し、最後の訪問地である来迎院へ。


市道を進み、
(後ろは愛宕中学校)


県道48号を横断して来迎院を目指す。


12時20分、来迎院に到着した。
弘治二年(1555)、当時領主だった土岐治英が万民安泰を願って建立した
多宝塔(県指定文化財)で有名。


多宝塔


室町時代の特色を示す優美な姿の多宝塔は、関東以北唯一の古塔とされ、
極めて貴重な存在とされている。


多宝塔の裏にお釈迦様の涅槃像があった。


再建された江戸時代の山門の脇を抜けると、


本堂がある。
山号は法華山、寺号は宝塔寺、院号は来迎院と言い、
本山は比叡山延暦寺である。
本尊として阿弥陀如来三尊を祀っている。


本堂にお参りを済ませ、


ゴールの市役所を目指す。


道端に馬頭観音像と道祖神がひっそりと佇んでいた。
『この辺は昔は街道筋だったのかなぁ』


県道271号を市役所へ向けて進む。


県道271号から県道48号を横断して市役所へ。


ゴールの龍ヶ崎市役所が見えてきた。


龍ヶ崎市役所


『到着したみたいだねっ』


市役所の玄関前を通り、


12時54分、龍ヶ崎市役所に到着。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


今回、龍ヶ崎市内の寺社を巡り、龍ヶ崎市の歴史のいったんに触れることが出来た。
最初に訪れた頼政神社には、驚かされたが、歴史の奥深さを感じた。
龍ヶ崎城址・愛宕神社という変化のある地形い恵まれ、
大統寺・来迎院など見どころも多く、充実した半日を過ごせた、と思っている、

この日の万歩計は、14,000歩を計測していた。

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旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第2回 吉原宿~興津宿(2日目)

2016年10月11日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2016年10月11日(火)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージの2回目は、吉原宿~興津宿を2日間かけて歩く。
2日目は、蒲原宿(JR蒲原駅)~興津宿(JR興津駅)を歩いた。

ホテルの食堂は、6時30分から開くことになっている。
7時10分ほど前に食堂へ。
けっこう食堂を利用する人は多かった。


朝食は、バイキング方式で、みそ汁に野菜・卵・ロールパン・コーヒーで済ませた。
これで、一泊朝食付きで7,000円ちょうど(税込)だった。


ホテルから3分とかからずに、沼津駅に到着。
改札口の直ぐ傍で、駅弁を売っていたのでアジ寿司(760円)を購入し、
東海道線下りホームへ。
この時、時計は7時46分を指していた。


上手い具合に7時48分発の浜松行電車があった。


電車の窓から富士山が薄らと見えた。
電車は通勤・通学の人でほぼ満席状態だった。
そんな状況の中、進行方向の左側の席から右手に見える富士山を撮るのは、
なかなか難しい。
この姿が何時までもつのか、さった峠までもってくれればいいのだが・・・


8時24分、2日目の出発地蒲原駅に到着した。
昨日のゴール地点である。
自販機で、お茶などを買い、


8時36分、蒲原駅前を出発。


蒲原宿は過ぎてはいるが、それでも蒲原駅の近くには、古い家もちらほら見える。


格子が美しい。


東名高速道の下を通り、


神沢川(かんざわがわ)橋を渡ると、


8時51分、由比宿に入った。


神沢川酒造場の煙突には、正雪の文字が見える。
由井正雪の生家があることから、「正雪」という銘柄が生まれた。
なお、仕込み水から名前を取って「神沢川」という社名にしたそうだ。


由比一里塚跡
江戸日本橋から39番目の一里塚。


東木戸
当初の由比宿の東木戸で、桝型道路の形状を留めている。
志田宅は家歴も古く、屋号「こめや」を名乗り、家の佇まいも昔の商家の面影を残している。


お七里役所跡


紀州徳川家が、幕府の動向をいち早く知るために、
七里(28Km)ごとの宿場(23箇所)に設置した連絡所で、
業務に従事したお七里衆が配置されていた。


由比本陣跡
今は由比本陣公園になっており、「東海道由比宿交流館」になっている。


由比本陣跡
あいにくこの日は休館日となっており、扉は閉まっていた。
残念ながらこの中にある「広重美術館」には、入れなかった。


馬の水呑み場
馬に水を呑ませる他、体を洗ったりするのにも利用されたと言われている。


亀がのんびりと甲羅干しをしていた。
人慣れしていて、近づいても逃げないでじっとしていた。


由比本陣跡の真向いに正雪紺屋がある。
江戸時代初期から400年続いている染物屋である。
正雪紺屋は慶安事件の由比正雪(1605~51)の生家といわれ、
今でも裏庭の祠には、正雪を祀ったといわれる五輪塔がある、そうだ。


脇本陣温飩屋(うんどんや)
由比宿には脇本陣を交代で務めた家が3軒あり、そのうち江戸時代後期から
幕末にいたるまで務めたのが、この温飩屋である。


明治の郵便局舎
江戸時代、文書の送達は飛脚便によって行われ、飛脚屋と呼ばれていた。
明治四年、郵便制度の創設により飛脚屋は郵便取扱役所となり、
さらに明治八年郵便局と改称された。


由比宿おもしろ宿場館


宿場町・本陣・由比正雪が楽しくわかる。
おみやげ処「弥次喜多屋」もある、とのことだったが、あいにくこの日は休館日だった。


清水銀行由比支店
元庚子(かのえね)銀行の本店社屋として建てられ,後に合併を経て現在に至る。
立面は4本のイオニア式柱頭を持つ柱を立て,古典様式の基本に則っている。
イオニア式とは古代ギリシャ神殿の建築様式の一つで優雅さが特色。
内部は吹抜けの広い空間を持つ。
小規模ながら洗練された様式を持つ、大正期の地方における銀行建築の好例である。
国の登録有形文化財に指定されている。
(現地説明板参考)


由比川橋
由比川の河口部に架設した県道橋で、旧橋が老朽化したため、
99年に架け替え工事に着手。


由比川橋から河口部を望む。
東海道線と国道1号富士由比BPが走っている。
天保十二年(1841)頃には、由比宿の街並みは東西五町半(約600m)ほどあった。
その宿場の西の木戸が、由比川を渡った先にあった、とのこと。


9時20分、由比駅まで1.5Km地点を通過


由比名物の桜えびやしらすを売っている店が多い。


通りの名前も「由比桜えび通り」である。


せがい造り
軒先を永く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし、
たるきを置いたもの。
民家建築に美観を添えたもので、由比町の町並みに特に多くみられる。


下り懸魚(げぎょ)
平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、
花鳥などを彫り込み装飾も兼ねている。
稲葉家は、この下り懸魚が施されている建物である。
(由比町教育委員会)


共進橋を渡る。


由比宿の街並みを歩いていると、せがい造りの家をあちこちに見ることができる。


由比漁港へ通じるトンネルを潜ると、


由比漁港があった。
漁船が多数停泊していた。


一艘の漁船が漁から帰ってきた。
獲物は桜えび? それともしらす?


左前方に由比駅が見えてきた。


由比今宿


「由比桜えび通り」のアーチを潜ると、


9時55分、由比駅に到着。


駅前の観光案内には、薩埵峠から見た雪を被った富士山の写真が。
このような富士山を見るには、寒い時期で、
空気が澄んでいる時でなければならないのだ。


時期的には早すぎるが、ここまで来たからには薩埵峠を目指すしかない。
今宿の宿場町を進む。


東海道(県道396号)への合流点では、薩埵峠へは、
横断陸橋を渡るように案内されている。


案内どおりに横断陸橋を渡る。


横断陸橋から東海道(国道396号から国道1号富士由比BP方面)を望む。


横断陸橋で振り向くと、富士山が見えた。
薩埵峠でこの姿が見られることを祈りながら3.3Km先の薩埵峠を目指した。


今宿の宿場町が続く。


中の沢二号橋を渡る。


讃徳寺(さんとくじ)
日蓮宗の寺院


伊佐布安隠寺から移されたと伝えられる像高34cmの七面天女木像が安置されている。
正徳六年(1716)近隣の村々に悪疫が流行した時、堂を建立し、祭祀したと伝えられている。
建物は現代的である。


何故か時計のある掲示板が。
10時11分、時間は合っている。


小池邸
小池家は江戸時代、代々小池文右衛門を襲名して寺尾の名主を代々務めていた。
名主は年貢の取立・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、
村役人の中でももっとも重要な役割を担っていた。
この建物は明治時代の建立だが、大戸・くぐり戸、なまこ壁、石垣等に
江戸時代の名主宅の面影を残しており、
平成10年に国の登録有形文化財に登録された。(静岡市)
由比宿を散策する人のために、休憩場所として開放されている、そうだが、
この日は、扉は閉まっていた。どうやら休館日らしい。


あかりの博物館
日本の古今のあかりに関する展示がされており、
菜種油、蝋燭、石油等のあかりも点灯展示されている。
あいにくこの日は休館日だった。


宿場町を進む。


10時17分、いよいよ薩埵峠への上り道か?
薩埵峠まで2.3Km、55分とある。


左手には、東名高速道と国道1号線が走っている。


振り向くと、富士山は先ほどよりかなり霞んできた。


10時24分、八坂神社前を通過


続いて10時27分、鞍佐里(くらさり)神社前を通過
「日本武尊が東征の途中、賊の焼き打ちの野火に逢い、
自ら鞍下に居して神明に念ず、その鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。
依って鞍去の名あり」と伝えられている。


宿場町を進む。
落ち着いた感じのする家並みである。


間の宿本陣
ここ西倉沢は、薩埵峠の東坂登り口に当る「間の宿」で、十軒ばかりの休み茶屋があって、
旅人はここでお茶を飲み、疲れを癒し、駿河湾の風景を賞で旅立っていった。
ここ川島家は、江戸時代慶長から天保年間の凡そ230年間代々川島官兵衛を名乗り、
間の宿の貫目改所の中心をなし、大名もここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、
西倉沢村名主も務めた旧家である。(由比町教育委員会)


明治天皇御小休所跡 間の宿脇本陣柏屋
江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶店を営んできた。
明治九年及び十一年、明治天皇ご東幸のみぎりは、ご小休所に当てられた。
明治15,6年頃、静岡県令大迫貞清が療養のため柏屋に逗留された際、
倉沢の気候風土が郷里の九州に似ているところから、
田中びわの種子を取寄せ栽培を奨め、当地に田中びわが普及するところとなった。
(由比町教育委員会)


10時32分、いよいよ薩埵峠への坂道が始まった。
かなりの急こう配である。


上り口に薩埵峠まで1.3Kmの標識と、


倉沢の一里塚跡があった。
江戸日本橋から40番目の一里塚である。


間の宿望嶽亭(ぼうがくてい)藤屋
薩埵峠への東口の麓にある望嶽亭藤屋は、
その昔、脇本陣、茶亭として多くの文人墨客で賑わった。
明治元年3月7日、幕臣精鋭隊長山岡鉄舟が官軍に追われた際に、
望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装して階段より脱出したが、
当時最新式仏製十連発のピストルを残して行ったと云われている。
当時と変わらぬ佇まいが、歴史を物語っている。


薩埵峠へ向けて出発!


左手は東名高速道と国道1号富士由比BPが並行して走っている。


道が急に狭くなった。
道の両側の斜面には蜜柑畑とビワ畑が目立って多くなって来た。
静岡県令大迫貞清が取寄せた九州の田中びわだろうか?


東名高速道由比PA


山の傾斜面の崩落防止のための工事を行っていた。


工事場所の真前に薩埵峠の標識が立っていた。
10時55分、薩埵峠に到着したようだ。
漁師の網にかかって引き上げられた地蔵菩薩像(薩埵の地蔵)を
山上に祀ったことからその名が付いたと言われる薩埵峠。


歌川広重が描いた当時とほぼ同じ風景が望めるのは、
五十三次の中でもここだけと言われる名勝であるが・・・
この日の薩埵峠からの富士山眺望は、ご覧のとおりである。


薩埵峠から少し行くと、駐車場があった。


10時59分、薩埵峠駐車場に到着
かつてこの場所は、薩埵峠山之神「鞍佐里神社」が祀られていた。


隣の幸田文文学碑には、
有名な随筆「崩れ」の中の一節が刻まれている。
『由比の家ある風景をみると、その安らぎがあってほっとしたのだが、
佇んで眺めていれば、ひとりでに家のうしろの傾斜面をみてしまう。
草木のあるなんでもない山なのだ。 だが、そこを見ていると、
なにかは知らず、土よ、いつまでも平安であれ、と念じていた』


無人販売所の横が薩埵峠からの下り口になっている。


薩埵峠からの下り道。


途中には薩埵峠の道標や説明板が頻繁に現れる。
興津駅まで4Kmとある。


薩埵峠の説明


薩埵峠から伊豆半島土肥方面の眺望


少し先には、薩埵峠の歴史や


薩埵山の合戦の説明もあった。


急階段を下り、


さらに樹木のトンネル抜けると、


前方の視界が開け、墓地に出た。
墓地の入口には御手洗・休憩所もあったが、


そのまま急坂の舗装道路を下った。


急坂の道を下り切った所を右に曲がると、中の道になる。
興津駅まで3Km、55分とある。


中の道を興津駅へ向かう。


しばらく進むと興津東町の集落があった。
この辺りで、標識を見失ってしまい、地図と感を頼りに進む。


集落の中を進んで行くと、


興津駅2.1Km、49分の標識があった。


おきつ川通りを国道1号富士由比BP方面へ向かう。


興津東町公園に川越(かわごし)遺跡の説明板が。
ここは、東海道興津川「川越し」の跡で、
旅人は両岸にあった川会所で「越し札」を買い、連台または人足の肩ぐるまで川を越した。
「越し札」は、その日の水深によって値が違い、連台越しの場合は札四枚を要した。
深さが四尺五寸を越すと、いわゆる「川止め」になった。
定(天和三年)
太股川(42Cm)十二文  はさみ川(70Cm)十五文  横帯川(106Cm)二十四文
若骨川(120Cm)三十二文  脇水川(150Cm)四十二文
但し、冬季(十月下旬から三月五日まで)は、假橋が架かり無賃で渡れた。
川越し人足は、興津側で36人が常備されており、大通行があると、
250人以上が動員された。(興津地区まちづくり推進委員会)


東海道線を潜ると、


国道1号富士由比BPの手前にもう一つ別の橋があった。


興津川を渡る。
ちょうど東海道線の電車が走って行くところだった。


橋から国道1号富士由比BPを見たところ。


12時3分、興津駅1.0Km地点を通過。


ゴールの興津駅を目指す。


興津の町に入り、興津郵便局の先に身延山道道標があった。
江戸時代の身延道追分で、完原四里 萬沢三里 南部三里 身延三里と刻まれている。
現在の身延街道は、興津郵便局の前が起点となっている。
身延道は、ここから日蓮宗総本山の身延山久遠寺を結ぶ街で、
鎌倉時代、既に駿河と甲斐信濃を結ぶ重要な街道であった。


少し先に一里塚跡が。
江戸日本橋から41番目の一里塚である。


間もなく興津駅だ


12時20分、ゴールの興津駅に到着した。


直ぐに静岡方面行の電車が来たので、それに乗り、
12時40分、静岡駅に到着。


新幹線乗場
12時52分発こだま648号で、東京に向かった。


この日のお昼は、沼津駅で買ったアジ寿司弁当である。
薩埵峠辺りで、と思っていたのだが、興津駅まで来てしまった。
昨日に比べて距離が少し短かったのと、やはり、
今朝少しだけ早く出発できた結果である。
お腹が空いていたこともあって、美味かった。


この日は、東海道五十三次の中でも随一の眺望という薩埵峠越えだったが、
予想はしていたものの、残念ながら富士山の雄姿は全く見ることが出来なかった。

由比宿では、殆どの建物が休館日ということで見学出来なかった。
これは、全く予想外だった。

薩埵峠からの富士山眺望は、機会があれば是非見たいと思っている。
次は、これまで一緒に街道を歩いた仲間に声を掛けようかなと思う。
その時は、由比名物の桜えび丼を味わってみたい。

この日の万歩計は、21,000歩を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅱステージ(第2回)吉原宿~興津宿(1日目)

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