ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

全部でいくつ? つくば小野川神社巡り

2015年10月30日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年10月30日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第18回(2015年第29回)、「つくば小野川神社巡り」ウォーキングに参加した。

第一集合場所の乙戸沼公園に集まったのは12名。
車4台に分乗し、「つくばイオン」(以下イオン)の駐車場へ。


乙戸沼公園から10分足らずで「イオン」に到着してみると、既に大勢集まっていた。
その数20名、ということで、この日の参加者は32名となった。
予想以上の人数である。


今後スケジュールされているバスハイクなどについて周知した後、会長の号令で準備体操だ。


『最後に深呼吸をして~っ』


9時36分、Oさんを先導役に出発!
何日か前に下見をしてくれたそうだ。心強い限りである。


女性陣の一団が続く。


「WILD-1」、「Penny LANE」の前を通り、「イオン」に向かう。


「イオン」の裏側だ。
『裏側は、こんな風になってるんだぁ』
『初めてみたわっ』


常磐道のトンネルを潜り、


反対側の側道へ。
常磐道の側道は、時々車が飛ばして通るので、注意が必要だ。


9時55分、新田弁財天神社に到着。


鳥居の奥には、小さな石の祠が祀られているだけである。
『可愛らしい神社だねっ』


鳥居の奥は狭いので、鳥居の前から手を合わせる。
『お金が貯まりますように』


次の新田神社へ向かう。


10時2分、新田神社に到着。
弁財天神社からわずか5分である。
以前(2008年6月1日)訪れたときには、鳥居の扁額はなかった。


新田神社に参拝


新田神社を後にして、


先ほどとは別のトンネルで常磐道を潜ると、「つくばイオン」側へ出る。


『また戻ってきたのねっ』


つうば市新牧田付近を進む。


左手に「イオン」がはっきりと見える。
スタートした駐車場は目の前だ。
『イオンをぐるっと一周した形だねっ』


つくば市稲岡付近の側道をつくば牛久IC方面に向かって進む。


視界が開けると、目の前に田んぼの風景が広がった。


つくば牛久IC内を進む。
『ここは一度歩いたことがあるんじゃないっ?』
2011月4月29日(金)に歩いているから、4年半前のことになる。


小野川がつくば牛久IC内を流れている。
『こうやって上から見ると小野川は随分小さい川に見えるねぇ』


10時25分、つくば牛久ICの下を通過。


つくば牛久ICの折れ曲がったスロープを下ると、


農道に出た。


『あれが三日月神社かなっ?』


10時31分、三日月神社に到着。


三日月神社に参拝。
江戸時代初期の慶長十六年(1611)、三日月不動明王を祀り、村内安泰と五穀豊穣を祈願。
元禄十六年(1703)社殿建立。
天保十一年(1840)近くで発生した山火事で類焼したが、翌天保十二年(1841)に再建された。
社殿の老朽化に伴い、昭和五十二年(1977)改築された。
イボや魚の目の除去、あざの消去に御利益があるらしい。


三日月神社で5分ほど休憩して・・・


次の目的地、月読神社へ向かう。


遠くに圏央道が見える。


月読神社のスダジイの巨木。
樹齢600~700年、樹高30m、樹幹の太さは約8mあるそうだ。


月読神社の御神木となっている。


月読神社に参拝
月読神社は、天慶八年(945)の創建と伝えられている。
平将門の護持仏であった勢至菩薩が本尊。
別名を「三夜様」と呼ばれ、農業・開運の神として広く人々の信仰を集めてきた。
現在の社殿は、寛永五年(1628)に建立されたものである。


月読神社の鳥居を潜り、次の聖天神社を目指す。


『うわ~っ 凄いねっ』
『甘柿だったら良いのにね~っ』
渋柿だったかは、誰も確認していない。


こちらのみかんも素晴らしい実の生り方だ。


11時6分、聖天神社に到着。
鳥居が新しくなっていた。
昭和56年に建立された鳥居だったが、平成23年3月11日の東日本大地震で倒壊の危険が生じたため、
同年12月に建立した、とある。


参道を進むと、


本堂は修理中だった。
織田政権が確立しようとしている天正二年(1574)に建立されたもの。
当初は南東に向いて建てられていたものが、宝永七年(1710)に北西向けに改修され、
現在の位置に遷座されたものと推測されている、そうだ。
縁結び、夫婦和合にご利益があるとされているとのこと。


農家の脇にある畑の中の細い道を進んで行くと・・・、


畑の真ん中に香取神社の鳥居がぽつんと立っていた。
『こんな畑の真ん中で家が一軒もない処に、珍しいよねっ』


11時16分、「香取神社」に到着。
延元三年(1336)、下総香取神宮の分霊を遷祀したと伝えられる。


明治六年(1873)、地区内の日枝・厳島・北野の各神社を合祀している。


圏央道に沿って進み、


小野川を渡った大井橋のところで道路を横断して、


小野川の土手上を進む。
『のどかで良いわねっ』


土手を右折し、舗装された農道を進む。


田んぼ沿いの小道
どこか昔懐かしい景色を見ているようだ。


『ガマの穂がいっぱいあるよっ』
普通の穂より、やや小ぶりである。


田んぼ沿いの小道を進む。
『ゴールは近いのかな?』
『もう直ぐですよっ』


田んぼを掘り起こしている。
早くも来年の田植えの準備をしているようだ。


両側が田んぼの小道を進む。


『いやぁ これは凄いわっ 鈴なりだよ』
このまま熟して落ちるのにまかせてしまうのだろうか、少々気になる。
『干し柿にすれば良いのにねっ』


つくば市稲岡地区の集落を進むと、


11時57分、三把稲雷神社に到着。


参道がきれいに掃き清められて、ちり一つ落ちていない。
清清しい気持ちになった。
『ほんと 気持ちが良いよねっ』


三把稲雷神社に参拝
社殿は、至徳二年(1385)の大干ばつの時、領主小田氏が創建したものと伝えられる。
雨乞い、農作物の守り神として信仰を集めている。
これがこの日最後の神社である。


最後の水分補給をした後、


三把稲雷神社を後にした。


神社の裏手を抜け、回りが畑の中を進むと、


左手に「イオン」が見えてきた。


「イオン」内の歩道を通り、


「イオン」を右手に見ながら、、


駐車場を進んで・・・


12時16分、ゴール!
『着いたぁ』


整理体操をして、


『はいっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


この日は、当初「豊田城から平将門を訪ねて」(常総市)を計画していたが、9月の大水害の影響で
豊田城の駐車場がゴミ置き場となって使えず、また常総市が災害復旧の最中であることを考慮して、
雨で中止となった「つくば小野川神社巡り」に変更したものである。

天気も良く、「つくばイオン」がスタート&ゴールということもあって、32名の参加者となった。
悔やまれるのは、変更になったことの周知が行き渡らなかったのか、
豊田城駐車場へ直行した人が出たことである。
引き返そうにも石下からつくばまでは1時間以上もかかるため、結局こちらのスタートには
間に合わず、参加を見送らざるを得なかったことが、残念でならない。

この日のコースの大半は、以前(2011年4月29日)一度歩いている。
「つくばイオン」をスタート&ゴールとしたことにより、コースがやや異なり、
訪れた神社も前回とは少し違ったが、参加者が増えたのは良かった、と思う。
「つくばイオン」で食事や買い物をして帰った人も多かったのではないだろうか?

この日の万歩計は、14,000歩を超えていた。

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特選街道を歩くⅠ 第八回 (中山道)藪原宿~贄川宿(2日目)

2015年10月26日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年10月26日(月)

昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも見所が多く、人気のある区間を選んで歩くことにした。
旧街道全てを歩くのは、時間的にも資金的にも大変なため、ある街道の中から
気に入った宿間を独断で選んで歩くものである。
今回は、日帰りを主としているが、コースによっては宿泊も有りとしている。
なお、旧東海道の三島宿から京都三条までは、別の機会を見つけて歩くことにしたい。

「旧街道(特選)」第八回は、中山道の藪原宿~奈良井宿~贄川宿(約20Km)を2日間かけて歩いた。

二日目
朝食が7時からなので、朝の散歩に出かけた。
歳をとると、目が覚めるのが早くなる、というのは本当である。
6時30分、辺りはまだ薄暗い。宿場町には人の姿は全く見えない。


奈良井宿の朝は寒かった。
資料とデジカメを持つ手がしばれる。
手袋を持って来なかったのを悔やんだ。
(宿でこの秋一番の冷え込みだったことを聞いた)


先ず、昨日行けなかった長泉寺へ。


玉龍山長泉寺の山門
曹洞宗の寺院である。


山門を入って直ぐ左に鐘楼が建っている。
力強く感じるのは、造りのせいだろうか?


三代将軍家光により宇治採茶使が制度化され、「お茶壺道中」が始まった。
毎年の茶壺は、必ず奈良井宿長泉寺に宿泊していた、と当時の記録がある、そうだ。
長泉寺には拝領の茶壺が残されている、とのこと。


女性陣も早朝散歩だ。
『う~っ 寒いっ』


続いて大宝寺へ。


大宝寺
天正十年(1582)、奈良井領主の奈良井義高が自らの菩提寺として開いたのが始まりとされる。


本堂と観音堂、嵯峨流の庭園の他、昭和七年に発見されたキリシタン禁制時代のマリア地蔵がある。
残念ながらマリア地蔵は見つけることが出来なかった。


7時になったので、宿に戻って朝食だ。


朝食は、9人全員揃って『いただきま~す』


出立しようとした時、「民宿かとう」のお婆さんが別れを告げに出てきた。
とても名残り惜しそうだった。


お爺さんも出てきたので、揃って記念撮影をしよう。
『また来てなぁ』
『いつまでも元気でねっ』


7時56分、贄川駅目指して、いざ出発!


先ずは、木曽の大橋へ行ってみることに。


公園の芝生には霜が降っているのがはっきりと分かる。


木曽の大橋
樹齢300年以上の木曽檜造りで、橋脚のない橋としては有数の大きさを誇る。


橋の中央付近は霜で真っ白だ。


橋の上から鳥居峠方面を望む。
朝日に映えて美しい。
『昨日はあの辺の峠を越えて来たんだねっ』


正面に聳える銀杏は、この方角から推察するに、法然寺か?


再び中央線のトンネルを潜って中山道へ戻る。


杉並木と二百地蔵へ


二百地蔵
聖観音・千手観音・如意輪観音などの観音様の石仏が合わせ祀られている、とのことだが、
顔・形などははっきりしない。
しかし、200体近い観音様の石仏が一か所に集まると圧巻である。
明治期の国道開削・鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められた、そうだ。


お堂の中にもいろんなお地蔵様・観音様が祀られていた。


中山道杉並木
この道は江戸時代に定められた中山道で、江戸時代初期の杉並木が残っている。


胸高直径50Cm以上、17本の老杉の巨木が、往時の街道の風情を偲ばせる。


八幡神社は、奈良井宿下町の氏神で、祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)


奈良井宿の丑寅の方角にあたり、鬼門除けの守護神として崇拝された。


奈良井駅


奈良井駅舎内は、無人である。


8時40分、奈良井宿を後にして、中山道を贄川宿を目指す。
後方に見えるのは奈良井駅のホーム。


奈良井駅に、中津川行ワンマン電車が入って来た。
乗り降りする乗客はあまりいない。


中津川行が発車して直ぐ、松本行特急電車が通過した。


中央線に沿って直線の中山道を進む。


奈良井川の清流が太陽に反射して眩しい。


奈良井大橋の手前にある奈良井川橋歩道橋を渡り、


奈良井川に沿って進む。
車が通らないので安心だし、川の流れを観ながら爽快な気分である。


奈良井川に架かる鉄橋をちょうど電車が渡るところだ。
この時間帯は電車の本数も多い。


9時3分、木曽平沢宿入口付近を通過。
漆器の町に相応しい看板である。


ここから木曽平沢宿が始まる。


漆器店がずらりと並ぶ。
『漆器店だらけだねっ』


『漆器がたくさんだね~っ』


いろんな漆器製品が並べられていた。
これは、その一部だけと思われる。


『いやぁ こんなにたくさんの漆器店があるところとは知らなかったなぁ』
皆さん、異口同音に感嘆の言葉が続く。


『歴史を感じさせる店だよねっ』
木曽平沢宿が重要伝統的建造物群保存地区に指定されているのも納得できる。


家並みの終わる辺り、右手斜め上の石段を上る。


諏訪神社があった。


境内には諏訪神社の象徴である四つの御柱が立てられていた。
下諏訪神社秋宮・春宮のよりは、低くて小さいが、立派な御柱である。


お参りを済ませ、諏訪神社を後にする。


9時28分、塩尻市楢川支所前辺りを通過。


平沢宿を過ぎた辺りの景色
これから一段と紅葉が進むのだろう。


道の駅「木曽ならかわ」が見えてきた。


9時38分、道の駅に併設されている、「木曽くらしの工芸館」中庭に到着。


「木曽くらしの工芸館」内部
いろんな漆器製品がきれいに並べられている。


信州産のワインや酒も販売している。
土産に買って帰りたかったが重くなるので諦めた。


道の駅「木曽ならかわ」
産直の「ならかわ市場」でもある。


土産物などの他に、


野菜や果物(りんご・ぶどう)が売られていた。


奈良井宿を発って2時間、ちょっぴりお腹も空いてきた。
皆で「しなのスイート」をガブリ!


『いやぁ ジューシーでパリッとして美味いっ』
土産に2個(1個は「秋映」で、どちらも1個380円)買った。
リュックが少しばかり重くなった。


国道19号を進む。
車の量が多い。


中央線も国道のすぐ横を走っている。


中山道は、長瀬で国道といったん分かれる。
贄川駅まで約3Kmほどだ。


10時21分、長瀬バス停辺りを通過


柿が鈴なりだ。
『いやぁ これは凄いわっ』
これだけたくさんの実が生っている柿は初めて見た。


『美味しそうっ』と思ったら、『渋柿だった』そうだ。


中央線を潜ると・・・


4本の御柱が寝かせて?あった。
”奉 麻衣廼神社(あさぎぬのじんじゃ)”と書かれている。
先ほどお参りした、木曽平沢の諏訪神社へ奉納される御柱ではないようだ。
(麻衣廼神社は、これから歩く贄川宿の神社である)


奈良井川を渡ると桃岡集落である。


押込の一里塚跡
桃岡地区は、江戸時代に押込村に属していたため「押込一里塚」と呼ばれた。
鉄道と国道19号線の敷設で昔の面影を留めてなく、片側の塚は現在畑になっている。


素戔嗚尊(すさのおのみこと)の扁額の鳥居は初めて見た。


街道の脇にひっそりと佇む馬頭観世音碑
花と栗が供えられていた。


国道19号に合流した。
中山道は、少しばかり網状の鉄板の上を歩くようになっている。


この先食事処がないかもしれないので、ここで蕎麦でも、と思ったが、
『まだ少し早すぎるんじゃない?』の声が・・・
時計は11時10分前、確かに早すぎる。
りんごも食べたことだし、ここは我慢だ。


次に現れた看板は、その名もずばり「食堂S.S」


しかし、「食堂S.S」は、開いているのかいないのか、はっきりしなかったため”パス”
『贄川の駅近くに何か食べる店くらいあるんじゃないっ?』
その言葉に期待したい。


国道19号を進む。


前方道路右側に贄川宿と書かれた案内標識が見えてきた。


贄川宿の入口手前に”贄川のトチ”の案内板があり、栃の大木が見えた。
推定樹齢千年とある。これは見ておいた方が良さそうだ。


近づいて見ると、その大きさは半端ない。
樹高33m、根元周囲17.6mと案内表示されていた。


今まで見てきた中で最大級の巨木である。
『いやぁ これはでかいわっ』
長野県の天然記念物に指定されている。


人と比べるとその大きさが分かる。
『何だかパワーをもらえそうだねっ』


国道19号を渡り、


跨線橋で中央線を跨ぐ。


贄川方面
『ここは単線なんだぁ』
鳥居峠のトンネル出口で見たのは複線だったが・・・


深澤家
行商を家業とした深澤家の屋号は加納屋。
その家は典型的な贄川の商家の姿を留めている。


主屋は街道に面し、背面に中庭、その奥に土蔵2棟が建っている。
国の重要文化財に指定されている。(非公開)


麻衣廼神社(あさぎぬのじんじゃ)の碑
実際の神社は、後方の山の中腹辺りにあるようだ。
(桃岡地区で見た4本の御柱はこの麻衣廼神社に納められる御柱だったのだ)


麻衣廼神社は、ここからは見えない。
手前に観音寺が見えるだけである。


中央線贄川駅方面


贄川関所は明治二年、福島関所とともに廃止され、建物も取り壊された。
現在の建物は、昭和51年、寛永四年の「覚」および明治九年発行「贄川村誌」の「古関図」を元に
忠実に復元されたもの。


内部には上番所・下番所・大名用座敷・中間部屋などがある。
贄川関所は福島関所の支所的な位置付けであった。
あいにく月曜日は休館日だった。(入館料300円)


贄川関所で説明板を見ている最中に、11時26分発の塩尻行電車が行ってしまった。
『あら~っ 行っちゃったぁ』
次の電車は13時35分までない。
2時間以上時間を潰すことになる。


とりあえず贄川駅へ向かう。
国道沿いの贄川宿の看板を通過。


11時43分、この日のゴール贄川駅に到着した。
奈良井宿から約3時間45分が経過していた。


駅前に蕎麦屋「関所亭」があったが、”準備中”で店はまだ開いていなかった。
主人と思しき人が自宅?に戻るところだったので、何とか”そば”を食べさせてもらえないか交渉。
出来れば次の電車に間に合わせて欲しい旨を説明。
最初は『ちょっと無理かも』と言っていたが、『何とかやってみます』と言い残して車で帰って行った。


ここは主人を信用して待つことにしよう。


12時を10分ほど過ぎて主人が戻ってきた。
これから準備すると言う。
蕎麦を打ってきたようだ。


出来るだけ手間がかからず、しかも早く出来るであろう、”もりそば”(600円x3)と
”たぬきそば”(650円x6)を注文。
おつりのいらないようにぴったりの料金を集めて待つことしばし。
”とんとんとんとん”と蕎麦を切ったり、湯を沸かしたりと、主人は一人でせわしなく動き回っている。
店の中で待つこと約30分、


最初に出てきたのはやはり”もりそば”だった。


『お先にいただきま~す』


10分ほど経って”たぬきそば”も出てきた。
これで、全員注文の品が出てきて、『いただきま~す』
電車の時刻まで充分な時間がある。主人に感謝である。
『ごちそうさまでした~っ』
『腰があって、とても美味しかったわっ』


贄川駅ホームで電車を待つ。
反対側のホーム入って来たのは中津川行である。


13時34分、塩尻行電車がやって来た。
時刻表どおりだ。


塩尻には、13時49分に到着。
塩尻13時56分発の特急「あさま20号」に乗り換える。


あさま20号車内
向い合わせに座ってひと時の旅気分を味わう。


車内販売がやって来た。
男性陣は迷うことなく缶ビールを注文。


『かんぱ~いっ』
『お疲れさんでしたぁ』


”中山道(藪原宿から贄川宿)歩き”の2日目も無事終わった。
2日目は、奈良井宿から贄川宿までの平坦な道で楽だった。

早朝の奈良井宿で、静けさのある宿場町の雰囲気を味わうことが出来たように思う。
しかし、この秋一番の冷え込みだったため、厳しい寒さの一端も同時に味わった。

1日目の夜、土浦からわざわざ合流してくれたI子さんの熱意には頭が下がる。
心からお礼を申し上げたい。

木曽平沢宿の漆器店の多さには正直言ってびっくりした。
かみさんとあらためて訪れてみたいと思った。
そのときは、気に入った箸やお椀を見つけることが出来るだろう。

2日間とも快晴で絶好のウォーキング日和に恵まれたことを感謝したい。

この日の万歩計は、19,000歩を越えていた。

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特選街道を歩くⅠ 第八回 (中山道)藪原宿~贄川宿(1日目)

2015年10月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年10月25日(日)

昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも見所が多く、人気のある区間を選んで歩くことにした。
旧街道全てを歩くのは、時間的にも資金的にも大変なため、ある街道の中から
気に入った宿間を独断で選んで歩くものである。
今回は、日帰りを主としているが、コースによっては宿泊も有りとしている。
なお、旧東海道の三島宿から京都三条までは、別の機会を見つけて歩くことにしたい。

「旧街道(特選)を歩く」第八回は、中山道の藪原宿~奈良井宿~贄川宿(約20Km)を2日間かけて歩いた。

第一日目
新宿駅で駅弁を買い、8時ちょうど発の「あずさ5号」に乗車。


この日の参加者は、8名。
全員お互い向い合ってゆったりと座れた。
なお、I子さんは、奈良井宿の宿で合流することになっている。


10時31分、塩尻駅に到着。


塩尻から10時50分発の中津川行ワンマン電車(2両)に乗り換える。


中央線は、ガラガラだった。


まるで貸し切りである。
通勤通学時間帯も過ぎているので空いているのだ。


間もなくこの日のスタート地、藪原駅だ。
車内に料金が表示される。


11時26分、塩尻から30分ほどで、藪原駅に到着。


藪原駅に昔の旅姿をした女性がいた。
鳥居峠を越えて奈良井宿まで行くとのこと。
もう10年も続けているらしい。
仲間がカメラを向けると気軽に応じていた。


一緒に歩けるかと思っていたが・・・
その女性は、こちらの態勢が整う前に発ってしまった。
後を追ったが・・・


次第に離されてしまい、そのうち急に姿が見えなくなった。


『ここを入って行ったみたいだねっ』
そこには地下通路があった。


ここを通るとJR線路の下を潜って反対側の中山道に行けるようになっているのだ。


藪原宿の宿場町を進む。


旧式ポストの横に高札場跡の標柱が立てられていた。
高札場は、幕府や領主が定めた法度や掟書などを木の板札に書き、
人目を引くように高く掲げたものである。


11時39分、お六櫛の「萬壽屋」前を通過。
「萬壽屋」は、江戸時代からお六櫛問屋として店を構えている。
現在は、卸のほか、伝統のミネバリやツゲで作るお六櫛などの小売販売もしている。
ミネバリは、御嶽や駒ヶ岳の高知に生える落葉樹のこと


お六櫛を看板として掲げている店も見られる。


防火高塀跡
元禄八年(1695)、薮原宿のほとんどが焼失する大火があった。
その後の防火対策として、宿再建の際に各戸一間につき一寸の割合で提供しあって、
上横水と下横水の二箇所に四ッ辻の広小路を作った。
文化年間にはさらに中心街の火災に配慮して、上横水の広小路には北側に土を盛り、
石垣を築き、その上に高い土塀を造って防火壁とした。
これを高塀と呼んでいたという。(説明板)


宿の途中で、中山道は右に折れている。
藪原神社200m、鳥居峠2.2Kmと表示されている。


鳥居峠に向かう前に藪原神社へお参りして行こう。
真っ赤な一の鳥居、


続いて二の鳥居を潜ったその先に、


藪原神社の拝殿があった。
『今日も無事に歩けますように』


鳥居峠を目指す。
しばらく中央線の線路に沿って進む。


飛騨街道追分(分岐点)の標柱が立っていた。
藪原は中山道の宿駅として発達した。
この場所には、十王堂(薬師堂)があって、奈川を経て野麦峠・飛騨高山へ通ずる
飛騨街道(奈川道)の追分だった。(以下略)


追分を過ぎるとやや急な坂道が始まった。


湧き水で缶ビールを冷やしていた。
『ここじゃ誰も盗む人なんかいないんだろうねっ』


天降社の大モミジ
この大モミジは、胸高80Cmの巨木で秋の紅葉がたいへん美しく、
道行く人たちの目を楽しませている。(以下略)
『まさに今が見頃だよねっ』 


12時15分、鳥居峠まで1.6Km地点を通過
『お昼は峠辺りだねっ』


『こんにちわ~っ』
鳥居峠を越えてきた一団とすれ違った。


林の入口に黄と紅のコントラスト鮮やかな紅葉が・・・
『いやぁ きれいだなぁ』


12時22分、鳥居峠まで1.3Kmの地点。
杖置き場となっている。


杖置き場を過ぎると道は石畳みに変わった。


『良い天気ですねっ』
また、別の一団とすれ違った。
奈良井駅~藪原駅間は、ハイキングコースとしても人気があるようだ。


12時29分、鳥居峠まで1.1Kmのところの鳥居峠の説明板に見入る。
木曽郡の北東鉢盛山と木曽山脈の主峰駒ヶ岳との間を連立する山脈が、中山道によって
横断されるところが鳥居峠で、木曽路の北端楢川村と木祖村の境にある。
海抜1,197mの峻嶺で、木曽川と信濃川上流の奈良井川の分水嶺をなしている。
峠の東麓が楢川村奈良井で、西麓は木祖村藪原であり、頂上は木祖村に属し、
藪原駅から約3Km、奈良井駅から約3.6Kmある。(以下略)


『もう少しで頂上かしらっ?』


頂上への途中、「森林測候所跡地」の標識があったので、道を逸れて寄ってみることにした。


急な坂道を少し上ると「森林測候所跡地」に小さな小屋があった。
休憩所らしい。


小屋の戸を開けるて中に入ると、そこには藪原駅で会った旅姿の女性がいるではないか・・・
ここで、休憩していたようだ。


中には他に家族連れがいて、ちょっと狭かった。
『天気も良いし、ベンチもあるよっ』の声に外に出て広場の方へ。
「森林測候所跡地」である。


広場の周囲だけ真っ白いシラカバの木がたくさん生えていたのが印象に残る。


弁当を広げようとしていたところに、旅姿の女性がやって来て、
『写真を撮って欲しい』と自分のデジカメを差し出した。
彼女の写真を撮り終わり、ついでに記念撮影をお願いしたら、気軽に応じてくれた。
彼女とはここでお別れした。


テーブルで揃って弁当タイムだ。


この日の弁当は、新宿駅で買った”牛べん”(1,080円)である。


13時35分、弁当も終わり、再び鳥居峠を目指す。
鳥居峠の手前に丸山公園の案内標識があったので、丸山公園へ。


100mほど進むと、いろんな石碑が建てられていた。
松尾芭蕉の句碑
木曽の栃 うき世の人の 土産かな


月雪花の句碑
碑の頭部は欠けているが、建立時の記念句集から次の三句が読みとれる。
雪ならば 動きもせふに 山桜」 道元居
染め上し 山をみよとか 二度の月」 以雪庵
雪白し 夜はほのほのと あけの山」 雪香園


鳥居峠古戦場跡の碑
戦国時代の終わり頃、天文十八年(1549)と天正十年(1582)に木曽氏の軍勢が甲斐の武田軍を
この峠で迎え討ったことや、峠の様子などが書かれている。
藪原の「青木原」、奈良井の「葬り沢」など、時代を偲ぶ地名が記されている。
明治三十二年八月、木祖村の有志によって建立されたもの。


間もなく鳥居峠の筈だ。


13時50分、鳥居峠に到着した。
御嶽神社の鳥居が立っていた。
鳥居の笠木・貫が今にも落ちそうで危険なため、鳥居の下は通行禁止となっていた。
(実は峠はもう少し先の「峰の茶屋」だったことが後で分かった)


御嶽神社には御嶽山謡拝所があるらしい。
謡拝所へはロープ脇を通る回り道の細い道がある。


50mほど先に御嶽を謡拝する御嶽神社があった。
峠の名の由来となった神社とのことである。


『御嶽山見えるっ?』


遥か彼方に御嶽山が見えた。
『あれが御嶽山だねっ』


皆でしばらく御嶽山を眺めていた。
時折山頂左側に白い雲のような噴煙が見えたが、風に流され直ぐに見えなくなった。


鳥居峠の栃ノ木群は、木祖村の天然記念物になっている。


栃ノ木の古木”子産みの栃”


14時10分、「峰の茶屋」に到着
ここが鳥居峠(1,179m)だったことが後で分かった。


「峰の茶屋」から奈良井宿らしき家並みが見えた。
『奈良井宿みたいだねっ』


奈良井宿を目指す。


鳥居峠の一里塚跡碑があった。
鳥居峠は、標高1,197m、木曽川と奈良井川の分水嶺である。
江戸時代の五街道の一つ、中山道の宿場町である奈良井宿と藪原宿の境をなし、
旅人には難所として知られていた。


戦国時代に木曽義元が松本の小笠原氏と戦ったときに、この峠の頂上から御嶽を謡拝し、戦勝を祈願した。
その功あって勝利を得ることが出来たので、峠に鳥居を建てた。
以来、この峠は「鳥居峠」と呼ばれるようになったと云う。
この一里塚は、古老の話や古地図、文献などによって「ほぼ この辺り」としたもの、とのこと。
『塚の跡がないのはそのためだったんだぁ』 納得である。


峠の所々に鮮やかな紅葉を観ることができた。
まさに今が見頃である。
『ほんと きれいだねっ』


奈良井宿を目指して峠を下る。


14時36分、「中の茶屋」に到着。


本沢自然探勝園「葬り沢」の説明に見入る。


「葬り沢」
天正十年(1582)二月、木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場である。
この時、武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたと云われ、戦死者を葬った場として、葬り沢と呼ばれる。
『ここの戦で、事実上武田勢が滅びたんだぁ』


奈良井宿を目指す。


一部石畳の所を下ると、


舗装された道路に出た。


舗装道路を少しばかり歩いていると・・・


中央線の線路だ。
真下に線路が見えるということは、ここはトンネルの真上なのだ。


奈良井宿の町並みを見下ろす。
『奈良井宿は目の前だねっ』


楢川歴史民俗資料館
鎮神社境内にある史料館。
奈良井宿の生活にかかわる民具や祭礼用具、古文書など歴史資料を展示している。
また、宿札や蝋燭入れ・朱傘など、昔日の街道旅にまつわる品々を展示している、とのこと。


15時7分、鎮神社に到着。
元和元年(1615)、疫病が流行したため、上総国香取神宮から経津主神を勧請して祀っている。


鳥居の後ろにご神木の杉の大木がある。


鎮神社に無事到着したことを報告した。
鳥居峠へ向かう人も安全祈願をするという。


いよいよ奈良井宿である。


宿の入口近くに高札場があった。


当時と同じように高札が掲げられていた。


中村邸
奈良井宿の典型的な民家造りが今に残る。
江戸時代には漆櫛の問屋だった家で、間口が狭く奥に深い。
入口から土蔵のある中庭まで土間が通り、店・勝手・中の間・座敷と続く。
天保年代(1830~43)の建物で、資料館となっている。


鈎の手
道が大きく曲がっている。
鈎の手は妻籠宿でも見かけた。


鈎の手を曲がった右側にひっそりと佇む荒沢不動尊。


長泉寺入口付近
日暮れが早くあまり時間がないので、長泉寺は明日訪れることにした。


上問屋資料館
奈良井宿の上問屋は、慶長年間(1602)から明治維新まで270年間継続して問屋を勤めていた。
時には庄屋も兼務していた。
その永い間に残された古文書や日常生活に使用した諸道具等を展示している、とのこと。


かなめや
そばとご飯に地元の山菜などを加えて煮込んだ、深い味わいの「そば雑炊」が売り。、
木曽は、信州の中でも有数のそばの産地である。
古い民家を利用した食事処で木曽の滋味を味わいたい、ところだが・・・
それはまた次の機会にしよう。。


伊勢屋
文政元年に建てられた当時は、下問屋も務めていたという老舗の旅籠。
昔のままの部屋で過ごすと江戸時代にタイムトリップした気分になる。
(予約しようとしたが、この日は満室だった)


本陣跡
今は駐車場になっている。


塗櫛の店松阪屋
寛政年間、お六櫛に漆を施したものが街道を行く旅人の評判になり、やがて江戸や京に出荷されるようになった。
松坂屋には今も工房で作られた塗櫛やお六櫛が各種ある。


徳利屋
かつて脇本陣を務めた原家は、屋号を徳利屋と云い、昭和10年代まで旅籠を営んでいた。
泉鏡花や島崎藤村、正岡子規も宿泊したという。
現在は食事処を併設している。生そば・五平餅が売り。


奈良井宿も次第に日が暮れてきた。


15時42分、この日の宿「民宿かとう」に到着した。


「民宿かとう」の玄関


二階から玄関を見たところ。


夕食は17時30分からになっている。
一風呂浴びた後、缶ビールで喉を潤す。
『お疲れさまでしたぁ』


『風呂上がりの一杯は、やっぱ美味しいねっ』


全員揃ったところで先ずは『かんぱ~いっ』
写真は隣り合わせた宿泊客に撮ってもらった。


二人は北九州市と北海道岩見沢市に住むお友達だそうで、
この日は名古屋で合流し、レンタカーで上高地へ向い、
周辺18Kmを歩いてきたとのことで、健脚である。
(写真は二人の同意を得て載せています)


この日の料理
夕食時にのる野菜はすべて自家農園で栽培。
お袋の味が自慢の家庭的なお宿である。
これに蕎麦が付く。


美味しい料理に話が弾む。
お隣さんともすっかり意気投合である。


いったん部屋に戻って話の続きでまた盛り上がる。


『ビールの後はお酒に限るねっ』


I子さん(中)も無事到着し、話に加わる。

『明日も頑張って歩きましょうっ』

”中山道(藪原宿から奈良井宿)歩き”の1日目が無事終わった。
藪原駅で見かけた旅姿の女性も無事歩き終えて家路に就いたことだろう。

中山道鳥居峠越えの道は、それほど険しい場所もなく、標識もしっかりとしていて、とても歩き易かった。
何よりも雲一つない快晴の天気に恵まれたことが、旅を楽しめた大きな要因である。
鳥居峠の景色も素晴らしく、街道の秋を存分に味わうことができた。

奈良井宿は”日本一の宿場町”と謳うだけあって、立寄り場所も見所も多い。
街道歩きが終わったら、別の機会にもう一度訪れてみたい。

明日は、奈良井宿から贄川宿・贄川駅を目指す。
明日も天気は良さそうだ。

この日の万歩計は、15,000歩に達していた。

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少々疲れました 御前山・富士山バスハイク

2015年10月23日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年10月23日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第17回(2015年第28回)、「御前山・富士山バスハイク(常盤大宮)」に参加した。

この日は、バス利用ということで、三中地区公民館へ。
6時35分、常南交通の中型バスがやってきた。


公民館前には、大型バスが2台停まっていた。
近くの小学校の社会見学で都内を巡るのだそうだ。
6時50分、子供たちを乗せ、一足先に出発していった。


バスは7時ちょうどに公民館を出発し、天川団地→土浦市民会館と廻り、土浦北ICから常磐道へ。
この日の参加者は、2か月ほど前は26名の参加希望があったのが、実施日が近づくにつれ徐々に減り、
結局は22名となった。
これまで滅多なことでは休んだりしなかった会長が、ちょっとした怪我のため、
この日の早朝突然の参加見送りを連絡して来たのには、正直言って驚いた。
いつもの席に会長の姿が見えないのは、寂しい。


バスは、常磐道を走り、


友部SAで休憩を摂る。
ここで昼食の弁当が積み込まれた。
前回と違った弁当屋だ。どんな弁当だろう、昼が楽しみである。


水戸北スマートICで高速を降り、茂木町の「栃木の道山の内P」へ向かった。


8時56分、「栃木の道山の内P」に到着。
公民館を出発して2時間足らずである。


会長に代わって準備体操の号令を掛けるのはKさんだ。


とても、82歳とは思えない身体の軟らかさである。


入念に準備体操をして、


9時16分、出発!
ゴールの道の駅「かつら」を目指す。


新那珂川橋を渡る。


新那珂川橋も含めて上流側は栃木県だ。


下流の茨城県側(御前山)方面を望む。


最近、後続に男性陣が目立つようになってきた。


川を渡り切ったところから栃木県となる。


「関東ふれあいの道」(茨城県No.1コース)は、茂木町の下飯野バス停から始まるが、
この辺りはまだ栃木県だ。


那珂川の支流逆川に架かる伊川勢橋を渡る。


道路一杯に広がってゆったりと歩くのは実に気持ちが良い。
車はたまに走る程度だが、注意に怠りはない。


緩やかな坂道を進む。


青々としたキャベツ畑。
収穫・出荷はもうじき始まるのだろう。
『美味しそうなキャベツだよね~っ』


キャベツ畑を横に眺めながら少し進むと、


9時49分、栃木県と茨城県の県境を通過。
ようやく茨城県(常陸大宮市)に入る。


振り返ると栃木県側は茂木町だ。


御前山を目指す。


それまで雑木林に遮られていた視界が突然開け、那珂川のゆったりとした流れが目に入った。
『なかなか素晴らしい景色だねぇ』


さらに進むと、


10時4分、星大神社の鳥居前に到着した。
山の内Pを出発して間もなく50分だ。
汗もかいたことだし、星大神社にお参りする前に、一息入れよう。


鳥居を潜ると、急な石段が待ち構えていた。


『急で苔も生えてるんで怖い石段だよねっ』


90段の石段を上ると、星大神社の拝殿があった。
祭神は扁額から天照宮と思われる。
『今日も最後まで無事で歩けますようにっ』


一間社流造の本殿である。
『立派な造りだこと』


石段の幅が狭い。
『下りが危ないのよねっ』


星大神社へのお参りを済ませ、御前山を目指す。


二体の馬頭観音像が祀られていた。
この道はかつては日立地方の北浜より茂木を通って、下野の国へ塩や海産物を運んでいた。
当時の輸送は馬に頼っていたので、道中の安全を祈り、また馬の供養のために建てられた。
この道が「塩の道」であったことを伝える無言の証人でもある、と紹介されている。


のどかな里山の風景が広がる。
『素敵だね~っ』 『癒されるよね~っ』


りんごが色づいている。
『どんな味なのかしら? 食べてみたいねっ』


下飯野から4.1Km、那珂川大橋まで9.5Km付近。


御前山ダム
ダムの型式は中央土質遮水壁型ロックフィルダム。
現地で採取される土や岩石を盛りたてて造られたものである。
那珂川沿岸農業水利事業の水源として造られ、2011年に竣工した。
堤頂長は298m、堤高は52mである。


相川橋から洪水吐の導流部を望む。
本体よりも洪水吐の方が目立つダムである。


洪水吐の先に丸い石がおいてあった。
トンネル内から出てきたまん丸い石で、触ると幸運があるのだそうだ。
石の上には小銭がいっぱい。なかには50円玉や100円玉も。


御前山ダムを過ぎて緩い坂道を上り切ったところの左側に、小学校があった。
常陸大宮市立伊勢畑小学校とある。
校庭は草に覆われていた。廃校になっているようだ。
『正平さんが訪ねて来そうな雰囲気だねっ』


11時15分、小舟への分岐点に差し掛かる。


御前山橋へ通じる分岐点である。


11時23分、青少年旅行村入口に到着。
『ここを右に行けば良いのかな?』


青少年旅行村へ。


入口にでっかい観光案内図があった。


青少年旅行村への坂道を上る。


案内所を過ぎ、展望台へ向かう。


展望台への急階段が始まった。


『ひぇ~っ きついわね~この階段』
思わず悲鳴を上げるS子さん。


息も絶え絶えに急階段を登ること凡そ8分、


11時46分、展望台(富士山183m)に到着した。


『いやぁ しかし、きつかったねぇ』


『ここからの眺めは素晴らしいねぇ』
『登って来た甲斐があったよ』


眼下に那珂川と丘陵地帯の自然が広がる。
対岸の中央部分は、日野自動車のテストコースである。


御前山橋だ。


展望台回りで弁当にしよう。


この日は、味工房松屋の弁当だ。
おにぎりといろんなおかずが盛りだくさんで、とてもカラフルだ。


『今日の弁当美味しいねっ』


仲良く並んで・・・
『いやぁ 全部は食べきれないよっ』


12時24分、御前山目指して後半のスタート!


那珂川大橋まで5.5Kmの標識


最初は、ほぼ平坦な道だったが・・・


急坂の登り道になった。


木の根っ子の階段が続く。


登りの次は急坂の下りだ。


12時42分、那珂川大橋まで5.3Km・100分を通過。
那珂川大橋への到着は14時20分頃と言うことになる。


再び丸太の階段の上り。


そしてまた下り。
計4回の上り・下りを繰り返した。
この上り・下りが体力を消耗し、疲れが出て来るのだ。


途中に小さな東屋があった。
富士山から22分ほどが経過していた。
皆さん、少し疲れた様子だが、ここで休むにはちょっと早すぎるので
そのまま御前山を目指すことにした。


東屋を過ぎて少し緩やかになったとはいえ、まだまだアップダウンの道が続く。


『どこまで続くんだろうなぁ』


那珂川大橋まで4.1Kmの標識を通過。


13時2分、分岐点に出た。
「関東ふれあいの道」と、「御前山ハイキングコース」の標識が並んで立っている。


舗装された道路を150mほど行くと・・・


コースは鋭角的に左へ折れている。
御前山まで3.7Kmとある。
ゴールの道の駅「かつら」までは、このペースではまだ1時間以上はかかりそうだ。


『御前山って随分遠いんだねっ』


13時32分、東屋があったので、一休みしていこう。
ここで、バスの運転手に到着時刻は14時30分頃になりそうなことを連絡。


『富士山から1時間以上歩いて、まだ半分しか歩いてないみたいだねっ?』
『いやぁ 今日のコースは疲れるわっ』


『久しぶりに歩いたって感じよねっ』


那珂川に架かる御前山橋が見える。


一息入れて、先ずは御前山を目指す。


那珂川大橋まで2.5Km地点の道路に出た。
『ここがゴールかと思ったんだけどなぁ』


気を取り直して御前山を目指す。
『ここで停まってるわけにはいかないしねっ』


13時58分、那珂川大橋まで1.8Kmの地点を通過。


14時4分、水分補給のため一息入れよう。


座り込む人も・・・


『大きなお尻してるねっ』
『???・・・』


なるほど、言われてみれば、そのように見える。


イノシシが掘り返した跡をコースのいたる所で見かけた。
『みみずでも喰ってんのかなぁ? 凄い馬力だよねっ』
『歩き難くてしようがないよねっ』


樹齢200年以上と思しき杉の大木が目立ってきた。


14時25分、「御前山」の看板前に到着。
標高は180mほどの山で、那珂川大橋付近から眺める景色は素晴らしく、「関東の嵐山」と呼ばれている。
御前山の名前の由来は、伝説によると女帝であった孝謙天皇の愛を受けて法王の座についた道鏡が、
下野国に左遷され、やがて孝謙天皇とともに住んだことからいわれている。(以下略)


看板の近くに大木に囲まれた休憩所が見えた。
『御前山って平坦なんだぁ 山じゃないねっ』
御前山を目指して来た皆さん、やや拍子抜けした様子だ。


那珂川大橋を目指して御前山を下る。


東登山口を目指して急坂を下る。


14時38分、御前山東登山口に到着。


那珂川大橋を左に見て、


道の駅「かつら」へ。


14時43分、道の駅「かつら」駐車場に到着。


駐車場には、常南交通のバスが待っていた。


15時ちょうど、日帰り温泉施設、「四季彩館」に到着。


希望者のみ入浴券(710円)を購入して入浴する。


風呂上がりにビールで喉を潤す。
『お疲れさんでしたっ』
『美味いっ』実にいい笑顔だと思う。


帰りのバス車内
この後、恒例の男性陣有志による宴会が始まった。
その中に自分も入っていることは言うまでもない。


三度(みたび)那珂川大橋を渡り、「関東の嵐山」に別れを告げた。
『今日は大変お疲れさまでしたぁ』


当会としては初めて「関東ふれあいの道」(茨城No.1 青少年旅行村のあるみち:約13Km)を歩いた。
このコースは、個人的には過去2度歩いている。
那珂川に沿った自然溢れる田園風景を楽しむ、という人気のコースである。、
高低差はそれほどなかったのだが、13Kmという距離は少し長すぎたようだ。
過去2度は、あまり感じなかったが、今回はアップダウンの繰り返しには正直堪えた。
これは歳をとった証拠であろうか。2日前に古希を迎えたばかりだ。

皆さん、異口同音に『疲れたぁ』の連発だった。
しかし、一様に『久しぶりに歩いたという実感がする』
という満足感にも浸っていたようにも見えた・・・

この日の万歩計は、25,000歩を超えていた。

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関東ふれあいの道(埼玉) No.1「水源のみち」

2015年10月18日 | ウマさんの「関東ふれあいの道」を歩く
2015年10月18日(日)

”ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」”では、2011年までは主に茨城県の「関東ふれあいの道」(全18コース)を歩いてきた。
『たまには県外を』という声が上がり、2012年は東京都の「関東ふれあいの道」(全7コース)を踏破した。
続いて2013年1月から2014年4月にかけて神奈川県の「関東ふれあいの道」(全17コース)に挑み、これも無事踏破した。
次は埼玉県(全13コース)を目指すことになり、2014年9月から開始することになった。

埼玉県の第12回目となる今回は、コースNo.1「水源のみち」(約8.9Km)を歩くことにした。
当初予定していた10月11日(日)が雨のため18日に延期したが、『12日(体育の日)の方が都合が良い』
という人がいたことから、第一陣4名が12日に、そして第二陣4名がこの日の参加となった。
計8名が参加できたということは、結果的には良かった、と思う。

常磐線始発電車に乗り、


東京駅から中央線、立川で奥多摩線に乗り替え、8時50分、川井駅に到着
「関東ふれあいの道」 (東京都:山草のみち)と同じ電車である。


駅のホームから奥多摩大橋が見える。
久しぶりの景色だ。


駅で体調を整え、バス停へ向かう。


奥多摩大橋
河原では、キャンプを楽しむ人の姿も。


奥多摩大橋から、川井駅がよく見える。


バス停が以前と変わっている、という情報を第一陣から聞いていたので、迷わずに済んだ。
最初に並んだのは我々4名だけだったが、一つ後の電車で来た人と合わせその数は15名ほどになった。


9時30分、西東京バス清東橋行が到着。
平日は清東橋800mほど手前の上日向行になるので、注意が必要である。


9時44分、終点の清東橋に到着。
途中で乗る人も降りる人もなく、全員が清東橋へ直行だ。


清東橋バス停待合室
トイレ等も完備している。


我々は既に川井駅で済ませているので、バスを降りてすぐの9時45分、出発だ!


バス停から1分ほど進むと清東橋という橋があった。
『バス停の名前と一緒だねっ』


小さな川に沿って、キャンプ場が点在する。


9時51分、「百軒茶屋キャンプ場」を通過


「百軒茶屋キャンプ場」から数百m進むと、登山口がある。
棒の折山まで1.8Kmとある。


沢を渡ると・・・


直ぐに急登の山道が始まる。


棒の折山を目指す。
まだまだ余裕の笑顔だ。


わさび畑を横に見ながら進む。


『わさびを育ててるということは水がきれいなんでしょうねっ』


沢の水は滝となってわさび畑へと流れている。


10時21分、バス停から35分ほど歩いた所で小休止だ。


Nさんは今日は少しきつそうな様子だ。


この間に2名が我々を追い抜いて行った。
水分を補給して、10時26分再出発だ!


杉林の急登が始まった。


傾斜は30度近くはあるだろうか。


しかし、女性陣の足は軽い。
山歩きを趣味とする「まゆみの会」で鍛えられているからだろう。


Nさんも頑張る。


我々を追い越していった2人にいったんは追いついたが、再度追い越されて次第に離される。
『若い人には負けるわねっ』


10時55分、里程標があった。
百軒茶屋から1時間ちょっと経つがまだ1.4Kmしか歩いていないことになる。


時々小休止を入れながら上る。
『棒の折山までまだまだあるのよねっ』
「日本百名山」完全踏破のY子さんも少し疲れが見え始めたようだ。


『ゆっくり上りましょうっ』


この急坂を登ってきたのだ。これは厳しい筈である。


少し緩やかな場所に出たところで、


再び小休止
『なんだか修行みたいだねっ』


棒の折山まで0.2Kmの案内表示にちょっぴり元気付けられる。
『あと少しですよ~っ』


『あと0.2Kmがなかなかきついのよね~っ』


時々立ち止まるNさん
『いやぁ 今日のコースは今までで一番きついわっ』


最後の力を振り絞って上ると・・・


山頂の尾根らしき景色が見えてきた。


棒の折山山頂(969m)だ。


11時35分、「棒の嶺」(埼玉県)の標識に到着。
清東橋バス停を出発して1時間50分が経っていた。


天気は晴れだが、山頂からの展望は雲に遮られている。
『いやぁ ちょっと残念だねっ』


山頂では大勢の人が昼食の最中だった。


我々も『ここで弁当にしましょうっ』
目の前の雄大な景色を観ながらの弁当は格別だ。


棒の嶺は、「関東ふれあいの道」(埼玉県コースNo.1水源のみち)の始まりとなっている。
今まで上って来たのは「関東ふれあいの道」(東京都No.7山草のみt)である。
ここは東京都と埼玉県の境なのだ。


12時10分、下り開始!
『ここからは下りだから楽だよねっ』


急坂の下りが始まった。
瓦礫の急坂も楽ではない。


『滑らないように気をつけなくちゃっ』


12時21分、権次入(ゴンジリ)峠に到着。
ここで、東京都のコースと分れ、左の名栗方面へ向かう。


権次入峠からは、丸太の階段で始まった。
この丸太の道は、丸太が太くて段差もあり、雨で中央部分の土が流れてへこんでいるので歩き難い。
殆どの人は、中央部分を避けて丸太の脇を歩いている。


丸太の階段を過ぎると、木の根が張った坂道になる。
『根っこが滑り易いから、こっちも歩き難いわね~っ』


また丸太の階段だ。


12時46分、岩茸石に到着。


標識でコースを確認し、


12時51分、2.3Km先の白谷沢(しらやざわ)登山口を目指す。


白谷沢登山口へは、最初は緩やかな道で始まった。


途中、丸太の階段や瓦礫の坂道を10分ほど下ると、


白谷沢が始まる平坦なところに出た。
白谷沢登山口から上って来たと思しき7-8人のグループが休憩していた。


我々も白谷沢への下り口を前に一休み。
『ここから沢下りが始まるんだねっ』


13時58分、白谷沢登山口目指して出発!
しばらくは沢の流れに沿って下る。


5分ほど下ると、沢沿いの道は次第に岩場に変わっていった。


沢を右に左に渡って下ることも数度。


途中、秋の日が差し込む幻想的な景色に見入る。
『素敵な雰囲気だよね~っ』


ロープを使ってスリルを存分に味わえる岩場も。


ロープ伝いに険しい岩場を降りていると、後から来た子供連れGが岩の横を下っていった。
そのGは慣れた様子で、我々を素早く追い抜いていった。


13時26分、白孔雀の滝の上部に出た。
滝は見えない。


直ぐ近くに「白孔雀の滝」の標識があった。
この標識が今回の撮影ポイントである。
全員の証明写真を撮り、一仕事終えた。


険しい岩場は続く。
岩場に気を取られ、白孔雀の滝は見過ごしてしまった。
『滝を観ている余裕はないよねっ』


この辺りはゴルジュと云われる場所だ。
(ゴルジュ:登山用語で,両側の岩壁がせばまっている谷)


『スリルがあり過ぎるわよねっ』


直ぐ脇を小さな滝も流れる。


ゴルジュが続く。


岩は濡れており、滑り易いので危険を感じる。
そういえば、棒の嶺の山頂案内板に、”冬の凍結時や大雨の後は、白谷沢への立ち入りは避けるように”
との注意書きがあったのを思い出した。
納得である。


最後のゴルジュを通過。


「藤懸の滝」を過ぎると、


ようやく岩場が終わり、杉林の道になった。
何とか全員無事に白谷沢を歩き終えて、ほっと一息。


杉林の道を歩くことおよそ20分、


14時20分、白谷沢登山口に到着した。
棒の嶺をスタートして2時間10分が経過していた。


目の前に名栗湖が広がっていた。


河又バス停を目指す。


まだ紅葉は見られないが、名栗湖が美しい。


有間ダムは、昭和61年、埼玉県営第1号として完成した多目的ダムである。
ダムの形式は岩を積み重ねたロックフィルダムだ。


ダムを渡って反対側へ。


ダムの中央付近から名栗湖を望む。
湖面が鏡のようだ。


名栗湖を渡ると、あとは1Km先の河又バス停を目指すだけである。


14時42分、「さわらびの湯」に到着。
本来のゴールは、河又バス停とされているが、飯能行のバス始発でもある。
ここから乗ることにしよう。


バスの時刻表を確認
14時56分発となっている。河又バス停まで1分である。


しばしバスを待つ間に乗客が増えてきた。
乗客の大半は「さわらびの湯」から帰る人達だ。


ほぼ満席となったバスに揺られること約45分。
15時41分、飯能駅に到着した。


西武線飯能駅から15時55分発の準急で池袋へ。


ゆったりとした西武池袋線車内でゆっくり寛ぐ。


池袋から山手線で上野駅へ。
上野駅でNさんがビールの差し入れだ。
『かんぱ~いっ』『ごちそうさまぁ』
Nさん曰く、
『今日は今までで一番きつかったけど、今までで一番美味しいビールだねっ』


常磐線車内でゆっくりと味わう。
常磐線はこういう雰囲気が似合う電車であると思う。
常磐線をこよなく愛してやまない理由の一つである。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「関東ふれあいの道」(埼玉県)第12回目、コースNo.1「水源のみち」(約8.9Km)を無事踏破した。
棒の折山への急登の厳しさを味わい、ゴルジュの岩場に足元をふらつかせながらの一日だったが、
全員無事に歩き通せたのは、何よりだった。
上野駅でいただいたビールの味は格別だった。

次回(11月)は、いよいよ埼玉県「関東ふれあいの道」(全13コース)の最後のコース
(NO.10「下久保ダムを望むみち」)である。
あとは踏破認定証の取得を目指して皆さんと一緒に頑張るだけだ。

この日の万歩計は、16,000歩を越えていた。

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