ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

防災訓練真っ最中 荒川・彩湖畔ウォーキング

2017年06月23日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年6月23日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成29年度第11回(2017年第24回)、「荒川・彩湖河畔(戸田)
ウォーキングに参加した。

この日の目的地は荒川彩湖畔のため、西浦和駅まで電車で行くことになる。
荒川沖駅7時40分発の電車を待っているところ。


柏から各駅停車で新松戸へ向い、新松戸から武蔵野線に乗り換える。


9時19分、武蔵野線西浦和駅に到着
この日の参加者は23名、このところ20台前半の参加者数が続いている。


彩湖を目指し、駅近くの路地裏を進む。
『こんな狭い所を車が通るんだねっ』
タクシーとの離合もぎりぎりだ。


この日先頭を務めるのはいつものOさん。
埼玉県ウォーキング協会主催の「水ウォーク2009」で
彩湖周辺を一度歩いているとのことなので、
これ以上心強い先導役は他にいない。


国道17号(新大宮BP)に沿って進む。
新大宮BPの上を首都高速埼玉大宮線が走っている。


500mほどで田島団地前交差点に到着。


田島団地前交差点を右折し、新大宮BPを横断。


荒川・彩湖方面へ。


埼玉市桜消防署・コンビニ前を通過し、


彩湖を目指す。


民家の軒先にたわわに実ったぶどうが。
『いやぁ 立派なマスカットだねっ』
『美味しそうっ』
手を伸ばせば届く所に生っているのがちょっと気になる。


右手に田島小学校を見ながら進むと、前方に堤防が見えて来た。
荒川の堤防のようだが、彩湖の堤防かもしれない。


堤防の階段を上る。


さらに階段を上ると・・・


目の前に「荒川彩湖公園」の広大な景色が現れた。
『いやぁ 広くてきれいな公園だねっ』


階段を下り、「荒川彩湖公園」へ。


「荒川彩湖公園」は、彩湖周辺の広大な水辺空間を有効的に活用しよう、
と作られた公園で、平成11年(1999)3月31日オープン、とのこと。
”彩湖”は、その4年前の平成7年に命名された、そうである。
この日のコースを確認して


彩湖畔の道を反時計回りに進む。


北駐車場を右手に見ながら緩やかな坂道を下る。
後方に武蔵野線の電車が走って行くのが見える。


スタート前に水分補給などで体調を整えて、


9時54分、出発!
左手に見えるのは、
荒川の洪水の一部を彩湖(荒川第一調整池)に導く”流入提”である。
荒川の洪水の時は、この堤防を越えて彩湖(荒川第一調整池)に
水が流れる仕組みになっている。
今歩いている所は、水没することになる。
『この堤防を超えて水が流れて行くんだぁ』


後に続く皆さん。
『ヨシキリが鳴いてるわねっ』


荒川貯水池機場
彩湖の水を荒川から取水したり、荒川に放流したりする施設だ。


”流入提”を過ぎると、緩やかな上りになっている。


”埼玉・東京の大切な水がめ 彩湖”
彩湖の目的の一つに、
彩湖の水を荒川に補給することにより、東京・埼玉の水道水を
安定的に確保することとある。


坂道を上り切ると、道は彩湖畔と荒川の堤防に分かれている。


先頭Gは、彩湖畔の方へ進んでしまったが、
『荒川の堤防を歩いてみましょう』ということで、
堤防の斜面を上ることに。


堤防の急斜面を上ると・・・


荒川の堤防の上に出た。
『いやぁ素晴らしい景色だ』


荒川の堤防からの景色(1)
荒川下流


荒川の堤防からの景色(2)
朝霞パブリックGC


荒川の堤防からの景色(3)
武蔵野線とさくら草水門


荒川の堤防からの景色(4)
荒川貯水池機場


荒川の堤防からの景色(5)
彩湖(荒川第一調整池)


しばらく荒川の土手上を歩くことにした。


『風があって、涼しいわねっ』


時折、サイクリングの自転車などがかなりのスピードで走るので、
堤防一杯に広がって歩くのは注意が必要である。


堤防上を歩くこと約10分、次は彩湖畔を歩いてみよう。


土手を下る。


『上るのよりは楽だなっ』


10時17分、木陰で一休みしよう。


この日埼玉市の予想最高気温は30度だ。
しっかりと水分補給しておこう。


10時22分、彩湖畔へ向けて出発!


頭上をヘリコプターが頻繁に飛んでいる。
機体に埼玉県の文字が見える。


彩湖の上空に停止したと思ったら、ロープで人を降ろし始めた。


ヘルメットを被り、シュノーケルを咥えている。


埼玉県防災航空隊訓練実施の看板があった。
防災ヘリコプターを使用しての災害対応訓練(水難救助訓練)、とのこと。


ヘリコプターを見やりながら湖岸を進むと、


彩湖の左右対岸を連絡する管理橋が見えて来た。


皆さん、管理橋から見ているのは・・・


水難救助訓練をしている防災ヘリコプターである。


彩湖に降ろした隊員を今度は一人づつ救助するという訓練のようだ。


水難救助訓練を見ながら管理橋を渡る。


管理橋中央付近から彩湖を望む。
『彩湖って広いんだね~っ』


パノラマ写真


後ろを振り返ると、東京外環道の幸魂大橋が見える。


管理橋を渡り切ったところから管理橋を望む。


湖岸を進む。


水難救助訓練が続いている。


ヘリコプターに収容している。


水中の隊員と連絡し合う、埼玉県防災航空隊の隊員


彩湖で救助を待つ隊員
何かの指示にOKのサインで応えている。


荒川左岸水害予防組合水防演習
水難救助訓練会場の周知看板
『明日の演習本番に備えての訓練みたいだねっ』


航空隊レスキュー用車両も出動していた。


時間は少し早いが、弁当を食べる場所を求めて彩湖畔を進む。


右手にハードコートのテニスコートを見ながら進むと、


右手奥に芝生の広場があった。


テニスコートの裏にあたり、


大きな木が植わっていて、適度な木陰もある。


11時8分、ここで弁当にしよう。
食事風景(1)


食事風景(2)


食事風景(3)


食事風景(4)


弁当も終わった11時53分、「荒川彩湖公園」入口を目指す。


彩湖畔の木陰に沿って進む。


『木陰が途切れると暑いわねっ』


対岸の荒川貯水池機場が次第に大きく見えるようになった。


「荒川彩湖公園」入口へ。


緩やかな坂道を上る。
間もなく「荒川彩湖公園」入口だ。


これは何だろう?
電光掲示板のようにも見えるが、果して・・・


12時13分、「荒川彩湖公園」入口の堤防に出た。
後方に見えるのは、「ライオンズガーデン西浦和」だ。
『眺めは最高だろうねっ』


田島小学校前を通過し、


続けてコンビニ前を通過。


首都高速埼玉大宮線が見えて来た。


国道17号新大宮BPを横断し、


西浦和駅を目指す。


武蔵野線は目の前だ。


武蔵野線の高架下を進み、


12時33分、西浦和駅に到着した。
『今日は随分と早くゴールしたねぇ』
少し歩き足りないと言った様子の人も・・・

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

今回の荒川彩湖畔ウォーキングでは主に彩湖畔を歩いた。
彩湖・道満グリーンパーク内の「戸田ヶ原自然再生エリア第1号地」に
ボランティア活動により、桜草などの植栽が行なわれ、
野生の草花・鳥・虫など自然を楽しむ場所を守り育てる活動が
進められている、とのことである。
また、武蔵野線の北側に桜公園や田島ヶ原桜草自生地もあるようなので、
桜草の時期に合せて訪れてみるのも良いかもしれない。

この日の万歩計は、13,000歩を少し超えていた。

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予習無しを悔やむ 名護屋城陣跡巡り

2017年06月19日 | ウマさんの気ままなウォーキング
2017年6月19日(月)

名護屋城の見学も終わり、昼食の後、名護屋城周辺に点在する
陣跡を見て回ることにした。
名護屋には、豊臣秀吉が天下に号令をかけ、160もの大名が集ったといわれ、
それぞれが丘陵を利用した陣屋を建てていたと考えられている。
現在は130余の陣跡が確認されており、地元自治体とも協力しながら
保存・整備を行っている、とのこと。

名護屋城陣跡については、特に事前の予習もしていなかった。
現地へ行けば何らかの情報が得られるだろうという
甘い気持ちがあったのは事実である。


名護屋城跡を後にして、かみさん達が待つ近くの道の駅「桃山天下市」へ。


レストラン「桃山亭 海舟」で昼食を摂った。


注文したのは、にぎり寿司定食。
食事の後、近くの陣跡を回ることにしよう。


昼食後、先ず向かったのが、前田家の陣跡である。
道の駅「桃山天下市」の駐車場の隅に入口があった。


薄暗い森の中を5分ほど進むと、広場があった。
前田利家の陣跡である。


前田利家の陣跡は名護屋城の南方約300mに位置し、
広さ10万㎡に及ぶ最大級の広さを誇る。


前田陣の規模の大きさや立派さは陣屋の中でも群を抜いている。
前田利家は徳川家康とともに、文禄二年(1593)5月に
名護屋を訪れた明の使節の接待役を務めており、
豊臣政権の外交施設としての格式の高さも現れていると考えられている、
とある。


利家の居館があった「館部」とされる曲輪への大手虎口


大手虎口は高さ5.5mの石垣からなる内桝形となっている。
その規模や石垣・石段の立派さは、名護屋城と比べても
見劣りしない格式を持っている。


木下延俊の陣跡は、名護屋城博物館の裏にあるため、
100名城のスタンプを押した博物館管理室で


木下延俊陣跡の見取り図をもらい、陣跡へ向かった。
木下延俊陣屋は、名護屋城の大手口前面に構えられており、
最も城に近い、とのこと。
名護屋城博物館南に隣接する丘陵が、木下延俊の陣跡になっている。
木下延俊は、豊臣秀吉の正室おね(北政所・高台院)の甥にあたる。


博物館右手から裏へ回り、階段を上って行くと、


陣跡の木製の園路があった。
見えている遺構は全て本物であり、貴重な遺構を保護するために、
園路上から見学し、地面には降りないようにとの注意書きが。
陣跡(石塁)


陣跡(石敷)


陣跡(玉砂利)


陣跡(石塁)


陣跡の木製の園路


陣跡(飛石)


陣跡(矢の跡と飛石)


陣跡の先は、交流の森公園に続いていた。


交流の森公園の先に小さなお堂があり、


お堂の前に金助・吾助の墓があった。
江戸時代の中ごろ、唐津領は天候不順による凶作が続いた。
名護屋村でも田畑の作物は枯れはて、村人は木の実や葛の根、
ヒジキ(海藻)などを食べて飢えをしのいでいた。
しかし、このような不作の年にも藩は容赦なく年貢の取り立てを通告。
村では庄屋を中心に毎晩のように寄り合いを開き、このままでは飢え死に
するばかり、村の窮状を藩主に訴えて年貢を減らしてもらおうという
事になったが、後の咎めを恐れて誰一人これを引き受ける者がいない。
そのような時、金助・吾助の2人の若者が、自分達には身寄りもなく
後の心配もないので、この役目は私達に任せてくださいと申し出た。
金助と吾助は、藩主が領内の巡視で佐志村に赴く事を知り、直訴を決行。
幸い願書は、藩主の目に留まり、年貢米100石が減免された。
しかし、当時直訴は天下のご法度。
これを破った2人は捕えられ、西の浜で処刑された。
「墓は、方広山の西に葬ってほしい」という2人の遺言どおりに建てられ、
そこには、竜泉寺大和尚が持ち帰った遺髪が葬られていると伝えられている。


金助・吾助の墓の前は、旧唐津街道(太閤道)になっており、


その先(左側)は、名護屋城跡の大手口に続いていた。


大して当てもなく車を走らせると、木下延俊と古田織部陣跡の
説明板を見つけた。
古田織部は、文禄の役(1592~1593)では名護屋に駐屯し、
慶長の役(1597~1598)では渡海していた武将である。


木下延俊の陣跡は既に見た後なので、田んぼの中の一本道を
古田織部の陣跡へ。


古田織部の陣跡は、名護屋城から南へ約500mの位置にある。
古田織部は、千利休の高弟で、高山右近・細川忠興・蒲生氏郷などと
「利休七哲」に数えられており、茶人として名高い。


古田織部の陣跡の曲輪


古田織部の陣跡から名護屋城方面を望む。
古田織部は、江戸幕府の二代将軍徳川秀忠の茶道指南も務めた。
特異な意匠で知られる織部焼(茶器)や織部灯籠の創始者でもある。


古田織部の陣跡を後にして、車を走らせると、
加藤清正・福島正則・小早川隆景陣跡の説明板があった。


左から加藤清正・福島正則・小早川隆景の陣跡を望む。


加藤清正陣跡
幼少より秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは福島正則らとともに、
七本槍の一人として活躍。
文禄の役では、朝鮮国の都漢城(現ソウル)に達したが、
慶長の役では、蔚山城を取り囲まれて落城寸前にまで攻められた。
矢印の方へ車を走らせたが、福島正則陣跡の標識が立つ場所に出た。
途中、加藤清正陣跡と特定されるような場所は、見当たらなかった。


福島正則陣跡
福島正則の母は、豊臣秀吉の伯母と云われており、幼少より秀吉に仕え、
賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人として活躍。
文禄の役では渡海している。
名護屋に構えた陣屋は4haほどで広大である。
矢印の方へ車を走らせたが、途中、福島正則陣跡と特定されるような場所は、
見当たらなかった。
加藤清正陣跡、福島正則陣跡は標識で示された付近一帯が、陣跡なのだろう。


加藤清正陣跡、福島正則陣跡からさほど離れていない場所に
細川忠興陣跡の標識が立っていた。
標識に従って右側の径を進んでみると・・・


陣跡と思しき一帯は、みかん畑になっていた。


津軽為信・片桐且元・木村重孝の陣跡の説明板を見つけた。


津軽為信・片桐且元・木村重孝の陣跡を望む。


道路脇に伊達政宗の陣跡を示す標識がポツンと立っていた。


標識の脇の急斜面を上ってみると、陣跡らしき石垣跡などがあったが、
雑木や藪に覆われてこれ以上進むことは出来ない。
止むを得ず引き返した。

時間の都合上、これ以上陣跡を探し回る余裕もないため、
かみさん達が熱望していた焼き物の里伊万里へ向かうことにした。

陣跡の地図なども持ち合わせないまま名護屋城周辺を車で走ったが、
数ある陣跡のうち、名護屋城周辺のいくつかの陣跡しか回れなかったのは、
当然と言うべきだろう。
大した予習もせず、地理不案内の者にとって、名護屋城陣跡を回るには
充分な予習、それにガイドが必要だと痛切に感じた次第である。

日本100名城巡り No.87 名護屋城” へ戻る。

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日本100名城巡り No.87 名護屋城

2017年06月19日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年6月19日(月)

破却の跡を残す朝鮮出兵の拠点 肥前名護屋城を訪問した。

名護屋城は、天下統一を行った豊臣秀吉が「文禄・慶長の役」で、
大陸征服の基地として築いた平山城である。
わずか1年1ヶ月の短期間とはいえ、秀吉は名護屋城に在陣し、
そこから全国の諸大名に号令した。
また、秀吉の命により徳川家康・前田利家・伊達政宗など
全国の諸大名が集結させられ、各自が陣屋を構築し、
長期滞在をしたことは、九州の一地方である名護屋の地を
一気にわが国の政治上の中心地に押し上げるという、
日本史上類を見ない特異な状況を生み出した。

名護屋城は、秀吉の死によって突如その役割を終え、
島原の乱後、大規模な城破却が行われている。
廃城された城や陣跡・城下町の遺構は広範囲に点在する。


佐賀県立「名護屋城博物館」手前の駐車場に車を停め、
名護屋城跡に隣接した博物館へ。


博物館では、狩野光信が描いたとされる「肥前名護屋城図屏風」や
城と城下町模型などが展示されている、とのことだった。
100名城スタンプ押下も兼て訪れてみると、月曜日は休館日と聞いて
一瞬頭が真っ白になった。


しかし、100名城スタンプは、博物館の管理事務室に置かれていた。
スタンプを押し終えて一安心。


名護屋城跡入口から太閤道の終着点となっている大手口を望む。
最後に大手口へ戻って来ることにして、


最初は、搦手口方面から見て回ることにする。


大手口から城の南側を歩き、搦手口に向かう。
馬場の南側にあたるこの辺りの高石垣は最大14m以上を測る、そうである。


V字型に削られた高石垣の破却跡
最初は、”破却”というイメージが浮かばなかったが、
現実にこの目で見て愕然としたというのが正直な気持ちである。


城のかげ溜池を望む。


石採場辺りから振り返って本丸南側伝馬場の石垣を見る。
石垣が規則性をもって「V字型」に壊れており、
人的に破却(破城)された様子がよく分かる。


搦手口へ至る途中の弾正丸の石垣


ほぼ全ての石垣の隅角部が、削られ、破却されている。


搦手口
名護屋城にある虎口(城の出入り口)の一つ。
搦手とは、城の裏側という意味で、表側の大手に対する言葉である。


搦手口の坂道を上る。


弾正丸に至る搦手口は、弾正丸への侵入を防ぐため、
通路を屈折させた典型的な喰違い虎口の形状をしている。


弾正丸は、浅野弾正少弼長政の曲輪と云われ、
名護屋城内では最も防御性が高い曲輪とされる。


弾正丸から見た風景


かつてはこのように陣跡が並んでいたとされる。
当時ここからは、毛利輝元や片桐且元、加藤清正など
50にも及ぶ陣跡が見えた。


弾正丸から先ほど歩いて来た本丸南側石垣の破却跡を望む。


弾正丸の奥へ行って見る。
現在はみかん畑になっていた。


弾正丸跡にはみかんの苗木が植えられていた。


浄水場跡を通って二ノ丸・馬場方面へ進むと、


破却された本丸の石垣が現れた。
左が二ノ丸で、右は伝馬場になる。


伝馬場方面へ進む。
伝馬場は、幅15m、長さは約100mほどの細長い帯曲輪状態で、
城の東西を結ぶ重要な通路となっている場所である。
また、ここで乗馬の訓練をしたとも伝えられている。


本丸南面は、上下2段の高石垣によって防御されている。


破却を受けて転落した石材が、400年前の当時のままの状態で
残されている。


伝馬場の通路の途中に設けられた馬場西側櫓台跡
この櫓台は、通路の途中にあるということで、名護屋城の櫓配置でも
特異な例とされる。


馬場西側櫓台跡から弾正丸方面を望む。
黒沢明監督映画「乱」の撮影場所となった、そうである。


馬場櫓台跡から城のかげ溜池方面を望む。


伝馬場から二ノ丸方面を振り返って見たところ。


細長い帯曲輪の伝馬場を進んだ突き当り、三ノ丸虎口の
三ノ丸南西櫓台(写真右)は、平成の石垣修理が行われ、
その際11tの巨石を使用していることが明らかになった。


三ノ丸南西櫓台には三つの巨大な鏡石を配し、見栄えを重視した
石組になっている。
中央にある縦長の巨石が城内一の大きさを誇る鏡石で、
その重さは11tあるそうだ。


三ノ丸南西櫓台
この櫓台は城内最大規模を誇る、とのこと。


三ノ丸南西櫓台の石段を上ってみる。


石段を上ると・・・


三ノ丸南西櫓台からの景色
城のかげ溜池が見える。


三ノ丸南東隅櫓台の南側石段(新)は、櫓台のほぼ中央にある。


三ノ丸南東隅櫓台の北側石段(旧)
石段を登ると、幅1mほどの平坦部があるだけで、その先は、
三ノ丸東面の高石垣(12m)に面している。
このことから、石段として実際に使用された可能性は低い、とのこと。


三ノ丸
ホルトの木々が曲輪全体を覆い、良好な歴史環境と自然環境が融合した
心地良い空間になっている。


三ノ丸のほぼ中央にある三ノ丸井戸
名護屋城で最も高所(標高76m)にある。


南北1.9m、東西1.3mの楕円形をしており、名護屋城や陣跡で発見された
その他の井戸には見られない特徴だそうだ。
現在の深さは、地面から2mほどだが、当時どの程度の深さだったかは不明、
とのこと。


馬乗り馬場


名護屋城址三ノ丸石碑
三ノ丸は、本丸の東側に位置し、東西75m、南北110mの大きさ。
内部は、南部の区画と一段高い北側の区画に分かれている。
南部の区画は、中央の井戸跡を中心に馬場・二ノ丸、本丸、東出丸と連絡し、
北側の区画は水手通路や本丸大手と連絡している。


緩やかな石段を上り、本丸大手へ。


本丸大手
三ノ丸と本丸を結ぶ通路で、かつてこの辺りに本丸大手門があった。
平成3年度からの発掘調査によって、大きな城門の礎石や
L字形に曲がった石段、門や櫓のものと思われる大量の瓦などの
遺物が見つかっている、とのこと。
桝形虎口「本丸大手」は、城内最大級


本丸大手に残る石垣の上に上がる広い石段の遺構


本丸大手を上ると、右手に本丸跡が見えて来た。
後ほど行くことにして、本丸跡の外周に沿って進む。


本丸旧石垣
説明によると、
名護屋城は築城後に何らかの理由で大規模な改造が行われている。
この石垣は本丸の南側および西側への拡張に伴って、
完全に埋められていた築城当初の石垣、とのこと。


本丸新石垣櫓台
本丸の拡張に伴って新たに造られた櫓台が発見されている。


本丸新石垣櫓台から馬場西側櫓台を望む。


本丸南西隅櫓跡
本丸の南西隅にあたり、隅櫓の礎石が発見されている。
隅櫓は曲輪の隅部に配置された建物で、天守閣と同様に
物見としての役目を持っていた。
赤い部分は、破却によって盛土がなされたことを示すために、
赤色塗装にしている、とのこと。


本丸多聞櫓跡
全長約55m、幅約8mの規模を持つ長大な建物だった、そうである。


本丸多聞櫓跡から天守台を望む。


本丸多聞櫓跡を経て、屏風絵では5層7階の天守があった天守台へ。


天守台へ向かう途中、左下に遊撃丸が見えた。


名古屋城のシンボルである五層七階建ての天守閣が建てられていた天守台。
天守台からは発掘調査により礎石や出入り口が確認された。
礎石は全部で24個と考えられ、うち16個が現存している。
地下1階部分で礎石や玉石敷きが、天守台周辺では金箔瓦などが
発見されている、とのこと。


名護屋城天主台跡の碑
豊臣秀吉が築城したということに敬意を込めてなのか、
天守が天主と刻まれている。


天守台から見た風景(1)


天守台から見た風景(2)


天守台から見た風景(3)


天守台から見た風景(パノラマ写真)
天気の良い日には長崎県の対馬まで望むことができる、そうだ。


天守台から見た陣跡を示す風景
33の陣跡が表示されている。


太閤が 睨みし海の 霞かな
この句は、昭和八年(1933)に青木月斗が名護屋城を訪れた際に詠んだもの。


本丸跡に建つ東郷平八郎書による名護屋城址の碑


本丸跡から本丸北門を通り、水手口へ。


正面に水手曲輪を見ながら水手通路を下ると・・・


水手口に出た。


水手口から城内を見たところ。


秀吉のプライベート空間であった山里丸へ向かう。


右手の坂を上り、上山里丸の小曲輪へ。


山里丸では1998年度の発掘調査により上山里丸の小曲輪において、
飛石・玉砂利敷き・井戸などとともに小規模な掘立柱建物跡を確認している。


上山里丸の井戸


屏風図に描かれている茶室と推定される方形の藁葺屋根建物と一致すること、
また、博多の豪商神谷宗湛の「宗湛日記」には、この茶室跡が宗湛が招かれた
茶室と考えられることから、秀吉の「草庵茶室」と推定されている。


草庵茶室を後に、秀吉が生活した山里丸へ。
山里丸は、豊臣秀吉が名護屋城で生活した場所である。


石垣を上ると、


広沢寺があった。
広沢寺は、秀吉の側室広沢局が一堂を建てたのが始まりとされる
禅宗寺院である。


広沢寺本堂


欄間に秀吉の肖像画が懸けられていた。


広沢寺本堂の境内に文禄の役の際、加藤清正が朝鮮から持ち帰り
秀吉に献上され秀吉が手植えしたと伝えられる大蘇鉄がある。
樹齢は400年で、根回り樹高とも約3m、枝張り約6mあり、
主要な枝だけで40数本もある巨木である。
国の天然記念物に指定されている。


秀吉が過ごした居館跡の山里丸は、広さが約30,000㎡あり、
本丸、二ノ丸、三ノ丸と共に重要な部分を占めていた。


山里丸の反対側にある鯱鉾池は、城の北東を守る唯一の水堀だった。


山里口は、上山里丸への大手口に相当し、二重の喰違い虎口で
厳重に防御されている。


上山里丸へ石段を上る。
少なくとも5回の折れを以て上山里丸に上らなければならない。


山里口の虎口には名護屋城内で唯一、
破却を免れた隅角部のある石垣が残る。


上山里丸の上から山里口を見たところ。
山里口の向いの一段低い所は鯱鉾池である。


上山里丸から秀吉の居館跡を見たところ。
広沢寺の屋根が見える。


山里丸から再び水手口に戻り、水手曲輪へ。
左側の細い坂道が水手曲輪へ通じる唯一の道となっている。


水手曲輪は、本丸の北側に位置している方形の曲輪である。
本丸等の雨水をこの曲輪に集めて貯めたと伝えられ、
水に関する施設があったと推定されている。


水手曲輪の井戸跡


水手曲輪の入口まで戻り、右手の道を遊撃丸方面へ。


左手に天守台を見上げながら進み、


船手口を過ぎると、右手に二ノ丸、左手に遊撃丸の石垣があった。


逆方面から見た遊撃丸の石垣


遊撃丸へ。
この辺りに遊撃丸の門があったと考えられる。


遊撃丸
文禄二年(1593)に明国の講和使節(遊撃将軍・沈維敬)が滞在し、
もてなしを受けた曲輪と云われているが、詳細は不明とのこと。


遊撃丸から天守台を望む。


遊撃丸から対馬方面を望むが、霞んで何も見えない。


遊撃丸に隣接して二ノ丸の広場がある。


二ノ丸広場のパノラマ写真


二ノ丸長屋建物跡
二ノ丸の発掘調査では、名護屋城の時代のものと思われる
掘立柱建物跡が発見されている。
手前が長屋建物南棟、向う側が長屋建物北棟


再び本丸南西隅の石垣に出た。


伝馬場を通り、三ノ丸へ。


三ノ丸から東出丸へ向かう。


東出丸へ
右は大手口に通じる門跡


東出丸跡から見た陣跡の風景
徳川家康・前田利家・伊達政宗・石田光成など30ほどの陣跡名が見える。


東出丸跡から見た風景(1)


東出丸跡から見た風景(2)


東出丸跡
東方に張りだした長方形の曲輪で、千人桝とも呼ばれている。
大手口・三ノ丸警固のための侍詰所があったと推定されている。


東出丸櫓台


東出丸櫓台から東出丸を望む。


大手口へ
右手は三ノ丸の石垣


観光客が大手口の坂道(大手道)を上って行く
大手口から100mほどの登り坂が東出丸まで続いている。
登城坂とも云われる。


大手道の南東部には、長屋建物があったとされる。


破却された大手口の石垣(三ノ丸南東隅櫓台)


大手口櫓台(北東面)


大手口
ここから南に向かって唐津に通じる「太閤道」が伸びていた。
大手口は「太閤道」の終着地点であり、名護屋城の表玄関にあたる。


大手口前の広場には、団体の観光客が訪れており、
ツアーガイドの説明に耳を傾けていた。


名護屋城跡を後にして、かみさん達が待つ近くの道の駅「桃山天下市」
へ向かった。


名護屋城陣跡巡り” へ

100名城巡りは、今回の名護屋城で98番目、
残り2城(平戸城・島原城)となった。
ここまで来れば、一日も早く全城登城を達成したい、
という気持ちが強くなって来た。


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日本100名城巡り No.85 福岡城

2017年06月18日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年6月18日(日)

大野城に続いて、福岡城を訪問した。

福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政が、慶長六年(1601)から
7年の歳月をかけて築いた城である。
天守台を中心にして本丸、二の丸、東西の三の丸からなり、
周囲を堀で囲む構造となっている。
47の櫓を築いたと云われるが、そのうち多聞櫓・祈念櫓・伝潮見櫓は
現在でも見ることができる。
藩主ゆかりの地、備前国福岡(岡山県瀬戸内市付近)にちなんで
福岡城と名付けられたが、別名舞鶴城とも呼ばれる。
昭和32年に国史跡に指定されている。

平和台陸上競技場近くの舞鶴公園駐車場に車を停め、福岡城へ。


地図で現在地を確認するが、福岡城のどの辺りにいるのかが、
よく分らない。


二の丸跡・本丸跡・祈念櫓・天守台の案内表示があったので、
それに従って進む。
地図は分かり難い。もう少し詳細な表示であって欲しい。


松ノ木坂御門跡へ続くなだらかな坂道を進む。


松ノ木坂御門跡と思しき石垣を過ぎると、


別の案内標識があった。
先ずは本丸表御門跡・祈念櫓・鉄御門跡方面へ行ってみる。
本丸・裏御門跡・多聞櫓はその後だ。


右へ曲がると、正面に表御門跡の石垣が見えて来た。


表御門跡
二の丸梅園より本丸へ上がる石段の中程に本丸表御門が建てられていたのだ。


表御門跡の内側から二の丸梅園方面を望む。


本丸表御門跡の石段を上ると、前方に祈念櫓が見える。
本丸北東に位置し、鬼門封じとして僧徒が交代で詰めていた、とのこと。
棟札によって現在の建物は、万延元年(1860)三月に起工し、
同年十月に竣工した、とのこと。


本丸表御門跡の右手には、広い本丸跡が。


本丸跡
天守台の石垣の北面に広がる本丸の広庭
藩主が政務を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿」があり、
天守台へと続く福岡城の中心部にあたる。


本丸跡パノラマ写真
かつての本丸は、公式政務の建物・城主の居間部分・大台所のほか
長局に当る櫓が連なっており、表御殿と奥御殿を合わせたものだった。
後に二の丸御殿、三の丸御殿が増築されている。


本丸の井戸(1)


本丸の井戸(2)


正面が大天守台で、その入口となるのが鉄御門(くろがねごもん)跡である。


要衝の門に相応しく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっている。


狭い石段を上り、大天守台へ。
高く積まれた石垣の上には櫓や塀が張り巡らされ、
上から攻撃ができるようになっていた、そうである。


鉄御門跡の先には埋門跡があり、これも狭い門となっている。


埋門跡前から大天守台を望む。
石垣が聳えるように建っている。


階段を上り、埋門の上へ。


埋門の上からの眺望


大天守台へ向かう。


大天守台
東西約25m、南北約22mの敷地内に約40個に及ぶ天守の礎石が
残されているが、定説では福岡城には天守閣がもともと
建設されなかったとされている。
しかし、近年では天守閣の存在を伺わせる文章が発見され、
幻の福岡城天守閣をめぐる議論が続けられている、とのこと。


大天守台を上から見たところ。
大天守台の礎石や石垣の規模からすると、5層の大天守閣が建っていた、
と想定されている。
東側には、中天守や小天守が立ち並ぶという偉容を誇っていたとも・・・


大天守台からの眺望(1)


大天守台からの眺望(2)


大天守台からの眺望(パノラマ)


大天守台からの眺望(3)


大天守台からの眺望(4)


大天守台からの眺望(パノラマ)


埋門跡を潜って大天守台の裏へ。


大天守台の裏(中・小天守跡)へ


埋門跡の裏から見た大天守台


中・小天守跡付近から月見櫓下の野球場方面を望む。


中・小天守跡から武具櫓跡の桝形虎口を通り、
二の丸・裏御門跡へ。


二の丸・裏御門前へ。


裏御門前の広場


裏御門前の広場から振り返って大天守台を見たところ。


裏御門跡の石垣


裏御門跡
この先は、本丸跡になる。


南丸(二の丸南部)方面へ。


二の丸南部入口の手前に井戸跡があった。


多聞櫓のある南丸(二の丸南部)への入口


多聞櫓
二の丸南部にある多聞櫓は、江戸時代から城内に残っている
数少ない櫓の一つで、福岡城内に残る唯一の国指定重要文化財である。
二層の隅櫓とそれに連なる総延長四十間の奥行をもつ平櫓からなる。
平櫓は現在修理中だった。


シートで覆われた隙間から見た多聞櫓(平櫓)
(ここから先は入れなかった)


多聞櫓内部の写真
多聞櫓の内部は、一般に突き抜けの状態になっていることが多いなか、
この櫓は、16の小部屋に分かれている。
この多聞櫓の内部は非公開となっているが、イベント時等に
一般公開している、とのこと。


多聞櫓は、桜の季節にはライトアップされ、幻想的な空間を作り出している。
(ライトアップ時の写真)


大天守台南側に位置する南二の丸付近


南二の丸から二の丸方面を望む。


二の丸から表御門方面へ。


二の丸の紅八重枝垂れ桜の並木道


100名城スタンプを押すため、
舞鶴公園から平和台鴻臚館(こうろかん)方面へ。


100名城スタンプは、鴻臚館の他「福岡城むかし探訪館」にも置いている
とのことなので、「福岡城むかし探訪館」へ。


「福岡城むかし探訪館」


1/400の再現模型を通して、さまざまな角度から
福岡城を間近に見ることができる。


本丸・天守台・二の丸周辺


福岡城むかし探訪館からのパノラマ写真
ここは、現在鴻臚館埋蔵調査地区となっているそうだが、
かつて西鉄ライオンズが本拠地としていた平和台球場があった場所だ。
右手の白い建物は、鴻臚館である。


上之橋御門入口脇に平和台球場記念モニュメントがあった。


明治通りから上之橋御門を望む。
昔は、石組み橋桁の中央に木橋が架けられ、敵が攻めて来た時には、
自ら橋を焼き落とす仕掛けとなっていた、そうである。


堀(左側)
一面蓮で覆われていた。


堀(右側)
半分近くが連に覆われている。


上之橋御門
江戸に近い上之橋御門は、黒田52万石を誇る本城三の丸に入る
公式御門である。


上之橋御門虎口
「虎口構え」の高さ約10mに及ぶ石垣に守られた二層の楼門は、
戦災で消失した。


現在は、算木積みの稜線の美しい石垣が、当時の面影を残している。


明治通りを下之橋御門へ向かう。


明治通りの堀に沿って進む。
こちらの堀も連で埋め尽くされている。


大手門・潮見櫓を示す標識
大手門は2か所(上之橋御門と下之橋御門)あり、
こちらは下之橋御門である。


下之橋御門への入口


下之橋御門と伝潮見櫓


下之橋御門
下手の入り口である下之橋御門は、殿様が生活する
お館への出入口である。
また、国表の奥方様のお里帰りやお城に仕えるお女中さん達の
出入口でもあった。


内部から下之橋御門を見たところ
城門は、2000年8月に不審火で半焼したが、
2008年11月、美しい二層の城門として復元された。


伝潮見櫓
下之橋御門と隣接して建てられている、従来潮見櫓と称されてきたものは、
近年の調査で、本丸表御殿近くにあった「古時打櫓(ふるときうちやぐら)」と
推定されている、とのこと。
本来の潮見櫓は、保険局跡の西隅に位置し、
博多湾の満潮・干潮を見守っていた、そうである。


”黒田如水隠居地 三の丸御鷹屋敷跡”とあったので、
見て行くことにした。


紫陽花の咲く坂道を上って行くと・・・


「黒田如水公 御鷹屋敷跡」と刻まれた石碑が建っていた。
藩政初期、黒田如水(官兵衛)の隠居所があったと伝えられる場所である。


黒田如水隠居地跡の入口横に建てられているのが母里太兵衛邸長屋門だ。
母里太兵衛(ぼり たへえ)は、黒田家の重臣
「黒田二十四騎」の一人で、戦国大名福島正則から、
名槍日本号を飲み取った豪傑として知られる。


現在の天神二町目の野村証券㈱の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、
この長屋門は、そこに構えられていた。
武家屋敷長屋門として代表的な江戸時代の優れた建造物として、
昭和31年に県の文化財に指定され、同40年にこの地に移築された。


名島門
この門は天正十五年(1587)筑前国主となった小早川隆景によって、
多々良川口の名島(現福岡市博多区名島)の陵端に築かれた
名島城の脇門である。
慶長年間(1596~1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移す際、
黒田二十四騎の1人である林掃部(はやしかもん)に下げ渡され、
邸宅の門として使用されてきた。
名島城とは福岡城以前に、豊臣系大名の拠点になっていた城で、
この名島門は「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の
一つとなっている。


明治の中ごろに長崎に移築されそうになったが、
当時の代議士によって買い戻され、戦後現在の場所に移された。


平和台陸上競技場の前を通り、かみさんたちが待つ
舞鶴公園駐車場に向かった。


地理不案内のなか、福岡城跡を見て回った。
思っていた以上に大きな城で、時間の都合上全ては回れなかった。

福岡城天守閣をめぐる議論が続けられている、とのことだが、
個人的には大天守閣、また中・小天守閣が存在していたと信じたい。
これらの天守閣が復元され、その時再び福岡城を訪ずれることが
できればと、心から願っている。

100名城巡りは、今回の福岡城で97番目、残り3城となった。
明日は、肥前名護屋城を訪問する。

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日本100名城巡り No.86 大野城

2017年06月18日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年6月18日(日)

この日は、古代飛鳥時代に築かれた朝鮮式山城、大野城跡を訪問した。
大野城跡は、国の特別史跡に指定されている。

7世紀の激動する東アジア情勢の中、天智天皇二年(663)、
大和朝廷は、百済復興をかけ、朝鮮半島で起こった白村江の戦いで
唐・新羅連合軍に敗れた。
連合軍が日本に来襲することを恐れた大和朝廷は、朝鮮半島から近い
北部九州を中心とした防衛体制を固めるため、664年に水城を、
翌665年に大野城と基肄城(きいじょう)を築城したと云われる。

大宰府の北側の守りとして四王寺山に築かれたのが大野城である。
大野城は、大宰府政庁が攻撃された時に備えた籠城のための城であった
と考えられている。

大野城は守り易く攻めにくい山城で、山の尾根線には土塁を、
谷間には石塁を築き、城を囲むように城壁が築かれており、
その総計は8Kmにも及ぶ。

往時の建物は失われているが、石垣や門柱の礎石、
そして土塁跡などが現在も点在している。

これらの古代山城は、百済の亡命貴族の指揮のもと、朝鮮半島の技術が
活かされていることから、朝鮮式山城と呼ばれている。
朝鮮式山城は、九州や瀬戸内地方に多く見られ、居住スペースがないなど、
戦国期の中世山城、江戸時代の近世山城の造りとは大きく異なっている。

概略以上の大野城に関する予備知識を下に、
最初に訪れたのは、四王寺県民の森管理センターである。
先ずは96城目となる100名城スタンプを押しておこう。
全くの地理不案内のため、事務所の方に県民の森の案内図をいただき、
かみさんとその妹の3人で訪れたため、女性連れでも訪問し易い場所
(百間石垣、尾花礎石群と焼米ヶ原、土塁など)を教えてもらった。


四王寺県民の森管理センターの向いに学習展示館があった。
四王寺山の模型、県民の森の風景、森の働き、昆虫展示など、
四王寺の森に関する様々な資料が展示されている。
また、水城・大野城・基肄城の地理や歴史に関するVTRで
四王寺山の予備知識を得ることができた。


地図で場所を確認するが、四王寺山は初めての訪問なので、
方角が皆目見当がつかない。


戴いた地図を頼りに先ずは百間石垣へ向かった。
県民の森センターから宇美町方面へ1kmほど下ると、
大野城最大と云われる石塁「百間石垣」へ通じる径があった。
かなり急坂である。


かみさんたちも後に続くが、かなりきつそうだ。


急斜面の途中に石垣見学路と書かれた標識があり、
丸太の階段が続いていた。
標識辺りから百間石垣の一部を見ることができる。
かみさんたちは、百間石垣の一部を見ただけで引き返してしまった。


丸太の階段を上り切った所に、百間石垣があった。
見学路からの高さは5-6mほどで、長さが百間(約180m)あることから、
百間石垣と呼ばれるそうだ。


百間石垣を逆方向から見たところ。


見学路を進むと、行き止りのように見えたが・・・


よく見ると、突き当りにさらに階段が続いていた。


階段を上り切ったところに音楽堂・屯水を示す標識が。
反対側は登山道となっている。


階段を上り切ったところから百間石垣を振り返ったところ。


登山道方面へ戻り、百間石垣を見る。
7世紀に造られたものとしては、なかなか立派な石垣である。


音楽堂を示す標識が気になったので、行って見ることにした。
径は、意外にも急斜面だった。
砂岩でできた径だったため、滑り易く上り難い。


汗をかきかき急斜面の山道を15分ほど上って行くと・・・


音楽堂があった。
現代風の野外音楽堂である。
神楽殿のような建物を想像していたのだが、予想が外れた。
この日は、大野城の次に福岡城を訪れる予定なので、
音楽堂で引き返すことにした。
もう少し足を延ばしておけば大野城の排水施設の水門である
屯水があったようだが、音楽堂で引き返して少し後悔している。


次に向かったのが焼米ヶ原の駐車場である。
駐車場から土塁が続いていた。


大野城跡には尾根に沿って土塁の城壁が築かれている。
尾根の部分は土塁(土をつき固めて積み上げる版築工法)の城壁、
また谷の部分は石塁(石垣)が築かれている。
その総延長は8Kmにも及ぶ、とのこと。


土塁の上から見えた景色


逆方向から土塁を見る。
土塁の上は、今ではハイキングコースになっているようだ。


史蹟大野城・四王寺址碑
四王寺山は、古くは大野山とも大城山とも呼ばれていた。
天智天皇四年(665)に大野城が築かれたことで、
日本の防衛という重要な役割を担った。
その110年後、奈良時代の宝亀五年(774)に四王寺(四王院)が創建された。
これは、当時外交関係が緊張していた新羅の日本への呪詛の動きに対し、
大野山の清浄な地を選んで四天王像を安置し、呪詛を祓い国を護る祈祷を
することが目的だった、と云われている。
これ以降、四王寺山と呼ばれるようになった、とのこと。
現在、四王寺山には、四天王である毘沙門天・広目天・持国天・増長天
と呼ばれる地名が残っている、そうである。


四王寺址碑の脇に四王寺山33石仏巡り5番札所の千手観音像が祀られていた。
大野城跡の土塁線上を中心に、33体の石仏が点在している、とのこと。
これらの石仏は、江戸時代後期に建立されている。
寛政十年(1798)に福岡城下町の大火災、翌年天然痘の大流行、
干魃や豪雨などの転変地異が続いたため、大野山(四王寺山)一円に
石仏巡りの札所をつくり、観音様のご利益にすがって、現世の不幸から
逃れようとの願いから博多の人々が発起し、博多・大宰府・宇美の人々が
協力して、四国33か所に倣って四王寺山全域に霊場建立を成し遂げた、
と云われている。


5番札所の石仏の奥に、尾花礎石群があるということで、
建物跡の説明があった。


建物の復元図
尾花礎石群では奈良正倉院のような高床式の倉庫が10棟ほど
建っていた、とのこと。
倉庫内には米や武器などを収納していたと思われる、とのこと。


尾花礎石群の建物の礎石跡(1)


尾花礎石群の建物の礎石跡(2)


尾花礎石群の建物の礎石跡(3)


建物礎石跡の近くに”焼米ヶ原”の説明があった。
この場所から炭化して黒くなった米が見つかっているので、
”焼米ヶ原”という名前が付けられている、とある。


焼米ヶ原


焼米ヶ原の一角に玄清法印之墓と刻まれた石碑があった。
玄清法印は、太宰府に生まれ、17歳のときに視力を失うが、
盲僧となり琵琶を弾いて人々を救った、そうだ。
延暦八年(789)に四王寺北谷に成就院を建立したと伝えられている。


太宰府で天然痘が流行した際、玄清法印は四王寺山に登って
地神陀羅尼経を唱えながら、琵琶を弾き続けて、天然痘の流行を
鎮めたという。
玄清法印は弘仁十四年(822)に57歳で亡くなった。
一千年忌(1834)に建てられたのがこの四王寺山上のお墓だそうだ。


玄清法印の墓から焼米ヶ原を見たところ。


焼米ヶ原から見た景色


焼米ヶ原から土塁の上を駐車場へ引き返す。


駐車場へ引き返す途中見えた大宰府市街地


駐車場からさらに下へと土塁が続いていたので、行ってみることに。


下り坂の土塁入口右側に戦国武将岩屋城城主
「高橋紹運」(たかはし じょううん)辞世の歌碑があった。
流れての 末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水


土塁の突き当りに史蹟大野城四王寺阯と刻まれた碑が建っていた。


史蹟大野城四王寺阯碑の手前に大宰府口城門の標識があったので、
標識の指す方へ急坂の径を下って行くと・・・


大宰府口城門跡があった。


大宰府口城門跡
(反対側から見たところ)


大宰府口城門の礎石跡
ここに城門が建っていたのだ。


大宰府口城門跡近くに建っていた鳥居を潜り、
かみさんたちが待つ駐車場へ向かった。


四王寺県民の森管理センターで入手した地図を参考に、係の方に紹介して貰った
大野城の百間石垣・焼米ヶ原・尾花礎石群・大宰府口城門跡を見て回った。

時間的に余裕があれば、総延長8kmに及ぶ土塁を歩いてみたかったというのが、
正直な気持ちである。
他にも見所がたくさんあり、初めての訪問で、しかも半日足らずという
短時間で観て回るのは極めて困難ということが分かった。
可能であれば、もう一度訪れてみたいとは思うが、その思いが叶うのかは
定かではない。

後ろ髪を引かれる思いで、この後、福岡城へ向かった。

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