ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

古墳がいっぱい 等々力渓谷から多摩川へ

2017年02月24日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年2月24日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第37回(2017年第8回)、「等々力渓谷から多摩川」ウォーキングに参加した。

荒川沖駅7時40分発の電車を待つ。
この時間にしたのは、通勤時間帯が避けられるということが大きい。
また15両編成というのも魅力である。
上野駅まで30名超がほぼ確実に座っていけるのは嬉しい。


8時48分、終点の上野駅に到着。
数えると、この日は予想を超える35名が乗り合わせていたことが分かった。
『随分乗ってたんだねぇ』
京浜東北線に乗り換えるため4番ホームに向かう。


大井町駅で東急大井町線に乗り換えだ。


東急大井町線
自分も含めて今回が初めてという人がほとんどだった。


東急大井町線は、既に通勤時間帯は過ぎており、
大井町が始発ということもあって楽に座れた。


風邪? それとも花粉症対策?
この時期になるとマスク姿が目立ち、名前を思い出すのに苦労する。


10時ちょうど、スタート地点の等々力駅に到着。
『ようやく着いたのねっ』


駅舎の両脇すれすれを電車が走っているのは、珍しい(と思う)。


『直ぐ目の前を電車が走るってちょっとスリルがあるわねっ』


線路を渡ると等々力渓谷の案内図があった。
『等々力渓谷って駅から近いんだねっ』


10時5分、案内図に従って、最初の角を左折して等々力渓谷へ。


50mほど先を右折し、ゴルフ橋手前右手に等々力渓谷への入口があった。
渓谷に降りる石段が設置されている。


石段を下って行くと・・・


そこはもう等々力渓谷だった。
赤い橋桁のゴルフ橋が印象的である。
等々力渓谷公園の由来
等々力渓谷は、武蔵野台地の南端に位置する延長約1kmの渓谷です。
谷沢川が多摩川と合流する手前で、国分寺崖線を浸食してできました。
「等々力」の地名は、渓谷内にある「不動の滝」の音が響き渡り
「轟いた」ことからついた、との言い伝えがあります。
(世田谷区 あなたのまちの郵便局)


渓谷に沿って歩道が整備されている。
川はほとんど流れていないが、水はそれほど汚れてはいない。
きれいな部類に入るだろう。


後ろを振り返るとゴルフ橋が見える。
『都会のど真ん中にこんな渓谷があるって信じられないよねっ』
大方の皆さんの感想ではなかろうか。


鴨の姿もあった。
頭を川底に突っ込んでしきりに餌を啄んでいた。


『いやぁ なかなか良い所だよねっ』


橋を渡って対岸へ。


しばらく進むと環状八号線が見えてきた。


10時14分、環状八号線下を潜る。
『この川、矢沢川って言うんだ』


矢沢川に沿って少し進むと、


野毛大塚古墳への案内表示があったので階段を上る。


住宅地の中を野毛町公園へ。


いったん環状八号線に出て、環八に沿って100mほど進むと、


玉川野毛町公園があった。
目指す野毛大津古墳は、左側、野球場のバックネット裏にある。


野球場のフェンス脇を進むと・・・


10時24分、野毛大塚古墳に到着した。
『見た感じは円墳みたいだねっ』


皆さんの後を追って古墳の頂上へ。


頂上に着くと、皆さん何やら覗き込んでいる。


古墳から出土した跡の図だった。
第1・第2・第3・第4主体部の出土品とその全体図である。


古墳の頂上には、出土した品とその配置が丁寧に描かれていた。
第1主体部


第3主体部


第4主体部


塚の上から周りを見ると、前方部のようなものが見える。
野毛大塚古墳は、単なる円墳ではなく、前方後円墳だったのだ。


周りの景色


野毛大塚古墳を下りる。


野毛大塚古墳の説明板があった。
野毛大塚古墳は全長82m、後円部の高さ10mの帆立貝式の前方後円墳で、
前方部に近接して小さな造出部が付設されている。
墳丘の周囲には馬蹄形の周濠が掘られており、周濠を含めた全長は104mである。
三段に構築された墳丘は全体が川原石で覆われ、
円筒埴輪がそれぞれの段にめぐらされている。
後円部頂上には四基の埋葬施設があり、中央に粘土に包まれた割竹形木棺、
南東側に箱式石棺、北西側に二基の箱型木管が納められている。
割竹形木棺からは甲冑、刀剣、鉄鏃などの武器・武具類、鉄鎌、
銅鏡、銅釧、玉類、石製模造品、竪櫛などが、
箱式石棺からは刀剣、鉄鏃、玉類、石製模造品などが、
二基の箱型木棺からは、刀剣、鉄鏃、鉄鎌、石製模造品、玉類などが
それぞれ出土している。
野毛大塚古墳は関東地方の中期古墳文化を代表する五世紀前半に
築造された古墳である。
出土した多量の武器・武具類や石製模造品は、この古墳が南武蔵の
有力な首長墓であることを示している。
(東京都教育委員会)


前方部から後円部を見上げたところ。


古墳の周りをぐるりと廻って、


野毛大塚古墳を後にした。


環状八号線を戻り、


階段を下って、


10時40分、再び等々力渓谷へ。
左に見えるのは潜水橋(沈下橋)である。


潜水橋の先の小橋を渡り、


少し戻るような形で進むと、


3号横穴の説明があった。


等々力渓谷の周辺では、野毛大塚、御岳山、狐塚などの古墳群が造られた後、
古墳時代から奈良時代(7~8世紀)にかけて横穴が造られるようになった。
等々力渓谷の横穴群は、野毛地域の有力な農民の墓で、これまでに
3基の横穴が調査され、現在は3号横穴が完全な形で残っている。
3号横穴は、谷間の崖地に横に穴を掘って造られていて、
玄室と羨道で構成されている。
泥岩の切石で塞がれた玄室の床には川原石が敷かれ、3体の人骨とともに
1対の耳環(イヤリング)と土器が副葬されていた。
(世田谷教育委員会)


3号横穴を覗き込むOさん。


3号横穴の中の様子
玄室に川原石が敷き詰められているのが分かる。
ここで3体の人骨と1対の耳環(イヤリング)と土器が発掘されたのだ。


3号横穴の近くには1号横穴跡や


2号横穴跡の石標が建てられている。


小橋を渡り、再び等々力渓谷の歩道へ戻る。


10時59分、稚児大師御影堂に到着


入口にこの御影堂の建立の案内を記した石板が設置してある。
弘法大師御誕生 一千二百年記念
慶讃大法要 昭和50年4月6日 奉修
稚児大師尊像 制作 芸術院会員 清水多嘉示
堂宇 設計 畠山博茂
慶讃大法要大導師 満願寺第二十六世 龍文


稚児大師像
稚児大師とは弘法大師の幼い時の呼び名である。
おかっぱ頭の少女のようにも見える。


稚児大師御影堂の近くに稲荷堂へ通じる利剣の橋がある。


利剣の橋を渡ったところに弘法大師と観音様の像が建立されている。
参拝記念にと寄付されたものらしい。


稲荷堂の手前右手に小さな湧水滝があった。


龍の口から湧水が流れ落ちている。
これが等々力不動尊発祥のもととなった不動の瀧と言うらしい。


滝の上には、不動明王像があり、睨みを利かせているようにも見えた。


不動の瀧の先に南無不動明王の旗が立つ稲荷堂があり、


ご本尊の不動明王が祀られていた。


稲荷堂を後にして、等々力不動尊への階段を上る。
かなり急な階段である。


等々力不動尊本堂への階段を登る途中、
左手に役の行者の神変窟があった。


石でしっかり覆われた小さな洞窟がある。
奥に鎮座されているのは、役の行者だろうか。


等々力不動尊の舞台を潜ると、


広い境内に出た。
線香の煙が立ちのぼる香閣とその先に不動尊拝殿がある。


11時4分、等々力不動尊の拝殿へ参拝。
等々力不動尊は、真言宗智山派の寺院で、等々力不動尊明王院と称する。
不動尊本堂は、新義真言宗の宗祖興教大師が山城国(京都府)より
この地に移したと伝えられる。


本堂には、真ん中に銅鑼、両側には鈴のようなものがある。


見慣れない形をした鈴だが、風鈴のような澄み切った音色が境内に響いた。


山門から境内を見たところ。
山門には瀧轟山の扁額が掛っている。
等々力不動尊明王院は、瀧轟山と号し、等々力満願寺の別院である。


境内を一回りして、等々力渓谷に戻る。


日本庭園の「かぶき門」があった。


先頭Gは、日本庭園前を素通りして既に渓谷終点の矢川橋辺りまで進んだようだが・・・
(事前配布した地図には日本庭園は記載されていなかった)
せっかくなので手短かに日本庭園を廻ってみよう。


『毎日こんな庭を散歩できる人が羨ましいわねっ』


きれいに手入れされた孟宗竹の竹林
時間の都合上、日本庭園のほんの一部しか廻れなかったが、再訪の機会があれば、
書院や芝生広場、切通なども廻ってみたい。


11時20分、等々力渓谷の終点、矢川橋に到着。
この辺りは等々力渓谷からさほど離れていないが、最早渓谷の趣は全くない。


多摩川を目指して住宅地を進む。


丸子川に架かる天神橋を過ぎ、左に曲がると、


多摩川の堤防に出た。


『いやぁ これはなかなか素晴らしい眺めだ』


河川敷を進む。
河川敷に下りると風はほとんど受けなくなった。


右手前方に見える高層ビル群は武蔵小杉辺りか?


『河原を歩くのって、気持ちが良いわねっ』


『こんちわっ』 『こんちわっ』


多摩川の堤防にはところどころに桜の木が植えられている。
殆どの木は未だつぼみ以前の状態の中、突然三分咲き状態の木が現れたのにはびっくり。
『染井吉野にしては随分早すぎるよねっ』
『河津桜じゃないのっ?』


しかし、河津桜にしては、少し色が薄い感じがするが・・・


染井吉野にしろ河津桜にしろこの時期にこの場所で
桜を観ることができるとは予想外だった。
桜の木の前で一休みし、


ゴールの東急東横線多摩川駅を目指す。


グラウンドでは、若者たちがソフトボールの練習に励んでいた。


多摩川駅を目指す。


また別の場所でも桜が咲いていた。
やはり三分咲き状態である。
染井吉野の中の数本だけが突然早く咲くことは考え難いので、
やはりこれは河津桜なのだろう。


『この時期に桜が観れて良かったわねっ』
『もうちょっと満開状態だったら言うこと無しなんだけどねっ』


武蔵小杉駅周辺の高層ビル群が次第に近くに見えるようになった。


前方に東急東横線の鉄橋が見えてきた。


『ゴールの多摩川駅はもう直ぐのようねっ』


A球場横を通過
多摩川田園調布緑地には硬式野球用のグラウンドが2面存在しており、
このうち上流側にある硬式専用のA面が巨人が使用していた球場である。


B球場
下流側のB面は硬式・軟式兼用。
現在は草野球、少年野球などを中心に一般利用向けに供用されている。


12時21分、多摩川田園調布緑地の終点、河川敷の終わりだ。


堤防へ上がり、


信号を渡って左側の緩やかな坂道を上って行くと、


多摩川台公園への入口があった。
前方左右を繫いでいるのは虹橋と思われる。


階段を上る。
『最後になってきつい坂が待ってたんだぁ』


左側に7号墳・6号墳と古墳を見上げながら進む。


5号古墳の前に多摩川台古墳群の案内図があった。
多摩川台公園には大型前方後円墳の亀甲山古墳と、
8基の円墳からなる多摩川台古墳群の9基の古墳が並んでいる。
8号墳は、先ほど見えた虹橋を渡った反対側にある。


4号墳、


続けて3号墳横を通過。


2号墳の手前まで来ると、


突然視界が開け、多摩川が一望出来る場所に出た。
『あら~っ ここからの眺めはこの日一番だね~っ』


1号墳を過ぎると、


亀甲山(かめのこやま)古墳の説明板が現れた。
説明によると、
この古墳は、大田区から世田谷区におよぶ荏原(台)古墳群中
最大の前方後円墳である。
発掘作業が行われておらず詳細は不明であるが、埴輪、葺石等がないことや
その古墳の形により、4世紀後半から5世紀前半ころの築造と考えられ、
当時この地方に勢力があった首長の墓と推定されている。
全長107m、前方部の長さ41m、高さ7m、後円部の直径66m、高さ10m。
都内の代表的古墳で、昭和3年に国の史跡に指定されている。
(大田区)


亀甲山古墳へ向かう。


武蔵小杉駅周辺の高層ビル群が目の前だ。


亀甲山古墳周辺はあいにく工事中だった。


工事中の通路を進んで行くと、多摩川駅が見えてきた。
亀甲山古墳は周囲に工事中の柵があって中には入れなかった。
(他に入口があったのかもしれないが、残念ながら見落としたようだ)


12時37分、ゴールの東急東横線多摩川駅に到着
この日は、ここで解散にしたが、横浜や渋谷に向かう人もいなかったため、
とりあえず品川駅まで行こうということに。


13時9分、JR大井町駅に到着。
弧の後、京浜東北線に乗り換え品川駅に向かった。
品川駅であらためて解散し、それぞれ好みの食事処へ。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


等々力渓谷とはどんな所なのか? TVで偶に見たことがある程度だったが、
都会のど真ん中にこのような渓谷があることに驚いた、と言うのが正直な感想である。

稚児大師御影堂・稲荷堂・等々力不動尊・日本庭園など見どころもあり、楽しめた。
野毛大塚古墳や多摩川台古墳群などを身近に見れたのも印象に残る。

都内の代表的古墳である亀甲山古墳は工事中のため見れなかったのは残念だった。
この日歩いた多摩川の堤防は桜の名所でもあるそうなので、
機会を見つけてもう一度訪れたいと思った。

この日の万歩計は、12,000歩を少し超えていた。

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日本100名城巡り No.100 首里城

2017年02月21日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年2月21日(火)

この日は、「日本100名城」99番目の「中城城」に続いて、
100番目の「首里城」へ登城した。
首里城に関する事前の知識としては、「日本100名城」ガイドブックに
紹介されている、以下のようなものだ。

首里城は、1427年の記録に城の整備について記されていることから、
創建はそれ以前だと推定される。
城の基本的な縄張が完成したのは尚真王と尚清王の時代(1477~1555)と
考えられている。

城は東西約400m、南北約200mの規模を誇り、内部と外部で構成されていた。
内部は御庭を中心とした行政空間、その南側の「京の内」という祭祀空間、
東側の「御内原」という居住空間からなり、正殿・南殿・北殿など
主な建物は内部に置かれていた。

首里城は、王位争いや失火で3度焼失したが、その都度再建された。
明治になって軍が入った後、学校となった。
太平洋戦争では城のすべてが灰燼に帰したが、平成14年には正殿など
城の建物が再建されている。

平成12年(2000)に世界文化遺産に登録された。
また、平成18年(2006)に「日本100名城」に選定されている。

道路を渡った所が首里城公園になる。
”守礼門”の文字が見える。


道路を渡ると、”甦る首里城の碑”が建てられていた。


首里城公園の石碑前で記念撮影
小雨が降りだした。傘を差しての見学になりそう。


首里城の案内看板に従って進むと、


総合案内所があった。
入場券を売っている所かと思ったが、違った。


時計は12時40分を回っており、お腹も空いていたので、
先ずは腹ごしらえをしようということに。
レストセンター首里社館のレストラン「首里社」で昼食を摂った後、
首里城公園の資料を入手して守礼門へ向かった。


守礼門への途中、民族衣装の女性たちが記念撮影を奨めていた。


首里城の見取り図


13時27分、守礼門に到着
1527年~1555年の4代目・尚清王代に初めて建立。
扁額に「守禮之邦(守礼之邦)」と掲げられていることから
守礼門と呼ばれるようになったと言われている。


「守礼」とは単に礼節・マナーを守るという意味だけではなく、
儒教の「礼」、つまり「琉球は礼節を重んずる国である」、
「琉球は清との間に結ばれた、臣下・親子のような国際関係の秩序を守る」
という意味を持っている。


守礼門を潜った先に園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)がある。
石門とその奥の森を園比屋武御嶽と云い、王府の祈願所であった。
石門は、神社で言う拝殿にあたるが、本殿に相当する建物はなく、
石門の後ろに広がる森がそれにあたるという。
石門の創建は、尚真王時代の1519年。
1933年には旧国宝に指定されたが、沖縄戦で大破、1957年に復元され、
後に解体修理し、1986年に完成した。
石材は主に琉球石灰岩を用い、板葺唐破風屋根を表す屋根の飾りなどに
日本と中国の様式を合わせて用いた沖縄独特の優れた石造建築である。
(沖縄県教育委員会)


園比屋武御嶽石門は、世界文化遺産に登録されている。


歓会門(かんかいもん
首里城の城域内に入る第一の正門である。


石垣の隅頭石は、城壁の飾りの一種で、角の部分を上方に緩やかに突出させたもの。
石垣の角が反り返っているのは、中城城で見たのと同じだ。


13時33分、歓会門に到着
大きく湾曲した城壁中央をアーチ形に開けて門としている。
中国皇帝の使者「冊封使」(さっぽうし)などを歓迎するという意味で
この名が付けられた。「あまへ御門」とも言う。
「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味しており、
「歓会」はその漢訳である。
門の両側の一対の獅子像「シーサー」は、魔除けの意味を持っている。
1500年ごろの創建だが、沖縄戦で焼失し、昭和49年(1974)に復元された。


歓会門の内側には、当時の服装をした守衛らしき人がいた。


歓会門を過ぎて、緩やかな石段の先に瑞泉門が見える。


瑞泉門の手前左側に久慶門(きゅうけいもん)が見えたので、
1枚だけ撮って瑞泉門に戻った。
久慶門は、別名「ほこり御門」とも云う。
「ほこり」は、歓会門の別名「あまへ(よろこび)」と対になっていて、
「よろこびほこる」の意味になる。
歓会門が正門であったのに対し、ここは通用門で主に女性が利用したと云われている。
また国王が寺院にお参りする時や北の地方に行幸する時などにも使われた。
沖縄戦で焼失し、昭和58年(1983)に復元された。


瑞泉門への坂道の途中、石段の横に四文字の碑が並んでいた。
この石碑は、龍樋の水の清らかさを称賛した冊封使(さっぽうし)
たちの書を刻んだもので、冊封使七碑と呼ばれている。
沖縄戦でほとんどが破壊されたが、1996年(平成8年)、
拓本を下に復元された。


13時39分、瑞泉門(ずいせんもん)に到着
瑞泉門の名は、龍樋の水が瑞泉(りっぱな、めでたい泉という意味)と
讃えられたことに由来する。別名「ひかわ御門」とも云う。
「ひ」は樋のことで、「かわ(川)」は、沖縄では井戸や泉をことを指す。
さきほどの歓会門と違い、双璧の石門の上に櫓が乗っている。
この形式は、日本本土の主な城の門と共通している。


内側から見た瑞泉門
創建は1470年頃。
沖縄戦で焼失したが、平成4年(1992)に復元された。


13時40分、漏刻門(ろうこくもん)に到着
漏刻とは、中国語で水時計という意味。
この門の上の櫓の中に水で時間を計る水槽(水時計)が設置されていた。
水が漏れる量で時間を計っていたと云われている。
門を過ぎた広場には日時計があり、その二つで時刻を計り、
太鼓をたたいて時を知らせた。


漏刻門の別名は「かご居せ御門」とも云う。
駕籠で登城することを許されていた身分の高い役人も、国王に敬意を表し、
この門で駕籠から下りたということからそのように呼ばれた。


創建は15世紀頃、老朽化のため昭和初期には撤去されていたものを
平成4年(1992)に復元した。
内側から見た漏刻門


13時41分、広福門(こうふくもん)前の広場に到着
「広福」とは「福を行き渡らせる」という意味。
建物そのものが門の機能を持っているのが特徴。
門の正面に向かって左側(東)が戸籍の管理をする「大与座」、
右側(西)が神社仏閣などを管理する「寺社座」という役所になっていた。
創建年は不明、明治末期頃に撤去され、平成4年(1992)に復元した。


広福門前の広場の日影台(にちえいだい
漏刻が水時計であるのに対し、日影台は日時計のこと。
琉球王国時代、首里城では日時計を用いて、正午およびその前後の時刻をはかり、
また漏刻でくわしい時刻をはかったと云われている。
1739年から使われ始めたと云われ、1879年の廃藩置県まで王国の時を刻み続けた。


日影台から久慶門辺りを望む。


日影台から市街地を望む。
見えている建物は、沖縄県立芸術大学だ。


広福門を潜り、「下之御庭(しちゃぬうなー)」に出て、中から広福門を見る。
下之御庭とは、沖縄の表現で「下の庭」という意味である。
首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る前の広場で、
正殿前で行われる様々な儀式の控え場所となっている。


広福門は戸籍の管理をする「大与座」と神社仏閣などを管理する「寺社座」
という役所であったが、現在、御庭へのチケット売り場になっている。
一般の入館料金は、820円だ。


13時47分、奉神門(ほうしんもん)を潜る。
奉神門は、神を敬う門という意味で、首里城正殿のある御庭へ入る最後の門である。
3つの入口のうち、中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)などの
身分の高い人だけが通ることができた、そうである。
別名「君誇御門」
ここから有料になる。


奉神門を潜ると、御庭(うなー)に出る。
御庭から奉神門を見る。


御庭の正面向いに正殿がある。
御庭では、元旦の儀式など重要な祭事や、中国からの使者を迎える儀式をはじめとした
外交上の儀礼が行われた。
敷かれているタイルは磚(せん)という敷瓦で、この色違いの列は儀式のときに
諸官が位の順に並ぶ目印であった。
中央の道は「浮道」と言い、国王や冊封使など限られた人のみ通ることができた。


正殿
国王の政務やさまざまな儀式が行われた建物。
平成4年に再建された琉球最大の木造建築である。
中国北京の天安門を模しているとも・・・


正面の石階段の両脇の龍の彫刻を「大龍柱」と言い、
その奥にはもう一対の「小龍柱」がある。
その他に屋根や柱などにも龍はたくさんあり、
首里城の中心的な建物に相応しい装飾が施されている。


南殿(なんでん)・番所(ばんどころ
平屋部分が番所で、首里城へ登城してきた人々の取次をする
受付的な役割を持つ建物だった。
左側の2階建て部分が南殿である。
南殿は別名「南風の御殿」とも言い、日本式の年賀・節句などの行事、
薩摩藩の役人の接待が行われた。
創建は17世紀前半で日本風の建物となっている。
二つの建物とも日本式ということで、彩色はされなかった。


北殿はかつては北の御殿、議政殿とも呼ばれていた。
創建は1506~1521年頃とされ、中国風の建物となっている。
記録では、1709年の首里城の大火で他の建物とともに焼失し、1712年頃再建された。
通常は王府の行政施設として機能し、表15人衆(大臣)や筆者、
里之子(さとぅぬし)と呼ばれる役人等が働いていた。
米海軍のペリー提督が黒船を率いて琉球を訪れた時にも、ここで式典が行われた。
沖縄サミットの晩餐会に利用された場所である。
館内では、パネルなどで首里王府の位置やしくみ、冊封式典(さっぽうしきてん
などを解説している。


御庭のパノラマ写真


御庭の全体図


13時50分、内部を見学するため南殿の番所へ。
14時にボランティアガイドの方の案内がスタートすると言うので、
イヤホンを借りて、付いて廻った。
琉球王国時代に製作された漆器、絵画等の美術工芸品などを中心に
展示している。
ただしここから先は、撮影禁止となっている。


途中で撮影OKの個所があった。
御書院である。
国王が日常の執務を行った建物であり、取次役や近習など側近の者が
その周辺に控えていた。


また中国皇帝の使者(冊封使)や那覇駐在の薩摩役人を招き、
ここで接待を行うこともあった。


書院の庭園
城内で唯一の本格的な庭園である。
自然の露岩を利用し、琉球松と蘇鉄で築山や谷が表現されている。
書院に招かれた冊封使たちは、この庭園の魅力を讃える歌を詠んだ、とのこと。


鎖之間(さすのま
鎖之間は琉球王朝時代、王子の控所であり、諸役の者たちを招き、
懇談する施設であった。


内炉之間(うちろのま
御書院の裏座にあたり、お茶を点てて客人に振る舞っていた場所である。


順路には、諸所に琉球王朝時代の服装をした人がもの静かに立っていて、
我々見学者を迎えてくれる。


南殿から御庭を見る。


黄金御殿(くがにうどぅん)・寄満(ゆいんち
黄金御殿は、国王、王妃と王母のプライベートゾーンといえる建物で、
2階には居間や寝室があった。
寄満は、国王とその家族の食事の用意をした所で、御台所筆者、包丁、
あがま(女中)、御水使、下代などがいた。


近習詰所(きんじゅうつめしょ
近習頭や近習役、筆者、側近など、約20名あまりの役人が詰めていた場所。


表(行政)空間と内(居住)空間との取次
首里城は、政治を行う御庭側の「表」の空間と、居住スペースである御内原の
「内」の空間に分けられ、その境界は近習詰所と黄金御殿の間にあった。
一方が他方に用事がある場合、近習詰所の”鈴”を鳴らして合図を送った。


2階御差床(うさすか)と御書の扁額
2階の御差床は国王の玉座としてさまざまな儀礼や祝宴などが行われたところである。
儀式の際には床の間に香炉・龍の蝋燭台・金花・雪松などが置かれ、
壁には孔子像の絵が掛けられていた。
部屋の上部には、かつて中国皇帝から贈られた御書の扁額が掲げられていた。
「中山世土(ちゅうざんせいど)」の扁額はその一つであり、
”中山は代々、琉球王国の国である”との意味。


「輯瑞球陽(しゅうずいきゅうよう)」
”琉球が幸せであることを祈っている”の意味


「永祚瀛壖(えいそえいぜん)」
”海の向こうにある琉球を永く幸いに治めよ”の意味とされている。
これらの扁額は、古記録をもとに再現された。


唐幬豊(からはふ
この部屋は唐幬豊と呼ばれ、正月の儀式や中国皇帝への親書(上表)を
送る時などに、国王が唐衣装で椅子(御幬椅)に座り、御庭に並ぶ諸官とともに
儀式を執り行った重要な場所である。
御庭からこの部屋を眺めると、唐破風造りの屋根や龍の飾りに囲まれた
格式ある空間になっている、そうだ。


熱心に説明をしてくれているボランティアガイドのお嬢さん。
説明は、イヤホンを通してなので、離れていても良く聞こえる。


1階御差床(うさすか
中央の一段高い床が正殿で行われる政治や儀式の際に、
国王が出御する玉座「御差床」である。
この裏側には2階に通じる階段があり、国王はこの階段を降りて「御差床」についた。
左右には国王の子や孫が着座した「平御差床」がある。
御差床の両脇の朱柱には金龍と五色の雲が描かれ、天井は丸く上部に折り上げて
格式を持たせている。


17世紀に与えられた琉球国王印
中国の明朝(1368~1644)が滅びた後、清朝(1644~1912)の皇帝から
尚質王に与えられた国王印。
この前に琉球は、明朝から与えられた国王印を返している。


18世紀に与えられた琉球国王印
1756年に清朝の乾隆帝から与えられた国王印。
この国王印は、琉球王国が崩壊した時から行方不明になっている、とのこと。


正殿の木組み模型


南殿・正殿の見学が終わり、続いて北殿へ。


北殿には、御庭の模型があり、儀式の様子をビジュアルに見ることができる。
また、パネルなどで首里王府の位置や仕組みなどが解説されている。


儀式の様子
正殿の王に向かって深々と頭を垂れる、家臣たち。
整然と並んだ様は壮観である。


こちらは、冊封式典(さっぽうしきてん)の儀式の様子


この日案内をしてくれたボランティアガイドのお嬢さんともここでお別れだ。
『ありがとうございましたぁ』


北殿内の土産物売り場はけっこう広い。
かなりの人で賑っていた。
ここで100名城スタンプを押し、一安堵である。


ここでもいろんなシーサーが売られていた。


相変わらず土産物探しに余念がないかみさんたち・・・


出口へ向かう前に南殿の茶室でお茶をいただくことにした。
再度南殿の番所から入り、茶室へ向かった。
南殿の茶室(鎖之間:さすのま)入口
見学の時にこの傍を通ったが、このような案内には気が付かなかった。
かみさんたちはしっかり見ていたということである。


廊下を通って鎖之間に案内される。
鎖之間は琉球王朝時代、王子の控所であり、諸役の者たちを招き、
懇談する施設と言われていた。


「わだかまった松」
書院に招かれた冊封使たちは、この庭園の魅力を讃える詩を詠んだ。
その様子を「わだかまった松と蘇鉄とを、奇怪な格好をした石の間に、
互い違いに植えている」と伝えている。
(わだかまった松:地を這うような広がりのある樹高の低い樹形の松)


裏御座
鎖之間の裏座にあたり、お茶を立てた場所。
御書院にあったものと同じ造りである。


我々がお茶をいただくのは御鎖之間だ。


出されたのは、琉球王朝時代の伝統菓子とジャスミンの香りがするさんぴん茶。
お茶はお代り自由である。


琉球王朝時代の伝統菓子は、
花ぼうる・くんぺん・ちいるんこう・ちんすこうの4種類。
これで310円というから安い。


首里城の全てとまではいかないが、大方の所は見たので、
出口へ向かった。


京の内(きょうのうち
城内最大の祭祀空間(信仰儀式の場)である。


京の内は、神聖な御嶽が数多くあり、”聞得大君”などの神女により、
王家繁栄・航海安全・五穀豊穣が祈られた。


西(いり)のアザナ(展望台)へ。


展望台からの景色(1)
那覇市内
あいにくの雨模様で遠くまでは見渡せなかった、残念!


展望台からの景色(2)
奉神門とその後ろに正殿の屋根が見える。


展望台からの景色(3)
首里社館(首里城公園レストセンター)


木洩門(こびきもん
王朝時代、首里城の建物の建設や修理、石積修復工事の
資材搬入時に使用され、普段は石を詰めて閉じられていた。
現在は、見学ルートの入口になっている。


木洩門を出た所に首里城跡の碑があった。


レストセンター首里社館レストラン
昼食を摂った所である。


レストセンター首里社館の中を抜けると、総合案内所の前に出た。


首里高校の向いには玉陵(たまうどぅん)がある。
玉陵は、第二尚氏王統の陵墓である。


駐車場へ戻る前に、玉陵を見ておきたい。
かみさんたちは先に駐車場に戻りたいと言うので、一人で玉陵へ。


玉陵奉円館入口で、観覧券(300円)を購入。


玉陵に関する資料は奉円館の地下室に展示されていた。


玉陵全体模型
玉陵は1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、
第二尚氏王統の陵墓となった。


墓室は3つに分かれている。
東室(左側)は、洗骨後の王と王妃の墓室となっている。


西室(右側)には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られた。


中室(中央)は洗骨前の遺骸を安置する部屋であった。
通常は何も置かれていない。


歴代王の蔵骨器(写真)
玉陵の墓室には遺骨をおさめた蔵骨器が全部で70基あり、
ここではその中の27基を展示している。


歴代王の蔵骨器(写真)


骨壺が展示されていたが、
この骨壺は、那覇市内から発見されたもので、玉陵のものではない。


こちらはサンゴ石製石厨子


奉円館を後にして、ガジュマロの並木道を進むと、


玉陵に到着した。
高い石の塀に囲まれている。


最初の門を潜ると、


中庭のような広場がある。


次の門を潜った先に・・・


玉陵が現れた。
全体のパノラマ写真


東室(左側)


中室(中央)


西室(右側)


狛犬(左)
雌獅子


狛犬(中央)


狛犬(右)
雄獅子


首里城・玉陵の見学が終わり、この日の宿泊先がある、
那覇市内へ向かって車を走らせた。


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日本100名城巡り No.99 中城城

2017年02月20日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年2月20日(月)

この日は、昨日泊った北谷町のホテルから中城城へ直行した。
中城城についての予備知識は、概略以下のようなものである。

城は沖縄本島中部の中城村の石灰岩丘陵上に築かれており、
北東から南西にかけて6つの郭(かく)が並んでいる。

中城城は、14世紀後半に琉球の豪族先中城按司(さきなかぐすくあじ)が
数世代にわたり、西の郭・南の郭・一の郭・二の郭の主な部分を築き上げた。

1440年に読谷の座喜味城から移って来た「読谷山按司:護佐丸(ごさまる)」
によって北の郭・三の郭が増築され、現在見られるグスクの形が完成したと
考えられている、とのこと。

護佐丸は、1458年、勝連城主阿麻和利(あまわり)の策略によって滅ぼされた。
護佐丸滅亡後は、琉球国王の世継ぎである中城王子世子の居城となり、
さらにその後は間切番所、中城村役場が置かれ、1945年(昭和20年)3月頃に
戦争により焼失するまで、中城村の行政の中心となっていた。

駐車場から管理事務所に向かう途中、中城城(なかぐすくじょう)の
城壁の一部が見えた。


9時50分、中城城跡に到着する。
中城城跡案内図を見る。
東西に長く、郭が並んでいるようだが、何しろ初めてなのでよく分らない。
世界遺産だし、城内各所に説明板くらいはあるだろう。
と気軽に考えていたが、これが甘かった。


9時59分、チケット売り場で観覧料400円/人を購入。


登城口は坂道になっている。
いきなりの坂道に、『ここは歩くしかないな』と歩き出そうとした時、


かみさんたちがカートに乗り込んで、早く乗るようにと促された。
無料で上まで運んでもらえるのだそうだ。
拝観料に含まれているのかも・・・
せっかくなので、カートに乗ることにした。


カートは1分足らずで世界遺産の碑前に到着し、ここで下された。
距離にして、150mほどだった。
2000年12月2日、中城城跡は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして、
ユネスコの世界遺産リストに登録された、とある。
日本100名城にも選定されている。


世界遺産碑の脇に城跡の模型があった。
右側(北東)から左側(南西)にかけて、石垣で築かれた連郭式の城域だ。
右側から三の郭・二の郭・一の郭・南の郭と郭が連なっている。
中城城跡の最大の特徴は、数多い沖縄のグスクの中で、
最も多くの遺構がほぼ原形のまま残されているということ、のようだ。


石段の先に、三の郭の東側の城壁(石垣)が見える。


三の郭は、新城(ミーグスク)とも呼ばれる。
1440年に座喜味城から移ってきた、護佐丸が増築したと考えられている。


三の郭の石垣は、石を五角形や六角形に加工して、


「相方積」(亀甲乱れ積み)という積み方で築かれている、とのこと。


三の郭の前の広場は、記念運動場になっている。


広場から中城湾を望めるが、この日はあいにく曇っていて、
遠くまで見通すことは出来なかった。


広場の一角に下へ下りられるような石段があったが、
ロープが張られ通行禁止の札が立っていた。
「与喜屋ノロの墓」へ通じる入口ではないかと思われる。


東に向かって建てられた裏門
北の郭から三の郭へと通じる拱門(アーチ形の門)である。


ペリー探検隊一行がエジプト式と評した裏門の精巧なアーチ形が美しい。


10時12分、裏門を潜ると北の郭へ出た。
北の郭の左奥は三の郭へと続く石段がある。


北の郭側から裏門を見たところ。
しっかりとした造りの門だ。


裏門の左側には、北の郭のアザナ(物見台)がそそり立っている。
石垣の先端が反り返った相方積みの城壁である。


急な石段を上って三の郭へ。


三の郭へ上ると、右手に琉球石灰岩で積まれた二の郭の高い城壁が聳える。
迫力ある造りに圧倒される。


向かって左側の城壁
布積み(豆腐積み)と呼ばれる技法が用いられている、そうだ。
思わず見惚れてしまう。


こちらは向かって右側の城壁
城壁の角の先端が反り返っているのが特徴だ。


三の郭の広場から二の郭の城壁全体を望む。
築城技術を見て、幕末に訪れたペリー艦隊の島内探検隊がその美しさや堅固さを
絶賛したと伝わる。


三の郭の広場と城壁


三の郭の城壁には石段があるが、上には行けない。


10時18分、三の郭を後にして、北の郭へ。


北の郭の城壁からの眺望
右手に先ほど潜って来た裏門が見える。


北の郭の城壁からの眺望
挟間が設けられている。


ウフガー(大井戸:番所井戸)の案内標識が。


石段を下って行くと・・・


ウフガー(大井戸)があった。
西の郭には夫婦井戸と呼ばれる二つの井戸がある、そうだ。
ウフガーは、別名バンジュガー(番所井戸)とも呼ばれている。
もともと城郭の外側にあった水場を、護佐丸(1440~1458年居城)が、
城内に取り込むため北の郭を増築して井戸を造ったと考えられている。


この井戸はバンジュガー(番所井戸)とも呼ばれていることから、
一の郭に番所が置かれていた頃に造られた石積みではないかと考えられている。
城郭内に水を確保していることが、この城の特徴でもある、そうだ。
井戸の周辺ではひんやりとした冷気を感じた。


北の郭へ戻り、


二の郭・一の郭・西の郭へ通じる門を潜る。


西の郭へは立入禁止になっていた。
西の郭は諦めて、


順路に従って二の郭・一の郭・南の郭方面へ。


階段を上ると、


10時24分、二の郭の広場に出た。


二の郭から見る一の郭の城壁
二の郭の城壁と同様、布積み(豆腐積み)と呼ばれる技法が用いられている。


二の郭の広場
三の郭の広場より少し広い感じだ。


二の郭の城壁へは石段があり、上れるようになっている。
城壁を歩いてみよう。


二の郭の石積みは、布積みという技法で積まれている。


城壁の曲線が美しい。
本土の城の石垣とは異なり、一際目を引く。


城壁から見た二の郭の広場
正面に見えるのは、一の郭の城壁である。
手前の石碑は日露戦争の忠魂碑


二の郭の城壁から三の郭を見下ろしたところ。
三の郭前の記念運動場も見える。


二の郭の城壁から中城湾方面(太平洋)を望むこともできる。


二の郭の城壁上を一周し、一の郭へ。


一の郭へ通じるアーチ門
ペリー探検隊一行が称賛したと言うのも頷ける。


10時31分、アーチ門を潜ると、中城城で最も広く最も標高が高い一の郭に出た。
一の郭は正殿跡があった場所である。
歴代の先中城按司や中城按司「護佐丸」が居城していたと伝えられている。
ここは、中城城の中心にあり、政(まつりごと)を執り行っていた建物が
建っていたと考えられている。
(注:沖縄のグスクには、本土の城にあるような天守閣は存在しない、とのこと)


護佐丸滅亡後は、中城の地が琉球国王の世継ぎである中城王子の所領となり、
17世紀前半にはこの場所に間切番所(まぎりばんじょ)が置かれ、
明治期には琉球の日本併合とともに番所は役場と名を改め、
1945年4月の沖縄戦で焼失するまで、同地は中城の行政の中心地として
長い期間使用されていた、とのこと。


後に建てられた間切番所(まぎりばんじょ)は、廃藩置県後は
中城村役場に使用されていたが、沖縄戦で焼失した、そうである。
一の郭の正殿付近から今潜ってきたアーチ門を見る。


城内には、各所に拝所が見られる。
城内には八つの御嶽があるという。


一の郭にも2つ拝所があり、これはそのうちの一つ。
拝所:中森ノ御イベ(通称:着替御嶽:ちげーうたき


一の郭から、拝所及び二の郭へ通じるアーチ門方面を望む。
城壁の曲線が美しい。


一の郭には観月台がある。


観月台からの眺望は素晴らしい。


観月台からの眺望


沖縄成田山福泉寺


まるで廃城のような不気味な建物だ。
最初に遠目に見た時は、中城城の一部かと思った。


中城湾に面して石油備蓄タンクが見えるが、何かの工場?だろうか。


一の郭の西側城壁前には、解体工事のためか、
番号と数字の書かれた石が並べられていた。


南の郭へ通じる石造拱門(アーチ形の門)は、既に解体工事は終わっていた。


10時39分、門を潜った内側から南の郭の拱門を望む。
アーチ形に石を組んだこの形式の門はグスクの特徴ともなっている。


拝所・雨乞いの御嶽


拝所:小城ノ御イベ
南の郭にある聖地久高島への遥拝所(通称久高遥拝所)


南の郭


御當蔵火神(通称:首里遥拝所)


南の郭の城壁に残る穴は、火矢のための挟間だった、と考えられている。
鍛冶屋や西の郭近くから、金属弾や石弾が見つかっている、そうである。
種子島に鉄砲が伝来するより約100年も前のことと言うから、驚きである。
琉球は、唐や明と貿易をしていたことから、武器先進国だった中国から
火器を容易く手に入れることが出来たと考えられる、とのこと。


10時43分、南の郭から正門へ


正門は、首里城に向かって開かれ、かつては石造りの門の上に
木造りの櫓が乗っていた痕跡がある、そうだ。


正門の正面(首里城方面)から見たところ。
後ろに見えるのは、修理工事中の一の郭の西側城壁だ。


正門の前に「史跡中城城」の碑が建てられている。


正門正面から全体を望む。


順路に従って鍛冶屋跡へ。


10時46分、坂道を下ると、広場に出た。


右手に見えるのは、アメリカ統治時代の不良債権の残骸?
心霊スポットでもあるらしい。


広場の左手に回ると鍛冶屋跡(カンジャーガマ)が。


鍛冶屋跡(カンジャーガマ)
鍛冶を行っていた所と云われているが、城のためか集落のためか定かではない。
一説によれば護佐丸か阿麻和利に備えるために武具を作っていたとも伝えられている。


10時49分、鍛冶屋跡を後にして、入口へ戻ることにした。
途中に世界遺産の碑が建てられていた。
最初に見た碑と同じである。


左側が戻りの道だ。


戻りの道は、舗装されている。


ハイビスカスが咲いていた。


10時56分、城の入口に到着
およそ1時間の城内散策だった。
かみさんたちは、とっくに到着してゲームに夢中な様子だった。


この後、歴史的建造物(民家)で、国の重要文化財に指定されている、
中村家住宅に立ち寄った後、首里城へ向かった。


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日本100名城巡り No.98 今帰仁城

2017年02月19日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年2月19日(日)

沖縄本島北部の丘陵上に位置する今帰仁城(なきじんじょう)を訪問した。

今帰仁城は、別名を今帰仁(なきじん)グスク、北山城(ほくざんじょう)と言う。
14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城であった。
今帰仁城の創建は、明確ではないが、13世紀末から14世紀初めにかけて造られ、
14世紀前半頃に古期石灰岩を利用した石垣が積まれ、15世紀前半には
城域が拡張されて、主郭(本丸)・大隅・志慶真門郭(しげまじょうかく)など
10の郭からなる現在の姿になったと考えられている。

記録では、1383年に怕尼芝(はねじ)が今帰仁城主になり、その後3代にわたり、
北山王を名乗ってこの地を統治した。
琉球全土を統一しようとした中山王尚(しょう)氏の攻撃にも耐えたが、
調略によってついに1416年に城は陥落。
尚氏のものとなった城は、慶長十四年(1609)、薩摩軍に攻められて炎上、
廃城となった。
その後も城は聖域・拝所として存続した。

自分の予備知識としてはこの程度で、
沖縄の城を訪問するのは、もちろん初めてである。

先ず「今帰仁村グスク交流センター」の券売所で観覧チケット(400円)を購入する。


城跡入口の看板の先に、


今帰仁城跡屋外模型があった。
城跡には1.5Kmにも達する壮大な石垣が当時のまま残っている。
南北350m、東西800m、面積37,000㎡。
県内最大級の城(グスク)として名高い。
平成12年に世界文化遺産に登録されている。


順路に従って城跡へ。
前方に低い石垣が見えて来る。


外郭と発掘された建物跡
高さは2m前後と比較的低い石垣が延長数百m蛇行して続いている。
2007~2010年の発掘調査で、規模の大きな石造りの基壇と呼ばれる
石積み遺構が確認された。
基壇の上には木造の建物が建築されたと考えられるが、
建物の礎石などが失われていたため、建物の規模は分かっていない、そうだ。


城内の郭の中でも基壇や石積みが多用される建物は主郭や大庭、御内原など
城内中枢部に限られることから、ここに建てられた建物は重要な機能を担った
建物と推定されている。
発掘で見つかった建物跡の年代はおおよそ16世紀頃と考えられている、とのこと。


炉跡を伴う堀立柱建物跡
平成19~20(2007~2008)年の調査で炉跡とそれに伴う堀立柱建物が確認された。
炉の最下層から多くの炭化種子(イネ・ムギ・アワ等)が確認されたことから、
調理の際に使用された食に関わる遺構と考えられる。
この場所(外郭)は、台所として使用されていたものと考えられる、とのこと。


大隅(ウーシミ)の城壁


古期石灰岩を使用した大きくカーブした城壁は圧巻である。


「大曲り」の城壁
本土の城とは明らかに異なる曲線だ。


大隅の城壁をバックに記念撮影
快く撮ってくれたのは台湾からの観光客だった。


平郎門入口でチケットの半券を渡し、


平郎門を潜る。
平郎門の名称は、1713年に編集された『琉球国由来記』に
「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」として登場する。


1742年に描かれた『今帰仁旧城図』の史料にはこの場所が本門として記されている。
2つの史料から今帰仁城の重要な門がこの門で、平郎門と呼ばれていたことが分かる。
現在見る門は昭和37年の琉球政府時代に修復されたもの。
銃眼を設けた石造りの門が特徴である。


平郎門を潜ると、その先の大庭へと続く石階段(戦後に造られたもの)の左右に
カンヒザクラ(寒緋桜)の並木がある。


別名ヒカンザクラで、花色は濃い桃色、全国で最も早く1月中旬には開花する。
毎年1月~2月には桜祭りが行われている、そうだ。
訪れた時(2月19日)は、満開を過ぎたばかりと思える状態だった。
一見桃の花か紅梅のようにも見えたが、間違いなく桜だった。


寒緋桜の並木が続く。


右手に旧道入口があった。
平郎門から直線的な石階段は、1960年代に整備された階段である。
本来の登城道は、平郎門から城内に向かって石階段の右手側にある。
(旧道については、後述する)


石階段の左手に大隅(ウーシミ)への入口があったが、
現在、立入禁止になっている。
大隅は、かつて、戦時に備え馬を養い、城兵達の訓練場であったと伝えられている。
また、ここには城外に抜けることができる抜け穴(洞窟)がある、そうだが、
金網で塞がれていて中に入ることはできない、とのこと。


寒緋桜の並木を大隅辺りから平郎門方面を見たところ。


寒緋桜の並木を上って行くと、大庭(ウーミャ)と呼ばれる場所に出る。
大庭を取り囲むように正殿(主郭)、北殿、南殿の建物が配置していたと考えられ、
行事等に利用された重要な広場である。
(周囲の景色を見渡しているうち、撮影する機会を逃してしまった)

大庭の一角に歌碑が建てられていた。
志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の歌碑
今帰仁の城 霜成りの九年母(くにぶ) 志慶真乙樽が ぬきゃいはきゃい
およそ次のような意味だそうだ。
今帰仁城にようやく世継ぎが誕生した。
霜が降りるころ、つまり季節はずれに実ったみかんのようだ。
志慶真乙樽はこどもをあやして遊んでいる。
みかんを輪にして、首にかけたり、はずしたりしている。


ソイツギ(城内下之御嶽)
今帰仁城内には御嶽(ウタキ)のイベ(最も聖なる場所)が2つある。
大庭の北西にあるソイツギは、『琉球国由来記』(1713年)に「城内下之御嶽」、
神名「ソイツギノイシズ御イベ」と記され、旧暦8月のグスクウイミという祭祀の時、
今帰仁ノロが五穀豊穣を祈願する。
御内原にあるテンチジアマチジ(城内上之御嶽)や神ハサギ跡とともに
祭祀場として拝まれる、とのこと。
ちょうど男性がお祈りをしており、その横で女性が三線を奏でていた。


北殿跡の北側の一段高いところを御内原(ウーチバル)と呼んでいる。
御内原は、今帰仁城に仕えた女官の生活の場所と伝えられ、
城内で最も重要な御嶽(ウタキ)のイベがある。
御内原の北端からの眺望は、城内でも最も開けていて
今帰仁城の大隅の城壁の全てを望むことが出来る。


御内原跡からは今帰仁の集落と東シナ海が一望できる。
手前は大隅
戦時に備え馬を養い、兵馬を訓練した場所として伝えられている。


御内原の北端からの眺望は、城内でも最も開けていて
今帰仁城大隅の城壁の全てを望むことが出来る。


御内原跡からの眺望(パノラマ画像)


テンチジアマチジ(城内上之御嶽)
御嶽(ウタキ)とは、琉球固有の祭祀施設、琉球の信仰における聖域の総称で、
神が存在、あるいは来訪する場所のことである。
テンチジアマチジは御内原の南東側、低い石垣で囲まれる御嶽である。
最も神聖な場所とされ、昔は御内原とこの区域は男子禁制で、城内の女官によって
子孫繁栄・国家安泰・五穀豊穣を祈願したと伝えられている。


大庭から志慶真門郭(しげまじょうかく)を望む。


大庭の主郭(俗称本丸)へ。


主郭に設けられた展望台


主郭展望台から志慶真門郭(しげまじょうかく)を望む。
曲がりくねった城壁が眼下に一望できる。


主郭(本丸)
城内で最も中心的な建物があった場所である。


主郭にある火の神の祠
この祠は、「今帰仁里主所火の神」と呼ばれ、第二尚氏時代の
北山監守一族の火の神が祀られている。
北山監守は1665年に首里に引き揚げるが、かつての根所(旧宅地)の
火の神として崇められてきた。


旧暦八月十日には今帰仁ノロ以下の神人が城ウイミの祭祀を現在も行っている。
祠の中には香炉と火の神を象徴する石が置かれており、今でも門中の行事である
今帰仁上りの重要な拝所として参詣者が絶えない、そうである。


志慶真門郭(しげまじょうかく)へ。


志慶真門を潜ると、


正面にクバの御嶽が現れる。
今帰仁城の西にある古生代~中生代の石灰岩からなる丘陵である。
琉球の時代から続く聖地で、地元ではウガーミと呼ばれる神域で、とのこと。


右手には主郭の高い石垣が続いている。


左手に志慶真門郭への階段がある。


この郭は、志慶真門郭と呼ばれている処で、城内で最も東に位置する郭である。
ここには城主に仕えた身近な人々が住んだと考えられる、そうだ。


志慶真門郭は昭和55年度~57年度に発掘調査が実施され、
志慶真門郭と大庭(ウーミャー)との通路石敷が確認されている。


発掘調査で4つの建物があったことが分かった、そうだ。
建物は6m x 6m、あるいは4m x 5m程度の規模で中に炉跡が見つかっている。
瓦が出土していないことから、茅か板葺き屋根の堀立柱建物だったと考えられている。
出土遺物には武具類・陶磁器・装飾品・子供用遊具などがあり、
「家族単位」の生活が営まれていたと考えられている、とのこと。


石垣は地山を削り、自然の岩を利用して積み上げる工法がなされている。


志慶真門郭から主郭(本丸)の城壁を望む。
志慶真川に面して築かれた城壁がそそり立つ様は壮観である。


志慶真門郭を後にして、主郭に戻る。
旧道の近くにカラウカーと呼ばれる所があった。
カラウカーは、常時水をたたえている場所で、かつて女官たちが髪を洗ったり、
水量で吉凶を占ったりした場所と伝えられている。
旧暦7月盆明けに行われる今泊区の大折目の際には、
今帰仁ノロ率いる神人たちが巡拝する場所となっていた、とのこと。


旧道(下り口)
1980年代の発掘調査によって石敷きの小道が発見された。
曲がりくねった大きな岩盤の谷間を利用し、防衛機能上幅は狭く急な小道となっている。


大きな岩盤の谷間を利用して道幅を狭く造り、敵兵が攻め入っても
大勢の兵隊が上の郭まで一気に入れないよう工夫された造りになっている。
岩だらけの下り道は歩き難いことこの上ない。


旧道を下る時に見えたカーザフ
城内でも一段と低い所で、カーは川や湧泉を、ザフは迫で谷間を意味する。
ここの谷間は自然の石が露頭しており、岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、
かつての城壁として鉄壁を誇ったものと想像されている。


旧道を下って行くと、寒緋桜の並木道の旧道上り口に出た。


寒緋桜の並木道の先は、平郎門となる。


平郎門の脇に今帰仁城跡碑があった。


外郭の外れにミームングスクがあるとのことなので、行ってみることに。


今帰仁ノロ殿内火の神の祠と書かれた標識があった。
かつて今帰仁ノロの居住地であったとされ、現在は火の神が残されている。


ハンタ道
現今泊集落から今帰仁城への里道は「ハンタ道」と呼ばれている。
この道は今帰仁城が城として機能していた頃の登城道として利用された
歴史の道である。
ハンタ道のハンタとは崖を意味する。
今帰仁城の東側を流れる志慶真川は、深い谷になっていて、断崖絶壁が続く。
そこから、ハンタという名前が付けられた、そうだ。


ハンタ道を下って行くと、
「今帰仁ノロ殿内火の神の祠」があった。
ノロとは琉球国の神職で、琉球王国統一後は首里の印が押された辞令書が発行され、
ノロが任命されていた、そうである。
今帰仁ノロは今帰仁・親泊・志慶真ムラの3つのムラの神役を統率して
今帰仁城内及び城跡周辺の聖地で年中祭祀を司祭していたノロである。


祠の内部
コンクリートブロックの上に香炉が3つ並んでいた。


薄暗いハンタ道を下って行くと、


別の祠があった。
「供のかねノロ殿内火の神の祠」である。
今帰仁ノロの次位神役で、「供の」は「お供(従者)」の語意と解されている。
この祠は別名「下の殿」と呼ばれる。
現在は、他の拝所と同様に祠だけが残るが、
ノロ屋敷の旧宅であったと考えられている。


少し広い道に出た。
ハンタ道は右の方へ案内されている。


70mほど進むと、ミームングスクへの案内標識があった。


進んでみると、岩が無造作に積み上げられたような状態になっていた。


ミームングスクは今帰仁城の出城ではなかったかと考えられている。


高さ約1.5mの石積みが方形状に積まれている、とのことだったが、
かなり崩れている状態で、原形を留めていない。


模型のミームングスクとはかなり異なる。
修復が必要ではないかと思われるが・・・


ミームングスクからの帰りは、ハンタ道とは別の道を通った。
「阿応理屋恵(あおりやえ)火の神之祠」の案内標識があった。
今帰仁城跡周辺には3つの火の神の祠があるようだ。
①「今帰仁ノロ殿内火の神の祠」
②「供のかねノロ殿内火の神の祠」
③「阿応理屋恵火の神の祠」
今帰仁城のすぐそばには、ノロが3人いたことになる。


阿応理屋恵ノロは国頭地方全体を管理するノロで、
今帰仁ノロや供のかねノロより上位の役職らしい。
今帰仁ノロが地方公務員なら、阿応理屋恵ノロは、
国家公務員ということになる、そうだ。


「阿応理屋恵火の神の祠」の内部


「今帰仁村歴史文化センター」
今帰仁城の入場券の半券で入ることができる。
今帰仁城跡から出土した出土品の展示や今帰仁村の歴史に関する企画展を行っている。


最初に観覧チケットを購入した「今帰仁村グスク交流センター」で
念願の今帰仁城の「100名城」スタンプを押した後、古宇利島へ向かった。
沖縄の「100名城」中城城・首里城は翌20日を予定している。

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猛烈な春一番 牛久大仏周辺散策

2017年02月17日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年2月17日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第36回(2017年第7回)、「牛久大仏周辺散策」ウォーキングに参加した。

乙戸沼公園に集まったのは12名。
『今日はちょっと少ないねぇ』
この日は近場なので、出発地に直行している人が多いのかな?・・・


車4台で出発地(第二集合場所)の牛久奥野生涯学習センターへ行ってみると、
案の定、いるわいるわ、奥野生涯学習センターには大勢の人が集まっていた。
この日の参加者は33名となった。


いつものようにOさんの号令で準備体操開始。


『大きく胸を反らして~っ』


『最後に深呼吸~っ』


10時1分、Oさんを先頭に出発!


奥野生涯学習センター前を後にして、


ヤマイチ味噌工場の前を通り、


牛久二中入口交差点手前を横断。
JA龍ヶ崎市牛久東部辺りを進み、先ずは観音寺を目指す。


左手前方に見えるのは奥野小学校だ。


大きな板塀のある民家の前を進む。
『立派な塀だよねっ』


農道を進む。


Oさんが先頭集団の旗振り役を務めてくれるのは心強い。


矢の根神社手前辺りを通過し、


10時16分、矢の根神社手前を左に折れて乙戸川を渡る。


ヘルスロードの案内標識に従って進む。
案内標識の文字が見え難い。
そろそろ標識の交換時期ではないだろうか。


この日は風が強い。
砂埃を舞上げて、周りの景色が黄色に染まってしまっている。
予報では、春一番が吹く可能性が高いと言っていたが・・・
どうやら春一番に間違いなさそうだ。
『しばらく雨が降らなかったから土が乾燥してるんだねっ』
『いやぁ しかし もの凄い風だねぇ』


田んぼに沿った民家の脇の道を進む。
民家近くの木々が風を和らげてくれるのが、これほど有り難いと思ったことはなかった。


県道68号を渡ると・・・


正面に塚のようなものが現れた。
塚? それとも古墳?
(後で調べたが、塚でも古墳でもなさそう・・・)


裏には中根会館という地域の集会所があった。


中根会館を左に見ながら進むと、


観音寺の案内板があった。


観音寺の参道を進むと、


正面に観音寺の山門、右手に文化財指定の標柱が立っていた。
茨城県指定有形文化財
木像十一面観音座像、観音寺本堂、仁王門とある。


銅葺き屋根の仁王門


三間一戸の単層仁王門
この門の重要性は、古い柱痕跡(元の貫や板壁がとりついていた跡)や
組物の肘木・斗・挙鼻などが現本堂の大永五年建立時のものと同一であるところから、
宝永年間本堂大修理時に発生した古材を再利用して建立されたと考えられる、
と紹介されている。


力強い阿形仁王像と


吽形仁王像
両仁王像は、慶安三年(1650)造立の「大日尊像二躰」に当ると考えられる、とのこと。
『かなり古そうな仁王さまだねっ』


山門を抜けると銅葺き屋根の本堂があった。


威徳山観音寺は、本尊に十一面観音を祀る天台宗の古刹である。
境内には、四季折々の花が咲き乱れ、特に紫陽花の季節には
歩くことが困難なほど咲き乱れる、そうだ。


禅那の森へ向かうMZさんを追って行くと、


鐘楼があった。
寛保元年(1741)に久世睴之(当時のこの地の支配者)が中心となって寄進された梵鐘は、
昭和17年(1942)に太平洋戦争の進展に伴う日本軍の金属類特別回収により供出。
現在の梵鐘はその後に復興されたもの、とのこと。
この日はMさんの鐘を撞く瞬間を撮ることが出来た。


十王像
十王は、冥府にあって亡者の罪業を裁断する十人の王のこと。
秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・太山王・
平等王・都市王・五道転輪王がいる。


中央石段の上に座っているのが十王の長である閻魔王である。


四阿(あずまや
この建物(四阿)は、寛保元年(1741)鋳造の梵鐘の鐘楼仮堂として
明治元年(1868)に建立されたもの。


火炎の彫刻
境内にあった大木を利用して作られている、そうだ。


10時47分、観音寺を後にして、


次の目的地、八坂神社を目指す。


風が次第に強くなってきた。
『とてもじゃないが、目を開けてられないねぇ』


県道34号に合流し、


直ぐに県道34号を横断直進し、八坂神社方面へ。
『杉の木が真っ茶色だねっ』
間もなく杉花粉が飛び始める。
花粉症に悩む私にとっては最も憂鬱な季節を迎えることになる。


猛烈な砂塵に周囲の景色が霞む。


少しでも風が弱まるのを祈るしかない。


砂埃がひどい。まるで砂嵐である。


左からの強風を受けながら、八坂神社を目指す。


八坂神社を目指し、坂道を進む。


11時9分、八坂神社に到着。


八坂神社に参拝
『何とか風が収まりますように』
これで風が収まれば何も言うことはないのだが・・・


八坂神社の前で暫しの休憩。


恒例の「お茶タイム」だ。


相変わらずの強風のなか、次の目的地牛久大仏を目指す。


11時21分、牛久大仏公園が見えてきた。


農道を通って牛久大仏公園へ。


牛久大仏様は、もう直ぐだ。


石段を上ると、


目の前に『牛久大仏様が見えた~っ』


牛久大仏
『いやぁ やっぱり大きいねぇ』
牛久大仏は身長120m、ギネスブックに認定された世界最大の大仏である。
自由の女神の3倍、奈良の大仏が手に乗る大きさというから驚きである。


その大仏様をバックに記念撮影


記念撮影が終わったとたん猛烈な風に見舞われた。


体調を整えるため、牛久浄苑管理事務所「十方堂」へ。
「十方堂」は法要や休息に利用可能な施設である。
この日も何組かの法要が行われていた。


体調を整えて、「十方堂」を後にする。
相変わらず風は強い。


牛久大仏公園を後にする。


『前を向いて歩けないわねっ』


猛烈な風が吹き、砂埃が舞い上がる。
かつてこれほどの春一番は経験したことがない。
少しばかり、この日の例会を実施したことを悔やんだ。


しかし、ここで怯む訳にはいかない。
ここは風に堪えて前に進むしかない。


久野上橋を渡る。


久野上橋から乙戸川を望む。


砂嵐に牛久大仏も霞んで見える。


強風に堪えて進む。


『何て学校なのかしら?』


12時15分、「牛久農芸学院」前を通過。


続いて「東日本入国管理センター」入口前を通過。
東日本入国管理センターは、法務省入国管理局管轄の移住者収容所、のこと。
他国からの難民申請者等が居住している。


12時20分、農芸学園前バス停のある広い道路に出た。
前方に砂塵が吹き荒れているのが見える。


凄い砂埃、砂嵐である。
『うわ~っ こんな所を歩いて通り抜けないといけないのねっ?』
砂嵐が収まるのを待つことに・・・


ちょっとだけ風が弱まった。
『今のうちに通り抜けちゃおうっ』
駆け足で砂嵐の場所を抜けようとするも・・・


また風が強くなった。


もうこれ以上駆け足は無理である。
ここは風に堪えて進むしかない。
『この風には参ったなぁ』


少し進むと、少しばかり風除けのある場所に出た。


12時36分、牛久リサイクルセンター前を通過。


12時41分、牛久二中入口交差点に到着。


牛久二中入口交差点を渡り、


ヤマイチ味噌前を通過すると・・・


12時45分、ゴールの奥野生涯学習センターに到着した。
『いやぁ今日は大変だったね~っ』

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

春一番の強風が吹く中、牛久大仏周辺散策ウォーキングを無事終えることが出来た。
これまで春一番は何度か経験しているが、これほどの強風は初めてだ。
記憶に残る一日となったのは間違いない、と思う。

この日の万歩計は、15,000歩を少し超えていた。

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